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終末  -綱領-

2016.10.15 (Sat)
「終りの日」(アハリート ハヤーミーム/エスカトス ヘメーラ)


聖書記述は多くの箇所でこの時期に焦点を合わせて語られており、新旧いずれの聖書にある故事や預言によって繰り返しこの終末の重大さが示されている。

「終りの日」また終末は、キリストのパルーシアから始まり、まずキリストに伴う『聖なる者ら』の集められるに際して(マタイ24:30-31)、彼らへの徹底的な試練と裁きの時となる(ゼパニヤ1:14/マラキ3:2-3/ヨハネ12:48/エフェソス5:25-27/黙示13:10)。
次いで、『聖なる者ら』の聖霊による言葉への反応により、『この世』に属するあらゆる各個人が裁かれる。他方で『この世』という体制そのものは、神の意図に反したものであるため、『神の王国』と入れ替えられ終りを迎える。

まず、終末の聖徒らへの裁きは、聖徒が『この世』と『神の王国』との対立関係からの圧力に耐え得るかによるものとなる。
次いで、終末に生ける人類の裁きは、聖徒らにどのように反応するかによるものとなる。
この二つの裁きが「終りの日」が到来することの意義であり、アダムの堕罪以来継続して来た『この世』が終息し、キリストの千年王国による支配と贖罪が始まるという、かつてない大変革を呼ぶものとなる。

終末また「終りの日」を特徴づける聖徒による聖霊の言葉の世界宣教は『三年半』というキリスト・イエスの宣教期間のように短いが、その前に『シオン』と呼ばれる準備的な信仰者の集まりが存在し、それを養う『忠実で聡い家令』が予告されている。
聖徒の活動する『三年半』の後、『背教』とされる究極的な反対行動が優勢となって世界を覆うが、それが『この世』のシオンへの攻撃を惹き起こし、神と人の戦いへと発展して、遂に世界はカオスに陥り人々は個々に選別され、時を移さず新たな体制を意味する『新しい天と地』に入れ替えられるに及ぶ。


聖徒について

キリストが宣教において集めたのは『アブラハムの裔』である聖徒らであって、単に信者を求めてはいなかった。またキリストの業を引き継いだ使徒らや初代の弟子の宣教活動にしても、やはり『聖なる者ら』を集めるというその目的は同様であった。(ヨハネ14:12)

イエスをメシアとする信仰によって集め出された人々の集団が「エクレシア」(召し出された者ら)と呼ばれたのにはこの背景がある。この語は都市国家(ポリス)の民会を本来意味するが、聖徒らの天への召集が『神の王国』、「エルサレム」と呼ばれる都市国家を実現させるものであるところにも整合性がある。(マタイ24:31)
当初は「教会」(おそらくキュリアコン(ヨハネ第二1)に由来)という名称は用いられていなかった。(確認されている初出はユスティノスj.mとされる)

「終わりの日」の期間の終わりには、死した聖徒らは天への復活、また生ける聖徒らは天への召しの時を迎える(ヨハネ6:39-40)。但し、共に試され選ばれた者となっていなければならない。(ルカ13:24/マラキ3:3)
死せる聖徒らの復活は『格別な復活』(フィリピ3:11)とも呼ばれる。それは生ける聖徒らと共に、エデンで語られた『女の裔』(創世3:15)が何者であるかが『証印を押される』ことで(黙示7:4)確定し、『神の王国』の実現されて『奥義』が終了し(黙示10:7/11:15-19)、千年期支配を開始する時(黙示20:4)となる。

次いで、聖徒らの語る聖霊の言葉への反応を以って『この世』の裁きが行われ(マタイ25:31-46)、未曽有の『大患難』(マタイ24:21)によって裁きに脱落聖徒(マタイ7:21-23)と共に(黙示2:22)抗う諸国民すべてに対する処置が執行される。(ゼパニヤ1:18)
従って「終末」とは、『神の王国』をもたらすための『聖徒ら』と『この世』の全体に対する二つの裁きの期間となるが、長いものではなく、十年未満、あるいは更に短く数年で終了する可能性が示唆されている。(ダニエル12:7/マルコ13:20/ローマ9:28)

この格別な時期についての聖書中の情報を収集し整理してゆくと、預言ばかりでなく事跡の書にも、幾十もの世代に散在している記述が関連付けられ、一定の方向性を示しているので、終末の特定の姿を描き出すことに気付かされる。これらの千年を越える期間に書かれた内容の不可思議な整合性を人間の意図に帰すことは到底無理であり、長い時代に亘り常に筆者らの背後に存在した同一の意志の持ち主をどうあっても想定しなければならない。
それらの記述によって再構成される終末の予告の内容は恐るべきものながら、聖書は全体としてこの『終りの日』に焦点を合わせており、余程に重大な時となることを繰り返し告げていることが分かる。以下にその要約を試みる。



◆キリストの臨在と顕現

キリストは公生涯の間に、一度世を去って、不定の将来に再び来ることを繰り返し語っていた(マタイ16:27・24:41-42/マルコ8:38/ルカ18:8/ヨハネ14:3/黙示22:20)が、聖書は新旧共に『終わりの日』について焦点を合わせている。(イザヤ2:2/エレミヤ23:20/エゼキエル38:16/ダニエル2:28/マタイ24:3/ペテロ第二3:10/黙示1:10)
キリストの臨在は『盗人のように来る』、また、弟子らにとって『思わぬ時に』到来する(マタイ24:44)とされる。(黙示16:15)
そこで『主の日がいつになるかを知らない』ので『目を覚ましているように』、また『用意をしているように』と警告している。(マタイ24:42-44)
ルカ書では『婚宴から主人が戻ったときに、すぐに扉を開けられるようにしている』ことも求められている。(ルカ12:35)

これら目立たない臨在の始まりに対して、『栄光の内にすべての使いを従えて来る』(マタイ25:31)という明瞭な現れについても語られている(テトス2:13)。
後者は『臨在の顕現』(エピファネイア テース パルーシアス)と呼ばれる(テサロニケ第二2:8)圧倒的な現れである。

これらの双方の種類の現れには一連の『地の裁き』(マタイ25:32・46)が関わっており、終末予告では『盗人のように』密かな到来による『臨在』の始まり(ルカ12:40)から42か月を経た聖徒を象徴する『十二部族』の裁き(マタイ19:28-29/ルカ22:30)、その後の世の裁きの執行に於ける世界中に認知される明示的な『顕現』の時との異なりを表していると捉えることができる。キリストの終末予告では「終わりの日<の期間>」(シュンテレイアス トーン アイオノーン)の事象と「終局」(テロス)とに使い分けられている。(マタイ24:3.6)



◆キリストの不可視性

天界に去ったキリストは、誰も見る事ができない状態に入っていることを聖書は知らせる(ヨハネ14:19)。
キリストは帰天の後は肉眼には不可視であり、臨在の時期が進み、その『顕現』(エピファネイア)に至ってもなお『雲に乗って来る』(マタイ24:30)と記されるように終末の臨在では終始人が見えることはない。その不可視性は、人々の内面を裁くために必須である。

しかし、『聖なる者』で天界に召される者らはキリストと同じ霊の体を備えることになるので、その時に至れば『あるがままの彼を見る』(ヨハネ第一3:2)ことになるが、肉なる者が見ることはない。

