FC2ブログ

10. 聖書の神の名前は人を救う

2014.08.30 (Sat)
聖書の神の名前は人を救う


世界には様々な宗教があり、ほとんどの神には名前があります。
日本の神社にもそれぞれ神があり、伊勢神宮の内宮は「天照大御神」が祀られています。
中国の各地には廟(ミャオ)があり、三国志の関羽のような英雄も神となって祀られています。
インドのヒンズー教の神々は数知れませんが、ビシュヌー神やシバ神やスーリア神の神殿が多いでしょう。
ヒンズー教にはあれほど多くの神が居ても、基本的には一神教であるとのことです。
「アッラー」は、イスラームの神の固有名ではなく、絶対的な神と意味するとのことですが、元はアラビア人の神々の中の主神であったと言われます。
ギリシア神話の主神はゼウスですが、これはローマ帝国のユピテルと同一視され、キリストの時代にもローマ帝国各地にその神殿が存在していました。

そして、旧約聖書の舞台となった古代の土地にも様々な神々が崇拝されていました。
太陽神ラーや、アモンなど古来多様な神々の祀られていたエジプトは、奇跡を次々に行う預言者モーセの神と対決しなければなりませんでした。またパレスティナにはバアルやモレクなどの偶像が崇敬の対象となっていました。
そこではモーセの神も自らを名乗り、その名前はヘブライ文字で[יהוה]と旧約聖書に記録されています。
ですが、この四文字が何と読まれるかを知る人は、今日までにユダヤ人の間でも居なくなってしまいました。
ですから人類は、聖書という世界で最も頒布されている経典の神の名が何というのかを忘れてしまっているのです。

もちろん、かつてのイスラエル人は自分たちの神の名を知らされており、この四つの子音を表す文字の間に母音を補って読んでいました。しかし、イスラエル人が律法契約をないがしろにいたことの酬いとして、この国民がバビロンに流刑に処された後、彼らが「ユダヤ人」と呼ばれるようになって後の時代から、この神との契約の民は、律法を守る決意を強める過程で、神の名の扱いも変化し始めます。

与えられた律法に従おうとすることは良かったのですが、やがて、逆の極端に傾き始めてしまいます。
つまり、律法よりも厳しい掟を定めることで、律法を間違いなく守ろうとする人々が現れ、様々な規則を付け加えて行きました。
確かに旧約聖書には、神の崇拝される場所、また神殿に、「神は自らの名を置く」と言われていましたが、ユダヤの人々は神の名前の神聖さを汚すまいとして、エルサレムの神殿の中だけ、それも「贖罪の日」(しょくざいのひ)と呼ばれる一年で一日だけ許されるものとしてしまったのでした。(申命記12:5/列王第二21:4)

ですから、キリストが現れた時代のユダヤ人にとって、神殿の境内以外の場所で神の名前を発音することは禁じられていて、ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、神の名を普段の場所で唱えることを「恐るべきこと」としています。またユダヤ人哲学者フィロンも異邦人に向けて、神は奥深い存在なのでその名は口にすべきでないと説明しています。

ユダヤ教は民族中心の宗教でした。ユダヤ人でないと神殿の境内の中心にある聖なる所に入ることは許されませんでしたから、異邦人はその名が発音されるのを聴くことができませんでした。
しかし、参拝したユダヤ教徒はその神の名を知っていましたし、毎年神殿域でその名を聴くことができました。

その後、到来を預言されていた偉大な預言者イエス・キリストがユダヤ人の間に現れます。
しかし、ユダヤ教の指導層はこのイエスを退けて処刑させてしまいました。

それから一世代を過ぎない内にユダヤにはローマ軍によって恐ろしい滅びが訪れることになりました。
エルサレムも神殿も徹底的に破壊されてしまい、やがてユダヤ人は流浪の民となってゆきます。
新約聖書は、それがキリストへの不信仰の酬いであることを告げます。

それ以来およそ二千年、律法で定められた神殿での神への崇拝は行えなくなってしまい、21世紀の今日まで神殿は失われたままなので、神の名を発音する機会が地上からまったく失われてしまって久しいのです。

ですから、ユダヤ人が神の名を知っていたのは、神殿のあったキリストの世代を最後としていたことでしょう。
それは、ユダヤ人から神の是認や恩寵が去ったことを象徴する事態の進展でありました。

そこで神の名はヘブライ文字の四つ[יהוה]だけが聖書に残されています。
これはギリシア語で「テトラグラマトン」(四文字の意)とも呼ばれています。

このヘブライ文字四つをローマ字に直すと「YHWH」となります。
ユダヤ教徒にとって「聖書」とは、キリスト教徒が「旧約聖書」と呼ぶ部分だけですが、そのヘブライ語の(旧約)聖書の中にはこのテトラグラマトンが7000回近くも現れますます。

では、ユダヤ教徒が聖書を読んでいてその文字のところまで来たときに、その神の名をどうするのでしょうか。
彼らは、その四文字が読めませんし、たとえ読めても畏れ多くて読まないでしょう。そこで、その四文字を「アドナーイ」(主)、または「エロヒーム」(神)と読み代えるのです。

今日の日本語の聖書では、日本聖書協会の口語訳や新共同訳などの旧約聖書では、全部の箇所を「主」としてしまっていて判別できないのですが、新改訳聖書ではヘブライ語の本文にテトラグラマトンの書かれている場所では【主】とされ、単なる「主」より太い文字で区別され、その存在を教えています。

このようにテトラグラマトンを単に「主」と呼ぶ習慣は、キリスト到来の前、西暦前1~2世紀には確立されています。
というのも旧約のギリシア語に訳された聖書に神の名が現れなくなるのです。
ヘブライ語が出来ない外地のユダヤ人の便宜を図ってギリシア語の聖書をユダヤ人が作りましたが、それは「セプチュアギンタ」(70人訳)と呼ばれています。(古くは72人訳と呼ばれましたが、第五世紀までに省略されて70人とされています)

このギリシア語の翻訳聖書が出来上がった時代が、キリストが登場する二百年くらい前ですが、キリストの現れの近づいた後代の「セプチュアギンタ」は、ほとんど神の名前の四文字がユダヤ人の習慣に合わせてギリシア語の「キュリオス」(主)、また「スェオス」(神)と置き換えられ、ごく古い72人訳の写本にはその名だけヘブライ語のままに在ったとされますが、ほとんど写本には出てきません。

