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6.神、「上なるもの」と人の関わり

2014.05.25 (Sun)
6.神と人の関わり

人は自然に、また様々な仕方で自分よりも高い領域の存在者を想定し、自分自身を関連付けようとするものです。
これは、どのような人種でも、知的レベルでも社会的階層に関わりなく普遍的にみられます。

ギリシア語で「人間」を表す「アンスローポス」には「上を向くもの」という元の意味があり、これは自らを超える存在を意識する特異な動物としての人間の有様を言い当てていると言えましょう。

人間は多様な「上なるもの」に畏敬を払ってきました。
それは自分たちを導き幸いをもたらすものとしての神々、また、様々な性格を持ち、各人に関心を持ち守護してくれるような神々、また、亡くなった先祖を敬い崇拝することや、大自然そのものの驚異を神とする崇拝、つまり「上なるもの」への畏敬がそれぞれの文化にしたがって存在します。

あるいは「拝金主義」のように、欲望を叶えてくれる媒介物としての金銭を崇め、それに平伏して仕えるような生活様式も広い意味では、「上なるもの」への畏敬なのかもしれません。

こうしてみると、人はまったくの無神論を選ぶことの方が難しいとも言えます。

ある人は神を信仰したり崇敬したりすることを非科学的であると言うかも知れません。
20世紀には、マルクスの「宗教は人民のアヘンである」という「教理」を受け継ぐソビエト連邦の支配の下、当初指導部は科学的教育によってやがて宗教は消滅してしまうと指導層も楽観視していたといわれます。
ところが、その予想に反して世代が進んでも、宗教は蝋燭のように短くなって消えることはなく、一向に信者も信仰心も過去のものとはなりませんでした。

そこで、ソビエト政府はすべての学校で若者に無神論を教えることを義務付けただけでなく、宗教組織を解体し、一切の宗教教育を禁止して一掃したはずでしたが、民衆から宗教が消えることはなく、やがて姿を消したのはソビエト政府の方であったのは如何にも象徴的な出来事であったと言えましょう。

「上なるもの」との関係をまったく断ち切ることや、人間だけの世界に生きることを人々は本能的に拒否したのでしょう。もちろん、人々がまったく無神論的にならなかったのではありませんが、ソビエトの教育に従って宗教を捨てた人々でさえもまた「無神論」という一種の宗教を崇拝していたと言えます。

そこには、共産主義という教理と社会主義という崇拝方式があり、「科学」という神がもたらす幸福な将来を信仰し、偉大な指導者を大きな偶像として各地に建立し、その遺体を廟に奉り、そこに人々は長蛇の列を成して詣でたところは、もう立派な宗教となっていたと言って過言ではありません。

こうして、人間の持つ「上なるもの」への畏敬は試みられてなお、却って普遍性をもって人間に宿っていることが証しされたと言えます。

「上なるもの」への畏敬は、それを断つことの方がよほど不自然であること、人間の造りそのものが自然に求めるところであることは歴史的に否定し難いものです。その点で、ロロ・メイのような心理学者が、完全な無神論者の多くがノイローゼ傾向を示す、と指摘したのも人間の自然な性向が「上なるもの」を求めるところであることの傍証なのでしょう。

しかしその一方で、大多数の人類が、その「上なるもの」が何であるかについては、自動的に意見の一致を見るということはありません。
つまり、「上なるもの」と人類のつながりは漠然としたもので、誰もが同じ結論に至るほどにそれは明瞭なものではないのです。

そこで人々は様々な「上なるもの」を奉ってきましたが、その「上なるもの」は崇敬に価するものとされると同時に、人に導きを与えるものとしての役割もまた人々の自然と求めてきたところでもあります。

その導きとは、自分の在るべき姿や、行くべき道を教え諭してくれること、さらに突き詰めると、なぜ人は存在し、死んでゆくのか、つまり、どこから来てどこに行くのか、そしてその目的は何なのか?という究極的な質問の答えを求めることが含まれてきます。

これは、誰もが少し考えれば避けられない問いであるにも関わらず、人間同士には自分流の解答以外になく、正解がありません。なぜなら、人間は自ら存在したわけではないからです。

それに加え、人間の生涯とその環境は生きる意義が何であるのかを更に問い掛けさせるものとなっています。人の一生は短く、その生涯には幸福よりは労苦が特徴的であるからです。
そこで、人は「自分はなぜ生まれて死ぬのか」の問いから、一生を生きる意義や価値を探ろうとしてきました。例えれば、周囲の人を愛すること、何かの業績を上げて名を残すこともその意義や価値に含まれると感じられることもあるでしょう。

この問いで、人は更に答えを求めて「上なるもの」に問い続けるか、考えても仕方のない事と生活に没頭し、あとは周囲の宗教的慣行に任せてしまうかの対応をしてきたことでしょう。

これについて聖書が知らせるところでは、万物の創造者が「上なるもの」としてあるにしても、この「神」と「人」との間に断絶があることを知らせます。この神と人との隔たりのために、人間は「上なるもの」の像がぼやけてしまい、それが何者であるのかについて一致できないのでしょう。

そして聖書は、神との断絶の原因として、「罪」と呼ばれる倫理上の欠陥に人間が陥ったことであること、そのような欠陥は神が人間を創造するに当たり意図したものではなく、人間自らが創造者を愛さずに否認し、創造の意図を外れて勝手に生きるという選択をしたことを教えています。そして人類社会は宗教に熱心な地域も含め、現在も同様に神に対して無頓着です。

これが最初に創造されたという人、アダムの選んだ生き方であったため、聖書は『一人の人を通して罪が世に入り、罪がすべての人々に広がった』。また『あなたがたの咎は神とあなたがたを分裂させるものとなった』と、神と人の間に生じた問題を指摘しています。(ローマ5:12/イザヤ59:2)
これを創世記では、人間がエデンの園という神の寵愛の場から追放されたこと、つまり「失楽園」の原因が神への不義であったことを、簡潔な文章に記しています。(創世記3:23-24)

聖書は個人的な利益のために人生に導きを与えるようなガイドブックではありません。
ですから、自分の人生での成功や家族の幸せだけを願ってこの本に向かっても、ほとんど意味を成さないでしょう。
むしろ、その知らせる益の大きさは人類の全体が直面している最大の難題に及び、それが人間の倫理上の欠陥、つまり聖書でいう『罪』に原因する神との断絶であることを聖書は知らせているのです。

そして聖書は、この『罪』という悪に流れる人類の最も重要な課題を克服するための神の手立てをも知らせており、ここに聖書とキリスト教の最大の意義があります。
この『罪』を除くことがイエス・キリストによる人間と神の仲介の役割であり、「任命された者」の意味を持つ「キリスト」という称号に、その果たす役割の意義が示されています。(テモテ第一2:5)

人間には、この「キリスト」の仲介を通して神と和解する道が一本ひらかれています。(ヨハネ14:6)
神との和解とは、人間を存在させた創造者との関係を回復し、遂に「上なるもの」と自由な意思の交流を可能とされるばかりでなく、現在の空虚で短い生涯からも解放され、神の創造の当初の意図された栄光ある人間の姿に回復されることを意味します。

生活のために生活し、ただ子孫を残して去って行くこの無常な世は、本来神の意図するところではありません。
この状況下で、自分たちが何のために生きているのかと疑問を感じることは自然なことであり、その問いを「上なるもの」に求めようとすることも理知を持つ人間として当然のことと言えるでしょう。

しかし、長い年月に亘って重層的に書き継がれ、辞書のように厚い書物となった聖書は、その性質上、人がそのまま読んで全容を理解することをまず期待できるものではありません。そこで手引きを必要ともしますが、その導き手自身が聖書の価値に通じていないなら、『盲人が盲人を導く』ようなことになり兼ねません。

ただでさえ、現在も人間と神とは隔てられた状態にあり、神に関する理解も「問えば何でも答えられる」ということにもなりません。聖書をそのまま読んですぐに全体を把握できない理由はここにあり、イエス・キリストが常々『耳のある者は聴きなさい』と語ったことに関係があります。
つまり、問う人間の側の姿勢によって神の理解を得るか否かが異なるのです。

単なる好奇心や、徒な想いで極めて重要な事柄を問う人には答える必要がはじめから無いように、聖書は問う側の人を濾し取ってしまうような不思議なところがあります。神について聖書に『清い者には清い者となり、ねじけた者にはねじけた者となる』と書かれていますが、聖書の記述は「問う者を問う」ようなところがあるのです。それが極めて重い内容であるからでしょう。(詩編18:26)

「上なるもの」への問いは、当然に畏敬と真剣さが求められ、真摯な態度で聖書に向かう必要があり、軽々しく見たり、ご利益を探したり、挑戦的傲慢さを以って読もうとするなら、ほとんど得るところなく理解は浅いところで止まってしまうでしょう。あるいは思ったようにならず、失望して神を振り捨ててしまい、却って無神論に向かうかもしれないほどの恐れもあります。

そのように、「上なるもの」の霊感によって書かれた聖書は、どこにでもあるような普通の本とはいえません。
『神の言葉は生きていて、力があり、諸刃の剣よりも鋭利に関節と骨髄、精神と魂を切り離すほどに刺し通し、心の考えと意向とを見分けてしまう』というこの一言に表されるように、近づく人の動機を選り分け、同じ結果を与えず、ある人には深い信仰をもたらし、ある人には無関心や反発さえ引き起こします。(ヘブル4:12)

このように聖書はある意味で、近付く人を映し出す「鏡」のようであり、様々な「願望」をもって近付く人々には、その「願望」のままに解釈を許す余地が無くもありません。同じキリスト教でも、たくさんの宗派が存在する理由はここに関係しているでしょう。

