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新十四日派の「聖霊」理解の概要

2015.03.26 (Thu)

さて、さまざまなキリスト教の宗派がありますが
自分たちに「聖霊」が注がれていないというものがあるものでしょうか?

新十四日派は、敢えてそのように主張します。
むしろ、そうしなければ神意の基礎にも到達出来ないでしょう。

もし、現状で自分たちの宗派に聖霊が注がれていて聖霊を持っているというなら
それは却って「聖霊」を曖昧なレベルのものに卑しめる以外にありません。
また、既に「聖霊は自分たちにある」と思う人々が、キリストの言われたように聖霊を切に求めて『探し続け、敲き続ける』ものでしょうか。

キリストの初代の弟子らに注がれた「聖霊」は、キリスト教会が言うように有るのか無いのか曖昧なものではありません。
かつては、その人に聖霊が在ると周囲の人々にもはっきり分かり、その賜物によって集まりの全体が知識を得、奇跡に信仰を強めていた様子が聖書に明らかに伝えられています。
また、聖霊は弟子らを教え導きましたので、キリスト教そのものも、新約聖書の成立も、この聖霊の働きなくして語れません。そこに『霊の顕現』があったからです。(コリント第一12:7)

この「聖霊」がクローズアップされるのは、キリストの死と昇天を境にしてのことでした。
つまり、キリストの犠牲が聖霊の降下をもたらし、それを受けた弟子たちも神と結ばれた状態、『罪』を仮赦免された聖なる立場に置いたことは聖書の記述に明らかで、否定のしようがありません。

そこで、『キリストの過越し』である「パスカ」に伴う「聖霊」の理解について要点をまとめておきましょう。
新十四日派にとって、この「聖霊」への理解は非常に特徴的であり、それがパスカを行う意義と深く関係しています。

まず、エルサレムで最初の「主の晩餐」がキリストにより創始されましたが
この場面で、主は十二使徒に「聖霊」の到来を告げています。
それはこのニサン14日の時点では未だ到来していません。

主が刑死の後に復活した姿で弟子たちに現れると
「聖霊を受けよ」と言われます。(ヨハネ20:22)

そして大安息翌日から40日目に天に戻られるに際して
聖霊が降るときに弟子らは「力を受け」宣教に赴くことを師は教えます。(使徒1:8)
ですから、その後もエルサレムに留まるようガリラヤ出身の弟子らに命じています。

そして遂にあの五旬節を迎え、その日の朝にガリラヤ人の弟子約120人の上に約束の「聖霊」が到来しました。
それは曖昧なものであるどころか、神は大風の轟音を響かせ、外地から来ているユダヤ教徒への注意を促しました。

それらのディアスポラのユダヤ人はエルサレムの人々よりも鷹揚にガリラヤ人の伝えるメシアを受け容れ、その人々の中からも多くの聖霊を受ける人々が現れます。

こうして、聖霊を受ける人々は広がりを見せ始め、エルサレムに祭りの後も逗留していた外地のユダヤ人に対して迫害が臨むと、聖霊を受けた人々は、ユダヤ人からサマリア人へと広がり、やがて、コルネリウスを初めとする無割礼の異邦人にも向かって広がってゆきました。

これらを概観すると、「聖霊」というものが、キリスト以前のものとは異なる大きな意義をもつのは明らかで、それなくして、キリスト教は生まれなかったと言って過言ではありません。
この点で、使徒ヨハネはキリストが死を遂げられて『栄光を受けられる前に、まだ聖霊は無かった』と書いています。(ヨハネ7:39)
つまり、キリストの犠牲の上で与えられた「聖霊」であり、それがキリストの死を契機に世界に広がって行ったのです。(ヨハネ16:7)

この意味するところは、キリスト後の宣教の目的が、単にキリスト教を広めるということではなく、キリストと共になる「聖なる者」を召し出すことこそが、キリストの弟子らに命じられた宣教の業の目的であったということです。
これこそが、人類救済の手立てとなる「諸国民の光」また「世の光」となる「神のイスラエル」であり、この人々なくして人間に希望はありません。

そして、この業を行えなくなる「夜」が来ます。それを主は「誰も働くことのできない夜」と言われました。(ヨハネ9:4)
これを、聖霊を注がれている弟子が絶えて居なくなる時代ではないと言い切る理由があるでしょうか?(ヨハネ11:9)
もし、そうでないと唱えるなら、この「夜」とはいつの時代を指すのでしょう。それはキリストの後のある時期であることになります。(ヨハネ12:35)
実際、聖霊を受ける「聖なる者」を召し出す業が、あの五殉節から今日迄に間断なく行われてきたと言えるでしょうか?

ユダヤでは、すでにマラキを最後に旧約聖書は沈黙し、以来2400年間聖典に含まれるほどの霊感の書は現れなくなりました。その沈黙はイエスがメシアであること、また新らしい契約と新約聖書に道を開いているのです。
その新しい契約も、西暦二世紀以降は聖霊の賜物ある人々の記録がなくなっています。これは異教や迷信で汚れたキリスト教が終末のキリストの臨在の時期に再び聖霊によって回復される事態を招くための空白となるでしょう。

第五世紀までにアウグスティヌスのような高名な教父であっても、聖霊を持つ聖なる者は過去の人々であることを認めています。
それでもカトリックには、かつての「聖なる者」の痕跡が残されていて、カトリックの聖人と認められるには、複数の奇跡を行ったという証言を必要とし、また殉教もその特徴のひとつとされます。

しかし、もちろんカトリックの聖人がそのまま新約聖書での「聖なる者」であるとは言えません。
ただ、その痕跡がそこにあり、わずかに伝統として「聖なる者」が聖霊を注がれ奇跡を行う人であったこと、また多くが殉教を遂げたことを指し示しているのです。

