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2014.12.30 (Tue)
無酵母パンを用いる以上は、その聖餐はユダヤの過越しに由来を持つと言える。
過越しがエジプト最後の晩餐となったように、キリストはエルサレムから出立される前夜の食事を儀礼とした。
やはり、聖餐は過越しと深い関係にあり、ニサン14日と呼ばれる夜に行われるべき道理あり。
天文で算出すれば、カトリックの嫌ユダヤに由来するコムプトゥム・パスカリスと同じく過越しを離れることになる。
しかし、この儀礼は天で再度の実体を持つことになるので、地上の聖餐はその模式であり、儀式以上のものではない。
カトリック以来、日曜の「パン裂き」(クラスマ)が聖書に有ったかのように教えられてきたが、それらは無酵母パンの時期からずれており、しかも記述に葡萄酒が欠けている。カトリックの一種陪餐はアルコール中毒や幼児への都合に合わせているだけでなく、聖書記述の欠落を誤魔化すものでもある。

イエスは『人はあらゆる種類の罪や冒とくを許されます』と言われます。つまり『霊に対する冒とく』を犯さない限りにおいてです。
これによって「救い」は国境や宗教を越えて全人類に広がることを可能にしました。(マタイ12:31)
このような「救い」であれば、その人がキリスト教徒でなくても、あるいは重罪を犯した人であっても、許しは公平に臨みます。救いの要件は行状の「業」ではなく、聖霊への「信仰」となるからです。(ローマ1:17)


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「キリスト教」と「原始キリスト教」の違い

2014.12.23 (Tue)

原始キリスト教は、今日の大半の教会で教えられる「キリスト教」とはまるで別の宗教であるかのように異なっています。

教会のキリスト教というものは、ヨーロッパの歴史と文明の中で相互に作用しながら培われたものではあっても、中近東の原型からは大きく外れた別物です。今日でこそ信徒数と欧州の歴史と文化の厚みを頼んで「正統派」を自認していますが、ローマ国教化された前と後とでは「キリスト教」が大きく違うことはまるで意識されません。

日本の一般的キリスト教会も欧米由来のものがすべてと言ってよいほどですが、これらはヨーロッパで醸成されたキリスト教であり、イエス・キリストもその直弟子たちもユダヤ人、つまりは黒髪の東洋人であったことさえ忘れさせるほどに西洋化されたものです。


今日の一般的な「西洋キリスト教」の由来は、ローマ帝国がキリスト教を国教化し法制度化させたことから始まるもので、西暦第四世紀より前までに遡るものではありません。それが「教会のキリスト教」の正統性の限界となっています。
実際に、キリストやその使徒や直弟子たちが活動したのが第一世紀から第二世紀のはじめにかけての間であり、第二世紀にユダヤ教からの脱皮を遂げて新約聖書と共に新たな教えに結実したのが原始キリスト教です。
その後、更に二世紀が経過して、コンスタンティヌス大帝によるキリスト教への介入が起こって以降のキリスト教には大きな違いが生じてしまうだけの時間の流れが存在しましたし、その後も今日の欧州的キリスト教が趨勢となるまでには、なお百年以上を要しています。

その間に、キリストの教えた牧歌的で廉潔な教理は、周囲の無理解と迫害の中でひっそりとした集まりで教えられていましたが、ローマ皇帝の宗教となってからは、国家の宗教へと変貌し、大きく豪奢な建物の中で行われる礼拝の宗教へと変質しています。その崇拝の姿は、かつて動物の犠牲による神殿儀式の繰り返されていたユダヤ教に似たものとなりました。同じく国家の宗教となった結果というべきでしょう。

また、ローマ国教化を境にキリスト教らしい個人として自由に抱くべき信仰は、国民皆信徒制に移行してゆくに従い、生まれながらのキリスト教徒を作るという矛盾も孕んでゆきました。ユダヤ教が嬰児に割礼を施して生まれながらのユダヤ教徒を作るように、個人的信仰からコミュニティの宗教へと変質してしまった「キリスト教」は幼児洗礼を取り入れて同じ性質の習慣を持ち始めます。

これらの「儀式の宗教」、また「国民皆信徒制」は、本来はキリスト教のものではなく、それ以前のユダヤ教の特徴でありましたから、ローマ国教化を境に、キリスト教は本質的にユダヤ教に戻っていってしまったことになります。ならば、ユダヤ教に大革新をもたらしたキリスト・イエスの現れの意義はどうなってしまったのでしょうか。

しかも、「キリスト教」では死刑のための刑具である十字架を自分たちの表象としたうえ、それに向かって祈りをさえ捧げるという異様な変化までが起こっているのですが、以後、今日まで「クリスチャン」と呼ばれる大半の人々には、それに違和感なく、処刑の道具も却ってキリストに近づくありがたい媒介物のようにされているのです。

この十字の表象は国教化なくして有り得ないものです。なぜなら、皇帝がキリスト教徒を名乗るようになって迫害を止め、帝国内から十字架刑を廃止した後でなければ、とても首から下げられたものではなく、それが迫害下であれば「逮捕の標的にして下さい」と信徒自ら言うようなものだからです。十字架は国家と妥協した産物として登場したものであり、原始キリスト教時代には、一筆で書け、直ぐに消せるような「魚」を仲間である暗号としていたほどに緊迫した状況にあったのです。

そして将来、聖書が随所で明らかにしているように、キリストが栄光に輝く王として「終末」と呼ばれる世の終りに再臨されるのなら、十字架に掛けられ、うなだれる姿を見て感傷に浸っているとすれば、悪魔さえ無に帰せしめてしまうほどに畏怖すべき御厳の大王キリストの到来の栄えある姿を讃えず、却ってサタンの手に掛かった姿のキリストを、自分のご利益を願って眺めていることになり、それを喜ぶのはけっして神ではないでしょう。(創世記3:15)

そればかりか、国の定めた宗教になった以上は、戦争が起こった場合に、キリストの教えのゆえに戦闘に参加することを断る者は、却って「キリスト教信仰」を否認されるようにもなってしまいました。
つまり、キリスト教徒であった四世紀の聖人マルティヌスのように、『剣を執る者は剣によって滅びる』と諭された兵士らが、キリストの教えにそのまま従い、帝国の兵士として戦闘を拒むなら、国教化以後には背教者とされてしまったのです。以来、キリスト教は国家と共に戦う宗教となって今日に及んでいます。⇒ トゥールのマルタン

