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2016年のパスカの日付

2015.10.31 (Sat)
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古代小アジアの十四日派に倣う仕方での次のパスカは
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2016年
 4月21日(木曜)の日没後といたします。


ユダヤ教暦の本年は閏に当たり、第二のアダル月が数えられます。
この閏は、前五世紀のギリシアの天文学者アテナイのメトンが編み出した19年間に7つの閏月を挿入する、太陰暦と太陽周期との調整方法に基づくものとされます。

したがい、太陽周期のみで判断する「春分の後の最初の満月」という判断方法とユダヤ陰暦との差が出ることになり、次回はその差が満月ひとつ分までひらくことになります。

2016年の春分は3月20日とされており、3月23日に春分後の最初の満月が夜に(日本で)見られます。
そこで、エホバの証人はこの日を以って「主の記念式」を予定しております。
この日付を今日のユダヤ暦で観ますと、ニサンではなくヴェ アダル(第二アダル)の14日となります。

そこで「新十四日派」は、日付けでは第二世紀の小アジアの十四日派を標榜いたしますので
第二世紀にエフェソスでエピスコポスであったポリュクラテスの言葉に従い、ユダヤ人がその暦に従いパンから酵母を除く日に寄り添うものとしたく存じます。それは「春分後の満月」ではなくユダヤ人に「ニサン14日」と呼ばれる日に入った夜となります。まさしく、キリストはユダヤの祭礼との時のせめぎ合いの中で、遂に死に至り、神とご自分に栄光をもたらしました。
本年、ユダヤ教徒は4月23日から無酵母パンの祭りに入り、その前の22日晩にセデルをとります。それは彼らが「ニサン15日」と呼ぶ日でありますから、十四日派が今日まで存続していれば、4月21日の晩に「主の晩餐」(キュリアコン・デイプノン)を行うことになったでしょう。

例年、古代の十四日派に倣う形でパスカを各地で執り行われる皆様、また、次回より始めることをお考えの皆様のご賛同を頂けますなら幸いに存じます。


上記理由のため、次回のパスカは「主の記念式」に日付けで競合することがありません。ですから、特に現エホバの証人の方で、小アジア式でのパスカをご希望の皆様には、お勧めしたく存じます。
また、教会員の皆様にとりましてもイースターから相当に遅れ、周囲の習慣に煩わされることなく行えることでしょう。
(この両者は共にカトリックの天文による方式でこの時期を決定しますが、それは元々キリスト教側のユダヤ忌避の精紳に由来するものです)

儀式の表象である無酵母パンと赤葡萄酒は同じでありましても、その意義はまったく異なっております。
現状で「新十四日派」のパスカの意義は、『神の子らの現れを待ち望む』ことにあります。(ローマ8:19)
即ち、キリストの血により『新しい契約』に入り、キリストの肉を分け合い同じ身体に預かる人々の現れを「待ち望む」ことであり、主の復活を「祝う」わけでも、主の犠牲に「感謝する」わけでもございません。聖霊無い者は契約の外に在るばかりです、
むしろ、『主の兄弟たち』が、主の死を介した深い関係性を持つことに注目するものです。
真に聖霊を注がれる彼らこそが、真実にアブラハムの裔、神の選民「イスラエル」であるからです。

「パスカ」とは、初期キリスト教徒がユダヤのペサハ(過越し)を音訳したもので、ユダヤ教徒らが「過越し」と「無酵母パンの祭り」を併せてニサン15日の夜から始めるその前の晩を初期キリスト教徒が取り分けて「主の晩餐」を採った事に由来しております。⇒日付の問題
今日までもパリサイ派であるユダヤ教徒は、イエスの時代と同じくニサン15日にセデルを採りますので、初代キリスト教に倣う仕方でパスカを行おうとする場合、ユダヤ体制派のセデルの前の晩にパスカを先行させることになりますが、それはイエスと十二使徒の最後の晩餐と同様になるでしょう。それが即ち、ニサン月14日です。⇒「主の晩餐とは何か

したがいまして、初期キリスト教での主の晩餐は、本来ユダヤ人の過越しの祭礼と共にありました。確かに、メシアの犠牲の死は、ユダヤの「過ぎ越し」と深く関連しており、ユダヤ教の祭司長派との祭りを巡る時のせめぎ合いの中でキリストの受難がニサン14日という古来定められた一日に焦点を合わせて起っています。
その浄められた晩をユダヤの祭礼に合わせる場合と、春分以降の月齢で定める場合とは、数日から、本年のように一か月も異なることも起り得ます。
ですが、春分と月齢に正確に従おうとすれば、地球の自転のために、エルサレムでしか正確な日時に「主の晩餐」を行えないことにもなります。しかし、世界各地に住むユダヤ人は、祭りができないところも出てしまわないように春分と月齢には拘りません。

それに加えて、その後ユダヤ教との不仲にゆえに、キリスト教界はユダヤの過越しと祭日を同じ時期にすることを極度に嫌い*、一般の暦で日付けの決まった聖誕節のようにではなく、この日付ばかりをわざわざ春分と月齢にしたがってまで毎年ユダヤの祭礼とは期日をずらして復活祭を行うようになりました。その決定の行われたニケア会議以後の「キリスト教」が採用するところとなった春分後の満月に基づく、異教の女神イシュタルに由来する「復活祭」(イースター)と、初期キリスト教徒の「パスカ」は日付も意義も異なるものでありまして、原始キリスト教「十四日派」[quartodecimani]の名称も、本来は春分後の正確な満月を基準にせず、ユダヤ人の暦に従う習慣を伝承するものでもあります。
*(「何よりも,このもっとも聖なる祝日を実施するにあたり,不信仰のために無法な罪によってその手を汚し,それゆえに当然ながら魂を盲目にされたユダヤ人どもの慣習に従うのは適当でない。…われわれはあの忌まわしいユダヤ人どもと共通のものをもたないようにしようではないか」。コンスタンティヌス帝からの諸州のエピスコプスへの書簡[コンスタンティヌスの生涯]~)

キリスト教界内においてこの件は、第二世紀より何度か討議されましたが、常に平行線を辿り、最後の使徒ヨハネの薫陶を受けていた小アジアを中心とする、「十四日派」とローマの間では論争が絶えませんでした。それはエウセビオスの主著「教会史」にも採録された有名な事例となっております。⇒ V24.アジアのエクレシアイとの論争

ニサン14日遵守の習慣は、第八世紀まで存続の痕跡が観られるとのことですが、「カトリック」側はこれを第四世紀に異端宣告し、呪詛の下に置きました。したがって、今日の教会がこれを好まないのも、その後の長い時代に、初期キリスト教の習慣からすっかり離れ、そのうえ「イースター」とも呼ばれ、欧州的異教化が進んでしまったところにあるでしょう。信者にご利益をもたらす慶事と化してしまったそれは、今更本来の姿に回復できそうには見えません。

一方で原始キリスト教の「パスカ」は、イエス・キリストが最後の晩餐を採られたときに制定された儀式でありますが、この食事はやがて天界で再びキリスト臨席の下に十二使徒と実現されることになることを主は語られました。天界の食事の成就のときには『イスラエルの12部族を裁く』ことになり、多くの聖霊で油そそがれた弟子らの中から『144000人』が選ばれることでしょう。これについてはその聖なる晩餐においてキリスト自らが十二使徒とひとつの契約を結ばれています。それは神の『新しい契約』とは異なるものです。(ルカ22:28-30)ですから、特に十二使徒は主と共に聖霊を注がれた『聖なる者ら』を裁く側に立つことになりますが、それは十二人については主の公生涯の間の試練の結果、ひとりは離れ墜ちましたものの、後に加えられるマッテアスも含めて裁きが確定しているからでしょう。離れた使徒はユダ・イスカリオテただ一人でありました。

