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創造者の望むものが服従ではない理由

2015.05.16 (Sat)


頂戴致しましたご質問は非常によいところを突くものです。

支配欲の強い人は、他の人々に規則を与えて守らせようとするものです。その意図は、他の人々の上に立つことを願うからでしょう。
多くの信仰者にとっては、神でさえ信者に服従を望み、崇拝させ平身低頭させることを喜んでいるかのような印象を持たれているように見受けられます。そうような人々にとって、この世とは、神の摂理が働いている場とされる傾向があります。
それは、実は自分自身も支配されることを好んでいるという背景があってのことでしょう。様々な支配のピラミッドの階層も、その全体を構成する人々が、実はそれぞれに「支配」というものにどこかで喜ばしい価値を感じているからこそ、ヒエラルキアを確固たるものとして存在させるに違いないからです。支配されることは、自らの行動を規定されることを通して、自分の判断の決定を形作らずに済み、結果の責任を上位者や神に取らせることに於いてたいへんに「楽」なことです。人は常に隷属を嫌うかといえば、そうでもないのです。

宗教では端的な例にイスラームがあります。イスラームとはそのまま「服従」の意味なのだそうですし、その崇拝はまさしく超絶的な神の前に伏し拝むもので、その教えは宗教儀式だけでなく、人の生活方式ばかりか、政治の在り方まで規定しています。それこそは「支配の宗教」といえます。ユダヤ教もやはり規則の宗教であり、そこには神の人間を伏し拝ませるほどの絶対優位がなくてはなりません。しかし、聖書の神がシナイ山でイスラエルに律法を与えたとは言え、聖書を綿密に追って創造の神を見ると必ずしもそうは言えません。

まず、第一にこの違いには、人が「神の象り」に創造されたという事が関係します。
つまり、創造の神が人間にせよ天使にせよ、理知的な存在者を創造した目的に、自らの絶対意志に服従させるということはありません。
もし、そうであれば、神は永久に「唯我独尊」のように振る舞うことになるでしょう。常に命令を下し、ただ自らの意図を成し遂げる神は、絶対的超越の孤独の中に居ることを意味します。すべてが神ひとりの意志によるからです。

ですが、創造の神はなぜアダムに生き物の名を付けさせたのでしょうか。
明らかに神は自らとは独立した思考の持ち主であるアダムの自由な発想を許すばかりか、自ら創造したものにアダムがどう反応するかを楽しみ、自らの創造物への名付けをさえ許しています。アダムは明らかに神とは独立し、なお、神との意志の疎通を図ることができる存在であったと言えます。その関係は親子に例えられる親密なものです。

ほかの例を挙げれば、列王第一の22:21をご覧ください。
そこで全知の神が天使たちに様々な意見を述べさせ、その一人に考えるところを述べさせてもいます。

そして、エデンの二本の木があります。
それは祝福と呪いの分かれ道でありました。
もし、アダムの自由な選択を神が尊重しないのであれば、この選択も二本の木も必要がありません。

敷衍すれば、神は人類の苦悩の歴史、そして何よりも独り子の犠牲を以ってしてさえ、この自由を守ったと言えます。
その理由と言えば、人の自由さこそが『神の象り』、すなわち神自身をも尊重することであったからでしょう。

従って、人間にはある意味、自由な思考の持ち主であるということにおいて神と共通するところがあります。

創造の神は人の思考の自由を保つために、膨大な犠牲を払って来られたという以外にありません。そうでなく、神がただ主権をもとめていたなら、滅びの恐れをムチとし、逆らうものを排除する圧制の神となり、自由な意志は神だけが持つものとなったことでしょう。

人間の作った国家には、そのような圧政に近い政治を行うところもあります。独裁的であるほど主権者は恣意的に支配しようとしてきました。その動機は利己心です。
それでも人々は、ただ黙って強権的独裁を忍んできたわけでもありません。独裁的主権は人間性と対立するものであり。愚民を望んでは人間の持つ叡智を押しつぶしてもきたのです。人に叡智や人格を与えた神はけっしてそのような方ではありません。

