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13.「魂」という死生観

2014.11.03 (Mon)


人は必ず死ぬものです。
病気や事故や災害でいつともなく死ぬ怖れからは誰も逃れることができません。
それでなくても、いつかは老化の波が身体を襲い、次第に衰えてゆくことは残念ながら誰にも避けられない定めです。

そして世界は常に様々な人の死の知らせに満ちています。
人は歳を経れば必ずいつかは誰もが死ななければならないのですが、それにも関わらず、世界の各地では紛争による殺し合いが絶えず、武器は日々進歩を遂げ、頻発するテロでは、自分が死ぬことばかりか、わざわざ他の人々まで巻き添えにすることが目的で、しかもそれが正義にされています。嘆かわしくも、世界の命の見方は実に多様であるとも言えましょう。

そればかりか、様々な苦しみから、自ら命を絶つ人々も少なくありません。
そこで、「自殺は自分を殺すから罪だ」と言うことはいとも簡単なことですが
自死に追いやられた人々の事情に誰かが配慮していれば、命を捨てさせることも無かった事例も多いことでしょう。

さらに加えねばならないのは、家族の絆が弱まっている今日、子供たちが親たちの横暴から物言わぬ犠牲者となって世を去ってゆくケースの少なくもない事は実に痛ましいばかりです。

しかし、親たちも社会で厳しい状況に置かれ兼ねません。
低い賃金で長時間働かされたり、充分な睡眠もとれないほどの残業があったり、職場での軋轢や嫌がらせに遭い、辛い毎日をしのんでいる方々も少なくはないでしょう。
正社員であっても、成果主義が進むと、人間を見る価値観が変化してきます。
役に立つ人を評価し、そうでない人を低めます。非正規労働者の場合は淘汰されるばかりです。

そこでは人間の価値の違いが生じています。社会は、それとなく、あるいは露骨に、人を様々な仕方でランク付けしているのです。この点では、人は人の真価を知ることはできないというべきでしょうし、すべての人を公正に判断しようとする余裕も能力もありません。
そこで社会から有能と評価され、よい待遇を得るために、親たちは子がよい学業成績を得て、安定的な職に就けるようにと心を砕きます。

その一方で、こうしたシステムについてゆけない子供たちや青年の憤懣が、反社会的な様々な行動となって現れることもあります。
ですが、会社の経営者や政治家も、その高い立場のゆえに間断の無い勢力争いとストレスにさらされていて、僅かな油断でもたちまちに築いたものを失い、とてつもない負債を抱える危険もあるのです。

これら世の罠から、うまく逃れたように見える人々は、自分たちの安泰に安住し、同情心や人間らしさを失うかも知れません。つまりは、世の苦しみも他人事になってしまうのです。
そしてどのように生きるとしても、すべての人に最期が訪れることになります。
こうして、この世を見回すと、人間の持つ愛情や叡智も、さほど働いていないかのように見えます。

いったい、誰が望んで社会はこうなったのでしょう。これでは、人間は皆が犠牲者のようではありませんか。
人はこのように「この世」という世界に生まれ、いずれは去って行くにも関わらず、様々に意地の悪い目に遭わされなくてはなりません。

そこでは災害や事故や病気という諸苦があるというのに、人々は競争と差別、虚しい贅沢への貪欲と明日をも知れぬ貧窮、虐待や抗争をわざわざ付け加えているのです。
これでは、人が生まれて来た世界は「修羅場」のようではありませんか。

そこで、人々は「神が居るならなぜ・・」と疑問に思うにしても、この世の有り様の変わることのない非情さから、人が不信仰に向かうとしても、また、自分の幸運を願ってご利益宗教にすがるとしても無理もないことなのでしょう。
あるいは、自分たちだけのささやかな幸福を叶えてくれた何かの崇拝の対象に感謝捧げる人もいるのでしょうけれど、この世のありさまが苛酷でないわけではありません。

ですが、本当にそれで良いのでしょうか?
誰であれ、この世にまったく幸福な人が居るでしょうか。

むしろ、どうにもならない境遇に置かれた人々、取り返しもつかないほどの失敗に陥ってしまった人々
生きるだけで精一杯な人々、価値を低められ、自らを居場所を見いだせないような人々
社会からの配慮も意思の疎通も難しくなっている人々、そして、すべての人々を覆う人生の空虚さ