また、聖徒らの肉体も、出エジプトの子羊(出埃12:10)が焼き尽くされたように存在の用を終えており(ヘブライ13:11)、彼らは仮住まいの『幕屋』を解いて不要にしている。それはキリストに倣うもので、復活のキリストは『霊となった』ので(コリント第一15:44-45)アダムの肉体での命を代替して神の前に捧げ出し、人類に永遠の命をもたらしたキリストの肉体は贖罪の焼燔の捧げ物と同様に(レヴィ16:27)消滅している(コリント第一15:50)。

帰天後のイエスは『雲の中に入った仕方(トロポス)で到来する』(使徒1:11)のであり、『終わりの日』の臨在にはキリストが雲から出現するかように肉体で現れることはない。むしろ『雲に乗って』『雲と共に来る』とされている。(マタイ24:23-28/ルカ17:22-24)
黙示録に記される『わたしは死んだが生きている』というキリストの相貌は、初臨の肉として来られたイエスを知るヨハネ(ヨハネ第二7)に衝撃を与えるほどのものとして描かれている(黙示1:12-17)

したがって、使徒らへの復活後のイエスの現れも化肉であったと結論できる。アブラハムへの天使の現れからすれば(創世記18:8)食事をしているから(ルカ24:39-43)肉体に復活したとは言えない。傷を負ったままで治癒も出血もないイエスの現れは通常の肉体のものであったとはいえない。(ヨハネ20:25)むしろ、イエスは復活を通して最初の再創造(パリンゲネシア)が神によって成し遂げられていたとみるべき理由がある。(マタイ19:28)


キリストの臨在は『稲妻が西から東へと輝きわたるように来られる』(マタイ24:27)のであるから、『人が「見よ、メシアは荒れ野にいる」と言っても、行ってはならない。また、「見よ、奥の部屋にいる」と言っても、信じてはならない。』(マタイ24:26)とも警告されている。地の裁きが関わる以上、臨在を通して化肉のキリストも考え難い。この「キリストの見える現れ」の点では、その虚像の出現により、終末の人々には強い誘惑が起こることが繰り返し暗示されている。

キリストの臨在が目に見えるもの、また再び地上に到来すると唱えることは、地上の何者かをキリストと見誤り、『偽キリスト』を招く危険を冒すことになり兼ねない。(ルカ17:23-24)
それゆえイエスは『人に惑わされないように注意せよ。多くの者がわたしの名を騙って現れ、自分がキリストだと言っては多くの者を惑わす』との警告を繰り返し与えている。(マタイ24:4-5)
しかし、聖徒らが去る以前から奇跡はすべてが聖霊によるものとは言えず、それは試されるべきものである。(ヨハネ第一4:1/士師6:17)

終末には、地上に『偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする』(マタイ24:24)からであり、彼らは超自然のしるしを行う『聖なる者』であったが誘惑と恐れから堕落し悪魔の霊力によって偽預言者となる「脱落聖徒」であり、イエス・キリストはきっぱりとこれらの者らを拒絶する。(マタイ7:22-23)

また、キリストの不可視性は、『偽メシアや偽預言者』を介在させるばかりでなく、より重要な人々の聖霊による裁きに関わらせるのであり、キリストが見えないことで人は処罰を恐れずに自分の性向を露わにし、臨在の中で善良の外面を演じることさえ阻まれ(サムエル第一16:7)、怖れを抱かずにその心にままに行動し、自らがどのような者であるかを自他に示すことになる。(マタイ12:33-37)また、キリストの臨在が自分たちの期待する見える仕方で来ていないところでそれを信じないことを表す。(マタイ24:23)


終末において見える神の活動を荷うのは『聖霊』(ヨハネ16:8)であるので、『聖霊を冒涜する者はけっして許されない』(マタイ12:31-32)との言葉は終末において重い意味を持っている(ヨハネ3:19)。
したがって、イエス・キリストが霊の体のままであってさえ化肉の像を見せる(ルカ17:22)なら、自らこの世の裁きを阻害し、裁きの媒介となる聖霊の役割を貶めることになってしまう。(ルカ12:10)

終末預言の中で、大変災を予期する諸国民が戦慄しつつ『人の子が栄光を伴い、天の雲の内に来るのを見る』(ルカ21:25-28)のは、肉眼でイエス・キリストを捉えるのではなく、この世の裁きが進行し、人々が処置されていることを認めざるを得ない事態(マタイ24:29-30)に入った恐慌の時を指している。そこに於いて人々はカオスに陥り、既に裁きに分けられており(マタイ25:31-33)、キリストの臨在が栄光を帯びるその顕現(エピファネイア)(テサロニケ第二2:4/テモテ第一6:14)の段階に入っている。

キリストがその臨在を広く世に表すときには、進行している裁きが人々の目に明らかであり、分けられていた『羊』を『山羊』から救い出す処置に入る。そこで聖霊に敢えて信仰を表さなかった人々、また脱落聖徒の集団である地上に残された『偽預言者ら』、またその中心人物である『偽キリスト』に従った人々は『永遠の断罪』に入ることになる。(マタイ25:46)



◆聖徒の裁きと召し

この裁きとは『聖なる者ら』の召しに関わるもので、彼らへの迫害による『精錬』の過程を経る(マラキ3:2-4)。
その終末の迫害を司るのは『北の王』とされる権力と、そこから派生する『腕』とされている(ダニエル11:31-35)。
黙示録でこの『腕』に相当するものが『七つの頭を持つ野獣』であることはダニエル書との比較から分かる(ダニエル8:24/黙示13:7)

終末の地上に生きる彼らの天界への召しに対して、死した『聖なる者ら』の天界への復活が先んじる(テサロニケ第一4:15-17)。
初期に死した『聖なる者ら』は生前の行いによって裁かれる(コリント第二5:5-10)が、その生涯を『新しい契約』に則して忠節に歩んだか否かが問われる(ヨハネ5:29/マタイ25:1-13)。

生ける『聖なる者ら』については『瞬間的に』『雲の内にあって』(テサロニケ第一4:17)人に目視されることなく肉体を消失させて(ルカ24:12/ヘブライ13:11-12)天界に召されるが、それは世に対して衝撃を与える(黙示11:12)。それが聖徒らを『新しい契約』に則して裁く決定的な時となるので、パウロは『 わたしたちの主イエス・キリストの顕現に至るまで、その戒めを汚すことなく、また、非難のないように守れ。』と命じている(テモテ第一6:14)

しかし、『聖なる者ら』にもその裁きと召しが何時になるかは分からず『見張っている』必要がある。もし、終末の『聖なる者』として相応しく行動しなければ、聖霊を注がれていながらも地上に残される者となる。(マタイ24:36:-44)

使徒ペテロも、『聖なる者ら』が『主の臨在のときまで染みも傷もなく、平穏な心で見出されるように努めよ』と訓戒している。(ペテロ第二3:12-14/ヨハネ第一2:28)こうしてキリストは『生ける者と死せる者を裁く』(使徒10:42/テモテ第二4:1)。この裁きは、『神の王国』の樹立に関わるもので、千年期後の神自らによる(黙示20:11-15)諸世紀の人類への裁き(ルカ11:31)とは別のものである。

