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エホバの証人の宣教理解に対して 1

2013.09.14 (Sat)
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エホバの証人の宣教理解に対して
その目に余る聖霊軽視


キリストに信仰を持つ者はキリストより大きな業を行うと、イエスが語った場面がヨハネ14章12節に確かにあります。
では、その業とは何を意味するとエホバの証人に認識されているのでしょう。単に仲間を増やすための宣教ですか?
それはキリストの弟子たちが皆、総出で行うべき、「人間の業」なのでしょうか?

大半のエホバの証人は、宣教の業こそはクリスチャンにとって最も重要で神聖な責務であり、疑問を差し挟むことさえ不謹慎なことであると思うようです。一人一人の具体的な自己犠牲がレンガのように積まれ、その「大きな業」という建物が神の前に形作られると考えるからでしょう。

それこそがキリストに課された個人の責務を果たすことであり、この点で率先する人が、他のすべてをも導くに立場に相応しいということにされているかのように観察されます。つまり、聖書を研究するのは集会とその準備を専らとし、ほとんどの時間を戸外の活動に費やすことを奨励しているのです。

実際、「エホバの証人」と呼ばれる人々にとって、宣教はハルマゲドンを生き残るための、また復活する亡くなった親しい人に会うための、また神の前に正義であり続ける最重要な活動であり、いきおい熱心に取り組む中で、人間の業が宣教を成し遂げるものであるので、せっせと組織の宣伝に努めることになります。

加えて、毎月個人がそれぞれ報告することで貢献度が数値化されるところの宣教に費やした時間数の多さが、仲間や組織から認められ評価されるべき、その人の「クリスチャン」としてのステータスのように見做されるため、宣教には純粋ではない自己顕示の願望に訴えられていることにもなります。動機はともあれ、より大きな伝道が行われる施策が行われているのであり、それはやはり人間による業を駆り立てる必要が純粋な信仰の業に勝るからでしょう。
しかし、その伝える内容がそれに見合うものかと言えば、反論されると自分の脆弱な信仰を守るために会話を止めて、その場を立ち去るというセオリーにその程度が表れてもいます。

その伝える音信は、ノアの箱船モデルに留まる集団内でのみ占有されるご利益であってキリストの救いという開放的原形のものではありません。
信仰の中心は、「楽園」という肉的欲望を確信させるところにあり、神との関係性も、伝道の業の大小により強められ、また弱められもする、と教えられているようです。そこまで音信を伝道させるための報酬とするのは他のカルトに例をみることはあっても、聖書中に見出すことはできないものです。

その一方で、宣教を重視しない意見は彼らの言う「背教者」に共通する罠のように言われてもいます。この見解はまことにゆるぎない確信のようで、証人の間では、上記の聖句も、キリストに真実な信仰を抱いた人々の肉の努力を通して世界への宣教が行われる、というようにイエスの言葉が解釈されているのです。

そこで、世界宣教は人間の業であり、他方で全能の神といえども、エホバの証人の伝道を時折に天使が導くという程度にしか加わりません。神の働きは非常に限られており、信仰を働かせる人々の善意と犠牲を主人公とし、たまにそれを幾らか助けるのが全能の神の姿です。しかも、自己犠牲の精神を示させるために、そうさせてやっていると云うほどなのです。

ですが、その犠牲には、この世での収入が限られる仕事に甘んじ、無条件で人を愛し受け入れる「家庭」という場に、神を第一にするという名目の下で、まず愛するべきは神=組織であることになります。それは一定の規約を満たせない信者であれば、家族ですら愛情を制限し、交友を断つという証人独自の「忌避制度」に明瞭に見えています。

その業を委ねられたのは「油注がれたクリスチャン」という、ほんの少数の人々であり、そうでない人々がせっせと助けなければこの世界宣教はとても達成できませんし、そのように助ける人々が神の裁きを生き残ると教えられ、この基本的教理によってこの団体は増えて来たという以外にありません。ここまで、信者を宣教に駆り立てることができる理由のもうひとつは、この世の終わりが近付いているという主張も関係しています。

