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略解教理之詞言

2015.06.08 (Mon)

略文紹介



1. 最初の人アダムを創造した神は、人間を「神の象り」に創りました。それは、人間が神と同じように自由な意思を持つことを表します。そこで神は人間と人格的な関係を望み、自ら忠節な愛を示し、また人にも望みます。それがエデンの園の中央に植えられた二本の木の意味するところでした。

一本は「善悪を知る木」、もう一本は「永遠の命の木」と呼ばれ、それは人と神の関係に関わる選択となりました。『神の象り』である人間を自らのように尊重する神は、この選択を人の自由に委ね、強制も監視もされません。そこで人は神との関係性が問われます。その焦点は『愛によって神と結ばれる』かどうかにあります。

天使のひとりは、この点で自分を愛することを選択し、既に神から離れていました。その者は逆らう者という意味で『サタン』と呼ばれるようになり、神の創造界に不調和が生じ始めます。

アダムは、天使であったサタンが操る「蛇」の誘惑によって禁じられていた「善悪を知る木」の実を取って食した妻と行動を共にすることを選んで、同じく神への忠節な愛を捨てました。
こうして人は倫理上に欠陥を負うものとなり、その子孫に不道徳な傾向が遺伝してゆきました。

この不倫理性によって人類は大きな害を受けており、人々は隣人と問題なく過ごすことができません。不正と争い、犯罪や戦争など世の害悪の大半は人間自身の倫理上の欠陥に原因があります。その傾向は聖書では『罪』と呼ばれ、このために人間は皆、神の創造物として不完全になり『神の子』の栄光から脱落しています。

しかし、この人間の状態は神の創造の意図ではなく、今の不調和な世界も神の意図するものではありません。この問題が解決されなければ、創造の業はいつまで完遂されないことになります。
そこで神は、人間からこの倫理上の欠陥である「罪」を除き、創造された当初の人間の状態に戻すこと、つまり「贖罪」(しょくざい)を行われることを計画されました。

その「罪の赦し」ため神はイエス・キリストを用います。キリストとは「任命された者」を意味します。
人類全体から「罪」取り除いて、人類世界を改めるのが「神の王国」の役割であり、その主要な王にはイエス・キリストが即位します。



2.神は早くもエデンの園で、人間が陥った問題への解決法を予告しました。それが『女の裔』と呼ばれる何者かのことであり、聖書はこの『女の裔』が誰であるかを巡って数千年を越える永きに亘り書き継がれました。その『女の裔』つまりエヴァの子孫の何者かによって、『蛇』であるサタンが創造界にもたらした害悪も、すべてがサタンもろともに除かれることになります。

やがて、その『裔』はシュメール時代の人アブラハムの子孫の中から現れること、また彼の子孫にパレスチナの土地を与えることを神はアブラハムに約束します。
やがて、その家督を持った子孫はエジプトでひとつの民族を構成するほどに増え、イスラエル民族となります。
しかし、エジプトの王朝の交代によって、彼らは奴隷身分に落されてしまいました。

この民族をエジプトでの奴隷状態から「約束の地」パレスチナに導き出すために用いられたのが預言者モーセでありました。
神は、紅海の水を分けイスラエルをエジプトでの奴隷状態から救い、シナイ山麓でモーセを介し、この民族と契約を結びます。
それは、神が与える『律法』を守るなら、イスラエルは『聖なる国民、王なる祭司の民』となるという契約であったので、これは「律法契約」と呼ばれます。その律法では、罪の許しのためには犠牲が必要であることが、崇拝での動物の捧げ物の要求によって示されていました。

しかし、イスラエルはこの契約を守らず、遂にパレスチナを追われてバビロンに捕囚となります。
それでも、神はバビロニアの帝国を終わらせて、パレスチナに幾らかの人々を帰還させ、神殿喪失から七十年が経過すると神殿を再建させます。この役割を担ったメシア(任命された者)はペルシア帝国のキュロス大王であり、エルサレム神殿の再建と祭祀の復興を命じたのはこの王でした。

神はイスラエル民族が捕囚を経験する前から、預言者を通して律法契約に代る「新しい契約」とそれをモーセのように仲介する「メシア」の到来を予告していました。それは『契約の使者』とも呼ばれる新たなメシアとなる何者かのことでした。



