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エイレナイオス 使徒伝承の継承者

2013.12.19 (Thu)

 第二世紀、小アジアの初期ギリシア系に属するキリスト教徒の集まりは、非常に活発な状況にありました。
 その原因には、十二使徒で最後に残ったヨハネにより新約聖書の終りを飾る五つの書が知るされ、当地のエクレシアイがその薫陶に浴していたことが考えられます。そして、彼らのキリスト教は注目に値する特徴を持っていました。

 そのグループの中でも殊に著名な人物がエイレナイオス(ca.130-202)と言えます。

 彼は、大震災(117/118)から復興したスミュルナ市で生まれ、少年の頃からキリスト教の教育を受けています。
彼は長じて、大地震後の小アジアからの移民の世話のため、南フランスのルグドゥヌム市※(現リヨン市)に移住したのでしょう。その後、素質あるディアコノスとして、終末が近いと煽るモンタノス派をどう見做すべきかを討議するべくローマに呼ばれると、彼の存在はキリスト教界の注目を集めるところとなります。
(※アウグストゥス以来の退役兵の入植地、ガリア人のローマ化を推進する拠点、ティベリウス期にドルスス(クラウディウスの父)はこの地をガリア三州の中心都市とする)

 彼がローマに在る間にルグドゥヌムを含むゴールでは苛烈な迫害が起こり、それが如何に酷いものであったかはエウセビオスのHEに採録されている通りに信仰を試みられた多くの老若男女が拷問と処刑に遭っていました。

 その後、当地に戻り迫害で亡くなった前任者を継ぎ、エピスコポスの職を担った彼は、今日その主著と見られる「異端反駁」を著し、グノーシスを初めとする異端諸派を理路整然と論駁するばかりか、全五巻の最終巻において千年王国を信奉していることをはっきりと示しました。ヒッポのアウグスティヌスが意図的に抄本から削除させたというのはこの部分であり、その不正は16世紀に発覚することになります。このアフリカのラテン教父は晩年「千年期説」に疑念を懐くようになり、その教えが後のキリスト教界の趨勢となってしまいました。


 エイレナイオスが世を去る前のAD197年に、ルグドゥヌムはローマの内戦によりセプティミウス・セウェルス帝によって僅かな部分を残してほとんどを廃墟とされてしまいます。エイレナイオスはその後五年間生存しますが、苦しい晩年を過ごしたことでしょう。更に続いた迫害によって彼は殉教したとも伝承されています。
(ルグドゥヌムの再興は450年代のブルグンド族の定住まで待たねばならず、それまでは寒村であったようです)

 それでも、エイレナイオスの遺骸は宗教改革期までカトリック寺院の聖人の墓に保存されていました。しかし、16世紀に狂信的改革者の手によってその墓が暴かれ遺骨は捨てられてしまいます。その人々はエイレナイオスが如何に当時のカトリックとは異なっていたのかを理解せず、単にカトリックの聖人であるという理由だけでそうしたのでしょう。宗教的正義感とは却って愚かしい行動を人に促すものです。骨を処分したからといって何が変わったのでしょう。


 さて、エイレナイオスは小アジアのスミュルナで少年時代を過ごしていましたので、殉教者ポリュカルポス(ca.70-155)も識っており、このずっと年長の人物が殉教する前に、少年のエイレナイオスはその教える姿を眺め、幾らかの話を覚えたとのことです。この殉教で知られた人物と使徒ヨハネの生涯は30年ほど重なっており、若きポリュカルポスが使徒ヨハネと小アジアで会い、その教えや姿に接していた可能性は小さくありません。

 ポリュカルポスの十歳ほど年長の師パピアス(ca.60-130)は使徒ヨハネの弟子であったと伝えられており、使徒らと面識のあったこの人物は小アジアのヒエラポリス市のエピスコポスに任じられておりました。彼が青年であったときに、使徒フィリポはヒエラポリスで晩年を送っており、パピアスはこの使徒をも知っていた可能性が濃厚です。
ですから、最後の使徒ヨハネからパピアスやポリュカルポスを経て、使徒伝承はエイレナイオスに伝えられており、日常の使徒ヨハネの姿も彼を通して今日に伝えられています。

 使徒ヨハネは、おそらく西暦70年のユダヤとエルサレムの滅びに際しヨルダン川の東の山地、デカポリスひとつペッラ市に逃れ、その後も政情の安定せず相変わらずヨハナン・ベンザッカイが主導するパリサイ派が幅を利かせるパレスチナを後にしたのでしょう。
 十二使徒のヨハネが、イエスの母マリアを伴い小アジアのエフェソス市に落ち着いたことは複数の資料の一致するところであり、当地はユダヤ・キリスト教徒を敬意の内に受入れたことが当時の資料から想像されます。そのヨハネはドミティアヌス帝(ティトゥスの弟)の迫害のころまでにはこのエフェソスでメシアの母の最期を看取っていたものと思われます。

 使徒ヨハネは十二使徒の中で最年少であり、比較的近くのヒエラポリス市に家族を伴い移住していた使徒フィリポ(80年ころ当地で殉教)より長生きをしていました。ヨハネは、預言の霊の賜物を持っていたという、使徒フィリポの娘たちともこの地方で面識があったことでしょう。

