FC2ブログ

「クリスチャンは救われているか」への回答

2013.02.22 (Fri)
裁きは存在するのか

終末の裁きは人々、特にキリスト教徒を恐れさせるものとなってきました。
殊に、天国と地獄の教理が入り込んで後、これは強烈なものとなりましたので、神の不興を買うことで自分の身が地獄に落ちる事への恐れが増す余り、「救い」を自分に確約してくれることを強く欲するようになったことは明白です。
キリスト教会の歴史の中では、中世の暗黒時代、ローマ教皇を頂点とする封建制度の中で、人々は地獄を恐れ、天国を夢見ながら、現世の不公正な為政者らへの隷属を忍耐していたのですが、この傾向は現在も教会の教えの中に残ってしまっています。

そこでは、「裁き」というものの本質を見定めることよりも、恐れから「保身」が先立ってしまい、神を知りその意図するところを探ろうという姿勢は封じられてしまいます。 つまり神の御前にあってさえ、自分に関心を向けているのです。
「裁きを教える宗派はカルト」との発言も、こうした恐れの産物なのでしょう。

この中世的恐怖が現代までも存続した背景には、教会が信者を一人でも多く得ようとするときに、信者になることに何等かの魅力的なメリットを提供しようとする誘惑あって、「天国行き」の切符がごく自然に確保されたことにあるのでしょう。それが「救い」と称されたとしても何の不思議もありません。それでは「教会」というのはJRのみどりの窓口と変わりません。人々は自分自身の益のために教会を必要とすることになります。

そこで使徒2:38などが援用され、それが『聖なる国民』となるよう既に招かれていたユダヤ人に語られた背景を無視して「バプテスマ」=「救われた」とされたであろうことは容易に想像がつきます。(ルカ19:9)

人間は本性から「救われたい」と思うものです。それは間違ったことではありません。
しかし、より大切にされるべきことがあります。(詩篇63:3)

それは神の視点であり、なぜ「裁き」があるのか、というこのことです。これを考えようとすると神の御旨を探る姿勢が必要となり、ともあれ自分が救われたいという願望をひとまず脇に置く心のゆとりが必要になります。
ほとんどの信仰者というものは、自分の命を最重要視して、神の意志を探ろうとはしていません。
つまり、神を探ろうと思うなら、自己保存の欲求という利己心からしばし離れるべきということです。

もし、裁きが必要無いものなら、そもそも人間が救いの必要な状態に陥ることもなかったでしょう。
アダムと同様な選択の機会は、すべての理知ある創造物に対して提供されるべきことが、神が自らの象りを尊重することであり、創造物個々の選択が即ち裁きとなります。(ローマ5:14)

もちろん、エデンと同じように木の実を食べるか否かという同じことにはなりませんが、利己的であるか、また神を尊重するかという問いと試みが避けられないことは、神に似る者に委ねられた自由意志の代償でもあります。
理知ある創造物は、喜んで神を神として高め誉め称えたいと願わないものでしょうか。そう願う者にとって「裁き」は、むしろ神を支持する愛の表明の機会となるものです。

では、人は神の裁きを避けることができるでしょうか。それはできないでしょう。
ヘブル書にはこうあります。
『人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている』(ヘブル9:27)

そこで、ありもしない抜け道が作られて「信じれば救われると書いてある」と唆され、神の裁きに正面から向き合おうとしないのが、ほとんどのキリスト教で、洗礼が裁きを通過する方法にされてしまいます。わたしはひとつとしてそうでないものを見聞きしたことがありません。それは神への支持を表す機会の放棄でもあります。


「救い」とは何か


「救い」とは、総じてアダムからの『罪』を許され、『神の子』に復帰することを指すとしてよいでしょう。(ヨハネ1:12)
現在の人は、今後も『罪』ある限り、神の創造の基準に達することはないので、『命から疎外されて』います。(エペソ4:18)

アダムと子孫が『永遠の命の木』から遠ざけられたのは、神の創造の御旨がいつまでも実現されないでいることの無いよう、寿命が設けられたためでした。「罪ある魂」はいつかは消去されなくてはなりません。(エゼキエル18:4)

こうして人類は、創造の意図から外れ『神の子』ではなくなっています。
世の苦しみも死もこのことの証となっていますので、『救い』とは『神の子』への復帰する事であるとして良いでしょう。


アダムは堕罪以前には『神の子』の状態にあり、イエスは生まれながらに罪なく『神の子』でありました。
ですからイエスが『子があなたがたを自由にするなら、あなたがたは真実に自由になる』と言われたのは、生まれながらに『罪の奴隷』であるアダムの子孫が、奴隷の年季に従って『家に留まらず、去って行く』存在であることから自由にされ、神の子となって留まる者となることを言うのです。(ヨハネ8:34〜36)