彼らにとって裁きの時が『罠のように臨む』(ルカ21:34)恐れがあるのは、臨在の始まりではなく、迫害の精錬を経て、彼らの裁きが確定するキリストの『顕現』の直前である(テモテ第一6:14)。聖徒の全体は『イスラエルの12部族』として集められるが、その裁定に関わるのはキリストと十二使徒であり、その時には天界で十二使徒との主の晩餐が二度目に催される。(ルカ22:28-30/22:14-18)

『精錬』の期間が『1260日』であれば、キリストの臨在(パルーシア)によって聖霊降下が始まると共に試練も訪れ、同時にメシアがダニエルの『七十週』の残りの三年半『契約を保ち結ぶ』(ダニエル9:27)ので、地上に再び聖霊を注がれる者らが現れることになる。したがって臨在は聖霊の再降下を以って明らかにされる。
『聖なる者ら』は、聖霊によって語り(ルカ21:15)、その委ねられる言葉によって為政者らと対峙する(イザヤ52:15)が、その発言は広く諸国民の知るところとなり(マタイ10:18)、世を糾弾するその内容によって世界は(シナイ山の如く)激しく動揺することになる。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)
従って、聖霊の注ぎの以前に論争が起こされていて、為政者との対立も既に始まっている可能性が高い。

この聖霊による世界宣教には『聖なる者ら』の自己犠牲と勇気が求められるので、恐れる者は、聖霊の働きを封じて世から隠してしまう(マタイ25:13-30/ルカ19:12-27)が、そうする者らは『この世』と終わりを共にすることになる。(マタイ10:39)
したがって、彼らは『自分の魂を救おうとすればそれを失う』(ルカ9:23-24)ことになるので、『自分の磔刑の木を荷って主に従う』覚悟が必要となる。(マルコ8:34)
また、恐怖からの沈黙以外に、聖霊の業を行っていながら別の動機を懐き、不忠節に及んで断罪され、キリストの選びに達しない者も出る(マタイ7:21-23)。
聖徒の集団の内部でも忠節を巡って分離が生じ、裏切りや憎しみ合いが起る(マタイ21:10)が、聖徒の起こす論争を巡っては、家族、親族、友人とも分裂の生じる危険を覚悟しなければならないほどに対立は先鋭化する。(マタイ10:35/ルカ12:52)

臨在の顕現の起こる直前には、『聖なる者ら』への弾圧と攻撃が特に強くあり、これは『北の王』と『腕』(ダニエル11:31)、また『小さな角』によるもの(ダニエル8:9-12)であり、これは黙示録では『七つの頭の野獣』として描かれる諸国権力の集合体で現在の国際組織とは異なる新たな国際権力と思われる。
ダニエル書での『北の王』の描写はしばらくセレウコス朝シリアを描写するが、途中から(11:29近辺)アッシリアの描写に代り、聖霊の言葉に強く反発する(ダニエル11:44)ので、その主導する国際勢力の集合体によって聖徒らは『滅び』を被ることになり(ダニエル8:24/黙示13:7)、その後には信徒らへの脅迫も及ぶ(ダニエル11:45)が、アッシリア(イザヤ37:33)また『北の王』で予型象徴される『シオン』への攻撃の主体者である終末の覇権国の一方(ダニエル11:25-)は、聖徒の攻撃の直後の『シオン』攻撃準備の最中に突然の権力の崩壊に見舞われ(ダニエル11:45/黙示13:5)るが、『シオン』で象徴される信徒の集団については害を免れる(イザヤ37:33-35)。しかし、『北の王』は舞台から退場しても『腕』を構成する勢力は『十本の角』として残る。

この『北の王』の信徒への恫喝、また『アッシリアが領地を侵すときに』神は『イスラエルの支配者』の許に、聖徒ではない何者かの『七人の牧者』『八人の君侯』を起こし、『アッシリアからの救い』が施される(ミカ5:1-6/イザヤ37:6-7・22:20)が、この『北の王』の権力の崩壊は人間によるものではないらしい(イザヤ31:8)。
この際に『七つの頭の野獣』も一旦活動を終え(黙示13:5)、新たな『像』の段階へと進むらしい(黙示13:14-15)。


この『大患難』に先立つ軍事的不安は、キリストの終末予告の中で『戦争や騒擾の知らせ』として『民は民に、国は国に対して立ちむかう』世の権力同士の戦いとは別ものとして語られており、前者は『北の王』からの『シオン』に対する恫喝で終わることについて述べていることが、キリストの『恐れ慄かないように』また『終わりはすぐには来ない』との続く共観福音書の言葉に一貫して示されている(マタイ24:6/マルコ13:7/ルカ21:9)。

『シオン』へのこの恫喝に前に『聖なる者ら』への滅ぼしは成功するが、その直後に彼らには天界への召しが生じ、初期の聖徒らは復活し(ダニエル12:1-2)、次いで地上に残る契約に忠節な者らは不可視の『雲のうち』に上げられ、地上を去る(テサロニケ第一4:13-17)ので、それを聞く世の人々は驚愕する(黙示11:11-13)。『キリストの王国が実現する』のはこの時であり(黙示11:15)、エデンで語られた『女の裔』の実体である『神の王国』が現れるこのときに、世の初めから隠された『神の聖なる奥義』が終了する。(黙示10:7)

この間に、地上に残される『不法の人』また『偽キリスト』を中心とする脱落聖徒らの諸国家への使嗾によって、『シオン』に対する第二の攻撃が画策される(黙示16:13-14)が、これが『諸国の王らをヘブライ語でハルマゲドンという場所に集めた』との記述に相当する。(黙示6:16)
しかし、この攻撃に先立ってこれら諸国の勢力は、『聖なる者ら』を攻撃させた旧来の組織宗教『大いなるバビロン』(黙示17:3-6)を既に葬り去っており(黙示17:12-13・16)、その以前からも人々の宗教心は新たな信仰の対象を求めて『不法の人』の神格化が進んでいる。(テサロニケ第二2:3-4)。



◆七つの頭を持つ野獣と大いなるバビロンの滅び

聖霊による世界宣教は、既存の諸宗教の意義を無くしてしまい(イザヤ60:2/黙示9:1-6)、旧来の組織的宗教からは信者が著しく減り始める(黙示16:12)。
そこで諸宗教の組織は、聖徒への反対を始め、これは為政者らと結託するところとなる。
為政者らは『北の王』の唱導で始められる『小さい角』(ダニエル8:9)であろう『七つの頭を持つ野獣』(黙示13:1)で表される諸国権力の集合体を以って聖霊の発言に対抗し、聖徒らを攻撃することになる(ダニエル8:10-12/黙示13:6-7)。

この権力組織は世界的なものとなり、疑似的世界統一政権のようなものとなるようであり(黙示17:11)、それは古代にニムロデが企て挫折した事柄(創世記11:6-8/黙示13:3)、即ち、世界統治の野望の再来(黙示13:14)であるようだ。
しかし、その『獣』そのものの存在期間は短く(黙示13:5)、聖徒に対抗する役目を終えると『北の王』の権力崩壊(ダニエル11:44-45)に影響されて一度消滅するらしい(ダニエル8:23-25/7:11)。

