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キリスト教の掟と見做され易いもの -綱領-

2016.09.16 (Fri)

前項が長くなったので、こちらに転載


◆キリスト教の掟と見做され易いもの


・エルサレム会議の議決
エルサレム会議の議決は、ユダヤ教の中から現れたユダヤ人イエス派の聖徒らに対して、どのように無割礼の異邦人聖徒がイエス派に参加してゆくかを定めたものであり、既にユダヤ教で会衆に無割礼の異邦人の参加を『神を畏れる人々』(フォボメノイ)として受け入れる際の会堂側からの条件とされていたもの(使徒13:16)淫行、姦淫、偶像崇拝や血の禁令を含んで(レヴィ17:12-16)当時のユダヤ教の最低要件であったものを、ヤコブがイエス派の会衆に交わるに於いても同じ要件を追認し裁定したものである。その目的は、依然ユダヤ教の習慣にあるイエス派信者らがその常識に於いて異邦人の習慣に躓き、あるいはユダヤ人が律法主義に頑なで集まりを共にできないこと(コリント第一11:20-22)のないための措置であった。背景としては、イエス派の集まりでも当時は律法の朗読が行われていたことも挙げられている。(使徒21:20-25)

この会議でのヤコブの裁定は、割礼の問題に端を発したユダヤ人聖徒と異邦人聖徒という『二つの民』(エフェソス2:15)の緊張関係の調停を図ったもの(使徒15:21・21:25)であり、今日のように、律法を守り続けるユダヤ教イエス派が消え去って存在していないキリスト教の現状(ヘブライ8:13)では意味を持たず、これを規則化するべき理由は今日のキリスト教徒にない。エルサレム使徒会議の要点は、割礼の問題を越えて、本質的には律法を遵守するべきか否かという大きな転換を孕んでいたのだが、議決ではその点は暈かされ、二つの民が会衆を構成できるように取り計らわれる事柄で終わっている。
(そこでパウロに主導する外地とヤコブが率いたユダヤのイエス派の間にはその後に葛藤を残しているが、そうして『先のものは後となる』。ユダヤはやがて『火のバプテスマ』を被り、神殿祭祀が中断された結果、律法の完全な施行は不可能となって今日に及んでいる)


・食物制限
ダニエルと三人の友らが野菜を専らに食したのは、血や汚れていると律法で見做された生き物の肉などが混じっていて、律法契約の下にあったヘブライ人の彼らが、捕囚のために異郷に在っても律法条項を犯すことのない強い決意から、異邦人からの給食に条件を付けたものであり、もちろん菜食主義が神から求められているわけでもなかった。彼らの律法遵守に対して健康を保つ神の助けがあったことも考えられる。キリスト教徒であれば、ユダヤ教のカシュルートに自ら従うべき理由はない。


・山上の垂訓の道徳規準
山上の垂訓で語られた道徳規準は、モーセの律法の精神、また真髄をキリストが示したものであり、律法の規準が如何に高いかを教えるものとなっている。それは人々に神の倫理的完全性がどれほど純粋なものか、また同時に、人の到達不能の領域であることも知らせる。
使徒ペテロは、律法を『父祖らも自分たちも守れなかった頸木』(使徒15:10)と呼んでいる。まして、イエスがその価値を掲げたのであれば、それは何者も履行ができるものではない。使徒パウロは『律法は違背を指し示すために加えられたもの』(ガラテア3:19)であり、『すべての口がふさがれ、世界が処罰を受けるため』に律法が与えられた(ローマ3:19)と述べている。
従って、山上の垂訓に示された無原罪の道徳規準を規則化することは無意味であるばかりか有害となる。律法の記述そのものより遥かに実行の難しい要求となるからである。


・自死・自殺
自死、あるいは自殺を聖書が罪としている記述は存在しない。十戒の『汝殺すなかれ』を適用して「自分を殺すことだから罪」という理由は、同じく律法での『その血の復讐する者』(民数記35:16-20)の対象が不在となり罰則がないので殺人と同じ罪に定めるには無理があるばかりか、そもそも律法の時代は過ぎ去っている。

