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新約聖書ヘブライ語原典説という退屈

2018.09.25 (Tue)


ご指摘の記事ですが、フェイク情報です。
書いた方はメシアニックジューの信条にあるようですが
新約聖書の大半が最初にはヘブライ語で書かれていたということについては、デマとしか言えません。
背景にはメシアニックジューによるユダヤ優越主義の下にキリスト教徒を取り込もうとの手段を選ばない意図も透けて見えます。

メシアニックジューは「ナザレ人イエスをメシアと認めるユダヤ教徒」というべき存在であって、依然として律法遵守のユダヤ教に留まっている現状からすれば、古代のユダヤ教イエス派の現代版のようです。これに賛同、または影響される元々のキリスト教徒が増えつつあるように見受けられますが、この人々にはキリスト教の名の下に律法とタルムードの歴史が育んできたユダヤ文化への度を越した傾倒が見られます。ですが、メシアニックジューはユダヤ教の範疇にあり、キリスト教徒ではないのです。両者を分けるものはモーセの律法をどう見るかです。

「クリスチャン」には旧約をよく知らず、旧約に不安を感じるという方が少なくないという話は時折耳にしますが、確かにキリスト教は一般的にユダヤ教から学ぶべきところをおろそかにしてきましたし、それはニケアー会議からしてそのようであったことを史料が示しております。
ですが、ユダヤ教側に至っては、ナザレのイエスをメシアとはまったく認めず、新約聖書も読んで来なかったのですから、新旧双方のを貫く経綸の知識という点ではキリスト教界に到底及ばないという以外ありません。ユダヤ教では「原罪」の概念なく、「キリストによる贖罪」や、『聖霊』も『新しい契約』についても思考の外にあります。


さて、まず、カトリックの聖典研究の長さも豊富さも、到底あなどれるものではありません。
「ヘブライ語だから読めずに価値が分からなかった」なぞ、巷の信徒や聖職者ならともかく、学者の居た教皇庁や修道会また大学が存在してきた以上、とても有り得ないことです。

そもそもカトリックには、ヒエロニュモス以来の学究の歴史がありまして、ルネサンス期にもアルフォンソ​・​デ​・​サモラ[Alfonso de Zamora (1474-1544)]のようなユダヤ人改宗者の学者らが居ましたし、近代ではアルフレート・エダーシェイム[Alfred Edersheim(1825-1889)のようなプロテスタントながらやはりキリスト教に改宗し、ユダヤ教学院で学んだ博識を以って協力した人々も忘れてはなりません。彼らはメシアニックジューではなくキリスト教に改宗したのです。
今日でもカトリックは写本調査においても高度であり、聖書研究者であろうとする者がカトリックの研究成果を無視することなどとてもできません。ある時代ではユダヤ人迫害の嵐も吹き荒れたとはいえ、カトリックに限らず、キリスト教界は改宗してくる少なくないユダヤ人を受け容れて来ており、彼らの知識から学んできたところも無視できません。

古代カトリックのヒエロニュモスにつきましては、カトリック辞典を要約しますと
ローマ司教(後代には教皇とも)ダマシウスⅠ世の下で信頼に足るラテン語訳聖書の作成に委嘱され長年をかけて携わりましたが、当時のラテン語訳聖書は杜撰な翻訳が多数横行していたので、彼をしてかの名言「翻訳の数だけ原典がある」と言わしめていたほど乱れていました。
ヒエロニュモス(英語でジェロームとも)の原語の追求は当時としては画期的で、彼は生涯の大半を使って能う限り原語からラテン語に翻訳を行い、それは遂に五世紀のはじめに至って完成しました。これがラテンウルガタ訳ですが、彼自身のラテン語の美しさが生かされ、当時としては考えられる最高水準に達した翻訳聖書であり、1962-65年の第二ヴァチカン公会議に至るまでカトリックの公認聖書、聖書と言えば「聖なるウルガタ」であるべきとされてきました。


また、わたしが申し上げるまでもないことですが
ヒエロニュモスは、聖書について徹底的な実地調査を施したのであり、第四世紀当時の聖書に関わる実情を彼を窓のようにして今日の我々も観るようなところがあります。
ラテン語話者ながら、ギリシア語ばかりかヘブライ語も非常な注意を払って、夜間だけユダヤ教徒の反対を回避しながら、シリアやパレスチナで直にユダヤ人から学んでおります。喉から血が出るほどの苦労をしてヘブライ語の喉音を学んだその意気込みにはまったく頭が下がります。


一方で、この度の新約聖書の原典がヘブライ語であったとの情報はフェイクであるという以上のものにはなりません。
勿論、マタイ福音書が最初にヘブライ語で書かれたとの古代の情報があること、また、ヘブライ人への手紙がパウロらしからぬギリシア語で伝えられているところでは、ヘブライ語原典説は不当なものではないのですが、以下のヴァチカン自身の補足情報に見るようにヴァチカンのヘブライ100番がマタイの原典なわけもありません。
それでも、キリスト教との分化以前の状態にあったユダヤ人イエス派が、福音書や使徒らの手紙を自らの言語で読むためにギリシア語からヘブライ語に訳した新約聖書を手にしていたことは充分に考えられるところです。

ですが、それは新約聖書の多くの原典がヘブライ語であったというわけではありません。
ペテロやパウロが活動していた異邦諸国でもユダヤ人の信者が得られてはいましたが、異邦人からの信者の方が多くなり、やがてユダヤ人からのキリスト信仰への転向者は異邦人から律法の習慣を離れるよう指導を受けるまでに変化を見せていたと言われます。
その以前の使徒時代から、パウロ自身は五か国語を用い、ペテロもマルコなどヘレニストを通訳としており、いずれもギリシア語圏で活動していたのであり、キリスト教理解の先端を走った彼らは律法主義者らと終生論争を戦っております。

