FC2ブログ

8.「この世」というもの

2014.07.26 (Sat)
「この世」というもの


わたしたちは、自分たちの住む「この世」というものに生まれたままに暮らしています。
ですから、「この世」とは「そうしたもの」と思い、何とか適応して生きようとするのがふつうのことです。

人はよほどの虐待を受けるのでもない限り、生まれて来たことを喜びます。
この世界には興味尽きない多様なものがあり、人間はそれをほかのどんな動物よりも享受する感覚も能力も備えています。

人間は互いに協調して働き、知恵を出し合い、文化にしても科学の応用にしても、この世界から優れたものを得ていて、それらは生活を一層興味深く、豊かなもの、意義深い価値あるものともしています。

そして、人間の身体そのものも生きようとしており、その働きには驚異的な仕組みがあることも知られるようになってきました。
それほどに優れた人間ですが、わたしたちの生きる世界としての「この世」という言葉には、それらの良いところだけではない、ほろ苦いペーソス漂う味わいが往々にして込められてきました。

さて、聖書では特に新約聖書において「この世」という言葉が数多く出てきます。
旧約で数少なく現れる「この世」と訳される句は、人が地上に生きている現実を意味しますが、新約での「この世」は、ギリシア語で「コスモス」という単語で、より深い意味合いを持っています。
これは英語では「宇宙」を指し、秩序立った調和の内に配列された世界を表してもいます。(反語にギリシア語「カオス」(混沌)があります)

「この世」について、ほとんどの人々がその意味を考えると、「人々によって構成される社会」のことを指し、そこには一抹の「虚しさ」を意識することでしょう。そして、やはりギリシア語の「コスモス」には「空虚」という意味も含まれています。

人は生まれて以来、この世の中で育ちつつ社会の掟を学び、体力や能力を、また様々な忍耐力を振り絞って生業に従事し、あるいは失業し、職に就くことにさえ多大の精力を傾注し、自己所有の家を持つことが男の一生の夢ともされ、結婚を通しては家族を設ける幸せを味わいつつも何かと家庭問題に直面し、子供も成長して去った後には、幾らかの楽しみが有っても、老化などの身体の不具合と闘いに努めてゆくうちに、やがては誰もが寿命を迎えなくてはなりません。

これが一般的な「人生」と呼ばれるものなのでしょう。
ですが、このような人生もまだ良い方かも知れず、悲惨な一生を送らねばならなかった人々も「この世」に数知れぬほど存在したのであり、今日もまた、悲痛の声を上げる境遇にある人々も少なくはありません。国家的圧制もあれば、社会の片隅でのいじめや家庭内虐待、過剰労働や対人関係から心のうめきの中に忍従している人々も少なくは無いに違いありません。

社会不適応やうつ病の増加は、21世紀の今日、人間は幸福に向かって進んでいるわけではなく、常に問題を抱えてきたばかりか、人の心理までをも蝕む社会というものは、事態がいよいよ複雑化している象徴なのでしょう。

これに加えて、避けられない広範な危機の拡大についても警鐘が打ち鳴らされています。
世界は自然破壊、人口過剰と食料の偏在、方や人口減少による経済危機や構造変化による就職難と貧困、場を弁えないテロや隠れたサイバー攻撃など、全球に関わる災厄が先鋭化されつつある事態に直面しており、国や地方や民族という単位で闘争や災害や経済変動に巻き込まれる社会的危険も常にあり、世界は武力の関わる紛争の列挙に事欠くことがありません。
それに大地震や津波、異常気象による予告ない旱魃と洪水、巨大台風や猛烈な竜巻などをも加えなければならなくなっています。

これらは、生活を一時に急変させ、人々のささやかな幸福さえも根こそぎにしてきましたし、誰もが今もその危機と隣り合わせにされています。
ある人々は人間の過剰な生産活動のツケが回ってきたと考えます。
経済学者は、生産によって環境負荷に対するコストを人類は払って来なかったと説き、それを「影の経費」としています。

しかも、環境の解決に要するコストは膨大で人類が支払い切るのも難しいと言われます。
つまり、人類は勝手に振る舞いつつ、大自然に対する負債が大きくなりすぎて、すでに破産状態にあるのかも知れないということです。

そのうえ、地球環境の維持を真剣に試みるには、直ちに世界中の人々の一致を求めるものですが、諸国の我欲はそれを困難にしており、その時も失われ機会の扉も閉じられつつあるというのは、よく見聞きする通りです。

こうしたマクロ状況にある「この世」で、個々の人々の生活にも相変わらず様々な困難が降りかかります。
では、個人が「この世」に生きる意味とは何でしょうか?