その短い期間に世界伝道が達成されてゆかねばならず、そのためには信者各自がそれぞれ「自己犠牲」を払わなければ、不信者を見殺しにする「血の罪を負う」と云うのです。利己的だとも批難されるでしょう。それならば、神の裁きを荷うのはエホバの証人であると言っていることになるのですが、それではあまりに神を無能な方としないものでしょうか。
ここに、何も感じず、そのような宗教組織の有り様が正しいと思えなければ、エホバの証人を続ける動機はまず得られません。

しかし、あるいは、『わたしに信仰を働かせる者は,その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも,それより大きな業をするのです。』という、この聖句に何かもっと深い意味があるのでしょうか?それは今日のエホバの証人がしているようにすべきだとキリストも言われたのでしょうか?

この句はキリスト最後の晩餐のあとで語られています。つまり、使徒たちに最後の訓戒を残している場面です。
この前後でキリストは、何度かご自分が「天に行く」ことによる、使徒らを含む弟子たちの状況の変化に言及されているのですが、その変化とはどんなことを指していたのでしょう。この点でイエスは同じ文脈にあるヨハネ14章16節で「父はあなたがたに別の助け手を与えて、それがあなた方のもとに永久にあるようにします。」と言われ、その変化が聖霊の降下であることをお示しになっています。

この聖霊が実際に弟子たちに降り始めたのは、おそらく西暦33年のペンテコステからで、それはイエスが天に挙げられて10日後のことであったと記されています。それまで弟子たちは、ユダヤ人からの迫害を恐れて、エルサレムの一角にひっそりと過ごしていましたが、ひとたび聖霊が注がれると状況は一変することになるのでした。

聖霊はユダヤ人を集めるために非常に大きな風の音を響かせながら弟子たちの上に火の舌の姿をもって現れ、彼らは学んだこともないはずの言語を操り、「神の壮大な事柄を」様々な言語で話したのでした。120人ほどのガリラヤ人の小さな群れであったものが、聖霊が与えられると、その日のうちに「三千の魂が加えられた」と記されています。

こうした勢いは聖霊の存在無くして説明がつきません。弟子たちは聖霊を得たゆえに大胆になっており、ユダヤ人からの迫害に面しても彼らが心を一つにして「あなたの僕イエスの名によってしるしや異兆がおきますように」と祈ると「彼らの居た場所は揺り動かされ、一人残らず聖霊が与えられた」とルカは伝えています。

しかし、その後の彼らの宣教の勢いは増え行く人数に表れたというよりは、真似のできない癒しや異兆を伴う「聖霊の賜物」を通しての、神の恩寵がイエスの弟子に移ったことへの神の奇跡の表明を通じたものでありました。まして、伝道時間数の報告など義務付ける必要もありません。
この聖霊の賜物は、イエスがご自分の血の犠牲を携えて天に昇り、天の場所における大祭司となって、携えた血の犠牲をまず共に働く使徒たちをはじめとする弟子たちに用い、彼らを最初に贖い、彼らを祭司として内定することで初めて与えられたものであったのです。(使徒2:33)

ですから、弟子たちがキリストを超える大きな業を行うようになる理由としての『天に行くからです』とは、キリストとして地上で払った「血の犠牲を携えて天に行く」が含意されております。これは律法中の贖罪の日に関する指示に明らかな予型を見るものです。その日には、まず大祭司が自らの贖罪を行い、次いで祭司たちの贖罪を行い、最後に民が贖われます。(レヴィ記16:6)

今日の状態は、大祭司が祭司たちの贖罪を行っている段階にあり、世界の人々の贖罪は「千年王国」を待たねばなりません。

ですから、大祭司キリストは、その犠牲の価値を、選ばれた『最初に認めた者たち』に適用し、彼らをまず贖うことで聖霊を注がれるに相応しいものとされたのです。(ローマ8:29-30)

