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仲介者キリスト

2017.11.30 (Thu)



◆神と人との仲介者


人と神との間には『罪』の壁が在って、隔てられていることは聖書中の言葉を知らせています。
かつて預言者イザヤは民にこう言っていました。
『見よ、主の手が短くて、救い得ないのではない。その耳が鈍くて聞き得ないのでもない。
ただ、あなたがたの不義が、あなたがたと、あなたがたの神との間を隔てたのだ。またあなたがたの罪が、主の顔を覆ったために、お聞きにならないのだ。』(イザヤ書 59:1-2 )

当時には、神との契約を結び、その神だけを崇拝すると約束したはずの民も、異神を崇拝し、多くの悪を行うことによって神は、彼らの祈りをも聴かないと言うのです。

預言者ハバククの書には、神についてこう語ります。
『あなたは目が清く、悪を見られない者、また不義を見ていられない方です。』(ハバクク書1:13)

また、詩篇の中でイスラエルのダヴィデ王はこう歌っています。
『あなたは、決して邪悪なことを喜ぶ神ではありません。悪者が御許に住むことも許されません。』(詩篇5:4)

これは創造の神の清さ、つまり、創造の本来の意図と、『罪』あるこの世の現実との差に、神の是認の無さを知らせています。

神は、人と契約を結んで関わりを持つときには、動物の犠牲を求めています。
それは、神と人とが関わりを持つときに、その両者の間に命の犠牲を必要としていることを教えています。
つまり、アダムの子孫は『罪』に陥っているために、そのままの状態で神に近付くには問題があるのです。
それは、尊い公職にある人が、犯罪者と親しくもなれず、まして直接に取引などを行えないことに似ています。

しかし、神はアダムとエヴァが自ら選んで不義の道に入ったにしても、その子孫は『同じ罪を犯していない』こと、罪を負って『生まれながらに、怒り(を受けるべき)』状態にあることから、救出の道を備えられました。
使徒パウロは、イエス・キリストについてこう書いています。
『 神は唯一であり、神と人との間の仲介者も唯一人であって、それは人間キリスト・イエスです。』(テモテへの第一の手紙2:5)

使徒ヨハネは福音書にこう記しています。
『神はその独り子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ福音書3:16)



◆もうひとりのアダム

この神の独り子がイエス・キリストであることは良く知られたことで、言うまでもないことですが、キリスト自身については知られていないことが実は多いのです。

一般に知るところとなると、人々の罪の身代わりとなって十字架に磔にされ刑死したこと、クリスマスに生まれたらしいこと、馬屋で生まれたことや処女の母から生まれたとされていること、世間一般の常識で知られるのは、これくらいというべきでしょうか。
ほとんどの教会では、キリストも神様と教えられますが、これは「三位一体説」をローマ国教化以来受け継いでいるためです。

こうして見ると、これほど有名であるイエス・キリストについて聖書が示すところのごく表面だけの知識、また、誤解が広められてしまって、世間一般でのキリスト像というものは、間違ったままに広く知られているところがあるものです。
しかし、イエスという人物に込められた意義のようなところはどこにあるのでしょう。

例を挙げれば、「救いの御子」と歌われるこのイエスがどのように「救い」となるのでしょうか? このように一歩踏み込んだ途端に、その答えに困ったり、様々な意見が聞かれたりするのは、これ以上なく有名である反面、知られていないところの方がよほど多いということなのでしょう。

もう少し詳しい人なら、キリストの救いとは、イエスが刑死することによって、人類の罪の身代わりに罰を受け、こうして人々が罪の酬いから解き放たれることだ、と言うでしょう。

キリストがそのように人々の『罪』の代わりとなれるとしたなら、キリストには『罪』が無いことが求められるでしょう。
罪人が罪人の身代わりにはなれません。それぞれ自分の罪を負うばかりです。
しかし、パウロはキリストについてこう言っています。
『この方は、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。』(テモテへの第一の手紙2:6)
つまり、キリストには、人類の身代わり、『贖い』(あがない)となれるだけの『罪』のない立場にあったことなります。

そこでキリストの処女からの誕生に宗教的説話以上の意味が出てきます。
もし、アダムの子孫であるなら、誰も人々の身代わりは務まりません。

キリストの誕生の由来について、天使は処女マリアに説明してこう述べています。
『聖霊があなたに臨み、いと高き者の力があなたをおおうでしょう。それゆえに、生れ出る子は聖なるものであり、神の子と、となえられるでしょう。』(ルカ福音書1:35)

この妊娠は特別のものとなられねば、生まれる子はやはり『罪』あるアダムの子孫となってしまい、キリスト(任命されて者)となる意味がありません。
しかし、これは当の処女マリアにとっても信じ難いことであったので、こう言います。
『どうして、そんな事があり得ましょうか。わたしにはまだ男を知りませんのに』
この時の天使ガブリエルはこう言います。
『神には、不可能なことは一つとしてないのです。』

つまり、マリアから生まれる子は、アダムの血統になく、堕罪前のもう一人のアダムのような人となる必要があります。
そこで処女からの誕生は、キリストを高めるための説話では収まらず、人の『罪』を負うことのできる人物、まさしく「救世主」としての役割に求められたものであったと言えます。

これにより、キリストが『最後のアダム』と呼ばれる理由ともなっています。(コリント人への第一の手紙15:45)
キリストとなったイエスは、堕罪以前のアダムに相当する『罪』のない人であったことが、そこに示されています。
それは、『ひとりの人の不従順によって、多くの人が罪人とされたと同じように、ひとりの従順によって、多くの人が義人とされる』ためであり、アダムの『罪』に向かう行いとは異なる、『義』への行いにより、アダムの子孫を導くことがキリストに委ねられたのであり、
この『贖い』が、キリスト教の最大の教えとなっているのです。(ローマ人への手紙5:19)


◆神の『初子』にして『独り子』

使徒パウロは、イエス・キリストについてこのように述べています。
『彼は見えない神の象りであり、すべての創造物の初子である』(コロサイ人への手紙1:15)

また、黙示録の中でキリストは自らを指してこう言われます。
『神の被造物の初めである者』(黙示録3:14)

では、キリストは地上に生まれる以前があったのでしょうか。
キリストに反発するユダヤ人はイエスにこのように詰め寄った場面が福音書に記されています。
『「あなたはまだ五十にもならないのに、アブラハムを見たのか」。
イエスは彼らに言われた、「確かに言うが、わたしはアブラハムの生れる前から居るのである」。』(ヨハネ福音書8:57-58)

目の前にいる三十歳ほどのイエスのこの答えを、ユダヤ人は到底受け容れることが出来ず、キリストに殺意を抱くほどでありました。

今日でも、「三位一体説」を信奉している多くの教会員にとって、キリストも「神」であると考えようとしますので、キリストが神ではなく、やはり創られたもの「被造物」であるということは受け容れることが難しいことでしょう。

しかし、聖書中のイエス・キリストは、一度として自ら神だと語ったことがありません。むしろ、常に神を『父』とし、自らを『子』と呼ぶことを習慣として『神の子』であることを一貫して示しています。(ヨハネ福音書10:36)
また、以上の聖書の言葉も、キリストもまた創られた存在であり、しかも最初に創られた被造物であることを示しています。

