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4.神の王国

2014.04.19 (Sat)
神の王国


福音書の中でイエス・キリストが様々な例えをもって語ったのが『神の王国』でありました。
これはキリストの宣教の最も中心的な主題であったのです。

にも関わらず、この『神の王国』が何を表すのかについては今日のキリスト教界の中では様々な見方に分かれています。
特にこの『王国』が聖書では『天の王国』とも呼ばれているために、それが仏教の「極楽」に似たような、キリストと暮らす「天国」として教えられているキリスト教徒も実に数知れず、ほとんど他の宗教の「天国」と変わりません。

ですが、『神の王国』について新旧の聖書が述べる実際のところから情報を集めたうえで、それを一言で表すなら、イエス・キリストを主要な王、また大祭司とする「神の人類統治と贖罪を行うために千年間存在する機構」となるでしょう。

つまり、現在は人間が作り上げた各国政府の支配によって人類が治められていますが、この『神の王国』では、キリストを中心とするひとつの統治機構によって天から地上がくまなく治められるようになり、そればかりか、人々に争いをもたらしている原因である『罪』、つまり倫理的欠陥が世界から取り除かれる『贖罪』という方法によって、『この世』という人間の支配は終り、全地に平和がもたらされてゆきます。

そのため旧約聖書の時代から、キリストは「平和の王」となるとも預言されていました。
その有名な言葉はイザヤという預言者の記した文書のはじめの方にあって、こう書かれています。
『その剣を打ちかえて鋤と成し、その槍を打ちかえて鎌と成し、国は国に向かって剣を挙げず、もはや戦いを学ばざるべし』(イザヤ2:4)

このキリストが地上を支配する王国がキリスト教徒に「天国」と間違えられてきたのです。
しかし新約聖書は『王国』(バシレイア)と記しており、これは「天国」ではなく『天の王国』と訳されるべきものです。
もちろん『天の王国』も、仏教でいう「極楽」のような死後の場所ではなく、現実の地上に幸福をもたらす神の統治を指しています。

これは教会で教えられる、心の中にあるという神の国とは随分と違った印象を与えることでしょう。
心の中にある神の国は、この世のありさまを批判し、対立するのではなく、地道な生き方によって世を感化していつの日にか到来するというものです。
一方で、人間による絶対的な統治はただ圧政をもたらすばかりで、民は人格や命までもないがしろにされ、それでなくても国は国に敵対的に振る舞います。
もし、教会の教えが正しければ、キリスト教国また世界は、その感化によって幾分かでも改善して来たでしょう。
しかし、歴史の示すところは逆であって、今日イスラムが追い上げてはいるものの、古来、キリスト教世界ほど争いの原因となり多くの人々に悲劇をもたらしてきた宗教もありません。

二度の世界大戦が終わり、国際連合が新たに設立されましたが、そこに寄贈された、剣をハンマーで打ちかえている姿の彫刻と、その台座に刻まれた上記のイザヤ書からの銘文に、人々がどれほど聖書の預言の言葉に平和的世界の姿を夢見ているかを知らせるものと言えるでしょう。

          Isa2.4


しかし、このような理想の言葉もこの世では夢であり、人間から武器の無くなるような平和をけっして成し遂げてはおりませんし、今後もまず実現できないでしょう。

なぜなら、我々人間の方がこのイザヤの言葉を実現できる程に賢くはなく、「隣人とどのように生きてゆくべきか」という問いの解答をさえ得ていませんので、人類は有史以来、この「倫理」という厄介な難問のために常に、また激しく悩まされてきました。

このように、人間は歴史を幾たび繰り貸しても「倫理」については何ら改善もできず、正解も出ない理由について、聖書は、人の中に「倫理上の欠陥」のあることを知らせ、それを「罪」(原罪)と呼んでます。(ローマ7:21)
人間のこの不倫理性は世界の誰にも普遍的に見られるものですが、聖書はそれが最初の人間アダムに由来することを教えています。確かに古来、人間は不倫理性のために秩序を保つために、どうしても何らかの「統治」を必要とすることを示してきました。

そこで、キリストには『神の王国』の王としてこの世に代る、『罪』のない統治を行うだけでなく、人間に宿るこの「倫理上の欠陥」を修復するための「贖罪」(しょくざい)をも行う必要があることを聖書は指摘します。これが『神の王国』の目的と言ってよいでしょう。

この「贖罪」とは、キリスト教に帰依した人が心を入れ替えて「善人」となることを指すわけではありません。そのように簡単なことであれば、世の中はとっくに改善されているでしょう。

