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4.道徳規準と神の是認

2015.07.20 (Mon)
道徳規準と神の是認



確かに「神の是認」とは願わしいものです。
キリスト教に限らず、神を信奉する宗教はほとんどがこれを望んでいることでしょう。
エホバの証人の皆さんが、道徳的であるよう個人として努力なさる目的も、神に是認された状態を保つというところにあることでしょう。

キリスト教の諸宗派ばかりでなく、ユダヤ教やイスラーム、また仏教においても、この世での行ったことの報いを人はいずれ受けるという教えが広く見られます。
では、キリスト教も、その人の行いが道徳的かどうかで判断されるのでしょうか?
もしそうなら、キリスト教の目的は道徳的な人を作ることになるでしょう。


さて、聖書には神との契約関係にあったイスラエル民族の神との交渉の記録が記されています。
それを見ますと、イスラエルの上に神の是認のあった時期も、そうでない時期もあったことが分かります。

そこでは、神に対してどう振る舞うかによって彼らの上に神の是認が留まるか否かが異なってきました。
律法に従って歩むときには祝福が注がれ、そうでないときには災いが臨んでいます。

神に選ばれたイスラエル民族といえども退けられたことがありました。

まず、エジプトを出た後に紅海での奇跡の救出に預かりながらも荒野で不信仰を示した世代があります。
またバビロン捕囚に至る結果を招いたのは、まさに歴代イスラエル民族の律法不履行でありました。

メシアが現れてもこの民は不信仰によって、ナザレの人イエスを処刑させてしまいます。
その咎は特に重かったのでしょう。その報いはその世代の内に臨んで神殿を失い、やがてイスラエルは約束の地から吐き出される結末に至っています。

その一方で、神の是認がキリストの弟子たちに移ったことを彼らの上に働く奇跡の聖霊が知らせていましたが、ユダヤ教徒はこれを認めることもなく自らの行いを省みず、イエスの弟子らへの反対を止めませんでした。

こうして神の是認について少し思い巡らすだけで、それが一度与えられたならずっと留まるものではなかったことが分かります。
キリスト教徒の中にも、古代のユダヤ教パリサイ派のように、自分たちが神の是認を受けているとするためにどんなことでも行おうとする人々が存在してきました。

ではキリスト教徒も、神の是認を受けるためには、神の言葉に従うことが最も大切なことであると結論するべきでしょうか。
そのように教えるキリスト教の宗派も少なくありません。
失敗したイスラエル民族のようになって神の是認を失わないために、聖書の中から神の道徳規準をあらん限り探り出し、それらを守るなら神の是認を得られると思うのでしょう。しかし、神のご意志をあらん限り行えば、そこに正しい崇拝が再現されるでしょうか。

どうなのでしょう?キリストの犠牲が捧げられて後の今日も、依然として神は人々にご自分の道徳規準を守ることを望まれていて、やはりそうする人を是認なさると言えますか?

確かにギリシア語聖書の中にも道徳規準が記されている箇所がありますが、それらは、律法の終わった今日も、神は人々に一定の道徳水準を求め、それに達している人を是認なさる証拠なのでしょうか。

もし、そうなら、イエスが犠牲の死を遂げられる前でさえ、その許に収税人や娼婦らが共に交わっていたのはなぜでしょうか。
その人たちはイエスと交わる以前にその悪行を止めていたので、彼らをイエスは受け入れたのでしょうか。

そうすると、その人々はモーセの律法を守ることにおいてユダヤ教徒としては問題を抱えていなかったことになるでしょう。
ですが、イエスの足を涙で洗い、それを自らの髪で拭った女について『その都市で罪人として知られる女』とされていたのはなぜでしょう。
また、イエスご自身が『健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に[必要]なのです。』と言われたのは、既に自力で道徳的に回復している人を受入れたという意味だったのでしょうか。

しかしイエスは『わたしは,義人たちではなく,罪人たちを悔い改めに招くために来たのです。』とも言われました。
この『義人たち』とは逆説的に、律法を堅く守り、自ら義に適っているとするパリサイ人を含んでいたことでしょう。