また、聖書はキリストについてこう述べています。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。』(ヨハネ福音書3:16)

また、キリストが『独り子』であることについては、旧約聖書の箴言の中に、神の創造の業を手伝った『知恵』(ホクマー)と呼ばれる存在がいたことが書かれていて、こう書かれています。
『YHWH(神の名)が昔そのわざをなし始められるとき、そのわざの初めとして、わたしを造られた。
いにしえ、地のなかった時、初めに、わたしは立てられた。』(箴言 8:22-23)

この言葉は、新約聖書の『被造物の初めである者』また『すべての創造物の初子』というキリストを指す句と一致していますし、創造の初子なら、けっして何人もいるわけもありません。

そのうえで、この箴言は神が様々な創造を行われているときに『わたしは、その傍に在って名工となり、日々に喜び、常にその前に楽しんだ』とも告げます。
ここから新約の福音書の述べる『独り子』の意味が示唆されています。
つまり、キリストは地に来られる以前には、最初に創造された存在者で、神と共にその創造の業を共にしているということです。

新約聖書のコロサイ人への手紙の句がこれを裏付けて、次のように続けていることはもはや決定的というべきでしょう。
『彼は見えない神の象りであり、被造物の初子です。天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、万物は御子によって造られたからです。
つまり、万物は御子によって、御子のために造られました。御子はすべてのものよりも先におられ、すべてのものは御子によって支えられています。』(コロサイ人への手紙1:15-17)


そこでキリストとは、神の最初の創造物であり、他のすべてのものの創造に携わった存在者であり、もちろん神そのものではなく、『神と人との仲介者』の役割を果たすことのできる、非常に貴重な立場にある方である、と結論できるのです。つまり、キリストには、人間から『罪』を去らせて、神との絆を取り戻させるための希望が託されているのです。

しかし、その仲介を行うのに地に来られる必要があったのでしょうか。





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宗教は『罪』から生まれる

2017.11.28 (Tue)


◆宗教を必要とする人類

アダムの子孫の全体に宿ってしまった倫理上の欠陥である『罪』は、人間社会を利己的な害のはびこる世界にしてしまったばかりか、人間と神との間も隔てられてしまいました。

そこで、もう一本の木からも食べることのないようにと、『燃えて回転する剣』という最初の権力が置かれたことは、もはや人間が神から信頼に値しない「鍵」の必要な存在となったことを、また、配置された二人のケルブたちは、人間が監視の対象に墜ちたことを物語っています。
そして、この不倫理性の隔てによって、神と人の間は引き離され、アダムの子孫は神との間に、本来なら必要のないものを新たに媒介とすることになります。

つまり、創造者と隔たった人間は、自分という存在に関わる疑問、また自分をどう生きるかについての何らかの答えが必要になり、それが「宗教」という名の、厄介で普遍的な正解のない各個人でバラバラな理念です。
たとえ無宗教を標榜していてさえ、人は自分の生き方、また神を含む他者との関わり方、つまり倫理基準を定めるところで、やはり何らかの「主義」や「思想」を持つといえます。

アダムは神と自由に会話し、その是認と慈愛の中に居ましたが、彼にとって神は現実の存在であり、信仰を必要とする状況に居たわけではありませんし、創世記で宗教的犠牲を捧げたのは、その二人の息子からであり、アダムにもエヴァにも神を崇拝する場面が一度もなく、神が彼らに犠牲を求めた記述もありません。

アダムとエヴァについては、エデンで無垢であったときには神の創造物の栄光があり、神の是認の内にありましたが、堕罪によって、引き返すことのない道に自ら入ったアダムとエヴァについては、その子孫とは異なり、どれほどの犠牲を費やしても『罪』の贖いは得られないので、彼らには神に執り成しの必要がないでしょう。
しかし、自ら堕罪したわけではないその子孫については、神との隔たりのために「宗教」が必要になってゆくのは自然なことで、以後は聖書中で神に犠牲を捧げる行為がアダムの子孫らによって繰り返されてゆきます。

この点で、使徒パウロはこう述べます。
『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』(ローマ5:14)
これはつまり、アダムの『罪』が子孫に遺伝してしまっており、その子孫がアダムと同じ違反を犯すとは限らないので、そこに酌量されるべき余地があることになります。

そこでまさしく、キリスト教とは、創造者から隔てられて死に至る人類を引き戻すことを目的としているのです。つまり、創造の神と『罪』に陥っている人類とをイエス・キリストが執り成して、関係を修復させることなのです。

しかし、今日では「宗教」という言葉に良い響きはありません。
ひとつには、古代人なら心底信じることのできたそれぞれの宗教の古い教えも、科学の発達に伴い陳腐化してゆき、それに加えて信者を隷属に置く指導者の醜態があちこちの宗教に見られてきたからでしょう。
そればかりか、宗教は往々にして政治的な影響力まで振って、人々の敵意を煽り、政争から流血に至るほどの争いを助長し、また原因にもなってきました。

こうした争いの誘因のひとつになるのが「ご利益」であり、ほとんどの「宗教」でも「崇拝」でも人間の願望を煽り、信奉する信者だけが「救われる」などの限定された利益を宣伝し、不信者は「地獄行き」ともされていますが、この利己心を煽る教えは宗教家の信者集めに利用されてきたというべきでしょう。
そこでは、「なぜ生きるのか?」「なぜ人生は空しいか?」などを問う人々は格好の餌食とされてしまいますし、その教えが正解であるかどうかは一生涯分かりません。神の存在も、死後の状態も、科学には客観的正解がないからです。

またこの点では、信者の側にも問題がないわけではありません。
つまり、神の意志を探るより、自分たちの願いが叶うことを優先させるなら、その人は自己中心になって神に向かっているのであり、この利己性こそ人間の始祖が神から離れた理由であったことからすれば、創造の神に近付けるわけもありません。

むしろ、おおよそ宗教とは、人間の根本的疑問に答えることを装いながら、利己心を煽り、人々の争いや分裂をもたらす要素となってきたと言うべきでしょう。自分の信じる事柄が絶対に正しいとするその人は、人間の倫理上の限界を超えてしまっており、正しいどころか、優越感と蔑視という害悪をもたらしてきたのが現実です。

しかも、「上なるもの」との繋がりという人間の必要に付け入る危険な者らが現れたことを聖書は告げます。


◆神々の現れ

人類は世代を経る内に、いよいよ神から遠ざかり、考えから締め出すようになって多くの悪を行うようになっていった様子が創世記に描かれます。
やはりサタンから誘惑を受けた堕天使らという存在が、地の人間界の悪を助長したとあり、創世記にはこうあります。
『人が地のおもてに増え始め、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。』(創世記6:1-2)

この『神の子たち』とは人間を意味しません。アダムとエヴァは『生めよ増えよ』と命じられていたのですから、その子孫も娶ることは当然のことです。また、堕罪によってアダムも子孫も、すでに『神の子』の立場を失っていたので、この『神の子たち』とは人間以上の存在、天使らのことを述べています。

