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復活  -綱領-

2017.06.27 (Tue)
復活 [ἀνάστασις](アスタシス)


故人そのものの復活は、創造の神だけが行い得る、死を超克する偉業である。(サムエル第一2:6)
したがって、以下のように聖書に記されキリストによって予告された復活を信じないとすれば、神が創造を行ったことを信じないに等しい。

復活については、旧約聖書に三つの模式的な蘇生の先例が記されている。
それらの例は、預言者エリヤ(列王第一17:21-22)とエリシャ(列王第二4:32-35/13:21)によって、或いは関わって起こっている。
新約聖書には、キリスト・イエスによる三つの事例(ルカ7:12-16/マルコ5:41/ヨハネ11:43-44)、また使徒らによる二例(使徒9:40/20:9-12)があり、新旧の聖書でイエス自身を含めて九度の生き返りが記録されている。但し、キリストの復活は、肉体に命が戻ったのではなく、命を霊体に受けている。殊に異なることはその命が不滅なものとされたところにある。(テモテ第一6:16)。それゆえパウロはイエスが『眠りに就いた者たちからの初穂』としている。(コリント第一15:20)また、黙示録では『死んだが、永久に生きている』者として自らを語っている。(黙示1:18)

これらの他に、ユダヤ人には、エリヤのような預言者が過去から生き返ることが信じられており(ルカ9:8)、それはイスラエル以外のアブラハムの子孫の民族にしても、モーセの古代にはそうであったことが窺える(ヨブ14:14-15)。また、福音書中では、ベタニヤ村のマルタが、死んだ者が終わりの日に生き返ることに信仰を持っていたことが記録されている。(ヨハネ11:24)
これらは、ユダヤ人の中では死後に霊魂が行く世界があるのではなく、死が『眠り』に例えられる無意識であり(伝道9:10/ヨハネ11:11)、復活することが死者への希望であったことを示しており、それはキリストの言葉によっても証拠立てられる。(マタイ22:31/ルカ14:14/ヨハネ5:29・6:40)

聖書に記された過去の生き返りは、どれも長い年月を経て後のものではなく、蘇生に近いものであり、明らかにその誰もが、再び寿命を迎えて死去するものに終わった。これらの奇跡は、「復活」というものが信じにくいものであることを反映した例示であったと云える(ヨハネ20:25)。しかし、本来「復活」とされるものは、キリストがそうであった(ローマ6:9)ように、永生をもたらし得るもので、しかも遠い過去の故人であっても生き返らせる。それは古代の族長らが『神にとっては生きている』とされたキリストの言葉に示されている。(ルカ20:38)

復活には大きく二種類の異なりがある。
ヨハネ黙示録はそれを『第一の復活』とその後に起きる復活とに類別しており(黙示録20:4-12)、パウロは、自分の復活が格別のものになることを書簡の中で示唆している(フィリピ3:11)[ἐξανάστασιν](「外の復活」;用例1箇所のみ「キリストの死に倣う」意味での)これは、『早い復活』とも訳される。この『第一の復活』に裁きを介して関わるのは主にキリストである。(ヨハネ5:28)

以下に述べるような、二つの種類の復活があることは真新しい主張ではなく、既に第二世紀のエイレナイオスによって、その原型は唱えられている。この初期ギリシア教父は、使徒ヨハネの薫陶を受けた小アジアの出身であり、彼の著作「異端反駁」(「不当にもそう呼ばれたグノーシスに対する暴露たる反駁」)の中で、その使徒由来で、現キリスト教界に在ってはまったく貴重となった終末論を展開し、復活に関してヨハネ黙示録の句の意義を伝えている。(黙示録20:7.13)



第一の復活

これらふたつ種類の復活の違いの理由は
『第一の復活』とは、ほとんどの故人が与ることがない『天への召し』(ヘブライ3:1)を受ける復活であり、それを受ける少数の人々は、肉体への復活ではなく、霊の体(コリント第一15:48-49)への復活に与る。これは生前の行いが『新しい契約』を全うするものかが吟味されるもので『行いによって裁かれる』種類のもの(ヨハネ5:29)である。もうひとつの復活は一般の死者のすべてが『善人も悪人も』与るもの(使徒24:15)であり、それとは異なる『第一の復活』は王国到来の直前であることがダニエル書の預言(12:1-2)との整合性からも明らかであり、両者は千年期を跨いで異なる時代に起る(黙示録20:5)。

