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ルカ23章43節 今日共にパラダイスに?

2013.04.13 (Sat)
ルカ23:43の翻訳文には注意が必要です。
一般的な日本語訳聖書は以下のようになっています。

『イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」』(新改訳)

『するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。』(新共同訳)

『イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。』(口語訳)

いずれも、罪人は「今日」という同じ日に「パラダイスに居る」と訳されています。
これを以て、諸教会では人は亡くなるとすぐに天国にゆくという教えも説かれるようですし、この罪人はその日にパラダイスに移されたともされるようです・・それはイエスと共に処刑されながらも自らの歩みを悔いた罪人がキリストと死を共にするに際し、示した信仰によってキリストの天国への道を共にしたという、ヒューマニティー溢れる感動的場面として描かれることを望んで、こうした翻訳がほとんどなのでしょう。あちこちの教会では、死後には信徒は「すぐに天国行く」の教えがあってこそ、上記のように訳されているとも言えそうです。


そこでギリシア語文を確認しますと
καὶ εἶπεν αὐτῷ・ Ἀμήν σοι λέγω, σήμερον μετ' ἐμοῦ ἔσῃ ἐν τῷ παραδείσῳ. (NA28)

上の本文には句読点が挿入されていますが、最初期のパピルス写本は以下のように句読点も隙間もなく、ただギリシア文字で単語が並ぶだけのものです。(拡大できます)
BookRev



やがて第四世紀までの充分に入手できる写本では、どれも例外なく大文字が隙間なく並ぶ聖書大文字体の写本となります(アンシャル体写本)。
Uncial B

この時代の写本によれば、この節はこんな風に記されていたでしょう。
ΚΑΙΕΙΠΕΝΑΥΤΩΑΜΗΝΣΟΙΛΕΓΩΣΗΜΕΡΟΝΜΕΤΕΜΟΥΕΣΗΕΝΤΟΩΠΑΡΑΔΕΙΣΩ

したがって、上記最初に記載したギリシア語文は本文に句読点やアクセント記号などを付けて補ったものです。
「今日」という[σήμερον](セーメロン)の前に句読点が打たれていますが、これらは古い時代のアンシャル体写本以前に存在していたわけではありません。

文末スペースや句読点は後の時代にカーシヴ体(筆記用小文字)写本にやっと現れるもので、以下の写本はカーシヴ体筆写に移行した第六世紀のものとされています。
6c_Cursive


そしてこちらは時代が降り第10世紀の抄本で、単語間のスペースと共にはっきりと句読点が現れ、読みやすくなってきました。
10c_Cursive
今日の再構成された本文はこれ以後のフォント・スタイルに拠りますが、それは研究するものにとっても大いに便宜があります。しかし、句読点などの解釈に関わる問題は、常に意識し慎重である必要があります。第九世紀から第十一世紀にかけて、多くの写本がカーシヴ体に書き直されると同時に大量のアンシャル体写本がギリシア本土を中心に破棄されたと言われます。

ですが、読みやすさを得たと同時に失われたものにも注意を向ける必要が生じます。
つまり、本来意図された区切りがどこにあるのかは当時のカーシヴ体筆記者の裁量に拠っていましたので、以後の聖書に現れる区切り方と、著者が本来意図した区切りが異なることはこの部分に限らず起こり得ることで、場所によっては聖書全体の解釈に影響するものとなることを注意しなければなりません。


もし当該聖句で、「今日」(セーメロン)の前に句読点がなく、言葉の切れ目がその後にあったとすると、この文章の意味は次のように変わります。
『イエスは彼に言われた。「まことに、きょうあなたに告げます。あなたはわたしとともにパラダイスにいる*ことでしょう。」』(いる「エセー」未来形動詞)

こうすると、罪人はその日にではなく、後のいつの日にか、共にパラダイスに居るという意味になります。
その「とき」は『あなたがご自分の王国にお入りになる』「とき」を指して、この男は述べていたのでしょう。
つまりこの男は、共に磔刑に処せられているイエスではあっても、何時の日にか必ずイスラエルの王となることを信じるということにおいて死に臨んで信仰を見事に表し、それをイエスは是認され、上記の言葉を発するに至ったことになります。

しかし、イエスの言葉は、その成就のタイミングを外し、「王国」(バシレイア)とは言われず、めったに語られなかった「パラダイス」を用いて答えられます。
では、主の意図は、その当日に『「共にパラダイスに居る」』ということだったのでしょうか?



