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ヨハネ14:11については

2013.06.17 (Mon)
Joh14:11
わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。さもなければ、わざによって信じなさい。(新改訳)

πιστεύετέ μοι ὅτι ἐγὼ ἐν τῷ πατρὶ καὶ ὁ πατὴρ ἐν ἐμοί: εἰ δὲ μή, διὰ τὰ ἔργα αὐτὰ πιστεύετε.

"ἐν"⇒by 163, with 140, among 117, at 113, on 62, through 39, misc 264;

上記の、動詞ではなく単なる前置詞の「エン」を「居る」と訳してよいものでしょうか?
そうして「中に居る」と捉えさせ、三位一体を証拠立てる意図がそこにあるのでしょうか?

ましてこの「エン」は、「神の王国はあなたがたのただ中にある」" ἰδοὺ γὰρ ἡ βασιλεία τοῦ θεοῦ ἐντὸς ὑμῶν ἐστιν." のように動詞を伴った明瞭な意味を持ってはいません。

直訳するなら
「わたしは父(と共に、を通して、によって)、父は私(と共に、を通して、によって)との(という)、わたしを信じよ。あるいは、その業そのもののゆえに信じよ」。

当該節のNKJVは
"Believe Me that I am in the Father and the Father in Me, or else believe Me for the sake of the works themselves.(英語上での"am"は不可避)


ここでは、キリストを通して示された聖霊の働きが父からのもので、その目的において両者が一致していることを示しています。つまり、御父は聖霊を御子に与えられ、「神の指」ともされる聖霊の力は数々の奇跡を通して御父を証し、同時にイエスが神からのキリストであることを証ししてきました。この証しという目的において御父と御子はずっと協働して来られたと云えます。そのため、句の後半はその(聖霊の)業のゆえに信じるようにと促しているわけです。

フィリッポスはすでにそれを存分に見てきたはずであり、そこに十分に父の業やその証しの意図が示されていました。まさにキリストはその業によって父を証し続けてきたのですし、御父はイエスを証ししてこられたのですから、最後の晩に及んで「父を示せ」とは的外れな要求であったといえましょう。(ヨハネ第一5:9-10)
もし、神も子も同じ神なら、その証しは自分で立てていることになり、その証しは真実になりません。「二人の証人」とはなり得ないからです。(ヨハネ8:17-18)

主要な日本語訳は、その聖霊によるイエスの父の証しの業に関わる道理を明かすよりは、「内におり」(新共同)など、文脈にない「内在」の方を強調して三位一体を証しすることに向かってしまい。本来持つ意味から離れようとしているようにさえ見受けられます。

では、証しという聖霊の働きから注意を逸らさせることが、「聖霊さま」をも含むという「聖三位一体」の本意なのでしょうか?結果として三位一体は自らを証しすることに汲々とし、却って、聖霊の証しをないがしろにしていると云うべきでしょうか。三位一体説には証明に無理があり、聖書そのものの意味より「自分自身について証しを立てねば」ならなくなっているように見受けられるからです。








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エクレシアと聖霊

2013.06.09 (Sun)

ご存じのとおり、エクレシアとは「召し出された者たち」の意味がありますので
聖徒の集団を表しております。また、ギリシア語では都市国家の「議会」の意味で用いられてきたところは、神の都市国家としてのエルサレムと、それを治める者たちの集まりという意味でも、キリストと共なる王である聖徒らによく適応した名称と言えましょう。

そして、エクレシアは聖霊を注がれた聖徒(聖なる者)たちでほとんどを構成されておりましたから
そこには聖霊の賜物が満ち溢れていて、様々な奇跡の業が行われていました。

こうしたエクレシアの状況は、聖霊の賜物が集まり、人々の全体が教えを受ける場でありました。
彼らはキリストと共に天で神殿となる人々でありましたから、確かに聖徒の集まりエクレシアを「キリストの体」と言い、またそこにキリストが霊によって「満ちている」ということができます。(ペテロ第一2:4-5/エフェソス1:23)

