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神と人とを隔てる壁

2017.10.31 (Tue)



古来、人々は人間以上の存在への畏敬を表してきました。
それは、今日まで様々な宗教が興り、それぞれに崇拝が行われてきた歴史に表れています。

ですが人類が意識してきた、自分以上の存在者、つまり「上なる者」の姿はあまりにも多様です。
人間以上の存在の実体「神」が何かを知ろうとしても、人々に間での見方の違いは非常に大きく、種々雑多です。

ギリシア神話などに語られる神々は、人間のような性格があり、神々の間で人間のような社会そのままに駆け引きや策略を用いられ、多くの醜聞も伝えられています。

メソポタミアの太古の人アブラハムは、まだ法の整備が十分でなかった当時の諸国民の行動を知る手掛かりとして、その民族の崇拝している神が、どのような性格でどのような道徳性を持っているかで判断していました。
特に、古代にはカナンと呼ばれた現在のパレスチナで広く崇拝されていた、子供の人身供儀を求める残虐なバール神の崇拝者や、エジプトの神々の崇拝者たちの行動に、アブラハムが警戒心を抱いていたことを聖書の創世記が記しています。

アブラハムにとって、エジプトやカナンの人々に道徳性の問題をもたらしていたその神々については、とても崇拝に値するものにはなりませんでしたし、その信者たちの行動も信頼できませんでした。

当時には、灌漑農耕による都市生活が、あちこちでそれぞれの都市文化を花開かせ、世俗の賑わいを見せていました。
一方で、遊牧民であったアブラハムには、俗世を離れた広野で話しかける神があり、彼の神は諸民族の神とは異なり、その信頼性にも道徳性にも彼は深い信頼を寄せていたことを創世記は語っています。
そして、その神についてアブラハムの子孫によって聖書が書き継がれるところとなってゆきます。

宗教について、これは今日にも言えることですが、人がどのような「上なるもの」を崇めるかにより、必ずその影響を受けることになります。
例えれば、ご利益を叶える神を崇拝していれば、自分や身近の人の願望の達成や成功がその心を占めてゆくことになるでしょう。

多くのキリスト教会では、洗礼を受けることによる個人の救いが教えられますが、そこで信者でない人々との違いが生じ、洗礼を受けないなら地獄に行くとも教えられるのであれば、信者には不信者への優越感が避けられません。たとえ敬虔な表層を持っていても、このような宗教は、信者にどんな精紳をもたらしているでしょうか。
世界は今日に至るまで、排他的な宗教に敵意や憎悪を煽られ、ときには流血の惨事にまで至ってきました。

そこで、人がどのような「上なるもの」を求めるか、これはやはり重要な事柄です。
それによってその人は倫理的、また道徳的な選択をしてゆくことになるからです。
この世には、無数と言ってよいほど多くの宗教があり、その一方で無神論や不可知論という考えも存在しますが、それらもまた、人の生き方を形作る点では、宗教のような影響を及ぼします。

一方で、聖書の描く神、アブラハムに現れた神は、自らを「全能の神」(エル・シャッダイ)と言われます。
この神は天地創造を行っていますので、この神を敬うべき理由を聖書は、『主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです。』と述べ、神が、万物創造の第一原因者、また全能の神であるからこそ、この神を敬うべきであるとしています。(黙示録4:11)

確かに、自分という存在の意味を問うとすれば、それはやはり人を存在させた創造者に尋ねるべき理由があります。
人間というものは、自分の存在する意味を「上なるもの」に問い掛けようとするものであり、自然と自分と「上なるもの」との間に同じ人間を立たせたいとは思わないものです。

「人はなぜ生きるのか」というような純粋な質問に対して、別の人間が入り込み、「その人の上なるもの」の代理を装うなら、その偽者の言いなりに行動や生活までも縛られ、人格も踏み躙られ兼ねません。しかも質問には正解を得ないことになります。
ですから、人々が強引に伝道されるのを強く嫌うのも、こうした害のある雑音から自分を守るための当然の反応でしょう。

この点で、人には自分で自分の生き方を決めたいという本能的な願望があるといえます。ですから、圧制や奴隷というものは、常に人にとっては不自然な束縛となってきました。やはり、人は自分の生き方を自分で決めるよう創られていると言うべきでしょう。


それにしても、本当に「全知全能の神」と呼べるような最高存在が存在するのなら、どうして人間の前に、これほど多様な宗教や崇拝の対象物である「上なるもの」を置いて迷わせるのでしょうか。

これについては、次のような問いを考えると見えるものがあります。
もし、仮にあなたが神の立場にあったとしたら、人々を強引に従えたいと思いますか?
それとも、心からの信じ合える関わりを持ちたいと思いますか?

この点で、聖書の神は、人類一般に否応なく認めさせるような圧倒的な仕方で自らを現してはいません。
それは強引に自らを人々に認めさせることを意図しないからです。
もし、全能の神がそうしようと思ったなら、主権を唱えてとっくの昔に一切を服従させていたことでしょう。

また、科学で神の存在が証明されることもありません。
もし、そうできるなら、人間は自分の力で神を捉えることができることになりますが、そうなれば、逆にすべての人は神を受け入れざるを得なくなるでしょう。
神の存在が証明されるものなら、自ら神を選び取る「信仰」は不要となり、それが当然の常識となって、却って絶対存在者から誰も逃れられなくなります。そこで生じるのは意志の自由のない奴隷化でしょうし、神は強圧的な主権をふりかざす点で、それ以上ない圧制者となってしまいます。

しかし、幸いな事に、人間がどれほど科学を発達させても、科学という客観的観察で神を見出すことはできません。
創造の神は物質を超えた存在だからです。ですから、どんな機器を使っても検知も測定もできるような「物」ではないのです。

このように、神と今日の人類の間には大きな隔たりがあることを、哲学者らも認めてきました。
ジョン・ロックは、人間は生得的に神認識を持たないので、一致した神を見出すことはできないと述べ、エマヌエル・カントは、二律背反の原理を用いて、人間は理性によって絶対の存在者を見出すことはないと論証しています。

そのうえ聖書が、創造の神と人類の間には大きな壁となる事柄が関係を阻んでいることを知らせています。
聖書は『あなたたちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、あなたたちの罪が神の御顔を隠させた』と述べ、神が悪を行う罪人を隔てられることを知らせます。(イザヤ書59:2)
つまり、神は確かにすべてを創造したとしても、人類はその創造の目的から外れてしまって、それが神と人の「壁」になっているというのです。

キリストの使徒パウロでさえ、『自分では善を行おうと思うのに、いつも悪が付きまとっている』と、自分自身にも罪があることを『みじめだ』と言って嘆いています。(ローマ人への手紙7:21)

一方で、聖書の神は、『人はその顔を見てなお生きていることはできない』と言われます。(出エジプト記30:22)
これは、罪にまとわれてしまっている人間が、聖なる神の栄光の前には相応しくない存在になっていることを示しているのでしょう。『すべての人は罪を犯しているため、神の栄光を受けられなくなっている』とも書かれています。(ローマへの手紙3:23)

また、人間の状態について次のようにも書いています。
『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時にこの希望も持っています。
つまり、被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる望みが残されているのです』。(ローマへの手紙8:20)


創造を終えた後に『神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。』と創世記は記しています。(創世記1:31)
しかし、今日の世相を、また人類の歴史を少し見るだけで、そこには悪がはびこっていて、創造の直後のような『極めて良い』状態に人間がないことはあまりにも明らかです。

神に創られた人類に『神の子供たちの栄光に輝く自由』が与えられるとパウロが書いたのも、現在の人間は、神の創造のままの意図に従った創造物、つまり『神の子』とは認められていないからです。
神と人とを隔てる大きな壁、それが人間に宿る倫理上の不完全さ、つまり『罪』である現実がそこにあります。

