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神の王国とは  -綱領-

2016.05.15 (Sun)
神の王国


キリストとその民によって千年間にわたり、生ける人類を統治し(黙示20:4)、贖罪を行って神の創造物としての栄光に復帰させる実際の支配権を有する国家。(黙示20:6)
その支配により、創造界に入り込んだ不調和を除き、人の『罪』を贖い、キリストの下に被造者を集め(エフェソス1:10)、神との和解を(コロサイ1:20)成し遂げさせる働きを行う。(創世記3:15)

統治と贖罪が行われるため、この国の民は人類に対して『王たち、また祭司たち』となる。(黙示5:9-10)
この王権は、貪欲に混乱する人間の諸政府を廃して神が終末に打ち建てる支配を表し、人の住む世界のすべてをその領域とする。(ダニエル2:44-45)

その主要な王権はダヴィデの家系に属するキリストのものとなり、『その支配は公正と正義とによって保たれる』また『その平和は増し加わって限りない』とも描写されている。(イザヤ9:7)


王国の選民

この王国の選民とは、支配を受けることになる地上の民を意味しない。
むしろ支配し贖罪を行う祭司権を持ち統治する民を意味する。

主要な王であるキリスト以外のその『王なる民』は象徴的な「イスラエル」であり、キリストの血に預かることにより、アブラハムの子孫、またダヴィデの王権相続者と認められ、共にこの王国を相続する者とされ(エフェソス2:13)、その一員として召されたことが、注がれる聖霊によって証しを立てられる。(エフェソス1:13)

この『祭司の王国、聖なる国民』に召された者は、キリストの仲介する『新しい契約』に入り、忠節と清さを生涯にわたって保つことを契約の条件に(コリント第一6:20)、終末での天への召集に預かることになる。(出埃19:6/ペテロ第一2:9/テサロニケ第二2:1)

キリストの公生涯の業は、彼に従う国民となるアブラハムの子孫を集め出すことが目的であったので、血統上のイスラエル人に対して『神の王国は近づいた』と宣明された。(マタイ4:17)
当時のイスラエル民族は、メシアの到来を見たことでアブラハムの相続財産としての『神の王国』をまさにその内に有していたのであり、そのことを『あなたがたの内にある』と指摘されたが(ルカ17:20-21)、その不信仰のゆえにメシアを退けたうえ、弟子らをも迫害して自ら王国に価しないことを示した(使徒13:46)。そこで『神の王国は、その実を生み出す国民に与えられる』ことになった。(マタイ21:42-43)

キリストの帰天後は、アブラハムの子孫を集める業は使徒らや初期の弟子らに受け継がれ、パレスティナから世界へと広がり出て『その実を生み出す国民』が諸国民からも集められ始めた(ヨハネ14:12/マタイ8:11-12)。それはイスラエルの民と諸国民とで構成される複合の民(エフェソス2:15)となり、血統上のイスラエル民族に対して『神のイスラエル』と称される。(ガラテア6:16/ローマ11:17)

帰天後のイエスは彼らを聖霊を介して集める業を導き(使徒18:9-10)、第二世紀の半ばにはこの業を一旦終え、以後、聖霊の降下は見られなくなってキリストの不在が始まっている。(ヨハネ9:4)
しかし、終末の臨在が起こると、聖霊により活動する弟子らが居ることは明瞭に知らされており(マタイ10:18/ルカ21:12-15)、その時期には再びキリストの聖霊を介した監臨が予想されるが、それが『雲と共に来る』という不可視の『臨在』(パルーシア)と呼ばれるものであろう。(ヨハネ第一2:28)

この王国が設立され権力を得るのは、これらのアブラハムの子孫が地を去って天に揃った後のことであり、諸国の為政者らが敵対行動を起こしている状態で王権が神から渡される。(詩篇2:1-12/110:1-2)
したがって、終末に聖霊を注がれた弟子ら『聖なる者ら』が地上に居る限りは、王国の権威は実現してもその設立は無い。

