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11.キリスト教の始まった日

2014.10.07 (Tue)
キリスト教の始まった日


キリスト教はユダヤ教から現れたと言われます。
それでも、イエス・キリストもユダヤ教徒であったと聞けば、たいていの人は意外に思うでしょう。
ですが、確かにイエス・キリストもユダヤ教徒の家庭に生まれ、ユダヤ教徒として育ち、終生ユダヤ教徒としての務めを全うしています。

その務めには「律法」と呼ばれる預言者モーセのときに定められた法律に従うことや、エルサレムで行われる祭りに参加することが含まれます。

使徒パウロは、イエスがモーセの律法を守る務めを負っていたことをこう述べています。
『神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。』(ガラテア4:4)

もちろんキリストが現れたので、キリスト教という宗教が存在するようになったのですが、実際にはイエスもその直弟子たちも皆ユダヤ教徒であったのです。

では、いったいこれらのユダヤ教徒はいつからキリスト教徒となったのでしょうか。
また、何がキリスト教をユダヤ教から分かれさせたのでしょうか。

そこで、ここではキリスト教が始まったとされる日についてお話ししましょう。

キリストが磔刑に処されて直後の弟子たちは、それまで従ってきた師の居ない中で、その処刑に彼らの主を追い込んだ周囲のユダヤ人におびえて過ごします。

しかし、キリストは処刑から三日目を迎えた早朝、神によって復活させられます。
その朝、墓の前には、見張りの兵士が配置されていたのですが、イエスの復活に伴って現れた天使の姿に恐れ慄いて動けない状態に陥っていました。

しかし、彼らは見たことを他言せず、弟子たちが遺体を持って行ったと言うようにと、兵士らを遣わしたユダヤの宗教家から口止めの金を渡されています。ですが噂は漏れ出ていました。(マタイ28章)

その後、弟子たちが扉にかんぬきを下ろした部屋に集まっているところに復活したイエスが現れ、弟子たちに挨拶をし、食事までしています。(ルカ24:36-53/ヨハネ20:19-31)
では、なぜ食事までしたかといえば、復活が起こったことの具体性を示すためであったことでしょう。その場面で、磔刑に遭ったときに受けた傷も見せているところにもその意図が窺えます。

しかし、これは普通の人間となっての復活したということではありません。
例えれば、聖書の中では天使が人間の姿をして何度か現れている場面があり、食事もしているので、それは天使という霊的存在が一時的に人間の身体をまとった「化肉」ともいえる状態であったのでしょう。(創世記18章)
これは、復活後のイエスについても、同様であったと言えます。ですから、使徒パウロはイエスについて『命を与える霊となった』と記しています。(コリント第一15:45)

しかし、当時のユダヤ人も復活を信じることは易しいことではありませんでした。
イエスが墓に横たえられてから三日目の朝に、遺骸に香油を塗ろうと墓に向かった女たちが、遺体が墓に無く、復活したイエスから声を掛けられて初めてそれを悟るに至ります。

しかし、キリストの直弟子であっても、その話が信じられず十二使徒のひとりであるトマスは『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じない』と言い張っていました。
そこで、イエスは扉にかんぬきを下ろしたはずの部屋の中に再び現れ、トマスに『あなたの指をここに入れて、わたしの手を見なさい。手をのばしてわたしの脇に差し入れてみなさい。そうして信じない者ではなく、信じる者となりなさい』と言われます。

こうして十二使徒や直弟子たちは、自分たちの師が本当に復活したことを得心することができなければ、その後に、この生き返った方イエス・キリストを専らに宣明する決意を抱くこともなかったことでしょう。

そして、彼らにキリストを宣明させるもうひとつの重要なきっかけを与えたのが『聖霊』と呼ばれるもので、これはイエスがその到来を弟子たちに予告していたところの神から発する力であり、その『聖霊』はキリストの直弟子たちに、イエス自身が行っていたような奇跡の業を行わせるものとなりました。

そのことをイエスは『父の御許から来る真理の霊が下る時、それはわたしについて証しをするであろう。そして、あなたがたは初めからわたしと一緒にいたのであるから、証しを行うのである。』また『父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。』とも予告していました。(ヨハネ15:26-27/20:21)

つまり、使徒たちや直弟子たちはいまや『聖霊』を受けることによって、キリストの行ってきた業を受け継ぎ、それを世界に向けて広げてゆくことになります。

そのことをイエスは『わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、より大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。』また、『聖霊があなたがたに降る時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となるであろう』とも語っていました。(ヨハネ14:12/使徒1:8)