これらのこの世での人のありさまを、神はどう見ているのでしょう。
何の助けも差し伸べないのでしょうか。
もし、この世がすべてであるとすれば、世界を作った神とは、虐待嗜好のある理不尽な性格の持ち主ということになるでしょう。
そして、本当に世界を創った神というものが存在するなら、その神は、人を一人一人を大切にはしておらず、能力や機会の不公正を与える差別主義者であることになります。


ですが、聖書なかでの「この世」は、けっして創造の神の意図するところでは無いというのです。
天地の創造者である神の霊感によって書かれた聖書によれば、世界のこうした乱れは、神の意図から離れてしまったところに原因があるのです。

創造されたばかりの世界は、神をして「大変良い」と満足させる出来栄えであったと聖書は伝えています。
ですが、そこに問題が起こります。
最初の人間夫婦が、神の創造の意図から離れ、自分たちの作り手に構わず、勝手に生きる道を選んでしまったのです。

今在る「世」、その苦難満ちる有り様への方向付けをしてしまったのが、わたしたちの共通の先祖であって、よくもこれほどまでの多くの苦しみをすべての子々孫々までにもたらしてくれたものです。

しかし、その子孫についてはアダムと同じ罪を犯したわけではありません。
それでも、人間は存在して以来ずっと、この世界の激しい不調和の中に投げ込まれてしまいました。

これまでに数知れない人々がこの世に生を受け、それぞれに儚い生涯をこの世で終えてきましたし、今なお、わたしたちの上には苦しみと死が覆っています。つまり、最初の先祖によって人間はすべて死刑を定められた収容所に押し込められたようになってきました。そのうえ、もし死が永遠の消滅であるにせよ、たとえ天国や地獄に行くにせよ、人はいったい何のために生まれてきたのでしょうか。

では無数の人々は、ただ偶然に生まれ、苦しみを味わうために生かされていたのでしょうか。宗教の中には、人生は試験であるとするものがありますが、聖書が伝えるところでは、そうではありません。


創造の神はこれまで存在したすべての人を、そして今生きている一人一人について知り尽くしているというのです。
神にとっては、『あなたがたの髪の毛までが数えられている』とイエスは言われます。
今も、わたしたち各人がどのような状況に在って、何を必要とし、何を考え、何を行おうとしているのかを神は知っているとイエスは言うのです。
そればかりか、当時にはまだ生まれていなかった、後の時代の人々についてさえ知っていたことを聖書は度々示してきました。

ですから、神が「この世」の苦しみの存続を「終末」と呼ばれる清算の日まで待たれるのは、まだ生まれず、現れていない人々の登場を予見しているとも言える理由があります。

さて、日本語の「魂」の意味とは異なり、ヘブライ語で「魂」(ネフェシュ)は、元々「喉」を表す言葉です。
喉はその人の必要物が通過する場所で、その人の必要や渇望をも暗示します。
主にヘブライ語を用いた旧約聖書では、「魂」はその人そのものを表すかのように用いられてもいます。

ですから助命嘆願するときに『わたしの魂を生かしてください』と書いてあるのは、『魂』が精神的なものだけを指していないことを示しています。(列王第一20:32)
『わたしの魂を剣から、救い出してください』という言葉も、『魂』が肉体の生死と関係していることを教えますし、やはり『魂は死ぬ』ともあります。(詩篇22:20/列王第一19:4/ヨナ4:8)

それでもキリストは、弟子らに『体を殺しても、魂を殺すことのできない者らを恐れてはならない』と言われました。
つまり、人の体は死ぬとしても、魂までがまったく損なわれることはないということです。
そして、キリスト自身の魂は『墓に捨て置かれることなく、神はこれを復活させた』と聖書は述べています。(マタイ10:28/使徒2:27)

そこで『魂』は、生きている人の中に有り、体と共に死を迎え『死んだ魂』となりますが、まったく無に帰して神にも忘れ去れるわけではありません。

ですから神は、『すべての魂はわたしのものである』と言われるのです。それは生死に関わらずです。(エゼキエル18:4)
つまり創造の神は、過去、現在、未来を含め、時間を超越して、人のひとりひとりを「魂」として見做します。

