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2018年『主の晩餐』

2018.03.18 (Sun)

本年の『主の晩餐』を行うべきユダヤ教徒によるニサン月14日が、今月29日の夕刻に近付いてまいりました。

他ならぬメシアが捕えられ不当な裁きを受け、刑死されるその一日の始まりに於いて、使徒らとの最後の晩餐はユダヤ教の過ぎ越しの食事となりましたが、そこでイエスは新たな儀礼を行い、また創始されました。

それが無酵母パンと赤葡萄酒の象徴による『主の晩餐』と呼ばれる、キリストと共なる者らが、イエスの肉に食し、血を飲むことにより、キリストの『兄弟』としての契り、『新しい契約』に入ることを表す、簡素ながら極めて意義深い儀礼であります。

それこそはユダヤの大祭司らの関わるニサン月14日と呼ばれる晩であったゆえに、イエスは祭司長派との時のせめぎ合いの中で、出エジプトという神の畏怖すべき救いの偉業の晩とその意味を重ね、『子羊』の対型となり、その晩からイエスは栄光を受け、十一人の使徒らも試練を共にした後の信頼性に到達し、聖徒の全体を、彼らの主と共に吟味する立場が約定されています。

それらは、彼らを通しての聖徒全体、即ち、真のイスラエルのこの世からの出立を指し示したと言うべきでしょう。彼らは共に試みを経て、この晩以来もはや『この世のもの』ではなくなっていたというべき理由が、イエスの言葉に現れています。(ヨハネ17:16)
やはり、パウロが言うように、『主の晩餐』は、十二使徒らをはじめとする『わたしたち(聖徒)の過ぎ越し』であり、彼らは、忠実を全うするキリストの栄光の時と共に、象徴的エジプト、即ち『この世』を後にしたと見ることができるでしょう。(コリント第一5:7)

彼らに聖霊が注がれるのは、未だ到来していない主の死と復活から50日後のことではありましたが、キリストと共に「十二使徒」が他の聖徒らより早く、天に召されることが揺るがないこととされ、実際に後に補充されるマッティアス共々、死に至るまで主に従い契約を全うしたことが史料に伝えられています。彼らはそうして『世を征服した』と言えましょう。(ヨハネ第一5:4)

彼らを含め、聖徒の全体は、無酵母の『罪なき』キリストの体を共にして霊への復活を待つものとなり、赤葡萄酒を飲み合い『新しい契約』に入ることで、キリストの血によって『サラの子』となり、アブラハムの嫡流、そしてダヴィドの血統を共に継ぐ者と見做されるに至ります。(エフェソス2:13)

それこそは、真のイスラエルであり、我々この世の隷属にある諸国民に対するただ一条の希望の光であって、なにものにも代えることの出来ない人類の最も貴重な『真珠』、『神の王国』であります。


この王国の到来については、他ならぬキリストであるイエスが、一度天に去った後に不定の将来に雲と共に戻られることを使徒らに何度も語っています。

あるときには、諦めずに祈るべきことを不義の裁判官を悩ます寡婦の例えを話つつ、『しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか』と最後に付け加えて言われました。(ルカ18:8)
これを、キリストの終末の臨御に相当するものとして捉えるなら、この一言は臨御の後に現れる聖徒たちの信仰について言われているとは思えないところがあります。
なぜなら、まるで信仰の無いところにキリストが聖霊を与えることは非常に不合理だからです。聖徒以前に信仰がなければなりません。
その人は、けっして「聖霊は自分にある」などと思ってはいないはずです。そうでなければ、聖霊を切に求めもしないからです。『求め続け、敲き続けるなら・・聖霊を与えられる』とは、キリストの言葉であるのです。

確かに、キリストが地に来られ奇跡を行うことにより、ユダヤの人々から信仰が起こされたのであり、そこでは聖霊が先にあり信仰が後から付いて来たとも云えそうです。
しかし、当時にはバプテストが先行し、ナザレのイエスがまず存在していました。この二人の儀礼により『罪』なき者への聖霊は、史上初めて地に降っています。即ち『水と霊から生まれる』、神の王国への誕生を遂げたことが知らされているのです。