イエスによって最初に『神の子』とされたのは、水と聖霊によって生み出された『聖なる者たち』であり、『キリストの兄弟』として父である神に認知されています。(ヘブル2:11〜17)
しかし、この立場は『新しい契約』による仮のものでしたので、新約聖書は再三『救いに至る』『救いを得る』よう『狭い門を通って』努めるべきことを知らせています。
したがって、たとえ聖霊を受けたとしても誰もがそのまま救われる訳ではありません。(マタイ10:38-39)

第三に、これら先に『神の子』とされた『初穂』と呼ばれる人々と、それとは別に、キリストが共に構成する『神の王国』『王なる祭司』を通して『贖罪』されるべきところの、聖霊を持たない無数の人々がいます。
神とその経綸(子と聖霊)に信仰を働かせる彼らは、『千年』の『神の王国』を通して初めて、地上の肉体においても『罪』から浄められて『救われる』ことになります。ここに人類を祝福するという「神の王国」の本来の意義があり、それはアブラハムに約された事柄の完全な成就となります。(創世記22:18)
しかし、千年の前に生ける者の裁きがあり、やはり誰でもがアダムの堕罪前の状態に救われる訳ではありません。(マタイ25:31-32)


さて、お尋ねの件「現状でキリスト者が救われているか否か」ですが


「裁き」の観点

考慮しなければならない要素のひとつに『裁き』があります。
これは、まず終末に定められているもので、キリストの『兄弟たち』にどう接するかを以て裁かれる様がマタイ25:31~にあります。
『兄弟たち』に親切を施すか否かで、右と左に分けられますが、その峻別は処遇の著しい違いとなってゆきます。

この以前に『裁きは神の家から始まり』ます。(ペテロ第一4:17)
ペテロは、彼の時代にその裁きが始まっていることをそこで述べていますが、それは聖霊を受けた聖徒らもその行状の如何によって相応しいか否かが問われていることを警告するものです。これは「聖徒の裁き」であって、この世の人々の裁きではありません。
ペテロ第一の書簡は、「聖徒」らが聖い行状を保つべきことを再三繰りかえし強調しております。

確かにペテロは『これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです』(ペテロ第一1:9)とも語っておりますが、これも『信仰の試練』について述べるものであり、やはり、彼ら聖徒であっても救いが完結したということではありません。(ペテロ第一3:6)

そして、聖霊を受けた聖なる者らは第二世紀の終わり頃までにはまったく姿を消し、次に現れるのは終末となることを福音書や黙示録などは告げております。

当時の彼らの『救い』も『新しい契約』有ってのことであり、契約というものは常に「不確定」なものごとに関して取り結ばれるものです。

ペテロはバプテスマが『今あなた方を救っている』と書いています。(ペテロ第一3:21)
この文脈を見ると、やはり語った相手は聖徒であることは否めません。(ペテロ第一4:2)
また、その救いは彼らの清い良心に沿った行動が関係していることも示されています。(ペテロ第一3:21)

そこで、第一には聖徒の裁きがあり、彼らは天でキリストと共になるという自らの救いの最終目標に向かって『シミなく聖い姿で主の御前に立てるよう』努力をしなければなりません。

第二に、一般人また信徒の裁きがあり、これは聖徒というキリストの『兄弟』の現れ無くして行われ得ず、左右に分けられることもありません。

ですが、キリスト教の教師に「あなたは救われた」と幾ら説かれても、人が神の裁きを免れないということは厳然として少しも変わりません。
そうなると、バプテスマを受けたので「救われている」はずの人々は、畏怖すべき「神の裁き」を人間同士で勝手に前倒ししていただけになってしまいます。
果たして、それで良いのでしょうか。

このように「救い」を見ることに反発する信者は大変多いと思われますが、一二度説いても変わらないようでしたら、しばらく様子を見るよりほかないようです。
といいますのも、これはその人の神に関する倫理的決定であり、誰も代って下すことのできるものではありません。
つまり、その人は「ご利益信仰」を望んでいるのであって、関心は神より自分に向いているのでしょう。

ですが、聖霊の臨むときに想いを変える可能性は残されており、そうなれば大きな喜びとなるでしょう。


信仰生活について

もうひとつのご質問も「救い」と関係しています。

ほとんどの教会員は、自分たちが「救われた」状態にあるということで、感謝を捧げ、気力も得てきたことでしょう。
それが長年の習慣ともなっていれば、常にその観点からものを考え、行動してきたに違いありません。

聖書そのものは、救いとは現状の生活の中で与えられる心理効果のようなものではなく、神の威力であり、人間から倫理上の欠陥である「罪」を除き去り、創造のままの輝かしさを回復して「神の子」の栄光に至ることが救いであると教えます。