他方で、「罪人」とされた人たちは、会堂で律法の朗読を聴くこともできず、血統の上ではアブラハムの子孫でありながら神の是認からは遠く引き離されたかのようにされていました。
しかし、その人々をイエスは、「イスラエルの家の失われた羊」として顧みられています。

例えれば、その中にエリコのザアカイがいます。
彼の家にイエスが泊まられることは彼にとって予期しないことであったに違いありません。
なぜなら、イエスの一行がザアカイの家の客となることを知った他の住人たちは、そのことに大いにつまずいているからです。

もし、彼がイエスに会う以前からゆすり取ったものを四倍にして返していたとしたら、住人たちはイエスの決定にそれほど落胆したでしょうか。 (ルカ19:8 ギリシア語には現在進行形というものがありません)
ザアカイは、イエスとの出会いを通してはじめて大いに感化を受けて、その歩みを改めたのでしょう。ですから、その悔悛の言葉を聞いたイエスは、『この日にこの家に救いは来た』と言われます。

やがてイエスが犠牲の死を遂げられると、復活から五十日を経て『新しい契約』が発効しますが、このときから契約に含まれる人々に特に求められる事柄が生じています。

その人々は聖霊を注がれることで『聖なる国民』として選ばれることになりますから、『聖なる者』となることが求められます。
ペテロは聖霊を受けた人々にこう命じます。『あなた方を召された聖なる方にしたがい,あなた方自身もすべての行状において聖なる者となりなさい。なぜなら,「あなた方は聖なる者でなければならない。わたしは聖なる者だからである」と書かれているからです。』(ペテロ第一1:15-16)

パウロはコリント人への手紙の中で、淫行の者,偶像を礼拝する者,また盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないと警告しています。
これに加えてこうも述べています。『あなた方の中にはそのような人たちもいました。しかし,あなた方は洗われて清くなったのです。神聖な者とされたのです。』
では、彼らを清めたものは何だったでしょうか?『わたしたちの主イエス・キリストの名において,またわたしたちの神の霊をもって,義と宣せられたのです。』(コリント第一6:9-11)
『聖なる者』とされ、キリストの兄弟とも成り、アブラハムの共同相続者となったからには、相応の清さが求められるのは、律法のレヴィ族が祭司らへの要求からして理に適っているといえましょう。

では、これらの新約聖書の『キリストの律法』ともされる道徳規準は、聖霊で油そそがれた人々に求められたことなのでしょうか。
ギリシア語聖書中の他の箇所も参照するとそこには何と書かれているかを探ると、一貫した見方を見出せます。

エフェソス人への手紙の中でもパウロは道徳規準を次のように記しています。
『聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。』
『むしろ,いつも霊に満たされ, 詩と神への賛美と霊の歌とをもって自分に語り,心の調べに合わせてエホバに歌い,』とも言うのです。(エフェソス5:3-20)
彼らは聖なる民であり、霊に満たされ、霊の歌を歌うのですが、これは聖霊を注がれた人々を指してはいないでしょうか。


ガラテア人への手紙で、パウロは肉と霊とを対照させてこう語ります。
『肉の業は明らかです。それは,淫行,汚れ,みだらな行ない,偶像礼拝,心霊術の行ない,敵意,闘争,ねたみ,激発的な怒り,口論,分裂,分派,そねみ,酔酒,浮かれ騒ぎ,およびこれに類する事柄です。こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが,なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。』

これについて『霊によって歩んでゆきなさい。そうすれば,肉の欲望を遂げることは決してありません。』とも言い加えています。つまり、霊によって歩み、その実を結ぶのは、聖霊を受け神の王国を受け継ぐ人々であり、そこには霊の特質が反映されるべきだったとみるべきでしょう。

やはり、それらの道徳規準が誰に適用されるかは『神の子』という明らかな立場を表す言葉によって示されています。
パウロはフィリピ2章で、何事も闘争心や利己心から行うことのないようにと訓戒し『それはあなた方が,とがめのない純真な者,また,曲がってねじけた世代の中にあってきずのない神の子供となるためです。その中にあって,あなた方は世を照らす者として輝き,命の言葉をしっかりつかんでいます。』と述べています。(フィリピ2:15-16)