というのも、ギリシア語を話すユダヤ教徒が、テトラグラマトンがギリシア文字での[ΠΙΠΙ](PIPI)に似ているので、それを「ピピ」と読んでしまう流行が生じるのを避けるという意味もあったとのことです。

古くからこの名[יהוה]を「エホヴァ」と読む習慣もあります。これは、10世紀頃にユダヤ教の学者たちが、この四文字を「アドナーイ」と読ませようとルビをふったものをそのまま当てはめて読むと「イェフワー」となりますが、「エホヴァ」はそれに由来しています。これはヨーロッパで中世から存在して来ましたが、本来はルビの誤読から発祥したものです。
また「ヤハウェ」と読むことを推奨されることがあるかも知れませんが、これはドイツのチュービンゲン派の学者の提唱から19世紀に始まったもので、これが確かなものかどうかもやはり分かりません。

神の名を巡る現在のこうした現状は、ユダヤ人が神の名を神聖視して大切なものにしようとした意図から始まったことなのですが、キリストの死後の時代に彼らには予想外の「神殿破壊」という事態が起こり、結果的に地上から神の名を知る人をまったく絶えさせることになってしまったのでした。

一方で、初期のキリスト教は、ユダヤ人の使徒たちを中心に宣教され世界に広がって行きました。彼らにとって最も重要であったことは、彼らが信仰を持ったキリストが、イエスという、ナザレ村から来られた方であることを世界に広く知らせることにありました。 その活動は実を結び、当時パレスティナ以外ではまったく無名であったイエスの名も、今日これ以上なく有名になっています。

いまでこそ、常識としてキリストと言えばイエスなのですが、初期キリスト教の時代にイエスがキリストであることが常識であったはずもありません。使徒や初代の弟子たちの前にはイエスの名を宣明すべき広大な世界が目の前にあったのです。(使徒4:10-12/19:17)

また、初期の弟子の中心を占めたユダヤ人は神殿域以外で神の名を発音することは考えられないことでしたから、ユダヤ人の使徒たちが信者になった諸国の人々に知らせるべき名はイエスであり、[יהוה]についてはユダヤ人の習慣からして発音は避けたことでしょう。もし、発音していれば、その件でユダヤ教徒と激しい争いになったでしょうが、その点での争論の記述を聖書に見ることはありません。

また、新約聖書の筆者たちはセプチュアギンタから旧約を引用しており、それは当時のテトラグラマトンの無いものだったでしょう。なぜなら、もし引用文の中に神の名があれば、それを諸国民のキリスト教徒に説明していたに違いないのです。しかし、そのような場面を新約聖書に見つけることもできませんし、まるで異教徒ばかりの群集を相手にしたときにさえ、使徒たちが神の名を宣明している場面は聖書にないのです。

加えて、新約聖書の手紙類の最初の挨拶文では、「神とキリスト」が専ら用いられています。そこでもし神の名が発音されていたのであれば、母音字を持つギリシア語で神の名が書かれていたことでしょう。しかし、そのような習慣は西暦前から行われていなかったことを写本が物語っています。もし、ギリシア語の聖書の写本で一か所ですら母音を補った神の名の書かれた箇所が見つかっていれば、今日神の名の発音は間違いなく知られていたでしょう。
(聖書以外では幾つか伝えられていますが母音が一致しません)

ですから、初期キリスト教徒の時代から、常に強調されてきたのは専らキリストとしてのイエスの名であり、彼らにはその大きな必要がありました。(ヨハネ5:23/使徒4:10/5:28)
なぜなら、世界各地に神の名を知るユダヤ教徒がいる環境の中で、パレスティナにイエスというキリストが現れたことを宣べ伝えることは、なによりもキリスト教がユダヤ教から脱皮して、「律法」を守る古い宗教から、「愛」の宗教へと昇華されるべき重要な要素であったことはまず間違いがないことだからです。

ではこうして、イエス・キリストの現れの後に神の名の発音が世界から失われていったことは、神が自らの名を保存できなかったという無力さの証明でしょうか。
それとも、三位一体を信じる人々に都合よく、キリストが神であるから、神の名は「主」ということで良いのでしょうか。
あるいは、神は自らの名の発音を地上から取り去ることを意図されていたのでしょうか。

この点で、キリスト教界は全般として、聖書を翻訳するにあたり、神の固有名を旧約聖書からも無くしてきました。その狙いは、キリストを神に祭り上げる三位一体説を助けることにあるでしょう。
つまり旧約聖書の創造神の固有名を「主」と普通名詞に置き換え、新約聖書のキリストも「主」とすることで、双方を判別し辛くさせて、神[יהוה]とキリストを同じ神に錯覚させようとの意図です。

その一方で、旧約聖書の詩編の中では、「エルサレムで神の名が告げ知らされる」ことが記されています。しかし、その詩編が書かれた当時にはイスラエル人も周囲の諸国民も、当然に神の名[יהוה]が何と読まれるかを知っていたに違いないのです。その時代には人々はどこでも自由に神の名を唱え、近隣の諸国民までがイスラエルの神の名を知っていたのです。
では、なぜその状況の中で「エルサレムで神の名が告げ知らされる」と書かれる必要があったのでしょうか。

これについては、詩編には預言の言葉を含まれることが多いことを考える必要があります。
この第102篇の『神の名がエルサレムで告げ知らされる*』という言葉が、わたしたちのなお将来のことである可能性を否定しきれるものではありません。*([レサフェル]「宣告される」)

また、イエスは神の名を弟子たちに知らせたことが新約聖書に書かれてあり、しかも、その言葉はイエスが神に祈っている場面のものですから、イエスが神であろうはずもありません。
そこでイエスはこう祈っています。『わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました*。』(ヨハネ17:6 [新改訳])*([エファネロー]「明確に示す」)

また、使徒ペテロは旧約聖書を引用して、この世の終末の裁きでは『主(旧約ではYHWH)の名を呼び求めるものは救われる』と言っていますし、その旧約聖書では『その名を呼び求める者は皆、救い出され、その名を求めない諸国民には怒りが臨む』となっています。(使徒2:21/ヨエル2:32/詩篇79)
したがって、神の名を呼び求めることが、人々の救いに関わる重要な事柄であることが新旧の聖書の教えるところとなっているのです。

