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史上出生総数と地球の容量ですが

2013.05.25 (Sat)
千年紀が終わって、諸世紀の人々の全員が復活するときに地球がパンクするのでは?という質問は、よく為されるものですので、これを押さえておくことは宣教上でも重要でしょう。

イエスが地上に来られた頃の人類の総数は3億ほどであったと推定されているそうです。
人類の総数が10億に達したのはやっと19世紀のことだそうで、1965年には33億で、子供心にこの数字を覚えた記憶があります。

⇒http://www.ipss.go.jp/syoushika/tohkei/Data/Popular2005/01-08.htm

それは今日70億を超えているというのは、まさに狂乱のような増加です。
ある人々が、世界人口が多すぎると主張するのには、この増加率の高さに対する恐怖が伴ってのことでしょう。

しかし、世界の食料事情は気象変動の激しいこの時代でも余裕があります。
⇒http://www.hungerfree.net/hunger/food_world.html

飢餓人口が8億にも達する理由の大半は、人間の「貪欲」のせいとされています。これが「この世」の実相なのでしょう。(投機が常に貪欲という訳ではありませんが、やはり投機の大半は貪欲が動かしていることも事実でしょう)

むしろ、世界は現在の二倍以上の人口を養うほどの食料を生産していると云われます。


一方で、七十億人といえども、ニューヨーク市並みの人口密度で全員を収容すると、日本の二倍程度の広さで収まるそうです。


1970年代の統計では、有史以来の生きた人の総数を160億人と推定していましたが、これを更に原生人類の時代まで遡及した数字では1000億とも云われ、この辺りは想像の域を出ないようです。

聖書では人類史は一万年を越える長さを持っておりません。
そこで1000億まで考える必要はないでしょう。


仮に160億人としても、千年紀に入り、『荒野と水のない地域とは歓喜し,砂漠平原は喜びに満ち,サフランのように花を咲かせる』のであれば(Isa35)サハラや中国西域、オーストラリアなどの広大な土地が産出的になり、気象変動の影響が無くなれば、十分過ぎるほどの食料が確保でき、まだまだスペースもあることでしょう。

これに加えて考慮すべきは、70億という人が現在に生きており、そこに終末の裁きが臨んで裁かれる人には復活は無いことでしょう。
それは神の最高度の倫理が関わることで、どれほどの数になるのか分かりませんが『滅びに至る道は広く、そこを通ってゆく者は多い』というキリストの言葉が、その実態を示唆しているように思います。

そうなると千年紀の人口より諸世紀の復活者の数が少ないことは考えられませんし
黙示録では、千年紀の後に復活してくる人々の内の『愛された都市』を攻撃する人々は『海の砂のようである』というからには、終末の裁きを通過して千年紀の新しい社会を築く人々より、これら一般の復活者の方がよほど多いことを指しているのでしょう。

それゆえにも、千年紀に入った人々が、その千年を活用して全地を楽園のようにし、復活者のすべてを受け入れられるような輝かしい地球の姿を取り戻すべく働くいわれもあるのではないかと思えます。


神だけがキリストの裁きの時を知っておられ、その時が至れば『汝の敵の只中で征服を為せ!』と命じられます。
その時は秘儀であって、使徒たちもイエスから『その時についてあなたがたの預かるところではない』と言われておりますが、それは人口と裁きの関わる神だけの判断できるところなのかも知れません。


簡単に言えば;
地球は現代人が危惧するほど小さくはなく
史上の出生総数は想像するほどは多くなく
神は裁きの時を選ばれる
ということになるでしょう。


さて、人口と時代の長さの関わりにつきましては
神が、人類のサタンの道を行くことをかくも長く許された背景には、「その神から独立の道が誤りであり、人類は自らを治められないことを誰の目にも実証させるために、様々な支配体制を試させた」という解説は、まったく的外れのように思えます。

なぜなら、人間に「罪」あるがゆえに御子を今から二千年前に犠牲とされたのですから、遅くともそれまでに結論は出ていなければ、「偉大なる王」メシアの預言も、『この世の支配者は裁かれた』の言葉も無意味になります。
しかも、それは至高の犠牲の上に成り立つものですから、その「支配体制の実証」云々は自己撞着を起こしており、初めから破綻した道理を言わざるを得ません。

人類が選挙をするような消去法で『神の王国』を迎えるとしたら、それは何と消極的な神の支配の迎え方となることでしょうか。
それが信仰の歓喜のうちに棕櫚の葉を以ってメシアを迎えることであるとは到底思えません。この世の悪も残虐性も充分に明らかであり、聖書中で既に裁かれているのです。

むしろ神は、母親の胎内にあるダヴィデをご覧になったように、あるいは聖徒を世の礎が置かれた日以来予期していたように、地を満たすべき人数を計っているのではないでしょうか。また、そこには「裁き」という極めて重い魂の生殺与奪の権限が関わりますので、これは単純に「時」という問題にならないように思います。

神がメシアを戴冠させるその時にも、また、何時が「終末」になるかについても、そこに関わるのは、どれくらいの人々が地を受け継ぐかという、創造者以外の関われない重い倫理的決定があるのではないかと思われるのです。
即ち、現れを待たれる『魂』がまだあって、創造の完了はまだ先なのかも知れません。創造神は世界をどう創られるかを把握して当然とも言えるように思えます。

もちろん、個々の人々に対して神は予知力を制限し、「裁き」での各人の選択を見守るのでしょう。
しかし、野放図に地球の人口が多過ぎたり、少な過ぎたりはさせないように思えます。
『すべての魂はわたしのもの』と言われる創造神は、『罪を犯す魂』を除くのであれば、その全容は把握されているのではないでしょうか。(エゼキエル18:4)

この思考方法からすると、『地に満てよ』という御意志が、ある意味で終末には成し遂げられることを指しているのでしょう。これが大まかな「何故、神は斯くも長い時代に悪苦の道を行くことを人間社会に許したか」ということの解答のように思えます。

現代では、「人類は多すぎる」と唱えられる程になって参りました。
それにも関わらず、未だ終局に至らないということは、『裁きが微睡んでいるのではなく』「裁き」で去ってゆく魂の数が相応に多いという恐ろしい意味をもっているのかも知れません。










2013.1.28改
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