創世記でアダムの時代の後に『人の娘たちを娶った』という『神の子たち』については、新約聖書のユダの手紙で『自分たちの地位を守ろうとはせず、その在るべき所を捨て去った御使たち』と暴露されています。(ユダの手紙6)

これらの堕天使は、特殊な能力を保持したまま人間の身体をまとって地上に現れたためか、ギリシア神話さながらに、神を自称して好き勝手に行動していたようで『人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、「わたしが創造した人を地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いる」と言われた。』と言われるほどに地上は無秩序に陥っていたと創世記は伝えます。(創世記6:5-7)

その後、神は地上を大洪水で覆い、動物たちとノアの一家を箱舟によって生き長らえさせることになります。
地上に来ていた堕天使らは、人間ではないので死ぬことはありませんでしたが、その後は『大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められた』とユダの手紙は記しています。(ユダの手紙6)

堕天使らが拘束されているとはいえ、神を自称していた頃のような影響力をその後も人類に及ぼし続けています。
人間が生きてゆくうちに、「自分はなぜ生きるのか」などの根本的疑問を懐くのは、まさに創造者から疎外されたためなのですが、そこに自分も神であるという堕天使らが「雑音」をたてるかのように割って入ります。彼らを堕落させた親玉であるサタンは、エヴァに善悪を知る木から食べても『けっして死なない』と偽ったままに、人間には死後の世界があるかのように装い、亡霊を見せ、死者の意向を騙り、あるいは、人に前世があるかのような不思議を行って今日に至っています。

旧約聖書にある「律法」の書が、交霊術を強く排撃し、行う者を厳罰に処す取決めを設けていた理由も、それがけっして故人との接触ではないからです。(申命記18:9-12)
創造者から隔てられた人類は、堕天使という非常に厄介な導き手が神や個人などを偽り、様々に影響されていることを聖書は暴き出しているのです。(コリント第一10:20)
交霊術などにどこか暗い印象が付いて回るのも、堕天使らの将来は裁きによる消滅であるからでしょう。それでも、意のままになる人に憑りつくことがあり、その危険もまったく無視できるものでもありません。(マルコ5:1-5)

キリストの時代にも、この堕天使に憑りつかれていた人々が聖書に何度か描かれていて、それらは『悪霊』と呼ばれています。
『悪霊』は今日でも、巷のあちこちで影響力を用い、不思議を起こして驚かせ、人々の程度の低い好奇心を煽っては、だれかに憑依しようとしていたりするので、それが時折、事件に発展することも見聞きすることでしょう。 『悪霊』との接触は必ず害を成すもので、わざわざ近付くものではありません。


◆宗教に潜む利己心

人間が創造者から隔てられているということは、もちろん良いことではありませんし、特に、世界を客観的に調べる自然科学からではけっして分からない、人間の由来という難問を尋ねるところで、人はこのように騙され易い状態に置かれているということになります。

それでも、多くの人々が神と通じることを望んできましたから、様々に「上なるもの」との関係を築く方法、また難問への解答を模索して、多くの宗教・宗派を興してきました。
ですが、それらが本当に神に通じるものかどうかを判断することは、客観的事実で証明も判断もできないのです。

ここで人は、「信仰」という主観、つまり自分の価値観に従わざるを得なくなり、人々各人の想いが異なるように、「信仰」には分裂、また争いが付き物となってきました。
すでに人間には、経済的また政治的での利害の対立があり、そこに民族た貧富の差などの憎悪も加わって争いをもたらしているのですが、それでもまだ足りないかのように、また、それらに便乗して、宗教や価値観をさらなる対立の理由としてきたのです。
こうした人間の姿は、賢い外見を持ちながら、憎しみ争うところでは愚かしく、とても「万物の霊長」や「叡智の持ち主」とは言い難いほどではありませんか。

おおよそ宗教とは、人の生き方を形作るもので、最も高い価値観を与えるとされるため、自分の信仰を至高のものとしないではいられないものが古来多いものです。
そこで、思想信条の多様な人々の中で平和を保ち、自由に過ごすには、他の人々の信奉するものを、ある程度は尊重することが求められますが、教えにそうした備えのない粗野な宗教と出会うところで、争いは起こりやすくなりますし、親密な交友さえ断たれ兼ねません。

これが宗教に潜む利己心であり「独善」と呼ばれるべきものです。
この原因は、自分に正義があるという思い上がりであり、そこに欠けているのは、「真の正義を人は持ち得ない」という現実に気付くことです。つまり、人にはみな『罪』があり、だれも倫理的完全は持ち得ないという、この世に明らかな現実を認めない頑なさに囚われてしまっているのです。そこからいったい誰が益を得られるものでしょうか。

使徒パウロはこのように述べています。
『ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあるのです』『次のように書いてあるとおりです。「正しい者はいない。一人もいない。悟る者もなく、神を探し求める者もいない。』(ローマ人への手紙3:9-11)
そこでパウロはこうも言っています。
『あらゆる人が偽り者であったとしても、神こそ真実な方とされるべきです。』(ローマ人への手紙3:4)

キリスト・イエスはこう言われました。
『何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらの(必要な)ものはみな与えられる。』(マタイ福音書6:33)

では、人の義ではなく、『神の義』を求めるとはどんなことを指すのでしょう。





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政治は『罪』への対処法

2017.11.23 (Thu)


◆罪ある人間に秩序を与える政治

エヴァとアダムが、倫理上の決定を伴う行動の結果として陥った状態を、聖書は『罪』と呼びますが、人間の不倫理性、その道徳上の欠陥は、今日の世相にも歴史にもあまりにも明らかなことです。

その原因について、キリストの使徒パウロはこう述べています。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ人への手紙5:12)

アダムが『罪』に陥って以来、人は寿命をもって老化してゆくだけでなく、『生涯の間、顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という空しい一生をも避けられなくなったことを創世記は告げています。
しかし、そればかりか、人類は常に悪に傾く性質に背負ってきましたので、利己心による貪欲を招き、他者との争いを止めることができず、社会での多くの苦難を自ら付け加えてきたのです。本来、人と人が共に生きるのは、易しいことではありません。

『罪』を負った人々は、そうした倫理のうえでの苦しみを受けつつ、『この世』という生きる場を形作ってきました。
もし人々が、それぞれ個人の思うまま、その欲望のままに振る舞えば、社会は奪い合いで危険な無秩序な場となってしまいます。そこである程度の秩序をもたらし、人と人とが何とか共に生活を築いてゆけるようにするためには、他者を無視した横暴を抑え込む必要があります。

そこで必要とされたのが「支配」であり、それはあらゆる個人や集団に対し横暴を強制して抑制できる実力がなくてはなりません。
そうでなければ、誰かの貪欲を抑え、社会全体で共生してゆくことができないからです。この強制力は「権力」と呼ばれます。

ですから支配には「権力」という、横暴を抑え込めるだけの実力が必要になりますので、その社会で最も強力な者が常に支配者となってきました。支配の実力がはっきりしないところでは政情不安となり、政変も起きかねませんが、逆に権力が強すぎ、民に深く介入すると圧政が生じます。それは権力者そのものが横暴なのです。