「クリスティアノイ」と呼ばれるようになったのも、シリアのアンティオケイアであって、エルサレムではなかったように、その中にヘレニストのイスラエル系の人々が初期に多かったにしても、キリスト教を率いたのは明らかにギリシア語話者であり、彼らにとって聖書と言えばセプチュアギンタであり、新約筆者らもそこから旧約を引用しています。

それに対して、ユダヤ教イエス派、それもエルサレムやユダヤの人々がどれほどパウロたちに反対したかは、使徒言行録だけでも明白なうえ、書簡群を加えると手の施しようもないほどヘブライストの多くが律法遵守に傾いていたかはもはや隠しようもありません。彼らにとっては宗教上の良心がそう働くのを止められません。生まれて八日目からずっと信者だからでしょう。

一方で、ヘブライ人への手紙を別にしても、パウロの手紙の宛先はギリシア語話者であり、何人ものギリシア人の個人名もその中に挙げられてもいます。

福音書においても、『ユダヤ人の祭りが近付いていた』という言い回しが何度もあり、書き手の異邦人への配慮が見られ、ユダヤのように日付が夕方に替わるのではない人々への書き方も観られます。
それでも、当然ながらイエスがギリシア語で話していなかった痕跡が福音書ばかりでなく使徒言行録にも見られます。そこでキリスト教と言えば何でもギリシア語が優勢であるわけではありません。新約聖書のギリシア語文の中にも、ヘブライ語の影響やその文化を前提にしなければ理解の進まないところも随所に存在していますし、特に福音書は還訳して再考するなりすることで、語られた真意も明確になると言われます。

ですが、ユダヤ教はやはり『モーセの弟子』であることを大切にしており、アブラハムの血統にある契約を保つことに強いアイデンティティを持つ一方で、ユダヤ教がメシアに対して示した頑迷固陋によって『銀を試す』(マラキ3:1-4)機会に大きく躓いたことは福音書やその後の使徒文書からしても隠しようがありません。つまり、マラキ書を根拠にラビの中で恐れられていた「メシアの害」です。

彼らの足枷になったのが『律法による義』の獲得であり、『行いによる義』を宗教的良心とする習慣から抜け出せず、メシアへの奇跡の印に真に信仰を働かせるには至らなかったところにあります。メシアを退けたユダヤ体制は『その世代が過ぎ去る』前に『火のバプテスマ』によって神殿と神の名を失い、以後は聖所が無いため、律法の完全な履行も不可能となりました。この『火のバプテスマ』をバプテストが予告していた以上、神殿祭祀の終りは神意というべきでしょう。『斧は木の根元に置かれて』いたのであり、メシアの到来は、まさしくネイヴィームの警告の通りに、ユダヤ律法体制の裁きの日であったからです。それこそが「メシアの害」であったことでしょう。イエスの言、アベルからゼカリヤまでの血の責がキリストを迎えた世代に問われていたというべき歴史の事実です。

あのペンテコステの奇跡を目撃し、次いで同じく聖霊に与ったのが、国際性に富み洗練されたディアスポラの人々でありましたし、使徒らにしても訛りさえあるガリラヤ人であって、サドカイでもパリサイでもなくユダヤ体制派からは一定の距離を置く弟子らでありました。

しかしイエス派に於いては、シリアのアンティオケイアで初めて「クリスティアノイ」と呼ばれたように、キリスト教を支えたのもディアスポラの人々が中心となってのことです。続く使徒時代の進展、また使徒後のキリスト教の発展についてもそれがギリシア語の中で起こった崇拝の次元上昇であったことは覆すことのできない史実となっております。
他方、ユダヤがメシアを認めるに障碍となったのは律法の他に、旧約聖書が完成されて、それを永続する全き不動の神の言葉と崇め奉り、却って、神をそのヘブライ語の言葉の中に閉じ込めてしまい、『生ける神』YHWHの新たなメシアによる行動を想定しなかった硬直的なそのヘブライ優越的考え方にあります。
そこで新たな崇拝を受け入れる素地は言語に一因があったことは否めません。もし、イエス派がヘブライ語・アラム語話者のユダヤ人で占められていれば、ユダヤ教の強い引力からまず脱皮できなかったことでしょう。それは今日のメシアニックジューそのものです。

他方、イエス派の教えはギリシア語を経て新たな概念を獲得さえしています。例えれば「アガペー」、「カリス」、「パルーシア」、「コイノニア」、「エウアンゲリオン」、「ケリュグマ」、「エクレシア」、「アポストロス」などいくらか挙げてみるだけで、キリスト教徒であればユダヤ教を超えてどれほどの新次元に至ったかを感じないではいられないでしょう。

ですから、新約聖書のヘブライ語原典説を唱えることそのものに強いバイアスが掛かっていると言わざるを得ないのです。
ですが、キリスト教をヘブライ語から追い出したのはヘブライスト自身なのであり、皮肉にも、結果としてキリスト教をユダヤ教を遥かに超える規模の世界宗教に育てるという神意を、ギリシア語化させることで実現させてもいたのです。

キリスト教の中でユダヤ優越主義を唱えることは、つまりはメシアニック・ジューと呼ばれる人々の自らの出自に対する誇りの回復への目論見ではないのでしょうか。
しかし、それは史実の歴然を否定して初めて成り立つものであり、ユダヤ民族文化のキリスト教に対する優越を主張する目的意識がありありと見えます。即ち、パウロを苦しめた律法主義の再来であり、今になってもう一度パウロと衝突するものです。

