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信仰  - 綱領-

2016.06.14 (Tue)
信仰


信仰を一言で説くなら、上なる者への「信頼」と言ってよいと思われる。
これはヘブライ語にもギリシア語にも字義的にそう言えるだけでなく、信仰する者に決定や行動や発言が求められるところに於いてもそう言える。
特にギリシア語では、「信者」と「信頼できる者」が同じ「ピストス」という単語[πιστος]で表されるところで、信仰する者が同時に、その点に於いて信頼できる者であることを示すべきことが含意されている。即ち、ヤコブが言うように『業が伴わないなら、その信仰は死んでいる』(ヤコブ2:17)[ヤコブは律法の一ヶ条をも行うよう書いておらず、これは律法の業を指すのではない]

信仰の原型は、ヘブライ語の「ヘムナー」に由来し「信頼」という概念が強く、それはアブラハムの半生に亘る神との交渉を通して培われたものでもあり、エジプトから紅海を経てシナイ山麓へとイスラエルを導いたモーセを民が「信仰を置いた」、即ち信頼を持ったと述べられるところに示される。エジプトを出るに当たり、神が示した力にはエジプト人もが信仰を持ち、イスラエルに同行するほどであった。

しかし、律法契約に於いては、律法を守る行いに重きが置かれ、信仰はキリストの時代以降ほどには強調されていない。

メシア=キリストの到来に先立ち、預言者らの活躍する時代から、神の言葉への信頼と共に、神の意向や精神に対する共感が次第に強く求められてゆく、それは預言の中で、神が自らの精紳の意向の多くを語り、それが後に成就することを示したところによる。即ち、神と契約に在った人との信頼関係の醸成が目的であったといえる。
また、メシア到来に先んじたバプテストのヨハネは、神の王国の『知らせ』に信仰を持つよう、ユダヤの民に促している。これは続くメシア信仰が、神の経綸全体への信仰の一部であることを指しており、神YHWHへの信仰とは、唯、神を信じるというものではなく、一連の神の意志について信頼を持つべきことを教えるものとなっている。(マルコ1:15)

また、キリスト教での「信仰」とは、神が存在していることを認めること(ヘブライ11:6)を越え(ヤコブ2:19)、見ることができず客観的に認知できない神を(出埃33:20/ヘブライ11:3)自ら『吟味して確かめる』(証明する)ことであり(ヘブライ11:1)、人格の保持者として捉えることである(使徒14:17)。またその人の忠節な愛を以ってこれに接するよう努める(詩篇18:25/63:3)行為から観察する者にも明らかになるものを言う。(ヤコブ2:18)

『義人は信仰によって生きる』の言葉から、人にとって最重要のものと捉えられがちながら、アダムに求められたのは『忠節な愛』であって、エヴァが禁令を犯して後も、神の言葉が真実であることを悟っていた(テモテ第一2:14)がそれは『信仰』とは言えない。信仰と呼べるものは後の子孫からのものであり(ヘブライ11:4)、そこに『信仰』と『忠節』との関係が見える。
この点で、パウロは信仰が『愛を通して働く』ものであると書いており(ガラテア5:6)、パウロもペテロも『信仰』に勝るものとしての『愛』を最上級に挙げている(コリント第一13:2/ペテロ第二1:5-7)。

加えて、キリスト教の信仰では、神だけではなく、遣わされたキリスト=メシアがナザレのイエスであったことを信じることが大きな比重を占めている。その信仰に於いて、ユダヤ教は脱落し今日に及んでいる。(ヨハネ15:24)

信仰とは、自分の利益を待ち望むことではなく、神のなさろうとする事柄に深い価値を見出し(マタイ13:45)、その業に協働しようとする個人の動機となる。その内面では、神に対し忠節で熱烈な愛着を懐くことである(列王第一18:21)ので、知識を取り入れることがそのまま信仰を形作るわけではない。また「神の存在は信じる」というような中立的な「信仰」というものは有り得ない。(ヤコブ2:19-20)何かを選び取り、何かを捨て去るという倫理的決定が愛によって関わるものが信仰である。
したがって信仰は信頼でもあり、個々の信じる事柄が現実となる時にそれぞれに終りを迎えるものであるが、培われた信頼性は永続するものと成り得る。神からの永続する信頼性に最初に到達したのがキリストであり(ヘブライ2:10)、その完全性は最初の『不滅』をもたらした(テモテ第一6:16)。そこから敷衍して『信仰』とは、神と人との双方向に作用する絆であるとも言える。

しかし、ある人の信仰が神の前に意味あるものとなるのかどうか、客観的には判断できない。しかし、その人は信仰に意義を見出して神との関係を主観的に得心しているので、『まだ見えていない事柄を確信する』(ヘブライ11:1)。そしてキリスト自身も多くの人々が示した信仰の数々を認めている。(マタイ15:28/マルコ10:52/ルカ7:9)

神は、人が信仰によって自らを見出されることを望まれ、人々に顕現を控えられる。(使徒17:27)
したがって、信仰を持たない状態にある人々に自らを強制的に認めさせることはなく、客観的観察で神を見出すことはできない。神から見て性向の悪く信仰に遠い人々には特にそう言える。(マタイ13:58)
但し、終末の裁きの帰結に於いてはキリストが聖霊と情勢に顕現するので、この限りではなくなる。(黙示1:7・21:8)