ですが、今日その名を知る人が居ないということは、誰も救われないということになるのでしょうか。
しかし、それでは終末の「裁き」の意味も「救い」の意味もありません。

そうなると、神はいつか再び自らの名を知らせる必要があります。
そこで思い起こされるのが、神殿は『神がその名を置くところ』であったことと、新約聖書でのキリストと共に神殿を構成することになる特別な弟子たちの存在です。(ペテロ第一2:4-5/エフェソス2:21-22)

思い返せば、神の名YHWH[יהוה]は律法契約の仲介者モーセに知らされ、ずっと律法契約と共に存在して来ました。モーセはエジプトの王、ファラオの前で神YHWHを代弁する預言者となったのです。
そしてキリストは「新しい契約」の仲介者であり、神の名を弟子たちに知らせたことを祈りの中で語っていました。
ですから、初期のキリストの弟子たちは神の名を知っていたことでしょう。つまり、神との契約の当事者が、契約の相手の名前を知らないということは考えられないからです。

そしてキリストと共になる弟子たちは、信者の中でも特別な『聖霊』を受けた人々で、彼らはその聖霊の指導を受けてイエスの死後であったにも関わらず新約聖書を著し、キリスト教を完成させています。
それはキリストが『真理の聖霊が来る時に、それがあなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。』と予告していたようにです。

イエスが地上から去って百年ほどの間には、このような聖霊を受けた人々が居たことを示す幾つもの歴史文献が存在していますが、やがて、これらの人々が少なくなり、居なくなってしまったことも同様に知られています。

それから千八百年ほどが経過しましたが、その間に初期のキリスト教徒のような聖霊を受けた奇跡を行う人は歴史上に現れません。しかし、聖書は一貫して「終末」という時代に注意を促しています。
つまり、キリストが再び来られ、この世が裁かれる時期のことです。
新約聖書は、「終末」に政治家たちの前で堂々とファラオの前のモーセのように、聖霊によって話すことになる人々の存在を告げています。しかし、そのような人々を歴史は未だに示していません。(マタイ10:18)

もちろん、聖霊が教えるのであれば、神の名を再び知らされるとしても何の不思議があるでしょうか。
その人々こそが『御名のための民』と呼ばれるべきでしょう。ですから、神の名の発音が失われたことは損失ではなく、その特別な人々を見分ける印を与える意義をもつことになります。

神の名[יהוה]が人類に読めないということは、今日神との契約に預かる人が居ないことを表していると言えます。ですから、神の名を誤読や推測に由来する別の名「エホヴァ」や「ヤハウェ」に置き換える必要はないでしょう。
というのも、それらは人を救う名とはならないでしょうし、実は神の名の省略形の発音だけはヘブライ語に残されているのです。それは「ヤハ」[יה]と呼ばれます。
「ハレルヤ」(神を讃えよ)の最後の「ヤ」の中にこの「ヤハ」が含まれていますから、これはキリスト教徒によってもずっと用いられてきたもので、今日のわたしたちが神の名[יהוה]を古来からの「ヤハ」と略式発音することだけは許されてきたのです。

神の名[יהוה]がこうして秘められたことは、終末の救いに備えて神聖さの内に秘めて置くところの、神『自らの栄光』ということができ、それは「終末の裁き」に関わる極めて貴重なものであることも人々は意識しなければならないでしょう。(イザヤ42:8)

その神聖な神の名が再び知らされるときには、キリスト以降、ずっと人間によって汚されたり、罵られたりすることなく天に保たれた名であることが明らかにされるのでしょう。(イザヤ48:11)
将来、その名を知ることは、その人の救いに関わることであり、それを知らせる聖霊を受ける人々は、非常に重要な知らせを神の名と共に世界にもたらすことになるでしょう。彼らこそが神『[יהוה]の証人』と呼ばれるべきなのです。

その時について聖書はこう預言しています。
『万軍のYHWH[יהוה]は言われる、見よ、炉のように燃える日が来る。その時すべて高ぶる者と悪を行う者とは、藁のようになる。その来る日は、彼らを焼き尽して根も枝も残さない。
しかし我が名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼は癒す力を備えている。』(マラキ4:1-2)



.より詳しくは ⇒ 「神名浄化の至上命題
        ⇒ 「新約聖書の神名の扱いについて





関連記事

9.神の選民イスラエル

2014.08.16 (Sat)
神の選民「イスラエル」

「自分は神との契約にある」と主張する人がいれば、それは周囲の人にとってけっして心地よいものではありません。
「神の選民」という言葉に何がしかの傲慢さを感じ取り、抵抗感を持つ人がいるとしても、それは自然な反応と言うべきでしょう。

特に今日のイスラエル共和国が、その強い武力を近隣の民族に向ける有様を見るにつけ、選民思想の弊害を感じる人々が多いとしても仕方のないことです。

選民思想はほとんどの場合に、その民に属する人々の優越感、また、それが流血をもたらした原因であったとしても、一方で、その選民の行うことへの正当化をもたらしてきました。

そして確かに聖書には、明らかに選民思想が存在し、しかも全編を貫いていることは間違いのないことです。
そこでは神の「契約」が介在していて、神との契約を結んだゆえに「イスラエル」は神の選民であるとされています。
ですが、新旧の聖書を概観し、歴史で実際に起った事からすると、今日のユダヤ人には契約も恩寵も、実は過去のものであることが明らかとなっているのです。

確かに、ユダヤ民族が神の選民であった時代は、神はユダヤ人と「律法」という法律を守ることを条件に契約を結び、それは『律法契約』と呼ばれました。しかし、その中では彼らがかつてエジプトの奴隷であったのであるから、異邦人を苛酷に扱ってはならないとされていたのです。この律法契約の時代は千年以上も続きましたが、神は、ユダヤ人たちが律法を守ったとは言いませんでした。
常に、律法を守らず、頑なで、神の意を汲まなかったのです。


イエス・キリストの世代が過ぎ去ると共に神の恩寵もユダヤ民族から去っていたことは、エルサレムに在った神の神殿がローマ軍によって徹底的に破壊されたところに明らかに表れています。

キリストはそれを予見して、次のように語っていました。
『エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために涙して言われた。「もしこの日に、お前(エルサレム)が平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。
やがて時が来て、敵がお前の周りに堡塁を築き、すっかり取り巻いて四方から攻め寄せ、お前とそこにいる子らを地にたたきつけ、お前の中の積石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の査察の時をわきまえなかったからなのだ。」』(ルカ19:41-44)