ある人々には「天国」での至福を約束し、ある人々には人生での成功を、またある人々には神の是認や酬いを約束してくれているように、聖書を浅く読み、都合の悪いところは考えないで済ませば、このように人間の願望を中心とした宗教を形成することが可能です。そこでは、真の「上なるもの」の意図が受け容れられない人を強制せず、逃げ道を設けているかのようでもあります。

しかし、書物には著者が伝えようとする本来の意図が有るように、畏敬と謙る誠意を以って向き合おうと努めるなら、この書に込められた「上なるもの」の意図した内容、人の欲に染まらない貴重な神の意図が語り始められることでしょう。
それがどれほどのものかを味わうことのできる人は、神との接点を得ることになり、神の知識を深めることができるのです。

「上なるもの」を認識できる我々のような知的創造物を存在することの意味を教えるのは、やはり創造者である神であり、この神こそが人間それぞれにその存在意義を知らせる意図をもっています。そうでなければ聖書もキリストも無く、人類は捨て去られ、とうの昔に滅んでいたことでしょう。

しかし、神は人類を見捨てず、今日その意志は聖書に啓示されています。それは人の思惑を遥かに超える「上なるもの」の言葉であり、これに触れる人をして深い感銘を味わせずに終わるものではありません。そのような読者からすれば、この書の中で栄光を放つ著者こそが「神」の名に値すると感じられることでしょう。





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「生きている間に洗礼を受けるべきか」という問題につき

2014.05.19 (Mon)
ご質問は単一のものとせず、いくつかに答えを分割する必要があるようです。
そこには微妙な問題も含んでおります。

ですが、誤解を恐れず結論から言いますと
「生きている間にイエスを信じなくても大丈夫ということで」す。
この「大丈夫」とは、「救いの可能性はすべての人に同等に残されている」の意味です。

そして、ご質問の趣旨はひとつのカラーを持っています。
「セカンド・チャンス」という発想で
それはこれまでの「旧来の教会的」な見方から、方向性を探ろうとするものでしょう。
つまり、「クリスチャンは天国行きが決まっている」という従来の教会の基本的な教えですが
この「旧来の教会的」見方がどこから来ているかといえば、所謂「クリスチャン」という聖書中にしっかりとは定義されてはいない単語に基づいていることでしょう。

これは聖書をいくらか詳しく探索するだけですぐに分かることですが、「バプテスマを受ければ救われる」というのは信者のすべてを意味していません。それは『新しい契約』に入る『聖なる人々』を指すのであり、聖書が書かれた当時には、ほとんどのキリスト教徒が『聖霊によって清めを受けた』『聖なる者』(ハギオイ)でありましたから、現代の人々が聖書をそのまま読むと、自分もバプテスマを受ければ救われると思ってしまうのです。

しかし、聖霊が注がれるというのは、奇跡を行う力も授けられたのであり、その紛うことのない印を持つ人は、最初にキリストの贖いを受けて『罪のない者』と見做されていたのです。ですからパウロも『(キリストを)信じた結果、約束された聖霊の証印を押された』とも、また『この聖霊が、わたしたちが御国を受け継ぐための保証(約束手形)となった』とも述べているのです。(エペソ1:13-14)

この『聖なる者たち』というのは、『キリストの兄弟たち』となり、『共なる相続人』とも呼ばれます。キリストと聖なる者たちの前でこの世が終わるときに世界の人々は『羊と山羊に』分けられ、そのときに、聖霊の言葉を信じて『羊』とされた人々を聖なる者たちがキリストと共に天から牧するようになります。

それが『神の国』の支配の到来であり、キリストと共になる『キリストの兄弟たち』が天から人類の祝福となり、遠い昔にアブラハムに約束された『地のすべての部族はあなたの子孫によって自らを祝福する』というアブラハムの相続財産を受けることになるのです。
つまり、本当の意味での「神の選民」『神のイスラエル』で、彼らは地上にいる間は聖霊を持った『聖徒』なのです。

ですから、メシア信仰をもったとしても、奇跡の聖霊の有無によって、信徒か聖徒かの違いが生じることになり、使徒時代から今日まで、奇跡を行う聖霊を持つキリストの弟子は絶えて現われていませんが、古代のカトリックの聖人たちには、奇跡を行う力とキリストに倣って殉教した記憶が刻まれております。このような人々が、この世の終末には再び現れると聖書に何度も語られているのです。

さてそこで、ただ「クリスチャン」と人を呼ぶのは、この『聖徒』か『信徒』かの違いが意識されず、そこで聖書理解に限界が出来、『新らしい契約』が『神のイスラエル』を導き出したことが分からなくなってしまうのです。
新約に三度現れるこの語「クリスチャン」はいずれも外部からの、または外部的な(ペテロも)呼び名であり、キリストの信者自身から現れた名称ではありません。
確かに使徒言行録では、シリアのアンティオケイアで最初にこの語が部外者によって用いられ、それが神のみ旨によることであった、とも訳文では言い添えられてはいますが、それは一つの単語「呼ばれた」という語に含意される「勧められて」というニュアンスを抽出し『み旨によって』と意訳したものです。その『み旨』という趣旨は、ユダヤ教からのキリスト教の分離を意味しており、もはや、彼らイエス派がはっきりと別の宗教として区別されるべき時に達していたという意味に訳者が解釈してのことでしょう。
ですが、「クリスチャン」という名でメシア信仰者が呼ばれることを神が導いたというには、新約聖書での表示が随分少ないように見えます。

むしろ、ローマ帝国内に信者が増えてゆく段階で、このユダヤ教徒とも異なる『この道に属する者たち』(使徒9:2)、また『ナザレ派』(ナゾーライオス)(使徒24:5)を一般人や権力側が識別する必要から本来出た名称であることは新約聖書と同時代の資料から明らかです。(使徒11:26)
つまり、ユダヤ教と後のキリスト教の分岐点を過ぎつつある当時の様子を教えるものでもあります。もはやユダヤの宗教はキリスト・イエスをはっきりと退けているので、メシアの教えはユダヤ教とは別物として、いよいよ諸国民に向かっています。彼らは血統上の『肉のイスラエル』ではなく、ユダヤ教からの人々と諸国民の、共に「メシア信仰者」でありましたので、双方の民を合わせて『神のイスラエル』であるとパウロは述べております。(ガラテア6:15-16)

彼らがそのように真のイスラエル、アブラハムの後裔として『地上のすべての諸族の祝福となる』『聖なる国民、王なる祭司』であることは、注がれた奇跡を行う聖霊によって『聖徒』と認めることができました。(創世記22:18/出埃19:5-6/ペテロ第一1:2・2:9-10)

それで今日、「クリスチャン」の語が何かにつけて繰り返されると、信徒と聖徒の区別を見失う危険も増えてゆくことは明らかです。しかし、両者の決定的な違いは、キリストの祭司となるべく『罪を許された』かどうかというほどに違うのです。これは不公平なことではなく、信徒たちはいずれ彼ら祭司たちによって贖罪される機会を得るわけですから、彼らの奉仕の益を受けるという幸いに与るのです。

さて、使徒時代に『この道』の中心を成していたのが、エクレシア(招会*)の中で聖霊の賜物を持っていたユダヤ人と異邦人からなる聖徒たちであったことはまず疑いようがありません。 *(現状のキリスト教で専ら呼称される「教会」は「キュリアコン」に由来するのでしょう)
しかし、その周辺にはコリント第一14章に見るように初学者や子供たちも居て、そこに集う人々や関心を持つ人、またその家族も社会からは『道に属する者たち』と見做されていたことでしょう。まず、このことを念頭に置く必要があります。

従って、ローマ帝国の国教とされ、様々な法整備が行われた後の「帝国のキリスト教」、つまり、ユダヤ教が国教であったような割礼に相当する「幼児洗礼」によって国民皆信者制となった後の意味での所謂「クリスチャン」と、初期キリスト教徒を指して呼ばれた「クリスティアノイ」とは意味や価値の上での違いがあり、私が文章で極力「クリスチャン」の語を用いないようにしているのは、この辺りの誤解を避けたいというところがあります。

一般の教会はこの語を用い過ぎ、洗礼を受ければ誰もが「クリスチャン」である以上にはなりません。つまりキリストの犠牲の『初穂』である『聖徒』は「信者」と同義語になってしまっています。
ですが、聖書の教えはそこまで単純ではありませんし、「クリスチャン」は「ご利益信仰」を受ける信者、自分は神に是認され寵愛を受けているという利己心に慢心する人々と同義語にもなっているのです。
その間違いは、本来は『聖徒』が受けるはずの天への召しや、『罪』の仮釈放が、聖書の書かれたまま自分に当てはまると勝手に勘違いをし、その祝福を横取りしているような気になっているだけのことであり、神の偉大なご意志には関心もぜず、ただ、自分の身に救いが起ることばかりを願いつつ、周囲の不信者は地獄に行くと思い込んでいるところから来ています。

ですが、聖書が書かれた当時、『この道に属する者たち』が「クリスチャン」と呼ばれるときには、聖徒も信徒もまたその周辺の人々を含んでいたことが実際のところだったでしょう。しかし、当時のエクレシアの大半を占めたのは聖霊注がれた「聖徒」でありましたから、「クリスチャン」の語を用いるときには聖霊ある人々と、そうでない初学者との混同を注意する必要があります。
現代語としての「クリスチャン」は、洗礼を受けた者、そこから派生して「救われた者」という意味でほとんどの教会や宗派で使われていて、そこで聖霊の有無はまったく意識されません。というよりは、奇跡の『聖霊』はその人に在ることにしてしまっているのです。

なんとも愚かしい事なのですが、「救われた者」とは「聖徒」を指すのであって、水のバプテスマだけで人が救われるということはありませんし(ヨハネ3:5)、「聖徒」にしてもその「救い」は「新しい契約」による仮の暫定的なものなのです。(ルカ13:24)聖徒は自らが聖なる者であることを忠節さと清い行状とによって、最期まで契約を守ることを生涯を通して実証しなければなりません。(ペテロ第二3:11)