聖霊を持つ聖徒には『同じ信仰の霊』があり(コリント第二4:13)、『信仰はひとつ』(エフェソス4:5)の理解に導かれるといえども、その人の内面の価値観に左右されるので、人格がそれぞれ異なるように、信仰は厳密には誰もがまったく同じものにはならない。その信仰に応じて人はそれぞれの行いを導かれる。(ヘブライ11:33)


◆信仰による義と救い

究極的に人は信仰によって神の前に『義』を得ることになり、『救い』をもたらされる。(詩篇37:29/ガラテア3:8/エフェソス2:8)
(その『義』とは、倫理的完全性へと招かれるべき『義認』の状態を指すが、倫理的完全性そのものではない。)

その信仰の対象は神だけでは不十分であり(フィリピ2:9-11)、仲介者として(テモテ第一2:5)キリストが任じられていること(使徒10:43/テモテ第二3:15)、また、聖霊が働くところに神を見出す信仰が必要がある。(ヨハネ第一5:10/ヨハネ10:37-38)

人には『罪』があり、神と隔てられた現状(イザヤ52:9/ローマ3:23)にあることを神は啓示し、特に律法を通して知らせ(ガラテア3:19)、『罪』がもたらすこの世の苦境(ヨハネ8:32-34)から救出する手立てを講じた(ローマ8:21)ことを、その言葉を以って知らせてきた。(創世記3:15)

その「上からの言葉」は直接に、また霊感を得た人々を通し、更にはキリストを介して(ヘブライ1:1-2)、その後には聖霊を受けた弟子らを介して伝えられ(エフェソス3:10)、それらが記録され聖書に編纂されているので、今日に於いて神に信仰を働かせるとは、単に神の存在を得心することを越えて、神が行ってこられた一連の事柄(経綸)に希望を託する(ローマ8:20)ことになる。そこで一定の聖書理解は不可欠となる。

信仰の本質的な内容は、神が選民を通して人間を救うという事柄(ローマ8:21)について一貫してきたが、古来、知らされた事柄によって異なってきた。
アブラハムの信仰は遠い将来に神の約束を固く信じるところ(ヘブライ11:13)にあり、出エジプトの民は、紅海を渡る救出を経験したのちモーセに信仰を働かせている。(出埃14:31/34:10)
以後、律法下のイスラエルにとっては律法の掟を守る業が信仰の姿であり、その目標は彼らが人類の支配と贖罪を司る選民となる父祖になされた約束(出埃19:5-6)、またモーセに匹敵する偉大な人物を待つこと(申命記18:15)にあった。

そして、キリストが現れて奇跡を行う生涯の後に死を遂げられてからは、このナザレ村から来られたこのイエスがメシア(ヨハネ4:25-26/使徒4:12)であり、その犠牲によって神の選民イスラエルの『罪』が除かれ(エフェソス1:7)、やがて再び到来するキリストを第一の王とする『神の王国』(黙示20:6)によって、更には人類の全体が贖罪を受けることを信仰する必要があり、この贖罪するメシアの信仰(ヨハネ3:16)が無ければ、その信仰は依然としてユダヤ教に留まることになる。


◆キリスト教信仰に於ける信仰の優越

ユダヤ教の信仰形態が律法履行の業や、道徳や立場の清さを重要視したのに対して、キリスト教に於いては、本人の道徳性や行状の良し悪しに関わらず(マタイ12:31)、自発的に信仰を懐くことが深く評価され罪を許しの事前の宣告が各個人にされたが、この点がユダヤ教指導者とキリスト・イエスの大きな争点となっていた。(ルカ5:21)

当時のユダヤ人の規準で清くあるためには、裕福で生活のゆとりがあることを必須としており、ほとんどの平民は呪われた(ヨハネ7:49)「地の民」とされ卑しめられていたが、キリストはこの人々をこそ、その信仰によって罪の赦しと救いに導いている。
しかも、起こった癒しの奇跡についても『あなたの信仰がそうさせた』と繰り返し言われた。(マタイ9:22/マルコ10:52/ルカ17:19/使徒3:16)
そこで人を罪から清めるのは、「業」による道徳性ではなく、「信仰」による価値観であることが示されている。

概して、自分が行う業によって神の是認を得るよう努めることは、その関心が自己に向かうのに対して、神への信仰を懐くことでは関心は神へと向かう(マタイ9:11-13)。そこで、真に利他的で倫理的であるためには、信仰によって関心を神と他者に向ける以外にない。神の前の『義』は業ではなく信仰によって得られる(マタイ21:31-32)からである。(ローマ3:28)自分の救いを求める願望から神の命令に従うべく腐心することは、却ってそれを逸し兼ねない(ルカ18:9-14)。なぜなら、それはキリストの犠牲の価値を充分に信仰しているとは言い難く、自己保身の態度が神の前に利己的で、人々に対して傲慢であることを示すからである。(ルカ16:15)

パウロは、業を重視するユダヤ律法体制とメシア信仰が相容れないものであることを強調し『律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。恵みから落ちている。』と書いている。(ガラテア5:4-6)
そのうえ『信仰が到来した今、わたしたちは養育係の下にはいない』とまで言っている。(ガラテア3:25-26)
即ち、キリスト教の信仰は、ユダヤ教の信仰を遥かに超越したものであるので、パウロはアブラハムの約束による世の相続について『もし、律法に拠って立つ人々が相続人になるとすれば、信仰は虚しくなり、約束もまた無効になってしまう。』(ローマ4:14)と述べる。