ここで、もうひとつの考慮すべき点
イエスはこの日に亡くなり、翌日は祭りの「大安息日」であり、それに相応しく遺体は丸一日墓に安置されています。
三日間*に亘りイエスの遺体が地に置かれることはヨナの例えをイエスが用いられたことにも示されており(Mt12:40)*<約37時間、足掛け三日>

50日後、使徒ペテロは集まって来た群衆に、ダヴィドの詩篇16編を引用して『 あなたは私の魂をハデスに捨てて置かず、あなたの聖なる者が朽ち果てるのをお許しにならないからである。』Act2:27
また『それで後のことを予見して、キリストの復活について、『彼はハデスに捨てて置かれず、その肉の朽ち果てるのを見ることはない』と語ったのです。』Act2:31 と語り、イエスの魂が墓(ハデース)に在ったことを述べています。
イエスがその日のうちに埋葬された「そこ」が、もし「パラダイス」であれば魂を『捨て置かれる』(エグカタレイプセイス[ἐγκαταλείψεις]「放棄する、まったく見捨てる」)ようなところとは描写されなかったことでしょう。

やはり、上記ルカ23:43の句を、その日のうちに罪人とイエスがパラダイスに居たように訳すと、さらに大きな越え難い矛盾が生じてしまいます。なぜならキリストが墓(ハデース)から出たのは、間に無酵母パンの祭りの初日でもある大安息日を挟んで、死後三日目の日曜早朝であったことは余りにも明らかだからです。(Luk24:1/Mt28:1.4)
信者の女たちは日曜日の明け方に墓に行ってキリストの遺体が無いのを見ており、祭司長派の傭兵たちが天使の現れに怯えていたのは、その幾らか前の時間であって、やはり埋葬の日でも大安息日でもなかったのです。それからその日に使徒ヨハネは墓の中を覗いて遺体に巻かれていた布が有るのを見て、復活を信じたと福音書に書いています。

キリストの冥府降りとされてしまっている1pet3:19の「囚われの霊たち」についての重要な意義「断罪」については以前お話しました通りですが、仮にそれが本当に黄泉に行ったことを意味するにしても、その聖句はキリストが「霊において生かされた」後の復活後(ニサン16日以降)のことであることをペテロがその前の節で明らかにしているのです。



そして、ギリシア語本文に上記のような位置に空白や句読点を設けない訳出をした翻訳も五世紀頃から存在しているとのことですが、近代の例としては、以下のロザハムの訳が挙げられます。
And he said unto him—Verily, I say unto thee this day: With me, shalt thou be in Paradise.(EBR[Rotherham Emphasized Bible])

このような翻訳聖書が僅かである理由と云えば、「人気がないから」でしょう。
悔いたなら、罪深い者もすぐに天国行きが確定するという教えが有難いからです。
ですが、それはキリスト教の奥深く優れた意図を、大衆迎合の浅薄なご利益信仰にしてしまうことになります。

また、本文にありますパラデイソーイ[παραδείσῳ]は、訳せば「楽園」であって、ギリシア語でありますから、元々の語に「エデン」の概念は「読み込まない」限りは本来ありません。それでも、ヘブライ人同士のギリシア語でない会話であったことを考慮すると、「エデンの園」を含意したと見ることは不当とは言えないでしょう。
しかし、ここでキリスト教会がエデンと結びつけようとする背後には、ヘブライ語の影響を装いつつも、後代の「天国」という異教の教理を前提としたことの影響を見る思いがしないでもありません。