ですが、それはキリスト教そのものからすれば無用なものであり、キリストご自身やその直弟子らへの苛烈な迫害をユダヤ人が行って来なかったわけでなく、むしろ、それらの反対の上にキリスト教は立脚してきました。その点から言えば、律法墨守も大祭司カイヤファもサンヘドリンもメシアを屠るには必要不可欠であったと云えるほどです。もちろんローマの支配や総督ピラトゥスも重要な役者を演じたと言えましょう。

それらを今更なかったことにはできませんし、むしろユダヤ民族のある人々がナザレのイエスやその弟子たちに行ってきたことを恥じ入り、悔いるということならそれは見どころのある潔さと思えますが、逆にキリスト教のパイオニアが自分たちユダヤ民族文化、また律法主義であるというのであれば、それは驚くべき誤謬です。
まさにこの点、メシアニックジューの問題はこの「律法をどう見做すか」にあります。彼らの主張は、「エシュアは律法遵守を肯定したのだから、引き続き律法を守るべきだ」と言っているからです。しかし、この観方は反対方向からメシアを見ています。なぜなら、律法を『成就する』(満たす)からこそメシアは完全な贖いの犠牲を一度限り捧げられたからです。(マタイ5:17/ヘブライ3:10-13・10:12)

むしろ、メシアがエシュアであることを認めるのなら、モーセの律法を体現して成就した唯一の方であり、それゆえにも人類の罪の贖いとなって、唯一人律法に適った有効な犠牲の死を唯一度捧げられる『神の子羊』であった方として、その方が、モーセの律法の犠牲を捧げ尽くして終わらせ、聖霊をもたらして『霊と真理による崇拝』を興したのです。その点に於いて、イエスは律法を通し、自らの業によって完全な義を獲得された唯一の方であられ、その意味で『律法の一点一画さえ滅び失せることはない』とされるべきものであるのです。(ヨハネ4:21-24/ヘブライ2:10)

更に、メシアの犠牲によって、律法を土台としたその先にある高度な『聖なる国民、祭司の王国』となる崇拝者が生み出されたのであれば、それがユダヤ人の中から起こり、当初イスラエルの人々によって新約聖書が書かれたというだけで、その民族には十分に誇る理由もあるでしょう。偉大な崇拝の前進の土台を据えたのも、彼らの功績であったのですから。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9/ヨハネ4:22)

しかし、メシアを退けて刑死に追い込み、その弟子らまでを迫害した結果、新しいキリスト教の担い手は、血統のイスラエルから『神のイスラエル』へと移行したこと、つまり、あのペンテコステの日から、何者に聖霊が注がれ、契約が移行したことが明らかになったことは覆しようのないことです。パウロが言うように、悔いたイスラエルには『律法から離れて神の義が明らかにされた』のであり、それでもなお律法遵守を唱えたユダヤ教が『キリストは律法の終り』というパウロと正面衝突を起こしていた様が新約聖書そのものの随所で明らかではありませんか。パウロは律法の習慣に戻ることを『霊によって始めて、肉によって完成する』愚に例え、『文字は殺し、霊は生かす』とも書いています。(ガラテア3:3/コリント第二3:6)
もし、メシアニックジューが、パウロの古代に彼と争ったユダヤ教イエス派の旧態依然とした律法主義を再演しようとするのであれば、やはり同じ結果を招くことになり、それは民族主義に拘って進歩を拒む名誉欲の訴えにしかならないでしょう。奇跡の聖霊の注ぎ出しなくして『アブラハムの裔』とは言えず、聖霊による招命が再び起こらなければ『聖なる国民、王なる祭司』となる神の王国の選民は現れないからであり、そのためにはメシアがこの世に臨御されなくてはなりません。

いまさら、律法を守れたとしても、動物の犠牲に何の意味が残っていると言うのでしょうか。律法を成就したキリストの犠牲の完全性を否定してしまうではありませんか。それは自家撞着というものです。
またメシアニックジューに入信する男性は割礼を受け、モーセの契約に服して律法条項全体を守る義務が生じます。(ガラテア5:2-3)
むしろ、トーラーはマシアハがエシュアであること、また他の誰もそれを体現し『神の子羊』とはなり得ないことを教える指標なのであり、人間に「正しい生活スタイル」を教える「神のデザイン」とはいえません。そんなことで神の是認を受けるとすれば、終末も裁きも無用でしょう。

そこで、新約聖書のヘブライ語原典説というのは、この民族的要求のために史実無視に走ることになります。
それはあたかも、「隣国で栄えている文化は、自分たちの国が起源なのだ」と言っているようなもので、その栄光を自分に帰そうとしており、しかも、それは実際には追い出しておきながらのうえ、事実でもない感情的言い分であるのです。ユダヤ律法体制の優越を示して、いまだにユダヤ人が選民だと偉ぶるとすれば、律法の先にあるメシアの犠牲による聖霊が教えた領域には進まないと言っているのであり、ユダヤ人の迫害に散ったキリストや使徒たちや新約筆者たちが、それを聞いたならどう思うことでしょうか?弟子らはサンダルに着いた土を払わなかったでしょうか。

ご指摘のヴァチカンの資料の周囲を30分ほど見回すだけでも、それは明らかなことでわたし自身にはつまらない時間の過ごし方にしかなりませんでした。
この”Vat.ebr.100”ですが、これは記入された文字がはっきりしており、地は中世ベラムのようです。また冊子本のようですから使徒時代よりずっと後のものです。⇒ ヴァチカン ヘブライ語資料100番
ヴァチカンには他にも公開されているヘブライ語の古資料がありますが、これはそのうちのひとつに過ぎません。⇒ ヴァチカン 公開ヘブライ語資料

