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聖徒と信徒  -綱領-

2016.08.14 (Sun)
予告されてきた聖徒


新約聖書に記されるあの五旬節の日の『聖なる者』(ハギオス)の現れは、聖書全巻を流れる神の足跡のひとつの到達点となっている。それはキリストの犠牲によって初めて実現されたものであり、神とキリストの双方の働きの結実である。

まず、旧約聖書中にも『聖なる者』(カドーシュ)が存在しているが、これはまず、神が自らについて『聖なる者』であることを示し(レヴィ11:44/イザヤ43:3)、またアロンをはじめとする祭司職やレヴィ族(レヴィ21/詩106:16)やナジル人の誓約を立てた者(民数6)、また預言者らを指す(マタイ27:52)。また、イスラエル民族の全体も聖なる者であるよう(民数15:37-41)律法で要求されている。また神自身を『聖なる者(方)』と呼ぶこともあるが、これは聖の根源をも表している。
ほかに『聖なる者』の語によって、天使ら、また敷衍してキリストと共になる者らについても語られている(詩89:5-7)。

それはエデンの園での『女の裔』の予告(創世記3:15)に源を発し、以下のアブラハムに神が誓約された言葉の実現に向かって進む事柄の非常に重要な部分を成しているが、旧約に於けるそれらの聖は予型的なものであり、キリストの到来と犠牲なくしては聖霊が降らず、真の『聖なる者』は現れなかった。(ヨハネ16:7)
新約に於ける『聖なる者』は、まずキリスト・イエスに適用され(ルカ1:35)、次いで、『新しい契約』が結ばれ、その犠牲の仮の贖いに預かった人々が『キリストと共同の相続人』また『神の子』(ローマ8:14-17)、『キリストの兄弟』(ローマ8:29/ヘブライ2:10-12)と見做されることを通して、キリストに同じく『聖なる者』と呼ばれるに至った。

『聖なる者』の存在意義は、早くもエデンの園で語られた、蛇の頭を砕く『女の裔』として示されているが、それがどのように具体的に現れるかについては、まずアブラハムを待たねばならなかった。

『わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、浜べの砂のようにする。
あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。』(創世記22:17-18)
この言葉で、神はアブラハムの子孫を通して諸国民が祝福を得ることを誓約しており、そこに人類の祝福となる格別な民が用意されるという神の計画が表されていた。
そして後に、アブラハムの子孫がイスラエル民族となり、モーセを介して神と律法契約に入った。

イスラエル民族への契約の目的とするところは以下のようであった。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

ここに於いて、アブラハムに示された事柄から進み、その子孫の働きについて『祭司の王、聖なる民』という概念が現れている。

こうして、モーセの仲介による律法契約下のイスラエル民族には『聖なる者』(レヴィ20:26)、『諸国民の光』(イザヤ42:6)となる目標が意識されるようになった。殊に、大祭司と祭司をはじめとしてレヴィ族の神の買い取り(民数3:5-13)は、キリストの血の犠牲による聖なる務めへの人々の買い取りを予型し(黙示14:3-5/使徒20:28)、より精密に「聖なる祭司」となる『聖なる者ら』の姿を前表するものとなった。(ヘブライ10:11-14)
また、律法契約中の『安息日』条項を守り『神聖なものとする』ことは、イスラエルを『聖なるもの』とするはずであった(エゼキエル20:12)が、これは『安息日』が民を世俗の生活にまったく埋没することから浄める働きを成すことを象徴するものであった(出埃20:10-11)。そこに『この世』の不浄が対照されている。

だが、イスラエルは民族としては律法契約に従わなかったので、神はこの民をバビロンに捕囚に処し、神殿喪失の70年間に亘り完全な律法履行は不可能となった。(申命16:16)この聖所と至聖所の喪失はイスラエル民族に対する神の不興の表明であった。(ダニエル9:15-17)
それでも神はアブラハムへの誓約を果たし、その子孫を生み出すための『新しい契約』を結ぶこと(エレミヤ31:33)と、その契約を仲介するメシアについて多くの預言を与えた。(申命18:15/ダニエル9:27/マラキ3:1-3/使徒3:22)

ペルシア帝国のバビロン征服により捕囚を解かれた民は(エズラ1:2-6)ユダヤ人と呼ばれるようになり、再建された神殿で祭祀を再開した。(エズラ6:15-22) 但し、律法契約の証しであった『契約の箱』、及び聖籤はイスラエルに戻らなかった。
イスラエルはその後、律法墨守の極端に走り(マタイ23:23-24)、その頑なさのために(ローマ11:25)遣わされたメシアをローマの権力に渡して処刑させてしまった。(マタイ26:63-68)

他方で、キリストの宣教活動は単なる弟子を求めるための布教ではなく、血統上のイスラエル民族(マタイ15:24)、特にパレスチナに住む同朋から(マタイ10:5-6)、シオンの子ら(マタイ23:37)、また『アブラハムの子ら』を集め出すことに第一の目的があった。(ルカ11:23/13:34/ヨハネ11:52)
神は聖霊の奇跡を以ってキリストが誰であるかに証しを加え(ヨハネ第一5:9-10)、その証しによってユダヤ人にはメシア信仰を抱く機会が開かれた。(使徒13:46)

しかし、イエスに信仰を働かせる者は多くはならず、ユダヤの体制としては(ヨハネ7:48)ナザレのイエスが自分たちの望むようなメシアではなかった為に却って『つまづきの石』となり(ペテロ第一2:7-8/マタイ21:42-44)、キリストに信仰を抱かない(ルカ11:18-19)ことにおいて聖なる国民となる機会を逸した。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

それでも、ガリラヤ出身の弟子らをはじめとしてイスラエル民族の中でメシア信仰を抱いた一部の人々から、聖霊によって奇跡を行うキリストに属する者らが史上初めて現れた。(使徒2:1-20)

キリスト帰天の後の五旬節の日に、聖霊のバプテスマを通して、アブラハムの遺産を相続するべき真の子孫が生み出されることになったので、使徒ペテロは彼らが『サラの子となった』と記している。(ペテロ第一3:6)これについてはパウロも、初代の弟子らが律法によらない、サラに相当する『自由の女』を母としていることを述べる。(ガラテア4:22-31) イサク同様に、その「出産」は奇跡によるものとなった。また、将来の終末にも同様の誕生が予告されているが、その時には象徴的サラの出産が終わり、すべての聖徒が現れることを意味する。(イザヤ54:1・66:7/ルカ1:35/黙示12:1-5)