しかし、弟子たちはそれが具体的にどのように実現するのかを知りません。
地上に残った弟子たちは、キリストが天に去って行くのを眺めていた日から十日後の朝に、再び驚くべきことを経験します。

それはおそらく西暦33年の5月24日*日曜日の朝、ユダヤの暦ではシワンの月の6日、キリストの復活から50日目であったことでしょう。 *(ユリウス暦)
その日はユダヤの大祭のひとつである「ペンテコステ」とも呼ばれる五旬節(シャヴオート)の日で、外地のユダヤ人たちが祭りを祝うために世界各地の居留場所からエルサレムに集まって宿泊していました。

その朝、エルサレムには『風の吹きつけるような大きな音』が響き渡ります。
いったい何事かと、人々はその音のする方に集まってくると、そこではキリストの弟子たちが、習ったことのない様々な各国の言語を用いてそれぞれに『神の壮大さ』を語り讃えているのですが、彼ら一人一人の上には『舌のような炎』が見えたと書かれています。

この奇跡が何を意味するのかを使徒ペテロは人々に向かって知らせます。
『神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。』『イスラエルの全家は、はっきり知らなくてはなりません。あなたがたが磔にして殺したイエスを、神は主とし、またキリストとなさったのです。』(使徒2:33.36)

古来、ユダヤ教徒には旧約聖書を通してメシア、つまりキリストという傑出した人物が現れ、その者に従うようにと諭されていましたから、ペテロの言葉を聴いた国外在住のユダヤ教徒たちは心を刺され、「兄弟たちよ、わたしたちは、どうしたらよいのでしょうか」と尋ねます。(申命記18:15)
そこでペテロは『悔い改めなさい。そして、あなたがたひとりびとりが罪のゆるしを得るために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、あなたがたは聖霊の賜物を受けるでしょう』と勧告します。(使徒2:27-28)

こうして、その日のうちに三千人が水に身体を浸す儀式であるバプテスマを受けて、イエスが旧約聖書に予告されていたキリストであることを信じるようになり、やがて使徒たちのように聖霊を受けるようになりました。こうしてイエス・キリストを信じる人々の輪が、『聖霊』と共にこの日を境に世界にむけて広がってゆくことになり、そして今日、キリスト教は世界最大の宗教となっています。

そこで、キリスト教が始まった日を、この『聖霊の注がれた』ペンテコステの日と見做す識者は少なくありません。
もちろん、未だ新約聖書は書かれておらず、教理も完成されてはいませんでしたが、この日にユダヤ教徒の中からイエスというキリストを信じ、『聖霊』を受けてキリストの業を受け継いだ人々と、イエスを信じず、それまでと変わらずにモーセの律法と旧約聖書やユダヤ人の伝承を含むユダヤ教に留まり、聖霊による奇跡の業に嫉妬する人々の分離が起こったことが、当時を記録した新約聖書の中の「使徒言行録」に明瞭に記録されています。

それからも『聖霊』はキリスト教徒の上に働いて、教理を教え宣教を導き続けます。
その過程で新約聖書が次第に形成されてゆき、最も長生きをした十二使徒のヨハネの著作をもって、新旧の聖書の全巻が今日の形に書き終えられました。
こうして『聖霊』は一度その働きを終え、今日まで聖霊が注がれ奇跡の業を行う人は現れていません。
『聖霊』が活動した期間は、あのペンテコステの日からおよそ百年ほどの間であったことが、エウセビオスの「教会史」などの歴史資料から窺えます。

他方、ユダヤ教はイエスを救世主キリストとは認めずにいましたので、『聖霊』を受けることもなく、新約聖書も受け入れず、現在までも旧約聖書だけを聖典とし、それに付け加えた「タルムード」という規則集を守ることを教えの主眼に置いています。ユダヤ教は旧約聖書に予告されたメシア=キリストをその後も二千年も待ち続けているのですが、この21世紀になってもイエスのような傑出した人物は現れていません。

「イエス・キリストはユダヤ教を改革した」というような解説がされるのを目にすることがあるかもしれませんが、イエスはユダヤ教を「改革して」キリスト教を創り出したというよりは、本来ユダヤ教が向かうべき目的としていたところの、新たで高度な、まるで異なる次元の宗教に導いたと言う方が適切でしょう。

その新しい「キリスト教」を存在させたのはどんな人間でもなく『聖霊』であったということができます。
これは意外かも知れませんが、キリストが地上に居た間にはユダヤ教とキリスト教は別の宗教にはならなかったのです。