そのため、彼らは神の前に罪を許された人類最初の人々でありました(ローマ8:33)
つまり、聖霊による超自然の賜物は、キリストの犠牲をもって初めて与えられたものであり、そのことが上記の、『きわめて真実にあなた方に言いますが、わたしに信仰を働かせる者は、その者もまたわたしの行なっている業をするでしょう。しかも、それより大きな業をするのです。わたしが父のもとに行くからです。』というヨハネ14章12節の言葉の背後にある深い意味について伝えるものとなっています。

それは、決して伝道活動の範囲が単純に広がることを意味しません。むしろ、ヨハネ15章26~27節でイエスが明かされたように、聖霊を受ける弟子たちがキリストのような業を行うことで、更なる聖霊に与る人々が各地から見いだされ、その人々がまた聖霊を受ける人々を招くという業の拡大を意味していたと見るべき理由は、聖書にも歴史にも刻まれております。それはすなわち、「アブラハムの裔」を集め出すという、キリストがパレスチナで始めた業の世界への広がりと言えるでしょう。

聖霊の証しは、まずユダヤ人がメシアを除き去ってしまった事を悔い、イエスを見直してこの方が間違いなく神YHWHから遣わされたことに信仰を働かせる為のものでした。実際、多くの奇跡が聖霊を受けた弟子らを通して行われると、ユダヤ人からも信仰を持つ者たちが更に加えられました。

しかし、そのようにイエスをメシア=キリストとして受け入れたユダヤ人の数は、ユダヤ人の大多数に至るものとはなりませんでしたから、ユダヤ人は、けっしてキリスト教徒ではなく、今日でもイエスを除き去ったときのユダヤ教ヒレル系パリサイ派を大半の人々が信奉し続けています。彼らの経典でもあるタルムードは、イエスについて「ガリラヤ出身の私生児で、魔術を行う者であったがローマ総督ピラトに処刑された」と、その評価を伝えています。

当然の事ながら、彼らはイエスがメシアであったと認めるわけにはゆきません。そうでなければ、彼らが極めて深く尊崇する神YHWHの遣わされた貴重なメシアを、歴史の実際通りに自分たちで殺してしまったことになってしまうからです。しかし一方で、自分たちの先祖が強制してピラトに処刑させた事実を今日もはっきりと認めず、ユダヤ教徒は往時の頑なさをもそのまま受け継いでいるように見受けられます。(マタイ21:33-45)

大半のユダヤ人たちのイエスに対する態度は、このレベルを越えるものとはなりませんでしたので、使徒時代、ユダヤの全体が充分にキリスト教に転じる可能性が無いことを示すと、神はイスラエル民族以外で深い信仰を持った人々に聖霊を注ぎ始めます。それは、キリストへの信仰についてのイスラエルの不足を補うという目的によるもので、使徒パウロはこれを「接ぎ木」に例えています。(ローマ11章)
最近では、ユダヤ人の中からも、実はイエスという人物が本当に来ることになっていた約束のメシアだったのではないか、と考え直す人々も現れるようになり、この人々は「メシアニック・ジュー」と呼ばれています。

ですが、彼らとてキリスト・イエスが聖霊を与えた弟子になったわけではなく、この点、今日では使徒時代のような聖霊の賜物を受けていると正しく言える人は絶えて誰も居ません。
初期教会の歴史を伝えるエウセビオスの「教会史」などの資料によれば、聖霊の賜物が確かに存在していた時期があり、『彼らは自分たちと共に働く神の霊と自分たちを介して成し遂げられるキリストの奇跡を行う力だけを用いて、天の王国の知識を全世界に宣べ伝えた』。(教会史Ⅲ24)とも、『当時はまだ神の霊による多くの奇跡的な力が彼らを介して働いたので、大勢の人々が、皆初めて聴いただけでも、その魂に世界の創造者への敬虔な念を抱いたのである。』(教会史Ⅲ37)とも述べています。