民主主義という支配も、人々が行政に権力を託しているのであり、その実質的支配者が「王」であれ、「行政府」であれ、「議会」であれ、「裁判所」であれ、どんな支配も権力による人々への抑制であることに変わりありません。
共にどんな支配者も、その社会で最も強い実力をもち、他のすべてに強制力を行使できなければ、社会の秩序は脅かされてしまうのです。

ですから人間とは、強制されなければ秩序を保てない存在であることは隠しようもないことです。
そこに、だれの例外もなく、利己心を懐く『罪人』としての姿が見えていると言わざるを得ません。

わたしたちは互いに警察力によって保護されていますが、人はみな権力の恩恵なしには、日常生活を営むほどの安全も得られません。
どれほど清廉潔白に見える人であっても、『善だけを行って、罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。』という言葉を否定することはできないのです。(伝道の書7:20)

あらゆる人に、権力が番人として必要なことをパウロはこう記しています。
『支配者たちは、あなたの益のための神の奉仕者です。しかし、もし悪を行うのなら、恐れなければなりません。彼らはいたずらに剣を帯びておらず、悪を行う者に怒りをもって報いる、神の奉仕者だからです。』(ローマ人への手紙13:4)
わたしたちが、だれかから横暴に扱われないことに一定の安心を抱けるのも、そのような事をすれば、黙ってはいない復讐勢力である「権力」のお陰であり、それは同時に自分の行動をも監視しているのです。
この点で、古典的政治哲学者のトマス・ホッブスは、「背後に剣の無い契約など空しい言葉に過ぎない」と、支配には実力が必要不可欠であることを宣告しています。

これが「政治」というものの基礎であり、人々の欲望を抑制し、支配することで秩序をもたらすことを第一の目的としています。
人に『罪』という欠陥がある以上、だれもが必要とするものなのです。
近代の社会学者マックス・ウェーバーも「国家とは、ある一定の領域内での、正当な物理的暴力行使の独占を実効的に要求する人間共同体である」としています。まさしく政治とは、有無を言わさぬ暴力を原資とする支配であり、一人一人の貪欲の調停による秩序の達成を目的としているのです。

つまり、人と人とは法律と警察力で保護の壁を作り、そうしてはじめて秩序ある生活を送ることができるのです。
これは本来は犯罪者への対処法ですが、もちろん、神は人間をこのようなものとして創造されたわけではなく、『罪』のない者、悪に傾く性質のない者には「支配」そのものが必要ありません。
もし、人々に『罪』が無かったなら、個人同士を抑える警察も、国家同士の争いに備える軍隊も必要がないばかりか、『罪』のない人々に『剣』は、まったく不必要で場違いに見えるだけで、それは単なる暴力にしかなりません。神の創造界にそのようなものは意図されていないというべきでしょう。『剣を鋤の刃に打ちかえ・・国は国に剣を挙げず』とは、国連の標語とはされていても、実行できるのは、人類から『罪』を除くことのできる方だけなのです。(イザヤ書2:4)



◆金銭で成り立つ世の中

『罪』が人類にもたらした影響は、この「権力」という強制だけに留まりません。
それが、他人のためには働かないという基本的な態度です。
この交換の原則は、他人の貪欲の犠牲にならないためには避けることができません。

おおよそ人は、自分の家族のためには無償で援助しますが、その外側に居る人々に対しては代償を求めます。
この世では、そうしなければ生きてもゆけないでしょう。

ですから人々は、それぞれの生活に必要なものを互いの持つものを交換することによって手に入れなければなりません。
その交換は、人の生活を豊かなものにすることができますので、人は互いの必要を満たす「交換社会」を作ってきましたが、それは今日世界規模に広がっていて、輸出入がなければ、突然に不便で貧しい暮らしに落ち込むことになってしまうでしょう。

その重要な「交換」を媒介するのが「金銭」なのですが、交換するものの「価格」において、人は互いにせめぎ合い、奪い合うことになります。
売る側には、高い価格にしたい誘因があり、買う側には、安い価格にしたい誘因があります。しかし、互いに牽制が起こるので、どちらも極端な貪欲は許されず、最終的に価格は相場に向かってゆくことにはなるのですが、その過程には熾烈な競争や駆け引きを伴うものです。旧約聖書のソロモンの箴言にはそのような世相がこう描かれています。
『買う者は「悪い、悪い」と言うが、買ってしまえば、それを自慢する。』(箴言20:14)
こうして価格が適正化されるとしても、そこでは給与の削減や過酷な労働、そればかりか会社の倒産や失業、破産などの「淘汰」を当然のものするのです。欲望と欲望がせめぎ合い、必要さえ奪い去る争いがそこにあります。

このような世の中で、他の人々よりも一層の富を得て安楽に暮らそうと思うのは、ごく一般的な人々の願いです。そのためには不正や欺きをも用いようとする人も絶えることなく、今日も生活のごく身近にそうした罠はいくらでもあり、それを見分ける知力や猜疑心がなければ、ただ犠牲になるばかりです。しかし、これは互いの人間性を低めるものでしかありません。
使徒パウロはこう言っています。
『金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れるのです。』(テモテへの第一の手紙6:9)

しかし、害を受けるのは、富を追い求める者ばかりではないのです。
真面目な弱者にも、『働かざる者、食うべからず』といえども、人が働きたくても働く事ができない、働いても生活を確立できない、などの恐るべき不毛の砂漠のような危険が避けられません。(テサロニケ人への第二の手紙3:10)
そのうえ、金銭は富んだ人に集まる傾向が強く、生きるのに必要な人々にその必要に応じて配分されるわけではありません。
世界の富の大半は富裕な人々に所有され、僅かな残りを得るために大多数の人々が厳しい労苦によって生活を支えているという現実が、古来続いてきています。

つまり、富裕な人の贅沢を支えているのが多くの人々の苦しみであり困窮です。このピラミッドは今日までもこの世を支配しているのですが、どのような体制の国であっても、これを是正することはできていません。
善意を懐く僅かな勢力や行政が、こうした社会の殺伐とした状況に「完全雇用」や「富の再配分」などの手を打とうとしていますが、この世の有り様そのものを変えることは不可能です。そこでは経済の犠牲者が絶えたことがないのです。
富んだ人にとっての慈善事業や寄付の効果も世の趨勢を変えることもなく、むしろ、施しも富んだ人の最高の贅沢、また気休めにさえなり兼ねません。

イエス・キリストは、質素な生活の中でも、付き従う使徒らに困窮する人のための寄付を活用させていましたが、『貧しい人たちはいつもあなたがたと共にいる』と言われました。つまり、貧困がいつまでもなくならないことを指しています。また、近付いた金持にイエスは『持っているものをみな貧しい者らに与えなさい』と勧めました。(ヨハネ12:8/マルコ10:21)
ですが、この世が利己心を基礎に置いているところで、人間社会の構造を根本的に変えることなど、人間には無理があります。その前に、まず自らの『罪』ある人間の有り様に気付かねばなりません。