芥川龍之介が「侏儒の言葉」の中で、「我々は母の胎内で人生に処する道を学んで生まれてくるわけではないので、水泳を習ったことのない者がいきなりに水泳競技に参加する狂人の主催になるオリンピックがあるとすれば、それは我々に課された人生そのものであり、我々は生まれるや否や、人生と戦う中で傷を負いつつ戦い方を学んで行かねばならない」と書いて、世というものの理不尽さを指摘しているように、人には「この世」を上手く生きる方法というものがなかなか手に入りません。

そこでは占いや、厄除けといった人知を超える導きを与えると称する仕事が常に存在もできた理由があります。
また、人々は生きる意義を問い尋ねて、宗教に向かい、その答えを得ようとしてきました。
ゴータマ・ブッダは、生命が終わってもこの世に繰り返し生まれてくる「輪廻転生」というバラモン教の教えを発展させて、苦難溢れる世に繰り返し生まれることを永遠に止めることを最高の目的とし、これを「涅槃」(ニールヴァーナ)と呼びました。
やはり、この世は究極的に生きるに値しないというのが、この賢人の結論であったのです。

イスラム教では、この世での生き方次第で天国にも地獄にも行くことになります。
つまり、この世を生きるとは「試験」のようなものと説かれます。
このように教える宗教は非常に多く、仏教の中にも今日のキリスト教の大半にも、この教えは広くみられるものとなっています。
人生とは一時的な務めであり、試練の場であるという説得には、この世の辛苦を思うときに納得させられるようなところもあるのでしょう。

ですが、こうして宗教界を見回すと、その多くが、「この世」というものに人生に満足をもたらすものと観ていないことでは一致しているのに気付くことになります。
しかし、「この世」が人々にとってこれほどまでに住み易くないのは何故でしょう。

この点で、聖書での「この世」はどのようにものに描かれているかと言えば、この世界を創造した創造者の意図から外れてしまっていることが明らかにされます。
神は創造の業を終えて、そのすべてを眺め「たいへん良い」と言われたと創世記にあります。ですが後のソロモンは『すべては空しい。太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう』と述べます。

つまり、世界は初めから今の世の中のようには造られていないので、確かにわたしたちの社会の現状が「生きるに値しない」とされるとしても、その指摘も的外れではないかも知れません。

聖書から見る世界は、本来の在るべき姿から「逸脱している」のであって、人間がどう生きるかを「試験」する場として造られたわけではないのです。
さらに、「この世」というものが、「神から離れたもの」、「神との敵対関係」にさえあり、「罪の赦し」と「救いを必要とするもの」であると明かします。そこに「神の導き」のようなものはなく、ただ法則が支配する自動化された自然があるばかりです。

それでも人々は「神」などの「上なる者」の導きや善意を乞い求めて多様な宗教を興してきました。
しかし、創造の神が最初に人間に与えた境遇は「エデン」と呼ばれる場所の東に設けられた楽園でありました。「エデン」とは「楽しみ」を意味します。
創世記によれば、神は天地を創造した後に人を創り、これを楽しませる意図をもっていたことが語られます。

しかし、最初の人間アダムは、この神の愛顧に答えず、創造者の意図から離れてしまったことが次いで語られています。
それは自らを存在させた創造者を愛さずに生きてゆくということを選択したことになり、これはまったく不義なことでしたから、以後、人間は倫理的に欠陥をもった存在となってしまいました。この倫理上の欠陥を聖書は「罪」(ハマルティア)と呼んでいます。

人間が負うことになったこの倫理上の欠陥は、第一に神との絆が断たれたところから始まりましたので、この「罪」は神と人との間を隔てる壁のようになっていて、現在も神と人には越え難い境界線が引かれています。実に聖書は『この世の神』とは創造者ではなく『邪悪な者』すなわち『サタン』であることを記してもいるのです。(ヨハネ第一5:19)