そこで神は、この壁となっている『罪』を取り除く意志を持ち、それにそって歩みを進めて来られましたが、それこそがキリストを遣わされた目的であり、聖書という書物が、神の悠久にわたるその歩みを知らせているのです。








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キリスト教の目的

2017.10.23 (Mon)



キリスト教の目的を一言で言い表すなら

「人間の不道徳な性質を清め、創造の栄光ある姿に戻し、永生を与えること」と言えます。

この「人間の不道徳な性質」とは、この世に横行している無数の倫理的に問題のある行いの原因である、人間の悪に傾く性質の事で、 この性質こそが、人類を苦しめている最大の原因となっています。

聖書は古くから(旧約聖書で)人間についてこのように書かれてきました。
『善だけを行って、罪を犯さないような人間は、この地上にはいない。』(伝道の書7:20)

しかし、これはあまりに人というものへの悲観でしょうか。
確かに、人は善を行えないわけではなく、愛を示すことができるのです。

ですが、悪をまったく行わず、偽りをひとつも言わない人はありえず、高潔を求められる地位の高い人々であっても、時に醜聞を流されることは珍しくもありません。まして一般の人々の間では、不義は不義を呼び、道徳にもとる行いの誘惑は日常どこにでもあるものです。
聖書の新しい部分(新約聖書)でもこう書いています。
『ユダヤ人もギリシア人も皆、罪の下にあります。 次のように書かれたとおりです。「義人はいない。一人もいない。』(ローマ人への手紙3:9-10)


世界は、いまこの瞬間にも不正や不義が横行し、人々の利己的な欲がせめぎ合っていることでしょう。
それが「この世」という人間の社会の実像と言わざるを得ません。
イエス・キリストはこう教えます『罪を行う者はみな罪の奴隷なのだ』。(ヨハネ福音書8:34)
実際、人が受ける苦難の大半は、人間自身の悪に原因をもってはいないでしょうか?

もし世界の人々が皆、様々な悪の傾向から逃れられるとすれば、それがどれほど画期的なことで、どれほど大きな罪の重荷からの解放をもたらすかは容易に想像できます。
キリストの使徒パウロはこう手紙に書いています。
『被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれる望みが残されている』。(ローマ人への手紙8:21)

ですが、現状で人間の力ではけっして起り得ないことで、人は誰も悪を改めることができません。
どんな宗教にせよ、道徳教育にせよ、人類に倫理面での進歩さえもできていたなら、世界の歴史も、今日のニュースも幾らかは違ったものになっているに違いありません。
明らかに人間には倫理上に問題を抱えているので、個人がそれぞれ日毎にこの欠陥のために、重い苦難を多様に受けている現実があります。

人は日常に様々な欲望を抱いて生活しています。
そのなかには、自分と家族の生活を支えるための必要な願いもあれば、大きな財産や利権を得るような成功を望むものや、他の人の権利を犯してまで得ようとする強欲や貪欲もあるでしょう。

つまり、欲を持つことは人間本来の必要であり、身近な人や他の人々を喜ばせることは善なる欲求と言えましょう。
しかし、「貪欲」という他の人々を押し退けて自分の利益求めるところでは争いが避けられません。

この世には、人々の様々な大小の貪欲があふれ、海の荒波のようにぶつかり合っています。
人と人とはこの欲によって動かされ、それが衝突しながら生きてきましたので、人類の歴史には争いが絶えませんでしたし、これからもこの趨勢については変わる兆しもありません。

旧約聖書はこのように述べています。
『悪しき者は波の荒い海のようだ。静まることができず、その海水は泥と汚物とを打ち上げる。「邪悪な者に平和はない」と神は言われる。』(イザヤ書57:20-21)
これは、いつも見聞きする世相そのものの描写ではありませんか。

また、新約聖書は人の内面に切り込み、その心から争いの絶えない理由をえぐり出します。
『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。
それは、あなたがた自身の内部で争い合う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。
また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。得られないのは願い求めていないからで、願い求めても与えられないのは、自分の楽しみのために使おうと、間違った動機で願い求めているからです。』(ヤコブの手紙4:1-3)


これらの言葉は、人の強欲や貪欲が原因となって争いが起き、人殺しにさえ至るこの社会を聖書の言葉が焙り出していると言えるでしょう。それは人が歴史上でずっと見てきた世相そのものです。

人間は交換社会を基本としています。貿易によって結ばれたこの世界では、ますます他者に依存して生活を成り立たせるようになっていますが、際限のない貪欲は、自分の贅沢のために他から奪い取ることを厭いません。
充分な食糧が生産されている傍で、三度の食事さえとれない困窮があり、消費生活を謳歌する僅かな人々に対して、世界の半分ほどの人々は一日2米ドル以下の支出で生きていると言われます。この世界が、まるで一握りの人々のために存在しているかのような富の偏りは終わることがありません。

人類は消費生活に対する大自然への負荷への支払いをろくにしないで過ごしてきたというのは、まず間違いのないことでしょう。
いまや、地球環境が変動しているとしても、不思議はありません。
つまり、人間の不道徳性は、その存続をさえ危ぶませているのですが、それなのに紛争や軍拡、民族主義や宗教的反目を世界はわざわざ付け加えて止める様子もありません。これは誰もが日毎に見聞きする日常となっています。

そこで、この世に生まれたままに社会を受け入れるなら、こうした欲望によって動かされる人々の姿も当たり前のように思えるかもしれません。
それでも、人間の欲、特に自分の利益を追求して他の人々を顧みない強い欲望が社会に溢れていることに警鐘を鳴らす人々も存在してきました。

例えれば、フランス革命の前夜の思想家モルリーはこのように書きます。
「この世における唯一の悪徳は「貪欲」である。他のあらゆる悪徳はどんな名で呼ばれていようとも、すべて貪欲の和声であり、音階であるにすぎない。・(略)・虚栄、うぬぼれ、傲慢、野望、うそつき、偽善、非人情などを分析してごらんなさい。・(略)・その一切のものは精巧だが危険きわまる要素たる所有欲に帰一するのである。」(M.Morelly “Code de La Nature”「自然の法典」1755大岩誠訳p26)

このような人間の倫理上の欠陥は、古来ギリシアの哲人を悩ませ、仏教の開祖ゴータマシッダールタも考慮に中心に置いた問題でありました。
しかし、人の不道徳なところが大きな問題であることは指摘できても、それを解決するとなると簡単なことではありません。いや、どんな教育や宗教をもってしても不可能というべきでしょう。

人の不倫理性を、仏教では一般的に『業』(カルマ)という言葉で言い表すことが慣例なら、キリスト教においては『罪』(ハマルティア)で表します。
どちらも、人間の倫理的欠陥を宗教の中心的主題に置いているのですが、仏教がそれを『業』に応じた輪廻転生と最終的な「解脱」に答えを与えるのに対し、キリスト教では『罪の許し』によって不倫理性が浄化されることを説きます。(ルカ福音書24:45-47)

聖書はそれに加え、人間の『罪』がなぜ始まったかを語り、それが元々の人間の姿ではなかったことも知らせています。

では、どうして神の創造物である人間が、貪欲や利己心をもたらす『罪』を持つことになってしまったのでしょうか。
また、神は人間の『罪』をどう浄化して、人をその意図に適った創造物に復帰させるのでしょうか。
これらが、キリスト教本来の根本を成す教えの要旨であり、目的とするところで、「信者が救われる」という、ご利益信仰とは無縁です。創造の神は、人類全体を『罪の奴隷』から救い出し、創造された当初の輝かしい姿を回復させることを目的とされ、行動してこられましたが、その記録が聖書にまとめられています。

世に来られたイエス・キリストという人物は、この目的を成し遂げるために遣わされたのでした。神の存在だけでなく、この方を信じることがキリスト教です。(ヨハネ福音書8:34-36)