また、黙示録の言う『第一の復活』とは、パウロが自らの受ける『早い復活』と述べたものである。
そのためテサロニケ第一の手紙で『キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し』とあるのは、『新しい契約』によってキリストと結ばれ『この世を受継ぐ』という『共同の相続人』である『キリストに在って死んでいる者たち』の千年期直前の復活を言うのである。(テサロニケ第一4:14-16/ローマ4:13・8:17)

この復活の肉体で存在した者が霊体へと変えられる特殊性はマタイ福音書に於いて『再造像』(パリンゲネシーア)の語で表され、ヨハネ福音書の『新たな誕生』を意味している。(ヨハネ3:3)

この霊体への、また永生への最初の復活を受けたのがイエス・キリストであるので、パウロは『事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった』(コリント第一15:20)と記し、また、以前の奇跡として行われた生き返りとの異なりを教えている。加えて、ペテロとパウロによる事例もキリストの復活とは根本的に異なっている。

さらに、この種の復活の順序について『最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち』と知らせている(コリント第一15:23)。この『キリストに属する者たち』とは、同じくパウロが『キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストに属する者ではない』(ローマ8:9)と述べるように、『新しい契約』に預かり(エフェソス1:13)聖霊を注がれた『聖なる者ら』のことを指している。彼ら初代の聖なる弟子らは、自分たちが『創造物の初穂となる』ことを意識していた。(ヤコブ1:18) また、『キリストと結ばれた』彼らは『新しい創造物』となるとも語られる。(コリント第二5:17)それは、キリスト・イエスが受けた霊体への永生となる。(コリント第二13:4)
おそらく、マタイ福音書19章28節でキリストが述べてギリシア語に訳された「再創造」(パリンゲネシアス)とは、この大きな変化を指すものであろう。

それゆえ、使徒ヨハネは当時の聖霊によって油そそがれた弟子らに(ヨハネ第一2:27)、主の臨在の間に復活が起こることを語り、『彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』と書いたのは(ヨハネ第一3:2)、パウロも言うように肉体から霊体へと変化することを『朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえる』(コリント第一15:42)、また『我らは地の者のかたちを持っていたように、天の者のかたちを持つことになる。』(コリント第一15:49)との教えと合致している。

また、『 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてゆく。これは主の霊の働きによる。』とのパウロの言葉(コリント第二3:18)も、復活による彼らの栄光ある体への変化について述べるものである。霊体への復活を受けることで、キリストと同じ姿を得るの(ヘブライ2:14-17)で、彼らはキリストの『兄弟ら』とも呼ばれている(マタイ25:40)。

これらの『第一の復活に与る者らは』『神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する』(黙示録20:6)ために、天界でキリストと共になる『選ばれた者ら』(テモテ第二2:10-11)であり、復活の前に地上で生ける間からキリストと結ばれた状態にあるべきこと(ローマ6:5)が求められている。(ヨハネ15:1-7)
彼らは地上で肉体に在る間から、『新しい契約』によって『神の子』であり、『キリストと共同の相続人』となって、『アブラハムの遺産』、即ち、人類に祝福をもたらす『神の王国』、真のイスラエルを受け継ぐ見込みを得るが、それが確定してはじめて天への復活に預かることになる。(ローマ8:16-17)

彼らは地上にある間から、聖霊を介して『新しい契約』に参与し、キリストの贖いの仮の適用を受けて『罪を赦されており』(ローマ8:1)、そのために『水と霊から』象徴的な再誕生をしている。(ヨハネ3:5-8)
それはキリスト・イエス自身の霊への復活に依拠し、その二度と尽きることのない命によって共に生きることを意味している。(ローマ6:8) もし、生まれたままに「アダムからの命」に生きるのであれば、彼らの肉体で居る間からの聖化もなく、霊体に復活する理由ももたないことになる。
イエスと結びついたままで生涯を終える聖なる者らには、天界で彼と共になる事が『新しい契約』によって保証されている。(フィリピ1:23)
当時の弟子らはほとんどが『新しい契約』に預かる『聖なる者』であったために、その理解ない大半のキリスト教会では信者の皆が契約に与るものと誤解されており、そこから信者は皆が死後に「天国」に行くという誤謬に陥ったまま、今日に及んでいる。これは天に召される目的を、利他的に人々の救いを目的とすることから、信者だけの救いに入れ替える利己主義を煽ることになっている。