これを証しするように、ご自分の刑死を目前にされたイエスは、古代に死んだ人々であっても『神にとっては生きている』と宣言されました。(ルカ20:38)

 神は創造者であるゆえに人を存在させ、また人を自在に復活させることができるからであり、『神にとっては生きている』とのイエスの言葉に違わず、最初にキリスト自身の『魂を墓に捨て置かず』に復活させて『死者からの初穂』とされました。
そこで、人を存在させた神は、『善人も悪人も』すべての人について、創造者であるゆえに所有権を持つと云えます。(使徒24:15)
その通り、『善人も悪人も』です。

創造者の人への評価に不公正はなく、ただ、あなたが存在することに価値があるのです。
なぜなら、神があなたを在らしめたからです。(詩119:73)
最初の夫婦の子孫である誰もが、『魂』という全能の神の侵し難い所有権の中に守られているのです。

ですから、わたしたちの空しい一生が「この世」ですべて終わってしまうことは決してないことを聖書は知らせます。(コリント第一15:13-)
その根拠がキリストによる「魂」の代替であり、すでに二千年も前、新約聖書にある通り、アダムの「魂」に対応するキリストの犠牲は確かに捧げられ、それを神は間違いなく受け取られているのです。(ローマ5:21)

アダムが魂を損なったので、子孫の全体は拠って立つ存在の根拠を失ってきたと言えるでしょう。しかし、キリストはアダムの失われた魂を自らのものに代えたので、彼は預言されたように『とこしえの父』となると書かれているのです。(イザヤ9:6)

そうして、すべての人を浄められた地に復活させ、どれほど悲惨な生涯を送った人であっても、いずれは輝かしい創造物としての祝福に報われるように神は取り計らわれました。
キリストによって、わたしたちの「魂」はすべて神によって買い取られた状態に入っています。
創造者が御子キリストという最も貴重な犠牲を払って買い取ったものとは何でしょうか。それこそが人々の「魂」であり、創造されたわたしたちそのもの、真実の存在なのです。

その貴い贖いの価が罪の無かったときのアダムの魂に対応するものなら、買い取られたのは、実に子孫であるわたしたちのひとりひとりであり、善人も悪人もなく、すべての人がその価値において何らの違いもないのではありませんか?
すべての人は、生きていようと死んでいようと、所有権を持つ神にあっては変わりがなく、その手にしっかりと「魂」として握られているのです。

いつの日か、創造者はアダムの子孫のすべての「魂」を肉体に回復して、必ずや栄光溢れる創造の業を完遂されることでしょう。
それだけでなく、今現在でさえも、この世の苦しみに喘ぐ個々の人々のために善意を施してくださいます。

イエスはこうも言われました。
『何を食べるのか、何を着るのかと思い煩ってはなりません。天の鳥たちを見なさい、倉も持ってはいませんが、天の父は彼らを養っているのです。野のゆりを見なさい、栄華を極めたソロモンでさえこれほどまでには装っていなかったのです。』(マタイ6:29)

そこで、わたしたちにとっての最善を知るのは、実にわたしたち自身ではありません。
人には誰も将来を見通せません。これはソロモンも諭すところで占いなどは無益です。(伝道10:14)

ですから、わたしたちは窮境に陥るときに、非常な不安に駆られることもあるでしょう。心細さに打ちしおれることもあるでしょう。
しかし、あなたも創造の神に所有されている「魂」であり、神に頼り、その助けを願うなら、神は自らの所有する「魂」を今でさえ省みるとイエスは教えました。(マタイ6:25-)
神ご自身も『ご自分の手の業(創造物)を慕われる』というのです。
そしてキリストは苦しむもの、弱きものに寄り添い、難病にある人々をも癒し、神の善意を施し示されました。(ヨブ14:15/マタイ9:11)
神はご利益を与えはしませんが、苦難にある者には道を拓かれます。

それに加え、『神の子』として立に戻った将来の生活を送る人々について神はこう言われます。
『彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らはYHWHに祝福されたものとなり、その子孫も共にいる。彼らが呼びかけるより前にわたしは答え、まだ語っているうちに聞く。』(イザヤ65:23-24)
人は短く空虚な人生を後にするだけでなく、アダムのように自由に神と会話をするというのです。

