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王権と祭祀権

2018.01.23 (Tue)


◆神殿の存亡

イスラエルには、ユダ族のダヴィデの家に与えられた王権の他に、もうひとつ高い権威が古くから与えられていました。それが、モーセの兄アロン以来継承されてきた、レヴィ族の祭祀権です。

モーセの時から、イスラエルの神ヤハの崇拝祭儀は荒野を移動するための天幕で行われていましたが、ダヴィデ王は、シオンの北側にある高台をカナン人から買い取り、そこに祭壇を築いて犠牲を捧げ始めます。その高台はユダヤ人から「モリヤ」と呼ばれ、ダヴィデ王はエルサレムに隣接するこの土地に神殿を建立することを願い出ます。

しかし、ダヴィデは戦いで多くの血を流してきたために、聖なる神殿を建立し奉献することは、その子ソロモン(平和の君)に譲ることが神によって定められますが、神殿の姿を見る機会のなくなったダヴィデは、それでも失意することなく、資金や建設材料を準備し、またエルサレムに移した祭祀を行う天幕でも、賛美の音楽や旧約聖書にある「詩篇」に収められている歌の数々を新たな崇拝方式に定めましたが、後の神殿での管弦楽を伴う工夫を凝らした大合唱は他国が羨望するほどのものであったとの史料も存在しています。(歴代誌第一22:2-16・25:1)

ダヴィデの子ソロモンは、王位を継承し民を治めるに際し、神から栄光よりも知恵を授かることを願い求めますが、これは神の悦ぶところとなり、富の栄えも与えられるとされました。(列王記第一3:7-14)
その神殿がソロモン王のときに完成すると、ソロモンは、大祭司としてアロンの家系からザドクを任命し、以後はザドクの家系が大祭司を出すことになりました。

イスラエルはエルサレムを王都として繁栄し、エジプトさえ異例にもファラオの娘を差し出して和平を結び、各地の戦いも収束して王国は空前の栄華を極めます。その王権の栄誉も民の豊かさに裏付けられたものであり、強圧的な搾取によるものではなく、神からの知恵によるものでありました。(列王記第一4:29)
その繁栄の噂を聞いたアラビア半島の南のシェバの女王がソロモンを訪問し、その知恵と栄光に讃嘆したのもこの時代のことでした。(歴代誌第二9:1-8)


◆王国と崇拝の分裂

しかし、ソロモンの次のレハベアムの代で、十二部族の王国は二つに分裂してしまいます。その原因は、ソロモンの晩年まではその善政が続かず、民に重税を課すようになっており、また彼自身もハーレムの異国の女たちからの異教の影響に染まっていたのでした。(列王記第一11:4)
その子レハベアムは、民から負担の軽減を陳情されますが、それを退けたために、イスラエル十部族は『我々はエッサイの子孫に相続物などない』と言って、王家の血を引かないヤラベアムを王に立て別の国を興してしまいます。

こうして、北十部族の「イスラエル王国」と、南のユダとベニヤミンの二部族の「ユダ王国」に分離しました。
しかし、北の十部族がエルサレムの神殿での崇拝を続けることをヤラベアムは再統一される契機になると恐れ、エジプトのような子牛の偶像崇拝を始めさせ、領地の南北の端に偶像を置いたうえ、新たな祭司たちを任命して律法とは別の祭りまで催します。(列王記第一12:25-30)
もちろん、これがイスラエル本来の神YHWHに是認されるわけもなく、以後、北イスラエル王国にはエリヤやエリシャをはじめヤハの預言者たちが遣わされ戒められ、中にはエヒウのようにヤハの側に付く王も現れます。
しかし、異教を奉じる民の趨勢を改めるには及ばず、遂にメソポタミアの覇権国家アッシリアによって北の王国は滅亡させられ、民の多くは強制移住させられてユーフラテス川の東に送られてしまします。

それまで、北のイスラエル王国は王家が定まりませんでしたが、南のユダ王国でダヴィデ王家はその後も存続していました。
ですが、やはりユダ王国の民の様子も北の王国と変わりません。神殿では他ならぬ祭司たちによって異教の崇拝が持ち込まれていた王国末期の様を預言者エゼキエルは記しています。(エゼキエル書8:1-11)

南の王国も、最後の王ゼデキヤが新バビロニア帝国によって王座から引き下ろされると、遂にダヴィデの王統もそこで一度途絶えることになります。それはユダ王国でさえ律法から大きく逸れ、契約を守らなかったことの報いです。
しかし、ダヴィデの一族は命脈を保ちナザレ人イエスに至ります。また、双方の国に分散して住んでいた、崇拝に関わるレヴィ族祭司も絶えませんでした。それはイスラエル=ユダヤに訪れる「回復の預言」の成就を可能とするものとなってゆく礎となります。

後に再建される第二の神殿には、彼らの系図も保管され、キリストの弟子たちの頃まで確認することができました。
マタイ福音書とルカ福音書は、今日ではユダヤ人の間でも失われてしまった貴重な二系統の系図をそれぞれ引用していて、マタイ福音書の系図はイエスの父ヨセフに至る家系の、ルカ福音書の系図は、ソロモン後にレヴィ族を経由する母マリアへの家系を記しているものと思われます。後に現れるイエス・キリストの父方はダヴィデのユダ族ですが、母方はレヴィ族の系統らしく親族が祭司職であったことが記されています。(ルカ福音書1:5・36)

歴史をさかのぼって、ソロモンが建立した神殿について見ると、ソロモンの子孫の王たちの愚かさと、イスラエル民族の放埓で異神をさえ崇拝するほどの律法不順守が続いたため、遂に神殿はエルサレムの街と共に新バビロニア帝国によって破壊されてしまいます。
北のイスラエル王国は、その以前にアッシリア帝国に滅ぼされていて、民は各地に散らされ、代わりにメソポタミアの住民が移植され混血し、同じくイスラエルの神を畏れるようになった『サマリア人』が形成されてゆく途上にありました。(列王記第二17:24-28)