むしろ、それぞれの思考を自由に持ち、発言し、表現することを望むものです。多くの人の自由な思考や判断こそが社会を豊かで効率よくし、間違いに気付かせ、多彩な楽しみも増やします。圧制が誤謬や不活性を生むのはそのためです。
やはり人は、そのように創造されているのでしょう。ただ従順であることが人の本性ではなく、正しい神に従順であればそれが神の意志であるということも、人が幸福になるわけでもありません。むしろ神のご意志は逆でしょう。

ですから、理知的な創造物であるということには、本来素晴らしい自由があったのですが、それは同時に諸刃の剣であり、その自由によって誘惑されると善を取らずに悪を選び、奴隷の境遇に、自分と子孫のすべてを貶めたアダムの行為は真に責められるべきもので、サタンに至ってはあらゆる支配欲と不自由の主犯とされるべきです。
これが「神を含む、あらゆる他者とどう関わってゆくか」という「倫理」の問題であり、「エデンの二本の木」のように自由意志を持つ全ての被造物が自ら答えを示さなければならない選択であり、それが何者に永遠の命を与え、神が誰と共に歩むかを決する『裁き』を必要とするのです。

ですから、「神から求められるのは従順だ」と言うなら、自らの答えをその自由意志を用いて神と人への忠節を示すことで裁かれる機会を活用するよりも、ただ怖れて自分の救いを確定させることを願い、神に自分を救う義務を押し付けようとすることになり、神を信奉する人々の間では、明らかにその方が人気があります。そのほうが安易だからであり、自らの選択による裁きを回避できるからで、多くの宗教家も信者に規則を与えて安心させようとするのですが、これは聖書を貫く問題が何であるのか、また神が人に意図することを知らないことを露呈するばかりか、却って信者たちを神の裁きに於いて危険にさらしていることになります。

アダムの選択の結果、神の栄光を反映するよう作られた人類も『罪への隷属』に置かれてきましたが、そのような隷属は創造者の意図するところではけっしてなかったのです。『死すべき人は何者か』とは、アダム以降の堕罪した人間について、その身の程を弁えるべきことを教える言葉であり、アブラハムをはじめ崇拝者らは神ばかりか代理の天使にも伏拝してきた通りです。

しかしそれでも、律法の中を見て、一か所でも神自身が人に伏し拝むよう要求するところがあるでしょうか?わたしは読んだことがありません。
そして、旧約の時代に亘って、中東では人に対して伏して挨拶することがごく普通に行われていました。(この点で的外れな指摘をするクリスチャンもいますが⇒「ふたつの句におけるπροσκυνέω」以下参照)
伏拝や跪拝は高位の人に対しても行われたことなのです。

そこで、いと聖なる神YHWHに対して旧約の崇拝者が伏して拝することは、ごく自発的で自然なことであったというべきでしょう。
神殿であれ、より古代の荒野やいかなる場所であれ、伏拝にせよ跪拝にせよ、それは常に自発的なものであったと言ってよいはずで、ここに聖書の神のひとつの精紳が読み取れます。

それは律法が「従順という他発性」を求めるのに対し、キリストの犠牲は「信仰という自発性」を求めるところにも表れています。

律法にせよ、法は従うものであり、条文がすべてを規定します。それは自発性を抑制し、外から自らを制御される義務が与えられます。そこで善悪が定められ、不倫理性のゆえに強制されなくては人間は互いの貪欲によって危険な状況に置かれてしまうので、どんな社会にも法か、あるいは何かの規制が存在しています。アダムの入り込んだ道徳上の欠損の道、つまり『罪』がまさにそのような支配される生き方に人間を方向付けたことは「この世」を見るなら明白でしょう。

しかし、キリストの犠牲に心動かされる場合はそうではありません。
他者を気遣うゆえに自らを抑え、また他者の喜ぶ姿を見たいと欲するのであり、それを可能ならしめるのは自由であって、自由がないと真実の愛を示すことができません。
真実の愛(忠節な愛)はパウロの云うように『法を全うするもの』となり、様々な規制の必要をなくすことでしょう。
それは人に対しても神に対してもです。