 またヨハネは、ドミティアヌス帝よりも長生きをしたため、流刑先のパトモス島であの驚異的な「黙示録」の霊感を授かった後にエフェソスに戻り、福音書と三通の書簡をも残したと云われます。特に福音書や第一の書簡は聖霊の霊感に溢れており、新約の最終期を飾るに相応しいもので、新約聖書中でも殊に優れた著作と呼び声高く、ルターらによっても非常に高く評価されてきました。

 その一方で、「ヨハネ黙示録」は謎の書であるゆえに多くの反対を受けたにも関わらず、今日聖書の巻末を封印する書として不動の座を占めております。ですが、この書には聖書全巻に亘る緻密な関連が込められていることに気付く人々もまた存在してまいりました。小アジアはこの「黙示録」の担い手として、反対するシリアなどの指導者から擁護してゆきましたので、今日、この書を読めるのも小アジアのキリスト教徒に負うところがあるといえます。

 黙示録で言及された七つのエクレシアイが使徒ヨハネの指導した小アジア地方のものであったことは、この時期のキリストの教えの中心がこの地であったことを例証しております。この書の中では、キリストがそれら七つのエクレシアイを神殿の燭台に例え、その間を歩む姿までが描かれていましたから、それは他の地方、パウロが働いたマケドニアとテッサリアやアカイア、またアポロやマルコとも関わりがあるという大都会アレクサンドレイアやペテロの殉教地にして帝国の威信あるローマからするとトルコの田舎のエクレシアイに面目をつぶされるようにも感じられたかも知れません。

 しかし、最後の使徒ヨハネに臨んだ聖霊は、「奥義の家令」であったパウロと双璧を成すほどの高い境地に至らせたことをその残された諸書が証ししています。その薫陶を受けた小アジアのパピアスやポリュカルポスなどの教父たちの貴重な著書の残りは今日数少ないのですが、エイレナイオスの著書「異端反駁」はそれらを補うべき格好の資料となっています。
 したがって、エイレナイオスの著作の精神は最後の使徒に近く、識者らが認めるように、彼の著述には使徒の声が残響していたと言って過言ではありません。

 第一世紀から第二世紀にかけて小アジアには度々大地震が襲い、スミュルナも壊滅的被害を受けたので多くの移住者を出すことになっていたことでしょう。エイレナイオスの活躍時期はこうした移住の時代であったと思われます。それは聖書が完成し聖霊の指導が整えられて間もない頃のことでしたから、宗教面では清く活気に溢れたキリスト教徒のヨーロッパへの移住となったと云えましょう。

 ルグドゥヌム(現リヨン)はフランス内陸と地中海を結ぶ要衝であり、東方との交易が盛んであったとのことですから、地震もすくなく気候が小アジアに似てブドウやオリーヴ栽培に適したこの南フランスは小アジアの人々の好む移住先であったとことでしょう。

 その後、小アジアは(150年以降)隣のフリュギアに登場したモンタヌス主義の侵入を受けますが、この主義の前の時代とその後とは明確な宗教的区別がされて良いように思います。つまり、僅かに残った聖霊の賜物についての理解が変わってしまいます。
当時は聖霊に賜物の退潮期に入っていましたので、そこに新風を吹き込むモンタヌスら新たなタイプの預言者たちが現れたことで普遍教会はこれをどう捉えるべきかに悩みます。

しかし、モンタノス派に注がれた霊は聖霊ではなく、次元の低い偽ものでしたから、「『終わりが近づいた』という者について行ってはならない」というイエスの言葉を無視して、その「終わりは近い」という緊急感を煽る「預言」はついに実現せず、その失意と反動もあって初代に明確に示された「聖霊の顕現」という崇拝の主要部分もモンタノス以後は軽視され、キリスト教は反論を許さぬ人間の教理と大仰な儀式をもっぱらとする崇拝方式に向かうことになります。

 かつて使徒フィリポが導いていたヒエラポリスでは、確固たる教父アポリナリオスがモンタニズムの影響に敢然と立ち上がり、その指導の下に、ヒエラポリスのキリスト教徒は一丸となってこのモンタノス派に頑強に抵抗しましたが、近くのフィラデルフィアはこの異端の前線基地のようになってしまい、州都エフェソスのエクレシアには混乱がもたらされ、スミュルナとテュアテイラではエクレシアごとモンタノス派に改宗してしまったとのことです。そこには恰も小アジアに残った使徒伝承をかき消そうとするかのような意図さえ感じられもします。

霊の顕現を誇るモンタニズムはフリュギアから始まって、黒海沿岸から北アフリカまで広まりはじめ、やがてローマにも流れ込みます。
そこで、この派の真偽を確認するために、ローマのエクレシアはエイレナイオスをルグドゥヌムから招聘しました。小アジアからも人々が呼ばれ、そこでモンタニズムへの審議が行われます。キリスト教界がモンタニズムを直ちに断罪できなかった背景には、当時には奇跡の賜物を示す聖霊の注ぎがほとんど見られなくなっていたことが関わっていたことを、エウセビオスがその「教会史」の中で往時の何人かの言葉を引用して知らせてもいます。

