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ものみの塔のユダヤ教への退行

2014.09.06 (Sat)
(この記事は、この前の排斥処置の根拠に関するNo.113の続編を記事として起こしたものです)

キリスト教のユダヤ教への退行に関して
「エホバの証人の場合につき」
以下、書簡文とそれに補筆したもの

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まことにお気の毒なことで、このエホバの証人という宗教現象は、精神的圧制と言わねばなりません。

もちろん、どんな宗教でも宗派でも、間違いのないものなどありません。
なぜなら、今日では神の霊感を受けた無謬の宗教などは一つもなく、神に由来するものはひとつも存在していないからです。
どんなキリスト教にせよ、現状では聖書解釈でも道徳性でも五十歩百歩の差が諸宗派にあるばかりで、使徒時代のように神との契約関係を主張できる派がどこにあるでしょうか。
そこで「塔」は使徒らも間違いを犯していたと言うのですが、聖霊の知恵により聖書を著した使徒らと自分たちを同列になど置けるものではありません。書かれたものの違い、指導の違い、行いの違いがどれほどか分からないとすれば、その人の価値観は疑われるべきでしょうし、むしろキリストの使徒らを誹謗してはいないものでしょうか。

人由来のいずれのキリスト教の宗派も教理や規準を設けていますが、どれも間違いは避けられません。
しかし、特に実害があることでの間違いというものは、当然社会からの注目や批難を浴びることになります。それは特に周囲に実害をまき散らしておきながら絶対善を主張する派に却って見られる特徴と言えましょう。

どんな宗教であれ、絶対の善や正統を唱えることはまったく危険です。それは人間というものの実情を無視しているからです。
その結果、宗派の「正しさ」は、現実を粉飾しなければ存立しないもので、実際の信者の倫理性とは異なってしまっているにも関わらず、信仰者各個人からはその自然な判断能力も奪われてしまいます。テロや集団自殺を起こした宗教はその警告なのですが、どれも人間の罪ある実態を見損い、「絶対善」に従うつもりで逆に「極端な悪」に堕ちているのです。

実際とは異なった人間の妄想は、絶え間なく信者の想いに影響を与え続けないと維持出来ないもので、放っておけば、人間らしい判断力が働いて、与えられた妄想がしだいに晴れてしまうもので、それが人間の自然な叡智でしょう。ですから、人間の実際を無視した宗教は、定期的に人の想いに影響を与え続けないでは成り立ちません。そこで、ものみの塔が集会を「霊的ライフライン」とするのはもっともな事です。その効果と言えば、組織への従順の継続であり、周囲の人を軽んじ、団体を高めるという、おおよそキリスト教とは関係のない、永遠の命を質に取った「脅しの害」というべきものです。

それらの害が、外からの圧力によってではなく、信者が自虐的に被害に遭っているところでは、その宗派の制度や教理そのものに何らかの根本的な問題があるでしょう。やはり「エホバの証人」に様々な自虐的被害が明らかではありませんか。生活の様々な場面に規制が入り、周囲の人々との間に生じる「違い」がそのまま証人の「正しさ」を実感させる「演出」になってしまっているからです。これは典型的なパリサイ派です。「業による義認」という以外に何と言ったらよいでしょうか?

その人々が、どれほど「自分たちは正しい」と思えたとしてもです。
いや、やはりそう思うほどに、ますますそこに何かが潜んでいる危険性は高まるというべきでしょう。
人間は皆が同じく間違いを犯す「罪」ある存在であるという現実から遊離した考えでいるからです。それともバプテスマを受ければ裁きを通過したとでも教えられているのでしょうか?それでは諸教会と同じことであり、さらに組織内で相応しい状態で居れば神に是認されると言えばパリサイ派ではありませんか?聖書に正しく従えば是認されてアダムからの罪は許されるのでしょうか?そこに「塔」の利己的で硬直的な「人間の義」の源があるのでしょう。

例えれば、輸血の謝絶は絶対的な正義と固く信じているとしても、それが成し遂げる事はいったい何でしょうか?
神がそうした行為を喜び、証人を是認するというのには無理があります。
むしろ、キリストの弟ヤコブがそれを聞けば、反対しそうな事です。

と言うのも、ヤコブの裁定はユダヤ教のイエス信奉者たちと、異邦人たちとが分け隔てなく一つの集まりに参集できるよう、当時のユダヤ教の会堂参加の最低限の習慣を述べたものであり、ユダヤ教のナザレ派が居ない今日には、キリスト教の戒律でもありません。律法に従い続けるキリスト教徒は遠い過去に過ぎ去ったからです。(使徒21:20〜25)

「塔」が追随者らにユダヤ教さえ求めない輸血拒否をキリスト教の戒律であるかのように教えるのは、指導者らが信者たちへの強烈な指導力を保持し、証人たちとすれば、自派の正当性の証を人為的に得るところが内奥の動機ではないのでしょうか?つまり、「永遠の命」を確実にしたいという欲からくるものですが、そのように選民的な欲はパリサイ派らユダヤ人も抱いていたものであり、業の救いを妄想しているところはまるで同じです。(ヨハネ5:39〜40)

「塔」のように自派が正しく、他の宗教が間違いであるばかりか、自分たち以外のこの世の一切をもサタンのものであり避けるべきものとするとき、そこでは人間という相対評価されるべきものの絶対視が行われてしまい、「世の人と自分は違う」と言っているのであり、明らかに自分を高め過ぎていて、責任を深く感じて顧みる機会を自ら奪ってしまいます。では、エホバの証人は世の人の罪を咎められるほど清いのですか?申し訳ないのですが、到底そのようには見えません。もし、あなたがただけは是認する神が存在するなら、その神は人を偏り見ることに於いて程度が低いと言っているのです。それを神と呼ぶには無理があります。キリストの犠牲を人類に与えた聖書の神とはそれほど偏狭なのですが?

まさしく偏狭さに於いて「塔」は、間違いを指摘される度に、却ってその相手を「不従順」や「背教者」として容赦なく攻撃し続けてきましたが、もはやこれらを無かった事にはできないほどに「実績」が積み上がっていますので、「塔」は信者から外部の情報を遮断する以外に対処ができません。統治体でなくてもこの組織を弁護することは困難なことでしょうから、裁判費用も相当支出していることでしょう。
間違いを指摘する人々を「極悪人」とし、自ら省みる機会を放棄してきた酬いではありませんか。これほどの事を、「ものみの塔」は信者にだけは、巧妙に善を装いつつ行ってきたのです。それは見事なほどです。

ですが、たとえ自分の宗派に間違いがあっても、自分たちは神に受け入れられていて正しく、自分たちの誤りは「いつか神が正される」という考えは社会や法廷で通用するものではありません。それは全く身勝手な詭弁であり、自ら改善する機会を放棄するばかりが、犠牲を放置し、なお自分たちの行動による被害の責任を他ならぬ神に転嫁するという冒涜以外の何物でもありません。その先にあるものといえば、理屈の破綻した、信者や周辺の被害者への無責任で傲慢な圧制のほかにありません。つまりは「自分は偉い」と云う単なる利己主義なのです。

しかも、この世の終わりの年代予測の勧告に従って財産を処分した信者にも、輸血が神の是認を失わせると教えらた信者が死亡してさえも、この組織は「戒律のようなものではなく」「自発的な決定だった」として、これらの極端な行動をとらせるために相当な圧力を信者にかけていた実態を否認し、それぞれの損害については組織的関与を認めようとはしてきませんでした。

つまり、責を問われて窮すれば、信者の「従順」は上層部へのものではなく聖書への従順であるとすり替えることで、却ってその責は神に有ると言っているのであり、自分たちは神を代弁しただけだと言うのです。いや、まさしくこの組織が「神の経路」であるとはっきり自認していたことは隠しようもないことです。信者には「神の地上の組織に従え」と言っておきながら、実際に法の調査の下で都合が悪くなれば「自分たちは神を代表などしていない」と平然と言ってのけるのです。

しかも、「自分は間違えることもあるが、いつでも唯一正しい」という人を、社会一般の良識がその矛盾し幼稚なわがままの害を受け入れるものでしょうか?当然ですが、 間違えるのは人間なら誰もがみな同じことです。
自分は「間違えもするが唯一正しい」のだといえば、他のどんな宗教でも間違いの責任逃れをすることができるではありませんか。
それでは不動の言葉を記した使徒らのように神と通じているとはけっして言えません。
お互い只の人だからです。どこが違うでしょう?その傲慢な人の見方は、必ずや蔑視と衝突を避けられないでしょう。その唯一正統の自認こそが、この世のどこにでもあるような敵意の根源だからであり、イエス・キリストもその精神によって殺害されているのです。

一方で、この社会は確かに不完全で必ずしも人を常に益するものではありませんけれども、長い歴史と多大の犠牲を経る中で工夫され、人々の福祉を省みる様々な制度を徐々に整えてまいりました。これらをも有するこの世の仕組みまでサタンのものと敵視するなら、その観方はどれほどその人を益するものとなるでしょうか。

例えるなら、エホバの証人は終わりが近いとして年金を軽視してきました。その報酬といえば、世の終りの到来が予想外に遅くなってしまったために、経済的窮境のまま老年に入ってしまった信者らの姿というべきでしょう。生活保護の制度に救いを得るようなことになっていれば、いや、受給できればまだ良い方で、そうした状況は「塔」という宗派の年代信仰が、現実にも世に対しても無残に敗北したことを意味しているのです。しかし、その名称「ものみの塔」とは、本来「先見性」を標榜したものではないのでしょうか。

その結末を悟ったかのように若い人々は去りつつあり、大会会場は老人会を彷彿とさせるかのようだと言われます。残っているのは、いまさら道を変えることのできない人々が占めているのでしょう。指導者は「世代」の解釈を捨てられず、過去の自分たちの主張を「熱心な信者の間違い」としつつ、「ふたつの世代が・・」と言い訳に終始しているという、指導者と信者の双方の姿にはまことに痛ましいものがあります。ですが、このままでは「世代」の教理を放棄せざるを得なくなり、「ものみの塔」はアイデンティティを喪失することになるのでしょう。「世代」の解釈は「塔」に独特なもので、非三位一体にはユニテリアン系の各派があり、集団の兵役拒否はアデルフィアン派も既に南北戦争から行ってきたことです。

そこまで至っても、エホバの証人は神の側に立っていると見做せる理由が何かあるのでしょうか?
その模範的行状が神の前に『義』をもたらすと言うのでしょうか?
エホバの証人の方々は世を断罪できるほどに清いのですか?
聖書の道徳規準を守り宣教奉仕していれば神に是認されますか?
人間の『罪』とはそのくらいの行状や業で許されるような軽いものでしょうか?

