FC2ブログ

旧約の「カドーシュ」 及び「携挙」につき

2013.08.27 (Tue)
まず、イザヤ41:14の「あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者」の「聖なる者」についてですが

この文脈を見ると、「あなた」と呼びかけられている対象が「イスラエルの人々」であることがはっきりしています。
同8節では「わたしが選んだヤコブよ」と呼びかけられており、「贖われる」「あなた」が聖徒の表象であるイスラエル人となっております。

それゆえ、新共同訳は
『あなたを贖う方、イスラエルの聖なる神/主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ/イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。』
と訳出しておりますし、16節も同様で『イスラエルの聖なる神によって誇る。』としています。(但し、「カドーシュ」に「神」の意はありませんので、これは意訳です)

確かに、ヘブライ語では「聖なる者」という言葉は新約ほど明瞭ではありません。
やはり、「聖徒」の明確な登場はキリストを待たねばならなかったからでしょうか。
『あなたがたは聖なる者となれ、あなたがたの神YHWHは聖なる方だからである』とのイスラエルへの言葉は、パウロの言う『神のイスラエル』についてこそ、キリストの血の贖いを得て、真に可能となったというべきでしょう。(レヴィ19:2/ペテロ第一1:16/ガラテア6:16)

旧約中で、同じ「聖なる者」(カドーシュ)でもはっきりと「聖徒」以外に適用されようもない部分もあります。
例えればダニエル7:21がそうです。
そして、双方に用いられている単語「カドーシュ」はどちらも同じですが、こうして文脈から両者を識別することは可能です。
それゆえ、イザヤ41:14を「聖なる方」と訳し、一方でダニエル7:21を「聖なる者」と訳している聖書もあります。

いずれにせよ、「聖なる者」(新約のハギオス)はイエスの約束された格別な聖霊という助け手(パラクレートス)を注がれたキリストの弟子らを意味し、彼らはその聖霊によって「異言」をはじめとする様々な奇跡の賜物が与えられ、それが彼らの身分をも示しました。

「聖なる者」とは、天の至聖所に自らの血を携えた「大祭司」キリストの最初の働きによって、その血の犠牲を最初に適用された「祭司」の身分を内定され、仮の贖いを受けた初期の弟子を指しており、彼らは仮の「義認」状態にあり、その生き方を通して、新しい契約を信仰の内に全うし、キリストの花嫁として天に召されるにふさわしいものとなるべき務めが、「上への召し」また「霊の選び」によって生じたことを新約聖書は繰り返し記しております。

旧約の「預言者たち」の言う「聖なる者」(カドーシュ)は、新約の「聖なる者ら」(ハギオイ)それを予告したものであって、今後、いまさら神の恩寵をはっきりと西暦70年に失った血統上のユダヤ民族に成就するものではありません。

現在のユダヤ人には考古学的価値のほかに、神との関係は異邦人以上のものを持ちません。神との契約は、聖霊を注がれた聖徒らの民『神のイスラエル』に移行されていることは、バプテストやイエスの預言によって明らかにされており、それに使徒らの証しも続いているのです。(マタイ3:9-12/ルカ19:41-44/ヘブル8:13)
まして、ユダヤ教から見事な脱皮を果たしたキリスト教が登場したあとでさえ近隣民族と流血の抗争を繰り返す民に、聖霊が注がれることは到底考えられません。『剣を執る者は・・』と言われるキリストであれば『不法を働く者よ』といって彼らを明確に退けることでしょう。

この理解については、ユダヤ教の文化に心酔する人々によって「置換神学」という誤謬であるかのようなレッテルを貼られることがありますが、依然としてユダヤ民族が神との契約関係にあると主張することは、そのまま新約聖書の理解を放棄することになり、『新しい契約』を伝えるエレミヤや、メシアの到来がユダヤの裁きとなることを警告したマラキなどの旧約預言さえも無視することになるのです。

そのうえ、所謂「クリスチャン」の中に、終末に臨在するキリストを見てユダヤ人が大量改宗すると信じる人々がいます。
ですが、この人々は「信仰」というものを単純視、また誤解しているように思えます。

「信仰」が圧倒的なキリストを見ることで惹き起こされるようなものなら、キリストに奇跡の業を見ながら『あなたがメシアならはっきりそう言え。いつまで我々をどっちつかずにするのか』などとユダヤ人は言わなかったでしょうし、イエスも奇跡を行った後に、そのことを言わないように付け加えることもなかったことでしょう。
神々しいキリストの姿を見るだけで信仰が惹き起こされるのであれば、それは実に簡単なことであり、偶像崇拝に等しいことで、最初の来臨でそうされなかったのはなぜでしょう。イザヤ53章が予告していたように『見るべき外見がなかった』ので、ユダヤ人は奇跡を見ても意見は二つに割れています。それが「裁き」というものでしょう。(マラキ3:2)