この審査がローマで行われていた間、ルグドゥヌムの方面では、177年のことであったと伝えられるマルクス=アウレリウス帝期の激しい迫害が生じて多くの犠牲を出し、エイレナイオスの上長のエピスコポス、九十歳を越えるポティオスも殉教を遂げました。このときの有様を小アジアに伝える書簡がエウセビオスの「教会史」にかなり長く引用されており、その過酷な状況で信仰を保った人々の名前と偉業が伝えられています。それはヨハネ黙示録がキリストと共に『世を征服する』よう求めた言葉を彷彿とさせるものといえましょう。
迫害の後、エイレナイオスがローマからルグドゥヌムに戻ると、彼はこのエピスコポスの座に推され、ゴール地方の信徒を束ねる役割に就くことになります。

 また、この時期には多くの使徒らの名を騙る偽典の数々が雨後の竹の子のようにあちこちから現れてもいますが、いよいよ本格的な背教の時代の到来がそこに見えます。即ち、聖霊降下の去った『夜』の時代のはじまりです。
 それは、使徒らを直接に知る人々と共に聖霊の賜物が徐々に去って、「聖徒」が極めて希少な存在となりつつある時代でもありました。

 使徒ヨハネの当時から、ユダヤとエルサレムがローマに蹂躙されることにすっかり落胆したユダヤ人の中からグノーシスの教えが現れておりました。その教えはユダヤ教とキリスト教を不自然に混ぜ合わせ、神を愚弄する自虐的な特徴があります。
 ヨハネ自身も、その創唱者のひとりであるユダヤ人ケリントスに面識があって、その一派がエクレシアに近付くのを非常に警戒していたことが伝えられています。彼の第二の書簡にも『挨拶の言葉もかけないように』と注意を促しているのが、キリストの仮現説を説くグノーシスの信者たちに対するもので、幾らかキリスト教にも似ているところをヨハネが危険視していた様子が表れています。

 しかし、グノーシス主義を含めてこうした新たな「霊感」に対し、エイレナイオスらによって聖なる書への追加は禁じられ、使徒ヨハネまでの著述を以って、それもユダヤ人以外の著作が(ルカをヘレニストとして)一切認められなくなっています。エイレナイオスはその点で使徒伝承の保持者であり、高まる背教への最後の防波堤であったといえましょう。 まさしくエイレナイオスの「異端反駁」はグノーシス派への強力な糾弾の書となっています。

 エイレナイオス及び彼の世代は、云わば聖なる書を綴じる役割を担い、ユダヤ人のタナハを「旧約」(ラテン語ではなく)と呼び、使徒たちの世代の書物を「新約」[Καινή Διαθήκη]と初めて呼ぶようにしたとのことです。小アジア・サルディス市のメリトンなどは、旧約に通じ、新約での成就や対型をそこに見出す「予型論」を展開しておりました。

 エイレナイオスの主要な予型論には、アダムによって失われた神の是認のキリストによる回復が挙げられますが、これはパウロの論議でもあり(ローマ5:19)、また、使徒ヨハネがキリストを『世の罪を取り去る神の子羊』として、出エジプトの前の晩に犠牲として捧げられた子羊の対型として位置づける使徒伝承に立脚するものです。

 このようなキリストによる人間の回復は、神の創造物の再統合であり(エフェソス1:10)、創造の業の完遂として捉えることにより、新旧の聖書全巻に流れる神の経綸を、聖書理解の礎としてエイレナイオスは据えます。

 他方でシリアのアンティオケイアの著名な教父イグナティオスですら、自分が旧約に通じていないことを認めており、そこにも小アジアの人々による旧約への丁重な扱いにユダヤ・キリスト教徒への敬意を垣間見るかのようです。
 シリアはパレスティナに近いこともあってか、ユダヤ教との軋轢が相当に強かったのでしょう。日曜を「主の日」と呼んでユダヤの安息日と差別化し、それをイグナティオスは書簡の中で小アジアにも勧めてもいます。その日に聖餐を行うようにとも暗に求めてもいます。

 ですが、小アジアの多くの人々は使徒ヨハネの伝承に敬意を払い、ユダヤ教への憎しみからの変更を潔しとはしなかったのです。つまり、小アジアのキリスト教は使徒ヨハネの下で新旧双方の聖書をバランスよく学び理解していたと云えます。加えて、小アジアの教父たちのもうひとつの特徴はその『主の晩餐』(キュリアコン・デイプノン)にあります。

 嫌ユダヤから派生した日曜重視の習慣はその後コンスタンティヌス帝に至って、いよいよ俗化したキリスト教徒が週の第一日を主の復活を祝う日とし、聖餐もその日に行うことにしましたが、これに対して小アジアの集団はユダヤ暦ニサン(アヴィヴ)の月の月齢14日の夜を年一回の晩餐として守ります。

 この点、確かにイエスは自身の「死を記念せよ」、と命じられたことは聖書に書かれていても、「復活を祝え」とは命じられておりません。
しかし、一般人にとって記念よりは祝いの方が目出度く「祭る」に易いからか、「主の晩餐」(パスカ)が復活を祝う「復活祭」(イースター)に置き換えられるのは時間の問題であったようです。

