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エフェソスとアジア州の収穫

2018.11.02 (Fri)




パウロは、コリントスでの一年半を過ごしてなおそこに留まっていましたが、バルナバと別れて以来の、あの『幻』を見てギリシアに導かれた旅を一度終えるつもりになっていました。
彼はそれまで、神に対して何らかの請願をしていたとのことで、そのために長く伸ばしていた髪をケンクレイアの港で切ると、ギリシア本土を後にしてアンティオケアのあるシリアへの帰還の船旅に出ます。(使徒言行録18:18)

一行が小アジアの主要都市であるエフェソスに入港すると、同行していたアキュラとプリスキラの夫婦を残して、パウロは一人で会堂に入ってゆき、ユダヤ人と論じますが、彼としてはシリアへの旅の途中に立ち寄ったのであり、エフェソスに腰を落ち着けるつもりはなかったので「また来るだろう」と言っては、あの夫婦もそこに残して地中海を東に向かう船に乗り、カエサレイアに港に到着するとアンティオケイアに戻ってゆきました。こうして二度目の宣教旅行が終わります。

その間にアキュラとプリスキラは信仰に熱心で非常に雄弁な一人のユダヤ人にエフェソスで出合っていました。
エジプトのアレクサンドレイアから来たアポロというギリシア名を持つ離散のユダヤ人で、旧約聖書に通じイエスについての知識も得ていたので、彼が会堂で大胆に語っていたところを二人が見つけました。しかしアポロはバプテスマについてはヨハネのものを知るばかりでもあったので、夫婦は彼を招くとより多くの事を知らせることができたのです。

このアポロは、アカイアに教えを伝えたい知人がいたのでしょうか、エフェソスに留まらずギリシアに渡ることを望んでいたので、仲間は行く先の信者たちへの紹介の手紙を託しましたから、アポロは当地に着くと直ちにイエス派に合流し、ユダヤ人を痛烈に論破しては信者たちを大いに助けたのでした。実にこのアポロのコリントスでの活躍は、パウロやペテロに匹敵するほどのものであったことも後に書かれています。(コリント第一3:22)

さて、これらのことの間に、パウロの方はアンティオケイアを発って、三度目の宣教旅行を始めていました。
今回もキリキアからアナトリアの高地に入りましたが、この度はガラティアからフリュギアを通って小アジアに入ったのでしょう。
使徒言行録には、小アジアに到着するまでのパウロの旅の記述が無いのですが、地形や通行可能な道路からしても、後のパウロの手紙の幾つかによっても、彼はリュコス渓谷沿いの諸都市をまわって来たことでしょう。それらの都市にはラオディケイア、ヒエラポリスが在り、加えてコロッサイも通ったかも知れませんが、パウロ自身はコロッサイで宣教はしていないと述べた箇所が手紙にありますので、滞在はしていないようです。(コロサイ人への手紙1:4・2:1)
これらの街はいずれ劣らぬメシア信仰者の集まり、つまりエクレシアをそれぞれに持つことになりますが、それは、当時この地域でのエパフラスという人物の献身的な働きによるものです。この人は後にパウロの許を訪ねて苦難を共にすることになります。(フィレモンへの手紙23)

パウロがとった旅程としては、リュコス渓谷からマイアンドロス川に沿って降るとミレトス方面の海岸に出ることになりますし、あるいはその川の有名な蛇行と水害を避け、高地の中の道を通ってサルディスからペルガモン方面に向かい、それからスミュルナに出て海沿いを経由しエフェソスに入ったかも知れません。ともあれ、使徒言行録はその辺りを省いてエフェソスに着いたパウロを描きはじめます。おそらくパウロはこの三回目の宣教旅行の出発に当たってアキュラとプリスキラだけでなくルカたちをも伴っていなかったのでしょう。

パウロがエフェソスに入ったとき、アポロはすでにコリントスで熱弁をふるっていた頃であったのですが、アポロと同じ出身地のアレクサンドレイアから到着したばかりの12人ほどの男子をパウロは見つけます。(使徒言行録19:1-)
これらの人々もヨハネのバプテスマまでを知っていたので、どうやらアポロを追ってエフェソスに到着したようです。パウロが『信仰に入ったときに聖霊を受けましたか?』と聞くと、『聖霊』というものがあることも知らないと答えます。そこでパウロがイエスの名によるバプテスマを彼らに施し、彼らに按手、つまり頭の上に手を置くと、このユダヤ人たちにも聖霊が降って、異言を話したり、預言したりするようになりました。