歴史上、社会の変革を夢見たのが、理想郷を実現しようとした「ユートピスト」たちでありましたし、近代の産業化の波の中で資本家と労働者の富の偏在を問題とし、あるいは計画経済を唱えて国家を打ち立てた試みも次々に失敗に終わってゆきました。そこに人間の普遍的な病根である『罪』への認識がどれほどあったでしょうか。この問題こそは、経済的立場でも、民族でも教育程度でも誰もが抱えている悪であり、これがある限りどんなユートピアも破壊してしまいます。

この点で人間は、経済のもたらす巨大な不公正の苦しみを解決することができず、ただ、比較的に状況の良い、つかの間に自分たちの短い安泰を楽しんできただけということなのでしょう。
やはり預言者イザヤの言葉がこの世に当てはまると言わざるを得ません。
『悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができず、その海水は泥と汚物とを打ち上げる。』(イザヤ書57:20)
そして人は、その荒波の中で生きるほかありません。人間社会は奪い合いで静まることができないからです。
ソロモンの箴言には『貧しさも富もわたしに与え給うな』とありますが(箴言30:8)
バブルと不況のはざまで、狂喜と絶望とに翻弄される人間の姿は、どちらも良いものではありません。
しかし、人間の幸不幸がすべて金銭で測られるものでしょうか? 人は幸福を望んで、懸命に富を追い求めることが人生のすべてなのでしょうか?


◆人類を気遣う神

この世の苦しみも、元はと言えば人類の始祖が利己心に従い『罪』に陥ったところにあるとはいえ、神はその苦しみを眺めているだけかといえば、そうではありません。
経済学者らは、今日までの人間の歴史を俯瞰して「人類の歴史の大部分において人間は底知れず貧しい状態にあった」と結論していますが、歴史は始まって以来、貧困は常に絶えることのない人類の不治の病であったに違いありません。(ダスグプタ「経済学入門」)
旧約聖書には、イスラエル国民に与えた法律、「モーセの律法」が含まれているのですが、そこには再三に、弱者への具体的な救済の指示が見られます。それは今日の法律にないほどの合理的な貧困への対策が見られます。

例えれば、収穫のときには、落穂までを拾ってはならず、採り残りがあってもそのままにするようにという掟がありましたが、それは困窮者のために残すようにとの規定でありました。また、他人の畑に入って、両の手を満たす分量ならば誰でも取ってよいともされていましたが、これも異国の旅行者を含め、いよいよ窮した人々が命をつなぐ手立てとして備えられた取決めでありました。

モーセの律法では、窮境にある人々に何かを貸し与えることに渋らぬよう諭され、しかも、質に取った物であっても生活の必要物であれば、夜の間は返すようにとも命じられています。
これらの命令に困窮者への神の配慮が明らかに見えます。

そのうえ、50年毎に一切の債務が免除されるという規定があり、自分の家代々の所有地を再び回復できるという、今日でも考えられないような、経済的再出発の機会が神の法によって取り決められていたのです。そこで、過重な債務に、いつまでも奴隷となることからの解放が備えられ、イスラエルの中では貧富の差が極端に開くことが配慮されてもいました。

また、新約聖書に入ると、イエス・キリストはこう言われます。
『何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。

空の鳥をよく見なさい。種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。

なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった』(マタイ福音書6:25-29)


人を創造した神は、成功して富を得ようとするような願いを聴くことはありません。キリスト教がいわゆる「ご利益信仰」ではないことは明らかです。「富や成功を引き寄せたい」なら、ほかの宗教に向かうべきでしょう。
ですが、人がこの世を生きて行くうえで窮境に陥ることを創造の神が望まないことが旧約聖書にも新約聖書にも明らかです。
キリストは、富の蓄えが人に安寧を与えるのではなく、出来ることを行いながらも神を信頼するようにと教えました。(ルカ19:19-21)
また、使徒パウロもこのように訓戒しています。
『この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。』(テモテへの第一の手紙6:17)

富むことは諸刃の剣というべきでしょう。
安心や豊かさを与えるように見えて、真に心を休ませるものとはならず、神の慈愛を知らずに過ごすことになるのです。(列王記第二4:1-7)


人間の苦しみは、社会的なことだけでなく、『罪』によってエデンを追われた人類には、様々な病気にも悩まされます。
医学が今日までに大きな進歩を見せたとはいえ、患者は尽きることがありません。

まさしく、イエス・キリストが神からの奇跡の力を得て、あらゆる疾患を治し、累々と並べられた病人を長い時間をかけて、ひとりひとりを癒したと福音書は述べています。(マタイ福音書4:23/ルカ福音書4:40)
それは、人が再び『罪』を去り、創造された意図に従う『神の子』に復した後には、もはや何の病に罹ることがないことを予告するものでありましたし、神の、病人たちへの暖かい眼差しも感じられます。(イザヤ書33:23/ヨハネ福音書1:12)


こうして、この世と聖書とを眺めることで、人間というものの置かれた実情が見えてきます。
欠陥ある人間社会に生まれてきたわたしたちは、それを当たり前に見てしまい、あまり意識もしないのですが、時折に、人生の空しさに、自分の生きる意味や、神の存在を問い掛けるばかりです。

しかし、聖書に向かい、そこに書かれた全体像を把握してゆくと、人間の生きる境遇がどんなものであるのかが分かります。
ですが、分かっただけでは何の解決にもなりません。
そこで創造者は、『アダムと同じ罪を犯してはいない』人々を『この世』から救い出すために、「救世主」を任命され、世に遣わすことになるのです。(ローマ人への手紙5:14/ヨハネ福音書3:16)









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『罪』と『愛』

2017.11.22 (Wed)

◆悪によって歩き出した人類


『善悪を知る木』から実を採って食べたアダムとエヴァが、その木の名のように善悪を知ることになったことを聖書はこう記しています。
『神YHWHは言われた。見よ、人は我らのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。』(創世記3:22)

ここで神は、何者かと会話していますが、これは天という物質ではない神の領域の被造物である天使らを指すことでしょう。

物質として地上に創られた人間アダムとエヴァとは、創られた当初とは異なるものとなったことをこの言葉が知らせています。
彼らは禁じられた行為を通して、倫理的無垢の状態を後にしています。
それまでは、彼らは『死ぬことのないように』禁令を守っていましたが、未だ誘惑を受けてはいません。そこでは死を避けるという、彼らの益だけがありました。

しかし、『蛇』が誘惑を語ることによって、エヴァの前には『神のようになる』という別の益が置かれ、アダムの前には「妻を失う」という害が置かれます。
『蛇』の悪への誘いによって、彼らは「倫理」という領域に足を踏み出しています。
そこには、利害を超えても、自分たちを存在させた創造者に忠節な愛を示すという善への選択もあり、その機会は彼らに一度限り与えらていたことでしょう。

彼らの子孫となった一般的な人々の社会では、常日頃から倫理上の間違いを犯しては悔いることが頻繁にあり、また、それが許されることもあります。しかし、それでもあまりに度々に不道徳なことを重ねる人がいれば、周囲から信頼されることは望めなくなります。しかし、多少の倫理的な間違いは、わたしたちの誰もが避けられないものです。