この世に在って、人々は皆アダムの罪の影響下から逃れてはおりませんが
全能の神の権利以上に確実で強固で信頼できるものが他に何かあるでしょうか。

今、わたしたちがどのような境遇にあるとしても、また何が起ころうとも、たとえ死ぬようなことがあってさえ、神はすべての人のひとりひとりをしっかりとその手に把握され、その「魂」を何者にも損なわせません。
なぜなら『すべての魂は』神のものだからであり、その神があなたという存在の由来だからです。

この世が続く限り、人の苦難は絶えず、死も避けられませんが、それらを乗り越える力強い神が、何時の日か、必ず「この世」を終わらせて、人々に栄光を回復する日が到来します。聖書はまさにそれを告げており、キリストはそのための働きを地上で全うされました。キリストの死と復活は、存在したすべての魂の先駆けであったのです。

何と心強いことでしょうか。ですから苦難にあるとき、あなたを在らしめた創造者に心を開き語りかけて頼れる理由もあるのです。神はご自分の創造物を必ず顧みると言われるからです。(ヨブ14:15)

神に頼り、自らを委ねることは弱さではなく、見えない創造の神に信頼を寄せる「信仰」と呼ばれる大胆さの証しであり、「人が弱い時にこそ、神は強い」と聖書は言うのです。(コリント第二12:10)




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12.人はなぜ生きるのか

2014.11.02 (Sun)

"Why do people live?"
人はなぜ生きるのか


これに似た問いに、「人生の目的は何か?」や「なぜ生まれてきて、死ぬのだろう?」などもあるでしょう。
こうした質問をする時期は、青年期に多いようですが、それは社会に出て、考える間もなく生きるための日常に追われる日々に入る前だからなのでしょうか。
あるいは、若者でなくとも、今日もどこかでこの問いを思い浮かべている人もいることでしょう。

しかし、「人はなぜ生きるのか」という問いに答えるのは易しいことではありません。

もう随分と以前のことで、おおよその内容を書くことになりますが
ある中学校では自殺する生徒が出てしまいました。
校長先生は、全校生徒の前で「死んではいけない、強く生きなさい」と訓示したそうです。

しかし、ひとりの女生徒は新聞(朝日)に投稿して大人たちに尋ねました。
「死んではいけない、強く生きなさい」と言われましたが、どなたか生きる理由を教えてください。
生きる理由が分からないのに強く生きることはできないとも、この女生徒は書きました。

これに対して、様々な返答が寄せられたものです。
おおよそ要約すると、次の三種類に分けられるように見受けられました。

「生きる理由は、生きているうちに見つかる」。
「人は生かされているのであって、理由はないが懸命に生きるべき」。
「人を愛しているので生きようとする」。

ですが、その女生徒はこれらの回答に感謝しつつも、満足せず、同じ問いを投書します。
やがて大人たちは、ひとつのことを共通の認識としていったように見受けられました。

つまり「人はなぜ生きるのか」との質問の答えは、人それぞれになり、すべての人に当てはまる解答が無いということです。

それでも、大人たちの回答にはそれぞれ真実が含まれていたように思えます。
人は何かに打ち込んでいると、それが生きる理由や目的のようになってくるものです。
また、わたしたちの誰もが、生まれようとしてこの世に来たわけではありませんから、確かに「生かされている」という感覚もうなづけます。
そして、誰かを愛するゆえに、生きようと努めることも、まことに価値ある理由と言えましょう。

では、これらに何が足りないものがあったのでしょうか?