むしろ、信仰には倫理的価値観が関係しています。
『父の業』とイエスが呼んだ奇跡を見ながら、ユダヤは体制としてナザレのイエスがメシアであるとの信仰を働かせませんでした。彼らは遣わされたメシアを明らかに退けたのです。理由は「不信仰」だからです。(ヨハネ第一5:9)
聖霊の行う奇跡は、この裁きを加味し、シナイ山のように圧倒的な神の現れとなってはならず、否定する者に口実も与える程度である必要があったでしょう。

奇跡への信仰が求められた血統上のイスラエルへの神の恩寵は、やがてユダヤ人と異邦人から構成されるところの、パウロが「神のイスラエル」と呼ぶ、血統によらず信仰による「アブラハムの裔」に移行しています。(ガラテア6:16)

それは「律法にまとわれた奴隷」のようなハガルの子ではなく、「新しい契約による自由なサラの子」としてパウロは対比しています。そこでは幹としてはユダヤ人があっても、多くの信仰深い異邦人が枝となって接木されました。(ガラテア4:22-26)

聖霊の賜物はその明らかな証拠であり、それはユダヤ人だけでなく、コルネリウスを嚆矢として異邦人にも「神のイスラエル」となる道が「ペテロの鍵」の使用によって拓かれています。

この異邦人からなる聖霊を注がれて聖なる者となった人々について、パウロはローマ11章で「接木」の例えを用いて説明しており、またユダヤと異邦の双方を「ふたつの民(もの)」(ドオー)と呼んでいます。(エフェソス2:15-16)

その双方が「神のイスラエル」であり「聖なる者」(ハギオス)であり、彼らは、キリストの血の犠牲の注ぎによって「新しい契約」に参与することで、神の御前に「義」の状態が信用貸しされていますが、契約とは不確定な事柄に用いられるものでありますから、これらの血統によらない「神のイスラエル」の一員であっても、『聖なる行状と、敬虔な行動』が生涯に亘って求められています。

では血統上のユダヤは、ここにおいて神の御前にどのような状態に入ったのでしょうか。
福音書が再三示すように、神の格別の恩寵は明らかに血統上のイスラエルを離れ、イエスを拒絶したユダヤは、その同じ世代の内にローマ軍による徹底的な滅びを受け、神殿も崇拝方式も絶えてしまい、神からの絶縁状を叩きつけられた状態に入り、以後、神殿もなく律法の完全な履行は不可能となっています。

そして旧約の「回復の預言」の二度目の成就は彼らユダヤ人にではなく、明らかに「神のイスラエル」である聖霊注がれたキリスト教徒の「聖なる者たち」の上にみるでしょう。
これは聖書を精査するときに避けられない結論であり、単なる「置換神学」ではありません。律法契約はキリストがその生涯と死によって尽く成就されました。(ヘブル9:26/ローマ10:4)

これは神からの封印であり、血統上のイスラエルが再び神の格別な所有に帰する民となることはけっして無いでしょう。
旧約の「預言者たち」に見られる、回復の預言は専ら西暦二世紀に一度絶えた、聖霊の賜物を持つ聖なる者たちが、再びキリストの臨御によって現れることを意味しているのであり、不可視の『雲と共に来る』キリストの地上の代弁者また大使としての働きを行うことになります。彼らが為政者の前に引き出され聖霊によって語るのはその為です。

その聖霊の言葉による証しは『為政者らと諸国民に対するもの』となり、それが神による世界宣教となることを福音書は明かします。(マタイ10:18-)
つまり、彼らキリスト教徒の聖なる者たちこそが『諸国民を祝福する』『諸国民の光』となる真実のイスラエルなのであり、その役割は律法不履行とメシア殺害の不信仰なユダヤの民の預かるところではけっしてありません。

多くのキリスト教徒は、未だに血統上のイスラエルが集められる終末を期待していますが、これは「新しい契約」も聖霊を注がれる意味も把握できていないからなのでしょう。

ユダヤ教から見事な脱皮を果たし、争いを避け、規則の隷従から「愛の掟」の自由に見事な昇華を遂げたキリスト教の圧倒的優位を理解できず、その素晴らしさを理解していないのです。旧約の預言者たちが伝える回復の預言が、血統上のイスラエルではなく、「神のイスラエル」に起こり、混迷を深めているキリスト教に輝かしい回復が起こることにも気づいていないのでしょう。

それが信じられない動機は、キリスト教の素晴らしさを知らないからです。
しかし、それはその人の倫理上の選択であり、こうして説明したところで、そのような人々は心の在り方が異なるので、なかなか同意することもないように思いますが、真摯な問いではなくて、低レベルな反論が為されるときに、まともにお相手を務める必要もないでしょう。