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序 3

2017.10.22 (Sun)
◆聖なる書

この書の一貫した主題とは、人間の虚しさの由来と、その根底からの解決であり、この世の有り様が未来永劫に続くものではないことを教えます。
人間は自ら陥った問題のために、これまでずっと苦難の短い生涯を強いられてきたのですが、その問題の原因が、善悪、また倫理に関わるものであったことを聖書は知らせます。まさしく聖書とは、善悪、つまり倫理をテーマにした本なのです。ですが、その「善悪」と言うのは、個人の言動の良し悪しを遥かに超えた次元の、人類全体の性質を指しています。

神は世界を創造し、人も創られましたが、今日までに見られるような儚い生涯を人に送らせようと意図したわけではありません。
また、多くのキリスト教会が教えるように、人々を天国に召すことを目的したわけでもありません。聖書の浅い理解に留まっているなら、容易にこれらの誤解に陥ることでしょう。

聖書に込められた神の目的は、人類全体の救済であって、個人がこの世で成功を収めることや、世渡りの秘訣を与えることではあないのです。それを望むのなら、原始キリスト教は似つかわしくなく、ほとんど役に立たないでしょう。所謂「ご利益信仰」ではないからです。

聖書の神は創造者であって、この世がその意志に適ったものではないゆえに、人類の始祖以来、ずっとひとつの目的をもって行動して来られました。
人々は、世の悪や苦しみを見ては「全能の神が居るのなら、どうしてこうしたことが起こるのを許すのか」と問い続けてきたことでしょう。

人の短い生涯からすれば、永きに亘る神の歩みが見えず、そのように問うことはもっともなことです。
それでも、太古の過去から、将来に至るまで、神がどのように行動して来られたか、また将来に何を行われるかの全体像を俯瞰する手掛かりがあり、それが聖書という書物の役割です。

この書が、この世で人を金持ちにするわけでも、病気を治すわけでも、寿命を延ばすわけでもありません。

しかし、人間という創造物が、どうして短く虚しい一生を終えて去ってゆかねばならないのかを知らせ、創造神の意図がそのようなものではけっしてなかったこと、また、窮境にある人類をどのようにして救済しようとしているかという、人間についての根本的な事柄を説く書です。

聖書には、神の活動と人々との関わりが記録されてきました。最後の部分が書かれて1900年が経過しています。
しかし、神は以前にも400年ほど聖書記述を中断したことがあり、今日でも全てが書き終えられたとは言えません。
聖書が神に関する記録ではあっても、神の行動をその中に閉じ込めることはできないからです。

また、この書に忠実に従えば神の是認を受けるとはけっして言えません。
聖書に厳密に従ったユダヤ人は、書かれていることでなく、書かれていないことののために、神から遣わされたキリストを退けてしまいました。神は人に信仰を求めるので、すべての事を教え尽くすことはありません。

そして聖書は、何度も「終末」という世の終りの時期に焦点を当てており、そこで神は過去の華々しい奇跡の偉業に勝る力を示されると言われます。そこで「この世の神」が裁かれねば、人類から苦難は去りません。

そのように創造の神が人間に対して行おうとしていることは、個人の利得を遥かに超えて、創造された世界の隅々にまで幸福をもたらすものです。
この神の意志に共感するには、利己心を去るよう努めることが求められます。なぜなら、他者を押し退ける利己心こそが人々を苦しめている元凶であり、これまでこの世を形作ってきた原因だからです。

そこで、原始キリスト教を学ぶことには、利他的な大志が求められ、同時に神に深く謙る畏れも必要になります。
好奇心から教理を知ろうとすれば、その意義は消え、知識を誇れば奢りを避けられません。
人が自分の理想に基いて神を形作るのではなく、人の思いを遥かに超える神が感化を及ぼすのであり、神は人を知識や道徳性ではなく信仰に於ける愛を試されます。

もし、こうした事柄が意に反するのであれば、原始キリスト教には関わらない方が良いでしょう。
しかし、人間という創造物の真の有り様を理解し、創造者との関わりを知ろうと思うのであれば、他に道は無いでしょう。







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序 2

2017.10.20 (Fri)
◆人は上なる者を求める


人は人生の意味を尋ねます、どんな若者もいつしか老化が始まり、体に不具合も出始め、誰もが人生の終りに向かっていることを否応なく意識させられることになります。
まして、この世では多くの悪や苦しみを経験しますが、楽しみはそう多くなく、人の寿命もそう長いものではありません。

そこで、人は何者か自分以上の存在を自然と意識してきました。「何のために自分は存在したのだろう」という問いかけは、人間以上の何者かにしか答えがないことを直感するからでしょう。

そして、ほとんどの人は、その「上なる者」と自分との間に他の人間が入ることを嫌います。
それは自然なことであり、「上なる者」は自分と同じ人間であるはずがないからです。
ある種の宗教家が人々に煙たがられ、伝道されることが好まれないのは、人間の賢さの発露というべきでしょう。

しかし、それでも人は「上なる者」を意識せざるを得ません。
人の生と死、また結婚などで、自然と人以上の何者かを介在させようとの本能的な意識が働くものです。

それは特に、世界や自分を在らしめた原因者である何者かへの意識であり、人はその「上なる者」を意識し、様々な民族によって「神」とされ、また宗教を介して人は神と自分とを関連付けてきました。

人は、どんな動物とも異なり、この見えない形而上の存在との関係を持とうとする性質を唯一見せてきました。
新約聖書の記載に用いられたギリシア語では「人間」は「アントローポス」であって、この本来の意味は「上を向くもの」を表します。
つまり、人間は自分以上の存在者を意識し、話し掛け、また導きを求めようとする特異な生物であることを表しています。

理性を備え、道理を考える人間たちが、自分がどこから来て、どこに行くのかを問い掛けるのは、ごく自然なことです。
自分と云う存在が有る前に、親たちや先祖を越えて存在させた、また世界をも存在させた何者かが居ることを、人の理性や感覚が告げて来たからでしょう。

しかし、この問いへの解答は、根源的な創造者という人を超える「上なる者」の存在をどうしても要することになります。
存在しているこの世界には、様々な設計や意図が見て取れるからであり、すべてを偶然や無作為に帰するとすれば、最終的に人生を無意味の暗黒に投げ込むことになってしまいます。そうする理由といえば、「神など存在しないのだから仕方がない」という諦め以上のものになるでしょうか。

人間に備えられた、叡智や奥深い事柄を理解し価値ある事柄を成し遂げる能力には、やはり重い意義があると人に感じさせるもので、それがまた短く多難な人生を空虚に感じさせています。
この意義と空虚さとの不合理に対して、人は疑問を感じ、それを「上なる者」に問いかけたので、歴史上様々な宗教や哲学が登場して来たと言えましょう。実に、物質界以上の抽象概念である「神」(かみ)を捉えようするのは、宗教を持つ生き物である人間以外に地上に見当たりません。

ですが、普遍的で誰でも納得するような根本的な問いへの答えはなく、そこで様々な解答と思われるものを陳列するよりほかありません。
なぜなら、創造者は自らの存在も意図も否定しようもない仕方では明らかにしてはいないので、人間は自分の側からの模索を続けてきましたが、それが宗教や哲学の蓄積となっていると言えましょう。そこには雑音も付き物です。

しかし、人間の側からの探求では、創られた世界を観察する以上には進みません。これは自然科学の限界でもあります。
そこで人より高い次元について知るには、科学以外の「上からの知らせ」、つまり「啓示」をどうしても必要とします。しかし、客観的な検証のできないそこには、却って低次元のまがい物が横行する余地があり、それはこの世に溢れる奇怪な宗教や霊との交信を騙る分野に見られる通りです。

それでも、「上なるもの」はまったく上からの啓示を与えなかったのではありません。
神からの啓示は、世界文明の黎明期から与えられ、特に四千年も前の中東メソポタミアに居た、一人の人物に約束の形で与えられ、彼の一系の子孫に加えられ、それは西暦二世紀までに新旧の聖書にまとめられました。