その支配の結果として、人間には寿命が定められ、誰もが必ず死を迎えねばなりません。聖書には『罪の酬いは死』とあります。
この「罪」はアダムによって人類全体に広がりましたので、今日まで人間が利己的で貪欲であり、常に争い続けたことが歴史に深く刻み込まれてきました。「罪」は明らかに「この世」を覆ってきましたし、現に今もそうです。

この状況下では、基本的に「罪」を負ったわたしたち人間には、互いをも警戒しなければならない理由が存在しています。
つまり、他者の貪欲の犠牲にならないようにしなければなりません。
もちろん、身近な人々に善を行えないわけではないのですが、そのような人であっても、常にすべての人に善を行うとは言えません。

端的に言って、わたしたちは奪い合いの世界に住んでいます。
これはたいへんに危険がありますから、人々はそれぞれの貪欲を調停し、抑制する方法というものを、どこの社会でも作り上げてきました。この「貪欲の調停」が「政治」というものの本質的役割です。

人間は、行って良い事と、行ってはいけない事を決めないと、互いに生きて行くことができません。つまり『善悪を知る』ということです。
そこで、人々が横暴に振る舞うことを抑えるための「法」を定め、これに違反する者が出れば、強制してその行いを制御します。
そのため社会の何者にも勝る強制する力がどうしても要るので、非常に強い暴力を用いる組織を持たねばなりません。

この強制力は、社会の内側に対するものを「警察力」と呼び、社会の外に対するものを「軍事力」と呼びます。これらの強制力である暴力が政治というものが存立する絶対的な条件となっているのです。やはり人間は罪人なのでしょう。

これらの権力を社会が失った場合、それは恐ろしいことになります。つまり、人間相互の貪欲の無規制、弱肉強食の危険だらけの「カオス」状態に落ち込んでしまい、世の中はジャングルのように歩くのも危険なところとなってしまいます。
そこでわたしたちの社会「この世」(コスモス)を再考すると、何と!、人と人との間は、強制力である国家権力という「暴力で出来た垣根」で仕切られているのです。

この「垣根」の存在は、あたかも牢屋のようにもなり、そこで人々は「法」という看守に見守られつつ、小さな自由を得ています。
なぜなら、人々が互いを害さないためで、その原因は人間の持つ倫理的欠陥である「罪」にあるからです。

その「罪」は貪欲を介して害悪を行いますが、これは日常的なものとなってさえいます。
例えれば、わたしたちが買い物をするのに通貨またはそれに准じるものを必要とします。
国家なりの政府は、通貨を発行して流通させることにより、商品や財の価値基準を設けます。それを通して個人の満たされる願望の範囲を規制するという目的がそこにあります。
ですが、通貨の流通が作り出す市場経済は、結果的に公平と言えるようなものではありません。

そうでなければ、世界中で見られる富の激しい偏在は説明がつきません。それはむしろ貪欲による果てしない競争を行わせる場となっています。人は互いの貪欲のためにこの世では奴隷にされ兼ねません。いや、ほとんどの人々は何らかの搾取を受けているというのが実際でしょう。

「通貨」という人々の欲望を規制する制度によっても争いが尽きないことは余りにも明白で、それはわたしたちの買い物での価格のせめぎ合いの中でも生じていることであり、また、そのような競争が無いところでは、誰かの貪欲がはびこってしまうので、価格の攻防を誰も止めることができません。これが「価格の適正化」を促すというのです。そこで破産や倒産、それに伴う失業が数知れず起こったとしてもです。

その争いの中では、弱い立場にある人々ほど生活に困窮するほどの苦境に落とされてしまいます。為政者はその弱者にも区別なく間接税の重荷を負わせます。実に貨幣制度は、多数の弱者を作り出し、死にも至らすことが往々にして起こるものです。

強い者も他の強い者に常に対抗していないと、とてつもない敗北を被ることになるかも知れず、弱者から搾り取ることを余儀なくされても、それを抑制するだけの心の動機はまずありません。 あからさまな奴隷制度は歴史の舞台から去っても、「生かさず殺さず」という搾取の実態は依然として目の前にあるということなのでしょう。

