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10.二つの世代が重ならない理由

2015.09.27 (Sun)

エホバの証人の皆さんが特に希望を託してきた一言がイエス・キリストの語った「終りの日」の預言の中にあります。
『これらのすべての事が起こるまで,この世代(ホ ゲネア)は決して過ぎ去りません』という中の『この世代』という一語こそが、永年エホバの証人の方々の注意をひき付けてやまない言葉となってまいりました。

かつて「ものみの塔」は、この『世代』というイエスの言葉を根拠にして、頻繁に次のように主張し続けていたものです。
”イエスは、「これらのことがすべて起こるまで、この世代は決して過ぎ去らないであろう」とはっきり言われました。この点に注意してください。現存する悪の制度とあらゆる悪の終わりは、その世代のすべての者が死ぬ前に来るのです。”
この引用文は、二十世紀中のものみの塔の出版物によく見られたフレーズで、エホバの証人の信仰の特徴を形作ってきたものです。つまり、聖書的年代計算から導き出された1914年という年が『この世代』の判断基準であるとのことです。
ですから、この『世代』の一語が「1914年」と共に、エホバの証人や周囲の方々、また共に聖書を学んだ人々に与えた影響は非常に大きなものとなってきました。

しかし、1914年は遠く過ぎ去って前世紀の事となり、『世代』が尽きることを理由に緊急感を煽る外部への宣教方法は減退せざるを得ない時代に入ってしまいました。いまでは「二つの世代が重なる」との弁明によって、いよいよ終わりは近いと緊張感を増す理由にされ、それに対する内部の方々の反応といえば、組織への依存をますます強めるばかりのように見受けられます。

その原因は、このような特定の時間的切迫を警告する近代英米の覚醒運動系の宗派が、これまでの歴史上で尽く失敗を重ねてきている中で「ものみの塔」以外に年代計算の信仰で延命している宗派も見当たらないからでしょう。年代信仰とは、自分たちだけは数字で宗教上の正解を出したと思い込まなければ、とても信仰を保てないほど脆弱な「教理」だからです。

しかし、この種の「信仰」は「ものみの塔」独自のものではなく、19世紀の英米では流行していた「信仰」でありました。
1914年に見えないキリストの臨在が始まったので「終わりの日」の災厄が起こり始めたというこの教理は、もともと19世紀アメリカの覚醒運動の唱導者ウイリアム・ミラーが『7つの時』は2520年であると主張していたものを、やがてものみの塔の創設者となる若き日のラッセル師がアドヴェンティスト派(N.H.バーバー)を通して19世紀から採用し始めたものです。ですからラッセル師が、神の時が来れば「正しいクリスチャンが天に召される」と主張したのも、この創唱者がまさしく覚醒運動の延長線上の「信仰」を持っていた証しです。⇒再臨待望 Wiki

ただ、1844年にそれが起ると唱えて「大失望」を刈り取ったミラー信望者の年代計算を、ラッセル師は1914年に修正したことにより、覚醒運動を延命させる試みをしていました。しかし1914年が過ぎても彼らの願っていた「正しいクリスチャンの天への召し」は起こらず、ラッセル師と追随者らも失望しなければなりませんでした。しかし、この年に第一次世界大戦が勃発していましたので、これが後のエホバの証人の基礎教理を形作ることになります。それでも、この時点で今日のエホバの証人のようには『世代』の信仰を持つには至ってはいませんでした。その1914年にキリストが到来し、この世のすべては終わるはずであったからです。
⇒ミラーからラッセルへの系統樹

しかし、20世紀に入ると「現存する万民は決して死することなし」との講演を二代目の代表者が行った1920年を経て、21世紀の今日に至るまで『世代』の教理は、ものみの塔を特徴づけると言ってもよいほどの基本的信条として、神の王国による新体制の到来時期への信仰に継承されてまいりました。「1914年からひと世代でそれが起る」と信じ始めたからです。

この『世代』の解釈が、第ニ世紀までに書き終えられた聖書の記述と、ずっと後代の彼ら信者たちとを強く結びつけ、アドヴェンティスト派と同じくキリストの臨在を興奮のうちに永遠の命と共に迎えるという、刺激的で、既に神の是認に入ったような幸福感を伴う教理として今日まで保持されています。

特にものみの塔では、キリストの臨在が1914年から始まったとするところが特徴でありました。しかし、今日ではすでに一世紀を経てしまいましたので、「ふたつの世代の生涯が重なる」と訂正され、引き続き『その世代』という言葉への執着は続いています。そこに「楽園に入る」というエホバの証人の方々の最大利得が懸かっているからのことでしょう。
いずれにせよ、イエスの語られた『この世代は決して過ぎ去りません』というこの一言に時間的期待をかけていらっしゃるのでありましたら、その信仰の本質はミラーの運動とさほど変わるところがありませんし、18世紀に始まった時間的幸福感を誘う覚醒運動の余波がこの21世紀にまで引き伸ばされているという事は間違いのないところと言えましょう。

エホバの証人の方々の信仰では、その『世代』の言葉を他ならぬキリストご自身が語られ、さまざまな「終わりの日」の患難も「この世代」の内にすべてが終わり、願わしい楽園をもたらす『王国』が到来するとの説明を受け容れた結果として培われたものでしょう。
それはもうすぐそこまで来ていると励まされ続け、様々な困難に立ち向かい、自己犠牲にも邁進して来られた方も少なくないものと存じます。それこそが人類の唯一の希望であると信じていらしたのであればそれも当然の反応と言えましょう。

また、第一次世界大戦が勃発した1914年が一般的にも歴史上の転換点とされていることもまさしく事実でありまして、ラッセル師が世の終りの到来、また追随した人々の昇天ということでは、予告した通りではなかったにせよ、世相の状況分析によらず、その年が歴史学上で何かしら徒ならぬ時となるとのことであれば、予め計算された年がそうなったことも事実であります。

では、キリストの預言された『この世代は過ぎ去らない』との言葉は、ものみの塔の主張の通りに患難が続く時代の長さを知らせることがやはりその目的であったのでしょうか?マタイなどの終末預言を拾い読みしますと、なるほど、そのような印象も受けます。

さてそこで、別の預言の中での主イエスの言葉を見ますと、ユダヤとエルサレムの滅びについて、このようにも言われています。
『あなたの敵が,先のとがった杭でまわりに城塞を築き,取り巻いて四方からあなたを攻めたてる日が来るからであり,あなたの中で石を石の上に残したままにはしておかないでしょう。あなたが自分の検分されている時を見分けなかったからです。』(ルカ19:43-44)

「神殿の石が石の上に残らない」とは、オリーブ山上での「終わりの日」の預言の中でもイエスの語られた言葉であることはよくご存じのことと思います。
これらの双方の場面で語られた『石』に関する言葉は、共に西暦七十年に成就することになるローマ軍によるエルサレムの滅びを確かに予告した言葉でありましたが、これも歴史に明かされる通りです。

また加えて、当時のユダヤの体制が『検分されている時を見分けなかった』ことがユダとエルサレムの荒廃の原因であったことをイエスはルカ福音書で語っています。(ルカ19:44)
それは、戦争や地震があったかどうかという情勢の観察を求めるものではなく、ユダヤ人に年代計算が出来ていなかったということでもありません。イエスという奇跡を行う人の現れをどう捉えるかという問題で躓いていたというべきでしょう。(ヨハネ5:38-40)

奇跡の業を行い、見事に語るナザレ人イエスにメシアの到来を認められない問題がユダヤ人にあったからです。
使徒ヨハネの言う通り、『神に信仰を持っていない者は神を偽り者としているのです。なされた証し、つまり、神が証人としてご自分の子に関してなさった〔証し〕に信仰をおいていないからです。』との使徒ヨハネの言葉は、まさしくイエスの奇跡の業を見た上で否認したユダヤの世代の罪として、イエスも指摘されました。イエスの奇跡について、彼らは『だれも行わなかった業を見た上で、わたしもわたしの父をも憎んだのです。』(ヨハネ第一5:10/ヨハネ15:22〜24)