・「携挙」(ラプチャー)につきましては
プロテスタント諸派、主にディスペンセーション(天啓)派の中で、テサロニケの聖句を根拠に
キリストが空中に再臨されるときに、選ばれたクリスチャンは空中に挙げられ、キリストと婚姻関係に入るとされているようです。これは非日常への憧憬を誘うようで、相当数の人々が期待を抱いているもので、時折出会うことがあります。(諸派は、携挙が患難の前か後かで議論しています)
患難を経るクリスチャンが「聖徒」に変えられてゆくのだそうです。そこでは聖霊の画期的出番は無いようです。

この理解には聖徒がアブラハムの裔であるというところからの、全人類のための祭司という発想が欠けていて、天に去る者がそのまま救われることになってしまっております。
しかし、これも聖書本来の意味からすれば所謂「クリスチャンの選別」を意味するものではありません。人類の贖罪を行う祭司の選別であり、そこから『天の王国』の人類への祝福が始まってゆくのです。
ですから、携挙を期待するのは自分の救いに関心が向いているのであって、キリストのような精紳を持って、すべての人々の福祉を思いに懐いるとは言えません。むしろ逆でしょう。

そこで「一人は連れて行かれ、一人は残される」とは、聖霊を受けた聖徒たちの中での試みに通過できない人々の選別を意味しており、『42か月』の試練の間に脱落する聖徒がいることを警告するものです。それは一般信徒の関わるところではないのです。この聖徒の観点から捉えるなら、聖徒が『新しい契約』を地上で全うし、その中の生ける者らが、いよいよ天に召されることについて所謂「携挙」として字面だけの理解に陥っているのが「携挙信奉のクリスチャン」方であるというのが真相でしょう。

しかし、この「聖徒の裁き」は徒事では済みません。
ひとたび「新しい契約」に預かりながらその契約を全うできない聖徒が出ることは、イエスが再三警告してことであり、彼らが天に召されず、地上に残されることで深い絶望をもたらすことでしょう。
しかし、彼らを拾い上げる者が現れます。

それが即ち「アンチ・クリスト」であり「不法の人」であり、元聖徒であろうこの異様な人物はユダ・イスカリオテのように「滅びの子」と呼ばれており、天に召されなかった元聖徒を配下に置き、「大いなるバビロン」も滅ぼし、旧来のあらゆる宗教を過去のものとすると同時に、新たな宗教を興し、自分を神に勝るものとして、その神殿に神として座すでしょう。

この人物にはサタンが霊力を与えるので、地上で幾分低級な奇跡を行って見せますから、イエスが「見よ!ここに居る」と言われても信じてはならない」と警告した通りです。
そこは、「死体のあるところに鷲が群がる」ような様相を呈することでしょう。

この宗教は世界的強制を実施し、その印を受けない者には売り買いの制限すら行わえれると言います。
これがこの世の最後のサタンの惑わしであり、その対象は全世界となります。
それは聖徒の裁きに続く「この世」の裁きであり、あらゆる人が聖霊の業への信仰を試されるでしょう。

単なる善行や聖書の知識で、この試みを通過できるということはありません。
そこで試されるのは、神への忠節な愛(ヘセド)であり、エデンの園でアダムとエヴァが神に対して示さず、全人類に「罪」を伝え、あらゆる苦難の淵源となった「忠節な愛」の欠如にほかなりません。

したがって、携挙と呼ばれる生ける聖徒の天への召しは、これらの聖書全体の、殊に新約の深い理解無くしてその実態を把握できるものではありません。
大半の「クリスチャン」が軽薄にも、単なる救いの選びのように見做していることは、恐るべき危険で呑気な無理解でありますが、天啓法時代を信奉するも、携挙を期待するも、結局は「聖徒理解」の無さに起因するものであり、ディスペンセーション派であってもなくても、「キリストの不在」を考慮せず、信仰があるから自分は是認されているに違いないという夢想にキリスト教界が浸ってきた副産物のようなものです。この夢から醒めることは相当に難しいようですが、この夢は聖書の大枠からは相当に脱線しております。
しかし、その人々も、この重大な事柄をより正確に知る機会はまだ拓かれています。

さて、アメリカで作成された映画に、この「携挙」を題材にしたものがありました。"Left Behind"
その中では、選ばれたクリスチャンから突然消えてしまう、というストーリーが展開しており、この種の信仰ある人々の考えを表しているでしょう。
選ばれずに、残された人々には、イエスの終末預言の「ひとりは連れてゆかれ、ひとりは残される」が恐ろしい意味で臨みます。(私はこの映画を見ていませんが)
つまり、聖霊により聖徒が現れるのではなく、携挙されるものが聖徒に変えられてゆく、という解釈でしょうか。アメリカではこの流行の信仰者の数は無視できないようです。

そこでは、「アブラハムの裔」や、ましてエデンの問いからはすっかり遊離して、想像上の「地上の大変災」の前に「自分たちが空中に挙げられる」ことの方に主な関心があるように見えます。動機といえば自分が患難を逃れるためでしょう。
より精神的なところに注視せず、ショッキングなところに注目し、娯楽にまでしてしまうような新教アメリカ白人(WASP)の誉められない傾向を感じないでもありません。