そこでこの資料に関するヴァチカンのノートを見ますと、これがヘブライ語による四福音書であり、各書の前にヒエロニュモスの序文がついているとあります。⇒ Information for Vat.ebr.100
さらに、ユダヤ人学者のウンベルト・カッスート(Cassuto)によれば、この”Vat.ebr.100”はカタルーニャ語版からヘブライ語に翻訳されたものであるとも書かれています。
つまり、この資料は、中世スペインでコンベルソと呼ばれたユダヤ系でキリスト教に改宗した(させられた)人々の必要に役立てられたヒエロニュモスのラテン語訳を経たうえでの、ギリシア語からの重訳にして、ヘブライ語への還訳福音書であるという由来が分かります。これを根拠に新約聖書がヘブライ語原典であったと主張して良いでしょうか?
あまりにも杜撰な主張、嬰児の突飛な戯言、このような話を聞いている時間さえもったいのないことです。
前述のように、かつてスペインでも改宗ユダヤ人の学者が結構な活躍を見せていましたので、新約聖書原典がヘブライ語であったなど、そんなことがあれば当時から見逃すわけがありません。

キリスト教の方々に、これほどつまらない情報を鵜呑みにするほどリテラシーが欠けているとすれば、それこそ嘆かわしい事態でしょう。キリスト教に圧倒的優越性があることを知らないがために、キリスト教徒がユダヤ教とその文化に囚われてしまうという現象が起こってしまうのです。それこそは、半生を費やしてキリスト教を導くことに捧げたパウロという、貴重な『奥義の家令』の働きを無に帰する愚行ではありませんか。考えてもみて下さい、神と人との仲介者はモーセなのだとキリスト教徒が言うのですか?

しかし、こうして実際を歪めてまで、律法的ユダヤ民族主義がキリスト教に優位性を示したい動機はいったい何でしょうか。おそらくはキリスト教界への覇権獲得ではありませんか?
それこそがメシアニックジューの本質でないことを期待したいものです。

ですが、ユダヤ教、イスラム教、キリスト教の三つの和解がいつの日か進むこともあるのかも知れません。
古来より、三一や地上再臨の誤謬が終末のために用意されて来たかのように今日まで多くのキリスト教徒を捕らえていますが、そこにメシアを自称し、幾らかの奇跡を行って見せる人間が現れるなら、火薬に火を付けるようなことになってしまうでしょう。そしてそうなるのでしょう。
それを多くの人々が喜んで迎えるのかも知れませんが、わたし個人が想うには、それこそ非常に恐ろしい結末、「不法の人」のカオスに至るでしょう。


以上、お尋ねの件につき、わたしの考えるところを記してみました。
ご参考になりますなら幸いに存じます。


それから、モーセを通してトーラーと共に存在してきたという「ヨブ記」は、律法主義の暴走を牽制し、その見方にバランスをもたらす役割を持っています。登場人物のすべてがイスラエル人ではないこの一書は、キリスト教を予告するほどの内容が込められているのですが、多くの人々によって善良さによる義の獲得の勧め、また義人が受ける苦悩の説明などのように、正反対の意味にとられている実態は、まことに嘆かわしく思います。
つまり、彼ほどの義人はいないと神に誉められたヨブの義行をもってしても、実に神の前に義を得ることはけっしてなく、それはキリストの義だけが価値を持ち得ることを教えていたのです。 ⇒ ヨブ記の背景 結論




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◆西へと導かれる宣教旅行

エルサレムの使徒会議の後の早い時期に、パウロとバルナバは以前に旅行してメシアの福音を伝えてまわった諸国をもう一度訪ねることを思い立ちました。
バルナバは従兄弟のマルコを再び伴いたいと思うのですが、それにパウロは断固反対します。前回のマルコの行動で信頼できないと判断していたのでしょう。
そこでバルナバとパウロは大喧嘩を演じたようで、それまでの二人からすれば起こりそうもない仲たがいをしてしまったようです。聖霊を内に注がれたとはいえ、『罪』の影響を克服しているわけではありません。『聖徒』といえども人間的なところは、かえってこれを読む人々にはある種の励みのようなものを与えるところもあるでしょう。(ローマ人への手紙7:18)
バルナバは思った通りにマルコを連れて故郷のキプロス島に船出しましたが、パウロの方はユダヤ人シラスを伴い自らの故郷キリキアを経由して前の旅で向かったトルコの高地を目指します。
それでも新たな宣教旅行は大きな成果を収めることにあるのでした。

キリキア州にはアナトリア(トルコ半島)に在っては珍しく平野の広がる穀倉地帯があり、中心的な都市タルソス(現存)がパウロの出身地でありました。
かつてバルナバが彼を捜して訪れ、そこから宣教しながらシリアを通ってアンティオケイアに旅した逆のコースをこの度はシラスを伴って進み、故郷の町を背に北上し、「キリキア門」と通称されたタウロス山脈を越える唯一の隘路から、アナトリア高原を目指す険しい上りの行程をとったと考えられています。

そこから先頃尋ねたリュストラ、イコニオム、ピシデイアのアンティオケイアへと遡ってゆくに際し、エルサレムでの議決を知らせて回り、各地の『それぞれの集まりはその決定に励みを受けつつ日毎に人数を増していった』と記されています。
さて、パウロはリュストラで一人のユダヤ人女信者の息子で仲間に評判のよい若者に資質を見出し、自分の宣教旅行に連れて行くことを思い立ちました。その願いは叶えられ、パウロはこの若者テモテ(ティモテオス)に割礼を受けるように求めます。それはパウロたちがユダヤ人の諸会堂を巡ってゆく宣教方法において、ユダヤ教徒からのつまずきを作らないためであったことは明らかです。しかもテモテの父がギリシア人であることはこの地方で広く知られていたことでした。