この言葉は西暦70年に語られた通りにエルサレムはローマ軍に攻囲され、そのとき以来二千年になろうとする今日まで、ユダヤ教徒は神殿を失ったままで、そのために旧約聖書の掟のすべてを守ることもできなくなり、その神の名が何というのかさえも忘れ去られてしまいました。
それでもユダヤ人は、自分たちは依然として神の選民であると信じようとし、上記のイエスの言葉も認めません。

むしろ、これらのことの起こった原因は、ユダヤの体制が神から遣わされたイエスをキリストとして受け容れずに、かえって処刑させてしまったところにあるのですが、それを指摘する新約聖書をユダヤ教徒は今日まで認めないのです。
ユダヤ教徒にとってのイエスは『ガリラヤの田舎の私生児で、魔術を行って人々を惑わしたが、ローマ総督ポンテオ・ピラトによって磔刑に処された』と、聖書ではない彼らが付け加えた経典「タルムード」で今日まで書かれている有様です。

そのように、ユダヤ教徒は旧約聖書の古い教えにこだわり、キリストが現れて、より進んだ新しい教えを説いたときに、イエスを極悪な背教者として退けました。ですから、ローマ総督に圧力をかけイエスを処刑させてから40年を経ずに、ユダヤの神殿は破壊されてしまい、やがてユダヤ人は祖国を失って流浪の民となってゆきました。

しかし、これで神の契約がまったく消えてしまったということではありません。
結論から言えば、神の契約はキリスト後にユダヤ人から諸国民へと移ってゆきました。それは「使徒」と呼ばれるキリストの直弟子たちが、当時の世界に向かって教えを広めたことで、キリスト教徒が現れたことを表しています。これら初期の弟子たちには『新しい契約』が神との間に結ばれました。

しかし、その一方で、ユダヤ人のほとんどはイエスを認めず、今まで通りのユダヤ教で満足してしまいましたから、『新しい契約』には乗り遅れてしまい。いまだに「律法契約」を続けようとしているのです。


では、神はどのように人間と契約を結び、また何のために、ある人々を契約の民、「神の選民」としてきたのかを探って、歴史を辿ってみましょう。
この問いが解けることで、「選民思想」の観方が変わってくるでしょう。なぜなら、その選民は人類の中にあって「公僕」のような働きを目的としていることを聖書は示すからです。

さて、「契約」というものには何かしらの目的があるものです。
そして、契約を結ぶからには、そこに約定されなければならない何かの不安定な事柄があるでしょう。
つまり、約束によって互いに守るべき務めを負うことになります。

聖書の中での神の選民の始まりも、神と一人の人物との約束からスタートしたものであり、それは歴史を遡ること四千年も前の中東メソポタミアでのことでした。

おそらく、その時代はシュメール人の最後の王朝であるウル第三王朝の末期であったことでしょう。
シュメール人とは世界最初の都市文明を築き、あの楔形文字の創始者とされている由来のはっきりしない混血民族でありました。

王朝のあったウルという都市の近くにアブラムという人物がその一族と共に住んでいましたが、このアブラムという人物には時折話しかける神があり、彼はその神に深い信仰を持ったのです。
その神はアブラムにまず次のような約束をします。

『あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上のすべての民族は、あなたによって祝福されるだろう。』(創世記12:1-3)

この神の契約は、アブラムにどこであれ、またどれほど遠くとも、ウルから移住することを求めるものでした。
その目的は、アブラムの子孫が大きな民となり、その民によって地上のすべての民が祝福されるというものであったことを創世記は伝えています。

この約定は後に「アブラハム契約」となり、アブラムが神の示した土地、現在「パレスティナ」と呼ばれる地域に住むようになると、神はアブラムの名を「アブラハム」(多くの民の父)と変えさせます。(創世記15:18-21/17:5)
アブラハムには子がいませんでしたが、彼が移住を果たして後に妻の奇跡の超高齢出産をもって、イサクという独り子が与えられ、そのイサクはやがて二人の息子の父となり、兄はエドム民族、弟はイスラエル民族の父祖となります。(25:25-34)

この弟ヤコヴは祖父アブラハムからの神の契約を高く評価しましたが、兄はその価値観をまるで表しませんでしたので、弟は契約の継承権を無頓着な兄から奪います。(27:24-38)
そればかりか、この弟ヤコヴは誰かを祝福に行く途中の天使を見つけると『私を祝福するまでは行かせません』と言って、一晩中出かけようとする天使と格闘を続けました。
遂に天使は、彼に「イスラエル」(神を圧倒する者)という名を与えることになり、彼の十二人の息子を中心に形成された民族の名称となってゆきます。

この民族は、エジプトで奴隷にされていましたが、神はアブラハムへの契約のゆえに、この民を約束の地パレスティナに携えることを決意し、モーセをこの大事業のために預言者として選びます。
エジプトのファラオは奴隷を失うことを望まず、モーセを通して神の奇跡が十度示されて後にようやくイスラエルの解放を認めますが、すぐに思いを翻しエジプト軍を率いて連れ戻しに向かいます。
こうして、紅海の水が二つの分かれ逃げ道となってイスラエルを救い、その後を追ったエジプト軍を呑み込むという神の奇跡を呼び込むことになりました。

それからイスラエル民族はシナイ山のふもとに集められ、民族として神との契約関係に入ることになります。
モーセは神とイスラエルの仲介者となって両者をとりもち、牛の血が注がれて、その契約が結ばれます。
その契約とは、イスラエルが神の与える掟である「律法」(りっぽう)を守るなら、イスラエルは『王なる祭司、聖なる国民』となり、神の『特別に所有する民』と成る、というものでした。(出エジプト19:5-6)

つまり、そこではアブラハムへの契約に含まれた『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される』との内容が、モーセのときに「『王なる祭司』の聖なる国民」と、より具体的に示されます。

その後、イスラエルは約束の地に入り、神から与えられた掟である「律法」を履行する義務が正式に生じます。その律法の最初の十か条は「十戒」と呼ばれ、人手によらず二枚の石板に刻まれたもので、それは「契約の箱」と呼ばれる金で覆われた箱の中に収納され、以後、この箱は『契約の証し』とされます。