これらの聖霊の注がれた弟子らは『聖なる者』と呼ばれ(ペテロ第一1:2)、律法契約が目指した『王なる祭司の民、聖なる国民』(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)が史上初めて現れた。それが起り始めたのは、キリストの復活の後50日後、即ち帰天の十日後の五旬節の祭りの日からであり、その日以来、キリストの犠牲が神の前に受け入れられたことが当時の弟子らに聖霊が与えられたことによって明らかとなった。(エフェソス1:13-14) 従い、イエスの公生涯後の使徒時代に入ってからは、『召された者』とも彼らはしばしば呼び掛けられている(ローマ1:6/コリント第一1:1-2・1:24/ヘブライ9:15/ペテロ第一1:15/ユダ1)

他方で、キリストを処刑させたユダヤ体制、また血統のアブラハムの子孫であるイスラエルは『契約の子ら』(使徒3:25)であったが、聖なる民となる相続権から自らを退け(ガラテア4:30)、聖霊を受けることなく西暦七十年の神殿破壊を以って、完全なモーセの律法施行は二度目に不可能となった。これはメシアを処刑したその『世代』への酬い(ルカ11:50-51)であり、その予告された滅び(マタイ24:2)についての「回復の預言」は語られていない。旧約預言での「回復」はメシアを退けた血統の民ではなく(ローマ9:6)、『イスラエルの残りのもの』(イザヤ10:20-23)、即ち神の聖なる民、聖霊注がれた選民イスラエルに使徒時代(使徒3:19)と終末に成し遂げられるもの(ヨエル2:27-3:1)である。聖霊降下の世代の内に、エルサレムに保管されていた系図も失われ、レヴィ族祭祀制度は終焉を迎え、この時代に神への崇拝は地上の神殿からまったく離れ、新しい崇拝が形づくられ始めた(ヨハネ4:21・23/ヘブライ8:4)。

その間に、神のアブラハムへの誓約の相続権は、諸国民を含むキリストの弟子らで構成される『神のイスラエル』(ガラテア6:16)へと移されていた。(ローマ9:6) 『新しい契約』の民となった 聖霊が注がれ奇跡を行うキリストの弟子ら(使徒4:29-30)の存在は、ユダヤ体制派にとっては激痛を与える刺となった。即ち、ヨエルの預言した蝗害であり、これは終末にも世に対して再び繰り返される。(ヨエル2:1-6/使徒5:27-33/黙示9:1-11) <キリスト教界への宣告は蝗害の後に起る(黙示9:16-19)>

『聖なる者』となる弟子らがユダヤ人だけでは不信仰のゆえに『王国』を構成するには足りず、諸国民までが含まれることは、キリストも公生涯の間にユダヤ人に警告を述べつつ(マタイ8:10-11)使徒ペテロに『王国』を諸国民に対して広げる権限を授けていたが(マタイ16:18-19)、諸国民の間でキリストを宣べ伝えたパウロは、この奥義について『接ぎ木』の例えを用いて(ローマ11:13-32)説明している。そうして初めて『イスラエルの全体の数が満たされて救われる』ことになる。(ローマ11:25-26)

したがって、『聖なる者』の天に召される定数があることも併せて示唆されており(ローマ11:25)、黙示録は血統のものとは異なる12部族を挙げて14万4千という人数と記している(黙示7:4/14:3)。但し、地上で召される人数はそれよりも大幅に多いことが示唆されている。(マタイ22:14/24:40-41)

これらキリストと共なる者らがエデンで宣告された『女の裔』を構成し、サタンの頭を砕くことになる。(創世記3:15)
それゆえ、パウロは自分を含めた聖徒全体を指して『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだ』と記している。(エフェソス1:4)



キリストの犠牲によって登場した聖徒

五旬節以降に与えられた『聖霊』は、キリストの犠牲に基づく格別なものであり『約束の聖霊』とも呼ばれる。(使徒2:33)
その『聖霊』を注がれた者は、単なる弟子というばかりでなく、キリストを仲介者とする『新しい契約』に入り、アブラハムの相続権を得たことを意味した(ローマ8:16-17)。聖徒がキリストの犠牲に基づく『新しい契約』によって生み出されたことについては、『キリストは新しい契約の仲介者である。それは、初めの契約の下で犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者たちが既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかならない。』とされている。(ヘブライ9:15)

キリスト・イエスが『粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』と言われた(ヨハネ12:24)のは、その犠牲によってその自己犠牲の生き方に続く者らを『実』として生み出すことを言っている。(コリント第二5:15)
それゆえ『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。』とも言われた。(ヨハネ12:26)
そこで、彼らはキリストの死によって生み出されたことになるので、パウロも『キリストがわたしたちのために死なれたのは、覚めていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。』と書いた。(テサロニケ第一5:10)
これは、生死に関わらず(ローマ14:8)、聖徒らが、キリストの復活後に得た永遠の命に共に与ることを指している。(ローマ6:8)

その状態に入るためには、アダムの命に生きる事を止め(コリント第一15:50)、キリストの命の内に入る必要があり(コリント第一15:22)、イエスはそれを『水と霊から生れる』事とした(ヨハネ3:5)が、それは、あの五旬節以降に可能となった。(使徒2:1-4)
それゆえ、パウロはバプテスマによってキリストと共に死に、霊によって生かされた事を、その書簡の中で何度か説いている。(ローマ6:3-4.8/コリント第二7:3/テモテ第二2:11)

『神の子羊』であるキリスト(ヨハネ1:29)は、出エジプトの子羊がイスラエルの長子を、延いてはレヴィ族や祭司を贖った(民数3:11-13)ように、自らの血の犠牲によって『新しい契約』を地上に残った弟子らと締結し(ルカ22:20)、彼らを人類の長子(ヤコブ1:18)として新たな祭司職のために仮の贖いを行った。(ヘブライ9:11-14)

そこで弟子らは地上の生涯を主イエスに倣って生き、『新しい契約』を全うする務めが生じ、『聖なる者に相応しく』清く生活することが求められた。(コリント第二5:10/エフェソス5:5/ペテロ第一1:17)
それゆえ、イエスは『狭い門から入るように努めよ。入ろうとしながら入れない者は多い』。と戒めている。(ルカ13:24)
契約を全うすることにより、彼らは最終的に天に召され(ヘブライ3:1)人類の『初穂』として刈り取られ(ヤコブ1:18/黙示14:4)、『聖なる国民、王なる祭司』の一員となる。(ペテロ第一2:9)