ですが、パウロがコリント第一12章や14章で描かれているほどの状況は今日どんな教会にも見られないでしょう。
そこに何か超自然の事柄があるとすれば、それはペンテコステ派のような異様な興奮であり、自分の聖霊を制御できたパウロの時代のものとは異なります。(コリント第一14:26-32)

使徒時代のように秩序があり、しかも強力な働きを見せる霊こそがキリストの約束された霊といえましょう。
今日そのような霊が降るところがあるなら、そこには御霊の実のように優れた資質が見られるでしょうけれども、実際には各派が敵意をもって排除し合い、正統を巡って相争います。(ガラテア5:22-23)

それでなくとも、キリスト教界には様々な悪弊や、世の一般よりも程度の低い俗性をこれまで再三見せており、これに聖霊が注がれていると言えば、それは却って聖霊への冒涜とまで至ってしまいそうです。
むしろ、教会員でない人々の方が、自然で開明な心を示すことが多いからです。

ほとんどの教会員は聖霊を「自分たちへのありがたい贈り物」とみていますが
パウロによれば、聖霊の賜物は「聖徒たちの身分を明かす奇跡の印」であり(コリント第二5:5/エフェソス1:14)
全人類に祝福をもたらすアブラハムからの遺産相続者であることの証し(しかも、その財産は天に取っておかれるものペテロ第一1:4/コリント第二5:1)
またペテロも指摘するように「聖なる国民、王なる祭司」の民であることの証明ですから(ペテロ第一2:9)
アブラハムに示されたように、その相続財産は全人類への壮大な救いに関わることであって、矮小な個人の益のためのものではありません。(創世記22:18)

聖霊を受ける者に永遠の命が約束されるのも、天でのキリストと共なる奉仕のためであり、その益は人類全体の永遠の命のためです。(テトス3:6-7)
また彼らが地上に居る間から「救われる」のも、人類に先だって裁かれる必要があるからです。(ローマ8:29-33)なぜなら彼らを通して人類が裁かれるために、彼らの「義」なる立場が先に内定している必要があるからです。(コリント第一6:2)

将来、次に聖霊が注がれるときには、その教えによって純正なキリスト教が回復され、許多の旧弊から浄められるだけでなく、人類の救いの要ともなる創造の唯一神の至聖の御名が知らされ、そこでは世の裁きも関わることになるでしょう。
これは新しい契約に参与を許された者だけが行い得ることで、アダムの罪にまみれた余人の為すところでは到底ありません。


この聖霊理解については大きく二つのことが関係しているように思えます。

第一は
その人の倫理観

第二は
その人の関心の対象

これらが整わない限り、こちらの聖霊理解を肯んじない理由が常に生じます。
倫理観には価値観が含まれ、それが未成熟な結果がキリスト教徒の教理理解の幼稚さに表れているのでしょう。つまり、「何がより重要で優れているか」「何が公正で正しい事か」が分からないか、倒錯しているのです。特に、生まれながらにキリスト教に居る人々はおそらく考える機会さえないのが当たり前のように思えます。

信者の関心の対象とは、その主役は自分か神か、ということであり、自分を主体に考えるなら「ご利益信仰」となる以外ありません。大半の教会員にせよ、異端とされるキリスト教の多くにせよ、つまるところ自分のための神であって、キリストも自分のコンパニオンや「内住」の僕に卑しめています。

また、「キリストはこの自分のために犠牲になったのだ」などと決して思うべきでありません。それはキリストの自己犠牲の精神に反し、神の神性にも無関心であることの表れでしょう。キリストは神に忠節を尽くしたのであって、人々の罪を負ったとはいえ、我々に忠節を示した訳ではないのです。人は誰であっても、キリストの犠牲に価するかどうかを試され、裁かれることになるのはこれからです。

この点でも「三位一体説」は御子と神を混同することで、神ご自身が自分のために死んだとまで思う傲慢な誤謬を促進こそすれ、忠誠を示すべきは信徒の方であるのに、謙る想いを信徒から奪っているというべきでしょう。
当然ながら、神がそれらの慢心を是認されるとはとても思えません。