しかし、聖徒を滅ぼした野獣は『シオン』に矛先を転じ強烈な恫喝を行うが、そこで『戦いや騒擾について聞いても恐れるな』(ルカ21:9)とは、『シオン』については述べられたと言える。イザヤの預言に従うことが正しければ、『シオン』への、この第一次の攻撃そのものが『人手によらず砕かれ』短時間に脅威は『シオン』から除かれる。(イザヤ37:6・33/ダニエル11:44)
そのとき、このアッシリアで象徴される終末の『北の王』は、恐るべき知らせに『掻き乱され』『自国に帰る』以外なくなるらしい。それはおそらくは、自国の国家権力に関わる危機を意味するように思われる。
これは同士討ちで諸政府の権力が打ち砕かれるハルマゲドンの戦いとは異なり、それよりも早く訪れるので『必ず起こるが、終りはまだ』である(マタイ24:6)と言われているのであろう。

聖徒を、その聖霊の発言共々亡き者としたい諸宗派は、この権力の集合体に向けて聖徒らを攻撃するよう政治に対する影響力である『地の旅商人』を用いて慫慂し(黙示18:23-24)、その策謀は成功を見る(黙示17:3-6)。だが、これによって旧来の宗教組織の総称と思われる『大いなるバビロン』は、聖徒らへの暴虐を指す『神殿への罪』(エレミヤ50:28)を負い、エルサレムの罪はバビロンへと移される(ゼカリヤ5:8-11)。

『大いなるバビロン』は、『聖なる者ら』にもたらした二倍の復讐(黙示18:6)を受け滅びを被ることになる(黙示16:4-6)。
それでも人々から宗教心が去ることなく、新たなスタイルの宗教が広く世界の人々の崇拝心を吸収するらしい。それが『野獣の像』の偶像崇拝であり、それを推進する覇権国家があり、その国家はおそらくキリスト教由来である(黙示13:11-18)。

旧来の宗教組織の総称と思われる『大いなるバビロン』については、世界を動揺させる『聖なる者ら』の聖霊の言葉(ヘブライ12:25-26)によって多くの信者を失い続けており(イザヤ47:9/黙示16:12/17:15)、その勢力は格段に弱まっている。
そのうえ、『不法の人』また『反キリスト』を中心とする脱落聖徒ら(マタイ7:21-23)が、サタンの霊力を得て(テサロニケ第二2:8-10)覇権国家の下で新たな包括的宗教を始めている(黙示13:11-18)ので、旧来の組織宗教はより一層脆弱化する。

そこで旧来の『大いなるバビロン』を滅ぼすよう諸国家の権力(ダニエル7:12/黙示17:12)に影響を及ぼすのは、『北の王』ではないもうひとつのキリスト教的覇権国家、『子羊のような二本の角を持つ野獣』(黙示13:11)に擁立される『野獣の像』(黙示13:14)で表される究極的偶像崇拝(黙示13:15)の対象となる『不法の人』(テサロニケ第二2:3-4)であると思われる。『不法の人』は『神の神殿に座し、自らを神とする』ので、生ける偶像となって『話すようになり』『冒涜を語る』ことになる。また、彼が『野獣の像』であることは、権力を備え圧政をもたらすことも暗示されている。

旧来の組織宗教の消滅は、野獣の『十本の角』で表される諸国家の公権力による滅ぼし(黙示17:12-13・16)によるが、これは聖徒攻撃と信徒への一度目の恫喝(ダニエル11:44/イザヤ37:8-11/ルカ21:9)の後、二度目の脅しに際して訪れる。
おそらくこの二度目の脅しは、野獣の『像』の権威による『十本の角』への下命によるものとなり(黙示16:16)、その間『大いなるバビロン』は以前に『十本の角また野獣』を使嗾して聖徒を滅ぼさせているため(黙示17:12-14)、自分たちは二回目のシオン攻撃についても安泰であると思い込み、『女王として座す、寡婦などではない』と油断し(黙示14:15/列王二9:31)、新たな政教の座に就いている『荒らす憎むべきもの』の企みに気付かない(列王二10:18-19)。

『大いなるバビロン』への攻撃は、信徒の集団『シオン』の二度目の危機(歴代第二20:1-3)となる「ハルマゲドン」の戦いの前哨戦となり(黙示16:16)、その勝利によって諸宗教に勝利する諸国の権力の意気は上がる(ヨエル3:9-12)。『十本の角』はシオン攻撃に進み、直ちに神はキリストを王としてシオンに擁立し、神と人との最終的戦いに入ることになる。(詩篇2:1-12)
『聖なる者ら』が去ってから終局までの事象は長い期間に亘るものではないとされる(ダニエル12:7)。おそらくこれは『二千三百の夕と朝』との秘儀と関わっていると思われる(ダニエル8:13-14)。<おそらくは終末期の全体は10年未満であろう>



◆キリストの臨在の顕現

臨在は聖霊の再降下によって明らかになるが、三年半は世人に対してキリストの臨在は疑問の余地を持つ状況が続く。
しかし、『雲の内にある』キリストの臨在していることが明らかになる時が到来するが、それをキリストの『臨在の顕現』(エピファネイア テース パルーシアス)という(テサロニケ第二2:8)。

『主イエス・キリストの顕現』(テモテ第一6:14)とは、『聖なる者ら』の裁きと召集の後に為される(イザヤ52:9)もので、キリスト・イエスは天界に揃った『聖なる者ら』のすべてと共に王位を得て(コリント第一4:8)地の征服に乗り出すことを指す(黙示19:11-21)。その戦いは信徒らの集団である『シオン』を守るためであり(詩129:5)、『神の大いなる日の戦争』また「ハルマゲドンの戦い」を行うべく、『シオンに王が立てられる』(詩2:6)。そこで神はシオンから権力の杖をメシアに差し出し『敵中から征服せよ』と命じられる(詩110:1-2)。
したがって、その戦いは既に敵軍の脅威に曝された『シオン』を巡るものとなる(イザヤ62:1/ゼカリヤ2:5)。

キリストの『顕現』は、この世がキリストの臨在の威光を認めざるを得ない状況に入ることを意味しており、神と人との『ハルマゲドン』の戦いの勝敗の決した後のことになる。神との戦いによって諸政府は拠って立つ権力を喪失し、世界はカオスへと向かう。その先にあるのは終局である。

キリストの顕現によって人々が『気を失う』のは、キリストの姿を見るからではなく『日と月と星に前兆が顕れ』キリストの臨在を『森羅万象』に認めるからであり(ルカ21:35-6)、それゆえに『人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。』(ルカ21:27/マタイ24:30)

この状態は、キリストが裁き主(ヨハネ5:22)として到来していることを誰もが悟る『臨在の顕現』となる(テサロニケ第二2:8)ので、大祭司カヤファにイエスが『あなたがたは、やがて人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』と告げた(マタイ26:64)のは、キリスト(聖なる者を含む)(ミカ4:13)を亡き者をした者らへの神の側の報復の執行を指している。(エレミヤ50:28)



◆エルサレム神殿の対型と不法の人・荒らす憎むべき者

この顕現の前兆は『聖なる者ら』が地上から姿を消す事態の発生であり(黙示11:11-13)、顕現の始まりには『大いなるバビロン』への『二倍の復讐』が行われる。(黙示18:16-17)その『大淫婦』が『七つ頭の野獣』で表される権力の集合体を使嗾して『聖なる者ら』を攻撃させ(黙示17:6)、その『常供の犠牲を絶えさせた』からである。(ダニエル8:11-12)
だが、この行為は『荒らす憎むべき者』という究極の偶像崇拝を招く。(ダニエル11:31)その偶像は生ける人間であって脱落聖徒であり『反キリスト』また偽キリストとなる。(テサロニケ第二2:4)
この『聖霊』によって回復されたキリスト教からの脱落が、パウロの述べた終りの日に於ける『背教』であり、多くの「終末の到来」を予告したキリスト教の宗派がこの背教を見定めないために、正しくそれを予告することはできないでいる。(テサロニケ第二2:2-3)