『神の王国』というものは、聖書が教えるところでは、人類の具体的な倫理性の劇的な変化を成し遂げます。
それは、キリストが人々から「倫理上の欠陥」である『罪』が許されるよう、神に執り成しの犠牲を自ら捧げて、どうしても悪を行ってしまう人間から、その傾向を除き去ることによって可能となることを聖書は教えているのです。(ローマ5:18-19)

ですが、それがもし人間的な道徳教育の感化や、「自分は善人だ」という思い込みや、何かの心理作用をもたらすだけのものであるとすれば、やはり永遠に地上に真実の平和は訪れないでしょう。
そこでは人間の努力を超えるものが求められますが、キリストが『王』であるだけでなく『大祭司』として、神から任命を受ける必要があったのはそのためです。『祭司』というのは、神と人との間に立って執り成しを行う役職で、キリストは自らの犠牲をもって神の前に人類の『罪』が許されるよう執り成しを行うのが、『神の王国』という『この世』に代る環境で人間の受ける大きな益となります。

一方、「神の国はキリスト教徒の心の中に在る」とよく言われますし、また、道徳的な「クリスチャン」らが社会を善いものにして行った先にその国が存在するものともされてきましたが、『神の王国』は、こうした捉え方と異なる姿を聖書中に見せています。
例えれば、古代エルサレムの神殿では動物の犠牲が捧げられてきました。それらがイスラエル人の罪を贖う(あがなう)ものとされ、旧約聖書のユダヤ教では動物の死が、その人の罪に対する神への身代わりの犠牲とされていました。

しかし、新約聖書の多くの部分を著した使徒パウロは、動物の犠牲は罪を取り去ることはなく、そのため繰り返し何度も動物の犠牲が捧げられてきたことを指摘し、『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた』と述べています。(ヘブライ9:27-8)
つまり、そこでは「贖い」に「身代わりの死」が求められていることが新旧の聖書に一貫して示されていたのです。

つまり、人間の「罪」という欠陥は、そう簡単に無くせるものではないのです。
それですから、世界の歴史の中でキリスト教世界が最も多くの戦いを行ってきたということは、一般のキリスト教徒の心の中に「神の国」が無いことはあまりにも明らかです。
現状で人に倫理上の欠陥、つまり聖書でいう『罪』がある以上、人間自身の努力による内面の変化などを待っても、永久に平和をもたらすはずの「神の国」は来ないでしょう。


では聖書に描かれる『神の王国』は、どのように人の『罪』を除くのでしょう。
今日の世界を動かしている原動力は「欲」であり、特に分けても「貪欲」は他の人々を押しのけてまで、自分の欲求を通そうとする諸悪の根源となっています。

他方でキリスト・イエスの説いたところは『愛』であり、その愛は他者のために自己犠牲を厭わないほどのもので、まさにイエスはそれを自ら体現した生涯を送り、世にそれを示したということができます。

イエスはこう言われました。
『自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしているではないか。』
『しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも悪人にも、情け深いからである。』(ルカ6:32.35)

しかし、この世は、こうした愛を示すのが易しい世界ではありません。
利己心が圧制を敷き、利潤を搾り切れるまで吸い尽すほどに追求し、熾烈な競争をしなければ生きることさえ難しいのが今の世の厳然たる「掟」となっており、その傾向は今後も強まってゆくことでしょう。

そこでは貪欲と貪欲がせめぎ合い、人々に行き渡る物資があっても、富は偏って不公平が蔓延し、貧困はいつまでも消えず、あらゆるところで働く者の奴隷化が起こっていますが、世界はこの貪欲からくる倫理問題をどうすることもできません。(ヤコブ4:1-3)

今日、富はますます偏りつつあります。僅か1%の人が世界の富の48%を所有し、残りのほとんどは上位20%の人々だけで分けられ、富の僅か5.5%を巡って残りの79%の人々が日々汗水垂らして懸命に生きていると言われます。そのピラミッドの荷重は下にゆく程重くのしかかっているのです。

この世では、誰でも夢を叶えることができるようでいて、実際にはこの極端な不公正こそ、貪欲に従って人間が社会を作り上げた結果となっているのですが、根本から変化させることなど誰にもできません。
確かに、何度かの革命も置きましたが、しばらくすると、そこにも同じ形のピラミッドが形成されるのを歴史は証ししてきました。人間自身に問題があるからです。


その一方で、イエス・キリストは「愛の掟」を説かれました。(ヨハネ13:34)
それは、欲を原理とする人間社会の非情な掟とは正反対に、他者を自分のように愛することを人に求めます。(ルカ6:31)

