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七人のうちの福音宣明者フィリポの活動

2013.10.30 (Wed)
許多の奇跡を行って人々を癒し、最後は磔にされたイエスがキリストであるという新たな信仰を得た巡礼者を含む信者たちはペンテコステの日からもずっとエルサレムに留まり続けていましたが、ステファノの殉教を契機に他のユダヤ人からの猛烈な迫害が始まったので、十二人を残して他の弟子たちはユダヤから散り散りになって逃げてゆきます。
しかし、これはキリストの教えがエルサレムから周囲に広げる働きを果たしました。

「福音伝道者のフィリポ」は、ステファノと共に七人の執事(ディアコノス)として選ばれていた一人ですが、そのフィリッポスというギリシア名にはステファーノスと同じく、ギリシア語を話すどこか外地に居留していた「離散」のユダヤ人、ヘレニストであったことが良く表れています。
彼も、エルサレムでペンテコステの時に百二十人ほどのガリラヤからのイエスの弟子たちに、イエスが約束していた「聖霊」が降り、異言を様々に話した姿を目撃したことでしょう。

その後、このフィリポには福音を宣明するための神からの力が強く働き始めます。

エルサレムの迫害を逃れた彼はまず、サマリアに向かいました。
そこはモーセの律法を守りユダヤ人と同じ神を崇拝していながら、ユダヤ教とは異なる部分のある教えを信じていた地域で、ユダヤ人からすれば偽の宗教を奉じると見なされていたサマリア人の住むところです。

しかし、このわずか数年前にイエスは、彼らの崇拝の中心地であるゲリジム山の麓にあるシェカルというところで、井戸に水を汲みに来たひとりの女を通してこの町にはイエスをメシアとして認める信仰が伝えられていました。ですから、イエスによって有る程度の下地が作られていたことでしょうから、フィリポは主の撒いた種を「刈り取った」とも云えることになります。

そして今回、フィリポが再び彼らの間で神の聖霊の力を示して奇跡の業を行うと、多くの人々がキリストの信仰を受け入れることとなりました。
これを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリアに遣わします。

すると、再び奇跡が起こり、ペテロがサマリアの弟子たちの上に手を置いてゆくと、彼らもユダヤ人の弟子と同じように聖霊を受け異言を語ったりしてゆくのでした。(これらの聖霊の賜物の種類についてパウロはコリント第一12:7-10に幾つかを挙げています)

それが余りにも驚くべきことだったので、元魔術師のシモンは、人々に聖霊を与えるというペテロの特権を金で買い取ろうとしました。
もちろん、それは正しいことではありません。即座にペテロは彼を断罪しますが、シモンはすぐに謝罪しこの場で命を失うには至りませんでした。しかし、この人物については様々に良くない伝承が聖書以外から伝わっています。

このペテロの役割は、マタイ16:19にあるようにイエスから与えられていた『王国の鍵』を使って、ユダヤ人だけでなく、異邦人からも神の王国に属する「聖なる人々」を招くという働きでした。
使徒1:8を見ると、このように聖霊を受けた人々はペテロを介してユダヤ人だけでなく、サマリア人へ、そしてまったくの異邦人へと広げられていったことが分かります。

さて、サマリアでの宣教が一段落すると、神の使いがフィリポに次に向かう場所を知らせます。
それは山の中のサマリアよりずっと南の砂漠から海岸に向かうガザへの道であったとルカが記しています。
すると、エチオピアの女王に仕えるユダヤ教に改宗していた高官が、エルサレムから自国に帰る途上にあり、馬車の中でイザヤ書の巻物を読んでいるところでした。

そこで聖霊は彼にこの馬車と一緒に走るように命じます。
その宦官(これは単に役職名で実際の宦官ではなかった可能性あり)は自分が読んでいたイザヤ53章の『彼は痛めつけられた。彼は苦しんだが、口を開かない。ほふり場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。』というイエスに関わる聖句がだれのことを指しているのか分かりませんでした。
そこでフィリポの助けを得ようと、彼に一緒に馬車に乗るように招きます。

フィリポはこの句から始めてイエスがメシアであることを教えてゆくと、やがて水のある場所に出ました。
宦官はすぐに、自分も水のバプテスマを受けることを望み、フィリポはその願いを叶えます。
それが済むとフィリポは霊に連れ去られ宦官の視界から消えてしまいましたが、この人は知らされたメシアへの信仰を喜んでエチオピアへの道を行きました。エチオピアの非常に古いコプト教会はこの一件があって存在するようになったのでしょうか。こうしてキリストへの信仰は世界に向かって進み始めます。

