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キリスト教の本質 -回答-

2018.10.25 (Thu)

社会悪に立ち向かう点での正解はキリストにあります。
様々な偉人が巨悪に戦いを挑んできましたが、そのひとつひとつはフラグメントであり
巨視的にも恒久的にも勝利したことはありません。
偉大な改革者の方々の功を浸食してしまったもの、それが人間普遍に根付く「悪」であり
これこそが終りの見えない「倫理」という問題であります。

人々は「神がいるなら、これほど世の中に悪や苦しみが満ちているのはどうしてか?」と問うのですが
神をどうこう言う以前に諸悪や苦難もつまるところ
人間の倫理不全に起因するものがほとんどではありませんか。

まさしく聖書とは、この倫理という問題を正面から扱い
それをどうするかを知らせる書物なのです。
神はそれを『罪』と呼び、人がどれほど悪い倫理上の状態にあり
そこで何が必要かを教えています。

端的に言ってキリスト教とは、信者個人を益することを目的とするものではありません。
「信仰によって救われた」はその通りですが、この言葉は大いに誤解されています。
アブラハムに示された「人類の救済」という、神の意図全体への観点が欠けているからです。
「信者のためのキリスト教」であれば、狭く他者を侮蔑した利己主義を煽られることを避けられません。

また、本来聖書は「科学的」にも「宗教的」にもアプローチされるものでなく
そのようにすれば本旨を見失うでしょう。
聖書は「倫理」の面から読まれなくてはなりません。
エデンの二本の木から始まって、それが最後まで本旨だからです。
ですが、聖書が道徳を教える本だというのではありません。
この「倫理」とは、より根源的な「他者との関わり」を指します。

所謂「クリスチャン」方は「自分の救い」を求めますが
そもそも神が全能であるのに、何故「救い」が必要になったのかを弁えず
自分が是認され、神に近付くことをただ願うとすれば
それは人を神から隔てた問題そのものに目を瞑っているのです。

また、聖書学者は「信仰」の模範者でしょうか?
正確さを期して原語の語句や文法にこだわり過ぎても逸脱します。
御言葉に厳密に従ったユダヤの律法学者の末路はメシアの否認だったではありませんか。

聖書は「文学的」に読み、イメージとして把握されてはじめて深い意味を悟れるものです。
そこには幾分かの曖昧さ、「遊び」のような人格的余裕もないと硬直化してしまいます。
要は「人の語りを人が聴く」ということです。
聖書に律法があるとはいえ、そのすべてが法的書面でも学者の論文でもないからです。
そのうえで、やはり人を超えた書であることを「人格的に感じさせる内容」であるのです。

ですから、聴く前からこちらが前提条件を付けるように何かを決め付けて耳を傾けてはなりません。
相手の語るところを素直に受け取ってゆくと、はじめてその内容の真相が分かってきます。
聖書については欧米の精神的土壌では
このように「ナチュラルに聴く」ということがたいへんに難しいのです。
それは特に欧州で「高等批評」が発達したところに見えています。

高等批評は、欧米のキリスト教信仰というものが
どれほど強圧的で異論を許さないかを証明するようなものです。
ベルリンやチュービンゲンに代表される「牧師の息子たち」のような人々は
その圧制を打ち砕くのに、彼らはキリスト教の内部から行う以外に方法がありません。

この点では、ドイツはフランスのように宗教を公共から締め出さず
宗教戦争後の体制を維持したまま今日までその形を引きずってきました。
その圧力を形成していたのは、その父親たちの頑迷な「真理」という聖書主義の正しさであり
その矛盾した表層を信じ込んだ一般信徒という、社会に垂れこめる重い黒雲、いや同化しているものは感じない「深海の重圧」です。
キリスト教界の恐ろしく分厚い蒙昧から個人思想や生き方の自由を求める場合に
そこからの脱出を目指した人々の情念のようなものに共感をすら覚えるほどです。

そこで彼らは、キリスト教を19世紀の思想潮流であった「科学」によって
キリスト教を内部崩壊させる道をとりました。そうせざるを得なかったのでしょう。
つまり、父親たちの蒙昧な信仰の圧制に反発した彼らには「信仰」というものがありませんし
元からそれを破壊することが目的です。

彼らにとって聖書は「宗教的」に読まれるべきものではなく、「科学」の前に打破されるべきものです。
そうして「高等批評」は、聖書の傍らに在って「科学的な呪詛を浴びせ続ける者」となったのです。
彼らにとっては「父親たちのキリスト教」など、迷信として容易に崩れ去るに違いないと思えたのでしょう。
しかし、彼らの「父親たちのキリスト教」と「キリスト教」とは同じものではなかったのです。

この人々の批評が机上の空論であったことは考古学と「下等批評」の前に暴かれてきました。
また、彼らの聖書批判の要点にもやはり推論が用いられており、主観的で正しく科学でもありません。

この人々は聖書学者であっても、またキリスト教徒を自称してさえ所謂「信仰」はありません。
彼らがキリスト教徒を自称するとすれば、それは戦略であり、伏兵の迷彩のようなものです。
ですから英米の信仰ある学者たちがドイツに学んで信仰を打ち砕かれた事例があるのも当然でしょう。
そもそも「高等批評」の目的はそこにあるのですから。彼らが「神はいない」と叫ぶのは本音でしょう。
<似た現象はユダヤ教でも起こっており、共に宗教は社会を圧迫しています。この点で、宗教の社会的圧迫のない現日本の精神環境は非常に優れているといえます>

