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神・子・聖霊  -綱領-

2016.03.03 (Thu)

・神

キリスト教の神とは、万物を創造された全能者で在られ、人をも創られエデン(愉しみ)の園に置かれた方です。
聖書はこの方が崇められるべき理由をこう告げています。
『われらの主なる神よ、あなたこそが栄光と誉れと力とを受けるに相応しい方で在られます。あなたは万物を造られ、御旨によって万物は存在し、また創られたからです』(黙示録4:11)

神は人間を自らの『象り』として創られたので、人は創造の神を認識出来、また神から独立した自由な意思を持ちます。
自らの主権を創造界に行き渡らせ支配することが神の意志ではなく、神の『象り』を持つ者のすべてが、忠節な愛の絆で結ばれることを神は望まれたので、エデンの園の中央に植えられた二本の木は、人の自由な意思を保つ目的を有していました。
しかし、最初の人間は結果として神の意図とは逆を選択し、自由意思を持ちつつも神の創造の意図から離れて倫理上に欠陥を負い、神の創造物としての栄光を失いました。

後にこの神は、シュメール時代の人物であったアブラハムと契約を結ばれました。その契約は『地の諸々の国民はあなたの子孫によって祝福を得る』という目的にあって人類祝福の器としてアブラハムの子孫を用い、人類に神の創造物としての栄光を回復させる意図を表されました。(創世記22:22)

この方は、アブラハムの子孫であるイスラエル民族をエジプトの奴隷状態から預言者モーセを用いて救い出し、彼らに律法を与えて契約を結んだ神でもあります。

この神はモーセにご自分の聖なる名を示され、以後イスラエル民族はその聖なる御名を掲げて来ました。
しかし、イスラエルがメシアを退けた後、ローマ帝国によってエルサレムは破壊され、律法契約による崇拝が終わり、やがて神の聖なる御名の発音も失われるに至りました。

したがって、今日までその御名が何と読まれるのかを知る人は絶えて居ません。しかし、その間に、遣わしたキリスト・イエスの名は世界で最も知られた名になりました。
神の名は、子音四つのヘブライ文字[הוהי]だけが聖書写本上に残されています。その英字表記は一般的に"YHWH"とされます。
やがて、この世が終末を迎えるときには、聖霊を受ける聖なる者らを通して、再び神の御名が知らされ、この世が裁かれるときに御名は至高の座に就くこと、また、その名が人々を救うことになること、これらが聖書全体の予告するところとなっています。

すべての創造界において神が神とされ高められること。これが聖書に書かれた神の悠久の時に亘る御旨であり、それによって創造の業が完成され、創造神の意志が創造界に行き渡ることになります。



・子

キリストとは、エデンの園以来予告されてきたサタンを滅ぼす役割に就く神の御子の称号であり、古来ユダヤ教では、任命を受け「油注ぎを受けた者」を意味する「マーシアッハ」また「メシア」と呼ばれてきましたが、ギリシア語では「クリストス」と訳され、それが転じて日本語ではキリストと呼ばれています。

旧約聖書でソロモンが、また新約聖書でパウロとヨハネが述べるように、この御子は神の創造の初めであり、神自らが創ったことにおいて唯一の存在であるので『神の独り子』とも呼ばれています。
創造物の第一の存在である御子の忠節な愛を以って、神は至高の座に就くことになります。(ヨハネ13:31)
また、神は『天にあるものと地にあるものを尽く御子を通してひとつにする』ことを意図されていることをパウロは明かしています。(フィリピ2:8-11/エフェソス1:10)

御子は自ら天に帰ることを述べています。(ヨハネ6:62) また、自らが天からのものであることも明らかにしました。(ヨハネ3:13)
したがって、地上に誕生する前の存在があったことは明らかで、父である神の御そばで栄光にあふれて存在していたことも自ら語っています。(ヨハネ17:5)
ですから、それを聞くユダヤ人らの反感を大いに買ってまで『アブラハムの生れる前からわたしはいる』と言われたのはこのためであり、単なるひとりの人間を超えた方であったと言うべき理由があります。(ヨハネ8:58)

キリストは犠牲となることを通して人々の『罪』の酬いを身代わりに受け、また人としての死を遂げることを通して、アダムの子孫である人類を『罪』から買い取りました。(ローマ5:18)
メシア=キリストが『とこしえの父』と呼ばれるのは、アダムの命に在って生きている人類も、やがてすべてがキリストの差し出した命に在って生きるようになることを意味しています。(イザヤ9:6)

この御子は、アブラハムの子孫イスラエル民族から現れること、また、モーセのように偉大な預言者となることが預言されていました。またダヴィデの血統にあって、その王権を継承する家系から誕生することも知らされていました。
創造の初子である御子は天界から処女マリアの胎内に移り、誕生の予告に従い、ダヴィデの家系に属する大工であったヨセフの息子としてベツレヘム・エフラタで生まれました。

その後、30歳になるとヨハネから水のバプテスマを受けたときに聖霊を注がれ、キリストとして任命され、その業を始められました。こうして「公生涯」と呼ばれるキリストとして過ごされた時期が始まります。
その主要な業は、人類の祝福となる特別な民「アブラハムの子孫」を集め出すことにあり、そのために聖霊による奇跡をイスラエルの民に示してご自分がメシアであることを証し、ご自分を中心として終末に設立される『神の王国』に関して多くのことを教えました。