王国の民となる『聖なる者』についてキリストが語ったところからすると、主に神から『与えられた者』(ヨハネ17:9-10)の数が、百匹の羊や、12ドラクマの例えなど、数が欠けることへの配慮や、『集める』という表現が多い事、またパウロがイスラエルの『数が満ちる』という表現などに(ローマ11:25)、一定数への言及が多いことからすると、天でキリストと共に王国を相続するアブラハムの子孫『神のイスラエル』の総数は、黙示録第七章に記される十四万四千人が実数である可能性が高い(黙示録7:4)。
但し、聖霊を注がれる者の総数はそれよりも相当程度多い(マタイ24:41-42/22:14/ルカ13:24)。


実効支配の開始

キリストは、帰天後には大祭司としての職分を得ているが、(ヘブライ4:14/8:4)終末には、戴冠して(ゼカリヤ6:9-15)王権を神から拝受し、地上の征服に乗り出すことになる。したがって、ヘブライ人書簡が述べたように『今もなお万物が彼に服従している事実を、わたしたちは見ていない。』という状態は現在も変わっていない。(ヘブライ2:8)
この王権による支配の未成就は、ローマ覇権下での諸王の皇帝からの王権受諾と、その後の現地での実効支配を実力により有効にする有様に前表されていたと云える。タラントやミナの例えも、当時の王権受諾の慣例に沿っている。(ルカ19:27/黙示19:15/マタイ25:15-)

同様に、神の王国の王らも神から権威を授かった後に、『敵のただ中から従え』抵抗勢力をねじ伏せる必要があり(詩篇110:2)、既存の諸国家を打ち砕いて終わらせる『聖なる者たちが受ける』王国である。(詩篇2:7-9/ダニエル2:44・7:18)。
これは『葡萄搾り場を踏む』ことに例えられ、そこから流れ出るものは諸国民の膨大量の血潮とされる。(ヨエル3:13/黙示14:19)『血は魂』であれば(申命12:23)、この象徴的「神の流血」からの復活はないことになる。

終末の諸国家は、キリストの臨在が『雲と共に』なされるために見えず、その実在性を信じずに聖霊で語るアブラハムの子孫『聖なる者ら』の発言に対して反対し(詩篇2:10/イザヤ52:15)、まず『聖なる者ら』を攻撃し(黙示11:7)、次いでその支持者ら(マタイ25:40)に攻撃を仕掛けようとするところで(ゼカリヤ2:5)、その軍勢は『ハルマゲドン』と呼ばれる象徴的場所に集められるが、王権を帯びたキリストとその聖なる者らとの会戦となる。(黙示16:16/ヨエル3:12)
この戦いは、神と諸国の論争であり(エレミヤ25:31)、また虐げる者(ヨエル3:9)を滅ぼし、弱き人々を救う(イザヤ52:10)神の裁き(イザヤ66:24)である。

キリストに従属する王らも、地上を征服する戦いにおいてキリストに従う。(ミカ4:13/ゼカリヤ14:5/黙示19:14) それは彼らを殉教へと追いやったこの世への『復讐』の戦いでもある(ミカ5:15/黙示6:10)。
『刺し通した者』が人の子の『雲に乗って来るのを見る』のは、血の復讐者であるキリストの象徴的姿であるが、実際に目に見えるものではなく、起こる事象を通してキリストの臨在を認識することになる。(ゼカリヤ12:10/マタイ26:64/ヨハネ19:37/黙示1:7)。

この戦いで、諸国の軍は完膚なきまでに敗退し(ゼカリヤ14:12-13)、無数の屍は鳥獣の食するところとなる。(黙示6:8/19:17)旧世界は秩序を失い(ルカ21:25-26)短期間に崩壊に向かうが(ダニエル12:7)、聖なる者らの聖霊の発言に信仰を働かせた人々(ヨハネ17:20)は守られ(イザヤ26:20/ゼパニヤ2:3/マタイ10:42)、神の名にかけて救いを得ることになる。(使徒2:21/ヨエル3:12-16)