◆エフェソスと小アジアでの業

パウロはエフェソスに到着すると、まずユダヤ人の会堂で三カ月の間『神の王国』について講話し続けて幾らかの信者たちを得ましたが、ほかの者らは信じずに反対し、集まった信者の前でパウロを罵倒するのでした。
そこでパウロは、ユダヤ人の会堂を後にして、テュランノスという今では無名な哲学者のものである講堂に場所を移し、信じた人々に話を続けました。この当時のギリシア文化圏では依然として哲学が盛んで、各地の哲学者は自分の学校を持って講義していたと言われます。西欧の写本のあるものの註釈によると、パウロは、哲学者テュランノスの講堂を11時から16時の間を時間借りしていたと記しています。そのようにでもしなければ、律法主義にこだわるユダヤ人からの妨害に対処できなかったであろうことは、これまでのパウロに対する彼らの反応からも無理からぬことと推して知れるところです。

この講堂でのパウロの講義は二年も続いたと書かれていますが、いまやパウロの伝えるメシア信仰はユダヤ教の会堂に依存しなくなり、ユダヤ教イエス派であったメシア信仰者も、いよいよユダヤ教から離れてエクレシアを形作り「キリスト教」という新たな道を選び取った姿がそこに見えます。

しかし、問題も起っていました。そのひとつが、以前に設立したエクレシアへのユダヤ主義者の影響です。
アナトリアを横断する旅の途上でガラティアを通過するときに、彼はその地の人々から暖かく迎えられたようで、その様子が僅かにガラティア人への手紙から窺えます。
実はパウロには眼に持病があり、これから逃れられるよう三度イエスに求めていたのですが、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完うされる』と答えられていました。そこで彼は眼の病気のことを『高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた』と謙虚に述べています。(コリント人への第二の手紙12:7-9)

ガラティアの人々がパウロからメシア信仰を聴くきっかけになったのが、この眼病であったことを彼らへの文面が教えています。おそらくガラティアに差し掛かったところでその病気が悪化してしまったのでしょう。(ガラテア人への手紙4:13)
眼を患った旅人を世話することは容易なことではなかったでしょうけれども、ガラティアの人々は眼を患うパウロに『できることなら、自分の目をえぐり出してでも与えようとした』というほどに慈しみを示したと書かれています。

しかし、今やガラティアの仲間たちには信仰の危機が訪れていました。パウロは『あなたがたが、こうも早く別の福音に転向してしまったのをわたしは驚いている。』と手紙のはじめに書いています。
パウロの去った後、彼らの許にユダヤ主義者が入り込み、律法の掟や割礼を守らせようと説き伏せていたのでした。
そこでパウロは、エルサレム会議での出来事や、その後のペテロやバルナバの日和見的な行動の偽善に敢然と抗議したことなどをこの手紙の中で明かしています。

エルサレムの弟子たちをまとめていたヤコブは、エルサレム会議のときにパウロに右手を差し出し、彼に無割礼の諸国民への宣教を託していたのです。
ですが、今やガラティアの人々は『日や月や季節や年などを守っている。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではないか』。つまり、律法が定める安息日やユダヤの祭日、また新月などの祭礼を異邦人である彼らが行っていましたし、更には割礼をも受けさせようとする圧力に曝されていたものですから、『割礼を言う者なぞ、いっそ去勢してしまえばよい』とパウロはなじってします。(ガラテア人への手紙4:10-11・5:12)

パウロはこの情況下にある人々に対して『律法はキリストに導く教師であり』、『律法の実行に頼る者は誰もが呪われており』また『律法によってはだれも神の前に義とされないことは、明らかであり、なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からである。』ことなどを優れた理解と見事な例証によって説き勧めています。(ガラテア人への手紙3:10-12、24)