その一方で、職にさえありつけない人々、生活の糧を得る手立てのない人々にセーフティ・ネットが有る国でも、様々な制約を課さねば悪用される危険があって、それが十全には機能せず、その助けを受けられずに自死に追い込まれたり、治療を充分に受けられず寿命を早めることも現実に起こっています。せっかくに設けられた助けも、大きな社会悪に対しては「対症療法」に過ぎないのでしょうか。確かに、この社会は貪欲の争いによって動いてはいても、個人の福祉を顧みることを主要な目的としてはいません。

このような世の中の仕組みについて、古典的経済学の父アダム=スミスは、「人々の欲が経済を活性化させ、それが巡り巡って社会全体を豊かにする」と主張しました。更に、自然界は人間の経済活動を今後もずっと数百年は許容できると考えました。 おそらく十八世紀にはそのように観察されたのでしょう。

ですが、もはや地球環境が壊れていることを示すサインは世界中に顕著にみられているのではありませんか?利益の多くは一部の人々が占有するものとはなっていませんか?
それにも関わらず、人類はこの歩みを止めることができません。
そこに増え続ける総人口が、貪欲を懐いて更なる豊かさを求めるこの世界は限界を迎えつつあると言っても過言ではないでしょう。

もちろん、これが創造者の意図した世界ではあるはずもなく、この世に神の支配が行われているわけでもありません。この世の苦しみは人間の持つ「罪」が行った害悪に他ならず、創造者を意に介さないことにおいて、今や人間の作り出した「この世」のシステムの害が頂点に達しようとしているかのようです。

この状況にあって、宗教は無力に近い状態にあります。宗教も宗派同士も「自分たちの正義」を唱えて対立し牽制しあっており、それぞれの信者だけの安寧を教えて、社会全体の抱える問題には何ら有効的な教えを持ち合わせてはいません。精々がボランティアを自慢するレベルにあります。

他方、「この世」は、過去の人々が嘆息して述べた「虚しさ」を越えてしまい、いよいよ「破局」の様子を見せていると言うべきでしょう。聖書では『神の象り』とされる人も、社会のなかの個人というものは、嵐の中の一葉のようでしかありません。

ソロモンは三千年も前に『人が人を支配して、これに害を与える』と指摘しています。(伝道8:9)
ですが、神は「この世」を憐れんで放置されず、既に二千年も前に人類救済の手段を具体的に準備されました。

それが『神の王国』と呼ばれる神の支配であり、その支配者は「罪」ある人間ではなく、『神と人との仲介者』となったイエス・キリストであることを聖書は知らせています。

あの、弱き者らに寄り添い、傲慢な者を譴責し、遂には自らを犠牲として人の『罪』の贖いに捧げた方イエスを王として迎える『神の王国』を通して、人類の「罪」が許される道を拓き、人類の神への復帰を助ける務めを果たさせるのが神の意志であるというのです。

この犠牲について聖書にはこうあります。
『神は、その独り子をお与えになったほどに、この世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅ぶことなく、永遠の命を得るために。』(ヨハネ3:16)
虚しく非情な破局に向かう「この世」から脱出することは人間自身に出来ることではありません。人類全体はこの窮地から自力ではけっして逃れられないでしょう。その身に負っている「罪」の重さがそれを許さないからです。

ですが、聖書に目を向けるとき
この世に在っても、「罪」からの解放という一本の希望の光が差し込んでいることを理解できるのです。

この「光」は旧約聖書では『諸国民の光』また新約聖書では『世の光』と呼ばれました。
これらは共に『神の王国』のもたらす人類救済を指しています。これが多くの教会で「天国」という仏教の「極楽」のような個人の救いに誤解されてしまっているのは、まったく残念なことです。

「この世」を動かしてきたものが「貪欲」であったなら、『神の王国』の社会を動かすものは「アガペー」と呼ばれる「愛」となります。それが人間が本来抱くべき行動原理です。
「この世」の原則は「他人のためには働かない」というものですが、『神の王国』では『自分を愛するように他者を愛する』ことに置き換えられます。つまり、『罪』の反対側に『愛』があり、この『愛』こそアダムが神に示さなかった特質でありました。

これは「この世の精神」とは百八十度の変化といえるでしょう。「アガペー」と呼ばれる「愛」は「敵をも愛する」ほどに強いもので、これをイエスは「この世」で最期まで体現されました。