これらの回答には共通するものがあります。
それらは、自分の意志によらず、いつの間にか生まれていた人間の側から、その存在の理由を自ら考え、何とか作り出そうとしているところは同じなのです。 しかし根源的な答えはそこにありません。人は皆、自分から生まれてきたのではないからです。なぜ生きるかの解答は人の限界の向こう側にあると言えましょう。

これを例えると、様々な用途に使うことのできる機械が作られたかのようです。
その機械は便利に様々な仕事をこなしますが、製作者が不在で、なぜ自分が作られたのかを知らずにいます。

時折に、自分が何のために作られたのかを考えても、自分なりの答えで満足する以外にありません。
そして今日も、せっせと自分の仕事と思える事をこなして忙しく過ごします。ですが機械にはあちこち不具合が出るようになり、やがて仕事を行うこともなくなり、スクラップとされます。
人の一生は、このように存在させたものとの繋がりが欠けているので、人はそれを見出そうと様々な宗教に問いかけてもきたと言えましょう。

では、ここから聖書に目を向けてゆきますと、こうあります。
『造られた物はそれを造った者について、「彼はわたしを造らなかった」と言い、形造られた物は形造った者について、「彼は知恵がない」と言うことができようか。』(イザヤ書29:16)

これはつまり、造られたものは造ったもの以上にはならず、造ったものに自分の存在意義を尋ねない限り、それを知ることはないことを教えていると言えましょう。
人は自分から生まれようとしてこの世に来たわけではなく、人は生まれながらに自分を在らしめた何者かを認識するわけでもありません。そこでジョン・ロックが17世紀に唱えたように、人々は生来的に「白紙」の状態の認識で生まれてくるので、宗教といえども神認識で一致しません。

ですから、多様な神や信仰がそれぞれの人々によって確信されてはいるのですが、その神も教理もバラバラで、その不一致が原因で時に互いの間に敵意をさえ生じ、それが宗教紛争などの厄介な問題を起こし兼ねません。
宗教といえども、神ではなく、やはり人間それぞれの思惑やご利益への願望が強いばかりで、本当には神に耳を傾けているとは言い難いものがあります。

しかし、このように自らを存在させた何者かに対してさえ人が無頓着で、何事も決め付けてばかりなら、果たして自らの生きる目的を知ることなどできるものでしょうか。

他方で、聖書には簡潔ながら人間の始まりからが描かれています。
「創世記」のはじめの部分には、天地の造り主である神が、自身の六日に相当する永い期間をかけて次第に地球を整え、最後に人間を地上に置いて地上の生き物を従わせる役割を与えることにしました。

創造神は第七日には、天地の全体が非常によく出来上がったことに満足を覚えたと創世記に記されます。
最初の男女はアダムとエヴァであり、このふたりから地上に人々が広がってゆくように取り計らわれます。
ふたりは「楽しみ」を意味するエデンと名付けられた園を与えられます。ですから、創造者はこの世のような苦悩の多い環境に生きるようにと、人間を意図して作ったわけではないのです。

創造神はアダムに様々な動物の名を付けさせましたから、アダムは神から独立した自由な意思を持っていたことになります。それを神は喜ばれたのであり、創造者は主権をかざす強圧的な存在とは言えません。また、神は自らに平伏させるために人を作ったとも言えません。
そこでは、神と人間たちは意思を通わせ互いに会話することができました。両者の間に隔たりもなく、今日のような宗教を間に挟む必要もありませんでした。
しかし、それも変化する事態が起こります。

この創世記の最初の部分は「原初史」と呼ばれますが、これは神話のようでありながら、それだけでは済まされないような人間の本質を突く記述があり、それは「人はなぜ生きるのか」と問う人をして見過ごせないものとなるでしょう。

それがエデンの園の中央に植えられた二本の木なのです。
これらの二本の木は、実に創造者と人間の関係性を左右する決定的なものなので、エデンの園の中央に在ったと言えます。

さて、あなたが何かの機械の製作者であったなら、その機械をそれなりの目的に合わせて作ったことでしょう。そして機械がどう用いることが良いか、どう用いてはいけないかを知っていることでしょう。
しかし、機械も操作する者もそれを知りません。分かるのは適性くらいです。なぜなら製作者との意思の疎通が欠けているからです。

ですが、人間は単なる機械ではなく意思を持つ生き物であり、神と会話できるところは他の動物とも異なっていました。それで、意図せず生み出された自分が「なぜ生きるのか」を問うのです。
エデンの園の真ん中に植えられた二本の木は、人が自らの意思に従って生きることのでき、不自由なく神との意思の疎通を図れる者として存在し続ける条件を指し示していたと言えます。