ある人にとって、罪や裁きの教えは現状の生活上での生き生きとした活力を然程与えてくれるものでもなく、魅力に欠けると思えるのでしょう。
そのように思える人々の価値観を変えることはできませんが、是非とも神の御旨に表される壮大な「救い」に大志を奮い起こしていただきたいものです。
そのためにはキリスト教の原点に一度立ち戻り、第一歩から考え直す労は避けられませんし、相当な謙遜さが求められる場面もあることでしょう。


多くのキリスト教徒の主張といえば、自分たちの生活の中で聖句がどう役立ったとか、自分のなかに住んでくださるイエスさまが、自分をこんな風に導いてくださったとか、聖霊さまの働きにエクスタシーを得たとか。このように自分を中心にして語られております。
また、ボランティアに熱心であることをとやかく言うつもりはありませんが、そこでは神ご自身のなさろうとしていることはどれほど意識されるのでしょうか。

教会からすれば、クリスチャンと呼ばれている人々に、神の意向を探るという労をかけさせることが重荷で、そんなことをすれば信徒は四散するとでも思えるのでしょうか。
今日のプロテスタント諸教会が信徒の減少に悩む背景には、誰でも彼でも門戸をできるだけ広く開いて、人が集まるように安易な信仰生活を示すところもあるのではないでしょうか。

それでも増えない、のではなく、それだから求心力が無いのでしょう。
バプテスマを受ければ「あなたは救われました」としてしまうことで、その後は教会に来なくても良いようにわざわざしてしまってはいませんか。
しかも、聖書には明らかに裁きが控えていることが書かれているにも関わらずです。


新十四日派の観点からものを見るということは、単にキリスト教の宗旨替えのようなものでは済みそうにありません。
それは自分中心のものの見方を留め、神に視点を合わせる必要があり、いずれの教派の方であれ、見方を自分から神へと180度変えることが求められるでしょう。

「キリスト教」に限らずほとんどの宗教は、信者個人のメリットに訴えるようです。
人生で成功を得ること、現在と将来の安心や安全を確保すること、自分と身内や友人の幸福、こうしたものが全面に出されて信者が募られます。

新十四日派の観点からしてそれら「救われたい」という願望がいけないことであるという訳ではありません。
ですがヤコブ4:1-3にあるような世の利己的な方法で求められるべきでもありませんし、第一にキリスト教は「この世のものではありません」(ヨハネ第一5:19)。アダムが神への忠節よりもエヴァへの情愛を選び、そうして分かたれたのであれば、ますますそう云えます。

神は我々の必要を初めからご承知であり、何が最も良いことであるかを正しく知っているのもまた人ではなく神です。
そして、今日見られる不幸の原因が利己心にあること、それが倫理上の欠陥からくることを指摘するのが神の言葉である聖書であり、本来キリスト教は利己心を助長するべきものではないでしょう。


では、今日何を行うべきでしょうか?
まず、聖書に学ぶべきことは汲めども尽きず、第二世紀のエクレシアが聖霊の賜物から学んだように、今日、賜物は無いにせよ、既に聖霊の導きの下に書かれた事柄を探ることには多くのフロンティアが残されています。
殊に、聖霊が何かという理解の鍵を得た場合だけでも、そこには古代から封印されたかのような、聖書中だけでも解明されるべき未開の原野が手付かずに広がっているかのようであると言っても過言ではありません。

したがって、聴くことから信仰を得た後にも、学ぶことはそれまで以上に多くあります。
また、将来に聖霊を迎えるまでに、それに見合う程の認識には到達することが求められるでしょう。そうでなければ、聖霊の価値すら分からず、冒涜してしまう危険さえあります。

こうした認識に加え、ヤコブは汚れのない崇拝について『孤児ややもめをその患難のときに世話すること,また自分を世から汚点のない状態に保つこと』としております。
そしてあの『愛の掟』があります。

これだけでも、何と多くのことが関係していることでしょうか。
加えて、宣教があり、これらを真剣に考えれば、信仰生活で何をすべきかと困ることはまずありません。
ただ、未だ習慣化されていないだけで、今後に創られてゆく必要はあります。

そこには安易な安らぎも、既に救われ神に寵愛されているような実感もないでしょうが、ひたすらに神を知ろうと努め、求め続け敲き続ける熱意があります。それこそが真実の心の安らぎや神へと近づく実感をもたらすでしょう。


これには同じくキリスト教の名を冠しても、まったくの発想の転換が求められることでしょう。
この転換は人間や宗派を崇拝するようなところを去って、神を崇拝することを目指すものであり、これは神への深い感動と尊崇の念を奮い起こされるような、ある意味で「大志」が無いとできないことでしょう。