聖霊の働きの根本的なところである、聖なる者を証しすること、世に王国を知らしめること、裁きの基準となること、これらに目を向けて欲しいところではあります。

これらの神のご意志の根は、エデンに由来し、アブラハムの裔を経由してキリストそして聖徒に至ります。
これこそが聖書の背骨、根幹であって、どのクリスチャンが天に行くか行かないか、という云う類のものでは決してありません。

聖書の「救い」は全人類にためのものであり、信仰にあるクリスチャンの中から誰かを有利に選ぶと言うなら、それは根本からキリスト教を見誤っていると言うべきでしょう。クリスチャンの中から選ばれた者だけが携挙して救われるのなら、救われる人、また自分をそう見做す人は、「自分は神に是認される」と主張しキリストと対立した自己義認のエリート宗教家らと同じ精神を宿してはいないものでしょうか。

その見方は、聖書の句を上辺をなぞるだけのもので、聖書に一貫して底流を成す愛と憐れみの精神については、一向に理解されていないと言わざるを得ません。

もちろん、召され選ばれる僅かな人々は「聖徒」となって天に行きますが、それは『アブラハムの裔』「真実のイスラエル」としての全人類の救い、また贖罪のためであって、その人々だけの「救い」ではけっしてないのです。







.
関連記事

男女関係の要諦

2013.08.17 (Sat)

神は男女によって、人が『地に満ちる』ことを意図されましたが、これはアダムの堕罪の以前からのことでありました。
創造の神は、そのようにして人の『魂』が存在するようになり、『地に満ちる』ことを堕罪によっても変更しなかったのでしょう。
そこで『罪』はすべての人に伝播していったのですが・・(ローマ5:12)

人が、男女を通して『魂』を生み出すことが神の創造の一端であるとすれば、次々に世代交代を繰り返している『この世』の有り様というものは、創造者の意志を行っているのであり、性本能がすべての人に与えられた理由も本来はそこにあるのでしょう。
(それでも、性差は生殖だけが目的ではないようにも見受けられますが・・創世2:18)

しかし、この今日の有り様には、神の意図を充分に反映しない部分があることは避けられないでしょう。
『罪』ある一般社会で、男女関係は道徳問題に直結しており、何かと煩いの淵源と成り兼ねません。
これに関して、以下に所見を述べます。


おっしゃるように、新約聖書は聖徒たちに淫行や姦淫を避けるよう命じる他は、性道徳を絶対的道義のようには書いてはおりません。そこは日常的に外見に敏感で厳格なイスラームとは随分違います。

ですが、律法を見ると、婚前の交渉についての幾つかの戒律がありました。

未婚の処女が犯された場合、相手の男には結婚の義務が生じます。(申命記22:23-)
婚約は結婚とほぼ同等に見做され、婚約者以外との関係を持つ者は死罪となりました。(出埃22:16-17)
(但し、結婚後にこれが発覚した場合には死罪には至りません)
強姦の為された場合、女性が叫んだ場合その女性は罪無しとされ相手の男性は処刑されました。

もちろんクリスチャンは(この名称には語弊がありますが)律法の下に居ないのですが
これらの規定を見るだけでも、神の意向を汲むことは可能です。婚約を含め、結婚関係は重いものであり、それ以外の関係は、本来は神の受容されるところではないように思えますが、現在に至るまで、婚姻と家族の制度が、生き辛いこの世を互いの福祉を顧みながら生存や養育を担保するものであることを忘れるべきではないでしょう。堕罪したアダムとエヴァの関係には、変化が生じていることを創世記は示しております。(創世3:16)
また、律法の要求が当時のままに人類への神の意向を伝えているわけではありません。

それから、婚約を含め未婚状態の場合では、淫行があれば即死刑というわけではありませんでしたが、その淫行は結婚の義務付を以て、結婚関係に入ったかのように見做されたかのようにされています。

したがって、性関係は限定されるべきものとされていたことになり、その違犯への処罰の多くが死刑であったことからすると、これは現在も軽視されるべきものではありません。

さて、男女の愛(エロース)は最も狭い人間関係を作り、その狭い二者の場でのみ作用する愛であり、本来的に他者を受け入れようとはしないものです。
この愛は、アガーペーとは異なり相互報酬的なものなのでしょう。人格や個性、あるいは価値観までも異なるふたつの魂の永い結びつきを保つのは、容易なことではありません。人格は二十歳までに形成されると言われます。その後の根本的変化はまず望めないので、神も荒野で二十歳以上のイスラエルを処罰されたように思えます。
つまり、二十歳を越えた男女が半永久的な相手を選ぶということには、ある種の危険が潜んでいます。
それゆえ、時に誓約を伴うという愛ともなりますが、そこに親子関係とは異なる脆弱さも見えています。