この宦官には賜物を伴う「約束の聖霊」は注がれませんでしたが、それはまだペテロが、無割礼でまったくの異邦人であるローマ軍の士官コルネリオに会っていなかったので、まだ異邦人への「王国への鍵」が開けられていなかったからと見ることができます。ですからこのエピオピアの宦官は「聖徒」(ハギオス)にはなりませんでしたが、信ずる者「信徒」(ピストス)であったことでしょう。それでも宦官はメシア信仰を得て『喜びつつ、自らの道を進んで行った』のでした。

さて、フィリポの働きは更に続きます。神の霊は彼を取り去り、次にアシュドドに運んでいました。そこから海岸を北上しカエサレアに至るまで宣教しますが、その地域でも急いでユダヤ人から「アブラハムの真の裔」を救うべき大きな働きがあったのでしょう。

こうしてフィリポは聖霊によって用いられ、その導きのままに行動することで神またイエスと共に働き、その活動の場はイスラエルの外に向かって行きます。

フィリポが経験したような神の霊による移動は、旧約の中にもあります。
預言者エリヤは後継者のエリシャに職権を引き継ぐと、燃える戦車に乗って大空に消えて行きました。(列王第二2:11)
これはエリヤが天に昇って戻らなかったわけではなく、それから数年経った後でもエリヤは依然生きていて、ユダの王ヨラムに預言的な手紙を書き送っています。(歴代第二21:12/ヨハネ3:13)

このように、イエスの帰天後、エルサレムの片隅で隠れ住んでいた弟子たちに注がれた聖霊はこの人々に宣教の力を与え、次いで迫害が起こっても聖霊によるフィリポたちの活躍でユダヤ人の中だけでなく、教えとイエスの名と聖霊とはサマリアやエチオピアにまで広がってゆきました。その後は地中海世界からインドまでも使徒たちが到達したと伝承は伝えています。

これは人間の能力によって、弟子たちみんなが力を出し合うだけで達成されたのでしょうか?
けっしてそうではありません。神の御力、また導き無くしては考えられません。
本当に神を信じるということは、このように、昔の使徒も弟子たちもしていたように、神の力が実際に働くことを信じて待つことでしょう。

使徒言行録のフィリポの活動ひとつに注目しても、まさにキリストが天から彼らに聖霊を与え奇跡を通して初代の弟子らを導いていたことを、今日の私たちにも知らせてくれるものとなっています。

つまり、自分のしたいように勝手に崇拝するのではなく、また自分たちの能力ではなく、状況に応じて神の力や導きに従うときにこそ、神と協働してその大きな働きに貢献できるということを、フィリポの例からも学べます。そこに人の誇るところなど無いと、あのパウロでさえも云っています。

キリストが臨在し再び聖霊が働くときには、フィリポのように用いられ目を見張るような世界宣教を行う人々が現れることでしょう。初期の弟子たち以来、現在まで聖霊は降下していませんが、神のご意志を尊重するという態度をもって神の御力である聖霊を待ち望んでいることを示すことができます。

それは『罪』ある自分の信じるところが絶対に正しいとするのではなく、常に神のご意志を求める姿勢をもつところに表れるでしょう。正しさとは神のみが持ち得るものだからです。
ルカは福音書に於いて、『求め続け、敲き続けるなら』『父は聖霊を与える』とのキリストの言葉を記しています。(ルカ11:10-13)












.28May13改
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エホバの証人の宣教理解に対して2

2013.10.17 (Thu)
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将来に、再び聖霊の賜物がその奇跡の力を示す様は、まず宣教において共観福音書が揃って語るところです。
それは『人々があなた方を,公の集会や政府の役人また権威者たちの前に連れて行くとき』のことであり、そこで聖霊は弟子たちに働き『聖霊が,言うべきことをその時あなた方に教える』という場面です。(ルカ12:11~12)
その発言は『あなた方の反対者がみな一緒になっても,それに抵抗することも論ばくすることもできない』ほどのものであるので、『どのように弁明するか前もってけいこなど』する必要がないとも言われるほどのものです。(ルカ21:14~15)