3.パレスチナに帰った人々はユダヤ人と呼ばれるようになり、前五世紀の預言者マラキを最後に、旧約聖書はそれ以上書き加えられなくなります。
それからおよそ四百年が過ぎると、預言者の姿をした人物がヨルダン川でユダヤ人に『悔い改めの浸礼』を施し始めます。人々は久しぶりの預言者の到来を見て、この人が約束されたメシアではないかと噂しますが、その人「バプテスト(浸礼者)のヨハネ」はそれを否定し、自分の後に来る方がメシアであり、その方がユダヤ人らに聖霊また火でバプテスマを施すことになると告げます。

そこに北部ガリラヤのナザレ村から三十歳ほどのイエスという人物が訪ねてきます。ヨハネが水でバプテスマを施すと、この人には聖霊が降り、ヨハネはこの人をメシアとしてユダヤ人に示します。
それからイエスはメシア=キリストとしての活動を始め、多くの奇跡を行って人々の病気を癒し、『神の王国が近付いた』とユダヤ人に知らせ始めます。神はイエスに奇跡の力を与え、彼が来るべきメシア=キリストであることを証します。

しかし、メシアを受入れたユダヤ人は少なく、ここでもイスラエルの多くの人々は『新しい契約』に入ることを拒むばかりか、メシアをローマの権力に渡して無理に処刑させてしまいました。
その結果、メシアを受入れた幾らかのユダヤ人は「新しい契約」に入って聖霊が注がれるようになり、その人々もキリストの奇跡の業を受け継ぎましたが、その一方で、多くのユダヤ人はそれを妬みメシアの弟子らをも迫害するようになります。

そこで弟子たちはユダヤ民族を後にして世界に広がって行き、キリストによる世界の救いを知らせ、聖霊を受ける仲間を諸国民からも集めるようになります。キリストの弟子たちは、血統のイスラエルとは対照的に『神のイスラエル』と呼ばれます。こうして『女の裔』としての神の選びは、ユダヤ人から離れ始め、ユダヤ教とキリスト教は別の道を歩むことになりました。

キリストと彼に聖霊を注がれた者らが、アブラハムに約束された、世界の人々を『罪』というサタンの害から救う『女の裔』であり、律法契約が目指した『聖なる国民、王なる祭司の民』となる者らであり、新約聖書はこれを『聖なる者たち』と呼びます。彼らが『神の王国』、また『天の神殿』を構成する人々であり、天でキリストと共に『王また祭司』となることを目標にします。その働きの目的は、全人類から『罪』を除き、創造物としての栄光を回復させ、永生を得させることにあります。

彼らはキリストを仲介に『新しい契約』に入ったことを、その注がれた聖霊による奇跡の業と教理の知識によって示すことができました。新約聖書が書かれた時代には、キリスト教徒の集まりのほとんどが聖霊を受けた『聖なる者』で占められていたことが、その記述から分かります。彼らはキリストの犠牲による『新しい契約』に入ることで、アダムからの『罪』が仮赦免された状態に入るので『神の子』また『キリストの兄弟』とされます。

他方、キリストを退けた当時のユダヤの世代は、ローマ軍に攻撃され『火のバプテスマ』を受けることになり、エルサレムと神殿を失い、流浪の民となって「約束の地」から離れて行きました。神殿喪失の以降は、神の名が何と発音されるかも忘れ去られて今日に及んでいます。



4.その一方で、奇跡の『聖霊』を注がれていた『聖なる者』の中心的な使徒とユダヤ人の弟子らによって新約聖書が書かれ、旧約聖書の意味するところが明かされてゆき、最後の使徒ヨハネの著作が聖なる書に収められた文書の最後となりました。

『聖霊』の奇跡は彼らに働いて、外国語を話させ、預言を語らせ、使徒たちには病気を癒したり、教えの奥義を理解させていましたが、新約聖書はそれを今日に伝え、読む人々に神の一連の歩みを教えて信仰を促しています。

しかし、聖霊の賜物の奇跡も終わる時代が訪れます。『聖霊』が新たには注がれなくなり、世代が進むに従い『聖なる者』が減ってゆき、ついに地上から絶えます。歴史資料からすれば、それはおそらく第二世紀半ばの事であったでしょう。

『聖霊』を失ったキリスト教界は急速に本来の教えから離れ、ギリシア文化(ヘレニズム)やさまざまな異教の影響に曝され、ニケア公会議のあった第四世紀以降はすっかりとその姿を変えてしまいました。

今日、見られるキリスト教のほとんどは、この異教化したキリスト教なので、天国と地獄を信じ、三位一体の神を教え、刑具であった十字架を象徴としています。これらは『聖霊』がキリスト教徒を導いていた時代にはキリスト教のものではありませんでした。