 スミュルナでポリュカルポスが火刑に処されるときにも、せっせとその足元に薪を運んだのはユダヤ人であったと殉教録に記されていますが、自分の宗教の正義感から尽くキリスト教徒に反対し、迫害時に密告を繰り返してきた陰険なユダヤ教徒をキリスト教徒は猛烈に嫌い、彼らと安息日も正餐の日付を同じくしたくない気持ちを抱く多くの信徒によって、日曜日を「主日」(キュリアケー・ヘメーラ)呼んでシャバットと差別化しようとする動きが小アジア以外の各地で加速され、それは週日だけでなく毎年の「主の晩餐」にも影響してきました。
つまり、ユダヤ人が過ぎ越しの犠牲を屠っている日、つまりユダヤ教がキリストを殺め、勝利する準備をしている間にキリスト教徒が聖餐をとることさえ忌み嫌うほどになってしまいました。そこでは、キリスト教をユダヤ教からはっきりと区別したいという欲求がいよいよ高まったと言えます。

 さらに、年一回であった聖餐を毎週の日曜日に行いまでして、ユダヤ人の安息日の食事の祝いとの日付の一致を避けてゆきました。しかし、毎週の日曜に聖餐を行うべき根拠とされる聖句の裏付けは薄弱であり、使徒らからの明確な指針とはなっておりません。
 その影響は過越しの祭りの日付の忌避にまでも及んでおり、今日でも復活祭だけが陰暦による日付とされ毎年太陽暦の日付を移動するところにも見られます。わざわざユダヤ陰暦と合致させないようにし、ユダヤ教徒とキリスト教徒が同じ日を祝うことのないようにしていたためです。これはコンスタンティヌス大帝により法制化され、その日付を決定する権威をアレクサンドレイアのエピスコポスに与えています。
 そこにはキリスト教徒の殉教の死に深く関わった当時のユダヤ人の悪辣さと、キリスト教徒の怨恨の根深さが現代まで克明に刻まれていると言えましょう。

 しかし、一部のキリスト教徒には(おそらくエッセネ派のように)第七の月(政暦)の十四日に主の晩餐を行なう人々も居たことも史実とされています。特に「ニサン十四日遵守」はキリスト教界の行過ぎた嫌ユダヤの風潮を肯んじなかったアジア州だけでなく、パレスチナ、シリア、ローマにも同様の習慣を守る小グループが存在したと伝えられています。
 この両派、つまり主の「復活」を祝う人々と「死」を記念する人々が西暦162年にこの件でラオディケイアで討論していますが、これは平行線を辿って終わっています。
 この「十四日遵守」に関するエイレナイオスの立場は、ローマのエピスポコス(「教皇」)ウィクトルへの進言に表れています。エイレナイオスはその名「平和(エイレ-ネー)を作る人」の意味に相応しく、この件でキリスト教徒が分裂し争うことを危惧しておりました。彼の願いは、自ら受けた使徒伝来の教えを守りつつもキリスト教徒の融和を何とか保とうとすることにあったのです。

 キリスト教界では、その後においても日付に関わるふたつの習慣が存在したのですが、二百年が経過するうちに、キリスト教徒自称者で太陽神崇拝者でもあったコンスタンティヌス大帝が「復活祭」を帝国の法律に規定して後に、小アジアの伝統は次第に消えてゆくことになります。ニカイア会議以降、帝国の法としてローマ曜日の太陽日(ディエス・ソリス)と呼ばれていた日曜日がユダヤのシャバットの翌日とされ、更に後の時代に新設された「ミサ」の中で聖餐がサクラメントゥム(秘蹟)の地位に登り、こうして「聖日典礼」つまり「日曜礼拝」が完成します。これらは聖霊を失った結果としての、キリスト教のエントロピーの増大というべきものでしょう。

 ユダヤ人を「主殺しの民」となじるキリスト教側の嫌ユダヤの感情は、キリスト教を本来のものとはまるで異なるものに向かわせます。そこで余りにユダヤ性を払拭しようとして別の極端に傾き始めたのです。
 つまり、イエスも使徒もユダヤ人であったことを忘れさせるほどのギリシア=ローマ化、新旧の聖書を貫通する教えを無視し、ヘレニズムの異教や哲学を材料にして作り上げた「新しいキリスト教」の登場です。そうしてキリスト教側はユダヤとは神までも同じくしないところにまで立ち至ってしまいます。即ち第四世紀以降の「三位一体論」の登場と抗争を歴史は告げるのです。
 こうしてアブラハム、モーセ、そしてキリストという力強い神の経綸の悠久の歩みは忘れられ、「新しい契約」の意味も曖昧となってしまい、「聖霊の賜物」を中心としたヘブライ的原始キリスト教は過去のものとされつつありました。

 それは、キリスト・イエスの王権拝受の旅の「出立」に伴って、人々を導いた「聖霊の賜物」も引き上げられ、聖徒も絶え果てた「誰も働くことのできない夜」の時代が始まったということなのでしょう。キリストの教えの特徴は失われ始め、政治的な国教へと変化し、争いと戦いを容認するばかりか、迫害を受ける宗教から迫害を行う宗教へと変化を見せて行きます。
簡潔な教えの集会は、荘重なバジリカでの儀式と秘蹟の授受というユダヤ教の神殿祭祀の要素に逆戻りを始めてゆきました。大衆はバプテスマでの「救い」を請け負う聖職者に膝を屈めても、本来のキリストの教えからは遠く離れてゆきました。