それでも、この世ではどのように努力したとしても、この「愛の掟」に充分に倣うことはできません。
なぜなら、僅かでも利己的に振る舞う者があれば、キリストの愛の掟に従おうとする人々は、その餌食になり兼ねないからです。

では、世界の人々が心を入れ替えてキリストの教えに従おうとすることを期待できないものでしょうか?
それが可能であれば、人類の長い歴史は人間の倫理性の向上を既に示していることでしょう。
歴史は逆に、人間はいつまで経っても倫理的には一向に変わらないことを示して来なかったでしょうか。

この人間社会を見回して、人間の中に『罪』という倫理上の欠陥があることを現実として認められるのなら、人は、やはり具体的にその「罪」に対処しなければならないでしょう。
しかし、人間は様々な宗教を興してはきたものの、倫理上の欠陥を除去することはもちろん、具体的な対処も、人間の徳性を確実に向上させることさえ覚束ないことを示し続けてきました。

そこで、人間を創造された神は、人類社会に大きな害を及ぼしているこの『罪』を除き、人間を創造された当初の神の意図に沿ったものに造り変えることを意図されました。
つまり神の創造の意図から離れてしまった人間を、再び創造物としての本来の人間、つまり浄められた『神の子』として迎え入れることがその意志なのです。(ヨハネ1:12)
その具体的手段、また過程がキリストが治め千年間存続するというこの『神の王国』であることを聖書は告げています。


イエスはこの「王国」を伝道の主題とし、それについて再三語られましたが、キリスト教界もこれを十分に把握せず、仏教の極楽のようなものとあまり変わらないような「天国」と取り違えて正しく伝えることに失敗してきたのを見るのは、いかにも残念なことです。それは「世の救い」と「個人の救い」、つまり利他心と利己心ほどに異なります。

その千年間にキリストは人々の「罪」を除き、世界を癒して、人々から病気、老化、死も除かれ、完全な健康の内に、その支配に入った人々には、現在の『この世』が貪欲によって動かされるのに対して、アガペー(慈愛)と呼ばれる『愛』が原理として据えられ、前述のイザヤ書の預言の語るところが実現して、戦争はもちろん、様々な形の争いを過去のものとされることでしょう。

イエスはある人がこの「王国」について無上の価値を見出すことを例えで語り、そうしてこの世で、数多くは無いとしてもその価値の大きさを悟る人がいることを示されました。
その例えの中の人は真珠の大商人でしたが、値の高い真珠のひとつをその見識眼で見つけ出すと、持ち物をすべて売り払って、そのひとつの真珠を買うと言うのです。(マタイ13:44-45)
つまり、『神の王国』とは、あらゆるものに勝る価値があるということです。また、それを見る目も必要であることが同時に示されました。

また『耳のある者は聴きなさい』とも言われ、この「王国」がどれほどの意義を持つものかを悟る人が『多くの実を結ぶ』とも述べています。このキリストの伝道の主題であった『神の王国』を、「天国」のような個人の救いの手段としてではなく、『罪の許し』が『この世』の全体に及ぶことの価値の大きさを悟れる人はまことに幸いです。(ヨハネ3:16)

それは『罪』を去って『愛』により動かされる『王国』であり、人々からすべての涙がぬぐい去られ、その祝福を目当てとはしないものの、地上のどんなに優れた国家でも味わえなかった素晴らしさをすべての人々にもたらすばかりか、神を讃えずにはいられないほどに創造の業がどれほど優れたものであったのかを驚く日々を過ごすことになるでしょう。
『罪の報いは死』であると聖書は教えますが、『罪のない』状態に至った人々には、その報いがなくなる将来には、神と忠節な愛の絆を得て永生に向かうことになります。(黙示録21:4-5)

確かに、イエスが病気の人々を癒して『神の王国は近づいた』と知らせて巡ったのは、その価値がどれほど大きいかを悟らせるためであったと言えます。この『王国』に価値を見出すことのできる人は真の幸いを受けることでしょう。(マタイ4:23-5:10)






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3.「聖霊」 信仰の第三の対象

2014.04.14 (Mon)
神の用いる『聖霊』


まず、ここでの第三に信仰される『聖霊』というのは、所謂「三位一体」の中の一つを言うのではありません。「三位一体」説そのものは、四世紀に入ってから、当時流行していたギリシアの宗教に便乗して、異教徒をキリスト教に取り込むための妥協点として採用された汚れのようなものであり、原始キリスト教には何の関わり合いもありません。