しかし『神の子』というのは、誰でもなれるものではありません。
パウロは『霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。』とローマ人の8章で述べます。また、『キリストの霊を持たない人がいれば,その人は彼に属する者ではありません。』とも言うのです。
彼は『神の霊に導かれる者はみな神の子である』とも証ししており、『キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。』とまで言うのです。
彼らが『新しい契約』を通し、キリストが犠牲を捧げて到達した、倫理上の『完全にされた』状態を共に認められ、その代理者イエスに免じて『義』を仮承認を受けていたのであれば、この要求も不当とは言えないことでしょう。

つまり、『新しい契約』に預かることでいち早くキリストの犠牲が適応されており、『義』が信用貸しされ地上にいる間から聖い状態に引き上げられていると言うのです。(ローマ8:1.33)
彼らは『養子縁組の霊』を受けた人類の『初穂』とされる人々なのです。(ローマ8:15/ヤコブ1:18)

これほど高い立場にこの人々を押し上げたのは、彼ら自身でも品行方正な生活態度でも道徳水準でもありません。
それは『聖霊』であって、彼らの信仰によって無償で与えられたものなのです。(ローマ5:1-5)


こうしてギリシア語聖書を見直すと、そこにある道徳規準は『新しい契約』と関連付けられていることが明らかになります。
その観点からペテロの『最終的に汚点もきずもない,安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。』との言葉を読むときに、それが聖霊を注がれた聖なる者たちの務めであることを悟ることができます。

イエスも『狭い戸口を通って入るよう』にと弟子たちを訓戒されたときには、聖なる者となる見込みにあったユダヤ人の弟子たちが、新しい契約を捉えて『精力的に励む』必要のあることを知らせていたことを知ることができます。彼らはレヴィ族の祭司に聖さが求められたように『聖い民』でなくてはなりません。

こうした見方は、聖霊のないキリスト教を実践しようとする『普通の人』が聖霊の助けもなしに実際的でない道徳律を当てはめ窮屈な思いをしたり、律法の時代に逆戻りしパリサイ人のように振る舞うことから解放するものとなるでしょう。(コリント第一14:16)

もちろん、そうであるからといって、キリスト教信徒に道徳律は何もなく、今日では何をやっても許されるということにはなりません。
本来のキリスト教には、人を外から規制する律法のようなものはありませんが、「愛の掟」というものがあるのです。パウロは『愛は律法を全うするもの』であることを教え、また『愛するほかに何も負ってはならない』とまで言うのです。(ローマ13:8)

その掟とは、自ら望んで自らを律するという、内面の動機、アガペー愛を育てるべき務めなのです。
それが真に人を神と結びつけるものとなることでしょう。(ヨハネ第一4:16)

ですから、何かの道徳規準を守ることで神の是認を得られるというのは、アダムの罪を肉体でいる状態から贖われた『聖なる者』にだけ当てはまることであって、『神の王国』の贖罪を待つべきその他の人々には、規則を守って品行方正な模範者を装うよりも優れた道があります。
それが「愛する」ということであり、それはパリサイ人のような行状による優越感とは無縁で、しかも神の特質を反映した生き方をその人にもたらすことになるのです。(ルカ18:9-)

パリサイ派の考えでは「清い者が取分けられ」、そうでない「地の民」が神の是認から除外されるところにありました。
一定の道徳規準を定めて、それに達していると思うことで自らの正しさを自認しましたが、彼らが道徳的でなく律法も知らない「地の民」との比較において、彼らは安心感をも抱きました。彼らは「地の民」を侮蔑していながら、自分の正しさを証明するために、彼らの存在を「踏み台」のように必要としていたのです。

当然、それはキリストの批判を受けることになります。まさに、キリストの教えの神髄はアガペーにあり、パリサイ派の精紳とは正反対であったのです。(ルカ18:9-)
では、一定の道徳規準に達していない人を忌避することと、パリサイ派の精紳とはどう異なるのでしょうか?それは最も助けを必要としている人々をただ安易に退けているのではありませんか。