つまり、ユダヤ人は「奇跡を行うメシア」の到来によって信仰が『検分されていた』のであって、これはマラキのユダヤ体制への警告の言葉からもはっきりと分かることです。マラキは、契約の使者であるメシアについて『彼の来る日にだれが忍べるであろうか』と警告していました。(マラキ3:2)
そのため、ユダヤ教のラビたちは、これを「メシアの患難」とさえ呼んで恐れていたことがタルムードに記されてもいます。⇒安息日の運搬規定
そしてまさしくユダヤ教体制派はメシアの災いを被ることになりました。

ですから、そこで「年代」からメシアに気付くべきだったと主張するには、かなりの無理がありますし、年代計算が『検分されていた』と云えば、これは的外れである以外に言いようもないことは同意して頂けるものと存じます。

信仰に篤いユダヤ人であれば、メシアの到来に気付いた人々は、どんな年代であろうとも、奇跡を行うナザレのイエスを見て気付き、その価値観からメシア信仰を懐いたことでしょう。それが「神の証し」であったからです。

奇跡の業について、イエスは当時の世代の問題についてこう言われました。
『もしわたしが,ほかのだれも行なわなかった業を彼らの間で行なっていなかったなら,彼らには何の罪もなかったことでしょう。しかし今,彼らはわたしもわたしの父をも見,そのうえ憎んだのです。』(ヨハネ15:24)
このようにユダヤの『世代』は、イエスを通して目撃した『父の業』を否認し、サタンの力だと言ってはメシアを退けたこと、つまり、聖霊の働きをはっきりと見ていながら、それを冒涜するという赦され難い罪を行い、またそこで裁かれたのです。

イエスは『世代』が何を行うかについて、このようにも言われました。
『彼はまず多くの苦しみに遭い,この世代から退けられねばなりません。』(ルカ17:25)
ここでも『この世代』(ホ ゲネア)という言葉でイエスは話されました。つまり、メシアを退ける『世代』であったと語っていたのです。

では、『この世代』という問題の言葉を「メシアを退けた世代」としてイエスは言われたのでしょうか?

ルカ福音書を見ますと、次のように書かれております。
『世の基が置かれて以来流されたすべての預言者の血がこの世代に対して要求されるのである。アベルの血から,祭壇と家との間で殺されたゼカリヤの血に至るまでが。そうです,あなた方に言いますが,それはこの世代に対して要求されるのです。』(ルカ11:50-51)

イエスは度々『この世代』について言及されますが、それぞれに良い意味は見出せません。
『邪悪で姦淫な世代』『不信仰でねじけた世代』と手厳しく呼ばれます。

それは使徒の時代になっても変わらず、ペテロはあのペンテコステの日に集まってきたユダヤ人の群衆に向かっては、『この曲がった世代から救われなさい』と繰り返し説き勧めておりました。(使徒2:40)
パウロも、『曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子供となる』ことを教えております。(フィリピ2:15)

また、バプテストのヨハネは、当時のユダヤに与えるキリストの影響について、『その方は聖霊と火であなた方にバプテスマを施すでしょう。 [穀物を]あおり分けるシャベルがその手にあり,その方は自分の脱穀場をすっかりきれいにし,自分の小麦を倉の中に集め,もみがらのほうは,消すことのできない火で焼き払うのです』と警告していました。(マタイ3:11-12)

確かに、西暦七十年にはユダヤとエルサレムは戦火によりローマ軍の蹂躙するところとなりましたが、それこそは「火のバプテスマ」であり、無用な籾殻を『火で焼き払う』という表現に合致していると言うべきでしょう。
他方で、キリストに信仰を持った人々はあのペンテコステの日から、聖霊のバプテスマを受け、『小麦』として倉に集められております。

これらの背景を考えますと、ひとつの観点が浮かび上がってまいります。
つまり、イエスは『この世代』という言葉を用いたときには、時間の長さを表す意味としてではなく、明らかにメシア到来による「裁き」があった『世代』の悲惨な結末を言われています。それは予めマラキが『彼の来る日にだれが忍べるであろうか』と警告していた通りです。(マラキ3:2)

そのとき、ユダヤ律法体制が目的としていたはずのメシアへの信仰にユダヤ人は到達することもなく、却って退けてしまった決定的な背きの世代の生きている間に、その処罰としての「報いが必ず臨む」という意味で『この世代』と言われたという事に他なりません。

これこそは、ものみの塔の中では、ずっと背景に押しやられてきた観点であると言えましょう。それも、特定の年代1914年をキリストの支配の始まりと見做す観方に強く傾いていたので、何事も20世紀の事柄に当てはめようとした結果です。
しかし、キリストの世代当時の観点から見ますと、オリーブ山でこの言葉が語られてから、西暦七十年までの期間が37年であったことに気付くでしょう。
それは、エジプトを出たイスラエルの世代が過ぎ去るのを待って荒野をさまよい始めてからの38年間とほぼ同じ長さであったことになります。いずれの『世代』も四十年を越えるものではありません。

やはり、オリーブ山上で『これらすべてのことが起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません』とイエスの語られたその通りに、その世代に対してユダとエルサレムの滅びが遅れることなく見事に起こっているのです。
もちろん「ふたつの世代が重なる」というような説明をする必要もありません。

まさしくイエスの語られたままに物事は生じており、『この世代』と言えばまさしく『この世代』であったのです。神の預言の言葉とは、このように違えることのなく成就するというべきでしょう。

ですからイエスの語った『世代』という言葉は、患難の続く期間の長さがどれくらいになるかについてヒントを与えるためではなく、処罰としての滅びが遅れることなくその世代に臨むことを知らせていたと理解すべき言葉であったことは明らかです。

ラッセル師の算出した「1914年」とラザフォード判事の「ひと世代」を組み合わせて案出された「時の予測」も、今では100年をさえ経過していますが、これは「いよいよ終りが近い」証拠でしょうか?この冗長な年月の経過と、キリストの言葉の引き締まった確かさを比較しますと、どうお感じになられますか?

では、ものみの塔の『世代』の捉え方はイエスの語られたその言葉の意味を得そこなったのでしょうか?
おそらくはそうでしょう。
聖句の関連から学べる教訓や、実際の歴史と整合していないのが見えるからです。

それでも1914年に拘りたい理由があるとすれば、「楽園での永遠の命」が素晴らしいと思えるからかも知れません。確かに聖書は「永遠の命」を否定はしていないものの、いつ実現するかの年代を信じた方々にそれを請合ったのは、神でも聖書でもなく「ものみの塔」というアメリカの新興宗教であったことになります。

他方で、福音書の中のイエスの終末預言では、戦争、飢饉、地震、疫病という災厄については補助的に語られていますが、その主要な部分といえば、読んだ通りに弟子たちに臨む苦難や誘惑があることと、それに弟子らがどう向かい合うべきかという教訓で占められております。

しかしラッセル師は、アドヴェンティスト派からの影響を受けて、年代を探るというアプローチから聖書を観るようになりました。それはW・ミラーに始まる19世紀アメリカキリスト教界の教理の流行でもあったことは、ものみの塔の「ふれ告げる」の書籍からもうかがい知れるところです。実際、若きラッセル師は1878年にもアドヴェンティストのバーバーらと共に、自らが天に召されるものと信じていて失望する結果を共有していたのです。⇒C.T.Russell

実際、ものみの塔の解釈にはアドヴェンティストと共通するところが幾つも残されています。年代計算による時の予告だけでなく、それが期待通りに実現しないときには「天での成就」を主張するところは、ただその年数が違うばかりのことであり、ほかにも「魂はその人そのもので、その人と共に死ぬ」というアドヴァンティストの一派の女性教祖ヘレン・ホワイトの理解がそのまま用いられているようなところがあります。