 こうしてユダヤ教を嫌ったはずの「新しいキリスト教」では、「割礼」のように信仰によらず生まれによって宗教の決まる「幼児洗礼」が施されるようになり、ユダヤ教が国教であったように、キリスト教も国家のものとなり軍隊を祝福するようになったので、兵役拒否者は信仰を否認していることにされてしまいました。それはかつて殉教に散っていった初期の人々の「キリスト教的清さ」の喪失でありましょう。そうして古代イスラエル民族の有様に退行しはじめ、更に時代が降ると、パレスティナから異教徒であるイスラームを追い出すための「巡礼」の名による流血と暴力「十字軍」も興されるような忌々しい基礎が据えられました。キリストや使徒たちの言葉から何と遠く隔たってしまったことでしょうか。

 こうした変質を遂げつつあったキリスト教界の抗し難い潮流の中にあっても、使徒伝承とキリスト教徒の融和を守ろうとしたエイレナイオスの功績は否認されることなく残されています。彼は以後カトリックで「聖人」とされただけでなく、東方教会においても「リオンの聖証者イレネイ」また「二世紀の最も偉大な神学者」と呼ばれたところに表れています。
しかし、広く聖人と奉られても、エイレナイオスの精神をそのままに評価した人がどれほどいたでしょうか。





エイレナイオスの千年期説

エイレナイオスの聖書解釈雑録

小アジア・メモ

小アジア十四日派人士

ヨハネ黙示録の意味するところ


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ペテロの主への信仰と愛着3

2013.12.09 (Mon)
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もちろんペテロの示したイエスへの愛着は、イエスに会ってすぐに抱かれた感情ではないようです。
その点では、ペテロは兄弟のアンデレに遅れをとっており、ひとつのきっかけを必要としていました。

ペテロがイエスと初めて出会うのは、イエスを指してバプテストのヨハネが「見よ、神の子羊」と示したのを見たアンデレがペテロに会ってから、「私たちは(遂に)メシアを見つけた」と言ってイエスの処に連れて行ったときのことでしょう。しかし、そのイエスとペテロの初対面での会話の場面は四つの福音書のどこにも残っていないので、そこでペテロ(キーファ)の渾名を与えられた他に、シメオンがキリストと出会って何が話されたかは、今日わかりません。

しかし、このヨルダンでの場面から彼らがずっとイエスに従い始めたわけではないことは分かります。
彼らはこの場所であるユダヤの東からガリラヤに戻り、普段の漁を行う生活に戻ってゆき、一方でイエスの方はユダの荒野に向かい、そこでの40日に及ぶ試練を受けたのはこの後のことかも知れません。

やがてガリラヤに戻ったイエスは、ガリラヤ湖で漁をしているアンデレとペテロに再会しますが、そこではアンデレたちの船とゼベダイとその子たちの船が共に漁を行っています。昨晩の不漁に少々気落ちもあったことでしょう。このときイエスには癒しを求めて群集が従うようになっており、その人々に講話をするためにイエスは水面の音響効果を利用しようと、既に面識をヨルダン地方で得ていたアンデレとペテロの船を借りて共に乗り込みます。

少し岸から離れた水上から話すと声が水面に跳ね返り、多くの聴衆に届きやすくなりますので、そうしてイエスは群集への講話を行い、そのことへの返礼とのことでしょうか。講話を終えたイエスは二人に沖に漕ぎ出して網を下ろしてみるようにと命じます。
そこで彼らは、昨晩中苦労してもまったく魚が獲れなかったことを告げつつ、「先生が、そうおっしゃるのでしたら網を下ろしてみましょう」というくらいのつもりで湖の深いところに漕ぎ出して網を投じます。

すると、非常に大きな漁獲を得て、網が裂け始めるほどになりましたので、ゼベダイの船に網を上げるのを手伝うように合図を送ります。
魚は二艘の船を満たしますが、これはペテロが直接に見たメシアの最初の奇跡だったことでしょう。
昨夜の不漁と相まってこの魚の多さに漁師の一同も皆驚き入り、マルコによれば「圧倒される」ほどになりますが、ペテロはより大きな反応を示します。しかも、それは単にイエスをメシアとして認めるという範囲を超えた発言となりました。

『旦那さま、私からお離れください。私は罪深い男なのです』(ルカ5:8)

人には誰にでも、他の人に言えないような恥ずべきことや、善くない事柄があるものです。自分がどれほど悪いかを味わい知っているのは当の本人でしょう。
もちろん、アダムの子孫であれば「罪」という倫理的欠陥を逃れ出ないのですが、自分の悪いところを認められる人には謙虚な特質が求められるもので、このシメオンの場合にはこの一言でそれが示されます。
自分はイスラエルに現れたメシアの傍に居ることさえ相応しくない、という想いが、このペテロをして眼前の人物こそ約束のメシアであるという確信をもたらしていたことを明らかにしています。
つまり、この場でペテロはイエスへの確信と、際立つ自らの謙虚さを一言で云い表していたといえるでしょう。

これは、当時の宗教家たちとは対照的でありました。
教師らは人々から「ラビ」(偉大な方)と呼ばれ、律法やユダヤの規則の細目に通じ、その行状の良さから自分たちを一般の人々よりもずっと神に受け容れられていると考えていたとされます。
民から尊敬を集めるこれらの「立派な方々」は、自分の言動が人からどう見られるかを気にしていて、道徳的模範者という印象を与えることに心を砕いていましたから、これはイエスと衝突しないでは済みません。
イエスは彼らの『見せるための敬虔』を暴いてしまわれます。彼らが敬うのは自分であって、けっして神ではなかったのです。