もし、キリスト教がいつまでも道徳律という外からの規制を教え続けていれば、そこではアガペー愛が育たないに違いありません。民衆を愛したイエスに激しく反対し、与えられたメシアを除き去った律法主義者の道をキリスト教徒が歩むべきでしょうか。
いいえ、キリストの教えは自発的なアガペーによってユダヤ教を遥かに超える優れた教えとなったのです。
その救いはあらゆる他者、『敵』にさえ広げられているのであり、処刑される場でさえ「この罪を彼らに負わせないでください」との請願は外面の義を装う言葉ではなく、その請願の中からあの『百卒長』の信仰が興され、更には元はパリサイ人であった『使徒パウロ』のような人物が現れて来たのです。
その救いは、道徳主義の集まりに占有されているわけもなく、あらゆる人々へと広げられているのであり、それがキリストを人類に与えた偉大な神YHWHの御意志であったのではないでしょうか。

そしてイエスは『人はあらゆる罪と冒涜の言葉を赦される』と言われました。
キリストの犠牲の前に善人の仮面をつけることがどれほど無益なことであるかを知らないとすれば、その人はキリストの教えの基礎をさえ知らないと言うに等しいことではありませんか。

「愛する人々」は「道徳的な人々」に優り、規準を満たそうとすることよりも大らかで、人を許し、自分も許されます。(エフェソス4:32/ヤコブ2:13)
それこそがキリストの犠牲が成し遂げる贖罪の精紳ではありませんか。六千万デナリの負債を免除された人が誰を許さないでおれましょうか。(マタイ18:24)

神の是認はキリストのような愛と赦しの特質を示すところにやがて聖霊と共に来ることになります。しかし、そのような人は身勝手に条件をつけ、自分たちだけで神の是認を独り占めにしたいとは思わないでしょう。
なぜなら、その人は利己的ではないからです。(民数11:29)




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2.命を救う業 神の世界宣教とは?

2015.07.17 (Fri)
命を救う業


エホバの証人の皆さんが、毎月できるだけ多くの時間を割いて宣教奉仕に邁進していらっしゃることは、皆さんの宗派の際立った特徴と言えましょう。そのようになさる理由を挙げますなら、それが「命を救う業」との認識をなさるところが大きいでしょう。
この「終わりの日」にひとりでも多くの人々のところに「良い便り」を届かせることが、現代の最も重要な仕事と信じていらっしゃることと存じます。

その一方で、皆さんの組織も認めていますように、野外奉仕の場面で伝道された人が、その場で「羊」か「ヤギ」かを表し、その伝道の場でそのままに「裁かれる」わけではありません。
ご承知のように、マタイの「終わりの日」に含まれます「羊と山羊のたとえ」では、苦難に遭うキリストの『兄弟たち』に親切を示す羊のような人々が王国に入るとされております。

では、キリストの『兄弟たち』にどのように親切を施すことで『羊』とされ、『王国を受け継ぐ』ことになるのでしょうか。
この詳細なところは、人々の命に関わる重要なポイントであるに違いないでしょう。
では、この点を聖書をいま一度確認されますなら、キリストの『兄弟たち』について、より明瞭に理解なさることでしょう。


さて、「羊と山羊」の例えは、キリストの終わりの日の預言が記されたマタイ福音書の24章に続いて25章に書かれております。
ここでイエスは、『すべての国の民が彼の前に集められ,彼は,羊飼いが羊をやぎから分けるように,人をひとりひとり分け』られるという臨在の日に於ける裁きを描いて語られました。
すべての国の人々が右と左に分けられて、祝福と呪いに選別されるのですから、これは本当に重大なことと言えましょう。

終わりの日の人々を「羊か山羊か」に裁くものは、その人々がキリストの「兄弟たち」に親切を示すかどうかであることを、イエスがはっきりと語っていらっしゃいます。
この、キリストの「兄弟たち」とは誰かについては、皆さんもご存知の通りに、聖霊で油そそがれた人々であることはギリシア語聖書の中に何度も明言されています。

つまり、天でキリストと共になるために天に召される人々の総数は最終的に14万4千人となるのでしょう。
この人々のうちの終わりの日に生きる人々に対して、親切をもって接する人が「羊」と見なされることを、この「羊と山羊」の例えは教えております。