しかしイスラエルは、祝福を強く求めたその父祖の名のようには神との契約を重視せず、また律法を守らず、異教の神を崇拝するまでになり、遂に神はイスラエルを処罰するために、アッシリアとバビロニアの強大な帝国に占領させ、それぞれ強制移住させますが、特にユダ族を中心に移住させられたバビロン捕囚のときに、「契約の箱」は消失してしまい、遂に今日までも戻ることはありませんでした。

しかし、神はその処罰を行う前に、預言者を通して『新しい契約』を締結することを知らせていました。
加えて、「メシア」というイスラエルを比類のない強大な国家とする王についても予告していたので、捕囚となって以来、人の住まない荒野となっていたパレスティナに帰った民は、これらの新たな希望を待って過ごすようになります。

ここまでが旧約聖書の内容に含まれる契約のあらましで、やがて「ユダヤ人」とも呼ばれるようになっていたイスラエルの民の間に、予告されていた「メシア」が現れます。「メシア」とはギリシア語を基準にして言えば「キリスト」となります。

アブラハムから二千年もの歳月の後、ナザレ村出身のイエスが現れます。つまり、今日最も知られたイエス・キリストであり、驚くベき奇跡を行ってパレスティナを巡ります。
そしてこの人物は『神の王国は近付いた』とユダヤ人に宣告します。
つまりそれは、アブラハムに約束された『地上のすべての民族は、あなたによって祝福される』というその子孫が受ける特権、またモーセを通して示された諸国の人々に対して『王なる祭司、聖なる国民』となるという、その人類の祝福となる「王国」の実現が、このメシア=キリストによって『近付いた』ということを意味します。

モーセは『あなたの同胞のうちから、わたしのようなひとりの預言者をあなたのために起されるであろう。あなたがたは彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)と予告していましたが、モーセのようにイスラエルに画期的な変化をもたらした預言者はその後出ていませんでした。
しかし、キリストはイスラエルに『新しい契約』をもたらそうとしていました。それはまさしくイエスがモーセ以上に偉大な預言者であった証しです。

その契約は牛の血ではなく、キリスト自身の血の犠牲に基づいて発効するものでしたから、キリスト自身が地上に生きている間にはこの契約は始まりませんでしたが、キリストの死と復活を経て五十日後の「五旬節」(ペンテコステ)のユダヤの祭りの日に、『新しい契約』がキリストの血によって発効し始めました。

その日、エルサレムに片隅に集まっていた120人という少数のイエスの弟子の上に奇跡を起こす権威を授ける『聖霊』が与えられ、その人々は学んだことの無い諸国の言語で神について話し始めます。
祭りに集まって来ていた諸国からのユダヤ人はそれに驚き、キリストに信仰を持つようになります。
イエスをメシアであると信じたユダヤ人が、水のバプテスマを受けると同じように聖霊を与えられてゆきます。

しかし、ユダヤ人の体制派や大半の人々は聖霊による数々の奇跡を見てもキリストの現れに信仰を持つことはなく、血統上のイスラエル民族の多くはこの『新しい契約』に入れませんでした。
そこで神は、本当の意味での「アブラハムの子孫」を単に血統上のイスラエルから集めることを止め、アブラハムのような信仰を持つ人を真の「アブラハムの子孫」と見做して、『新しい契約』に入る機会をユダヤ人以外の諸国の人々にも開いてゆきます。

そのため新約聖書の使徒言行録は、『新しい契約』がどのようにユダヤ人から世界へと広げられて行ったかの実例が描かれていて、まったくの非ユダヤ人で『新しい契約』に与った第一号がローマ士官コルネリウスとその親族友人であったところからはじめて、多くの諸国の人々が聖霊を注がれて『新しい契約』に入ったことを知ることができるのです。

対して、ユダヤ人はナザレから来たイエスをメシア=キリストとは認めず、今日いまだに律法を行うことで神の選民になることを目指して頑固に「律法」を守ろうとしています。
ですから、ユダヤ教徒は新約聖書を読まず認めず、『新しい契約』もメシアもまだ現れていないという立場のまま二千年をも過ごしてきました。

ですが、キリストの使徒ペテロは、当時の諸国のキリスト教徒について次のように言っています。
『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』(ペテロ第一2:9)
これはまさしく、モーセを介してイスラエルが律法契約を結んだときの言葉そのものです。
そこで『新しい契約』が『律法契約』でのユダヤ人の失敗を補う働きをするものであることが示されています。

そして、確かに新約聖書はキリストの犠牲と仲介によって『新しい契約』が発効されたことを書き記しており、それは遠い昔にアブラハムに約束された彼の子孫によって、地上のすべての民が祝福されるという約束が大きな進展を見て、血統によらず信仰によるアブラハムの子孫が、バプテスマの水と聖霊の注ぎによって『産み出された』ことを証ししているのです。(ヨハネ3:3-5)

その『新しい契約』の目的は、聖霊を注がれた人々が神とキリストへの忠誠を全うした生涯を送ることによって、全人類の陥っている苦境から救い、キリストと共に、創造者である神と和解させ永遠の命を得させるために、人類が背負っている「罪」という倫理上の欠陥を取り除く『贖罪』(しょくざい)を行う「祭司」の一人と成ることを可能にするものです。

律法契約の時代、つまり旧約時代には、その契約の目的はここまで精密に明かされていませんでした。しかし神は、聖霊を与えた初期キリスト教徒の人々に『新しい契約』に関する事柄を教えたので、アブラハム以来の悠久の時を経てその契約の『奥義』は漸進的に明かされ、遂にキリストの死後に聖霊を通して神の契約の全容が知らされるところとなり、それが新約聖書に記されるに至ったのです。

このような契約の概念が存在することそのものが奇跡のようです。
というのも、聖書を記してきたユダヤ人さえも、その奥義全体の意味するところを知らずにアブラハム以来数千年の時を過ごしてきたのであり、その間神はその意図をしだいに明らかにしてきたということを新旧の聖書記述そのものが証ししているからですから、これはとても人間にできることではなく、聖書が書かれるよう導いた背後の永遠の存在「神」なくしては考えられません。

こうしてみると、神の選民というものの本来の目的は、単なる選民思想のように特定の民族や人種に優越感をもたらし、周囲の民族を排除圧迫し武力行使まで行う傲慢な言い訳とは無縁であることが分かります。
むしろ、地上のすべての民の祝福のために神が用いるための「神の選民」であり、この概念はしばしば誤解され、曲解され、悪用もされているものとなっています。

