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2.死の原因である「罪」とは

2014.02.18 (Tue)
・死の原因は「罪」

聖書でいう「罪」とは、私たちが犯してしまった、法の定めを踏み越えるいわゆる「犯罪」を指すのではなく、また、個人の良心が咎めるような何か特定の行いを指すわけでもありません。

それは誰もが持っている、「悪に向かおうとする人間の傾向」、あるいは「倫理的欠陥」を指して聖書は『罪』と呼んでいるのです。

ですから、聖書でいう『罪を悔いる』とは、自分のかつての何かしらの行いを反省することを必ずしも意味しません。むしろ、人間全体の内に宿っていて、逃れることのできないでいる「悪を行う傾向」を、それを自分では願わず、拒否しようとする姿勢を見せることを意味します。

人は誰であっても、聖書が述べるこの「罪」を逃れることができません。
それはどれほど優れた宗教家であっても、善良で献身的なキリスト教徒であっても一向に変わるところがありません。

キリストの使徒パウロは、その言動においてきわめて模範的な人物といってよいでしょう。
その彼でさえ『私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っている』と述べ、自分が『みじめ』であり『誰がこの死すべき体から救い出してくれるでしょうか?』と問いかけています。

聖書は『罪の報いは死』であるとしています。
つまり、人間の悪に向かう傾向、倫理上の欠陥は、わたしたちに「死」をもたらしているというのです。

なぜでしょうか?
それは人間が神によって創造された、ということが深く関わっています。

神が天地を作り、植物や動物で地球を満たして後、それを管理させるために人間を最後に造られたと聖書は述べますが、この人間だけは『神の象り(かたどり)』に創られたとも創世記は述べます。
つまり、ほかのどんな生き物とも異なる特性をもちます。

もちろん、人間の知性はどんな動物よりも抜きん出ていて、多様な言葉や文字を用いて高度な意思の疎通を図り、創意を巡らし器用な手を用いて、ほかの生き物では到底及びもつかない様々な物を作り出すことができます。

ですが、聖書の観点では人間についてより重要な特質があります。
それは自らを存在させた創造者との意思の疎通を図れることにあり、神にとってこの関係性が人間の最も大切な能力であり、創造者との交流こそが最も基本的な絆となるべきものといえます。

つまり、創造の神は人間にとって存在の由来である根源者、自分以外の最初の他者であり、この創造者との関係は本来、あらゆる倫理の基礎となるべきものです。
もし、この第一の関係を正しく適切なものとしないなら、人は倫理、また他者との関係をふさわしく確立することができません。
人間が倫理的に問題を抱えていることは、少し世相を見るだけでまったく明らかなことです。

自分を存在させた神との関係性が損なわれているなら、他にどんな良好に見える関係があろうと、そこには不完全性がついてまわり、実際には誰とも真実に親しい関係を構築することに無理があります。最初に満たされるべき土台となる最重要な関係に倫理がないのに、人はどんな倫理や道徳を持ち得るでしょうか。愛において完全ではないのです。

それでこの世では不正や不義を避けることができないばかりか、それが横行しているといっても間違いではない状況にあります。

しかし、神は最初から人間をそのようなものとなるよう意図して創ったわけではありません。
神は天地を創造し、地上に人間を置いてからすべてのものを眺めて、非常に満足されたと創世記に書かれています。

人間は本能に従うよりは、自由に考えを巡らし、自分で何かを決定するものとして創られました。
ですから、人間から自由に思考することを奪ったり情報を制限したりするなら、それは必ず圧制となるのです。そのように押さえつけることには、人間本来の優れた自己判断を委ねた神の設計に反する無理があります。

この自由意思を持たせることにより、神との関係性を良いものとする機会を人間に与える可能性を有します。
人は強いられてではなく、思う通りに行動でき、その自由な意思から自発的に神を愛し敬い、その関係を築くことができるものに創られていたに違いないことは、自発性が人間らしさを特徴づけることからも明らかでしょう。
もし、愛で結ばれるなら、神と人間は自由に交友を持てるはずでしたが、そこに両者を隔てる要素が入り込んでしましました。それこそが「罪」です。

創造された最初の人間アダムは、創造者との関係を損ねたことを創世記は記します。
つまり、一本の木の実だけは食してはならないという、与えられた唯一の禁令を破りました。
その場合、これは「些細な間違い」ということでは済みません。

なぜなら、創造された者が、創造者に敬意も愛も示さず、神の意図から外れて、あらぬ方向に足を踏み出したからです。それはアダム自らの命を損ない、創造界に争いや不調和をもたらしましたが、最も大きな損失は、この「罪」、つまり倫理上の欠陥が遺伝によって全人類に蔓延してしまったことです。

したがって、わたしたちには押しなべて、悪に向かう傾向が避けられません。
人間の『すべての者は罪を犯したので神の栄光に達しない』と聖書ははっきりと記されているように、アダムの子孫である限り、これに例外はありません。
聖書は『ひとりの人を通して罪が世に入り、すべての人に罪が広がった』と述べています

創造者は、自ら意図した規準に達していない創造物をいつまでも存在させることはされません。
その規準とは「罪」が無い状態であり「聖」であることが求められます。
もし、「罪」あるものをずっと存在させるなら、創造の意図も永久に遂げられないことになり、創造界は混乱が収まらず、それは創造物にとっても益になりません。

聖書では、創造された動物はそれぞれに「魂」と呼ばれますが、人間については『罪を犯す魂は死ぬ』という原則が創造者によって定められています。まさしく『罪の報いは死』と書かれている通りです。
これは「魂」に命を与えて生きるものとした創造の神だけが持つ、生殺与奪の権限と言えるでしょう。