この点で、始祖と子孫とでは、状況が異なります。
まったく道徳的に無垢であったアダムとエヴァが、神への忠節な愛を示さず、エヴァは神よりも利得を望んで『蛇』を信じてしまい、アダムはそうしたエヴァを神に勝って選び取った以上、それは利己心から創造者を押し退けるという、一度限りに信頼を失う、引き返すことのできない道に入り込んだことを意味しているでしょう。

彼らは、創造物であったにも関わらず、その立場を踏み越えて我欲に従い、神に対して利己的に振る舞いましたが、彼らに欠けていたのは、創造者への愛であり、そこで創造物としては不忠節な者であることを行いで表してしまいました。
そのようにして、彼らは「善と悪とを知る」結果として、神から身を隠します。もはや、以前の彼らのようではありません。

つまり、悪を行うことによって倫理の世界に足を踏み入れ、神の創造物という範囲から象徴的に独立し、あらぬ方向に歩み始め、倫理を知ることにおいて、悪い選択をしながらそうしてしまったことを恥じたことでしょう。
彼らは自分たちが裸体であることを恥じ入り、下半身を覆いはじめます。おそらくは、性欲というものを恥ずべきものと感じ始めたのでしょう。

神は、アダムを捜して『どこに居るのか?』と呼び掛けていますが、それは神が人のプライバシーを守っていたことの表れと言えましょう。そうでなければ『善悪を知る木』やアダムとエヴァを監視できたに違いないからです。

神が二人を創造した以上、『永遠の命の木』から食べさせ、生き続けさせたかったことでしょう。
しかし、今や彼らは『善と悪とを知る木』から食べてしまい、エデンの秩序を犯す張本人となっていました。
当然これは、創造者としては何もせずに放置できることではありません。
なぜなら、今や創造界には神の意図しない利己心による悪や混乱が入り込んで、創造された世界が創造者の意図とは異なるものとなる事態となりましたが、悪が永続するなら、創造の意図はいつまでも成されないことになります。

そこで神は、アダムとエヴァが『命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない』ことを防ぎます。もし、神の創造の意図を離れた彼らが永遠に生きるなら、神の意図は地上に達成されることのないものとなってしまうからです。(創世記3:22/マタイ6:10)

そこで神は、『神は彼をエデンの園から追い出し』『エデンの園の東に、ケルヴたちと回転する炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた。』とあります。(創世記3:22-24)
つまり、アダムとエヴァによって人類全体が神の是認された状態から離れ、エデン(楽しみ)の園からも追い出され『顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という境遇に置かれることになりました。これこそ人類の全体が味わってきたところの空しい生涯そのものです。(創世記3:19)



◆神の象りと愛の道

やがて『善悪を知る木』から採って食べたことは、神の目を恐れたアダムとエヴァが告白することによって、創造者も知るところとなります。
あるいは、全知全能の神がこの事態を防ぐことができなかったとは、矛盾したことに思えるでしょう。

しかし、創造の神が初めから人間を悪を選ばないものとして創ることはできなかったわけではないでしょう。ですが、そのように選択を制御された者として人を創っていれば、そもそも『二本の木』の必要がありません。

そこで神は、人というものに倫理的自由、つまりロボットのようではなく、他者を愛する自由を与えていたと言える理由があります。
真実の愛は、自発的であり、真の自由の中に在ってはじめて存在するものだからです。

神が望んだのは愛であり、理知的な存在として人を創られたのも、神との意思の疎通を通わせることを意図していたのであれば、「忠節な(不変の)愛」こそが神と人との絆となるべきであったでしょうし、愛こそがあらゆる創造物ともつながるべき精紳と言えましょう。

創世記には、神は自らの象りに人を創ったとあります。
神は、天使らばかりでなく、人間にも自らと意思を通わせることのできる思考力だけでなく、神が自由な意思をもつような自由を与え、真実の愛を懐けるものとして創られたので、『二本の木』の選択によって、その忠節な愛を表す機会を得ていたということができます。

その選択は強制されるものであってはならず、そうでなければ、彼らは神の象りの自由な意思を持てず、真実の愛も表せなかったに違いないからです。
ですから、神はわざわざ『二本の木』をエデンの園の中央に植え、しかも二人を監視するようなことをしなかったのです。
神の象りである彼らの自由を保つことは、神が自らを尊重するに等しい意義があったというべきでしょう。

彼らがサタンの誘惑に遭っても、神への忠節で不変の愛を示していたなら、彼らは他者とどう生きてゆくべきかを弁えた、倫理の点での無垢を選び取り、『永遠の命の木』から採って食べることを許されたことでしょう。
しかし、今や彼らはそこに到達しませんでした。神の象りとしての自由を善用しなかった二人は、もはや神の創造の意図を反映するもの『神の子』ではなくなり、永遠の命から遠ざけられたうえに、その自由も大きく制限を受けなくてはならなくなります。

そのひとつが、『顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る』という生きるために生きるという空しい生涯であり、社会秩序を保つために、法と強制によって生き方を制限されなければならないことも挙げられます。

他方で使徒パウロは、『愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は法を全うするものです。』と述べます。(ローマ人への手紙13:10)
この言葉の根本には、神の象りとして創られた人にとって、本来あるべき姿が『愛』という一言に込められています。

使徒ヨハネは、神と人にとって愛が絆となることをこう書いています。
『愛する者らよ、我々はこれからも愛し合ってゆこう。愛こそは神からのものであり、すべて愛するものは神から生まれている。』
『神は愛であり、愛の内に留まる者は神と結ばれており、神はその者と結ばれている。』(ヨハネ第一の手紙4:7.16)


イエス・キリストは死を遂げる前の晩に言われました。
『わたしは新しい掟をあなたがたに与えよう。それは、わたしがそうしたように、あなたがたも互いを愛することだ。』(ヨハネ福音書13:34)
まさしく、キリスト教には「愛の教え」と呼ばれるに相応しい中身があるのです。










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エデンの二本の木

2017.11.14 (Tue)


◆難しくない禁令

そもそも、なぜ人は『罪』を背負い込んだのでしょう。
その『罪』のために神と人とが隔てられるようなことを、神が阻止できなかったのでしょうか。
もし、あなたに神のような能力があるなら、即刻にも人々から不道徳性を取り除いて、悪も争いもない世界を実現させようとするのではありませんか。

そうなると聖書の神とは全知全能でもなく、人類に災厄が降りかかることを防げなかったほどにその能力は限られ、また人類への関心も薄いということなのでしょうか。

しかし、聖書は全能の神をこう描写します。
『その道はみな正しい。主は真実なる神であって、偽りなく義であって、正である。』(申命記32:4)

では、現在までに人類の置かれた『罪』ある苦境にはどんな理由があるのでしょう。

聖書の創世記には、人間に『罪』という不倫理性の始まりが記されていて、それは天や地上を整えていった記述よりも多く書かれています。
その理由は、天地の創造の由来を説明するより、倫理の問題を説く事が、創世記の最初に部分にあって重要なことであることを示唆しています。まさに聖書全体も、倫理について焦点を当てた本であるということは覆すことのできない事実と言えます。つまり、聖書とは、人が神を含む他者とどのようにして生きてゆくのかという倫理問題を最重要な主題としているのです。

