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ヨブ記への誤解  -宇宙論争-

2015.08.23 (Sun)
7.被造物の忠実にヨブ記を持ち出す誤謬


エホバの証人の皆さんにとって「ヨブ記」といえば、サタンと神の論争を知らせる書として思い浮かべることでしょう。
サタンはそこで、どんな者をも神の側から引き離すことができ、また、神に純粋に無私の動機で仕える者はいないと主張しているという説明を受けられたことと存じます。

それは「被造物の忠実」とも「宇宙論争」とも関連付けられ、このようにサタンが神に挑戦した論争に答えるのはあなたご自身であると説かれたのではなかったでしょうか。
皆さんの生き方によっては、神の側を支持することにもなれば、サタンの側を支持してしまうことにもなるということです。つまり、行動によって人は善と悪、神と悪魔との間を行き来するとの見方です。

このヨブ記ですが、この書全体の意義を探りつつ丹念に読み込んでゆきますと、実際にはこの書の主要な論点が別のところにある事が見えてまいります。

では、ヨブ記という著作の役割はどんなところにあり、その全体の主題は何でしょうか?
やはり、人の忠実を巡る神とサタンの論争を教えるための書なのでしょうか?


さて、ヨブ記は分量からしますと出エジプト記より短いのですが、たいへん長い文章であるかに錯覚させるところがあります。
それは何と言っても、ヨブの三人の友との論戦が第三章から三十二章まで、格言的な言い回しで絶え間なく続くところに原因があるのでしょう。

ですが、このヨブが神とサタンの間で忠実さを試されたというところがこの書の本旨であるとすれば、それはむしろ誤解で、この書の意義は逆ですと申し上げれば、エホバの証人の方であればきっと意外に思われることでしょう。それでもヨブ記を最後まで丁寧に読みますと、キリスト教界で広くこの書の意義を逆に捉えられていることが明らかになってまいります。
この書の全体を注意して見直すなら、どなたもお分かり頂けると思いますが、ヨブは「忠実」を試されたのではなく、むしろ彼の「正義」の方に問題があったのです。

まず、この書は単純に三つの部分から構成されていると見なすことができます。
第一が導入部で、ここで道徳的なヨブという人物を巡って神とサタンの論争があり、そのためにヨブに試みが臨んだことが描かれます。
その苦しみはまことに深刻で、いつ果てるともなく辛いものであったことが描写されて後に、見舞いに来た三人の友との論争が延々と続く記述を第二の部分とすることができるでしょう。

そこまでの内容は、ヨブという義人をこれ以上なく引き立てております。
つまり、他ならぬ神ご自身によって『彼のような人,とがめがなく,廉直で,神を恐れ,悪から離れている人はひとりもいない』とされます。(ヨブ1:8)
これはたいへんな褒め言葉ではありますが、このように賛辞を聖なる神から受けるとはいったいヨブとはどんな人でしょうか。

そこでサタンはさっそくに反論を始めるのですが、この反論というのがヨブ記全体の観点からしますと、あたかも反論になっていないかのようです。
なぜなら、究極まで忍耐を続けたヨブの忠節な言動が呆気なくサタンの二度の言い分を打ち負かしてしまい、かえって、ヨブの高潔さを強調してしまっているからです。その後、敗北したサタンは話の舞台に姿も見せません。
ものみの塔はヨブ記の主要な価値を、この導入部で示されるヨブの道徳性に見出しているようなのですが、ヨブ記はまだ始まったばかりです。

それから、ヨブの三人の友が見舞いに訪れますが、これも見舞いになりません。
ヨブには何か問題があって、神はこのような災いを彼に下したに違いないと、彼らは様々な方面からヨブを吟味し責め立てます。
しかし、ヨブは繰り返し執拗に問いただされても、最終的に三人を沈黙させてしまいます。
こうして、ヨブは友らの審問にも打ち勝ち、まったく義なる者と認められるに至ります。(ヨブ32:1)

この第二部までを眺めますと、神とサタンの論争も、三人の友の審問も、ヨブ記の中に在って同じ働きを果たしていることが見てとれます。特に三人の友らの審問は徹底的にヨブの道徳性を磨き上げてゆきます。
ですから、それらの試練は、ヨブという人物がこれ以上なく清廉潔白な道徳者であるということを強調するための描写となっていることに気付くでしょう。

すでに、神ご自身からヨブのような者はひとりもいないとされたところでさえ、ヨブがいかに道徳的であるかは充分に証しされていると言えましょう。
しかし、ヨブ記では、そこにサタンの試みを付け加えて念を押し、更に三人の友らのしつこい審理もあわせて、これ以上なくヨブという人物の道徳性の描写を極限まで高めます。
つまり、サタンも三人の友も、「最高度の義人ヨブ」の肖像を描くための絵具や筆のような役割を負っていると見ることができるのです。


ヨブ記の本論

そこでヨブ記はいよいよ本論へと入ってまいります。
この書の主要な論旨はエリフという新たな登場人物の発言をもっていよいよ始まるのですが、このエリフの主張からヨブ記は明らかにその潮目を変えるかのように内容が一変してまいります。

ヨブの道徳性が完璧にまで高められたからこそ、その後のヨブ記の内容に重みが加わり、この書はそこから結論に向かって一気に駈け下るかのように進みます。

エリフの発言の要旨において、まさにヨブが勝ち得た「義」そのものが問題とされてゆきます。
つまり、ヨブは自らを完徳者としてしまい、神の義を押し退けてしまったと指摘されるのです。

エリフの発言はこのようです。
『神が答えないからといって、あなたはどうして神と争ったのか』。(33:13)
『あなたは言った、「わたしの義は神に勝る」と』(35:2)