パウロはシラスに加えテモテを伴い、ピシデイアから未だ進んだことのないアナトリアの中央部ガラティア、フリュギアに入りましたが、本来はその先にある人口の多く繁華な小アジアの諸都市を目指していたのでしょう。しかし、ここで使徒言行録は『彼らはアジアで音信を語ることを禁じられた』としています。
そこで一行はトルコ半島の北西を進み、アジア州を南にして今日のマルマラ海に面した古代名ミュシアと呼ばれる地方に入り、そこから更に北の黒海沿いに位置するビチュニア方面に向かおうとしましたが『イエスの霊がそれを許さなかった』と書かれています。彼らの主の意図は何であったのでしょうか。

ビチュニア行きを引き留められた彼らはアナトリアを横断してその先端の港町トロアスにまで出てしまいましたが、目の前にはエーゲ海があるばかりです。
しかしパウロはそこで幻を見ました。その中では、ひとりのマケドニア人が現れ『こちらに渡って来て、わたしたちをお助けください』と言うのです。

これに神意を見出したパウロの一行はそのまま海を渡って対岸のギリシア本土、つまりヨーロッパに向かうことにします。もはやイエスが彼らをそちらに導いていることに疑う余地がありません。
そしてここからこの使徒言行録の筆者であるルカ本人がパウロの一行に加わっていることが一人称に文章が変化していることから分かります。
総じて新約聖書の筆者たちは手紙文でもないと自分自身についてはっきりとは書きません。それは書いていることが自らの功績であるかのようにしたくないからでしょう。彼らの全体を導くのは聖霊を用いる主イエスであって、だれか傑出した人間でもなく、人を遥かに超える天からの導き手に膝を屈する姿勢の表れではないでしょうか。



◆マケドニアの収穫

さて、彼らはトロアスから出帆し、サモトラケ島を経て二日目にはいよいよヨーロッパに上陸し、マケドニアの主要な都市フィリピ(フィリッポイ)に入りました。
この場所では百年以上前のこと、ユリウス・カエサルの暗殺を行ったブルータスの一党とその仇を討とうとするアントニウスとの大決戦が行われ、晴れてカエサルの名誉が回復された目出度い場所となったために、この都市フィリピはローマ市民権が与えられる栄誉に浴していました。

その一方で、ユダヤ教の影響は小さく、この町にはシュナゴーグつまりユダヤ教の会堂がありません。
そこでパウロたちは、安息日に河原に行ってみることにします。ユダヤ人なら会堂が無ければ、人が集まりやすい開けたところを『祈りの場所』としている可能性があったからです。
すると、そこには女たちが集まっています。それは洗濯のためであるのか、ユダヤ教としての集まりであったのかは分かりませんが、パウロが座って話を始めると何人かの女たちがそれを聴こうとパウロの許に来ました。
その中に、本来は小アジアのテュアティラ市特産とされる紫布を扱う女商人リュディアが居ました。彼女はユダヤ教の素地があるようで『神を崇める者』であったとルカは記しています。これは異邦人でもユダヤの会衆に含まれる信仰者(プロセーリュトス)を意味していたのでしょう。そこで彼女のメシアへの理解は早く『主は彼女の心を開いてパウロの話に耳を傾けさせた』とあり、早速にパウロの一行はマケドニアで成果を得て、このリュディアの一家はバプテスマを受けました。
信者となったリュディアはパウロの一行が自宅に泊まるよう熱望し『もしわたくし共が主を信じる者とお思いでしたら』と言っては『強いてそうさせた』とあります。

それからもパウロたちは『祈りの場所』で宣教を続け、フィリピの街での知られるようになっていたようですが、ユダヤ教徒の反対は無くとも必ずしも好意的反応ばかりではなかったことが窺えるような出来事が起こりました。
悪霊の力によって占いをする奴隷女がパウロたちの後をつけてきては『この人たちはいと高き神の僕で、あなたがたに救いの道を宣べ伝えているのです』と幾日も言い続けたので、遂にうんざりしたパウロが、『イエス・キリストの名によって命じる、この女から出て行け』と霊に告げるとすぐに憑依は解けたのですが、これを悪霊は狙っていたのでしょう。この奴隷の占いによって利益を貪っていた主人らは、パウロとシラスを捕えて政務官の前に引き出し『この者どもはユダヤ人でありまして、我々ローマ人なら行うことも受け入れることもできない慣習を宣伝しています』と告発すると、群衆も反対し始めました。キリストの福音は異邦人だからといって喜ばれるものではなかったのでしょう。
弟子らがメシア信仰の福音を携えて諸国民に向かっても必ずしも好意を受けないことには、ユダヤ教とはまた違った原因があります。聖書の神は商売や儲けの神でも、幸運の神でもありませんから、ご利益信仰や悪霊の影響なども邪魔をすることは避けられないところです。(ルカ福音書1:52-53)

イエスはそれを次のように告げていらっしゃいました。
『わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つだろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対して証しをするためである。』(マタイ福音書10:16-18)