もし、「そうだ」と言うのであれば、ものみの塔はキリスト教ではありません。
キリストの犠牲の価値を自分の善行で得られるというところはまさしくユダヤ教であって、しかもその優越感はパリサイ派というべきでしょう。

ものみの塔は、キリストの犠牲を受けるについて行状と宣教という二つの条件を付けてきましたが、証人には楽園での永遠の命に「救われる」と思えばこそ、その条件を受け入れてしまう弱みがあります。それは代価の支払いのようであり、実にその支払い先は神でもキリストでもなく、信者に永遠の命を請け合ってきた「組織」であり、そうして人々の多大な犠牲の上に、この宗教組織は発展を遂げてきたのです。
そこで神の裁きの結論は出ていることにされ、「組織」に問題なく交わっていれば、ハルマゲドンで滅ぼされることを免れるというのです。ですが神の裁きは「組織に属すかどうか」に「聖書研究」を通して気付かぬ内に捻じ曲げられ、信者の側では滅びへの恐れを原動力とする信仰が「組織」という偶像を欠かすことができなくなっています。

エホバの証人の信仰の要諦は、「楽園」という御利益であり、神との関係の回復が希薄です。理由は自分に関心が向いているからであり、崇拝の主人公は明らかに人間であって神ではありません。キリストの犠牲までも自分のためであったとすでに感謝を捧げるとは、この人々は『新しい契約』に預かっているつもりなのでしょうか。裁きの来る前に、もう救われるつもりなのです。

少し考えればエホバの証人でも分かりそうなものですが、「楽園」欲しさを動機とするものみの塔のヒステリックな差別化の義認は、超然としたパリサイ派そのもので、キリストの精紳に逆行するものです。
「エホバの証人の正しさ」は常にこの世の人々との行動の比較の上に成り立ってきました。つまり、つねに比較して優越感に浸るための卑しめの踏み台にする他の一般の人々を必要としてきたので、一般の人々と違うところが多いほどに、滅びの恐怖は薄らぐという自己義認の悪循環に陥ってきたのです。

例えれば、以前には種痘を拒ませ、後には輸血を拒ませることが神の是認と直結していると教えてきたのですが、これを求める聖句は使徒15:29だというのですが、これはイエスの弟ヤコブの意図を取り違えています。⇒ 「キリストの弟ヤコブの寛容さ
エホバの証人にとっては、「輸血を拒否するまでに自分たちは神の前に従順で正しい」のであり、命を懸けてまで神に従順であるのです。

しかし、これは聖書本来の意図、ユダヤ系キリスト教徒を異邦人系キリスト教徒がつまずかせないという観点を一顧だにせず、ただただ、「自分たちの楽園への救い」が確かである保証にしてしまっているのです。しかも「楽園での永遠の命」というご利益が聖書の本旨でもないにも関わらずのことです。実に人間にとって最重要なことは「永遠の命」とは言えません。(詩篇63:3)

全能の神してみれば、あらゆる魂を保持され、命を与えることができないわけもありません。それでも、現状で人間に永遠の命が無いということは、そこに事情が有ってのことに違いなく、それこそがアダム由来の不倫理性によるのであり、それは神の前に清い行状を見せれば赦されるものでありません。『新しい契約』にある『聖なる者ら』だけが、キリストの命に在って生き、『この世から出ている』のであり、それ以外のすべての人は「千年王国」の贖罪を必要としているのではありませんか?

聖書の本旨でない事には証人の数々の禁止事項だけでなく、宣教方式についても言えます。
使徒らの宣教は、第一にユダヤ人の会堂を用いて行われていました。
初期キリスト教は、まずユダヤ人からの反感、次いでローマ権力からの迫害に曝されてきました。
そこで「家から家」に宣べ伝えることは彼らの特徴であったとは言えません。

その言葉もパウロがエフェソスの年長者らに一度語っただけのものですが、エフェソスのユダヤ社会ばかりか、異教徒までがいかにパウロたちに反対したかを考えるなら、「家から家」への宣教はユダヤ教徒やアルテミス信者の迫害を煽るようなものであったことになります。それは危険なことでパウロの当時なら、男でも騒乱と死を覚悟しなければ、とても戸別伝道などの行える環境ではなかったことでしょう。(使徒19) これは「弟子らの家々で私的にも教えた」を意味する以上の何を読み込むべきでしょうか。

区域網羅の危険度は、エルサレム市内の場面からしてそうでしたから、そこでの「家から家」とは、神殿の中での公けの教えと、彼らの家々とで私的に教えたという以上に捉えることには実際上無理があります。神殿に立つ使徒らのグループに、一般の人々は祭司長派を恐れて加われなかったという当時の状況下で、どうして軒並み宣教して回れたものでしょう。(使徒5:13)

しかも[カト オイコン]を「家から家」と必ず訳すのなら、五旬節後のエルサレムの弟子たちは、「家から家へと食事をして回った」ことにもなってしまいます。(使徒5:42⇒使徒2:42)
これは明らかに、地元の弟子らが逗留を続けるディアスポラで信者となった人々への「家々」での私的な食事の提供を意味すると捉えるべきでしょう。

そのうえ、初代の弟子らには聖霊の奇跡の賜物という、人々が信仰を働かせるべき「神の証し」があったのです。パウロも『わたしが宣べ伝えた事柄は,説得のための知恵の言葉ではなく,霊と力の論証を伴うものでした。』と述べております。人々が迫害を恐れつつも使徒らに信仰を働かせたのは、神の証しであって、区域の網羅ではありませんし、生活の知恵を分かつことでもありませんでした。ですが、福音書は繰り返し聖霊によって為政者の前で語る聖なる者らの世界宣教について語っているのです。(使徒4:31/ヘブライ2:3-4/コリント第一2:4/マタイ10:17-20)

おそらくは、先に米国での宣教活動があり、それが戸別伝道であったのを、後から聖書に裏付けを捜してこの使徒言行録にやっと見つけたというところでしょう。これは「間違えた」というよりは、意図的にこじつけてきたもののように見えます。(「家から家」の矛盾)
「塔」が強要する伝道方法は、もっぱらキリスト教国に通用する狭い観点に立ったもので、今日のイスラム圏など命に関わることになります。仏教国とされる日本での宣教方法が的を外しているかのような強引さが見られるのも、他人にもフランクに話しかけるアメリカ人の世界観の単純さから来るように見受けられます。



このように、人間社会ではどこでも間違いや偽りの情報からは逃れられません。それゆえにも人々はより正確な情報を広く求めて日々努めているわけですから、この世の情報をすべて疑うべきものとすれば、ものみの塔からの情報について、その正確さをどのように検証するというのでしょうか?まさしくエホバの証人とは情報弱者の隷属にあります。
実に、ものみの塔の主張する「真理」とは、ごく普通の人々の評価にさえ耐えることもできない惰弱なものとなっており、その脆弱さは日々酷いものになっています。

それでもしがみ付く理由と言えば、「楽園での永遠の命」が素晴らしいと思えるからでしょう。
しかし、誰にでも「それを希望するなら与える」のなら、「裁き」は何のためでしょう? わざわざキリストが人々を右と左に分けるのは、ただ希望を聞くためですか? キリストによってユダヤが裁かれ、ユダヤ体制派が神の恩寵から退けられたのであれば、『永遠の命を得る』ことを願っていたパリサイ派の者らはどうなのでしょう。

彼らが自称する「証人」とは名ばかりで、社会的責任を問われると沈黙するか、証拠ある情報を頑なに否定するか以外に方途が無いようで、まして、教理の矛盾を聖書から示されると、その人を「背教者」となじるばかりで、自己判断さえ放棄してしまいます。
この人々は「世の人々は心を閉ざして、真理に耳を傾けようとしない」と嘆くのですが、ご自分たちは如何なものでしょうか。
反論や醜聞の一切に目を閉ざし、懸命に耳を塞いでまで守らればならない「真理」とは、何と脆いく弱いものでしょう。確固たる聖書の不動の言葉とどう調和するのでしょうか。真理を聞くまいと耳を塞いでステファノに突進したのは誰だったでしょうか?『預言者に石を投げつける』とは、反論を封殺しようと躍起になる圧制者を指していませんか。

この宗教団体では情報が上から下へと伝達されるだけで、一般の証人にはそれを検証する方法も許可も無いのです。それは「神からの経路」であるから、ただ信じろという事なのでしょう。
しかも指導部がミスを犯すことを認めろと強いてのことなのです。理由は、指導層も聖霊に霊感されておらず、やはり人間であって間違えるからだと言いますが、時折間違える情報源をどうして誰もが従うべき「神からの経路」と言えるのでしょうか?それならば他のどの宗教の情報源も「神からの経路」と言えましょう。

しかも、「使徒らも間違えることがあった」とまで言うのですが、使徒らの幾らかの勘違いを聖霊は正してゆきましたが、それは間違った行いを避けさせ、常に彼らの先に立って訂正が施されているではありませんか。では、ものみの塔の指導者らはどう正されてきたのでしょう。度々に問題を起こしては密かに、あるいは聖霊ではなく人々から訴えを起こされ不承不承にルールや見解を変えてはきませんでしたか?そこにどんな「聖霊の導き」があるのでしょうか。

使徒らの言葉は聖書に結実しており、二千年近く不動の言葉であるのに対して、ものみの塔の記事は二十年前のものですら、見解の「調整」が避けられませんし、近年は以前に鳴り物入りで出版した書物を処分するようにと信者に勧めているのですから、土台、比較の対象でさえありません。間違いなく只の「人間の教理」です。

「塔」のユダヤ教的な体質はまったく明白です。キリスト教的でないのです。
といいますのも、この宗教組織は信者を支配する方便として、キリスト教を称しながら、律法制度を混ぜ込み、支配層の都合に合わせて、あるときはキリスト教から、またあるときにはユダヤ教からというように教えを恣意的に取り混ぜているのです。
それは狡猾なほどであり、その目的は、信者に「永遠の命」を約束しつつ、組織的に「支配する」ことにあるという以外にありません。信者個人は尊重されず、時に間違える組織の指示が神の命令と同じ位置に置かれ、人間臭い組織を偶像化させてもいるのです。

ですが、旧約に含まれる部分から生活上の指導を行っているところで、致命的に聖書の新旧を混同しており、自分たちはキリスト教であるというその主張と律法的規則主義との間には根本的な無理があります。そのうえで、塔はなお「神の是認の下にある」と言うのです。加えて「真理はあなたがを自由にする」とまで言ってのけるのですが、「行いの義」に縛られた信者に、キリスト教らしい自発的自由がいったいどこにあるのでしょうか?