ここにヨブ記の重要さが在ります。
つまり、ヨブの道徳性がどれほど高いからといって、人間の義を神の義の上に高めるべきではないと戒めているのです。

エリフはヨブの義をまるで評価しません。こう言うのです。

『あなたが正しくても、あなたは神にいったい何を与え得よう。
神は、あなたの手から何かを受けられるだろうか。

あなたの悪は、ただ、あなたのような人間へのもの。
あなたの正しさも、ただ、人の子らに関わりを持つだけに過ぎないではないか。』(ヨブ35:6-8)

ここに至って、再び神ご自身が登場なさいます。大風に乗ってヨブに近付かれるとこう云われるのです。

『あなたはわたしの裁きを無効にするつもりか。
自分を義とするために、わたしを罪に定めるのか。』(40:8)


こうしてヨブ記はいよいよ結論を迎えることになります。
ヨブは自分の道徳性、自分の義に惑わされ、神こそが義であらせられるという基本的な真実から遠くはなれてしまっていました。
彼は、自分が義人であることを示そうと躍起になる中で、神は自分を救うべきであると主張し、自分の義で神の行動すべきことを決め付けていたのです。

遂に、誤りに気付いたヨブは、自らを修正するに至ります。
『私は自分の言葉を撤回し、塵と灰の中で悔い改めます。』(42:6)

彼の類い稀な高潔さも、この結論を導き出すための極めて希少な材料となっていたことがここで明らかになります。
こうして、神がなぜヨブを祝福したのかが見えてまいります。
それは彼が最後まで道徳的で忠節を保ったからでしょうか?

そうではありません!その逆というべきでしょう。
ヨブ記の巻物は、律法と共に存在してきたとされますが、登場人物が全員、非イスラエル人であるこの書は、律法遵守による行いの義を追求するユダヤ教とは異なり、非常にキリスト教に近い意義を持っています。それゆえにも、律法と共にずっと存在し、律法の傍らに在って補完してきたとも言えるほどです。

彼がこの試練を通して達した結論は、人がどれほど清廉潔白であろうとも、神の義に勝ることはけっしてなく、自らを誇るべきでもなく、それはかえって自分を正義の主人公にすることでは不忠節でさえあるのです。
最後にこれに気付き、自らを正したヨブを神は祝したのであり、その悔いを神は喜ばれたのです。


キリスト教に近いヨブ記

さて、ヨブ記とは神とサタンとの間の人の忠実論争を知らせるのがその主旨でしょうか?
ヨブはサタンに打ち勝ったのですか?
わたしたちもヨブのようになって、「神に純粋な無私の動機で仕える者はいない」というサタンの主張に反論する必要があるのでしょうか?

被造物の忠節についてはヘブライ人への手紙にこうあります。
『ご自分の死によって,死をもたらす手だてを持つ者,すなわち悪魔を無に帰せしめるためでした。またそれは,死に対する恐れのために生涯奴隷の状態に服していた者すべてを解放するためでした。』(ヘブライ2:14-15)
つまり、イエス・キリストの死が成し遂げた事柄について述べております。

すべての被造物が神に忠節であるべきことは『全創造物の初子』であられる独り子イエスの忠節をもって見事に一度限り創造界に証明され、サタンとその側にある者らは『無に帰せしめ』られ、反論の余地は無くなっています。そこに、例えヨブであっても何かを付け加える余地があるものでしょうか。
これについては『一つの罪過を通してあらゆる人に及んだ結果が有罪宣告であったのと同じように,正しさを立証する一つの行為を通してあらゆる人に及ぶ結果もまた,命のために彼らを義と宣することなのです』とパウロも述べているではありませんか。(ローマ5:18)

むしろ、ヨブ記の主旨は、人が自らの道徳性や義のゆえに、神の義を押しのけるべきでないことを教えているのであり、イエスが『王国と[神]の義をいつも第一に求めなさい』言われたのは、パリサイ人のように独善的になって、自分は神に是認されていると思い込むようなことを避けることを教えてはいないでしょうか。

自己義認の恐ろしいところは、人間の義を根拠に、神の上に自分を高めることでありまして、ヨブの場合にも、自分はこれほど義に適っているのだから、神は祝福するべきだと言っていたことになります。

ある宗派の人々が、自分たちの善行を根拠に、神は自分たちを是認していると主張するとき、そこで神の行動を縛ってはいないのでしょうか?

しかし、ヨブ記が示すように、人がどれほど道徳的であろうとも、それが神の是認や祝福を保障することはありません。
キリスト教は、義認は『業』ではなく『信仰』によってもたらされることを繰り返し教えるものであること、それはあなたもよくご存じのはずではありませんか。


では、人を救うものは何でしょうか?

エホバの証人の皆さんは、ヨブのように道徳的な業によって神の是認を勝ち得ると思われますか?
サタンを偽り者とするのに、あたかも「選挙」のように神はあなたの正しさや忠実を必要となさるのでしょうか?

むしろ、悔い改めたヨブのように謙虚に振る舞う事こそが神の喜ばれるところではありませんか。
それには、ご自分やものみの塔だけが正しいという非現実な「人の義」を後にする必要があることでしょう。

神こそが義とされることを願うときに、初めて『神の義を第一に求める』ことができるのではありませんか。(ローマ3:4)
それには神の義が示されることをいつまでであろうと待ち望む必要があります。
エリフはヨブにこう忠告します。
『あなたは、ひたすら神を待つべきである』(ヨブ35:14)

イエスはパリサイ人に『わたしは,義人たちではなく,罪人たちを招くために来たのです』と言われました。
『真理があなた方を自由にする』とは、自らの不完全を不完全と認めることではないのでしょうか。
そうするなら、わたしたちは宗教上の対立や、架空の正義を無理に取り繕い、自らこそが永遠の命に値すると主張する空しい労役のストレス「ヨブの苦しみ」から解かれるでしょう。