あるラビは、「この世に十人の義人がいるとすれば、その中に自分と息子が入っている」と主張し、「もし、義人がこの世にひとりだけであれば、それはこのわたしである」と言っていたそうです。
この世では先頭に立つ者は、上を目指して野心を募らせ、他者を踏み台にして威張ることがほとんどでしょう。
このように「立派な」人物がメシアの傍に仕えていたとしたら、メシアはどれほど相応しい敬意を受けたでしょうか。新約聖書の教えはいったいどんなものになっていたことでしょうか。

もちろんペテロが完徳者であったわけではありません。むしろ、彼の不用意な言動はしばしばイエスからの戒めを必要としましたし、我々現代人にとっても彼は聡明で立派で近寄り難い人ではありません。
その親近感の理由には、彼が自分自身の善も悪もさらけ出したようなところにあるでしょう。我々も彼の言動の中に、自分自身の愚かさをも彼の中に見てとるからです。しかし、彼の思うままの発言は、度々イエスの言葉の意味を引き出す貴重なきっかけともなっています。
確かに彼はエリートではありません。私たちの大半がそうであるように『普通の人』であったのです。

しかし、こうしてイエスはシメオン=ペテロという掛け替えの無い弟子を得ることになります。
イエスは船上にあってひれ伏すペテロにこう言われました。
『恐れることはない。今から後、あなたは人間を漁る者となる。』(ルカ5:10)

大漁の魚を売りさばき、網を洗い、破れ目を繕う漁師たちはどんな思いでいたのでしょうか。
アンデレとペテロ、そしてアンデレと共にバプテストのヨハネの弟子であったゼベダイの子ヨハネと兄のヤコブは、『私に従いなさい』と呼ばわるイエスにそのまま従って、以後三年ほど行動を共にすることになりました。彼ら四人の漁師仲間はこうして船を後にしてメシアに従う者となり、十二使徒の中でも重要な者らとなってゆきます。


それから三年が過ぎ、彼らにその三年の間に起こったイエス・キリストの現れという出来事はいったい何だったのでしょうか。彼らはイエスがメシアであることを確信していましたが、メシアの王国は実現することなく、却って主はユダヤのエリートらの姦計によりローマの権力に処刑されていたのです。
イエスの死と復活の後、彼らはガリラヤ湖畔に戻りました。約束のメシアに従い、様々な神の業を目撃し、また彼らもそれを行うものとなり、数多くの師の教えとメシアへの確信が彼らの中に残っています。そのようにイエスに従う経験はまことに不思議で、また神の力と栄光に満ちたものでありました。

しかし、今やそのメシアが磔刑の死を遂げ、彼らから離れていってしまいました。師は『それがあなたがたのためである』と言われました。しかし、彼らは悲嘆にくれ、その意味を理解するには時が必要であり、抱く感情は起こった現実についてゆけなかったことでしょう。
それでもイエスは二度、彼らに現れて励ましを与えられてはいましたが、ユダヤでの主の死と復活の現場を後にして、彼らはその後の行われる偉大な神の意図も知らずに、ガリラヤ湖の畔のおそらくはゲネサレかその近くに戻っておりました。

偉大な師を失ったあとで、しかも主が捕縛された時に逃げ散った彼らの気持ちは臥せている状態にあったのでしょう。気分の沈むようなときには、愉しいと思えることを行うと気分も晴れてくるものですが、ペテロは本当に漁が好きだったのでしょう。
ペテロは『自分は漁に行ってくる』と言い出します。すると他の仲間も気持ちを入れ替えたかったのか、それに同意し始めて、結局その場に集まっていた七人の使徒たちが皆で漁をしようとガリラヤ湖に漕ぎ出すのでした。

その夜を徹して、湖上であちこち網を打って回ったのでしょうが、とうとう朝になりかけるころまで魚を獲ることができません。
すると70メートルも離れていない岸に立つ人が「食べるものは何も無いのか?」と声をかけて尋ねます。彼らが「何も無い」と答えると、その声の主は「右側に網を投げてみれば、幾らか取れるだろう」というので、そうしてみると、なんと、手繰り寄せることもできないほどの多くの魚が網にいるのでした。それは三年前のペテロたちが経験した以前の奇跡を鏡のように映す出来事でしたから、即座にヨハネはペテロに「主だ!」と言って反応します。
それを聞くや裸だったペテロは自分の服に袖を通すが早いか水に飛び込み、一目散に岸をめがけて泳ぎます。一方、船は多くの魚の入った網を引きずりペテロの後をゆっくりと岸に近づいてゆきました。

岸では、魚を焼く炭火がおこされていて、そこにはパンもあるのを使徒たちは見ました。つまり、イエスは彼らに朝食を与えようとされていたのです。
イエスは獲れた魚も持ってくるように言いますが、その網には153匹もの魚が掛かっていたとヨハネ福音書にはあります。そしてイエスは彼らにパンと焼いた魚を与えました。
しかし、誰も「あなたはどなたですか」などと尋ねません。たとえ復活によって容貌が変化していたにしても、その奇跡がすべてを語っているのであり、彼らはそこに以前に味わい知っていたような奇跡を行う人イエスを見たことでしょう。