まさしく、政務官らは二人を鞭打ち、看守には厳しく見張るよう申し付け牢につながせます。看守長は彼らを一番奥の牢に入れたうえ、足枷にもつなぐという念の入れようでした。
しかし、夜半に大きな地震が起こり、牢獄は土台から壊されてしまい、牢獄の戸が開いてしまったうえ、鎖もみな解けてしまったというのです。
多くの囚人が逃げ散ってしまいました。看守長はその責を問われることを悟って自害しようとしますが、パウロたちが『わたしたちはここに居る』と言ってそれを制し、パウロとシラスは逃げずに居ます。
看守長は起きた出来事にパウロたちの唱える信仰に帰依したのでしょう。二人に平伏しては『救われるにはどうしたら良いでしょうか』と尋ねるので、二人は『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われる』と教えます。看守長は二人を自宅に招き入れ、傷を洗い食事も供し、そこで家族と共にバプテスマを受けました。

この地震による出来事は、看守長ばかりでなく政務官らにも衝撃であったらしく、翌朝になると二人を放免するようにと看守長に言ってきますが、パウロもシラスもローマ市民権の保持者であったものですから、彼らを裁判もせずに鞭打ったり牢につないだりしたことはローマ法を犯すことになってしまいます。政務官らは恐縮してパウロたちのところまで出向いてきては、宥めつつ、パウロたちが何処ぞに退去することを懇願し始めました。このフィリピでは行政から法規までイタリアと同等に行われる植民市扱いが行われるべきであったのです。

そこで二人はリュディアの家を訪れて仲間となった人々を励ましてから、さらにマケドニアの旅を続けるためフィリピを後にし南に位置する都市テサロニケーに向けて歩を進めます。ですがパウロの生涯にわたってこのマケドニア最初の都市フィリピの仲間たちとは深い友愛に結ばれ、以後彼らはパウロへの援助を何度となく行い、パウロの活動を支援し続けることになります。(フィリピ人への手紙4:14-15)

テサロニケーはギリシアではアテナイに次ぐほどの大きな街でありユダヤ教の会堂もあります。
パウロは会堂で三つの安息日にわたってキリストの受難と復活を旧約聖書から説いて証しをすると、何人かのユダヤ教徒がそれに納得し、それに加えて多くのギリシア人たちや貴婦人らがパウロたちに従うという成果を上げることに成功します。

ですが、やはりユダヤ教に固執する者らはこれを嫉んで暴徒を組織したので、テサロニケーの街は混乱に陥りました。
暴徒らは、パウロとシラスを捕えようと、彼らをもてなしていたヤソンの家に乱入してはみたのですが見つかりません。
その間に、信仰の仲間となった人々は夜の内に二人をさらに南の都市ベレヤへと送り出していたのでした。

テサロニケーを追われたパウロたちは、50kmほど離れた都市ベレア(ベロイア)に逃れます。ここはかつてのマケドニア王国の中心的な街であり、インドに至るまでを征服したマケドニア=ギリシア帝国の礎がここにあったようにアレクサンドロス大王の父、フィリッポスⅡ世の墳墓を今も見ることができます。
この比較的大きな街にもユダヤ人の会堂があり、ルカが述べるところでは、この土地のユダヤの人々は大らかで、パウロたちの語るところを受入れ、語られたことを確認するために毎日に旧約聖書を照合したとベレアのユダヤ人を誉めています。

ですが、ベレアがパウロを受け入れたことを察知したテサロニケーのユダヤ人らが、ベレアまで来ては騒動を焚き付けたものですから、メシア信仰を持った人々はパウロを保護して海岸に送り出しますが、パウロ自身はこのように機転の利いた仲間の策に幾らか抵抗を試みたような痕跡があります。マケドニアを後にするのは本意でなかったのでしょう。彼はむしろテサロニケーに戻ろうと一度ならず試みたと手紙に記しています。(テサロニケ第一の手紙2:17-3:2)
ともかくベレアの仲間たちはパウロに付き添って海路をとり、ギリシア文化の中心であるアテナイへと送り届けます。こうして騒乱の内にパウロのマケドニアでの活動が終わり、彼はギリシア本土を南下してアカイア州で宣教を続けることになるのでした。



◆アカイアの日々

パウロはシラスやテモテをマケドニアに残していました。おそらくはテサロニケーやベレアに入って日が浅く、新たにメシア信仰を見出した人々に助けを残す必要もあったのでしょう。そこでベレアからの随伴者たちが戻るに際し、シラスとテモテにはできるだけ早くアテナイのパウロの許に来るよう言付けました。しかし、実際に彼らが再会するの時期はパウロのアテナイ滞在に間に合わないことになるのでした。

二人の到着を待つ間にパウロが無為に過ごすわけもありません。テサロニケーよりも大きなこのギリシアの中心都市にはユダヤ教の会堂もあり、彼はそこでのメシア信仰の表明しユダヤ人との論戦に入ります。
また、当時の各都市で「アゴラ」と呼ばれる市場を伴う繁華な広場でも話をしたので、このギリシア哲学の故地にいたパウロの論じ合う相手は、ストア派やエピクロス派の哲人たちにも及ぶようになり、アテナイの人々もその論議を知ろうとして、アクロポリスの麓にあったアレオパゴスの裁判所にパウロを招きます。この当時の裁判権はローマのものとなっていましたので、この場所では裁判というよりは様々な議論の行われる場所となっていたことでしょう。当時のアテナイは、独立を失って久しく、既に以前のような文化の栄えは失っていましたが、それでも人々は哲学的論議に明け暮れ、暇な時間さえあればそれに打ち込んでいたことを使徒言行録も記しています。