神によって「罪」ある人間には寿命が定められたので、身体は歳を重ねるうちに老化するようになり、生命の終わりに向かってゆくことが次第に明らかになります。それだけでなく、人間は病気を避けることができず、いつなんどき事故や災いに遭って死に至るのか分からない不安定な存在となりました。
つまり、すべての人間は、アダムからの「罪」によって何時しか死に処せられるべき死刑囚のようにされてしまいました。

この神の取決めは非情に見えるかも知れませんが、このように虚しい状態をいつまでも放置されることはありません。それでは創造の業がいつまでも完遂しないからであり、それは神の全能性に反します。
そこで神は、人間から「罪」を取り除く「贖罪」(しょくざい)という方法を用いてすべての「魂」を創造本来の姿に戻すことを意図されました。これが「救い」と呼ばれます。

神はそのためにキリストを地上に遣わし、その地上に由来しない「罪」のない命、「魂」を犠牲とし、人間の最初の先祖アダムが失った清い「魂」の代わりとしてキリストの「魂」を据え、こうして倫理の道理が崩れないように取り計らいました。
ですから、一般常識に反してまで、キリストが普通の方法によらず、処女懐妊によってこの世に来たとキリスト教徒が信仰する理由はここにあります。パウロはイエスを『最後のアダム』また『第二の人』と呼んでいます。

キリストは自らの「罪」が無く、生き続けることのできる魂を人類の救いのために捧げましたので、今や、すべての人は神に買い取られた状態に入っています。 まさしく、キリストは『すべての人のための対応する代価』であったと記されている通りです。

創造者はすべての「魂」を存在させた方であり、当然にその所有権を持ちます。
まして、キリストの貴重な犠牲によってすべての人を買い取られた今、何者も勝手に神の創造物である人の「魂」を取り除くことは許されません。

しかし、『罪を犯す魂は死ぬ』という原則は依然として有効であり、わたしたちの状況は変わっていません。
ですが、その原則のゆえにも、神は自らとの倫理上の関係を正そうとするかどうかをすべての人に問う時を設けられました。それが『裁き』であり、世の「終末」と呼ばれる期間に行われます。そこでは人々が創造者を創造者として当然の敬意や愛を示すか否かが問われることになります。

つまり、あたかもエデンの園でアダムが試みを受けたように、一人一人が終末に問われます。
わたしたちは自分の内に宿る「罪」をどう見做すでしょうか?
聖書は『自分には罪が無いというなら、その人は自分を惑わしている』と言います。この世の有様を見ても、人間に「罪」が無いとは到底言えません。

終末の「裁き」で必要とされるものは「信仰」であることを新約聖書は繰り返し述べています。
この「信仰」とは、神が人間を「罪」から救おうとされる意志に応え、忠節な愛を示すことであり、そのようにする人は、神をはじめとする他者への愛を育み、利他的であろうと努めることでしょう。

ですから、単に神の存在を信じることが信仰ではなく、終末のときにはっきりと示されることになるところの、「罪」を除く「神の手段」を信じて願い求めることを意味します。

その「贖罪」のための「神の手段」を聖書は『神の王国』と呼んでいます。
これがイエス・キリストの教えの中心となっていたものであり、聖書の全巻を貫く主題です。



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1.聖書の目的

2014.02.17 (Mon)
今日世界には、二十億ものキリスト教の信者が存在すると言われ、この人々が世界で最も信者数の多い宗教を形作っています。
キリスト教徒はイスラーム教徒の住む地域にも存在し、広範な布教の努力により、仏教国とされる日本のような国にも一定数存在することからすれば、明らかに全世界に広まった大宗教と言えましょう。

キリスト教徒の経典は「聖書」と呼ばれますが、この書の頒布数も世界で最たるものとされています。
原本は失われてはいますが、遅くとも紀元前千数百年からモーセという預言者によって、それ以前の資料の編纂も含めて創世記から書き始められ、紀元第一世紀の終わり頃のキリストの直弟子たちの時代にまで執筆が及んでいます。

つまり、ひとりの教祖や特定の世代の人々だけによって記されたり監修されたりしたものではなく、永い期間に亘って、その時代毎に筆記者が現れては書き継がれてきたという特殊な書物です。そればかりか、その内容が時代を経る共に深く意味が明かされ、また以前に書かれた預言が成就し、謎が解かれて、いよいよ深化し発展していったところは、神秘的と言って過言でありません。それぞれの書物が関連し、全体の意味を補い合っているために、ただ古い著作の寄せ集めとは言えない不思議がそこにあります。

通例には六十六の分冊から聖書は構成されますが、それぞれの書にはある種の「聖性」のようなものが宿っていますので、この書を育むことを任されたイスラエル=ユダヤの民は、その水準に達しないありきたりの人間の発想に由来する程度の著作を聖書から除外してきました。

その排除された一部は、聖典の外に置かれたために「外典」また「疑典」と呼ばれています。それらの書物は、清さや高邁さ、天的な画期性を欠いてしまっていることで聖書に含まれた諸書に達しないことは読み込むと明らかになるものです。

「旧約聖書」は、聖書全巻のおよそ三分の二を占め、非常に古くからの歴史を語り、法律を制定し、預言を宣告し、また霊感を受けて詠まれた詩歌や格言を編纂したものが集大成されたものですが、それぞれの書には気高い風格と、後代に起こった事を予め述べている不思議と、いまだに解けない謎も込められています。