人々の貪欲を外からの強制力によって抑制するこの世の「法」のシステムは、キリストによって、「愛の掟」という自発的な個人の内面の規律に置き換えられます。これを聖書は『贖罪』と呼びますが、つまり『罪』をキリストの罪のない犠牲という代価をもって許すことです。それは人間の行えるようなものではありません。どんな社会変革も人に幸福をもたらさないのは当然でしょう。

この世では人々の貪欲が法の網をすり抜けようとするので、法に法が加えられてゆきますが、「愛の掟」は『神と人を愛せよ』という極めてシンプルに、ただ一条あるだけです。しかし、そこで人々は規則に頼らず、自らを省みる必要が生じることになります。自分の貪欲を遂げようとして虎視眈々とするような「この世」の人はそこにいません。

また、創造者への配慮は、与えられた大自然を管理するという人間本来の務めを怠らせることなく、世界はひとつの政府の下に一致してことに当たることができますし、アダムの堕罪以降の『地の呪い』も解けて自然界も息を吹き返し、大災害を見ることもなくなってゆくことでしょう。その自然の美しさは、今日には想像もつかないほどのものなのでしょう。

また、『動揺する海の波』のような今日の市場経済も過去のものとなるので、富の偏在や大不況、また奴隷的雇用にうめくようなこともないでしょう。もとより規制されるべき貪欲が影をひそめるなら、人々の貪欲を調整するための「通貨」というものの必要性さえ失われてゆくことは間違いがありません。他者の幸福を自らのものと捉えるからです。(イザヤ57:20)

イエスは当時のローマ帝国の総督に向かって『わたしの王国はこの世のものではありません。もし、そのようなものであったなら、弟子たちはわたしを捕縛させまいとしてユダヤ人と闘ったことでしょう』と言明しました。

この言葉が示すように、「この世」のものでない『神の王国』では、貪欲を去った人々に暴力の垣根を必要としなくなるでしょう。「罪」から洗われ愛によって生きる人々に警察や軍隊の必要が無いことは充分に信じる理由があります。

新約聖書は『愛は隣人に害を行わないので、愛は法を全うするものなのです』と述べます。
ですから『神の王国』においては、法規制への外面的隷従を去って、「愛の掟」により自発的規制の自由な世界となることでしょう。倫理性を体現した人々であれば、「裁き」というものを恐れる必要もないでしょう。

この『神の王国』が、キリストが「この世」に現れて伝道した教えの主題となっていたものであり、福音書にはこの『王国』について語るイエスの姿が随所に見られます。彼こそが、その王国の支配者となるべき方であったのです。
聖書はキリストについて『この方に希望を置くものは誰も失望させられない』と述べています。

この世というものは、人々がアガペーの愛によって生きることを許さない構造をもってはいます。
それでも、あなたにとっても『神の王国』に深い価値を見い出されるのでしたら、今からでも、神と人を愛し、自らを律する精神を持つように出来得る限りに努めることはできます。 行えることに限界があるのはどうにも仕方ありませんが、それでもキリストを見習うことになり、『神の王国』を待ち望んでいることになるのです。それがキリスト教の信仰となるでしょう。(ヨハネ13:34-35)







.
関連記事

7.エデンでの試みの意味

2014.07.11 (Fri)
エデンの園の二本の木


創世記の最初の人アダムの記述は、「神話」の範疇のものとされ、「原始的な宗教説話の名残からはじまって、後に聖書という不朽の文学に発展した」という一般的な識者の観方をしばしば目にします。

しかしその一方で、「学術的な」色眼鏡をかけずに聖書全体をそのまま読み込んだ人にとっては、エデンの園での出来事を記した創世記の初めの三章を振り返ると、実に意味深く、また、人間というものの性質と、「この世の有様」を説明することにおいて、まことに説得力を持っていることに気付くことでしょう。

殊に、エデンの園での有名な事件「禁断の木の実」について再考するときに何が見えてくるでしょうか。


神がアダムを創造して後、エデンつまり「楽しみ」を意味する名の園に彼を置いたときに、園の中のあらゆる果物を食物として与えたこと、また、その楽園の中央には二本の木が植えられたことを創世記は記しています。
一本は「善悪を知るの木」、もう一本は「永遠の命の木」とされています。