つまりこの罪人は、イエスと共に天国のパラダイスに上げられたという観方です。ですが、これも以下に見るように聖書全体から判断すると、あまりにも単純で理解不足と言うほかありません。
キリストの遺体が足掛け三日の間、墓に在ってから復活したのであれば、『今日』という事になりませんし、それとも三日後に罪人は一緒に復活したのでしょうか。キリストは『死者の中からの初子』と言われますが、聖徒でもないこの男も一緒に復活したのでしょうか?(Co1:18)
またルカによれば、キリストの昇天はイッヤール25日(木)であったことになり、それまでの間、例の罪人はどこにいたことになるのでしょう。そこでもはや、刑死当日の昇天を主張することは、たいへんな混乱を招く以外にありません。

また、この罪人については単に千年王国の支配する地に復活するということにもなりません。
この場面で、共に磔にされたこの罪人が、イエスをメシアと認め、その『王国に入る』ことに信仰を言い表した言葉に対して、イエスの答えは幾らかかみ合っていません。あれほど『神の王国』を語り続けていたイエスにしては異例なことです。つまり男が「王国」と述べたのに対してイエスは「パラダイス」で返しているのです。これは単に「王国」または「天国」や「パラダイス」が同じことを意味したからでしょうか? そうであれば、その罪人が語ったままに「王国」と返す方が本人の信仰をよほど強めたと云えるでしょう。

この信仰を示した罪人はユダヤ人であったのでしょうから、メシアと云えば、「ダヴィドのようなイスラエルの王となるべき方」との思いを懐いて『あなたがご自分の王国にお入りになるときには・・』と述べていたことでしょう。驢馬に乗ったエルサレムへの入場を知っていたなら、ますますそう思っていたでしょう。
しかし、イエスの回答には、その罪人の意識とは幾分か異なったものであることが、その『パラダイス』の語に込められていたことになります。

そこでイエスの答えの意味ですが、磔刑上にある『今日』というそのときに、今はこうして共に磔となっているのではあるが、将来、イエスは天で千年王国の後の贖罪を成し遂げた状態のときに、男が千年続く王国の終わった地に復活して「共に楽園(王国ではなく)に入る」という意味で、王国に入らずとも、この男の信仰への是認を示す象徴として『キリストと共に彼がパラダイスに居る』かのような状態に入ることを述べられたと理解するとイエスの語られた他の言葉と整合してまいります。(黙示録20:4-5)

そう理解すると、第二世紀の小アジア出身の初期教父エイレナイオスの理解にも沿うものとなります。彼の主張では大多数の一般の人々の復活は千年王国の終りを待たねばなりません。これはヨハネ黙示録の『(聖徒ではない)ほかの死者らは千年が終わるまで復活しなかった』という記述に一致し、しかも、使徒ヨハネの教えを継承するこのエイレナイオスは、「死後、人が直ちにどこかに行くと言う者は異端である」とも述べます。これは第四世紀以降のカトリックからすれば、却っていぶかしく感じられることでしょう。「復活」

さて極悪人とはいえ、最期の苦痛の中からのこの男の願いの真摯さにイエスは応えられます。そこでは「今日という日に、わたしは確かに言う・・」という誓約のようなニュアンスが読み取ることができるのです。

こうして死に瀕して信仰をもった彼の後の処遇が確約されました。それは是認の下に置かれた復活の確約なのでしょうから、この男は荒れた人生の死に際に至って、ただイエスをメシアと見做した「信仰」の最期の一事をもって、バプテスマも無しに真に得難い幸福をメシアから直に受けたと云えましょう。