その旧約聖書が書き終えられて四百年後に起こった出来事、つまり、旧約聖書の中に予告されていたメシア、つまりキリストとされた類い稀なイエスという人物の登場と言葉と行動を記したものが福音書で、その弟子たちの活動や当時の人々を教え、キリスト教を完成へと導いた手紙類、そして終末の預言である黙示録から出来上がっているのが、聖書の残る三分の一に当たる「新約聖書」です。

双方の聖書には見事な文学性や、人間の本質を突くような鋭い指摘があるため、人類文化に与えてきた影響にはたいへん大きなものがあります。

しかし、聖書の教え本来の目的は文化的影響を与えることではありません。
新旧の聖書は書かれた時代も言語も異なりますが、幾らかこの書に親しむなら、人間の思惑を遥かに超える神のずっと変わらぬ強い意志が双方の書を貫いていることに注意が向くことでしょう。

その神の意図するところは、創世記のはじめの時代から五千年以上の時を巡り、最終巻の黙示録に描かれる将来に至るまでも漸進的に語られ、神のひとつの目的がどのように成し遂げられてゆくのか、それがこれらの諸書の中で次第に明かされてゆきますから、その構想の大きさ、関係する人々や世代の多さ、悠久の時にわたるその歩み、また未だに解けない多くの謎も含んでいる事を知ると、筆者らの背後にあってこの書物を著し続けた偉大な存在者の前に人は謙虚にならざるを得ないでしょう。

しかも、それらの記述の目的とするところは、我々人間がどんなに求めても得られることのない、数々の優れたものをもたらすことなのです。

聖書の目的は、人間がただ神を崇拝するようになることではけっしてありません。
人生をよりよく導くための指針がもっぱら書かれているわけではありません。
また、人間を裁いて死後に天国に召したり地獄の懲罰を与えたりすることでもありません。
人間たちの上に主権を唱えて君臨することさえ神の目的ではないのです。

すべてを創造された神は、初めから人間に崇拝させたり支配したりすることを目的とはしていませんでした。
この世で人生を間違いなく、幸福に過ごさせる導きであれば、占いや他の宗教の方が余程よいでしょう。
また、人間を死後天に召すというなら、神は人間を初めからそうせずに地上に置いたのはなぜでしょう。
死後に悪行者が地獄で懲罰を受けるというのは、神をサディスティックな性格の持つ主であるというに等しいことです。

神は創造の初めから人間を地上に置かれ、そこは「エデン」つまり「愉しみ」と名付けられるほどに良い環境であり、それは今日のような、残された美しい自然をさえ汚染や紛争で台無しにしてしまう世界とは無縁であったことでしょう。

神の目的の一端は、このように世界を汚し乱す人間の性質、その貪欲から地上を絶え間ない争いの場としてしまう人間のその「倫理上の欠陥」を取り除き、人間を本来意図された輝かしい創造物に回復させ、次いで世界を創造された当初の企図に沿った素晴らしいところとすることにあります。すなわち人間について、本来の創造の意図を成し遂げることが、すべてのものを創られた神の強固な意志なのです。

聖書は、人間の中に巣食う倫理上の欠陥を「罪」と呼びますが、それは個人が犯す個々の悪行を指すのではありません。人間に難病のように憑りついて離れない悪に向かう「傾向」を指しています。それでこの「罪」を「原罪」と呼ぶこともあります。

これを例えれば、人はなぜ争い、奪い合うことを止められないのでしょうか?
世界中で多くの人々が平和を望んでいたとしても、人間は争いを止めることができません。
また、どこであれ社会のあるところに犯罪の無いところがありません。
これは経済環境に恵まれていても困窮していようと然程変わるところがないのです。
この世界には、はっきりと人間の悪に向かう「罪の傾向」が見て取れるのではありませんか。

そのうえ、人の生涯は長いようでいて短く、その命はいつ消え去るのかも分からない不安定なものです。
人生は幾らかの幸せをもたらしますが、俗世にあって労し苦しみ、やがて知恵と経験に満ちたとしても、誰にでも訪れる死がその一生を無へと奪い去り、最後に虚しいものとしてしまいます。

人類はこのように人生が空虚であることの理由を求めて様々な宗教を存在させてきました。
つまり、人は何のために存在するのか、またなぜ生きるのかを尋ねるのですが、この普遍的な答えを的確に述べることは人には難しいことであり、人類はより高い次元に向かってずっと問いかけてきたといえます。

それらに答えを与えるはずの「宗教」の大きな教えのひとつが、人間が死後も意識を持って霊界で生きるという発想、また、他の生命となって生まれ変わるという輪廻、勧善懲悪を教える天国と地獄など、これらに共通するところは、人は死を迎えても何らかの形で残るというものです。それらは人生の空虚さを回避する教えといえるでしょう。

ですが、この点で聖書は即物的ともいえるほど理知的です。
つまり、死とはその人の思考も情念も無に帰することであるとして人生の空虚さを回避しないのです。
もちろん、それで終わってしまうなら人間には何の希望も無くなってしまうのですが、聖書の伝える希望とは、霊界の存在となることでも、輪廻して転生することでも、天国や地獄さえもありません。

では聖書の差し伸べる希望とは何かと言えば、それこそは人間の死を超克することであり、その人そのものの「復活」なのです。「復活」こそは、人が死から被るあらゆる損害も、どんなに悲惨な生涯を送ったとしても、そのすべてを相殺し得るものであり、「復活」こそが、人間を地上に在らしめた創造の神だけが行えることであり、且つ、理に適った真の幸福といえるものです。

聖書では「死は敵」であって、他の命への移行の機会でも、霊界への旅立ちでも、まして天国や地獄への報いを受けるためのものでもないのです。それは終局であり、滅びであり、土に帰り無に帰する以外の何ものでもありません。