人は誰も、道徳的に善と悪の目盛りの上を行ったり来たりしていません。そう考えていたのはパリサイ人ではありませんでしたか?
そこでキリストの大きな犠牲を許した神が、人の行動の良し悪しで一喜一憂なさる理由があるでしょうか?
それぞれの人の行動を、神が好き嫌いで善悪判断すると思われるのはひどい誤解です。
むしろ、イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われます。そのためにキリストは世に来られたのですから。(マタイ12:31)

エホバの証人の方々が負って来た「行いの義」、道徳律を守り、制度化された伝道を毎月行い、組織で模範的であることは、ただの人が付け加えた「重荷」であり、神が期待しないばかりか、それはキリストの犠牲の価値の大きさを侮るものとなってしまいます。
皆さんが、ものみの塔の行動規準に従うことに安心感を持つのは、そうすれば「永遠の命を得られる」と思えるからでしょう。
ですが、ヨブ記が示すようにそれが人の義を立てる根拠にはならないのでしたら、皆さんの努力は「ものみの塔という組織を義とする」業に邁進してきたことになってしまいます。まさしく、ものみの塔は「ハルマゲドンを通過して永遠の命を得るのはエホバの証人である」と言う教えを中心にして来なかったでしょうか。

このことを指摘すれば、多くの方々は「いや、エホバの証人だけが救われるとは言っていない」と反論なさるようですが、それがどれほど、ものみの塔で普段の教えられている内容とはバランスのとれない詭弁であるかは、内心ご存知なのではありませんか。それが証拠に、一定の道徳律に従い、毎月伝道活動に邁進するのも、「エホバの証人が救われる」と思えばこそではないのでしょうか。
それが「エホバの証人の義」と言わずして何でありましょうか? 受け入れ難い事かも知れませんが、その「義」はヨブ記に照らしても間違っています。

人は誰もが『アダムの子孫』であり、「裁かれる前の罪人」であることは動かし難い現実ではないのでしょうか。
そこで必要となるのは、キリストの犠牲に一心に頼る『信仰』であって、自分の業で『義』を立てることではないでしょう。
エホバの証人で、バテシバとの関係での重罪を赦されたダヴィデ王への神の処置に納得がゆかない方がいらっしゃるのも、この辺りの理解が出来ていないからでしょう。やはり、イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われました。(ローマ4:6/マタイ21:31)

ユダヤ教ばかりか、多くのキリスト教の宗派でも「業」による独善的な教理が信じられてきましたが、それらのいずれもが、人間という存在の危うさ、儚さへの不安を解消したいという心理をしたものであることでしょう。
そこで誰かが「これを行っていれば救われる」と言い出すと、それに従ってしまうのも理解できないことでもないでしょう。

メソジスト派は人の生き方(メソード)を教え、セブンスデーアドベンチストは安息日を土曜に守り、モルモン教会は刺激物を採りません。カトリックは善行や秘跡で罪を相殺するように教え、そしてキリスト教界全体は洗礼を受けた信者の救いを唱えてきました。
ですが、聖書を通して、神が『業』による人の義を求めていない事を知らせているのでしたら、それら人間の業は危険な自己満足ではないのでしょうか。神が求めるのは『信仰』であるという動かし難い原則を、それぞれの宗派は何かの理由を付けては実質的に無視し、『業』で宗派に属する益を訴えては信者を囲い込んできたというのが実情でしょう。つまりは教団や指導者の都合です。(マタイ15:9)

ですが、何を行おうと人は誰もアダムからの罪から避けられません。
一方で、神の是認の印は、奇跡をもたらす聖霊を注がれた『聖なる者』だけに示されてきたのです。(ローマ8:1)
是認された人は、誰であれ聖霊の明瞭な印を待たねばなりません。『霊に導かれる人は』キリストの贖いを適用されて赦しを得た『神の子』であるとパウロは言います。(ローマ8:14/エフェソス1:13)
では、霊に導かれるような『聖なる者』が、今日どこに居るでしょうか?

イエスは『もとめ続け、たたき続ける』なら、『天の父は、ご自分に求めている者に聖霊を与えてくださる』と言われます。(ルカ11:13)
神の義を求め続けるところにやがて聖霊は降ることになり、終末には真実の正義が宿ることでしょう。聖霊の注ぎは人間が行って見せるものではありませんから、真実に神の印と言えましょう。(ヨハネ15:26-27)
しかし、自分たちに聖霊はあると思い込んだ人が、それを切に願い求め、またそれを認めるものでしょうか。「自分の義」にこだわって、現れた聖霊にかえって反対するようなことにならないものでしょうか。果たして、ものみの塔の統治体はどうするでしょうか。

ですが、あなたが切に求めてこられたのは真実の聖霊による神の義ではないのですか?
本当に奇跡の業を行う聖霊を持つ人々が現れ、為政者や諸国民への証の証言を世界に向けて行うときにこそ、信仰を働かざることができ、それを支持することもできるのではありませんか。(マタイ10:18)
これこそが『信仰』であり、唯一の救いの道ではありませんか。やはり、この点からしても、人は『神を待つべき』ではないでしょうか?(マタイ24:48-51)





ヨブ記の結論 唯一の正しい宗派があるか
ヨブ記の背景









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6.啓示の四騎士は時代の印でしょうか

2015.08.20 (Thu)
戦争、飢饉、疫病


エホバの証人の方々が信じていらっしゃるように、これらの災厄がこの世界の終わりの日に臨むことはイエス・キリストの預言なさったことであるばかりでなく、更にヨハネへの啓示においても繰り返されていることから、西暦七十年のユダヤとエルサレムの滅びだけにとどまらず、これらの災厄が後の時代にも成就することを証拠立てていることは、まず間違いないものでしょう。

では、戦争、飢饉、疫病などは時代を見分けるためのしるしなのでしょうか?
ヨハネへの啓示の書をもう一度注意して読み直すなら、そこに何か気付けることがあるでしょうか。