そこで、教会員の大半が傾を打ってこちらの聖霊理解を受け容れるような事態は決して生じないことでしょう。
それは世の趨勢と然程変わるものではありません。 いや、むしろ世人の方が、ご利益信仰のキリスト教徒以上に余程正面から大志を懐いてこの問題を見ることになるのでしょう。(マタイ22:8/使徒13:46)

自らの救いの利得や弱さの克服のためにキリスト教に寄り掛かっている人々よりは、俗世の人々の方が、世の全体の福祉(救い)の価値を感じ、しっかりと神のご意志と協働するであろう可能性はずっと高く、惰弱なキリスト教徒の大半ほどには、自分の救いに執着しないだろうからです。(フィリピ2:21)

終末に聖霊が再降下するときに、キリスト教界は神と御子のご意志とは正反対の精神を抱いてきたために、その大半が相応しくないものとして篩い分けられ、サタンの利己主義の道を歩み続けようとする人々が御前に是認を受けることは、まず無いとみてよいでしょう。聖霊が到来するときに、キリスト教界に闇が垂れ込めるとしても、現状では致し方のないことでしょう。





[無酵母パンから生じるエクレシア]




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自分の腹を神とする人々の多さ

2013.06.05 (Wed)
さまざまなキリスト教をいろいろ観察していますと、次第に気が滅入ってきます。

少しあちこち見過ぎたかも知れません。

それにしても何故多くのキリスト教が本質から外れているように見えるのか、といえば、詰まる所「人間中心」のご利益信仰ばかりで、それらが神から何を貰えるかという利益の違いで対立もしているからなのでしょう。やはり、人は自分に利益のある神にだけ関心を持つということなのでしょう。
それが原因で、自分たちにこそ「真理」のようなものが有ると言って譲らず、探求しなくなる頑固さ不公正さは、その欲に起因するのでしょう。真理も神も自分の思いのままにしたい願望が強くて横暴になるのですが、その「人間中心」の部分では見事に一致しています。

ならば、もうすこし仲良くできないものかと言えば、ご利益の目的とする得られるモノが幾らかずつ違うので、そのズレに信仰が薄れることを避けようとの利害を生むでしょうから教理の独自性を保つ必要が生じ、教理の違いによってご利益実現の確実性も危うくなるので、まず教理で互いに譲れず、そこに宗教家の利害もあるので合意も一致も到底できないのです。

十戒などの神の示す生活の型を守ること、土曜安息を守ること、輸血をしないこと、神の引き会わせた相手と結婚すること、などを守ることで地獄や滅びに遭わずに天国や楽園に入る利益にあずかるのが人生最大の目標のようにされますが、それでは神の意志が何かを共に探求して同じ解答に至るような芸当など、最初から無理というものです。神を差し置くほど利己的だからです。
この辺りは、支持者の既得権益に縛られた政治の党派などと変わりません。

つまり、神を崇拝していると唱えながら、実は『自分の腹(欲)』を神として崇めているようです。(Php3:19)
自分がどうされたいかによって神を決め付けるなら、これこそ偶像を作るようなものではありませんか。

そこで「アメとムチ」のように反対動機も添えられているので頑固さもいきおい強力となっています。
つまり、天国やら永遠の命に対して、地獄やら滅びやら、そこから派生した背教やら排斥やら、これらがムチとして作用しているのです。

そうして信じてしまった人々は、自分可愛さに身動きがとれなくなっているのにも関わらず、自分は幸せだと思い、同じ信仰にない人々を憐れみます。
それでは、パリサイ人の祈りを捧げても気づかないことでしょう。

私が「人間主義」の彼らより価値が高いわけではありません。それゆえにも誠に残念なことです。

ですが、そもそもご利益は実証ができません。だからこそ「信仰」が求められるので、どれほど立派な人物がご利益を請け負っても、また聖書を解釈しても、その通りになるかどうかは保証されません。宗教家の言った通りにならなかったとしても、その結果に彼らが責任を負えるわけもないのですから、最初から「信仰」とは完全に自己責任である以外の何物でもありません。そこに保険もないのです。