ラッセル師が教理を借りてきたアドヴェンティストの方はといえば、予告していた1843年の携挙が起らなかったために、相当数の信者を失っています。これは「大失望」と呼ばれていますが、それでも残った人々は、特にエレン・ホワイトを中心にその信仰を続け、予告は外れたのではなく、実は人には見えない天界でキリストが新たな奉仕を始められたのだという「新たな解明」を唱えて、このグループは、セヴンスディ・アドヴェンティスト(SDA)として現在も活動を続けています。

このような英米の「覚醒運動」の時代には、科学が応用された発明が相次いで社会が急速に進歩し、欧米の生活が格段によくなっていました。それは人間の叡智を信じる時代の到来でもあり、残された聖書というフロンティアの謎を説き明かす人間の能力に重きか置かれ、科学的に聖書にアプローチする試みが多様に為されました。高等批評もそのひとつと言えますが、19世紀のキリスト教に年代計算が流行する時代の潮流もあったので、ものみの塔の年代計算を信じた人々は、19世紀の蒙昧な誤りの中に信仰を持ち、現代も留まっていると言わざるを得ません。

残念なことに、年代計算が流行した時期はオリエント考古学が急速な進展を見る直前の時期であったため、19世紀からの年代の様々な仮定はその後に再考と訂正を余儀なくされてゆき、やはりラッセル師の理解も例外とはなりませんでした。

今日のものみの塔の年代主張である、前607年のエルサレム陥落が、以後の考古学の研鑽の結果と20年ほどずれているのは、ラッセル師の活躍なさった時期に原因があります。オリエント考古学の進歩より幾らか早すぎたのです。
それでも、ものみの塔は今日まで再考も訂正もしない道を選んできています。そのようにしなければ1914年臨在説が成り立たないところで譲れないものがあるからでしょう。

ですが、特定の年代を論証することがキリスト教の本旨なのでしょうか?
また、「聖書」とは人間の叡智で解明できるような書であったでしょうか。将来への「預言」とは年代を言い当てて救われるべきものなのでしょうか。
エホバの証人が、間違いなく「ご利益信仰」を行い、人の内面ではなく「気付いて信じた者が助かる」という利己的で狭い見識のパリサイ的な思考を懐いていることでは、本来のキリストの精神とは真逆です。⇒ 一神教の盲点

19世紀当時の聖書の密議を科学的に知ろうとする試みは、実際にはラッセル師がそうであったように、ピラミッドの構造や寸法などを根拠にするなど、オカルトの範囲に踏み込んでいましたが、その「疑似科学」による、人間叡智による探求、また、それが新たな信仰の形をもたらしたと思えたような痕跡が、この組織の発行になる古い資料に残されております。⇒世代の図表

ながらく証人のお一人でいらしたなら、きっとピラミッドと年代をかけ合わせたような図をご覧になった事がお有りでしょう。
これは当時には先進的とされた思想の流行を偲ぶには良い、アンティーク臭の漂う資料にはなるのでしょう。しかし、もはや19世紀のカビ臭い遺物です。三位一体が中世の荒唐無稽な誤謬であるように、今や1914年説誕生から三つの世紀の時を跨いで、ラッセル師由来の年代計算といえども、実は廃墟のように古びていないものでしょうか。

中東の発掘により考古学がようやく進展しつつある最中に、大胆にも前607年がエルサレム破壊と王権断絶の始まりであったと言い切ったところは、振り上げた拳が高すぎ、その後に考古学が進展するに従い、やはり1914年を導き出した起点である年代も考古学の進歩から取り残されてしまったところは否めません。

ラッセル師がその年代計算を発表した1876年の頃では、オリエント考古学は今日ほど解明されてはおらず、アッシリア史を解くアッカド語の資料が解読されている途上にあり、シカゴ大学に著名なオリエント研究所が設立されたのは1919年のことで、シュメール語が読めるようになったのは1930年のことでありました。

そればかりでなく、エレミヤの語った「70年」のラッセル師の解釈は、それ以前からの解釈(1823年J.A.ブラウン)をそのまま踏襲したものとなっておりまして、若きラッセル師が当時に流行した聖書解釈を寄せ集めていた姿が窺えます。ですから、前607年という年代に留まり続けるのも、19世紀のままに足踏みし、人間の叡智の進歩について行けなくなった証拠というべきでしょう。

しかし、よくよく聖書を読みますとエレミヤの70年の解釈も、預言書の筆者らやエズラの意図するところをかなり得損なっていたのが読めば分かるのですが、これをなぜ誰も指摘しなかったのか不思議です。エホバの証人は世界中に八百万人も居るはずではないのでしょうか。「エレミヤの七十年の終点から起点を探る」

そのうえ、ものみの塔の信仰箇条は年代が間違っているだけに留まりません。
このように古びた擬似科学的、またオカルト的な教えでは、イエスの終末預言に込められた弟子たちへの人格的で重要な訓戒のメッセージが置き去りにされてしまい、「何がいつ起こるのか」を言い当てるという、倫理性を置き去りに、聖書に隠された謎を探るような、魔術に似た「謎解き」の領域に追随者を引きこんでしまったというべきなのでしょう。こうした信仰の本質は、単に「生き残る」という身の安全に関心が向かいます。しかし、「神の裁き」というものは、察知して回避するべき災害のようなものなのでしょうか?

しかし、これはキリストの精神からすると相当に異質です。「神の裁き」はサバイバルを要する災害とは異なるからです。
初代の聖霊注がれた弟子らは、主イエスの訓戒に従い殉教さえ覚悟していました。つまり『死んでよみがえらされた方のために生き』たからで、けっして、キリストが自分たちのために死んでくれたのだと悦にいってはおりませんでしたし、メシアの到来を時の計算から時期を予測して備えるという事とも無縁です。

もちろん、危険を避けることは誰にとっても必要な行動ではあります。
しかし、人の内面を吟味される「神の裁き」は「危険」なのでしょうか。
患難がいつ起こるかの秘儀を聖書中に発見し、警報を鳴らして救われようとすることなのでしょうか?

そうではなく、イエスの教訓はメシアを退けたユダヤの『世代』のようになって、自分の正しさに頑なになり、却って滅びの側に立ってしまわないところにあるのではありませんか?

それこそはパリサイ人に例証されましたように、「その人の心はどうなのか?」という問いでありまして、正確な知識や善行を誇ることではありませんでした。
キリストの当時の宗教家たちは聖書に通じ、暗唱できるほどの人々であり、道徳的に振る舞うことでは相当に自信のある人々でありましたが、イエスをメシアと認めた人々のほとんどは、彼らではなく大衆であったわけですが、彼らは時を見分けたのではなく、イエスの奇跡にメシアを見出していたからです。

ものみの塔では、1914年からひと世代でこの体制が終わり楽園となることを正面に大きく掲げ、人々の期待を集めてまいりましたので、『この世代は過ぎ去りません』という言葉は”イエスの保証の言葉”とも、”創造者の約束”とも雑誌で宣伝されました。

しかし、イエスの言葉が裁きの執行を指していたのであれば、年代を知っただけで救われる理由は果たして何でしょうか?
ものみの塔は、この差し迫った大患難を知らせる人、また、滅ぼされるこの世とは異なる生活をすることを条件として信じる人々に請け負ってきたことは事実です。様々な禁止事項を守り、この世の終りを宣明することが救いの道であると言ってきたのです。

ですが、害が身に及ばないよう避けることよりも、イエスの訓戒の意味を知り、神がなぜ世の裁きをもたらすか、何が許されない事なのか、その意向を探る事こそをけっしておろそかにできません。イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われるのであり、裁きの要点は「道徳規準」や「組織の見分けや宣伝」とも言えません。まして年代に信仰をおく事とは到底言えません。(マタイ12:31)

ですから、『世代』という言葉に「楽園」までの期間の終りを信仰することは危ういことです。
それを信じるなら、ご自分に架空の「緊急感」を煽られことを許し、非常なストレスの中で自己義認の妄想に陥ることになるでしょう。

どこの宗派が正しいという考え方を別にしても、「神の裁き」を前にして、エホバの証人だけはもう救われて「楽園」に入ることにしてしまっているのですから、本当に終末が臨む時には、自分が神の是認にあると思い込んで律法体制と命運を共にしたパリサイ人と同じ道を辿る危険が濃厚ではありませんか?