しかし教会では、誰もが既に契約関係の恩寵にあった初代のユダヤ人のように水のバプテスマを受けると聖霊も自動的に受けられるかのように教えるので、実際に聖霊があろうとなかろうと区別なく皆がただ「クリスチャン」であることにされています。

古代の「クリスティアノイ」は、聖霊ある「聖なる者ら」を主に称して外部が使った呼称でありましたから、今日の「信徒」だけで構成される「クリスチャン」とは内実に相違をきたしています。

これらの違いがあるにも関わらず「クリスチャン」という言葉には、今日その区別も理解もまるで意識されません。
ですから、キリスト教を信じる者の全体を表す語として、わたくしは敢えて「キリスト教徒」を用いるようにしております。  [Believers (in Christianity)]

さて、本論ですが
キリスト教徒の間には相反する奇妙な風習が発生しておりました。
ローマ・カトリックがその体制を整える第四世紀より前からは、バプテスマを臨終の床まで延期する、というもの
それから以後には、生まれてきた赤子が死に瀕しているときに(場合によっては産婆の手で)バプテスマを慌てて施すという両極端です。

前者は、バプテスマはその人のそれまで犯した個人的罪を洗い流してはくれるが、一度バプテスマを受けた後の罪は許されないという、おそらくは「聖徒」について述べたヘブル6:6などを誤解してのことでしょう。
そこで、死の間際にバプテスマを受ければ、罪の無い状態で天国に入れるというご利益信仰で低次元の発想がなされていました。
しかし、ご存知のようにバプテスマは何ら「罪」を洗い流さず、倫理面では一向に普通の人と変わるところがありません。

後者については、バプテスマを受けた者は救われるという、ペテロ第一3:21などを誤解して何が何でもバプテスマを受けさせないと地獄に堕ちるという発想からきたのでしょう。
これも、もちろん信仰のない者にでも秘跡を与えてしまえば救われるというキリスト教の単なるアニミズムへの堕落でしかありません。どちらも神の全知全能であることを否認するかのような「悪しき信仰」の行動と言わざるを得ません。

この延長線上に大半のプロテスタントも基本を置いてまいりましたので、「バプテスマを受ければ救われる」というのが残っていたのでしょう。「教会のキリスト教」が幼稚な印象を受けるのも、このような聖書全体を流れる神のご意志への無理解、また、ご利益願望からの拒否があるというところが実際でしょう。


そこで、ご質問の本旨に入りまして
こんなことを言えば、教会諸派もエホバやモルモンにさえ批難轟々受けるようなことではありますが・・・

今日大半のキリスト教徒は何らかの宗派に属すに当たりバプテスマを受けています。
ですが、その意義は「集団に属し始めた」ということであり、ご本人はキリストに信仰を置いたと思っていらっしゃることでしょうけれども、真にキリストの帰依したのかどうかは分かりません。

ただ、分りそうなことは、「キリストという人物に従いたい」という願いを持っているであろうことです。しかし、その動機も分かりません。それは各宗派の教えるところに拠るのでしょう。その動機の中には「自分は救われたい」という利己的で狭い発想もあるに違いありませんが

教会によっては、というよりほとんどがそのようです。
それで「バプテスマを受ければ救われる」という信者のメリットを語ります。
ヨハネ6:47などユダヤ人に語られた言葉を誤解したのでしょう。神の終末における人類救済の目的が、ただ一度の水のバプテスマの儀式の中に具体化してしまっています。

救いとはそれほど簡単なものでしょうか?また、人の側からの行いで得られるのでしょうか?

これは、ものみの塔やモルモンまでも、いやキリスト教と名の付くものは押しなべてと言ってよいほど、バプテスマによって神の是認に入ったものと見做すのです。それはほとんど「救われた」というのと同じ意味を持ってしまっています。

つまり、人の定めた信仰を持ってそれぞれの宗派への所属することが「救い」になっているのです。それは「自分たちこそが正しい」という考えなしには成立し得ない「救い」と言う以外ありません。

しかし、聖書を精査すると、バプテスマを人類の救いの手段とすることはできません。けっしてできません。
なぜなら、人々はなお「裁き」を受けることにおいて誰も変わりがないからです。

もし、「私は信じます」と言ってバプテスマを受けるだけが神の救いであるなら、これまでキリスト教の勢力下に住んで居なかった無数の人々を、神は非常に偏狭な態度で拒むことになります。これは、高度なキリスト教を愛国主義者のような低次元な偏狭に卑しめ、却って『どの国民でも受け入れる』という神の性質に真っ向から反し、神を偽り伝えるものでしょう。(使徒10:35)

では、バプテスマを受けてキリストに帰依する意義は何でしょうか。
それは福音を聴いて、そこに大きな価値を見出して信仰を持ったということの表明でしょう。
そこには依然として『罪』があり、神の是認の外にいるのですが、その『罪』を悔いており、神の子羊の贖いを必要としていることを認めている状態に入ったのです。

しかしそれは、神の罪の赦しに入るわけでも、救われて永遠の命が約束されるわけでもありません
まして、人生での成功を求めたり、生命保険のように将来に備える思考は論外です。
「そんなにメリットが無いのなら・・」と思える向きは、受けないに限ります。その人にお誂え向きの宗教も宗派も他に沢山あるでしょう。

ですが、ある人々は神を知り始め、そこに素晴らしいものを感じます。
同時に自分の内に宿る『罪』に深い悔いを覚えます。
そして神、また人類を創造のままの『神の子』として復帰させるその業、それを可能としたキリストの犠牲に何より大きな価値を見出すことでしょう。
この人々にとっては「信じなくてはならない」ではなく「信じざるを得ない」のです。

まさしく神の素晴らしさに圧倒され、具体的メリットがあろうが無かろうが、この人々にはまったく問題ではありません
自分の裁きの結果を心配するよりは、一途に神の素晴らしい事柄の一端に自ら協働したいと願うでしょうし、聖書も『聴く』すべての者に『来たれと言うように』と命じております。(黙示録22:17)
その人は自然に神の素晴らしさを他の人に語りたいと願うことでしょう。

この「ある人々」こそがキリスト教徒の名に値し、バプテスマも本来の意義を以ってくるでしょう。このような人はどの宗派に属しているのかは問題ではなく、その心の在り方や、神に向かう姿勢に真価があるように思えます。あるいは、今はキリスト教を知らないだけで過ごしている誰かなのでしょう。その人は、今はキリスト教を知らずに過ごしているとしても、よほど「クリスチャン」よりは救いに価する誰かです。

一方、信仰があってもバプテスマを受けていない人をキリスト教徒と呼ぶかどうかは微妙な問題で、その機会が開かれているのに受けないのと、イエスの傍らで磔刑に処されていた罪人のように、機会の無い場合とは明らかに異なります。

ですから、「生きている間に信仰を持ってバプテスマを受ければ救われる」という旧来的観点からの受洗者と非受洗者という見方に救いの有無を単純に見ることは非常に不合理であると言わざるを得ません。恐るべき誤謬というべきでしょう。

バプテスマも人が施すものに違いなく、人の内奥までは問われておりませんし、人はそこまで見抜けません。それこそは神こそが裁かれるところでしょう。

また、「セカンド・チャンス」という言葉も、この理解の延長線上にあることを示唆しておりますから、同じ誤謬を引きずっており、けっして使用を推奨できる概念とも言えません。

どちらの観点も、「救いへのチャレンジ」のようなところがあり、やはり人間中心のものの見方からは脱却してはいないように見えてなりません。つまりは、自分から行動を起こして救いを得るという発想が、人間を主人公にしてしまっているのです。ご利益信仰なのです。

そこでは一重に神の御旨を探ろうという気概に欠けているので、救われればそれ以上求め続けようとはしないことでしょう。
諸教会の陥っているような信者の蒙昧と、教師の安住の構図の原因はここにあるのでしょう。

「自分は救いが欲しい」という人と、悔いていてひたすらに神のご意志に「協調したい」という人には、大きな隔たりがあるでしょう。

神が全知全能であることを信じるのであれば、その神がすべての人を救えないはずがないと結論できるでしょう。
しかし、聖書が神の裁きがあることを教える以上、人が救いを必要とする状況に入っていることと、救われる人とそうでない人とに分けられることにはよほどの理由があるはずです。

では
その裁きの要諦が何であるのか?
神の意向はどのようなものであるのか?
人はこの点に思いを馳せるべきであり、自分が救われるかどうかばかり考えていれば、単なる利己主義者でしかありません。



(⇒「終末の裁きに於いて何が問われるか」)



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エホバの証人にお勧めしたいこと

2014.05.07 (Wed)
エホバの証人にお勧めしたいこと


最近になって、現役の「エホバの証人」の方々からメールを頂戴するようになり、それぞれご自分では疑念を感じ始めていながらも、そう簡単には組織を後にすることもできないご事情を伺うようになりました。
そこで外部からのセカンド・オピニオンのように参考意見をお聴き頂ければと思い、疑念を感じ始めていらっしゃる現役「証人」の方々に、いまや進退窮まったかのように観える御組織の現状にあってもお勧めできるところを申し述べたく存じます。

もちろん、こちら側である「新十四日派」がまったく正しいという訳ではありません。しかし、こちらからの視点で見えるところをお話することが無駄ではないように思えるのです。

お聞きするところでは、現役のエホバの証人であっても、これまで絶対的とも感じられてきた「組織」の正当性に疑問を懐き始めていらっしゃる方々が最近たいへんに増えつつあるとのこと。

情報を総合しましたところで原因と思えますものは、まず話題にどうしても上ってしまう性的幼児虐待に関わる事件ですが、これはカトリックでも、仏教でも起こっていることで、人間に共通の汚点なのでしょう。そこでそれぞれの宗教の真価も問われてくることになるますが、そこでものみの塔はこの挑戦にどう答えているのでしょうか。