メシアはその犠牲の血を以って信仰を持った弟子らを『罪』から『新しい契約』によって(コリント第二3:8-9)仮に贖い(ローマ4:5)、清い立場を与え(ペテロ第一1:15)、自らの『兄弟ら』と成したので(ヘブライ2:11-17)、その者らは『キリストと結ばれ』(ヨハネ15:5)『聖なる者』と呼ばれるに至った。(コリント第一1:2)

キリストは、聖霊が弟子らに注がれるときに(使徒1:8)、彼らが諸国に向かって宣教を広げることを予告していた(マタイ28:19/ヨハネ14:12)通りに、聖霊を受ける弟子はサマリア人にも(使徒8:14-17)、ローマ士官コルネリウスを嚆矢として無割礼の異邦人にも広げられた。(使徒10:45)これは使徒ペテロに与えられた『王国の鍵』(マタイ16:19)の使用であった。

『聖なる者』として選ばれた証拠が『約束の聖霊』であり(エフェソス1:13-14)、奇跡を起こし知識を与える『聖霊の賜物』が与えられた者ら(イザヤ44:3-5)は、『キリストと共同相続人』(ローマ8:17)としてアブラハムへの誓約に預かる。この相続権が真に彼らを『アブラハムの子孫』とする。(ペテロ第一1:3-4)
使徒ペテロは、聖霊を注がれ奇跡の賜物に預かった弟子らを『イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、霊の清めに預かっている人たち』と呼びかけている。(ペテロ第一1:2)

使徒パウロは、ローマ書簡の第八章を費やして、聖霊に預かった者らの立場を詳述しており、そこでは彼らは既にキリストの血の犠牲によって贖罪されており『有罪宣告のない』『義と宣せられている』状態に入っていることを記している。(ローマ8:1・33)即ち、大祭司キリストによって、『罪』ある肉体に在りながらも神聖と見做された。(ヘブライ2:11/ヨハネ17:19)

聖霊に導かれる彼らは『罪』の無いことに於いて『神の子』となるので、彼らは神を『アッバ』と親しく呼びかけることが許される。(ローマ8:14-16)
彼らは、キリストによって罪への隷属から(ローマ6:17)の自由を得たので『家の子』、即ち自由人であり(ヨハネ8:34-36)、神の前にキリストに並ぶ『兄弟たち』とされる。(ヘブライ2:14-17)

また、聖霊は聖なる者らに真理を教える(ヨハネ16:13)ので、彼らは誤りを語ることなく(黙示14:5)新約聖書となってその教えが今日まで伝えられているが、それらは神が彼らに授けたものである。(コリント第二4:6-7)

初代の弟子の時代では、エクレシアの中のほとんどが『聖なる者』で占められていたので、福音書後の新約聖書はこれら『聖なる者ら』の信仰社会を描き出しており、聖徒ではない人についての記述はごく僅かである。(使徒19:1-7/ローマ8:9/コリント第一14:16・24/ユダ19)
当時には、キリストの名による水のバプテスマを受けたほとんどの人々が聖霊のバプテスマをも受けたことを示している。(使徒2:38)

(新約聖書のこの聖徒中心の世界に対する無理解が今日までのキリスト教徒に「聖徒理解」を阻んできているので、『あなたがた』と呼びかけられる大半の場所で、それを今日の読者が自分に語られていると見做すなら、キリスト教の基本の理解にも到達できないことになる。即ち『聖霊』というものが神の威力ではなしに、自分の中の心理作用と錯覚しているところに『聖徒』を理解しない原因がある)

『聖徒』即ち、『聖霊の賜物』を持つ弟子らについては、「教会史」をはじめ初期史料に記されており、第二世紀前半頃までの存在を確認できるが、その後に絶えたことも併せて知らされている。(教会史Ⅱ:14/Ⅲ:24・37/Ⅴ:3/牧者Ⅵ:8-10・13/昇天3:25)

また、カトリックや東方教会の伝承の「聖人」に痕跡が残されており、奇跡を行う人々であり、その多くが殉教者であった。
以後、今日まで初代の弟子らのように『聖霊の賜物』を受けた人々は存在して来なかった。
しかし、キリストは終末預言の中で、聖霊によって語る弟子がいることを予告している。


聖徒の働き

彼らの人類祝福の働きについては、律法の『贖罪の日』の祭祀規定に模式されており、大祭司は自らと従属の祭司団を贖罪し、然る後、民の全体の贖罪が行われていた。(レヴィ16:6/16:15)
使徒パウロは、キリスト・イエスを大祭司と見做し(ヘブライ9:7)、仲間の聖なる弟子らを従属の祭司団を構成する者らと見做していることを祭司団が奉仕の前に水を浴び身を清めることになぞらえている。(ヘブライ10:22/出埃40:30)

彼らはキリストの王国に於ける人類全体の贖罪に関わるために、終末に人類に先立って復活する者らがあることを黙示録は『この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。』(黙示20:6)
したがって、『聖なる者ら』がキリストを大祭司として祭司の奉仕を捧げるのも、王としてキリストと共に治めるのも、依然として将来のことになる。

しかし、キリストが臨在する終末については、地上で聖霊を受ける弟子らも居ることをキリストは次のように語っていた。
『人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。』(マルコ13:11)

これが終末に於ける聖なる者らの最大の試練であると同時に活躍の場となり、世界が聖霊による発言に注目することになることをイエスは次のように語っている。
『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対して証しをするためである。』(マタイ10:18)
イエス・キリスト自身は、ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出されて語り聖徒らの先鞭をつけ、ステファノスも続いている(テモテ第一6:13/使徒7:54-60)。

また、キリストは聖霊の言葉がこの世の全体を糾弾するものとなることを教えている。(ヨハネ16:8-11/黙示9:1-6)
なぜなら、『聖なる者ら』はキリストに選び取られたゆえに『世の者ではなく』(ヨハネ15:19)、他方『全世界は悪しき者の配下にある』からである。(ヨハネ第一5:19/ヤコブ4:4)

聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』の働きの結果として、世界がその発言によって動揺することを預言者らは次のように語っている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)
また、イスラエルの相続財産のひとつとして『裁きの座であなたを争い訴えるすべての舌をあなたは論駁する』ことが挙げられている。(イザヤ54:17)

『しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、乾いた地とを震わせる。
わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、入って来て、わたしは栄光をこの家に満たす』(ハガイ2:6-7)
この預言は、終末に於いて聖徒らの聖霊の言葉が世界に衝撃を与えるので、そこで『万国民の財宝』である信仰を持つ人々が現れることをも予告している。