こうしてキリストの教えの無効化が始まると、内容においてそのキリスト教らしさを相次いで失い、本質的にはユダヤ教に近付いていったのですが、実際にはローマ帝国時代のキリスト教徒はユダヤ教徒を特に嫌っていました。今日、欧米を中心に日曜日を休日にする習慣は、土曜日を安息日とするユダヤ教徒に対抗して始まったもので、やがてキリスト教に帰依したローマ皇帝によって法に定められ、欧州に広まり、やがて世界へと広まったものです。

こうしたユダヤ教嫌いは、キリスト教勢力が未だ弱体であった第四世紀より前の時代に、ユダヤ教徒たちが自分たちから現れたキリスト教を無くしてしまおうとすることにたいへん熱心で、キリスト教徒の迫害には大いに協力し、執拗に密告や通報を行い続け、拷問ばかりか火刑や獣刑などの残酷な処刑の手伝いまで進んで行っていたところに原因があります。

今日のユダヤ教徒は、歴史上で常にキリスト教徒からの迫害の被害者であったと主張しがちですが、キリストを処刑に追いやり、その直弟子らに苛烈な迫害を自ら行ったこと、またローマ帝国がキリスト教迫害に乗り出したときに、弱体であった彼らを殲滅させるべく率先して加担したことは都合よく忘れているようです。

しかし、やがて第四世紀以降、迫害していた皇帝がキリスト教徒を名乗るようになり、ローマ帝国がキリスト教を国教としてゆく過程で、ユダヤ教は次第に片隅に追いやられ、迫害する宗教から迫害される宗教へと転落してゆきます。その一方で、キリスト教は入れ替わるように、帝国の権力を背景に遂に迫害する側に立ちました。

この時代には皇帝までもが、ユダヤ人を「主殺しの民族」と呼ぶほどになり、キリスト教がユダヤ教を嫌うあまりに、イエスはユダヤ人でさえなかったかのように教えられてゆき、キリスト教の基本であるはずのユダヤ教の重要な事柄も忌み嫌って、別の極端に傾きはじめます。

その中でも決定的な逸脱の極みが、神の変更となってゆくのでした。
つまり、イエス自身もユダヤの神殿で崇拝される神を『父』と呼び、ユダヤ教徒としての崇拝の務めを生涯果たしていたので、その時点では未だキリスト教も分化していませんでしたが、やがてイエスの弟子たちが「クリスティアノイ」と周囲から呼ばれるようになり、両者がはっきりと袂を分かつと、その後キリスト教徒らはユダヤ人と神を同じくすることさえ忌み嫌うようになってキリストの立場の強化を図ります。
しかも都合の良いことに、ユダヤのエルサレム神殿はキリストを葬った世代の生きている内に、ローマ軍によって完膚なきまでの破壊をされており、それ以降、神の固有名が何と発音されるのかも忘れるに至ったのです。ユダヤ教徒が勝手にその発音をエルサレム神殿聖域だけに限っていたからです。
ですから、ユダヤ人によって神は固有名でなく、ただ「主」と呼ばれており、キリスト教徒によってやはりイエスは「主」と呼ばれていたのです。ですが、双方の「主」が同じ対象を表すわけもありません。(詩篇110:1)

このようにユダヤ教徒とキリスト教徒の不仲は、双方共に多くの連続した教えを失なわせるものとなりました。
キリスト教徒は、イエスが崇拝したユダヤの神である「主」を無視して、「主」イエス自身を神の座に祭り上げることに躊躇しなくなってゆきます。
しかし、「キリスト」とは神から任命された人を表す言葉でありますから、そこで矛盾は避けられません。
キリストが神への『従順を学んだ』という新約聖書の言葉などを自ら理解できないものとしてしまいます。(ヘブル5:8)

その後はますますキリストの教えから離れてゆき、信者が増えるに従い、他の宗教からの教理や崇拝方式が混じり始めます。
そこに現れて来た極端な教えが「三位一体説」であり、元々のユダヤ教の唯一神と、その任命を受けたキリストという構図を変えて、キリストも神とするだけでなく、当時に流行したギリシア(ヘレニズム)神秘文化の「三神一柱」の影響を受け、聖霊も加えて、この三者の皆が同等で神を構成しているという教えがエジプトのキリスト教の中から姿を現します。⇒ Triple deity
その目的は『神の初子』であるキリストを、創造の神と同等に引き上げ、ユダヤの神と同一の存在にするところにあり、そうしてユダヤ教に対するキリスト教の優位を謀ります。(コロサイ1:15) 

確かに、キリスト教はイエスをキリストとして受け入れ信じるものではありますが、そのキリストを遣わしたのは神であり、ユダヤ教徒が崇拝を捧げてきた神に他なりません。なぜなら、イエス自身も生涯ユダヤ教徒であり、その神に祈りを捧げ、神殿での祭りにも参加する務めを果たしていたのであり、死に至るまでの忠節を示し、ただ一人「律法」を全うし、血の犠牲を捧げたのはその神に対してであったのです。(申命記18:18-19/ガラテア4:4)
ですから、三位一体説は神とキリストという重要な関係を打壊す古代異教の蒙昧でしかありません。

そのうえヘレニズムの三神組という当時の流行に取り込まれ、神とキリストと共に信仰を抱く上で重要な、奇跡の働きを行うことになる『聖霊』までも「三位一体」に含めて理解を妨げることは、その後のキリスト教信仰に大きな誤解の種を撒くことになります。

なぜなら、人は『聖霊』の働くときに見える奇跡を通して、信仰をはっきりと表明する機会を得ることにも、それを否認して裁きに至ることにもなるからです。ですから、『人はあらゆる罪を許されるが、聖霊への冒涜だけは、けっして許されない』ほど重い罪となることがキリストによって警告されていたのです。(マタイ12:31)