この手紙がいつ書かれたのかについてはよく分かってはいませんが、この時期にエフェソス滞在中ではないかともされています。
眼病の悪化したパウロを助けたのが同行者ではなく、その土地の人々であって、人間味ある慈愛を表し目に障害を負ったパウロを世話し、しかもそれが福音を伝えるきっかけをも作ったというのであれば、おそらくは医師ルカを含め、テモテやその縁者にも頼れず、他の仲間も伴わなかったであろう第三回目の宣教旅行中のアナトリアでの旅程に合致するようなところがあります。


◆霊的勝利と反対運動

さて、エフェソスの街はシリアのアンティオケイアに次いで大きな街であり、この帝国第四の規模に相当する都市は、当時人口25万を擁していたとされます。
海港を市域に併設し、商業で賑わうこの街は、ローマ帝国アジア州の首都と位置付けられていました。当時の七不思議に挙げられた建造物、多産の女神アルテミスがその巨大神殿に祀られており、その門前町でもありました。
この大神殿には広い境内があり、そこに犯罪者が逃げ込むと権力者も逮捕できなくなります。治外法権の聖域であったのです。
そのうえ、エフェソスが他国の軍隊に蹂躙されても、敵兵らも神を恐れて神殿での略奪はおろか、この聖域にも踏み込みませんでした。
そこで人々は自分の財産を神殿に預けるようになり、集まった多量の財産を元手に、神殿は銀行業も行っていたのです。

この大神殿はキュロス大王に征服されるまで栄えたサルディスを首都としたリュディア王国の富裕王クロイソスによる創建で、建物単体ではヘレニズム世界随一の巨大建造物であったとも言われます。
時代が下り、この神殿はアレクサンドロス大王の以前に一度焼けていました。そこで大王が再建の援助を申し出たのですが、エフェソス市民はそれを辞退し、女性たちが宝石類を寄進することで再建資金としたという出来事があり、それは市民をして女神アルテミスの神殿への敬愛と強い帰属意識を培わせていたので、やがてパウロもその市民感情の矢面に立たされる場面に至ります。(使徒19:23-/コリント第二1:8)

パウロのエフェソスでの活動が大きな成果をもたらしたことは、『アジアに居る者は皆が福音を聞いた』というルカの言葉に表れているだけでなく、また『神は、パウロの手によって、異常なまでに力ある業を次々になされた。例えれば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気は除かれ、悪霊も出て行くのであった。』とも記しているのですが、これほど強力な聖霊の力を見ることはルカであっても異例であったのでしょう。
それらに加えて、パウロの宣教が大きな成功を収めていたことは、猛烈に反対した者の言葉『エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。』という批難の言葉が却って強い証しとなっています。(使徒言行録19:26)

この頃、エフェソスにはスケウワスという祭司長の七人の息子たちが巡回除霊者として来て居ていました。これはユダヤ教の習慣となっていましたので、イエスも『わたしが悪霊の頭によってそれを追い出すのなら、あなたがたの息子たちは何によってそうするのか』と、聖霊の強力な働きを誹謗しないようユダヤ教指導層に警告している場面があります。(マタイ福音書12:27)
その息子たちがパウロの強力な霊力にあやかろうと『パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け』と、悪霊に憑かれた人に試して言ってみたところ、悪霊が話して「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言われたうえ、その悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になってその家から逃げ出しすという事件が起り、これは当地のユダヤ人だけでなくギリシア人たちにも知れ渡り、『人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いに崇められるようになった。』ともあります。
エフェソスでは、魔術を行っていた人々も改心し、それぞれが魔術の書物を持ち寄ってきては人々の前で焼き捨てたともあり、それらの総額は銀にして五万枚であったと書かれていますが、これが通貨ドラクマであれば3億円に近い金額にもなるでしょう。

これらの奇跡を伴う活動が目立たないわけもなく、アルテミス大神殿の門前町でもあるエフェソス市内ではパウロの活動が広まることに脅威を覚える市民もあり、特に銀製の霊験あらたかな神殿模型を作っては商売をしていた組合の頭であるデメテリオスは憤懣やるかたなく、その商売の関係者を集めては、「あのパウロが『人の手の造ったものなど神ではない』などと言ってはエフェソスばかりか、アジア全域で大勢を説き伏せ、たぶらかしていて、このままではわれわれの仕事の評判も落ちるばかりか、全アジアと世界から崇敬されている女神様のご威光まで失われるかも知れないのだぞ」と焚き付けると、集まった者たちは激怒し『至高なるはエフェソス人のアルテミス!』と叫び出し、街は怒号に包まれ混乱するに至ります。