イエスの、この三度目の使徒たちとの邂逅では、特にペテロへの諭告が重要であったのでしょうか。刑死前の師は、彼に「ひとたび立ち直ったなら、あなたの兄弟たちを助けよ」と命じていましたから、そのようにペテロが働くときが近付いていたのでしょう。

イエスは魚で満ちた網を前に『ヨハネの子シモンよ、あなたはこれらよりもわたしを愛するか?』と尋ねます。
つまり、彼の愛する漁よりもイエスを愛しているかと尋ねたのでしょう。ここでの「これら(トウトーン)に勝って」を「他の使徒たちに勝って」という意味に捉える人々もいますが、最後の晩にまで「誰が一番偉いか」と巡って争い、皆が師に足を洗ってもらったことからすれば、その競争心に油を注ぐようなことをイエスが言ったと結論するには無理があります。まして、イエスはペテロに使徒の首位権などを与えた場面などは、ペテロの書簡も含めて聖書に皆無です。

以前には、大漁の奇跡の後「私に従いなさい」との召しの言葉に即座に応じたペテロのことですから、ペテロのイエスへの深い愛着は、彼の大好きな漁に勝ることは『はい,主よ,わたしがあなたに愛情を持っていることをあなたは知っておられます』という答えにも明らかです。
そこでイエスは『わたしの子羊たちを養いなさい』と言われます。イエスがペテロに与えようとされたのは、使徒の中で一番であることではなく、信ずる者らの全体を世話することでした。

それからイエスは「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と再度尋ねます。彼はイエスに「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することをあなたがご存じです」そこでイエスは「わたしの羊を飼いなさい」とまた命じます。
しかしイエスは更にもう一度ペテロに問うのでした。『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』

そこで三度も愛を問われたペテロは狼狽します。筆者のヨハネはそのときにペテロの心中を「悲嘆する」あるいは「残念に思う」という語(エリュペーセー)で表しました。
切ない悲しみさえも込み上げてきたのでしょう。どれほど彼がイエスに傾倒し、み傍に仕えて多くの言葉を交わしてきたことか、また最後の晩にはどれほど命を捨てる覚悟であったことか。
もちろん、雄鶏は二度鳴く前に主を三度まで否定したことはその決意のほどをかき消したようには見えます。ですが、その直後に彼が激しい失意の内に、カヤファ邸を出て号泣したその心中も涙もイエスはご存知であったに違いないのです。

彼は主を捕らえようとしてユダに先導された武装の一団に向かって猛然と剣を振るいましたが、そこに使徒らが携えた剣は二振り、しかし、これを実際に使ったのはペテロだけでした。
そこで彼は自分の師を守ろうと捨て身の覚悟を確かに見せました。集団に打ってかかり実際にマルコスという名の奴隷に剣を振り下ろしたのです。その狙いは逸れて耳を切り落とすことだけで済みましたが、もし、イエスが止めに入らず、マルコスの耳を癒さなかったなら、やがてペテロは武装した群集に取り囲まれ、多くの棍棒で打たれ、何本もの剣がその身に突き刺さっていたかも知れませんが、それも覚悟の上での行動だったに違いありません。その勇気と主への愛着はまことに見事であったというべきでしょう。

しかし、それは神やイエスの意志に反することであり、ペテロには生き続けてまだまだ為すべき多くのことが、それも究めて貴重な務めが待っていました。

次いで、ペテロはイエスを捕縛した一団の後をつけて行きますが、ひとりの少年が目立つ服を着て同じようにするのを見ます。しかし、その少年はその武装集団に襲われ服を残して逃げ去りました。
このマルコ福音書にだけ登場する少年はマルコ自身であろうとも言われますが、初期文書によれば、このバルナバの従兄弟は生前のイエスに会ってはいないと伝えられていますので、それを考えるとマルコであったのかどうかは難しくなります。しかし、この少年と同じく後をつけていたペテロとヨハネにしてみれば、イエスを捕縛した集団とは相当の距離を空けて追って行かねばならないことを警告するものとなったことでしょう。

伝承によれば、ゼベダイの子ヨハネの母サロメは、イエスの母マリア姉妹であり、共に親戚はエリザベツという大祭司に連なる系統にありました。
そのためだったのでしょうか。使徒ヨハネは祭司長派に近く、ヨハネ福音書にはサンヘドリンとその議員に関する情報が他よりも含まれていますし、この師の最後の晩でも使徒ヨハネの顔利きを利用してペテロは何とかカヤファ邸への進入に成功します。やはりイエスに対して命を張ったペテロの主への愛着は一方ならぬものでありました。

しかし、そこで主と共に果てることが彼に求められたことではなく、彼は生きなければならなかったのです。
もし、ペテロとイエスが共に磔となるなら、ペテロにはついに聖霊が注がれず「新しい契約」に預からず、キリストと共なる聖徒に含まれないことになってしまい、却って、他の使徒よりもイエスから遠く離れてしまいます。
また、主が授けた「鍵」を使って「神の王国」へと人々を地上で導くこともできなくなってしまいます。

しかし、今やペテロは「羊を牧せ」と命じられていました。その招命の理由がイエスへの愛であったのです。

ある人々は、この場面のイエスの三度の問いが、ペテロのあの夜の三度の否定に対応し、相殺するものであったと考えます。
しかし、そのように捉えると、この問いはペテロの一身上の問題で終わり兼ねないものとなっていまいます。