しかし、『新しい契約』に預かるという事は、選ばれた者としての重い責任を負うものである。(ルカ13:24)
もし、聖霊を注がれたにも関わらず、『新しい契約』に違背する状態で死を迎えた場合の聖徒らは、その復活に当たって天界に召されることなく、地上に『裁きの復活』を受けることになる。これをダニエル書は終末で『定めない時に至る命と恥辱と』二つの分かれ目となる復活として指摘(ダニエル12:2)している。それであるから、黙示録は『第一の復活に与る者は幸いであり、第二の死は何の力も持たない』というのであり、地上で精錬され充分に試された(マタイ13:47-50)『レヴィの子ら』(マラキ3:3)は、天への復活を遂げるときには、そのまま永生に入ることを教えるものとなっている。

この復活を受ける聖なる者らは、続いて起こる世の裁きを通過して、キリストの右に分けられ地に生き残る人々を治め、また死せる二徒人を含めた贖罪を行うが、これは律法下の贖罪の日の儀礼に予型されており、大祭司と祭司らの贖罪の後に、次いで民の贖罪が大祭司の司式により行われたものに相当している。(レヴィ16:11・15・17)
キリストは天界の大祭司であり(ヘブライ4:14-15/6:20)、聖なる者らはそれに従属する『祭司』(ペテロ第一2:4)となるのであり、聖なる者らの復活は、彼らの任命のためのものである。

この『第一の復活』また『早い復活』は、この世の終りのキリストの臨在の間に起ることが知らされており(テサロニケ第二4:14-17)、キリストの臨在の顕現の直前に、まず十二使徒が最初に復活され、天界での二度目の聖餐をキリスト・イエスと共にするときに(マタイ26:29)、死した聖徒らがキリストと十二使徒らによって吟味され(ルカ22:28-30)、彼らが天界に復活し、次いで地上に残っている浄めに達した聖徒らが、不可視の『雲の内にあって』天界へと召されることになる(テサロニケ第一4:16-17/黙示11:11-12)が、これが「携挙」と誤解されているものである。ゆえにパウロは聖徒らに『主が来られるまでは互いを裁くことのないように』と諭している。(コリント第一4:5-6)

この早い復活の裁きはキリストと十二使徒らに委ねられる。そこで『神の子の声を聞いて出てくる』死者とは、新しい契約を守って死んだ者らのことであるのでキリストも『それは今である』と言われた(ヨハネ5:25)のであろう。彼らについてはキリストから呼び出されるようにして死の眠りから起こされる際、生前の行いの良し悪しが『新しい契約』に照らされ吟味されて裁かれる。そのため『良いことを行った者は命への復活へ、忌むべき行いをしたものは裁きの復活へ』と言われる(ヨハネ5:29/コリント第二5:10)。

この点で、パウロが『生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス』と記したのはこの事と合致している。(テモテ第二4:1)キリスト自身も、次いで十二使徒も第一の復活に与るものの、この早い復活を通して残りの聖徒らを裁く。
一方、後の復活の裁きは神自身によって行われる。(黙示20:11)

他方、少数の天界に集められる『彼らによって地上のすべての家族が祝福を得る』という人々、即ち「アブラハムの裔」の総数(イザヤ33:22)を、黙示録は『十四万四千人』であるとしており、その天のイスラエル十二部族はそれぞれが一万二千人で構成される。しかし、その部族名は歴史上のものとは一致していない。(黙示録7:4-8)それによって、血統上のイスラエル民族が再び神の民と呼ばれることは阻まれている。

『第一の復活』は、終末のキリストの臨在(コリント第二15:23)の顕現の直前に(コリント第一15:52)、この世からの攻撃に殉教する聖徒(黙示11:7)にも行われることになり、そこで実質的に彼らの裁きは完了する。それゆえ、パウロは当時の聖徒で構成されるエクレシアに向かって、『わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で露わにされなくてはならない』と述べる。(コリント第二5:10)