それでも神はこれを放置されず、聖霊が降るとき、実相が明らかにされるでしょうし、人間の教理を教えてきたキリスト教組織のすべては聖霊が再び現れる将来に光明を失うことでしょう。神が自ら、聖霊という超自然の印によって介入されるからで、これはどんな人間にもできない証しです。
『「この民は、口でわたしに近づき唇でわたしを敬うが心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを畏れ敬うとしてもそれは人間の戒めを覚え込んだからだ。
それゆえ、見よ、わたしは再び驚くべき業を重ねてこの民を驚かす。賢者の知恵は滅び聡明な者の分別は隠される。」』(イザヤ29:13-14)

しかし、その時が訪れても「人間主義」の欲の信仰に慣れてしまった人々が、神中心の思考に即応できるか、といえば、事はそう簡単ではありません。その人の性質を根本的に変えるほどのものですし

それが、キリスト教、また様々なご利益信仰の人々の罠となりませんように・・・
しかし、人は何かの教えを受け入れるときに
その教えが自分の行動や思いをどう変えるのか、それが良心や自然な感覚や倫理観からしてどういうことになるのかを慎重に考えるべきでしょうし、そうすることをキリスト・イエスは『実によって見分ける』よう言われたように思えるのです。教えを受け入れるか否かは本来、その人だけが出来る決定なのですし。

ともあれ、僅かとはいえ、最近は価値観を共有できる仲間を何人か得られ、ご利益信仰の人々ばかりではないことを身近に感じられるようになったことは、収穫であり、この発言の輪が広がることを切に祈ります。


PS:
ですが

同じ教理を理解し、納得し、それに信仰を持った人であれば、自分と同じ信仰持った仲間と看做すのが一般的でしょう。
そこでは、数式を解くようにして頭で理解される教理と、その受け容れで「信仰」が成り立ってしまいます。
しかし思うに、「信仰」とは同じ教理を受け容れ信じることだけで、その人が必ずしも自分と同じ信仰者と見做すのはどうかと思えます。
つまり、神へと向かう動機まではなかなか分からないからで、その人が常に正直に自らの信仰した動機を語るとも言えません。

その人が他の信仰者に溢れるような善意を抱いていてさえ、その内奥の動機が何であるか、それが真に利他的なものか、あるいは利己的なものであるのか。
アナニアとサッピラもイエスを受け容れ信仰したのでしょう。ですが、彼らの名誉欲のような利己的動機は寄付の不正によって露見するところとなりました。彼らの心は神に向かっていたわけでなく、自分たちの評判が第一であったのでしょう。
このように不純な信仰者は必ず聖霊によって除かれると聖書にあるわけでもなく、また、地上のどこにも聖霊の無い今日であれば、それはますます期待できるところでありません。貪欲や誤解など、どこにでも転がっているものだからです。

それで、同じ教理を信じた人々は同じ宗派に属する者とはいえ、その人が「自分の腹を神と」しているか否かは別の問題であり、却って、別の教理を信奉している揶揄もされている宗派の中に利他的精神を持って神に帰依している人々が居ることを考えなくては人間そのものを評価できません。

つまり、教理への信仰は、その人の神が何であるかを保証するものとは言えないのです。

このような見方は、同じ宗派に属する仲間に疑念の目を向けることになる、という危惧を感じさせるかも知れませんが。同時にこれは、宗派への所属によって人を評価せず、独善的優越感を避けることを可能にするものでもあります。
これは終末の審判で裁かれるところで、人はその地位や善悪でさえもなく、また思想信条や宗派によってでもなく、内奥の動機によって分けられるものと思えてなりません。

しかし、たいていどこの宗派でも、同じ教理を理解させることが信者の獲得であるとされていないでしょうか。
動機までもを互いを裁けない人間にはそうするより以外に無いのでしょう。
それでも教理という理屈を頭で理解することが、そのまま「信仰する」ことになるのでしょうか?
おそらくは違うことでしょう。

もしそうなら、正しい教理を理解した段階で、その人は「救われた」も同然でしょう。
多くの教会で、バプテスマを受ければ「救われる」と教えてしまっているように、本来は神との契約にあったユダヤ人に語られた言葉をそのまま誰にでも適用してしまっている背景にはこれがあることでしょう。