マタイでも『人々に用心していなさい。人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,また自分たちの会堂でむち打つからです。いえ,あなた方はわたしのために総督や王たちの前に引き出されるでしょう。彼らと諸国民に対する証しのためです。しかし,人々があなた方を引き渡すとき,どのように,または何を話そうかと思い煩ってはなりません。話すべきことはその時あなた方に与えられるからです。話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すのです。』と書かれています。(マタイ10:17-20)

マルコはこう記します『人々はあなた方を地方法廷に引き渡し,あなた方は会堂で打ちたたかれ,わたしのために総督や王たちの前に立たされるでしょう。彼らに対する証しのためです。また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません。しかし,人々があなた方を引き渡そうとして引いて行くとき,何を話そうかと前もって思い煩ってはなりません。何であれその時に与えられること,それを話しなさい。あなた方が話しているのではなく,聖霊が[話している]のです。』(マルコ13:9-11)

これらを見ると、いずれの福音書も、こうした聖霊による奇跡の発言が終わりの日での反対や迫害と関連付けられて記されていることに気付きます。
それは、世界のごく狭い範囲内で目立たずに起こることに過ぎないのでしょうか。

マタイによれば、『話すのは単にあなた方ではなく,あなた方の父の霊が,あなた方によって話すので』あり、それは『彼ら(為政者)と諸国民に対する証しのため』であることをはっきりと述べています。(マタイ10:18.20)
つまり、この聖霊による発言は為政者たちばかりか、諸国民の聴くところであり、且つ、こうした聖句をそのまま自然に読めば、その発言が広く世界に証しになるほどの注目を集めるとみてはならない理由があるでしょうか。つまり、聖霊による世界宣教と言えるでしょう。(ハガイ2:7/ヘブライ12:25-27)

それは聖霊の発言が行わせるものであって、人間らしい誤解や間違いとは無縁であり、時折訂正が必要になってしまい「見解の調整」が為される類のものではありませんし、もちろん理解が「タッキング」するような人間の次元のものでもあるようにはけっして思えません。そんな「発言」であれば、どうして『誰も論駁できない言葉』になるのでしょう。(イザヤ54:17)

その発言の内容は、為政者たちに直にキリストの支配の到来を知らせるものとなることでしょうから、家から家へと「ご家庭で役立つ知恵を聖書からお話ししています」などと的外れにも、ご利益信仰の勧誘などして回ることとも無縁であるに違いないでしょう。

戸別伝道が、そのまま神の裁きとはならないという(改善された)理解は当然であるとしても、では人々がキリストの『兄弟たちの最も小さな者に』親切を示すとはいったい何を行う事を意味し、また何時のことでしょうか。

それは聖書の述べるように、聖霊で油注がれる「聖なる者」たちが世からの死にさえ至るような強い迫害に直面し、困難に陥るところを助けるということではなしに、肉的努力により、彼らに与えられた世界宣教という当面の至上命令を助けることがキリストの兄弟たちへの親切であるということ、いや、というよりは殆んど肩代わりして行う事なのでしょうか。

共観福音書が揃って語るように、神の威力である聖霊によって世界宣教を行うと預言された人々が、どうして聖霊の賜物を持つこともない人々の多大な努力や様々な犠牲を払わせる肉の業の世界伝道の助けを必要とするのですか。
そこでは「油注がれた」と称する人々に、実は聖霊が注がれていないという事実が見えていないでしょうか。

これは恰も「裸の王様」のようであり、証人が偽の「油注がれたクリスチャン」に惑わされているのではないと言い切れないのは「楽園」という御利益への願望からではないのですか。それは砂上の楼閣であり、蜃気楼を見たいと欲する人々の目にだけ見える「偽の聖徒」なのではありませんか。

聖霊の発言では力不足であるとはさすがに云わないとは思いますが、聖霊というものがこのように過小評価され、初代の弟子たちに注がれたその賜物の意義の深さ、また神の御力の働きの大きさへの理解に十分達していないか、敢えて無視されているようなことはないのでしょうか。

もはや聖霊の奇跡は遠い昔のもので、モーセの時のような神の御力の表れなど起こるはずも無いと云うのでしょうか。
一方で黙示録は、この『ふたりの証人』には『地を何度でも打つ』権威が与えられるとしています。そこにはモーセとアロン、エリヤとエリシャ、ベルバベルとエシュアが敷衍されており、それを見聞きする世の人々の信仰を巻き起こす姿が描かれてはいないでしょうか。そして、聖霊無くしていったい誰がこのようなことを行えるものでしょうか。