最後に生き残っている聖徒らを吟味して直接に天界に召すことについては、それを「復活」と称するか否かは定かでない。ではあるが、これらのすべてについては『雲の内に』とされ(テサロニケ第一4:17/黙示11:12)、肉眼の捉えるところとはならないし、出エジプト時の子羊の扱いからすれば、おそらくは、イエスのものと同様に、その死体も消失するものと思われる。(出埃12:20/ルカ24:5-6)

この『第一の復活』の後に(テサロニケ第一3:13)現れる、地上の命を受けるべく、裁かれる『大群衆』に相当する人々(黙示7:9)は、地上で生きたまま、天界の祭祀制度を受けることになるゆえ、死を経ない(ヨハネ11:26)ことに於いて復活の範囲には属さないが、肉体上の変化を受けると思われる。(イザヤ33:24/ヨブ33:23-25)


後の復活

『第一の復活』が、『神の王国』の支配と贖罪を地上に施すために、浄められた聖なる者らを天界に召集するものであったのとは対照的に、後の『残りの死人の』復活は、人の善悪を問わずに千年王国の終わった後に起される。(黙示20:5/使徒24:15)
それは人間としての復活であり、キリストの贖いを受けて完全な肉体を備え、地に再び現れることになる。したがって、『第一の復活』との大きな異なりは、天界に霊者としての復活とはならず、人間として地上に創造された本来の姿での復活となる。(黙示20:6)

このように、『王国』の千年期が「義人たちの復活」と「普遍的な復活」のふたつの復活を分かつものとなることは、初期教父エイレナイオスも伝える、ヨハネ黙示録の記述通りの小アジアキリスト教の教えであった。(異端反駁 V:32.35)
また、イエスと共に磔刑に処せられた罪人の一人がイエスに『あなたがご自分の王国にお入りのときには、わたしを思い出してください』と願い出た(ルカ23:42)が、それに応えてイエスが『今日まさしく言う。あなたはわたしと共に楽園にいるだろう』と言われた(ルカ23:43)のは、彼がその年の五旬節まで生き長らえないために、終末から千年続く『神の王国』には入らないので、『楽園』となった王国後の復活に入ることを、それもキリストの是認の許にそこにいるようになることをイエスは語られていたと捉えることができる。
今日のキリスト教会が、復活が天国に起るのと主張するのは、天界で起こる『第一の復活』が新約聖書で大きく扱われているところを大多数の死者の復活と混同しているところに原因がある。(コリント第一15:20-26)

「後の復活」について、パウロは信徒でもない異邦人フェリクスに対して『義者と不義者との復活がある』(使徒24:15)と語っている。<ヨハネ5:25とは異なる>ゆえに、千年期後に再登場するサタンの使嗾により、『愛される都市』を攻撃する夥しい群衆の由来がここにある。(黙示20:7-)
この言葉が『第一の復活』ではない理由は、善人も悪人も尽く現れており、『精錬されるレヴィ』としての清められた祭司の復活である聖徒らの復活とは明らかに異なっている。(マラキ3:3)

その復活は、諸世紀に生きた人々が、長い期間に亘り徐々に復活するという概念を聖書に見出せず、むしろ、裁きに向かって短い期間に同時に現れるような記述を見出す。
上記のヨハネ福音の第五章ばかりでなく、マタイでイエスは、預言者ヨナの時の『ニネヴェの人々は、この世代と共に裁きに立ち上がり、この世代を罪に定める』(マタイ12:41)またルカでは『南の女王は、この世代と共に復活し、この世代を罪に定める』とも語っている(ルカ11:31)。これらは、キリストを退けた世代と、更に古代の人々が共に『共に立ち上がり』『共に復活する』ものとされている。

また、黙示録では、この「後の復活」と共にサタンが千年の拘禁を解かれて諸国民を惑わすことを知らせているので、この復活は千年と対照されており、堕罪前のアダムと同様の『罪』なき者に裁きをもたらす以上、長い期間に亘るものである理由はない。ただ『誘惑者』には、その極めて重要な任を果たす必要があるばかりである。