一方の木は「善悪を知るの木」、もう一方は「永遠の命の木」とされますが、それぞれの木の名前に人の行う意思の選択が表れています。人がそのどちらか一方を食べることが意図されているのでしょう。

その選択は、まず「善悪を知るの木」に対する禁止によって与えられます。
創造者である神という存在を人がどう捉えるかに関する自由な選択がその木について一度開かれましたが、これは神と人の関係に関わるものです。人は創造者を敬愛して生きるでしょうか、それともないがしろにして生きるでしょうか。
そこで神は、人の選択の自由を保つためにその行動を強制せずにおくばかりか、「蛇」という第三者の誘惑をも許します。

つまり、創造者との良好な関係を望んで「永遠の命の木」からその実を食べるのか
あるいは、創造者を背を向け、利己的な願望に流れる生き方を選んで「善悪の知識の木」から実をもいで食べてしまうか、という決定的な生き方の二者択一で、そこに関わるのは生き方であり、倫理と呼ばれるものです。

結論と言えば、アダムとエヴァは、創造者からの禁を犯してその関係をないがしろにする方の木の実を食べてしまいました。
そこで人は倫理の問題を抱え込みます。倫理とは、他者とどのように生きてゆくかという事柄です。
人類は、神に対してばかりでなく、互いに対しても倫理の問題を抱えていることは、少しこの世の有り様を観るだけではっきりします。この世には人間の悪が多過ぎるのですから、今日のニュースを見回すだけでも、人間に倫理問題が在る事を確認するのには充分過ぎるほどでしょう。
神は、ふたりを「楽しみの園」から追放しました。つまり、創造者との関係が損なわれ、「永遠の命の木」からも採って食べることのないようにします。これによって、悪が永久にはびこり、創造界に対する神の意図がいつまでも成し遂げられないことが避けられます。

これが神の願うところでなかったことは、『善悪を知るの木から食べてはならない、死ぬことのないためだ』と忠告していたことからも、またアダムたちに示していた多くの親切からも明らかなことです。 しかし、彼らは神の善意に応えませんでした。 二本の木の選択に求められたのは、権威者への全き「従順」というより、自発的な神への「忠節な愛」であったといえるでしょう。

神はふたりに「永遠の命の木」から与えたかったに違いありません。創造者なのですから。
しかし、ふたりは与えられるのを待たず、奪う仕方で「善悪の知識の木」を採って食べてしましました。

それから、創世記は今日の人間の日常の理由を語ります。
人間は『顔に汗してパンを食べ、ついに地面に帰る』という生涯を送ることになり、『地は呪われ』雑草がはびこるようになって耕作は容易ではなくなり、やがて地上は不作や災害も起きる場となってゆきます。
アダムとエヴァがエデンから追放されたとき以来、人間社会は創造神とは隔たった根無し草のような生活を余儀なくされました。

それが今日までの人間の受け継いだ境遇であり、その一方で人々は、相変わらず神を意に介さず、または自己の義を立てるような崇拝を行って、やはり神に無関心であることを示してきました。
人は自らを存在させた創造者から心が離れてしまい、それはあらゆる道徳や倫理の基本を壊してしまいましたから、人類世界には悪や苦しみが絶えません。

もちろん、幾らかの善を行うこともできるのですが、人間は自らの悪を無くすことができなくなっています。
そこで、善と悪とを仮に定めて法律とし、それを守るよう強制しなければ人間は社会を維持できないばかりか、生活もおぼつかないことでしょう。

つまり、今日の世は創造者の意図から外れてしまった状態にあり、それで人々はこの世を空しく感じます。
生まれて、育てられ、苦労して生活し、やがて子をもうけ、老化を避けられず、自分も去って行く、という世代の繰り返しを眺めると、それだけのために存在することに、人は満足できないものを自然と感じ取ります。
その一生にどんな意味があるのか、ほんとうにそれだけなのだろうか、という疑問は誰もが思い浮かぶものです。

しかし、創造神との間には充分な意思疎通が失われているので、それが「人はなぜ生きるのか」という問いの答えを得る事を阻んでいます。人に「なぜ生きるか」という問いへの普遍的で決定的に得心できる答えがないのは、わたしたちがまさしく造られた存在だからなのでしょう。われわれ人間が形造られたものであるなら、本来、自分で存在意義を決める理由がありません。
そしてやはり、人々には「なぜ生きるか」の答えが本当には見当たりません。その答えは創造者の許にあり、その以前に、神や人とどう生きてゆくかを弁えていないのですから、まず、神との間の垣根が取り払われねばなりません。