そこで確かに『キリストは律法の終わり』と言うことができます。キリストの教えにより、外的な法の束縛から内的な愛の自律に進んだのです。
『初穂』となった『聖なる者たち』の罪が贖われ始めることによって、彼らは『神の子』となり、まず彼らにおいて善悪を定める法はその必要を失いました。「キリストの律法」とは、愛に基づく清さを示してアダムの罪を持ちながらも新しい契約を全うする彼らの務めを表す言葉であって、モーセと異なり心に書かれたものなのです。

ですから、創造神は自らの栄光を表すかのようにして人間の自由を尊重するのであって、規則に縛りつけ自らの前に平伏させるとすれば、それは神が自らを卑しめるに等しいことです。
そうでなければ、この上なく貴重なキリストの犠牲を人のためによしとされたことでしょうか。

そこで、多くの宗教、特にキリスト教において「神の目的は信者に神を崇拝させる、または支配して従わせることだ」と主張するとすれば、それは大きな誤解であるばかりか、神を誹謗するものです。
「崇拝」とは人間が創造の完全性に達しないところで行われるのであって、アダムに崇拝が求められたわけではないのです。『神の王国』の支配も、人間回復の千年に限定されているのです。

宗教というものの本質は、『罪』によって神との障碍を持ってしまった人間に特有のものです。
なぜなら、それは神と人の仲立ちであり、本来アダムが必要としてものではありません。

キリストがその犠牲によって人々を神に帰すなら、神と人は再び結ばれるので、何の仲立ちの必要もありません。
これを新約聖書は『神の子となる』という表現をします。(ヨハネ1:12)子に父との仲介者の必要などないではありませんか。宗教と崇拝は『罪』という隔ての壁と共に過ぎ去るものであり、千年王国のあとに贖罪が終わるときに王国もその働きを終え、全てはキリストに帰依して集められ、創造の術も完遂し皆が自由を得るのです。

しかつめらしい序列や権威は無に帰し、人を分け隔てる地位も階級も格差もなく、全てが神と結ばれ、神は人々の自由や才能をこのうえなく、また分け隔てなく楽しまれることでしょう。そのようにして、創造界はいよいよ多彩な神の象りの栄光を増し加えてゆくことになるのでしょう。(コリント第一15:24-)

しかし、自分の子に平身低頭して欲しいという父親とはいったいどれほどの専制者なのでしょう?
キリスト教とは、隷従からの開放をもたらすもので、神に愛される子としての自由を謳歌する希望を目指すものなのです。どうして神はエデン(楽しみ)に人を住まわせたのでしょう。創造の神は父親としても子らの自由を楽しまれる優しく楽しい方ではありませんか。旧約に見られるような厳しい神の姿は罪の道が生じたためのものでしょう。しかし、キリストの犠牲が捧げられて以降『初穂』である人々から『神の子』の身分を得始めたのです。

この点からしても、神が切に求めるものとしてユダヤ教のように「服従」を強調するキリスト教というのはまったく間違っています。
パウロはこう言っています。『働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされる。』
これは律法による『業』による『義』を求めるユダヤ教と、『信仰』によって『義』を得るキリスト教との違いを述べる文脈で語られたものですが、服従という労働は、当然の代価として神を責めるものであることは傲慢の咎めが避けられません。自分が代価に値しない『罪人』であることも認めておらず、「自分はこれほど服従したのだから義と救いをよこせ」と言うに等しい愚行であり、間違いなく利己的なご利益宗教です。(ローマ4:4)

そこで、神への従順や組織や秩序が重要であると主張する裏には、まして、神が主権をかざすなどと言い張る宗派の裏には、指導者の欲得が潜んでいるのです。これはほぼ間違いがありません。
それは信者たちの神への従順の「おこぼれに与る」という欲得であり、指導者本人さえ気付いていないこともあるでしょう。
そこで「動機は悪くはなかった」と、どれほど唱えようと結果が悪ければ何の意味があるでしょうか。
それは創造の神を誤り伝えるものであるばかりか、まさに暴君であるサタンが望む圧政と隷属を推進しているではありませんか。


