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キリスト教の「救い」とは

2016.04.21 (Thu)


様々な宗教と呼ばれるものがありますが、キリスト教の趣旨は何でしょうか?

◆教会の「救い」
教会の人々に尋ねると「信者の救い」があることについて話されるでしょう。

洗礼を受けて信徒になれば「救われる」とされています。
つまり、有意義な人生を過ごせる、または、神の裁きでは犯した様々な罪を赦され、死後には神の憤りや地獄から逃れ、天のキリストの許に召されて永遠に安らかに過ごすこと、などを聞くことになるでしょう。

また、信徒になるとキリスト自身が聖霊によってその人の中に住み、人生を導いてくれるとも言われるでしょう。
多くの場合、「救い」を得る条件が「人の罪を担って亡なり、復活した神であるキリストへの信仰」とされます。

「この世」に悪や苦しみがあっても、すべては神の摂理や意志によって動かされているので、人にはそれぞれ神の目的があり、苦しみを試練として乗り越え、キリストに従い人生を全うすることが崇拝であるともされるかも知れません。どんな職業に就き、誰を配偶者に迎えるか、人生の成功を導くのも神であるキリストの思し召しによるのであり、最後は天の「イエスさま」の許に召され永遠の至福に入ります。それが「信仰」の酬いです。
「イエスさま」という神の意志に従い、モーセの十戒などの道徳を守りつつ、神の摂理が働く「この世の中」に在って自分の人生を「イエスさま」と歩むことがキリスト教の目的であるとも説明されるでしょう。

このような信仰では、実はこの世を生きる信者が主人公であり、「イエスさま」も聖書もその生き方をサポートするものです。
人間の務めは「その生活によって神への賛美を捧げる」ことになるとも教えられるでしょう。
また、その「キリスト教的」な人の生き方でこの世も改善される余地があると感じられるかも知れません。

他方で、キリスト教を信じない人々はこうした恩寵には入らず、死後は地獄に行くと教えられもします。
日本の「クリスチャン」は人口の1%ほどと言われますので、教会の教えによると他のほとんどの人が「救い」に無縁となっているのですが、これでは間口の広い神道や仏教と比較しても、対照的に著しく「狭き門」であり、なるほど日本の「クリスチャン」という、十字架を下げた人々の気位も高いはずでしょう。


◆原始キリスト教の救い
教会の救いが主に「信徒個人」に益をもたらすのに対して、原始キリスト教では「地獄」ではなく「この世」という避けられない環境からの人類全体の救いが説かれます。

まず一言でいえば、「この世」とは、神からかけ離れた無法な世界であり、そこに自然の法則はあっても神の意志も摂理も働いているわけではありません。人は皆に『罪』があり、どうしても自分や他者の悪から逃れられません。
そこで、人が逃れられない「この世」という罪悪と苦しみと虚しさ満ちる場所から人類全体を創造された本来の姿に助け出す事が神の意図する「救い」であって、それこそが人に関するキリスト教の目的であり、今その人がキリスト教徒であるかどうかはあまり関係がありません。

ですから原始キリスト教の目的は、個人的な利益をもたらす信仰ではなく、世界の救いであるところが一般的キリスト教と大きく異なっています。キリストの犠牲によって人類に蔓延した悪への傾向である『罪』が相殺され、人間は神との関係を回復し創造された当初の輝かしい栄光と永生を得る機会が開かれます。つまり「エデン」の状態を回復し、死んだ者も復活によってその機会を得るのであって、死後に霊魂となって天国にゆくのではなく、死は存在しなくなることであり、まったく無意識です。

「この世」が人に苛酷である原因は、「この世」が創造者である神の意図からすっかり離れてしまっているからです。
しかも「この世」の悪の大半を作っているのは他ならぬ人間自身であり、人類には道徳的欠陥が宿ってしまっているので、世ではどうしても争いが絶えません。その中では困窮する人々の方が圧倒的に多いのです。神はこうした人々を顧み、その祈りを聞かれますが、富んだ者や成功者への配慮は必要がありません。(ルカ1:50-53)