イエスは十二使徒らについて、聖餐の席でこう言われました。『あなたがたは、わたしの試錬の間、わたしと一緒に最後まで忍んでくれた人たちである。それゆえ、わたしの父が国の王権をわたしに委ねてくださったように、わたしも王権をあなたがたに委ね、わたしの国でわたしの食卓に就いて飲み食いをさせ、また位に座してイスラエルの十二の部族を裁かせる。』
即ち、彼らはイエスと共に試練を耐え、遂に共に聖餐に臨んだゆえに、神殿の土台とされ、他のすべての聖徒らを裁く立場に就くことが示されています。

ですから、そのほかの聖徒らの裁きは未だ終わっておりません。そのためには、十二使徒が一番に天に復活し、二度目の晩餐を主と共にする必要があるでしょう。
ですから、それまでの期間は「主の晩餐」は「聖なる者ら」のための記念儀式として繰り返されることになります。⇒「忘れられた二つの意義

それゆえ、この儀式を地上で行っている間には、『神の王国』はけっして到来していない証しでもあります。
未だ、聖霊注がれた『神のイスラエル』は天界に召されておりませんし、その選別である「裁き」も終わってはいません。それはおろか、エレメントに預かる『聖なる者』さえ途絶えたままです。そこで「ダニエルの七十週」の残りの半週の間にも『契約は固く保持される』べき理由があります。⇒「ダニエルの七十週

しかし、キリストはナジル人のような専心を示して『二度とこの(過越しの)食事をとらず』『二度と葡萄の樹の産物を飲まない』と言われました。
その堅い決意は、自らの王国の設立に対して並々ならぬ意欲を持って臨まれることを表していることでしょう。その時には、『アブラハムの裔』を集めるという地上で始められた業が遂に成し遂げられ、キリストは大祭司の権限に加えて祭司団を得るばかりか、王国の共同相続者も得ることで、地上の支配権を受ける準備が尽く整うことになります。


さて、「主の晩餐」また初期キリスト教徒の「パスカ」の原型であるユダヤ人の「セデル」の食事は、元来、出エジプトでの各家庭での食事を起源としておりますので、キリスト教に於けるパスカも、ご家庭で行うことは差支えないでしょう。むしろ、それが原型であると言える理由を聖書は提供しております。
それぞれに赤い葡萄酒と杯、無酵母パンと皿を準備なさるだけで用意は済みます。

それらの表象を前にひと時を過ごされますように
細かな式次第は何ら規定されておりません。
また、第二世紀以来、今日までのところ、誰もこの儀式に預かる当事者とはなっておりません。

当然ながら、聖霊無い限り、すべての人は契約の外に在り、この食事にも儀式にも当事者とはなりませんので、二つの表象物を採ることはないでしょう。
第二世紀の古代よりこのかた千八百年、聖霊を注がれることで『新しい契約』に召された者が絶えて存在しないからです。

今できることは、儀式の準備をして待つことであり、世の終末での主の来臨に備えて『すぐに扉を開け』、地への臨御の主と、地上に現れる主と共なる人々に食事儀礼を提供できるようにしつらえるところにあります。




エイレナイオス


※2016年のパスカ挙行のお知らせを頂き、把握できましたところは
筆者本人の東京以外に把握しているところは以下の通り
埼玉、北海道(道南)、北海道(道央)、富山


「キリスト教」と「原始キリスト教」の違い




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13.比較で絶対の宗派を捜すという矛盾

2015.10.20 (Tue)
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人が自分の人生を正しく歩みたいと願うことは、本来誉められるべきことです。
そこに様々な宗教がそれぞれに存在してきた理由もあるでしょう。
人間は生れながらに正しく生きる道を会得しているわけではありませんから、それぞれに正しい指針を求めることは自然なことで、だれも間違った導きに従いたいとは思いません。

さて、そこで「ものみの塔」では、この宗教団体が「神の経路」であり、その指導に服することが唯一の正しい生き方であると教えているのですが、そこに絶対的な安心があるとすれば、魅力も感じることでしょう。何事も不安定で危ういこの世でまったく確実なものがありますなら、それは本当にありがたいことです。

そこで、この団体だけが「唯一正しい」との主張のために、「ものみの塔」は外部からのあらゆる情報をそのままには受け入れることを常に警戒するように内部の人々に促し、「その情報は100%信頼できるものですか?」とエホバの証人の方々に問いかけてきました。常に正しい情報を知ることができるとすれば、確かに過ちを避けて生きてゆけることでしょう。情報とはそれほどに重要なものであることは間違いありません。

ですが、実際にはどんな人も無謬ではありませんから、実証された理論や数式の解でもない限り、特に宗教に関して100%信頼できる情報というものは、どんな組織であれ個人であれ提供できるものではありません。特に信仰という主観の関わる分野、また聖書全体の100%正確な理解を得るなど人知を超えたことで、いったい誰がまったく正しい解き明かしを聴かせられるものでしょうか。聖書に記されたほどに霊感された言葉を語ることのできる人が果たして居るものでしょうか。

例え、聖書は神の言葉であるとしましても、それを解釈するのが預言者のようには格別の霊感を持たない普通の人間でありますなら、もちろん誰であれ間違いを避けられません。実際に「ものみの塔」であっても、やはり過ちをあちこち避けられなかったということが、正確な事実というべきでしょう。それは「ものみの塔」の幾らか古い出版物そのものが既に証拠立てていることで、誰であれ訂正を必要とする人間共通の不完全さはどうにもならない現実がそこにあります。

また、人は不完全でも、神に是認されているから正しいとの主張があるとしましても、そうなりますと、是認の有無をどう見分けるかという論点に置き換わるのですが、それは相対的な比較に決定をゆだねるほかなくなります。誰もが「自分が正しい」と同じ主張ができてしまうからです。それは人間同士の正義の競争を招きますが、実に空しいものです。それらの主張に使徒たちのような霊感は無く、言わば「神は不在である」からです。

この状況で陥る誤りの中には、信者の生涯設計に影響して、実は益とならないばかりか、同じ人間同士の中にあって、自分を救いに値する義人と見なすために、他の人々と差別化し、足台とするために特殊な規則を必要とし、規則の比較によって周囲との軋轢を生んでしまった教理は幾つかの宗教で少ないとは言えません。それも一般のエホバの証人が使徒や聖徒のように『新しい契約』に含まれず、義を認められるのに必要な、聖霊での油注がれていると自認していないにも関わらずです。
つまり、ごく普通の人が聖書の規則に従ったからと言って、神の是認に入れるものかという疑問を避けているのがエホバの証人とも言えましょう。
その考えでゆきますと、エホバの証人としての規則に模範的である人は神の是認の内にあり、そうでない人は是認の外にあるということにどうしてもなります。つまり「業による義認」ですね。

それでも、エホバの証人の皆さんからしますと、神からの唯一の経路として、真剣さを尽くして支えて来られた組織であればあるほどに、これまで払った努力を無駄にしないためにも、組織への従順が絶対的な義を与えるものと信じたくもなりましょう。ですから多少の間違いや醜聞があるにしても、組織も神によっていずれは改善されるに違いないと信じたく思われることでしょう。

そこで、人間が不完全であるからこそ、多少の間違いや汚点のために、神の組織全体を否認してはいけないという考えも正しいように思える方もいらっしゃるに違いなく、特に、長らくエホバの証人を続けてこられた方々にとっては、近年になってからの組織の大きな変化にあるいはそれなりの心配をお感じになられていらっしゃることと拝察いたしますが、長くこの組織に尽くして来られればこそ、貢献の蓄積の大きさからしましても、何としても改善されることが望ましく思われることでしょう。しかし、多少の間違いがあるのは、誰も、またどこの宗教団体も同じではないのでしょうか。

確かに、かのイスラエル民族も、律法を与えられていながら度重なる不信仰と相応しくない振舞いによって、バビロン捕囚の憂き目に遭ったとはいえ、時を経て許され、神の崇拝の復興を遂げたのも聖書の語ることでありまして、多くの悪業があったにせよ、その後もキリストの日に至るまで彼らが契約の民でなくなったわけではありませんでした。

それゆえ、今日のものみの塔についても古代のイスラエルのように、幾らかの失敗や相応しくない点があったとしても、他のどんなキリスト教の団体よりは優れていると思われるので、いつか必ずや正されるに違いない、そう信じることが信仰であると結論なさるかもしれません。

ではその願いの通り、本当にものみの塔が弁護に値するもので、古代のイスラエル民族のように、神の矯正が再びエホバの証人の組織に対しても行なわれ、事態が正されると信じ希望を託すことで、その通りの報いを得られるものでしょうか。「世代」の解釈からしますと、改善される時間の猶予も然程は有りません。しかも、エルサレムも神殿も懲らしめに破壊されてはいませんでしたか。これはものみの塔に当てはめるとしたら、どんな矯正になるのでしょうか?