主イエスの預言は、その世代のユダヤとエルサレムの滅びと、終末の「この世」の滅びとの二重預言でありました。
その一方で、ヨハネへの啓示の書の中の黙示的預言は、まさしく「終わりの日」のこの世に起こることをもっぱらに知らせるものとなっております。
この啓示は、神に発し、キリストから天使に与えられ、そして使徒ヨハネに至ったものでありますから、福音書の預言と遜色のない真正なものと言えましょう。

その著書の第六章に、四頭の色の異なる馬とその乗り手、つまり「四騎士」の幻をヨハネを記します。
それぞれに、白い馬とその乗り手は、征服に征服を重ねるために出て行く王冠を戴く者を、赤い馬は、人々が無残な殺し合いをして地上から平和が失われることを、黒い馬の乗り手には秤があって、家族の三、四人が一日の食費をまかなうのがやっとという、食料不足の到来を、そして青ざめた馬には「死」がまたがっていて、それが死の災厄、おそらくは疫病をも表しているのでしょう。(エレミヤ29:17/ハバクク3:5)

これらの象徴を福音書のキリストの終末預言とあわせて1914年から成就し、世界大戦と飢餓の蔓延とスペイン風邪の流行による危機の時代の始まりを表していたとの説明に納得なさって皆さんもエホバの証人のお一人となられたことでしょう。


さてヨハネへの啓示の記述ですが、この災厄を表す四騎士の部分をよく見直しますと、この四騎士の後からついて来るもうひとりの登場者をどう解釈したらよいものかと少々悩むところが出てまいります。

それが『ハデス』(墓)の象徴なのですが、四頭目の青ざめた馬の後に続いて現れる意味はいったい何でしょうか?
また、啓示の書のその部分を読み進めますと、この『ハデス』は同じ節の後半では『地の野獣』に入れ替わっているのです!これはまた何故でしょう?

ですが、この最後の登場者が何者かを含めて全体を理解できるようになりますと、この四騎士の啓示の意味がより具体的に、ずっと鮮明に見えるようになってまいります。
しかも、これはこの世の終わりに関わる幻でありますから、すべての人々にとって重要でないわけもありません。



では、改めて四騎士の意味するところから聖書の記述を確認してまいりましょう。

まず、白い馬ですが、冠を戴く姿からしても王であり、征服を重ねるために乗り進むところは、王権を戴いた大いなるダビデとなられたキリスト・イエスを表していることでしょう。そう解釈することは「ものみの塔」が始めたことではなく、第二世紀の著名な教父エイレナイオスによって説かれてきたことでもあります。
キリストが王権を受けるその時がどのような状況であるかについては、幾つかの聖句が示唆を与えています。

詩篇では『地の王たちは立ち構え, 高官たちも一団となって エホバとその油そそがれた者に敵対』する姿が描かれています。(詩篇2:2)
ここでは、権威者たちが既にはっきりと神と任命されたメシアを相手に強い敵意を表しております。

続けて『彼らの縛り縄を引きちぎり, その綱を我々から振り捨てよう』との為政者たちの目的が、神への反抗であることが語られていますから、彼らは互い同士で世界覇権を争っているのではなく、確かに神とキリストに敵意の的を絞っています。

そこで神はどうなさるでしょうか。この詩篇はこう続けます。
『わたしは,まさしくわたしは,わたしの聖なる山シオンに わたしの王を立てた』
つまり、この世の指導者たちがはっきりと神とキリストに敵意を表している状況が訪れたときに、その抗いの行いに対してイエスに戴冠させるということでしょう。

それに同意を与えるかのように、別の詩篇はこう述べています。
『わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは, わたしの右に座していよ。 』(詩篇110:1)

この句によれば、復活したキリストが神の右に座して待つ期間は、その敵が征服されるまでに及ぶということになるでしょう。

このダビデによる詩篇は続けてこうも歌われます。
『あなたの力の杖を,エホバはシオンから送り出して,[こう言われます。] 「あなたの敵のただ中で従えてゆけ」。』

これらふたつの詩篇をあわせて考えますと、キリストの戴冠の時期は地上の為政者たちが、はっきりと神とその王に敵意を示しているというべきでしょう。
それゆえ、キリストはご自分に対立する『敵のただ中』から戦いを起こす危急の時を迎えるのであるからこそ、全能の神も敵らを『あざ笑う』と言えます。(詩篇2:4)
それは類例のない人間と神との戦いであって、諸国家を二つの分けた神の関わらない世界大戦でもないでしょう。

もし、1914年にキリストが戴冠されたのであれば、そのときに誰がキリストに敵意をもって立ち向かい、どこに攻撃を仕掛けたのでしょうか。
まして、「天でキリストは王権を得た」という解釈そのものさえ、二代目会長ラザフォード判事の1920年代以降のものであれば、それ以前の1914年の時点で、いったい誰がその王権に抗おうなどと思えたのでしょう。どうして『縛り縄を引きちぎり, その綱を我々から振り捨てよう』などと言えたでしょうか。

エレミヤの預言には、『エホバが諸国民と[戦わす]論争があるからである。すべての肉なる者に対して,[神]ご自身が必ず裁きを行なわれる。』とありますが、では1914年に神と人とのどんな論争が意識されたでしょうか。(エレミヤ25:31)

またイザヤ書にも、『彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならない』と予告されていますが、どの支配者がキリストに驚かされ、話されていなかったことを聞いて考えなければならなかったでしょうか。

そうなりますと、諸国民も支配者たちも、共にキリストの王権を意識する時期とは1914年には未だ到来していなかった可能性も考えに含めるべき理由が生じてまいります。
では、主イエスが王冠を戴き、白馬に乗って「征服し(更に)征服を完了する」ために出て行かれるその時とは、いつのことになるのでしょうか?