これについては組織の管理者、つまり意思決定を行って来た「統治体」とよばれる上層部は、報道を「外部からの攻撃」と主張して情報を否定し、信者からの真摯な問いも受け付けず、その一方で密室で行われた事件にさえ「二人の証人制度」を適用し続けたために、ついに被害者側への「忌避」まで用いてもみ消しに走るという以前からのアプローチの積み重ねが、いよいよ裁判所からの口座凍結のような事態を招いてしまい、結果的に内部の誰の目にも明らかなほどの資金不足に大きな影を落としたことを挙げないわけにも参りません。それほどに内部には財産不足として、一般人にも醜聞の認知が進んでしまっているものですから。

伺うところでは、一件の敗訴でも十億円単位の罰金や保障が求められ、それも一件や二件ではなく、十件単位であちこちから訴訟が起こされているとのことです。これが欧米を中心に各国に広がりつつあるとなりますと、その負担額の大きさは傍目にも軽くないようです。これは背教者のデマがどうこうと云うところでなく、早急な解決が求められる、組織そのものの存亡に関わる重大事ではないのでしょうか?もちろんこれは、賢明な指導があるなら、すぐにでも正面から向き合うべき課題というべきものであることは外部からも明らかなことです。

この問題は、宗教団体の中から犯罪者が出たことが問題なのではありません。オーストラリアを始めとして、ものみの塔としての対処の仕方が犯罪として嫌疑が懸けられてしまったのであり、その被告が実に「ものみの塔」であるというのです。理由といえば犯罪者と犯罪を放置、隠蔽していたと司法から見做されてしまったからです。

原因といえば、性犯罪者の大半が長老などの立場ある人たちで、長老は「二人以上の証人」によらなければ裁かれないと、正しく聖書に従ったつもりでも、その規定が今日の現実には則さず、加害者を匿うかのように教えが作用してしまったところにあります。
しかし、これは聖書に責任があるとも思えませんし、エホバの証人の大半の品行方正な方々の直接の悪行ではないのです。
しかも、証人のみなさんには動揺しないよう知らされていないことで、それは却って知る機会を得た方々に衝撃を与えることになるでしょう。

この問題の根は、「聖書にある通りにすれば自動的に正しいキリスト教が実践される」という仮定が問われるべきだったのでしょう。聖書に書いてある通りにするだけで、指導層が良識ある判断を加えないとすれば、それは『忠実』のようでいて、『思慮深い』とは言い難いことでしょう。そこには非人格的で良識を欠いた規則主義が感じられますが、果たして神もキリストもそれを望まれるのでしょうか。
この点、ユダヤの宗教家たちが暗記するほど聖書に詳しく、却ってキリストを殺害したのが大きな教訓と言えます。硬直的な文字への正確な従順さよりも、宗教人らしく重きをなすべき意味を悟る「良識ある人格的判断」が求められたということでしょう。

ですが、宗教団体が訴訟を起こされるということはそう珍しいことでもなく、表沙汰になりにくいだけのこと、まして、米国のような訴訟社会であれば尚更でしょう。
そこでどう対処するかによって、本来の組織や指導者の資質が問われることになります。完全無欠な人も組織もどこにもないのですから。

ではそこで、「神の経路」と称される「ものみの塔」組織の対処法は主張に違わず立派なものとなっているでしょうか?
早期に適切な対処が出来ていましたら、今日一般にも伝えられるほどの不名誉までは免れていたことでしょう。

その当然の結果として現れた資金の危機に対して、ものみの塔側は(法的には独立した宗教法人の場合がほとんどの)各集まり(会衆)からの拙速な、信者の心尽くしの寄付や労働によって得られた集会所の名義や資金などの所有していた財産の収奪した上でこの世に販売するという、傍目にも良心的とは思えない方向にミスリードを重ねつつあるようです。犯罪の罰金や賠償のために悪行を行っていない人々から金品を集めることを、一般ではどう考えるでしょうか。そうしなければならないほどに強い切迫感が資金面に及ぶ事態に立ち至ったということでしょう。

もちろん、金銭そのものを惜しむ気持ちからではなく、その物事の行い方や起こっている事への説明の無さに義憤を感じられるとしても、それは自然な良心の反応であり、それを「不忠実」や「背教」と責めるのは的外れであるに違いないことです。まして意見の異なる仲間を「排斥」するというのは外から見ても余りにも行き過ぎです。

しかし、この状況も本来「罪」ある人間の集団である以上、どんな組織であってもこのような構成員の失態は避けられないことであると思われます。それは犯罪の加害者自身ばかりでなく上層部の対応にしてものことで、それが直視せねばならない「罪」ある人間のおしなべて現実の姿なのでしょう。
そこではやはり、世俗権力の機能、つまりパウロも従うよう求める『上なる権威』と言う、警察力や司法に頼り、また協力する必要のあるところはやはりそうしなければなりません。加えて、この種の警察からの捜査と、宗教弾圧としての迫害とを混同するとすれば、それはエホバの証人には良識が備わっていないと公表するに等しい愚行です。

もちろん、道徳的で知られるエホバの証人のほとんどの方々が不名誉な罪人として警察のお世話になることは無いことでしょう。
ですが、誰であれ倫理的不完全さを免れているわけではなく、そこで「道徳的完全を演出」するべく幾らかの事件を無かったことにしようと、もみ消しを意図し始めたときに、却って人間共通の大きな悪の罠へと深々と落ち込むことになってしまいます。むしろ、自分たちの崇拝にプラスになることであるとすら思えたとしても、もみ消しはやはり悪であり、善を装うところは更にあるまじき事に思えます。

それが「罪」ある人間がどうしても避けられない弱点であり、人の倫理上の欠陥はキリストの犠牲を要したと聖書も教えるところとなっております。(ローマ3:9) この『罪』という問題を、ひとつの宗教組織の中で処理しようとするには問題が大き過ぎます。まして皆さんのお仲間の中での、お心がけや努力で本当に警察が不要になると期待してよいものでしょうか。
もし、それができるものなら、パウロが『剣』を恐れるようにと弟子には言わなかったのではないでしょうか。

また、ひとつの集団が倫理的に潔白であると主張することは、人間全体に巣食うこの「罪」の実体や危険性を、信仰のお仲間については無視することでしょう。 どれほど道徳的に振舞うとしましても、エホバの証人の方々だけが特に救いに価するほど神の目にも清いと思うとすれば、それは間違った感じ方ではないでしょうか。
使徒ヨハネも『罪を犯したことがないと言うなら、その人は偽り者』と述べた通り、どれほど清い人格を誇っても誰も例外なくアダムからの罪を逃れることはできません。キリスト教徒であれば、自らの倫理的実態を正直に見つめてこそ、キリストの犠牲の価値がどれほど高く貴重であるか分かるものでしょう。

ですが、「ものみの塔」の指導的立場に在る人々からはこの組織においては性的幼児虐待のような不道徳は起こり得ないとする意識が強く働いていたのではないでしょうか。この団体こそが「神の経路」であると拳を高く振り上げるほどに、その「清さの演出」が実態から離れてしまい、却って組織をあげて性犯罪者を隠匿保護するような罪の上塗りになってしまったのでしょう。

この点だけ見れば、その宗教信条の是非はともあれ、九億人の信者のトップに立つローマ教皇自らが謝罪し、該当聖職者を罷免したカトリックは余程謙虚であり、同じ問題にあってもまだ道義的に対処したと言えるでしょう。

カトリックには聖職者の独身制と、人間の実際の道徳性のギャップとに問題の背景がありましたが、ものみの塔の場合にも、何かの制度上の無理が背景があるのではないでしょうか。もし、聖書の言う通りにすれば間違いは起こらないというのであれば、律法に厳密に従おうと腐心したユダヤの宗教指導層はなぜメシアを殺めたのでしょうか。聖書に問題の根はなく、問題の根は『罪』ある人間の方ではないでしょうか。

おそらくは「二人以上の目撃者」によるのでなければ責任ある立場の男子を裁かないこと、また、その二千年前の状況で有効であった裁きを今日の社会の実態から切り離して優越化したところに、『罪』ある人間というもの、また聖書そのものの意図を読み違えていたようにも見えます。
その「二人の証人」の句は、かつて古代に指導者をおとしめてエクレシアに混乱を持ち込もうとされていたときに、聖霊ある指導者を守るために機能した決まりではありましたが、今日実際には、その制度が悪用されてしまい、性犯罪者の温床を作って、会衆が悪の巣窟となっているのですから、古代とは正反対に作用しているではありませんか。
そこで、なお聖書にある言葉だからと固執するのは、人らしい良識ある判断をせずに自派の正当化のために聖書に従っているだけではないのでしょうか。

しかし、果たして、思い違いの避けられず、また非倫理性のある人間が聖書の字面の通りにすれば、いつでも正義や真の宗教が出来上がるものかといえば、やはりそれは無理でしょう。その「忠実さ」にどんな実際的知恵や判断があったものでしょうか。むしろ、良識を働かせることを捨て、神に責任を負わせるようなことになるなら、それは神を賛美してはいない結果となりましょう。

ですから、エホバの証人がカトリック信徒の倫理的不完全さを何か云えるものでもありません。カトリックだから倫理的に不完全なのでしょうか。外部からはけっしてそのようには見えません。

そのうえ被害に遭った信仰の仲間が裁判に訴えるとなれば、自動的に信者とはされなくなり、他のメンバーから遠ざけられ、家族も他人以下の扱いをするというのはまったく理に適わないように見えますが、どこかが間違ってはいないのでしょうか?
それでは、「道徳的で知られるエホバの証人」らしくなく、まるでナチのように非情です。思うに教理がどうかという以前の良識や道徳の問題でしょう。