脱落聖徒に対しては、サタンが肩入れするために一定の不思議を行う力が伴う(マルコ13:22)。
しかし、真のキリストが彼らを是認することはない(マタイ7:21-23)。

終末においてサタンの霊力を得て神に逆らう者らが現れる(黙示16:13-14)。それが、脱落聖徒らであり(ダニエル11:32)、彼らはエゼキエルの預言したマゴグを構成するのであろう。即ち「ゴグの故地」であり、中心的人物となるのが『ゴグ』と称される『不法の人』であると思われる。エゼキエルでは、ゴグは最終的な戦争を仕掛ける立場にいることが描かれており、脱落聖徒集団と思われる「マゴグ」の一党を率いる宗教的立場も含意するものは、『不法の人』(テサロニケ第二2:3)に最も意味の合致が考えられるからである。
『ゴグの地』が『北の最果て』(エゼキエル38:15)とされるのは、方角を意味せず、天空の中央を象徴し、『神の座』にゴクが就くという著しい権威の高さを表しているのであろう(イザヤ14:13/詩18:2)。即ち、宗教権威と政治権力とを兼ね備える偽キリスト、『荒らす憎むべき者』を表している(マタイ24:15・24)。

〈現実にユダヤ教徒がエルサレム神殿を終末までに再建する場合には、旧約の回復の預言がイスラエルの現共和国に実現するかのように誤解され兼ねず、キリスト教徒の少なくない人々によって既にそう信じられているので、これが終末の裁きに在って、聖徒を見分け、神の裁きの意図を知ることを妨げる要因としてサタンに用いられることになり兼ねない〉
〈黙示録20章での『ゴグとマゴグ』は千年後のものを指しており、似た働きを為すものの、その結末は異なっている〉

他方、『荒らす憎むべき者』(偶像を含意)もおそらくは同じく『不法の人』を表しており、『北の王』で象徴される覇権国家の後ろ盾を得て存在を始め(ダニエル11:31)、その国家の急速な崩壊の後に、別のキリスト教的な覇権国家(黙示13:11)の支援を受けて偶像化し、旧来の組織宗教の総称と思われる『大いなるバビロン』(黙示17:4-5)を亡きものとするよう使嗾したうえで、強烈な独裁的で新たな様式の世界宗教と化す(黙示13:12-18)。<実際に神殿が地上の跡地に再建される場合、その御座を占有し、聖徒を支持する民を地上のエルサレムに対する敵として攻撃させる動機が生じることになる(現に神殿什器は再製造されている)(但し、エゼキエルによると、終末に神殿が再建される場所は必ずしもエルサレムではなく、より南方の山地で、そこが「新エルサレム」と呼ばれる可能性を孕んでいる)>

地上の「偽キリスト」また「アンチ・キリスト」は、臨在のキリストに対抗するもので、天界のキリストの不可視を利用し、自らの至上権を吹聴するので、キリスト・イエスは地上の何者をもキリストとして探すことのないよう繰り返し戒めている(マタイ24:23-28/ルカ17:22・21:8)。

<この宗教が『荒らす憎むべき者』を権力化させ偶像化させるに当たり、旧来の組織宗教は去っているとはいえ、キリスト教の三位一体と地上再臨の教理、ユダヤ教のメシアの現れによる神殿再建の熱望、イスラムのイーサーの再来の教えが地上の特定の人物を神格化させる種として古来蒔かれていたとも考えられる。また終末思想を持つ諸宗教も合同される理由がある(ダニエル11:39)。この一神教の合同に加え、北の王の瓦解が共産独裁圏の消滅を指すなら、世界は宗教的にも政治的にも強い対立を解消することになり、そこで『平和と安全』が唱えられる(テサロニケ第一5:3)蓋然性は高まる。但し、エゼキエルの預言を詳細に見ると、現エルサレムの位置には神殿は建立されず、数十キロ南の山地に移動するものと思われる。そこは「新エルサレム」と呼ばれる怖れがある。各宗教はそれを受け容れてしまい兼ねない。もし、そうなるなら、それは神の奥義である>

この最終的な宗教権威者が『荒らす憎むべき者』と呼ばれるのは、ヘロデ神殿とユダヤ体制の終焉を招いた熱心党と野党集団に類似した終末の存在者を指すところからくるものと思われる。終末の『荒らす憎むべき者』は、聖書中で度々『シオン』と呼ばれる『聖なる者ら』の聖霊の言葉に信仰を働かせる人々(ヨハネ17:20)を攻撃するよう諸国家の権力を使嗾し(ヨエル3:9-11)、却ってこの世の体制に滅びを呼び込む。(ミカ4:11-13)

『聖なる者ら』が迫害によって『殺され』、その結果キリストに続く者として天に召されると、天に『神の王国』が実現するので、サタンの力によって(テサロニケ第二2:9)『神の座に就く』『不法の者』を『主イエスは口の霊をもって殺し、臨在の顕現によって滅ぼす』時を迎えることになる(テサロニケ第二2:4)。それはおそらくハルマゲドンの戦いの敗北の時、キリストの臨在が明確にされることで生じるとすれば前後関係は整合する。



◆『ハルマゲドン』の戦い

黙示録には『全能なる神の大いなる日に、戦いをするため』『全世界の王たちのところに行き、彼らを召集』することが描かれて後にこの『ハルマゲドンという場所』に『王たちを召集』している。(黙示16:14-16)
やはり旧約聖書の預言者らによっても、諸国が結束してシオンを攻撃することが繰り返し予告されている。(エゼキエル38:21-23/ゼカリヤ14:12)
『シオン』とは、『聖なる者ら』を表す『シオンの娘』を生み出す母体であり、出産の後に保護される地上の集団を指している。(黙示12:1-4・13-16)
この集団は、聖霊の言葉に信仰を働かせた人々で構成され(ヨハネ14:20)、迫害を受ける『聖なる者ら』に善意の手を差し伸べる(マタイ25:31-40)。その親切が僅かなものであったとしても、その酬いを得ないことはないとキリスト・イエスは語っていた(マタイ10:40-42)。
終末には、脱落聖徒である『偽預言者』らの勢力が悪霊の慫慂を受けて、諸国の権力を用いてこのシオンを攻撃させようと惑わす。(黙示16:13-16) この企てに『大いなるバビロン』に属する諸宗教も賛同するが、諸国の公権力の集合体である『十本の角』はその露払いがこの大娼婦攻撃であることは伏せられている。そのたくらみの主は『不法の人』であると思われる。
<もし、地上にエルサレム神殿が再建されていれば、不法の人の座を「偽のシオン」とし、そこを守ることを正義と置き換え、象徴的な「真のシオン」を攻撃させる理由もあり得る。また、その以前に『大いなるバビロン』をも同様の理由で攻める口実があり得る>