しかし、イエスは「世の終り」の時期に弟子らが再び『聖霊』を受けることを予告しています。
彼らは為政者の前に引き出されますが、『聖霊』が彼らに臨み誰も論駁できない言葉を語り、それは諸国民への証しともなるというのです。ですが、このような弟子の姿を世界はまだ見ていません。しかし、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が再び現れるとき、原始キリスト教が回復され、人々を救うという『神の名』も示されるでしょう。



5.「世の終わり」の時期は未だ到来していませんが、『聖霊』を受けるキリストの弟子が再び現れて、『神の王国』の王となるべきキリストの再臨と、その支配に従うべきことをこの世に明らかにするときに、はっきりと「世の終わり」の時期に入ったことを世界は知ることになるでしょう。そこで人類は忠節な愛を懐くか否か、つまり『信仰』が各人に問われることになります。
その後、『神の王国』がこの世を裁いて終わらせ、『この世』の空しい体制は終わります。

それは遠い昔にアブラハムに約束された『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』という神の言葉が、キリストの治める『神の王国』によって実現を迎える時となります。人々は祝福を享受し『罪』を去り、病気や老いから解放を受けます。

そこで「新十四日派」は神の次の一歩となる、『聖霊』が再び降ることを待ち望み、『神の王国』の到来に希望を託します。
『神の王国』は心に中に在るものではなく、この世に到来するものであって、この世の政治に取って代わる現実の支配であるというのが、最後の使徒ヨハネの指導を受けた第二世紀小アジアのキリスト教徒の信仰でした。

彼らの多くは「十四日派」と呼ばれましたが、それは「主の晩餐」を毎年のユダヤ暦ニサン14日に守ったからです。それは古代にモーセに率いられたイスラエルがエジプト出た前の晩に相当し、キリストの最後の晩でもありました。赤葡萄酒と無酵母パンを用いる「主の晩餐」はキリスト教に於ける最も重要な儀礼です。

終末の聖霊によるキリストの裁きの後に、人々は千年続くという『神の王国』によって、キリストの贖いを受けて『罪』の影響から遂に解放され、この世の苦しみは過去のものとなり、神の是認された創造物としての輝かしい姿を得ることになるでしょう。それがエデン以来変わらぬ神の意志であるからです。

千年の後、善人も悪人も含む、存在したあらゆる一般の人々の復活によって、人々はエデンの二本の木の選択に対応する、神の最終的な裁きを受けることになります。『罪』という利己心に固執する者は存在しなくなり、人を誘惑して神の裁きを意図せず推進したサタンもその邪悪な働きを終えて遂に滅ぼされます。
他方で『罪』を悔いる人々は象徴的に、『永遠の命の木』から食べることを許されて永生に入ることになり、以後は誰の死をも見ることもなくなります。こうして神の創造の業は本来の姿を取り戻すことになって完成され、永遠に及ぶことになるでしょう。
こうしてサタンである『蛇』はキリストたち『女の裔』によって致命傷を負って永遠の滅びに至り、人類はエデンの状態に戻されます。





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矛盾した「エホバの証人」という存在し得ない名称

2015.06.01 (Mon)


「エホバの証人」とは、広範な戸別伝道や街路での宣伝を通してその雑誌「ものみの塔」と共に見聞きされるキリスト教一派の信者を指す名称である。

この「エホバの証人」の由来はイザヤ43:10-12に記された言葉によるものとされている。

その句はこのようになっている。(以降、新世界訳)
『10「あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「すなわち,わたしが選んだわたしの僕である。それはあなた方が知って,わたしに信仰を抱くためであり,わたしが同じ者であることを理解するためである。わたしの前に形造られた神はなく,わたしの後にもやはりいなかった。11 わたしが―わたしがエホバであり,わたしのほかに救う者はいない」。
12 「あなた方のうちにほかの[神]がいなかったときに,わたし自ら告げ知らせ,救いを施し,[それを]聞かせた。それで,あなた方はわたしの証人である」と,エホバはお告げになる,「そして,わたしは神である。』


上記の言葉はイザヤの時代に契約の民イスラエル民族に向けて語られている。
しかし、イスラエル民族はモーセの律法を守ることなく、バビロン捕囚の憂き目に遭うことになる。
それはイザヤも、『22 「しかし,ヤコブよ,あなたはこのわたしを呼ばなかった。イスラエルよ,あなたはわたしにうみ疲れたからである。23 あなたはわたしにあなたの全焼燔の捧げ物の羊を携えて来なかったし,あなたの犠牲をもってわたしの栄光をたたえることもしなかった。』と同じイザヤの章にある通りである。