それでは、キリストが世を裁くときに、その人々はまるで新しい契約に聖霊によって預かった「聖徒」でもあるかのように、既に贖罪されてしまっていて、裁きから除外されているかのような誤解を与えることになります。所謂「クリスチャン」がお高く留まっているのはこのせいです。まあ、現代のパリサイ人ですね。

信仰とは、教理を理解することではなく、神を支持するか否かの倫理的決定であるべきで、それは他の人からはっきりと分かるものではありませんし、裁くことも大変に難しいものでしょう。いや、真の裁きなど人を超えたことです。

もし、これを「信仰への裁き」と呼んでよいなら、それは終末の選り分けを意味するように思えます。
つまり、キリストの前に左右に分けられるという裁きです。その人の内奥にあるものがそこで白日の下に曝されるのでしょう。

ですが、ある程度、その人の傾向というものが繰り返される言動を通して見えるようなところもあるものです。
その人に親身に接しているなら、忠告することもよいでしょう。

ですが、却って反発が強そうであったり、その後の関係に支障が出そうなら、その人に対しての忠告が要らぬ刺激になることないように、できるなら個人的に近付かないで済むよう取り計らう必要が生じてしまうこともあるでしょう。これはひとつの倫理判断であり、後に本人に恨まれることの無いようどうするか決める必要があります。

あちこちの教会でも、信者の不行跡に悩まされていることも多いそうですが、与えられるべき訓戒は相応しい立場にある人物から是非とも為されるべきでしょう。

しかしここで問題にしているのは、模範的に見えながら、その動機が利己的であったり、神への敬意に欠けていたり、優越感を抱いて人を見下したりしている人々への対処です。

そこで忠告されて気付けばまだしも、本人ですら何が問題であるのかが見えておらず、悪気無く、指摘されてもそれを的外れな意見であると思うかも知れません。(本当に優れた忠告は得てしてそう思えるものです)
さらに難しいのは、聖人君子を自認する人々はプライドも高い分、謙虚さが差し引かれがち、というより、ほとんどがそうなのです。
ですから「罪多き者、多くを愛す」とはまったく真相を突いたことばです。

加えて、ご本人が若くて人生経験が少ない為に、他者への共感や配慮ができなかったり、何かを深く畏敬するということができなかったりもするでしょう。(これは親の世代が不甲斐なく、甘やかしたからとも言うべきでしょう)

このような場合は、年長者が模範を示し、若い者たちが敬意をもって学ぶ雰囲気を醸成する必要があるでしょう。
この点、年長者の必要は大きなもので、その人としての円熟性はまことに貴重です。

こうして、「信仰する」ということが単なる知識の詰め込みではなく、「愛の掟」の実践を含めた多様な「生き方」つまり、言行の方向性であることが全体で示されるべきなのでしょう。

やはり「信仰」とは、自らがどのような動機で神と人に向き合うかと云うことであり、単に教理を信じることでは無い、と云って良いように思えますし、平伏すほどに従順であれば良いかと言えば、むしろ逆であるのかも知れません。神が最終的に動機を、本心を問われることになるでしょう。

信仰する人は、自分の学んだ教理を声高に主張したいことでしょう。
それが正しいことであるとして、他の人々に押し付け、自分を高めもするでしょう。
しかし、それは信仰とはいえません。

それもまた、自分の欲に他ならず、しかも貪欲であって、自分の腹を神にしています。
実際以上に事を歪めるからです。

人は皆、倫理や正義に於いて、突き詰めず、幾らか曖昧である必要があります。
なぜなら、自分自身が倫理や正義に於いて不完全だからです。
そこで、他者を受け容れる余地がなくてはならず、それは既に神はそのようにされている通りです。

もし、倫理や正義を突き詰めるなら、それは他者ばかりか自らをも損なうことになるでしょう。
自分の倫理的に不完全な実相を正しく見つめていないからです。
いったい、誰の益になるのでしょう。











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