パリサイ人も永遠の命を求めて聖書を調べ、相当に精通していたのですが、その動機に最も重要なものが欠けていることをイエスに指摘されています。聖書を知り尽くしていながらメシアを見落したからです。(ヨハネ5:39-44)


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しかし、より重要な事柄が何であるかを新約聖書は繰り返しはっきりと教えています。
神の意向また訓戒とは、メシアが『雲の内にあって』再び地上に関わられる本当の臨在のときに、「聖霊の言葉」を退けてしまわないようにすることを含んでいることはまず間違いありません。『なされた証しに信仰を置かないなら』ユダヤの『世代』と同じ結果を買い取ることになるでしょう。(ヨハネ第一5:10)

ヘブライ人の手紙には『今日,もしこの方の声を聴いたら,あなた方は,苦々しい怒りを引き起こした時のように,荒野で試した日のように心をかたくなにしてはならない。』とあります。(ヘブライ3:7-8)

「終わりの日」には、弟子たちは王や高官の前に引き出されますが、そこで何が起こるかをルカはこう記録しています。
『また何を言うかについて思い煩ってはなりません。聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教えるからです。』

しかも、その聖霊による言葉がこの世を糾弾するものであることを教える主の言葉をヨハネはこう記しました。
『そして,その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』(ヨハネ16:8)
この『納得させる』(エレグコー)とは「糾弾する、 誤りを示して言い開きを要求する」という意味があります。

ですから、ルカ書の終末の預言の中で、イエスはこう言われます。
『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。』(ルカ21:15)

マタイは、弟子らが総督や王たちの前に引き出される理由について、『彼らと諸国民に対する証しのためです』と明記しております。ですから、これは世界を揺さぶる音信となることでしょう。(マタイ10:18)

そこで、これらの句に加えて思い起こされるのがハガイの預言でしょう。
『あと一度 ―それはしばらくのことであるが― わたしは天と地と海と乾いた地とを激動させる。またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。』(ハガイ2:6-7)

これは聖霊を通して行われる本当の意味での「世界伝道」ではないのでしょうか。
本当に聖霊で油そそがれた人々がこの世に存在しているとすれば、このように際立った宣教を行っていることでしょう。
終末の人類を羊と山羊に二分するほどの裁きをもたらす宣教とは、不確かな人の言葉でなく、聖霊によって神が介入されると信ずべき理由がないでしょうか?

これに信仰を働かせるなら、聖霊で語る『聖なる者たち』に支持を表して救いに入ることになるでしょう。それは『羊と山羊』の例えに示されている通りす。しかし、聖霊の言葉を話していない人々、契約の奇跡のしるしを持たないただの人々を支持する理由が何かあるでしょうか?それは相手を間違えていませんか?

パウロは、聖霊がその人に押された『証印』となることを教えておりますし、当時の宣教は『霊と力の論証を伴うもの』であったとも記しております。(エフェソス1:13/コリント第一2:6)
また、その聖霊の賜物を『霊の顕現』と呼んでおりますが、皆さんの「油そそがれたクリスチャン」については、表象物に預かる他に『新しい契約』に入った証しを何か持っていらっしゃるのでしょうか?(コリント第一12:7)

もし、本当には聖霊を注がれた人々がこの世に現れていないのであれば、「終りの日」また「キリストの臨在」は1914年に始まってはいないという可能性を検討すべき理由があることになります。

その「終りの日」に、聖霊によってキリストの大使としての役割を果たす人々が現れるとき、かつてのユダヤ体制のように、それを退ける『世代』に含まれてしまうとすれば、どれほど年代のしるしに関心を払おうとも、イエスの預言に含まれた教訓からは何も益を得ないことになるでしょう。これこそ極めて注意深くあるべき問題ではありませんか?




・1914年という年代計算の根拠は、考古学だけでなく聖書記述がそのものが否定しています。
⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

・キリストの終末預言の意義は、弟子らに教訓を与え、忠節の試みに備えさせることにありました。時代を見分けるというだけのレベルにはありません。
⇒「マタイ福音書の終末預言と例え

・戦争、飢饉、疫病などはキリストの臨在の開始の印ではなく、大患難そのものに深い関連があります
⇒「黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か






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8.問われるのは従順か愛か

2015.09.12 (Sat)
神の裁きで問われるものは


「神の裁き」と聞けば、誰しも幾らかの怖れを抱くものです。
キリスト教世界では、人は死後に天国か地獄かに分けられると教えられますからく、その違いはたいへんなもので、それを想像するに恐れもひとしおです。
カトリックでは、「地獄」は永遠に出て来られないほど恐ろしい責め苦の場所です。それでも出て来ることのできる「煉獄」や「辺獄」というものもあるそうです。

エホバの証人の皆さんには、賢明にもヘブライの古来の理解に基づき死後の世界の一切は存在せず、地獄などは異教のものであり聖書の誤解に過ぎないことはよく理解されています。
この点で、今日のものみの塔の創始者であられたチャールズ・テイズ・ラッセル師は、「地獄にホースを向けて火を消した」とも評された人でありました。これは迷信の中に固執したままのキリスト教界にあって、画期的な理解の回復と言えましょう。

やはり、人々が地獄を恐れて善行に励み、悪を避けるとすれば、その働きは犯罪を取り締まるこの世の権力とあまり変わるところがありません。
外部から力を誇示して人々を威嚇牽制し、人々に悪行を避けされるという方法はこの世の有様と同じです。誰であれ、人間の倫理性など当てに出来るようなものではないからです。

架空のものとはいえそれを信じさせることができるなら、人々の悪を抑え善を行わせるのに地獄ほど効果的なものもないでしょう。人の見ていないところでも神は見ているので、隠された悪事も最後には裁かれると教えられるからです。
永遠の責苦を与えるという「地獄」の教理は、この世の権力が治められない人目に隠れたところでも効果を発揮できる優れた統治法としてこの世の権力に協力してきたことでしょう。

ですが、ご承知のように律法に守るユダヤ教はともかく、キリスト教は根本的に外から力で規制するようなところはありません。
ギリシア語聖書に見られる教えの根本は、恐れによる拘束にはなく『愛』にあり、それは人を内面から変化させるものであります。

「愛の使徒」とも呼ばれるヨハネが次のように書いたのも、キリスト教ならではの教えと言えましょう。
『愛には恐れがなく,完全な愛は恐れを外に追いやります。恐れは拘束となるからです。』(ヨハネ第一4:18)

また使徒パウロも、上なる権威に従うよう述べた後にこう述べております。
『愛は自分の隣人に対して悪を行ないません。ですから,愛は律法を全うするものなのです。』(ローマ13:10)

そこで、キリスト教徒は警察のような『上なる権威』によって外からの圧力で悪行を抑制される必要がないようにとパウロは訴えたうえで、『愛』によって導かれ自ら行いを制御することがキリスト教徒の本来の姿であることを指摘しています。

ですから、「地獄」の恐怖によって『拘束』されるのでしたら、その人は自由から発するアガペー愛というキリスト教の根本精神を知らないというべきでしょう。パウロはキリストについて『死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するため』に犠牲となられたと書いております。

しかし、『恐れは拘束になる』としましても、それは神の裁きを恐れなくてよいことにはなりません。
パウロは、悪行を行うことについて、次のようにも述べているからです。
『あなたは,こうした事柄を習わしにする者たちを裁き,同時に自分がそれを行なっていても,自分のほうは神の裁きを免れられる,というような考えを抱いてでもいるのですか』(ローマ2:3)

では、神は裁きにおいて人の何を問うのでしょうか?これはまことに重要な問いと言う以外ありません。

ものみの塔が主張しますところでは、神に善悪を定める権利があり、その原則的規準に従うかどうかでその人の善悪が決まるとのことです。ですから”神のみ前での是認された立場を個人的に維持する”のだそうです。(ものみの塔誌1997.8/15 p29)

もし、そうでありますなら、たとえ「原則」という言葉のオブラートに包むにしましても、神は善悪を定めその規則を履行させることでは、この世の権力者と変わらず、『裁き』という外的圧力で人々を拘束することになります。

その教えで「地獄」を用いてはいないとしましても、「ハルマゲドン‪の滅び」という外からの力の規制を用いているとしますと、地獄と比較してどれほど優れた意味があるものでしょうか?