なぜ、この書がまさしく「上からの啓示」と言えるのかと云えば、この書はこれほど長い歴史を持つものでありながら、根底を流れる主題をずっと保持し続けており、時代も立場も場所もそれぞれの筆記者らが、その主題の下に書き継いでいるところに、著述を導き続けた人間を超える存在を指し示しているのです。





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序 1 

2017.10.19 (Thu)

◆ 人はなぜ存在し生きるのか

たいていの人が一度は尋ねるこの問いですが、これを問う理由は何かといえば、人は誰も自分から生まれてきたわけではないからでしょう。
「なぜ存在し、生きるのか」の問い掛けに何らかの答えを求めて、人はそれぞれに答えと思えるものを考え、あるいは宗教的な教えに納得し、人生に意味付けを行ってきましたし、これからも人々はそうしてゆくのでしょう。

世の中には、生きる意味についての様々な回答はありますが、実は、誰にでも当てはまるような、普遍的で決定的な解答というものがありません。そこに「真理」と「間違い」だけがあると思うなら、その人は単純な教えに洗脳を受け、多様な観方を尊重できないでしょう。

「人生の意味」は個人により、それぞれの宗教の教理により異なっていて、不可知論や「考えても仕方がない」に至るまで様々です。人々はそうした「解答と思われるもの」を宗教なり思想なりによって陳列して見せるのが精々です。
そこで人々は、互いの「人生の意味」を尊重する必要があり、その答えを別の人が決めるとすれば、本人の人格を踏み躙ることになってしまいます。
なぜなら、それはその人それぞれの主観であり、押し付けることに無理があるからで、同時に人間は誰もこの正解を持っていないことの証しでもあります。

「人生の意味」には、例えれば、何かに打ち込んで成功すること、そうして後世に名を遺すこと、また、人を愛して共に支え合ってゆくこと、或いは、生きている内に人生の意味が見つかるという「答え」もあるでしょう。

また、宗教にその回答を求める人々は、この世の人生を終えてからその報いを各自が受けるという教えを授かることもあるでしょう。
多くのキリスト教の宗派では、生きている内に、その宗派に適った信仰を持たないなら地獄にゆくと教えられています。                             
一方で、宗教を認めない人々には、人間の命を得たのも大自然の偶然によるもので、人生に意味などは無く、それは自分で創ってゆくものだ、或いは、人生の意味など考える必要も無い。生かされているのだから、とにかく生きるものだ、という答えもあることでしょう。

人々の中には他にも多種多様な考え方があるでしょう。
それらの全体を眺めると、やはり人間には、誰もが納得するような普遍的な「生きる意味」の正解が無いという実態が明らかに見えています。

そこで、自分の人生は自分のものだから、どう決めようと自由だという見方も確かに成立します。
ですが、それで自己満足はできても、本当に生きる意味を見出したのかどうかは別問題ですし、人生の問題点も空虚さも一向に変わることもありません。ただ、心理的に楽になるか否かの違いがあるばかりです。

人生の意味について考えさせられるきっかけは、この世にいくつも存在しています。
そのひとつには、死という人生の終りが有り、それも寿命を全うしても。人々の一般的感覚からすれば、人生はそう長いものにはなりません。
まして、いつ死を迎えるか、災害や事故や病気、或いは戦争や騒擾、またテロの脅威に人は常に曝されていますから、人の命とは誰にとっても儚いものというべきでしょう。

そこで、宗教の多くは死後を説くのですが、これは、死で人生が終わりを迎えることそのものへの空虚さを回避する心理作用によって、それを克服する手立てとなってきたことでしょう。死んで見ないと分からないことから、確かに一生を死への恐れに怯えながら過ごさずに済ませるには方便ではあります。

しかし、人は死を迎える以前、ただ生きてゆくことさえ生易しいことではありません。
生計を立てること、また幸福を望んで人々は仕事に従事しますが、そこには厳しい競争があります。しかも、そこそこの収入のある職を得ることでさえもそう簡単とはいえません。

社会は、家計も企業も互いの利益の最大化を求めて動いています。そうしなければ生計は立たず、事業そのものさえ失い兼ねません。そこで人々も組織も自己の利益を求めて、他者の報酬を削り合う以外になくなります。

このように人生は充分に苦難に満ちるものですが、人間は戦争や騒擾という社会悪までもわざわざ付け加えてきました。
人の正義は憤りを避けられませんが、そこで人々は憎しみを募らせることも厭いません。敵意や闘争も正しい事に祭り上げるのはどこにでも見られる光景です。

そのうえこの経済面では、僅かな数の成功者の下に大多数の富が集まり、ほとんどの人々には僅かな残りを巡って果てしない労苦が要求されています。

このような社会のピラミッドは、歴史上常に存在してきたもので、現代でこそ、かつての時代のような、あからさまな奴隷制度は目立たなくなったとはいえ、巧妙に隠された奴隷制度に形を変えて今でも普遍的に存在しており、少数の富者と大多数の低所得者のピラミッド構成は厳然と身近に存在しているのです。

ですから、人が生きる「この世」という環境は、然程に人を歓迎しているようには見えません。
ですから、「この世」を作ったのが神であるとすれば、その神は嗜虐傾向を持つ、気まぐれで意地の悪い性格の持ち主と云うべきでしょう。
そこで、「神が居るなら、なぜこうした世の中なのか?」という問いかけを人々がするとしても、それは当然です。

仏教の開祖、ゴータマ・シッダールタは、この世が苦に溢れていることについて深く考察を重ね、生きる限りは、苦しみから逃れられないと結論しました。
そして、人間の苦しみの究極的解決策とは、「涅槃」と呼ばれる絶対的消滅であるとの結論に至ります。
確かに、この世の生の虚しさを考えるなら、これも合理的な結論と云えるでしょう。

その一方で「聖書」は、『この世の神』とされるのは世界の創造神ではない別の神であるとされています。
『創造神』ではない何者かです。
ですから、『この世』に創造の神の意志が働いているのではないと聖書は云うのです。

では、世界を創られた「神」が、この世の有り様に見られるように苛酷な性質の持ち主ではないとすれば、どうしてこの世はこれほど虚しいものなのでしょう? また、『この世の神』とは何者なのでしょう。








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安息日の意義   -綱領-

2017.10.05 (Thu)

安息日(シャバット)[שַׁ בַּ ת]


安息日とは何か?

『安息日』とは、モーセの律法の中でも初めの「十戒」に含まれる第四の条項(出埃20:8)で定められた、七日毎の不労働日の規定である。律法上では、異神崇拝、偶像崇拝の禁止、神名の乱用の戒めに次ぐほどに重要度の高い位置を占めている。即ち、神と民の関わりに関する四条項の最後が安息日となっている。この条項については、十戒の中で最長の戒めを成しており、由来と対象までが述べられ、十戒の中でも格別のものと見做し得る。

Ezk20:12〜21は、特に安息日がイスラエルを諸国民から分けた印であったと語られる その神は七日目を休む創造神であり、民は神によって聖別される。
また、不労働の習慣については、マナ降下と拾得に関わる指示が十戒の授与に先行していた。(出埃16:13-27)

最初に聖書に七日毎の労働の禁止が現れるのは、荒野のイスラエルの民がマナの供給を受け始めたところにあり、六日目には他の五日の倍の量を受け、七日目の安息が守られるよう配慮されていたところであった。(出埃16:13-27)
七日毎の休息の根拠としては、神が創造の六日間を終え『YHWHは安息日を祝福して聖と成した』とされ(出埃20:11)、神の創造の「六日間」という期間にちなみ、イスラエル人も六日の労働日の後に、神が一日を取り分けて『休み』*『聖なる日』としたように、イスラエル民族が一切の仕事から離れ、休息するよう、神は律法を通して命じた(出埃20:8-11)。また、家庭で火を起こすことも禁じられ、家事も制限される。(出埃35:3)。*(創世記2:2の「休まれた」は未完了態)