自死や自殺が、苦境に耐えかねた結果として死への逃避を選ばざるを得ないと個人が判断したものである場合、そのような逃避としての死を願った例(民数記11:15/サムエル第一31:4-5)が聖書中に観られるが、神はそのことを咎めていない。また、そうした者を咎める言葉を新約聖書に見出さず、その復活も特に否定されていない。(使徒24:15) 特に自死は奨励もされず、断罪もされていない。

永らくキリスト教徒が、これを罪と見做した由来は、ローマ帝国からの迫害期*(特にデキウス帝期)に、迫害もされていない状況で集団自殺が流行するまでに殉教が美化されたために、これを重罪として戒めなくてはならないほどであったところから始まっている。エジプトの初期殉教者が自ら火炎に飛び込んで果てた女性の一例を罪とするべきかの論争に於いて、アウグスティヌスは免責と判断した。
カトリックが自殺を明確に罪に定めたのはその後452年のアレラーテ会議の議決からであった。*(皇帝の側に迫害の意図は薄かったとの新説もあり)
以後も、宗教的熱狂から自死、あるいは自殺を行う事件も起っているが、教えのためにそれを行うとすれば、その教えは極端に偏っている。
また、自殺者の葬儀を拒む教会の慣習が存在して遺族の服喪や感情を無視してきた。英国では1554年から「自殺法」が制定され1966年に至るまで、自殺者の遺骸を傷つけ、墓地に埋葬しない慣習が存在していたが、これらは本来のキリスト教とは関係を持たない。

確かにパウロは、自らの肉体を指して『生きることも、死ぬことも益がある』と述べ、『真に願わしいのは、解き放たれて主と共になることにある』(フィリピ1:21-23)とは言っている。
それでも、『聖なる者ら』は、迫害を受けることになるものの、自ら喜び進んで殉教を受けるわけではなく、浸礼を通して『キリストと共に死に』、聖霊を注がれることを通し、キリストの復活によって『共に生きる』(ローマ6:8)聖徒らにとって自死、あるいは自殺に地での試みを避ける意図があるなら、相応しいものと見做されないのであろう。(コリント第二5:15)



・離婚と別居、再婚の自由
まず、結婚とは神の前に在っても永続的関係ではなく、死別によって解消されるものである。(コリント第一7:23)
また律法も、離婚を容認していたことは事実であり(申命記24:1)、配偶者を得ることには『生めよ増えよ』という創世記の下命と、子供を養い育てること、また『日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。』という相互扶助の役割を負う制度である。

キリストは上記申命記を引用して
『「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」』(マタイ5:31-2)
これは、山上の垂訓の場面であり、律法が如何に高い基準を本来持っているかを説く場面であり、山上の垂訓の他の多くの訓話の通りに行うことは生身の人間にとっては不可能であり、アダムの罪に在りながら、垂訓の通りに行えていると思うなら、それは仮面の正義を付けているだけである。

それゆえ、キリスト教に於いて、姦淫は強く戒められていたが、やはり結婚が永続的な契約関係であったとはいえない。
もし、家庭が相互扶助を円滑に行えないときには、家庭制度も結婚関係も危機に面しており、さらに外部からの助けを必要とする。しかし、その原因が配偶者間の不和にある場合、それは当人らによる解決を促す以外になく、現状で結婚関係は法制度に中に取り込まれており、止む無く家庭裁判所などに問題を持ち込むことも避けられない場合も有り得る。

コリント第一7章に含まれる離婚と別居また再婚の自由についてパウロの述べる事柄は、この部分の対象は聖なる者らであり(コリント第一6:19)、それでなくとも、当時のエクレシアは『神に召された』(コリント第一7:17)弟子らでほとんど構成されていた。
但し、未信者の夫や子が『聖い』とここで語られ(コリント第一7:14)ているのは、彼らが聖霊を受けた『聖なる者』となったことを意味しない。それは『聖なる者』となった信者の清さにその家族が関わっていることを表している。
『聖なる者ら』の婚姻については、律法にレヴィ族内の結婚や祭司への規定が存在していた(レヴィ21:1-14)が、それはレヴィの子孫を浄める目的をも有していた。(レヴィ21:15)