神が人々に求めるものとはなんでしょう? もし、善悪の規準を受け入れ、その法を守ることであるとしますと、それはキリスト教の本質である『愛』や『信仰』との間に超え難い溝を生むことになってしまいます。
なぜなら、それでは律法制度のユダヤ教にいつの間にか戻ってしまっているからです。神の御前での是認が、キリストの犠牲が捧げられてなおも、規準に適うかどうかという「個人の行いの義」によってもたらされるかのようにされるという以外にありません。

確かに、ノアの日の大洪水の前、また、ロトの日のソドムでは人々は道を踏み外しており、その報いとして土地もろともに水や火の裁きを受けました。

しかし、キリストが『世の罪を取り去る神の子羊』となって屠られたことにより、人々には『義者と不義者との復活』が可能となり、『よいことを行った者も いとうべきことを習わしにした者も』どちらもが復活すると言われたことは聖書に記され、動かし難いものとなっておりますが、そこは皆さんにも異論のないところでしょう。

死んだ人々は既に『罪の酬い』を受けていますので、キリストの犠牲を介して復活するのでしたら、その後の選択はアダムと同様に完全なものとなるでしょう。生前のことは不問とされ『罪』なく復活するからです。それゆえパウロも『人がただ一度かぎり死に,そののち裁き[を受けること]が定め置かれている』と述べておりますが、それは復活後に、アダムのように倫理での完全さの内に試されることを言うのでしょう。(ヘブライ9:27)

その復活につきましては、原始キリスト教をいくらか調べますと、まことに興味深い教理を有していたことを知ることになります。
使徒ヨハネの指導を受けておりました第二世紀小アジアのキリスト教徒たちは、ニサン14日に主の晩餐を守るだけでなく、復活については「早い復活」と「千年王国後の復活」があり、その二つの復活を分けるものが神の千年王国であるとの理解を得ておりました。これはスミルナ出身のエイレナイオスが主著「異端反駁」(V:32:1)に述べております。 ⇒「復活」-綱領-

そしてこの理解はアレクサンドリア写本やヒエロニモスが精査して訳したウルガタ訳に存在する『残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった』という啓示20章5節とも一致します。(ヴァチカン写本は当該部分散逸)

啓示の書を読みますと、千年期の前の裁きはキリストによって行われ、その『早い復活』は『キリストと共に千年のあいだ王として支配』する人々のためのものでありますが、千年期の後の復活については『大きな白い座とそれに座っておられる方』による裁きでありまして、こちらは神ご自身による最終的な裁きを表しているのでしょう。

復活した人の以前の『罪』は、その人の死の『酬い』によって相殺されておりますので、そのままにアダム同様に裁きの上では全き選択を行うことができるはずであり、復活した人々に贖罪の一環としての聖書レッスンが必要である、などとはまるで考えられません。『義とされる』事と『知識を得る』事とが別物であるのは、イエスを退けたユダヤの宗教指導者たちに見えてはいないでしょうか。彼らは聖書を暗唱しているほどの知識をもっていたのですが、その知識のためにかえってメシアに気づかず殺害してしまったのです。

人の復活については『その業は完全』という全能の神が人を復活させるのに、不完全な業を行われる理由が何かあるでしょうか。
聖書も『罪』を持った不完全な復活を述べてはおりません。このあたりは聖書から非常に端的な理解を得ることができます。

千年の後の裁きは、エデンの園の中央にあった二本の木で象徴されていた選択に相当するものでありまして、アダムが『善悪の知識の木』から食べたように創造者への忠節な愛を選ばないとしますと、やはり同じように永遠に命の木からは象徴的にせよ食べることはないのでしょう。

使徒ヨハネは、『すべて愛する者は神から生まれており,神について知る』とも、また『愛さない者は死のうちにとどまって』いるとも記しております。こうして、神がアダムに永遠の命をそのまま与えなかった理由が見えてまいります。

それは、創造者が知的創造物との間に愛という絆を望まれたのであり、それは創造者への忠節に表れるはずでありました。
アダムはサタンの籠絡にはまり、強い誘惑の下で忠節な愛を示さなかったので創造物として正統な『神の子』とは見做されなくなり、生涯に亘る労役の果てにいつかは死にゆく者とされました。

しかし、独り子イエスは創造者を『父』と呼ばれ、忠節な愛を全うし、全創造物の前で創造主に対して忠節な愛を示すべきことを立証され、その『死を通して』、サタン以下のあらゆる反抗者を沈黙させ『無に帰せしめる』ことになったのです。(ヘブライ2:14)

パウロはこれを『一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです』と述べております。(ローマ5:18)

神が終末の裁きにおいて人々に求めるものは、それが千年期の後でも前でも変わるところがありませんし、それはエデンの二本の木がアダムに求めたものと本質的に同じもの、つまり、創造物が創造者との絆を選択するかという「愛」の問題に帰するでしょう。そのようにして初めて、人は『神の子』の立場を得ることになります。

しかし、長らく道徳的であることに、神の是認があると言われ続けてこられたエホバの証人の方々でしたら、神との関係には絶対的に従順で道徳的な行状が必要であるとの信念は動かし難いものがあることでしょうし、そこでノアやロトのようなキリスト以前の道徳的模範者になることが、ご自分の救いの証拠であるとの考え方を後にすることに、非常な危惧を感じられることでしょう。そのような行状に伝道活動や道徳律を守る平素のエホバの証人としての活動を行うべき根拠が、楽園での永遠の命としてずっと提供され続けてきたからです。

もし、その捉え方が正しいのでしたら、キリストは道徳的模範者のために何を犠牲にできたのでしょうか?
また、イエスは収税人や娼婦ら、罪深いとされる者に寄り添い、宗教的には異端的なサマリア人への偏見の無さによって何を教えていたのでしょうか?
もちろん不義や放縦が良いわけではありませんが、それを避けている道徳性がそのまま『義』とはいえません。
この点で、キリスト教はやはりユダヤ教とは大きく異なっているのではないでしょうか。律法によって道徳者になろうとするユダヤ教は、もとよりそれが不可能であり、唯一律法を成就なさったキリストの犠牲への信仰によって救われるとの教えがキリスト教の基本中の基本であったことも、同意されることでしょう。

むしろイエスは、『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されますが,霊に対する冒とくは許されません。』と言われました。即ち、キリスト・イエスや直弟子たちに聖霊が注がれ、奇跡の証しが立てられたときに、それを信じるかどうかということであり、当時の道徳的模範者であり聖書を知り尽くしていたユダヤ教の指導層は、これにまったく躓き、最悪の行いをしています。(マタイ12:31/ヨハネ第一5:10)


ですから、神が裁きにおいて人に問われるものは、善良さでも、従順さでもないと言えますし、これは危険な暴言ではありません。世の人々を救うものは道徳的清さでも、敬虔さでもないでしょう。
もし、キリスト教というものが人を道徳的に振る舞わせるものであるなら、それは他の宗教でも可能なことで、キリスト教である必要もありません、キリスト教の本質はキリストの払った犠牲の価値にあり、それは他の誰も代わることが出来ない『罪』の赦しをもたらしたことにあるでしょう。

キリストは『罪人を招くために来た』とも『世を裁くためではなく、救うために来た』とも言われています。
それは瑣末な「行いの義」を誇るユダヤ人の宗教的常識とはかけ離れたものであったため、多くの宗教家は却って躓きを覚えたほどであったのです。キリストは一定の道徳規則に従っている人々を是認したのではなく、むしろ『律法を知らないこの民は呪われている』と言われていた「地の民」と親しく交わり、清さを自認する宗教家らとは度々口論することさえあり、それが彼らの怒りを買って、ついに磔刑に至ることになりました。
彼らには、『義』というものが自分の努力や行動で得られるものであった以上、キリストの犠牲の価値が分からなかったという以外になんと言えるでしょうか。