この罪人であった男も、この処刑で間違いなく死を経ましたので、その死を以ってアダム由来の「罪」の報いは受けたことになります。(Rom6:7.23)
したがって、彼が復活を受けて次に地上に再び現れるときには、生前の「罪」からは解かれているに違いなく、その地上は千年王国の結果としての「パラダイス」とされていることでしょう。

この男には「神の王国」の希望が語られていませんが、この日は五旬節前で「聖霊」は未だありませんでしたから(Joh7:39)、死にゆく男は『聖なる者』(ハギオス)とはけっしてならないので、その希望は『天』とはされず、地の『パラダイス』、つまり、その死によって罪の酬いを受け、キリストの犠牲が適用された完全な創造物となって千年王国の後の地上のパラダイスに復活してくることが語られているのです。(Rom6:23/Rev20:5)

しかし、こうしてキリストは、死の苦しみに際してさえ、心から信ずるユダヤ人の信徒(ピストス)を得たとみることができます。その男はこう言っていたからです『イエスよ、あなたの王国に入られる時には、わたしを思い出してください』。
ですが、この男がキリストの王国に入ることは、天にも地にもありませんので、イエスも「共に王国にいる」と言われる理由がありません。

彼はユダヤ人であったのでしょうけれども、聖霊に与るには52日死が早く来てしましましたので、「新しい契約」に属する真のイスラエルに数えられることはありませんでした。しかし、彼を通して血統上の当時のイスラエルにも「天の王国」ではなく「地を受け継ぐ」という希望が開かれていることが知らされています。これは今日メシアニックジュウである人々の信ずべき方向を教えるものともなっているでしょう。

一方で、聖書はほとんどが「契約の子ら」、また敷衍して地の「初穂」として第一の犠牲の贖いに浴し、天に集められる「聖徒」に向けて書かれたものですから、ソロモンの献堂の祈り(2Chr6:32-33)のように「契約の外に居る人々」に語られた言葉はまことに貴重であるだけでなく、イエスが苦しみの中からもそれらの人々に善意を以って語られたことは、聖霊を持たずに死んだすべての人にとって、その希望が「神の王国」ではなくとも「パラダイス」であることを再確認できますので、まずは感謝すべきことです。それは即ち人々の「エデンへの回帰」であり、復活を通して創造されたままの「神の子」への復帰を意味します。(Joh1:12/17:20)


さて、今日までに、キリスト教界は「天国と地獄」の概念を異教から取り入れてしまったので、聖書のさまざまな箇所で解釈を複雑なものにせざるを得なくなってしまいました。 「パラダイス」=「天国」としてしまうのはいかにも簡単ですが、そうすると、却ってイエスの他の言葉や聖書全体の説明に窮することになります。つまり、聖書の本来伝える内容からずれているからです。

元々ヘブライ人は死後の世界観を持たず、復活が死の次の段階であるという理解が、ベタニヤ村のマルタの発言によっても、当時ユダヤの一般民衆の中に保たれていたことが分かります。(Joh11:24)
そこではラザロの冥府降りも霊魂の行き先も語られていません。それらは異教徒の専ら語るところです。

ラザロは伝道の書9章5.6節の述べる通りに、キリストの奇跡によって生き返るまで死んで無意識であったとみるべきでしょう。その聖句は死についてのヘブライ古来の見方を教えています。
『生きている者は自分が死ぬことを知っているが、死んだ者は何も知らない。彼らにはもはや何の報いもなく、彼らの呼び名も忘れられる。
彼らの愛も憎しみも、ねたみもすでに消えうせ、日の下で行われるすべての事において、彼らには、もはや永遠に(定めないほど長く)受ける分はない。』

このように死者には意識なく、象徴表現として「眠りにつく」とするところは(Joh11:11)、第二世紀のキリスト教徒の理解も同様です。(H,E.v:24)死んでも意識を持ち続けるという教えは、死人を装う悪霊のものではあってもヘブライでも聖書のものでもありません。(Gen3:4)