さて、次に現れるのが、火のような馬とその乗り手なのですが、この騎士には長剣が与えられます。
曰く『人々がむざんな殺し合いをするよう地から平和を取り去ることが許された』(新世界訳)とあります。

この句で注目するべきは、『人々が互いに殺し合うように』という原語の意味があることです。
『互いに』はギリシア語の原型で「アッレローン」が用いられております。この語はキリストが終わりの日に人々を羊とやぎに分けるという預言の中でも『ひとりひとりに』という意味で用いられています。

そこで、他の翻訳を確認しますと『人々が互に殺し合うようになるために』(口語訳)『人々が、互いに殺し合うようになるためであった』(新改訳)となっております。英文の新欽定訳もまたそのように訳しています。

エホバの証人のお一人でしたなら、この点でヘブライ語聖書のいくつかの終末預言が思い浮かぶ方もいらっしゃることでしょう。
つまり「同士討ち」がこの世の終わりに起こると知らせる預言です。

これには、百万の連合軍に同士討ちをさせてまったく滅ぼし、エホシャファト王のイスラエルを救われた神の事跡をはじめ、それを含めて『エホシャファトの低地平原』を後に預言したミカ、『その手は友の手に向けて上げられる』という終末の軍役を預言しているゼカリヤ(14:13)、『各人の剣は自分の兄弟に向かうことになる』と預言しているのはエゼキエルです(38:21)。これにギデオンの事跡を加えることも不適当ではないでしょう。

これらの預言者たちの語るところと、ヨハネへの啓示のこの部分に用いられているギリシア語が「アッレローン」であることを考え合わせますと、『火のような馬』をどのように見なすことができるでしょうか。

これはすなわち『ハルマゲドン』の戦いそのものではありませんか?

そのように捉えることで、白い馬に召して乗り進まれる新王キリストの戦いの目的もはっきりとしてまいります。
それこそは神と人との戦いであり、キリストに激高する諸国の権威者は天に向かって攻撃できないので、地上で信仰を働かせる人々に敵して軍を起こすに違いなく、キリストが征服に乗り出されるのは、ご自分の民の救出のためという以外にありません。(ヘブライ9:28)それは臨在の最後の段階に起こる主の『顕現』(エピファネイア)の時になされ、諸国の権力が自壊して打ち砕かれるとき、神の圧倒的な勝利を見るすべての人々は、否応なく『人の子が雲のうちにあって来るのを見るでしょう』。(マタイ24:30)

ならば、『敵のただ中』、つまり敵意の目標を信仰ある人々に定めたこの世の連合軍がまさに攻撃を開始しようとする危急の時となってから、全能の神がキリストに王権を授け、救いのために『征服せよ』と命じられるということにはならないでしょうか。
もともと不仲で、分裂気味に集合した世界の軍勢は何かをきっかけに同士討ちを始めてしまい、『火のような馬』で表された『無残な殺し合い』によって『地上から平和が取り去られ』ほどになるのでしょう。それは世界大戦をずっと凌駕するほどの規模の、多極的戦いのように想像されます。



このようにして啓示の書の内容を捉えますと、後は最後の登場者である『ハデス』まで見通しは一気に開かれます。

火のように赤い馬が過ぎ去った後の『この世』には、もはや何の力も残らないでしょう。権力を失った世界というものを想像するなら、制御されない無秩序なこの世とはどんなにか恐ろしい場所でしょうか。今日の体制がどれほど強固に見えていても、その日には熱して溶解してしまうとペテロも言います。(ペテロ第二3:10)

『わたしたちの上に倒れかかれ。そしてみ座に座っておられる方の顔から,また子羊の憤りからわたしたちを隠してくれ。彼らの憤りの大いなる日が来たからだ。だれが立ちえようか』と生き残った地の王や高官たちをはじめ、あらゆる人々がほら穴や山の岩塊の間に身を隠して言うのはこの時、つまり「神と人との戦い」に敗れた後ではないのでしょうか。(啓示6:15-)

必勝間違いなしと思えたハルマゲドンの戦いで、人類の強大な連合軍も同士討ちによって滅びてしまえば、世の権力を支持した人々にいったいどんな希望が残るでしょう。
ルカが記したように『人々は,人の住む地に臨もうとする事柄への恐れと予想から気を失う』としても不思議はありません。
マタイでは『すべての部族は嘆きのあまりに身を打ちたたき』不可視の雲に乗るイエスを「見る」と語られています。つまり、戦いの結末を見て初めて、キリストが臨在していることを悟るのであり、この象徴的な現れを聖書は『顕現』と言うのでしょう。(ルカ21:26/マタイ24:30)


こうした権力の機能しない状況下では、この世の諸制度も崩壊してしまうでしょうから、経済活動だけが健全である理由はまずないでしょう。ペテロが『諸要素は熱して溶ける』と予告したのはこのことなのでしょう。
国家間の争いがあるなら貿易もうまくゆくとは思えません。更に流通も断たれ始めると、食料品や必需物資に満ちた便利な生活も、命を支える食料を確保するのがやっとの有様になってしまうことは想像するに難しいことではありません。燃料やライフラインの寸断も避けられるものでしょうか。
この情況がもたらす飢餓は、不作によるものではなく貿易や流通の遮断によるものとなれば、猛烈な高騰が急激に起こることは容易に想像がつきます。

しかし、これが改善されなければ、より恐ろしい事態へと進まざるを得ません。
それが通貨による交換が不能となる事態の到来であり、恐るべき奪略と無秩序の出現であり、一切の権力も権威も存在しない状態に陥ります。『天が過ぎ去る』とはこの事態によく当てはまります。

そこにおいて、『罪』ある人間が如何に利己的であるかは、貪欲を抑えてきたこの世の権力と経済の消滅によって、この世の『罪』の本性が暴かれてしまうことでしょう。『諸要素は極度に熱して溶解し、地とその中の業とはあらわにされる』とペテロが語るこの言葉も、こうすると非常によく理解できます。『その中の業』とは、『罪』ある人間の素のままに行ってきた奪い合いに基づく日頃の行動のことであり、その本質は無秩序の中でこれ以上なく露見します。(ペテロ第二3:10)