やがて、アッシリア帝国も退潮し滅んでしまいます。そこで脅威を受けていたユダ王国は一息つけたと思う間もなく、新興の新バビロニア帝国の脅威が臨み、やがてユダ王統もバビロニアの大王ネブカドネッツァルの軍に命脈を断たれ、占領の翌月には聖都エルサレムは神殿と共に焼かれ、城壁も随所で崩されていまいました。(エレミヤ書52:4-14)

こうして、ユダ族の王権は絶え、モーセの律法に従った祭祀は不可能となったばかりか、住民は強制移住させられ、その後シオン山は人の住まない廃墟とされてしまいました。それは恰も出エジプトの以前に戻ってしまったかのようであり、約束の地はイスラエルを『吐き出す』とモーセが予告していた通りになってしまいました。(レヴィ記20:22)
これらの災いは、ユダ王国も律法に従わず、神の目に悪を行い続けた酬いであることが、ずっと以前から預言者らを通して警告されていたことでした。(エレミヤ書6:16-19)

しかし同時に、神は何人もの預言者らに、イスラエルの民が『約束の地』と『エルサレム』に戻されることを予告していました。(イザヤ書52:1-9/エレミヤ書16:15・50:17-20/ゼカリヤ書8:11-13)

これは「回復(慰め)の預言」と呼ばれていますが、それは実際にイスラエル民族の上に成就して、彼らは再びこの土地を得て戻ることになります。
預言者エゼキエルは『主なる神はこう言われる。わたしはイスラエルの子らを、彼らが行っていた国々の中から取り、周囲から集め、彼らの土地に連れて行く。』(エゼキエル書37:22)

この預言より二世紀早くイザヤもこう預言していました。
『わたしは北に向かって引き渡せと言い、南に向かっては留めるなと言う。わたしの息子たちを遠くから、娘たちを地の果てから連れ帰れと言う。』(イザヤ書43:6)

そしてこれらの言葉はその通りに成就してイスラエル民族は約束の地に再び住むことになります。
しかし、回復の預言の中には幾らかの謎も含まれていました。

エレミヤはこう預言しています。
『わたしが立てる王ダヴィデに仕えることになる。』(エレミヤ書30:3・8-9)

これは以後、ユダヤ人に謎を残していました。
なぜなら、ダヴィデの王統はその後回復されず、いまだに存在しないからです。

では、それは預言が外れたというだけのことなのでしょうか?




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メシアへの歴史

2018.01.15 (Mon)

◆裁き人の時代

エジプトを出たイスラエルは、不信仰な世代が過ぎ去るまで、合計で40年の間荒野をさまよい、モーセの後継者ヨシュアに率いられて『約束の地』カナン(パレスチナ)に入植を始めます。ヨルダン川の西に入ると、過ぎ越しの日からマナの供給は終わり、『乳と蜜の流れる地』とも呼ばれる、肥沃な『約束の地』の実りから食物を得るようになりました。(ヨシュア記5:10-12)

ヨシュアはパレスチナの征服に着手しますが、和を乞う個人や城市には手を下さず、却ってこれを保護し危機から救い出し、神もそれを助けます。こうして救われたカナン人の娼婦ラハブもキリストに至る系図に含まれています。(ヨシュア記2:9-21/マタイ福音書1:5)
支配下に入ったカナン人には、イスラエルの神ヤハの崇拝の補助を委ねますが、それは彼らをカナンの神への崇拝から離れさせるものとなりました。その後、この人々は『ネティニム』と呼ばれ、以後、永きにわたりイスラエルの神殿祭祀に欠かせない外人補助者となります。(ヨシュア記9章)

しかし、イスラエルは人心供儀を行うカナン人をすべて追い払うことはできず、イスラエルはカナン人の城市を幾らか残しましたが、以後、それは異教崇拝の罠ともなってしまいます。(士師記2:1-3)

以後、レヴィ族の行う祭祀を中心にしつつも、イスラエルの他の十二の部族は、それぞれに地域を得て律法に従いつつ、ゆるやかな部族連合を形成して過ごします。
強い外敵の攻撃に遭うと、どの部族からともなく統率力に優れたリーダーが現れ、神の助けの内にイスラエルを救ってゆきました。
こうした指導者は『士師』(ショフティーム「判事」)と呼ばれ、その中には、300人で大軍を敗走させたギデオン、娘と共に神への誓約を守ったエフタ、怪力で知られたサムソンなどの人物で知られます。最初の裁き人から12人の指導者が起こされ、それらの活躍の記録は「士師記」または「裁き人」と呼ばれる旧約の一書に収められています。その期間は200~400年ほどに及んだものとの諸説があります。

イスラエルが神ヤハとの契約に忠節であるときには、モーセの言葉の通りに、神は彼らを保護します。(申命記28:1-2)
しかし、イスラエルは地中海側のエジプト方面に、鉄器を使う強力な民族の圧迫を受け続けます。(申命記2:23)
地中海のクレタ島から植民していたと伝えられるそのフィリスティア人は、聖書の系図によると元々はハム系エジプト人の遠い親戚であるようです。中東の「パレスチナ」という地名はこの民族に由来しますがこの民族は現存していません。(創世記10:14)
この民族が、現在のパレスチナ南西の沿岸のガザ地区に住んで、長くイスラエルを脅かす王国となっていました。

イスラエルの周囲には、カナン系の諸民族のほかに、アブラハムの甥ロトの子孫であるモアブ人とアンモン人が東方の高地に住み、南方にはイサクとは腹違いの兄弟イシュマエルの子孫であるアラブ人と、ヤコブ(イスラエル)の双子の兄弟のエサウの子孫であるエドム人が住んでいて、これらアブラハム系の別の民族からの圧力をイスラエルは受けることが度々ありました。(申命記2:5・19)

北側はシリアに面していますが、そこはイスラエルにしばしば敵対するシリア人の土地であると同時に、メソポタミアからの入り口となり、その地の覇権国家が南下する経路でもあったので、後にはアッシリアとバビロニアが『北からの脅威』となって押し寄せることになります。(エレミヤ書1:14)

パレスチナの西側は、地中海に面する海岸ですが、その北側にはアルファベットの考案者として知られる商業の民、フェニキア人が住みついており、海岸沿いには、北からはメソポタミアから、南からはエジプトからの往来する『海の道』が縦断しています。