聖書は人間のこの「罪」と「死」からの虚しさを直視し、天国と地獄による勧善懲悪も、死後にも霊の存在が残るなどとはけっして教えてはいないのです。
そのようにキリスト教が死後を教える宗教であると誤解されてきたのは、どこにでもあるような諸宗教と聖書の教えが中世以前に混じってしまい、それが欧米を経由して広がり、今日キリスト教としてもっぱら教えられているからにほかなりません。

ですが、聖書には人の「罪」と「死」の問題、そしてこの障壁を乗り越えようとする神の偉大な意志の表明がはっきりと読み取れ、それこそが力強く聖書全巻を一貫して流れるものとなっています。
すなわち、聖書に流れる神の意志は、アダムが神との絆を振り切ったことから人間全体に入り込んだ「罪」と「死」が除かれ、神の創造の業が完全に成し遂げられるに至ることなのです。
このように人類最大の問題が何であるかを的確に指摘し、それに対する神の意志を知らせるもの、それが聖書の大きな主題でありますから、この書は人類にとって最も価値があるというべきでしょう。

キリストの使徒パウロは次のように述べます。
『被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるのではなく、服させた方の意志によるのであり、また同時にひとつの希望を持っています。
即ち、被造物も、いつしか滅びへの隷属から解放されて、神の子供の栄光に輝く自由にあずかれるようになるからです。』(ローマ8:20-21)

聖書は、今日までの人間には「罪」があって、それが神との間を隔てるものとなっていることを知らせます。
つまり、人間は神に創造されたのですが、神の意図した状態からは大きく逸脱しているので「神の子」ではありません。

ですが、いつの日か人間の「罪」が除かれるように神は取り計らわれました。このように「罪」を除くことを「贖罪」(しょくざい)と呼びます。
ですから、キリスト教が「人間を罪人と呼んで卑しめる宗教だ」という批判は当たりません。
むしろ、この世に溢れる諸悪の根本原因を見据え、真実な解決に焦点を当てていることにおいて、多くの宗教に無い特長を持っているのです。

具体的に、人間の「罪」を取り除く神の「贖罪」の備えとなるものこそ、「イエス・キリスト」という『神と人との仲介者』であって、このキリストの犠牲の死を通して、人は「罪」を除かれ再び創造されたままの姿、つまり『神の子』としての状態に引き上げられ、「罪」の傾向はことごとく消し去られ、老化の失意も、死の恐れもまったく克服されます。なぜなら「死」は『罪の報い』であるからです。

キリストは人類の「罪」によってこれまで冒されたすべての悪行、またこれから冒されるであろうあらゆる倫理にもとる不正について、人類の悪に向かう傾向ごと一身に荷い、その身に責めも報いも引き受けて自らを投げ打ちました。
聖書はこれを『一人の罪によって、その一人を通して死が支配するようになったとすれば、なおさら、神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人は、一人のイエス・キリストを通して生き、支配するようになる』と述べます。

そうして、仲介者キリストの犠牲を通して人間が神との関係を回復する道がただ一本拓かれることになったのです。
「キリスト」とは「任命された者」を意味しています。キリストは自らを『道であり、命であり、真理である』と言われます。キリストはその地上の歩みを通して、神と人を愛する生き方を体現されました。愛こそは『罪』の反対に位置するものであり、創造の意図そのものでありましたから、すべての被造物はこの愛によって結ばれることが、神の意志であり、聖書の主題です。

こうして聖書の人類に伝えようとしているところが見えてきます。
それは、創造を成し遂げた偉大な神と人間が再び深い愛の絆で結ばれることであり、神の意志のままに世界がその栄光へと変えられることなのです。その価値は、これまで多くの人々によって「この世」の改革が真剣な努力によって追求されながらも達成されることのなかったところの、その描かれたすべての理想世界をも遥かに超えるものとなるでしょう。

人間に「罪」が宿るので、確かに「この世」で艱難辛苦が絶えません。
しかし、イエス・キリストはこう言われました。
『今、嘆き悲しむ人々は幸いだ その人たちは笑うようになるのだから 』

これはご利益信仰のように、今すぐ個人に利益をもたらすことも、この世で順風満帆の満足の生涯を送らせてくれることでもありません。占いのように益ある人生上の選択を助けるものでもありません。

聖書の神がなさろうとしていることは、個人の利得や小さな幸福を遥かに超えて、人類の全体を視野に入れています。
それなくして真実の幸福は無いからです。この世がそうであるような誰かが幸福であっても誰かがそうでないことを神は意図されません。この神はすべてのものの創造者であられるからです。

だれが、この聖書の目的に価値を見出すでしょうか?
もし深い価値を感じるなら、まことにその人は幸福というべきでしょう。
その価値についてキリストは例えを用いて語り、ある商人が持てる商品のすべてを売り払ってでも手に入れようとするほどの「高価な真珠」に例えています。

神はその目的に向かってずっと行動してこられ、数千年に亘りゆるぎなく歩みを進めて来られました。
聖書が非常に古い本であるのはそのためです。
そしてイエス・キリストが犠牲の死を遂げられた以上、「贖罪」の準備は整い、もはや偉大な目的は成し遂げられるに違いないのです。

神の次の一歩が、やがて踏み出されようとしていることを聖書は告げています。
その一歩によって、福音に価値を見出す人々の「罪」を拭い去って祝福へ導く新しい時代『神の王国』の到来が近づくことになるでしょう。

ですからキリスト以後、いよいよ可能となったこの救いの知らせは「福音」(ふくいん)と呼ばれています。
聖書は、この世にあって最も広く頒布されてきましたが、この「福音」こそが人々に知らされるべきものなのです。