だが、イスラエルの神YHWHは、彼らをバビロンに囚われた状態から救い出し、再びエルサレムでの崇拝を再興を許すことも予告し、このイザヤの預言を通してもそれを知らせている。
『あなた方を買い戻す方,イスラエルの聖なる方,エホバはこのように言われた。「わたしはあなた方のためにバビロンに人を遣わして,獄のかんぬきを下ろさせる。そして,船の中のカルデア人はすすり泣く。』(43:14-)

この崇拝の再興を通してイスラエルは自分たちが神YHWHに選ばれた民であることを自覚することになるという。
これが所謂「回復の預言」であり、それはイザヤばかりでなくエレミヤやエゼキエルにも存在する、同様の事柄が多面的に語られ,、預言者は違えども一連の共通する内容を知らせる予告を構成している。

しかし、それはバビロンからの僅かな残りの者たちの帰還の時期に実際に起こったところだけに含まれない事柄も示唆しているのであり、それはなお将来への展望を期待させるものとなっている。
なぜなら、「イスラエル」は神の民であり、その格別な目的は未だに充分に果たされた姿を誰も見ていないからである。
イザヤにはこうある。『それは,わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民なのである。』(43:21)

つまり、この「イスラエル」と呼ばれる民は『「イスラエルよ,あなたはわたしの僕である。わたしはあなたのうちにわたしの美を示す」』と呼びかけられた民であり、それはアブラハムの後裔として『諸国民の光』となるべき民、古代のアブラハムに予告された『そして,あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。あなたがわたしの声に聴き従ったからである』との言葉を諸国民に対して実現する務めを負う者たちとなるのである。(創世記22:18)

それこそは、シナイの荒野でモーセを通して『わたしとの契約をほんとうに守るなら,あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。全地はわたしのものだからである。6 そしてあなた方は,わたしに対して祭司の王国,聖なる国民となる』と律法契約によって進むべき目標となったところであった。(出埃19:5-)

しかし、イスラエルはこれに従うことが出来ず、遂にバビロン捕囚を経て契約の証しであった「契約の箱」を失い、律法契約は不確かなものとなって、エレミヤの予告した「新しい契約」とメシアの出現を待つ不安定な時代を過ごさねばならなくなった。
この民は神から『イスラエルの神の名を真実によらず義によらずに語り告げる者たち』とさえ呼ばれざるを得なかった。即ち、名を唱えることがそのまま善ではなかったのである。(イザヤ48:1)

最後の預言者マラキの後四百年を経ると、ヨルダンの荒野にバプテストが現れて『悔い改めのバプテスマ』をこの民にほどこし始め、そこにメシアが現れる。
バプテストの告げたようにメシアは帰天の後、信仰をもった民に『聖霊のバプテスマ』を施す一方で、信じなかった民には西暦七十年の『火のバプテスマ』をもたらした。
それはメシアを退けた「世代」への報いであって、メシアの刑死から四十年を経ずに起こったことであった。それは遅滞なく生じ、けっして「ふたつの世代が重なる」ようなことはなかった。

こうして見ると、神YHWHから自らの証人であると呼ばれたのは、聖霊を注がれ、『新しい契約』に入った『聖なる者』(ハギオス)を表していることが明らかになる。
パウロはこの民を『神のイスラエル』と呼んでいる。つまり、血統上にある『肉のイスラエル』と対照される民である。しかし「霊的イスラエル」または「霊のイスラエル」と呼ばれていない。仮にそう呼ぶのであれば、ますます奇跡をもたらす聖霊を度外視できないことになる。

彼らにはイエスから約束されていた『聖霊』が臨む。それは多くの奇跡を行わせるだけでなく、『真理の全体へと案内する』ものでもあり、その働きの結果として聖書も完成してゆくことになった。
それは主に聖霊の言葉であって偽りなく、聖書に記されるところとなって、僅かな筆者個人の記憶違いとされてきたものを除き、訂正も調整も必要もないものとなって今日まで存在している。(ローマ9:1)

彼らは繰り返し『聖なる者』(ハギオス)と聖書中に呼ばれており、けっして「油そそがれたクリスチャン」と呼びかけられていない。
その身分は、既に肉体に在りながら『罪』を許された『義』の状態に入っていることをパウロは指摘する。
『こういうわけで,キリスト・イエスと結ばれた者たちに対して有罪宣告はありません。』また『神の選ばれた者たちに対してだれが訴えを提出するでしょうか。神が[彼らを]義と宣しておられるのです。』とも書いている。(ローマ8:1・33)