あるいは、ものみの塔が改善されるに値する根拠として、三位一体や天国と地獄の中世的誤謬に満ちた教理に惑わされているキリスト教界に何も良いものを見出さず、それならば、ものみの塔の方がよほどまともなキリスト教であるとお考えであるからでしょう。

やはり、それは「消去法」での宗教上の居場所の確認というところになるのでしょう。
考えますに、「消去法」と言いますものは、比較による探索法でありまして、「比較」はどれほど行っても「絶対的なもの」を捜し当てることを保証するものではございません。それは常に「比較的に良いもの」が何かを知らせるばかりです。

それですから、今日存在する様々な宗派の中に神が是認なさる唯一の宗派が実在することがよほど確かでない限り、つまり明確な神の印が無いのであれば、唯一の神の是認の下にある宗派を見出せるか否かは断言が出来ないというのが事の真相でしょう。
しかし、実に多様な宗教を信じる様々な人々が、それぞれに「比較的なもの」を絶対化しているものです。しかし、それでは最初から真理も何もありません。むしろそれぞれ個人個人の「思い込み」の基準で他を消去して悦に入っているだけのことです。
その根拠として聖書のつぎはぎの言葉と人間の解釈が多様に利用され、様々な宗派の「正義」が成り立ってしまい、ほかと裁き合って優越感に浸っているのであれば、「現代のパリサイ人」を大量生産するばかりが「キリスト教」ということになってしまいます。

実際「クリスチャン」と称する人々に広くみられる特徴は、「自分の正義感で人を見る」頑なさにあります。
これは「アダムの子孫」であるはずの自分を明らかに高め過ぎています。たとえ行動の表面は努力で善良そうに装えても、それでその人が「神の前に変化した」と言えるでしょうか。「聖書の原則」を当てはめると神はその人を喜んで特別視するのですか。人を根本的に変えるのは人ではなくキリストの贖いではないのでしょうか。つまり『一万タラント』もの赦しです。それを知りながら「百デナリを返せ」と言うべきでしょうか。

この真相がエホバの証人の皆さんに受け入れ難いものであることは承知いたしております。これまで「真の宗教」なるものを見出されたと思われればこそ、「必ず有るはずだ!無いというならどこに行けば良いのか?」という悲愴な質問をなさるとしても無理からぬ事と思われます。
やはり、皆さんが「真理を見つけた」、あるいは「やはりこの組織は神のものだ」という感動をこれまで味わっていらっしゃれば、それをここで否定するとしますと、相当に大きな喪失感を味わせるという冒険を覚悟しなければなりません。しかし、真相に気付かれることは、誰にとりましても喪失というよりは、より真相に即した生き方を思い描くきっかけを得るとも言えましょう。


さて、聖書を省みますと、神の契約には奇跡のしるしが伴っていたということができます。
モーセに仲介した律法契約には『契約の証しの箱』がありました。それが安置されましたところの『会見の天幕』の上には誰からもそれと見える奇跡の雲の柱が在ったと書かれておりますし、それは神殿においても贖罪の日に大祭司は臨在光を発したという契約の箱の前に犠牲の血をはねかけております。その聖なる箱は敵軍の手に渡されても、それをものともせずに、奇跡を起こしつつ自力でイスラエルに帰還しておりましたから、それは単なる箱ではなかったというべきでしょう。

また、キリストによる『新しい契約』では、『神殿』に相当する人々の中に聖霊の奇跡の賜物が存在しておりました。それは神の恩寵がユダヤ律法体制からイエス派に移ったことだけでなく、その人々の王国を受け継ぐ身分を証しするものであったと聖書は語っております。それは業や立場を誇るユダヤ教のどんな派閥もまねのできない、神の是認のしるしでありました。それは神の証しでしたから「比較的に良い」というものではありません。(エフェソス1:13)

その聖霊の賜物も、第二世紀以後には次第に減少していった様が初期キリスト教徒の資料に散見されます。著名な書としては、エウセビオスの「教会史」に、『聖霊によって語る聖なる合唱隊の』去っていった時代として記され、その他にも様々な資料の引用が存在しております。⇒「エクレシア内での聖徒と信徒
実際、『聖霊の顕現』は「合唱」のように一致していたと記す史料もあり、「偽預言者」が本物の聖霊で語る預言者の中に入ると一致したことが言えなくなり、その正体を曝していたとあります。そのうえ「偽預言者」は信者の集まりから利得を得ようとしてあちこち巡回し、聖霊を持たないにも関わらず、預言者が異言者より重んじられる事から各地で歓待を受けることを願い、その行う預言にも代価を求めたのだそうです。(ヘルマスの牧者 XI,13)

こうした時代の後、なぜ聖霊による奇跡の賜物が無くなっていったかにつきまして、ものみの塔の側はコリント第一13章8節の『賜物があっても廃される』というただ一言を根拠に、"奇跡的な能力は,クリスチャン会衆の揺らん期の間だけ存続し,その後はなくなることが予告されていました"として、もはや必要のない「余分なもの」扱いをしております。(洞察2-p199)

ですが“揺らん期”の間だけに聖霊が存続したという裏付けにつきましては、実は聖書から得ることはできませんし、エウセビオスの「教会史」のような歴史上の資料を見ましても、聖霊が去った時期の第二世紀の終りから第三世紀にかけては安定期に入ったと申しますよりは、いよいよ本格的な背教の時代のはじまりであったと申すべきでしょう。この時期にヘレニズム哲学との融合が進み、そこに異教も混じり始めます。それは三位一体も入り込む時代の到来でありました。
これでは聖霊の賜物は幼弱な“揺らん期”の助けとして存続したと言いますよりは、奇跡の賜物が過ぎ去ったためにキリスト教界はすぐに純粋さを保持する助けを失ってしまったかのようです。

特にキリスト教史上最初の内部的分裂をもたらしたのが「モンタノス運動」であり、第二世紀中頃からその活動を始めていたとされています。その女預言者らは「終わりが近づいた」と唱え始め、戦争や地震などの災厄の到来を告げ、自分が最後の預言者になると宣言して、キリストの来臨と「新しいエルサレム」がトルコ、アンカラ近郊のアルダバウに降って来ると「預言」していましたが、もちろん何も起こりませんでした。それでも、この宗派は八世紀ころまで長く存続していたとされます。⇒ 「小アジア地震歴

しかし、キリスト教会は揺れ動き、熱狂して会衆ごと転向してしまった都市も一つや二つではなかったとのことで、黙示録で知られるフィラデルフィアはモンタノス運動の前進基地とされ、ティアティラとスミュルナはまったく改宗し、エフェソスも深刻な分裂に陥ったと伝えられます。⇒ 「小アジアメモ
終わりが近づいたと説いて緊急間を煽り、信者の生活を厳格に規定するこの運動は一見道徳的に見えるため、トルコから来たアフリカへと広がり、ついにローマにも押し寄せたため、177年にローマでモンタノス派の真偽を確認する会議が持たれるほどになっていたのです。(教会史5:16-)