「永遠の命」という人間が与えることのできない事柄を、従うものにだけ約束し、その対価を組織に対して求めているのがこの「ものみの塔」という宗派の本質ではありませんか。未信者を「異邦人」と呼んで滅びゆく者と蔑視し、自分たちは楽園に招かれた選民であるかのように、様々に差別化を行っては自分たちの「義」を演出していますが、どんな行いをしようともアダムの罪を逃れられるわけもありません。


この宗派のユダヤ教的な体質の例を挙げますと
『ほんの少年から懲らしめを差し控えてはならない。あなたがむち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なないであろう。』(箴言23:13)
『愚かさが少年の心につながれている。懲らしめのむち棒がそれを彼から遠くに引き離す』(箴言22:15)

この点で箴言の翻訳では他の聖書翻訳と比べて、新世界訳は極端なまでに「懲らしめ」の語が多く、他の口語訳、新改訳、新共同訳、また英文のNew King James Versionと比較しても、そこから受ける印象の異様さは一目瞭然です。
他の翻訳では「懲らしめ」ではなく「諭し」や「戒め」としていますが、「懲罰」を連想させる語が新世界訳の特徴であることは呆然とさせられるほどです。
「懲らしめのむち棒」が「諭しの鞭」とされるだけでも、その印象も適用も変わってくるでしょう。(新共同訳)
もし、できれば箴言第一章の出だしの幾らかだけでも比べてみてください。それはそれは北朝鮮の国民指導のようです。


とはいえ、何が何でも「新世界訳」が間違いで、「聖書ではない」などとは申しません。
どんな翻訳聖書にも一長一短があるでしょう。
ですが、新世界訳にもやはり「これは?」と思えるところがあり、それは少なくもないのです。

しかし、その組織の体質が翻訳に表れているところは否めません。
さすがに、幼児へのムチにムリがあると実態を知って思い知らされた塔は、『懲らしめのむち棒』を後に『細棒』と訂正しましたが、実際に打たれる側にすれば、却って細いがために痛く、ナイフに近付くので皮膚に傷が残りやすいと云われます。それは却って過酷な「訂正」となりました。おそらく訂正を施した指導者には、打たれる側の観点や実施される様子の認識が欠けていたのでしょう。また、そのときの親子の心情さえ理解してはいないようにも思えます。

しかしそこで、「箴言」にせよ旧約の教訓の大半が、律法体制下のユダヤ人に向けたものであることはどれほど考慮されているのでしょうか。
確かに、ユダヤ教は国民皆信徒制で、生まれると割礼が施され、許されるべきほかの事情がなければ軍隊にも応徴しなければなりません。 塔が兵役拒否を誇るのであれば、軍務をも規定していた律法体制と決別するべき理由がここにもあります。

また、その体制下での非行少年は親の判断で処刑もされていたのです。そこでは確かに幼い内に訓練しなければ、『彼は死なない』とは確かに言えません。(申命記21:11-21)
この組織内では、行状が悪い子らは肉体的にも精神的にも無傷ではすみませんので、この辺りは古代のユダヤに倣うものでしょう。

また、律法では大人への鞭打ちも含まれており、古代には処刑としてのムチ打ちを行うことが習慣的であったと云えますが、人権尊重を基調とされるようになった今日、イスラム圏でもなければ、人へのムチはまことに異例であり、それが本当に行われるとなれば異様にさえ見えるものです。
それは古代中東の習慣には適用できても、現代では非常識の咎めを免れず、それがどれほど神の定めた律法の規定であると主張しましても、どうしてユダヤ教を去った筈のキリスト教徒に律法からの懲罰を適用できましょうか。

まして『夜明けから真昼まで,男や女およびその他理解できる者たちの前で,それを朗読し続けた。すべての民の耳は律法の書に[注意を向けて]いた。』とはエズラの時代の律法体制そのもので、しかも何歳とは書いてありません。
幼児が注意力が大人のようでなく、遊びたがるのは脳の自然な発育に不可欠ではないのでしょうか?集会中に静かにできないからと子供たちに制裁を加え、「小さな大人」を作る必要があるのでしょうか?一律で無理な強制は、その酬いをその子の将来に刈り取らせることにもなるでしょう。

箴言の冒頭で『懲らしめ』を強調するべきか、『諭し』の教訓の有用性を説くべきかも、ソロモンの箴言の持つ意味からして、後者であることは明らかなように思えます。
箴言は、律法の意味するところを照らし、その精神を知らせるところに意義があったと云えましょう。
ですが、イエスは自らを指して『ソロモンより偉大な者』と言われました。

やはり、律法が如何に神からのものであり、その精神に神の意向の反映があったとはいえ、その直接的行動基準が通用する時代はとうの昔に過ぎ去っており、パウロの明言するように『キリストは律法の終わり』であったという、はっきりとした意識が持たれなくてはなりません。

この人々に、古代の処刑法である「石打」であっても聖書に書いてあることならばそのまま行いますか?と問えば「律法は終わったので行わない」と答えることでしょう。そこではユダヤ教とキリスト教の大きな違いを誰もが意識されるものです。
では、子供への「鞭打ち」は律法体制のものでなくて何でしょうか。

新約聖書が鞭打ちを勧めているところをひとつでも挙げることができるでしょうか。ユダヤ人に向けて書かれたヘブライ書でだけムチ打つことの親の訓練について述べるのみです。そこでも、やはり親が子をムチ打つ姿は律法からのものであって、時代に即応すべきキリスト教らしいとは言えません。
それはアングロ=サクソン系白人の永年に亘る野蛮な幼児教育法であり、塔もその19世紀的慣習を是認してきたところで時代の変化から取り残されたように見えますが、教育を超えた虐待を受ける身になれば堪ったものではないはずです。しかも、日本人が如何に幼児に優しく接するかに、明治期に来た白人らは目を見張っていたというのですから、なおさら残念なことではありませんか。

元来ユダヤの律法契約下では、生まれながらに律法の条項をすべて守る務めを負っており、そこに宗教選択の自由などは存在しません。それから逃れることは死を意味しました。そこで、塔の親たちは『打ち叩けば、死なない』を子供を叩いて善行を強制すれば楽園で生きられるかのように錯覚したのでしょうか。しかし、律法体制下にキリスト教のような自発的信仰の自由はないのです。この違いは決定的です。

それを考えますと、確かに塔の信者の子ら、二世三世は律法体制下に在るかのような扱いを受けざるを得ません。宗教選択の自由、個人の信仰への尊重は生まれながらのユダヤ教徒のように実質的にほぼありません。彼らのバプテスマに教団社会内の暗黙の圧力を含んでいるところは「割礼」に近いものがあります。バプテスマを受けて組織に模範的に留まることが「救い」に置き換えられてしまっているので、「神の裁き」もこの組織内ですでに終わったことにされており、これはもう個人の宗教ではなくコミュニティの宗教の特色でしょう。

そこでは親と共にひとつの絶対性を主張する宗教に従う習慣により、自分で善悪を考えず、自ら決定することを怖れ、塔の過去の資料を検索して、そこに書かれた事柄が神の求めであるかのように行動を従属させるところは、今日のユダヤ人が生活上の指示を求めて、分冊になっているそれぞれ分厚いタルムード(最近は塔に同じくPC検索できるらしいですが)に従おうとするのと同じでしょう。

「原則」という言葉は振り翳すものの、自分からは考えて行動しないためにアガペーは育たず、実質的にユダヤ教に同じく、信者の人々を常識的道徳で縛るため、そこでは法はさらに多くの法を生まざるを得ず、厳格な組織権威の道徳体裁が築き上げられる一方で、あまり自分で考えることをしない信者は、却ってそれを頼もしく感じさえするでしょう。

しかし、これはもちろんキリスト教からの脱線であり、わざわざユダヤ教のコピー宗教を造っているのです。
自発的であるべきアガペーは、規則で縛られていない自由な環境で初めて育ち得るものなのです。

対して規則主義は、愛を型にはまった像にしてしまい、そこに命はありません。
それが醸造するものは規則を定める指導者の「権威」であって、彼らに従うことが「愛」や「義」にされてしまいます。
まさしく、この権威主義がエホバの証人の実態ではありませんか。
つまり、「兄弟」と呼び合いながらも「誰がより偉いか」と言い張っているのがこの組織の真の姿です。

実に、長老は巡回の、巡回は支部の、支部は本部統治体の見解を越えることができず、独自の見解は許されないのであり、何が「義」で何が「愛」かを決めるのも、より強い権威をもつ人間となっているのです。これは恐ろしい圧制というべきです。

また、律法的原則の影響のひとつに、人々を「善い人」と「悪い人」に分けて見ようとする傾向があります。
ですが、人間の罪は誰にも存在するので、この見方は現実的ではありません。誰にせよ、倫理的に善い行動と悪い行動があるばかりです。

しかし、それが服従体制下では、どれくらい組織に服従したかで善悪が決まってしまうのです。それも相対評価であり、パリサイ派がそうしていた通りです。そこでは、業を競って果てしない優越感の戦いが繰り広げられることでしょう。つまり、誰が一層「模範的」か?というキリスト教徒らしからぬ馬鹿げた争いです。

たとえ、そこまでゆかなくても、活発に伝道しており、排斥されておらず、道徳的に良い状態にあれば、果たして神の是認の下に居るのでしょうか?そう思うのは自由ですが、これはキリスト教のものではありません。それは信仰の宗教ではなく、滅びの恐怖からの保身の宗教というべきでしょう。

もし、このような「服従の宗教システム」をキリスト教徒に適用するのであれば、それは「信仰」を掲げるキリスト教が、「従順」によって義を得ようとするユダヤ教に後退させられ、未だに律法の奴隷状態に繋がれていることを自ら露わにすることでしょう。

つまり、塔の指導者らは、キリスト教も「愛の掟」の何たるかも本当には分かっていないのでしょう。ですが、律法制度がキリストの世代の内の西暦七十年に神殿を失って破綻して以来、人を救うものは規則への「従順」ではなく、自発的「信仰」であることはあまりにも明らかです。(ローマ4:14)

塔では「自由人のキリスト教」を実践する名目で、「律法への隷属」の宗教モデルを強制するのですからムリが来ないわけがありません。(ガラテア4:21-31)
個人の自由を与えるはずのキリスト教の看板の下で束縛的ユダヤ教を実践しようとするのです。
『新しいぶどう酒を古い皮袋に入れる』とはこのことであり、やがて張り裂けぶどう酒はこぼれ出ることでしょう。その中身は実際、皮を破りつつあり、ぶどう酒はこぼれ始めているのを目にします。

どうして塔がこのようにユダヤ的であるかと問うなら、それはおそらく、指導層が規則を通して権威を振うことができ、「統治」が行い易いからでしょう。この点では「統治体」という言葉そのものにもキリスト教との齟齬が生じてしまっています。そこでは「サンヘドリン」以上の権威が主張されていて、まるで行政体のようですが、実際に塔では「神権統治」が行われているつもりであることをこの組織自ら明らかにしています。

ですが、どのように神がこの組織と契約関係を結んだりしたのでしょうか、いったい何時この組織に聖霊が注がれたのでしょうか。 それとも未だ地上に居る人々が、使徒や聖なる者たちを『抜きにして、王として支配を始めたのですか』。(コリ一4:8)