これに幾らか付け加えれば
この自由を踏まえた上で、イエスの次の言葉からすると、服従以上の自由の価値の大きさが見えてきます。

『「きわめて真実にあなた方に言いますが,すべて罪を行なう者は罪の奴隷です。そして,奴隷は家の者たちの中にいつまでもとどまっているわけではありません。子はいつまでもとどまっています。それゆえ,もし子があなた方を自由にするならば,あなた方は本当に自由になるのです。』(ヨハネ8:34-)

ここでイエスは自らを「家の子」として述べます。つまり自由人である「家の息子」ですが
つまり、「家の子」は、「罪の無い」「奴隷ではない」ので、いつかは去ってゆく身ではありません。しかし、アダムの子孫は皆が「家の奴隷」であり他人ですから、いつしか神の「家」を後に(死んで)去って行きます。一方、「家の子」はいつまでも留まります。

しかし、「家の子」がその「奴隷たち」を(買戻し)自由にするのであれば、「奴隷」も「自由人」となり去ってゆく必要もなくなります。
そうして、「罪」という労役から解かれた人は、神の家から子と同様に去るべき者ではなくなり、ましてその「家の子」として迎え入れられるなら、その家に留まり永遠の命に入るでしょう。その人も、家の主の子として大切にされることになるですから。
この例えでは、自由と神と永遠に歩む事柄が結び付けられています。

パウロは、「律法」への服従とキリストへの「信仰」への自由を対照させてガラテア書の中で見事な論理を展開しています。
そこでは、聖徒の受けた「神の子」としての自由が語られてはいますが、最終的な人類の得る自由として読むことができます。
どうぞ、その三章以降にご注目ください。


関連⇒「神は主権を求めるか


   ⇒「人はなぜ苦しみながらも政治と宗教を存在させるのか


   ⇒「主権という暴力




関連記事

「いま、なぜ原始キリスト教か」出版出来

2015.05.11 (Mon)
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「原始キリスト教」という一般的に知られた「教会のキリスト教」とまったく異なる元の教えを包括的に、また現代にどれほど有用かを説いた書物。

今年の二月には校正に入っていたはずでしたが、戴きましたご要望などに鑑み、一章を書き改め、三つの章を加えて23の章として、この度出版にこぎつけました。

PDFファイルでA5版182頁あり、その多くはこのブログ上で公表したシリーズに含まれるものですが、実際に校正を加えると書加えや省略などがあちこちに出て来たものです。

どの章も独立した一文なので、こうして一冊にまとめた上で全体を眺めると重複箇所も多いのですが、そこが重要箇所とお考えいただければと思います。

読者対象は、キリスト教に初心で関心を持つ層ですが、現状でキリスト教組織にある方々にも原始キリスト教とこれまでの「伝統的」キリスト教の比較を頂けるものと思います。

ですが、本書ではキリスト教史の切り口からではなしに、現代人共通の問題、世界的危機の観点から入って、その中からキリスト教を語る方向性をとりました。

そこで、導入の間口を広くとってありますので、様々な方々に「古くて新しいキリスト教」を紹介できるものと思われます。

この書の向かう先は、人類社会がずっと抱えてきた問題は、実はひとつの原因に行き着くこと、その解決を計ることは容易ならぬものであること、そして人間以上の存在者とその問題への類い稀な手立てが何であるかを知らせるところにあります。

また、伝統的キリスト教との比較によって、原始キリスト教の特徴が浮き上り、その先進性に思う以上の新鮮さを感じられることでしょう。

原始表紙

以下のボタンから電子書籍としてだけでなく、加えて必要であれば紙媒体も併せて購入できるとのことでしたが
商品ページにて
「ダウンロード版+製本版 カートに入れる」
というボタンから、製本版の購入が可能とのことです。
しかし、5月12日現在、この書籍には上記の機能を確認できていません。
(紙本については別途費用が必要になります)


2019年7月現在、この電子書籍も「聖書に流れる神の意志」に続いてamazonから再刊を準備中です。
只今、校正と書き加えを行っております。紙媒体につきましては、電子版の需要から判断したく思います。
なお、表題も「閉塞する現代を解き明かす 原始キリスト教」と改めるよう準備しております。
販売開始の際は、このブログ上の新記事とし、このページからもリンクを設けます。