ですが、アテナイ人にとって『異国の神(ダイモーン)を広める者らしい』というパウロへの評価は危惧を孕んだものであったようです。というもの、既に五百年も前のことですが、かの哲人ソークラテースが訴えられたのもアテナイが認めていない別のダイモーンへの祭礼を唱えたということであったのです。
もちろん、パウロがローマ市民権保持者であれば、刑罰を覚悟する必要まではなかったのでしょうけれども、これはアテナイでの査問のようでもあり、そう歓迎されているわけでもありません。
そこでパウロは市内で見つけた『知られていない神へ』との献辞の刻まれた祭壇があったことを述べてから『あなたがたが知らずに崇拝するもの、それを告げ知らせます』と慎重に話を起こします。
そのうえで、神たるものは人の世話を必要とする方でも神殿に住まねばならないわけでもないことを告げ、創世記の人の創造を彼らにも分かる仕方で話すと、クレタのエピメニデスの詩とキリキア出身の前三世紀に活躍した詩人アラートスの句を用いながら創造の神の例証を試みます。この辺りまではアテナイ人にとって同意できないものではなかったことでしょう。

しかし、パウロがメシア信仰に踏み込み『神は自らお定めになったひとりの人を通してこの世を裁くための日をお決めになった。そしてこの方を死人の中から生き返らせてそのことを証しされた』という及んで、人々は嘲笑をはじめ、またある人は『そういうことなら、またいずれ聴こう』と言いだしました。つまり、復活が躓きのもとだったのです。一般人ばかりか、現存する宇宙に統一的な秩序や摂理があると見做すストア派でも、精神の平静によって死を克服しようとするエピクロス派でも、この復活という事柄は受け容れられそうにありません。
それでもこの裁判所の判事ディオニュシオスやダマリスという女は信仰を持ったと記されています。
このようにアテナイでのパウロは大きな収穫を得なかったようで、彼はいくらか滞在しただけでそこを去り、さらに南にある両側から海に挟まれた都市、コリントスに移ります。

彼はコリントスでも安息日毎にユダヤ人の会堂で論じますが、そこでアキュラとプリスキラというユダヤ人の夫婦と出会います。この夫妻は先頃までローマに住んでいたところ、ユダヤ人の騒乱を嫌ったクラウディウス帝のローマ市からのユダヤ人退去令のために移って来たところだったと記されているので、これは西暦49年か50年のコリントスという歴史地理上の座標を教えています。
この以前、あのペンテコステの時にローマから来てエルサレムに逗留していたメシア信仰者がローマに戻って宣教をしていたようで、ひと世代ほど後の歴史家であるスエトニウスによれば、「クレストゥス」という指導者がユダヤ人に騒擾をもたらしていたので皇帝がユダヤ人にローマからの退去を命じたと記されています。
エルサレムで使徒会議が行われている頃に、あのステファノスのような事が各地で起っていたとしても不思議はありません。まさにパウロがローマ人への手紙を書いていた時期に当たる西暦57年には未だパウロがローマに到着していないにも関わらず、ポンポニア・グラエキナという帝室に近い貴族の夫人がローマでは禁じられた宗教を意味する「異国の迷信」の廉で審問のために夫に引き渡されるという事件があったと、タキトゥスの「年代記」に記録されてもいますが、これはキリスト教であったろうと考えられています。
やはり、ナザレ人イエスによって巻き起こされたメシア信仰の与えた影響の大きさが、ユダヤ人のローマ追放という事件にも表れていると見てよいのでしょう。

迫害に追い立てられマケドニアからアカイアへと流されるようにしてコリントスに辿り着いたパウロと、既にメシア信仰に達していてローマを追われた夫妻とは共感するところが多かったでしょう、さら天幕作りという共通の技術を持っていたので共に仕事を始めたことをルカが書いています。ですがマケドニアからシラスとテモテが合流すると、パウロは専ら宣教に力を込めるようになり、ユダヤ人からの反対もまた強まります。
イエスはパウロに幻を再び与え『臆するな、語り続けよ。黙してはならない。』『この街にはわたしの民が多いのだ。』と励まし、彼はそれに応えて一年半もの間、当地コリントスに留まることになります。

この滞在の間に、パウロはマケドニアのテサロニケーに手紙を書いていて、新約聖書にその上下の二通がありますが、これらはパウロが書いた書簡群の最初期のものとされています。差出人はパウロとシルワノ(シラス)とテモテという宣教の一行であり、第一の手紙ではパウロの許にテモテがマケドニアから到着したことを伝えています。いくらかの献金と彼らの信仰の良い知らせを携えてきたのでしょう。しかし、テサロニケーの人々が強い反対に面していることも知らされ、彼らを『聖霊の喜びによって』迫害を耐えていることを励まします。確かにテサロニケーの反対は異様なまでに執拗であったことが思い起こされます。(テサロニケ第一の手紙3:4)
さらに励ましの言葉ばかりでなく、パウロの驚くべき神意への理解が記されていて、キリストの戻られる終末に起る幾つかの事柄への預言さえ含まれています。(テサロニケ第一の手紙4:15-18/第二の手紙2:3-5)

これらには、パウロが手紙で語りかけるパターンが示されていて、挨拶に続いてすぐに高度な教理が語られます。それから聖霊を注がれた者としての栄光の高さが語られ、生き方への教訓があり、『新しい契約』に入った者として信仰と清い生活を送るよう励ましてします。これは後のパウロの手紙に共通するもので、書かれた相手がパウロと同じく聖霊によりイエスと結ばれた『聖なる者』であることを示しています。
それでも今日の読者は、当時の真実のキリスト教の姿を知ることやパウロの得ていた高度な理解を通して、人類の祭司となる聖徒たちの姿を知ることができ、来るべき終末についても示唆が与えられます。それらの知識は今日のキリスト教界にはびこる誤謬を見抜ばかりかキリストの再来について心を整えさせるものとなるでしょう。