そして多くの場合、その神の同意もない無理な「統治」の犠牲者はもっぱら「懲らしめ」を受ける二世三世であるでしょう。
神との契約に在る訳も無い塔組織に従う親を持って、生まれながらにこの状況に置かれるとは、まったく、お気の毒というほかありません。それでは生まれで宗教が決まる旧来の諸宗教と同じく、個人の信仰の自由も尊厳もないということでは本来のキリスト教からは乖離しております。

また、「大人のための懲らしめのムチ」ともいうべき「排斥制度」に至っては、ユダヤ教徒が歴史上、再三為政者を悩ませたように、ユダヤ的な司法制度であり政治的に問題を呼び込むのは理の当然と云えましょう。
何故なら、その法治国家にふたつの司法制度が存在してしまい、ものみの塔と言う名の排他的独善性の壁に囲まれたゲットーの中で逃れ難いリンチ(私刑)を課してしまっているからであり、まさにキリスト自身もユダヤ教の偏狭な祭司長派の宗教上のリンチを受け、同意しかねるピラトゥスにその処刑を強要したのでありませんか。

おそらくは、今日の塔の内部にキリストが来られるとすれば、サンヘドリン同様に上層部は主を背教者として排斥に処すでしょう。聖霊の働きを否定し自分たちを正しいとすることにおいて、サンヘドリンにも統治体にも妥協は無いからです。
その通り!統治体は寛容なるエルサレムの使徒会議の継承ではなく、その偏狭さも定常性も権威指向もサンヘドリンの血統に属することを自ら示していないでしょうか。

現代では、そこに人権蹂躙も絡んできますが、これはまったく時代錯誤的であり、キリスト教のアガペーとの対極にあるハルマゲドンの滅びを利用した恐怖の従順、シナイ山が激震し、神の大音量の声に怯える必要のあった律法制度下の隷属にいまだ信徒を置こうとしているのです。(出埃20:19-20/ガラテア4:22-26/ヘブライ12:18-24)

その恐れを強調するために「サタンの攻撃がある」との妄想を信者に抱かせていますが
ライオンの吼える習性を敷衍し、組織という囲いの中から恐れさせて出させたところをサタンは襲うというのです。
ですが、どちらかと言えば、羊たちは「組織」という名の檻のなかで貴重な時間や財産をライオンに貪り食われている最中ではないのでしょうか。しかも、檻の外への恐怖に怯えさせてのことです。

ご本人がそれでもよいということであれば、その意志は尊重されるべきであり仕方も無いのですが、後になって「騙された」という認識に変わったところで、一体誰が責任をとることができ、生涯にわたるような大きな損失をどう補填できるのでしょう。「自己責任」という言葉の恐ろしさもそこにあります。そのうえ、伝道して回った以上、「騙された」とはいえ、その拡散に努めたことにおいて、加害側に組したという以外にありません。

ですから、長くこの組織の「指導」に従って来られた伝道者であるほどに、これらの点を認めることに大きな躊躇があるはずです。
これから転向することが、その実績を無にするほどの謙虚さを求めるからであり、それは倫理的に凡庸な人にはなかなかできないことでしょう。

詰る所、自分の身は自分で守らねばならず、その点で、「緊急感」を演壇から説くような方が、老後に備えていつのまにやら内緒でバリアフリーのマンションなど購入していたというお話などは、この組織の本質を弁えた本音と建て前の「使い分け」であり、教理とは別に本能的に賢いのでしょう。その延長線上に「楽園」もあれば、その方にとっては「間違いのない人生」なのかも知れませんが・・虚しくはないものでしょうか。

以上が、様々なブログから感じたところですが
塔のキリスト教は、教会の人々が云うような意味ではなく
その行う実際において、やはりキリスト教らしいとは言えません。

教会員はエホバの証人を「異端」また「カルト」と言うのでしょうけれども
実質的には、キリスト教にユダヤ教を持ち込んだ為に、信者を苦しめてしまったと言うべきでしょう。

キリスト教の場合、信仰は個人の価値観が懐かせるものであり、家族関係が「救い」となるのは幼児くらいです。(コリント第一7:14)
それを『むち棒でこれを打ちたたくなら,彼は死なない』というのは律法を守る人格形成の話であり、それでは却ってキリスト教らしく自分で考え行動する自発性の成長を失わせるばかりです。証人の親御さんたちは、愛するお子さんを「楽園に入れよう」として、却って神から遠ざけるという反対行動をとっていることになるのです。

そこで優等生や模範者の外見を作ることが親の責務になってしまい、信仰を育てることから大きく外れてしまいます。
キリスト教の信仰とは内面の自発的選択であって、律法の従順な遵守者を作る事とは180度異なります。(ガラテア4:22-26)
従って、キリスト教の規準は「その心を見る」神の視点であり、人の外見によらないのです。それはキリスト・イエス自身がエリートや模範者ではなく、罪人と共に居たところによく表れています。
たとえ、その信者たちが善行に富むとしても、外的規則ではなく、内面からの愛でなければ何の意味もありません。

その点で塔は、イエスが共に居た罪人たちは悪行を克服していた人々であることを強調しますが、聖書の記述は必ずしもそれを支持しておりません。

例えれば、ザアカイですが、新世界訳は『ゆすり取ったものは,四倍にして元に返しています』と訳します。(ルカ19:8)
ここを多くの翻訳は、突然に宿泊したキリストに感化された結果としてのザアカイの決意を含意して、『私がだまし取った物は、四倍にして返します。』としています。
新世界訳の訳し方は、ギリシア語に現在進行形が無かったことを巧みに突いた手加減というべきでしょう。

この翻訳でのザアカイであれば、イエスに会う以前に、収税人という悪辣非道な行いを自ら改めていたことになり、それを知っていたイエスが彼の客となったことになります。そこではキリストの感化が、彼にどう及んだのでしょうか。

それとも感化を与えたのは、イエスではなくて律法の方だったのでしょうか。では収税人や娼婦がシュナゴーグでモーセを聴けたのですか。そこで彼らは既に悔い改めて転向していたというのでしょうか。それなら立派なユダヤ教徒であり、それにも関わらずイエスの御許に罪人が集まったのは何故でしょう。 彼らは、キリストに集められたイスラエルの『失われた羊』ではなかったのでしょうか。

いいえ、このユダヤ社会から弾き出された人々は、メシアの奇跡の噂を聞いて、信仰を働かせたのであり、律法に基づいて行状の表面を自己努力で整えていたとは言えません。
当時の娼婦や収税人がユダヤ社会から締め出され、言わば「排斥」の状態にあったことはよく知られたことであり、一般人は彼らに近付かず、娼婦や収税人は会堂に出入りも許されず、話し相手といえば同業者ばかりであったと言われます。
しかし、イエスはその排斥された人々の間に身を置き、共に食事をしていたのですが、それに不平を鳴らしたのは誰だったでしょうか?

そこで塔は、あたかもパリサイ人のように「キリストのコミュニティに入る者は、以前には悪行を為す者であっても、悔い改めて行いを転向した者からイエスの許に来てよかったのであり、エホバの証人になる前には全員が同様の道徳的水準に達していなければならない」とやりたかったことでしょう。 ここで「排斥」という道徳的水準強制の役割が生じます。それを神の是認を得る条件にして、再び律法主義の奴隷に戻ろうとしているのです。

その動機は、パリサイ派のように自分たちだけは「取分けられた清い者」でありたいという、利己的な傲慢さであり、自分たちだけは既に神の是認に入っているという、惰弱な保身というべきで、神のご意志を探る大志も気概も無く、ただ神の怒りを怖れてはいないのでしょうか。そこに自発的で闊達なアガペーの光明があるでしょうか。

しかし、そのような「キリスト教」は、人間の倫理的実際とのバランスを崩すことでしょう。
その証拠が法廷で争われる様々な(倫理上の)問題となって現れてきていると見做すのは間違いでしょうか。
つまり、人間の倫理性への過剰な期待があり、その扱いのどこかに実際上の無理があるのです。これを強行すれば、罪ある皆が善人の仮面をかぶった異様な集まりとなり、相互監視の牢獄のようになることでしょう。

確かに、キリストの死後、ペンテコステを経てからは聖霊の注ぎが起こっていますので、その人々に一定の道徳水準が維持されるべきであったのは前述の通りです。ですから新約(ギリシア語)聖書にも道徳上の規制があるのはそのためであり、キリスト教徒が放埓に振る舞うことを思い留まらせるものは、神の是認を失うことやハルマゲドンの滅びではなく、「聖徒」の場合には『上への召し』を受け、神と人に仕える者となる「新しい契約」が関わっており、「信徒」の場合も神と人への愛からのものでなければ、その道徳性に意味がありません。

ですが、地を受け継ぎたいなら、「聖徒の道徳水準を守れ」とやってしまったなら、キリスト教の精紳との間に超え難い矛盾を孕むことになります。
「罪多き者、多くを愛す」の、涙でイエスの足を洗い、髪でそれを拭った女や、『健康な人に医者は必要でなく,病んでいる人に[必要]なのです』と語ったイエスの精紳は、そこで的確に理解も把握もされず、「自分は神の前に義人である」としたパリサイの弟子となるよう求めることになるでしょう。

これを間接的に助長しているのが「排斥制度」であり、会衆からの放逐はユダヤ律法時代から少しも変っていません。そこで弱者は追いやられ、脱落もするに違いなく、皆が役者のように模範者を装う証人独特の社会が当然に発生します。

ですが、涙でイエスの足を洗った女にせよ、ザアカイにせよ、イエスに会う以前から転向して模範的な行いをしていたのなら、なぜ周囲からなお悪評であったのでしょうか。

人には、道徳性について自分の努力ではどうにもならないこともあり、避けられないからこそ、キリストの犠牲を要したのではなかったのでしょうか。聖徒にあってさえ罪の許しがあることを新約聖書は述べていなかったでしょうか。(ヤコブ5:14-15/ヨハネ第一5:16-17)


このように内面を重要視せず、宣教時間や言動の模範性で信徒を判断し、より救いに近いような錯覚を懐かせたこと、また現にそうしていることがもはや精神疾患などの実害を招き、犯罪的レベルに達していることが、これらの方々の証言から明らかではありませんか。パウロも『義』は『業によらず』『無償の賜物』であると言っているではありませんか。
しかし、人類全体は、依然として神の裁きを前にしているのであり、そこでは誰もが「罪」あることにおいて何ら変わりはありません。

それを、親が子に模範的であって「楽園」に入って欲しいというのは、家族の自然な情の様でありながら、実は信仰を観られ査察される神の裁定を度外視したご利益信仰であって、まったく愛の実践ではありません。
それは意図せずに子をいたぶるばかりか、却って神への自発的信仰から遠ざけ、「もう聖書など見たくもない」と言わしめているのです。
なんという神への反対行動なのでしょうか。これは教理が聖書的か否かを超えて、実害を及ぼしているのです。