拙著がどなたかのお役に立ちますよう念願しております。

今後は、本ブログ上では新たなシリーズを始め、次なる書籍につながるよう願っております。


------------目次---------------
前書き
1. 危機の時代
2. 「この世」というもの
3. 人はなぜ生きるのか
4. 「上なるもの」との関わり
5. 聖書の目的は何か
6. キリスト教の信仰とは
7. エデンの園での試み
8. 人の死後を問う
9. キリストによる罪からの救い
10. 政治と宗教という必要悪
11. キリストが強調した「神の王国」
12. 日本で落第したキリスト教
13. 争いの絶えない一神教
14. キリスト教がユダヤ教から分かれた日
15. 原始キリスト教にない「三位一体」
16.「魂」というキリスト教の死生観
17. 神が用いる「聖霊」
18. 神の選民イスラエルの歴史
19. 神の名が人を救う
20. この世の終わりと神の裁き
21. 旧約聖書を読む
22. 新約聖書を読む
23.「愛の掟」キリスト教の神髄
後書き
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21.人の死後を問う

2015.05.04 (Mon)
人の死後を問う


人間は死という命の終りに常にさらされています。
ですから、人は自分の存在のおぼつかないことに不安を感じるものです。
そこで、人は自分にどんな存在意義があるのかということだけでなく、それ以上に自らの死後についてずっと尋ねてきました。

宗教がその問いへの答えを提供してきたのですが、その答えが一致しているわけでもありません。
それでも、様々な宗教に広く共通するものがあります。
それが、人は生前の行いによって、死後には「天国か地獄」に行くという教え、またその変形なのですが、やはりそれさえ宗教や宗派で教えるところが一致しているということはまずありません。
これは「死んでみなけらば分からない」実証不可能なところで何とでも説明でき、どれが正しくどれが間違いと断言できる人はいない点で、まさしく「信仰」の領域の問題となっています。

ヒンドゥー教では、人は分かたれた二つの世界を死によって行き来します。それは魚が川の一方の岸辺から他方の岸辺に行き来するようなもので、「あの世」また「彼岸」という別の世界があるというのです。

仏教の中には「輪廻」を唱え、人は死後、生まれ変わりますが、生前の行いの良し悪しに従って、次に生まれてくる姿や境遇が変わると教えます。
同じ仏教でも浄土教系では、キリスト教の「天国」とは異なり、「極楽」という西方十万億土の彼方(メソポタミアの辺り)に存在するという、理想郷のような環境に人は死んでから入ることになり、何に妨げることなく仏となる修行を積むことのできるとされます。

諸苦のない世界への憧れはイスラム教にもあり、こちらの「天国」(ジャンナー)は至福の楽園で、飲物、果物、肉も食べ放題なうえ、ひとりの男に70人(100人とも)の処女が与えられると言われます。

一般的な教会で教えられるところでは、洗礼を受けた信仰者は、死ぬと神のみ許に迎えられ過ごすのが「天国」であるとされていて、そこで「復活」を待つとも言われますが、この「復活」が確かに聖書に書かれてあるので、宗派によっては「復活」とは天国に行くことであるとも言われます。または、復活するのは、もう一度信仰を持つ二度目のチャンスを与えるためであるとも教えられるそうです。しかし悪行者、またキリスト教を信仰しなかった者は共に「地獄」に行くと教えがあります。

このように人の死後を宗教はそれぞれに異なることを教えるのですが、人は死後にその意識を保つと教えられる点では共通していると言えるでしょう。

しかし、その一方で旧約聖書が書かれていた古代のヘブライ人の概念は随分異なっています。

例を挙げれば、ソロモン王はこう語ったとされています。
『生きている者は死ぬべき事を知っている。しかし死者は何事をも知らない、また、もはや報いを受けることもない。その記憶に残る事がらさえも、ついに忘れられる。
その愛も、憎しみも、ねたみも、すでに消えうせて、彼らはもはや日の下に行われるすべての事に、定めない時にまでかかわることがない。』(伝道の書9:5-6)

つまり、死者は何も知り得ない状態に入るというのです。これでは至福を感じることもないでしょう。
これを裏付けるように、キリストは死んだ人について「眠りについている」と言うのです。
そして、同時に復活させることを「眠りから覚ます」ことに例えています。(ヨハネ11:11.25.43-44)

これら新旧の聖書の教えるところは、人間は死後に何も意識を持たず、神がその人を生前のように復活させる時期を無存在のまま待っていることになります。

では、キリスト教で教えられる死後にゆく天国や地獄の教えはどこから来たのでしょうか?