さらに、その教理について言えば、長らく「1914年からひと世代のうちにこの世が終わりを迎える」とされてきたものが、近年になって「ふたつの世代が重なる」という教理の変更が行われたことに、内心では残念な思いを感じた方々も少なくはないように拝察いたします。

そこで「年代に信仰を持ってきたわけではない」とご自分に言い聞かせ、これまでの1914年からひと世代の内に「新体制」が臨んで、「楽園」が到来することで人生の様々な問題も解決されると熱意を込めて信じて来られた希望が静かに消滅し、新たな決意を胸に「この組織を信じよう」あるいは、「ほかにどこに行けばよいのか」と念じてこられていることを、それぞれの方々の誠実さの表れと見ることもできましょう。

しかし、この問題の淵源はこのような方々には無いように思えてなりません。
原因は、それら多くの誠実さを無駄にしてしまう、より大きな力が働いていることのように見受けられます。

それこそは、最も悔い改めるべき少数の上層部の頑なさであり、ネット上では、これに気付いている方々も実に少なくはないようです。
つまり、組織の意志を定める指導者ら、おそらくは「統治体」とよばれる人々こそが、まず第一に、信者の方々がみせるような誠実さを発揮させるべきなのでしょう。

この上層部の人々の陥っている問題に的を絞って見ますと、その実態に関わらず「とにかく自分たちは正しい」という自己義認から抜け出せない点に帰着するようです。その動機には信者を失うことへの恐れがあるようですが、これは逆効果にならないものでしょうか。聖霊に霊感されてもいない限り、人は誰もが間違いを逃れられないのは当然のことだからです。

つまり、人間の誰もが『罪』ある実態に関わらず「神の是認の下にある」あるいは「批判は許さない」という態度を改められず、この源から様々な害悪が増幅されつつあるように見えます。ですがこれは逆効果で、現実とのギャップに気付いてしまった方々に失意を、また「罪ある者」同士の一方が「正しい」と主張する傲慢な対人関係が激しい義憤と重苦しい閉塞感をもたらしているのでしょう。

また、この点に関しては指導を受ける側に問題がないとも言えません。
「正しい自分たちに間違いはない」という願望的妄想に対して、宗教組織や圧政下では人間が本来賜物として持っているはずの「英知」や「判断力」というブレーキの利きが著しく悪いのです。

判断することは常に上に上にと委ねられ、そのために本質的には「誰が偉いか」を問う宗教となってしまい、皆が同じではなく、階層社会を作り上げてしまうことを許しています。証人の皆さんは余り意識なさらないかも知れませんが、皆さんの全体に浸透しているのは上から下への特権欲ではないのでしょうか。

組織の中では「兄弟姉妹」と呼び合いつつも、巧妙に上下の層が幾重にも作られております。その「偉さ」の根拠と云えば、「霊性」という奇妙な優越感ではないのでしょうか。楽園も永遠の生命もその「偉さ」を確立するための燃料にされてはいませんか。

このピラミッドの頂点を成す統治体が、いよいよ「異例と思える指示にも・・」となりますと、危険運転さながらの「暴走も覚悟せよ、しっかりつかまれ」とのことなのでしょうか。 当然ながら、これは個人の持つ良識や判断力を抑え込んでしまう圧政国家の施策と変わりなく、キリスト教とは何ら関係の無いものです。

この点では、カトリックやプロテスタントは歴史が長く、これまでに多くの失態があって、自分たちがまったく潔白であると主張するには程遠いことを内心弁えております。ですから、まだ過ちを認めて謝罪もできますが、ものみの塔に限らず新興の宗教となりますと、まだまだ子供のような潔癖妄想が抜けず、パリサイ派以来の業の清さの主張が、どれほど罪ある人間にとって非現実かを知るだけの経験が足りないようです。

もちろん、皆様の支配層の人々も間違いを犯すことを認めないわけではないのでしょうけれども、特定の事柄においてはそうしようとしているようには見えません。
その頑なさは、人の「罪」を無視したような仮想の潔白性においてだけでなく、すべての証人に対する「統治」の権限に関わる事柄においてそのようです。

例えれば、小さな教理を変更することはこの人々にとって、「統治」を然程に左右することではありませんから、訂正も容易な事でしょう。ですが、これが神の前に「唯一正当」であることを危ぶませるような教理については、実情とはまるで異なってしまっても変更を加えることがどうしてもできないようです。その中には「1914年からの臨在の始まり」や「忠実で智き奴隷」に関する教理が含まれることでしょう。

また、「ものみの塔」だけが「神のもの」であり、キリスト教世界とは異なり優れた教理を有しているので、「聖霊」の指導の下にある。という事柄に疑問を差し挟む余地は許されていないようです。

確かにキリスト教界が中世の暗黒を克服できていないような異教の教理をいまだ後生大事に抱えていることは事実でありますが、今日、誤謬を克服でき、神の前に潔白であると主張することが誰であるにせよできるものでしょうか?

ものみの塔の教理の場合、「1914年からキリストの臨在が始まった」というような根幹を成す教えは、元来どこから現れたのでしょう。
神からのものでしょうか? それとも人からのものでしょうか?

神からのものであれば、なぜにあれほど変更を重ね人々を欺き苦しめ宣明する御名まで汚したのでしょう。
人からのものであれば、なぜその教えを信じ込んで苦難の道をわざわざついて行ったのですか。

ある現役の方に「1914年という年代を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしたことがありましたが、そのお答えは「エホバの証人であれば、それは無理でしょう」とのことでした。これは教会員に「三位一体を信仰しないでも良いのでは?」とお尋ねしても同じような返答をもらうことになるでしょう。

これらのどちらもキリスト教に付け加えられた「人間の教え」ではないのでしょうか。そのせいか、どちらもその聖書のごく一部を根拠にしたこれらの根本教理にはそれぞれに頑固で、それぞれ自己義認の根拠にしているため身動きもできません。
ですが、三位一体説がもたらすものと言えば、聖書理解の放棄と、神への無関心と言えましょう。

そして、仮に1914年が本当にキリストの臨在の開始年であって、実際にそれからがハルマゲドンを待つべき時代だとしても、その教えがもたらす「信仰」に、どれほどの価値があると思われますか??
一言で表せば、「時が来たので、神の悦ばれる道徳者になりましょう」と言っているのではありませんか?
果たして「神の裁き」とはそれほど外面的なものなのでしょうか?
その信仰の目的は「楽園への生き残り」であって、別に言えば「自己義認に安心して終末を裁きを迎えましょう」とも言っているのです。
もちろん、主人公は神ではなくご自分でしょう。ですから、神の御旨を探るにしても、ご自分が裁かれないためです。
そこで、証人の皆さんは、ご自分が何としても行きたい「楽園」の色眼鏡をかけて聖書を読んでしまい、また教えられたように読み、そうして偏った「生き残り」のための生き方を始めます。果たして最重要なものは『永遠の命』でしょうか?神は人間にとって『愛』を最重要にすべきことを教えてはいないのですか?『愛』は命の源であり、命そのものに勝ります。もし、人が命を優先するなら、逆に神は命を差し控えるのではないでしょうか?

命を最重要とするのは人の心を見る神を奉ずるキリストの教えとして異質ですし、例えればエレミヤの七十年という年代計算の起点の理解からして、伝道や集会のために聖書をあまり読んではいらっしゃらないようにこちらからは見えます。 なぜなら、年代計算が導く動機は「生き残り」であり、『愛』とは言えませんし、そもそも1914年の根拠は聖書そのものが根本から否定していることは、いくらか読めば誰にもはっきり分かりそうな事だからです。⇒「エレミヤの七十年の終点から起点を探る

特にエホバの証人のアイデンティティとも言えるほどになっているこの「1914年臨在説」という根幹的教理は、けっして崩すことのできない組織側と証人側の合意事項とさえ言えます。
なぜなら、これが危うくされるなら、証人の人生を懸けた「楽園」の希望がかすみ始めてしまい、組織側では証人への統治権の基盤が揺らいでしまうからでしょう。欲望のために神の意志の真意は探らず、ご自分のために組織以外の言葉の一切に耳をふさぐというのは真理や真相を求める態度なのでしょうか?

そこで、これらの最重要項目については「真偽を問わない」という双方の暗黙ともいえる合意が形成されていますが、その動機をはっきり申し上げるなら「ご利益の獲得」と「宗教指導者の特権の維持」というよりほかなく、どちらも純粋に神の意図を汲もうとしているか否かは、こちらからは判然と致しません。

しかし、今やその同意事項も上層部の不義理な行動の結果として危うい状況に入り込んでしまい、証人の方々には幾つかの分離の選択肢が生じ得る状況にあります。

ひとつには「ものみの塔」が改善されることを願うこと
また、この組織に見切りをつけて「大いなるバビロン」と呼んだ宗教に属すこと
あるいは、最初から信仰が育っておらず、まるで宗教を後にすること
もうひとつ、様々な事情があって、内心の信仰はともあれ所属を続けるという方も多いとお聞きします。

わたしから見て、この何れもが善い方策には見えませんが、とはいえ、それは個人の倫理上の決定でありますから、断じることは致しません。

ですが、こちらのサイドから見て、次のひとつの事は「証人」の皆様にお勧めできるように思えます。

神からもたらされる真理に近づく方法があるとすれば、それは「捜し続けること」であると聖書は述べます。

それにはまず、伝道活動に費やしている時間の半分でも、個人で聖書を熟読することです
これはエホバの証人の皆様に限らず、キリスト教に近付こうとする方々でしたらどなたでもお勧めしたいことでありますし、これなら何も今ここでわたしが強調するまでもないことのように思われるかも知れません。

ですが、何かを見失いそうになるとき、基本に立ち戻ることは何せよ必要なことではありませんか?
皆さんの手には、これまで研究に用いて使い慣れた聖書があり、以前の新世界訳は教会員が誹謗するような悪書ではありません。
しかし、聖書の熟読は「塔」組織が勧める「通読」や「朗読の範囲」のようなところにけっして限ってはなりません!