この簡潔でありながら大きな難問「人はなぜ生きるのか」について、聖書が伝えるところは、「人間を楽しませるため」とも「地上を管理させるため」とも答えることはできるでしょう。それは文字からの知識としてのことです。
しかし、二本の木に示されたように、より重要な解答は、「人間を存在させた神との関係」の中にあります。
つまり、創造した側からの、人の生きる理由というその答えを知る必要があるのです。

ですから、創造者との関係が途絶え、短い寿命に生きている現在、「人はなぜ生きるのか」の問いへの神の答えを得ることには無理があります。
もし本当に、「永遠の命の木」から採って食べ、永遠に生きることが創造神の人間への意志であったのなら、「なぜ生きるのか」の問いはまったく答えられなければなりません。

そうでなければ、人は永遠という時間にいつかは飽きて、生きることに意欲を持てなくなるに違いないからです。
ずっと生き続けるためには、充実した生涯を送り寿命を全うして満足することをも遥かに超えて、永続する目的意識を持ち、身体が生きようとするように、心も生きることに意味を見出していつまでも闊達としていなければ、永遠という時間に空しさが付きまとうに違いないのです。

しかし現在では、人が「なぜ生きるのか」の神の回答を得ることは無いといってよいでしょう。
やはり、わたしたちは創造者との十分な関係をもっておらず、人の内の悪に流れる傾向は、創造に当たって神の意図したところから脱線してしまっているからです。つまり、この世の有り様も、人の心の傾向も、神の意図するところではありません。そこで人間が自ら生きる理由をいろいろと考え出しますが、実感を伴った得心のゆく正解を得ることは不可能なのでしょう。

そこで人々は神を、また「上なるもの」を求めてきました。
そのために宗教があり、人はそこで自らの根本的な問いに答えを捜してきたのです。
しかし、それぞれの宗教は様々な答えをいろいろと並べることはあっても、誰もが納得できるような普遍的な答えにはどのような宗教も到達したとは言えません。多様な宗教が並立するのもそこに一因もあるのでしょう。

「生きる理由を教えてください」と、新聞に投書した女子生徒は、この端的な答えの無い問いを尋ね続けたといえましょう。
あまりにも純粋で無垢な問いに、知ったつもりでいた大人たちはたじろいだのではなかったでしょうか。
実は大人たちに正解が無かったので、正解と思える答えを並べるところで終わってしまったように見えるからです。

この堂々たる正面からの問いと、幾らか的を外した答えに漂う空虚さは、創造者との絆を失い、寿命によって生きる時間を制限されている人間の現状をさらけ出しているかのようです。

しかし、その一方で、創造の神はアダムの子孫のすべてに対して、自らとの関係を回復する手段を設けました。
その手段について聖書は『神と人との仲介者』と呼ばれるひとりの人物を指し示していて、その方はイエス・キリストと呼ばれます。

「キリスト」とは、一言でいうなら「任命された人」を表します。
つまり、アダムの子孫たちが、神との関係を取り戻し、「悪」に流れる傾向を正して、再び創造されたままの輝かしい姿を回復させるという大役を担うために、神から「任命された者」を指しているのです。
その「救世主」とも呼ばれるキリストは、「この世」という創造者との断絶の広大な暗黒に、差し込むたったひとすじの光のようであり、人類に残されたこの上なく貴重な助けです。

キリスト教とは、この任命された方を通して、神から離反している状態から人類が救われることを信じるものなのです。
「なぜ生きるのか」という問いの答えは、やがて「この世」が正されて後、「永遠の命の木」から実る果実を味わうときに、創造者が溢れるほどに示されるでしょう。その時には、深い実感をもって十分に得心のゆく正解を誰もが味わうことになるでしょう。それは命への本能的願望でも、人への愛着でも、物事を究めることでも、単なる知識でもなく、人が会得して永遠に生きようとさせる何かなのでしょう。





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