これらの逸脱が示すことは、聖霊の失われる時期のキリスト教界はとても安定したとは言えず、むしろ、イエスの弟子たちから「何か」が急速に去って行ったと観察されるべきでしょう。
初期キリスト教から逸脱させないよう助けていた「何か」が失われていったと見る方が、キリスト教全体が逸脱に向かったことが自然に説明できるでしょう。その「何か」がキリスト教というものを存立させていたという見方です。つまり、聖霊の賜物が在った時期こそがキリスト教として確固としていたということです。
その後のキリスト教界は、腐敗と是正運動を繰り返し、その中から「正しさ」を追求して無数の宗派が誕生してまいりました。

しかしその一方で、キリストはご自分が去って行き、再び来て弟子たちと一緒になることを知らせていました。(ヨハネ16:16)
一度去ってから、また戻られるというこの聖句の意味は、第一にキリストの死と復活を指して言われたことですが、イエスは帰天なさった後であっても聖霊を介して彼らと共にいたということができます。初代の弟子たちはそのようにしてキリストの指導を受け続けておりましたし、実に使徒たちを『真理の全体へと案内し』、彼らによってキリスト教と聖書が仕上げられてゆく過程で『聖霊』の働きを度外視することができません。(ヨハネ16:22)

パウロは、コリント人とエフェソス人への手紙で、『聖霊』は、それを受けた者らが肉体を離れて霊に生きる印、また『相続財産を受ける保証』であると明言しており、『聖霊』を受けた者が格別の立場にあることは、他の使徒も述べているところであります。(コリント第二5:5/エフェソス1:13/ヨハネ3:5/ペテロ第一1:2/マタイ3:11-12)

それでも、いずれはキリストがこの世に対して不在となる時代が生じることは、『臨在』という言葉そのものにも表れております。
ミナやタラントの例えでも最終的な終末の時代に再来となる『臨在』があることは明らかです。
そうなりますと、『わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』とのイエスの言葉であっても、ずっと間断なくキリストがこの世に対して関わりを持ち続けるという意味を持たせることは、『臨在』という言葉との間に矛盾を孕むことになります。つまり、『臨在』(パルーシア)が起こるのであれば『不在』(アプーシア)の時期があることになるからです。(マタイ28:20)

聖霊の賜物の去った後のキリスト教界がどんなものであるかにつきましては、ものみの塔も認めるように著しい背教を特色としていることは明らかです。
ですから、それはなおのこと背教というキリスト教の乱れの到来こそ、聖霊の降下が終了し、キリストの不在が始まったことの表れという見方が実態に沿うものではないのでしょうか。

ものみの塔は、背教し切ったキリスト教界にも、ずっと間断なく神の是認を得た正しいキリスト教徒が居たはずであるとの見解をとってまいりました。
しかし、たとえそうであったとしましても、それにどんな意義がありましょうか。

仮に、そのような「正しい」とされる人々が細々と存在したとしましても、キリストが不在で聖霊のような『新しい契約』のしるし無く、その人々が『聖なる者』であることを示す『キリストと結ばれた』奇跡の証拠も、『王国を受け継ぐ』保証も無いのであれば、その存在が神のご予定の中でどんな価値を持つのでしょうか?それはただ「比較的によい」という以上のものとはならないのではありませんか?

神に是認されたクリスチャンが常に存在してきたのだと、ものみの塔側がそのように主張したい背景には、今日にも聖霊の賜物を持たなくても、「自分たちは神の是認を得ている」と皆さんに訴える口実を捜しているかのようでさえあります。それはローマン・カトリックがするように、使徒ペテロ以来の連綿と続く後継者を示して「正統」を訴えるのと同様、聖霊の賜物という神からの証しを持たずにも神の是認が常にあったと、そして今はものみの塔がそうであると訴えようとするからではないのでしょうか。

そこで「小麦と毒麦」の例えを用いて歴史的つながりを訴えるために、カトリックのアウグスティヌスに同じく、小麦も毒麦も間断なく生育を続けたと例えを用いて主張するのでしょう。その理解には「キリストの不在」がありません。
ですが、キリスト不在の歴史の中で、ほんの僅かな小麦のように純良と言えそうなキリスト教徒は常に僅かで、世界の片隅に追いやられ、毒麦ばかりが畑一面に広がっているかのような歴史の実情を思い見ますと、例え話と一致しているように考えられるものでしょうか。 世界という毒麦だらけの畑は、すでに作付けの段階で大失敗していて、小麦の収穫などとても望めません。

一方で、この例えでは、小麦が多く産出する中で幾らかの毒麦が蒔き足されるというものですから、キリスト教界の歴史をそのままに俯瞰するものとは異なる何か別の事情を教えようとしているのではありませんか。

そこで、キリスト教界の全体ではなく、『小麦』に当たる聖霊が注がれた人々の中に限ってこの例えを当てはめますと、例え話と合致してまいります。つまり、聖霊が無い期間は小麦も蒔かれていないので、初代と終末においてだけ小麦の種が蒔かれて成長すると捉えますなら、毒麦も小麦に紛れてその後から芽を出してくることが考えられます。毒麦をもっぱらに撒くなら、それは撒き足しているのではなく、意味がありません。

ですから、現在まで聖霊が降らないことで、『小麦が蒔かれ』ていないのであれば、『毒麦』も聖霊降下のその後に現れるはずでしょう。
この点で、古代にパウロが背教の『不法の秘事はすでに作用している』と述べたのは、聖霊の種が蒔かれた初代キリスト教徒の中にも『毒麦』が存在していたことを言うのでしょう。ですが、同じテサロニケへの第二の手紙で、終末の『背教』はまだ先であるとも書いています。もちろん、その『背教』は終末のものですから「まだ先」というのは当然です。

その『小麦』が聖霊を得て天に召される人々であれば、『毒麦』に相当するのは、聖霊を受けながらもそれを逸するところの元『聖なる者たち』ということになります。これこそが聖霊からの逸脱であり冒涜、ユダ・イスカリオテのような真の『背教』と言えましょう。
終末の『聖なる者ら』に試練が臨み、『ひとりは連れて行かれ、ひとりは捨てられる』のであれば、双方の生育は、聖霊が降下して種が撒かれた「初代」と「終末」とに起こるべき事ではありませんか。終末には、為政者の前に引き出され聖霊によって語る人々がいることを福音書は繰り返し語っております。

では、どうなのでしょう。
確かにイエスは『事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』と言われました。
ですが、それは以後の歴史を通して間断無く「ずっと一緒に居る」という意味で語られたのでしょうか。

もしそれが正しければ、聖霊もその人々と共にずっと留まる理由もあったことでしょう。なぜならイエスは聖霊について使徒たちに『[父]は別の助け手を与えて,それがあなた方のもとに永久にあるようにしてくださいます』と言われているからです。(ヨハネ14:16/イザヤ59:20-21)

しかし、実際には聖霊が存続していることのしるしとなる賜物はその後の第三世紀には存在しなくなっていったことを古代資料が明かしています。それらの資料では、奇跡の賜物が必要が無くなったというようなことは書かれず、却って『純粋な時代の終り』また損失として描かれているのです。

そこでマタイ福音書の最後の『わたしは事物の体制の終結の時までいつの日もあなた方と共にいる』との主イエスの言葉は、そこで直接に語られた11人の使徒を介して、共にイエスに連なる、「聖なる弟子たち」について語られたと見るべきでしょう。(ローマ8:1)

ですから、聖霊の降下が終わり、聖なる弟子が絶えていなくなったところでキリスト教は純粋さを失ってバビロン由来の異教にまみれ、以後はキリストの『臨在』を必要とする「不在」の時代に入ったと考えられますし、その時には『あなた方』と呼ばれた人々も存在していなかったと捉えるべき理由が現実に見えております。その期間は『小麦』そのものが撒かれてもいないでしょう。『聖霊』が地上に無いからです。