キリスト教の多くの宗派であっても、依然として律法等に何らかの原則を見出そうとし、その信者らも内心では何らかの規則を願う。その従うばかりの奴隷的な業が自発的信仰の業より分かりやすく簡単で、他者頼みだからである。だが、それでは一向にキリスト教の自由な高みには達しない。(ガラテア4:24-5:1)
その周囲の人々との規則遵守による差別化は何ら本来のキリスト教信仰とは関係を持っていない。


◆聖霊信仰を要する終末

終末を前にして、神への信仰がメシア信仰までに留まっていてはならない。それでは、いよいよ近付く神の王国による救いに達しない。終末に於いてはキリストの臨在は『雲と共に』あって終始肉眼では見えず(マルコ13:24-26/ヨエル2:1-2/詩篇97:2)、そこで『信仰』が求められる。
そこで必要不可欠となるのが、聖霊への信仰となる。キリスト・イエスは、聖霊が到来すると『罪と義と裁きについて、世に認めさせる(誤りを示して言い開きを迫る)』ことを予告されている。(ヨハネ16:8)

終末での聖霊の顕現は、誰も論駁できない言葉となり(ルカ21:15)、諸国民への著しい知らせとなるので(マタイ10:18)、世界は大きな動揺を与えられる(ハガイ2:6-7/イザヤ52:15)

キリストが臨在を始めて、この世の終末の時期が到来すると、ある弟子らに再び聖霊が降下して、為政者と対峙し、その奇跡の言葉を諸国民が聴いて大きな動揺が起こることを福音書は明確に述べている。(マタイ10:18/ルカ21:15)

聖霊への冒涜がけっして許されることの無い罪(マタイ12:32)となる以上、この奇跡の聖霊への信仰を拒むことはまったく致命的な結果をその人にもたらすことになる。(ヘブライ2:3-4)
キリストに信仰を置かなかった者らが断罪されたのは、まさにこの聖霊による神の証しを受け入れなかったからに他ならない。(ヨハネ第一5:10)
したがって、終末の人は、その時期に顕わされる聖霊への信仰なくして救いはないと言え、現状で聖書を通して予め聖霊への信仰をもっているなら、それを最後まで維持して始めて救いを得ることになる。

終末ではキリストの姿は地上に最後まで無く、聖霊を注がれる『聖徒』という格別の弟子ら(コリント第二5:5)の奇跡的な働きに信仰を働かせる必要がある。(コリント第一2:4-5)
そのような聖霊への信仰を持たないのであれば、終末に於ける偽りの霊のもたらす『背教』(テサロニケ第二2:3-4)の非常に強い影響に曝され(黙示13:15-18)、異なった信仰を強要される危険が排除できないことになる。(ヨハネ3:36)





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祈り -綱領-

2016.06.10 (Fri)
祈り


祈りは、神に向かって心にあるところを語りかけることである。
人は上なる存在者だけでなく、亡くなった人など、直接には意志を通わせることの出来ない対象に対しても、語りかけることもあり得るが、それは、ここでの「祈り」には含めない。

人は自然に人間以上の存在者と意思の疎通を図ろうとする性質を表してきた。
世界の多様な宗教は、その根源的な欲求が人類に普遍的に存在していることを示している。

聖書において祈りは人が自らの存在の原因者に語り掛けることを意味しており、アダムによって隔たれた神との関係をその人個人にあっては復旧を求める行為とも言える。

神との交流には、儀礼、預言、賜物の顕現などがあるが、祈りは最も簡便で本来は個人の意識に基くものである。

創造者と人との間には『罪』の障壁があり、現在は神との契約に預かる人も無いので、その交流に限りがあり、祈りに対して答えが聞こえることを期待することはまずできない。
キリストは、その犠牲を以って神と人の仲介者となり、いずれ人から『罪』が除かれるときには、創造物として正しく『神の子』の立場を得て、人は神との自由な交流が可能となる。(ヨハネ1:20/イザヤ65:24)
人がアダムの罪に在り、契約に無いとしても、キリストの以前からキリストの犠牲が捧げられる可能性を以って、またキリスト後では更に根拠をもって人の祈りが聞かれることは否定できない。その確実性は祈る主体者の信仰と、その動機に関わるのであろう。

人は何であれ抽象的な存在に対して語りかけることがあるが、創造の全能者にしてキリストの父であられる神に語りかけること、わけても人格的な相手として見做して語りかけることをここで祈りとする。 (ヘブライ11:6)


◆契約関係にある者の祈り

かつてアダム以来、神は自ら人に語りかけることもあり、殺人を犯したカインであっても神は直接に語りかけ、その福祉を顧みている。また、ノアは大洪水の警告を受けている。 それらに増して意義深く神と語り合ったのはアブラハムであり、神とアブラハムとは人類救済に欠かせぬ『裔』の到来について目的を共にし、独り子を犠牲とすることを共に躊躇しなかった。アブラハムに対して神は自ら話しかけており、これは創世記に見られる特徴となっている。しかし、その相手は限定されたもので、神は自らの経綸を推し進めることについてそのようにされ、ほかに話しかける場合には預言者を用いており、これら神の側からの話しかけによる人の意思表示については「祈り」とは言い難い。

さらに、律法契約の時代まで、サレムの王メルキゼデクのように、イスラエル以外の他民族の人物であっても神WHWHの祭司が存在していたことを聖書は記している。それらの人々は、祝福の儀礼を行い、預言を託されるなどしている。また、直接に話し、また預言者を介して意志を通わせた場合もあるが、どれも神の経綸に関わる事柄についてばかりが聖書に記されている。その中にはバラムのように動機が不純になった者も含まれ、その預言には神の言葉が含まれている。しかし、彼を神が是認していたわけではない。