これをキリスト教徒は、自分の中にキリストが「聖霊」によって内住し、成功への導きを与えてくれると思い込み、信者個人のためのご利益信仰としてしまいました。こうしてキリスト教は信者の幸福を図る「内向きな」宗教に変質し、人類を虚無の『この世』から救うという壮大な神の目的は無視され、その利他的本質を失っています。水のバプテスマを受ければ「救われました」というのは茶番でしかなく、そこには単なる心理効果以上のものを見ることはありません。

まず『救い』とは、信者に独占されるものでは決してありません。むしろ弟子たちを通して世界に向けて広げられるべきものであり、現状では不可能であっても、宗教も思想も様々な違いさえ乗り越えて、信仰を惹き起こす神の力が聖霊によって世界に示される時が到来します。それが『聖霊』の活躍する「終末」であるのです。(マタイ10:18・ハガイ2:6)

ですが、奇跡を行なうばかりでなく、真理を教えるのが『聖霊』であって、その教えはどんな人間にも由来せず、使徒たちの時代にそうであったように、教えは『聖霊』を通して知らされるのであり、『聖霊』が天からの伝達経路であった使徒時代に三位一体説はいまだ存在しなかったのですから、『聖霊』はけっして神ではなく、新約聖書にすら「三位一体」という言葉も考えも存在してはいない以上、そのようには聖霊自身も教えるわけもないのです。

しかも、その聖霊は「終末」のキリストのこの世への不可視の「臨御」を待って、再び注ぎ出され、それを受ける弟子たちは『聖霊によって語る』とキリスト自身が予告されました。
その聖霊の発言は、終末に在って論駁不能の驚異的なものとなり、世界中が傾聴し、震撼すると聖書は繰り返し述べています。
(マタイ10:18/マルコ13:9-11/ルカ21:15/ヨハネ16:8/イザヤ52:15/ヨエル2:28-32/ハガイ2:21-22)

古代にも、イエスの去った後、地上に残された使徒や直弟子たちに教えを授け、キリスト教の完成に携わったのが『聖霊』であって、使徒言行録の全般に見られるように、教祖が四年に満たない宣教期間で刑死を遂げた宗教が、世界にあまねく広がり、新約聖書に開花した理由も、超自然の『聖霊』の活躍無くして考えられないことです。(ヨハネ14:26)

三位一体は、この神と子と聖霊に関する根本的な関係の理解を阻むものであり、神が誰であるかという基礎中の基礎の教えさえ覆い隠すものです。しかし、ヘレニズム時代でもない現代に「三位一体」で何の益があるのでしょうか。そこで教会の教師が「三位一体」を説明するのに、神の事柄は人間には分かり得ないもので、むしろ理解する必要もないとしばしば教えるのも、それが理性的思考には堪え難い古代の迷信的な教えであることを自ずと表しているのです。(ルカ10:21/コリント第一1:19)

ですが、神を理解することがこのように難解なことであるとすれば、信仰も難解で不明瞭なものと成らざるを得ません。
神は三位一体であると言うと同時に、その信仰は理解し難いものとされますので、神に任命されたキリストの働きの意義も目的も充分に理解することは諦めねばなりません。(ヨハネ第一5:20)
しかも、『わたし以外の何者も神としてはならない』と十戒に命じられているのであれば、三位一体説を唱えることは神の前に余りにも大胆であり、怖れを知らぬ所業ではないのでしょうか。加えて『父はわたしより偉大』とも、『わたしは父を尊んでいる』と言われるキリストをも却って蔑ろにしてはいないでしょうか。

三位一体が教えられるところでは、信じる者はキリスト教が本来持つ優れた意義を教えられず、信徒が難解さにたじろぐ隙を突いて、天国や地獄などの俗受けする単純な教理が混入する機会を与えてしまい、却って、キリスト教がどこにでもあるような凡庸で幼稚な教理の宗教に格下げされているのです。
ローマ帝国の国教となり信者の拡大を得るに際して、本来のキリスト教が失ったものはこれほど大きなものでありました。

三位一体派がキリスト教の主流を成すようになったのは第四世紀末以降のことで、それまではユダヤ教以来の純然たる一神教がキリスト教の姿であり、こちらが普遍的(カトリック)であったのですが、第四世紀の後半、皇帝が遂に三位一体派となるに及んで「普遍的キリスト教」の名義を権力によって原始キリスト教から奪います。こうして今日見るように、キリスト教を名乗る教会の大半が三位一体を教えるものになってしまいました。 ⇒ 「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男

しかし、原始キリスト教と今日の「キリスト教」を比較すると、変化したことはこればかりではありません。
キリスト教の教理は、三位一体を取り入れて神を分かり難くする一方で、国教化に伴い諸国の異教の風習を取り入れ、ローマの帝国民や大衆に受け入れやすくされました。その結果、膨大な信者数の増加を得ながら、一方では内容に大きな劣化が生じたのです。

古代のヘレニズム世界に広く見られた、死後にゆく天界の至福や責苦の地獄、地母神や母子崇拝、冬至の三日後に誕生する太陽神の祝いなど、かつてのローマ帝国の諸宗教は、今日のキリスト教界の中に形を変えて脈々と生き続けています。

キリスト教のものとして知られるクリスマスやイースターはローマ国教化の結果として異教の習慣が混じったものであり、ほかにメイポールやハロウィンまでも本来のキリスト教に関わりのないヨーロッパの異教の風習なうえ、カーニバル(謝肉祭)もそうですから、今日の主流を占める「キリスト教」の文化は、ほとんど他の宗教を集めたパッチワークで出来上がっていると言わねばなりません。

これについてイエスは、「からしのたとえ話」と「パン種のたとえ話」で預言して語っていました。
つまり、非常に小さかったキリスト教が巨大に膨らみ、世界最大の宗教となってゆくのですが、きっかけはわずかな異物が混入であることを、イエスもパウロも『パン酵母』を例に予告していたのです。(マタイ16:11-12/コリント第一5:6-7)
古代の諸国の人々がそれまで崇拝していた異教というパン酵母をキリスト教に取入れることによって、大量の信者を獲得して来たことは歴然たる史実で、否定のしようもありません。