それであるから、聖書中の『聖なる者』は、エホバの証人の中の「油そそがれたクリスチャン」を遥かに超え、人類に先立って『養子縁組の霊』を受け、既に肉体に在ってさえ『神の子』とされるはずである。それゆえ奇跡の聖霊も注がれてキリストの業を続行し、間違いのない知識も与えられていたのである。

彼らがこれほどの異例に高い立場を得た理由は何かと言えば、それこそが「新しい契約」による仮の「贖罪」であったことを彼はこうも指摘している。
『この[み子]によって,わたしたちは贖いによる釈放,すなわち罪の許しを得ています。』(コロサイ1:14)
またこうも言っている。
『わたしたちはこの方により,その血を通してなされた贖いによる釈放,そうです,[わたしたちの]罪過の許しを,その過分のご親切の富によって得ているのです。 8 [神]はそれを,あらゆる知恵と分別とにおいてわたしたちに満ちあふれさせてくださいました。9 そのご意志の神聖な奥義をわたしたちに知らせてくださったことにおいてです。』(エフェソス1:7-)

しかし、この「贖罪」はキリストと共なる『初穂』である人々、つまり『キリストと共同の相続人』である『新しい契約』に与った人々だけが受けることのできたものであり、それ以外のすべての人にとっての贖罪は千年王国を待つべきであることには誰も変わりがない。それは現に「エホバの証人」であろうとなかろうとである。
では、エホバの証人だけが終末の裁きを考慮せずに、一足飛びに「楽園」に入ったつもりを云々する理由が何かあるのだろうか?それは他の人々に対して、パリサイ派のような優越感と蔑視を免れないのではないだろうか?また、教会員が洗礼を受けていない人々は地獄に落ちると教えられているところと実質的に変わりはないではないか。どちらもアブラハムに示された人類全体への大志は失せ、どちらも閉鎖的に信者だけの救いを請け負うことで利己心を煽る悪魔的教えに堕している。

他方、人類を贖罪するための『新しい契約』に与った人々は、既に仮贖罪されているゆえに『神の子』であるとパウロは言うのである。聖霊はその見える証拠であり、奇跡の賜物は自他共に明らかな身分を明かす神の印であった。
『14 神の霊に導かれる者はみな神の子であるからです。』
したがって、『水と霊から生まれた』『聖なる者』は、地上に在る間から『キリストの兄弟』となったとされている。(ヘブライ2:10-3:1)

彼らを『聖なる者』と証しした『神の霊』が神の子として生み出したこと、これについては聖書に疑問の余地がない。
『あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。16 霊そのものが,わたしたちの霊と共に,わたしたちが神の子供であることを証ししています。』(ローマ8:14-17)

彼はエフェソス書簡ではこう語っている。
『しかしあなた方も,真理の言葉,すなわちあなた方の救いについての良いたよりを聞いた後,この方に望みを置きました。そして信じた後,やはりこの方により,約束の聖霊をもって証印を押されたのです。14 それはわたしたちの相続財産に関する事前の印であり,また,[神]ご自身の所有物を贖いによって釈放し,その栄光ある賛美とすることを目的としています。』

『栄光ある賛美とすることを目的』とあるように、与えられた聖霊は彼らがまさしく「イスラエル」あのイザヤ43章の示す『わたしの賛美を詳しく話すよう,わたしが自分のために形造った民』そのものであり、イエスが山上の垂訓で『あなたがたは世の光』と言ったそのユダヤ人の本来あるべき姿であったが、彼らの身の証しを立てるものは『聖霊』であったことを聖書は繰り返し語っている。(ローマ15:16/コリント第二5:5/エフェソス1:13-14/ペテロ第一1:2)

しかし、彼らは依然として肉体に住まう間は、アダムからの罪にまとわれていることは変わりない。そこで、彼らは『新しい契約』によって義が仮に与えられている状態にあるので、その生涯を通して忠節と道徳性を保たねばならない。それが彼らに与えられた務めであり、「契約」とは常に不確かな事柄について締結されるものである。パウロ自身自分が義に適っているわけではないとしながらこうも言うのである。『わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない』(コリント第二5:10新共同)