もはや、この組織の人格蹂躙の弊害は他の様々なところからも裁判沙汰となって噴出し始めており
ともあれ、自分を精神的にも経済的にも守るために行動を起こすべき時であることは傍目にも明白と云えましょう。
おそらくは統治体でさえそこに気付いていて、「賢く」も、また「思慮深く」も、信者の大量離脱に備え、縮小モードに入っているように見えてなりません。ならば「知らぬは被害者ばかり也」

律法の諭しを適用するのなら、せめて『賢くあって、我が心を喜ばせて』欲しいものです。(箴言27:11)
ユダヤ教のように「服従して救われよう」とする打算的賢さではなく、キリスト教らしく自発的に「信仰を働かせ」キリストの精紳に倣った無私な賢さの方が神の喜びとなるに違いありません。⇒「ユダヤ教とキリスト教の歴然たる違い

アメリカ発の比較的新しい19世紀頃にスタートしたような宗派にはこうした旧約的で圧政的なところに特徴がみられます。
このような、愛と自発心ではなく、恐れと従順の律法的キリスト教を、それもここまで有害なものを放置させてしまったのは、キリスト教に対する無知が原因しており、その責任を担うべきは指導者側ばかりではありません。キリスト教徒を自称しながら、聖書を充分に読まず、「楽園に入る」ことばかり考えて、神の真意を探ろうとはしなかったすべての信者も含まれると思えてなりません。結果的とはいえ、その組織体制を支持しなかったわけではないからです。

「覚醒」したばかりであれば被害者意識が勝っても致し方ないかも知れません。
ですが、信じ込んでいた間は、ものみの塔という体制の支持者であったことは明らかで、何らかの仕方で加害側に立った恐れは拭えません。


更には審理の現場で組織の言うなりになって排斥なりの裁きを下した方々は、裁かれた被害者以上にまことに不幸であったということになるでしょう。「裁き人」は、キリスト教徒としては的外れなユダヤ教的行動を取って、しかも要らぬ心痛を羊に与えたからです。
『悪を行って苦しみに遭うよりは、善を行って苦しむ方がよい』とは、却って被害者への慰めとなり得ます。

もし、上層部との事前の協議があって悪行のリストを周到に準備するなどした上で、はじめから排斥有りきの形ばかりの審理を下したのであれば、その審理する側に立った人々は更に不幸なことであると思えます。 キリスト教の精紳からはまったく離れてしまっており、その信仰は破綻しているようにしか見えないからです。

それこそ傍目にもカヤファが邪悪さのうちにイエスに不利な証人を寄せ集めた姿に重なるではありませんか。カヤファでさえ「民と崇拝を(ローマから)守る」というもっともらしい大義名分があったのです。それは善の美名の下に悪を行うことであり、排斥の審理のあらゆる協力者はイスカリオテのユダの役回りを不承不承に、あるいは喜んで演じたということになるでしょう。

さて、こうした「聖書に書いてあるからそうなのだ」式の浅はかな信仰はアメリカ由来のもので
つまり原理主義ですが、愚かなユダヤ的熱狂と紙一重の危うい「信仰」でしょう。
それは、キリスト教全般への教養の薄く、聖書の字面は追っても、その精神を学ばなかった人々の間で起こる疫病のような信仰というべきものでしょう。

そして、日本はキリスト教国でなかったこともあり、カルト的キリスト教をあまり知らず、防疫面に弱さがありましたから、「カルトには一切関係ありません」と叫びはしても、どこがどう危険かを理を立てて説明できるほどの人が教会を含めて稀にしか居ませんでした。 この点では、不条理な三位一体を教える旧態依然とした教会側が、教理の説得力においては塔に大敗していて防戦一方であったことも原因しているでしょう。こうしてキリスト教界は全体としても巨悪に塗れて参りました。

ともあれ、ものみの塔については、日本で「ユダヤ折衷キリスト教」への免疫が出来ていなかったのか、発生地アメリカの病気に多くの人が罹ってしまいました。総じて言えば、ものみの塔もエホバの証人も、アメリカ人のご都合主義で出来上がった新興宗教という以外にありません。
その疫病に冒され、今日も20万もの感染者を出してしまっております。

一度これに罹患すると、聖書を熟読して真正面から自分で考えるというワクチンを自ら頑なに断ってしまうのです。
その病状の原因のひとつに、「永遠の命」や「楽園」の喪失、また「排斥」と「忌避」への恐れがあるでしょう。また、暖かい交友を失う恐れもあるでしょう。そこはやはり「ご利益信仰」という以外ありません。

エホバの証人に関しては、この交友関係こそが現世的な(ほぼ唯一の)利益となっております。
ですから、そこから排除されるということが、どれほどの損失になるかは計り知れません。
そのゆえにも、ものみの塔は聖書の根拠を曖昧にしてでも、「排斥」の制度を存続させてきたのでしょう。民をコントロールし、信者の上に統治権を唱えるためにです。

しかし、この組織で得た交友関係は誰の所有に帰するものなのでしょう?塔という組織でしょうか。そう主張するとすれば、それは自然な人間性の発露である交友関係そのものに対する度外れな占有というべきでしょう。

しかし、今やそこから逃れ出たいと願ってやまない人々は少なくは無いことは特に二世、三世に明らかです。
せめて、自ら進んでそこに残りたい人々が残ればそれで十分ではないでしょうか。

「罪」ある人間にとって、その持てる「真理」とは絶対なものにはけっしてなりません。
それが証拠に、これまでの百年だけでも塔は何度、教理や見解を変更してきましたか?最初の理解と現在のものはどれほど異なっているのでしょうか。また、現役の方々はそれをどれほど知っているのでしょうか。

人間の教えである以上、変更は仕方がないとしても、それが唯一神の是認された組織の教えであるとしてきたところに、最大の欺騙があります。「自分は正しいから従え」と唱えて『信仰の主人』として君臨してきたからです。それは正しく聖霊の注がれ、不動の理解を教えた『奥義の家令』、パウロでさえ避けたことではありませんか。

人間の主張への信仰は、倫理上の個人の選択の域を出ることはもちろん、そこに救いがあるわけでも無いという現実に気付いて頂きたいものです。そこではすべての人が依然として「終末の裁き」を前にしているのでありまして、「救い」の可否は、律法制度のように人や組織への「従順」に依拠するものではけっしてありません。

「救い」こそは、終末でキリストの臨在の紛うことのない印である「聖霊の力や知恵」に信仰を表し、真実にその印を持つ、聖霊によって油そそがれた人々、発言を訂正することのない『聖なる者たち』を自発的に支持する行動を起こすことに依るのです。それを為させるのがまさに「信仰」と言えましょう。

そこでは「神だけが真理を持つ」ということを、別の言葉に置き換えるべきではありませんし、「再び奴隷となる」べきでもありません。(ローマ3:4/ガラテア4:5)
この点では、人はみな神を待たねばなりません。したがって、少なくともキリスト教では自派を絶対化することは是非とも避けるべきであり、終末の聖霊の声を待つ姿勢が求められるのです。 ⇒ヨブ記の結論

しかし、この派からの逃避や脱出を願う人々の前には様々な障碍が置かれていて、たいへん難しい状況にあることが多くのブログ記事から伝わって参ります。

ですが、証人や元証人、また忌避された方々を含め、聖書もキリスト教も、けっして皆さんを断罪してはいないことを得心し、心を安んじて頂きたいものです。
もちろん塔だけが神に用いられている見える組織などということはあり得ません。普通に間違いを犯す人間製の組織です。
もし、本当に神への信仰があるなら、今からでも個人として神を待つことは難しいことではないでしょう。なぜなら、神に用いられている組織など今日まで地上に絶えて久しいからなのです。

しかし、こうして書くばかりであることを非力に痛感する次第であります。


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エホバの証人の排斥制度の根拠が聖書にあるか?

2014.09.02 (Tue)
" Does the Bible have grounds for The Shunning of Jehovah's Witnesses? "
English translation of this article
 


所謂「覚醒」なさった方々のブログを幾つか読んでいて気付いたことがあります。

それはエホバの証人の中で行われている「排斥」と呼ばれる制度についてのことですが、聖書の神の命令であるとすることそのものについては余り問われていません。
人は何を信じようと自由であるべきことに異論はないのですが
しかし、誰であれ、実害が生じたところで責は問われるのも道理です。

「ものみの塔」の主張する、聖書に書かれているからという理由で、信者に科せられた一定の道徳規準から逸脱して言わば「罪」を犯したとされる人々に対する「挨拶」や「個人的会話や接触」を友人や家族でも断つという、「排斥」と呼ばれる特徴ある忌避制度が、塔そのものに疑念を懐き、あるいは既に塔から離れている状態にある元証人の方々にあっても、やはり忌避の根拠が聖書にあると捉えられていることを知りました。根底に横たわる問題は、自己義認の貪欲がもたらした「聖書絶対正義」の誤謬です。しかし、聖書に従えば真の崇拝となるというのは単純な妄想であり、厳密に従ったユダヤ指導者層はキリストを退け殺害しているのはこの誤謬に陥ることへの明白な警告と言えましょう。それが自己義認に走り、知識に優るものを退けた酬いです。

そこで、この根拠についてもう一度聖書を読み直して頂きたく思い、以下に元証人の方に書き送った書簡に書き足して掲載することに致しました。

近年「ものみの塔」では「排斥」ばかりでなく「断絶」の範囲も広げ、批判を避けるべく輸血を受けた信者を審理せずに断絶したことにしていますので、これは「忌避」の全体に関わるものです.。忌避が乱用されていることは、この教団の「真理」が強い情報統制を施さなければ存立できないほど、いよいよ不合理で弱まってきている表れというべきでしょう。この教団の「真理」というものは、いまや強権独裁国家の主張のように真実さのない「密室の真理」に程度を下げ続けており、この数年だけでも劣化のペースを上げていることが内外で実感されています。集会の内容は「状況倫理」のような生活道徳と神に好かれる方法論が大半を占めるようになりました。その中に在って、忌避を含む個人の倫理的な判断も、いよいよ社会通念や自然な情愛から遮断され、多くの訴訟が起こされる中で、理性的良識を欠いた苛烈さ、異様さが目立ってまいりました。

つまり、異なる思想信条を持つなら、本来あるべき家族、親族また一切の交友関係を与えないと脅しているのがこの宗教組織の実態であり、しかも、この宗教団体「ものみの塔」では、これが圧制下に有り勝ちな情報統制による信者確保の方便ではなく、神やキリストの意志からきている「愛ある懲らしめ」だとまでいうのですが、信者を見えない牢獄に突き入れ、互いの交友を断ち、家庭の自然な情愛を破壊する実害が、真に「人の負うべき正しい行い」と言えるでしょうか?また、その実態が聖書の教えがもたらしている「愛ある業」なのでしょうか? もし、そうでないとすれば、この「忌避」は神や聖書を偽り伝える悪魔的違背行為にはならないものでしょうか?