このように、イスラエルを巡る環境は、常に諸国民と隣り合わせであり、勢力図が塗り替えられるに従い、その影響に翻弄されることになります。


◆王の時代

そこでイスラエルも王を持ち、軍隊を組織することを願うようになり、遂に年長者らは預言者サムエルに王を立てるよう願い出ます。(サムエル記第一8:19-22)
イスラエルの神YHWHはその要望を受け入れ、サムエルにベニヤミン族のサウルの頭に香油を注ぐように命じます。(サムエル記第一9:15)
この香油を注ぐという行いは、その人を任命することを意味し、その人は「油を注がれた人」と呼ばれます。それが「メシア」であり、ギリシア語では「クリストス」と訳されます。

こうして、イスラエルの王権が始まりを見ることになりました。
しかし、最初の王サウルは神の前に忠実には行動しなくなり、神は心に適う別の人物への任命をサムエルに命じました。(サムエル記第一15:22-23)
サムエルは、ユダ族の領地であるベツレヘムに向かい、ユダ族のエッサイという父親の末息子のダヴィデに香油を注ぎます。(サムエル記第一16:4-15)
その後、いまだ少年であったダヴィデは、たまたま訪れた戦場で、フィリスティアの巨人の豪傑ゴリアテに立ち向かい、両軍の見る前で投石器の一撃で倒してしまい、一躍その名が知られるようになります。(サムエル記第一17:41-51)

王として油注がれたサウルは、優れた活躍を見せるダヴィデの存在を怖れ、やがてその命を狙うようになり、その後ダヴィデはサウルの死まで放浪生活を余儀なくされます。

サウルがフィリスティアとの戦いで戦死すると、イスラエルはダヴィデに王となるよう求め、こうして王権はベニヤミン族からユダ族へと移りました。ダヴィデは支配地域を大きく広げ、アブラハムに示された土地のほとんどを手に入れ、イスラエルの最大版図に至ります。
ダヴィデ王は、やがてベツレヘムの10kmほど北のベニヤミン族の領地との境にあるカナン系民族のエルサレムという城市を攻略します。
この街は、『シオン』と呼ばれる小山の上に建てられた難攻不落の要害であったために、ダヴィデの時代までイスラエルに占領されることなく残っていましたが、王となったダヴィデは、この街を手に入れてイスラエルの首都とし、王宮を移しました。

こうしてエルサレムは、初めてイスラエル人の街となりましたが、それはキリスト前1000年頃のこととされています。
エルサレムに王宮を築いた後、ダヴィデは自分ばかりが立派な住まいに居て、神の崇拝が引き続き天幕で行われていることが不釣り合いに思い、神に神殿の建立を願い出ました。
しかし、神は天幕住まいに不自由はないと答えられますが、ダヴィデの申し出を喜んで受け入れ、彼のためにご自分も「家を建てる」と言われます。それは宮殿のことではなく、ダヴィデの家系が代々つづく永遠の王家とするという意味でこう言われます。『あなたの家、あなたの王国は、あなたの行く手に定めのなく永く続き、あなたの王権は定めのなく永く堅く据えられる』(サムエル記第二7:16)


◆ダヴィデの王座に就くメシア

ダヴィデの子孫からは500年ほどの間に、20人が王として即位しましたが、最後のゼデキヤ王が新バビロニア帝国の大王ネブカドネッツアルに廃されて以降、誰も王位に就いていません。そればかりか、王国そのものが設立されて来なかったのです。
時代が降り、ヘレニズム期の前141年から、そのときの宗主国セレウコス朝シリアから独立を勝ち取り、以後ローマ帝国の介入を受けるまで78年の間、ユダヤ人が自国を支配したことがありましたが、その王統はレヴィ族のハスモン朝であって、ダヴィデの王統ではありませんでした。もちろん、今日のイスラエル共和国もダヴィデ王家とは関わりがありません。

しかし、ユダ王国の預言者イザヤは、将来のダヴィデの子孫による支配を予告していました。
『ひとりの嬰児がわたしたちのために生まれた。ひとりの男児がわたしたちに与えられた。権威がその肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。 ダビデの王座とその王国に権威は増し加わり、平和は絶えることがない。王国は正義と恵みの業によって、今もそして定めのなく永く立てられ支えられる。万軍のYHWHの熱意がこれを成し遂げる。』(イザヤ書9:5-6)

ここで預言されているダヴィデの王座に就く人物を、ユダヤ人は待ち望んできましたし、それは今日も変わりません。彼らは、ダヴィデのように強大な王としての「メシア」の現れを期待してきました。
確かに、YHWHはダヴィデの家を『定めのなく永く堅く据えられる』と言われていましたから、バビロニアに倒されてしまったままではダヴィデへの神の言葉は終わらないはずです。

そこで、ユダヤ人に向けて最初はヘブライ語で書かれたというマタイ福音書が、家系を追う部分から始まっている理由があります。
それはアブラハムから始まり、ダヴィデとその子らをヨシア王まで記し、その後の四人の王をエコニヤと兄弟たちと述べています。その最後がゼデキアですが、その前の王エコニヤ(エホヤキン)はシャルティエルという子を設けており、さらに捕囚になったバビロンで孫にゼルバベルが生まれます。このゼルバベルが、ペルシア帝国のユダヤ知事として有志のユダヤ人を率いてパレスチナに戻り、エルサレムに神殿を再建した人物です。

その後もダヴィデの家系は続いて、イエスの母マリアを娶ったナザレ村の大工ヨセフに至っています。
イエスの出生は、東の彼方のメディア人の魔術師であるマゴイ族の祭司らに知られるところとなり、この占星術に導かれた三人の博士は、当時のユダヤを治めていたエドム人の支配者、晩年に至って猜疑心の塊となっていたヘロデ大王の許に向かい、お生まれになったユダヤの王はどちらにおられるかと尋ねます。

ヘロデは自分の王位を危うくしないためにその子を殺そうとし、聖書の預言からメシアがベツレヘムから来ると知ると、その地の二歳以下の男児を尽く剣にかけて除き去るという凄惨な命令を下しますが、ヨセフは夢で警告を受け、エジプトに逃れた後、ヘロデ大王の死を知ってから、パレスチナ北部のガリラヤ州の田舎で、目立たず質素に大工で生計を立て、ナザレという村に住み着くことになりました。