しかし、このハルマゲドンの戦いが始まると諸国の軍勢は同士討ちを始め、そこに神罰が加わり全軍が尽く壊滅する(エゼキエル38:21-23/ゼカリヤ14:12-13)。この同士討ちについて黙示録第六章で、『赤い馬』で示されており、『人々が、互いに殺し合うよう、巨大な剣が与えられた』とあり、そのため『地上から平和を奪い取る』ほどの権力の世界的破滅をもたらすものとなる。

預言者ヨエルはエホシャファト王の故事を用い、その古代の対型となる戦いが再度起こり、世界を巻き込むことを預言して『諸国民は奮い立ってエホシャファトの谷に来い。わたしはそこで座を設け周囲のすべての民を裁く。』と記し、諸国の大軍勢が同士討ちで壊滅することを暗示している。(ヨエル3:9-12)しかし、神YHWHは『葡萄搾り場を踏む』かのように諸国民を裁き、シオン、またエルサレムから声を放ち天地が激動することも予告する。(ヨエル3:13-17)
黙示録は、『聖なる者ら』の小麦の収穫に続いて葡萄の収穫があることを予告し、その葡萄搾り場が踏まれると『馬の轡に届くほどの嵩となって、1600スタディオン(288km)に及んだ』と記している(黙示14:20)。

『ハルマゲドン』とは、勝敗が鮮明に分かれた決戦の行われた場所としてのエスドラエロン平原を広く見渡す『メギドの山』に由来する。
したがって、古来その地の戦いが圧倒的な勝利と完膚なきまでの敗北を示唆しているが、この点は『預言者ら』の予告に違わず、神は『災厄を与える』ので『恐慌が生じて、同士討ちを行う』ことと相まって諸権力の連合軍は徹底的に破られる(ゼカリヤ13:12-13)。天に召集された聖徒らもキリストと共に諸国民を脱穀し微塵に砕く(ミカ4:11-13)。

これは神とこの世との戦いであり、諸国は権力を糾合して神を信仰する人々を攻撃しようとするが、神はその人々を表す『シオン』を守らせる(イザヤ31:5)ために『王を立てる』(詩2:6)その王は『敵のただ中から支配せよ』と命じられ(詩110:2)、『聖なる者ら』を伴い(黙示17:14)『全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む』(黙示19:15)

こうして、神は高く上げられ(イザヤ2:10-17)、諸国民は神YHWHを知らなければならなくなる(エゼキエル38:23)。
しかし、その至聖の御名を唱える者は救い出される(ヨエル3:32/使徒2:21)。

この段階で、『新しいエルサレム』は降下しておらず、シオンは『田園の』『開かれた(城壁の無い)都市』であるが、そこは安らかに繁栄しているという。即ち、権力の防備なく聖霊の恩恵に預かっていることが示される(エゼキエル38:11)。そこで諸国の軍勢は必勝を期す(エゼキエル38:9/ヨエル3:9-11)が、神YHWH自身が『火の城壁となってこれを守る』(ゼカリヤ2:4-5)


◆諸国民への裁き

諸国の権力は同士討ちを始め、神の立てた王の前に完膚なきまでの敗北を被るが、これについては黙示録6章の「四人の騎士」とそれに続く『墓』(ハデース)(黙示6:1-8)に予告されている。
第一の白馬の騎士が『征服に征服を遂げる』ために現れると、第二に『火のような色の馬』が現れる。
この馬の騎士には『大きな剣が与えられる』がその意味するところは『人々が互い*に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ること』とされており同士討ちが示唆されている。*(アッレローン「個々に」)

この戦闘と神罰とによって、この世の権力は崩壊してしまうので『地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくし』(黙示6:16)『そのとき、人々は山にむかって、我らの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、我らを覆えと言い出す』(ルカ23:30)
この戦いで出る膨大な屍は、『中空を飛ぶすべての鳥』の食らうところとなる(黙示19:17)。

この戦いの結果、諸政府を表す『山』や『岡』は削られ(ハバクク3:5-6)激動し崩れ去り(エゼキエル38:18-20)、打ち砕かれる(イザヤ41:15)。
地上のこの世の制度は押しなべて溶解し、無法のカオスの中で、「原罪」ある人間のあからさまに利己的で危険な有り様を通して『その業は暴かれる』(ペテロ第二3:10)

この世の諸機能は働かなくなるので、世界の経済活動は停滞し輸送も止まるであろうから、貿易や流通に生活を依存しているこの世界は直ちに物資の窮乏に喘ぐことが予想される。
黙示録の第三の騎士は黒い馬に乗って登場し、主食の高騰を描写している(黙示6:5-6)。
しかし、奪略と騒擾の蔓延により、貨幣価値さえ失われる事態まで覚悟せねばならない(エゼキエル7:19)。
その段階では、場所的な逃避(アモス9:2)も、蓄財(ゼパニヤ1:18)も食糧の備蓄(ルカ12:19-20)も生存を保証するものとは言えない。

食糧不足は健康を害するに違いないが、第四の騎士は『青ざめた馬』に乗って登場する。これは『死の災い』を表すが、神の『御前を進む』(ハバクク3:4-6)という『疫病』を表すのであろう(エレミヤ14:12)。
黙示録では青ざめた馬には『墓』が従っており、それが『地の獣』でもあることが示されている(黙示6:8)。 即ち、獣の腹がそれ以前の災厄を含めて滅びる人々の墓となる。それでもなお、しばらくの期間は死体や骨を目にすることはあるらしい(イザヤ66:24/エゼキエル39:14-16)。
従ってこの『死の災い』が諸国民への裁きの執行に最終的な役割を果たすようである。(エレミヤ14:21)もしそうなれば、選択的罹患によって、救われるべき人々は具体的な『奥の間』に入る必要なく、保護される可能性がある。(イザヤ26:20)

象徴的『シオン』には、戦いに勝利したダヴィドの都市『新しいエルサレム』が降り、支配と贖罪を始める。(黙示21:9-10)
これが全収穫の終了を祝う、仮庵の祭りの対型であると思われる(ゼカリヤ14:16-19)。


◆臨在の前段階

キリストはこの世に対して不在であるので、終末にキリストの臨在が起こる。
しかし、キリストの臨在の前に予備的な働きを行う者がいることが予告された(ルカ18:8)。
彼らは、深夜に『婚礼から戻る』『主人が扉を敲いたなら、すぐに開けられるように』準備を怠りなくしているべきである(ルカ12:35-36)
もし、そうして目覚めているところを主人に見られるなら、『主人は彼らに給仕をする』(ルカ12:37-38)

この件につきペテロはイエスに、使徒らによって象徴された『聖徒』に対するものか否かを訊ねた(ルカ12:41)が、イエスはそれに答えなかった。その理由は『聖徒』であるか否かを示す必要が無かったからであろう。とすれば、これらの予備的な臨在前の働きは『聖霊』によるものにならない。
それでも、マタイ福音に於いて、自発的に臨在前の活動を行う者は『忠実で智き僕』とも呼ばれ、仲間に定時の食事を備える(マタイ24:45-47)。しかし、主人の到着を待たずに仲間を促し強制して勝手な振る舞いをすることは強く戒められている(マタイ24:28-51)これら、双方の違いは、終末期に於ける様々な試みを自発的に行うそれぞれの集団があることを指すのかもしれない。