つまり、ご利益信仰との決別であり、それに慣れ親しんだ方々には痛みを伴うこともありましょう。
それでも、神の御旨である最大の益に到達するよう、神の御旨に協働することこそ価値あることではないでしょうか。
このようにして真実に神を崇拝しようと望む方々は少ないとしても、キリスト教界にまるで居ないとは思えません。


結論として
私には、「クリスチャンは救われている」と唱えることは、聖書全体の理解と合致せず、キリストの人類全体への公共善に対する献身と偉大な自己犠牲の精神からも逸れ、性質が何か別のものであるように思われてなりません。それが一般に「ご利益信仰」と呼ばれているものなのでしょう。「クリスチャン」の多くが聖書を探求し続けないとしても不思議はありません。自分に関心が向いているのですから。
パウロは『キリストが亡くなったのも、生ける者がもはや自分のために生きず、自分たちのために死んで生き返らされた方のために生きるためであった』と書きましたが、この言葉を自らの生き方に感じるキリスト教徒はけっして多くはないように思えます。









.
関連記事

聖餐とは

2013.02.12 (Tue)
キリスト教の最大の祭儀は「聖餐」にあります。それがミサの原形とされ、元はパン裂き(クラスマ)として日曜礼拝の根拠ともされてきました。
しかし、「聖餐」と呼ばれているキリストの命じた祭儀に、本来はどんな意味があったのでしょうか。

この儀式はキリストと使徒たちによって、イエスの亡くなる前の最後の晩餐のときに制定されました。
その場面は三つの福音書に描かれており、パウロもその手紙の中で述べています。

パンとぶどう酒によって行われるこの儀式は、キリストの犠牲によって信徒が救われることの再確認とも言われています。
多くのクリスチャンを自認する方々は、イエスの死を通して自分が救われるようにされたことを感謝する機会と見なしています。

それは目出度いことでありパンとぶどう酒に与ることが楽しいことにも思えることでしょう。
イエスが『このことを行って行きなさい』と命じられましたし、それほど良いことでしたら、毎月、毎週でもキリストとのつながりを再確認して幸せな気持ちになるのは相応しいことと思えるかも知れません。

ですが、もし信者のすべてがこのパンとぶどう酒に与るべきなのでしたら、なぜイエスはご自分の身近な使徒たちだけとこの儀式を行ったのでしょう。
また、公生涯の間にわずか一度だけ行ったのはなぜでしょう。

実は、ここに聖餐の本当の意義が込められています。

まずそれは、モーセの律法で定められたユダヤの「過ぎ越し」という祭りの晩であったことに意味があります。
イスラエルがエジプトから出るその日に、イスラエル民族は奴隷から解放されようとしていたエジプトで過ごす最後の晩を特別な食事で記念しました。(出埃12:1-14)

それは「過ぎ越しの食事」と言って、各家庭で一頭の子羊を焼いて食べましたが、その血は門の鴨居と柱に赤くはっきりと分かるようはねかけました。(出埃12:7)
その晩に天使がエジプトを通ると、血のかかっていない門の家では長男が死ぬという災いが起こったのです。
こうして初めてエジプトの王ファラオは、イスラエルの出立を認め、彼らは奴隷から開放されてパレスチナの地を目指すことになりました。

一方、イエスはバプテストのヨハネから『神の子羊』と呼ばれていました。(ヨハネ1:36)
キリストの血は出エジプトのときの羊の血のように、「長男」のような人々の命を救うものとなります。

では、「長男」のような人々とは誰でしょうか。
イスラエル各部族のうちのレヴィ族は、神から「長男」と見なされて、祭司の職が与えられました。(民数記3:11-13)

そこで、『神の子羊』であるイエスの血も、祭司となる人々を救うことになります。(黙示録20:6)
と言っても、イエスの血は最終的にはすべての人々を救うものとなります。(ヨハネ3:16)

ですが、まず「長男」のような祭司となる人々が救われないと全体が救われることになりません。(ヘブライ12:22)
これは律法でもそのようにされていました。

毎年の秋の『贖罪の日』という祭りの日には、まず大祭司と祭司たちを罪から清める儀式が動物の血を用いて行われました。
一般のイスラエル人は、後ほど彼ら祭司たちの別の贖罪の儀式によって罪から清められたのです。(レヴィ16:11・15)

これはキリストを中心にして天で行われる本当の「罪」の浄めを表す模型のようなものでした。なぜなら、地上の祭壇で捧げられた動物の血は本当には人間の罪を清めなかったからであり、本当の浄めにはイエスの血が必要だったからです。(ヘブライ10:1-4)