また、男女関係は性犯罪と裏表でもあり、危険の伴うものでもあります。
そこには、生まれてくる第三の人格への配慮も為されねばなりません。 創造の神が、性関係に重い戒めを与えていたのは、多分にこのためであったようにも思えます。それは生み出される魂を歓迎するための必要性が極めて高くあるべきことが創造者の意図であろうからです。この第一に親密にされるべき関係が崩れるときに、最も損害を被るのは子供ではないでしょうか。
やはり神は家族制度から、この世を生きるための相互扶助を顧みたと言うべきでしょう。なぜなら、実際に家族はそのような機能を当然のように見せてきたからです。それが何らかの原因で崩れるときに悲劇が起るのは平素見聞きする通りでしょう。

そこで、男女関係は単に「好いたの惚れたの」ということでは済まされない要素が潜んでいます。益の一面だけを見て、男女関係を始めてしまうのは簡単ですが、実際に継続させてゆくには、そう易しいことではないでしょう。安易に考えていては、その関係は初めから破綻に向かいます。

ですが本来、この愛(エロース)は他の愛にはできない働きを持つところがあり、それは単に子を生むというところを超えて、互いに個人的で最も親密な支えを与え合うということでしょう。(しかし、実際には永い夫婦関係がエロースだけで成り立つようには見えませんが、重要な媒介であることは動かし難く、軽視されては他人になってしまい兼ねません)

アダムが「ひとりで居るのはよくない」と言われた創造者が、エヴァを設けて後、創造界を眺めて「甚だ佳かりき」と言われたのであれば、男女関係の本来的で最善の創造の意図を表明なさる謂われが神にあります。
それがこの世を生きる現状で、律法に概要が現れたとするのは理に適った考えのように思います。

しかし、当初のアダムとエヴァの関係が今日と同様の「結婚」であったかと言えば、堕罪後に変化が訪れている記述がありますので、おそらくは異なるものであったように思われます。特にエヴァで代表される女性の側に変化があり、それが以後の世代に於ける「結婚」の本質を形作ることになり、それが子を成すだけでなく老化して死を迎える人間の必要に応じた男女関係の変化であったのでしょう。

新約聖書でパウロは、聖徒たちに淫行や姦淫を避けるよう何度も手紙で説得しています。ですが、ペテロはソドムのようなことのために裁きがあることも警告していますから、これは聖徒ばかりへの戒めとも言い切れません。聖徒以外の人々が原則的に聖なる行状を求められないとしても、性関係の乱れはやはり「過ち」となり、他の悪行同様に御旨に適うものとは云えないでしょう。

殊に、律法では、夫の妻への疑念の晴らし方について律法の儀式が長々と加えられており、嫉妬心というものの扱い難さを物語っています。(民数5:14-)
男女間で最大の害をもたらすのは、この愛の独占性からくる正当的欲求なのでしょう。この意味で男女の愛は相互報酬的、また契約的なものと言えます。無条件な家族愛には及びません。

しかし、律法のように厳しく断罪するのは『病人にこそ医師が要る』という言葉に沿えず、キリスト教えらしからぬものなってしまいます。律法が離婚を容認していたこともまた事実なのです。

ですが、男女関係で潔くあることは、様々な身の守りであり、要らぬ煩いから離れていることの価値は極めて大きなものです。
また、性関係が本来的に新しい人間の誕生に関わるものである以上、その人格への尊重と配慮がなされるべきことは論を待ちません。 人間の生涯とは、生まれ、育てられ、配偶し、自分も子を成し、養育し、その間の命をつなぐという業に要約でき、それらが終われば、もう長くは命もありません。それが現状での『罪』ある人の務めだからでしょう。人間の魂を存在させるという創造の業を荷って、人は代々営々と存在してまいりました。(しかし、それが創造本来の人間の姿であるか否かはわかりませんが)


また、その男女愛を生かすも殺すも、本人たちの資質や認識次第であり、少なくとも律法の規定の知識は持っているべきのように思います。 但し、そこでは二人の当事者の不仲を、片方がまったく正しく、片方がまったく間違っていると断定することはできません。どちらかの肩を持つなら、その後も後を引く「余計なお世話」をすることになり兼ねないでしょう。

加えて、パウロもコリント第一で教えるように、この点で余りに厳格になるべきでもなく、キリスト教がユダヤ教のように過ちを二度と許さないというものではないことも念頭におくべきでしょう。またイスラームのように性関係を極端に危険視し、女性の自由を奪うまですることも何ら解決になりません。 それは人間の実際の不完全な倫理性に対する無理の押しつけになるでしょう。
人間としての自然な欲望が存在することや、男女共に魅かれように作られていることは変えようがないからです。 むしろ、これは『地に満ちよ』という神の意向ともいえます。

この点では、不義の関係を法律で罰する国家もあれば、売春を合法化する国もあり、人間の現実の倫理性に見合った「規則」というものを見出すことは非常に困難であることを示しています。
どの性関係を悪とするか善とするかには、その社会によって様々な観点があります。
聖書の中でイスラエルの族長ユダは買春を行っておりますが、その行為の是非はそこで語られていませんが、その結果は悪いものとはなりませんでした。しかし、これはユダヤ教の範疇に属します。