こうした神との関わりは旧約聖書の古い時代に見られ、モーセ以前からも彼のように『顔を合わせ』(出埃33:11)意思の疎通が行われていた例がある。しかし、モーセと神の関わりは、律法契約の締結の以前からあり、アブラハム契約を荷うイスラエルとしてのモーセに限った邂逅であったかは、モーセの舅がケニ人、バラムがアラム人でそれぞれ預言者であったことからすると、確言することはできない。 (創世記14:18/出埃3:1/民数22:9)

そこで、祈りとは人の側から神に近づき意思を伝達する行為と言え、その行為の実効性は、第一に神の能力に依存しており、第二に神の意向に沿うべきものであるか否かに影響される。

律法契約の成立後に於いて、神は主にアブラハムの子孫や関係者、また神との契約関係にある人々、預言者ら、また後にはキリスト自身と使徒らの祈りを聞き、それにはっきりと答えている。
だが、預言者イザヤが認識していたように、人は神の前には死すべき罪人であり、神と関わるところでは、省略がなされていたにせよ、贖いの犠牲を介してのことであり、それは後に捧げられるキリストの完全な代価を仮に充当してのことであったと思われる。(コリント第二1:20)

新約聖書中では『新しい契約』に属する聖なる者らには、特に祈ることが強く勧められている。(エフェソス3:12)
その理由は、彼らが人類からの『初穂』としてキリストに血の犠牲の仮適用を受け、その『罪を赦され』(コロサイ1:14)、『神の子』とされ(ローマ8:14-16)、『アッバ(父よ)』と呼びかける立場に立ったことへの感謝を表すことでもあった。

『聖なる者ら』についてイエスは、その神の意志に関わる事柄に於いては『だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成る』『なんであれ祈り求めることは、すでに叶えられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる』(マルコ11:22-24)、『山も動き海に入る』とされた(マタイ21:21)。
これらは、イエスがユダヤ体制の崩壊を預言する場面で語られており、第二神殿建立と祭祀の復興に向けたゼルバベルについて『大いなる山も平らにされる』(ゼカリヤ4:7)との預言に対応するものであろう。(イザヤ40:3-5)
即ち、恣意的な人の目的ではなく、神の目的が推進されることを阻むものは何も無いことがその言葉に強調されている。(マルコ11:23)

キリスト・イエス自身は、もとより『神の子』であり、ヨハネからバプテスマを受けて以来、事々に多くの、また長い祈りを捧げていたことが福音書に描かれており、それには『激しい叫びと涙とをもって・・祈と願いを捧げた』ことをも含んでいる。(ヘブライ5:7)


◆契約にない者の祈り

普通の人が自己の及ばないことへの願いを神に述べることで、自分の思う方向に事態が動くか否かを聖書が保証している言葉を見出すことはない。
それでも神は、契約関係にある人々にだけ関心を限ってはいない。その契約そのものも契約に含まれない人々全体のために結ばれたものだからである。

旧約聖書では、ソロモン王が神殿の奉献に際して、その神殿の方角に向かって祈りを捧げる異邦諸国民の祈りの言葉に神WHWHが耳を傾けるよう取りなしの請願を行っている。(歴代第二6:32-33)

新約聖書では、キリストの聖なる弟子らは、天界の神殿を構成する一員となるよう招かれていたが、イエスはこれらの弟子ではないものの彼らの言葉に信仰を働かせる者らについて取りなしの祈りをなさった。 (ヨハネ17:20)


旧約聖書中に於いては、アブラハムの奴隷エリエゼルの祈り(創世記24:12)、また新約聖書中では、ローマ軍の士官で無割礼のコルネリウスの祈りが(使徒10:4)、神との契約関係に無い人のものとして挙げられるが、いずれも聞き届けられ、大きな酬いを得る結果となった。

スロフェニキア出のギリシア人の女が、悪霊の娘への憑依を解くように願い求めてもイエスは応じなかったが『犬も主人の食卓から落ちるパンに与ることはできる』と言ってはその謙虚で執拗な信仰を言い表した(マルコ7:26-30)ところで、また、ローマ士官が自らが無割礼の異邦人であることでのキリストへの謙りを見せてユダヤ人を仲介に入れ、且つイエスへの手間を掛けまいとして強い信仰を表明した場面(ルカ7:2-10)で、共にそれらの願いが叶えられている。これらは共にイエスへのメシア信仰に基づいており、祈りではないが、神の奇跡の働く道への確信によるものとなっている。(ヤコブ5:16)



◆祈りの意義

聖書中で、神は人の贅沢な願いや貪欲を是認せず、律法の条項の中を見ると、この世の住み難さの中で苦しむ人々、特に貧しさに配慮した取り決めが散見され、それらは神の苦しむ人々への眼差しがどのようなものであるかを知らせている。 (申命10:17-19/24:19-21)

アダム以来、その子孫のすべてが創造の意図から離れ、『罪』の横行するこの世を構成してしまっているために、その中で人々の苦しみは絶えない。
この状況にあって、創造の神に祈りを以って話しかけることには、ご利益信仰とは異なる意義がある。
神は人の贅沢や貪欲に耳を傾けることはしないが、生存を脅かされるような状況にある人々の叫びのような祈りにその関心を傾けるということができる。 (申命24:15/詩篇62:8・102:17)
また、神は律法中において困苦にあるなら異邦人に対しても慈愛を持たれることを示している。(出埃22:26-27/申命24:6・19)