律法では、アロン系の彼らが離婚された女、または既に性関係が有ったり、犯された女を娶ることが禁じられていた(レヴィ21:6-9)が、新約では、主から賜ったというパウロの言葉(コリント第一7:10)の背景には、聖俗を分かつ律法祭司制度が新しい契約に預かる『聖なる者ら』に敷衍されている(コリント第一6:19)と見ることができる。
彼らは、配偶者が未信者であったとしても、信仰を得させることができたかも知れないことを『どうして救えないと分かるのか』の言葉に表されているのであろう。但し、それが妻の立場であれば、自らが信仰に邁進してゆくことではなく、『夫と子を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順である』(テトス2:4-5)という家庭での基本的な役割を充分に果たすことにその努力を傾注されるべきであり、配偶者の離れることは仕方のないことであるとパウロは言うのは、宗教行為に邁進した結果がその理由であるなら本末転倒となる。(コリント第一7:15)

聖徒は霊体を身につけることで、人種ばかりか男も女も差がなくなる(ガラテア3:28)天界での彼らの姿(ヨハネ第一3:2)を考慮するときに、かつての肉の家族は意味を成さない。ゆえにパウロがコリント第一第七章で述べていたことは、地上に居る間の婚姻関係また家族関係に『聖なる者ら』としてどう向き合うべきかに関わるものである。(コリント第一6:11・15)

したがって聖霊のない今日、未信者はもちろんのこと、信徒もこれらの言葉に拘束されるものではない。
『主にある者とだけ』結婚を許す(コリント第一7:39)というは、確かに価値観を共有することの利点は非常に大きいものの、やはり信徒に対して規則化まではされるべきでなく、却って、これが多くの宗派の信者囲い込みの方便として利用されている。

上記のコリント第一7章に含まれる再婚の自由について『主にある者とだけ』を聖徒でない人々に当てはめるべき理由はない。
価値観を同じくする人と結婚することに多くの益があるにせよ、それだけが結婚関係を必ずしも良好にするとは言い難い。
或いは、異なる価値観を尊重し合える特質がより強固な関係を築くことも有り得る。宗教(政治)観念より重要なのは互いへの信頼という倫理性と愛着の度合である。
また、身内を同じ信仰者で固めることは、必ずしも良い結果を招かない。人の思想は変わり得るので、その自由を阻害する危険も存在することになる。身内の関係で重要なのは、共感や同情心を必要とする家族(親族)愛であって信仰や思想では無い。

キリスト教は一貫して民事的事象に踏み込んでおらず、婚姻だけでなく、出生の祝いも、葬儀についても何ら規定していない。
職業の選択についてもそのようであるが、各信徒個人の良心や善なる動機が反応するところに応じて行動することが「愛の掟」によって期待されるのみである。(コリント第一13:3)
俗世がそれらの事柄の決定や儀式において専ら宗教の意義を見出し、宗教自ら冠婚葬祭を商業化している中にあって、実にそれがキリスト教の本質ではないことが見えている。
殊に『聖なる者ら』は、『神の王国』で主と共になり、諸国民を祝福するという目的に信仰生活を合わせていたことは明らかで、そのための身の清さへの務めが婚姻関係に示されている。(ヘブライ13:3-4)
しかし、実質的に『レヴィの子らを浄める』のは迫害の試練の火であり(マラキ3:2-3)、そこで試されるのは行いの清さよりは信仰となる。(ペテロ第一1:7)


・同性愛と異なる性同一性障害(性別違和)
同性愛については、旧約聖書の原初史に於けるカナンの悪行から記録(創世記9:22・24)があるが、有史以来、同性愛は常に存在してきたようで、ソドムの街は全体がそのようであり、ロトの客人となっていた天使らを犯そうとして(創世記19:5)周辺の街々もろともに天からの火で焼き尽くされている。(19:24-25)

アブラハムの血統を警護すべき律法は、レヴィ記(20:13等)で、同性交接を死罪に定めていた。<但し、女性同士の性愛を律法が禁止している箇所はなく、ユダヤ教ではハラハーがその傾向を持った女性を妻に近付けないことを命じている>

キリスト教には律法が廃されている(ローマ10:4)以上、これをキリスト教徒の規則とすることも、同性愛者の神の処遇も確定はできない。(ローマ5:20)