一方、『聖霊』がもたらしたキリスト教は「改善されたユダヤ教」という範疇を遥かに超えていて、基本的な考え(原理)も正反対なほどに違うものになっています。
例えれば、ユダヤ教は律法への「従順な行い」を強調しますが、キリスト教では「信仰」や「愛」という自発性が求められます。
この点で、使徒パウロは律法に従うことを『隷属』とし、キリストが『自由』を与えたことを告げ、また『キリストは律法の終わり』とも記しています。(ローマ10:4/ガラテア3:24)

ではやはり、あのイエスがユダヤ人の待つべきキリストだったのでしょうか?
この質問は、ユダヤ教徒には今でも無礼な禁句となっています。なぜなら、ユダヤ教徒がイエスを当時のローマ総督ポンテオ・ピラトに処刑させてしまったことは、もはや到底取り返しのつかないことだからです。
ユダヤ教徒が今日も信奉する書物である「タルムード」では、イエスは「田舎ガリラヤの私生児で、魔術を行って人々を惑わし、最期はローマ総督に処刑された」と主張します。

一方で、キリスト教の側から見ると、ユダヤ人の体制派やほとんどの人々は、イエスの行う奇跡を見ても彼を神から遣わされたキリストとして受け入れず、却って悪魔によって不思議を行う者で、国を亡ぼすという理由で死に追いやってしまったのです。
そのため、キリスト・イエスを退けた当時の世代の内に、ユダヤの体制は神の神殿もろともにローマ軍によって滅ぼされてしまいます。その事についてはイエスが予告していた場面を新約聖書は記しています。(ルカ19:41-44/マタイ24:1-2)

イエスは、このユダヤ体制崩壊の事態を予見し、ユダヤに居る弟子たちには、エルサレムが軍隊に包囲されるようなことが起こったなら、ユダヤに見切りをつけ山地に逃れるようにと指示していました。(ルカ21:20-)
それはユダヤという体制の破局が迫っていることの印であり、モーセ以来永く続いた律法契約が終わることを意味していました。
つまり、それ以後はユダヤ人のキリストの弟子たちであっても、神殿を中心とした崇拝方式からまったく離れることになります。こうしてユダヤ教徒であったイエスの弟子たちも、ユダヤ教の崇拝を続ける理由を失い、規則に従うユダヤ教から、個人の信仰と自発的愛(アガーペー)によるキリスト教本来の姿に向かってゆくことになりました。

律法祭儀は、実際に西暦70年に終わりを迎えました。エルサレムでは祭りで人々が集まる時期であった事が却って災いし、ローマ軍の攻撃の前に多くのユダヤ人が命を落とし、また生き残ったユダヤ人も奴隷として売られてしまいます。
その後ユダヤ民族は国を持たない流浪の民となってゆき、彼らは自分たちの神の名が何というのか、その発音さえ忘れてしまいます。 神殿をまったく失ったことで、彼らが律法のすべての要求を果たすことは不可能となりました。 なぜなら律法の中のおよそ三分の一は、神殿で行われるべき儀式の取決めが指示されていたからです。
それに加えて、ユダヤ人は自分たちだけが神殿域だけで発音していた神の名前が何と呼ばれるかも分からなくなってしまいました。それらは、キリストを殺めたこの民族が、まさしく神の恩寵も契約も失った結果というべきでしょう。

この律法体制の滅びに際して、ユダヤ人の中からキリストの弟子となっていた人々は、イエスの指示に従いユダヤから北東方面の山地の都市に逃れて、その災厄を被らずに済むができました。この人々も各地のユダヤ居留民のところにそれぞれ散ってゆきました。以後、十二使徒のヨハネやフィリポは小アジア(現トルコ西部)に移住して、その地のキリスト教徒を指導してゆきます。

特にヨハネは、聖書巻末にある「黙示録」を記して、この世の終末があること、また、他の福音書と共にそれがユダヤの滅亡と似たものになることを明らかにしています。

さて、古代にモーセはこう語っていました。『あなたの神YHWH*は、あなたのうちから、あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない』。*(今日では発音不明となった神の名)
さて、では旧約聖書でモーセがこのように預言していたメシア=キリストとは、やはりイエスだったのでしょうか?

あなたはどう思いますか?
「イエス・キリスト」という名称も今では当たり前のようになっていますが、そこにはナザレ村から来られた方イエスが神に任命されたことを信じるという意味が込められているのです。
あの聖霊が降ったペンテコステの日から今まで、イエスこそが予告されたキリストであると信じることができる人を、キリスト教徒と呼ぶことができます。
今日では、聖書に記されたところを読み、調べることで、その人が自らそれを判断することができるでしょう。




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