このキリストの「兄弟たち」について、聖書をもう少し詳しく見ますと、皆さんも今更ながらに納得なさると思われるような記述が多く存在しています。


例を挙げれば、ヨハネ福音書の16章は、イエスが刑柱上での死を迎える前の晩に語られたことを、その懐にあった若き使徒のヨハネが書き記した部分です。
そこでイエスは、このように語られました。

『その者,すなわち真理の霊が到来するとき,あなた方を真理の全体へと案内するでしょう。彼は自分の衝動で話すのではなく,すべて自分が聞く事柄を話し,来たらんとする事柄をあなた方に告げ知らせるからです。』(ヨハネ16:13)

ここでキリストが去った後に遣わされる聖霊は、弟子らを『真理の全体に案内する』すなわち、彼らの真理を知る経路となることを知らせています。

ですから、あのペンテコステの日から、使徒たちをはじめとする120人ほどのガリラヤの人々は、単に自分たちで勇気を奮い起こしたというよりは、よほど『聖霊』に助けられてディアスポラの人々に宣教を開始しているのです。
使徒ペテロは『聖霊に満たされて』ナザレ人イエス・キリストがよみがえらされ、メシアとされたことをヘブライ語聖書を自在に引用して大胆に宣明します。

聖霊に満たされた彼らの発言を聴いたサンヘドリンの宗教指導者らは、彼らの『おくすることのない話し方を見,またそれが無学な普通の人であることを知った時,彼らは不思議に思』ったと書かれております。(使徒4:13)

イエスが処刑されてからしばらくは、エルサレムの片隅にユダヤ人を怖れてひっそりと過ごしていた使徒たちが、これほど敢然と、しかも教理の知識を得て語り始めたのはなぜでしょう。(ヨハネ20:19)
ペンテコステの日以降のイエスの弟子たちの勢いは、聖霊の働き無しには考えられません。

皆さんもご存じのように、このように聖霊が注がれた人々には、「異言」ばかりでなく、預言や癒しや翻訳や知恵や教えなど、多様な聖霊の賜物がありました。この点でコリントの会衆には賜物の種類が揃っていることをパウロに誉められてもいます。(コリント第一12:7-11)


この聖霊について、やはりイエスは捕縛される晩に次のように命じました。
『わたしが父のもとからあなた方に遣わす助け手,すなわち父から出る真理の霊が到来するとき,その者がわたしについて証しするでしょう。そして今度はあなた方が証しをするのです。あなた方はわたしが始めた時から共にいるからです。』(ヨハネ15:26-27)

この「証し」とは何でしょうか。ヨハネは第一の手紙の中でこのようにも書いています。
『神のみ子に信仰を置く者は,自分について証しされています。神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです。』(ヨハネ第一5:10)

神はご自分の子に関して証しをなさったとヨハネは言います。つまり、イエスが『たとえわたしを信じないとしても,その業を信じなさい。』と言われた『父の業』、奇跡によるその「証し」を弟子らも行うようにと命じられたのでした。(ヨハネ10:38)

イエスを退けたユダヤ人たちは、聖霊による神の業を見ながら、その奇跡を言い訳して拒んでいました。
それは『聖霊への冒涜』であり、許されることのない決定的な罪であったでしょう。(マルコ3:22-30)

そして、イエスが父のみ許に上られた後、聖霊が弟子たちに降ると、『今度はあなた方が証しをする』ことになったことが分かります。
こうして彼らは、聖霊によってみ子イエスを証しする業をはじめ、力強くユダヤ人の中へと、それからサマリア、そして無割礼の異邦人へと聖霊を注がれる仲間を増やしてゆきました。
つまり、弟子たちは「アブラハムの胤」を召し出す業に邁進していったということができます。

これらのキリストの『兄弟たち』が存在してはじめて他の人々の救いも可能となるのですから、この特別な人々がまず何と言っても地の四方から集められなければなりません。
天でキリストと共になる人々は聖書中で『聖なる者』(ハギオス)とされ、パウロをはじめ聖書筆者たちはこの語を用いてこの特別な人々を呼びかけています。パウロの書いた手紙の多くはこれらの『聖なる者たち』への挨拶で始められています。