ですが、今日のように聖霊を注がれイエスのような奇跡の賜物を持つ人がどこにも居ない以上、誰も「神の選民」であると唱えることはできません。

しかし、神はこの選民『神のイスラエル』を再び、そして聖霊を与えることで再出現させ、この世から人類を救い、奴隷のように苦難の一生という虚しい生き方から逃れることのできない人類を導き出す希望となる日が来ます。
それは聖書が『末の日』と呼ぶ世の終末に起こることであり、そのとき神はキリストの使徒たちの時代のように『神のイスラエル』を諸国から集め出すと予告しています。

こうして『神の王国』に属する『聖なる民』『選ばれた民族』が全集合する時代となり、人類は今日まで背負ってきた『罪』の重荷を下ろし、神の創造物としての栄光を回復することになるのですが、それは終末という『苦難のとき』に起こる事とされています。

そのとき、聖なる民は『神の王国』が実現し、キリストが世界を治めて信仰ある人々を「罪」から救い、「この世」を終わらせる時が来たことを政治家たちに宣告します。この聖霊による発言は世界を揺るがし、人類は信仰をもつ人と、そうしない人に分けられます。(マタイ10:17-20/ハガイ2:6-7)
そして神は、信仰働かせる人々を欲得で出来た「この世」から救い出し、人類が経験したことのないアガペーという「愛」に基づく栄光ある支配、つまり『神の王国』の下に導き入れることになるでしょう。(黙示録21:4)

これらが聖書の旧約と新約とを貫通する神のご意志であり、それを成就するための器が「神の選民」であったのです。
これは新約と旧約の双方の聖書を理解して初めて到達できる理解ですが、旧約だけに拘るユダヤ人はもちろん、新約聖書を持つクリスチャンの大半もこの理解に到達できず、キリストが自分の中に住んでくれるというご利益信仰の選民思想に堕ちてしまっていることはたいへん残念なことです。

しかし、神の契約と選民の働きについて、そこに類い稀な価値を感じる人は幸いです。
その人は、どんな人間の儚い希望でも不確かな計画でもなく、永遠に生きる創造の神の意図する計画に沿って自らを協働させることができるからです。
この歴史に一貫して示された神の善意ある主題が、人間の思惑を超え、数千年に亘って聖書に記され続けてきたことを考えるなら、それはけっして虚しく終わらないに違いないのです。

ですから、パウロも言うように、人々は『聖なる者』という『神の子ら』を『切なる思いで待ち望む』のです。
神の選民は、聖霊を受けて再びいつか現れることが、人類の救いと祝福となるからです。



関連記事

「万人祭司」について

2014.08.06 (Wed)
確かに「万人が祭司である」というはルターの重要な主張です。
それはカトリックの聖職者だけがサクラメントゥム(秘蹟)を行えるとされていた当時の状況を打破することに眼目があったようですね。(「ドイツ貴族に与える書」)
また、「聖書を解釈するのはすべての人にとって自由である」とも語っていたことは、聖書を解釈できるのは専門職の牧師だけだということを平然と言ってのける牧師も存在する今日でも画期的なことであったと思います。
(その前に人々が母国語で読める聖書が必要とされており、ルターはドイツ語訳を著して、実際にその必要に答えたところは見事であったと思います)

さて、「万人祭司論」の根拠となったのは、挙例すれば、ペテロがその第一の手紙の中で『あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。』

また、ルター自身は黙示録を然して評価しませんでしたが、それでもその中で三回語られるキリストの追随者らが王また祭司とされるという記述、特に20:5-6の『彼らは神とキリストの祭司となって、千年の間キリストと共に統治する』などの言葉に根拠を見たのでしょう。

それに加え、ペテロは出エジプト記を引用し、当時のエクレシアの人々に宛てて『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです。』と記しました。

これらの言葉から、今日でも「クリスチャン」のすべてが、互いと世に対する祭司である、と教える教会はプロテスタントに少なくないようです。

ですが、その祭司職がどのように履行される、またはされているのかとなりますと、その認識は律法上の祭司職のようにははっきりせず、諸説に分かれるように見えます。もちろん、聖書中に「新しい契約」による祭司職の履行方法が書かれた箇所はありません。それは「千年王国」での職務となるからなのでしょう。

しかし、その前に前提となるアブラハムに約束され、モーセに対して『わたし(神)の言葉を真実に守るなら』と条件付けられた上で、『あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民』となるべきであった血統上のイスラエルではありましたが、メシアを拒絶してその格別な神の民とならなかったとしても、ペテロが手紙の中で言う『あなたがた』というのを、そのまま「クリスチャン」のすべてとしてしまってよいのでしょうか?

これは、「クリスチャン」の中にも信仰の弱い人も居るというような意味で言うのではありません。
キリスト教徒は、誰もが真実のアブラハムの子孫イスラエルと言えるのかどうかという問題です。

ペテロはこの手紙の挨拶文でこうも言っております。
『父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ』

つまりこの手紙を受け取った人々は、『御霊の聖め』を受けており、『父なる神の予知に従い』『選ばれた人々』とされております。
これはパウロも『天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。』
これはまた、『神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになった。』と述べていたことにも合致します。(ローマ8:30)

これらは、神の選びであること、また聖なる者として「義」の状態に入ることを教えています。
その聖さとは、ペテロの云うように『御霊の聖めに』よるのであり、それが注がれた聖霊の働きであることは次のパウロの言葉からも明白です。
『異邦人が聖霊によって聖なるものとされ、神に喜ばれる供え物となる』(ローマ15:16)

従って、人を『聖なる者』(ハギオイ)とし、『義』の状態に携え入れるものが『水のバプテスマ』ではなく『聖霊のバプテスマ』であることには、多くの「クリスチャン」方も異論はないものと存じます。

その『義』の状態に入ることについては律法の中、レヴィ記の贖罪の日に、まず大祭司の贖罪、祭司の贖罪、そして民の贖罪という手順があったことに鑑みますと(レヴィ16:17)、キリストがご自身の血の犠牲を携えて天の至聖所に入られ、大祭司の職権を初めてそこで行われたことでしょう。
なぜなら、ヘブル書筆者は『もし、キリストが地上におられるのだとすれば、律法に従って供え物を献げる祭司たちが現にいる以上、この方は決して祭司ではありえなかったでしょう。』と書いております。(ヘブル3:4)