原始キリスト教での主人公は神であり、人間はこの世からの救われる側であって、各個人が救いに値するかどうかは、終末というこの世が裁かれる時に至るまで確定しません。「この世」という諸悪の真相が露わにされてもなお、利己心満ちる「この世」を愛して救いを拒む人々も少なくはないからです。(ヨハネ第一2:15)


神は創造者であられ、存在させた人々の一人一人が創造本来の『罪』のない幸福な姿を取り戻すことを意図され、『この世』をいつか終わらせ、『罪』を浄める『神の王国』をキリストの下に建てられます。この『神の王国』をイエス・キリストは宣教の最大の主題とされていたのです。これが苦しみの絶えないこの世を根本から変えることのできる神の手立てなのであり、死後の至福を説く「天国」などではありません。

人々は「神がいるなら、どうしてこの世にはこれほどの悪や苦があるのか」と問いますが、むしろ「この世」の方が神の意志に反して勝手に動いているのです。
聖書はその原因が人間自身にあることを指摘してこう述べます。

『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができず、争ったり、戦ったりするのです。
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが(正しく)願わないからです。
願ってはいても得られないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブの手紙4:1-3)


この人間の倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼びます。それは具体的な悪行の一つ一つを言うのではなく、誰にも宿る悪の傾向を指します。その傾向は、人間自身で解決することができません。『罪』は遺伝して誰もが持って生まれてくるからです。

聖書はこの『罪』の由来を、最初に人アダムが自由な意志の下に神を退けた結果であることを告げます。
それが禁断の木の実を食べたという良く知られた罪を指します。それは単に間違った食事をしたということではありません。創造の神を認めずに、倫理の基礎が壊されてしまったので、人はどんな関係でも不道徳性が付いて回ります。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』と聖書は述べます。(ローマ5:12)

そこで神は、アダムの子孫である人類からこの『罪』を取り除き、創造された『罪』のなかった状態に戻すことを望まれ、苦難の「世」を終わらせ、人類全体を救い出すことを意図されます。
そのために神から遣わされたのがイエスというキリストです。「キリスト」とは「任命された者」を意味し『神と人との仲介者』の役割を果たします。(ローマ5:18)

このキリストを通して人間は『罪』から浄められ、互いの間に平和を得るだけでなく、神と和解することにより健康で老化することのない生命に入ることになります。それが創造された本来の人間の姿です。ですが、単にそれらの益を人々に得させるのが神の目的ではありません。

人間から『罪』を去らせ、神と深い絆で結ばれた『神の子』とすること、つまり神から離れてしまった人類をキリストを仲介者として神の輝かしい創造物として復帰させ、そうして創造の業を完了することこそが神の意志であり、キリスト教の最終的な目的となっています。これは、どんな人間にも実現できることではありません。(ヨハネ1:12)

ですから、原始キリスト教の目的は「この世」を改善することに本来はありません。
人を愛しても「この世」を善くしてゆくことを目指してはいないのです。
むしろ、苛酷な「この世」から人類を救い出すところに神とキリストの御意志があることを知らせます。

また、信者の個人的な利益のための宗教でもありません。
その人種や国籍はもちろん、個人の犯した悪行も社会的立場も、現在どんな思想や宗教をもっているかにも関わり無く、世界のすべての人々に「救い」が開かれるときが来ることも聖書は知らせます。(マタイ25:31-)
その救いをもたらすのがキリストが王となる『神の王国』であり、それは実際に地上を支配するもので、「信者の心の中にある」ものではありません。やはりそれは、人が死後にゆく至福の「天国」ではないのです。(ダニエル2:44)

神は終末に『神の王国』を世界に知らせますが、その知らせは諸国の政治家らとの論争を引き起こし、世論を沸騰させるほどの注目を得ることになることを聖書は知らせています。人類は『神の王国』の到来を巡って対立を始めます。すべての人が「この世」から離れたいと思うわけではないからです。(マタイ10:16-18)
終末に『神の王国』を伝えるのは「聖なる人々」であり、彼らには神からの格別な言葉が聖霊を通して授けられますが、それは誰も反駁することができないほどのものとなるとキリストは予告されました。(ルカ21:12-15)