通読というものには欠点があり、恰も「聖書を理解してはならない」と言うに等しいことで、通読の回数を誇る虚しい努力は、消化できないままに次々に読み飛ばして「終わること」を目標にしがちで、教会によってはこの通読を奨励し、信徒の間でも通読を何回行ったかを競うようなところがありますが、これは敬虔さをひけらかす手段となっており、却って嘆かわしいところです。
また、ものみの塔の「朗読の範囲」では組織の都合の悪い箇所は注目されず*に、決められた同じ観点が強調され、僅かな言葉のニュアンスに隠された理解の糸口も無視して通り過ぎてしまうでしょう。 *(エゼキエル34章など)

もちろん、聖書理解に助けは必要でしょうけれども、「詳しい」と思える他者に余りに任せてしまい、ご自分の判断を下さない習慣をつけることは、ご自分と神との間に人間の講釈師を入れることになってしまい、その人が間違えればあなたもそのまま間違えるはずで、実際、それは年代の件で何度も経験して来られたことなのでしょう。

ですが、それは本来、あなたご自身の間違いではなかったのです。
三位一体がエジプトの異教や哲学から入り込んだように、「年代計算」はアドヴェンチスト派に同意した、ひとりの人の思い込みを介して「混入」したものではありませんか。
もちろん神の聖霊の間違えであろうはずもありません。

ご自分よりは聖書に詳しい人また組織が、宣伝してやまない「ご利益」を聖書の教えと信じてしまい、そのために言われるまま、ほのめかされるままになって人生設計をそれに合わせたところが問題だったのです。

ですが、それはキリスト教そのものが間違っていたのでしょうか?

そこで、もう一度聖書に正面から向かい合うことにより、あなた個人が見落としていた点に気付けるところも多いのではありませんか。そこから思いもよらなかった価値ある理解に発展するところがきっとあるでしょう。あなたなりであっても、その新しい理解は、聖書の他の部分と合致し始め、やがて確固たる信仰へと実を結びます。

そうして、ご自分で判断を下す習慣を付け、ご自身の持たれる愛や良識や価値観など、様々な良い特質を伸ばしてゆくことは、もちろん今からでも可能でしょう。そうすると、何がより優れた見解かを見抜けるようになってゆくことでしょう。

そこでは、「ものみの塔」という宗教組織一つにつまずいたからと言って、よほど貴重なキリスト教の方を投げ出してしまう必要も、三位一体を教える教会に退行する必要もないのではありませんか。この世はあらゆる手段を用いて神の知識を得させまいとしていますが、その手段には宗教組織という巧妙な方法もあることでしょう。ご利益を使って知りかけた人々の欲を引き出し、そこに集めて蒙昧にしておくためですが、もちろん、そんな悪辣な罠に掛ってみすみす泣き寝入りをする必要など初めから無いのです。

是非、もう一度聖書に目を向けて頂きたく思います。それも真剣で集中的な熟読によって精査すれば、そう遠からず何かを得られるのではないでしょうか。つまり、ご自分と神との間を密接にして、神のご意志、その根底にある意向や精神により深く、また広範に触れることを通して、ご自身の前に置かれたものの真偽を見分け、それがキリスト教のものか、そうでないかを直感できるように感覚を聖書に合わせて鍛錬できます。

つまり、深く継続的な熟読によってキリストや使徒たちの、また古代の人々の環境にご自分を置くかのようにして読み込んでゆくことで、当時のキリストの弟子になったかのように、そこに語られる精神に触れることができます。
やはり古代のイスラエル民族に起こった事柄や、キリストという人物の現れには、徒ならぬ何かがあったに違いないのです。(使徒10:37-43)

現代に生きるわたくしたちは、まずこれを調査し、あるいは信仰の基礎とするべきで、他の幾らか詳しい人々から何かを聴くにせよ、それは本来補助的なものとされるべきでしょう。まる任せにしては、ご自分の重大な判断を放棄して、何事も人間の教えに従う奴隷になってしまうでしょう。

そこで、まず手始めに比較的短めのパウロの書簡や、使徒言行録、また福音書の数章をどこかに定めて、数週間から一か月なりの期間に繰り返し繰り返し数章の同じ場所を丹念に読み込んでみることをお勧めします。きっと、これまでと違った聖書観を得られるものと思います。

そうして、毎月少しずつ熟読の場所を移動してゆくとよいでしょう。できれば小さな聖書を用い、シャープペンシルで書き込みを行い、余白に個人の「相互参照」を書き込むことは特にお勧めしたいところです。

やがて、書簡群と使徒言行録の密接な関係性や著者たちの主張の意味とその背景、また福音書でのイエスと使徒らの語らいや様々な譬えの意味がこれまでになく把握でき、理解することの幸福を味わうことでしょう。いや、これはもちろん、わたくしが申し上げるまでもなく確実なことです。

また、聖書全体にわたって文脈を知った上で聖句と聖句の関連を追うと、実に多くの発見に出合いますが、そのようにして神のご意志の詳細を辿り出す喜びは、あなたに深い価値を感じさせるものとなることでしょう。
更には専用のメモを取り、題目毎に聖句なり論点なりを整理するなら、ずっと明解に理解が進むはずです。それはご自分なりに気付いたもので良いのです。それでも、あなたにとって相互参照やメモはこのうえなく貴重なものと感じられるようになるでしょう。

こうして聖書を「面」として理解することを目指さなければ、書物として知ったことにはならず、いつまでも「点に線を引いただけの」辞書のようにしか理解しないことになります。

翻訳は引用に慣れていらっしゃる「新世界訳」を(改訂前の版を今のうちに確保して)主に用いて良いと思われますが、できれば他の訳本も比較できるように用意されるに越したことはありません。といいますのも、訳者によって意味が異なるところが出てしまうのは避けられないことで、特に理解の鍵となる聖句については様々な訳を比較したいと思うように促されるでしょう。

こうすれば、エホバの証人特有の聖句と聖句の間を抜いて結ぶような理解が、単に「点を線」で強引に結んだものに過ぎないことを実感されるものと思います。
そればかりか、聖書そのものが雄弁に語り始め、これまで見えていなかったこと、ご存じなかったことがどれほど多いかに気付かれることでしょう。それは知識の単なる更新とはならず、神への想いの変化を経験なさることと思います。

つまり、もう人任せの解釈の鵜呑みの段階を後にして、聖書を介して直接に神の言葉を聴く態度に変わってゆくでしょう。
それは本当に充実した時間となり、人に対する神の意図を探り出すという、貴重な経験となるはずです。それは自分が存在しているという価値への難問の解答を探ることでもあり、それに勝る重要な解答はありません。


それらの研究に加えて、ギリシア語やヘブライ語の原語で聖書の言葉を確かめたくなってこられるはずです。
この点で、「ものみの塔」が「この世」と呼んで蔑む世界はむしろ進んでおり、人々が本文(ほんもん)のそれぞれの単語の意味も調べられるようにとの善意を抱いて原語聖書写本の本文や逐語翻訳を無償で公開している寛大な組織や個人が少なくありません。

これらを活用することこそが、こうした善意に答えることになり、且つ、真に神の意志を探ろうとなさる方の謙遜さの表れとも言えましょう。

こうして、本当の意味で聖書を探求し始められますと、ご自分が「楽園」に行けるか否か、ご自分の生涯中にハルマゲドンが来るか否かを問うような、「ご利益信仰」は霧が晴れるように消えて行ってしまうでしょう。
そこにあるのは、神の行動計画であり、その偉大な意志、歴史の長さと変わらぬ神の善意、キリストの自己犠牲の重さなどに圧倒され、人の欲望の小ささに恥じ入ることにさえなられるように思えます。

加えて、聖書の書かれた当時の歴史や民族の習慣など、背景に注意が向いて来られるものと思います。最近では日本語でも多様な周辺の知識に関する本が出され、また訳されるようになり、徐々にこの方面でも知識を増やすのも容易になりつつあるのは喜ばしいことです。
これも加わることで、「面」の理解はいよいよ「立体」的把握へと更に進みます。しかもこれは興味深く、然程に難しいことでもありません。様々な知識を前にして、聖書と神のご意志を知ろうとする意欲の高まりをいよいよ感じられることでしょう。


以上のように、聖書を読み込む事や、並びに個人が深く聖書に通じる事は、イエスが音信をいつも「例え」で語ったことに関係してきます。
つまり、大多数の人々はイエスの講話を聴いても、深く悟ろうとはしませんでしたから、「例え」は「例え」で終わってしまったのです。

それは今日も同様に思われます。
多くの人々は「ご利益」を求めてキリスト教に集まってはきますが、自らの欲が満たされるとそれ以上は聖書を学ぼうとはしません。それは真剣に知ろうとしない人々をまるで聖書そのものがフィルターで濾し取るかのようです。
ですが、聖書は私たちが一生を費やしても学び切ることができないほどの内容が詰め込まれていて、一部を知っただけで満足することなど聖書の優れた記述そのもの、類い稀な価値あるその内容が許しません。その内容は読む人の価値観を呼び起こし、神の優越性は人を感化せずにおきません。その最たるものは『愛』であり、自然に読者をカルト的野蛮から引き離すことでしょう。

「楽園」の希望を知らせるだけが聖書の役割であれば、確かに「一度、真理を知ったのだから、もう探す必要は無い」との説得に耳を傾けてしまうかも知れません。
ですが、聖書は「求め続け、敲き続け」ることを命じていなかったでしょうか?