イエスはこの地で成長したので、『ナザレ人イエス』と呼ばれますが、ダヴィデの家系を継いでいて、その『定めのなく永く立てられ支えられる』王座に就く権利を有していました。
ですから、イエスをメシアと信じたユダヤ人たちが『ダヴィデの子よ!』と叫んだ場面があるのも、メシアが正統な王となることを知ってのことで、奇跡を行う『ナザレ人イエス』がその人であると信じたのです。(ルカ福音書18:35-39/マタイ福音書21:1-8)
またイエスの弟子たちが『主よ。今こそ、イスラエルのために王国を再興してくださるのですか。』と期待して尋ねたのも、そのメシアの王権を認めていたからにほかなりません。(使徒言行録1:7)

しかし、イエスは弟子たちにこう答えます『父が御自分の権威をもってお定めになった時や時期は、あなたがたの知るところではない。』(使徒言行録1:8)
それから弟子たちは、イエスが地上を去って天に昇ってゆくのを最後に見ます。

旧約の詩篇にはこうあったのです。
『YHWHはわが主に言われる、「わたしがあなたのもろもろの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右に座せ」と。』(詩篇110:1)

また、天に去ったイエスについて、使徒のペテロはこう述べています。
『イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。』(使徒言行録2:33)

ですから、ダヴィデに約束され、イザヤが預言した「とこしえの王」であるメシアは、その王座に就く時を神の右で待っているのであり、王として立つときは「終末」というこの世の裁きの日となるのです。将来を暗示する聖書の最終巻である黙示録には、威光にあふれ、騎乗して乗り進むメシアの姿が描かれ、『王の王、主の主』であることを記していますが、これはまだ実現していません。(黙示録19:11-16)
将来に実現するその王権の強大さは歴史上に例のないものとなり、ダヴィデ王統のメシアこそが世界を果てに至るまで統べ治め、定めない時に至る平和をもたらすこと、それが新旧の聖書のそろって予告するところとなっているのです。(詩篇2:8)

過去に起り、聖書に記された事柄は、将来に実現することの影となっており、パレスチナという地域を超えて、全世界を含む神の偉大で圧倒的な将来の行いを予め知らせる「予型」となっています。それは人が信仰を働かせる根拠となるもの、また聖書が徒ならぬ書であることの証しともなって、人知を超えた「聖性」を備えた神の言葉であることを読者の価値観に訴えているのです。





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誤解されてきた天国と地獄

2018.01.03 (Wed)


◆地獄と誤解された『火の池』

キリストの死は、神への忠節を証明することになり、それは創造の神がすべての被造物からの忠節を受けるべき方であることが示されました。
つまり、キリストが死に至るまでの忠節な愛を示されることによって、神の立場は創造界に於いて至高のものとされたと言えます。キリストが『神の初子』であり、被造物の筆頭であればこそ、その忠節は他の者の反論の一切を封じることができます。(フィリピ人への手紙2:5-11)

しかし、キリスト・イエスがその忠節な愛を通して成し遂げた意義深いことは他にもあり、その裾野は創造界全体に行き渡るほどのものとなりました。
使徒パウロは、そのひとつを挙げて、こう書いています。
『それは、ご自分の死によって、死をつかさどる者、つまり悪魔を滅ぼし、死の恐怖のために生涯奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。』(ヘブライ人への手紙2:14-15)

また、キリストの死は、サタンの滅びの根拠ともなり、エデンで語られた『女の裔』『かかとを砕かれ』ながらも、同時に『蛇の頭を砕く』正義を得ます。サタンはイエスをも聖書の言葉を用いてまでして誘惑しましたが、これはことごとく退けられ、『神の子羊』は屠られる道をまっすぐに歩まれ、サタンの反論はイエスについて何一つ意味を成さず、かえってキリストを清め、刑死させることによって最高度の義を与えさせてしまいました。(マタイ福音書4:1-11)

しかし、キリストの道を歩むことは容易な事ではなく、『頭を横たえるところもない』ほどの旅の生活をしながら、多くの人々の窮境を顧み、絶えず反対する宗教家の敵意ある反論に直面しつつ、同時に人々の誤解や弟子たちの悟りの遅さをも忍ばねばなりませんでした。そのうえユダヤの体制は最後までイエスをメシア=キリストとして受け入れなかったのです。

そのなかにあっても、主イエスは最後まで忠節の歩みを止めることなく、磔刑の木に付けられて最期を迎えました。
キリストとしてのその生涯により、神から離れて利己的に生きるサタンの立場はまったく否定され尽くし、もはや、被造物が神に忠節であるべきことに反論する余地なく、もはや蛇は『頭を砕かれる』つまり、サタンとそのの道を行く者の滅びは確定されています。(創世記3:15/ヨハネ福音書12:31)

しかし、現在も神から離反した「この世」が依然として終わらずにいて、未だに裁きに至っていないのは、創造の神が『生めよ増えよ、地に満ちよ』と人間に命じられた、創造の業がいましばらくの時を必要としていて、すべての魂が出揃っていないからでしょう。

しかし、いつの日かすべての人々が裁かれなくてはなりません。
その時には、エデンの二本の木のように誘惑者がすべての人々を試す必要があり、サタンはその邪悪さにも関わらず神に用いられ、すべての魂の忠節な愛を試すために誘惑する重要な役割を果たし、人々を二つに分ける裁きに誘惑によって貢献する必要があります。

このように邪悪な者を含め、すべてのものを神は創造されたのであり、邪悪な者がいずれは永遠の滅びに自ら向かうとしても、その存在を悪のゆえに神は用いて無駄になさることがありません。それはサタン自身が滅んで後にしてものことです。
聖書の最後の書「黙示録」には、『火の湖』(池)*が描かれます。これは「地獄」と誤解されてきたのですが、その句を見ると単なる火の地獄のような意味ではないことが分かります。*(原語「火の岸辺」)