神は聞く以前からどんな人の状況も必要も知っている(マタイ6:8)。苦しむ人々を創造の神がまるで放置しているなら、救いの手立てであるキリストの犠牲も『神の王国』もなく、聖書も存在しなかった。 (ヨハネ3:16)

キリストの犠牲が捧げられ、『聖なる者ら』が現れた以上、創造者が生まれたすべての人の処遇を深く顧みていることは明らかであり、それは所謂『悪人』であっても同様であり、神の人への関心は、現状でバプテスマを受けたキリスト教徒であるか否かにも左右されない。 (ヨブ14:15/エゼキエル33:11/マタイ10:40-42)
人はこの世の労苦を免れることはないとしても、神に向かって命をつなぐ助けを求めることはできる。(詩68:5-6・146:7/マタイ6:11)

「主の祈り」では、その内容の順により信徒が重要視するべき事柄が示されている。(マタイ6:9-15)
まず、神の名が高められることであり、これは神が神であることを創造界が認めて関係を回復することを願うものであり、創造界の一致ある姿はこの神の至高性なくして実現しない。

次いで神の意志が創造界に行き渡り、世界が神の創造の意図のままになることを求めている。この世に利己心の横溢するのは、この世に神の精神が行き渡っていないからであり、神の意志に満たされることは、創造界に陰りの無い幸福が満ちることになる。
これは神と人間との失われた関係の修復を意味し、人類にとって最も必要でありながら、不当にも人類が無視してきたことである。

それから自分の必要について求めるが、それは不公正なこの世に在って、人生の成功や富むようなものではなく(テモテ第一6:6-7)、実直な人々に日毎の必要物が備えられ、生活の危機を逃れることを指しており、神がこの世の生き辛さの中での人の福祉を顧みることを表している。(マタイ6:25-26)

負い目のある者を許すということは、『罪ある』状態にある人間が互いの関係に於いて配慮すべきであることを表しており、その最大の理由が神の贖罪の意図にあることを教えている。(マタイ18:23-35)

最後に『誘惑者』からの保護を求めているが、これは当時のユダヤ人の場合に契約履行を妨げる誘いを意味したであろうが、終末には聖なる者らも、神の側に立ち聖なる者らを支持するあらゆる人々にとっても喫緊の課題となり(コリント第一10:13)、それに対処することは人の能力を超えるものとも成り得ることを教えてもいる。(マタイ26:41)

このように、祈りは神への語り掛け、また請願であると同時に、祈る者の想いを整える働きも果たすものと言える。(歴代二7:14)

今日、聖霊によって語る聖なる弟子らは存在していないが、エデンの園以来の様々な神からの言葉が旧約聖書に、またキリストと聖なる弟子らの言葉が新約聖書に聖書に収められているので、我々はそれらの記述に信仰を働かせることができる(ヨハネ20:29)。その信仰をもってキリストの取りなしの許に創造の神に祈ることは分けても意義深いと言える。 (ヘブライ2:18)
また、山上の垂訓にあるように、人類救済の手立てである神の名の栄光、王国の到来、義の実現などに関わることについては更にそのように言える。

したがって、人が創造の神に祈ろうとするときには、その人がどのような精神態度を持って祈るのかが問われる(ローマ8:27)ことになる。 祈りを通して、その人が廉潔であるか貪欲であるか、謙虚であるか高慢であるかが露呈することにもなり、自らの言葉を通してその想いを顧みるべきでもある。(ルカ18:9-14)

また、誰の身の上にも起こり兼ねない事故について、キリストは『シロアムの塔』の倒壊による18人の死を挙げて(ルカ13:4)、それが死者の敬虔さや徳性の欠如に原因するものでも、神の摂理や意志によるものでも無いことを語られている。そこには物理的原因があったにせよ、避けられない偶然がこの世に起こることを示している。(伝道9:11)

従い、この世での不遇や不運を神の責とすることは的外れなことになる。神はその意図から離れてしまったこの世(ヨハネ15:19)に対して責任は無い(申命32:4-5)。むしろ、アダムが悪魔の誘惑によって人類を売り渡した『罪』の世界がこの世であって人は許多の害悪と死を免れないが、神はそこからの人類の救出を意図され(ペテロ第二2:9-10)、キリストの犠牲により人々の復活も確かなものとされている。それでも、神は『ご自分の手の業を慕われる』ゆえに、この世に一度は生まれてくるそれぞれの『魂』を見守られ所有される。(ヨブ14:14-15)

どんな祈りが捧げられるにせよ、キリスト教徒としての祈りの中心は、基本的にはこの神の経綸を軸にされるべき理由がある。その神の意志が成し遂げられるときに、すべての問題への最終的解決をもたらされ、そのときには祈りそのものも、より優れた意思の疎通(神との会話)に変えられることになる。(イザヤ65:24)


◆規則化の不利益

モーセの体制下では一日に三度祈る習慣が行われている。キリスト教の修道院では詩篇119番を根拠に一日に七度の祈りが規定されるところがあり、更にそれを超えて修道僧によって交代制で間断なく祈祷が続けられてもきた。祈りの文言は祈祷書に記され、祈る者の意思に関わり無い内容が繰り返される事態はもはや祈りの原形から離れた儀礼となっており、キリストの示した祈りの捉え方に照らすなら、様々な宗教一般に見られる敬虔さの誇示という人間の陥り易い誤謬であると思われる。その祈りは神殿儀式に近付いており、神に意思を伝える祈りの機能は抑え込まれている。(マタイ6:7)