この三度の問いは、単にペテロの否認の咎への許しだったのでしょうか?
いえ、もしそうならペテロは三度目の問いに困惑もしなかったでしょうから、そこで少なくとも彼自身にその意識が無かったことは明らかです。もし、そのことに大きな咎めを感じていたなら、この場面で誰よりも先に泳いでイエスの許に向かったでしょうか。

むしろ、彼は体を張って命の危険も顧みず、イエスへの愛着を示して、示し続けたということができるでしょう。
ただ、そのときにイエスに死をもって随伴することまでは神の意志でも、イエスの望むところでもなかったのです。
神のご意志はそこで師とペテロを別つものとなり、そこでペテロは男泣きにくれたということになります。そこには何と強い愛着があったことでしょうか。

その三度の否認もその関連から見る必要があり、彼がそうしたのも、カヤファ邸から追い出されイエスの御傍から引き離されるのを恐れて、イエスの弟子であることを否定したということもまるで考えられないことではありません。我々が彼の否認を批難することは如何にも簡単なことですが、イスカリオテのユダのような離反とは正反対の動機を彼に観るべきではないでしょうか。

しかしこの早朝の湖畔の場面でイエスに諭され、今や彼には地上に残る者らへの世話、牧羊が求められます。
イエスの問いを通して、彼はその任に価することを示し、師への愛を確認され、また強調されました。つまり人々を扱う任に当たる者に求められものが何であるのか、それが強調されたと見ることができます。

キリスト教内の宗派では、パウロが述べた監督や長老の道徳的また外面的条件にその人が達しているかを、牧者任命の基準としてよく考慮します。ですが、ペテロは内面的な資質の重要性を味わい知っていたことでしょう。

この牧すという事柄について、ペテロ自身が後に次のように語っています。
『さて、わたしは長老の一人として、また、キリストの受難の証人、やがて現れる栄光に与る者として、あなたがたのうちの長老たちに勧めます。
あなたがたに委ねられている神の羊の群れを牧しなさい。強いられてでもなく、神に従い、自ら進んで世話をしなさい。卑しい自分の利得のためにではなく自己犠牲的に行いなさい。
委ねられている人々に対して、威張り権威を振り回してもいけません。むしろ、群れの模範になりなさい。
そうすれば、主要な牧者が現わされた時、あなたがたは朽ちることのない栄冠を受けることになります。』(ペテロ第一5:1-4)

ここで彼は自らを、「使徒筆頭のペテロが言う」となれば発言に権威が重く加わり、それは長老たちを従わせるに充分なものとなったことでしょう。しかし、ここでは「使徒」であるとさえ言いません。仲間の『長老のひとりとして』『勧めて』いるのみです。

もちろん、司牧という業は簡単なことではありません。年長者が持つ人を扱う経験、判断力や賢明さも求められるでしょう。それを行わせる原動力には、愛をおいてほかに考えられません。
それに反して、人の上に立つことや出世を喜び、目立つことを望むような人物は羊の群れにとっては重荷となるばかりです。
もし、ペテロが長老たちに命令口調であったなら、この手紙の以下の文面を自ら台無しにしていたことでしょう。

あるいは、権威主義者ではなく、世話好きであれば人々を牧する適性があるのでしょうか?
けっしてそうではないでしょう。むしろ「主要な牧者が現わされるとき」そこで喜んでもらえることを無上の幸いとするような人物こそが求められていることをペテロは告げています。そのような牧者の関心は自分の利得であるはずもなく、また人々の喜ぶところにばかり向けられるわけでもありません。それでは人気取りの政治家のように大衆の感情に左右されてしまいます。
司牧の誠実な関心は、キリストの戻られるときに、その方の喜ぶ姿を見ることにあるでしょう。

そのような牧者は、「自分はキリストから信任されているから従え」などと権威を振りかざすようなことはけっして唱えないでしょうし、むしろ、自分の行いが主に喜ばれるものかどうかを常に探るに違いありません。
主への信仰と愛着があれば、その心がイエスに向くからです。
主からこのような牧者としての是認を受けるかどうかは、ペテロが述べたように、その行うところの結果次第となるのであって、すべての教師も牧者も不動の信任など持つ者は誰もいません。

こうして、このガリラヤ湖畔の早朝の静謐で印象的な情景を描いて福音書が伝えていることから、ペテロの主に示した愛着が、仲間を世話することにおいて大きな意義を持つことであったと知ることができます。
ペテロのように、主への深い愛着を示す人物を牧者にできる羊はまことに幸いです。

わたしたちは、使徒とされた漁師ペテロの主への強い信仰に実に多くのことを負っています。
イエスとの関わりがなければ、歴史上に何の痕跡も残さなかったような中東の一漁師が、今日聖書を通して我々に多くのことを教えてくれています。
その謙虚さ、率直さ、時には好奇心や失言までもがイエスから多くの言葉を引き出すことになりました。

しかし、その中でも際立った特質は、主と実際に行動を共にした彼のイエスへの深い信仰と愛着であったことでしょう。
わたしたちはイエスを目にすることはありませんが、ペテロはこう手紙に書いています。
『あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。』(ペテロ第一1:8)

そこで、聖書の記述から丹念にペテロの経験や心中を想像し、あたかも追体験することで、わたしたちもまたイエスへの愛着を加えることができることでしょう。














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