『彼らを惑わした悪魔は、火と硫黄との湖に投げ込まれた。そこには、獣も偽預言者もいて、彼らは世々限りなく日夜、苦しめられるのである。』(黙示録20:10)
『それから、死も墓も火の池に投げ込まれた。この火の湖が第二の死である。命の書に名がしるされていない者はみな、火の湖に投げ込まれた。』(黙示録20:15)

『世々限りなく日夜、苦しめられる』との言葉からは、確かに地獄の責苦が続くような印象があります。
しかし、聖書には『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない』とあるのですから、意識の無い死者が苦しみを感じるというのが現実を指すのではなく、象徴表現であることになります。(伝道の書9:5)
確かに、火の湖で『苦しめられる』という原語「バサニゾー」には「苦悩させる」の他に「拷問する」「試金石で試す」の意味もあります。

この黙示の象徴表現である硫黄が燃える火の場所に、サタンや偽預言者らが永遠に悪例として卑しめられ、彼らを通して何が悪い事かを知らせる永遠の記念碑のようにされるという捉え方ができ、その方が理に適っています。
聖書の全体から判断すれば、『火の湖』に投げ込まれた彼らは、生き残った者たちからの永遠にわたる批難を受け続けることが、『世々限りなく日夜、苦しめられる』と表現されていると捉えるべき理由があります。

それに加え、この句で『死も墓も』投げ込まれているからには、死そのものも永遠に無くなり、それに伴い墓の必要も無くなってしまうという、神の永遠の裁きによる素晴らしい結末も予告されています。人が倫理を全く会得した後には『死の刺』は二度と存在しないことでしょう。(ホセア書13:14)

そして、硫黄の燃える場所については、イエスも何度か言及されていて、それは黙示録のこの『火の湖』の部分に理解の光を当てています。


◆エルサレムのごみ処理場

『おまえたち蛇ども、まむしの裔ども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうして逃れることができよう。』(マタイ23:33)
この厳しいイエスの言葉の中に、「ゲヘナ」という謎の一言があります。幾つかの翻訳では「地獄」と訳されていますが、元の言葉の意味は「地獄」という意味とは異なっていますので、別の翻訳では元の言葉通りに「ゲヘナ」とする方が良いと判断されたのでしょう。

「ゲヘナ」とは、ヘブライ語「ゲー ヒンノム」をギリシア語に音訳したものであり、元は「ヒンノムの谷」を意味します。
その谷とは、エルサレム南西側にある谷を指し、古代にはユダの人々がカナンの恐るべき偶像崇拝をしていた場所でもありましたが、そこでは子供の人身供儀が行われていたのです。(エレミヤ書7:30-31)

善王ヨシアは、その忌むべき習慣を嫌い、その谷を異教の崇拝に仕えない状態にし、その後はエルサレムの公共のゴミ捨て場とされました。(列王記第二23:10)
そこではごみを焼却するための火が絶えないよう、燃える硫黄が大量に散布されていましたので、あたかも永遠の火が一面に燃える地獄とも見做されやすかったでしょうけれども、そこはゴミ処理場であって、やはり責め苦のための「地獄」ではありません。

この谷には、重罪人の死体も投げ込まれていたと伝えられます。
イスラエルでは死者の復活を期して丁寧に土葬する習慣を保っていましたが、重罪人には復活さえして欲しくないという意図からのことでしょう。土葬されるにも価しないとして、ごみと共に焼却するという処置に貶められていたのです。
この事情は、イエスがゲヘナについて『そこでは彼らを食らうウジは尽きることがなく、火は消えることがない』と言われた真意を知らせるものとなっています。

そこでもう一度『おまえたちは、どうしてゲヘナの裁きを逃れることができよう。』というイエスの言葉に注目すると、イエスを亡き者としようとしていた宗教指導者らの罪は非常に重いので、ゲヘナに捨てられる重罪人のように裁かれると言っていたことになります。

『ヒンノムの谷』が忌むべきものであるとは、ユダヤ教の口頭伝承にも「ゲーヒンノムの裁き」があり、今日までユダヤ教徒も恐れるものの一つです。それはやはり「地獄の責苦」ではなく、神からの断罪、終末での決定的裁きを意味します。ですから、イエスの言葉を聞いたユダヤ人らは、その意味するものが、二度と復活の無い死であると分かったことでしょう。

使徒パウロが言うように『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』のであれば、第二の死とは、復活してさえ裁かれて決定的な永遠に死ぬことを表していることになります。(ヘブライ人への手紙9:27)
人は復活により、『墓』(ハデース)からは戻ってきますが、『ゲヘナ』からは二度と戻れないということになります。これが「地獄」と誤解される原因ともなったのでしょう。

しかし、すべての人に復活があることは聖書の明かすところでありますから、彼らが復活しないということではないでしょう。
むしろ、復活してさえ、もう一度裁かれて死ぬほどに罪に頑固であることがそこに示されていると捉えることができます。つまり『二度死ぬ』という意味です。(ユダの手紙12)

この捉え方に同意を与えるのが、『火の湖』という表現を使った黙示録では、それが『第二の死』を表すことを明言していることです。
『死も墓も火の湖に投げ込まれた。この火の湖が第二の死である』(黙示録20:14)

『第二の死』は、エデンでの『罪』の無かったときのアダムのように、復活を通して倫理的に完全で無垢な状態にされていながら、もう一度はっきりと神を否認してサタンの道に入ることを意味していて、もう、そこにキリストの贖いの余地は無いことになります。



◆「天国と地獄」と利己心

キリスト教界一般では、人は死後に天国か地獄にゆくものと教えられています。
これは、キリスト教がローマ国教化した結果として、当時のローマ帝国の大衆の信仰が混じって俗化した結果であり、それまでの欧州を中心にギリシアの宗教観(ヘレニズム)が支配していたための影響であり、天国と地獄の教えはイスラエル民族に元々由来したものではありません。

人が、死後に天国に行ける人と地獄に落とされる人とに裁かれるという教えのもたらすものは、勧善懲悪というところでこの世の悪行を減らす効果はあるでしょう。それは為政者にとって都合のよい教えではあります。
しかし、創造の神は『この世の神』ではなく、その体制を導いているわけでもありません。
むしろイエスが、世から蔑まれた下層の人々に寄り添ったように、神が「この世の善人」を是認するわけではないのです。