安息は、神に対して『聖なるもの』とされなければならず、その安息を犯して生業に携わる者は死刑に処せられるべきであり、その範囲はイスラエル血統だけによらず、同居の奴隷や居留者らから家畜にまで及ぶべきものとされていた。(出埃20:10)
また、種蒔きや収穫の時期であっても例外はなかった。(出埃34:21)但し、民が幕屋や神殿に上ることを要求してはいない。むしろ、距離の長い移動は禁じられ、自宅に安んじるよう求められた。(出埃16:29)その効用のひとつには、家庭の親密さの増進があったと思われる。捕囚期の後には、民は安息日を守る習慣を失っており、これはエズラやネヘミヤの強い指導を必要とした。それからは安息日に会堂に集まり律法の朗読を聴く習慣が始まる。この習慣には後のメシアも参加しており、神の承認が認められる。

この掟が初めに与えられた荒野において、早くも薪を集めていた者が捕えられたが、神はこの者に死刑を課している。(民数記15:32-36)
ほかに死刑が命じられた条項には、異神・偶像崇拝、交霊術、飲血や脂肪などの食物規定への違反、祭司の崇拝方式の違反、故意の殺人、人身供儀、姦淫、強姦、獣姦、同性愛行為、があり、安息日の遵守が相当に厳格に求められていた。

不労働の規定については、安息日のほかに、律法で定められた三つの祝祭に規定された『聖会』とも訳されるアツェレト*(レヴィ23:5/23:21/23:32/23:36/23:39/16:29-31/)、また、各月の始まる新月の夜からの一日も安息を守ることが義務付けられていた。そのため、祭と共に安息日と新月の日には聖なる事柄に関わる日と認識されていたことが二王国時代の聖書記述にも表れている。(列王第二4:23)*(意味は不詳)

安息日は神の聖性を重んじることが関連付けられ(レヴィ19:30/26:2)、毎安息日には、YHWHの前に、雄の子羊二頭、十分の二エファの油で湿らせた上質な小麦粉が捧げられるよう求められていたが、これは常供の捧げ物と同じ内容であるので、安息日には二倍の捧げ物が為されたことになる。(民数28:3-10)
(新月には、子牛や山羊などを含めたより多くの供物が求められている(民数28:11-15))

安息日毎に聖所の黄金の食卓上の12のパンが新たなものに置きかえられていたが、これは『覚えのパン』(御顔の前の)と呼ばれた(レヴィ24:5-8)。それらのパンはアロンに属する祭司らの『極めて聖なるもの』となり、聖なるところで彼らに食されるべきものとされた。<これが後代に、逃避行中のダヴィドに提供されており、それを更にキリストが指摘している>

モーセは申命記で、安息日の意義につき、イスラエル民族がエジプトで奴隷であったところを神が力強い御腕をもって導き出されたことを覚えているためである(申命5:15)としている。
従って、『安息日』は絶えざる「奴隷労働からの解放」と、そこからの神による解放を記念し再考する意義を有していることになる。

レヴィ記25章では、安息日を拡大した安息年とシャヴオートを拡大したヨベルについて規定しているが、これはほどなくして遵守されなくなっていたが、ネヘミヤ記や外典によれば、少なくとも負債の免除と食糧貯蔵については記されている(ネヘミヤ10:31/マカベア第一6:49-53)。

また、レヴィ記26章では、イスラエルが安息を守らなくなることを予告しており、『約束の地』を追われる間、その地自身が『安息を払い終える』と早くも予見している(レヴィ26:34)。



安息日の再開の困難

しかし、捕囚後のネヘミヤの時代には、ユダヤ人は律法遵守の習慣を忘れており、指導者らは安息日の規定を守らせることに多くの労力を割いている。(ネヘミヤ13:15-22)

その後、ユダヤ人の律法学者が隆盛を迎えてから、律法の厳守と一層の適用を唱える傾向が強まり、キリストの到来までには口頭伝承から安息日での規則が多く加えられ、最終的に39箇条の遵守事項が指導者層によって定められていった。キリストが安息を守っていないと咎められたのは、病気を癒すこと(マルコ3:1-6)や、麦の穂をむしって食した(マタイ12:1-8)ことが、それら付け加えられた規則に反して仕事を行ったと見做されたことによる。

その際に、キリストは『人の子は安息日の主である』と言われた(マタイ12:8)。この『人の子』と『主』は定冠詞を伴うので、「キリストが安息日の主である」と言っていることになる。それは、七日に一度巡って来る不労働日の主がキリストである、という意味にはならない。キリスト教に於いては、使徒らの時代以降には、七日に一度の不労働日は要求されておらず、当時の宣教と集会に便宜的に利用されている。

従って、キリストが「安息日の主である」とは、律法に規定された安息日の対型について述べていると見るべき理由がある。

その対型となる事象は『神の王国』の千年期が大きな蓋然性を持っている。即ち、神の創造の意図から逸脱した、長い『この世』という時代の終りに、千年の王国の支配が臨むことで、人々は『顔に汗してパンを食べ、遂に地面に帰る』という心労と空虚な労働の日々を終え、アダムが堕罪以前に有していた神の子の立場を得るべく、象徴的不労働、生きるために生きる生活を後にすることを述べていると見做す理由がある。


安息に聖俗の概念を提起するネイヴィーム

安息日が人の聖と俗を分かつものとなることを再び指摘しているのは、バビロン捕囚に関して預言したネイヴィームであり、彼らの活躍した時代には第一神殿が失われたことで、律法の完全な遵守は不可能に陥った。
その状況を予見しつつ、預言者らは律法の意味するところを再考する言葉を記している。

『安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、己が道を行わず、己が楽しみを求めず、空しい言葉を語らないならば、その時あなたはYHWHによって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。』(イザヤ59:13-14)

『「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前に永くとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名は永くとどまる」とYHWHは言われる。「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」とYHWHは言われる。』(イザヤ66:22-23)

エレミヤは、『父祖に命じたように、安息日を神聖にしなければならない』としつつ、それが守られていない当時の状態を指弾している。(エレミヤ17:19-22.27)
加えて、『安息日を神聖とするなら、王たちが入って来てダヴィドの王座に就き、エルサレムは定めない時までも人で満ちる』と述べる。(17:24-26)
しかし、実際の歴史は、民が安息日を神聖としなかった為にエルサレムの滅びが起こったことを預言と歴史が対照して知らせるものとなっている。
エレミヤの言うように、ダヴィドの王朝は以後復興しておらず、最後の王となったゼデキヤ以来、その座に就いたエッサイの根からの王は一人も居ない以上、安息日がメシアの王権を得た再来と深く関係している。

更にエレミヤでは、バビロン捕囚を招いた民の律法不順守の罪の全体が、恰も安息を守らなかったことに集約されているようにさえ語られる。
その罪科を通して、事の聖俗が分けられず、更に敷衍すれば、神YHWHを聖なるものとしなかったということになろう。
従って、イスラエルが律法の条項を如何に守ろうとも、安息日条項が機能するか否かは別問題であったことになる。即ち、不労働日を設けるか否かよりも重い意義があり、それが「聖性」の問題であったと言い得る。(イザヤ1:13)

ネイヴィームの預言の中で、エゼキエルも『安息日を汚した』としてユダの民を譴責する預言を伝えており、バビロン捕囚に至った原因のひとつに挙げられている。(エゼキエル20:18-23)
この中で『わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるし』となり、この民の神がYHWHであることを示すという。(エゼキエル20:20)これは対型を予感させる。なぜなら、キリストの時代にユダヤは安息日の精紳から離れていたことを指摘されているのであるから、更なる後代に意味を持たねば最後まで未成就で終わる。

エゼキエルは神殿の幻の中で、在るべき律法制度を啓示され、その中で、祭司らは『聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない』とし、そのうえで『わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない』としている。そこでは安息日を含む聖日を守ることが、民族の聖性に関わっていることが示されている。(エゼキエル44章)