これらの聖霊注がれた人々はユダヤ人ばかりでは足りず、宣教の諸国への拡大によって、ローマ人コルネリオを初めとする様々な民族から『召され、選ばれた人々』で構成されるようになってゆきます。
この人々は、キリストとの「新しい契約」により、人類に先だって肉体にあってさえ「義」が神の前に仮承認されており、その意味で既に「救い」に至っており、『聖なる者たち』とも呼ばれていました。(ローマ11:27/10:9/コリント第一1:2)

エウセビオスの「教会史」では、こうした聖霊の賜物を有する「聖なる人々」について述べ、西暦130年以降に関して、『使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。
彼らは、使徒たちが一人も生き残っていないことを知ると、それからは素顔のまま真実の教えに対抗し偽って知識(グノーシス)と呼ばれたものを宣べ伝えようと企てた。』と述べる西暦第二世紀パレスチナの教父ヘゲシッポスの言葉を採録しています。(教会史Ⅲ32)

このような『聖なる者』たちの減少と消滅を、パウロの『預言があってもそれは廃され』という言葉の成就とは必ずしも言えません。
なぜなら、そのコリント第一第十三章の本旨は「アガペー」の優越性と永続性にあり、それに対して聖霊の賜物もいつかは止むと言っているので、けっして何時賜物が止むのかを論じてはおりません。加えて、『聖なる者』たちが天に召集された後には奇跡を示す賜物の権限の必要も無くなることになるでしょう。


聖書そのものの述べること、及びこれら第二世紀に関する資料は、この時期まで聖霊ある人々を通して霊的知識が備えられていたことを示しています。
では、聖霊の存在した時代、キリスト教には一致が保たれ、現在のような分派もなかったということでしょうか。

この点について、使徒ヨハネはこのように述べていました。
『あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。』(ヨハネ第一2:27)

また、パウロも『もしあなた方が何かの点でこれと異なる考え方をしているとしても,神はここに述べた[態度]をあなた方に啓示してくださるでしょう。』と述べ、自分の教え以外は間違っており、そのような考えを抱くことも、見聞きしてもいけない、などとは言わずに泰然として居られたのも、当時は聖霊が広く弟子たちに臨んでいて、彼らを指導していたからでしょう。(フィリピ3:21)

この言葉と調和してエウセビオスは次のようにも書いています。
『そのためシモン(マグス)も同時代の他の者らも、この使徒時代には何の組織も作ることが出来なかった。なぜなら、真実の光と、そのころ神から出て人類を照らし、地上で活動した使徒たちに宿った聖なるロゴスは、すべてに打ち勝ち圧倒したからである。(教会史Ⅱ14)

これらの記述をまとめて考えると、イエスが弟子たちに与えると約束した「聖霊」は、使徒ヨハネがその福音書の14章17節にキリストの言葉として残されたように、『それは真理の霊で、世が見ることも知ることも無い』ものであったとわたしたちも繰り返して述べるに不都合なことは何も無いでしょう。
使徒言行録からも明らかなように、初期キリスト教徒たちの時代には「約束された聖霊」が使徒らや聖徒たちに宿り、教理を教え、宣教に赴くべき方角を示し、牢獄にある弟子らの傍らに立って励ましを与えています。

これは、今日ものみの塔協会組織が似たことを行っていることを思い起こさせはしますが、とても比較の対象ではありません。
また、これほど優れた「助け手」である聖霊があった以上は、恒常的「地上の中央」にどれほどの意義があったでしょうか。
この点、「聖霊の賜物による奇跡は、キリスト教が揺籃期を脱するまでそれを助けた」と云うとすれば大きな矛盾を抱え込むことになるでしょう。なぜなら、実際には聖霊降下の終了と見られる第二世紀中葉は明らかな混乱と背教の始まりであったからです。