キリストの伝道には、人類全体を救うことになる「聖なる人々」を『神の王国』へと集め出す目的がありました。(マタイ23:37)
つまり、ただ信者を集めていたのではなく、キリストと共に世界を救う『神の王国』つまり『神のイスラエル』に含まれるべき人々を集めていたのです。(テサロニケ第二2:1)

ですから、原始キリスト教徒の集まりは「教会」とは呼ばれず「エクレシア」と呼ばれていました。その意味は「召し出された人々」です。この「聖なる人々」が天に集められてキリストと共になり『神の王国』が出来上がりますが、それは「終末」という将来の時期に完成されます。これが極楽のような「天国」と誤解されてきましたが、『神の王国』とはキリスト教の他に例を見ない独創的なものです。

この世の終末が到来するとキリストは再び「聖なる人々」を地の四方から集め、この世に対して介入されます。(ゼカリヤ14:5)
その後『神の王国』が知らされ、それを信仰の内に受け入れる世界の人々が救われることになります。

これらの観点が、第二世紀までの原始キリスト教のはっきりとした特徴であったのです。
しかし、キリスト教がローマの国教とされると、『神の王国』はローマ帝国の存在によって無視され始めて今日に及んでいます。
そうして、キリストは王とはされず、信者個人の益に仕える僕とされていったのです。ですから『神の国はあなたがたの只中にある』とパリサイ人らの間にメシアが来ていることに注意を向けさせたイエスの言葉を、「神の国はあなたがたの心の中にある」と言われたように勘違いするのも、最初から『神の王国』がどんなものかの理解が曖昧だからです。

しかし、聖書に描かれるキリストは、世界を統べ治める大王であられ、その支配の目的は空しい世からの人類の救いであるのです。
キリストの「救い」とは、神の創造の業の完成であり、人類は創られた通りの栄光ある姿に戻され、老化せずに生き続けることになります。ですから、人をその死後に天に召すのが神の目的ではありません。神は人を地上に創造したのです。
この救いに求められるのはご利益信仰ではなく、創造神と和解し『神の子』としての絆を回復することにあります。(ヨハネ1:12)

こうして原始キリスト教と教会のキリスト教とを比較してみると、根本的な違いが見えます。
つまり、個人に益をもたらす信仰か、人類全体を救う信仰かという違いで、その信仰する動機も180度異なることになります。
キリスト教はイエス・キリストの自己犠牲の精神に倣うものであって、自分に益があれば良いというものでは決してありません。利己心は「この世」の原動力であり、利他心は神からの愛です。

もし、これをお読みのあなたが、個人的な利益をもたらすキリスト教をお望みなら、一般の教会がふさわしいことになるでしょう。
そうでなければ、この先をお読みになる価値があるかも知れません。

まさしく、何かの宗教を信じるということは、その人の道義的な選択と言えましょう。



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天使・悪魔・悪霊  -綱領-

2016.04.12 (Tue)
・天使

物質の創造物に先駆けて創られた霊による創造物らで、億の単位での存在が示唆されている。(ダニエル7:10)
個別の意識を持ち『神の子ら』とも呼ばれ、人間よりは幾分高等な存在とされている。
セラフィムやケルヴィムなどの異なりがあることが聖書を通し知らされている。
個別の名を持つ者としては、天使長ミカエル(ダニエル10:12/黙示12:7)と神に近侍するガブリエル(ダニエル8:16/ルカ1:19)の名が聖書にある。
ラファエルやウリエルは外典によるもので聖典には無い。天使が自らを名乗ることは例外的であり、人間に関わるその行動は抑制的であり、常に遣わされた任務に従属しており、地上で独自の意図から行動をとる姿は描かれていない。
神、またキリストに仕え『使い』として専ら聖書中に登場している。
ときには人に現れ、助けを与え、また神の宣告や意志などを知らせ、拘束を解いたり、導くなどの働きが聖書中に見られる。
啓示を与える際には、人を失神させるほどに著しい畏怖を与えることがある。