さて、イエスが聖餐という儀式を制定したときに、使徒たちだけがこれに預かったのにはこのような理由がありました。それはユダヤ人なら誰でも与れるようなものではなかったからです。使徒たちのように本当にキリストにつき従う者でなくてはなりません。(マタイ10:32-33)

キリストは『大祭司』とも呼ばれています。そして大祭司の下には祭司たちがいました。大祭司と祭司は共に一般の民の罪の浄めのために働きます。(ヘブライ7:26-28)

それで、ぶどう酒という『神の子羊』の血の象徴を飲む人々は、キリストという大祭司の下で働く祭司たちとなることを表しているのです。

彼らがイエスと密接な関係を結ぶことは、キリストを隅石として『神殿の生ける石となる』ということにも表されています。(エフェソス2:20-22)

つまり、彼らは天でイエスと共に霊の体を得て、天使のようになる人々です。
それですから、無酵母のパンで表されたイエスの体を共にするという意味で、彼らはパンを食べました。
そしてイエスは霊の体へと復活されました。(ゼカリヤ12:8/コリント第二5:6/ヨハネ第一3:2)

こうして、聖餐というものの意味が少し分かってきます。
それはただパンとぶどう酒に与る信者が救われるというものではありません。
むしろ、聖餐は神の人類救済というご計画の途中にある重要な一部分を成しています。

すべての人々が救われる前の段階として、まず祭司となる人々が選ばれて、先に罪から救われるための儀式だったのです。彼らは人類の中からの「初穂」とも呼ばれています。(黙示録14:4/ヤコブ1:18)

また、この選びは『新しい契約』に入ることを意味します。その契約は、パンとぶどう酒に与る人たちが、天でキリストと共になって、祭司の職に就くことを成し遂げさせるものとなります。


すこし、考えてみて下さい。
もし、パンとぶどう酒に与る人だけが救われるというなら、キリスト教とは非常に狭い救いしかもたらせないことになりませんか。
しかし、聖書の神はすべての人々が救いを得られるようにとアブラハムの昔から取り計らってこられました。(創世記22:18/ヨハネ3:16)

このように世界を救おうとなさる神こそ、世界の人々から賛美を受けるに相応しい方です。
聖書の神もキリスト・イエスも一部の人々だけを救おうとしておられるわけではありません。(ヨハネ第一2:2)

どれほどイエスを罵倒しようと、どれほどの罪を犯そうと、どれほど他の宗教に熱心であっても、最終的に謙遜に「罪」を認め信仰を働かせるのであれば、大いなる神の救いを受けることができます。(マタイ12:32/ゼパニヤ2:3)

そのためには、まず世界中の人々の罪を清めるための祭司たちが必要であることを、聖書の神はモーセの律法の中で模型のようにして教えてくださっていたのです。(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)

ですから聖餐とは、それを食べたり飲んだりすることがその人を救うというよりは、聖餐に与る人が天の祭司になって世界のあらゆる人々に救いをもたらすことを示しています。
そのような人は、自分の救いだけを求める利己的な人であってはなりません。キリストと共に自分を神と人々のために自己犠牲的に役立てようとする人こそが聖餐に与るべきであるのです。

(追)
しかも、その人は神からの招き(召し)を受けていなければならず、その証拠というのが「聖霊の賜物」です。
では、キリスト教徒になるとは、天のキリストの下で働く祭司になるということでしょうか。
必ずしもそうではありません。その件についてはまたお話しましょう。



(こんな話しかけでいかがでしょう)






.
関連記事

新十四日派「主の晩餐」の紹介文

2013.02.11 (Mon)
◆「主の晩餐」

これは主イエス・キリストの「死」を宣れ告げる年一回の行事であり、主の「復活」を祝うグレコ=ローマン型キリスト教とはまったく性質を異にし、十四日派の「主の晩餐」は厳粛なものであり一切慶事の扱いはしません。

キリストの死には、人類の「罪」の贖い代が供えられたばかりでなく、より重要なことに、御子の死に至るまでの忠節によってイエスの父の神性が立証され、サタンの裁きの根拠が置かれました。その結果、それまでの預言がすべて成就する道が拓かれ、世界全体が神の創造本来の意図に従って調和と安定を得る基礎が据えられました。

キリストの死には、このように重く多様な意義が集中しており、如何に復活が奇跡であるとしても、その死の崇高さにはとても及ぶものではありません。

やがてヘブライの教えを離れた「キリスト教」は、コンスタンティヌス以来、この理解の欠如により、目出度い「復活」という一般的な祝い事に入れ替えてしまい、御子の復活されたローマの「太陽の日」(日曜日)を特別視し、そこに異教の女神イシュタルの祭事を取り入れるなどして、今日まで大きく「主の晩餐」を誤解してきました。