以下、長文になりますが、忌避行為について「ものみの塔」が主張する聖書の根拠を考慮しております。
あるいは閲覧のみなさまの一助になりますなら幸いに存じます。
また、ものみの塔からすれば、この筆者を「背教者」となじることは、まことに簡単なことでしょうけれども、理を立てて誤りを指摘なさることについてはどうなのでしょうか。



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多くの現役信徒さん方ばかりでなく、中には元信徒さん方までもが「排斥の制度は聖書の根拠がある」と思っていらっしゃるようです。

しかし、明確に申し上げまして
まったく、ありません。
これは痛々しいばかりの誤解です。

まず、道徳規準を定めるところから的外れになっているのです。
例えれば
コリント第一6:9-10
ここでは『淫行の者,偶像を礼拝する者,姦淫をする者,不自然な目的のために囲われた男,男どうしで寝る者, 盗む者,貪欲な者,大酒飲み,ののしる者,ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がない』とあります。(以下新世界訳)

これは誰に求められた道徳規準なのでしょうか? 「真のクリスチャン」と答えるとすれば相当な誤解があります。
その文脈を見るなら、それは『聖なる者たち』であり『神の霊をもって,義と宣せられた』状態に入っているところの、『新しい契約』に預かり、聖霊と賜物を受け、それによって清められ、すでに地上に在って仮の贖罪に入った人々であることは文脈の語る通りです。(ローマ8:29・33)

そこで、ここに記された道徳性の要求はキリストと共なる『兄弟たち』である『聖徒』に関するものであることはまったく明らかとなっています。
『聖徒』とは、『キリストの花嫁』となるために『上への召し』を受けた格別な人々を表します。彼らは『清い民』でありますから、神が聖であられるように『聖なる者』となることが当然に求められています。つまり、「対型的なレビ族」であり、他部族より一段高い清さが求められたのです。(ペテロ第一1:15/レヴィ21章)

ですから、イエスが『入ろうと努めながら、入れない者は多い』と言われたのは、新しい契約を通して『神の王国』『聖なる国民』を目指すべきであったイスラエル人に向けた言葉でありまして、それゆえにも『精力的に励む』ようにとも言われましたが、あらゆる信者を不安に陥らせ、何かの業を要求するために利用されるべき句ではありません。もちろん、贖罪を行う側と贖罪される側ほどに異なる人々を混同してよいものではありません。

他方で、娼婦や収税人など道徳的に行状の芳しくない人々は、キリストの当時、ユダヤ教の会堂に入ってモーセを聴くことが許されませんでした。他方、会堂に入り律法を学ぶことのできる人々には、無割礼の異邦人でも一定の道徳性が求められ、淫行や不品行の評判があったり、飲血や神殿会食など、当然ギリシア的な偶像崇拝に類いする事柄を行うようでは追放されてしまいます。

当時の律法を守っていると自負していたユダヤ教徒、特にパリサイ派にとっては律法が自分の義を示す道具であり、従えない『呪われた者たち』は彼らの清さや正義を示すための踏み台であったのです。
しかし、キリストは『医者を必要とするのは病人』であり『わたしは義人ではなく罪人を招くために来た』とも言われ、宗教教師らとは異なり、彼らが見放したイスラエルの失われた人々に寄り添われています。

イエスの弟子らは、後に聖霊の注ぎを受け、『新しい契約』に預かることによって浄めを受けていますから、『キリストの兄弟』の高みに挙げられた以上、行いを改め『聖なる行状』が求められたとしてもそれは理に適ったことでしょう。
では、ものみの塔の中の「油注がれたクリスチャン」の方々は、どんな根拠の「聖さ」に達しているのというのでしょうか。

聖霊の注ぎが起り、弟子らが聖なる者とされたのであればともかくも、聖なる道徳水準に達していることを戒律のようにして契約にない『大群衆』に相当する「信徒」に求めるとすれば、それは「聖徒」と「信徒」の区別が分からずにいることを指導者は露わにしていることになります。しかも、それは人間という『罪』ある現実を無視し、『業』の良し悪しでパリサイ人のように裁いているのです。

ものみの塔が唱導する「忌避」には、卑しめられた罪人たちを気遣うことで、業を誇る宗教エリートらと対立したキリストの慈愛ある精神は無く、正反対の『週二回断食をし、十分の一を納めて』『ほかの人々のようでない』ことを感謝しているパリサイ人の精神を表しています。これは言い逃れできない事実であり、キリストが『その実によって見分ける』と言われたように、そのキリスト教はどこかで間違えており、正反対の教えになってしまっているのです。

もちろん誰であれ悪行は避けられるべきですが、キリスト教の場合、それも他者へのアガペーから発するものでなければ意味がありません。純粋な愛は自発的なものであるでしょう。悪行を避けるにせよ、エホバの証人の場合には、楽園に入りたいだけの自己義認であって、忌避する対象を「罪人」にしてしまい、パリサイ人のように自分たちの救いの踏み台にしているではありませんか。もっともらしく、悪行者を反省させるなどと吹聴していますが、聖書をよく見てください。適用する相手がまるで違います。貴重なキリストの犠牲を人類に与えたほどの神が、どうして「エホバの証人の義の規準」で人を裁かなければならないのでしょう。

この点では、信者だけの天国と不信者の地獄を教えるならキリスト教界も容易にこの誤ちに落ち兼ねません。
自分の義を願って、聖書の中に何かの規則を見つけては、それを行っていることに安心したいのであり、救いの実感がいま欲しいばかりに律法の教条主義舞い戻ってしまいます。その一人よがりの動機に利己心以外に何があるでしょうか。

忌避の聖句については『交友をやめ,そのような人とは共に食事をすることさえしないように』というコリント第一の第五章ですが、先立つ文脈である四章には『わたしたちもあなた方と一緒に王として支配する』と明記されている以上、これは聖なる者への要求であり、確かに彼らは『新しい契約』を全うしなければなりません。(コリント第一4:8)
またヨハネ第二の手紙での『決して家に迎え入れてはなりませんし,あいさつのことばをかけてもなりません』とされる相手は、信仰の仲間ではなくキリストの肉体での地上の現れと死を認めないグノーシス派の分子を指していることを史料は示しています。(ヨハネ第二7-11)

晩年の使徒ヨハネは、エフェソスを中心に活動していたことが「教会史」などの資料に明らかですが、当時は神殿を失い、エルサレムも失ったユダヤ教に幻滅を感じた元ユダヤ教徒が、キリスト教も取り込んだかのように紛らわしいグノーシス派を興しており、その指導者のひとりケリントスにヨハネは面識があり、ヨハネがエフェソスの浴場でケリントスを目にすると、一目散に出て行った事例がスミュルナ出身のエイレナイオスによって伝えられております。(エイレナイオス;異端反駁1:28/3:3)

彼らは、イエスの「仮現説」を唱導し、キリストは苦難を受ける前にイエスの肉体を離れたと教えていました。『あいさつのことばをかけてもなりません』と同じ文脈が言うように、『すなわち,イエス・キリストが肉体で来られたことを告白しない者たちで』、ケリントスによれば、初めからキリストは霊者であって、ナザレのイエスの肉体を借りて憑依していたというのです。ヨハネは彼らについて『反キリスト』と呼ぶのです。(ヨハネ第二7)
イエスの胸元に寄り添い、受難と死をペテロやマリアと共に直に目撃した使徒ヨハネからすれば、これは到底認めるわけにゆかないに違いなく、そのような紛らわしい教えを唱える分子がエクレシアに入り込んで影響を与えることなど、けっして許せなかったことでしょう。そのうえケリントスの教えは千年楽園説でもあり、それでいてユダヤ的道徳性を称揚してもいるというほどに紛らわしいものであったとされます。つまり、ものみの塔の言う不道徳に陥った仲間を指しているのではなく、本格的な背教への警告であったのです。

これを『あいさつのことばをかける者は,その邪悪な業にあずかる』の部分を拾い上げ、パウロの別の意味の句と同じに扱うのは、自分たちの自己義認の踏み台とするために、信仰の仲間を犠牲にすることであり、「悪質な聖句の流用」であって、大半の証人が「聖書にあるからそうなのだ」と納得しているとすれば、エホバの証人とは聖書もきちんとは読んでおらず、キリスト教の歴史も知らずに、ひどく欺かれた人々の集まりというべきでしょう。聖句を質に取り、自分の「服従」によって自分の「義」を神に押し付けているその姿はまさしくヨブ記の意義を知らない蒙昧ではありませんか。 ⇒「ヨブ記の結論

こうして、本来は別のことを述べている聖句の数々を教団の都合に合わせて組み合わせるなら、どんなサタン的仕業をも人に行わせることができるのではありませんか。
それが証拠にイエスまで誘惑したサタンが聖句をどう使ったかを思い返してみてください。そうして、キリスト教徒らしからぬ個人攻撃の最たるものである陰険な忌避を、本来は愛情深く良識ある人々に強制させ、生き辛いこの世に在って寄り添う人々が、生きるための精神的、また実際的糧を備える家庭という、無条件に親密であるべき人間関係、神の創始した基本的制度まで破壊してきたのです。それでは「中傷者」(ディアボロス)の業ではありませんか?

この世の司法が、忌避行為を人権蹂躙として告発するのも当然でしょう。その行いの実が、何と言い繕いしようとも証明してしまっているのですから。
忌避行為の狙いと言えば、教団の暗部を信者に知らせず、人数を、また寄付金を減らさないところにあるでしょう。それだけその「闇」は深く、教団は、批判はおろか疑問にさえ答えられない程に脆くなっているのでしょう。そうであれば、今後も忌避は止めようがないでしょう。このような事を「罪の上塗り」というのではありませんか。

他方、彼らの言う「油そそがれたクリスチャン」という指導層の名称も、相当に聖書記述からは脱線しており、これも白日の下には曝せない程に欺瞞的で、それも彼らが「ギリシア語聖書」という部分を幾らか読み込めば、この教団の解釈者は、聖書を読んでいないのではないかと思わせる程に幼稚です。

聖書中に度々現れるこの『聖徒ら』、つまり『聖なる者たち』(ハギオイ)は、聖霊を注がれた人々を指すにも関わらず、「塔」 はこの道徳基準を契約にあるわけでもない人々に当てはめて、その道徳規準を重荷としたうえ、その一方では「油そそがれたクリスチャン」という聖書に存在しない名称に置き換えて『聖なる者』とは呼ばず、奇跡は古代に途絶えたと主張して、実際に聖霊を持つわけもない偽りの『聖なる者たち』を自分たちの中に存在させてきたのです。⇒ 「ものみの塔の奇跡の業への見方」

しかし、キリストの臨在する終末こそは、それまでにない強力で世界に知られるほどの奇跡を通し、『神の御腕が目覚める』ときとなることは、多くの預言から余りにも明らかなこととして聖書は再三明らかにしているのです。(イザヤ51:9/ミカ7:15-16)

しかし、統治体という『キリストの兄弟』を自認する人々は『聖なる者』に相応しいのでしょうか?いいえ、問題外です!
裁判には出頭せず、信者からの訴訟さえ「背教者のデマ」と言い訳を繰り返してはいないでしょうか?