そしてこの契約によって与えられた『聖霊』が、終末において大いなる業を行うことをイエスによって予告されている。
ルカ福音書のまさに21章は終末のキリストの預言を記した箇所であるが、そこでは彼らの発言が格別のものとなることが知らされている。
『12 「しかし,これらのすべての事の前に,人々はあなた方に手をかけて迫害し,あなた方を会堂や獄に引き渡し,あなた方はわたしの名のために王や総督たちの前に引き出されるでしょう。13 それはあなた方にとって証しの[機会]となるのです。14 それゆえ,どのように弁明するか前もってけいこなどしないことを心に定めなさい。15 わたしがあなた方に口と知恵を与えるからです。あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできないでしょう。』

イエスがこのように弟子らに語らせる経路となるものが何であるかは、他の福音書も語るところである。
『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。18 いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。19 しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。20 話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』(マタイ10)

このように為政者と敢然と対峙し、誰も論駁できない聖霊の言葉を語る者こそを「YHWHの証人」と呼ぶべきではないか。
これらの人々であれば、確かに「世のものではない」。しかし「エホバの証人」はそう言えるだろうか。この世に敵意は懐いても、それ以上ではなく、やはり『罪』を贖われてはいない『世のもの』ではないか?
ましてこの団体の責任ある者らが神を証しして為政者に臆せず立ち向かっているだろうか。
むしろ世の法廷で醜聞を問い詰められていながら、末端の信者らにはそれを隠して部外者の偽りであると言い包めてはいないか。そのような者はどうしても「証人」とは呼べない。まして神の名の証しなど、到底無理である。

どんな集団からでも性犯罪は起こりえる。それが人間が拭い得ない『罪』というものの実態であろう。
それが起こることは避けられずとも、どう対処するかというところでこそ、宗教団体に限らず集団の質が試される。
この点で、「ものみの塔」はまったく失敗しており、司法に対して犯人隠匿という方向に向かってしまった。これは、罪を避けられない同じ人間でありながら『自分には罪はない』というに等しい詐称というべきであろう。その聖句の通りに、その言動はまさに『自分を惑わしているのであり,真理はない』ことを証ししているのであろう。(ヨハネ第一1:8)

それが神の名を戴く「証人」なのだろうか。むしろその名を汚しており、ミスと隠蔽という、どこの宗教団体にも見られる醜聞の凡庸さは「この世」の常ではないだろうか?
まして、神の名を用いているからと言って、自己義認の証拠として神聖な御名を担ぎ出しているのであれば、現実が示す通りに、本来の発音を証明できないように、それも神からの拒絶に面しているのである。

他方で、マタイ25章の羊と山羊の例えは彼らの有様とは異なる聖霊を注がれた弟子らの姿を描き出している。即ち、聖なる「キリストの兄弟ら」が世の矢面に立ち、その他の人々は彼らに親切を示すのであるが、エホバの証人ではその他の人々が世の矢面に立たされており、「キリストの兄弟」を自認する者はその背後で安楽に「指導」してはいないか? これはどこかで「教えのすり替え」が密かに為されている証拠であろう。
それに加えて、信者には社会からの情報を得させずに置きながら、指導層は多くのミスリードについて自己正当化の宣伝を繰り返す。これはもはや「キリスト教」を名乗るべくもない一般良識以下の卑怯な醜態ではないか?


真正な『聖なる者』らには神からの聖霊が臨む以上、また神との契約の一方の当事者である以上、神の名を知らないということがあるだろうか。エホバの証人でさえ「エホバ」が真正の神の名前ではないことを知っている。

だが、キリスト自身は『そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。また[これからも]知らせます。それは,わたしを愛してくださった愛が彼らのうちにあり,わたしが彼らと結びついているためです」。』と祈っているのであり、神やキリストと本当に結ばれた『聖なる者』であれば、どうして神の名の発音を知らないでいる理由があるだろうか?

全能の神が自らの御名を保存できなかったのだろうか。ならば「エホバの証人」がそれを回復するべく奮闘努力する必要があるのだろうか。そして全能の神もその助けを待っているというのだろうか。
それとも、いと聖き御名は神自ら秘められることを許されたのだろうか。そうであれば、いったい何者がそれを公表することができるのだろう。
神は終末に自ら名を清め『高く挙げる』と言われる。(イザヤ33:10) 神が御自らその名を高く挙げるときに、信者が口々に家から家へと伝える介助が要るのだろうか。

その終末には、神名を知らされたモーセとアロンが御名を掲げてファラオに対峙したように、『聖なる者ら』も為政者らに知らされるであろう御名を掲げて立ち向かい、『この世』を糾弾するのであれば、確かに彼らを御名の証人と呼ぶことは相応しい。彼らが担う御名に信仰を働かせ『御名を唱える』人々が救われるというのなら、それは聖書の一貫した論理に整合しているというべきではないか。