王国の効用と価値

この千年続く王国が終って後に、キリストはその権威を神に帰し、その時にはあらゆる権力を終わらせている。(コリント第一15:24-28)
千年の後に、諸世紀の人々の復活が起こり(ルカ11:31)、その人々は『罪』のない状態で生かされる(ローマ6:7)が、王国の成し遂げた栄光ある世界を目撃してさえ(イザヤ20:10)、同時期に拘禁を解かれる悪魔の誘惑もあって、反抗の道に入る者らも少なくはない(黙示20:8)。しかし、神自らこれらを悪魔諸共に裁き(黙示20:11-15)、『罪を犯す魂は死ぬ』(エゼキエル18:4)、こうして、あらゆる創造物に創造者の意図が行き渡るところとなり(ゼカリヤ9:9-10/ミカ5:2-4)、キリストはその働きを全うする。(黙示21:4)

この王国に価値を見出すことをキリストは「隠された宝物」や「値高い真珠」(マタイ13:44-45)の譬えによって促している。また、「山上の垂訓」では、『王国と神の義とをつねに第一に求めよ』とも命じ(マタイ6:33)、主の祈りでは王国の到来の願いを重要なものとさせている(マタイ6:10)。

当時のイスラエル民族がアブラハムの血統にあったとはいえ、その王国にそのまま入ることはなく(マタイ3:9)、『新しい契約』に入り、なお不断の努力を傾注する必要があった(ルカ13:24)。


教理の沿革

『神の王国』が実際の支配権を有する国家となる認識については、ユダヤ教のメシア運動にも見られたが、初期キリスト教においても変わらなかった。小アジア出身で使徒ヨハネの伝統を伝えるエイレナイオスは、第二世紀にこの見解を保持していたことが知られる。

しかし、第四世紀に入ると、ローマ帝国の国教化が進むに従い、この王国の支配は象徴のものとされ、アウグスティヌスの著作に至ってまったく曖昧なものとされた。このラテン教父はエイレナイオスの抄本を作らせる際に手心を加えさえしているが、この不正は16世紀に発覚するところとなっている。

また、エイレナイオスの理解によれば、千年期はふたつの復活を隔てるものである(A.HⅤ:31)。即ち、死せる『聖なる者ら』の千年期前に於ける復活と、一般の死者がよみがえる千年期後の復活がある(A.HⅤ:35:2)。

キリストが宣教に於いて主題としたのがこの『王国』であり、様々な譬えは、多角的にこの主題を説明したものである。本来アブラハムの子孫としてこれを相続するはずであったイスラエルの民にその知識が授けられたが、王国に関する更に進んだ理解は使徒をはじめとする初期キリスト教徒に委ねられた。

しかし、キリスト教界は、後にこれを異教由来の安楽な「天国」に置き換え、権力交代を成し遂げる『神の王国』への信仰を失い、キリスト教そのものも通俗化また凡庸化してしまった。これはキリスト教がローマ帝国の国教化に際して世俗の権力と結びついたところに端を発している。(ヤコブ4:1-4)




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律法契約と新しい契約 -綱領-

2016.05.12 (Thu)
ふたつの契約



聖書中には神と人の間に結ばれた幾つかの契約が記されている。
その中でも重要さにおいても、影響の大きさからしても際立っているのが「律法契約」と「新しい契約」である。
この双方は「アブラハムへの約束」を成し遂げ、その『裔』を登場させる働きを負っている。


契約の目的
この二つの契約は共に同じ目的を有していた。それは『選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民』を生み出す事にあった。これはアブラハムへの約束に基き、エデンで語られた『女の裔』の具体化を意味しており、真の意味でのアブラハムの後裔である象徴のサラの子(ペテロ第一3:6)嫡流の民「イスラエル」を創出させる目的を有している。(イザヤ43:15・21)