◆巻き起こる争論の原因

使徒言行録を俯瞰すると、この時代の特性が宣教にプラスに働いていたともいえます。
殊に、ローマは帝国となって安定期に入っており、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれる比較的に平和な時期が地中海世界を覆っていました。ユダヤ教は帝国公認の宗教であり、帝国の各地に離散(ディアスポラ)で住んでいるユダヤ人は会堂での安息日の集まりを続けることができていました。その集まりでメシアの到来を告げるパウロやバルナバのような活動が自由に行えたのも、この時代の状況が整っていたといえます。

しかし、それにしてもユダヤ人の反対というものはどこに行っても止むことがありません。こうしてパウロたちは宣教を行って幾らかの仲間を得る度に、ユダヤ人からも諸国民からも反対を受けては移動を繰り返す日々をシリアやパレスチナばかりでなくマケドニアでも経験することになりました。
その理由といえば、新約聖書は『不信仰』としていますが、これはメシアとして来られたイエスを受け入れなかったことを指す、ユダヤ教徒のメシア信仰についての『不信仰』なのです。

具体的には、身近で行われていた律法に基く崇拝に深く慣れ親しみ、そこに自分たちの価値を見出して人生の目的にしており、神に選ばれたという民族の伝統の誇りも手伝って、自分たちは少しも不信仰ではなく、むしろ自分たちほど神に従っている者もいないとすら感じていたことでしょう。キリスト・イエスもユダヤ教徒として律法に従ってもいたのですから、ましてユダヤ教徒は生活上の細かな規定を守ることに神の是認を感じてもいたに違いなく、それが崇拝の目的のようにも思えたことでしょう。

彼らは、崇拝方式に自分たちの正しさを見出して、神がメシアを通して知らせる新たな崇拝方式に従うことを拒んだのでした。しかし、メシアが現れたなら『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』と律法そのものに神の命令が書かれていたのです。(申命記18:19)

今日のユダヤ教も当時のままのパリサイ派を思わせるほどに律法への熱心さを見せています。まさしく今日のユダヤ教は当時と同じヒレル系パリサイ派であり、ナザレのイエスについては「魔術を行ったガリラヤの私生児で、ローマ総督に処刑された」という見方は変わっていません。

しかし、崇拝の方式が正義そのものになっているというのは、現代でも一神教に熱心な信仰者によくみられる共通の態度でもあります。
そして、将来にキリストがこの世に対して「帰還」されるときには、今日のキリスト教界が同じ反応をして、神の真意が示されてもそれを受け入れないということは起り得ないことではありません。

信仰する人々の多くは、自分の義を求め、神の是認や救いの確定を急ぎます。
確かに神との関係性を願うことは間違いではないでしょう。しかし、大切にするべきは自分の存在の確保や自分が救われることなのでしょうか?
詩篇には『あなたの忠節な愛*は命に勝る』とあります。これを詠んだダヴィデにとって、神との関わりを通して学んだところに自分の命を超える神の愛の優越性があったのでしょう。人にとって神との関係というものが命にさえ勝るものであることをこの句は端的に語っております。(詩篇第63:3)*(ヘセド「不変の慈愛」)

創造神にとっては人を復活させ永遠の命をもたらすことさえ問題ではありません。問題となるのは、「その人が神に対してどう関係するのか」というところにあり、自分が救いを受けて存在を確保しようとするところにはけっしてありません。それはむしろ自己中心的な態度であり、生死を超越する神を本当には信じていないかのようではありませんか。

メシアを目の前にしながら信仰しないユダヤ人に、イエスは『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書がわたしを証ししているのだ。』と語られましたが、その人々の動機がそこに指摘されています。彼らの心は神よりは自分に向いていたというべきでしょう。(ヨハネ福音書5:39)
彼らは自分のために神を崇拝していたことが暴露されていたと言えますが、これは他の宗教であってもそれぞれに起っているに違いありません。それこそは「ご利益信仰」というものです。

メシア信仰が伝えられたときのユダヤ人の反応から学ぶところに重要なものがあります。
彼らはモーセの律法を守ることが善であり、神との良好な関係を意味するものとしてきました。
しかし、メシアが現れ奇跡の数々を行ったときに、人々はふたつに分けられましたが、その抜き差しならないメシアの論議に神の介在が見えています。(テサロニケ人への第一の手紙2:15-16)
当時のユダヤ教徒にとって、ナザレのイエスをメシアとして受け入れるためには、その到来を悟る価値観と自分の想いを調整する心の柔軟さが求められたと言えるでしょう。

そこで各個人は試みの篩いに掛けられ、頑なにならせる様々な誘惑が生じました。それは地位や面子や既得権などであり、生業や交友関係までも影響を受けざるを得なかったことも多々有ったことは容易に想像がつきます。そこで彼らは誘惑に遭い自分がどんな者であるのかを試されたのです。激しく反対する人もあれば無反応な人も結果としては同じであったでしょう。
そこで問われたのは「神と自分をどう見做すのか」ということであり、自分の都合を離れメシアの現れを客観視し、真価を判断できなければなりませんでしたし、さらには必要な応じ、自己犠牲の精神も求められていたのです。

イエスは神の王国を真珠に例え、価値を悟る目利きの商人は、『高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う』と語られました。(マタイ福音書13:46)
使徒言行録の弟子たちはまさしくその価値を悟り、描かれるそれぞれの土地の人々がそれぞれに協働出来ることを行いましたが、出来ることさえ行わないのではありません。福音が何を意味するのか、どれほど価値のあることかを悟っていたことは間違いのないことです。特にパウロやバルナバのように召命に従ったとはいえ、生涯を諸国民への宣教に費やしたのもキリスト・イエスに倣う行動であったのです。
パウロは手紙でこう書いています。『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで生き返った方のために生きるためである。』(コリント人への第二の手紙5:15)





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