これを否定するとなれば、それは当時の聖霊の働きを軽んじるものであり、神の御力に対する無関心の責めも免れないことでしょう。いや、聖霊を邪魔にすら感じられるのであれば、キリスト教徒としては破綻していないでしょうか。

三世紀の人オリゲネスは使徒たちと聖霊の関係について、『彼らの宣言の根拠の探求に関しては、それを聖霊の優れた賜物を受けた人々、特に聖霊から言葉と知恵と知識の恵みを得た人々に任せた』。とその著「諸原理について」の中で書いています。この記述の仕方からすれば、既に「聖霊の時代」は過去のものとなっていたように読めますし、実際、オリゲネスの教理の大半には、哲学の汚れが既に入り始めていたことが観察されます。

エウセビオスは殉教者アルキビアデスの時代[二世紀中葉]について
『そのころ、フリギアではモンタノスやアルキビアデス、テオドトスとその追随者らが、その預言活動によって大きな評判を得始めていた。なぜなら、当時はまだ神の賜物によって多くの不思議な業が様々のエクレシアで行われていたので、そのために人々は彼らも預言者であると信じ込んだのである』としています。(教会史Ⅴ3)

これらを総合すれば、おそらく西暦第二世紀の中頃まで、キリスト教徒の集まり「エクレシア」に聖霊が留まり、キリストは天から各地の集まりを導いていたという姿が見えてきます。
奇跡をもたらす聖霊の働きの終りは、ものみの塔の言うような「揺籃期にだけ必要があった」のではありません。聖霊が去った時代に、はっきりとキリスト教は逸脱を始めているのです。

この点でテサロニケ第二の2章6-7節が述べる、パウロの曰く「背教を阻んでいた、当時のキリスト教徒が良く知っていた」という『いまのところ抑制となっているもの(「もの」[ ト カテコン] )*』が何であるかを現代の我々にも十分推察させるものとなっています。当時のエクレシアで聖霊の顕現は広く見られており、人々を教えるものであった以上「よく知られていた」というべきだからです。

果たして、使徒にせよ傑出した「人間の影響力」に頼るということが、他の宗教ならともかくキリスト教の教理そのものにおいて何らかの意味を持つものでしょうか?
実に、その他者への影響力を持つことを願い、人を自分の側に付けてしまいたいキリスト教の(様々な意味での)「教え手」は、ものみの塔にもその外部にもいくらでも居て、彼らは聖霊を軽視させる努力を怠らないことでしょう。真の教え手が邪魔だからです。

しかし彼らの思惑に関わらず、使徒時代に背教を抑制していたのはどんな人間でもなかったと言えます。それは間違いなく統治体の成員のような「優れた人間」よりも遥かに高次な『真理の霊』であったことを信じる方が、よほどキリスト教徒でありましょう。

さて「霊性」とやらの高い方々は、この真理の霊を保持していらっしゃるものなのでしょうか?
もし、そうでないのであれば、それはやはり只の人に過ぎず、神の前に義認もなく、教えるところには必ず間違いがあり、それを実態に則して悔いるところなければ、人々を誤導する以外にないでしょう。その「イエスとつながっている」と唱えるところも空虚に響きます。なぜなら、聖霊の無いことにおいて、まったく初期キリスト教徒のようではなく、むしろつながっている客観的証拠は何もないからです。

キリストの犠牲が捧げられて以後、贖罪されていない者が、どんな理由で神やキリストとつながるのでしょうか。(ローマ8:1)
キリストの血による「新しい契約」が有って初めて、人は神ともつながることでしょう。
明瞭な聖霊の賜物が在ってこそ、その契約に関わる人の身分を証しするものであったことをパウロが記したのは明らかなことです。(エフェソス1:13-14/コリント第二5:5)

では、ひとたび途絶えた聖霊が再び注がれ、人類は聖霊が顕現するのを見ることが有るのでしょうか?
聖書はこれを、終末の世界宣教に関連して再三肯定しているのです。


 (後半へ続く)








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