そこでキリスト教の対処法は、抑制するだけでもなく、許容するばかりでもないでしょう。
律法を後にしたキリスト教が、型にはまった規則を設けたりすれば、それはこの世と変わらぬ良識判断と、誰が何をしたかしないかということを問うばかりの相互監視と断罪の牢獄を造ってしまいます。
規則については、基本的に施行される法に任せるのがよく、キリスト教で規則を設けてしまうと、二重の法制度を作り兼ねず、それはキリスト教徒を警察官のようにしてしまいます。

そのように個人の行動を何とか圧力で規制できたとしても、それは俗世に勝る内面の道徳性に到達できたわけもなく、その信仰は『見るな、触れるな、食すな』という苦行の隷属、外からの規制を要する低いレベルのもので、肉欲に対して本当の解決を提出するものではありません。(コロッサイ2:21)
それは「新しい契約」に預かり聖霊を注がれた聖徒でもない人々に「聖さ」を強要することになり、そこまで要求されていない一般的な人々が悔い改めて頼ることを難しくもするでしょう。

キリストの離婚が姦淫であるという発言も、山上の垂訓のように現状の人間には実行不能の、究極の聖さを言い表しているとみるべきでしょう。その理由は、使徒らも驚嘆してモーセの離婚の条項を問い掛けているからです。イエスは、それを神の妥協であるとしているところからすれば、ますます、聖徒らへの清さへの要求として、あるいは、神の聖に達する律法が真に示す高い基準を語っていたとみるべき理由となります。

規則化はまた、ユダヤ教やイスラームのような権力を持つ「コミュニティの宗教」の特徴であって、個人の自立した信仰を持つキリスト教のものでもありません。

ここでも、キリスト教の最重要な指針としてアガーペーが生きます。 (ローマ13:8)
もちろんアガーペーとエロースは異質なものですが、アガーペーに従うなら、相手や他の人々の益を願い、また神の意図に鑑みて歩むということになるでしょう。
そこで具体的に何が正しいか悪いかを唱えると様々に問題が生じ、拠って立つ根拠を法律や一般良識に求めなければならなくなり、キリスト教の埒外に足を踏み出してしまいます。法曹関係者や民生委員でもないなら、これは止めておく方がよいでしょう。


何でも言えることですが

アガーペーを育てる ということがキリスト教を案内する者のできる事であり、務めなのでしょうね。

それは、「新しい人格」とパウロが呼んだものに関連するでしょう。
聖書中、彼はこれに二度言及しています(エフェソス4:24&コロッサイ3:10)いずれも、取って付けたような仮面人格ではなく、熟成に長い時間を要するものであることを説いています。 それも聖霊の助けある聖徒について言うのであって、信徒はそれに倣うばかりで厳格な履行要求の対象外なのです。

この聖徒への人格の規準を要約すれば、キリストに在って聞き、学んだことを通して古い人格を捨て、自分の霊において新たにされ、作り主の有様に似てずっと新たにされてゆくものであると彼は言います。
そこでは、怒り、憤り、悪意、罵りを後にし、不品行や汚れも避けるよう促されることでしょう。

その変化をもたらすのは、「個人の努力」といえば的外れです。もちろん聖書に十分親しむ努力を積まねばこうした変化は起こりませんが、だからといって自分の努力で成し遂げると思えば、パリサイにしかなりません。

イエスの生き方、人との接し方、また神のものごとの扱い方に注目し、そこに深い価値や感動を覚え続けることで、それらが薄絹のように折り重なって、次第に見事な新しい人格が織り出されるのでしょう。
それは人生訓や処世術のようなもの、また世間の良識や責任の押し付けでは決してありません。

神の本質はアガーペーまたはヘセドにあり、創造界もそのようであるべきなのですが、現在は利己心の世となっていますので、様々なことが、男女関係を含めて創造の意図に沿って機能しません。

ですから、キリスト教徒たるもの、このアガーペーを学び、また知らせる点で結果を焦ることはできませんし、かといって手を抜いていれば、一向に変化も起きず、悪化の危険もありましょう。 また進歩と後退を何度も繰り返すかも知れません。

そこで、地道に神とキリストの素晴らしさを説き示してゆく、というのがキリスト教の案内者の仕事、素晴らしい労苦なのではないかと思えてなりません。それは本人の良心をその持てる愛によって伸ばすことであり、世間一般の良識を説くところからは遥かに上をゆく教えでしょう。

その方の誤った行動を何とか避けさせてあげたいものですが、私たちにはキリストの弟子としての方法、アガーペーの道があり、一歩前進を繰り返しつつ、その感化の働きを待つという方法だけが行えるところではないかと思えます。