そして神は「善悪を知るの木」に関して、アダムに食さないように、触れさえしないようにと伝えます。
しかし、これは神の権威を知らしめ服従させるための命令ではなく、父親のように『神の子』アダムに愛着を持ち、『死ぬことがないために』とその命を大切にしようとした創造の父の愛ある配慮の表れであったと解することができます。

創造者はアダムの前にあらゆる動物を逐一連れて来ては名前を決めさせ、何にせよアダムの言った通りがその生き物の名とされたと創世記は述べています。これは創造者にしては破格の好意であったというべきでしょう。これはまた、人間が神から独立した自由な思考を与えたことを示してもいます。神はアダムの自由な発想で、生き物の名が決まることを許されているからです。
そして、あらゆる果物を食物として与えた園が「楽しみ」と呼ばれたように、そこは人間への神の顧慮を増々示します。

加えて、アダムには『助け手』となり、『人の子らの無上の喜び』である女という存在、『エヴァ』も与えられ、更に生きる喜びを深めます。分かち合うエヴァの存在により、アダムにとってのエデンでの楽しみは二倍になったともいえましょう。

これらの記述を通して、創造の父が如何にアダムに愛顧を払ったかを垣間見せます。それは親が末息子を可愛がるようであり、愛情あふれる父親がするようにして、彼から善悪の木から採って食べることを忠告して遠ざけようとしていました。

ここでひとつ疑問が生じることでしょう。
つまり、創造の神がアダムをそこまで愛しながら、なぜそのように危険な果実を生み出す木を創り、また、なぜ園の真ん中にわざわざ目立つように植えたのか? という問いです。
それでは、まるでその実を食べてはならないと言いつつ、食べるようにと誘っているかのようにさえ見えます。食べて欲しくないものを目の前に置くことは、だれもまずはしない事です。

もちろん、これは単純な事ではなく、重要な物事が関わっていたことでしょう。
創世記は簡潔な文体で淡々と語り進んでゆくのですが、その字面の背後には倫理的な事柄、人間の内面をえぐりだすかのような本質が込められていますし、この創世記の文面だけでは知り得ない事柄も含まれています。

例えれば、この後で登場して来る誘惑する「蛇」が何者であるのかを創世記は語っていません。しかし、聖書最終巻の黙示録を見ると、その第十二章に『悪魔、サタンと呼ばれて、全世界を惑わす、あの始まりからの古い蛇』と書かれ、それが何者かが知らされています。
このように聖書は、その全巻からの情報を総合してゆくことでその部分の謎が解けることがたいへんに多いのです。

さて、「蛇」はアダムにではなく、エヴァの方に近付いて誘惑しました。
そうしてアダム籠絡の効果を狙ったのでしょう。
つまり、アダムが創造者の言葉をそのままに違反させることは難しいにしても、アダムのエヴァへの愛着が、アダムと神の関係に勝り得ることを見て取ったということです。

おそらくエヴァは、その経験の浅さのためか、アダムほどには注意深くはないということもあったのかも知れませんし、アダムを最初に誘惑しても効果は低く、一度失敗すればエヴァにも注意を促されてしまい、増々誘惑は困難となります。

そして、やはりエヴァはアダムの居ないときに蛇に話しかけられ、「その実を食べても死ぬことは無い」との言葉を信じて食べてしまい、その場ですぐには死ぬこともなかったので、ますます蛇を信じたことでしょう。 
それからアダムと共になったときに彼にその果実を差し出します。

後代になって使徒パウロは『女はまったく欺かれた』と記していますが、『アダムは欺かれなかった』と書きました。
では、アダムはその実を食べなかったかと言えば、そうではありません。なぜでしょうか?