ルカの福音書の第18章には、自分が義人だと思う人と、自分は罪人と思う二人の人の対照的な祈りの例えが語られています。
義人だと思う人は、自己満足に陥っており、一方では、罪深さが赦されることを懇願する自分が罪人と思う人とでは、神の前に逆転が起ってしまいます。(ルカ福音書18:9-14)
この例え話からすれば、「地獄」に落とされないよう善行に励んだとするなら、やはり自己満足の罠にはまることになります。

また、同じルカ福音書の第16章には、「富んだ人と乞食のラザロ」の例え話があります。
そこでは、富んだ人は死後に火の中に落とされ、乞食であったラザロはアブラハムの懐に運ばれて、大きな逆転が生じます。
しかし、これらの部分で富んだ人が落とされたのは『墓』(ハデース)であり『ゲヘナ』ではありません。
また、ラザロが運ばれたアブラハムの場所は、『遠く』であっても「天」と書かれてはいません。

この例え話の意味は、イエスの当時のユダヤの宗教的事情を語ったものということができます。
つまり、『富んだ人』は宗教的に恵まれた人々、当時は実際に経済的余裕がないと「清め」に達するとされる様々な務めが果たせず、多くの貧困層はあたかも神から見放されたかのように扱われていたのですが、キリストの信仰が到来することによって、事情が大きく変わります。
それまで『地の民』(アム ハ アレツ)と軽蔑されてきた人々がイエスをキリストとして見出し、「アブラハムへの約束」に入ってゆく一方で、宗教家ら富裕層はそこから除外され、むしろキリスト殺害の悪評の中で永久に苛まされることになります。
この逆転の大きさをイエスは語られたのであり、天国と地獄があることを教えていたとは言えません。

このように、聖書が教えていると広く誤解されている天国と地獄ですが、自分が地獄に落とされず天国に行けるようにと願うその動機には、大きく欠けているものがあります。

それは神と人への愛であり、善行に励むほどに、その自分だけは救われようと他者を押し退ける利己的な動機は強まってゆくでしょう。それは自分の信じる宗派に他の人々を集めて「救う」宣教を行っていてさえ利他的とは言えません。なぜなら、その以前に自分の宗派が確実に救われるという前提が有り、どう言い訳しようと、その確信には「自己を通した救済」という思い上がった動機が必須だからです。それがどうして利他的と云えるでしょうか。

それではイエスの言われた『天に宝を積む』ということにならず、かえって自己本位になって周囲の人々を愛せず、神の意向を探ろうともせず、いよいよサタンの精紳に汚染されてゆくばかりです。『天に宝を積む』とは、利己心を捨てる事を指してイエスは語ります。それこそが神に価値をもたらすことでしょう(マタイ福音書6:19-21)

多くの宗教では、天国に行けるようにと、神の好意を得るようにと信者の善行を促しますが、それが保身目当ての利己心を煽られているという動機に関わるところまで気付かせることはけっしてありません。もし、気付かせるなら、そのような教えは初めから矛盾していて説けないはずだからです。「洗礼を受けていない人は地獄行き」であるなら、その信仰は無益であるばかりか、だれにとっても有害ではありませんか。

天国と地獄の教えは世界に広く見られ、極楽や楽園などと形を変えて様々に存在しています。
そうして、死後の幸せは、善行を積んだ信者だけが受けることのできる報酬のようにされ、そこで多くの宗教がご利益目当てを煽って信者を獲得してきました。聖書に『信じる者は永遠の命を得る』と書かれてあるとはいえ、本来その信じる対象は宗派でも教理でもないのです。(ヨハネ3:16)

たとえ、「他の人を救うために同じ宗教に勧誘するのが利他的な愛だ」というのも都合のよい偽りであり、その信者には優越感と蔑視が避けられません。それでは、イエス・キリストに激しく反対した宗教家らと同じ精神を表してしまうでしょう。

ある宗教を信じれば天国に行けるけれども、そうしなければ地獄に落ちるという教えは、生きるすべてのものを創られた公正な神を偽って伝えるものであり、信じる人々をも利己心へと誤導するものにほかなりません。





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2018.01.01 (Mon)


◆血の清め

創造の神は、生きるものの価値について、特に動物の命を聖書の中では『血』を通して特別視し、そこから人間に対して命あるものへの尊重を求めるところがあります。(申命記12:15)

イスラエルに与えられた律法の祭祀では、主に動物の犠牲が求められていました。それは、動物の命を軽視することではなく、動物の命の価値を通して、人間の命の重さを知らせるものとなっています。
彼らが、また異邦人崇拝者であっても、神を崇拝し近付こうとするときには、羊や山羊や牛などの動物を屠ることが神から求められていたのです。

創造の神が、動物の犠牲を求めるということに違和感を覚えるかも知れませんが、これが表すものは、むしろ創造者であるからこそ生命に対する価値を教えるものとなっていると言えます。

人が行う神への祭祀で繰り返される動物たちの犠牲を通して、人が神に近付くには、死による代償が必要であること、その理由としては神とアダムの子孫との間には『罪』という壁が自由な交友を阻んでいること、その『罪』とは倫理上の欠陥であることを教えているからです。
人間の不道徳性から行われた多くの悪は軽く済むものではありません。それは今日まで見聞きしている通りに巨悪というべきほどのものです。これまでにどれほどの悪が人々によって行われて来たことでしょうか。

聖書は『罪の酬いは死である』と宣告しています。(ローマ人への手紙6:23)
そして旧約聖書も『生ける者はひとりもみ前に義とされない』と言うのです。(詩篇第143:2)
そこで人は神に近付くのに「身代わりの死」を動物を通して要求されるのは、人と神の間を隔てる『罪』を考えると道理に適います。

つまり、倫理という観点からこの崇拝方式を捉えると納得できるでしょうし、アダムの子孫である人は、誰も他の人のための『罪』の身代わりには成れません。そこで捧げられた動物たちが、到来するひとりの完全な身代わりとなる人キリストの犠牲の死を指し示していたとすれば、神の先見と不変の意志とを知らされることになります。(ヘブライ人への手紙9:28・10:4)