また、キリスト教を生業とする聖職者の集団という鳥たちがその大樹に「住まう」ことになったのを確かに見ていますし、ヘレニズム以来、哲学者らの思索の場ともなってきました。ソクラテスやプラトンにも神が啓示を与えていたなどと、どうして言えるでしょうか。⇒アポカタスタシス
これは奇跡の『聖霊』も、旧約聖書で力強く神を証しする預言書ら(ネイヴィーム)の不動の言葉も、どれほど畏敬すべき内容がそこに込められているかを知らないからこそ言えた妄言に過ぎません。さらにキリストの例え話には、それらにも勝る秘儀が込められているのです。(マタイ13:31-33

まさしくヨーロッパの受け継いだキリスト教はローマ帝国の国教として妥協したキリスト教であり、そこでは教理の模様替えのようなものに留まらず、基礎であるべきユダヤ伝来の教えもヘレニズム宗教という土台に変えられてしまっていたのです。そこに原始キリスト教の面影さえありません。

イエス・キリストの教えのテーマは「神の王国」でしたが、これは世界に見られる不道徳性による争いと空しい一生を余儀なくされている「この世」の現状から人類全体を救うという、非常に壮大な目的を持つ「神の支配」であったのです。しかしローマ帝国の国教となって以来、キリストの伝えようとした聖なる「神の王国」は、俗世の「ローマ帝国」の存在によって曖昧にされてしまいました。

一般的教会が説く「救い」が信者の個人的な幸運になって俗化していることもそこに原因があります。
遠い昔に神がアブラハムに約束された、彼の子孫、「神の王国」が『地上のすべての国民の祝福となる』という大いなる目的はまるで見失われています。(創世記22:18)

十二使徒の最後に残されたヨハネは、小アジアの弟子たちの間に教えを残し、パトモス島に流刑にされていた間に黙示録の霊感を受け、その書は福音書や書簡類と共に保存されましたが、そこには『この世を征服する』という内容が繰り返され、また『神の王国』が千年続く支配と贖罪の期間であることを明かしています。
小アジアの弟子たちは、この理解を保っており、それは同地出身でヨーロッパで活躍した初期教父エイレナイオスの著作にも明らかです。それを否定したのがカトリック最大の教父でルターも敬服したヒッポのアウグスティヌスであり、彼は先達エイレナイオスの「千年王国」の記述部分を写本作成の際に自説擁護のために破棄までしています。

聖書の主題は『神の王国』であり、「天国での至福」でも、個人の「より良い生活」や「成功する人生」でもありません。聖書は道徳の本でもなく、人生の指南書とさえも言えません。今日の人々が「正しい生き方」や「戒律」を守ることを神が喜ぶとも言えません。
品行方正に生きる人を神が是認されるというわけでもありません。もし、そうであったなら、キリスト・イエスはなぜ『罪』のための犠牲となったのでしょうか。『医者を必要とするのは病人』ではありませんか。

その主要な教えは、キリストの犠牲による人類全体の「不道徳性の除去」と「神との和解」が最重要のテーマであって、敬虔で従順な信者だけが救われて恩寵に入ることなどではけっしてないのです。(コリント第一5:18-19)

キリスト教とは信者だけの「内向きな救い」ではなく、この世に難儀したあらゆる人に対してもたらされる「外向きの救い」であるのですが、聖霊によって『神の王国』に召される幾らかの人々(聖徒)について書かれている聖書の記述を、キリスト教の信者の大半は自分について述べられていると思い込んで、キリストの救いを自分たちに限定してしまい、イエスの自己犠牲の精神とは真逆の「自分たちの救い」ばかりを願う結果を招いています。

この点では、「天国と地獄」の教えも異教からのもので、天国に召される善人と地獄行きの悪人という平板な思考の汚染が「キリスト教」を狭く閉鎖的であるばかりか本質的に高慢な宗教にしてしまっています。
他方、聖書はあらゆる人の復活を教えているのであり、「地獄」と訳される『火の燃えるゲヘナ』とはエルサレムの「ゴミ処理場の谷」を表すものであり、復活してすら裁かれて『二度死ぬ』ことを象徴するものです。(ヘブル9:27/ユダ12)

しかし、自分たちは正しいので、神は必ず地獄から救ってくださるという独り善がりで神意を無視したその優越感は、けっしてキリストの教えではなく、キリストに激しく対立したユダヤ教パリサイ派の精神に他なりません。歴史上、キリスト教同士でさえも長く争い、許多の流血を見て来たことには理由がないわけではないのです。(ヤコブ1:18)

これは「宗教改革」を経てもその土台を回復するまでには至りませんでした。16世紀当時、キリスト教史を原初の時期にまで充分に遡ることができなかったことが一因しているのでしょうし、また急激な変化を大衆信者が望まなかったとも言えます。宗教改革期には、三位一体の否定など斬新な改革案も提出されたのですが、カトリックが幾らか改善されることを望むほどであった大衆信徒に動揺を与えないことを目的に、その「改革」も穏便な程度に収められていたのです。⇒ ミゲル・セルヴェトの死

たびたび現れる一神論者たちはカトリックからもプロテスタントからも排撃され、教師ばかりでなく一般信徒からオランダでは印刷業者までもが背教の汚名を着せられ、火刑の炎の中で息絶えてきたのです。この残虐非道を行わせたのはキリストの教えではけっしてなく、人間共通の「自分は正しい」という傲慢さ以外のなにものでもありません。

それはまさにキリストを刑死に追い込んだ精紳に他ならず、そこで神の義やその意志は無視されます。
神の許にこそ義があるとは考えず、自分たちは正しいのであるから神の是認が有って当然と考えるからです。(ローマ3:4/マタイ6:33/ヨブ35:6-8)

その動機として考えられるのは強欲であり、宗教家は神意を探ることよりも、ひとりでも多くの人を自分の下に集めておくことに権威の利得が有り、大衆信者は救いやご利益の確定を願います。こうして人間の都合による「人の義」で出来上がった「正しいキリスト教」が存在して来ましたし、このキリスト教の「教理」そのものは終末の裁きの日まで今後も存続してゆくことでしょう。

自分は「救われるクリスチャンである」というステータスは、個人を飾るアクセサリーのようなものにされ勝ちであり、キリストの強烈な反対者であったところの、清さを誇るパリサイ派の服装や態度に共通するところが濃厚に感じられるとしても仕方のないことでしょう。隣人を対等に扱う愛よりは自分を高める利己心という同様の精紳態度を持つからです。