軍隊は壊滅し、警察機構も物資の流通も働かず、小売店に行けば必要物を得られる便利な生活はあっという間に過ぎ去り、通貨を発行していた政府まで機能せず、通貨に価値を裏付けることも、そもそも物資もない以上、『彼らは自分たちの銀をちまたに捨てる。彼らの金は憎悪すべきものとなる』という言葉のままの情景を見ることになるのでしょうか。命を支える物資さえ得られない金銭に何の価値があるでしょう。『銀も金も,エホバの憤怒の日に彼らを救い出すことはできない』とも預言されております。(エゼキエル7:19/ゼパニヤ1:18)


こうして飢餓という黒い馬の疾走する世界には、やがて次なる青ざめた馬に乗る「死」の到来を見ることになるのでしょう。
即ち、栄養不良を通り越し、身動きもできないほどになってしまうなら、死を覚悟しなければなりません。青ざめた馬が神からの疫病の蔓延を指すのであれば、作物のある地域の幾らかの人々にとってもその影響から逃れる期待も空しくなるでしょう。

加えて、ハバククの語るようにYHWHの前を『疫病が進む』のであれば、それはモーセの時に荒野で、またダヴィデの時代にも示された神の裁きの処置の終末に於ける世界規模の再現が為されるとも言えましょう。原因も治療法も分からない新種の病気は今でも稀に現れることがありますが、そのような病気がパンデミックを迎えるとなれば、人類生存の危機も覚悟しなければならないでしょう。

おそらくは、それが選択的な疫病であるとするなら、罹患しない人々は神の『奥の間』に入ったかのように描写される云われもあることになるのでしょうか。(イザヤ26:20)

こうして、最後の象徴的登場者である『ハデス(墓)』<単数>が、啓示の書の文脈中で『地の野獣』<複数>に置き換えられている理由が見えてまいります。(啓示6:8をご確認ください)

それこそは、地上に累々と横たわる膨大数の屍の「墓」が、まさに『地の野獣たち』の腹となることを教えていると捉えられます。このように解することの方がどれほど啓示の文章に自然な理解に寄り添うものとなることでしょうか。

これらは、終わりの日の災厄がいまだに過ぎ去っていないだけでなく、将来に「四騎士」が人類の裁きを執行を表すという恐るべき内容となりますが、これは警告として考慮に値する捉え方ではありませんか? 実に、誰もがどちらに裁かれるのかは、その時まで不定であって、救われたい人が助かるわけではありません。

そして「ハルマゲドン」というものは、神ご自身が諸都市を地震や雷で破壊するわけでもなく、直後に神の王国の楽園をたちどころに期待することも的外れなことではないでしょうか。
「ハルマゲドンの戦い」は、権力同士の乱戦ではあっても大患難はまだ序章であり、キリストの臨御に気付いた世に執着する人々が、その後に起こることを予期して恐怖のあまりに気を失うという神の裁きの処置全体の発端に過ぎません。

さて証人の皆様は、時代の印ということで「戦争、飢饉、疫病」が、1914年以来にそれまでになく世界的な規模で起こったと納得なさり、その時以来、見えない天でキリストが王となり、サタンが地に落とされた印がそこに見えるとこれまで信じてこられたことでしょう。
以来百年を経過しましたが、 しかし、黙示の書が述べる終りの日は長いものではないようです。(ダニエル12:7/マタイ24:22)
イエスの戴冠が既に百年も前に行われているとすれば、救いの王の戴冠の意義は果たして何であったのでしょうか? しるしとなる災厄を人類に充分に味あわせるためでしょうか?

その答えが個人として、たとえ今ははっきりしないとしても、あなたにとっては以上のような可能性を考慮することもできるのではありませんか。
事が終末に関わることでありますから、その信仰の余地も残しておくことはあなたにとってけっして不利益にならないことでしょう。
もちろん、ここに述べたことが必ず正しいと言うのではありません。その可能性もあるということです。
いずれにしても、聖霊を注がれる『聖なる者たち』が再び地上に現れるときに、何が正しいかは明らかにされることでしょう。

そして、ものみの塔に所属することが救いとはならない事態も考慮に入れる必要性が見えて参ります。
なぜなら、キリストはひとりひとり(アッレローン)を羊とヤギに分けて裁かれると言われるからです。
もし、ものみの塔に留まることが救いであるなら、キリストはひとりひとりではなく組織を救うということになりませんか?

ですが、それでは個人の内面をご覧になる神の裁きと言えるのでしょうか。
聖書は、人を救うものは組織や規則への「従順」であるとは言わず、個人の「信仰」であると述べてはいなかったでしょうか。

確かに、人は仲間と共に居ることに安心感を抱きます。
教会堂の信徒席が「ノアの箱舟」の名称で呼ばれるのも、その安心感を与えるからでしょう。

ですが、終末の裁きとは人々の選択をもたらすものであり、その処置である滅びも、当然に選択的なものではありませんか。
そこで重要なことは、組織に所属していることが救いを具体化すると信じることではありませんし、終末の出来事が、現在信じている通りに進展することばかりを期待することでもないでしょう。

キリスト教を信じるとは、人や組織の述べることを信頼し、その後を着いて回るのではなく、終りの日に神の御旨のまま起こることを受け入れ、自ら判断して行動することを意味するのであり、そのような決め付けのないニュートラルな信仰こそが、その人を終末の救いに近付けるものとなるのではありませんか。神が一人一人を裁かれるのであれば、組織にご自分の判断を委ねる理由がどこにあるでしょう。任せたところで、組織が神の裁きにどんな責任をとれるのでしょうか?