異教諸国、特に古代ギリシアの少年愛(パイデラスティア)は、自分の倒錯的嗜好のために人を囲うまでに進み(コリント第一6:9[マラコイ])、ヘレニズム圏に広がった各地の神殿で神殿男娼によって儀式にまで聖化されていたばかりか、ローマ帝国に於いても大衆に同性愛が広範に行き渡っていたが、使徒パウロはこれを強く批難している。(ローマ1:23-27/申命記23:17)

同性愛のきっかけが関係の強制であったり、今日では病気として認知されている性同一性障害や性別違和のように先天的に避けられないものも含まれていることを考慮の外に置くことは不適切と言うべきであろう。疾患は所謂「同性愛」とは一線をひかれるものと今日ではされている。

そこで先天的なものと、ロトの客人に対するような恣意的また強制すること、中世期にように人を意のままにするための方策として、また性の貪欲な嗜好の追求による結果として自ら同性愛に転ずる事とは異なっている。
強要によって同性愛への転向させることは、ほとんど強姦に類いする性嗜好の強要であり、創造の神の企図した男女の身体の働きに反している事へと人を貶めることであり、その人格の蹂躙は一般社会からして悪行の責めを免れまい。

これらはについてキリスト教に於いての一律な判断は難しいが、最終的な裁きの根拠は性道徳ではなく『信仰』にあることには変わりはない。


・嘘、欺き
山上の垂訓の中でキリストは偽証を咎め、是は是を否は否を意味するように語れと言われた。(マタイ5:37)
パウロも聖なる者らの間で真実を語るように命じている。(エフェソス4:25)
それでも、ペテロとバルナバが欺瞞に満ちた行動をとったときにパウロはこれを責めている。(ガラテア2:) しかし、彼らは聖徒としての立場を失っていない。

旧約聖書中では、罪される虚偽の隠蔽(ヨシュア7:1)もあれば、サライの笑いの否定(創世記18:15)、また恐れによる嘘(創世記26:7)相続に関わりその価値を見分けない者を欺く行為(創世記27:5-17・31:34-35)が記録されている。
そのほかに攻撃をかわすためのもの(ヨシュア2:4-7)、神の意図を実現させるために敵を欺く天使の発案(列王第一24:20-22)も記録されている。

その一方で、偽りは述べていないものの、その動機が汚れていたもの(ペテロ第二2:15-16)も、また欲のためにまったく偽りを語った者ら(使徒5:1-11)には厳しい責めが臨んでいる。

これらを総じて観ると、確かに、神は公正と正義を求められる(申命記25:13)が『罪』ある人が『罪』ある社会に在る以上、嘘や欺きをまったく行わず、山上の垂訓でキリストの示した規準に到達することは不可能であり、それを追い求めて努める以外にはないように思われる。
もちろん、人にはそれなりの発言に責任が伴うので、欺き、虚偽を語り、偽証を為すことなどにより社会からの制裁を受けることがあるが、逆に、自分は嘘、欺きを行ったことがないと主張すれば、その発言そのものが集約的な嘘となり、自他を欺く害になる。(ヨハネ第一1:8)


・偶像崇拝
ダニエルの三人の友らが、火の炉に投げ込まれても王の像に平伏さなかったのは、律法契約の根幹である十戒を犯さないためであったと言える。
『新しい契約』に於いても偶像を避けるよう求められているが、これは『聖なる者ら』への要求であり、本来は信徒に対しては契約に関わる要求ではない。現状の一般人に至っては、それが神の否認をもたらすことは考えられない。(黙示11:2)
それでも、偶像を崇拝することが聖書全巻を通じて戒められているところからも、また、殊に終末の究極的偶像崇拝が裁きをもたらすことからも、これを現状で信徒自らに許すことは慎むべきことと言える。だが、それは信仰と神への忠節の内に避けられるべきもので、戒律によるものではない。
但し、終末の時期に世界は究極的偶像礼拝に陥る事が予示されており(テサロニケ第二2:3-4/イザヤ14:12-14)、この偶像礼拝については世界の人々を二分するものと成り得、それはまさしく裁きに関わることになる。(黙示13:11-18/マタイ24:23-28)。