『神の王国』が「天国」ではない以上、人類一般の復活とは、地上への人間としての復活であり、この人々が復活するときに、地上は現在と異なり、キリストたちの治める千年の『神の王国』が終わって神の御意志が地に行き渡るため、楽園となっていることを表題の句(ルカ23:43)は述べていることでしょう。この理解はエイレナイオスを通し、使徒ヨハネの薫陶を受けた小アジア系の原始キリスト教徒のものであったことが、キリスト教界に在って有名ではないにせよ今日にまで伝えられております。(A,H.v)

ですから、人は亡くなると意識も何もなくなりますが、マルタも言ったように『終わりの日に復活する』ことを待つことになります。それはあらゆる魂(ネフェシュ)を所有なさる創造神がキリストの犠牲をもって為し得る復活(アナスタシス)という偉大な奇跡の業であって、人々には寿命も老化も無いという、本来的に創造において意図された通りの人間の姿を与えられることになるでしょう。

もちろん、一般の人々の復活には裁きが控えているので、パウロも『人は一度死んで、それから裁きを受ける』と述べる通り、千年期後に復活する人々も、やはりイエスの傍らの罪人も「エデンの問い」には答えなくてはなりません。(Heb9:27)
ですから、そのときに復活を受ける人々は、アダムのような意味で完全であるには違いないのです。あとは愛によって生きようとするか、利己心から罪に向かうかという選択となるでしょう。求められるのは知識ではなく、愛という心の意向でなくては裁きの意味もありません。

この点で、死に臨みイエスの右で信仰を示した罪人は命への選択をして、キリストに迎えられたということなのでしょう。一方で左側の罪人はそうしませんでした。これは、人間というものの『罪』を巡るふたつの選択を端的に示す劇的な例えとなったといえるでしょう。なぜなら、人は皆が『罪人』だからです。そこで、キリスト・イエスは『罪』がないにも関わらず『罪人の一人として数えられ』贖いの死を遂げられることで、右側の罪人に赦しを与え、永生への道を供えられました。

ですから、人は誰であれ自分の罪深さを悔い、キリストに生きる希望を託すべきで、パリサイ人のように善人を演じたところで、主の右側の罪人のようになれるわけではないのです。「自分は善人として振る舞ったのだから神に是認される」と思うのは、犠牲となられたキリストの犠牲を侮るに等しいことではありませんか。その人は『一万タラント』を払えると言っているからです。ですが、様々な規制を設けては、実質的にパリサイ派のように教えるキリスト教の宗派がたいへん多いのが実情です。(ローマ4:4-5/マタイ18:24-27)

そこで、ただ救われたいだけの人々が「天国と地獄」の教え、また「救いと滅び」を利己的に受け入れてしまい、『人はあらゆる罪や冒涜も許される』と言われるキリストの発言を無視して、あらぬ「キリスト教」に邁進してきました。つまり、「ご利益信仰」です。(マタイ12:31)

ですが21世紀の今日、キリスト教徒は誰でもが、矛盾している上に異教的な「天国と地獄」の誤謬を去ってこの明解な希望に達し、キリスト教に染み着いたヨーロッパ中世のかび臭い蒙昧を拭い去り、輝かしい「地への復活」という、原始キリスト教を通じたシンプルで輝かしい人間の死に対するキリストの勝利の希望を自らのものとすることができるのです。(Gen18:18)




「新約聖書ヘブライ語原典説という退屈」

復活
命に勝る魂
原始キリスト教   



                                      .
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聖書という本を信仰しているのか

2013.04.09 (Tue)



キリスト教にせよ他の宗教にせよ、様々な「教え」なり「経典」なりを信仰する人々はさぞや多いことでしょう。

ですが、神を信じる者にとって、教理そのものが信仰の対象となってよいでしょうか。
まして「解釈」の神聖視などは、神も人も区別がつかないという崇敬の対象の混濁でしょう。
キリスト教の場合に、どのようにして教理が不動の崇敬の座を占めるのか、その原因のひとつには「聖書崇拝」のようなものがあるように思えてなりません。