彼らが、使徒4章を引用するかのように法廷命令に対し「人よりも神に従う」と言うのは、まったく的外れです。「二人の証人」を理由に性犯罪者の隠匿をするとは、どれほど使徒たちとは異なる「低次元の行い」を訴えられていることでしょうか。それは今日のような録音手段の無かった当時には有効な方法ではあったかもしれませんが、結果的に組織の指導者を守って信者の人権を貶めることの理由にしてしまっているではありませんか?(聖書に従えば何でも正しいわけではありません

他方で、「キリストの兄弟」また『聖なる者』について聖書は何と述べるでしょう。
この聖霊によって奇跡を行い、為政者らと命がけで対峙し、誰も論駁できない聖霊の言葉を語る『聖なる』人々は、仮のものとはいえ、人類に先立って贖罪され、既にアダム由来の「罪」を許されています。これは非常に大きな違いです。(ルカ21:12-15/エフェソス4:30)

しかし、「塔」はこの辺りの教理さえ明瞭に語りません。その理由は、「大群衆」なる大多数の信者と「油そそがれたクリスチャン」の違いを聖書の言う通りに大きなものであることを認めれば、大半の信者の不興を買うことを許して、人数を失うことになるからでしょう。エホバの証人が戸口から戸口へと人海戦術で行う世界宣教も、聖書は『聖霊』こそが短期間に行うことを述べてはいませんか。(マタイ10:18)

この注がれた『聖霊』が、『聖なる者たち』を聖別するものであることをペテロは
『父なる神の予知にしたがい,霊による聖化をもって,[また]従順な者となってイエス・キリストの血を振り掛けられる目的で選ばれた者たち』と呼びかけ(ペテロ第一1:2)

またパウロも
『捧げ物であるそれら諸国民が,聖霊によって神聖なものとされ,受け入れられるものとなる・・』ことを指摘します。(ローマ15:16)
ですから、コロサイ人への手紙の『あなたがたの肢体を死んだものとしなさい』の句は、誰にでも当てはまるものでは決してありません。その文脈をご覧ください『わたしたちの命であるキリストが現わされるとき,その時にあなた方もまた,彼と共に栄光のうちに現わされることになるのです。』というように、このそれに先立つ句が聖徒に当てはまる理由を、『地上にあるあなた方の肢体を』と新世界訳ですら書いているではありませんか。

これは即ち、天でキリストと共になる人々について、地上で肢体を持っている間に関する訓戒であって、『聖なる行状』を示すべき契約にある人々について述べているのです。(コロサイ3章)

新世界訳の日本語版では、その『肢体』が恰も聖徒以外の人々にも当てはまるかのような語順に訳されておりますが、この誰にでも当てはまるように歪曲された訓戒によって、この組織は度々に証人の皆さん各自の良心の咎めで縛り上げ、上層部からの命令に従い易くするための方策に用いられています。

つまり「あなたは、これが出来ているか?」という良心への責めによって、上層部が証人方々を精神的に操作しようとする方策のひとつです。
これは人間というものの実態を無視した横暴となり、自らを責めさいなむため、生活上に間断の無いストレスを招く元凶です。
まさしく、極端な独裁国家やカルトと呼ばれる宗教が、人々を抑圧の下に置くための典型的な施策であり、どれほど外見を取り繕うとも、キリスト教らしい慈愛などはありません。

それでは、キリストが示した「健康な者に医者はいらない」また「罪多き者、多くを愛す」という精神をはなれ、自分の業の義に慢心し、神の是認にあると思い込んだパリサイ人の罠にまんまと落ち込んでいるではありませんか。
排斥者への忌避は極めてパリサイ的で、弱き者を助るのではなく、ただ傲慢に排除し、いたぶっているのです。


ですが、聖徒たちに注がれた『聖霊』については
千年期以前では、まず『聖徒』についてのみ与えられるものです。
その聖化をもたらす『聖霊』とは、『わたしたちは,イエス・キリストの体がただ一度かぎりささげられたことによって,神聖なものとされている』と書かれたように、キリストの贖いを通して初めて聖徒たちに注がれたことにおいて、それまでにない「霊」でありました。(ヘブライ10:10)
それゆえヨハネは、キリストの公生涯の間でさえ、その栄光の時を迎えていないので『そのころ、まだ霊がなかった』と書いています。(ヨハネ7:39)

この格別の聖霊を受けた『聖なる者たち』に含まれることは、あのペンテコステの日まで存在したことのなかった、キリストと並ぶべきほどに高い『兄弟』の立場であり、パウロもヨハネもその立場を『神の子』と呼んでおります。(ローマ8:16/ヨハネ1:12)

これを、単に「主の晩餐」で無酵母パンとぶどう酒に与ったという行動だけで、この『新しい契約』に入って既に贖罪された『神の子』になったとするなら、それは聖霊の証しのない詐称であり、神の前に恐るべきことになるでしょう。(ローマ8:14)
そのような「油そそがれたクリスチャン」なら、神からの何の印もない誰でもがキリストの兄弟を名乗れます。

つまり、キリストの業を聖霊によって継承し、不可視のキリストの代弁者となるべき、極めて重く、価値ある職責について、聖霊の印もなく、発言の訂正を繰り返すただの人たちが、「聖霊が注がれたのは自分だ」と言っているのです。本当にそれで良いのでしょうか?
それこそはあらゆる僭称の内でも最も罪深い、キリストの『偽兄弟』になり兼ねません。
そこに「聖霊」と「裁き」が関わっているからです。

この「聖徒」はキリストと同じような聖霊の奇跡の業を行いますが、それは『あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。それは、彼らと諸国民に対する証しのためです。』とあるように

聖なる者らは、『終わりの日』に命がけの宣教を行うことを意味します。それこそが『[為政者らと]諸国民への証し』という人類全体を揺り動かす終末の世界宣教となるでしょう。(ヘブライ12:25-26)
(マタイ10:18とその周辺をもう一度よく確認してください)

ご存知のように、キリストの兄弟たちは、終りの世の人々を右と左に裁く媒介となる重要な働きを担いますが、人々が本当の聖なる者らではなくて『偽兄弟』に従うなら、それは「偽りの希望」でありまったく危険なことです。

確かに迫害されながらも、聖霊の言葉を語る本当の聖徒らにとっては、イエス言われた通り、『だれでも自分の苦しみの杭を受け入れてわたしのあとに従わない者は,わたしにふさわしく』ない理由が生じます。(マタイ10章)

しかし、『聖なる者』とされたとはいえ、地上に在る間は彼らも肉の罪ある身であることに変わりなく、聖徒同士での軋轢が生じることは避けられませんでしたから、イエスはその解決法を示して、まず当事者で話し、それから二人か三人の証人を求め、最後にエクレシアに話しても罪を認めない聖徒について、『あなたにとって,諸国民の者また収税人のような者としなさい。』としたのであり、コリント第一6章に見られるパウロの発言はこれを敷衍したものというべきでしょう。(コリ一6:1-3)

そこでの聖徒同士の問題は、こうして地上で処理され、『何であれあなた方が地上で縛るものは天において縛られたもの』また『二人か三人がわたしの名において共に集まっているところには,わたしもその中にいる』とは、聖徒同士の裁きにキリストが監臨されることを示したものであることは文脈から明らかです。
つまり、『聖なる者』に相応しくない行いを改めない者は、その「聖徒」としての立場が天でも解かれるということに他なりません。(マタイ18:15-20/コリ一 5:4)

この「二人か三人」の句を根拠に、争い合う宗派がそれぞれ「自分たちの集まりにイエス様が臨在してくださる」と言うとすれば、まことに愚かしくも厚顔不遜な誤謬というほかありませんが、ものみの塔もまたそのように主張する宗派のひとつに過ぎません。『聖なる者』と『新しい契約』を理解してはいないからでしょう。

やはり、聖徒の道徳規準は高く要求されるとしても当然のことです。
何故なら、彼らは『聖なる』状態を仮承認されており、そのキリストと兄弟として結ばれた深い絆に感謝するなら、道徳的であるよう努めるはずであり、『罪を犯し続ける』ことなどアガペーが許さないからなのです。(ヨハネ第一3:3.9)

そればかりでなく、キリストと同じ生き方が求められ、殉教の死をも覚悟しなければなりません。
この意味でも、まさしく聖徒はキリストの兄弟と言えます。
しかし、塔内部で「油そそがれたクリスチャン」を称する人々に、こうした「聖徒」の働きを見ることがあるでしょうか?

むしろ、人を集めては「地を受け継ぐ」ことを請負い、誉めそやして肉体労働による「組織勧誘の宣教」のための膨大な時間と種々の犠牲を、聖霊も無い一般信者に無理に求めてきたというのがものみの塔の指導者らの覆うべくもない実態ではありませんか。
そこで奪われた多くの人々の様々な犠牲の数々はそれぞれ天文学的数値に上っていることでしょう。

塔が本来の『聖徒』、つまり『聖なる者』(ハギオス)と聖書に存在する用語で語られるべきものを、「油そそがれたクリスチャン」と曖昧な言葉でわざわざ言い換えてきた背景には、上記の聖徒の類い稀な立場と、聖霊を注がれるということが如何に大きな業を成し遂げ、如何に危険をも顧みずに世界の注目を浴びる中で為政者らの前に立ち『抵抗することも論ばくすることもできない』ほどの言葉を宣告するという、瞠目すべき「聖霊」の威力溢れる働きから一般信者の目を逸らそうとの意図的なごまかしが透けて見えます。(ルカ21:15)

なぜなら、「天的級」の存在を解明し、「副次的な王なる祭司」を明らかした人々が、『聖徒』という格別な立場を表す聖書の言葉に気付かない道理も訳もないからです。聖書を読んでいるならば、つまりは『忠実で賢い家令』と自称しつつ、マタイ10:17-20などの聖句への説明を怠ってきたのは作為的であり、「悪賢くも不忠実」であったというべきではないのでしょうか。

さて、そこで「排斥」制度の規準のひとつとされているコリント第一6:9-10に目を向けると、これが『神の王国を受け継がない』と確かに書かれています。 ですが、これは本来、『聖なる者』について述べられているもので、所謂「排斥」があるにせよ、それは聖徒の資格に関わる裁定であり、地上での『聖なる行状と敬虔な専心』を示さないなら、聖徒の身分の『外衣』を失うことになり、エクレシア(召し出された者たち)から出されてしまうということです。