律法契約について神はモーセを介してイスラエル民族に次のように述べている。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

また、使徒ペテロは非イスラエル人を含むキリスト教徒に宛てて次のように書いている。
『あなたがたは、以前は神の民でなかったが、いまは神の民であり』『あなたがたは、選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民である。それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さった方のみわざを、あなたがたが語り伝えるためである』(ペテロ第一2:9-10)


ふたつの契約の関係
このように同一の目的を持ちながら、二つの契約を要した理由について使徒パウロはエレミヤの預言を引用してこう述べる。

『神は彼らを責めて言われた、「は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約[ברית חדשה]を結ぶ日が来る。
それは、わたしが彼らの先祖たちの手をとって、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようなものではない。彼らがわたしの契約に留まらないので、わたしも彼らを顧みなかったからであると、が言われる。

わたしが、それらの日の後、イスラエルの家と立てようとする契約はこれである、とが言われる。即ち、わたしの律法を彼らの思いの中に入れ、彼らの心に書きつける。こうして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう。』(ヘブライ8:8-10/エレミヤ31:31-33)

モーセを仲介者として、神がイスラエル民族と結んだ「律法契約」は、イスラエルの不履行のために廃棄された。しかし、それでは律法契約の目的は果たされず、神のアブラハムへの約束、即ち、『あなたの裔によって地上のすべての家族は自らを祝福する』という『世の光』となる真の『イスラエル』は現れないことになる。(創世記22:18)

しかし、エレミヤが預言していた『新しい契約』は、メシア=キリストを仲介とし、ナザレのイエスにメシア信仰を見い出した血統上のイスラエル民族に対して、神はその契約を締結するに至る。この契約の発効が知らされたのは、キリストの死の後の五旬節の日であった。

しかし、メシア信仰に至ったイスラエル人は少数であったため、神は、諸国民でメシア信仰を表わす者らをもこの契約に含めることになったが、マタイ福音書の中で、不信仰のゆえに血統のイスラエルの優越性が脅かされることを、イエスは『多くの人が東から西からきて、天の王国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』と警告していた。また、パウロは異邦人のイスラエルへの参加を『接木』として例えたが(ローマ11:17-)、そうしてイスラエル人と諸国民とから成る混成の民『神のイスラエル』が新たな契約の民として現れることになった。(ガラテア6:16)

この『新しい契約』によって初めて『選ばれた種族、王なる祭司、聖なる国民、神の所有に帰する民』が生み出され始め、その人々には聖霊の油注ぎと、その証しとしての聖霊の賜物とが与えられた。即ち、この契約によって、神のアブラハムへの約束が果たされ始めることになった。

しかし、律法そのものは、アブラハムの裔を警護しメシアまでの期間にわたりイスラエル民族にその登場に備えさせ、予備的な知識をもたらした。更には、律法はメシアによって成就され、メシアが誰であるかの指標としての役割を果たしている。
そのため、律法は『負う事のできない頸木』であり、『律法による義』はメシア以外に到達されることはなく、メシアの死によって『木』に掛けられ、『霊』による崇拝に置き換えられるに至った。

そのため、律法契約は『業』を、新しい契約は『信仰』を契約参与者に求めるものとなった。


新しい契約の優越
また、パウロは『もし、あの最初の契約が欠けたところのないものであったなら、第二の契約の余地はなかった。』とも述べている。(ヘブライ8:7)

律法契約の祭祀制度は、動物の犠牲を以って贖罪の儀式を行っていたが、パウロは『羊や山羊の血は罪を取り去ることはない』とし『キリストは一度限り捧げられた』としている。(ヘブライ10章)
律法の祭祀は、『来るべきものの影であり』動物の犠牲は象徴であり、その実体はキリストの犠牲を表していた。(ヘブライ10:1)
ゆえに、『前の掟が弱くかつ無益であったために無効になると共に、他方では、さらにすぐれた望みが現れてきて、わたしたちを神に近づかせる』とも述べている。(ヘブライ7:18-19)