これらを考慮しても「エホバの証人」というこの名前は、「エホバ」と「証人」が相矛盾しているのである。
さらに「エホバ」とは子音字[יהוה]YHWHをユダヤ人が「主」(アードナーイ)と読ませるために振ったルビ(ニクード)を子音四文字にそのまま当てはめて読んだ欧州人の仮の呼び名だからであり、それは当のエホバの証人も教えられていることである。キリスト教界はこれを「誤読」としているが、確かに、「エホバ」はいまさら「証人」を必要とするものでもなく、八百年も以前からカトリックに存在していた読めない神名を呼称する一便法であったうえ、神名理解の進まなかった19世紀までの神名音読の古い習慣に留まるものである。

むしろ、それを「ヤハ」と残された省略形で読むこともできるだろうし、その方が古来ユダヤに伝わるものである。もちろん、それでも御名を人類は未だ知らないということに変わりはなく、その後に「証人」と続けることはやはり相応しいことにはならない。真実の名を証しすることは、神からの啓示を持つ者だけが為し得ることではないか。

それが即ち真実の『神のイスラエル』即ち『キリストの兄弟たち』である。
キリスト自身を深く描写した詩篇22篇にはこうある。
『わたしはあなたのみ名をわたしの兄弟たちに告げ知らせ,会衆の中であなたを賛美します。』(22:22)そしてイエスは祈りの中で『彼らに知らせました』と御父に語っているのである。
そしてヘブライ人書簡には、この詩篇22編を引用してキリストがその『兄弟たち』に神名を知らせるとあるではないか。即ち、「救われるべき者らが、親切を示すべきキリストの兄弟たち」のことである。(ヘブライ2:12)


つまりは、今日この世に神の御名を正しく知る者は絶えていないので、却ってそのことが真実に「YHWHの証人」がいったい誰であるかを指し示すものとなるはずではないのか。神名は人々の救いに関わるものであり、終末に重要でないわけもない。
そこで「יהוהの証人」とは真実に聖霊を持つ者だけが発音して名乗れるものだからであり、この世にそれができる聖霊注がれた『聖なる者』は初期以来、実際に絶えて居ないではないか。

この点で、「エホバの証人」は19世紀の蒙昧のままに「エホバ」と発音することを通して、むしろ自分たちも神名は知らないと言っているのであり、そこで「エホバ」と「証人」のふたつの言葉はまったく撞着しているのである。
これほどお粗末な名称も宗教界に見当たらないのではないだろうか。実にこの組織の代表者が一晩でこの名称を思い付いたというが、自分たちを「エホバの証人」と呼んだその日以来、彼らに神の導きは無かったことが名称そのものに明白に出ていたのである。つまりは「クリスチャン」と称するのアメリカ人の傲慢な妄想である。

彼らは、「発音などは言語によって異なるのだから正確である必要はない」などと強弁するのだが、これはますます傲慢不遜を重ねることである。なぜなら、言語によって名の発音が異なるのと、元の名が不明である事とは全く別問題であることは明らかである。
エホバの証人の指導層は、神の真正な御名を証してはいない点でけっして『キリストの兄弟』ではなく、これをただ詐称していることが歴然と表れているではないか!

しかも、この「エホバの証人」の名称が僭称にも至らない嘘名そのものであり、これを公言して憚らないのである。その嘘名とは聖霊に対する偽りを含み兼ねず、そうなれば悪気はないとしても軽い咎で済むとは思えない。

もちろん、神の名は誰も知らないのであるからには「エホバ」である可能性もゼロにはならない。しかし、だからといって神名はやはり「エホバ」だと言っても、それは「証し」していることになるわけもない。その名が「エホバ」である微少な確率に懸けるとしても、それは普通「予想」と呼ばれるものであっても「証し」とは言えない。その「予想」こそは、この組織が「年代」に於いても長年行っては何度も逸し続けて来たものである。

キリストはこう言う。『子と子がすすんで啓示する者をほかにすれば、だれも父を充分には知らない』(マタイ11:27)
では、その名を知らないエホバの証人は、啓示を受けたと言えるだろうか? キリストがすすんで知識を与えるものとされているのだろうか?
やはり、ラッセル師以来、この人々の誰にも啓示はなかったのが実態であり、怪しげな年代計算から1914年に固執し、それに「楽園」という希望的観測を抱いた人々の集まりが「エホバの証人」の看板を掲げただけのことである。

ならば、他の誰とも変わらない聖霊のない人々が神の「証人」の身分を語ってよいだろうか?名をさえ知らぬ者が「証人」たり得るか?