また、「土地が安息を得る」という概念は、単に耕地を多年に亘って荒れ果てさせるという実際上のことではなく、俗化の痕跡を土地から過ぎ去らせるという象徴的意味を持っていたのであろう。(レヴィ26:34/歴代第二36:21)

その後、帰還の民の間では、安息日を不労働に保つ事柄に注意が向いている。(ネヘミヤ13章)
それは、捕囚後のユダヤ人自身が、律法順守の生活を再構築する必要があったことを知らせている。(それはまたトーラーやタナハの全体を復習していなかった民の状況を知らせている:エイレナイオスの聖書伝承の話には真相が込められていたのかも知れない)
(バビロン捕囚がディアスポラとなる間にシュナゴーグの習慣は発達していなかったのではないか?、そこでネヘミヤとエズラが相当に労力を傾注しているのであろう)



安息に入るという概念

キリスト自身も律法の下に有り(ガラテア4:4)、安息日を守る務めを有していた。従って、その行動には律法下での安息日の適正な在り方が反映されていたことになる。
また、キリストは安息日に会堂に入り、会衆に混じっている姿が福音書に見られ、集会が律法で命じられたものではないが、その習慣に従うところが見える。(だが、それが「崇拝」であると言える根拠には至らない)

また、宗教指導者層の安息日概念と癒しについてキリストは再三の衝突を見せている。その機会は多く、安息日について相当な、また確固たる意義を教えようとの意図を強く示す。
当時のタナイームやパリサイ派は、不労働の徹底に於いて安息日の意義を主張したのに対して、キリストは奇跡の癒しを含む聖性の意義を強調し、民の苦痛の除去を通して、エデンへの回復の概念の呈示が見られる。


新約聖書中で律法の安息日の意義を説明するのはヘブライ人書簡である。
そこでは『神の休みは残されている』ので、その休みに入るようにヘブライストのイエス派聖徒を説得している。それは七日毎に不労働を守ることではない。(ローマ14:5-6)
その休みとは、人類史全体を包含する『神の第七日』の『神の休み』に入ること、敷衍して律法の業から解放され、キリストの犠牲によって『罪』から解放されることを意味した。(ヨハネ8:34-36)

西暦七十年の近付いた頃に書かれたヘブライ書は、ユダヤ人イエス派に律法から早急に解かれるべきことを説いたものであろう。彼らにとっての『神の休み』とは、モーセから解かれて、キリストの自由に入ることを指していたと思われる。これは、『罪』から逃れられない「人間の義」を立てる律法遵守の空しい務めから解かれ、信仰による「神の義」の安息に入ることをも指している。

だが、『罪』からの解放による休みを得るのは最終的には聖徒だけではない。
聖徒以外の人々については、千年期を得てはじめて可能であり、それまでは完全な意味での休みに入ることはない。
そこで週に一日の安息日が示していたのは、『この世』に在っても、この世のものとならない「聖性」の模式であったと云える。

律法下のイスラエルは、安息日を通して、神の休みの『聖なる』意義を模式的に味わう機会があった。
それは単に不労働の日を七日毎に設けるという『爽やかにされる』というものを超えており(出埃23:12)、神に倣う休みに入る事、それは即ち、『この世』に在る人々が「アダムの業」や、『世の概念(想い)』(ストイケイアを含意)の拘束から解かれることを意味すると思われる。(ガラテア3:9/コロサイ2:8/ヘブライ5:12/ペテロ第二3:10・12)


「アダムの業」と安息の対比

安息日は、人間の生業との対照を成している。
それは『この世』と呼ばれる現状の人間社会が人にもたらす空虚さと、『神の象り』としての人の栄光との対照と言える。

この世では、アダムの堕罪から始まった、神への無関心と互いへの不倫理に特徴付けられている。
即ち、他者と生きて行くのに欠陥を負っているため『罪の酬いは死』とされ(ローマ6:23)、アダムの命に生きる者はすべてが、いずれ寿命を迎える定めに置かれている。

そのうえ、その生涯は『顔に汗してパンを食す』(創世3:19)という生きる糧のための労働が科せられている。それは、人が創造された当初の神の意図ではなく、「他人のためには働かぬ」という利己主義が、当然にもたらす通貨などを介した「互酬制度」が避けられない宿命であり、実利を得てはじめて経済が回るのも、人に巣食う利己主義の宿命である。それは社会主義の計画経済の不効率と衰退の原因でもあった。
人間は社会主義でさえ成功させる程に倫理的ではなかったのである。むしろ。蔓延する利己主義は、人々から拭い去ることのできない争いを人類社会の特徴とさせている。(ヤコブ4:1-4)
そこで「アダムの業」は、神からの処罰というよりは、堕罪の必然であった蓋然性が高く、それは安息日の制度によって更に補強される。

更に堕罪した人間社会では、一生の間に様々な悩みと苦しみを避け得ず、互いの貪欲に対処するために善悪を法に定め、実力(暴力)を以って規制する政治を必要とする社会を造り上げたが、それでも人間は互いに害し争う性質を後にすることには成功して来なかった。人間そのものから『罪』が拭えないからである。

こうした『この世の有り様』は、一定の思考傾向を生み、それは自己存在の根源、また創造者に対して無頓着にさせる。
これを新約聖書は『この世の(基本的)概念』(ストイケイア)と呼んでいるように見られるが、これが旧約で繰り返された『聖と俗』の『俗』(ハヘル[החל])を形作っているのであろう。<LXXでは[βεβήλων](獣的)が『俗』に対応しているが、ストイケイアと共に、二つの単語ながら、同じものを指しているようにとれる>

この『俗』の傾向は、『罪』により、創造された神の意図から逸脱したこの世での人の生涯は、『萌え出てやがて枯れゆく青草の如し』と描写されるように、空しいものとなっている。(イザヤ46:6)
詰まる所、この非情な世界に生まれてくる人類は、基本的に生業に没頭し、子を成して養育し、次の世代に命や業績を繋いで往ってゆくことが残された意義、また使命(創世1:27)となっている。
そこで『俗』とは、神に関わらない、刹那的で具象的な思いや世への隷属的生活態度を表すと言える。

この世では、どれほどの名声を得ても、如何に大きな財産や業績を残しても、或は、どれほど慕われようとも、現在まで誰にも同じように死という命の終局が一度は免れない(ヘブライ9:27)。この虚無を当然とするのが『俗』であり、人生の意義を考えることを侮蔑し、また怠り主情的であるが、それは神と『神の象り』である人をも卑しめることである。(コリント第一2:14)

神から人類の救いのために任命されたキリストは、『罪の奴隷状態から、解放するために』(ローマ8:18-22)この世に来られた。
それは、自らの犠牲によってアダムの『罪』を相殺し、人々に創造本来の『神の子の自由』を得させ、この世の隷属から解放するという、どんな偉人にも不可能な『罪』からの救いを成し遂げるためであった。なるほど、この観点に立つと『人の子は安息日の主』と言える。その働きは、人を拘束することではなしに、解放することである。


聖俗を分かつ安息

日常の生業に没頭していれば、今の命を生きることにばかり想いが向けられ、自然に『この世』に象って心が形成されてゆくことになる。だが、それでは創造された当初に人間に意図されたあるべき姿から遠ざかり、この世の隷属を当然のものとする奴隷の想いを培うばかりになる。(ヨハネ8:34)

そこで神は荒野のイスラエルの民にマナを与えたが、それは『人はパンだけでは生きず、人はYHWHの口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった』(申命8:3)とモーセはその教訓を指摘する。そのマナは週の六日目毎に倍の量が与えられたことを通し、週に一度の『安息日』をもたらした(出埃16:29)が、その一日は生業を行わず、アダム以来の『顔に汗してパンを食する』業から離れ、『神の子の自由』を覚え、それに思慮を巡らし、神と互いとの関係を律法を介して再考する機会とされるべき制度であったと言える。

