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過越しの時期に行われる主の晩餐

2012.12.21 (Fri)
イエス・キリストの磔刑の死までの数日は、非常にドラマティックな高まりをみせるだけでなく、イエス自身がご自分の『定められた時』を的確に把握され、それがただ悪者たちの罠にはまったのではなく、ご自分から進んで犠牲の死を遂げられたことを証ししています。

イエスは平素『昼に歩くなら躓かない』または『日中の十二時間があるでしょう』と言って、彼らの主を殺めようとしているユダヤ人を恐れる弟子たちを説得しています。

この「昼」とは、イエスが安全に行動できる定められた期間のことであり、キリストご自身は、この時がいつ終わるのかもよく知っておられ、かつ、その時間を大切に過ごされました。

この「昼」の期間の終わりが近づくと、十二使徒のユダ・イスカリオテは背後で活発に動き始めます。
彼は、イエスを逮捕して処刑したいと願っている宗教家たちが、逮捕の協力者に報酬を支払うことを聞き及び、彼らに近づいて銀三十枚の約束を得ます。
この銀貨が何というものか分かってはいませんが、これはたいした金額ではありません。おそらくは20万円にもならない額だったでしょう。
しかし、ユダヤではその金額で奴隷一人が買えたといいます。ですから宗教家やユダは金額でキリストを奴隷扱いしたのです。(出埃21:32/ゼカリヤ11:12-13)

一方で、イエスの友人で生き返ったラザロの姉妹マリアは、この前にイエスの頭に非常に高価なインド産の香油を注いでいますが、その値は200万円は下りませんでした。
兄弟を生き返らせてくださったイエスへの感謝がそこにこめられていたことでしょう。

このマリアの寛大さとユダの貪欲さは著しい対象を成していると思いませんか。

ユダはそれまで、イエスが何度も人々に殺されそうになっても無事に逃れているところを見てきました。
ですから、たとえ自分がイエスを売り渡しても、自分の先生も無事で、自分も幾らか儲けられると思っていたことでしょう。
しかし、これは後で彼には予想外の結果を迎えることになります。

さて、イエスには宗教家がご自分を捕らえて処刑しようとしていることも、使徒の一人が裏切ることも、知っておられ、特にそれがユダであることは一年ほど前から分かっていたことがヨハネ福音書にかかれています。

そして、この最後の時がご自分のしてこられた活動の総決算となる意義深い事柄が控えていることもよく承知しておられました。
そのひとつは『神の子羊』として犠牲を遂げることであり、もうひとつは、その犠牲によって使徒をはじめとする弟子たちに大きな益が及ぶことに備えさせることでした。

その大きな益というのは、聖霊が『助け手』として弟子たちに与えられることであり、もうひとつは彼らをこの世に残して行きますが、それに備えさせ、またご自分が帰ってくるときのことを話しておくことです。
これらの話はヨハネ13-17章にわたって書かれていますが、その長さは山上の垂訓の倍近くもあり、イエスが使徒たちとの別れに際して語ったことの重要性を知らせるものとなっています。

これらの言葉が語られたのは、ユダヤ人が『過ぎ越しと無酵母パンの祭り』に入る前の晩のことでした。
その夜は丁度、モーセの時代にイスラエルがエジプトで過ごした最後の晩に当たりました。

イエスはこの最後の晩餐を十二使徒と共にすることを「わたしは苦しみを受ける前に、あなた方といっしょに、この過ぎ越しの食事をすることをどんなに望んでいたことか」と言い表していました。
それが大変重要な時となるので、イエスはユダと宗教家からこの時間を守ります。
つまり、その晩餐の最中にイエスを逮捕しようとする群衆が踏み込むことのないように、この最後の晩餐の場所は直前まで知らされません。
ただ、ペテロとヨハネに「水甕を運ぶ男」を探させます。すると、その男は用意の整った二階の部屋を彼らに見せました。

その後、ユダを含む使徒たちと共にイエスはそこに来られて食卓に横になられました。
食事の途中でイエスは一枚の無酵母パンを取って祝福し『これは私の体を表しています』と言ってから使徒たちに分け与えます。
それから、一杯のぶどう酒の杯を祝福してから『これは多くの人々のために注ぎ出される私の血を表しています』と皆に飲ませます。
使徒たちは、この聖餐にこうして初めて与ったのですが
これの意味は、彼らを初めとして弟子たちがキリストの罪(パン種)のない体を食べてキリストと共に霊の体となって永久に生きること
キリストの犠牲の血によって「新しい契約」に入ることを表していました。

『新しい契約』とは、モーセを仲介者とした律法契約をユダヤ人が守らなかったので、神はその契約を終わらせ、別の契約をキリストを仲介者として始めることを指していました。(エレミヤ31:33)
この契約によってユダヤ人は今度こそ『聖なる国民』になることが出来ます。

しかし、ユダヤ人のほとんどはイエスに信仰を持たず、『聖なる国民』というほどの数にはなりませんでしたから、後でユダヤ人ではない人たちも部分的に加わることになりました。
ですが、この最後の晩餐では、その最初の人々として使徒たちが『新しい契約』に入ることが示されます。
この儀式を制定することはキリストとして犠牲の死を遂げる前に果たすべき重要な仕事でした。