これらは「自分は正しい」とするときに避けられない闘争性と傲慢さの発露と言うべきでしょう。「パリサイ」には「取分けられた」という意味があり、自分たちこそが神の是認を受けていると信じ込み、行いの清さを誇りつつ、周囲への蔑視を特徴としていましたので、下層民に寄り添うキリストとの衝突が避けられなかったのは理の当然と言えましょう。

新約聖書にある『罪を赦された人々』というのは、本当に聖霊を注がれた『聖徒』と呼ばれる初期のキリスト教徒にだけ当てはまるものであり、新約聖書の当時は信者のほとんどが『聖徒』であったので、聖書で『あなたがた』と書かれているところを、現代の自分に向けてすべてが語られていると思い込むのは大いなる誤解です。これは聖書を幾らか読み込むだけで分かるものですが、そこまでの関心もないのでしょうか。(ローマ8:1)

しかも、聖霊を介して『新しい契約』に入った『聖徒ら』は、聖霊によって奇跡を行う人々であり、主に続いて怖ろしい殉教をものともしない勇気の持ち主でもあったのです。この人々は自分の人生の成功を求めるようなご利益崇拝者などとは無縁でありました。(ペテロ第一3:6/コリント第二5:15)
この『聖なる者』たちの存在した痕跡は、カトリックの聖人伝に、奇跡を行い殉教に散った人々として残っていますし、「教会史」をはじめ多くの初期の資料も伝える通りです。

キリスト教は、誰かが幸福であっても、誰かが幸福でないことを望まない利他的な愛と、『世の救い』とがキリストの犠牲の精神であり、ただ自分の幸運を願う宗教とは根本的に異なっています。
また、人の思惑ではなく、神の真理と義を求めて『求め続け、敲き続ける』ものであり、そうしているところに聖霊が与えられるとキリストは言われます。つまり、今すでに聖霊を受けていると満足しているなら、どうして真実に聖霊を求め続け、また遂に受けることがあるものでしょうか。(ルカ11:9-13)

しかし、人間自身には真理も正義もありません。それは聖霊によって神から伝えられるものだからです。
真正なキリスト教の回復などは人間の努力を超えたものであり、聖霊の再降下なくして何人もできるところではありません。
また、自分は「クリスチャン」だから神の是認や恩寵の下にあると思うなら、それは不遜というべきでしょう。
なぜなら、あらゆる人が神の前に倫理的欠陥を負った「罪人」であり、それはこの世の有様を幾らか見るだけでまったく明らかなことであって、そのゆえにもすべての人がキリストの犠牲を要したのではありませんか。(ローマ3:23)

ですから今日、原始キリスト教の姿を知ることは、そこにキリスト教本来の深い意義や独自性を見出して、まったく新鮮な印象を受けることになるでしょう。それは旧来の「キリスト教」とは、懐くべき根本の精神が逆であるからです。

原始キリスト教によれば、人がどんな行いをしてきたか、また、どのような思想信条を持っているかにも、またその人の社会の評価や立場にも関わり無く、善人であろうと悪人であろうとすべての人に救いの差し伸べられる時が到来するのであり、キリストは『人はあらゆる罪や冒涜を許される』と明言しているのです。(マタイ12:31-32)
そのときに信仰を懐くか否かの選別を成し遂げるのが、神の威力である『聖霊』の奇跡と言葉であることをキリストは度々に予告しています。

世の終末のときに至れば、神は聖霊で語る弟子らを再びもたらし、彼らは為政者らに神からの言葉を告げることを福音書は揃ってはっきりと記しています。その言葉は誰もが論駁できないほどの内容となることもキリストは予告されました。それは四つの福音書が何度も語るように、それこそが神によるこの世への世界宣教となるでしょう。信仰が問われるのは聖霊によるその裁きの時であって、けっして今その人が「クリスチャン」かどうかではないのです。(マタイ10:18/マルコ13:10/ルカ21:15/ヨハネ16:8)

何を信じるもその人の自由な決定ですが、これら本来のキリスト教を信じるには、「ご利益信仰」ではなく、空しいこの世の有様から人類の全体を救済するという、人類史の初めからアブラハムへの約束を経て、キリストの『新しい契約』へと悠久の時に亘って歩みを進めてこられた偉大なる創造の神と、人類のために命(魂)を差し出した「アガペー」(慈愛)の体現者イエス・キリストに共感するだけの大志や広い愛が求められることでしょう。そこに信者だけの安楽を約束するような、狭い「ご利益信仰」の余地はありません。(創世記22:18/マタイ25:31-33)



⇒ 「キリスト教の救いとは

新十四日派の要諦
------------------------
⇒ 「三位一体の来歴と影響
⇒ 「非三位一体論者の戦い


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⇒「キリストとは何者か
⇒「キリスト教を1ページに要約
⇒ 「キリスト教の「救い」とは
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり
⇒ 「初期キリスト教徒の様子 第二世紀の小アジア
⇒ 「ローマ国教化でキリスト教が失ったもの
⇒ 「アンブロジウス この世との岐路に立った男
⇒ 「聖霊という第三のもの」.
⇒ 「聖徒 聖霊が指し示す者たち

⇒ 「原始キリスト教再興の試み」(新十四日派)

[三位一体とキリストの地上再臨の教えは、終末に於いて恐るべき役割を果たし兼ねません]⇒「不法の人

「終末」に起るとされる事柄



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15.政治と宗教という必要悪

2014.12.16 (Tue)
人間社会の避けられない余分なふたつのもの


政治と宗教の無い社会を想像することができるでしょうか?
実に、人間の社会は政治と宗教から逃れることができません。 

結論から言えば、このふたつの分野は、共に同じ一つの事柄に由来しています。 
それは、「倫理上の欠陥」であり、世界から争いが絶えないのも人間が道徳的に不完全であるからです。 政治と宗教に正解は無く、幾らかの正しさを巡って常に争いが避けられません。
つまり、我々人間は「隣人とどう生きてゆくべきか」を本当にはわきまえておらず、また、分かっている部分でさえ、その通りには出来るとは限らないのです。ですから、政治と宗教とは人間にまとわりついて離れることがありません。
そのうえ、その不倫理性のために、聖書によれば人間は創造神との関係も損なってしまっています。人間は正義も真理も持ってはおらず、あらゆる関係で倫理の問題を抱えているということです。