後に、パン焼き人と同業組合のストライキが、第二世紀にエフェソスで起きたそうで、その煽りを受けた全市が大騒動に陥った記録があるとのことです。当時の民衆の騒動がどれほど恐ろしいものであったかについては、行政も兵士も抑えることができず、法の支配が機能しなくなり、つるし上げられた者に民衆による私刑が行われたことが史料から窺えます。それが市民に蓄積した鬱憤のはけ口であり、為政者も富裕層も、この民衆の怒りを恐れて寄付を行い、都市を飾り、浴場に遊戯施設や劇場を建てては彼らの機嫌をとっていたほどです。
第三世紀末には有名な「テッサロニキ暴動」が起り、当時の皇帝テオドシウスⅠ世は軍団を率いて民衆を闘技場に閉じ込めるほどでありました。

これらのことからパウロによって広められていた信仰がエフェソス市民には焦眉の問題となるほどに影響が大きかったことが知れようというものです。殺気立った暴徒はパウロをつるし上げたかったことでしょうけれども、彼らが見つけたのはマケドニアからの二人のパウロの同行者でした。
群衆は、半円形の直径が140mもあり、二万四千もの聴衆を収容できるエフェソスの大劇場になだれ込み、皆が勝手に叫びたてていたので大半の者はそれが何の集まりなのかも知らなかったという混乱ぶりでありました。
例によってその責任を感じたパウロは、自分からその渦中に入ろうとしたのですが、まず弟子たちに阻まれ、次いでアジア州議会の議員の何人かもパウロに使いと送ってはけっして中に入らないようにと伝えていました。
群衆は二時間にわたって叫び続け、とうとう市の書記官が現れ、改めて言い分を聴くからと皆を宥め、その集まりが順当ではなく帝国への反乱の嫌疑も避けられないことを諭されてのち、騒動はようやく終わることになりました。



◆コリント人への手紙

この時期、パウロがエフェソスで過ごした二年の終りに、彼によってコリントスへの第一の手紙が書かれています。
その内容からは、以前に一年半過ごしたコリントスの集まりで生じていた、容易ならぬ複数の問題を案じていた姿が見えます。
コリントスの弟子に中にはエクレシアの状態を心配してパウロに相談をしていたようで、『クロエの家の者らから打ち明けられたのだが・・』と挨拶に次いで書いています。使徒言行録には記載が無いのですが、パウロはエフェソス滞在中からコリントスを一度訪ねたのではないかとも考えられていますし、問題が知られて後、テモテが派遣されていたことは手紙の文面から分かります。(コリント人への第一の手紙16:10)
彼らの中には『自分はアポロにつく、わたしはペテロに』などと分派が出来てしまっているだけでなく、性道徳に放埓な者もいました。
コリントスのエクレシアの中には聖霊の賜物に恵まれている反面、集会には秩序が欠けていて、『主の晩餐』でも分派の違いが強調されてしまうほどでありました。
内部に多くの問題を抱えたコリントスへの集まりに対して、パウロは長文の手紙を書くことになり、それも一度では済まないことになります。

また、当時の都市生活で避けられない異教の隣人や風習との接触についてもこの手紙でパウロは指針を与えています。
例えれば、ヘレニズムの諸都市ではどこにも異教の神殿があり、人々は食物を神前に供える習慣がありましたが、それらは食物として良いものであったため、下げられてきた食物は調理され、人々は神殿域の食堂でそれに与りました。これは形式上崇拝の一部ともされていたのですが、実際には今日の家族で外食を楽しむような場であったのです。
また、一度供えられ、「神聖にされた」肉などの食材もすぐにアゴラと呼ばれる公設市場で売られていました。そこで、弟子となった諸国民には、その環境を自分の信仰にどう合わせるかという問題も生じていたのです。