しかし万一、実際の危害の恐れがある場合、他の問題と同様に、危険度に応じて世俗の権力と裁定に遅滞なく委ねる明敏な判断の必要が生じることもあるでしょう。

現状では、すべての人に「罪」があり、それゆえに誰であっても公権力の介在を必要としていることもまた、動かし難い事実だからです。(ローマ13:3-4)

加えて、以上の考察も、「この世」という現状の中でのものでありまして、千年期以後にどうなるかは、まったく分かりません。
イエスは、『娶ったり嫁いだりしない』という状況を述べられましたが、それが聖徒の霊体への変化だけを言い表してはいないと観るべきように思います。

今日の結婚関係を「契約」と見做すか普遍的「制度」と見做すかでも、男女の将来像は異なってまいります。
旧約に見られる神を夫として語り、また預言者の妻との関係の記述に鑑みるに、おそらくは「契約」なのでしょう。(マラキ2:14)
このあたりを現実から観ると、夫婦相互、また子など近い世代への福祉を顧みる制度の核として結婚があるのでしょう。ですから、死別後には、他の誰かとの再婚を新約聖書も是認されたものとして描きます。

ですが、夫婦が恣意的また頻繁に相手を換えることには、本人たちだけでなく、大なり小なり周辺世代への悪影響が避けられません。また、男女間の誘因力は長くは続かず、『罪』ある現状では人格的に問題が生じやすいうえに、この世では老化が避けられませんから、『若いときの妻に忠節であれ』とは、夫がかつての日々に結んだ契約に真実を尽くすよう求める言葉であり、そこに制度だけでは支えきれない男女関係の難しさが表れているように見えます。(マラキ2:15)

そう捉えると、結婚関係とは双方の生前中に於ける一時的な契約となり、また生殖と子孫保護、また相互扶助に伴う「一時的な制度」のひとつであるのでしょう。しかし、それは永続する普遍的な制度ではないようです。それは「この世」を生きるのに適用されてはいますが、『地に満ちる』という創造者の下命が遂行された後は異なるものと思われます。

では、結婚ではない普遍的な制度としてのエデン的、また永遠的な男女関係がどのようなものであるのかは、現状ではまるで分かりません。今は知る必要が無いのかも知れません。

現状での結婚というものを、契約と捉えるにせよ、やはり「契約」とは、不確定な物事について定められるものであり、ひとつの目的の達成を目指すものであっても、必ず終りがあります。その目的というのは、生殖だけでなく、夫婦の相互扶助により、この生き難い「この世」での生涯を全うするためのように見えます。そこに子供が加われるなら、それは更に助けとなってゆくことでしょう。

家計というものが社会一般から独立して営まれるのは、家庭という場が「この世」からの退避港、最善の福祉を受ける場、また社会で生きられるよう子を養育する巣であり、世の利己心の荒波から保護する最後の防波堤として機能すべき「制度」でもなくてはなりません。それが機能していない家庭は、すでに崩壊しているのであって、どんな理屈をつけようと却って害悪でしょう。それはどんな重罪人の家庭であっても同様であって、人が呼吸し、飲食するように必要なものです。親子関係が不動なように、家庭愛は無条件の許しと、尽きない慈愛こそが本質をなすべきものでなければ意味がありません。それを本来行うべきは公共施設ではないのです。

『生めよ増えよ』と言われた創造者は、生殖によって人の魂を創ることを意図されたというべきでしょう。
『すべての魂はわたしのもの』と言われる神ですが、遠い先に存在することになる人物を待たれた記述も聖書に何度か見られますので、結婚と出産は、我々人間界の民事問題だけではないのでしょう。

しかし、だからと言って、完全無欠の男女関係など存在するわけがなく、むしろ極めて不完全な人格の結びつきが大半を占めるというのが現実であり、『不釣り合いな頸木』というものが存在する以上、「離婚」という逃れ場は確保される必要があるでしょう。
離婚は、ほとんどの社会に見られる法制度であり、一般的人間というものの限界を教えるものとなっております。

もちろん、神『離婚を憎む』とあります。(マラキ2:16) ですが、これはユダヤに横行したであろう、夫の都合で安易に離縁し、そこで女性が窮境に陥ることを指していると読めます。そこにはこうあります。
『わたしは離縁する者を憎み、また、虐げをもってその衣を覆う人を憎むと、万軍の主は言われる』
つまり、何らかの理由をつけて離婚し、女性への虐げを覆い隠す行いを糾弾しているのです。

そこで宗教がキリストの言葉に洞察なくただ離婚を禁じたとしても、「契約だから」と無理を通せば、神の設けた「制度」としての結婚は機能しないことになり、神の意志からも外れるように思われます。それは神に対する「罪」と声高に主張しても、愛のない夫婦関係は、現実に神の定めた相互扶助の「制度」としては機能せず、意志に反することになります。