イエスをキリストであると見分けた当時の人々は、聖書の知識にも、生活にも貧しい平民で、自分を宗教的に誇るところのない人々であったのですが、他方で、聖書に通じたパリサイ人は、頑なに自分の思うようなメシアを望んでイエスを退けましたが、ユダヤ体制の裁かれた当時、物事は彼らの予期しない方向に進んで行き、彼らに自信のあった聖書の理解は意味を持ちませんでした。
彼らの世代に聖霊は注がれず、却って『火のバプテスマ』という滅びを西暦七十年に被ったことは、終末への重い警告というべきでしょう。
揺らぐこともなく思えた彼らの強い確信は、却ってそのまま身動きのとれない頑固さとなってしまい、宗教体制の裁きに向かうことになったのです。




⇒「黙示録の四騎士 時代の印か絶滅の使者か

⇒「二度救われるシオンという女



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5.見分けるべき「終わりの日の印」

2015.08.19 (Wed)
見分けるべき「終わりの日の印」は?


イエス・キリストは、オリーブ山上で使徒たちの質問に答え、ご自分の臨在の時期に何が起こるかを知らせています。
それは、共観福音書の中でキリストの戻られる時期に起こる事柄、つまり「終わりの日」についての重要な預言となっておりまして、そこでは戦争、飢饉、疫病、また地震などの災禍も挙げられています。

エホバの証人の皆さんが、これらが20世紀の初頭、1914年から起こり始めたという信仰を持っていらっしゃるのはよく知られたことです。

皆さんによりますと、ダニエル書にある『七つの時』、またルカ福音書の終末預言の中に記された『異邦人の時』が同じもので、西暦前607年から2520年を経過して到達したのが1914年であるとのことです。
その時から、天でキリストが王となられてこの世に臨在を始められたので、サタンが地に放逐されて、上記の災禍が地上にあふれたとも信じていらっしゃることでしょう。

この信仰の土台となっているところの福音書の部分をもう一度眺めますと、すぐに見えてくるものがあります。

それは、これらの「終わりの日」の預言の内容には、弟子たちの遭遇する苦難とその心構えがその記述の大半を占めており、時代の印として災禍を挙げている部分は僅かであることです。

ですから、これらのキリストの終末の預言を全体からみますと、その多くの教訓が、時代の印が何であるのかを知らせるよりも、弟子たちの苦難についてずっと多くを語っていることに、あるいは以前から気になっていらしたかも知れません。

それはマタイでもマルコでもルカでも同じようで、世界が受けることになる災禍の印よりも、弟子たちが経験することになる偽キリストや背教的な不法な行い、また迫害を受けて王や高官の前に引き出され、そこで聖霊の言葉を語ること、また、彼らの身近なところから裏切りが起こり、家族や親族とも対立が生じること、こうした事柄についてイエスはより多くの言葉を費やして弟子たちに心の準備をさせていることが明らかです。

では、これらの言葉はいつ、どのように生じるのでしょうか?

皆さんが信じてこられ、他の人々にも熱心に教える1914年という年は、確かに時代の転換点と云われてきました。
その年には第一次世界大戦が勃発し、20世紀を強く特徴付ける世界戦争の時代をもたらしました。
そこから飢饉やスペイン風邪が猛威を振るい、その一方で地震も被害の大きなものが世界各地で発生しましたことも事実です。

ではこの時代についてのイエスの預言の他の言葉の数々についてはどう生じたでしょうか。
偽キリストが地上に興って、自分がその者だということ、またキリスト教の中で裏切りや親しい人々との対立が、世界情勢のように際立った仕方で起こったでしょうか。
そして何よりも、為政者の前に引き出され『誰も論駁できない』ほどに『聖霊によって語る』という事態に至ったでしょうか。

特に、この最後の点、つまり聖霊によって語るという内容はマルコとルカによって終わりの日の預言に含まれましたし、マタイはその預言より以前の主の言葉として別に記してはいますが、聖霊による言葉が『彼ら(為政者)と諸国民への証しのため』であることをはっきりと書いています。(マタイ10:18をご確認ください)

その点についてヨハネ福音書では、聖霊が到来するときについて『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』ともイエスは予告なさいました。

この、聖霊によって弟子たちが諸国民への証しを行うというところは、非常に重要な事柄に違いありません。
なぜなら、福音書にある通りにそれこそが神の世界伝道となるからです。

その捉え方を後押しするのが、マタイの終末預言の中の『タラントの例え』です。
この例えの中でタラントを殖やそうとしなかった奴隷がひとり出てまいります。
とりわけこの奴隷に注目しますと、「終わりの日」の預言になぜ弟子らへの訓戒が多いのかが理解できてまいります。

この奴隷は、預けられたタラントを銀行に預けておくことさえしないで、わざわざ地中に穴を掘って隠したのですが、その理由を彼はこう言っています。
『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。』(マタイ25:24-25)

この奴隷の主人がキリストであり、奴隷たちが弟子たちを表していることには皆さんもご存じのことでしょう。
主人であるキリストが帰って来ると、預けておいた財産を奴隷たちがどう運用したのかを報告させています。
つまり、この奴隷との清算の話もイエスがオリーブ山上で語った終末預言に含まれていて、キリストご自身が臨在なさるときに起こる事柄を語っていらしたのです。

マタイのこの例えの前に記されているように、その時期には迫害があり、マルコやルカの記すように弟子らは権威者の前に引き出されて聖霊の言葉を語らねばなりません。
そのときには弟子たちの間から裏切りがあり、親しい人々とも対立が起こるという極めて強い圧力の下に置かれることが描写されています。これは聖霊で語る者たちがこの世との鋭い対立の矢面に立たされることを教えていないでしょうか。

こうした難しい状況下では、イエスの語られた『体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。』また、『だれでも自分の魂を救おうと思う者はそれを失うからです』との言葉が非常に重い意味を持つことでしょう。(マタイ10章)