パウロはハガイのこの預言の『震わせる』の言葉を、『天から語る方を拒むことがないように』と適用しており、神の発言によって世界に激震が走り滅び去ることを含意しつつ、その言葉を聞くよう訓戒している。(ヘブライ12:25-27)

この聖霊に信仰を働かせる終末の人々の現れについて、イザヤとミカはこう記している。
『終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)
これらの預言の言葉が成就を見たと言える事例は依然としてない。

また、聖霊の言葉に信仰を働かせる人々について、イエスは次のような言葉を祈りに含めている。
『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにいるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この聖霊の言葉に信仰を働かせるか否かが世界を裁くことを、イエスは人々を羊と山羊とに分ける例えで示し、キリストの兄弟たちを見分け、彼らに親切を示すか否かがその結末を分けることを終末預言の中で語っている。(マタイ25:31-46/ヨハネ13:20)
だが、この人々には必ずしも共に殉教するほどを求めてはいない。(マタイ10:40-42)

終末に『聖なる者ら』真のイスラエルに信仰を働かせる人々については、『その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。』とゼカリヤは預言している。(ゼカリヤ8:23)

聖霊の言葉に信仰を抱く人々の数は世の趨勢とはならないものの、『億』の単位で描かれるほどの数に上り、この人々もこの世を糾弾する活動に加わることを黙示録は示唆している。(黙示9:13-19)



聖徒の天への召集

彼らがこれらの預言者としての働きを果たした後に、世界がどう反応するかについて黙示録はこう記している。
『彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。』(黙示11:7)
『地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。』(黙示11:10)

この情況下で、聖なる者らには世の敵意に立ち向かうことにおいて主キリストに倣うことが求められ、『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』(マタイ10:38-39)

この世界との敵対関係は、聖なる者らを『精錬し清める』(ダニエル11:35)ことになり、恐れに屈し(ペテロ第一3:6)脱落する者らもあることをキリストは様々な譬え用いて繰り返し警告しているが、ミナやタラントの例え、引き網の例え、盛大な宴会の例えなどがそれに含まれる。

即ち、真にアブラハムの子孫となって人類を祝福する一員となるためには、『新しい契約』を全うし、彼らの主であるキリストに倣い、世に在って自己犠牲の道を最後まで歩まねばならない。(ペテロ第一2:21)

また、『一人は連れて行かれ一人は残される』(マタイ24:40/ルカ17:34)とは、終末での試みの後に地から刈り取られる(黙示14:15)聖なる者らが選らばれ、人類の『初穂』となることを指しており(ローマ8:23・29)、テサロニケ第一書簡に於ける空中への引き揚げもこの最終的な裁きの後の選びについて述べている。(テサロニケ第一4:15-17)

その直前には初代の聖徒らも天への召しに預かり、相応しい者は『(格別な)復活』(フィリピ3:11)によって天界のキリストに許に集められている。但し、その者らは地上の生涯を忠節の内に終えていなければならない。(マタイ25:1-13)

『聖なる者ら』が天界にゆくことになるので、使徒ヨハネは『彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』と書いている。(ヨハネ第一3:2)

天に復活する古代の聖徒らは、キリストの臨在の時にはキリストと同じ霊体となって共に顕現する(コロサイ3:4)ので、彼を直接に見ることになる。(ヨハネ第一3:2) 肉眼では天界のキリストを見ることはできないからである。(テモテ第一6:15-16)
そのため、彼らは肉体を地上の『天幕』という住処に例え、そこに住む間は主イエスと離されていると述べ、また天界では霊体であるゆえに、もはや裸になることはないと言う。(コリント第二5:1-6)

他方で脱落した聖徒らは残された地上で背教を起こし(テサロニケ第二2:2-12)、サタンの霊力によって『偽預言者』と変じ(マタイ7:21-23・24:24)、ふたつの覇権国家の後援を順に受けて(ダニエル11:30/黙示13:11)この世を掌握し(テサロニケ第二2:4/イザヤ14:12-14)、各国の権力を惑わして聖霊の声に信仰を持った人々を攻撃するように仕向ける。(黙示16:13-14)

これらの試練の時に、精錬された『聖なる者ら』は天に召されるが、それは不可視の状態で行われる。彼らは一瞬にして霊体に変えられ(コリント第一15:52-53)、彼らはキリストを『見る』ことになる(ヨハネ第一3:2)。新約聖書は事々に、この決定的な聖なる者の裁きの時に至る忠節を彼らに求め、注意を促している。

招天の後、直ちに(ダニエル12:7)戴冠するキリスト(詩篇2:1-6/110:1-2)と共に『聖なる者ら』は王国を構成し(ミカ4:6-8)、地上にいる信仰ある人々をも亡き者とするべく(ヨエル3:9-12)この世の権力が揃って攻撃を加えようとする企て(黙示16:13-14)から救い出すために、聖なる者らは『天軍』となって主なるキリストと共に神から委ねられる王権(黙示19:11-16)の実力を以って介入することになる。(ミカ4:11-13/黙示6:1-8)

この戦い(黙示19:11-16)の結果、この世の権力は互いを攻撃して政治的カオスに陥り(ゼカリヤ14:12-13/黙示6:2-4)、飢餓と疫病によって民も裁かれ(黙示6:5-8)、『天地は過ぎ去る』(ペテロ第二3:7)。 キリストとその『聖なる者ら』の圧倒的な勝利は、『神の王国』の千年支配と贖罪(黙示20:6)の始まりを画することになる。(ダニエル2:44/ゼパニヤ3:8-9) ⇒ 「黙示録の四騎士

こうして『聖なる者ら』はキリストと共に生ける人類の祝福『世の光』(マタイ5:14)となり、アブラハムへの誓約(創世記22:18)、またエデンでの『女の裔』の宣告(創世記3:15)が成就され『奥義』は終了する(黙示10:7)。
それでもなお、神の経綸は終りに至らない。(黙示20:7)








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2016.08.07 (Sun)
予告され、未だ到来していない『背教』と『不法の人』



『終わりの日』、即ち「終末」には、聖霊によって語る『聖なる者ら』に対抗して、人類を惑わす勢力が台頭することが予告されている。そこでは聖霊への信仰を求める神に着く側と、偽キリストを信仰させるサタンの勢力との衝突が発生することが聖書から読み取れる。

新約聖書ではテサロニケの書簡に主の日に起こる事象として『背教』と『不法の人』が記されている。(テサロニケ第二2:1-12)

この『背教』は、終末に臨んで開始されるもの(テサロニケ第二2:3)であり、聖霊の在った使徒時代が終わってから現今に至るまでのキリスト教の如何なる逸脱についても述べるものでない。