つまり聖書を絶対視し過ぎて、神の意志を翳ませるようなことと言えるでしょうか。
もちろん、その書かれた内容が聖霊の所産ではないと云うつもりはありません。

ですが、書かれた物が著者を超えて絶対視されるとすれば、これも本末転倒とはならないものでしょうか。
逐語霊感説と呼ばれるような聖書の見方は、例えれば新約聖書の原典が存在せず、「写本の数だけ原典がある」と言われるほどの実状を無視しなければ成立しないことでしょう。

まして翻訳された特定の聖書を恰もまったく信頼できるもののように称賛し、他の翻訳をまるで信頼に値せず、忌避すべき悪書のように言い切る「クリスチャン」と称する人々が、ネット上とは云え幅を利かせている現状には嘆息を禁じ得ません。

また、聖書を絶対化することにも無理があります。
ユダヤ人が警護し、新約よりは余程安定的な旧約聖書にしても、今日の形に仕上げられる過程は詳らかではありません。その解釈をめぐってセプチュアギンタを始め、周辺の書物を参考にしなければならないところは新約と幾らも変わりません。 また、中世からユダヤ人学者がユダヤ人自身による古代の書替えの危険を指摘する箇所さえあります。⇒ ハ ティクネ

何が何でも六十六冊だけが霊感された神の言葉で、これだけを信仰の拠り所とし、他はすべて「魔書」のように唱えることに正義感をすら抱いている人々の信仰とはどのようなものなのでしょうか。
その動機には、自分の行いを神への宥めとして捧げることで神の前に自分を義としたい欲求があってのことでしょう。しかし、これはパリサイ人の精紳と同じではないのでしょうか?
もし、そうなら、どうしても聖書の言葉を絶対化しないではいられず、その先には偶像化も避けられないでしょう。「この通りにしていれば正しい」という規準にしたいからです。

しかし聖書はそのようなものではありません。自分が義でありたいために、神への絶対的従順を表すことを願望するので、絶対的な命令が欲しくなり、そうして「聖書は神の言葉だ」という概念が「絶対不動な真理」に置き換えられてしまうのです。
そこでは、キリストが現れたときのユダヤの宗教家と同じ轍を踏み、聖書を絶対化した為に、却って神意と反対にイエスを処刑する方向に進んだ教訓が見えなくなるでしょう。
その点で、聖書はその種の傲慢な義への欲望を断罪するところが備わってさえいるといえます。「聖書に厳密に従っているから自分は正しい」と言うことを、神は『罪人』である只の人にけっして許さないでしょう。そのような人は、自分に贖罪は必要ないと言っていることになるのですから。バプテスマが贖罪をもたらすなどと思うのでしょうか?

そこで聖書に向き合うには、探求者が硬直的な一字一句の絶対視という云わば「安直さ」を離れて、実際の古代資料に即しながら「言葉を究め」てゆく姿勢がどうしても求められるように思います。それが聖書を過小評価することになるとは到底思えません。精査されることによって、やはり聖書が霊感された書であることがより明らかとなるからです。
そこでは、絶えざる学習と研鑽、またリテラシーが求められ、そこに神の言葉と自らの良識や価値観との対話のようなものが求められますが、これこそが「信仰に於いて成長する」ということではないのでしょうか。そこで神との人格的接触が生まれるからです。(2Th1:3)

もちろん、これはチュービンゲン学派のようにザッハリヒな不信仰を前提とするような「高等批評」の揚げ足取りに目的を置く研究とは百八十度異なります。

しかし、聖書そのものへの畏敬を保つためにと、まるで自分の理性や判断力を敢えて用いないと云うようなところで、聖書を偶像化する態度が見られるように思えてなりません。それを推進しているのはおそらく安直さなのでしょう。