また、後代のラビは「祈ることなく何物も食してはならない」との規則をユダヤ教徒に課しており、それが初代のユダヤ人イエス派を介して初期キリスト教に入り、キリスト教界に伝播してきている様が新約聖書に窺われ(使徒27:35)、給食また愛餐や聖餐に於ける「パン裂きの(神への)祝辞」でも食事と祈りが関係している。(ベラホート5:1)
但し、ミシュナーに従う場合に、食事の祈りを忘れた場合、それを思い出した場所か、または食事を行った場所に戻って祈らなければならないという規定があったが、それが機械的な反復であれば、祈る側の自己義認のために食事への感謝を捧げている実態を明かしていることになってしまう。(ベラホート8:7)

パウロは書簡中で筆記者に語りながらそのまま神を賛美する言葉を含め、その後に「アーメン」を自ら唱えており、そこが賛美であったことを読み手に示している。このように会話の中で直ちに賛美に入ることは当時までに培われたユダヤの習慣ともなっていたが、それらの賛美はたいへん短いもので、当時のユダヤの習慣としての食前の「祝祷」も、それが過越しのハガターのような長いものではなかったことを窺わせる。キリストの給食の祝祷も文面にされず、一言それが有ったことを福音書は書いている。

キリスト教徒について、食前の祝祷を明確に要求する記述はないので、ユダヤ教徒のように規則化するべき理由を見出すには至らない。そこで重きを成すのは、食事する信仰者の状況や意識と言える。
食前の祈りには、神が創造物を顧み、困窮者を支えることの認識を表すものであるとも言える。それは荒野のマナによって数百万を支えた神の配慮と能力から敷衍し、世界に糧を生じさせることが人の労働だけでは達成されないことへの認識と感謝を含むことができる。(マタイ4:4/ルカ9:16)


規則で祈りが形式化したり、神を余りに畏敬して言葉遣いに注意が傾いてしまうこと、また、他者に敬虔さを見せるために徒に長い祈りを行うことなどが様々な宗教に見られる陥穽となってきたが、キリストはこれを山上の垂訓に於いて戒め(マタイ6:5-8)、あるべき祈りの姿を示している。それは祈る本人の意思を神に伝えるという根本的な役割を果たすものでなくてはならない。

祈りによって陥りやすい別の誤りには、自己正当化もある。
自分が祈って決定したことについて、神の後ろ盾があると思い込み、自分の行動や思考を義化してしまうが、これは『罪』ある人という現実を無視したアニミズムへの堕落であり、呪術に傾いている。キリスト教の場合には、平素、神からの明解な返答を期待できない事実を忘れるべきでない。聖霊を注がれることのない限り、その人に格別な神との繋がりは生じないと見做すべき理由は多く、この点で、只の人が神に何らかの「確約」のようなものを得ることは期待すべきでない。

「主の祈り」によれば、祈る内容の重要性の高さがその順位に示されている。神の名が崇められるようになること、第二に王国の到来を求め、それから自分の必要に願い、他者を赦したように自分が赦されるよう願うことを、最後に誘惑者から逃れることの五つの事柄が含められていた。(マタイ6:9-13)

但し、この祈りを祈祷文のように繰り返すなら、キリストの戒めに再び逆らうことになってしまうので、ここからより重要な事柄を弁えることをもって神に語り掛ける上での教訓とするべきである。そこで価値観の精錬が進み、祈る度にその人の意識を集中させるべき事柄が明らかにもなる効果がある。(ルカ11:8)

また、祈りに仲介者としてのキリスト・イエスの名を含める習慣は、キリスト教徒の中から始まり、ユダヤ教との差別化に役立てられるものであったが、聖書中にその事例を見ることはない。ただ、聖霊の働きを求めるときに用いられた例がある。即ち聖霊はイエスの『名によって求める』ものだからである。(ヨハネ14:14)
しかし、贖罪に関わる大祭司職としてキリストを経路(ヨハネ14:6)と見做す場合、祈りについてそれを退ける理由もない。但し、『わたしの名に拠って求めよ』と命じられたのは直接には十二使徒であり、敷衍すれば聖徒たちであった。(ヨハネ16:24)

また、『互いのために祈る』よう新約聖書は随所で勧めているが、これは互いの福祉を省みる心を持つよう促されているのであり、人への関心を特に仲間に集中するよう求めているわけではない。
むしろキリストは敵のために祈るようにさえ言われ、自らを処刑する人々の罪が赦されるようにと祈り、それは最初の弟子の殉教者ステファノスに受け継がれている。(マタイ5:44/使徒7:60)


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エデンの二本の木 -綱領-

2016.06.09 (Thu)
エデンの二本の木


◆なぜ選択が求められたか

エデンの園の中央に植えられた、『善悪を知る木』と『永遠の命の木』という二本(群)の木は、アダムらに求められた選択を意味した。

神は人に自由意思を付与していたが、それは神が創造物に名を付けさせているところに表れている。明らかに神は、人の意思の独自性を楽しんでいた。この点で、人は神から独立した意識を持って何事かを決定できる自由な思考者、決定者としては神と対等とさえ言える。
神が人を自らの『象り』に創ったとは、こうした独立性を含むものと思われる。
従って、神は自らの『象り』に服従や隷属を望んだとはけっして言えない。