さて、人の『罪』のための代償として動物が捧げられた証しとして神が求めたのは、動物の肉よりはその血の方に贖いの意義が重くされています。それは、エジプトを立つ前の晩に捧げられた子羊にそのことが示されています。

肉は家々で食べられても、骨を含めたその残りは火で焼かれましたが、血だけは表象として入口の柱と鴨井に塗り付けられ、それを見た天使らは、その家を過ぎ越し、長子の命を奪わなかったのです。(出エジプト記12:21-23)

それに加え、荒野で律法契約が結ばれるときにも、モーセは民に『これは契約の血である』と言って、民に雄牛の血を振り掛けていました。(出エジプト記24:6-8)

また、律法祭祀の施設や器具など必要物が整い、祭祀の始まる前にもそれらの器具類ばかりでなく、大祭司アロン自身とその職服も含めて血の浄めを受けています。(出エジプト記・29:20/レヴィ記8:23・30)
これらの血による『清め』について、後代の使徒パウロはこう語ります。
『ほとんどすべての物が、律法に従い、血によって清められたのである。血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ない。』(ヘブライ人への手紙9:22)

これらのことは、神にとっての「清さ」が何かを教えるものとなっています。それは倫理的な清さです。
つまり、医学的に見れば血液とは清潔なものではないにも関わらず、血が清めを行う理由は、人間の『罪』の汚れは死の代償なしには済まないということであり、それを律法は繰り返し教えています。(ローマ人への手紙6:23)

そこで神にとっての「清さ」とは、『罪』という倫理上の欠陥の無い状態を指すのであり、血を用いての「罪の代償」が聖書中に強調されていることになります。ですから、『罪ある人』『聖なる神』との間には、『血の犠牲』の介在が、どうしてもなくてはなりません。

また神YHWHは、民が食事で肉を食べるときにも、必ず血抜きし、その血だけは地面に注ぎ出すようにと律法で命じられました。(申命記12:24)
その理由として『肉の魂は血にあるからである。あなたがたの魂のために祭壇の上で、贖いをするため、わたしはこれをあなたがたに与えた。血は魂であるゆえに、贖うことができるからである。』とYHWHは言われます。(レヴィ記17:11)

聖書では、動物にも魂がありますので、罪ある人間の魂の代わりに、血の犠牲として神に捧げられていたことになります。『魂は血にある』からです。
そこで、人は動物の肉を食べることが許されますが、動物の魂までは食べることは許されません。本来、生きる物は全て創造の神のものであるので、確かに神は『すべての魂はわたしのものである』と明言されているのです。(エゼキエル書18:4)

そこで律法の血抜きの要求が関わっています。肉を食べても神のものを奪わないためです。
とはいえ、血液の成分の中に『魂』があるということではありません。
人はその抽象的な『魂』というものを直接に扱うことができませんから、血という具体的な物の扱いを通して初めて、神の創られた命ある物に対する所有権を尊重することができたのであり、それはキリストの血の犠牲が捧げられることの意義の重さを教えるものともなっていました。

しかしそれは、血を神聖視し、飲まないことも含め、さらに進めて輸血を含め体内に入れることを拒むような上辺の行動が創造神の本来の意図であるというのではありません。むしろ、神に創造された『魂』の価値の大きさ、また命の重みをわきまえるところに血の扱いの意義があります。
今やキリストの『罪なき血』が捧げられたのですから、神が人にどんな『血』であっても犠牲に求めることは二度と無いでしょう。キリスト以後、実際の血に関わる崇拝は明らかに過去のものです。(ヘブライ人への手紙10:11-12)



◆創造者だけが行える復活

この『魂』(ネフェシュ)という言葉は、日本語での「魂」の意味とは幾らか異なっていて、聖書翻訳する際に「命」や「思い」などに入れ替えられることもたいへんに多いのですが、この『魂』(ネフェシュ)はヘブライ語独特の意味を持っていて、別の語に置き換えてしまうと、聖書全体の理解を壊してしまうほどになってしまいます。⇒「ネフェシュ翻訳の実態

しかし、どうしても他の言葉に置き換えられない場所もあります。
例えれば、イエス・キリストがこのように言われた箇所があります。
『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。』(マタイ福音書10:28)
ここで、人の命を奪う者も、その人の魂までは殺すことができません。しかし神は、魂までをも滅ぼすことができることを教えています。

聖書には、『死んだ魂』という言葉もあります。律法の祭司たちが職務上の清さを保つために『死んだ魂』に近付くことが禁じられていました。つまり「死体」に近付くことを意味します。ですから『魂』は肉体の死と共に死ぬことになります。
では、イエスの言葉では、神は魂までも殺すことができるとなっていますが、これはどういうことになるのでしょうか。

人が亡くなると、その屍はその人の名残ではあっても、もうその人とはいえません。
鄭重に葬るとしても、そこにその人が居るというわけにはなりませんから、死は「旅立ち」にも例えられてきました。
しかし、残った人々にとっては、故人があたかも話し掛ける相手として、まだ心の中に存在するということはあるものです。
そこに関わってくるのが、聖書独特の『魂』というものなのです。

では創造を行った神が、過去のあらゆる人を『魂』としてご自身の中に所有されるのであれば、再び生かすことはできないでしょうか。
確かに『復活』こそは、特にイスラエル人が懐き続けた希望であり、人を存在させた創造神だけが成し得る偉大な奇跡です。

そこで、イエスの弟子たちの中には、イエスご自身がそうであったように、激しい迫害の中で命を落とした人々も居ます。
彼らは、確かに死にましたが、神への忠節を捨てなかったために、神はその人の魂を滅ぼさずに永遠の命を与えることをイエスは『体を殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな』という言葉によって、弟子らに注意を向けさせていたのです。

ですから、『魂』はその人の体と共に死を迎えることがあっても、神の許では滅ぼされることなく存続すると言えます。
まさにイエスが、ご自分の刑死を目前にされた中で、「復活などはない」とする人々に向かってこう言われています。
『死者が復活することについては、モーセも「柴」の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んでいる。
神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は神にとっては生きている。」』(ルカ福音書20:37-38)