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愛の掟と道徳規準 -綱領-

2016.09.13 (Tue)
道徳規準


多くの宗教が、人に善行を勧め、悪行を抑制することを教えの中心に置いてきた。
キリスト教に於いても、善良な人格を培わせることが、神からの是認を得る方法のように教えられる宗派は少なくない。
善行に富む人が、徳のある人物として賞賛されるのが社会の常であり、品行方正であることが社会から評価されるように、行状が神にも評価されると人は思いがちである。
この捉え方の背景には、宗教の独立性が失われ、社会一般の必要に仕えるものとなって社会秩序に貢献する役割を担い、そうして『この世』と同化した実態がある。

しかし、宗教が社会に道徳性を与えるという捉え方は法の整備と施行が行き届かないところで有用ではあっても、神の人に対する意志については大きな問題がある。
人にとって道徳性に価値を感じるにせよ、より本質的な善は明らかに『愛』であり、それこそが究極的に神が人に求めるものである。

旧約聖書の義人ヨブは善行に富み悪から離れていることが自分の義(ヨブ35:2)であり、それがなぜ神からの酬いに預からないのかについて疑問を呈した。(ヨブ10:2-3)
彼の人間的な義は、サタンの反論を退け、三人の友人らの執拗な審査にも打ち勝つほどに優れていたが、実に、彼の「義」にこそ問題があった。(ヨブ40:8)

ヨブの義が如何に優れていようとも、それは『人に対するもの』であり、『神に何かを与えることのできるものではなかった』。(ヨブ35:6-8)
したがって、ヨブの義を賞賛していては、そこから何も学べない。彼の義が優れていたからこそ、そこに陥穽があった。
律法遵守も同じく、その『業によって義と宣せられることは無い』ので、キリストが現れ『新しい契約』が発効した以上、律法の条項を守るべく腐心する必要はない(ヘブライ7:18)。
律法の中に、生活上の諸事に神の意向を汲むこともあるにせよ、例えそれが『新しい契約』に預かる聖徒らが留意すること(ペテロ第二3:11)があったとしても、その目的は『聖』を仮承認されたことへの自覚からくる責務であり、普遍的に規則化されるべき理由はけっしてない。

宗教経典に「正しい生き方」を求め、そこに何らかの益を受けようとする『律法』的信仰方式は、キリストの『新しい契約』に付随する『キリストの律法』(ガラテア6:1-2/ペテロ第二3:2/ヨハネ第一2:3)によって、その契約に預かる聖徒らにのみ課される(テモテ第一6:14/ヨハネ第一5:2/黙示12:17・14:12)よう変更されたが、キリストの成就した(マタイ5:17)ことによるモーセの律法の終了(ローマ10:4)を以って、律法の条項を守る務めについては、今日あらゆる人に課されていない(エフェソス2:15)。
律法はキリストの業によって一度限り『成就』され、キリストの倫理的完全性を担保したのであり、そのゆえにも律法の言葉は滅しない。

また、『キリストの律法』とされる(ガラテア6:2)聖徒らへの(ガラテア5:13.16)一定の道徳規準(コリント第一7:19/ペテロ第一1:15)も、聖霊を注がれた聖徒が存在しない(ダニエル9:27/ヨハネ9:4)状態では、誰に適用されるものともならない。

聖徒らへの道徳規準への要求も、本来は『愛』に動機を持つものでなければ『意味が無い』(コリント第一13:1-4/ローマ13:9/ヨハネ第一3:22)。
聖霊注がれた『聖なる者ら』は『新しい契約』を全うするために、キリストの『完全にされた』義の状態を分与されるに相応しい行状は求められている。

また、原則的に、神の前に是認を得、更には『義』を得るのは善行でも苦行でもなく自らの罪を認めたうえでの信仰であるとキリスト教は教える。(ローマ3:21-25)
これは、旧約聖書の多くの部分を費やし、イスラエル民族に与えた律法(詩篇147:19-20/詩篇78:5-7)を通して、遂にキリストの内に到達をみた重要な結論となっている。聖霊に対する冒涜のほかは『人はあらゆる罪を赦される』(マタイ12:31)ことをキリストは言明している。
ゆえに、イスラエル人に与えられた律法も守られなかったゆえに、また登場人物がすべて非イスラエル人らの論議であるヨブ記も共に人間の義の限界を教えるものとなっている。