他方でイエスは、終わりの日に聖霊によって語る弟子たちの姿を予告していましたが、それは『総督や王たちの前に引き出される』という状況で、『反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの言葉が与えられるとさえ述べられました。(マタイ10:18/ルカ21:15)
その聖霊の言葉は『彼ら(為政者ら)と諸国民への証し』のためであれば、それはもはや「比較で見つかる正義」ではありません。第一世紀と同様に、『聖霊』こそが神の是認の証拠、唯一神に是認された経路という以外になく、聖霊に満たされた弟子によって世界は『右と左に』分けられることになるのでしょう。つまり、真実なキリストの『兄弟』のことです。(マタイ25:31-32)

それであれば、「神に是認されたキリスト教」を今日までの歴史に中に無理にでも捜す必要もありません。それゆえにも聖書が存在しているのでしょう。聖霊を擁した「正統なキリスト教」は以後はその書の中だけに見出されるからです。
ですが、神の証しである聖霊が存在した時代以降に、無理をしてでも絶対のものを見つけ出そうとするには、比較を用いる「消去法」で何かをすくい取ること以外に方法がないのです。

ですが、「消去法」では偽物をつかんでしまい兼ねず、神の是認ある団体の発見ではなくて、人の規準による自己満足を得るばかりです。
そこでは、『その実によって(偽預言者を)知る』とのイエスの言葉に従っているつもりでも、「比較的に良い」ものが見つかった以上にはなりません。その理由はどれも『聖霊の証し』がない人間のものだからです。
では、この記事の主張は的外れな極論であって、「ものみの塔」のように奇跡を起こさない「聖霊」で満足すべきでしょうか。
どう思われますか?

そうなりますと、皆さんにおかれましては「正しいキリスト教」が今存在しないことへの不安が募ることもありましょう。
ご自分の存在が急に不安定なものに感じられることに耐えられない気持になられるとしましても、これまでに「ものみの塔」によって得て来られた安心感からすれば無理からぬ事とお察し致します。

ですが、間違いに根差した安心感に頼りたいとは誰も思いません。
それこそは、問題を先送りして苦難をため込む生き方をしてしまうことではありませんか?

それでも、「エホバの証人はやはり神の是認の下にあり、古代のイスラエルが正されたように、いつか矯正されるはずである」と、なおも思われるのでしたら、「キリスト教世界全体がなぜ正されては来なかったのか」をも考えねば不公正となります。キリスト教世界は単に神の是認の下にはないからですか?
皆さんの責任ある立場の方々も不完全で許されるべきなのであれば、ほかの誰もが許されるべき不完全さを負っているのではないのでしょうか。

では、神の是認の有る無しは何によって決まったのでしょう。 ものみの塔以外のキリスト教はすべてが「サタンがまいた毒麦」だからでしょうか?
それですと、どのような宗派でも「自分たちは神が蒔いた小麦である」と主張するだけで正当化することが可能となってしまいます。
イエスの直弟子たちのように、絶対的な奇跡のしるしがどこにもないからです。それこそが初期キリスト教と今日のあらゆるキリスト教とを分かつ違いとなっております。

そこでものみの塔は、優れた聖書解釈、偶像礼拝をしていないこと、兵役の拒否や政治に関わらないこと、輸血を含めて血を避けていること、仮のものにせよ神の名を唱えていることなどを次から次へと挙げることでしょう。
では、それらの「証拠」の中で他との行状の「比較」ではないものが何かあるものでしょうか?それは他の宗派でも行える「人間の業のしるし」ではないのでしょうか? 明らかな神からのしるしが何かひとつでもあるでしょうか?

こうして見回しますと、比較による「消去法」で神の是認の下にある宗派を捜そうとすることには根本的に無理があることが見えてまいります。
それは人間の世界にこだわることでは近視眼的であり、良さそうに残ったものをひとつ選らんでいるに過ぎません。
そのうえ、「比較」は相手を非難する相対評価で成り立ちますので、他宗派の欠点を自派の正統の理由としなければならず、それは絶え間ない競争と蔑視を生み出さずには済みません。それはどうしても「パリサイ人」を作ってしまうことでしょう。

これまでにも、そのようにして世の中の様々な「クリスチャン」が、それぞれの宗派にご自分にとっての「正しいキリスト教」を見出してまいりました。
それぞれの方々には結構な事なのでしょうが、その「正しさ」は必ずしも他の人にとっても「正しさ」となるわけではありません。それは精々「比較の上での正しさ」であって、誰にも明らかな「絶対の正しさ」にはならないからです。

ここに関係する問題は、人間の倫理の限界でしょう。
ある人は人間が絶対の正義を持ってはいないという現実を受け入れることができません。

ですが、パウロはこう言っています。『すべての人が偽り者であったとしても,神は真実であることが知られるように。』(ローマ3:4)
間違えもする普通の人間と、神からの聖霊のどちらに人は信をおくべきでしょうか。
まさしく、「ものみの塔」とは「聖霊の注ぎのない人々」を「油注がれたクリスチャン」と呼んで、全き専心を捧げる宗教であり、神からのものである確たる印のない人々に追随する教えに従うものであることは否定ができません。

しかしいま、絶対的キリスト教が無いとしましても、キリストの臨在によって与えられる聖霊を待つことはできます。それこそが、神を畏れて待ち望む信仰と言えるものではないでしょうか。

真の聖霊は聖霊注がれたと主張する人にだけ分かるようなものではなく、キリストや使徒らのように、神からの印として信仰を惹き起こし、『人々を右と左に分ける』ほどのものになるでしょう。それにさえ信仰を働かせないとすれば『神を偽り者とする』ことになると使徒ヨハネは警告しております。
また、イエスご自身も『もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。』と言われ、初臨の業でイスラエルが裁かれたことを言われました。

それですから、『だれでも聖霊を冒とくする者には永久に許しがなく,その者は永遠の罪を負う』と言われたのでしょう。この点で、ものみの塔は『聖霊』という神の証しを軽視してはこなかったでしょうか。なぜなら、それを持たないからです。また『聖霊』のない人々が「神の経路」となり得るのでしょうか。いいえ、それは詐称でしょう。そこに永遠の命もなにもありません。ただ、強い願望により、そうであって欲しいと思い込んでいるのでしょう。それは敬虔でもなければ、真に利他的と言えるものでもありません。

人は『信仰によって義と宣せられる』のでありまして、真に人を救う信仰とは、人間製の宗派の比較によらず、奇跡の聖霊という神からの印に対するものであるべきではありませんか。




⇒ 「『聖徒』 聖霊の指し示す者たち

⇒「ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか

⇒ 「小麦と毒麦 『不法の人』の現れるとき

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追記

永らく「ものみの塔」に所属されてこられました方々には、その教理がすっかりと人格や行動を形作るように、価値観やご自分の存在の安心をも、そこから得てこられたことでしょう。
そこで、新たな観方や信仰信条を考える余地も、ほんの僅か、あるいはほとんど無いというところが実情でしょう。
「ものみの塔」の教理が、ご自分の安らかな心の置き場所となってきたからです。
それでも、その心の置き場所は、本当に安らかさをもたらすところであったでしょうか。

例えますと
神ご自身の介入のない状態では、誰も「自分は正しい」とは言えないのですが、それがある人々には不安で仕方がないようです。
しかし「正義」と申しますものは、元来『罪』ある人間には属してはおりません。それが証拠に、世界に向かって「これが真理だから従え」と言って世界を平伏させる義人は一人もおりません。完全な真理の体系を説明できる人が居るでしょうか?それは常に上から与えられるばかりで、聖書が述べるように、それを自ら体現できる人もけっして存在し得ません。

ですが、この現実がどうしても認められないなら、その人は精神的圧制を他の人に課すことになり、ご自分の宗教以外の人々を断罪することになるでしょう。つまり、人はみな不完全で『罪』を宿していることを忘れているのです。
そこでは、ご自分の宗教の立場を認めてもらうのには、他の人々の思想や立場も認めなければならないという当然の良識も失って、傲慢というありがたくもない性質に染まり兼ねません。

正義感と敵意を特徴とする宗教上の過激分子に共通する精神がまさしくこれではないでしょうか。それは非常な害悪をもたらすもので、主イエスもこの恐るべき精神によって死を遂げられました。それこそはサタンの思いを宿すことでありましょう。

やはり、神ご自身の介入のない状態では、誰も「自分は正しい」とは言えません。これが『罪』を持ち、倫理上に欠陥を持った人間の現実ではありませんか?たとえ聖書が正しくとも、それを間違いなく理解している人が誰かいるでしょうか?