この聖なる人々は『養子縁組の霊』を受けて『王国』ばかりか、キリストの『業』を受け継いでもいました。しかもパレスチナを越えて、『より大きな業』を行っていったのです。
そのはじまりが、あのペンテコステの日からの『異言』でしたが、そのほかにも様々な聖霊の賜物を受け、集まりにおいてはそうした賜物がプログラムを提供していたことをパウロの手紙から知ることができます。(コリント第一14章)

彼らを教え導き、業を行わせた原動力はやはり聖霊であったことは使徒たちの活動の書にもよく描かれています。
また聖霊は人の印であったことも聖書は明らかにしています。パウロはこの聖霊が彼らの身分を証しするものであったことを何度も書簡で述べ、聖霊の活動によってその人々が見分けられていたことが明らかです。(コリント第二1:22/エフェソス1:13-14/テサロニケ第二2:13)


第一世紀の集会では、ほとんどの信者に聖霊が注がれていたことがギリシア語聖書の記述から分かりますが、やがて、聖霊の賜物をもつ人々が少なくなり、第二世紀が終わる頃には聖霊の賜物は過去のものとなっていたように「教会史」のような当時の資料が伝えております。

第二世紀の初め、当時のキリスト教徒で117年頃に「護教論」を著したシリアのクワドラトゥスは、自らが預言の霊を持っていたこと、またキリストご自身に癒された人が当時にはまだ生存していたことを知らせています。同時にキリスト教界はこのころから次第にギリシア哲学や様々な異教が混入するようになりましたが、それは予告された背教のはじまりでもあったでしょう。

聖霊の賜物が地上を去って行ったのは、「キリスト教が揺籃期を終えた」から必要が無くなったのではなく、聖なる者たちが居なくなったことで、キリスト教にはいよいよ本格的な背教が臨んでいるというべきでしょう。

そして第二世紀以後、今日までの間に使徒時代のような聖霊の賜物をもつ人々は絶えて現れてはおりません。
しかし、イエスは「終わりの日」に聖霊によって語る人々がいることを予告され、それは福音書中に何度も記されています。

例えればマタイ福音書の10章には次のように記されています。
『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』(マタイ10:17-20)

このように弟子たちが聖霊によって語る場面は、マルコもルカも記していてどちらも「終わりの日」の事柄として述べていますので、この際立った業が人々の裁きの関わる時期に行われるとみるべき理由があるでしょう。(マルコ13:9-11/ルカ21:15)

上記のマタイでは、霊によって話すことは為政者たちと諸国民への証しとなることが明記されております。
そしてこれは共観福音書だけでなく、ヨハネも最後の晩のイエスの言葉の中でも、「聖霊」にひときわ注意をひいているのです。

その晩、イエスは弟子たちと多くを語り、特に聖霊については『その者が到来すれば,罪に関し,義に関し,裁きに関して,納得させる証拠を世に与えるでしょう。』とも予告されました。(ヨハネ16:8)

この『納得させる』というギリシア語(エゲグコー)には「論破する」の意味が含まれます。つまり、聖霊が語るときに政治家たちも諸国民もそれを認めざるを得ず、ルカ21章15節でイエスが言われましたように『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの内容になることでしょう。

それは世界にとって大きな衝撃を与えるものとなるとしても不思議はありません。その可能性に思いをとめて、イザヤのイエスに関する預言を見直しますと、その古代から予告された終末での神の証言に疑問を残すところは無いでしょう。それは聖霊による世界宣教を指し示していないでしょうか。

『彼も同様に多くの国の民を驚かす。彼のことで王たちは口を閉ざす。彼らは自分たちに詳しく話されていなかったことを実際に見,自分たちの聞いていなかったことを考慮しなければならないからである。』(イザヤ52:15)

また、ハガイもこう述べます。
『「万軍のエホバはこのように言われたのである。『あと一度―それはしばらくのことであるが―わたしは天と地と海と乾いた地とを激動させる』。
「『またわたしはあらゆる国民を激動させる。あらゆる国民のうちの望ましいものが必ず入って来る。わたしはこの家を栄光で満たす』と,万軍のエホバは言われた。』(ハガイ2:6-7)

ここまでこうして聖書を追ってまいりますと、非常に重要な事柄が明らかになるのではありませんか?