⇒ 「聖書というもの


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バプテスマについて

2014.02.11 (Tue)
私に分からないところはまだ多くあり、首を傾げるばかりの聖句も相当量あるのが正直なところではあります。

それでも、背骨はつかんだという実感はいよいよ強くなっているという状態です。

去年、また一昨年と比べても現在の理解が広がっているのは、今回の下巻の書き換えではっきりと致しました。

それで、ずっと尽きない源泉に行き当たると、人は学び続けるほかなくなるのだろうと思います。

進歩が無くなったり、的外れになったなら、そこで自分の老衰以外に理由があるとしたら、今日の蒙昧に陥った教派と同じ何らかの根本的ミスを犯したことになるのでしょう。

この点で、重要なのが「動機」ではないかと感じられます。
つまり、人が真実に値しないとき、それは人が真実に対して迎え入れる気持ちの準備が無いのでしょう。

しかし、自分を捨てて、まず真実を求めようとする人を、神は捨て置くままにはしないのではないかと思えます。

と言いますのも、キリスト・イエスは『求めよ、さらば与えられん』と言われているからです。しかも、そこに聖霊が与えられるとも言われます。

御教会のみなさんが、この動機を持たれ、また主要な教訓とされて聖書にアプローチなさいますなら、進歩する上で恐れるものは無いように思います。

逆に申しますと、この動機を持たないことをこそ恐れるべきなのでしょう。
人は多くの「欲」のフィルターをもって、都合のよいことだけを濾し取ろうとしてらくだを呑み込むかのようです。神の真実に近づくことを求めるなら、これはどうあっても避けたいところではありませんか。



さて、ご質問の件

Q:<十字架の血潮で私たちの罪は赦された、私たちは赦された罪人、と言われ続けてきましたが、今もそういい続けていますが、どうなのでしょうか?
<(ここにも、ノンクリスチャンとの差別を感じてしまいますが)

A:「許された」と過去形にするところは誤解を招くようです。
ローマ8:1などで「許された」とされるのは「聖なる者」であることが文脈から明らかで、それは確かに聖霊の賜物を注がれ「新しい契約」に入った人々だけについて、当時は言い得たものでありました。

誇り高い人には受け容れ難いかも知れませんが
今日の人間はおしなべて許される以前の段階にあり、神の観点からすれば「まったくの罪人」となるでしょう。
そこには、どんな宗教を信奉していようと何の違いもありません。

ある人々は、「それなら自分は何故、キリスト教を信じてきたのか?」と、その効用や得られるところを憤然と求め、異を唱えるかも知れません。それはすなわち「ご利益信仰をしたい」と云っているのです。

今日のキリスト教徒は、聖徒と信徒が何を意味しているのか区別がつきませんので、誰でも彼でもバプテスマを受ければ「罪を許され」また「救われた」と勘違いをしています。 ⇒「聖徒
この人々はおそらく「新しい契約」の意味をも理解しないからでしょう。

しかし、聖書全体を流れる神のご意志は「人類の救い」であって、その信者のご利益ではありません。
これは懐く精神が180度も異なります。公共善の大志と些末な利己主義の違いです。

「新しい契約」はアブラハムに約された、その後裔が人類の祝福の所以となることで、それは律法契約が成し遂げなかった事柄、即ち、選ばれた人を「諸国民の光」となる真のイスラエルに召し出すということです。これは新旧の聖書を一条貫く最も重要にして根幹となるべき概念で、パウロはこれを『奥義』(ミュステーリオン)と呼んでおります。 ⇒「ミュステーリオン

その人々「聖なる者」たちを実に「聖」たらしめるものがキリストの血の犠牲の最初の適用であります。
我々「諸国民」は、彼ら「アブラハムの裔」の働きによって、最終的に罪を除かれることになります。 ⇒「アブラハムの裔

ですから、現状のようにキリスト教徒だけが「救われる」としてしまうと、おっしゃるように「ノンクリスチャンとの差別」が生じてしまい、そこでは「収税人とパリサイの祈り」の例えのような優越感がどうしても避けられませんし、それは神もイエスも意図するところではけっしてありません。

さすがに、これを正面切って「自分たちだけが救われる」と強調する宗派は少ないとは思いますが、それでも、やはり「自分たちには特に救いがある」、あるいは「有利である」としないと「やってられない」信徒がごっそりと抜け落ちる危険があり、それは多くの宗教組織が何としても避けたいところでしょう。そうして数多くの教会が堕落しております。

ですが、誰かが許されたか否かに関わりなく、キリスト教とはまことに素晴らしいものです。
それは個人の利益にはならずとも、全人類を罪から贖い、創造の当初の「神の子」としての輝きを人にもたらしますし、なんと言っても、神が神とされ、創造の業が完遂し、あらゆる事柄を創造者の意図に帰させ安定させるための基礎が据えられます。

これほど素晴らしい宗教がほかにあるものでしょうか。
この神の御旨こそは「極めて値高い真珠」、「すべてを売り払う」価値があるとわたしは思うのですが、人の価値観はそれぞれで、どうしても自分の救いを今欲しいという方々もいらっしゃり、神の裁きの以前である今、これを裁いてしまうことはできません。

ですが、それらの方々が聖書の教えの本質的なところに触れて、それに沿った信仰を抱けるものかは難しいでしょうし、同じ価値観を持てないでしょう。

つまり、神の御旨に関わる「聖徒」や、彼らを生み出す「新しい契約」を理解できるか否かで、キリスト教徒はおめでたい御利益信仰者にも、人類のための自己犠牲となるべくイエスに続く者とも変じることになり、その違いは余りに大きなものとなります。

《厳密に言わせて頂けますなら、「血潮」の中の「魂」(ネフェシュ)が贖罪を為します。(レヴィ17:11)》 ⇒「ネフェシュ





Q:<イエス様を信じれば・・・と洗礼を奨励するのもおかしいでしょうか?