まず、広く人々には、人間の一生が束の間で空しいものであるという意識があります。
人々が「こうあって欲しい」と願うのは、愛するだれかが亡くなっても、どこかで「生きて」つまり意識をもっていてもらいたいことでしょう。この傾向は人間に広く見られるもののようで、仏教にも元々は死後の世界、「地獄」も「さまよう霊」も無かったと言われますが、いつのまにか混入してしまったところはキリスト教も変わらぬ趨勢にあります。

そこで人類一般にとってウケの良い教えが「死後の世界」を説くものであることが明らかではあるのですが、
特にキリスト教徒でなくても、亡くなった誰かが「天に召され」、天から生きている人々を見守ってくれることを願うような発言がよくされるものです。

まして、キリスト教徒があたかも天国や地獄が描かれているように錯覚する箇所を聖書の中に見出すと、それを自分の願望に従って故人に意識がある証拠に読み込むとしても不思議はありません。

そのように死者の行く場として誤解され易い代表例が「ゲヘナ」という聖書の言葉です。

日本語訳聖書の中では、この「ゲヘナ」を「地獄」と訳しているものもありますが、そのまま「ゲヘナ」としている聖書もあり、新改訳聖書が「地獄」と訳すことを避けています。
「ゲヘナ」とは、元々はヘブライ語「ゲーヒンノム」に相当し、元々これはエルサレムの南西側の斜面の谷を表す「ヒンノムの谷」を意味していました。

この「ヒンノムの谷」はユダ王国の時代から公共のごみ処理場とされていましたから、そこでは火が絶えることのないようにと着火し易い硫黄が散布されていました。
そこには価値の無くなったゴミが投棄されだけでなく、重罪人の死体も処置されていたとされています。

古来イスラエル人は土葬を常とし、墓所も「記念の墓(シェオル)」と呼ばれ、故人の復活を期して丁寧に埋葬していましたが、他方で死体をゲヘナに投げ込まれる重罪人には、復活してほしくもないという気持ちが込められていたのは容易に想像がつきます。

この背景を考慮して、『おまえたち蛇ども、まむしの末裔ども。おまえたちは、ゲヘナの刑罰をどうしてのがれることができよう。』というイエスの言葉を読み直すとその意図が見えてきます。(マタイ23:33)
つまり、イエスにその悪辣さを糾弾された者たちは、復活の希望も無いものとしてゴミ処理場に捨てられる罰を受けると言われていたのです。

そこではたとえ死体が火で焼かれるとしても、死んでいて意識は無いのですから絶え難い苦痛に身をよじらせることもありません。ただ、復活してくることが望まれない死体として焼却処分されるばかりです。

ですがゴミ処理場を「地獄」と訳すと、そこには大きな誤解を招くことは避けられません。地獄で苦痛が与えられ続けるのなら、人は死後も意識を持っていることになり、本来ヘブライ人が持っている生死観とはまるで異なってしまうのです。

聖書で「墓」の意味であるヘブライ語の「シェオル」やギリシア語の「ハデース」を、ゴミ処理場を表す「ゲヘナ」と区別なく「地獄」や「黄泉」と訳してしまうなら、これはさらなる誤解を覚悟しなければなりません。カトリックとプロテスタントが共同で翻訳した新共同訳、また日本聖書協会の口語訳もそのようです。このような翻訳の背景には、一般的教会で教えられている教理とのすり合わせがあるというべきでしょう。

しかし、キリストの言葉にも明らかなように、復活を期する「墓」と不要品を処分する「ごみ処理場」とは意味が大いに異なります。しかも、どちらにも「地獄」の意味はないのです。