もし、自派の正当を言い立てるとすれば、どうしても実情とは異なるので無理やあらが目立つことになります。そこで、その宗派やそこに属する人々は、強い反論に出合うと思考を止めて答えを出さないよう努めなくてはなりません。そこで新興宗教などで見られる、誰かに話かけはしても、反論は受け付けないという信者の理不尽さの背景があるのでしょう。
つまり、宣伝はしても合理的な推論さえしないという論理性の破綻です。神がそれに証しを添えるようなこともけっしてありません。ただ、自派の存亡に関わるような反論については、頑強に理性や意識から締め出す以外に方法が無くなってしまいます。


ものみの塔のすべてが悪いわけでもありません。確かにキリスト教諸宗派よりも進んだところも見られます。
ですが、教理や業などで幾らか優れているように見えたにせよ、「神の是認」にまでは届いていなかったというべきでしょう。
本当の神の是認を前にしては、ものみの塔の良さも五十歩百歩であり、この点を謙虚に認められなければ、現実を見失うばかりか『聖霊を冒涜』することにもなり兼ねないことでしょう。

「聖霊の賜物」につきまして、ものみの塔は”神はその組織に預言や異言や知識の霊の賜物がもはや必要ではないと判断なさいました。”とまで断言しております。(1992年7月15日号 ものみの塔p31) こうした、神を代弁するかのような決め付けの論調は度々繰り返されていますので、ものみの塔の奇跡の賜物を過去のものとしてしまう姿勢は明白と云う以外にありません。それでは福音書が語る聖霊によって王や高官の前で語るのは誰なのでしょうか。

ですが、お考えください。
人類史のクライマックスとなる終末において、神がその御力を発揮されない理由が何かあるでしょうか?(ミカ7:15-17)
神の是認がユダヤ教からイエス派に移ったことを聖霊が証ししたのであれば、裁きがある終末の中で神の是認がどこにあるかを奇跡の賜物をもって示さないことがあるでしょうか?

イエスは、終末に聖霊を注がれる弟子たちが審問の場で『諸国民への証し』を行うと言われました。(マタイ10:18)
その言葉にわたしたちは、不安ではなく希望を託すことができるでしょう。それこそが、真に神の是認ある人々を将来に見出すという願わしい希望です。
彼ら『聖なる者ら』には勇気が求められます。
では、その益に与る希望を持つ者が、真相に従ってその道を変えることに臆していて良いものでしょうか。

個人の信じられるところに応じて信じることには、やはり勇気が要るものです。
「ものみの塔」は個人が判断力を働かせて、組織の判断を吟味なり評価なりすることを勧めてはきませんでした。
むしろ、一度「真理」を見つけたのだから、それから離れないことを名目に、他の一切の意見からエホバの証人が耳を閉ざすよう指導しております。
もちろん、これは恐れの感情を利用した信者の囲い込みのようで、「真理」を云々する以前に正しいものでなく、人の尊厳を蹂躙しています。

ですが、この事だけは信じられる確かなことではないでしょうか。
つまり、いずれは聖霊が注がれ、その信仰に応じて人々が裁かれるということです。

ですから、今どのような宗教や宗派があるにしても、全能の神ヤハはすべての個人を放ってはおかないと言えることです。




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11.「大いなるバビロン」とは何ですか?

2015.10.02 (Fri)


「大いなるバビロン」とは何でしょうか?
ものみの塔によりますと"偽りの宗教の世界帝国"であり、"エホバ神に反対する立場を取るすべての宗教が含まれ"るとのことです。
つまり、エホバの証人以外の宗教をすべて含めた名前として「大いなるバビロン」が用いられております。

ヨハネへの啓示の中で、この『大娼婦』は最期に、彼女の顧客であった『地の王たち』から攻撃を受けて滅ぼされる姿が描かれています。そこで『彼女の災厄を共に受けることを望まないなら,彼女から出なさい』とも促されているというわけです。

この『彼女から出なさい』との命令の意味は、皆さんにとっては次のような意味になることでしょう。
「エホバの証人以外のすべての宗教は偽りであるので、そこから出てエホバの証人になるべきです。」

多くのエホバの証人の皆さんは、キリスト教世界が三位一体で混乱し、刑具の十字架を崇め、政治と混じり合っては多くの流血に関与してきたことをよく理解していらっしゃいます。
その通りに、キリスト教にせよどんな宗教にせよ、偶像崇拝などの宗教面ばかりでなく、政治への介入によっても様々な宗教には負うべき汚れが付着していることは間違いないでしょう。

しかし、エホバの証人については、第二次大戦の最中に兵役を拒否して連合国と枢軸国とに関わらず、迫害を受けても戦闘に関わることを多くの人々が拒絶してきたことはその方面で知られたところです。
また、キリスト教に本来求められていない教理や儀式を振り払ってきたことにおいても、確かにものみの塔は特異な存在であり、それゆえにもキリスト教世界から「異端」の烙印を押されてきたことは、かえって勲章のようなものでしょう。

では、それらが「ものみの塔」という宗教組織だけが清く汚れない神の是認されたもので、ほかはすべてが滅びる偽りの宗教であることの証拠と言えるでしょうか?
また、聖書の記す『大いなるバビロン』とは、本当に「偽りの宗教の世界帝国」という意味で、また「エホバの証人以外のすべての宗教」という意味で啓示の書は語っているのでしょうか?
これまでもエホバの証人であられたからには「そうに違いない」と言われる以外にないことは承知しております。
では、ヨハネへの啓示の聖句を思い起こし、その正しさを確認してみるのはいかがでしょうか。

さて、ものみの塔がこの「大いなるバビロン」を解説するときには、それが昔からずっと続いて来た宗教制度とされてきました。
確かに「バビロン」は非常に古くから存在した都市であります。
シュメール時代から、この地方では偶像が見られ、占いや呪術、死後の世界を教える宗教を有していたとのことです。

また、啓示の書での「大いなるバビロン」については、政治との関わりと共に強調されるのが『心霊術の行い』であり、『その女が聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている』と述べる部分も、ものみの塔では歴史上にずっと正しい崇拝者を迫害をする者であったと捉えています。
それは『彼女の中には,預言者と聖なる者たちの[血],そして地上でほふられたすべての者の血が見いだされた』という啓示の書の記述によって裏付けられているようにも見えるかも知れません。つまり偽物の崇拝で、エホバの証人のような「正しい」人々を迫害してきた宗派を指すというでしょう。

それにしても、『大いなるバビロン』にユダヤ教やキリスト教以外の多様な宗教もすべてが含まれているのでしたら、どのようにして『預言者と聖なる者たちの血』がそれら別の宗教にも見出されるのでしょう。例えれば、日本神道などはどうでしょう。これらの宗教から流血に至るような激しい迫害を預言者や聖なる者が受けたことがあるのでしょうか。またはユダヤ人との軋轢があったでしょうか。