この復活では、『新しい契約』に忠節でなかったために『第一の復活』に含まれなかった古代の脱落聖徒が含まれることが考えられる(ルカ19:26-27)。彼らはキリストの臨在の間の脱落聖徒のように、キリストの顕現によって滅んだ脱落聖徒らと『不法の人』が慫慂した全軍を意味した『マゴグの地』(エゼキエル38)に相当する、新たな『マゴグ』となる復活した『海の砂つぶのよう』に数知れぬ諸国民の大衆を同様にサタンの霊力を用いて惑わし、かつてのハルマゲドンに類比される大いなる裁きへと同じく向かうが、この度は、神自身に処罰され『天からの火』に焼かれて永遠に姿を消す。(黙示20:8-10)

こうして裁かれ滅びに至る人々は『第二の死』を迎えることになり、それは『二度死んで根扱ぎにされた木』(ユダ12)の言い回しに見られるように、その邪悪さに証印を押された悪人の概念の内に、復活したにも関わらず、裁かれて二度目の死に至り、もはや再び生きる機会を持たないことを意味する。
それゆえパウロは『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』と述べている。(ヘブライ9:27)
但し、これはすべて生まれた者に死が臨むということではなく、例外があることをイエスは教えている。(ヨハネ11:25-26)

黙示録で、彼らがサタンと共に投げ入れられる『火の湖』とは(黙示19:20)、文字通りの責苦の「地獄」ではなく、その裁かれた悪に関する汚名の『煙』という評価は、永遠に亘って神と互いへの忠節な愛を否定した結果の碑となり、すべての理知有る創造物の心に刻まれることを意味する。

また、この『火の湖』に『死と墓』も投じられることから、すべてが裁かれて後、試す者としてのサタンの不要が決し、滅んだ後には、もはや二度と死が無いことが明かされている。そこで神と被造物の緊張関係は永久に解かれる。
従って、『地に満ち』た人類に、その後の出生は無いとも結論できる。(創世記1:28)


『第一の復活』はキリストによる死者の呼び出しによるもの(ヨハネ5:25-29)であるが、後の復活はそうではない(ヨハネ11:24/ルカ11:31-32)。ヨハネ11章23節以降には、模式としてのラザロの生き返り、千年期後の一般の善悪に関わりのない復活、そして『第一の復活』の三種が同じ文脈に描かれており、イエスが『わたしに信仰を働かせる者は死んで復活する』と言われた(ヨハネ11:25)のは、メシアが現れた当時のユダヤに到来していた聖徒としての復活に預かる機会を述べている。
(さらに、11章26節では復活以前に死を経ない人々が終末に存在することも語られているが、これは裁きによって地を受け継ぐ一般の信者を指している)

なお、復活についてキリストは『墓に在る者らが[人の子]の声を聞いて出て来る時が来る』と語ると同時に、『善い行いをした者は命への復活へ』また『悪しき行いをした者は裁きの復活に出て来る』と言われたのは、『新しい契約』を生涯に亘って守った聖徒らが終末の復活で天に召されることと、守らなかった者らが千年期後に一般の人々と共に不名誉な復活を受けることを云うのであろう。
(その者らは、エゼキエルの預言ではなく、黙示録で言及される『地の四隅の諸国民、ゴグとマゴグ』を構成することになると思われる)


生殺与奪の権

こうして創造神の命の扱いを俯瞰すると、『すべての魂はわたしのものである』(エゼキエル18:4)と言われる神は、何者を生かし、何者を滅するかの権利を有することが分かり、本来なら『罪あるもの』はすべて創造の意図に適わないために魂を滅ぼされるところを、御子の犠牲の介入により、アダムとエヴァの子孫に関しては裁きまでの猶予があり、その間は寿命をもって魂として生まれ出る機会を得てきたという眺望が開ける。

神は再三に、生まれる前から特定の人物を待っている姿を見せており(イザヤ45:1/ローマ9:11-12)、聖徒らに至っては『世の基が置かれる前から選んでいた』とも記される(エフェソス1:4)。