さて、最初の人間アダムを「エデン」と呼ばれた園に置き、自らの別の創造物である様々な生き物を彼の前に連れて来ては、それぞれに名前を付けさせたと述べます。
つまり、アダムは神とは別の独立した思考を持つ者であり、神はアダムを息子にように扱い「エデン(楽しみ)の園」に置くだけでなく、自らとは異なるアダムの思考を楽しんだからこそ、『何であれ、それがその生き物の名となった』と記されるように、生き物を名付けさせたのでしょう。そこには人を恵む父親のような神の姿と、アダムへの信頼ある愛情が描かれています。

そのうえ、妻エヴァをアダムに与えた神は、ふたりを祝福して『生めよ、増えよ、地に満ちよ』と言われます。
創造の神は、こうして人類を地上に増え広がるようにされますが、同時にアダムは『これこそ遂にわたしの骨の骨、肉の肉』と讃嘆の声を上げて最初の女を迎えます。
エヴァを得た彼のエデンでの喜びが更に大きく膨らんだことは想像に難くありません。

しかし、その以前に神はアダムにひとつの禁令を与えていました。
それが園の中央にある二本の木の中の『善悪を知る木』とされた片方への戒めでありました。
『園のすべての木から取って食べなさい。
 ただし、善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べるなら必ず死ぬからだ』(創世記2:16-17)


アダムにもエヴァにも、園のほかの木々から食すことが出来たので、この禁令はけっして守ることが難しいとは言えません。
その禁令を守らないなら『必ず死ぬ』というからには、創造した神は、人を最初から寿命をもちやがては死ぬものとしては創っていなかったこと、また、もう一本の方の木が『永遠の命の木』と呼ばれたのであれば、神は、人を最初から永遠に生きる希望はあったにせよ、そのままいつまでも生きるものとはしていなかったことが分かります。その二本の木に永遠の命を左右する「何か」があったことが示唆されています。

つまり、人がずっと生き続けるものとなるには、『善悪を知る木』からは食べず、『永遠の命の木』から食べるべきであったこと、そこに二つの選択肢があり、一方を食べれば死へ、一方を食べれば永生に向かう分かれ道がそこにあったことになります。しかし、この二本の木が一度に並べられて選ぶようにされたのではなく、『永遠の命の木』に至る前には『善悪を知る木』の試みがあったといえます。

アダムもエヴァも『善悪を知る木』から食べずに過ごしますが、けっして死ぬことを望みはしなかったからでしょう。
しかし、そこに第三の立場の者が登場してきます。



◆『蛇』の背後に居た者

神でも人でもない、倫理に関わる第三の者は、創世記では『蛇』となって現れます。
この『蛇』は、エヴァに話しかけ、木の禁令について尋ねます。
『園にあるどの木からも取って食べるなと、ほんとうに神が言われたのですか』

もちろん、植物を食物として備えた神が、彼らから食を断つようなことを命じるはずもなく、この話し掛けの言葉の中に、早くも神とエヴァの間を裂こうとする意志が見えています。この新たな登場者は単なる蛇ではありません。なぜなら、蛇は話すことはおろか、鳴きさえしない生き物だからです。
しかし、エヴァは警戒する様子も見せず、そうではないことを説明します。

ですが『蛇』には、最初から中傷する意志があったのであり、エヴァは続く『蛇』の言葉を批判なく聞きます。
『あなたがたは決して死ぬことなどありません。なぜなら、神はあなたがたが善悪を知るようになって目が開かれ、神のようになることを知っているからです』

『蛇』の語った「死なない」というのは嘘偽りでありましたから、「善悪を知るようになって」どうこうと言うところも信頼できるものでもないのです。この偽りに従うアダムとエヴァが得るものといえば不利益でありました。その場では死ななかったものの、二人はやがて死を迎えています。

しかし、『蛇』の言葉を聞いてからエヴァが見ると、賢くなれるという木の実はたいへんに好ましく見えたので、その実を取って食べてしまい、すぐには死ぬことがなかったので『蛇』を信じたことでしょう。それからエヴァはアダムにも与えます。
すると、禁令を守っていたアダムもその実を食べてしまいました。

こうして、人は寿命を迎えて死ぬものとされて今日に至っているというのが、創世説話の物語とされてきましたが、多くの人々にとってはおとぎ話という以上にはなっていません。

ですが、ここに神と人との、また人間同士の現在までも継続し、更に先鋭化しつつある問題の発端があります。
それは創造の神をないがしろにし、あるいは倫理というものに無頓着であり続けた人類の態度のはじまりであり、素朴なまでに単純化された文章の中にその重い事柄が込められているのです。

まず、この『蛇』ですが、動物の蛇には声帯もありませんので、これは理知を持つ他の何者かがエヴァに話しかけていたと見るべき理由があり、聖書そのものが、この『蛇』が何者であるかを暴露しています。聖書の最終巻の黙示録の中でこのようにあります。
『この巨大な竜、すなわち、全世界を欺くもの、悪魔またはサタンとも呼ばれる、あの始りから*の蛇は投げ落とされた』(黙示録12:9)*(アルカイオス「昔からの」)

ここに『悪魔またはサタン』という、最初の男女に関わる新たな存在が創世記に登場してきました。神と創られた人間二人は親子の関係にありましたが、そこに別の存在が現れてきました。
しかし、神がすべてのものを創ったのであれば、悪魔もまた神が創ったに違いないという推論は正しいと言えます。
それでも、神は悪魔といえども、最初から悪いものとして創造したとは言えません。


◆サタンの由来

旧約聖書にあるエゼキエルの預言書の中で、この悪魔も以前には優れた『ケルブ』と呼ばれる種類の天使のひとりであったことが暗示されています。
『あなたは造られた日から、あなたの中に悪が見いだされた日まではそのおこないが完全であった。』
『あなたはその美しさのために心高ぶり、その輝きのために自らの知恵を汚した』

これらの預言は、古代フェニキアの都市国家ティルスの王に向けて直接に語られたものですが、その中で『エデンの園に居た』こと、『ケルブであった』ことなど、単に人間の王を超えた存在が比喩として用られており、そこから同時に、優れた天使であったのに、傲慢のゆえに自ら悪に走ったある存在者を例示しています。(エゼキエル書28:13-15)

つまり、悪魔またサタンと呼ばれ、後には神に逆らうだけでなく、あらゆる知的な創造物を神から引き離し、創造主を無視して生きる利己的な歩みに誘う中傷者となったのは、やはり神の創造物であり、しかも優れた天使のひとりであったと聖書は言うのです。
サタン、つまりヘブライ語で「シャイターン」というその意味は「抵抗する者」の意味であり、それをギリシア語やラテン語では「ディアボロス」と訳されましたが、その意味はまさしく「中傷者」であり、これが日本語で「悪魔」と訳されています。