これに加えて、聖書には「天国」を描いているかのようなイエスの語った「富んだ人と乞食のラザロ」の例えがあります。
生前に乞食のラザロは富んだ同朋ユダヤ人の家の前で物乞いをしていましたが、両者が死ぬとラザロは天でイスラエル人の父祖アブラハムの許に上げられていましたが、ユダヤ人の金持の方は燃え盛る火の中に居ました。
その理由は、生前に一方は良いものを受け、他方は悪いものを受けていたからだと説明されます。(ルカ16:19-)

この例えは、確かにそれぞれに意識をもって生前の酬いを受けているかのようです。
しかし、イエスがこの例えで教えたかったことが何であるかに注目すると、これは人間の死後の様子を単純に知らせているのでないことが例えの全体を見渡すと明らかです。
「富んだ人」とは、当時の宗教家たちの恵まれた宗教環境を指していて、一方の「乞食ラザロ」はさげすまれた一般民衆を意味しているのです。

宗教家たちはキリストを受け入れなかったので、アブラハムのような祝福に与ることはなく、却って不信仰を咎められる責苦を受けることになりますが、民衆はキリストを受け入れたので、天からの祝福に与ることになります。
この例えで、その当時の状況が時の経過により逆転することをイエスは宗教家たちに警告していたのです。

また、聖書には黙示録に描かれる「火の湖」というものがあります。(黙示録20:14)
これも同様に実際の責苦の場所でないことは、そこに投げ込まれるのが「死」や「墓」という象徴物であることが示しているのですが、クリスチャンたちにはそこまで聖書に気遣うゆとりはないかのようです。この「火の湖」に「死」や「墓」が投げ込まれるとは、それらが永遠に不要のものとされ、人間からこれらの悲しみが過ぎ去ることを述べているのであって、地獄を教えているわけではありません。

これらの言葉も、初めから死後の意識を信じたいと願っている人々が見聞きする場合にどんなことが起こるでしょうか。
キリストの語った物事の真意を探ることなく、やはり地獄はあったと言葉の表面をなぞるような安易な解釈に安住してしまうのです。キリスト教の外から入り込んだ地獄は、第五世紀にはキリスト教指導者アウグスティヌスの下で苦しみの場所としての教えが確立されていました。
以後、「天国と地獄」の教えがキリスト教の主流となって宗教改革も潜り抜け、キリスト教界では今でも日毎に教えられ補強されつつあるという嘆かわしい現実となっています。

これに加えて、この死後の世界を教えようと躍起になっている勢力が存在します。
これこそがエデンの園でエヴァを誘惑した蛇であり、それが単なる蛇ではなく「サタン」であったことを聖書は知らせています。(黙示録12:9)

その後、この「蛇」には多くの仲間が加わって隠然たる勢力となっています。
これがつまり「悪霊」と呼ばれる霊の存在者たちであり、彼らはサタン同様に元々神に創造された天使であったにも関わらず、神への忠節を故意に捨て『そのあるべき立場を離れた』のです。(ユダ6)
彼らは『罪を犯した天使ら』でありノアの大洪水以降は『囚われ』の状態にあり、人々の間で生活することを許されていないのです。(ペテロ第二2:4/ペテロ第一3:20)

そこで、様々に曖昧な仕方で世の中に不思議を起こしてはいるのですが、はっきりと姿を現し、この世に干渉することは許されていないので、正式に人間にコンタクトはとらないのでしょう。
彼らを誘惑して神から引き離したのが頭目のサタンであり、この悪の根源者は創造の神以外のあらゆる者を神から引き離そうとするので「中傷者」(ディアボロス)と呼ばれることにもなりました。
当然に天使らも中傷を仕掛け、相当数を仲間にすることに成功したことが黙示録に示唆されています。(黙示録12:3-4)

この反逆した天使らは、ノアの箱舟で知られる大洪水以前に、地上で人を装って女性目当てに歩いていたという驚くようなことが聖書にあり、このあたりの事情は聖書の創世記の六章に記録されていて、その痕跡はギリシア神話にも数多く残っているように読めます。