その理由は、神の前でのアダムの事後の言い訳の言葉に示唆されています。
『あなたがわたしと一緒に居るようにと言った女が渡したので食べました』というのが創世記に残された言葉ですが、ここには『一緒に居るようにと(神が)言った』という文言に彼のエヴァへの愛着が表れています。

アダムはしばらくを独り身で過ごし、エヴァを娶わせられたときに『これこそ遂に私の肉、私の骨』と感嘆の声をあげたと書かれていますが、どのような動物を見ても決して得られなかった伴侶を見出した喜びがそこに云い表されています。
後に新約聖書も「夫婦は二人ではなく一体となる」と述べます。そこでやはりアダムのエヴァを失いたくない願いや彼女への思慕が非常に強いものであり、アダムと創造の父との関係を超えさせるほどのものになり得ることを、蛇を操っていたサタンはやはり見抜いていたことでしょう。

エヴァへの誘いが上手くゆくことで、サタンは、ただ木の実を取って食べるか否かという試みを、アダムには妻を失うか否かという非常に重い誘惑に置き換える事に成功します。

そこで、この誘惑によってアダムはエヴァとの関係を選び取り、自らを存在させた創造者との関係を第一にはしませんでした。
ここに於いて、アダムは例え死ぬことになっても、完璧な美しさを持つエヴァと命運を共にすることを願ったといえましょう。
男女や夫婦の関係を大切にすることは間違いではありませんが、神との関係は本来別格です。二人を創造した方なのですから。

それは、アダムが倫理に関わる自分の意志を初めて表明する機会でありましたが、悪い選択をすることでそうしてしまったのです。つまり、自分の欲望のために自己の存在の由来を認めず、神の創造の意図を離れる意志を表わしてしまいました。人間社会の倫理として、それがあらゆる不義の始まりの第一歩であったといえるでしょう。人間は、まず神に対して不義を行い、あらゆる関係の土台を損ったのです。

神への忠節な愛を示さなかったアダムが倫理上に傷を負ってしまい、すべて子孫に倫理上の欠陥を遺伝させてしまっていることは、今日のこの世の有り様を見てもまったく明らかなことです。世界は、人と人がどう生きてゆくべきかという「倫理」に問題を抱えており、実に、これが世に満ちる諸苦の大半をもたらしているのです。 聖書は『ひとりの人を通して罪が世に入った』と宣べています。(ローマ5:12)

倫理上の欠陥とは、他者とどう生きてゆくかという事に問題を抱えることを意味しますので、神はそのような理知有る存在に永遠の命を授けることはないでしょう。確かに『罪を通して死が世に入った』とも聖書は述べます。人が寿命を迎え世を去る定めは、創造の初めからのものではありません。それは二本の木のもう一方が『永遠の命の木』と呼ばれていたことからも明らかでしょう。

しかし、サタンはこうして目的を達成することができました。つまり、自分と同じように自らの不義な欲のために、創造者の意図を離れて勝手に生きる仲間を増やすことで、一回の誘惑だけで自分の追随者を「この世」という単位で得ることに成功したのです。それから、人々は自分の生きる意味を問い尋ねるようになり、答えを求めて宗教を必要とすることにもなりました。

サタンがなぜ、神から離れるように誘惑するのかと言えば、イザヤの預言書が、この元は優れた天使であった者の利己的な欲望が何であるかを暴露しています。
『わたしは天にのぼり、わたしの王座を高く神の星の上に置き、北の果なる集会の山に座し、雲の頂点に昇り、いと高き者のようになろう』(イザヤ14:13-14)

『明けの明星』またラテン語由来で「ルシファー」とも呼ばれるサタンの、利己心からくる貪欲は、他の者らを神から引き離し、自らの地位を揚げて賛美、崇拝されることにありますが、追随者の居ないことにはこの利己的支配欲も遂げられることにはなりません。
そこで、創造の神を無視する者、または無頓着な者を出来る限りに増やし、可能であればすべてをその手中に納めてしまうことまでも際限なく願うので、神を認識できるあらゆる知的存在を誘惑しないではおきません。それは神以外のすべてであり、キリストといえども例外とはなりませんでした。(マタイ4:1-11)

しかし、創造の神は『全能者』であって、創造の業を必ず成し遂げられます。もし、創造の企図に従わない創造物が存在を続けるなら、創造の業はいつまでも成し遂げられないことになりますから、神はそのような「罪」ある創造物を永続させず、終わりをもたらします。(エゼキエル18:4)
この点で、神への忠節な愛を確証したのがイエス・キリストであり、この『全創造物の初子』の示した見事な忠節は神を神たるものとし、サタンとそれに従う者らすべてを断罪し沈黙させるものとなります。またキリストの犠牲がアダムの子孫を「罪」から釈放する代価ともされたということがキリスト教の極めて重要な教えです。(ローマ5:18)