パウロは、『神の創造物はどれも退ける必要もない』と円熟した者の見方もあることを示しながら、その一方で信仰に浅く、弱い人はそのようには考えられず、『悪霊の食卓』を避けることがその人の良心の命じるところとなることを円熟した者たちが配慮し『躓かせることが無いように』と勧めています。
これは、弟子らにモーセの律法のような画一的な規則ではなく、互いを思いやる心を持つよう教えているのであり、それは遠い昔に預言者エレミヤが『その律法を、その心の書き板に書き記す』と予告していた新たな契約の姿を表していたといえます。(エレミヤ書31:33)

確かにパウロは、最初の手紙の第13章に於いて、『愛』(アガペー)について最上級の言葉を用いて描き出してします。

コリントスのエクレシアには、あるゆる種類の聖霊の賜物が見られましたが、パウロはそれらに優る精神としてこのアガペーを高く掲げます。
聖霊を注がれた『聖なる者』であっても、天に召されるなら、聖霊は保持し続けるにしても地上で受けた賜物の奇跡は必要は無くなります。
どんな賜物であろうと、信仰の業であろうと、『愛が無ければ意味を成さない』のであり、『信仰、希望、愛の三つは残るが、最大のものは愛である』と書いています。それこそがキリスト教の本質であり、聖霊の有る無しに関わらず、イエスに感化されるものの実であるはずなのです。

もちろん、当時の聖徒であっても完全にこの『愛』を体現できたわけではなく、却ってコリントスのエクレシアには多くの問題が生じていました。
それゆえにもパウロは、彼らにこれほどまでにアガペーについて言葉を究めて称揚したのでしょう。これこそがキリスト教の目指すべき到達点であり、エクレシアの問題を前に、それをはっきりと語るべき必要を見て取ったのでしょう。


◆マケドニアでの再会

さて、パウロはエフェソスでの二年間の活動を閉じ、問題多いコリントスに向かう必要を強く感じてそちらをすぐに訪問しようとしていましたが、コリントスの問題の重さのためか、計画を変更し、まずマケドニアを回ってからアカイアに行こうと考えます。(コリント第一16:7)
その背景には、自分自身についての主の意志を予知していたということもあります。
『パウロは霊に感じて、マケドニヤ州からアカイヤ州を経てエルサレムへ行く決心をした。そして言った、「わたしは、そこに行ったのち、是非ともローマをも見なければならない」。』彼には三回目の宣教旅行の終りが見え始め、主イエスに召された使命の先に帝都ローマが視野に入ってきていました。今後はどちらの地方をも訪れることができなくなるかも知れないという思いがよぎったのでしょう。

そこで彼は、テトスをコリントスに遣わし、テモテとエラストをマケドニアに向けて先発させ、自分自身はというと、あるいはコリントスへの最初の手紙を書いたりしてエフェソスに留まっていたのですが、その間に起こってしまったのが銀細工組合の大騒動であったのです。(コリント人への第一の手紙16:5・8-9)
彼はコリント人への第二の手紙の中でもアジア州で受けた苦難について『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。』とも書いています。(コリント人への第二の手紙1:8)
また第一の手紙の中でパウロは、エフェソスでは『野獣と戦った』ことも書きましたが、これが闘技場での見せ物にパウロが出されたのか、象徴的な野獣との戦いを言うのかは、ルカも触れず他の言及もないため、今日では分かりませんが、エフェソスやアジアで活動の大きな成果を得た半面、パウロには相当な圧力が加わっていたことを教える記述となっています。(コリント人への第一の手紙15:23/テモテへの第二の手紙4:17)

パウロやルカらは騒動を経験してのち、五旬節が過ぎたころにエフェソスを後にし、海路をとってトロアスに向かい、そこでテモテらに合流し、そののち、久しぶりにマケドニアのフィリピに逗留しているところでコリントスからのテトスを迎え、皆で再会の喜びを共にすることになりました。(使徒言行録19:21-22/コリント人への第二の手紙7:5-15)
しかし、実はコリントスの集まりの状況は大きく改善されることはありませんでした。そこでパウロはコリントスへの二番目の手紙をマケドニアから書くことになります。





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