そこで、ここではユダヤ=ヘブライでの『霊』の概念から見てゆきましょう。
日本語での「霊」といえば、人間の身体とは別に存在する精神的なもので、死後に体から別れ出るようなものと思われることでしょう。
ですが、聖書中での『霊』は様子が異なります。まず、それは人のものではなく神からのもので、創世記では多様に創造の業に関わっています。
原初の地上は水に覆われていて、『その上を神の霊が行き巡っていた』とあります。

また、最初の人間であるアダムの創造については、地面の塵で人を作り、次いで、「霊」に相当する「命の息」を吹き込むと人は生きるものとなったと記しています。
ですから、人から「霊」が抜けてしまうと死んでしまうことも聖書は知らせています。つまり、聖書で言うところの「霊」とは人の精神のようなものではなく、むしろ、「電流」が様々な働きをするように「神の用いる力」であるといってよいでしょう。

このように日本語での「霊」とヘブライ語の概念の霊に相当する語の「ルーアハ」には違いがあることを念頭に置く必要があり、これはキリスト教理解に於いても非常に重要な「鍵」となるものです。

さて聖書中では『聖霊』という言葉も出てきます。
これは、単に人間を生かす「神の力」というだけに留まらず、神の霊が特別な仕方で働くことを指しています。
古代にはモーセがエジプトの最高権力者ファラオと向き合ったときに、神はモーセを通して十度の奇跡を行いますが、これに対してエジプトの僧職者はそれ留める力を持たず、モーセの神の奇跡を行わせる力を『神の指』であると認めています。

聖霊中でもう一度『神の指』とも呼ばれているのが、イエス・キリストが行った奇跡を指している箇所で『わたしが神の指によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである』と言われます。(ルカ11:20)
キリストが行った奇跡の業について、イエス自身は『父の業』と呼んでいますし、その奇跡の数々も、神の霊である力によって行われていたからです。また、イエスは『もし、ほかのだれもがしなかったようなわざを、わたしが彼らの間でしなかったならば、彼らは罪を犯さないですんだであろう。しかし事実、彼らはわたしとわたしの父とを見て、憎んだのである。』とも言われました。(ヨハネ15:24)
つまり、聖霊の奇跡の印を見ながら、なお、頑なに信じない者らには、聖霊に対する罪が生じるということです。

また、イエス後の使徒たちにも奇跡を起こす聖霊が注がれることになりましたが、神の聖霊は彼ら選ばれた人に奇跡を行わせるだけでなく、預言を与えて神からの言葉を伝えさせる役割も果たしてきました。それらの預言は聖書に残されており、それらの予告の言葉が歴史の上で実際に成就しているだけでなく、それぞれに将来の二度目の成就の可能性も秘められています。
ですから、「聖霊」とは神がその意志を伝えたり行ったりする際に様々な働きを行うものであると言えます。

イエス・キリストが刑死して後、三日目に復活させたのも神の霊の働きでありますが、復活後のイエスは『霊の体』になって復活したことを聖書は教えます。(コリント第一15:45)
これは「霊者」となって復活したことを表していて、神は多くの「霊者」たちを地上の創造に先立って創っていました。これらは一般に神に仕える「天使」と呼ばれます。
彼らは、単なる霊ではなく、霊の存在者であって人格も個別の意思も持っています。(列王第一22:21/ダニエル9:21)

人格を持つこの天使たちも、自由な思考や意志決定ができる者たちですから、創造者を愛して忠節であることも、不忠節な道に堕ちることも自由意思に左右されます。神は独立した思考の持ち主たちに対して圧制や強制を望みませんし、真実の愛や忠節とは自由な中に初めて生じるものだからです。
そのため天使のある者たちはアダムがそうなったように、神と仲間を愛さず、利己的な選択を行って不忠節の歩みに敢えて入り込みました。これらの霊者は堕落した天使であり、聖書中では『悪霊』と呼ばれています。(ユダ6)

この霊者たちが人の死後の霊を装ったり、各種のオカルトや超自然の現象を起こしたりして、ずっと神への信仰が広まらないように活動してきています。
ですから、聖書は心霊術や占いなど、堕天使らとの交友を戒めているのです。(レヴィ19:31)

そのような「悪霊」が跋扈する世の中ですが、「聖霊」もイスラエル民族に奇跡を行い、また多くの預言を与えてきました。
そしてキリスト後に、「聖霊」の働きは世界に向けて広がってゆきます。
キリストの弟子たちに与えられるようになった「聖霊の賜物」は、それまでに存在したどんな「聖霊」の働きをも超えるものとなりました。(ヨハネ7:39)
なぜなら、それはキリストの犠牲の価によって人類で最初に「罪」を許された弟子たちだけに特別に与えられた奇跡の業だったからです。この格別な弟子たちは『聖なる者』また『聖徒』また『初穂の人々』と聖書中で呼ばれます。