そこで『善悪を知る木』について禁令が与えられたのは、それが神という彼らにとっての存在の由来者との関係をどうするかという倫理上の決定が掛かっており、その結果によって『永遠の命の木』から食することを許され、彼らは神と結ばれて永遠の関係に入るはずであったが、そこに求められたのは「命令への服従」ではなく『忠節な愛』(ヘセド)であったといえる。

もし、神が人と生き続けるために服従を望んだとすれば、本能にだけ従う動物のようであって良かったところを、二本の木の選択の機会を与えた以上、人には本能に従うだけでなく自ら判断して行動する部分が備わっていることになる。創造者に対して服従を選択するということは、与えられた自由を自ら喪失させるという矛盾を孕んでおり、それは圧制者の望むところに他ならず、人が自ら神の栄光を汚すことであり、創造者の意図するところとは言えない。

二本の木の選択の問題は、特に神を含む他者との関わり方、即ち、人のように理知があり、生き方を選択できる創造物に、神が永遠に生き続けることを許すためには、他者とどう生きてゆくかという、「倫理」の問題が避け得なかったであろう。聖書では『罪』と呼ばれるものは倫理性に難があるものを指す。その対極に位置するのが『愛』であり、これはヘセドまたアガペーとして聖書に記されている。(詩篇25:10/ローマ13:10)

『愛』は自発、また自律的なものであり、プログラム化できないし、規則や法で縛り強制、強要できるものではない。
そのような表層を造ることができたとしても、強いられたそれは真正な愛でも善でもなく、その人の倫理性は問われないままである。

人から倫理上の選択の自由を奪うなら、機械的に厄介な『罪』を除くことはできたように見えても、真実の自発的愛や善を不可能にする。
全能の神が、人を初めから『罪』に陥らないものとして創れなかったのか、という疑問は、人間を不自由で、真の愛も善も持たないものとして創らなかったのはなぜか?と問うに等しい。それは人を動物の領域に引き下げ、人が神の『象り』としての自由を持つことを評価しないことになる。

そのように従属させて人を支配することを望む独裁者は歴史上に数多く現れたが、創造の神は人に従属を強いて支配しようとしていない証しが『二本の木』の存在意義であったといえる。
人間性の尊厳は、まさにその自由意思にあり、『罪』の影響が人間社会に如何に大きいとはいえ、神が悪の存在を許すのは、自由の中に真実の愛を造り出すためでもあり、また、強制して人から自由意思を奪うなら、今日にも不完全にせよ備わっている人間性の尊さを喪失させることになる。
実際に、不自由な圧制は人間にとって負担であり、不自然であることが歴史上で何度も証されてきたことであり、人間社会はずっと自由な主体性を人々に与える方向に進んできている。それは、生来的に人間自身がそのような自由な選択者であるべきことを示している。
(独裁制が人権を蹂躙すると言われる根底には、この原理が働いている。他者を徹底的に支配する願望を有する者には、人に備わっているとされる『神の象り』の尊重も概念もなく、我欲のために他者を犠牲とする傲慢な利己性を宿している。)

二本の木の選択は、人が神から独立した思考の持ち主であり、神が人にその自由意思を確保するためのものであったと言える。
そのように、人が神の『象り』である(創世記1:26)なら、人の自由な思考を保つことは神が自らを尊ぶことであり、神が全知性を抑制し、且つ大きな犠牲を払おうとも譲れるものではなかった。
神が禁令を課して後、これらの木を監視していなかったのは、明らかに自由意志を保つためであった。そう捉えるなら、神はその全知性を人に対して用い尽くすことはなく、彼らの選択結果を予知しなかったと言える。(創世記3:10-11)

また、その自由意思が『天使より低いもの』(ヘブライ2:7)として創られた人間に保たれたのであれば、当然ながら天使らにもそれが保たれることになる。
そして、ひとりのケルブが、その特に恵まれた状態から傲慢を選び取り、この自由意思によって利己的に振る舞い始めた。(エゼキエル28)

この天使はアダムらを誘惑し、神への『忠節な愛』ではなく利己心に基いて禁令を破らせることによって、後の人類全体を自分の側に引き入れることを企てた。
そこで、アダムが神から離れる誘因として妻への愛着に着目した蓋然性が非常に高い。

まずエヴァに禁令を破らせることが、直接にアダムを誘惑するよりも大きな可能性を持つことを反逆の天使は悟ったであろう。
そこで蛇を操り、エヴァがひとりでいるところで、禁令を破ることでの死はなく、却って神の様に賢くなると告げる。(創世記3:4-5)

エヴァはその言葉を信じてしまい、その実が美味であるかのように見え、それを取って食したが、すぐには死ぬことがなく、更に蛇の言葉に信を置いたであろう。
夫と共になったときに、その実を差し出したが、やはり『アダムは欺かれなかった』(テモテ第一2:14)。

しかし、それでも彼が禁断の木の実を食した理由について、創世記に僅かな痕跡を残している。
神は『アダムがひとりでいるのは良くない』と女を創られ(創世記2:18)、エヴァを目にしたアダムは『これこそわたしの骨の骨、肉の肉』と発言している。これは女エヴァの有用さ貴重さを示唆している。(創世記2:23)

そこで、禁令を破ったことのアダムの言い訳として『あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました。』というアダムの神への返答に彼の誘因も描かれているように読むことができる。(創世記3:12)
ここでアダムは、神がエヴァと共にいるようにと彼女を創造したことを引き合いに出している。