また、ダニエルに示された第七十週の残りの期間が、『新しい契約』の締結と関わりがあることが示されており、『聖霊』がその契約に預かる者の『手形』(エフェソス1:13)であれば、聖徒が現れるのは、第七十週の残りの42ヶ月また1260日となり、その間ずっと迫害がある(黙示13:4-7/ダニエル7:25)のであれば、キリストの臨在は『聖霊』の業と世界からの反対を特徴とする。そこで、キリストの臨在の前の段階で『聖なる者ら』を生み出す『女』(黙示12:1)が存在していることになり、それはイザヤ書に繰り返し描かれ、またミカ書に詳述される『シオン』と『シオンの娘』の描写に整合する。(イザヤ49:21/ミカ4)

『聖なる者ら』を指す『シオンの娘』または『シオンの子ら』の出産(イザヤ66:7-8/黙示12:1-4)の前に、母親である『シオン』はそれに先立って黎明から目覚めていることが予告されている(イザヤ60:1・52:1/黙示12:1)。 この象徴的サラの出産(ペテロ第一3:6)により『アブラハムの裔』は全て生み出される(黙示12:5)ことになり、その結果、キリストの権威が神の前に樹立され、サタンは天界の立場を失う(黙示12:7-9)。
地に堕ちたサタンは女『シオン』への攻撃を目論むがこれは成功せず、『聖なる者ら』の活動期間中も保護される(黙示12:13-15)。
但し、この『女』の出産の前には多少の困難を予期するべきかも知れない(黙示12:1-4)。



これらの臨在前の活動は神の任命に拠らず、人の側からの自発的なものと思われる。(ヨハネ1:40-41)
この人々は、『聖なる者ら』の現れについて重要な働きを行うことが示唆されており(イザヤ66:20-21)、その『シオン』となる集団の存在と聖霊降下への強い願いが無い限り『聖なる者ら』の登場も、聖霊によるキリスト教の回復もまずもって起こらないであろう。そうなればキリストの臨在も遠のく事になり兼ねない(ルカ18:8)。

終末へのきっかけとなるのがこの自発的な人々の現れであり、旧来のご利益信仰に陥っているキリスト教を離れ、宗教的信念を転換するほどの神への共感が求められている。
キリストの臨在の時が不明であることには、『聖なる者ら』の母体となるべき信仰あるこの人々の登場の不明さを孕んでもいるとも言える。彼らがキリストの臨在を迎え『扉を開ける』(ルカ12:36)のであり、その時期にこれほど大きな影響を人類にもたらす人々もいない。(イザヤ60:1-3/黙示12:1)

この『シオン』と呼ばれる集団に対して、『諸国民が流れのように向かう』とは(イザヤ2:2-4)、聖徒らの聖霊の言葉と、それに続くシオンの人々の世の『三分の一』に対する宣教的糾弾により、新たに加わる膨大数の人々を指しており、その中には『聖なる都市』で表される聖徒とシオンとを迫害していた人々も含まれる(黙示11:2)。その寛容性はモーセが荒野で掲げた『銅の蛇』に予型されている(ヨハネ3:14-17)。また、それを比喩としたキリストは、黙示録の四騎士の最後の青ざめた馬で表される疫病が最終的処置となり、それから信仰によって逃れる機会が依然開かれていることを示唆していると考えられる。




終末に登場する要素
◆予想される世界情勢




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神名  -綱領ー

2016.10.01 (Sat)
神名

神の固有名はモーセに知らされ、律法契約と共にあった。
創世記のヤハウェスト資料に神名が現れているが、この資料の成立はソロモン以降の後代と思われ、イスラエルのエジプト出立の前、モーセの召命まで神名は知らされていなかったと見るべき理由は多い。(出埃6:3/創世22:14・47:26)
アブラハムは祭壇を設け、犠牲を捧げる相手を『エル・シャッダイ』『エル・エルヨーン』または『エル・オーラーム』などの一般的な形容付きの名称で呼んでいるが、少なくともその神が『地のすべてを裁く方』であることを知っていた。(創世18:25)
(大洪水前については、後にモーセに示された固有名を意味する「シェム ハ メフォラーシュ」が存在した蓋然性は低く、知られていたかも不明)

聖書中で、統一された神名によって実質的に諸国民の間で畏敬されたのは、大国エジプトを揺さ振った十の災い、そして紅海を分けてイスラエルを救い、ファラオの権力を葬ってから後である。
イスラエルも、神への畏敬ではほエジプト人とほぼ同じであったが、更に進んでシナイ山が激動し百雷轟き、竃のように黒煙を吹上げて燃えるのを見て怯え上がりYHWHの名をもつ神がどれほど畏怖されるべきかを目の当たりにしている。この名に込められた教訓は達し難い『聖』であり、人に親しみをもたらすよりは、よほど畏れを懐くべきであり、異神崇拝の諸国民を尽く滅ぼす意図をもち、且つ転向する者だけを許す神の姿は、堕罪前のアダムへのエデンの現れのような慈愛ばかりにはならず『裁く神』である。それは人に『罪』があるからであり、本来なら御前には出生することすら叶わない。人の存在はその後のメシアの贖罪と、すべての魂の現れの双方による創造の業の完遂を前提としている。(出埃24:11/イザヤ6:5)
そこで律法は、この名を徒に扱うことを禁じ(出埃20:7)、その後、神名はモーセからキリストの世代に至るまで律法契約の時代を通して存在し保持されていた。(イザヤ42:8)
預言者はその名によって語り、神を代弁していることを示したが、その予告が外れた預言者は偽り者であることを警告している。従って、その名によって語ることがそのまま正義とはならない。

この名は、聖なる四つの子音字で構成されるヘブライ語で記されたので、後に「テトラグラマトン」(希)と呼ばれる。
(その発音が捕囚後に変化している可能性が、神名を含む人名の発音の変化にみられる)

バビロン捕囚の後、律法契約は「新しい契約」が予告される中で不安定化するが、ユダヤ教は律法墨守に邁進し、前三世紀頃から神名の発音を贖罪の日の聖域に限定する(ミシュナ:ヨマー6:2)に従って、神名の神聖さの強調が進み(ミシュナ:サンヘドリン7)、排他的に扱われ、「ハ シェム ハ メホラーシュ」は、第二神殿の「イスラエルの中庭」に入域できる血統のイスラエルだけが発音を知るところとなっていった。その作法の由来は十戒の第三戒(出埃20:7)の徹底と、崇拝の中心地に神が『名前を置く』とされたこと(申命16:2/歴代第二33:7)に背景がある。また、境内の聖所への入域を許されたユダヤ人らの選民意識を高める働きを果たしてもいたが、それが却って後の発音の喪失を招くことになる。

第一世紀には、ユダヤ教徒は聖域外で神名を発音することが重罪となっていた(サンヘドリン10:1)ことは、ヨセフスの著作(戦記V:10)にも見える。
使徒らや初期のユダヤ人の弟子らも、ユダヤの神名の作法に従っており、聖域外での神名の発音は避けていたことは、固有名を識別するのにきわめて効果的に用いることのできた宣教の場面でそうしていないことからも窺える。(使徒13:16-17/14:11-18/17:27)
彼らが伝えるべき名(使徒4:10-12)はメシアとしてガリラヤから来られた方、ナザレ村のイエスであった。(ローマ15:20)
イエス自身がナザレの会堂でイザヤを朗読したときにも、神名発音で論争は起こっておらず、ユダヤの作法に従っていたと見うけられる。(ルカ4:17/ミシュナ:ソーター6) また、キリスト自身が神名の作法を咎めている場面も福音書になく、使徒らもこの件について何ら述べていない。