これまでにも多くの宗派が世の終りの予告を試みながら尽く外れている理由のひとつには、パウロの述べるように(テサロニケ第二2:2-3)この『背教』の見極めができていないところにある。それは終末に見られる際立った特徴であり、予め告げられなければ認識できないような性質のものではなく、現実に目前の恐るべき霊力を伴う脅威となって発生する(テサロニケ第二2:9/黙示13:11-18)。この『背教』に組みするにしても、その教えを信じるにしても、それは聖霊によるものを退け、敢えてそうすることになり、それは世の人々を分けるものとなる。

したがい、『背教』が生じる終末には、その以前に純粋なキリスト教が回復(使徒3:19-25)されている事が前提される。(イザヤ52:1・54:11-15・60章/黙示12:1)
聖霊によるキリスト教の回復(使徒3:19-21)と、それに対するこの背教(テサロニケ第二2:3)が始まらない限り、『主の日』は来たとは言えない(テサロニケ第二2:3)。

その『背教』は、キリストの臨在の開始と聖霊の地上への介入(ルカ19:15)の後に起こる『反キリスト』の行動(ヨハネ第一4:3)となる。それは聖霊に逆らうことに於いて、使徒ヨハネの晩年の時期にも顕在していた(ヨハネ第一2:18)が、第二世紀中頃には聖霊が引き上げられ、キリストの監臨が終わりを見てから今日までのキリスト教の逸脱は、パウロの指摘した終末の『背教』にはならず、将来には再び聖霊の注がれる聖なる者(マタイ10:18/ルカ21:15)の現れと預言に対して強い反対が起こる(マタイ10:34-42/ダニエル7:25/黙示12:17)ことになるが、『角』で表される権力に聖徒らへの迫害を使嗾し(ダニエル7:21)、更に旧来の組織宗教の集合である『大いなるバビロン』をも滅びに向かわせる(黙示録17:16-17)ところの、回復されたキリスト教から逸脱する新たな宗教上の勢力が『背教』と言える。(ダニエル11:37)

『背教』の以前に起こる将来の『回復』(使徒3:19-21)は、使徒時代に同じく、聖霊の注がれる者(ルカ21:12-15)について、『新しい契約』がキリストを介して、再び神と特定の弟子らの間に結ばれ(ダニエル9:27)、キリストの臨在と、贖罪された共なる『神の子』となる『聖なる者ら』(ヘブライ2:11)の現れを必要とする。(ローマ8:16・33) 従って『背教』とは『新しい契約』に対する『不法』であり、反対行動である(ダニエル11:32)。

『聖なる者』とされた人々のすべてが『新しい契約』を全うするとは限らず『入ろうと努めながら入れない者は多い』(ルカ13:24/ペテロ第一3:6)。キリストばかりでなく、契約の目的に達しない者らが出る(コリント第二11:3)ことは使徒らも旧約預言も度々に警告を与えている。(マタイ10:38-39・13:48-49/ヘブライ3:6/ダニエル11:35/マラキ3:2-3)

終末に於いては、聖霊の言葉によって(ヨハネ16:8)『この世』と『神の王国』の側との間に非常な緊張関係が生じる(マルコ13:13)ため、世の権力からの圧力に『恐れ』て屈し(ルカ17:33)『聖なる者ら』の中からも妥協するものが現れる(ダニエル11:35)ことをタラント(マタイ25:25)やミナ(ルカ19:21)の例えを用いてキリストは予め警告と戒めを与えていた。この「脱落聖徒」は、終末期の聖霊降下後、比較的早くに現れるらしい。(ダニエル11:32)

彼らはひとたび聖霊の力に与りながら(ヘブライ6:4-6)反対を恐れてそれを公けに表さず(マタイ25:25/ルカ19:20)、神とキリストとの優れた関係を失って(マルコ8:38)背信し(ペテロ第二2:1/ヨハネ第二7)、『神の王国』に敵して為政者と結託し(ダニエル11:30)『聖なる者』らを裏切り(マタイ10:23-34/ルカ12:51)、この世の側に渡す者らとなって現れる(ルカ21:16)。この者らは、『北の王』と呼ばれる覇権国家の支援を受け、相当な地位を得るらしい。(ダニエル11:30-31)

それまで聖霊に取分けられ『聖なる者』に選ばれていたこれらの者(ペテロ第一1:2)には、引き続きサタンと悪霊らが奇跡を行う力を与える(マルコ13:22/テサロニケ第二:2:9)ので、『大いなるバビロン』が去った後で在っても(黙示16:13-15)、世の多くの人々の宗教心を集め(テサロニケ第二2:11)、新たなキリスト教*を興す(マタイ24:23-24)が、それは広く大衆(ハモナ)の願望をひき付け(エゼキエル39:15-16/テモテ第二4:3)、シオン恫喝の最中に突然亡失する(ダニエル11:45)『北の王』ではないところの、キリスト教の背景あるもうひとつの覇権国家の後援を得て(黙示13:11-13)その信仰を広く強要する(黙示13:14-18)。この動きが一連の『背教』であり、聖霊に逆らうことに於いて致死的であり(マルコ3:29)、この追随者らに赦しは無い(ヘブライ10:26-27)。
*(この宗教にはユダヤ教とイスラム教の終末概念が含まれる理由「メシアの地上への現れ」もある)

その目的は、聖なる者らを介した聖霊の言葉にまったく逆らい(ローマ16:17)、できるなら聖なる者をさえ惑わし(マタイ24:24/ダニエル11:35)、聖なる者らがキリストの下に集められることも阻止するため(テサロニケ第二2:1/黙示7:3)に、偽の音信を吹聴し(テモテ第一4:1-2)、その教えが宗教的合一だけでなく政治希望をも包含するために、それまで宗教的背景に無かった人々を含め、終末に生きる人類をサタンの側に集める(ヨエル3:9-/黙示16:16)ことにある。
従って、聖徒が天に去り、旧来の宗教『大いなるバビロン』が滅んだ後の地上で、二つの宗教が残ることになり、政治を巻き込み究極的な二項対立に進展すると言える。この世の『大衆』(ハモナ)は想いが霊に向かず(コリント第一2:14)、広範囲に蔓延するこの『背教』に組みする(エゼキエル39:11-16)ので、聖霊に信仰を働かせる人々(シオン)(イザヤ2:1-4)よりも数は相当に多いらしい。(エレミヤ25:31)