一方での神の裁きに於いて、行いの清さが求められるというのは、聖霊を注がれた『聖徒』が祭司のように『聖なる者』であるよう求められるという『新しい契約』によるもので、キリスト『義』に浴していち早く『神の子』とされる聖なる者たちには求められて然るべきことです。清くないものが人を清めることなどないからであり、『聖徒』には依然としてアダムの罪がありながらも、『契約』によって義が仮承認された状態に入っているのですから、自ら敢えて汚れた行いをするなら、それは『契約』に従っているとは言えなくなり、それは彼らが天に召されるに際しての『汚点や染』となり、あるいは『契約』を全うしなかったと見做され、肉のままで地に残されることにもなりかねません。

ですから、ギリシア語聖書の道徳規準の存在はキリストと共になる契約に預かる『聖徒』に求められる当然の清さではあっても、誰でもが道徳的であれば救われると捉えるのは明らかに間違っています。それはキリストの犠牲の価値を低めるものであり、キリスト教の最も基本的な教えから真逆の方向に逸脱しています。そのうえ、再び業を誇る高慢な「パリサイ派」を生み出してしまう誤りでもあります。

神が人々に求める事は道徳性ではなく、神と人を愛することであり、初めて神を知る人々にも、神の存在とキリストを通したその人間への忠節な愛あるご意志に信仰を働かせ、その愛に応えることを望んでいらっしゃるに違いないのです。(ミカ6:8「親切」=「忠節な愛」)
その「忠節は愛」(ヘセド)というものは、キリストを犠牲とされたこと、またキリストご自身が見せた、神と人への愛を貫く無私の姿勢とを通して世に対し、まことに見事に表明されております。

この愛に倣うことはどこかの宗派に属することで安心を得ようとすることにはなりません。思想信条からの正義感は人々を分かち、愛を抑制してしまうものですが、神の裁きはまことに公平であり、裁きのときまでにその人がどのような宗教を信じているかを問いませんし、どのような思想を抱いているかも関係がありません。「羊とやぎ」の例えのように、聖霊によって語る『聖なる者たち』の発言を聞いて、『信仰』を働かせ、彼らを支持するか否かが問われるのではありませんでしたか。(マタイ25)

また、神の裁きは、ただ恐れて保身を求めるべきものではなく、神のご意志に深い価値を認め、それを支持しようと願う積極的な活力を人にもたらす利他的なものとなり得るでしょう。
つまり、神の裁きを前にして、自分のためではなく、神に同意し、その側に立ち、ご意志に協働しようとする敢然たる態度を表明する機会ともできるのです。そのような人はハルマゲドンでの身の安全を願う利己的な人であるとは思えません。恐怖を動機としていては利他的には振舞えず、却って脅す者の奴隷となってしまいます。

神の裁きでは、その人の過去は一切問われないことでしょう。
ヨハネ五章の、行ったことに応じて『命の復活』と『裁きの復活』に出てくるのは、聖霊注がれて亡くなった聖徒たちに関わるものであり、その裁き主は、聖徒たちの『隅の親石』であるキリストでしょう。
そのイエスはやはり『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』とまで言われるのです。(マルコ3:28)
そこでは、世の裁きの根拠が「道徳性」ではなく、『聖霊』に対してどう振る舞うかであることをキリストは明言されているのです。これは従順かどうかということではなく、「自発的な賛同」、つまり信仰が促す「忠節」が求められているのです。

加えてパウロはこう述べます。『キリストの持たれる愛がわたしたちに迫る(強く促す)のです』。何をでしょうか?
『彼がすべての人のために死んだのは,生きている者たちがもはや自分のために生きず,自分たちのために死んでよみがえらされた方のために[生きる]ためである。』(コリント第二5:15)

それはキリストが見せたような能動的な姿勢でありまして、滅びから救われたいだけの受け身の姿勢ではありません。
ですから、道徳に神経質でいかめしい裁判官の姿を、愛の神に見るべき理由はないのです。
もろもろの世の罪のためにキリストの犠牲が捧げられたのであれば、道徳を厳格に要求する意味が神に何かあるでしょうか。(詩篇130:3)

このような『信仰』は、単に自分がキリストの犠牲に預かり救われることだけを願う態度にはなりませんか。
例えれば、教会の信者席は「ノアの箱舟」に相当する語「ネーヴ」で呼ばれます。
それは、信者たちの救われたいという願望を巧みに取り込んだ僧職者の発案と言えるでしょう。確かに教会ではバプテスマを受ければ救われていると教えますが、ものみの塔もこのキリスト教界からの影響を免れているとは言い難いようです。

ですが、「クリスチャン」はもう贖罪されているわけでも、またはそれが確定しているわけもないのです。(箴言20:9)
(それは契約に預かる『聖なる者』だけが仮に得られるものです(ローマ8:1))
もし「クリスチャン」がすでに救われているなら、神の裁きはその人にとってもう終わっていることになります。そこでは許しの根拠として、その人の「信仰」や「バプテスマ」であると聖書の字面を追っただけの不合理な理由づけがされることでしょう。それでは一般の教会の教えと変わるところがありません。

「全人救済論」を採らない大半の教会の方々の悩みのひとつには、「クリスチャン」ではない身近な人々が信仰の無いために神に裁かれ、永遠の責苦を受けることになるのを予期しなければならないというものがあります。それが親しい人の場合に特に辛いそうです。このあたりは、ものみの塔もそう変わるものではありません。

「そのためにも伝道している」とおっしゃるかも知れません。しかし、聖書を追ってまいりますと、神もキリストもそのように偏狭で残酷な方ではありません。それは「全人救済論」(すべての人が無条件に救われる)の教理が正しいというのでもありません。やはり聖書にはすべての人が裁かれる『神の裁き』が明らかに記されているからです。

ですが、すでに救われた状態に入ったとは、聖霊を注がれた『新しい契約』に預かる人々だけについて述べているのであります。彼らはキリストの血の犠牲により『新しい契約』に入り、聖霊を注がれ聖なる者となったのですから、『清い行状と敬虔な専心』を示し、一定の清さが求められたのは、レヴィ族祭司と同じことです。千年期前に復活する古代の聖徒らには、人生を忠節の内に終えたか否かが問われることは確かに避けられません。『多くを委ねた者には、多くが求められる』からであり、彼らはキリストと共なる祭司なのですから。

しかし、聖霊の無いその契約の外にいる一般の人々については、千年王国での贖罪が待たれているのであり、「羊とやぎの例え」のように、契約の中にいる人々に対して信仰を抱いて親切を行うか否かで初めて分けられるのではありませんか。(テサロニケ第二2:13/ヨハネ17:20)
そして真実で純粋な愛の行いとは、脅しの無い自由さの中で初めて行われるものです。

それでしたら、ご自分がエホバの証人で、ものみの塔という組織に所属することがノアの箱舟のような救いをもたらすと考えてよい理由が何かあるでしょうか? そこにあるのは、滅びへの恐れから神の言葉への神経質に「従順」を示して、自分を守ろうとする保身の利己的動機ではありませんか。その心が真に神に向かうでしょうか。

つまり、「組織が救いをもたらす」と信じたのでは、神の裁きを前に我が身可愛さで救いを求める教会員と何ら変わらないことにならないのです。 「永遠の責苦」ではないものの、「永遠の滅び」があなたの身近な不信者の方々に臨むことを予期なさるのでしょうか。そのためにも宣教に励むのですか?