カトリックは、その後の時代になっても「聖人」を認めて列聖してきましたが、実に初代のキリスト教徒のように奇跡によって神の威力を示す信者、また、使徒パウロやヨハネのように画期的な教えを述べることのできる人は現れず、それゆえにも第二世紀以降に新約聖書は書き加えられていません。

では、聖霊の働きは消えたのでしょうか?
新十四日派としては、そのように捉えることによって、派としても存立の価値を見出します。
聖霊を通したキリストの監臨の時代は千八百年も以前に終わっており、その後に御子は、王権を得る旅に出立され、御父の右に座して、敵中から征服を遂げるよう下命される前に、再び終末の弟子らに聖霊を注ぎ、為政者らと対峙させる時を待っています。


無い聖霊を在ることにはできず、現在も正しく聖霊を注がれた人は現れてはいませんから、東方教会やカトリックが今日の姿に整えられた第四世紀には、すでに聖霊は過去のものであったと言えます。

それを端的に物語るのが、皇帝コンスタンティヌスによるキリスト教への介入であり、パスカを廃し、「主の死を宣明する」はずの「主の晩餐」を「復活祭へ」に入れ替えたことです。(コリント第一11:26)

復活が目出度いとはいえ、主の死こそがもたらした価値こそが永遠に記念されるべきものであり、その崇高な死を通して神の座が高められ、その犠牲によって人間の罪の許しの道が初めて拓かれたのですから、復活を祝うのは、この価値を見過ごすことになります。(ヘブライ2:17)


加えて、多くの宗派では、聖霊はバプテスマを受けた信者の中に宿って、その人を導き益すると教えます。
そこでは、聖霊は非常に曖昧なものにならざるを得ません。本人には分かっても、周囲の人々を益するとは言えず、間違いのない教えを語ることもできません。相変わらず、ただの人だからです。

そして、その目指すところは個人の救いや益であって、ご利益信仰と呼ばれる責めは免れません。
古代の聖なる者たちの自己犠牲の態度、殉教にも立ち向かったほどのキリストに続く意気込みをそこに見ることはないでしょう。

ある人々は、自分に聖霊があると考え、自分が格別に神との関係にあると思っているようです。そう考えるのは自由なことですが、聖霊を注がれている個人の実感はともかく、それが五旬節のときのように、神の明確な印を伴わないとしたら、それを古代の聖霊と同列に語ることができるものでしょうか?

そして、そのように印の伴わない聖霊にどれほどの意味があるのでしょうか?
新約聖書は、終末に聖霊が大きな役割を果たす様が明瞭に描かれており、それが世界宣教を行うというのです。
旧約は、神が天と地を激しく揺り動かすと予告しています。そうすると、神にとって望ましい者らが、集められると予告しているのです。

つまり、信ずる者を招くほどの奇跡の業が、聖霊を持つ「神のイスラエル」を通して行われるからです。
聖霊を注がれる聖なる者たちは、為政者に対峙してキリストの王国の到来を告げますが、その言葉は論駁ができない聖霊の発言となるとイエスは予告されました。世界はその言葉を聞かねばなりませんし、そのためには「聖なる者ら」が存在しなくてはなりません。彼らを支持するか否かで人々がふたつに分けられることをキリストは語っています。
そこで聖霊は世界の人々を裁く媒介となり、キリストの再来を知らせるものともなるでしょう。

これほどまでに重要な要素である「聖霊」を曖昧なもの、また恣意的に扱うべきでしょうか。
キリストが死を目前に約束し、その後の弟子らの活動を導いた霊の働きの大きさを思うなら、この「聖霊」の価値を見誤ってよいものではありません。
いえ、聖霊の再降下こそはキリスト後の世界にとって真に待たれるべきものというべきでしょう。

その重要さはまさしく強調されるべきものです。
新十四日派は、この終末の「聖霊」を高く掲げ、神の次なる一歩を待望するものです。

間違いなく、聖霊は二世紀以後途絶えており、現在まで人は誰もそれを持たず、神の介入なく誰も持ち得ないのです。


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定期的に閲覧いただく方々へ

2015.03.16 (Mon)
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日頃より各地から閲読いただいています方々へ
この機会に感謝申し上げます。

主の晩餐が近付いていますが
新十四日派に沿う仕方で、この「パスカ」を行うことは難しいことではありません。

この趣旨は、聖霊の再降下を待たねば、キリスト教の浄化もなにごとも起り得ないことを信じるもので
特に、ニサン14日はキリストを聖霊を注がれる聖徒らとの契約の期間が終末に残されていることを期待し
エレメントに誰も与らないながら、聖霊で語るその人々の到来を待ち望むものです。

『聖霊』という上からの介入なくして、どうしてキリスト教が正されましょうか。

もし、この点にご同意頂けますなら、どうぞ、それぞれのご家庭なりで
ユダヤ人が過越しの食事を行う前の晩に、初期キリスト教の方式で『主の晩餐』に当たるパスカを行われますように

ただ、無酵母パンを焼くことが、慣れない方には手数がかかるかも知れませんが、お気持ちがお有りなのでしたら
どうか挑戦してみてください。⇒ レシピはこちら

今年は、皆さまが予想以上に拍手をパスカのページに下さいましたので

新たなところからのお知らせを戴けるような気がしております。

それは、どんな人間でもなく、「聖霊」が真理の担い手であるとの信仰について同意に達したことの証となるでしょう。

ふたつのエレメントを前に、時間を取り分けて、お過ごしください。
おひとりでも、観想や祈りのときを過ごすことができるでしょうし
ヨハネ福音書13-17章のいずれかの章を朗読しても良いように思います。


皆さまの上に、御祝福を祈念致しております。



エイレナイオス




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