どうか、「エホバの証人」の方々が、ご自分の聖書理解に満足しきって、「楽園に行くのに必要なことはみな知っている」などと思われませんように。それはこの世で成功することや「天国」に行きたがる教会員と同じ「ご利益信仰」であり、その自己本位な思いが、神のご意志が何かを探ろうとする聖書研究を曇らせてきたのです。



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-日本語訳聖書で基本的なものは-

口語訳、新改訳、新共同訳、それぞれ利点があります。
岩波の翻訳委員会訳は註釈がすばらしく豊富で研究向きですが、朗読には適しません。
ほかにも質の高い個人訳や、ラディカルな訳も色々出版されていますが
それぞれの主張や特長に学ぶところがあるでしょう。

新世界訳にもあちこち意図的な翻訳の問題点もありますが、使えないような翻訳ではなく、市販の聖書にない優れているところも多々あります。
(私個人としましては、常々比較しておりますと、英文の「新ジェームズ王欽定訳」(略号「NKJV」)の安定性に気付かされます。
もし、入手できる機会がありましたらお勧めしたいところです。文語訳がこれに準じています)

但し、どんな翻訳も、言語の相違から必ず「危険の伴うもの」であります。
 それは、どんな宗派の教えでも、何らかの問題があるのと同じことです。
加えて、訳者の聖書理解の影響を受けずに済むことはまずありません。
 しかし、原著者の書いたひとつの意味が必ずあるはずでしょう。

そこで多くの場合に決め手になり得るのが、古代写本やそこから構成された「原語本文」です。
 翻訳される以前の元の言葉はどうであったのかを確認することで、訳された文章を見直すと、その訳文には随分と意訳や省略がなされているところがあるものなのです。また、訳者の迷いさえ読み取れるところもあります。
また、ある解釈に読者を誘導したり、特定の宗派の意図さえ感じられるような訳文も無いとは言えませんし、訳している側でも意味を測り兼ねる本文に出くわすことも避けられません。そこで『求め続け、探し続ける』姿勢こそが誰にも求められているという以外ありません。


-聖書本文の公開サイトの例-

・http://www.hebrewoldtestament.com/
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に、新字体(アラム式)だけでなく、旧字体も添えられています。
加えて、ヘブライ語の発音とラテン・ウルガタ訳と何種類かの英訳も並記されています。

・http://www.greeknewtestament.com/
こちらはギリシア語で五つの本文とラテン・ウルガタ訳、それからいくつかの英語訳が平行しています。
フォントも安定しているようです。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Hebrew_Index.htm
旧約(ヘブライ語)聖書の本文に行間逐語を施してあります。
但し、単語はヘブライ語とは逆に左から右に並んでいますのでご注意ください。

・http://www.scripture4all.org/OnlineInterlinear/Greek_Index.htm
上記に同じくギリシア語本文の行間逐語訳です。

・http://www.lexilogos.com/english/greek_ancient_dictionary.htm
ギリシア語辞典などがあります。

・http://stephanus.tlg.uci.edu/lsj/#eid=1&context=lsj
彼の「リッデル・スコット・ジョーンズ」のギリシア語辞典がオンラインで使えます。

・http://www.perseus.tufts.edu/hopper/
このタフツ大のサイトは単語を追いかけて様々な古典資料を比較するのに索引が非常に便利です。

・http://www.doitinhebrew.com/Translate/default.aspx?welcome=1#.UvoRDnmCi4B
ヘブライ語の辞書です。タイプしやすいように、ご親切にもソフト・キ-ボードが添えられています。

・http://www.ellopos.net/elpenor/greek-texts/septuagint/default.asp
セプチュアギンタが参照できます。新旧聖書の橋渡しで、多くのヒントがあり重要度は低くありません。

以上に相当する無料の日本語環境のものは、まだ存在していないようですが
インターネット上には他にもいろいろとありますので、検索なさればもっと良いものも見つかるでしょう。

まずは、一か所でも気になる言葉があれば是非調べてごらんなさい
きっと古代の息吹に触れる想いを味わうことでしょう。

ルネサンス期の人々もポツリポツリと始めていったのです
あの、ラテン語の大学者エラスムスでさえも、周囲に誰も教師の居ない環境で、新たにギリシア語に取り組みましたが、それも彼の人生では歳が随分進んでしまってからのことでした。
彼に調査できたことは、今日のネット回線に繋がったわたしたちよりよほど限られていましたが、それでも何とかあの新たなギリシア語本文にまとめ、それを底本にしてルターが、ティンダルが・・・と翻訳が続いていきました。今日、聖書を母国語で読めますのも、これらの先達たちの、荒海に小舟で漕ぎ出すようにしてまで探求しようとした決意と努力の積み重ねに多くを負っております。

もちろん、あなたなりでも良いのです。要点はご自分で情報を確認し、自ら神と向き合うよう努め、ご自分で吟味して判断をする習慣を持つことです。
これを他の人、それも幾らか詳しいだけの人なり組織なりに丸任せにしては来られませんでしたか。それでは「信仰していた」のはどなたなのでしょう。

しかし、今やご自分で何かが分かればそれも成果ですし、分からなかったとしても、事が複雑であることは「分かった」のでありますから、そこで「何でも知っている」という傲慢を去って神の御前に謙り、物事への「慎重さ」や「謙虚さ」という貴重な特質を身に着けることはできたのです。

そして、まったく収穫が無いという事はまず無いでしょう。少なくともその部分については詳しく知ったのですから。
熟読に至って初めて、これまで様々な人々が、聖書の様々な部分を理解しようとしてきた蓄積から学ぶという補助的手段があなたにとって真の意味での助けとなります。

しかし、補助的手段の注解の方に支配されては本末転倒というべきでしょう。人々が第一に読むべきは何を以っても聖書であることが明らかなことではありませんか。
聖書を深く理解し把握するための参照資料はあるにしても、辞典を調べるようにして聖書が証拠に参照されるような「研究」をしてはこられませんでしたか。
それでは、初めに結論ありきと、後から聖句を証拠に挙げるような指導者に何かと誘導にさらされる危険は避けられないでしょう。本当には聖書そのものに精通していないからです。



-聖書理解の時代背景については-

まず、ヨセフスの「ユダヤ戦記」加えて「ユダヤ古代史」
そして重要性の高いエウセビオスの「教会史」
特に「ユダヤ戦記」と「教会史」は何を置いても読んでおきたく思われるでしょう。
またローマ帝国の歴史にも幾らかの知識が欲しくなることでしょう。
これらは近年文庫本となっていますので大変入手し易くなっております。

この辺りの書物を揃える過程で、次から次へと興味尽きない資料が現れると思われます。
もちろん、旧来の「塔」の資料も(年代以外のところで)良い意味で役立ってくるでしょう。

そうなれば、これを基礎として、あなたはキリスト教だけでなく、様々な事に於いても熟考しご自身で判断なさる習慣を身に着けられ素養とリテラシーの持ち主となられ
今後何を為すべきかも、集団行動によらず、聖書に学ぶところからご自分で判断なさることでしょう。

そうして「神の象り」に相応しく、宗派や組織によらず、個人の信仰と尊厳を持ったキリスト教徒となられるに違いありません。
即ち、聖書そのものが、誤謬をあなたから遠ざけ、圧政者の頸木から解いてくれるので、もう何者にも宗派にも隷属することはないでしょう。
ここでわたしが「塔」組織の揚げ足をとるような批判の苦々しい駄文を長々と連ねる必要もありません。

すぐに結果を期待できるわけではありませんが
それでも、熟読を始めると心は晴れやかになるように思います。

今日からでも、聖書(できれば新約〈ギリシア語聖書〉中が善いでしょう)
の何処か一か所を定めて始められますように


(ちなみに、私は決意してガラテア書を一か月間何度も読み込み、翌月には使徒言行録の前半に向かったのを覚えております)



翌日まで怒りを持ち越すことのないようにとのキリストの教えはまことに心身を癒すもので、軌道から外れたかのように観える上層部に従う苦衷から、皆さまの想いと身体が壊されませんよう、神YHWH(ヤハ)の御祝福がありますように





エイレナイオス
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5.イエス・キリストの救い

2014.05.01 (Thu)
イエス・キリストの救い


イエス・キリストほど有名な人がいるでしょうか。
今日、世界最大の宗教の教祖であればそれも当然かも知れません。
実にこの人物によって世界の歴史は大きな影響を受けてきたということは、間違いなく云えるところです。

しかし、人々のこの人物について知るところとなると、十字架に磔にされて刑死したこと、クリスマスに生まれたらしいこと、馬屋や洞窟で生まれたことや処女の母から生まれたとされていること、世間一般の常識で知られる事と言えばこんなところでしょうか。

こうして見ると、これほど有名であるイエス・キリストについて聖書が示すところのごく表面だけの、また、実は誤解がいろいろと広められてしまってもいるのです。しかし、名前ばかりが知られているというのも不思議なことです。
では、イエスという人物に込められた意義はどんなものなのでしょう。

例を挙げれば、「救いの御子」と歌われるこのイエスがどのように「救い」となるのでしょうか? このように一歩踏み込んだ途端に、その答えに困ったり、様々な意見が聞かれたりするのは、これ以上なく有名である反面、知られていないところの方がよほど多いということなのでしょう。

もう少し詳しい人なら、キリストの救いとは、イエスが刑死することによって、人類の罪の身代わりに罰を受け、こうして人々が罪の酬いから解き放たれることだ、と言うでしょう。
では、人間には罪があるのでしょうか?
そこで、ある人々は反論して「自分は法を犯すようなことはしていないのだから、罪は無いし、キリストの救いは必要がなく、神は自分を罰しないはずだ」と言うでしょうか。