そんなことまで求められたら、仕事に差し支える、或いは、自分にはできないと・・
また、「聖書を読むと分からなくなる」という教会員の発言は、教会の教えの不備や怠慢と、信徒の無頓着との相互作用を見る思いが致します。この聖書理解の諦めは、聖書の絶対視とは一見正反対のようでいて、「安直さ」という観点から見ると双方共に延長線上に在るようです。

キリスト教徒を自認する人々が、同時に神を否認する者となり兼ねないこと、それは自らの理解で神を決め付けてしまい、それ以上に耳を貸さないようなところで起こりはしないものでしょうか。これはユダヤ体制が行って大失敗を遂げたことの再演でしょう。
イエスがベツレヘム・エフラタから来ず、安息日の作法に従っていないと見たからです。

そこにはまた、「教理への帰依」という事態も起こり易いのでしょう。
キリスト教界の中でも、同じ聖書を持ちながら、異なる宗派がそれぞれに正統を唱えます。
そこで人々は様々なものを絶対視しています。
三位一体、天国と地獄、神の母、宗派の歴史の長さ、宗派の大きさ、建造物、現代に現れたイエス、年代計算、土曜安息、ユダヤ文化、追加された聖典、納得できる教理、救いの確約、楽園での命、神の代理者や経路、カリスマある指導者、信者の道徳性の高さ、音楽や芸術、そして聖書に厳格に従うというものまでも・・

しかし、これらを信徒に強制すべき理由は何でしょうか?教理や他の何かを崇めて神の意志を探らないとすれば、これも偶像崇拝の一形態にならないものでしょうか。これらの何かを絶対のものと見做しているのなら、その人の「神」はそこで決まっているのでしょう。何れもが偏った信仰ではないのでしょうか。神以外のいったい何を絶対の存在にして良いものでしょうか。
ここに、神と人との断絶が見えます。『罪』にある人に対して神は直接に語らず、また、すべてを教えずにいるので、人の側の『罪』がその貪欲に沿ってあぶり出され、多様な解釈によるご利益のために強情に正統を譲らなくなるのでしょう。

また、どれほど聖書や教理が素晴らしいと思えても、そこから神に通じてゆかない事態というものは、そこに固執するという人の態度に原因が現れるようです。それが「神への無関心さ」ではないと言えたものでしょうか。

つまり、聖書の「字面」や何らかの「教理」に非理性的に拘ることそのものが、その人が実際に帰依しているものが実は「神ではない」ということを表すものと成り兼ねません。
ユダヤでの古代、ソフェリーム(書士)やパリシーム(パリサイ)やタナイーム(律法学者)らを思い起こしますと、どれほど聖書に親しみ、どれほど理解や解釈に通じていても、その崇拝する対象が「神ではない」ということが起こり得る実例をそこに見ます。

一方で、特に聖霊を注がれる前の使徒らと言えば、イエスの公生涯の間に随分と思い違いや無理解をしていた様が聖書そのものに明らかです。
彼らであってさえ、常に考えの調整を必要としたのであれば、どうして私たちがパリサイのように頑迷固陋であってよいでしょうか。イエスに従っていたときの使徒らの模範は、師を重んじて、自分の意識や解釈を常に学んで調整しようとして、心をニュートラルにしていたところにあるでしょう。師が去った後に、彼らは聖霊の導きに従ってその道を歩んでいます。

これについてパウロは、詩編95編を引用し『今日、この方の声を聴いたなら、心を頑なにしてはならない』との訓戒をキリスト教徒に対して繰り返しました。
この『心を頑なに』する原因を作ってきたのは、常に人間だったのではありませんか。

(私は、単に教会や宗派を渡り歩くことを奨めるつもりではありません、人はどのような状況にあっても神を求める姿勢であることができ、それがどうしても邪魔されるようなときには環境を変える必要もあるのでしょう)