その前に一度冷静にお考えください。
神の裁きから逃れて、もう救われているという安心感を求めるその姿勢が、神の『この世』の全体に救いを行き渡らせるご意志よりは、あなた個人の安泰に関心を寄せていることを表してしまってはいないのでしょうか。
それでは、キリストに激しく反対したパリサイ派のように利己的で、キリスト教の精紳とは逆のものではないのでしょうか。

教会員は洗礼を受けたので救われたと信じます。同様にエホバの証人は規準を守るので楽園に行けると期待します。
それを決めたのは人であって、神ではありません。
どちらも神の裁く権限を尊重するよりは、自分の救いを優先してしまい、神がなぜ裁くのか、何を人に求めているかにはさして関心はなく、むしろ単純な規則にしてもらった方が自分の救いの要件が分かりやすくて良いのです。誰が救われるかが、もうそこに見えるのですから、それは人々を正義感で分断してしまう教えではありませんか?

それですから、どれほど熱心な宣教を行うにしても、社会一般から利他的と思われることはないでしょう。『この世』を救いに値しないものとして裁いてしまい、あたかもご自分は清く、社会を汚れたものと見下しているのであれば、そのパリサイ的な優越感は宣教において隠しようもなく見抜かれているでしょう。それとも、あなたご自身は契約に入っていて、もはや『世のもの』ではなくなったのでしょうか?(ヨハネ第一5:18-19)

ですが、あなたは「世の人」の中にも人格的に優れた人を認めることがあり、また組織の中にその逆も見てこられてはいませんか。
それが自然な感覚が知らせる真実の声ではないのでしょうか。つまり、エホバの証人も世の人も、神の御前には何ら変わりのない『罪人』なのです。(ローマ2:14)
それにも関わらず、良いものを良いとは言わず、そのような自然な感覚を振り払ってまで組織の観念に合わせるなら、おそらくは神にも評価されるべき人の美を見過ごすことになり、そこに学んで人格的に進歩することを拒むことにもなるでしょう。それは「偏狭」と呼ばれる精神です。

パウロは神を奉じない外部の人々の悪行について述べたあとで、このように信者に忠告します。
『それゆえ,人よ,あなたがだれであるにしても,[ほかの者を]裁くなら,言い訳はできません。他の人を裁くその事柄において,あなたは自らを罪に定めているからです。それは,裁くあなたが同じことを行なっているからです。』(ローマ2:1)

そこでキリストの臨在の期間において最も重要なのは、組織に所属して道徳的に振る舞うことで身の安全を図ることではありません。それは明らかに恐れと利己心を動機としています。
その人の示す「従順」というもっともらしい外見も、自分の救いのためのものではありませんか!その証拠に、恐れのためにさまざまな規則で縛られているのです。
むしろ、これから来る真の「神の裁き」に備えて、あらゆる人が利己心を避けるべきであり、自分で信仰上の決定を心の曇りなく行えるよう、様々な人づての教えで判断を邪魔されないようにしておくべきなのではありませんか。(ヘブライ12:25)

奉仕区域の一般の方々は、皆さんが自分と同じような人であるにも関わらず、その優越感や救われるつもりでいらっしゃることを、また、背後にある「見返り」を望んで、誰かに従順にしていらっしゃることを、おそらくあなたが思うよりはよほど敏感に、また語られなくても直感的に察知しているものなのです。それは皆さんの善意も熱意も相殺し兼ねないその人の反発をわざわざ誘っているのです。

考えてもみて下さい、いったいどれほどの人が「自分は清いという」パリサイ人の訪問を喜べるでしょうか? 「区域が硬い」とおっしゃる前に、他の人を組織の仲間にすることでのみ「救う」という、そのご自分の律法主義的なお考えは如何なものでしょうか。

そうなりますと、皆さんが懸命に宣教をなさる動機の中には、それを通してご自分も「箱舟」のような組織に中にいらっしゃる実感を増し加えることを願っていることも含まれていることになります。
その「信仰」の中心といえば、神のご意志よりは、そのハルマゲドンでの滅びを回避するという人間の思惑にあるからです。

もしそのようなら、仮に証人の誰かが組織から否とされるとなれば、永遠の命や神の是認から疎外されると感じるようになってはいませんか。
それは『神の裁き』と「人の裁き」のすり替えではないのでしょうか。これはあなたご自身の将来の重大な決定に影響するものとなるわけですから、もちろん「軽い問題」ではありません。

それは実質的に『神の裁き』を待たずに「組織が神の裁きを前倒し」することでありまして、神のご意志を度外視してしまい、人間の設けた厳しく狭い規則で人々をすでに裁いてしまっていることにはならないでしょうか。それは人をして「神の経路」や「代弁者」と称える以上の僭越さというべきでしょう。

あなたが望む人に永遠の命を得させたいと願われることはごく自然な情ではあります。
ですが、それは本来、神に属する権限でありますから、それゆえにも「神の裁き」があるのでしょう。明らかに人や組織がどうこうできるものではありません。 しかし、ものみの塔は教会同様に、それを請合ってしまってはいませんか?

はたして、愛する人のためにひとつの宗教組織に入らせ留まらせようと躍起になることがその人への愛になるでしょうか。
または、組織から否認された人を交友から閉め出すことが神の義の実践となるでしょうか。
いいえ、愛にも義にもなりません。そこでは道理や情愛を欠いた非人間的な無理が起こるだけでしょう。

それは神の裁きとは何ら関係がなく、人間の設けた基準を条件に人々をすでに裁いてしまっているばかりです。
しかも、世を救う憐れみ深い神を、偏狭な道徳と誤った信仰を要求する厳しい方として恐れさせ偽り伝えているのです。これをあなたご自身はどう思われるでしょうか?

『神の裁き』は、終りの日に『聖霊』を介した発言を聴き、それに「信仰」を抱き、その発言をする『聖なる人々』を支持するか否かによるのであれば、エホバの証人の皆さんは、この重大な『神の裁き』の要点を『聖霊』のない人間の宗教組織に入るかどうかという人への「従順さ」に、いつの間にかこっそりと置き換えられてしまっているのではありませんか?

その教え手がどれほど善意を抱いていると主張していましても、その教えの意味するところはキリスト教の精紳とは逆のもの、律法的なものでありましょう。
これは真の『神の裁き』が到来するときに、あなたご自身の救いの願いとは裏腹に、非常に危険な事態にご自分を置くことにならないものでしょうか。

裁きで求められるのは「従順」の結果としての所属でもなく、規則の道徳でもなく、自発的な「信仰」と「愛」ではなかったのですか?(ローマ3:27-28)



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キリスト教信仰

2015.09.06 (Sun)

基督教信仰とは、単に「神の存在を信じる」ことではありません。
もし、そのような信仰なら、その人にとって何の意味もありません。
何故なら、『悪霊たちでさえ、信じて慄いている』とあるのですから、滅びゆく悪霊と同じであれば何の意味があるでしょうか。むしろ、神を怖れることでは、一般の人々よりは悪霊の方が優ってさえいるとも言えるでしょう。(ヤコブ2:19)

基督教を信仰する意義は、「世の救い」にあります。
『世』とは、神から離反してしまった人間社会の全体を指しています。(ヤコブ4:4)
そしてこの世を支配しているのは、神でもキリストでもありません。(ヨハネ12:31/ヘブライ2:8)
そのために神は御子イエス・キリストを『世』に遣わされ、人類救済を託されたのです。キリストには「任命された者」の意味があります。(ヨハネ3:16)

ですから、基督教信仰とは、このキリストに、信仰者個人を超えて人類全体の救済が掛っていることを信じることを意味するのです。(テサロニケ第一5:9)

その救済の手段として、キリストはアダムが堕罪によって失った罪のない魂を、自らの魂と引き替えに神の前に捧げ、人類の全体が罪の許しを得られるよう、人々の罪を担って死を遂げられました。(ローマ5:18)
この死によって、神の前に罪が許され、人々が創造されたままの優れた姿に回復され、様々な苦しみから解放され、こうして空しい生涯から救われ、永遠の命に至ることを信じることが、基督教信仰の基本です。(ローマ5:21/イザヤ53:3-5)