聖書では、天使らの影響もあって当時の世が余りにも乱れたために、神は大洪水を起こして世界をリセットし、ノアの家族八人を除いた世界全体を流し去ります。(創世記6:1-8)
以後、地上に来ていた天使たちは拘禁された状態に入り、人の社会に出入りを許されず、心霊的関わりを専らにする以外になくなります。そのように処置しなければ、世界を流し去る大洪水は何度も地上を襲ったのでしょう。しかし、神は虹を生じさせて「全地を流すような大洪水を起こすことはない」と生き残ったノアらに約束しました。

以来、堕天使らが人間社会を歩きまわることはなくなったのですが、今でも起こる様々な怪奇現象の原因は、まずこの者らの仕業と言えるでしょう。
奇怪な現象が起こり、それを封じるかのような宗教上の儀式を行うとそれが止むというのも、かえって、その宗教を悪霊が援護しているのかも知れず、この種の出来事を表面で判断しては侮られるばかりです。

あのUFOも科学信仰を煽ろうとする悪霊の意図がないとも言い切れません。
たとえ、その原因が異星人であったとしても、そのもたらす精神性の余りの低さや暗い印象からして、まともに相手をする必要があるものでしょうか。

これらの悪霊にはサタンという親玉があり、その独特の命令に従っているようです。
なぜなら、悪霊たちはサタンの主張に沿って行動しているように観察されるからです。

その主張とは、サタンがエデンの園でエヴァに語った『その実を食べても、あなたがたは死なない』という言葉にあります。
ですが、神は『あなたは土だから土に帰る』と言われたように、アダムもエヴァも死んで今日どこにも居ないことは明らかな事です。(創世記3:19)

新約聖書にも『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだ』とあるように、人類の始祖が敢えて選んだ道は、「死」という明らかに存在を失うことであったのです。(ローマ5:12)

しかし、それではサタンが中傷した結果、人類が死ぬことになったことが隠しようも無く広まってしまいます。(ヨハネ8:44)
そこでサタンは手下の悪霊たちを用い、死後の世界があり、そこでも人間が意識をもっているかのように見せる理由があるのです。

悪霊など霊の存在者は死ぬことがなくずっと人間を観察していますから、死者の姿を見せたり、その意識をまねたり人の前世を捏造したりすることができるのでしょう。ほかにも様々に不可解なことを行っては人々の好奇心を煽り、いつの時代にも占い、呪い、心霊現象へと誘ってきたのです。そしてこれに釣られて悪霊の教えを信じ込む人々は非常に多く、今日もスピチャルと呼ばれる領域を含め後を絶ちません。

それで聖書では、旧約で律法が与えられて以来、心霊術や占いなどを死刑に価する重罪と規定していたのです。それは神に反逆した者らに関わることになるからです。(申命記18:10)

そして多様な宗教にも悪霊らが関わっていることでしょう。(コリント第一10:19-20)
多くの宗教で死後の世界なり意識なりが教えられているということは、死の真相を知らせずに多くの人々を創造の神から引き離し、姿を表せない悪霊の表象としての偶像を崇拝させ、サタンの側に付かせるというのがその実態であることを聖書は知らせています。

この教えは世界の宗教の趨勢を形作っていて、死後の意識を教えない宗教というものを見出す方がよほどに難しいのが現実です。
これはキリスト教の中にまで入り込んで天国と地獄とを教え、サタンの『あなたがたは死ぬことはない』との主張を繰り返してしまう愚を現に行わせているのです。

キリスト教徒がいくらか聖書を調べるならこれらの誤りに気付けるでしょうけれども、そこには人々の「こうあって欲しい」という願望も絡んできて、どうしても神の言葉の意味するところが無視されがちになるのでしょう。
しかし、わざわざそのように信じる理由はないのです。

人の死後を問うということにおいても「伝統的なキリスト教」が必ず正しいということはありません。その教えは五世紀ころまでに元々のキリスト教を離れてしまっているからです。それでも、聖書の語るところに耳を傾け、神の語るままに死というものを問い直して、この貴重な本来のキリスト教理解に達する機会は誰にも開かれているのです。




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