A:バプテスマには
1.まず、自分にアダム由来の「罪」があり、神の前に贖罪を必要とする罪人であることを認め、その<罪を悔いる>、つまりその「罪」から逃れようと強く願っていることが求められるでしょう。それは犯された個々の罪を指す訳ではありません。その「罪」とは、パウロも自身について嘆いたところの、人に巣食う倫理上の欠陥を言うのです。それが世に蔓延し、ほとんどの苦難の淵源となっております。

2.それから、マタイ28:19にあるように、<信仰のうちに>自分の造り主として神を受け入れること

次いで任命されたキリストがイエスであることを認め、神の導き手また贖い主として受け入れること

更に、神から出る聖霊をキリストが導きの経路として、聖書中の過去、また将来に際立った仕方で用いられるときに受け入れる信仰を持つこと ⇒「聖霊という第三のもの

ただ、「あなたは信じられましたか? はい、ではバプテスマを受けましょう」と信徒を乱造していれば、その報いは「幼稚な教会」、あるいは「雰囲気だけの信者」を作るだけで、わらの家を建てるようなものにしかならないことでしょう。

判で押したように「すべての荷を負って労苦する者よ」と呼びかけ、「どなたでも」と広く門戸を開きながら信徒が増えず、あるいは流動的である日本のキリスト教界の実情はこの粗雑な造りに原因しているようにも思えます。

3.キリストへのバプテスマは、アダムの命にあって生き、今後も実際にはその命に在って生きるのではありますが、自分自身のキリスト信仰によって古い生き方を去り、我欲を捨てて<アガペー愛に沿って生きる>決意を固めたことを公に示すものでもあるでしょう。

それは同時に<神の安息に入る>ことでもあり、俗世の欲を離れ、自分の義を立てず、この世に在りながら神の義と将来の王国を求める生活へと移る決意表明ともなるべきのように思います。それこそがキリスト教徒らしい特質をその人に形成するのでしょう。それは単に善人や道徳的模範者を装う事とはまるで異なります。

だからといって、放縦が良いわけでも、自分の思うまま、望むままに言動を慎まなくて良いわけでもありません。それでなくとも人は度々失敗を繰り返すのですから。
一途に、神と人を愛し続けることは容易なことではなく、それを自ら判断し行うのは誰かの定めた規則に従ってしまうよりもずっと難しいことでしょう。

ですが、これを自ら行わなければ、イエスに教えられる弟子としての成長も、「神の子」に求められる「愛」においても一向進むところがありません。無頓着にしていれば、聖霊の顕現の時にさえそれを軽視し兼ねないのではないかという危惧も考えられます。なぜなら、自らの価値観で反応することに怠惰に過ごした為です。

一方「愛の掟」は、行う個人によって見かけ上は異なる結果を生み出すことを予期しなければならず、またそれを隣人愛の内に尊重する余裕も求められます。
そのように教条を離れることによって、人は愛における判断力を向上させてゆくことができ、それこそが人のアガペーを強化し、アダムからの罪あるとはいえ、キリストの教えに沿って、その道を進むことができるのでしょう。

それですから、バプテスマを受けた後も手取り足取り指導し続けるのは、信仰においてその人を成長させることにはならず、却ってユダヤ教のような規則に依拠する低次元の信仰へと、わざわざ信徒を拘束してしまうことでしょう。
やはり、規則に従わせることは、自発心を失わせ、自己の判断力が育たず、愛において進歩できなくなるからです。(ローマ13:8-10)

まして、自分では得心できなくても何かの規則や命令に従えというのであれば、ユダヤ教はともかくキリスト教の原則からまったく逸脱しているというよりほかありません。 ⇒「愛の掟

この点で、エチオピアの宦官がバプテスマを受けるとフィリポがすぐに移されたのは示唆的であるように思えます。神は不必要な事を行われません。宦官は「喜びつつ自分の道を行った」と書かれております。
ですが、キリストへのバプテスマも、それぞれの教団に帰依させるかのようになって、神の偉大な寛容さから遠く離れて、偏狭な正義感の徒を作っている宗派もあり、それらは他山の石とすべき教訓でしょう。



その一方で、キリストの教えに倣おうとする人は、常に聖書に相当に親しむ必要があり、その程度如何でキリスト教徒としての成長がどのくらいになるかが決まってしまうでしょう。しかし、これは他の信徒と比較してという意味ではありませんし、その人の倫理性がどの程度影響を受けるのかは分かりません。知識が救いとなるのではなく、より重要なのは共感でありましょう。

聖書に親しむことにより、神の意志を自らの思いに影響させ、そこに深い価値を見出せるなら意義があります。
そのために個人で聖書の熟読(けっして通読ではなく*)と、価値観を同じくする仲間と進歩を促し合う集まりの必要が生じます。
その集まりとは儀式や祈りを主体とする「礼拝」ではなく、今日では必ずしも場所を共にする必要もないかも知れません。
集まりでは、パウロも強調していたように学び合うところにその意義があります。*(通読を強調する教師は、信徒に「聖書を理解してはならない」と云うに変わるところがありません)