そこで、崇拝の対象は神だけであっても、信仰の対象は神だけではありません。(ヨハネ3:18/14:1)
ナザレのイエスをメシア=キリストとして認め、そこに贖罪がかかっていることを信じる必要があります。(使徒4:12)
それですから、キリスト教とは「○○神を信仰する」という単純なものではありません。イエスがキリストであることを信じる「メシア信仰」があってこそユダヤ教を超える第二段階のキリスト教に到達できるのです。ユダヤ教はキリストが来られたことを認めていないため、その以前の段階に留まっています。

キリストを信仰するとは、個人の御利益や成功を求めるものでも、神から離れている『この世』の変革を目的とすることでもありません。(ヨハネ第一2:15)
この世に起こることの全てに神の摂理があるわけでも、悪魔が悪を引き起こしているのでもなく、我々の住む世界は自動化された法則の支配の下に置かれおり、そこで人々の当て所もない所業が休むことなく海の波のように揺れ動くばかりです。(イザヤ57:20/コヘレト9:11)

そこで良い事があれば神のお陰、悪いことが起これば悪魔の仕業というのは、まったく的外れです。
ひどい苦難に遭うとき、神はいるのかと訝る必要もなく、何か物事が上手く運んだときに、それが特に神の行われることであったと思い込む必要もありません。この世のありさまは常に変化しており、一々反応していれば単なる縁起担ぎになってしまうでしょう。

また、聖書を人生の案内書のように、あるいは、この世を生きる上での幸福をもたらす導きの書、また自分を救ってくれる本と看做せば、この書の中に込めらた意義深さに幾らも到達出来ないでしょう。

またユダヤ教については、神の律法に従うことで神の是認を得ることを目的としています。その律法には無数の付則が付け加えられて、ユダヤ教徒の生活のあらゆるところに指導が与えられています。しかし、ユダヤ教は神の是認に達しませんでした。却って、極めて貴重なキリストを退けた為に、イスラエルは神との契約も恩寵も失い、歴史的価値以外に他の民族と特に変るところは無くなりました。その原因となったのはキリストへの信仰の欠如です。そこで彼らはいまだに預言者の約束したキリストを待ち続けてはいますが、律法の規則への従順は既に意味を失っています。(ルカ13:28-30)

そこで神の選民は、血統上のイスラエルから取り上げられ、キリスト信仰による『神のイスラエル』へと移されています。その証拠がキリストの弟子らへの聖霊の奇跡の賜物であったのです。それはどの国民にも与えられるものとなりました。(マタイ21:42-43/ガラテア6:16)

そこで、更にもうひとつの対象への信仰があり、それが『聖霊』と呼ばれる神に発する御力に対するものです。(マタイ28:19)
つまり、イエスが行われた奇跡の『父の業』であり、弟子たちが引き継いだ『より大きな業』に対する信仰と言えます。(ヨハネ10:37-38/14:11-12)

この『聖霊』に対する第三段階の信仰を得なければ、真実にユダヤ教を後に基督教に達することはできないでしょう。『聖霊』こそが『新しい契約』に介在し、それを証しするからです。(ローマ15:16)
そこでイエスが『人はあらゆる罪を許されるが、聖霊への冒涜だけは許されることがない』と語られ、『聖霊』が起こす「奇跡の業への信仰」が『この世』を裁くものになることを教えられています。『聖霊』は『この世』が終わるときに再び地上の弟子らに注がれ、誰も反駁できない神の言葉を語らせることを聖書は繰り返し予告しているのです。(マタイ12:31-32・10:17-20/マルコ13:9-11/ルカ21:12-15/ヨハネ16:7-8)

キリストが世を去るときに『神と子と聖霊の名に於いてバプテスマを施す』ように使徒らに命じたことの意味はここにあり、神が三位一体だと言ったのではありません。三者は別のものとして信仰しなければ、聖書を把握することは不可能です。
つまり、「創造の神」、「創造物の初子であるキリスト」、「神から発する力でキリストが遣わす聖霊」の三つへの信仰を積み重ねて、救いに至る道が拓かれるのです。

また、今後もユダヤ人の個人的転向を期待するのは間違いではありません。しかし、神の恩寵ゆえに、終末にキリストが現れてユダヤ民族としてキリスト教への大量改宗を期待することは、新約の文言からして間違っています。それは旧約聖書においても「回復の預言」の意味するところを取り違えており、この「回復」には、諸国民への聖霊の灌ぎ出しがかつて起きたこと、また将来に起こることを預言者は知らせているのです。そのときには現在までの異教に汚れたうえに幼稚な「キリスト教」も浄化されることでしょう。(エゼキエル39:28-29/ヨエル2:28-32/マタイ10:17-20)
それはまた、キリストの犠牲による『新しい契約』が、ユダヤ教の『律法契約』よりも遥かに高次元である意義も偉大さも理解してはいないことを露呈するものでしかありません。(エレミヤ31:31-34)

クリスチャンと称する人々がユダヤ教に戻るかのように、エルサレム神殿の建立に賛成する理由はまったくありません。
キリストの一度限りの犠牲が捧げられたことがどれほど重要であったかを弁え知るなら、どうして再び動物の犠牲を捧げる崇拝方式に価値を見出せるでしょうか。しかも、その神の御名の発音さえユダヤ教からは去ってしまい、終末の聖霊の注ぎが起らない限り、その本当の名を人類の誰も知ることはないでしょう。(詩篇22:22)

諸国の人々が、イスラエルとその人々から学べることはいまだに多くありますが、ユダヤの宗教習慣に従う必要はなく、むしろキリストによる『新しい契約』が奇跡の聖霊をもたらすこと、また数々の旧約聖書の言葉が、新約聖書によってどれほど大きな対型的意義を獲得したのかに注意を促してこそ、キリストの弟子と言えましょう。

キリスト教の神髄は、規則に従うことではなく、自発的な愛アガペーによって動かされるところにあり、倫理的欠陥という人類共通の『罪』を認め、一重にキリストの犠牲に信仰を働かせ、神とキリストが『王なる祭司、聖なる国民』を聖霊を注いで召し出した人々の現れを切に願い求めることにより、「神の象り」に創造された人間本来の神の子としての自由な姿を願うこと、これが聖書教の到達するべき最終目的であるのです。それを実現するのが、終末に現れる『神の王国』、真のアブラハムの子孫の国であるのです。

神の王国の支配と贖罪を経験した後、人々は政治も宗教も必要とはしなくなるでしょう。
実に、政治と宗教とは、人間にとりついた『罪』という倫理上の欠陥への対症療法に過ぎないからであり、『神の王国』こそが、根本治療となるからです。


-追-
キリストの血を介した『新しい契約』と、それを証しする『聖霊』と、それをを受ける『聖なる者たち』、これらの中にキリスト教の『奥義』があります。(エフェソス3:5-6)
その全容は『世の基が置かれて以来、隠されてきたこと』であり、キリスト後の『聖霊』の到来によって、それは『奥義の家令』パウロのような人物を通して初めて世に明かされました。原始キリスト教の重要さはここにあります。即ち『奥義』(ミュステーリオン)を有しているのです。(マタイ13:35/コリント第一4:1-2/コロサイ1:26)

しかし、『世』はこれを知るようになっていませんし、これからも知ろうとはしないでしょう。(コリント第一2:7-8)
それに価値を見出さないからであり、それは人々の一般的な傾向が神と相容れないものであるからでしょう。(ヨハネ第一3:1)

キリスト教徒さえもが神に取入ろうとして、善行に励み規則に従い救われようとしますが、これはまったく的外れです。ユダヤ教を繰り返し、改めてキリストを無に帰せしめようとしていることになるからです。(コロサイ2:21)
ですが『奥義』の成就は個人の救いに遥かに勝り、神の栄光となる偉業です。(テモテ第一3:16/コロサイ1:27)

それでも、キリストの当時と同じように『聴く耳のある者』がまるでいないということもないように思えます。(マルコ4:9)
『奥義』にはある人々の価値観を刺激するものがあるからです。(マタイ13:44-45)
それでも、大半の人々は神の悠久の時に亘る偉業にも価値を感じず、何ら反応することもないでしょう。
自分自身に実利がないと見做すからです。その人々に原始キリスト教の信仰は無用でしょう。



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