キリスト教は、人間の争いの原因を以下のように端的に指摘しています。 
『 あなたがたの中の戦いや争いは、いったい、どこから起るのか。それはほかではない。あなたがたの肢体の中で相戦う欲情からではないか。
あなたがたは、むさぼるが得られない。そこで人殺しをする。熱望するが手に入れることができない。そこで争い戦う。あなたがたは、求めないから得られないのだ。
求めても与えられないのは、快楽のために使おうとして、悪い求め方をするからだ。』 (ヤコブ4:1-3)

つまり、人々の内に宿る『貪欲』の結果、人間は互いに争うことを止めることができないでいる現実があります。 
そこに「正しさ」が主張されるにしても、程度の差のようなものでしかありません。

聖書は、人間すべてに宿るこの倫理上の欠陥を『罪』と呼んでいます。 (ローマ3:9-10)
つまり、この『罪』というのは、何かの特定の犯罪を指しているのではなく、人間は善を行えるにも関わらず、なお、悪に向かう拭い難い傾向を持っていることを指しているのです。正直に自分や周囲を省みれば、誰もこの『罪』と呼ばれるものから逃れることはできないことが分かるでしょう。 (ローマ7:23-25)

人間全体がこの『罪』を負っていることは、ニュースを眺め、社会を少し観察するだけでも明らかでしょう。
その『罪』の証拠の一つが、警察の必要であり、また、軍隊の存在です。 
この二つを持たないなら、人間社会は怖ろしく危険な無法地帯となってしまいます。いや、これらが有ってさえ、貪欲を抱いた犯罪者や、武装集団や軍隊の餌食となる人々は絶えないのです。 人間の貪欲とは際限が無く、真に恐ろしいものです。

そこで人間は互いの間に「防御の壁」を必要としているのです。どんな壁かと言えば、基本的に「権力」という強い暴力で出来上がった欲望を抑制するための障壁なのです。その「壁」となる「権力」について聖書は、『悪行に対する復讐者であり、いたずらに剣を帯びてはいない』と言います。(ローマ13:3-4) 

実際、悪に報復する権力によって「犯罪」と呼ばれるどれほど多くの欲深い行動が防がれているか知れません。 それでも明らかにならず罰せられる事も無く見過ごされている諸悪はどれほどあることでしょうか。
これは、人間の倫理性が当てにならない事の否定しがたい証拠というほかありません。
どうしても悪に傾く、この変えられない人の性質を聖書は『罪』と呼ぶのですが、それは個々の悪行や犯罪を指すのではありません。 

そこで人間社会は、まず善と悪とを法律に定める必要が生じています。 
しかし、法律を守っているからと言って、その人の倫理性が完全であるわけでもありません。 
聖書は、『自分には罪が無い、と言えば、その人は欺いているのであり、その人に真実は無い』と言っています。 (ヨハネ第一1:8)
それでも善悪を定めて人の行動を規制しなければ、社会の秩序は成り立ちません。

このように、人間の『罪』は貪欲を生み出したので、それぞれの貪欲を規制するために、法律と権力が生まれることになり、それは「政治」と呼ばれる分野を造り出しました。 

政治とは、人それぞれの貪欲の調停を行うもので、権力の上に立って、行き過ぎた貪欲を犯罪として規制し、通貨を発行し流通させ、その価値を保つよう努めつつ、欲望の遂げられる範囲を規制し、人間の持つ貪欲を抑え、世の中に一定の秩序をもたらす役割を負っています。 

しかし、経済が公正であるわけでもありませんが、人々は従わざるを得ません。そうしなければ人々は交換社会によって生活を支えらず、生きることも覚束ないでしょう。
ですが、経済活動とはせめぎ合う貪欲の調停であり、弱者を特に顧みることもなく、強者同士もしのぎを削る戦場のような場を作り、争いが絶えることがありません。それほど人の『罪』とは過酷なものです。

また、この『罪』は、人間と神の関係にも悪影響を及ぼしています。 (イザヤ59:2)
ですが人間を創造した神は、はじめから『罪』あるものとして人間を作ったのではありません。 

最初の人間であったアダムに、神は話しかけ多くの親切を行っていました。神は、アダムがその愛に応えて、神との関係を保ち、生き続けることを望んだに違いありません。そうでなければ、はじめからアダムを創造しなかったでしょう。 

アダムは神のように自分の独立した思考を持ち、自ら愛を抱くことのできる知的存在者という意味で『神の象り』であったと聖書に書かれています。 (創世記1:27)

しかし、アダムはその自由な意志を悪用し、創造者に愛も感謝も示さない生き方を選んでしまいました。
それがエデンの園の中央に置かれた二本の木の選択であり、創造者を退けるなら倫理は根底から覆され、以後、人はすべての他者との関係に問題を抱えます。 (ローマ5:12)

人は、神の創造の意図から離れ、社会は神と関係なく存在し始めます。これは聖書で『この世』と呼ばれます。
その結果、人間と創造者との関係が壊れてしまい、人間は自分勝手な生き方を始め、今ある世の中が出来上がってきましたが、「この世」は神の意図するようなものではありません。 (ヨハネ第一5:19)

「この世」は神を敬わず、何らかの宗教を信じていてさえ、神の意志を探ろうとはしません。利己的に御利益を望んだ崇拝を勝手にしようとするからです。これもまた『罪』の影響であり、人間は宗教に於いてさえ神との間に問題を抱えているのです。 

こうして、神と人間の間には、越え難い溝があり、自由な意思の疎通が妨げられてきました。 
そこで、人間は自分の存在理由を知るために、また、「この世」の空しさの理由を知ることを求め、住み辛さの解消などを願い「上なる存在者」を答えを求めて、「宗教」という分野も登場させることになりす。 
つまり、人間は空しい「この世」に生きるようには造られていないのです。