ですが、そこで恐れてしまう弟子が出ないと言い切れるでしょうか。
1タラントを預けられた不精な奴隷の言葉にもう一度注目してみましょう。
『ご主人様,わたしは,あなたが手厳しい方で,まかなかった所で刈り取り,あおり分けなかった所で集めることを知っておりました。それでわたしは怖くなり,行って,あなたの一タラントを地中に隠しておきました。』

こうして見直しますと、このタラントの例えの様々な言葉がよく見えてくるではありませんか。

つまり、この『不精な奴隷』は『怖くなり』ました。なぜなら、主人であるキリストはご自分が直接に宣教したわけではない「終末」においても収穫を求める『手厳しい方』で、弟子たちを襲う迫害や裏切りの吹き荒れるところでも宣教することを求めたからでしょう。

そこでタラントが何を表しているかも見えてまいります。
それこそは『聖霊の賜物』であり、それによって彼らは為政者の前で語り、『諸国民への証し』ともなる宣教を行うべきであるのに、そのことを怖がったのです。そこで、この奴隷がタラントを地中に埋めてしまったのは、聖霊を持っていることさえ隠さなければ迫害されたに違いないからでしょう。
確かにパウロは霊の賜物は、注がれた者によって制御できることを記しており、一人ずつが話して皆が学べるようにするよう勧め『神は無秩序ではない』と言い添えています。ですから、霊の顕現を抑え込んで、恰も地面に埋めてしまうこともできないわけではないでしょう。

マタイの終わりの日の預言の中で語られたこのタラントの例えは、はっきりと終わりの日の世界宣教がどのようなものになるのかを知らせております。

それは聖霊の無い人々が効率的とも言えない方法で、できるだけ長い時間を宣教に費やすということでしょうか。
いえ、その時に至れば、神は紛うことのない印である聖霊を弟子の中のある人々に与え、その「タラント」や「ミナ」の働きによって世界の宝のような人々が刈り取られることになると聖書は示唆を与えていないでしょうか。(ハガイ2:7)

聖霊を注がれる弟子たちは格別な人々でありますから、勇気をもって宣べ伝えた者には報償として多くのものが委ねられます。なぜなら、彼らはキリストと共に王として支配する『新しい契約』に預かる『神のイスラエル』だからです。
彼らは『自分の苦しみの杭を取り上げて,絶えずわたしのあとに従』うべき人々であり、アブラハムの胤として『いつも善を行ない,どんな怖ろしい事をも恐れずにいる』ことが求められます。なぜなら、世に対抗して聖霊の言葉を語るからでしょう。(マタイ16:24/ペテロ第一3:6/啓示11:3-7)

この世の終わり、それも終局(テロス)に際しては、類例のないほどの戦争や飢饉や疫病もあることでしょう。⇒「黙示録の四騎士
それは見えてから悟る「時代の印」のようなものではなく『大患難』そのものです。
(福音書の終末預言に『戦争』に関わる記述がそれぞれ二回ずつある事に注目して下さい)
しかし、聖霊による証しが諸国民に対するものであると語られているのであれば、これに勝る時代の印は他にないのではありませんか?

この「終わりの日」の預言の中で、主イエスは明らかに『聖霊』によって語る弟子たちがいることを知らせていらっしゃるばかりか、タラントの例えを含んで、それは明示されたご意志となっているのです。誰がこれに逆らえるでしょうか。

そうであれば、わたしたちは聖霊が再び注がれる時を待つ必要があります。
その時こそ、神は世界の一部の人だけでなく、全世界を相手にご自分を証しなさるに違いないからであり、ひとつの宗派の人々だけが行うことを遥かに超えて宣教し、その声はあらゆる人々に届くものとなることでしょう。

ですから、聖霊が語らせるその弟子らの声を聞くときには『心をかたくなにしてはならない』でしょう。(ヘブライ4:7)
それは聖霊に逆らうことになり兼ねないからであるとパウロは忠告しています。
もし、その時にエホバの証人であり続けるとすれば、本当の聖霊で語る『聖なる者』を、却って「背教者」と誹謗中傷することにならないものでしょうか?ものみの塔は『聖霊』を初期キリスト教の「揺籃期」には必要であったものの、『廃れるもの』としてしまっているからです。

ですが、キリストの終りの日の予告はそうではありませんし、預言者ミカもこう言っています。
『あなたがエジプトの地から出て来た日のように,わたしは彼に驚嘆すべき事柄を見させる。諸国民は見て,自分たちのすべての強大さについて恥じる。彼らは[その]手を口に当てる。その耳も聞こえなくなる。』(ミカ7:15-16)

聖書の教えはこの点で一貫しています。聖霊で語る者こそが『キリストの兄弟』であり、彼らの言葉を聞いて信仰を持つ人々が、終わりの日に羊により分けられることでしょう。(マタイ25:31-/ヨハネ17:20)

宣教の価値をよくよく知っていらっしゃるエホバの証人のお一人であれば、あなたも人の努力を超える「聖霊による神の世界宣教」に大きな意義を感じられるのではありませんか?

では、人々が見分けるべき「終わりの日の印」とは何でしょう。
忌まわしい災厄が喜ぶべき合図でしょうか、それとも神の聖霊による証しが人類への希望の印でしょうか。
あなたにとってはどちらに時代の印として宣べ伝える価値を感じますか?



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 考古学の示す年代を別にして、聖書記述だけを見ても、エレミヤの預言した七十年の始まりが前607年にはならない理由が生じています。「エレミヤの七十年」は、より深い価値がある「崇拝の再興」を指し示しています。
 ⇒ 「エレミヤの七十年の終点から起点を探る
聖書を見直すことで、神への信仰をお持ちなら、より深くご納得いただけるものと思います。是非一度ご欄ください。



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