ですから、キリスト教徒の集まりには本来は「礼拝」と呼ばれるべき理由はありません。狭義の「崇拝」とは、聖霊なしでは存在し得ないでしょう。
聖書は人が一生を費やしても、けっして学び切れるものではありませんから、そこにお目出度い典礼儀式の必要はなく、むしろ初期キリスト教徒のように、『聴いて学ぶ』ものでなくてはなりません。(ローマ10:17)

またその学習の目的は、神のみ旨を再認識し、心に刻み込むことであり、そのご意志に協働する自分の道を探ることが集まりを必要とするのでしょう。つまり、信仰するということは、何かを信じるというだけのことでも、教理を学び得心することでもありません。信仰とは、それ以上ない究極的な倫理上の決定であり、その人が何かを退け、何かを擁護することを意味します。

そして、その擁護される事とは、「御子」と「聖霊」で表される神の御意志、あるいは神の行動目的である「経綸」と呼ばれるべきものであり、「信仰」の働きは、それを心から擁護し、推進させるべく自ら出来るところに応じて協働しようと努めるところにあるでしょう。

それは神がなさろうとされる事を理解し、その精神に同調し、自らにも培い、神が将来に行う事柄に自分を合わせ、終末に至っては、聖霊で語る『聖なる者ら』が現れるときに、自らを役立てようと努めることになるでしょう。そのときに行うべきことは主なるイエスも語っておられます。(ヨハネ17:20/マタイ25:40・10:42)




ですからバプテスマは、教理教育の卒業や入信儀礼以上のものであるべきのように思えます。
もちろん学んで信じたことの積み重ねがあってのことですが、バプテスマを一言で云えば<信仰を持った者が、その後を神の御旨に沿って生きる決意表明>ということなのでしょう。

それでも引き続き「罪」は内面で働くので、倫理的失敗や、思わぬ結果を招くこともあるかも知れませんが、それにも耐えられる信仰が育っていなければならず、その後に度々決意を翻すようなところが見えそうなら、バプテスマの判断は早計なのでしょう。

その人は、たとえ意図した通りにならなくても、自分の行動がアガペーに基づくものであったことを心底確信できるでしょうか。もしそうなら、それは他人のあれこれ言う領域のものではありません。しかし、本人にも疑念があり、そうしたことが傍目にも多いなら、その人は十分な倫理的決定に至ってはいないように思えます。

しかし、バプテスマを恰も完全な「裁き」のように見做してしまうと、人間の不確かさという現実を無視することになり、それは早晩無理が祟ってくるに違いなく、この辺りにはバランス感覚が求められます。 ⇒「神は人の何を裁くか
殊に、本人バプテスマを強く願っているなら、それを敢えて留める資格は何者にも無いように思えます。

と言いますのも、バプテスマそのものが、罪や汚れを洗い流すわけではなく、「裁き」が依然人々の前から去ることはないからです。それは『良心を願い求めることである』とある通りです。真実の正しさは神にのみあるからです。(ペテロ第一3:21)


ですから、バプテスマを受ける人はそれを神秘主義的に捉えて、自分が神との格別な関係に入ったと思い込むよりは、よほど自分の救いをともかくとして、一途に神の御旨に役立て用いることを願うことでしょう。
もちろん、「聖霊の賜物」の地上に存在しない今日、誰も「新しい契約」に参与して「罪」を許されることを今このときに期待するのは的外れです。

コルネリウスに聖霊が降るのにバプテスマの先行を必要とはせず、イエスの傍らの罪人はバプテスマを受けることなく、パラダイスへの復活という救いに与っております。

ましてやバプテスマを受けたからと「イエスさまが自分の中に住んでくださる」というのは、「聖徒」にのみ言い得ることであって、今は、思い込みの強い人の妄想による心理作用だけの厚顔な「ご利益信仰」でしかありません。

また、バプテスマは何かの宗教組織や教祖への恭順や帰依を表すのでもなく、もちろん「救い」を得る手形のようなものでもけっしてありません。

ただただ、信仰の対象*である神と子と聖霊を受け入れるべく『整えられた民』の一人となるというスタート地点に立ったことの表明でしょう。*(崇拝の対象は神YHWH以外にありません)




⇒ 「バプテスマの意義は何か
⇒ 「聖霊と火とのバプテスマの異なり







2013.2.23加
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枯死したイチジクの意味(マタイ21:18-)

2014.02.01 (Sat)
この場面は、イエスが刑死する二三日前で、特にマタイでは、体制へのイエスの非難が極まるところです。
この前後の例えは、宗教領袖とユダヤ体制への糾弾が続きます。

このイチジクの木は『二度と実を結ぶことがないように』と言われます。
すると、その木は枯れてしまいました。

ここだけを読みますと、何やらキリストは渇きを癒せなかったがためにイチジクの木に八つ当たりしたばかりのように思えてしまうことでしょう。

しかし、これはモーセ以来のユダヤの体制を表しているととるのが前後からすると自然です。特に、この挿話の後に次々に続く例えの内容を見ていただくと一目瞭然のことと思われます。

このイチジクは性質上、葉が出ていれば実を結ぶのに、それには実が無くイエスの渇きを癒すことができませんでした。

それは即ち、モーセを介して律法を授けられ、捕囚という懲らしめも受け、千五百年を経過し、いよいよメシアが到来して様々な奇跡と神の言葉が語られたにも関わらず、実を結ぶことなくメシアを落胆させたユダヤの体制を表していると捉えると、そのほかのイエスの言葉とも合ってきます。