今日、確かに神は人に語られません。ユダヤ人はとっくの昔から「預言者たちは眠りに就いてしまった」と言います。また、キリスト教徒から聖霊の賜物が失われてから、既に千八百年を経ています。
だからといって、聖書の字面や教理の解釈を神の座に就かせてよいものでしょうか。
むしろ、神を尊重し、言葉の解き明かしを待つべきではないのでしょうか。(ヨブ記の結論


自分が新十四日派を旗揚げする程に確信を得ているかと問いますと、「完全」ということはありません。
それゆえにも「教理控制」を備えております。そして私は知識が限られ、またよく間違えては訂正を繰り返しております。
それでも、「聖霊」や「聖徒」を含む基本的なところは、余程のことが無ければ撤回することは無いように思えます。これを変えるとなれば新十四日派は意味を成さないことでしょう。

これは、「聖霊を待つ」という事の内に、人ではなく神の声を聴こうとする意志を保つものですから、聖霊が降る時、新十四日派の役割は終わり、『新しい名で呼ばれる』という『シオン』に合流することでしょう。自分が神の是認の下にあるなどと思わないからです。『罪』ある人間は、聖霊を受けない限り正しくあり得ません。『神の義』は聖霊による仮贖罪を受けた聖なる者だけが持ち得るからです。

そこで私を動かしているものは「神への感動」という一言に尽きるようです。つまり、価の高い真珠を見つけたような自分の価値観です。それは自分が「沈黙して」はじめて聞こえるものです。
他方で、クリスチャンと称する人々の多くは、「自分の」救いや益に注意が向いているように見えてなりません。
この人たちにとって、自分の受けるものを確保しておきたい感情が、固定された教理を求めさせてはいないでしょうか。その「信仰」の礎は「我欲」なのではありませんか。

この点で、人の信仰にとって何より大切なことは、「完全な教理」を偶像のように信じ続けるというのではなく、イエスも言われるように『求め続け、敲き続ける』という「姿勢」にあると思えてなりません。
なぜなら、人間は不完全なうえ、神の物事は上から知らされる以外無いからです。

人はつい「不動の信仰」のような固定した人間の決めつけた観念を宗教に望み勝ちですが、「神を中心にした信仰」というものを求めるなら、自分の中で凝り固まってしまっては却って神の御旨を見誤ることでしょう。この点で、我々はパリサイという先例から教訓を得てしかるべきではないでしょうか。

むしろ、神を中心にした信仰というものは、使徒や初期の弟子らが経験したように、イエス自身、また聖霊によって導かれるままに「心をニュートラル」にしている必要があることでしょう。イエスが『耳ある者は聴くように』と言われた『耳』には、この柔軟性が含まれるように思えます。

それは常に神の御意志を探っている心の状態であり、基礎的なところはそう動くものではありませんが、絶えざる自己否定もまた必要になってくるものです。

何かの教理を、自らの価値観を基にして「これだ!」と思うのは結構ながら、神に対する柔軟性を失って慢心しては、却って「神への信仰」は得損なうように思えます。 そのような「信仰」とは、神へのものでは無く、単に人間の作り出した、ありがたい御利益ある偶像を絶対視することと何ら変わらないのではないでしょうか。


そう考えますと、今後は、安直なご利益信仰でも不確かな人間の教理に硬直した信仰でもない、「神への信仰」というものを求めるための柔軟な「人の姿勢」というものを、はっきりと伝える必要を強く感じ始めました。
イザヤが執拗なまでに繰り返したように、これが究極的に「偶像崇拝」になるか否かの大きな分かれ目であるようにさえ感じられます。 つまり、偶像礼拝とは利己心から発するのです。

敢えて付け加えるなら
「神への信仰」の要件とは、「神か人か」の「思いの方向」と言えるように思えます。





⇒「聖書に仕掛けられた罠」聖書に厳密に従い邪悪に堕ちる




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