また、この点では、バプテストの声に聴き耳を立てていた、ガリラヤの漁師アンデレとヨハネの行動には注目するべきものがあります。彼らには律法と預言者らの言葉を手繰り出すだけの関心があったうえでのことです。彼らは当時の宗教的環境に慢心してはいなかったのでしょう。

そして今日、人々にはこれらの事象を書き含めた、永きに亘る神の経綸の集積である聖なる書が与えられています。
今日の人々は聖霊の奇跡を見てはいません。しかし、目に見えずとも、エデンの古からの神の偉大な足跡を辿り、キリストやその使徒らの言葉を通して、旧約の言葉に如何に人間の達し難い事柄が有ったか、また、超絶的なほどに高みにある神の知恵と、絶える事の無い神の意志の歩みの大きさ歴史の長さには圧倒されることを覚えずにはいられません。
その驚異的な経綸を前にして、人は本当に信仰を懐かずに居られるものでしょうか?

やはり、今日に聖霊が注がれていなくても、キリストの到来を求めるに足る信仰を懐くことは可能であり、また、丹念に神の意図を探ろうとするなら、その驚くべき経綸を見出すことは誰にもできることでしょう。ただ、何等かの利己心を懐き、聖書を結論有きとして読む、即ち『自分の腹』を神としなければのことです。

また、ルカは福音書においてイエスの言葉をこう記録しています。
『「腰に帯を締め、篝火を灯していなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を敲くなら、直ぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。』(ルカ12:35-36)

これは主人であるキリストの帰還を指し、そのときが深夜以降になることも示唆しています。
では、今日主人が戻って扉を敲くなら、誰が覚醒していて、その扉を開いて主人の飲食の用意の出来た部屋に案内できるでしょうか。
そのような待機は信仰がなければ出来ないことであり、キリストの帰還が何を意味し、聖霊がどんな役割を果たすか、また聖徒らの立場がどのようなものかを理解していないで『目を覚ましている』ことにはならないでしょう。

しかも、まさにこのイエスの下命が誰に対するものかをペテロが尋ねているにも関わらず、珍しくイエスはお答えになりませんでした。(ルカ12:41-)

ですから、聖霊の注ぎの意志をキリストが持ったとしても、『この世』が終末に入る以前に、このキリスト教の最重要な儀礼とされる『主の晩餐』を、その本来の意義に於いて行っている者が地上に一人も居ないのであれば、『この世』の終末を画する『聖霊』の注ぎがどうして起こるものでしょうか?
それでは、人類はいつまでも『この世』の過ぎ越しを行えず、『罪』の隷属から解かれる機会は遠退くばかりです。

もちろん、『キリストの臨御』や『終末』が何時始まるのかを知る者は誰もおりません。
それはダニエルに示された七十の週の最後の半週1260日が残されており、『契約が固く結ばれる』というその期間がいつ再開され、再び契約に与る聖徒が現れるかは、魂の創造とすべての魂の裁きにも関係した、創造者だけが知り得る全くの秘儀だからです。(ダニエル9:27)

それでも、人類の野放図な経済活動のため、地球の環境にさえ変動が憂慮されているこの時代について鑑みるなら、それはそう遠くないとしても的外れではないでしょう。
同じくダニエル書の終り近くに記されている二大世界覇権のせめぎ合いの条件が著しく整いつつある昨今の情勢からしても、神の経綸に敏感な人をして、何事かを感じずに居られるものでしょうか。

聖徒らは、その二つの権勢の間でエジプトのモーセとアロンに比肩する、いや、それを遥かに超える偉大な証しを達成し、人類を『この世』から導き出す神の業の前半を地上で荷うのであれば、どうしてこれに賛同し、支援せずにいて良いものでしょうか?
それも自分が救われたいから行うのではありません。神の意志に賛同し、また協働しようとするからであります。
これは、神の善意とキリストの自己犠牲に気付いた者にとって他人事ではありませんし、放置してはならないことです。(マタイ25:40)

わたくしの拙い文章であっても、聖書に存在していながら世に誤解され、また気付かれて来なかったその真意に価値を見出された各地のみなさまに、能う限り『主の晩餐』をユダヤ人の過ぎ越しに合わせ今月29日の晩に行われますようお勧めしたく存じます。それこそは、使徒ヨハネに従った原始キリスト教十四日派が行っていたことであり、初代の弟子らの儀礼を再興することであります。