聖書中に於ける天使らの人間への関わりは抑制的であり、神の使いとしての職務以外の独自で私的な行動を行うさまは観られない。
そのことからすれば、人間各人に対してコンパニオンのように常に寄り添う天使像を描くことは難しい。外典や疑典に非常に多くの天使が登場しているのは、人間の保護願望によるものと思われ、ユダヤの伝承では、人にはそれぞれの保護天使がいるとされていた(使徒12:15)。この概念は現代でもスピリチャルの方面で流行を見ているが、聖典聖書から導くことはできない。

聖書に用いられていたヘブライ語やアラム語[מלאך](マルアは)、またギリシア語[ άγγελος](アンゲロス)では単に「使い」また「伝令」の意味で呼ばれており、記述によっては、それが天使を指すのか人を指すのかの解釈が分かれるところがある。


・悪魔

天使の中のケルヴィムのひとりであったが、自由な意思から神との愛の絆を捨て、神に勝って自らを高めることを選んだために創造界の調和を最初に破った。(エゼキエル28:12-19)
以後は、神に逆らう道を歩むようになったので反抗者を意味する『サタン』(シャイターン)とヘブライ語で呼ばれる。(ヨブ1:6)
神と被造者の間を中傷して、その絆を壊そうとするために中傷者という意味の『悪魔』(ディアボロス)とも呼ばれる。
ラテン語に由来する「ルシファー」(ルキフェル)は「明けの明星」を意味したが、これを初期教父がやがて輝きを喪失した者の象徴として悪魔に当てはめたことによる。

この者の自由な意思から始まった反抗は、不可逆的選択であり、悔い改める余地がない。
神以外のあらゆる被造者と神との間を中傷し、誘惑するので神の『独り子』さえも度々に試している。(マタイ4:10)
その中傷する性質は、あらゆる被造者を試すだけでなく、却って誰が忠節な愛を持つ者かを明らかにすることになる。

エデンの園でエヴァを誘惑した『蛇』が悪魔であったことは黙示録12章9節で明かされている。
そうして、最初の人間であったアダムを、妻のエヴァを通して誘惑し、神から引き離すことに成功したため、今日までこの世は神から離れ、神の意図に沿わない社会となっており、倫理上の欠陥と創造者への無頓着が蔓延している。(ルカ4:5-6/ヨハネ第一2:15-17)

また、この世が利己的で、分裂的である特徴は、悪魔が七つの頭を持つ龍として黙示録に描かれるところに象徴されている。(黙示12:2)
悪魔は神から離れたこの世を領分としてはいても、あらゆることを逐一動かすわけではない。(伝道9:11)しかし、聖書記述からすれば、その欲望に沿って人々に度々影響を及ぼすことが考えられる。(コリント第二2:11)

悪魔に影響された人々の中には、キリストの当時のユダヤの宗教家たちが含まれる。
彼らは、キリスト・イエスに抗い、ローマの権力に渡して処刑させたが、イエスは彼らの父が『悪魔』であると断じている。(ヨハネ8:44/創世記3:15)
しかし、神への忠節を尽くしたキリストの死は、すべての被造者が神に属すべきことを証したので、悪魔とそれに従う者らは存在する根拠を失ってしまった。(ヘブライ2:14)

キリストが霊に復活して以来、悪魔とそれに従う者らは処刑を待つような状態に入っている。(ペテロ第一3:19-20)
終末に入ると悪魔は悪霊らと共に天界を追われ(ルカ10:18/黙示12:9)、地に在ってキリストの『聖なる者ら』を攻撃し、キリストを殺めさせたように『聖なる者ら』をも亡き者とするが、その行為を通してキリストの任命された追随者である『聖なる者ら』は却って浄められ、天のキリストと共になることを許してしまう。(ダニエル11:35/黙示3:5/13:7)