カトリックの宣教師であれば、日本の鎖国前に幾らかは処刑もされていますが、それはヨーロッパの植民地化を防ぐ目的で為政者が行ったことであって、仏教や神道から積極的に介入してはおりません。一方で、宣教師らが武器商売を仲介するばかりか、日本人さえ相当数を奴隷として海外に売っていたことは余り知られていないにせよ、無かったことにはできず。キリスト教の禁令には欧州人のしたたかな野心を食い止める意図があってのことと言われるのも間違いとはいえないところがあります。

そこで、単純にすべての宗教が「正しいキリスト教徒」を迫害してきたと唱え、『聖なる者たちの血』の負い目のない宗教も『大いなるバビロン』に含めてしまいますと、『ご自分の奴隷たちの血の復しゅうを彼女の手に対して行なわれた』との気負いある記述は、随分と説得力を失って見えるものです。いったいどこに「正しいキリスト教徒」が居たでしょうか?(啓示19:2)

そこで考慮しなければならないのは、啓示の書の内容が『主の日』と呼ばれる期間に起こることを告げていることです。
啓示の書で語られている『大いなるバビロン』とは、『主の日』また終末に存在するものでありまして、その期間に「聖なる者たちとイエスの証人たちの血に酔っている」ことになります。

そうでありませんと、これを書いたヨハネの時代から、人々がこの「バビロン」から歴史上ずっと出るようにしてきたわけでもありませんし、「キリスト教世界」のほとんどが背教していた時期にはどこに逃れたら良かったのでしょうか。
そこで、この『出なさい』との言葉に従うべきはいつであったか、またどこに逃げるべきであったかと歴史を問うなら答えが出ません。啓示の書はこのバビロンの「滅びが近いので」そこを出るように語っておりますので、やはりバビロンを見分けるべきは、『主の日』でなくては意味がありません。

ですから『聖なる者たち』が何者で、『大いなるバビロン』がどのようにその血の罪を負うかにつきましては、キリストの臨在の日である終末で『聖なる者たち』に起こることを考慮しければならないでしょう。

イザヤ書にはこうあります。『あなた方はバビロンから出よ! カルデア人のところから走り去れ。歓呼の声を上げて告げ知らせ,これを聞かせよ。それを地の果てにまで届かせよ。言え,「エホバはその僕ヤコブを買い戻された。』(イザヤ48:20)
つまり、「バビロンから出よ」と呼びかけられているのは『買い戻される』『ヤコブ』に属する民であるのです。「エホバの証人」というわけではありません。なぜなら、買い戻される人々は『聖なる者』となり、人類に先立って『罪』から仮釈放されているからです。(ローマ8:1)

ギリシア語(新約)聖書の『聖なる者たち』(ハギオイ)がどのような人々かについて、パウロは『キリスト・イエスと結ばれて神聖なものとされ,聖なる者となるために召されたあなた方』としております。(コリント第一1:4)
これは皆さんが「油そそがれたクリスチャン」と呼んでいらっしゃる立場に相当しますが、もう少し聖書に耳を傾けると様子は異なってまいります。

彼らは『養子縁組の霊を受け』、『相続財産を受け継ぐ』人々であり、『キリストと共同の相続人』であるとも言われます。(ローマ8:15.17/エフェソス1:18)
この人々は神が『義と宣した者たち』で、聖霊により『神の子』と承認され、キリストと『共に栄光を受けるため,共に苦しむならば』天に召される人々となります。つまり、キリストの仲介による『新しい契約』に入った人々であります。(ローマ8章)

彼らに『注がれた聖霊』は奇跡の賜物をもたらし、訂正の必要のない霊感された言葉と真理を告げさせましたが、それは彼らの聖なる立場を証しするものでもありました。(エフェソス1:13-14)
またキリストに続いて『自分を捨て,自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従』う事が求められています。『契約』とは不確定な事柄について結ばれるものだからです。(マタイ16:24)

ですから、イエスも『狭い戸口を通って入るため,精力的に励みなさい。あなた方に言いますが,入ろうと努めながら入れない者が多いからです』と言われるのは、この例えで『王国』に入るか否かという絶えざる試練に彼らが直面することを指しています。まさしく『だれでも多く与えられた者,その者には多くのことが要求され』ることの端的な例と言えます。(ルカ13:22-30 ・12:48)

また、古代キリスト教徒の中には賜物によってイザヤのような古代の型の預言者とは幾分異なるタイプの『預言者たち』も居ます。(使徒11:28/コリント第一14:24-25)
キリストの臨在する終末ともなれば、彼らは聖霊によって王や高官の前で語り、その言葉には、『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ともイエスは言われました。

ですから、終末での『偽預言者』とは、聖霊によらず、悪魔の力を得る預言者、妥協してしまう『聖なる者』のことを指していることになり、それは1タラントや1ミナを預かりながら、終末の反対が『恐くなり』霊の賜物を『埋めて』しまい、銀行の『利息』さえ受け取らず、『新しい契約』に違反してしまう「脱落聖徒」のことでしょう。(マタイ7:22)

マタイ福音書第七章によれば、彼らはイエスの名によって『悪霊を追い出し、数多くの強力な業を』行ったのです。ですが彼らは『不法を行う者』とされ王国には入れません。恐れなくキリストの道を辿る勇気を奮い起こさなかったからです。
確かに、イエスの臨在はこれら「天的成員」が、世に先立ってまず裁きを受けることは、聖書のあちこちに明瞭に書かれております。むしろ、それを否定することの方がよほど難しいくらいです。どうぞ、キリストの臨在に関わる聖句をもう一度お確かめください。

これがつまり、聖徒の試み、『一方は連れて行かれ,他方は捨てられる』とされることであり、『入ろうと努めながら入れない者が多い』とは、本来、天の王国に入るべき重い責任を担う聖徒らに対する言葉とはなっているのです。

そこに、ものみの塔の主張する「油注がれたクリスチャン」を超える姿がはっきりと見えることでしょう。
ものみの塔の主張する「油注がれたクリスチャン」は、記念式で表象物に預かれば、特に『大群衆』以上の厳しい裁きや試練を受けることもなく、天に行くことは確定済みですが、それにしては聖霊の賜物を持ちませんので、この世の為政者の前に引き出され、『聖霊によって語る』こともありません。
精々が裁判所に実際に呼び出されて「自分は神を代表しておらず、責任がない」と言うのなら、正直でまだ良いほうです。

では、聖霊によって語る本当の『聖なる者』とされる人々は、まだ現れていないという見方は間違っているでしょうか。
イエスの終りの日の預言で語られる弟子たちは、『自分の苦しみの杭を背負って、わたしに続きなさい』と言われているのですから、『大群衆』とは比較にならないほどの試みがあることでしょう。
当然、そこから離れ落ちる者も出ることが、タラントやミナの例えなどにも明らかです。

そこで聖書の言う『偽預言者』とは、ただの異教の宗教家を言う以上のもので、「脱落聖徒」らが『偽預言者』と変じてハルマゲドンを誘発するのに相当な役割を持っていることを啓示の書が明かしています。それはまさしく『主の日』に予告された『背教』であり、単なる「他の宗教の教師」を超える存在と言えます。(啓示16:13・テサロニケ第二2:3.8)

やがて『聖なる』人々に聖霊が注がれ、初代のように再び地上に現れる時が来ることでしょう。その目的と言えば、『総督や王たちの前に引き出され、彼らと諸国民に対する証しのため』であると福音書は明かしております。つまり、それこそが「世界宣教」となり、人々は「キリストの兄弟」を見分け、親切を施すこともできるでしょう。(マタイ10:16-20/マルコ13:9-13/ルカ21:12-19)