その「聖霊の賜物」はキリストの聖徒たちに、学んだことのない言語で神について話す「異言」という能力をはじめ、「癒し」の奇跡、また物事を先見したり、ある人の過去を知ったりする「預言」を与え、また神の目的に関する奥深い知識である『奥義』を教え、聖霊は弟子たちに教理を与え、キリストが去った後も導き続けました。
これはイエスが弟子たちに予告していたことで、この聖霊は『約束の聖霊』と呼ばれます。

この聖霊はキリストが行っていた『父の業』を使徒や聖徒たちに行わせ、イエスがイスラエルの中で行っていた聖なる信者を集める業を、弟子たちはより大きく働き、世界へと拡大させるものとなりました。

新約聖書の「使徒言行録」が記すように、弟子たちの赴くところで聖霊による奇跡が行われ、それを信じた人々からも聖霊が与えられる人々が現れます。その業は、当時のインドから地中海世界の西の果てまでに広げられ、各地から聖霊を受ける弟子が加えられました。

こうした勢いは、エルサレムの片隅でユダヤ人の迫害に怯えていたイエスの直弟子らに、異言をはじめとする聖霊が与えられて初めて可能となったもので、そのとき以降のキリストの弟子たちの広がりと教えの一致は、人間の意図して果たせるところではありません。

イエス・キリストはこのような弟子たちの業を予告して
『聖霊があなたがたに来るとき、あなたがたは力を受けて、ユダヤとサマリアのすべて、そして地の絶え果てる処までもがわたしを証しする者たちとなるのです』と語っていた通りです。(使徒1:8)

初期のキリスト教徒の集まりは、聖霊の奇跡の賜物を受けた『聖なる者たち』の聖霊を通した教えによって導かれていました。『聖なる者たち』つまり「聖徒たち」が聖霊を通して語ることを使徒パウロは『聖霊の顕現』と呼んでいます。ですから、その人に聖霊があることは誰からもはっきりとしているもので、有るのか無いのか、自分にしか分からないようなものではなかったと言えます。(コリント第一12:7)

しかし、このように聖霊の賜物を得た人々が次第に世を去るに従い、キリスト教界は聖霊を持っていないために、様々に人間の考え出した教理が現れて、互いに敵意をもって争い合うようになってゆきます。
かつての聖霊を持っていた人々は「聖人」として過去のものとされ、信者の祈りの対象とまでされてしまいました。

今日のキリスト教の多くは、自分たちに聖霊が働いていると信じ、また、バプテスマを受けた信者の中に存在し、その聖霊を通してイエスが自分の中に住んでいると考えます。ですが、それは『聖霊の顕現』とは言えません。

また、ある宗派では憑依状態、つまり霊に憑かれ、我を忘れる境地に入ることで初期キリスト教徒と同じく聖霊を受けていると考えますが、聖書の述べる『聖霊の顕現』は憑依状態に陥るものではなく、それぞれが自分で霊を制御できるものであったことが記されています。(コリント第一14:31-33)

初期キリスト教徒に「聖霊の賜物」が有ったと史料に残る第二世紀以降、この聖霊の無い時代は現代までずっと続いています。
その間、キリストはこの世に対して「不在」となっていますが、この世の「終わりの日」(終末)にキリストは戻って来られ、世を裁かれることを聖書は教えています。
かつてキリストが現れたユダヤ人の間では、聖霊による奇跡がイエスを通して行われ、多くの人々が病から解放されるのを見て、人々は篩い分けられました。仲間が癒されることを喜べた人々と、そうではなくキリストを怪しい魔術師だという人々に分けられたのです。

聖霊を通して、人々はその心にあるものが明らかにされ、神と人を愛せるか否かが、そこで試されました。
この世の終末に、再び聖霊が地上に臨むなら、同様の裁きが起きることでしょう。
そのようにして、人々はキリストの前に分けられると云える理由があります。(マタイ25:31-33)

ユダヤ教は神を崇拝する宗教であり、イエスをメシア=キリストとは認めませんでしたから、いまだにメシアを待っています。彼に足りないのはメシア信仰、つまりキリスト教のように『子』を信じることでありました。
そして、キリストが去った後には『聖霊』を信じる必要が生じました。こうして三つの信仰の対象が示されています。
さらに来るべき終末では、すべての人にとって、これら三つを信じるべき時となることでしょう。



⇒「聖霊という第三のもの

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