この言葉聞いたユダヤの宗教家の中からも、深く同意し『見事なお答えです』と言う反応があったことを福音書を書いたルカが記しています。復活と永遠の命がユダヤ人古来の希望であったからです。
また、エルサレム近郊のベテニヤ村のマルタという平民の女も、自分の死んだ兄弟について『終わりの日の復活の時に復活することは存じております』と語っている場面が聖書にあります。(ヨハネ福音書11:24)

この世の多くの宗教では、人は死後に霊魂となり意識を保って、天国や地獄、また何らかの死者の世界に旅立つものとされていますが、そのように故人の意識が残っているという教えは、エデンで『蛇』が『あなたがたは死ぬようなことはないのです』と言った偽りの上塗りであり、アダムもエヴァも神の言われたように死んで『土に帰り』、創造の過程を逆に辿って無に帰したことは否定できるものではありません。

聖書には、死者の無意識がはっきりと『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない』とあるのです。(伝道の書9:5)

しかし、創造神の信仰に於いては、人という存在はただ消えゆくものではありません。
イエスは『あなたがたの髪の毛までが数えられている』との神の人への関心を知らせ、たとえ死んでもその『魂』はいつの日にか命を得て復活することを繰り返し教え、他ならぬイエスご自身についても、使徒ペテロは『あなたは、わたしの魂をハデース(墓)に捨ておくことをせず、あなたの聖なる者が朽ち果てるのを、お許しにならないであろう。』との旧約の言葉を引用しつつ『このイエスを、神は復活させた。そして、わたしたちは皆そのことの証人なのである。』と人々に宣言しています。(使徒言行録2:22-36)
ですから、イエスがアダムの身代わりとなって贖いの代価となったのも、そこに二つの魂が在ったからにほかなりません。



◆魂による復活

では、復活とは善人だけが受けるのでしょうか。
イエスはそうではなく、善人も悪人も復活を受けることを明らかにしています。
『南の女王が、今の世代の人々と共に裁きの時に起き上がり*、彼らを罪に定めるであろう。』(マタイ福音書12:42)*[エゲイロー]「目を覚ます」
つまりシェバの女王は、その千年も後のイエスの現れたときにキリストを迎え入れるべきであったのに退けたユダヤの世代と共に復活して彼らを断罪するというのです。

また、こうも言われます。
『ニネヴェの人々は、今の世代の人々と共に裁きの時に起き上がり、彼らを罪に定めるであろう。』(ルカ福音書11:32)
ニネヴェとは、かつて旧約の時代、イエスの時代から八百年も前に、イスラエルの預言者ヨナの警告を聴いて悔い改め、神の是認を受けた街のことを言います。

当時のキリストを受け入れず退けたユダヤの世代は共に目を覚まして起き上がるのですが、シェバの女王からも、ニネヴェの人々からも、彼らは断罪されるとイエスは予告します。つまり、善人も悪人も誰もが共に復活することになるのです。
この点では使徒パウロもこう述べています。
『義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身(ユダヤ人)も抱いている望みを、わたしも神にあって抱いております。』(使徒言行録24:14-15)

これを語った使徒パウロは、手紙の中ではこう書いています。
『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』(ヘブライ人への手紙9:27)
これは、すべての人が復活を受ける目的を教えています。
つまり、神は『すべての魂はわたしのものである』と言われてから、『罪を犯す魂が死ぬ(滅ぶ)のである』と続けて言われる理由を示唆しています。(エゼキエル書18:4)
つまり、すべての人が、アダムと同じ倫理的に完全な状態に復してから、同じように「エデンの問い」を受ける必要があるからです。そこでは、自分の過去を悔いる道も開かれることでしょう。「罪多き者は、多くを愛す」とイエスは言われます。(ルカ福音書7:47)

ですから、わたしたちの髪の毛までが数えられているという創造の神にあっては、今生きているものも、かつて生きたものも、そのすべてを『魂』として把握され、創造者であられる以上、死んでもそれをもう一度生かすことができることでしょう。
それですからイエスが、アブラハムもイサクもヤコブも『神にとっては生きている』と言われた道理があり、神はイエスご自身の『魂を墓に捨て置かれず』復活させて『死の眠りについた者の初穂』とされたと言うことができるのです。(コリント人への第一の手紙15:20)

ですから、人は生きていようと死んでいようと『魂』であり、すべての人が神の所有権の内に保たれていると言えます。
どれほど悲惨な生涯を送ろうと、どれほど短い命で終わろうと、ひとたび創造された人がそのまま終わるとは言えません。
復活によって、人の善悪も立場も関わりがなく、誰もが神の栄光を受ける日が必ず来ることを聖書は知らせます。
この復活によって、あらゆる人が栄光ある姿に復されるときに、創造を行われた方のみが行える偉業は、何者が真実の神であるかを証しするものとなるでしょう。(エレミヤ書10:11)

他方で、人間はこの世での存在のはかなさから、死後も命や幸福を得ようと躍起になり、様々な宗教にすがって神の善意を得ようと、善人を演じたり敬虔を装ったりしてきました。
また、そのような『滅びへの奴隷状態』にある人々の不安を利用して、宗教家たちが活躍し、信者には天国行きなどの死後の幸福を請け負っては自らの生計を立ててもきたのですが、そのすべては創造の神に在っては全く無用です。神の『魂』の所有権は、どんな人間の教えの言葉に勝る保証であるからです。(ローマ8:20-21)

キリストの血の犠牲が捧げられ、アダムの子孫のすべての魂は神に買い取られている今、これまでに存在したすべての人が、ことごとく神の手の中に『魂』としてしっかりと握られているのです。
ですから、たとえ死んでも、誰もが永遠に消え去ることはなく、必ず復活を受けることになると聖書は教えています。
そのとき、真実の神が『とこしえに死を滅ぼし、主なる神はすべての顔から涙をぬぐい、その民の屈辱を全地の上から除かれる。』との言葉が実現することになるでしょう。(イザヤ書25:8)

創造の神は、いつの日か死者に呼び掛けるほどに『ご自分の御手の業を慕われる』と聖書にはあります。(ヨブ記14:15)
そうでなければ、貴重な独り子を犠牲にはされなかったに違いないのです。














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