また、奇跡の食物であったマナの降下は、荒野で多くの民の命を支えるのは、まったく人間の努力の及ばないものであることも明示したが、キリストは山上の垂訓の中で、『何を食べようかと思い煩うことを止める』ように諭されている(マタイ6:31)。これはその信仰を必須とするが、七日に一日は生業に携わらなくとも命の支えられることを信じることは習慣化した今日では難しいことではない。しかし、それは週休をとるか否かの問題ではなく、人が命を支えることについて、まったく自らの努力によると思い、神の介入を考慮しないか否かが問われている。

神は律法に於いて、貧しい者らへの配慮を再三示している。また、マナがそうであったように、神は人の贅沢や、成功を心に掛けないが、『この世』にあって魂を苦しめている者らには、その命を支える善意を注ぐ意志を表している。まさしく、荒涼とした土地を行き来するイスラエルの民の食を絶えることなく支え続けたのが天からのマナであった。
彼らはエジプトの奴隷状態から解放された上に、現代までどんな政府も実施できなかったベーシック・インカムのような生存の保証を何も無い荒野で四十年間受けていた。それは彼らが神YHWHを識るためであった。(申命29:5-6)

やはり、キリストの「主の祈り」に込められた『今日、この日のパンをお与え下さい』との言葉(マタイ6:11)は、命を支えるための糧食について、『天の鳥』のように神が養うことにおいて無関心ではないことを教えるものとなっている。(マタイ6:25)
但し、この善意は神との関係性を重んじ、不労働を通して『聖なるもの』とすることが求められた。即ち、俗世のあくせくと「生きるために働く」という姿勢を離れ、まったく『この世』に飲まれてしまわないための安息であり、神の聖なること、また、人間自身も本来は『この世』に生きるようには創られていないことを意識するべき仕方で、その不労働を過ごさねば意味は無かった。

そこで、奪い合いの『この世』に在って、神は引き続き貧しい魂の願いを叶える意志(詩篇145:16)をキリストを通して表明された。
『この世』は「生きてゆくためには懸命に働かねばならない」と脅迫するが、真の供給者は実に神である。『この世』は人々を脅して懸命に働かせ、それでも酬いを少なくし隷属状態に置いた上で、神に関わる神聖な物事、形而上の事柄を忘れさせようとしており、現に大半の人々はそうして『この世の神』に平伏している(ヘブライ2:14-15)。神に関する事や人生の意義については考えることさえ卑しめる傾向を持ち、宗教と云えば現世的利益を請合うことで利己心を更に助長し、アガペーから遠く引き離しているのである。

『安息日』は、どのような状況下に在っても、それぞれの事情に応じて、自分を支えるものが自己努力だけではないことの信仰を表明する機会ともされており、それは一年間の不労働を求めた律法中の『安息年』の条項によって一層強調されている。(但し、安息年の方は実施が困難で、形骸化、また行われなくなっていった)

確かにほとんどの人は生きて行くために、基本的には職を得る必要がある。しかし『この世』は、働こうとの意志(箴言21:25)があっても職を提供しないということが起こる。その絶対数が足りなかったり、厳しい条件を付けてきたり、また、能力ばかりか身体的条件をも問われ職に有りつけないという事も平素起こる。どの社会でも普遍的に貧困は絶えず(マタイ26:11)、簡易宿泊施設に入居できればまだしも、路上や車上生活、また住所を持たない人々が発生することを先進国も防げない。

職に就けたとしても、恰も奴隷のように無理を強要され過労働に陥るることも珍しくないし、様々なハラスメントを受ける危険はあらゆる場所に存在する。その根底にある原因は、利潤の追求のために利己的に過ぎる振る舞いが往々にして搾取を生じさせてきたからであり、困窮者を必要として常に造り出す社会、それが利己心を基調とする『この世』というものが避けられない不動の奴隷制度の実態でもある。

経済格差の上層に上るために、人はより利己的で悪辣に振る舞うよう圧力を受け、特に野心を懐く人々には不義理を行う必要が一層多く生じる。それを望まないなら、富むことや成功を人生の目標にしない他ない。従って『この世』で温順な人々は虐げや卑しめを受けることになる。それが『この世』の掟となっており、その『神』は明らかに創造神ではない。(コリント第二4:4)

『この世』では、命を支えるものが人の労役にのみ由来するものを考えられており、その強迫観念から生きて行くために『奴隷状態』を作り出してきたが、それが神無き者で構成される『この世』の姿である。貧しい者に、それが現実的で間違いのない見方であるかのように「明日どうやって生きてゆくか」という恐れを植え付け、大多数の人々を、ただ懸命に労役に就く奴隷としてきた。
それが『この世』の間違いであり、『この世の支配者(サタン)は裁かれ』なくてはならない。(ヨハネ第一5:19/ヨハネ12:31・16:11)

〈新教派が教えるような、各自が生業に勤勉であることが、神への奉仕であると云う見方は、『この世』が神の是認の下にあるとの前提があり、安息日の概念とは一致しないことになる〉

『この世』は、困窮への恐怖によって人を隷属の下に置き、僅かな人々に富みを集中させ、多くの人々の貧しさの上に強大なピラミッド構造を作って来たが、それはどんな時代でもほとんど変わるところがなかったし、今後も変わる理由はない。利己心を原理とする場合、富の偏在も、権威や権力の寡占集中も不可避であることは、まさしく『この世』の実態が示している。(マルコ14:7)
そこでは止め処もない競争と奪取が繰り広げられて来た。(伝道4:4)

(ロシア貴族がソ連のノーメンクラトゥーラに入れ替わった事が、まったくそれを証明している。世襲制から人口比率まで同じことになった。ブルジュアを淘汰しておきながら、弱者を解放する筈の新たな科学的イデオロギーが、やはり貴族制度と同じ特権階級を同じ比率で製造していたが、それが、人間の利己心や貪欲さと言う『罪』が、どうしても『この世』と云う以上をもたらさない証左となっている)

『この世』では身を削って労働するなら、命を支えられるばかりか、裕福で幸福に成れるという不文律を信じている人々は多いが、それでは説明の付かない事例は多く、労働への没頭が必ず幸福をもたらすとは言い難く、その懐く幸福の質にも問題がある。キリストや使徒らはそうした考えを度々に糾弾しているが、その理由は命を支えることに関するその人の内の神の不在であった。

だが、そのように生涯を終えるとすれば、その人にとって、創造の神と創造された自己の意義とを意識することはほとんど失われてしまう。仕事に忙しく携わることが目出度く幸福であるという通念が社会に見られるのは、『この世』が抱えた問題の必然の帰結であるが、その環境で醸造されるのは人生の虚しさを顧みない「俗」の精神であり、その特徴は、自己愛と金銭愛、また創造の神への無関心である。そこには、創造の神とそこから逸れた『この世』との敵対が見られる。(ヨハネ第一5:19)
『この世の神』の目的の一つは、自らに象られた無慈悲な者になるように強いて、温厚な人々を常に貧困や多忙にいたぶりつつ、神との関係を阻害することにある。

安息日は、このような人の俗的日常に切り込み、神に関わる『聖』を意識させ、『神の象り』としての誉れを回復し、最終的な救いとその手立てについて想いを馳せるために有効な制度であった。だが、その精神を今日も保つよう個人として努めることは可能であり(伝道4:6)、それこそが終末に心を整えることに成り得る。(ヨハネ第一2:15)

即ち、安息日の精紳は、不労働の日を取分けることにはなく、創造の神と自らの関係を顧みるところにあると言える。それゆえ、キリストが安息日に癒しの奇跡を行ったのも、その聖霊の業に神の証しが有り、人々に創造されたままの姿を回復させようとの神の善意を表すものであったと観ることができる。(ローマ3:23/ヨハネ1:12)
それは、神とその聖なる意志への深い関心を持続的に持ち、俗な思考習慣を定期的に断つことを意味することになる。また「この世の奴隷とはならない」との意志を固く維持する姿勢も要することであろう。