これを敷衍すると、アダムは先に死の道に入ってしまった妻と命運を共にすることを選んだと見做せる。その愛着が神への忠節に勝ってしまったからである。
その選択が一度限り決定的なもので、完全な者が不完全へと堕ちたのであるなら、『罪』に影響される人類一般のように過ちを認めて謝罪するという余地がアダムとエヴァの場合にはない。後から訂正のしようの無い選択が禁断の木の実に関してあった。

エヴァは騙されたとはいえ、蛇に対して神を擁護しなかったからには、神の善意の中で生活していながら神への忠節な愛を選ばなかったことは明らかであり、それは過ちを謝罪して許されるものではないことになる、彼女はひとたび心の中にあるものを表して、裁きはエヴァについて終わっていたからである。木の実を食した決定に思い違いはなく、完全な選択で神を退けた以上、神を忠節に愛してはいないことがエヴァについて明白となった。そこにアダムの執り成しをする余地も存在しない。そこでアダムはエヴァと死によって分かたれることを悟ったはずである。アダムにはそれが受け入れ難いところで試みとなり、結果として倫理から逸脱し『罪』に堕ちた。そうして反逆の天使の思惑は達成され、そこでこの天使は「中傷者」を意味する『サタン』と呼ばれるに及んだ。

その影響として、二人の『目が開かれ』裸であることに気付くのがアダムと共に食した後であったのは、エヴァは『まったく欺かれ』ていたので罪の意識が無かったが、アダムとのこの食事以降はそうではなく、自分たちが存在の由来者から離反したことを二人共に意識し始めたからであろう。


この離反の選択を批判することは容易だが、唯一の伴侶として完璧に創られ、深く愛した妻を失うまいとしたのであれば、アダムへの誘惑は猛烈な効果を上げていたことになろう。そうであればサタンのエヴァに仕掛けた罠は狡知の極みであった。

神とどのように生きてゆくかに関するこの選択は、自らを存在させた方に忠節な愛を払わない方を選んだのであり、自らの作り手に相応しい敬意を抱かないところで、道徳、また倫理を土台から覆すことであった。それは神のみならず、あらゆる他者との関係をも崩したことは、貪欲と争いの満ちるこの世の姿に表れている。


◆堕罪し不倫理を負った人類

即ち、アダムの愛情は神よりもエヴァに向かっており、そこで最初の不義理が生じた。同時にアダムとエヴァは倫理の決定の執行者となり、『善悪を知る』に至ったと云える。

その倫理上の決定は、自らの存在の由来であり、忠節な愛が示されるべき神を差し置いた理不尽な決定となり、倫理上の問題『罪』を孕むこととなった。彼らに対して、神が『命の木』に監視を置き、最初の権力の発動を見たのは、彼らが堕罪したためであり、以後、倫理上に欠陥を負った人間には法と罰が避けられなくなった。(創世記3:24)

だが、権力と支配は人間に対して神が本来意図したものではない。
したがって、全能神が主権を好み、人類支配を望んでいると考えるべき理由はない。むしろ、自らの『象り』(ヤコブ3:9)を尊重するからこそ、多くの犠牲を良しとされたのであり、そうでなければ、全能神にとって悪魔を退け全世界を征服することに何の妨げもないし、最初からアダムの自由意思を試す選択などをさせる理由もない。

一度、こうして不倫理を犯した人間は、他者とどう生きるべきかを弁えない存在となってしまい、永遠の命の実を食するべきものではなくなった。したがって、死すべき寿命を持った存在としてその子孫を形作ることになり、その永遠の命を妨げる不倫理性が遺伝していることは、人類の今日までの歴史に誰の目にも明らかとなっている。(ローマ5:12)

この一度の選択によって、人類は苦難の生涯を余儀なくされており、そのままでは空虚な存在として終わる以外にない。
誘惑した天使は以後「中傷する者」即ち『悪魔』、また神に「反抗する者」『サタン』と呼ばれ、その後も神の理知ある創造物に対して誘惑を行っており、その対象は神以外のすべてに及び、キリストでさえも例外とはならなかった。(ヨブ1:9/ゼカリヤ3:1/マタイ4:3-/黙示12:9/コリント第二11:3)



◆命の木に行く人々

しかし、神は早くもエデンに於いて、陥った問題からの救いを予告する。それが『女の裔』と呼ばれる何者かであった。(創世記3:15)
これがキリストとその兄弟らで構成される『神の王国』であることは、その後に連綿と続く聖書記述を追うに従い明らかとなる。

その『女の裔』は、『蛇の裔』(ヨハネ8:44)によって『かかとを砕かれる』が、『女の裔』は『蛇の頭を砕く』と予告される。
これはキリストの死、またその兄弟らの殉教が起こること、また最終的には『蛇』で表される悪魔を全く滅ぼし、その影響を無に帰して、神への忠節な愛を示すすべての人々から『罪』を除き、神の意図した創造物『神の子』に復帰させ(ヨハネ1:12)、創造の業を真に成し遂げることに道を拓くものとなる。

そこで、『女の裔』である『神の王国』が人類に成し遂げる事柄を描写する黙示録に於いて、『命の木』が再登場しており、その木に与ることが許される人々が描写されている。
こうして創世記で起こった倫理問題は収束するに至る。

これが聖書全巻を貫く主要な論点であり、この観点を得ない限りキリスト教を真に理解することはない。








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