しかし、学者に何が主張されようと問題解決の糸口さえ見えません。
人間には社会的問題「倫理」が厳然として残っています。
人間に宿る「悪」は、産業革命や植民地支配を用いた物流
また、科学を応用した技術の発展に伴い、問題が増幅されてしまい。
恐ろしい結果を20世紀に刈り取っています。
そして21世紀の今日、世界はいよいよ混沌に向かって速度を上げてきました。

そこで本当は聖書に目を向ける必要はますます増大していましたが
その本旨である「倫理」を捉えることは稀で、「クリスチャン」は「救い」や「利益」を願います。
世に横溢する社会悪が増幅される中でこの有様であったのです。
しかし、人の「悪」は古代も現代も変わらないものでしょう。皆がアダムの子孫であるのですから。

キリストは当時にユダヤに在って社会への義憤をはっきりと表しています。MC3:5/12:24
それは弱者に対する当時の支配階級の態度への鋭い批判に明瞭です。LK11:45
おそらくは、そこにあらゆる悪が凝縮されていたのでしょう。
キリストを退け殺害させた咎は、ユダヤ律法体制をその世代の内に終わらせています。

悪の根源は「利己心」であり、それは他者を押し退ける我欲を本質とします。
究極の利己心を懐く悪魔の願望は「支配」であり、慈愛深い神に成り代わり圧制を与えてきましたし
終末にはほとんどその欲望を遂げたかになるでしょう。Isa14:13

これは自己愛がいけないということではなく、自分を含めてすべてを愛すること
それにより全ての魂が全体を愛すること、それが創造の意図であることを意味します。
これが「他者とどう生きてゆくか」という問題、「倫理」なのです。
創造界に悪魔を通し利己心が入り、それが調和を崩しました。
それを通して「死」が入り込んだのも、人がみな「他者とどう生きてゆくか」をわきまえないからです。

この身勝手な「利己心」を相殺するのが「利他心」であり、これが「愛」であり
旧約聖書では「ヘセド」、新約聖書では「アガペー」とされるもので
「ヘセド」は「不変の」または「忠節な愛」、「アガペー」はキリストが示す慈愛と云えるでしょう。
今のところ、わたしは本質的に同じものを指しているのではないかと考えております。
聖書全体、また神の教えはこの点に凝縮されるでしょう。

慈愛の薄い者、利己的で貪欲な者、専横な権威を愛する者、威張り支配しなければ人を愛せない者
こうした人々はその反対への傾向を持っており
神の前には相当に危険です。神にとって危険なのではなく、その人の魂としての存在意義が危機にあるのです。
そのような性質は「悪魔の象り」であるからで、最終的にキリストたちに逆らうことで裁かれるでしょう。その踏み外した強い自己愛に諸悪の淵源、社会悪の根があるからです。

悪魔こそは、自己を高めようとして創造界に混乱と争いを持ち込みましたが、この『つまずかせる者』はこの世に同じ性質の者らを持っていて、それら人間である『つまずきをもたらす者』を避けることは、この世が在る限り避けられません。
その最たる者が、ユダ・イスカリオテでありましたし、同じく『滅びの子』として終末に現れる『不法の人』『反キリスト』が現れるのでしょう。その者は究極的な高い座を占め、『神として自分を示す』までになり、そこに悪魔の不倫理性が凝縮されることでしょう。

その精神は、自己を高めないではいられず、他の人々を自分の踏み台にしようと、ごく自然に行動し聖徒らを売り渡すでしょう。そうでない人々は、その精神に唖然とさせられることでしょう。その貪欲な利己心を理解できないからです。それは自分の周囲に敵意と破壊をもたらさずには終わりません。諸悪の根源であり、人類に『救い』を必要とさせたそのものであるからです。

そこで、歴史上現れて来た様々な「社会正義」は、それら「利己心」への個別の戦いであったのでしょう。
田中正造も、賀川豊彦も、わたしには偉大な方々でまったく比較の対象にもなりません。
しかし、どんな人間も完全な正義を行うことができず
偉人の行いも「この世」の本質を変えるものとはなりません。
ですから、これらの偉人の精神に共感されることを通して
そこからキリストがどれほどの方かを実感されるものと思います。
即ち、唯一無二の「道」、深い闇の中に差し込む一筋の光であるからです。Isa60:2

悪魔が創造界に貪欲のカオスをもたらしたように
人間の間からは強欲を懐く勢力が絶えたことがありません。
社会の英雄的改革者なり、社会活動家なりはこうした強欲を相手に果敢に闘ってきたのでしょう。

ですが、その悪に走る傾向は実に人間自身から発するものであり
それを絶やすことは誰にもできません。
その点で、だれかが大きく成功したように見えても、それは常に一時的なものになってきました。。
宗教や社会のあらゆるユートピアが水泡に帰すのも、教義や体制の仕組みばかり考えて、人間に宿る悪の大きさを洞察しないからでしょう。

それゆえにこそ、キリストという究極の道が如何に稀有であるかが見えてくるでしょう。






 ⇒神はなぜ信仰を求めるか


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