このように「主の晩餐」と「復活祭」が入れ替えられた大きな理由には、ユダヤ教徒とキリスト教徒の間の激しい敵意があります。
というのも、キリスト教がローマ帝国に認められる以前に度々迫害に遭ってきましたが、その最中にユダヤ教徒はキリスト教徒を嫌い、正義感さえ懐いてその迫害の時には告発に励み、処刑の準備までをも求められたわけでもないのに手伝ってきたことが歴史に刻まれています。

そのため、キリスト教側はすっかりユダヤ的なものを嫌うようになってしまい、ユダヤ教徒が「過ぎ越しの祭り」を行い、出エジプトを記念する「セデル」という食事と、イエスを記念する「主の晩餐」が同じように見なされたり、同じ日に行われることも厭うようになってしまい、やがて、イエスの死ではなく復活した日曜日に主の会食を行う人々が現れ、次第に多くなってコンスタンテヌス大帝の頃にはキリスト教の趨勢となるほどに増えていました。

コンスタンティヌスはキリスト教徒を自認してはいましたが、それは太陽神崇拝との混同された信仰であったものですから、ローマの「太陽神の日」である日曜日(ディエス・ソリス)がキリスト教徒にとって重要な日であることには大いに賛成するところで、年に一度の「主の晩餐」をユダヤの「過ぎ越しの祭り」と一致しないよう、過ぎ越しの後の日曜日に「主の晩餐」を行うように裁定しました。

今日の「復活祭」がクリスマスのように太陽暦の決まった日ではなく、毎年移動してゆくのは、陰暦で決まるユダヤの祭りと一緒にならないように配慮してのことです。
これはイエスがユダヤ人であり、その祭に参加されていたことさえ忘れるような、古代の極端なユダヤ嫌いの残滓でもあります。

この怨恨の精神を抱いたままキリスト教側は、やがてユダヤ教に反撃を始めます。
キリスト教が国教化されたローマ帝国では日曜日が休日と法制化され、収穫期の農民以外は休業が強制され、そこで土曜を安息日にしていたユダヤ人は肩身の狭い想いをするようになります。そのうえ、キリスト教徒はユダヤ人を「主殺しの民」として憎み、事有る毎に迫害を加え、殺害も正当化されることがしばしばありました。これはもちろんキリストの精神に反する憎しみを懐いた忌むべき復讐の業と言わざるを得ません。

しかし、この趨勢にあって、グレコ=ローマン化せずに、中世期までのしばらくの期間、古来の「主の晩餐」を行っていたのが、最後の使徒ヨハネの指導した小アジア地方をはじめとするキリスト教徒たちであり、彼らは国教化した信徒から「十四日派」(クワルトデキマーニ)と呼ばれました。

そこでこの21世紀の「新十四日派」としては、その小アジアの先達に倣い、第四世紀のニケアー会議以降制度化されていったグレコ=ローマン型ではなく、より古く二百年遡った原始キリスト教を回帰しつつ「主の晩餐」を行おうとするものです。

その日付は十四日派の習慣に則り、ユダヤ人がイエスの時代と変わらずニサン15日に「過ぎ越し」(ペサハ)の食事「セデル」を始める陰暦一日前の日没後に行うものとします。
したがって、それは常にユダヤ暦のニサン月14日の夜となります。その晩はキリストの公生涯最後の夜であると共に、イスラエル民族がエジプトで過ごした最後の夜でもありました。

その晩の子羊の犠牲の血はイスラエルの初子を贖うものとなりました。
そして「神の子羊」であるキリストの犠牲の血は人類の初子である『聖なる者たち』を『新しい契約』に基づいて贖い、その人々に「聖霊の賜物」の下賜が許されました。

イエスはご自分の死を前に、それまでユダヤで行われてきた出エジプトを記念する食事儀式を、ご自分の死の門出を記念する食事儀礼に換えられました。
それが無酵母パンとぶどう酒のみによる会食儀礼であり、後に広く「主の晩餐」(キュリアコン・デイプノン)と呼ばれるようになりますが、そこではイエスを仲介者とした弟子たちの『新しい契約』が関わっています。

その食事に与ったのは「十二使徒」だけでしたが、その後五旬節で「約束の聖霊」が下賜されて以降は、『新しい契約』に参与する弟子が増え、聖霊を受けた彼ら聖徒らは引き続き年毎の「主の晩餐」で無酵母パンとぶどう酒に与ってきました。

律法契約にも新しい契約にも、神は奇跡的証しを契約に伴わせて来られましたが、第二世紀以降、キリストは『王権を確かなものとするための旅』に出られたので、現在はその身分を証しする「約束の聖霊」も引き上げられ、この奇跡の賜物を有する人が存在しなくなったため、表象である無酵母パンとぶどう酒を受ける者は居ないので、これらの物品は展示されても飲食されません。