したがって、キリスト教徒であろうとなかろうと、何者も自分のどんな善行や徳性によっても神の前に義や救いを得ることはまったく不可能である。(エフェソス2:9)
人間が神の前に義とされる道はただ一つ、キリストの犠牲により贖われることであり、それを信仰し待望することである。人類一般は神の前に義とされ、創造物として認知されるために『神の王国』の千年期を必要としている。(ペテロ第一2:9/黙示20:4-5)
このように捉えるときに初めて『医者は病人に必要である』というイエスの言葉を得心することができる。キリストは『義人を招くためではなく、罪人を招くために』来られたとも言われる。(マルコ2:17)


◆『罪』と『愛』

人はアダム以来、外からの規制を必要とする倫理上の不完全者となってきた。この倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼ぶ。
『罪』の原因は、アダムが強い誘惑を受け、自らの欲のために創造者に忠節な愛を示さなかった事による(ローマ5:12-17)。

以来、人間社会は自らの不倫理性のために法と権力がなければ、その存立も難しい状況に置かれてきた。

旧約聖書の律法とは、その規定を通してイスラエルに民族国家としての秩序を与えるだけでなく、同時に人間の不倫理性をあぶり出し、律法の順守を目指したイスラエル民族を通して、すべての人が神の前に『罪』を負っていることを明らかにするものであった。(ローマ3:20/ガラテア3:19)
アダムの血がその内に流れる限り、人は誰が何を行おうとも神の規準に達することはない。(ローマ3:23)

しかし、アダムの子孫でないキリストの現れにより、『罪』に贖いが供えられることによって、不倫理性が除かれる道が開かれた(ガラテア3:22)。この『罪』を許すためのひとつの犠牲により『愛』というものは示された(ヨハネ第一4:9)。この犠牲の行為は、どんな人間の善行も及ぶことの無い『義』の『完全』に達した。(ローマ5:19/ヘブライ2:10)

そこでキリスト復活後の新約聖書は、『キリストは律法の終わり』であることを宣言し(ローマ10:4)、『律法の業を通して義とされることはない』(ローマ3:20)ことを再確認している。
キリストの弟子の時代に至り、外から人を規制する律法を去り、自発的に自らの言行を省みる道徳規準に改められている(エレミヤ31:33)が、それが『愛』アガペーであり、キリストは『愛することを掟として与え』た。(ヨハネ13:34)

『罪』という不倫理性には、法と権力とが必須であるのに対して、『愛』は『罪』の対極に位置する(ペテロ第一4:8)ので、『法を全うするもの』となり得る。(ローマ13:10/ガラテア5:14)
倫理とは、他者とどう関わり生きてゆくかに関わる判断であるので、神を含む他者との関係を利己心から破棄することを聖書中では『罪』と呼び、関係を求めることを『愛』(アガペー)または『忠節な愛』(ヘセド)と呼ぶ。

したがって、第一に神を含む他者との関係を『愛』の内に求めず、倫理上に欠陥を持ち続けようとする者は、他者とどう生きてゆくべきかを弁えてはいないので、そのような者が永遠に存在することは、創造者の意図に反し、神の創造の業はいつまでも完遂されない障碍となる。ゆえに、使徒ヨハネの言うように『愛さない者は死に留まる』。(ヨハネ第一3:14)『罪を犯す魂は死ぬ』とは(エゼキエル18:4)、創造者の生殺与奪の当然の権限といえる。

キリスト教に於いて、『愛』はキリストに於いて「アガペー」として示され、信仰し、その精神に倣おうとする者に最も希求されるべきものである。(ヨハネ第一4:12)
現在の人はアダム由来の『罪』のゆえに『愛』を十全に体現することはできないが、キリストに倣って愛するよう努めることはいつでも可能であり、そう努めることが広くキリスト教の根幹であり掟でもある。(ヨハネ13:34)

他方で、愛することは教条規則への従順では純粋に行うことができない。愛は常に各個人に内在するものであるので、自発性が保たれる必要がある。つまり愛する人の内側では、倫理上の自己判断が必須となるので、その人は神や他者の定めへの従順ではなく、神や他者への共感や同情が求められることになる。(ガラテア6:2)