また、「その邪悪な人をあなた方の中から除きなさい」という申命記17:7を引用したパウロのコリント第一5:13にしても、もともとイスラエルの会衆に適用された律法の求めでありますから、やはりこれは選ばれた民の集まりに求められる事柄であって、『神の選び』の外にある人々に一律に課すとすれば、『聖』であるべきことを『聖なる者』でないすべての人々に重い頸木を負わせることになってしまいます。

聖徒でない他の大多数の人々の贖罪は、今日ではなく、千年期のことであり、そのための『神の王国』であるはずです。
まして、行状で救われるのなら、それは律法を守るユダヤ教ではありませんか。
キリストの王国は、世の人々の贖罪が行われる場であり、贖罪された人が入るわけもありません。
「終りの日」に人々に求められるのは「信仰」であって「業」や「義」ではないのです。

聖霊の奇跡を行う「聖徒」の存在していない現在に「排斥」を行うことは、『神の王国』の意義も働きをも理解してはいないことを露呈することにほかなりません。「排斥」は空しく意味のない人間の自己満足であって、愚かしい妄想の産物、幼児の戯れのようなものでしかありません。どうしてこんな虚構で人々が傷つき、支え合うべき家庭が分裂してよいでしょうか。


つまり、『最後まで信仰を守り通し』『キリストの日に至るまできずなく,他の人をつまずかせることなく,また,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光また賛美となる』ことは『聖なる人々』に求められているのです。(テモテ第二4:7/フィリピ1:12)ですが、果たして、統治体にそのような姿が見えるでしょうか。
しかし、これこそが『王なる祭司、聖なる国民』の存在する目的であることを聖書は一貫して述べているのです。(ペテロ第一2:9/エフェソス1:13-14)

塔はこの『神の王国を受け継がない』という言葉を「王国の地上の領域を」と付け加えて、所謂「大群衆」(一般の信徒)にまでその適用を広げました。
また、律法を持ち出して『同一の司法上の定めがあなた方に当てはめられる。外人居留者もその地で生まれた者と同じにされるべきである。』(レヴィ24:22)を根拠に聖徒と信徒の扱いの区別を取り払う理由としています。

ですが、律法規定下における『同一の定め』が適用されるという記述については、そこでの割礼を受けた『外人居留者』は、イスラエルの会衆(カハル)に加えられるのであり、それが指し示す対型は『大群衆』ではなく、『神のイスラエル』に『接木されて』含まれ『聖なる者』となった異邦人を指すのであって、塔においては、この適用までも取り違えている姿も見えます。(ローマ11章)

しかし、単に気付かずにいるだけなのでしょうか?私には聖書をここまで理解している中枢の人々が、このように単純な思い違いをすることが不自然に見えてなりません。もし、指導層が人々を拘束し支配するために聖徒への道徳規準を利用しているのであれば、これは忌々しい人権蹂躙というべきでしょう。それは神も意図しないところで、分派を助長するでもなく、異なる教えを説くでもない温順な人々の弱点に付け込む圧制でしょう。

つまり、指導層が仮に「油そそがれたクリスチャン」であったとしても、『大群衆』という人々の扱いを間違えているというべきで、その原因といえば、彼らの指導層は本当には「油注がれて」はいないばかりか、サタンのように「崇められたい」願望を宿しているからではないのですか?この団体の実相を見てください。『自分の理解に頼るな』の句を誤用して、より特権あるものが判断を許されるのであって、自己に信仰を他人に任せる結果、信者は重要な決定を自分では下せません。

そればかりか、信じて従ってきた多くの善良な人々の心も財産も搾取するために、統治体は偽の「油注ぎ」や『忠実で思慮深い奴隷』を自称してもいるのです。
これが神の御前に無傷で済む所業でしょうか?わたしには到底咎無しには見えません。

そのうえ、排斥制度は今日のように世界各地からこの組織への訴訟や醜聞が相次ぐなかで、それを知った人々に制裁を加え、また「永遠の命」を質に取ったかのように脅すという、およそキリスト教であるなら考えられないほどの邪悪な隠蔽工作が専らとなってしまっていますが、それでも信じた人々は「エホバと称する神」を恐れてすくみ上がってしまうのです。

これは信仰心の善良さを騙ったサタンの業というべきでしょう。いまや、統治体の「聖でもない」本質を悟った人々から信者を隔離し、組織を保つための方策として忌避が濫用される悪循環にはまってしまいました。

加えて、品行方正である外見を作ることで本当に全知全能の神に是認されるというのでしょうか?その「組織が清い」と言えるのでしょうか? ならば、その神とは人間のように狭量で、とても御子を犠牲になさった方には思えませんし、その「清さ」とは作り上げた仮面のようなもので社会一般の「善人」程度のものではありませんか。それを塔は『義』の演出に使用していますが、そこでイエス・キリストの愛と憐れみはパリサイの偽善の仮面にすり替えられています。

やはり、旧態依然としたキリスト教から三位一体や地獄を濾し取った「ものみの塔」とはいえ、19世紀のアメリカ由来の「クリスチャン」という凡庸さからは未だ抜け出してはおらず、組織中枢の独善性や圧制からすれば、今後の改善も遠い彼方の事柄で、まず期待できるところではないようです。

加えて、統治体を批判する不活発な信者の家族も避けるようにと、忌避の乱発という理不尽の上塗りを始めたとのことですが、ならば、批判に耳を傾け自らを改善する貴重な声さえ退け始めたのであり、批判されないよう自重し努めるという責任をも負わない、恰も我儘な幼児のごとくに意思表示をしたと言うべきで、この宗派の将来はますます暗澹たるものとなっています。

それが証拠に、組織から卑しめられた人々の半分は、より寛容な一般社会に友を見出し、受け入れ保護してくれる仲間を得ているのです。
結局のところ、この組織を清く保つというよりは、神の前に、自分たちは一定の道徳律を保ったから是認しろと言っているのであり、その実、神が御子を人類の犠牲としたまでに人々の罪を許されようとしたことは等閑に付され、そのうえで、自分たちのキリスト教的でない高慢さが、特権意識や世間に憐れみを垂れるような宣教を行わせていることに気付かないのです。

それも道徳規準ばかりでなく、聖霊の奇跡を通して行われるべき宣教までも、「ご家庭で役立つ情報を聖書から」などと、王国にも聖霊にも関わりの無い組織拡張のための宣伝を「命を救う業」と称して強制してきました。

しかしそれは、キリスト教の宣教でもなければ、イエスの宣教の主題であった「神の王国」を、イエスがほとんど語られなかった「楽園」と差し替え、それをご利益信仰として宣伝し、組織への従順という代償を払わせるという、欲と欲の相関関係の構築となってきたのです。

ですから『今日,全地の諸会衆に交わる兄弟姉妹の大多数は,神のみ前での是認された立場を個人的に維持することにより,会衆の霊的な清さを保つよう懸命に努めています。』などの出版物にある文言は、決定的な矛盾を露呈しています。(塔97.8/15p29)

考えてもみて下さい。神との契約になく贖罪されてもいない只の人が、如何に『神のみ前での是認された立場』に立ち得るのでしょうか、またその立場を『個人的に維持する』ことができるのですか。神からの是認を得ることが本人の努力にかかっているのでしょうか。 それでは「アダムからの罪」を認めず、律法を守って義を追求するユダヤ教と同じではありませんか。それはキリストの犠牲の適用される条件として「信仰」ではなく「従順」を求めるという根本的誤謬ではないのですか。

もちろんアガペーを抱くキリスト教徒にとって、悪行は避けるべきものであります。(ローマ13:10)
しかし、「キリストの犠牲に与るには個人の道徳規準を守ることが必要である」としてしまうなら、「信仰」ではなく「従順」が人を救うと言っているのであり、それは愛という原動力を欠いていて、自己救済的で、まったくキリストの教えではありません。動機が正反対なのです。

そのうえ「塔」組織の排斥制度は「組織を清く保つ」ことに成功しては来なかったと言うべきでしょう。
といいますのも、幼児への性的虐待の罪に対して有効に機能しないばかりか、組織そのものが法廷から審問され、今や極めて不利な状況に置かれていることは隠しようもないように見えるからです。それも一件や二件の訴えでは済みそうにないことも、組織中枢の人々こそが慄きつつ知り尽くしていることでしょう。

今や、「悪行を行う信者から仲間を守る」という、元来唱えられてきた「忌避」の効果はまったく歪められ、極端な独裁国家のような「批判の粛清」に変質し、まったく統治体の不義を隠す「公開処刑」のような手段として機能するようになっています。
この変化は、一般の証人の見えないところで画策され、信仰心を利用して静かに変更されてきたところは巧妙であり、なお多くの信者数を保っているのは、情報を遮断するためのものとなった「忌避制度」の働きなくして考えられません。

このような体たらくの宗派でありながら、一斉の大量離脱が起きない理由の大きな部分を「排斥制度」が担っているのはもはや明白なことです。つまり、信者同士のつながりを断つという脅しによって、個人が自由に宗教を探求することも、この組織から離れることさえできないように縛る縄目となっており、組織の急速な崩壊はこの怖れで何とか防がれていることでしょう。

聖句を悪用した排斥は、凶悪な独裁国家が体制維持を図る公開処刑や情報統制に相当する役割を担っており、今や統治体を頂点とするものみの塔の秩序が、ドミノ倒しのような分断の危機に瀕していることの象徴でしょう。


現時点において明るみで出てきたこれらの事柄が意味するものは、「本当に審理されるべきは誰だったのか」ということです。世の権威は信仰の自由を認めています。しかし、悪辣な行為の実害は許されないことを統治体も信者も肝に命じるべきでしょう。

聖書の解釈を間違えることは誰にでもあることです。そこを謙虚に認めればよいのですが
真の聖霊なく「自分は神に是認されていて、唯一正しい」と言った途端に、誰であれその者は「紛れも無い偽り者」と成り果てるのです。 それこそは『新しい契約』に預かり、真に聖霊を受けた人だけが、聖書のように無謬の言葉を語って初めて言い得るものだからです。

キリストが進んで「神の義」を与えない者に正義はありません。
それ以外は皆、「人の義」を唱えるばかりであり、その証拠に教えで訂正を繰り返さざるを得ません。
どれほど叡智を誇ろうとも、人の実態とはそのようなものではありませんか。

それですから、「自分こそが正しく、唯一神に是認されている」という者こそが、それ以上ない偽り者なのです。
これを無視した主張は、時の経過によって、ますますその取り繕いがあばかれてゆくことになるでしょう。

随所からの問題の噴出を「いつかエホバが正される」というのは、近年は実質的に限界が見えています。
エホバの証人は何を感じ、何を考えているにせよ、事態は制御不能の領域に入っているのですが、「どうにかしてくれるに違いない」という信仰だけが残ることになるとすれば、どうして神がその義務を負うべきでしょうか?

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上記のような理解がどこであれ広められ普遍化してゆくなら、逃れ出る人々から障碍の幾らかでも減るように思えます。



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