しかし、将来に正しく「聖霊の顕現」を有する信徒が現れるときには、その人々の表象物に与る様を見ることができ、それは久しく続いた「新しい契約」の与る「聖徒」の不在の終了が印付けられ、且つ、キリストの臨御(パルーシア)が開始されていることの証拠となり、この世は遂に「終末」という比較的に短い「裁きの日」に入ったことになります。「終末」に入れば、おそらくはこの世の終局まで残りの時間は十年に満たないことでしょう。

イエスはこの儀式が、彼の到来する時まで行われるとパウロに明かされました。
したがって、この「主の晩餐」はキリストの終末の『臨御』(パルーシア)を印付ける、きわめて重要な儀式であり、キリストの死の意義を回想し、参加者が信仰を抱いて、人類に先立って贖われた『初穂』である聖霊による『神の子たち』の出現という、次の新たな神の行動の一歩を待ち望む姿勢を示すものです。

それは『神の王国』のこの世への到来の序章となるものです。
このことを認識できる信仰ある人が、誰でも無酵母パンとぶどう酒を用いて、年に一度の主の死を記念する儀式を行うことは可能であり、またそれは本来のキリスト教信仰にまったく相応しいものとなるでしょう。














.
関連記事

聖餐と聖霊の関係について(回答文)

2013.02.11 (Mon)
まず、
キリストは最後の一回の過ぎ越しを長らく楽しみにしていました。十二人と共にするためです。これはそれ以前には無かった格別の機会でした。キリストの死が深く関係していたためです。(ルカ22:15)

死を記念することは日常的になされることはありません。
そのようにすれば人間性の常として、慣れてしまい軽視しないで居られるでしょうか。
まして、ユダヤのセデルを超える「聖餐」はキリストの公生涯中ただ一度のことでありました。

初期キリスト教徒はこの点で、年一回のユダヤ人の「過ぎ越し」と「無酵母パンの祭り」に聖餐を合わせていましたが、その痕跡は後に「復活祭」(イースターとも)と呼ばれる節会の日付が、今日でも太陽暦に固定されていないところに残されております。


さて、イエスは地上にある間には弟子たちに与えなかった「約束の聖霊」があることを最後の晩餐の席上で知らせました。(ヨハネ14:26)

その「聖霊」を弟子たちが受けたのはペンテコステの日からで、それはキリストが天に去って十日目のことであったことを使徒言行録は伝えています。(ヨハネ7:39/使徒1:3)

「約束の聖霊」を受けた人々は以後、異言などの幾つかの奇跡の賜物を授かるようになりましたが、これが新約聖書中で「聖霊の賜物」と呼ばれています。(コリント第一14:1)

その「聖霊」を受けた人々には『有罪宣告は無くなり』「義」なる状態に引き上げられたことをパウロは書いています。(ローマ8:1)
それはこれまでに無いことでした。

これ受けたのは特別に召された人々であり、「聖霊の賜物」は『新しい契約』に入った印でした。
それを受けた人の中で、その『霊は』『彼らの霊と共に証しをし』神に対して『アバ!父よと叫ぶ』と云われます。
なぜなら、彼らはキリストの犠牲によって罪を贖われ、いち早く『神の子』となったからであり、それゆえにも『初穂』と呼ばれます。(エフェソス1:13-14/ローマ8:15/ローマ8:23/ヤコブ1:18)


以上を総合すると、「約束された聖霊」が「聖霊の賜物」をある人々にもたらしています。
それはキリストの死後でなければならず、なぜなら、キリストの死の犠牲によってはじめて罪を贖われた状態をその人にもたらしたのであり、イエスの言われた「わたしが去って行かなければ,助け手は決してあなた方のもとに来ない」との言葉にそれが示されています。(ヨハネ16:12)

「聖霊の賜物」を受けた人はイエスがキリストであることに信仰を働かせた人、まずユダヤ人から選ばれ、『接木』として不足分を信仰を持った諸国民が補填しました。(ローマ11章)
なぜなら、『新しい契約』は『律法契約』を補い、アブラハムへの神の約束を何としても成就させるものであったのです。

そのアブラハムへの約束とは、更に古代に約束された事柄、つまり、彼の子孫によって『地上のすべての家族が、自らを祝福する』というものであり、人間を「罪」のために死に至る虚しい状態から救い出すということです。(創世記22:17-18)

それで、アブラハムの子孫であるイスラエルは『諸国民の光』となることを至上の目的としてきましたし、キリスト・イエスが『あなたがたは世の光』とユダヤ人に向かって語った理由はここにあります。