キリストが『自分がして欲しいように他者にせよ』と言われた(ルカ6:31)のは、自由な自己判断、即ち、他者への共感や同情がキリスト後の教えにあっては必須とされていることを指している。(エフェソス4:32)
従順は、その行動の結果や責を、従う対象に求めるのに対し、愛は、自らの行動に責を負う点で自由な行為者として振る舞うことになり、『神の象り』としての『神の子』に相応しく、創造の意図に適うものである。聖なる書に最も通じたユダヤの宗教指導層は、厳密にその言葉に従うことで、遣わされたメシアを見分けずに却って退けている(ローマ9:30-32)。他方で、自らの価値判断を用いた下層の者らは、イエスをメシアとして見出している。(ヨハネ9:32-33)

キリストは弟子らに『互いを愛するように』と「愛の掟」を授けた(ヨハネ13:34)が、愛することには際限がないと同時に、教条でないゆえにその人の限界にも応じるので、愛の実践に努めることによりその人の内で『罪』は消えないが『愛』は育ち得る従って愛は、啓発を受けることはあっても、自発的環境を要する。

他者の悪行に対して、人は超然と潔癖さや清さを誇るのではなく、互いの内にある『罪』を認め、可能な限り見逃し、できるところで許すところにキリスト教の本質があると言える。(マタイ18:21) 許された者がそれを意識するなら、改善が促されることは少なくない。それは許す者にも、許される者にも益を与えるものと有り得る。そこで「愛の掟」には、行うことばかりでなく許すことも含まれることになる。

但し、悔いない悪行者について、忍んで許すか、あるいは指弾するかはそれぞれ個人の判断が求められる。
殊に世俗の法に触れる事には世俗に委ねる必要も生じる。パウロは世俗の支配者の『剣を怖れる』べきことをエクレシアに告げている。(ローマ13:4)
正義感と同情とは対立する観念であり、排撃と許容、優越感と堕落を惹起させるが、このバランスを保つのも『愛』の判断と言えよう。

それゆえ、キリスト教徒がただ規則を求めて、それに従順であろうとするなら、それはパリサイ的ではあっても、キリストの教えの根本的精神に反することになる。(ガラテア5:4)
禁欲を守り、慈善行為や苦行に没頭するとしても、人は自分の内面の『罪』を減らすことさえ不可能であり、禁欲や徳行が神の前に『罪』を軽くすると思い込むなら自らを欺くことになる。(コロサイ2:21-23)

律法体制が去って後のいまだに律法や何かの規準を守ろうとし、その「業」で聖なる民になろうとするのはユダヤ教的であって、キリスト教徒ではない。(ガラテア2:21)
人は誰であれ、神に近付くのに、何かの規準を守ることでそれが可能とする考えはまったく間違っており(ルカ18:11-14)、新約聖書に規準を見出して、それらを守れば正しい崇拝が現れると思うのは身勝手な妄想であり、神の前に近付く方途はキリスト・イエスへの信仰によるほかない。(ヨハネ14:6)



◆聖徒らへの道徳規準

キリスト復活後の新約聖書に記される多くの道徳規準が記されているが、それらは『信徒ら』(ピストイ)に要求されたものではなく、聖霊に預かり『新しい契約』に参与した『聖徒ら』(ハギオイ)に求められた(エゼキエル36:27)ものである。(コリント第一6:11/エフェソス5:1・3/フィリピ2:15/コロサイ3:12/テトス2:12-14)

新約の道徳規準に従おうとしても、それで『聖なる民』となることは無い。決定的なもの「聖霊」が欠けている(ローマ8:9)。
『聖なる者』が新たな掟に従うことを『新しい契約』によって求められており、彼らこそが天に召されることになる。(ヨハネ15:1-10)

『聖なる者ら』は、律法のレヴィ族や祭司に、民一般以上に要求されていたように、一定の清さが求められている。(ヨハネ第一3:5)『多くを委ねた者には多くが求められる』からである。(ルカ12:48)
彼らが、一定の道徳規準を守ることは、天界の祭司となる目的に在って『新しい契約』に関わる要求(ペテロ第一1:15-16)であり、奇跡の表明(ルカ19:20-21)と共に聖霊の注がれていたことへの応分の清さの表明となった。(コリント第一7:19-20)

『主の晩餐』の葡萄酒に預かる『聖なる者ら』には、『新しい契約』により(ルカ22:20/ヘブライ9:15)キリストの犠牲を地上に居る間から適用されている(コリント第二5:21)ので、アダムの『罪』が仮とはいえ(コリント第一4:4/ペテロ第一3:6)許された状態に入っていた(ローマ8:32-34)。当然ながら、彼らには『キリストの兄弟』として非常に高められた状態への感謝を表し、『聖なる民として』一般人に優る道徳的言動が求められて然るべきである。(ペテロ第一1:15-16)