法律といえば、聖書の古い部分、つまり「旧約聖書」と呼ばれる部分には「律法」(りっぽう)と呼ばれる部分があり、そこにある様々な法律条項には、イスラエル人に行うべきことと行ってはならないことが列挙されていました。この一続きの法律は聖書の二番目の書「出エジプト記」の第20章の有名な「十戒」という岩に刻まれた十の掟から始まっています。
その定めによれば、殺してはならない、姦淫してはならない、盗んではならない、偽りの証しをしてはならない、仲間の物を欲しがってはならない。など所謂「十戒」に書かれた基本的な法律の他に、全部で六百ほどの掟が続いていました。

イスラエル民族は生まれながらにこの「律法」を守ることが義務付けられていました。
しかし、歴史のほとんどで彼らはこれを守っては来なかったのです。
旧約聖書はこれを俯瞰してこう述べています。
『「わたしの声に聞き従え。そうすれば、わたしはあなたたちの神となり、あなたたちはわたしの民となる。わたしが命じる道にのみ歩むならば、あなたたちは幸いを得る。」しかし、彼らは聞き従わず、耳を傾けず、彼らのかたくなで悪い心のたくらみに従って歩み、わたしに背を向け、顔を向けなかった。』(エレミヤ7:23-26)

後にキリストは「律法」の定めるところが如何に高い基準であるかをユダヤ人に教えてこのように言われました。
『昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。
しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『馬鹿者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。
それで、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。』(マタイ5:21-24)
つまり、殺人をいう罪には、人々への憎しみを懐くことも含まれると云われるのです。
これはとても厳しい内容です。

また、姦淫については
『「姦淫してはならない」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。』(マタイ5:28)
と云われ、律法を守ることがどれほど難しいかを教えられました。

このように律法の求める規準が高かったので、そのような律法の精神までをも守り通すことができた人はいません。
キリストの使徒のひとりであるペテロは「律法」について『父祖たちが守れず、わたしたちも守れなかった頸木(くびき)』と呼んでいます。(使徒15:10)
つまり、神の倫理的規準に人は達することができないことが、律法によって焙り出されるのです。

では、初めから人間には守れないことの分かっていた「律法」を神はなぜイスラエル民族に与えたのでしょうか?
使徒パウロはそれに答えて『違犯を明らかにするために付け加えられたもの』であるとしています。(ガラテア3:19)
つまり、イスラエル民族をテストケースとして、人間には皆「罪」があることを明らかにしたというのです。(ローマ3:9)

また「律法」は、それが破られたときの処置の方法についても記されていました。
それが比較的軽い罪であれば、動物による犠牲を捧げ、その生贄によって神の前に赦しを願うことでありました。
つまり、「罪」の許しには命という対価が求められていることが教えられていたのです。

もちろん、律法に従って動物を犠牲にしても本当に神が罪を許されることにはなりません。却って、その犠牲は人々に罪の重さを知らせるための儀式となりました。そこで、神の民の一員となることができる人はいないという現実を受け入れなくてはなりません。

ですから律法に従うイスラエルの民は『決して罪を除くことのできない同じいけにえを、何度も繰り返して献げ』ていたのであり、神に捧げられた動物は別の完全な犠牲であるところの「キリストの犠牲」が『ただ一度限り捧げられる』ことを、旧約聖書が予め動物の犠牲を通して、唯一律法を体現できた天からの人、イエス・キリストの犠牲を指し示していたのです。(ヘブル10:1-3)

そこで人間は、誰もが神から見れば罪人であることを認めるべきこと、これを知らせることが旧約聖書に与えられたひとつの大きな役割でありました。
ですから使徒パウロはこのようにも言います。『律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となった』(ガラテア3:24)

この意味は、「律法」によって罪ありとされた人々が、その罪から逃れたいと思う場合に、キリストという犠牲に頼ることを促します。そこでは、罪の無いイエス・キリストという人物を信じ、また、この方の犠牲の死によって自分たちの「罪」が神の前に許されることを信じることが求められるのです。これがキリスト教の信仰を基礎を成しています。

パウロはこれを『すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、無償で義と認められるのです。』と述べて、罪から逃れようとする人々に開かれた神の手立てがキリストであることを知らせています。(ローマ3:24-25)

ですから、キリスト教とは、ユダヤ教のように「律法」を依然として守ろうとするのではなく、「律法」によって「罪」が指摘されたことを悟り、一重にイエスの犠牲によって「罪」から救われることを信じることに意義があるのです。

その許しは、キリスト教徒であろうとなかろうと今は余り関係がありません。
なぜなら、「罪」からの救いは世の人々全体に及ぶことになるからです。

その救いは、「この世の終り」にキリストがこの世に再来され、それを信じるか否かで裁かれ、その時に信仰を働かせるなら、誰であろうと天ではなく、この地上が罪の許しを行う場となる『神の王国』へと導かれることになるのです。
ですから、その王国とは「天国」ではなく、地上に生きる人々から罪を終わらせ、人々を創造の神と和解させるものであり、その結果として、地は現在の住み難いところからまるで一変します。それでキリストが「救世主」と呼ばれているのです。
ですが、裁きのその時に人間に『罪』があることを省みず、また、世の苦難も悪も当然だと思うなら、また、自分の強欲のままに生きたいと思うなら、キリストの救いの価値を認めずに、その機会を自ら閉ざすことになり兼ねません。これが終末での裁きを分けるものとなるでしょう。(ヨハネ第一1:8)

さて、キリストの犠牲によって人々の「罪」が許されるには、当然イエスは「罪」のないことが求められます。つまり、罪の無かった方が罪人たちのためにその罪の咎めを負い、こうして人々を罪から解き放って神と和解させます。

それこそが、イエスがアダムの子孫ではなく、天から降誕された「神の子」であったこと、これが人々の「罪」を許して病気を癒し、死者にさえも命を与えた奇跡の業に表れていました。(ヨハネ5:36)
イエスはこのような奇跡を『父の業』と呼んで、自らの真実の父がエデンのアダムでも大工ヨセフでもなく、神であることを再三示されました。
ここにイエスが処女マリアから生まれたとされるべき理由があり、もし、普通の妊娠であったなら、イエスはアダムからの罪を持っていることになり、人類の罪を担うことができないことになります。

このようにキリスト教においては、「罪」を指摘するだけでなく、そこから逃れ出るためのキリストの犠牲という具体的な救いの備えが開かれているところが優れており、新約聖書はこれを「福音」(ふくいん)と呼んでいます。つまり、それは「幸福な知らせ」なのです。

例えればパウロは「福音」について『福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです』と語ります。確かに使徒たちは、イエス・キリストの犠牲によって開かれた「救い」の手立てを掲げ、その「福音」を宣明していたのです。(ローマ1:16)

それで、イエス・キリストによる「救い」が何であるかは、新旧の聖書がそれぞれの分担を果たして教えてくれるものとなっています。
それは、人間に「罪」があることを教え、そこから救い、そうして神の前に許しを得させることであり、キリストの犠牲に信仰を働かせる人々が、虚しく生きる定めを去って、神の創造された姿に、つまり「神の子」となって永遠に生きることを知らせるものなのです。

この「救い」については、人間の側から信仰を働かせることの他には何ら行えるところがありません。
使徒ヨハネはイエスを信じる人についてこう書いています。
『彼を受け容れた者、すなわち、その名を信じた人々に、彼は神の子となる権限を与えたのである。』(ヨハネ1:12)
これは、自分の行いや自分の正義に頼らず、一重にイエス・キリストの犠牲の死によって、人の「罪」が相殺され「贖罪」(しょくざい)されることを信仰し、希望を託すことを表しています。

ですから、キリスト教では、たとえ罪深い人であってもこの「救い」を得ることができ、他方で、品行方正な人であっても、信仰を持てないのであれば、この「救い」に与るところではありません。ここにキリスト教の優れたところがあります。一般的な善悪の観方を超えて、その人の外面に関わらず、内側の人格を問うからです。

つまり、その人の道徳的な現状ではなくて、その人が「罪」をどう見做し、またそこから本当に逃れることを望んでいるかどうかということが吟味されるのです。たしかに、イエスに信仰を持たなかった人々の中には、宗教に熱心で自分の道徳性に満足している人々が多くを占めていました。そのような人にとっては、イエスの犠牲は高価なものに見えないのでしょう。

イエス自身はこうも言われました。
『人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されます』。『罪の深い者は多くを愛するのです』。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためなのです。』(マタイ12:31/ルカ7:47/マルコ2:17)

使徒ヨハネも次のように記しています。
『自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にありません。』(ヨハネ第一1:8)

キリスト教では、旧約の「律法」が人には守れないことが明らかとなりましたので、自分の行いをどれほど正しいものにしようと努力しても、一般的な「善良な人」以上になることは誰にもできず、人に宿る倫理上の欠陥である「罪」は、誰からもけっして消えないことが教えられます。

ここにキリスト教の「救い」があります。これは一般に、また教会員にさえも誤解されていますが、死後に天に挙げられて天国で暮らすということではなく、世界のほとんどの人々の「救い」は人が創造された通りの地上で、「罪」から解放された人として生きることなのです。

そこでキリストの犠牲に大きな価値を見出す人は、キリストに倣った精紳を目指すようになります。
つまり『罪』の反対にある精神なのですが、それは『愛』であり、利己心を去るように努め『神と人を愛する』ことです。

これこそが、キリストの犠牲に感化されることであり、本来あるべき人間の姿を求めることです。人々から『罪』が除かれるとき、その人は本当に『愛』を体現できるようになり、「倫理」という事柄、つまり神も含む他者とどう生きてゆくかを弁えることができるようになるので、是認された神の創造物とされ、永遠に生きることが許されるでしょう。

このように、イエス・キリストの救いに与るとは、それまでの「罪」を許されるだけでなく「贖罪」されて神の前に「義」を得るに至り、創造者との関係を回復して生きる意味を見出し、栄光ある人間本来の姿に戻って、遂に不老不死に達し神と共に歩むことを意味しているのです。




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