例えれば、上記のようなマタイ10章20節、マルコ13章11節、ルカ12章11節や21章15節などが一致して告げる、聖霊を受ける弟子たちが為政者らと対峙するというほどに重大な局面について、それをいったい誰に適用し、「終わりの日」におけるその意義をどう説明するのでしょうか。

そこでもし、敢えてこれらの聖句への説明に沈黙するとすれば、それは聖霊によるこのように人知を超えた奇跡の発言などは起こって欲しくも無く、むしろ神の御力の表明である聖霊を無視してまで、「楽園」というご利益に釣られて自分たちに信仰を持った人々をひとつの人間製の組織に繋ぎ止め、その権威の下に何としても保っておこうとの動機が無いと言い切れるものでしょうか。

多くの人々を従順にならせ、神の義よりは組織の正義を証しする勉めに邁進させ、聖霊に信仰を抱かせるよりは人間の努力に救いの要を信じさせる事柄が、証人たちをして納得させるというなら、その道を行くがよいでしょう。人は「信じたいもの」を信じるからです。
ですが、そこには「聖霊の冒涜」へと人を導き兼ねない危険は無いのでしょうか。
そして、この事の責任は最終的に誰が、どのように引き受けるのでしょうか。

信仰を抱いた証人たちには、ひとたび「正しい信仰」をものみの塔に見出したのであれば、他の宗派の教えはもとより他の異なる思想や宗教的情報の一切がサタンの偽りであるから、読んだり、聴いたりしてはならないとしては来なかったでしょうか。
それならば、人々の目を覆い、耳を塞ごうとした者こそは、神の御前にその人々の信仰の結末に責任が無いと言えたものでしょうか。

つまり、その教導者は「信仰の主人」であり、自分は正しいから付いて来るようにと命じたのであって、創造者でさえもアダムとエヴァに介入されず、その選択を尊重された「神の象り」に創られた人々の自由な意思も倫理的決定さえも、ものみの塔の指導部は「請け負ってしまった」と言うほか無いのではありませんか。

黙示録はその11章で、『ふたりの証人が1260日の間、粗布を来て預言する』ことを知らせていますが、サタンは彼らを攻撃するために「野獣(七つ頭の)」を呼び出し、それによって彼らは殺されてしまいます。
それは1260日の終わったあとのことで、上記の共観福音書が述べる為政者との対峙は、彼らの預言の期間の終わりに起こるという可能性が濃厚に残っており、それを20世紀初頭に起こり、既にアメリカで過ぎ去った事としてしまい、「聖なる者ら」が終末に聖霊によって油注がれるということの重大な責務に不注意にならせてよいどんな根拠があるのでしょうか。

なぜなら、これらの聖霊による奇跡の発言を為す人々は、その段階で世からの敵意に曝され、親族や友によってさえ告発される事態に進んでゆくことが、それぞれの聖句の文脈からはっきりとしているのです。(マタイ10:32-42/マルコ13:9-13/ルカ12:49-53)
即ち、この「聖霊ある人々」はこの事態に至る以前に、世の考えとは相容れない滅びの宣告を広く伝えていることでしょう。それが『ふたりの証人が1260日の間、粗布を来て預言する』ことではないのでしょうか。(ヨナ3:5)

「終わりまで忍ぶ」べきは聖霊を注がれた人々であって、大群衆の方ではないことは「羊とやぎ」の例えからも明らかではありませんか。⇒「マタイ福音書の預言と例え」

その人々の『預言』は世からの好意を受けるものとはなりませんが、それは伝道して回る区域の人々が都合が悪かったり、ひとつの宗派に縛られる意志が無かったり、自分も生活を犠牲にして伝道して回ることに躊躇を感じたりするから好意を持たないのでしょうか。あるいは、伝道する人々の独善性を嗅ぎ分けてその高慢さを嫌う人は、果たして神に敵意を示しているのでしょうか。
聖書に描かれたこの『ふたりの証人』が、そのように次元の低い問題で迫害を受けるのであれば、そのどこに「神の王国」が関係しているのでしょうか。