しかし、彼らが肉体である間(ローマ8:10)には、アダムからの『罪』は依然として働くので完徳者となっているわけではない(ローマ7:20)ので、個々の悪行についてなお悔い改める必要がある。(ヨハネ第一5:16)

『聖なる者ら』には、「生活の聖別」によって清められるという行状による聖化の意識ではなく、『聖なる者』に相応しく敬虔に歩んで『不法を避け』(ヨハネ第一3:3)、『新しい契約』の成果に与るべきことが新約聖書中に繰り返されている。(エフェソス5:27/ペテロ第二3:14)イエスは『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われたのは、『王国に入る』ことで『救われる』ことになる『聖なる者ら』に対してであった。(ルカ13:24)

また、聖徒同士の問題が生じる場合に限り、彼ら契約に関わる立場の故に、聖徒の中での裁きは有り得る(コリント第一6:3)。
その手順はイエスによって示されており(マタイ18:15-19)、その地上の聖徒の裁きに関してキリストは監臨されるという(マタイ18:20)。しかし、これはキリストの聖霊による臨在の間のことを述べているのであり、単にキリスト教徒が二三人居るところに監臨があるということではない。



◆信徒に於ける悪行への対処

しかし、聖霊を受けない『信徒』が『聖徒』に課せられた新約聖書中の道徳規準を守ろうとすること、また、守らせようとすることには無理があるばかりか害となる。
なぜなら、天界の祭司となる目的もなく、一定の道徳規準を守っているとの意識は、無意味な自己義認が避けられない。
そこで、人々を心の内で裁き優越感を持ちつつ、神の是認を身勝手に想定してしまうことは、人々ばかりでなく、神をも愚弄する利己主義に陥り、その人がどれほどキリスト教に帰依していると思おうとも、実質的に反対の精紳を抱くことになってしまう。(ルカ16:15)

キリスト教の宣教がしばしば困難に陥る理由のひとつは、宣教される側が、宣教する側の優越感を機敏に感じ取り、その利己心に反発を覚えるところにある。(ルカ18:14)


したがって、パウロが『互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても義務があってはならない』(ローマ13:8)としたように、キリスト教の『信徒』には、キリストの命じた『愛の掟』のほかには負うべき道徳規準は無い。

但し、信徒同士の一定のコミュニティを維持させるために、特定の決まりを定め、何かの行動を抑制することがないとは言えないが、それは一時の便宜的な特例になり、世俗法との対立には及ばないものでなければならない。信徒同士のコミュニティといえども、そこに秩序を与えるのは本来的に世俗的な法の一種であり、聖なるものとはなり得ない。

また、人の様々な悪行については、それを裁くべき『上位の権威』が存在しており、一般の人々と共にその『剣を恐れる』こと(ローマ13:1-4)以上の怖れを抱くべきではない。
ユダヤ教は国家宗教であったが、キリスト教はそうではない。そこで、キリスト教徒が一般の法の他に規定と罰則を定めるなら、二重の法が存在してしまい『上位の権威』との衝突が避けられなくなる。よほどの独裁制でない限り、多くの国家の法は、人の行動を規制するだけでなく、その自由や人権の擁護をも目的とするようになっているので、宗教法と世俗法の対立にキリスト教を関わらせるような無駄な努力を払う必要はますます無いと言える。(テトス3:1)

だが、世俗の法を尊重するとはいえ、当然ながら信徒らがまるで法に触れないとは言い切れず、その責めは各自が負うものである。
同時にそれらの外部の法も完全ではあり得ず、信徒の内面での「愛の掟」に基づく個人の判断から、世俗の法を補完または反するするような言動が信徒に無いとも言えないことになる。その責は、やはり各個人が負うべきものとなろう。

また、キリストの臨御する終末に於いては、この世がやがて神に敵対するゆえに、キリストの弟子にあって世俗の法が制限されるべき事態を想定する必要もあるが、それは格別な危急の時となろう。(使徒4:19-20/ルカ16:9/マタイ25:40)




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