それらを主導する『新しい契約』から脱落した元『聖なる者』らの中でも、『自らを神とする』という(テサロニケ第二2:4)特に顕著な地位に就く者があるらしく、その者は『不法の人』と呼ばれ(テサロニケ第二2:3)、また背信者ユダ・イスカリオテと同じく、聖なる者らを裏切って権力に渡す(マタイ24:10)、ゆえに双方共に『滅びの子』と呼ばれるのであろう。(テサロニケ第二2:3/ヨハネ17:12)
この者は、現在でもキリスト教徒の中で既に信じられているキリストの「地上再臨」の誤謬(マタイ24:23-28)を利用してキリストを自称し『アンチクリスト』(ヨハネ第一2:22)となり、「三位一体」の教理によって『自らを神とし、神殿に座す*』(テサロニケ第二2:4)ことが可能と成り得る。この者は、世界覇権をも動かす権威を持つらしく、政治権力を用いて自らへの信仰を諸国民に強要するとされる。(黙示13:11-15/ダニエル11:36) *(ユダヤ教だけでなく地上のエルサレムに期待を寄せる宗教信徒は現状でも相当数に上っている)

初期教父のエイレナイオスも、アンチクリストが存在する時を千年期の直前に設定しており(反駁Ⅴ25:3)、『大いなるバビロン』の滅びの後に顕在するという内容の、使徒ヨハネに由来する原始キリスト教の理解を伝えている。

これが究極的な偶像礼拝、また人間崇拝となることが示唆されている。(イザヤ2:22/詩篇146:3)
キリストが終末預言に於いて、地上にキリストを捜すことのないようにと繰り返し戒める(マルコ13:21/ルカ17:22-24)のはおそらくこのためであり、パルーシアのキリストが『雲に乗って来る』(マタイ24:30)の意は帰天した後のイエスが肉の目に見えない(テモテ第一6:15-16)ことを指している。キリストについて『雲に乗って来るのを見る』とは、キリストを目視することを意味しない(マタイ24:27)。キリストの「臨在」の不可視は世に対して聖霊への信仰を求める(ルカ18:18)と同時に、個々の人の動機を明らかにし(コリント第二5:6-7)、世を裁くものと成り得る。(マタイ25:37-39)

かつてエルサレムと神殿がローマの勢力によって滅びに至った際に、神殿を不法占拠していた熱心党と強盗集団が当時まで永らく続いたユダヤ体制に徹底的な破滅をもたらしたように(戦記Ⅵ:i:3)、これら背教の者らはこの世の権力と大衆を煽動し(エゼキエル38:15)、『聖なる者』らによる聖霊の言葉に信仰を持った人々を攻撃させよう(エゼキエル38:12)として、神と人との戦いを誘発してしまう。(黙示16:13-14)

おそらく、権力に支えられ神殿に立てられる(ダニエル11:31)という『荒らす憎むべきもの』(ダニエル9:27/マタイ24:15)とは、歴史上の荒廃の近付いたエルサレム神殿を占拠した無法集団の対型となって現れる者らとの関連が見られるように、かつて聖所に立て籠もってそこを血と奪略で汚し、常供の犠牲を終わらせ(ダニエル8:12・11:31/戦記Ⅵ:2:1)聖都と神殿の全き荒廃を招き寄せたのも無法集団の頑迷さであった(戦記Ⅵ:8:5)が、将来の『荒らす憎むべきもの』も、神の座に着いたまま神とキリストに敵対し(エレミヤ7:30)、却って権力を糾合して聖霊信仰ある人々『シオン』を攻めさせようと画策し、悪魔の霊力によりまがい物の奇跡を行って見せ(黙示16:16)世界を神に敵対させて遂にこの世を瓦解させることになるのであろう。(ヨエル3:9-17)

この攻撃に際し、神はキリストを任じて権力を持つ王と成し(詩篇2:1-6)、地上の民の火急の情勢下で戴冠させ、『敵中から征服するように』と命じる(詩篇110:1-2)。
メシアは『地から買い取られた』『聖なる者』たちと共に(黙示17:14)、『シオン』と呼ばれる(イザヤ62:1-2)信仰ある人々の救出のために差し向けられ(ゼカリヤ12:2-9/ユダ14-15)、神が『シオンを守る火の城壁となる』(ゼカリヤ2:5)なか*で、メシアは地上を裁いて決定的な勝利を収める(黙示19:11-21)が、その戦いに際して諸国の軍は象徴的に『ハルマゲドンと呼ばれる場所に集められ』る(黙示16:16)。この勝敗の決定的に分かれる意味を持つ名称も、この世の勢力の全き敗北を指し示している。(エレミヤ25:29-33/ゼパニヤ1:14-18/ゼカリヤ14:12-14)
『不法の人』はこの戦いもしくは、その後の大患難の中で滅びを被り『キリストの臨御の顕現によって』無に帰する。(テサロニケ第二2:8)
 *<シオンは城壁を持たない都市とされている(ゼカリヤ2:4 cf;エゼキエル26:10・38:11)>

キリストの「顕現」となるこの戦いでのキリストと聖なる者らとの勝利(黙示19:11-21)により、 『不法の人』や『偽預言者ら』は『火の湖』で象徴される永久の滅亡(黙示20:10・14)に渡され、ここに終末の『背教』が 『不法の人』の消滅により一旦終わる(テサロニケ第二2:8)が、その『背教』の影響はエデンの誘惑に比するほどに強く人を分かつものとなるのであろう。(テサロニケ第二1:6-10) 即ち、千年期直前に於いて、『自分に残された時節の僅かなことを悟った』サタンの誘惑は、全世界を相手にかつてない規模と質をもって多くの人々を惑わして集め(ゼパニヤ3:8)、引き返すことのない王キリストとサタンの世との闘争の最高潮を迎えると言うべき理由が聖書中にあり、多面的に繰り返されて描かれている。(黙示12:12)

この背教は、千年期後の一般の復活と共に悪魔の回復により繰り返され、新たに偽預言者に相当する者らマゴグが現れ、その中から中核を成すゴグも現れるらしく、黙示録ではエゼキエルの『マゴグの地のゴグ』の概念が『ゴグとマゴグ』によって繰り返されている(黙示20:7)。この双方は、大衆に対して同様の働きを為し、悪魔の代弁者となり復活する無数の諸国民を誤導する(黙示20:8)が、その際には、神によって直接に裁かれ『天からの火』によって永遠の滅びを被る(黙示20:9)。この裁きは最終的なものとなり、悪魔も遂に亡き者とされることになり(黙示20:9)、地に生きる人々は『罪』の影響をまったく受けることがなくなり、『死』や『墓』も永遠に過去のものとなる。(黙示20:14)