では、なぜ「律法契約」は締結されたのかについてパウロはこう記す。
『律法は、約束を与えられたあの裔が来るときまで、違犯を明らかにするために付け加えられたもので、天使らを通して、仲介者を経て制定されたものである。』(ガラテア3:19)
即ち、律法契約下のイスラエル民族を用いて、人間には『罪』があり、自らの行いによっては清く成り得ないことが明らかにされたことを指している。(コリント第二3:7-11)

したがって、律法とは守るよう努められるべきものではあったにせよ、元々イスラエル人によって守り切ることが目的とされるものではなかったのであり、その要求の高さを味わい知ることの方に意義があったと云える。
同時に、律法契約は唯一人メシアの完全な義を生み出したということはできる。(ヘブライ2:10)
律法の示す基準が、一度キリストによって成就されて後には、律法に対してその条項の遵守に邁進するべき理由はもはや無い。人間はすべて『罪』が宿ることも明かされたからである。

したがって、律法がもたらしたのはメシアの義であり、その義が分配され始めるために『新しい契約』が意味を持っている。
ダニエル書は、メシアを『契約を固く保つ』者と呼び、マラキ書は『契約の使者』と呼ぶ、これらはモーセを仲介とする律法契約を意味していない。ネイヴィームは、エレミヤからはじめてマラキに至るまで、イスラエルの律法契約への不順守と別の契約への移行を指し示している。その礎は早くも申命記のモーセの予告に暗示されていた。(申命記18:18)

この過程をパウロはこう要約する。
『律法は、信仰によって義とされるために、わたしたちをキリストに導く養育係となったのである。
しかし、いったん信仰が現れた以上、わたしたちは、もはや養育係の下にはいない。』(ガラテア3:24-25)

そのため、『人の義とされるのは律法の行いによるのではなく、ただキリスト・イエスを信じる信仰による』とも記している。(ガラテア2:16)
この「キリスト信仰」が「律法の業」に優越することが、神の一続きの教えを形作っているので、神崇拝が律法祭祀に後戻りすることはあり得ず、キリスト以後の地上に神殿を再建立すべき理由はもはやない。(コリント第二3:6/ヨハネ4:21-24/ダニエル9:27)


もたらされた義
『新しい契約』は、それに入った人々に神の前の『義』をもたらしたので、彼らは『キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はない』とされる。(ローマ8:1/コロサイ1:22)

そのために彼らは『聖なる者』と呼ばれるが、使徒ペテロは彼らに向かって『イエス・キリストに従い、また、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、霊の清めに預かっている人たちへ』と呼び掛けている。(ペテロ第一1:2)

即ち、キリストの犠牲の適用を最初に受けたので、彼らは『初穂』とも呼ばれる。それは彼らが人類全体に対し、一足先に『神の子』の立場を得たことによる。(ローマ8:14/ヤコブ1:18)


履行の必要
『新しい契約』は彼らを神の前に『罪』無しとさせるが(ローマ8:33)、それは仮のものであり、彼らには『義』が信用貸しされた。その『義』は彼らが生涯にわたり忠節であり、キリストの定めを守ることが求められている。(コリント第二5:10)

そのためにキリストは直弟子らに『狭い門と通って入るように努めよ』と訓戒していたのであり、その理由は『入ろうとしながら、入れない者は多い』(ルカ13:24)、その『入る』目標は契約の先にある『神の王国』であった。(マタイ21:31)

『聖なる者ら』が『神の王国』に入るためには『新しい契約』を全うする必要があり(ヘブライ3:14)、その求められるところが新約聖書中に見られる戒めの数々であり、これらは『新しい契約』に入った『聖なる者』に要求されるべきものであって、一般信徒に求めるのは的外れであるばかりか有害ともなり兼ねない。(エフェソス4:1-3/コロサイ3:12/テサロニケ第一4:7-8)