ますます良いはずもない。
これは詐称に中でも神の聖霊と御名に対するものであるからには、極めて罪の重い騙りというべきであろう。
彼らが日毎に口にするその「エホバ」は聖書の神の御名ではないばかりか、用いる程に自分たちはその発音を知らないと繰り返しているのであり、それが頻繁であればあるほど実際には「自分は神名を知らない」とうるさいほどに公言して憚らないのである。
そこでは聖霊はもちろん、何ら「神からの経路」を得てはいないと、その「エホバ」と発音される都度に自ら反証しているのである。(詩篇102:21)

少し考えて頂きたい。
「エホバの証人」に聖霊が注がれているというのであれば、どうして教理の訂正を避けられないのだろうか?
パウロは『わたしはキリストにあって真実を語ります。偽りを述べるのではありません。わたしの良心も聖霊によって共に証ししているからです。』と書いているではないか。(ローマ9:1)
彼の言葉は、時間が経つと訂正されたり、撤回されたりはしていない。それにも関わらず「エホバの証人」は聖霊が導いているのか。 ならば、その訂正を繰り返す「聖霊」とは初代と同じ「聖霊」か?

この件に関するものみの塔の常套句は「聖霊に導かれてはいても、霊感はされていない」という口上である。
では、霊感を与えない「聖霊」とは、間違える導きも与えるものではないか?それを「聖」と称するどんな理由があるのか?
そのように不確かで惰弱な「聖霊」なら、他の誰かも持てるものではないのだろうか。教会員もそう唱えているのだから。

また、「家から家」が求められた宣教の主要な業であれば、なぜ終末に聖霊の言葉が為政者らと諸国民への証しとなるのだろうか?
どうして性的幼児虐待の廉で法廷に呼び出されても出廷せず責任逃れをするような代表的「エホバ証人」が、終末預言にあるように敢然と為政者と対峙できるだろうか?

「エホバの証人」とは何と厚顔無恥な名称であることか。
「エホバ」と言うなら「証人」とは言えず、「証人」なら「エホバ」とは言わないのは明白だからである。
上記の事柄を理解したうえで恥を知るなら、この名称はとても名乗れない。
不遜を重ねて「初代キリスト教徒もエホバの証人であった」というなら、今日イエス・キリストが世界で最も知られた人物とはならず、神の御名は保存されていたであろうし、神名は今日「エホバ」とは呼ばれていなかったであろう。(ローマ10:9/15:20)

この名称を良いつもりで用いる人々は、聖書の根本的な教理をすら知らないと言っているに等しい。
おそらくは「楽園」以外に関心も無いのかも知れない。いと聖なる神の御名よりもご利益を大事にするからだろうか。

この人々が「エホバ」と声高に叫ぶ動機は、自分たちの「楽園」と「永遠の命」が、また仲間内の交友や権威をふるう願望が掛かっているからではないのか。キリストよりも神名を専らに掲げることで、アメリカの多種多様なキリスト教宗派の中での差別化には良いかもしれない。その特殊性が、唯一正統を演出するに便宜もあろう。
だが、そこで神への純粋な関心は利己心へと歪められてはいないのだろうか。そのご利益信仰と裁きの前の自己義認の横柄さがキリストを迎える態度として相応しいだろうか?

彼らが誇る「行状の義」も、『あなたの義は地の人の子に対するもので』『たとえあなたが実際に正しくても,[神]に何を与えられよう』。という言葉を超えることができるのだろうか。(ヨブ35:8.7)
ヨブでさえこのようであれば、「エホバの証人」はいったいどんな証しを神の御前に提出できるというのだろう。
「宇宙論争」なる妄想はキリストの一度限りの忠節の立証の前に霧散するべきものではないか。(ヘブライ2:14)

「エホバの証人」という言葉の響きには、強烈な自己義認の傲慢さが漂っている。
だが、この宗派の信者も、普通に見られるただの『罪』ある人であり、神の裁きの前に有利である事はとりたてて何もない。
むしろ、自派の正義を押し立て不遜であることに固執しているので、真に聖霊の降るときにそれが頑なにさせる恐れが強いであろう。 だが、いまからでも「人間の義」を捨て、心を柔らかにする機会はまだ残されている。



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「神の名は人を救う」
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