ですから、「政治」と「宗教」とは、同じく人間の『罪』を根源としているもので、『罪』がなければ必要の無いものなのです。 

人間の『罪』は、「政治」と「宗教」と云う、必要であるのに非常に厄介なものを生み出しました。 

これらには、人間の倫理上の欠陥が関係しており、初めから正しいもの、完全なもの、正解がないので、どうしても適切には働きません。 
政治と宗教とが、人々の争いの原因であるのは当然の事で、このふたつは、共に人間の『罪』に対する「応急処置」としての必要に迫られ、人間が何とか編み出した欠陥だらけの一時的な対症療法に過ぎないからです。 

しかし、神は人間の『罪』への根本治療法を用意されました。 
それが、『神の王国』であり、人間の『罪』を浄めるだけでなく、完全な支配を行い、神への道を拓きます。 (マタイ6:10)
この「王国」が到来するまでは、政治も宗教も人類に十分な益をもたらすものにはなりません。それらは常に神の意志からかけ離れた『この世』の一部でしかなく、『罪』のための「対症療法」に過ぎないからです。

その一方で、『神の王国』が真に人間を益することが出来る理由は、『罪』の無いキリストを王として正義の支配をもたらし、『罪』の無いキリストの犠牲によって、人々の『罪』を相殺するからです。 (ヘブル9:28)

どんなに優れた人間にも、このような事はけっしてできません。 
これまで、人間は甚だ不完全な政治と宗教に翻弄されるばかりでしたし、今後も『この世』の終末まで、この苦しみを忍耐しなければなりません。

しかし、これらの必要悪から解かれ、『罪』の無い栄光ある人間の姿を得ることは、神によって可能であり、創造者はそれを望まれるからこそ、人間の『罪』を除くためにキリストを遣わされたのです。 

その結果として、『罪』から浄められた人間に対して、アダムと会話していたように、神と人は直接に意思の疎通を図るので、宗教という「取り次ぎ」の必要は無くなってしまいます。(イザヤ65:24/黙示録21:3)

『神の王国』は、人間を『罪』から開放することを成し遂げると、『一切の権威や権力を無に帰せしめ』『すべてを神に返し』こうしてその働きを終えることになります。(コリント第一15:24.28)

そのときに人間は神と直接に意思を通わせることができ、政治と宗教はその必要性を失って、神の創造の業は完全な成就を見ることになり、創造界は神の栄光で満ち溢れるところとなるでしょう。もちろん、警察も軍隊も必要がなく、貪欲の調停である政治の必要もなく、常に動揺する市場経済から不公正な貨幣交換制度に至るまでが過去のものとなる以外にありません。

この遠大な神の計画に、今日の人々も協働できる道が一本開かれています。
それが神と人との仲介者であるキリストに希望を託すことであり、これは「信仰」と言います。それこそが本来の「キリスト教信仰」なのです。

もし、『この世』に対する神の意志に信仰と同意を抱けるなら、その人には神の意志が成就する事を世に知らせることが勧められています。(黙示録22:17)



.⇒ 「人は何故傷つきながらも政治と宗教を存続させるか
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14.キリスト教の信仰とは

2014.12.06 (Sat)
キリスト教の信仰とは何か

宗教にはそれぞれ信じるべき事がそれぞれに異なっています。
仏教では、この世の無常と輪廻転生が説かれ、神道では多様な神があり、自然や偉人への畏怖と、崇拝による利益があります。

ユダヤ教は、神から預言者モーセを通して授けられた『律法』を守ることで、神の是認を得て『選ばれた民』となり、『諸国民の光』となることを目指します。 彼らが信じるのは旧約聖書であり、それに付け加えられた無数の法体系である「タルムード」を守ることで、『律法』よりも厳格なこの教えを守るなら『モーセの律法』を犯すことを避けられると教えられます。ですからユダヤ教とは律法を守る宗教と言えます。

イスラームでは、人生は試練であり、唯一絶対の神アッラーに平服する生涯を送り、不自由ない生活のできる天国に召されることを目指します。 この宗教で強調されるのは徹底した服従であり、ユダヤ教並みに生活の細々したところにまで規則があり、教えと結びついた独自の行政法を持っているので、政治までも宗教によって規制されなくてはなりません。

では、キリスト教の目指すところは何でしょうか?

キリストとは一言で言うなら「任命された者」を意味します。 人々を『罪』という不倫理性から解放するために任命された方であるキリストの役割を信じること、これがキリスト教の根本です。

キリストの到来は旧約聖書の古代から予告されていましたので、それを「約束のメシア」と呼びます。メシアとはヘブライ語でキリストを意味します。
新約聖書は、そのキリストがイエスと言う人物であることを具体的に知らせ、イエスというキリストが、ユダヤ教徒の間で多くの奇跡を行い、人々の病気を癒しながら『神の王国』と言う、人類を救う国の到来を告げて回った事を知らせています。

このように、イエス・キリストを知らせるのが新約の聖書でありますが、新旧の双方の部分が無くてはキリスト教全体の意味は分かりませんし、キリスト教が成り立つために両方の聖書が必要不可欠です。この点で、新約聖書を認めないユダヤ教には、いまだにメシア=キリストが現れていません。イエスを「約束のメシア」とは認めなかったからです。

二つの聖書には基本的な違いがあります。
特に新約聖書では、ユダヤ人だけでなく、どんな人間も旧約の『律法』を正しく守ることはできないことが知らされます。その理由は、人間には皆、等しく『罪』があり、それは全人類の始祖アダムが罪に堕ちて以来、遺伝しているためなのです。 律法はその『罪』を明らかにするためにイスラエル民族に与えられたものであると新約聖書は説きます。

ですからキリスト教では、どれほど規則を守って善良であろうとしても、神の是認には入れないことを悟り、自分の善良さや義を誇ることから自由にされます。旧約の『律法』は人間の試す試金石であり、キリスト以外の誰にも『罪』があることを証明していたからです。

こうしてキリストの到来によって、『モーセの律法』はその役目を終えることになり、キリスト教によって聖書の教えは新たな段階に入りました。
『罪人の友』とキリストがユダヤの宗教家たちから呼ばれたのも、罪深い者とされて社会から見下された人々をイエスが避けることをしなかったので、律法を守ることを自負していた宗教家になじられた結果でした。