それは、本当に「命を救う業」となりますのは神による世界伝道でありまして、その発言を導くのは『聖霊』に他なく、それを世界に向けて語るのは、その聖霊を受ける『聖なる者たち』であるということになるのです。

彼らは『新しい契約』に入った人々であり、地上にいる状態から『義』を得ると言われます。(ローマ8:1・33)
ですから、彼らは神YHWHに『アバ、父よ!』と呼びかけることが許されます。(ローマ8:15)

その宣教は、この世のすべてを相手とするこれら聖霊を受ける『聖なる者たち』の「命がけの宣教の業」となるのでしょう。
ですから、『体を殺しても魂を殺すことのできない者たちを恐れてはなりません。むしろ,魂も体も共にゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい』
また『自分の魂を見いだす者はそれを失い,わたしのために自分の魂を失う者はそれを見いだす』とイエスが弟子たちに警告された言葉は、将来に於いて聖霊を注がれる『聖なる者たち』に非常に重い現実味を帯びてくることが分かるのです。(マタイ10章)

そこで決死の証言を行う「キリストの兄弟たち」の発言に信仰をもって受入れることがまさにその人を救うものとなるでしょう。
イエスは上記のマタイ10章の続きでこうも言われます。
『あなた方を迎える者はわたしをも迎えるのであり,わたしを迎える者は,わたしを遣わした方をも迎えるのです。』
『弟子であるということでこれら小さな者の一人にほんの一杯の冷たい飲み水を与える者がだれであっても,あなた方に真実に言いますが,その者は自分の報いを決して失わないでしょう」。』(マタイ10:40・42)

この『兄弟たち』には、様々な困苦が臨むことも覚悟する必要があります。
『獄につながれる』のも、世の為政者たちに聖霊を通して対峙するからなのでしょうし、そこで聖霊を通した言葉に信仰を働かせる世界の人々が彼らに『親切』を示せることにもなりましょう。

しかし、初代の弟子たち以来、人類は未だにこのように聖霊で発言する人々を見てはおりません。
『油注がれたクリスチャン』とされる方々と聖書の『聖なる者たち』との違いは、単に理解の仕方が異なるだけの同じものを指しているというには相当の無理があります。
そこに奇跡の業と言葉をもたらす『聖霊』が無く、教理に度々調整が加えられ、予告された年に何も起らないことが続いたことは、一般から見ても「普通の宗教」という以上には言えません。

ものみの塔の言い分としましては、こうした聖霊の奇跡も、論駁できないほどの言葉もないのも、それは「重要なのは救いの音信であり,奇跡ではありませんでした。奇跡は音信の真実性を証明したに過ぎません」とあり、使徒ヨハネの『神に信仰を持っていない者は,[神]を偽り者としているのです。なされた証し,つまり,神が証人としてご自分の子に関してなさった[証し]に信仰を置いていないからです』という言葉と衝突してはいないものでしょうか。(81.12/1「信仰治療-それは害をもたらしますか」7p/ヨハネ第一5:10)

また、ものみの塔は聖霊の奇跡をいよいよ軽んじているのか、こうも述べています。
「今の時代には,イエス・キリストが神の任命された救出者であることを証明したり,神がご自分の僕たちの後ろ盾となっておられるという証拠を示したりするために,神がそのような奇跡を行なわれる必要はありません。」(洞察1「奇跡」687p)
なんという確信のこもった断言でしょうか。まるで神の威力を観るのを拒んでいるかのようでさえありませんか。
このような「信仰」はいったいどこから来たものでしょうか? ⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への観方

ですが、本当に聖霊を注がれる『聖なる者たち』の現れなくして、世界はけっして「終わりの日」に入らないことでしょう。
世界には、『聖霊』という『世の裁き』の要を欠いているからです。