この以前は天使であった者が、神に抵抗する者と呼ばれ、また中傷する者とも呼ばれるに至ったのも、自ら悪の道を選んでそうなったのです。
それは、エデンの二本の木によって生と死から悪い方に向かってしまったアダムとエヴァにも言えることで、サタンは自らの道にエデンの二人を誘い込んでいたのです。


◆究極の悪知恵

もちろん、アダムもエヴァもわざわざ死を選ぼうとはしなかったに違いありません。
蛇も『あなたがたが(食べても)死ぬようなことはありません』とエヴァに言っています。
この点について、後のキリストの使徒パウロは『アダムは欺かれなかったが、女は欺かれて過ちを犯した』と述べています。(テモテへの第一の手紙2:14)

このパウロの言葉からすれば、エヴァが蛇に『あなたがたは決して死ぬことなどありません。なぜなら、神はあなたがたが善悪を知るようになって目が開かれ、神のようになることを知っているからです』と言われたそのままを無批判に受け入れたところでは、欺かれていたのでしょう。
しかし、彼女が騙されていたとはいえ、神を誹謗する言葉の通りに行動したことにおいて、神の側を擁護もせず、忠節さも愛も示さなかったことは隠しようもありません。

それではアダムの方は『欺かれなかった』にも関わらず、どうしてその木の実を食べたのでしょう。彼は妻が死に至る道に踏み込んでしまったことに気づいたでしょう。
これについては、この行動について神から言い開きを求められたアダムの言葉に示唆するものが記録されています。
『あなたが、わたしと共に居るようにと与えて下さったところの女が、わたしにくれたので食べました』(創世記3:12)

アダムは、創造されてしばらくを独り身で過ごし、神はそれを見て『人が独りで居るのはよくない、彼のために助け手を創ろう』と言ってエヴァを創り、アダムに引き合わせると、彼は『これこそ遂にわたしの骨の骨、肉の肉』と大いに喜んだことからすれば、アダムの言い訳の言葉には『共に居るようにと与えて下さった女』に対する神の意志への共感が読み取れ、それはエヴァへの愛慕の情が強かったことを窺わせるものともなっています。彼は妻と命運を共にすることを一度限り決意しています。

しかし、これはアダムは妻よりも神を愛するべきであったという問題ではなりません。
彼が本当にエヴァを愛したのであれば、二人共に堕罪するよりは、事を正そうと行動もできたでしょう。ですが、彼の妻への思慕は利己心に向かい、エヴァと一緒に居たいと強く願う先にあったのは却って共倒れであり、子孫を巻き込んだ死への行動であったことになります。

それこそが『蛇』の狙いであり、サタンはエヴァへの一度の欺きでアダムをも籠絡し、人類を始祖から自分の仲間にしてしまうことが出来ました。
まず、アダムに禁断の木の実を食するよう誘ったところで、アダムが死にゆく道にわざわざ入ることは期待できるようなものでもありません。

しかし、木の実を食べなければエヴァと引き離されるとなれば、アダムはどうするか。そこで『蛇』はアダムのエヴァへの恋慕の強いことを観察し、自分に寝返る可能性の高さを知るに至り、エヴァを先に欺くことが出来れば、引きずられるアダムをも、結果として一言も彼に話し掛けることもなく誘惑し得ると悪知恵を働かせたといえましょう。



◆利己心が創造界に入る

こうしてエヴァを騙した『蛇』は、ただ「一本の木の実だけは食べてはならない」という守るに容易なアダムへの神の命令を、「妻を失いたくなければ、取って食べろ」という強烈な脅しに置き換えることに成功します。確かにサタンは優れた天使であったものを『その輝きのために自らの知恵を汚した』というべきでしょう。

サタンが神の意図から離れた動機については、イザヤの預言書の中にこのように示唆されています。
『わたしは天に登り、わたしの王座を高く神の星の上におき、北の果なる(最上位の)集会の山に座し、雲の頂上に登り、至高者のようになろう』(イザヤ書14:13-14)
優れた天使であったこのケルヴは、『その美しさのために心高ぶり』、神の座を占めて自らを高め、他者を下に置き支配する願望を募らせ方向に自由意思を用いたのでしょう。そこに神へ忠節な愛は無く、利己心と貪欲が生じ、神ばかりかあらゆる他者を押し退ける精紳が創造界に入り込みました。それが利己心です。

サタンについて、イエスキリストはこのように言われます。
『彼は初めから、人殺しであって、真理に立つ者ではない。彼のうちには真理がないからである。彼が偽りを言うとき、いつも自分の本音をはいているのである。彼は偽り者であり、偽りの父であるからだ。』(ヨハネ福音書8:44)

そしてサタンは、エヴァからもアダムからも利己心を引き出し、神への忠節な愛によって行動することから引き離し、他者とどのように生きてゆくかという「倫理」に於いての欠陥をもたらすことに成功しました。
その誘惑は偽りを用いた詐欺であり、その動機は利己心にあり、自分だけを愛して他者を愛さず、創造界に悪と混乱を持ち込んではばからなかったのです。邪悪にも、エヴァには『死ぬことはありません』と言いつつ、実際には人類全体に死をもたらして悪びれもしません。

しかし、この優れた天使が、自分の行動の結果としての最終的な滅びを予見できないはずは無く、彼の手下となった悪霊たちでさえ、自分たちの末路を知っていることを聖書は記しています。(マルコ福音書1:12)

このような卑劣な精神に影響されて、サタンと同じ道に入ってしまった人類の始祖は、他者と倫理の土台である神との関係性を損ない、そうして倫理上の欠陥である『罪』を負うという、堕罪に至ってしまったのでした。
使徒パウロは、このように説明します。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』(ローマ人への手紙5:12)

その結果、アダムは自分の願望のために、自分の子孫を尽く『罪ある者』とするだけでなく、『死への奴隷状態』に一度限り売り渡してしまったのであり、これが聖書の語る、人間の最も重大な問題となったのでありました。

人が、どうしても利己的に振る舞ってしまう原因は、第一にするべき神との関係が壊されているところにあるのです。
神こそが、創造者であり、人間という存在の根源あるからです。

エデンの「二本の木」が表わしたもの、それは他者とどう生きてゆくかを弁えないもの、永遠に生きる資格が無いということであり、現在までアダムの子孫に悪が絶えない理由も、同じく「倫理上の欠陥」があるからです。
そのため、人間は寿命あるものとされました。倫理に問題ある者が生き続けることは、悪と害が地上にはびこり、神の創造の意図は永遠に実現しないことになります。神が『それを食べる日にあなたは必ず死ぬ』と言われた通りです。

こうして、アダムの日から人間には老化と死を避けられない状態が続いていますが、『罪』ある限り、誰も逃れ出ることは出来ません。アダムは子孫に倫理上の清さを伝えることができなくなりました。聖書はこう述べています。
『誰が汚れたものの中から清いものを出せるだろうか。誰もいない。』(ヨブ記14:4)
人間の先祖が創造者への不忠節が、死にゆく空しい命をすべての子孫に相続させたものとなってしまったのです。

では、人類はいつの日にか「永遠の命の木」から食べることがあるでしょうか?







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