『新しい契約』が終了するのは、契約を守り相応しく生涯を終えた『聖なる者ら』が天に集められ、『神の王国』に揃ったときになる。(黙示録7章)
その召集が完了するのは、終末に現れる『聖なる者ら』が試練を越えて忠節を示した後の不定の時となる。(テサロニケ第一4:16-17)

これについて、十二使徒はキリストと共に『聖なる者ら』の裁きに預かることになる。(ルカ22:30)





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罪と贖罪  -綱領-

2016.05.11 (Wed)


・罪

聖書中で問題にされる『罪』とは、個人の犯す個別の「罪」を指すのではなく、アダムの子孫として人類全体が負っている倫理上の欠陥を指す。
人は神をはじめとする他者との関係において問題を持っており、利己的に振る舞う傾向にそれが表れている。

人間社会はこの倫理において多くの問題を抱えており、人類が経験してきた苦難の大半はこの倫理上の欠陥に由来するものとなってきた。
今日の世相、また歴史を省みるなら、人間に倫理上の欠陥があることは明白であるが、人類はこの問題を自ら解決することができない。

この『罪』は、人類の始祖アダムが、結果的に神への忠節を保たず、妻を選び取る選択をしたことから始まったもので、強い誘惑が有ったとはいえ、監視なく自由な意志を表明できる状態で、創造神という自らの存在の由来者に忠節を示さず、第一させるべき他者に対して倫理にもとる行いにより、陥った倫理上の欠陥を意味する。

始祖のこの堕罪により、その子孫もあまねく倫理上の完全さから離れざるを得なかった。
聖書はこれを『ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められた』と記している。(ローマ5:18)

『罪』を負った個々の人は、神の創造物としては欠陥あるものとなり、永遠に存在することから遠ざけられるに至った。
アダムの子孫は、老化と寿命を負わされ、いずれは死を避けられない存在となった。
これを聖書は『ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』と記している。(ローマ5:12)

『罪』ある者が永続するなら、創造界には混乱、害悪、不公正、冷酷さなどの多くの不善がいつまでも避けられず、創造の意図は永遠に成し遂げられないことになる。そこで人の死は『罪』と共に存在するようにされた。『罪の酬いは死』である。(ローマ6:23)

この『罪の酬い』が与えられた結果、人は『死への奴隷状態』に置かれ、生涯にわたり死の恐れに拘禁されてきた。(ヘブライ2:15)


・贖罪

人は生きる限り、神の御前に『罪』を犯さずには済まない。
しかし『アダムの違反と同じような罪を犯さなかった者も、死の支配を免れなかった』ことはその子孫にとっては不可抗力であった。(ローマ5:14)
そこで、自らに宿る『罪』を望まず、神と他者との関係を正そうと真に『悔い改める』人について、神は倫理を回復する手段を設けた。これは『贖罪』(しょくざい)と呼ばれる。(ペテロ第二3:9)

しかし、アダムは子孫の全体を一度限り『罪』ある者としてしまったのであり、『贖罪』はアダムの子孫への当然の処置ではなく、神の憐れみによるものである。(ヤコブ2:13)

『贖罪』は『罪』をもたらしたアダムの行為を相殺する、完全で『罪』の無い自由意思の持ち主の人間による『義』の行為を必要とした。(ローマ5:18-19)
アダムの子孫は尽く『罪』を宿しているために、この役割を誰も果たすことができない。

そこで神は、『創造の初め』である『独り子』を地上に遣わすことを意図され、それはアブラハムと独り子イサクの関係性に前表されていた。(創世記22章)
こうして創造者と創造物の関係性が究極の仕方で試されることとなると同時に、アダムの子孫が陥った『罪』ある状態からの救いの道が拓かれることとなった。