そこで、神は自らの『象り』である、人の自由な意志を担保しつつも、『髪の毛までが数えられている』という一人一人の人類の全体を予見し、裁きを通過する全ての魂の総数を見通されている可能性が示唆されている。それには十二人の内のひとりの脱落と補充が予見されていた前例もある。

この世が如何に苦難に満ちていたにせよ、人それぞれの苦しみはその身の命で終わることになり、一方で『生めよ殖えよ』との人類への下命を通し(創世1:28)、世代から世代へと寿命の内に相互扶助しながら、生殖により新たな魂が創られ加えられてきたとも言える。
これは、地上に満ちて生きるべき魂の総数が出揃う時という、創造者だけが関わることのできる期間の長さの存在を導き出し、そこに裁きも加わる以上、それは単なる時の長さを超えて、キリストでさえ知り得ない魂の生殺与奪の裁きという最高度の倫理に関わる時の満了があることを示唆させるものと成り得る。(マタイ24:36) それが即ち、人が『地に満ちよ』という創造者の意向について、神が『この世』の存続を許してきた理由であるとも考えられることになる。地がどれほどの人々で満たされるのかを含め、それは創造者以外、まして人自身が預かり知るところではないであろう。

死は『敵』(コリント第一15:26)であり、『刺』である(ホセア13:14).。また、サタンが象徴的に『死の権力を行使するもの』(ヘブライ2:14)ではあるとしても、死そのものを定めたのは他ならぬ創造者であった。
確かに、死の別れは悲しみと害をもたらす(ヨハネ11:35)一方で、死は、人の苦しみを終わらせ(民数11:15)、避けどころとし(サムエル第一31:4)、悪行者の邪悪を止める役割も担なってきた。(創世6:13/マタイ2:20)
従って、復活を単に再会の喜びと捉えるべき理由はない。真に復活が再会や邂逅の祝福となるのは裁きを終えた後のことであり、自己の感情の如何に関わらず、創造者の裁定に異議を唱えるべきではない。
復活は必ずに裁きをもたらすのであり、そこには何者を生かし、何者を滅するかという創造神ならではの生殺与奪の犯し難い権利が関わっている。

従って、『被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、初穂の霊を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、肉体のあがなわれることを切に待ち望んでいる。』

との言葉(ローマ8:19-23)には、知的創造物の生と死に関する奥義が込められており、創造神を信仰するのであれば、復活というものは何ら訝るべきものではなく、また、復活そのものを感傷に浸り、または生を有難がっているばかりでは、神が何者と共に生きようとされているかが見えないことになり、それに伴う『裁き』の意図を見失うことになる。

人は、ただ生きたいと願うから生かされるのではなく、倫理、即ち神と隣人という他者とどう生きるかを弁えてこそ(ローマ13:8-10)、永遠の命の樹から食することが叶う。そこに裁きが関わるのであり、けっして自動的また受動的なものとはならない。倫理の完成を目指すアガペーとは自由と積極性の中に初めて現れからである。命と愛は不可分の関係にある。(ヨハネ第一3:14)

また、復活があるからと、生命を軽視することは、やはり創造者の魂保有の権利をないがしろにすることであり、律法下での『魂の復讐』の条項に見られるように、現状でも『上なる権威』たる公権力の重い罰則に相当するだけでなく、神の『象り』を踏み躙ることにもなる。
また、生命の損失は人間の回復できるところになく、例えゲノムを用いて再生を行っても、同じ人を回復することにはならず、人間にとって生命は一度限りの貴重なものである。(詩篇36:9)

『復活』とは、『第二の死』と共に、生殺与奪の権を行使する神の、創造の業を完遂させる為の手段と言える。(サムエル第一2:6)






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◆About "Gehenna”
Rabbi David Kimhi's commentary on Psalm 27:13 (ca. 1200 CE). He maintained that in this loathsome valley fires were kept burning perpetually to consume the filth and cadavers thrown into it.

Hermann Strack and Paul Billerbeck state that there is neither archaeological nor literary evidence in support of this claim, in either the earlier intertestamental or the later rabbinic sources

But there is a trace in the Bible.⇒2Kings23:10 Jer31:40
From this point of view, the logic is correct when you look at the words of Jesus. ⇒Mt10:28 



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