バプテスマを受けた後の三年半の間、パレスチナの中で主にイスラエル人に対して業を行われましたが、ユダヤの体制派を中心にほとんどの人々はイエスをメシアとして受け入れず、ローマ帝国の権力に渡して処刑させてしまいました。
しかし、その死によってアダムの罪の贖いの代価が人類に確保され、同時に死に至るまで示された神への忠節な愛により、創造物のすべてが創造者を神とするべき理由も据えられました。キリストの倫理性は被造物の中から『完全』に達し『ただ一人不滅性を得て』他の理知ある創造物に命を与えることのできる『命の君』と成られました。(ヘブライ2:10/テモテ第一6:16)

人として刑死した御子を、神は三日目に復活させ、御子は霊に於いて再び生かされます。その後40日の間に数回弟子らに現れた後、天界に戻られました。(ペテロ第一3:18/使徒1:3-9)

その後は、使徒や弟子らを聖霊を介して導き、アブラハムの子孫を『新しい契約』の下に集める業を続行させるだけでなく、世界に向けて集める業を広げさせました。その期間は第二世紀の半ばまでのおよそ百年ほどでありました。(ヨハネ14:12)

以後、聖霊の賜物は地上を去り、キリストは弟子らへの監臨を終え、世界はキリストも聖霊も不在の時代に入り、今日に及んでいます。(ヨハネ9:4)
しかし、キリストは終末に入り、この世が裁かれるに至るまで『神の右に座し』その時を待たれます。
その時が来て、この世の終末に入ると、再び地上の人間社会に関わりを持たれますが、それは臨在(パルーシア)と呼ばれます。

終末では、まずアブラハムの子孫を集める業が終わり、『神の王国』が実現し、この世は裁かれ終りを迎えます。
その後は、キリストとアブラハムの子孫らである『聖なる者ら』による支配により、千年の間平和な世界がもたらされます。
こうして、人々からアダムの罪は除かれます。千年の後に、すべての死者も贖われて『罪』の無い状態で復活し、キリストは人類を『神の子』として復帰させ、その役目を終え、すべてを神に渡します。(コリント第一15:28)

キリスト・イエスは、アダム以来最初に地上で『神の子』として現れ、それはバプテストのヨハネの儀礼と、山中での変貌の場面で神からの認知と是認とが宣言されている。(マタイ3:17・17:5/マルコ1:11・9:7/ルカ3:22・3:35)
しかし、新約聖書中で『神の子』の立場を『聖徒ら』も受けている(ローマ8:14-15・8:19)。その理由についてパウロは『キリストに結ばれているなら、あなたがたはアブラハムの裔であり、約束の相続人である』としている(ガラテア2:36-39)
その相続は、アブラハムの子孫によって地の全ての支族が祝福を得るという、アブラハムへの『約束』についてものである。

それは『キリストと共同の相続人』であり(ローマ8:17)、その立場はキリストの『兄弟たち』(ヘブライ2:17)とされている。
アダムの子孫であった彼らも、キリストの贖いによる『新しい契約』を通して地上での仮義認を得、生涯に亘る契約の履行によって、天でキリストと共になる(フィリピ1:23)。彼らはキリストと顕現を共にし(コロサイ3:4/ゼカリヤ14:5)、共に『世を裁く』(コリント第一6:2)

キリストの地上での宣教の目的は、これら兄弟となるアブラハムの裔らを信仰を懐かせて集めることであり、神はそのためにバプテストによる水のバプテスマ以来、聖霊の証しをキリストに与えていた(ヨハネ第一5:10)。



・聖霊

聖霊とは神から発するものであり、創造を行うに際して用いられ
預言者らに霊感や幻をもたらし、聖書の記述を導いてきたものとされています。

キリストの犠牲が捧げられて後に『聖霊』は単に神の御力という以上の意義を持ちます。それはキリストが弟子らに与える『約束の霊』であったので、キリストの公生涯中について、使徒ヨハネは『イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、その霊はまだ降っていなかった』ことを知らせているので、キリストの犠牲によって人にも下賜が許されるようになった『聖霊』とは、それ以前の聖霊以上の格別の権威を有するものです。(ヨハネ7:39/ヨエル2:28-29)

『約束の霊』はイエスが天に戻って十日後のシャヴオート(五旬節)の朝に、ガリラヤから主に付き従ってきた弟子らに注がれ、その日から聖霊を注がれる人々が現れ、またメシア信仰を懐く人々の中で増え始めます。

それらの弟子に御子と同じ奇跡の業が委ねられたのは、この聖なる霊を介してでありました。
イエスが予告されたように、聖霊は初期の弟子らに宿って奇跡の業を行わせるだけでなく、知識を与え、宣教を導き、預言をも行わせ、新約聖書の記述を導いています。(ヨハネ14:26)
キリストの聖い弟子らに注がれた『約束の聖霊』は、キリストの犠牲に基いて神から(コリント第一6:19)下賜されたものであり、その人々の罪を赦して彼らを『聖なる者』としていました。
その聖霊を受けた人々は、その出自によらずアブラハムの真の子孫となり、人類の祝福に関わる『王なる祭司』となります。(ペテロ第一2:9)


この聖霊は、この世の終末に再び活動することを聖書は明らかにしていて、キリストの初期の弟子たちに聖霊が与えられたように、聖霊によって為政者らに論駁できないほどの言葉を語る人々が再び現れることになります。(ルカ21:14-15)
この聖霊の発言は諸国民も聞くところとなり、世界中の人々に信仰を惹き起こすことになります。(マタイ10:18/ハガイ2:6-7)
その信仰の有無によって人類は裁かれることになります。即ち、聖霊で語った人々を支持するか否かで分けられるからです。
(マタイ25:31-40/10:40-42)





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