神の御子が処女マリアから誕生したのは、アダム由来の『罪』の無い人を『贖罪』が必要としたためでもある。
新約聖書が御子を『最後のアダム』と呼ぶのは、イエスがアダムに対応する『人』であったことを表している。(コリント第一15:45)

神の御子の人間としての犠牲の死は、アダムの『魂』の代替とされるので、イエスはアダムに代り人類の父となる。
イザヤ書でメシア=キリストが『とこしえの父』と呼ばれるのはこのことを表している。(イザヤ9:6)

キリストの身体については、『最後のアダムは命を与える霊となった』とあるように、キリストは霊の存在へと復活したことを述べているので、キリストが肉なる人に戻ることはない。キリストの復活後の現れは霊者の化肉であったため、物質的な移動の制限を受けていない。(マタイ20:19)

霊の存在者に戻った御子は、不可視であり(テモテ第一6:16)、聖なる弟子らについては彼らが天界に召されて後、御子を再び見ることになる。(ヨハネ第一3:2)

神の前の『罪の赦し』に犠牲の死が必要であることは、旧約聖書中のモーセを介してイスラエルに与えられた律法に定められた動物の肉と血を捧げる祭儀を通して前表されていた。
また、出エジプトの前夜にイスラエルの各戸で捧げられた『過越し』の子羊(または子ヤギ)は、特にイスラエルの長子の命を贖ったが、その代価によってレヴィ族が神に買い取られ、聖なる祭祀に関わる部族として取分けられ、年に一度の『贖罪の日』に民の全体の贖罪の儀礼を執り行った。(民数記3:11-51)

しかし、新約聖書では『雄牛や山羊などの血は、罪を除き去ることができない』ことが明かされ、『ただ一度イエス・キリストの身体が捧げられた』ことを指摘している。(ヘブライ10章)
バプテストのヨハネがイエスを指して『世の罪を取り去る神の子羊』であることを証ししたのは、イスラエルばかりでなく、人類全体の『贖罪』の犠牲となることを述べていた。(ヨハネ1:29)

神への忠節を全うしたイエス・キリストの死は、この人類の『贖罪』を可能なものとしたので、神はこの手立てとなったキリスト・イエスを信仰の内に受け入れる者に、その『贖罪』を行い、『罪』を赦すことを意図された。(ヨハネ3:36)
また、出エジプトの子羊がイスラエルのレヴィ族を買い取って祭祀を司る職に就けられ、年毎に民全体の贖罪の儀式を行ったように、イエス・キリストの犠牲は『聖なる国民、祭司の王国』(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)象徴的『アブラハムの裔』(創世記18:18/ガラテア3:28-29)、真実の『イスラエル』(ローマ9:27)を最初に贖ったので、彼らは『被造物の初穂』とも呼ばれる(ヤコブ1:18)。

その贖いは『新しい契約』に基づく仮のものであった(ルカ13:24/コリント第二5:10)が、キリストに対する信仰によって、その一員に予め選ばれた者ら(テサロニケ第二2:13)には、奇跡の賜物をもたらす『聖霊』が与えられ(コリント第二5:5)、それが彼らの身分を証しするものとなった。(エフェソス1:13)

そのキリストの契約による祭司団は、終末のキリストの臨御のときに裁かれ復活、または召し挙げられ(テサロニケ第一4:16-17黙示11:12/マタイ24:40)、天への召集を受け(黙示7:1-8)、千年王国に於いて人類全体を贖罪し、『アブラハムの裔』としての務めを果たすことになる。(黙示20:6)

『彼を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じることをしないからである。』(ヨハネ3:18)とは、『贖罪』が誰に行われるかを示している。だが、これは現状でキリスト教徒であるか否かを問うものではなく、終末に世界の人々が等しく信仰を問われることになる。それは聖霊を介した終末の『世の裁き』となる。(エレミヤ25:31/ヨエル3:12/マタイ10:18/ヨハネ16:8)




















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