この儀礼を行うのは難しいことではなく、各家庭や、都合の付く屋内であればどこでも行えます。
無酵母パンの製法はこちらにあります


また、わたくしは東京都板橋区にて、挙行する予定でおります。
ご一緒できるようでしたらこのブログのメッセージ機能なり、右覧に呈示してありますE-メールアドレスをご活用いただきご連絡ください。

なお、挙行に関連した質問をいただきました。
ほかのみなさまにも参考になればと思い、以下に問答を記します。

Q:赤葡萄酒はどのようなものが良いか?
A:できれば、混じり気の少ないものが良いでしょう。
近年は酸化防止剤も含まない安価なものが広く市販されています。
また、キャンティのような混醸された『混ぜ合わせた酒』が相応しいかと云えば、難しいでしょう。
わたしは以下のものを用いる予定でおります。
Vini_Fur_Abntml.jpg
- これは例であり、宣伝目的はありません -
(参考までに;古代の葡萄酒は相当に甘口であったという記述を読んだことがあります)

Q:式を行う時間帯は?
A:日没から幾らか経った時分(およそ7時以降)が良いでしょうし、キリスト捕縛当夜の状況からすれば、遅くとも真夜中には終わっているのが良いでしょう。
時間そのものも規定はありません。表象物を机に置いてからヨハネ福音書の一章を読むだけでも30分くらいにはなるでしょうか。
わたしは例年、古来の方式で主の晩餐を行う旨を祈ってはじめてから45分から一時間くらいで終ります。
(ユダヤ教では三番星を見てから日付が変わったと判断するそうです)

Q:パウロが教えるように、事前に食事を摂るべきか?
A:コリントスのエクレシアに向けたパウロの助言ですね。
ユダヤ系の人々とギリシア系の人々が混じって(7:18/10:31-32)、この時代では、まだユダヤ教古来の「過越し」と「主の晩餐」とに認識の混乱があり、過越しでは四盃葡萄酒が飲まれましたし、既に羊肉をたっぷり食していたのでしょう。律法の「過ぎ越し」として「主の晩餐」を行おうとすると、まず「過越し」の羊を食べ、四盃目の葡萄酒に与るところからを「主の晩餐」とするので、それから集まりに来たユダヤ教由来の人々は、もう『酔っている』ことになります。他方でユダヤ教の背景のない人々は、「主の晩餐」にだけ与ろうとして『空腹で集まってきた』のでしょう。

これは「どちらが正しいか」を主張するようなもので、不一致を助長するばかりでしたから、パウロは各自が家で食事を済ませて来るようにと言っています。
この助言の趣旨に従うなら、「主の晩餐」の前に自分の夕食は適度に(軽めに)済ませておくのが良いでしょうし、それは式の最中に「腹が鳴る」ようなことを避けることにもなります。

Q:無酵母パンと葡萄酒の残ったものを試食、試飲することには問題ないか?
A:当日以外であれば、まったく問題ありません。
また、式時間以外の他者が関わらないところで、試食、試飲することさえ本来は何ら問題にはなりませんが、誰かに見られてつまずきを与えるようなら、それはしないに限ります。(コリント第一8:13)もしお一人であれば、ご自分が納得される事は自由です。(ローマ14:22)

良く焼いたパンはまったく美味しいものではありませんので、その禁欲性が味わい知れるでしょう。
万一全粒粉が入手できない場合は、普通の小麦粉に代替しても可です。無いのですから仕方ありません。
他方では、少し凝ってスペルト小麦などにするほどの事も本来は不必要でしょう。(儀礼に凝り始めると罠にもなります)
赤葡萄酒の残りは、後で私用に供しても何ら関わるところにはなりません。

(ただ、式に用いた分は、飲まずに注ぎ出して処分するのが「契約」への敬意に相当するでしょう。それは本来は聖徒が飲むべき分であったからで、それはパンも同様です。そしてその「契約」もすべての人に益をもたらす貴重なものだからです。)


各地のみなさまと共に行う『主の晩餐』が、神とキリストの目に留まりますよう祈念いたしております。

エイレナイオス


-ご報告-
4月15日現在で
青森県一名
宮城県一名
埼玉県(3か所)八名
東京都二名
大阪府一名


趣旨にご賛同くださり同じ夜に挙行なさった皆さんのお知らせをお願いします。






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