『背教』の全体を俯瞰すると、それがまず聖徒ら、次いで全人類を試し、分離を生じさせ、究極的な二項対立に至らせるための神の用いる手立てであることが見えて来る。もちろん、悪魔は神に敵する存在ではあるが、全能の創造神は悪魔でさえ創造したことを通して、神の側に着こうとする人々を誘惑の試練を通して倫理的選択を行わせ、それによって永生に導くことになる。これを箴言は『邪悪な者は義なる者の贖い、不信実に振る舞う者は廉潔な者たちに取って代わる』と指摘する(箴言21:18)。そのように神が処置する権限を有するのは、神こそが創造者であり、邪悪な選択をする者らをすら用いて、創造の業を完遂し、義なる選択をする者らに永生をもたらすことは不正なことではない。(ローマ9:21)



⇒ 小麦と毒麦の例え 「不法の人」の現われる時



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この世   -綱領-

2016.08.03 (Wed)
この世


聖書中、旧約聖書においての『世』とは、人が生活する場という意味以上のものにはなっていないが、遊牧民であったテラハまたその子のアブラハム以降の族長らの生活様式は、流民(イヴリー)であり、「ヘブライ人」という言葉そのものに、シュメール以来の都市生活者との対照が見られる。
都市の生活は「世俗」を生み出し、それは具象性が強く刹那的で情緒的、気ままな想念や流行を人々にもたらした。その領域では経済が活発である中で我欲、貪欲が横溢し分裂傾向を免れないので動揺しており、醜悪な姿を免れない。(イザヤ57:20)この意味では『この世の基が置かれた』時期とは、アダムの堕罪以降とも、カインによる都市建設(創世記4:17)以降とも言える。

人間の基本的生活様式のもう一方である移動生活は、労働への関わりが薄く思索に適し、広い生活領域の中で抽象性と永続性の概念を育んでいた。この点は、イスラエルのカナン定住後の週毎の不労働を定めた『安息日』がイスラエルの民を清め、神との間を取り持つ印とされるべきものであったことが『聖である』印として預言されており(エゼキエル20:20)、過剰な、また空しい労働の奴隷となることが創造の神の求めるところでなく、人間の自然な姿でないばかりか、神聖な事柄から疎外されるものである事を示唆している。(出埃33:20/コリント第二4:18)
この俗と聖との二分は、偶像の神と、不可視の神との対照を生んでいる。(詩篇115:4-8)

俗世では人と人の関わりが多く煩雑で、抽象的な神存在を捉えることが難しく、個人の利得に関心が向かい易く、それは人間の倫理性にも影響を与えるものとなっている。キリストの犠牲に預かり『聖なる者』となった聖霊注がれた弟子らについて、使徒ペテロはこの世との対照に於いて『離散の寄留者』と呼び、使徒ヨハネは『我々は神から出た者だが、世は悪しき者の支配下にある』と述べており、そこで旧約聖書中に示された聖と俗の対立が、新約聖書に於ける神の王国とこの世の支配とに敷衍されており(ペテロ第一1:1/ヨハネ第一5:19)、創世記から終末を描く黙示録に至るまで首尾一貫した主題となっている。(黙示録11:15/ダニエル2:44)

族長時代には、定住者また都市生活者との交渉を持ちつつも、一定の相違が意識されていたことは考古学にも創世記の全般に亘っても見え、それは出エジプトに際し、再び荒野へと戻っていったところにヘブライの宗教の原点が現れている。(イザヤ40:3)
アブラハムは、カナン人やエジプト人の倫理性を信用しておらず、同盟を結ぶことはあっても、深く接触し関わることを避けている。(創世記14:22・12:11・24:3)

その後、子孫はイスラエル民族となってパレスチナへの定住を果たすが、それも条件が求められるものであったから、後に求められた『安息日』を介する聖性を喪失した結果としての捕囚期や、流浪の生活を余儀なくされてもいる。そこでも、やはり俗世との対立は常に生じていたが、その内包する原因は『律法』にあった。
しかし、『律法』そのものが俗世との相違をもたらすとすれば、それは外面だけの異なりであり、本質的には俗世の持つ刹那的また利己的な性質から離れようとするところに別の精神がなくてはならない。律法中に在ってその精神を最も表したものが安息日であったと云える。

この争点は、終末に於いて顕在化することが預言にも示唆され(エゼキエル39:16/エレミヤ25:31)、創世記においては貪欲な支配権と被支配の隷属の対照に於いて例示されている。(創世11:6)



特に新約聖書での『この世』([コスモス][アイオーン])とは、創造されたもので構成されているにも関わらず、創造の神の意図から逸脱して存在してきた(申命記32:5)人間社会の意味で何度も語られている。(マタイ13:22/ルカ12:30/ヨハネ1:10・7:7/ローマ12:1/コリント第一2:6/テトス2:12/ヘブライ11:7/ペテロ第二1:4・2:20)

それは『罪』を負っている(ヨハネ1:29)ので『贖い』なくして神の是認に復帰することはできない。(ヨハネ第一4:14)

『この世』に生きる空虚さ(詩篇103:15-16)、即ち現在まで人間に寿命が定められ、死にゆく虚しい存在であるのは『罪』のゆえであり(ローマ5:12)、神また隣人とどう生きてゆくべきかを弁えない『罪』ある者、即ち倫理に不完全なものは、神を含む他者と共にどう生きるかの関わり方に問題があり、永遠に生きてゆく適性も権利も創造者の前に有しない。(創世記3:22/エゼキエル18:4)

『この世』は争いによって特徴付けられており、利己的に振る舞い、強欲に従って動かされている。(ヤコブ4:1-4)
その原則は、互いの為には働かず報酬なしに労しない排他性にあり、且つ強いて取れるところから奪い取ろうとするので、一定の秩序を保つために法と権力とを必須とし、通貨などの報酬でその欲の範囲を規定する以外になく、相互報酬制度によって個々の強欲が規制されている。しかし、それを以ってしても報酬の基準で搾取や不公正や奴隷化や困窮の発生は避けることができないうえ、利己心の結果として人への価値観が歪むので、人は差別を止められず、富は偏在する傾向が強い。
また、強欲に由来する争いは流血を招く事態にまで進むことも絶えたことがない。騒擾から内戦、また国家間ではそれが戦争に悪化すると、制度として殺戮が合法化され、戦闘員に強制されるが、紛争地では人間本来の不倫理性を示す「自然状態」が現れ、野放図な貪欲による無法がしばしば横行する。