それゆえ、「契約」という側面と、「制度」という側面とのバランスを考えなければならないのが、結婚関係というものの難しさでしょう。そこには愛と嫉妬という諸刃の剣がそのバランスを左右するように思いますが、それは個人個人で異なるのであり、最終的決定は、簡単ではないものの、当事者両人の合議であるように思います。





.
関連記事

ヨハネ8:42の訳ついて

2013.08.03 (Sat)
まず、下記ヨハネ8:42 の句を、キリストが「神から出てきた」と解釈すべきかについてですが

イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたしを愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。」(新改訳)

口語訳は更に以下のように訳しています。
イエスは彼らに言われた、「神があなたがたの父であるならば、あなたがたはわたしを愛するはずである。わたしは神から出た者、また神からきている者であるからだ。わたしは自分からきたのではなく、神からつかわされたのである。


ここで用いられている「(神から)出る」の語「エクセールスォン」["εξηλθον"]という動詞【直アオ能1単】(エクセールコマイ(原形)))ですが 
例えればKJVの用法(日本語に直しました)では以下のようになっているそうです。
「出て行った×60回.来た×34回.分離した×28回.行った×25回.出て来た×23回、出て来る×9回.」
そしてNKJVはここを”for I proceeded forth and came from God”「わたしはすすんで(進み出て)神から来た」としています。

したがって、「排出された」というニュアンスに訳す、あるいは「神の中から出てきた」という概念をそれに当てはめるとすれば、そこに三位一体を「読み込もう」との意図があってのことのようにもとれます。
新共同訳はこの部分を『わたしは神のもとから来て』と訳しており、上記の単語翻訳例からしてもこれが順当な訳のように見受けられます。

といいますのは、この句の後半では、キリストがご自分の意志によって来られたのではなく、神から遣わされたことを強調しているからです。
新共同訳はこの節をこう訳しています
『「神があなたたちの父であれば、あなたたちはわたしを愛するはずである。なぜなら、わたしは神のもとから来て、ここにいるからだ。わたしは自分勝手に来たのではなく、神がわたしをお遣わしになったのである。』


文脈を見ると、この句の目的は、イエスに反対し、メシアとして認めようとしないユダヤ人に対して、イエスご自身がご自分の意志を超える方から遣わされてそこにいるということを強調するところにあります。

つまり、反対しているユダヤ人の説得のために、イエスは神の権威によるご自分の派遣を力説しているのであって、ご自分が「神の中から排出されてきた」ような同一性をほのめかしてはいません。それでは、ますますユダヤ人を説得できなくなります。

ここでは、ご自分が父との従属的関係性を持っていらっしゃることが話されているのであって、三位一体的な同質性やら、まして同一性が話されていたととるなら、それは文脈からすると相当苦しい解釈といえるでしょう。

また、このヨハネ8章では、「神を父とする子」と「サタンを父とする子ら」が対置されていて、これはエデンの宣言(創世記3:15)を含意しています。この章の激烈な論争の渦中で、イエスは『女の裔』と『蛇の裔』の著しい対立の現場に在り、神の三位一体の神秘を説いているのではありません。 (8:44)

ですから、ここで父と子の同一性を語る目的は的外れであり、ここで三位一体を持ち出すのは、むしろ聖書の主要な筋立ても、このヨハネ8章の劇的な内容も見失わせるものとなってしまいます。


次に、「神への恐れ」についてですが

本来のアダムと神の間には、恐れは無かったことでしょう。
それは無垢だったからと思えます。

しかし、「神を恐れる」べき理由が生じたのは「罪」を負い、且つ、それを意識したときであり(イザヤ6:5-7)、「罪」意識のないまま自重しなければ神に不敬を冒します(ソドムの例、ファラオの不敬)。

神の御座に死すべき人(罪ある)が近づくことはできません。
そこに仲介者の必要があります。

そして、キリストの犠牲が適用された「聖なる者」は逆に憚りなく御座に近付くことができることを教えるのが、ヘブル4:16の『ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』の意味するところではないかと思えます。

この句の以前を見ますと、確かに『神に言い開きをしなければならない』4:13と前提されています。
それからキリストの犠牲の助け(「おりにかなった助け」)によって御座に近付くことを聖徒に勧める文面となっているように読めます。
(「おり」あるいは「時機」(口語)とは、キリストの犠牲を人類に先立って適用された「初穂」として聖徒らであっても、依然としてアダムの罪が体に残っている当時の彼らの状況を含めて指すようです(ローマ8:1/ヤコブ1:18/ヨハネ第一1:8))

もっとも、人が贖われていない裁き以前の段階にある現在は、神を恐れるべきですし、そうしなければソドムの末路を辿ることでしょう。

そして、贖われて後も創造者を「畏れる」べきであることは変わりませんが、それは「恐れ」とは異なるものであるでしょう。ヨハネは贖われた後の「恐れ」の不要さを、見事に象徴的で直截的な一言で語っております。(ヨハネ第一4:18)






.
関連記事
back-to-top