そこで、これらの人々が実際に現れるなら、世の中がどう反応するかを考えますと、政治家たちには『神の王国』に支配権を譲り渡すよう求められることでしょうけれども、それに権力の座にこだわる政治家たちが応じるとも思えません。そこで世界の大きな関心を呼ぶでしょう。それは世界を揺るがし、人々の中から信仰を懐いて聖徒を支持し、キリストの右に『羊』として分けられる人々が現れると考えない理由が何かあるものでしょうか。

そして宗教界としても、『聖なる者たち』に強く反対せずにはいられないのではありませんか。
神の聖霊によって語られては、どのような宗教もかすんでしまい、宗教はその実態を暴露されてしまうので、それは存亡の危機でもあり、人々を引き留める力も大いに失ってしまうのでしょう。その言葉は『反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどのものであるとイエスは言われましたから、「聖霊に導かれている」と公言しながら、しばらく前の見解を常に調整するようなものではないようです。(ルカ21:12-15)

こうして見ますと、聖霊の発言に反駁もできない為政者らと宗教家らとは、利害が一致することは自然な流れになるでしょう。
つまり、聖霊で語る『聖なる者たち』を迫害し、亡き者とし、黙らせることにおいてです。

しかし、今日の宗教家といえば、イスラムも過激派でもない限りは権力を直接に行使できませんので、『聖なる者たち』を攻撃するよう政治家たちに働きかけるほかありません。

そこで啓示の書の幻の中で、『聖なる者たち』を攻撃するために用意されるという『七つの頭を持つ非色の野獣』という強大な権力の上に、『大いなるバビロン』が乗っている理由に見えるものがあります。(啓示13:1-7/17:3)
しかも、その女は『聖なる者たちの血とイエスの証人たちの血に酔っている』のですから。

こうして見ますと、この野獣の上に座す女『大いなるバビロン』が何であるのかにつきましては、啓示の書の他の聖句とも合致が出てまいりますので、いよいよその実体が分かってくるではありませんか。

それら『聖なる者たち』に反対する多様な宗教は、単に正しい宗教ではなかったことが罪とされているのではなく、はっきりと神からの音信を聴き、それが正しいことを自覚しながらも『聖なる者たち』に反感を抱き、聖霊によって語った人々の迫害を野獣に対して誘うところに『聖霊に言い逆らう』罪が生じるというべきでしょう。しかも、『聖なる者たち』を殺害に名を連ねるなら、報復されるべき『血の罪』も生じます。(マタイ12:32)

ですから『大いなるバビロン』とは、『聖なる者たち』に反対し、政治家らに働きかけて迫害を仕掛けさせるすべての宗教を表していると言うべき理由があるのです。それは、かつてユダヤの宗教家らがローマ総督を動かして他ならぬメシアを処刑させたようにです。

今の時点では実体がどのようなものか分からない『七つの頭を持つ非色の野獣』によって『聖なる者たち』は『殺される』ことになりますが、これはかえって『聖なる者たち』を主に倣わせて練り浄め、キリストと共に支配するに相応しい者としてしまいます。(啓示11:7/11:11-12/ダニエル11:35)

それからほどなく『大いなるバビロン』はその重大な報いを受けるのでしょう。啓示の書にはこうあります。
『[神]は,その淫行によって地を腐敗させた大娼婦に裁きを執行し,ご自分の奴隷たちの血の復しゅうを彼女の手に対して行なわれた』(啓示19:2)

こうして『大いなるバビロン』の滅びの前には、必ず『聖なる者たち』の聖霊による活動が先立つことが明らかとなります。
そしてこの大娼婦に、現在どの宗派がそれに含まれるのかを決めることができません。
『聖なる者たち』の活動に反対し、彼らを亡き者とし、黙らせようとするすべての宗教を含むのであれば、ものみの塔が含まれないとはけっして断言はできません。むしろ危険性は大きいでしょう。
なぜなら、ものみの塔は『終りの日』の期間に奇跡を起こす聖霊の働きを度外視し、一般のエホバの証人の方々を動員して世界宣教としてきたのです。これはもはや否定できるものではありません。

ものみの塔はキリストの臨在の間に聖霊がこれほど大きな役割を持っていることを知らせる多くの聖句をほとんど無視してきている理由もそこにあることでしょう。
しかし、パウロは、『またわたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。それは,あなた方の信仰が,人間の知恵によらず,神の力によるものとなるためでした。』と述べて、聖霊の奇跡が宣教を支えたことを知らせてはいないでしょうか? (コリント第一2:7)

そして、みなさんもご存じのヨエルのこの預言では
『またその後,わたしは自分の霊をあらゆる肉なる者の上に注ぐことになる。あなた方の息子や娘たちは必ず預言する。あなた方の老人たちは夢を見る。あなた方の若者たちは幻を見る。そして,その日には下男やはしためたちの上にもわたしの霊を注ぎ出す。』(ヨエル2:28-29)
この預言の「霊を注ぐ」という句は「終りの日」に成就しても、ものみの塔の見方では「預言する」の句は成就するとは言えなくなります。

キリスト・イエスも、『約束の聖霊』が到来するときには『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』と言われました。これは、『この世』を糾弾するという意味であり、反論の余地のない言葉を語ることも『終りの日』の印であることは、それぞれの福音書からも明らかではありませんか?
『大いなるバビロン』とは『聖なる者たちの血に酔う』、つまり権力を誘う宗教の集団であり、神からの言葉に反対し、聖霊に逆らうという大罪を犯して、自らも同じ酬いを受ける事になると言うべきものです。


他方でものみの塔が、聖霊の働きをほとんど無視してきた理由といえば、「聖霊で油そそがれたクリスチャン」という人々をエホバの証人の内部に居ることにしてしまったからでしょう。
ですが、聖霊の働きに関わる言葉を無視するほどに頑なである集団に聖霊が降ることが期待ができるものでしょうか?(ルカ11:5-13)

やはり、『聖霊』の理解からしますと、「油そそがれたクリスチャン」と聖書中の『聖なる者たち』とは明らかに別ものです。
その最も異なるところは、聖霊の賜物が無いという一言に尽きます。
「聖霊で油そそがれたクリスチャン」には、予告されたような聖霊による宣教は不可能です。
そのために聖霊も無い多くのエホバの証人を肉による労役の世界宣教に従事させてきたのですから。

確かに出版物にはこうあります。


重要なのは救いの音信であり,奇跡ではありませんでした。奇跡は音信の真実性を証明したに過ぎません。そのこと,および神がクリスチャン会衆を用いておられる事実がひとたび確立されるや,霊による奇跡の賜物は癒しを含め,もはや必要なくなりました。

<ものみの塔誌1981年12月1日p7>

こうした見解の表明は一度だけではなく、長い期間に亘り定説化してきたもので、もはや、変更は難しい、いや不可能というべきでしょう。それが「油注がれたクリスチャン」の存在を揺るがしてしまうことになるからです。⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への見方

では『聖なる者たち』が現れ、本当に聖霊による奇跡の言葉を語るときに、ものみの塔はどのような反応をするのでしょうか?
これが『大いなるバビロン』に関する皆さんの最も重要な問いとなるでしょう。これこそは、異教や心霊術に潔癖であるよりも遥かに重大な問題となるでしょう。
ものみの塔に留まって、聖霊に反対するとなれば、それはどういうことになるでしょうか。

聖なる者たちの血の罪を負うものとされて、公権力を介した神の復讐にエホバの証人も含まれるなら、おそらくは「預言の通りに迫害される時が来た」と思い込んでしまい、そのまま終わってしまわないものでしょうか。

エホバの証人の皆さんは「天的成員」を見間違えてきたのであり、聖霊を真に注がれた人々を待つべきではないのですか?




⇒「大いなるバビロンの滅び

⇒「誤解されてきたバベルの塔

聖なる者たちの声に信仰を働かせ、彼らを支持する人々は、実際の攻撃を受けることなく保護されることでしょう。
.⇒「ヨエル書の蝗害を解き明かす黙示録

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