やがて悪魔は、キリストに反抗するこの世の勢力を結集し(黙示16:14-/エレミヤ25:30-/エゼキエル38:14-/ゼカリヤ14:2)て、終末に設立される『神の王国』に対抗させようとするが、『王の王』となったキリスト(黙示19:16)と『聖なる者ら』(黙示17:14)にハルマゲドンで完膚なきまでに打ち破られ(黙示19:11-/エレミヤ25:33/エゼキエル38:18-/ゼカリヤ14:13)、悪魔は千年間の拘禁に入ることになる。(黙示20:7-)

千年の後に解放されるとき、復活される一般の無数の死者らをも誘惑し(黙示20:7-)、神の最終的な裁きの選別を助ける結果となる。(黙示20:11-)
その後に、悪魔は滅ぼされ、その追随者共々に永久に存在することがなくなる。その無存在性と永遠の断罪が、黙示録の『火の湖』に象徴されている。(黙示20:10)

神の象りであるものが持つ自由意思はこうして担保され、すべての被造者が自発的な絆である『忠節な愛』(詩篇63:3/ヨハネ第一3:14)で、神また他者と結ばれる創造界(コロサイ1:20)がこうして実現することになる。悪魔とその追随者らが過ぎ去ることにより、神の創造の意図は全うされる。(エフェソス1:10/コリント第一15:24-28)



・悪霊

天使として創造されたが、後に堕落して『自分の領域を守らないで』(ユダ6)、地上の人間社会に化肉して関わりを持った堕天使らを表す。
堕落した動機は、人間の女性と関係を持つためであった。
彼らはノアの大洪水以前の世界を闊歩し、その子らは『ネフィリム』と呼ばれる巨人となった。(創世記6章)

大洪水を境に、彼らは人間界に出入りすることを禁じられ拘束されている。
『(神は)その在るべき処を見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められた』という聖書の言葉が、この事情を言い表している。(ユダ6)

キリストが忠節な死を遂げた後に、『獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えた』のは、彼らの裁きが確定したことが宣告されるためであったと思われる。(ペテロ第一3:19)

それでも、悪霊は依然として人間界に曖昧な仕方で様々な異象を起こしては影響を及ぼしており、特に『決して死ぬことはない』と悪魔がエヴァに語った偽りを主張するために、人間の死後を演出することにおいて、その霊力を用いることに依然携わっている。(創世記3:4)

旧約聖書の律法中で、『口寄せ、霊媒、死者に伺いを立てる者などがいてはならない』との戒めがあるのは、この霊の勢力と神が敵対関係にあることを示している。(申命記18:11)

忠実でなくなったサウル王に影響を及ぼした『神からの悪い霊』は(サムエル第一16:14)、この悪霊である可能性が高い。

キリストとなるイエスの誕生後に、その許を訪れた東方の占星術の博士らは、ギリシア語で「マゴイ」と呼ばれており、メディア民族の中の祭司の種族であることが知られており、結果としてイエス訪問の前にヘロデ大王にメシア殺害を煽る結果となっている。(マタイ2:1-12)
このマゴイ族は、かつてもう一人のメシア、ペルシアのキュロス大王の誕生直後をも、当時のメディア王アステュアゲスを煽って殺害させようとし、失敗している様も伝えられている。(キュロスの教育)

イエスと遭遇したゲラサ地区で、墓地に住み、日夜叫んで、その身に切り傷をつけ、非常な力で拘束の枷を引きちぎってしまう男には、多くの悪霊が住んでいたが、キリストによって数千頭の豚の中に移動させられている。(ルカ8:30)

パウロは諸国民が行うそれぞれの神への崇拝について、『彼らの捧げるものは、神にではなくて悪霊に捧げられている』と書いている。(コリント第一10:20)

終末に於いては、脱落聖徒らに奇跡を行わせる力を与え(マタイ7:22-23)、特に『不法の人』と呼ばれる者に多くのしるしを行わせる(テサロニケ第二2:9)勢力として悪霊は活躍の場を得るが、臨在するキリストの顕現により『不法の人』は無に帰せしめられる。(テサロニケ第二2:8)

その終末の悪霊の導きにより、『この世』は『ハルマゲドン』と呼ばれる戦場に諸勢力を集め、神と人との戦いを慫慂することになる。(黙示16:13-16)








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