そこでエデンの園の「善悪を知るの木」の意味が見えてきます。
つまり、アダムは創造されたままでは永遠に生きる確証までは与えられてはいなかったのであり、エデンに住み続けるには、創造主を創造主とすること、つまり神への忠節な愛が条件であることを、エデンの園の中央に植えられた二本の木が指し示していたことでしょう。そこで神は、アダムが誘惑に立ち向かい、忠節な愛を示してこの試みを乗り越えることを願ったに違いありません。

創造者に忠節な愛を抱くことはすべての道徳や倫理の基礎であり、これ無くして人は真に倫理的であることも、人生に真の目的を見出すこともできません。自分を存在させた原因者との結びつきという、最も基礎的な関係を壊して自分の存在理由さえも投げ出してしまうからです。アダムの子孫が自らの人生の意味を問うのも当然のことでしょう。

エデンでは、この倫理の中で最も重要な基礎である事柄、アダムが神への忠節な愛を示すか否かによって、倫理上の欠陥である「罪」(原罪)を負う生活に入るのか、それとも誘惑を乗り越えて創造の意図に適う「神の子」と認められ「永遠の命の木」から食べることを許されるに至るのかが問われていたのです。

「神の象り」(似姿)として創られた人間には、このことで自由な意志を表すことができる存在であり、神はその自由意志による純粋な愛の表明である忠節によって知的創造物と結ばれることを願って二本の木の選択に託されたされたのでしょう。
アダムの子孫であっても、忠節を示す者は創造の父と結ばれ永遠の命に与る理由を得ることになります。それをもたらすのは「忠節な愛」であり、それは『罪』の反対にあるのもです。(ヨハネ第一4:16)

ですから、利己的な欲に従ってしまう者が出る危険を神は承知の上で、自らの「象り」のような知的な存在の自由を創造者は認めましたが、人の倫理に関わるプライバシーを守り、それを予知しないことは神が自らを尊重することでもあり、この自由な意志からの、忠節で混じり気のない純粋な愛で創造界が満たされることは多大の犠牲を払うに値する事柄と見做されたのでしょう。

さもなければ、神はこの世の害悪の一切を力によってとうの昔に無くしてしまわれたに違いありません。いや、初めからアダムを創造しなかったことでしょう。
アダム以来、「この世」は創造者を敬わず、また苦悪が満ちており、創造の意図や設計から大きく外れてしまっています。
しかし、神はこの状態を正される手段をアダムたちに宣告されました。
それがエデンの園で予告された『女の裔』と呼ばれる、将来の「何者か」だったのです。

創造の神は創世記3章15節『蛇』(サタン)にこう宣告します。
『わたしはお前(蛇)と女との間に、またお前の裔と女の裔の間に敵意を置く。彼(女の裔)はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くだろう』。

このエデンで語られた僅か一文とはいえ、この句の持つ意味は非常に重く、聖書歴史の全体を貫通する最大のテーマとなりました。この句なくして聖書なく、キリスト教も存在しないと言ってよいでしょう。
つまり、サタンの頭を砕き致命傷を与えるという、この「女の裔」とは後代に現れるイエス・キリストを中心に表しています。

キリストもサタンから攻撃されますが、最終的に勝利を収めます。
そこで、この「女の裔」を巡り、聖書のその後の内容が最終巻の黙示録まで展開してゆくことになります。

さて、創世記に記されたエデンの出来事を原始的な神話や伝説の域を出ないと見做したりしてよいでしょうか? 
そのようなことをすれば、聖書全巻の理解の鍵を、その入口で投げ捨てることになってしまいます。それでは「科学的」という観点から外見だけを見て聖書を批評し、内容に深い意義を見出すことなく終わってしまうでしょう。

創世記の原初史には、古代人に分かる内容でありながら、現代人も否定できない人間の本質が指摘され、だれも窺い知ることのできないその始まりを知らせ、結末さえ暗示するという不可思議が存在しているのです。

原初史の理解によって、そのキリスト教がどんなものになるかが決まってしまうと言っても過言ではないのです。


.

関連記事
back-to-top