従いまして、キリストが天に去って十日を過ぎたペンテコステの日に、ガリラヤの弟子百二十人に初めて聖霊が注がれたことは、大祭司の職権によってキリストが律法で云うところの『自分の家の者』である祭司たちを贖罪し、まず、百二十人の聖霊を受けた人々から『義』が与えられ、彼らが祭司となったということができます。

このペンテコステの日にペテロは『イエス・キリストの名によってバプテスマを受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます』と語っていました。
ご存じのように、この言葉(使徒2:38)を根拠に多くの教会では、水のバプテスマを受けた信徒は皆、聖霊の注ぎを受けるものと教えております。

その教えにより、信徒は聖霊をも注がれていることになり、『わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。』(ヨハネ14:23)という言葉、また『 あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。』(コリント第一3:16)のような記述をありがたい根拠として、信者へのキリストの内住を教えるところともなっております。

またパウロは、聖霊を受けた人々が『神の子』となることを説いており、この人々は『アッバ』と極めて親密に神に呼びかけることが許されることも、教会信徒の特権であるとされているものと思います。(ローマ8章)

これは確かに大きな祝福、アダムからの『罪』(原罪)ある『死すべき人間』にとっては異例の扱いであるというべきでしょう。

さて、本来この異例な祝福につきましては、創世記に遡りますと、アブラハムの子孫に与えられたものであることが書かれております。
その理由といえば、アブラハムの信仰が非常に深かったため、老齢になって得た独り子イサクを犠牲として捧げることを厭わなかったからでした。
彼は『イサクを捧げたも同然であった』とヘブル書筆者は記しております。

この信仰の試みの後に、神はこのように彼に約束されました。
『地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:18)

それですから、「地上の諸国民に祝福を得させる」ということがアブラハムの子孫に与えられた異例な特権であり、これが後のモーセのときの『もし、わたしの法令を本当に守るなら、あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神の特別に所有する民となる、それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです』という言葉において繰り返されていることも明らかなことでしょう。

ですが、血統上のイスラエルは律法を退けてしまったために、メシアの仲介する『新しい契約』を必要としたのであり、あのペンテコスタの日に聖霊の轟音に驚いてイエスの弟子のところに集まってきた人々の皆が、祭りを祝うためにエルサレムに来ていたユダヤ教徒でありました。

ユダヤ教徒には、確かに悔い改め、赦しを必要とする『律法の呪い』があり、その上、遣わされたメシアをユダヤの民としては退けてしまっておりましたので、彼らには悔い改めの水のバプテスマが旧来のユダヤ体制を去ってメシアへの帰依に準備されるという非常に願わしい意義があったことになります。(使徒13:46)

そればかりか、この時に水のバプテスマを通して、メシアへの信仰を明かした彼らには、本来アブラハムに約束され、モーセに示された「地上の諸国民に祝福を得させる」という『王なる祭司、聖なる国民、神の特別に所有する選民』となるという、それまで果たされずに歴史を辿った事柄が、遂にこのとき実現を見たということができます。
なぜなら、その以前に『神の子』とされたのは堕罪前のアダム、そしてイエスだけであったからです。

この点は、ローマ書でも『今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。』と述べられ、ヨハネも『神がわたしたちの内にとどまってくださることは、神が与えてくださった“霊”によって分かります。』とのべていますように、旧約に前例のない『神の子』の立場は、旧約の『神の人』を超え、聖霊によってキリストと結ばれた者だけの異例の立場と言えましょう。(ローマ8:1/ヨハネ第一3:24)

つまり、弟子たちに聖霊が注がれて初めて、ペテロの云うように『御霊の聖め』を受けたのであり、それが彼らに『義』をもたらしたと言えましょう。即ち「原罪」が大祭司キリストの贖罪によって最初に浄められた人々の登場であり、ヤコブはその者らと聖霊を受けていた自らを含めて『被造物の初穂』と呼んでいるのです。(ヤコブ1:18)

それが大祭司による祭司たちの贖罪で表された実体であり、ヘブル書筆者が言うように『もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。』(ヘブル9:13-14)とのこの言葉は、さましく、大祭司の下で働く贖罪された祭司たちの神殿における働きを述べていることは明らかです。

そこで「聖霊の注ぎ」ということを通し、祭司の権能、贖罪された聖い義なる立場、神の子、という人間側からは到底不可能な事柄の達成が関わっていたことを知ることになります。

他方で、一般的なプロテスタント教会における、「水のバプテスマを受ければ聖霊を得る」というこの教えを再考致しますと、「キリストの内住」や「聖霊の導き」によって良心的に行動でき、幸福を得られる。といったような教えは、どうも、聖書に流れる以上のような内容からは外れているように見えてないのです。

特に、聖書中ではアブラハム以来(本当にはエデン以来ですが)『地上のすべての家族が自らを祝福する』者となるという人類救済の偉大さと、「クリスチャン」方のご自分の祝福に傾倒なさっていらっしゃる姿にはかなりの違いを感じざるを得ません。
これで、「万人祭司」というのであれば、祭司の贖罪に預る民はどこにいるのでしょう。

ユダヤ人は、律法を守ることによって『諸国民の光』となることを目指しましたし、現代のユダヤ人も自分たちの宗教の目標をそのように云い表します。(イザヤ42:6)
それはアブラハムから継承した、類い稀な、そして見えない大いなる遺産でありました。しかし、血統上のイスラエルは遂にそれを得なかったとパウロは言います。(ガラテア4:21-31) これは真のイスラエルの追求であって単なる置換神学ではありません。
イエスが『あなたがたは世の光』と言われたのは、それらのユダヤ人がそのようになることを望んでのことだったのでしょう。(マタイ5:14)

その一方で、聖霊を注がれたユダヤ教徒であった弟子たちは、『その信仰によって』真実のアブラハムの子孫として水と霊から生み出されたということができます。(ヨハネ3:5)
本来ならば、血統上のイスラエルによってこの『諸国民の光』、『王なる祭司、聖なる国民』が構成されるはずでありましたが、そこはご存じのように、メシアを拒絶して処刑させたことに表されるように、ユダヤの民は十分に信仰を示す聖なる民の構成員を提供しませんでした。