これらは神が創造に於いて企図したものでない。『この世』の有様は、アダムに働きかけた『この世の神』の利己性による。(コリント第二4:4)『この世の支配者』は創造の神ではなくサタンであるとされる(ヨハネ第一5:19)が、それは直接に支配しているのではなく(ルカ4:5-6)、世の趨勢を形作っており(コリント第二4:4)、それはこの世の非情さに表れている。キリストの栄光の獲得によってその支配は終わるべきものとされている。(ヨハネ12:31)
『この世』は人間の宿痾である『罪』の不倫理性のために人間自らの改善は不可能であり、人類は『罪』ある限り法と権力の支配、また不公正から逃れることができない。

そこに不足し、また欠けているものは『忠節な愛』(ヘセド)また愛(アガペー)である(ローマ13:10)。これらの愛は創造の神とキリストが示し、体現したものであった。(出埃20:6/詩篇18:50・33:5・52:1・86:5.15・100:5・118:1-4・130:7/ヨハネ1:14/ローマ8:35/コリント第二5:14/エフェソス3:19黙示15:4)


イエス・キリストは、『罪』ある状態の人類の為に『神と人との仲介者』(テモテ第一2:5)となって、この世の罪を贖う目的をもってこの世に来られた。(ヨハネ3:16)
この理由で、キリストは『世を裁くためではなく、救うために来た』(ヨハネ12:47)と言われる。もし、ただ公正に世が裁かれるとすれば、すべての人に救いはない。 畢竟、人間の諸苦の根本的原因は、創造の神から離れたことに由来している。


キリストの血の犠牲の贖罪は、まず使徒時代の『聖なる者』に適用されたので、キリスト死後のペンテコステ以降の彼らは『有罪宣告はない』状態に入った。(ローマ8:1・33)
これら『聖霊の浄め』(ペテロ第一1:2)に預かった弟子らは『罪』を贖われ、人類一般に先立って創造神と和解し、神を父とする関係に復帰した。(ガラテア1:4)
彼らもキリストと同様に聖霊を通して『神の子』(ローマ8:15-16)となったゆえに、キリストの『兄弟』(ローマ8:29)『キリストと共なる相続人』(ローマ8:17)とされるに至った。

彼らは『世から選び取られた』(ヨハネ15:19)のであり、もはや『この世のもの』ではなくなった。(ヨハネ18:36)彼らは『新しい契約』によって神の前に『罪』なしと見做されることを通し、『罪』によって形成される『この世』から離れることになる。
それゆえ『世が邪悪な者から出ており、わたしたちが神から出ている』との句(ヨハネ第一5:19)は、キリストの贖いをいち早く適用され、終末には『初穂』(ヤコブ1:20)とされる人々に関してのみ述べている。(コリント第一6:18-20)
彼らだけが『世の光』であり、人々を『この世』から解き放つ役割を担う。

地上の彼らにはアダム由来の『罪』が残ってはいても(ローマ7:20)、キリストの『新しい契約』(エレミヤ31:33)に入ることにより、霊によって新たにされた『新しい人格』(コロサイ3:5)とも呼ばれる一定の道徳規準を守るよう努めることで神の前に『義』が仮に承認されている状態(ヘブライ3:6)にある。他方、聖なる『神の子』に課せられた道徳規準(エフェソス5:1.8)を聖霊の無い人々が守ったからと言って神の前の『義』を得ることは無く(ガラテア2:16)、むしろそこで生じる優越感は神の前に反作用を起こし極めて有害となる。(ルカ18:11)

したがって、キリストの『兄弟たち』以外のすべての人が依然として『この世』に属しているのであって、どのように悪行を避け善人と言われようとも、そこから出ることができないで居る。『この世』の『罪』は個々の人々の内に宿っている(ガラテア3:22)からである。それゆえ、今日『この世』とは異なるかのように自らの善行なり信仰なりを誇って、神の側に立ったと思うのは誰にせよ妄想であり、キリストの犠牲により『新しい契約』に参与する『聖なる者』でない以上、相変わらず罪深い『この世』の者であるので、神に各別な是認を唱えることはできない。(イザヤ43:24)

それでも、キリストとその兄弟らを通して神との和解に至る道が誰であれ残されており、『聖なる者』も『この世』の贖罪のために『和解の務め』を授かった。(コリント第二5:18-19)
その和解の根拠となる『この世』の贖罪が為すのが『神の王国』であり、それは律法祭祀に於いて大祭司(ヘブライ2:17)と従属する祭司団(黙示20:5)とによって前表されていた。これらの模式が成就するのは将来の終末後の千年期であり、現在までの『この世』の秩序が過ぎ去る必要がある。(ペテロ第二3:4)

そこで『この世』の支配と『神の王国』の支配とは相容れないもの(ヤコブ4:4/ヨハネ第一2:15)であるので、『神の王国』が権力を持つ終末には、『神の王国』が『この世』の支配を『打ち砕いて終わらせる』(ダニエル2:44)ことになる。(黙示11:15)
『この世』がキリスト教と対立関係にあることは、聖書ばかりでなく、ごく初期に書かれたキリスト教文書「十二使徒の遺訓」(ディダケー)にも『この世が過ぎ去りますように』(10:6)との祈りの言葉が記されている。

それは『この世』の為政者が『神の王国』に支配権を渡そうとはしない(詩篇2:1-3)からであり、その背後にはアダム以来、人類に利己的な道を歩ませた『邪悪な者』が介在して(エフェソス2:2)、最後まで『この世』を慫慂し続ける(黙示16:13-14)からである。*
その結果、多くを占める大衆(ハモナ)は、欲得を選んで『この世』の存続を支持し、遂に最期を共にする。(エゼキエル38:9-39:16)

しかし、大衆を使嗾する偶像者の背後に立つ邪悪な者であるサタンと悪霊らにせよ、現在までも、また将来に於いても『この世』のあらゆる摂理を動かしているのではなく、個々の人間の意志決定(テモテ第一2:14)が常に行われている。それゆえ人間は自らの行動の責めを負うのであるから、終末での『神の裁き』も意味を持つと云える。その裁きは、聖なる者らの聖霊の声に信仰を働かせ(マタイ25:40)、『この世』から神の支配の側に出ようとする人々を、『この世』の存続を願って攻撃しようとする大衆の支持を受けた勢力と、その顕著な指導者から救う神の行動となって現れる。



.⇒ 「この世」というもの


*<おそらく、この以前に、二大勢力の一方である、全体主義的な世界覇権は消滅するか、大きく躓いており、民主的な覇権が民意としてこの世の偶像化を推し進めているのであろう。(黙示13:11-18/ダニエル11:45)>
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