しかし人間の『罪』とは、この世の有様にはっきりと表れています。それは、人間の持つ倫理上の欠陥であり、その端的な姿が「貪欲」となってあらわれます。 この倫理上の欠陥が非常に多くの苦しみを人類にもたらしています。 人々は互いの貪欲に警戒して生きなければならず、警察や軍隊を必要とするのも、金銭に縛られて生きるのも、その根本には人の貪欲が存在するからです。
誰であろうとこの倫理上の欠陥、つまり不道徳性であり聖書が『罪』と呼ぶものから人類はけっして逃れることができません。 また、この『罪』は神と人との間を隔てる障害ともなっています。

しかし、キリストはその人類の『罪』を一身に担い、すべてのとがめを引き受けたので、人々が神の前に無罪とされて、アダムが創造されたときの状態に引き上げられる救いの道を拓いた、というのがキリスト教の基本的な教えです。
そこでイエスが罪人と呼ばれ蔑まれた人々を分け隔てしなかった姿も理解できます。 このキリストの自己犠牲を前にしては、何者も自分の義を誇ることなどできません。キリストはアダムの子孫ではなく生まれたので、どんな罪人をも許すことができるからです。

神の前における人の根本的な『罪』とキリストの『許し』、これがユダヤ教には無かった新しい教えであり、キリスト教の真髄を成しています。
そこで、新約聖書はイエス・キリストを『神と人との仲介者』と呼びます。
つまりイエスは、わたしたちの『罪』を除き、神に導くために特別に任命された『天からの方』なのです。

そこで、人間が神との関係を回復するときには、『罪』は過去のものとなり、倫理上の欠陥が無くなるので、人々は貪欲を去って争うことがなくなり、創造の神との関係に復帰するので、様々な病気はもちろん、老化や死さえも過ぎ去り、すべての悲しみの涙が拭われることを新約聖書は告げます。 端的に一言で人間の苦しみの理由を言えば、それは人間の持つ『罪』であり、それによって創造の神から離れてしまったことにあるのです。

この教えは人間を死後に天国の召すのではなく、人間を創造された姿に回復し、この地上に『神の意志が行われるように』することにほかなりません。

ですからキリスト教とは、単に神の存在を信じるものではなく、神に任命されたキリストがイエスであり、この方を通してのみ、人間が神に立ち返る道が開かれた事を、深い共感の内に信じるものなのです。

しかし、信仰を持ったからといって『罪』から解かれるわけでも、良心の咎めから自由にされるわけでもありません。むしろ、信仰を抱くことにより、自分の『罪』の深さに対するキリストの犠牲に共感するので、『罪』を出来る限り避けようと努めるように促されます。これを『悔い改め』と呼びます。

キリスト教に信仰を持ったからといって、人は自動的に『救い』に入るわけでもなく、終末の『裁き』を前にして、『罪は』相変わらずわたしたちの身心から無くなることもありません。しかし、キリストへの信仰によって、その人が自分の『罪』をどう見なしているのかを神の前に示すことは今からもできるのです。

『罪』があることを望んでいないのであれば、その想いは『悔い』を生じさせ、『罪』を除いてくださる神とキリストの意志のゆえに、また人々への愛のゆえに、貪欲や放縦な行動を避けようという願いが自然と湧いてくることでしょう。これがキリスト教信仰による感化といえます。

この神からの影響が、キリスト教徒に『愛』という印を与えますが、その敬虔さから起こされる自発的行動は、規則によるものであってはなりませんし、誰かと比べるべきものでもありません。こうして『信仰』は、今日でも『愛』を介して『悔い改め』という実を結ぶことになります。

そして、『罪』を除き、神と人との和解を具体的に成し遂げるのが、『神の王国』であり、キリストの伝道の主題とされていたものです。

将来、この神の国が到来するのは、神に無関心な『この世』が裁かれる『終わりの日』または「終末」となります。
今日の貪欲に動かされる世界は、人間の努力で愛によって推進される世界へと代わることは決して無いからです。

そのとき、キリストは再びこの世に臨むと新約聖書に予告されています。 そこで人々に問われるのは「善行」ではなく「信仰」であり、一般的な「善人」ではなく真に「信仰を抱く人」を神は望まれます。

『この世』は創造者である神と和解していませんし、ノアの時代のように「終末」に至って神を知らされても神を信じず認めないと預言されています。

しかし聖書には、イエスは『世』のために遣わされたとも書かれていますので、やはりキリストが「この世」の全体を救うと考えるかもしれませんがそれは誤解です。キリストの救いは、この世の中の信仰を働かせる人々の救いのためであって、神を信じず尊ばない『この世』という体制全体を救うことも存続させることもありません。聖書はキリストが『この世』を裁くことをもはっきりと告げているのです。

ですから、キリスト教徒も『この世』を改善するために専ら活動するのではなく、政治には関わらずに争い事から離れ、キリスト・イエスと『聖なる者たち』を天の支配者とする『神の王国』の到来を待ちます。しかし、けっして自分が救われると利己的に考えるのではなく、利他的に人類への救いの手段であるキリストと神の王国を、『この世』に向けて知らせるのが本来の務めです。

加えて、その人はキリストの治める『神の王国』の到来を待ち、その『福音』を知らせつつ、『終わりの日』に聖霊を介した神からの言葉が世界を揺るがすようにして知らされるときに、自らと人々の多くが、その音信を聴き信仰を抱く者となることを願うことでしょう。そのように信じた人々を、神はキリストの治める王国に導き入れて救います。

以上がキリスト教の基本的な内容であり、まず、このように信じる人をふさわしくキリスト教徒と呼ぶことができます。

そこで信徒の生活においては、キリストのような自己犠牲的な愛を原理とし、この世の貪欲や争いから離れようと努める結果として、キリスト教独特の『聖い』印象や特質が信徒にもたらされることになるでしょう。

本来のキリスト教信仰には、善人を気取るような規則への盲目的服従からの自由があり、他方で、『神の義』を求めて自分の義を立てず誇らず、自発的な愛を行動の指針とし、欲得や俗事から離れた聖らかさが観られることでしょう。




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