そこでパウロが接木の例えを以って説明しておりますように、諸国民からも聖なる民に選ばれる人々が現れました。そこでの聖霊の注ぎははっきりとしたものであり、様々な「聖霊の賜物」の奇跡を伴っておりました。(ローマ11章/コリント第一12章) もし、これらの奇跡の賜物が無かったならユダヤ人は異邦人を受け容れなかったでしょう。
コルネリウスにせよ、エルサレム会議のヤコブの議決にせよ、説得力を以ってユダヤ人の異論を封じたのは明らかに人ではなく聖霊と言えます。(使徒10:45/15:28)

この「聖霊の賜物」に言及致しますと、「正統的プロテスタント」の方からは、そのような奇跡は今は無くなったと言われます。
その根拠としてパウロの『預言はすたれ、異言はやみ、知識はすたれるであろう』(コリント第一13:8)との言葉が用いられますが、果たしてそこでパウロは、賜物が無くなる時は何時かを論じていたのでしょうか。
むしろ、文脈はアガペーの優越性を述べておりまして、賜物が無くなることを論じてはおりません。そして、聖霊を受けた人々がこれを読んだときには、彼らが天に召されキリストと共になった状態では賜物の必要のないことを思い浮かべたことでしょう。

これに加えまして、使徒後教父の時代の初期、第二世紀には依然として「聖霊の賜物」を有した人々が生存していたことを少なくない資料から確認できます。この点では五世紀のアウグスティヌスですらも、かつて存在した聖霊を受けた人々の存在を認めております。彼の師でもあるアンブロジウスは、これら初期の聖霊を持った殉教者たちの多くを「聖人」として副次的な崇拝の対象にまで仕立てました。

このようにして、聖霊を注がれるということを再考いたしますと、「万人祭司説」は幾分か的を外したもののように見えてなりません。
それを以って「クリスチャン」は世のすべての人々のための祭司であるとするなら、未信者は救いの対象となり、水のバプテスマを受けて祭司となることが「救い」の条件ではなくなります。

ところが、『誰でも、わたしを通って入るなら救われます。』(ヨハネ10:9)という言葉は、恰もバプテスマを受けて信徒になることが救いのように見え、一方で、『神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。』(ヨハネ3:17)は、世の全体に救いがもたらされることを告げているのも明らかです。

そこでこれらを折衷して、世界がキリスト教に改宗することで世の救いが達成するというような見方も出てきたのでしょう。それを後押ししたのが「神の国は信徒の心にある」、また「信徒の行動によって神の国をこの世にもたらす」というアウグスティヌス以来の発想のようです。
ですが、キリスト教国から多くの争いが起き、世界大戦が始まった事実は、また、それ以前の植民地支配による強制、半強制の改宗行動は公平な観点からしてとても褒められたものでありません。
仮にこれが「万人祭司」の姿であるとすれば、それはどんなにか(恐れ入れますがはっきり申しまして)キリスト教を貶めるものであったことでしょうか。

むしろ、キリストの王国は『世のものではなく』争いから無縁のものなのではないでしょうか。(ヨハネ18:36)
それを考えますと、やはり聖霊を注がれた人々というのは、明らかに聖霊を持っていることが周囲から観察できた格別の弟子であったように思えます。
パウロは聖霊の働きの現れを『聖霊の顕現』と呼んでおりますが、その「顕現」に相当する語「ファネロ-シス」は、英語のマニフェストに相当するほど明瞭なものであり、この語の用法からして、有るのか無いのか外からは分からないようなものではなかったことでしょう。

といいましても、わたくしはフレンド会系の降霊的集会が原始キリスト教を再興するものであるとは思えません。
パウロが書きましたように、当時の聖霊の賜物は個人が制御できるものであり、パウロはそこに学ぶものがなければ益が無いとして、霊から話す人々を制限し、順番に秩序を以って集まりが霊から益を受けられる指示しておりますが、降霊的集会はそのようなものには思えません。(コリント第一14:26-33)

この点では初期教父らの情報のままに、第二世紀から聖霊の賜物と共に聖なる者も去ったと見るのが理に適っていると思えるのです。つまり、キリストの不在と共に聖霊は地上を去ったと。なぜなら、終末でもない時代に神は不要な事はなさらないからで、それはマラキからバプテストまでの四百年の神の沈黙の例を挙げることも不適切ではないでしょう。

そして、今日的「聖霊」の捉え方と異なるのは、その目的です。
つまり、初期の弟子らの目的は、『聖なる者』となりキリストと共に天の神殿で祭司また王として諸国民の贖罪に仕えることにありましたが、今日の「クリスチャン」のほとんどにとっての聖霊とは、自分の中にキリストを住まわせ、自分を幸福に導いて救いを得させてくれるというものではないでしょうか。
これは目的の対象が「すべての人」と「自分」というほどに異なってしまいます。
この点も有態に言わせて頂けますなら、人類救済の大志がご利益信仰にすり替わってはいないのでしょうか。

もし、そのようでしたら、ほとんどの「クリスチャン」の方々は、神のご意志から知らず知らずのうちに反対方向へと誘導されたことにはならないものでしょうか。

やはり、聖なる者らの目的は人類救済にあり、それがアブラハムはもちろんエデンの園から連綿と伝えられた遺産であり、それはキリストに信仰を持ち、水のバプテスマを受けたからといって誰にでも与えられるものではないのでしょう。

そこには神のご意志に基づく選びがあり、その選びは聖霊が注がれるという本来奇跡を通してはじめて与えられる異例に高い立場であり、自分にそれが無いからといって余りに落胆し続けるのは、余程自己愛が強いか、宗教に頼る弱さを露呈しているのではありませんか。そのような人が聖徒に臨むという終末の苛烈は試練を越えて行かれるでしょうか。(マタイ10:16-39)むしろ、聖なる者ではないことはその人にとって保護となるように思えます。


聖霊が注がれた『聖なる者』の立場を尊重することは、神から引き離されることではなく、却って、神のご意志の偉大さを認めそれを讃えることになるでしょう。
以上のように認識することに大きな抵抗感があるとしましても、それを試練を見做して克服される方々には、惰弱なご利益信仰を脱し、身を挺して利他的に振る舞い、キリスト教本来の輝きを取り戻す機会が開かれているのです。



関連記事
back-to-top