やはり問題点は、聖霊の見方にあるでしょう。
なおも、コリント第一の13章8節を以って、聖霊の賜物は遠い昔に廃されたと弁明することは、上記の共観福音書の揃って語ることからして無理があります。
また、そのパウロの言葉そのものでさえ、それはアガペーの優越性を語る文脈であって、異言や預言が何時廃されるかについて述べているのでしょうか。


ここまで推論を重ねると、証人の方々であれば「ではエホバの証人が唯一の正しい宗教でないとすれば、どれがそうなのか?」と内心不安になることでしょう。
実は、そこにこそ問題の根があります。
「神の義」と「人の義」の違いが見えていません。

つまり、「人間には皆「罪」があり、真の義も、真理も神の許にこそある」という認識が欠けているのです。(ローマ3:4)
『完全な賜物は上から』与えられるのであり、人は謙虚に神の語られるのを待ち、『求め続け、敲き続ける』べきであり、そうしているところに『聖霊を与えて下さる』と書いてありませんか。(ヤコブ1:17/ルカ11:9-13)
神は聖霊によって人々に真理を教えるのであって、人間の推論や年代計算がその前にどんな意味を持つでしょう。

真理を探究する人々には共通する弱点があります。
それは、真理を自分のものにしたいという欲求であり、素晴らしいと思えたものを真理の座に就けてしまおうとする自分の傾向に対し、一歩下がって警戒することをしません。簡単に言えば、思い込みが強すぎるのです。

しかし、最も重要なのは、自分たちが楽園に入ることではなくて、神が何を意図されているかであり、そのご意志は、どれかの宗教組織に入っている信者を救うことなどではありません。
人はエホバの証人であろうとなかろうと、神の聖霊を待つ必要があります
それこそが奇跡を伴う神の威力の証しであって、見紛う心配も、思い込みの必要もありません。
信仰を抱くべき裁きはそれからです。
しかも、御子キリストの犠牲を許した神は「ご利益信仰」をけっして容認されないでしょう。それはキリストの自己犠牲の精神に反するものであり、自分は是認されていると思う、パリサイのような傲慢さを逃れられないからです。どれほど熱心に伝道に携わるとしても、自分を救われる立場に置いているのであれば、それは理不尽な裁きであり非現実な差別です。

聖霊を待つとは、真実に聖霊を注がれ、その賜物を持つことで『約束の聖霊をもって証印を押された』『相続財産に関する事前の印』という身分の保証を得た人々の出現を待つことを意味します。(エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

聖霊注がれた人々が「見解の調整」をして以前の信仰箇条を変更する必要があるでしょうか。
もし、毎年の「主の晩餐」で表象物に与っている人々が、聖書のように霊感された不動の知恵を語らないのであれば、「普通の人」より優れて神との関係には無いでしょう。つまりは神の御前に「ただの人」なのです。本当には聖霊を持たず、油注がれてもいないからです。

他方、『聖なる者』は、『罪』を地上にある段階から『新しい契約』によって許されており、それゆえに神とキリストと結ばれているのです。(ローマ8章を注意深くお読みください)
『聖なる者』と普通の人にこれほど大きな違いがあるにも関わらず、ただ主の晩餐でパンを食しぶどう酒を飲むだけであれば、それはまさしく「裁きを飲み、また食する」ことであり、そのうえ従順にさせた数多くの人々を聖霊への冒涜へと誘っていることにもなるです。

即ち「エホバの証人」とは、「楽園」を自分の存命中に渇望することを教唆され、その欲のために聖霊を押しのけてまで、これら「ただの人」に隷属して崇め奉るご利益信仰の行状主義キリスト教徒を意味すると言って差支えないことでしょう。それはどれもキリスト教的に見えても、実はその精神からはいずれも大きく逸脱していると言うほかありません。

マタイ24章48~49節には『「わたしの主人は遅れている」と言い,仲間の奴隷たちをたたき始め,のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば』というイエスご自身の言葉が記されています。
主人を待たなかったのは誰でしょうか。聖霊の時が来ていないにも関わらず、自分たちで時を定めて「霊的宴」と称する「宴会」を始めてしまったのはいったい誰なのでしょう。
この事の結末はと云えば、それに続く聖句の50と51節で恐ろしく克明に描き出されており、それらの言葉以上のことを語る余地をまったく残していません。







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