(聖書に見る限り、イエスが宗教家らと論争になったのは、ほとんどが安息日に関する事柄であったし、弟子らの場合はナザレのイエスがメシアであるか否かが論点となっている。神名についての論争は皆無であった。)

ギンスブルクの還訳での使徒言行録でも、アテナイやリュカオニアの異教徒らに対してさえ御名を宣明しておらず、彼らが伝えたのは常にキリストであるイエスであった。しかし、イエスは神であるとは言わず、『任じられた方』としている。(使徒17:18・31)

その後のヘロデ神殿の喪失は、ユダヤ教徒らにとって予想外の出来事であったが、聖域を失ったために神名を発音する機会を失い、なおもユダヤ人が神名を神聖視する作法を厳格に保ったために、却って発音そのものが忘れ去られる結果を招いた。
この事態は、神殿の喪失から今日まで『御名を置くところ』が地上に存在しないことをも表している。(申命記12:11)

新約聖書は旧約の引用を当時のセプチュアギンタに拠っていたが、それら旧約ギリシア語テクストはごく古い例外を除きテトラグラマトンが現れる抄本は存在していない。特にキリストの時代までには固有神名は見られなくなっている。
その結果を裏付けるように、今日まで五千にもなる新約聖書の古写本の事例でテトラグラマトンが現れるものは現時点までに皆無の状態となっている。

また、使徒時代の弟子らも神名の発音を避けていたことは、ユダヤ人らとの間でこの件での論争の記録が存在していない事からも明らかに見える。
従って、旧約聖書には神名が現れるが、新約聖書に神名が現れることは無いと言える。その理由は、はじめから記されていなかった蓋然性が圧倒的に高いからである。

新約聖書に、弟子らに神名の発音を求める場面も文言も無い、従って、現状でキリスト教徒に神名の発音は求められていないばかりか、本来正しく神名を唱える事は、誰にも不可能となっている。
但し、終末に於いて信仰のうちに神名を呼び求める事が救いに関わると新旧の聖書が繰り返している。それはただ名を唱えることを超え、信仰という倫理上の選択を意味する。(詩篇79:9-10/ヨエル2:32/使徒2:21/ローマ10:13)
預言者らは、終末に於いて神名が全地で聖なるものとされ、至高の高みに挙げられるものとして何度も描いている。(詩篇69:35/113:3/135:13/イザヤ12:4/エレミヤ16:21/エゼキエル39:7/ゼカリヤ14:9)
したがって、終末には神名が唱えられる仕方で知らされるべき理由がある(詩篇9:10/エレミヤ10:25)が、それは人由来にもたらされることはないと思われる。

聖書は、キリストが終末に神名を知らせる可能性を知らせており(詩篇102:21/ヨハネ17:26)、特に聖霊を注がれて終末に登場する『聖なる者ら』には(詩102:18)、キリストの兄弟として(詩篇22:22)、また、神との契約に預かる当事者(民数記6:27)として、その証人となる(イザヤ43:10/使徒15:14)ことが期待される。

終末に『聖なる者ら』は為政者らの前で、聖霊を注がれて語ることが予告されている(マタイ10:18)が、モーセがホレブ山麓で神名を賜り、それを以ってファラオと対峙し、イスラエルの民の解放を迫った故事が予型となり(出埃5:1-2)、同じく『聖なる者ら』が『御名を負う民』(使徒15:14)として為政者と諸国民に対して神名を示し、民の解放を求めることになれば、終末に現れる彼らが神名を知らせる意義は非常に大きいものとなる。(黙示11:18)

初期教父らが幾つかの発音の情報を伝えているが、一致しているとは言い難い。
キリスト教界でルネサンス期から用いられてきた「イェホヴァ」は、「アドナイ」(主)と読ませるためにマソリームが付したニクード*をそのまま子音に当てはめたものであり、「ヤハウェ」は19世紀にドイツ・チュービンゲン大学の学者が推測し広まったものである。
*[יְהֹוָה]

今日、神名の省略形である「ヤハ」の音は残されており(詩113:1)、再び聖霊が注がれ、再び神名の発音が知らされる終末までの間、固有名としてこれを便宜的に用いる事が出来る。
もし、聖霊による啓示の無い今日までに、人の案出した神名を唱えているなら、それが口癖になってしまうと真の発音が示されても容易に変えることは難しく、それこそは短期間の終末に重大な障碍となり兼ねない恐れがある。(詩篇74:18/79:6)

固有名詞を用いることの重要性があるからといって、言語の違いによって発音が異なることを理由に、人に案出された何らかの発音を用いるとすれば、それは却って神名の重要性を引き下げることになる。それでもなお神名の発音を主張するなら、神の処置に異を唱えることになろう。(詩篇44:20-25)

人の関わる諸事情があったにせよ、もし全能の神がこれを隠されたのであれば、人が開示することはけっしてできず(ヨブ記34:29)、再びの啓示を待つよりほかにない。(詩篇9:10)
それは終末の聖霊の注ぎによるものとなるように思われる。なぜなら、神との契約に預かる者が現れる場合、その者が契約の一方の当事者の名の発音を以って自らの立場を明かさない事は考えにくいからである。

いずれにせよ、神の御名を知ることは願い求められるべきもので(詩篇80:18)、「主の祈り」に明示されているように、聖霊の再降下と共に御名の栄光は、日毎に祈られるほどの重さを帯びている。(マタイ6:9/ルカ11:13)

但し、終末においては、神名を明らかにする者が必ずしも『聖なる者ら』であり続けるかは別問題(ペテロ第一3:6)であり、聖徒らの現れから然程の時を経ずに「脱落聖徒」の危険が存在する(ダニエル11:35)。その場合は御名を知らせる者であっても、『あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、YHWHの名によって誓い、イスラエルの神を唱えるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない』(イザヤ48:1)と糾弾されるべき、不忠節な『契約の民』に堕することも予期する必要がある。


◆聖書中での神名の扱いへの提言

神名が不明である間、旧約聖書中では、テトラグラマトンが存在しているところで[יהוה]または「YHWH」等に置き換えたローマ字で表記し、「ヤハ」と読むこともできる。この点で、今日まで続くパリサイ派ユダヤ教の「アドナーイ」また「エロヒーム」とする習慣に束縛される理由はなく、発音が不明である以上、御名の神聖は既に保たれている。だが、それが正当なものであるかのように「エホヴァ」や「ヤハウェ」と呼ぶのは、真相が持つ発音の不明さに対する畏れを欠く傲慢さを免れ得ず、普通名詞に入れ替えたユダヤ教の奉りに過ぎたる極端さの真逆の極端に走ることになる。
新約聖書では、古写本の有り様に従い神名は挿入する必要がないばかりか、もし、そうするなら初期の聖徒らの著作のあるがままを恣意的に捻じ曲げることになる。
但し、旧約の引用箇所でヘブライ語に[יהוה]がある箇所については新改訳聖書が旧約聖書にしているような方法で【】等に区別して記載することはできる。
それでも読み手が、キリストか神かで誤解を招くような箇所には脚注を付すことができる。



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