こうして聖書を幾らか見直すだけで実に大きな事柄に気付くではありませんか。
そこには真の「命を救う業」が記されています。
それはキリストの兄弟たちの行うはずの際立った奇跡の業であり、わたしたちは聖霊の声に心を柔らかくして受け入れるなら誰でも救いを得ることになるのです。(ヘブライ12:25-27)

それはつまり、いま現在、どんな宗教に属し、どんな思想を持ち、またどんな立場や道徳的行動をしているのかにも関わりなく、神は公正に聖霊を信ずる人々を救われるということです。主は『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許される』と言われます。(マタイ12:31)

人は、自分が救われたいという願いが強いと、自分たちで定めた基準が神に受け入れられると信じたいものです。
実に多くの宗派で、それぞれ聖書から引用した規準を守るなら救われるという言葉に大きな魅力を感じて、さまざまな宗派へのバプテスマを多くの人々が受けてきました。そこで大きな安心を得てもいることでしょう。

ですが、神の救いの意志は広く、聖霊の言葉を信じるか否か、それを語る『キリストの兄弟たち』を、その投獄されるほどの苦難にあっても支持するか否かによるのです。
しかし、いまだに世界に向かって語る人々が現れていないのであれば、終末の裁きはまだなのでしょう。

そこで求められるのは、けっしてひとつの宗教組織の指導を受け入れて「神に従順を業で示す」のではなく、神とキリストと聖霊に信仰を働かせることが裁きに関わるというべきでしょう。

キリストの『兄弟たち』への『親切』な行いは、彼らを支持したいと願う聖霊への信仰から発するものに違いなく、それほどに聖霊の言葉が人を動かす素晴らしいものなのでしょう。

イザヤはこの「命を救う業」の成果を高揚感溢れる言葉を用いてこう語ります。
『末の日に,エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ,もろもろの丘より上に必ず高められ,すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう。そして多くの民は必ず行って,こう言う。「来なさい。エホバの山に,ヤコブの神の家に上ろう。[神]はご自分の道についてわたしたちに教え諭してくださる。わたしたちはその道筋を歩もう」。』(イザヤ2:2-3)

それは人間にはけっして行うことのできない神の宣教の業であり、それを聴く人々の範囲は世界の隅々に及び、その内容はどんな人間にも考案も反論もできないほどのものとなるでしょう。

エホバの証人の方々は、神からの音信を遠く広く伝えようとなさる強い意志をお持ちなのですから、このように偉大な神の宣教のご計画には是非とも協働なさろうと思えるのではありませんか。さもなければ、聖霊の言葉が聞かれるときに、その音信を敢えて退けることにならないものでしょうか?

そこで何をもっても、天から注がれる強力な神からの真実の『聖霊』を待ち望むべきであって、人間の努力で義を立てることをまず止める必要があるでしょう。真にキリスト教を清めるのは、使徒たちの時のように、人の思い付きからではなく神の聖霊からのものとはなるに違いないのではありませんか。(コリント第一2:12-13)

パウロは、宣べ伝えられる神の音信が『霊と力の論証を伴うもの』であったことを述べております。それは神の威力、御腕であって、『説得のための知恵の言葉ではない』とも記されております。(コリント第一2:4-)

千八百年ほども、神が永い沈黙を守られたとはいえ、終末には再び奇跡を行うその右腕が目覚め、そのご意志は必ず行われるに違いないのです。
「終りの日」という歴史のクライマックスに於いて、神が人々に御力を見せずにいらっしゃるでしょうか?

預言者ミカを通し、ヤハはこう言われています。
『あなたがエジプトの地から出て来た日のように,わたしは彼に驚嘆すべき事柄を見させる。 諸国民は見て,自分たちのすべての強大さについて恥じる。彼らは[その]手を口に当てる。その耳も聞こえなくなる。』(ミカ7:15-16)

これほどに聖書が語るのであれば、きっと『約束の聖霊』が「終わりの日」に注ぎ出され、「キリストの兄弟たち」が世界に向けて語り始めることでしょう。あなたはこれを信じることができるのではありませんか。







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2015.07.09 (Thu)
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「エホバの証人の信仰分析」は「Quartodecimaniのノート」に戻しました














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