ユダヤがメシアを受け入れる人々で溢れ、官民こぞってメシアを受け入れていたなら、このイチジクは甘い実をイエスに与えていたことでしょう。

明らかに、この木は象徴として用いられています。
これを解く鍵はルカ福音の13章にも登場するイチジクの木にあります。
そこでのイチジクの例えを語る前にイエスはあなたがた(イスラエル人)も「悔い改めないなら滅ぶことになる」と前置きされてから、三年世話したのに実を結ばぬ木を主は切り倒すようにと言いますが、園丁はもう少し世話をしてみますからと言って猶予を求めます。

それは丁度、三年と六ヶ月イスラエルの民にメシアを与えてその信仰を期待した神と、メシアであるイエス自身に当てはまるように語られています。
辛抱強い園丁であるイエスは、「今年一年、そのままにしてやってください、周りを掘って肥やしを与えてみますから」という言葉のように、もう幾らかの期間を奇跡を行い王国の福音を宣教してまわります。

ですが、その結果はメシアの憐れみに応じるものとはなりませんでした。
ユダヤ人の中から幾らかの弟子は現れたものの、ユダヤ人の大半、その体制はナザレのイエスに信仰を働かせず、そこに王国の主の到来を見ません。

却って、イエスの行う奇跡「父の業」を悪霊の頭の仕業だと言い、イエスを「サマリア人で悪霊に憑かれている」とまで断じてしまい。最後にはこの憐れみ深い「園丁」を除き去ってしまおうとしていたのでした。

歴史からも明らかなように、ユダヤ一国としては神とメシアに「実を結ばないイチジク」であることを示していました。
マタイ21:19は、この背景をもって見直すなら、これが単に空腹への八つ当たりのようなものでないことが見えて参ります。それはむしろ、忍耐強いイエスの宣教の業に応えることのなかったユダヤ体制の象徴であり、捕縛を数日後に控えたイエスの深い嘆きを吐露するものであったことでしょう。

それからユダヤの祭司長派をはじめ、主だった人々はイエスを逮捕し、不当で陰険な裁判にかけた上で、ローマ総督に無理に処刑させ、まったく手に負えないイチジクであることを彼らは自ら明らかにします。

その後も、ユダヤ教徒はキリスト教徒を迫害し、メシアに対する敵対を続けます。それはイエスに対する全き拒絶のダメ押しのようです。

イエスは、ユダヤの当時の世代について『アベル以来の義の血(の責め)が降りかかるだろう』と警告されましたし
彼らは『この男の血(の罪)は我々と子孫に降りかかって良い』とピラトゥスの前で叫んでいました。


そして、紛うことなくキリストを除き去ったユダヤ体制は「ひと世代」を過ぎることなく、西暦七十年にローマ軍の攻撃を受けて滅び、処罰の破滅を経験することとなりました。それは神からの絶縁状に等しく、その世代に属する無数の死者、彼らの心の拠り所であった神殿の喪失、生き残った民も奴隷に売られ、闘技場の野獣の餌食というバビロン捕囚も及ばないほどの悲惨な出来事が起こります。しかもこのたびは「回復」を語る預言者は興されず、イエスはまったくの滅亡を予告されました。つまり『二度と実を結ばない』のです。

ゆえに、イエスは弟子らに『エルサレムが野営を張った軍隊に包囲されたなら、その荒廃が近づいたことを悟』るよう告げ、ユダヤもエルサレムさえも捨てて弟子らは山地に逃れるようにと訓告なさっておいででした。

それはモーセ以来、イスラエルの民にあった神との特別な関係の終わりを意味していて、以後、今日までこの民族に神の恩寵はありません。それはガラテア書でパウロが述べるように、血統上のイスラエル民族から『神のイスラエル』へと聖霊によって移行しました。
キリスト教徒の中には、旧約の預言書に見られる「回復」が今日のイスラエル共和国と関係していると捉える人々も居ますが、周辺諸族と武力衝突を繰り返す今日のこの国に、ユダヤ教はともかく、聖霊が注がれてキリストの教への回復が為されるとは到底思えません。終末には、精々、わずかな人々が異邦人聖徒の声に信仰を働かせるくらいに思えます。


さて、イエスの捕縛と死刑が目論まれていたなかで、あっという間に枯れ果てた一本のイチジクの木は、ユダヤ体制の象徴であったこと、それを西暦七十年の出来事を生き残った弟子たちは後になってつくづく味わい知ったことでしょう。

イエスは、このイチジクの木が枯死したことから、『もし、あなたがたが信仰を持って疑うことがなければ、いちじくの木にされたようなことができるだけでなく、たとえ、この山に向かって『動いて、海に入れ』と言っても、そのようになります。あなたがたが信じて祈り求めるものなら何でも与えられることになります。』と言われました。

これは、将来の聖徒らが同じく「この世」の体制に対して「三年半」聖霊の言葉によって世で宣教し、その後にイエスと同様、イチジクの木が枯れたような宣告の奇跡ばかりでなく、ゼルバベルが神殿再興の困難を打破できたように、山に向かって海に退けるよう命じることもできるということを教えていることでしょう。(ゼカリヤ4:7)⇒「アリヤー・ツィオンの残りの者」


それは僅か一本の木の枯死という不思議を遥かに超える事態の象徴であり、信仰によりこの弟子らもこの出来事の通りに奇跡をもって強力になるとするなら、それは聖徒らの信仰によっても、将来、世の体制に同じような奇跡を起こすことの象徴と見ることができ、実際何が起こるのかは分かりませんが、その象徴的奇跡が聖徒によって行われるばかりか、『地を何度でも打つ権威を持つ』という言葉が恐ろしいほどの成就をもたらすことになるでしょう。聖徒たちはキリストと共に『子』となって、父なる神と結びついているからです。(黙示録11:6/ヨハネ15:5-7)









2013.04.14改
いちじくの例え
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