ですが、ユダヤ人は律法契約に失敗してしまいます。そこでキリストの仲介するもうひとつの契約によって本当に『諸国民の光』となることができるはずでした。つまり、イエスをキリストと信仰する「メシア信仰」によってです。

しかし、イスラエルからのその数は少なく不足しており、諸国民からの『接木』による補充を必要としたのです。
こうしてユダヤ人と異邦人から成る『神のイスラエル』という混成の国民が成立しました。(ガラテア6:16)
この統合を証ししたのが「約束の聖霊」であり、奇跡の賜物であり、それが間違いのない神の選びであることを知らしめるもので何者を異議を唱えることのできないものとなりました。(ペテロ第二1:10)


このように聖書全巻の中でペンテコステの聖霊を捉える必要があります。それはただ人の中に聖霊によってイエスが住まうという有り難さ以上に大きな意義があります。

約束の聖霊によって聖霊の賜物を得た人だけが、アブラハムの裔として養子となり、キリストと共に「女の裔」の一員となり得るのです。そこでは、キリストのようにサタンから攻撃を受けますので殉教を覚悟する必要はあります。そうして初めて彼らは主と共に『世を征服』することになり『新しい契約』を果たして天界に招かれることになるでしょう。(黙示録3:21)
今日、聖餐に与っている「クリスチャン」にどれだけその覚悟があることでしょうか。(マルコ10:37-39)

端的に言って、聖餐は与る者を救うのではなく、人類を救うために召し出された人々が『新しい契約』を記念し銘記するためのもので、これはキリスト教界で広く誤解されています。


ペンテコステ以前に、聖霊が如何に多様な働きをしていようとも、このキリストの死の犠牲に基いて下賜されたこの種の「聖霊」は格別のものである特徴を有しています。

その霊は『真理の霊』であって、キリストの証しを聖徒にも行わせます。(ヨハネ15:26)
同時に彼らを真理の全体に導くので、初代のときのように将来に再び注がれるときにもキリストの教理は正しくされ、そこに分裂はありません。あらゆる「人間の教え」は洗い流され、争い合う宗派はすべて意味を失うでしょう。(ヨハネ16:13)

またその霊は、世界に『納得させる証し』を行うので、裁きがこれに関わります。(ヨハネ16:8)
つまり、マタイが記したように、聖霊を受ける聖徒たちは政治家や裁判官の前に引き出され、そこで誰も反駁できないほどの聖霊の言葉を語るので、それは為政者だけでなく「諸国民への証し」となるからです。(マタイ10:18-20)
聖霊への冒涜は許されません。(ルカ12:10-12)

この聖霊を、単にその働きや与えられた人の幸福としてだけで捉えると、数千年に亘って聖書全体を流れる神のご意志も行動も考えずに自分のメリットだけを見ることになり、そのご利益信仰は聖徒に相応しくありません。(ヨハネ16:13)

使徒パウロが特に異邦人たちに「聖霊の賜物」(約束の聖霊)を受けたことの意義を何度も知らせたその意図もそこにありました。(エフェソス2:11-22)



ですから、単に「聖霊」という場合の普通の聖霊がどう働くのか、ということと、この「約束の聖霊」がどれほど重大なもので、どう異なるのかを弁えないなら、イエスの犠牲の上に成り立つ「聖霊の賜物」を受ける「聖徒」の職に相応しくは無いでしょう。

ローマの第八章はこの聖霊を受けた人々のことをよく知らせるものとなっています。
またエフェソス人への手紙の大部分は、異邦人で約束の聖霊、その賜物を受けた人々に、その意義を見過ごすことのないようにと力説するものとなっています。

この辺りの熟読を通して理解はより明瞭となることでしょう。
この理解をパウロは奥義と呼んでおり、誰もそう簡単に把握はできないことでしょう。
殊に、グレコ=ローマン型キリスト教に接していた方々には、信仰の原理をご利益信仰から自己犠牲の信仰へと正反対のものに変えることを求めるものとなり、それは簡単なことではありません。

もちろん外部に至っては、「世の知恵」はこれを知るに至らないとパウロは宣言し、ヨハネは『その霊は世が受けることのできないもの』とのイエスの言葉を記しています。(エフェソス1:10/コリント第一2:7-10/ヨハネ14:15-17)

ですから、この聖霊について理解が難しいのは当然でしょうし、世に属する人々はけっして理解せず、そのご利益を求めるような人々がキリスト教に近づいても明かされずに終わるのでしょう。


これに何故拘るのか?と問われれば、自分の救いはともかく、神のご意志に関わることだからということになるでしょう。
(問題の本質は「人か神か」「利己心か自己犠牲か」というエデンの問いに近づくようですね)







.

関連記事
back-to-top