そこで神がアブラハムの遺産を相続するイスラエル民族に律法を与えるに際し、その条項の遵守を通して、彼らは『聖なる者でなければならない』のであり、『聖である』要件として神に無関心で居てはならなかった。当時は、祭祀への専心と律法の遵守によってそれを示すべきであった。(レヴィ18:30-19:2)

神の祭祀の存在そのものも『聖と俗の異なり』を知らせるもの(レヴィ10:10-11/エゼキエル43:23)となるべきであった。
しかし、それはイスラエルの民の全体に俗であることを禁じるものではなく、その違いを意識させ、神に関わる事柄が世的な俗事と隔てられるべきことを諭していた。即ち、神は休みの中に住まわれる(出埃20:11)のであり、民は七日に一日を取り分けて聖なる休みに入ることを命じていた。(出埃31:15)


祭司としての安息日の働き

その対型として、キリストの聖徒ら、即ち『神のイスラエル』に向けても、『安息日を神聖なものとせよ』と旧約預言を通して諭している。彼らが天界に召された後には、神殿祭司のようにすべての日々が神聖となり「聖所に安息はない」とのユダヤ人の言い習わしのようになるに違いない。

パウロが『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』と記した(ローマ12:2)のは、聖徒ばかりでなく、最終的に、『奴隷』ではなく創造された『神の子の栄光』に回帰すべきすべての人に求められるべき精紳と言える。

そこで、安息日の精紳とこの世の精紳とは対照的な敵対を意味しており、聖書中では再三に、安息日が神聖さと関連付けられる(出埃19:21/レヴィ26:2/イザヤ58:13/エレミヤ17:22)一方で、この世は習俗と関連付けられている(エレミヤ17:27/エゼキエル22:8)。人は、安息日が解放と自由を意味する一方、この世に対しては様々な意味で隷属状態にある。

この点で、イスラエルが『安息日』を守らなくても、守っても共に失敗した原因は、いずれの場合も、解放や自由に無頓着であったことにあるように見受けられる。聖と俗の異なりの本質は根本的に解放と隷属にあったのであろう。バビロン捕囚とヘロデ神殿のエルサレムの滅びは、共に血統のイスラエルの聖なる事柄への無関心による。

キリストが『安息日を神聖でないかのように扱ったとしても罪せられなかった』と言われる(マタイ12:5)のは、神殿祭司には安息日の務めがあることを指している(民数28:10)。この点ではユダヤ人の間で「聖所に安息はない」と言われていたことも関連する(「神殿」p152)。幕屋や神殿は聖域であり、俗なる事物は許されず、すべてが聖でなければならなかった。

安息日が前表した『神の王国』の千年期に於いて、大祭司と祭司は休みなく働く事になるが、地上の人々からは、『この世』の奴隷状態からの解放が実現する。(ヨハネ8:34-36)

また、贖罪の日は『まったき休み』であり『この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪科が主の御前に清められる』とされていた。(レヴィ16:30)
従って、人類の贖罪される象徴的「第七日」の安息には、『この世』の無存在が示唆される。(黙示21:1)

荒野のイスラエル人にとっては『約束の地』への入植と定住の完了は『休みを』意味していた。(ヨシュア12:10)
<スッコートには八日目の第二アツェレトが定められていた>
贖罪の日と仮庵の祭りは、祭司制度の全体が機能を果たす前表であり、それは人類が贖罪を受ける「千年王国」の安息を表していたことになる。

従って、『安息日』とは『この世』のアンチテーゼであり、アダム以来、堕罪と共に陥った『顔に汗してパンを食べ、遂には土に帰る』という人類の奴隷境遇に対する神からの解放を望ませる希望の窓の役割を持っていたと云える。そこでキリストが、癒しと蘇生の奇跡を行われたことは、まことに意義深かった。(ルカ13:14・14:5)
そこで重要なのは、厳格に七日毎の不労働を墨守させることでも、何が仕事に分類されるかの規則に拘ることでもなく、人が神の子としての栄光ある聖なる姿を望み見る機会を設け、それを念頭に置くことであったと結論できる。そこで求められいるのは自己への利益ではなく、第一に神とその目的(覚えの12のパン⇒エフェソス3:11)への関心である。


総じて
安息は、この世の有り様とは異なる物事の存在を知らしめ、「アダムの業」を回避できないとしても、この世にすっかりと呑み込まれすっかり俗化する事を妨ぐという精紳の下にモーセの律法に規定された。
安息日を守るとは、具体的には不労働であったが、不労働そのものに神の教えようとする「安息の意味」は無く、『この世』また『俗なるもの』から離れ、神の子としての栄光ある『聖』を意識させることにより、『この世』に在って『この世』のものとならない信ある人の立ち位置を保たせるものであったろう。これが守られない場合、創造神への信仰と雖も、この世にご利益を求める信仰に堕する危険を孕んでいる。それがどこにでも見られる宗教一般の姿となっている。

キリストの『思い煩うな』という教えの根拠は安息にあり、荒野のマナのように生活を支えるものがこの世が提供するものではないことを知らせているのであろう。
敷衍すれば、毎食に祈りを捧げるのは、単にユダヤ教の習慣の延長とばかり言えないことになる。世で成功を収め、贅沢をしているならともかくも、日毎の糧食が自らの努力によるとしない信仰によって、それは聖なる習慣とも言い得る。
従って、『この世』に在って何不自由ない生活だけを経験するということは、決して幸いとは言えない。『人が弱いときに強い』という神の善意の支えを経験しないからである。(ルカ18:22/列王第一17:13-16/列王第二4:1-7)

窮乏を臨ませるとの世の脅かしに屈すれは、『この世』の奴隷となるよりほかない。従って、安息を守るとは勇気ある信仰を要するものと言える。それはもはやキリスト教に於いては、日を取分けて休業することを超えており、今日の我々にとって『安息日を聖なるものとする』(申命記5:12)とは、供給者としての神を信頼し、「この世の奴隷とはならない」という生活態度と、人本来の『神の象り』に近づくよう努めると云う意義に結実すべきものとなっている。
これほど『安息』とは恐ろしいほどに深い意義を持っていることになる。結論を求めてゆくと、これは『この世』を糾弾せずには済まない。(ヨハネ16:8)



(・聖俗を分ける「聖性」
政治にせよ宗教にせよ、大志ある人が数人あるとしても、俗なる人々が入って来て利己心を持ち込み、必ず全てを同じ結果にしてしまう。
それを防ぐものがあるとすれば、聖性をおいて他に無い。聖性とは人が神から受ける影響を指し、良心や価値観を奮い起こすものと云え、必ずしも聖書やキリスト教を要するとは云えない。
大衆化を防ぐとは、即ち、聖なる事柄を求め、聖性が低下しないよう個人として注意するということになる。
『安息』とは、「聖性」と深く関わっており、「聖性」が人を利己心から遠ざける方策である。ゆえに、神に帰依するなら、象徴的な意味に於いて『安息日を神聖なものとする』必要がある。
しかし、それは律法が過ぎ去った今日には、単なる不労働の日を取り分ける事を意味しない。それは、聖と俗、神とこの世との異なりを弁え、神の意志(覚えのパン)への共感や感動の内に神聖な物事を追求する姿勢を指しているのであろう。

この世の原理である利己心の対極がヘセドまたアガペーであり、人の根本的な倫理であるそれらは、聖性の影響するところに在る。この世の業を休み、その精神を離れることは7日毎の不労働を遥かに超える意義がある。
即ち、人は神聖な事柄を求め続けるときに、身を支える心配に押しつぶされ世の奴隷となってはならず、そこに創造の神に信を置くという、神と人の絆を『この世』に在っても、いや、在るがゆえに保つことである。神はそれに応えるのであろう。人を支えるのは『この世』ではなく創造の神である。それに信を置けないならば、その人の神は『この世の神』となる。)








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