この食事が終わると、それまでユダ・イスカリオテの活動を封じてきたイエスは、一転してユダに『しようとしていることを早く済ませなさい』と言われます。
すると、ユダは夜の闇に出て行きました。
こうして、イエスは最後の務めに赴かれます。それはご自分が裏切りに遭って処刑されるという『屠られる羊』としての自己犠牲の死でした。

イエスがこれほどまでに大切にした最後の晩餐の儀式は、『わたしの記念としてこれを行い続けなさい』と命じられており、その後パウロはこの儀式が『彼が到来するときにまで及ぶ』と教えています。
キリストの死は、人類の「罪」を許すためのもので、人は皆キリストの死なくして神の是認を受けることも、不義の満ちる今の世から逃れることもできません。
ですから、キリストの死を本当に大切なものであると思っていることを聖餐を通して示すことができますし、信仰があるならそうすべきでしょう。

この聖餐という儀式がイエスと使徒たちによって初めて行われてから五十日後に、百二十人の弟子たちに聖霊が注がれて『新しい契約』が始まりました。

この契約に与った人々は、聖霊が注がれたことでキリストの犠牲で「罪」が贖われ、聖霊の賜物を持つ人々には肉体の「罪」があっても、人類に先立ちキリストの犠牲が仮に適用されるので神の前に罪なしとされます。
これは、昔にユダヤの大祭司や祭司たちが一般の人々よりも先に浄められたことを意味しています。
先に清められた祭司たちの働きによって、他の人々の全体も清められました。

同じように、使徒たちをはじめとする聖霊を注がれた人々は祭司たちのように一足先に「罪」から清められますが、それ以外の人々は彼らが祭司となって働く「神の千年王国」で罪から清められます。
ですからわたしたちは、キリストの戻られることと聖霊を本当に注がれた人々を待つ必要があり、それは世の終末のときに訪れます。


使徒たちはその後、イエスご自身が大切になさったユダヤ人の「過ぎ越し」の祭りの時期に合わせて聖餐を行なっていました。
また、その意味はキリストの死であり、それはパウロもこの食事のたびに『主の死を布れ告げている』と書いている通りでした。


ですが、ローマ国教になったときに「主の死をふれ告げる」この晩餐が「復活の祝い」に変えられて今日に及んでいます。





⇒ 「イスカリオテのユダ その価値観の変化

⇒ 「主の晩餐とは何か





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「女の裔」から「神の王国」へ

2012.12.08 (Sat)
「女の裔」から「神の王国」へ


本頁に続く六つの文章は、創世記3章15節に基づく聖書中を「背骨」のように貫通する主要な論点をできるだけ短くまとめる試みです。

これ以前の論点については「エデンの出来事」を参照ください。

サタンの頭を打ち砕く「女の裔」が何者であるかを追って聖書中に展開される謎解きの啓示は、聖書という著作が人によって書かれながらも、霊感により筆記を導いたであろうところの、少なくとも数千年の寿命の持ち主の存在を必要とします。死に行く人間の寿命からしても、内容の大きさからしても、このように展開してゆく主題を永い年月の間に導くことは不可能だからです。

主題を『「女の裔」から「神の王国」へ』としましたが、これは女の裔と神の王国が別物と云うのではなく、エデンで語られた「女の裔」の秘儀を追うと「神の王国」に行き着くということを表すものです。

これは偏った聖書理解ではありません。むしろ、最重要と言ってよい論旨であり、聖書の背骨にして全巻理解の王道と表現してもよいものでしょう。
それは、創世記3:15無くして聖書無く、女の裔無くしてキリスト無しと言い得るほどです。
続く六つの文章は、「女の裔」がエデンで語られた後、そのことが次にアブラハムへと受け継がれ、イスラエルの律法の時代を経て、あのペンテコステに至ります。

その後のこと、つまり私たちの将来に関わる部分については、さらにこの六頁とは別に書き出すことになるでしょう。
それにしても、これを理解しようとする人は多くないように思います。畢竟、キリスト教徒と雖も、自分自身はともかく神の意志には特段の関心が無いとなれば、この論題についても興味をそそられることもないでしょう。

しかし、この論旨はキリストだけでなく、キリストと共なる聖霊を受ける「聖徒」らの存在がけっして小さくないことを示すものです。彼らがバプテストのヨハネに優る、即ち、あらゆる人間に優る異例な地位に立つことはキリストの言葉に明示された通りです。
彼ら聖徒たちとキリストとを合わせて「神の王国」と見るなら、聖書全体の理解が通じ、それが果たすことになる偉大というべき神性の立証が、如何に贖罪とその間の支配という人類救済に結びつくかが視界に入ってきます。

これは聖書理解は聖書全巻を一条貫くもので、他の数多の事柄の理解も、この中心主題に附帯して了解されてゆくものと思われます。



この将来現れるであろう「聖徒」(ハギオス)たちについては、改めて集中的に取り上げる必要を感じております。
と申しますのも、キリスト教界では、聖霊と共にこの聖徒についての理解が著しく幼稚な段階に留まっているからです。





§1.信仰の人アブラハム

§2.『アブラハムの裔』はイスラエル国民となる

§3.聖なる国民、王なる祭司

§4.「律法契約」の失効と『新しい契約』の発効

§5.『新しい契約』の仲介者イエス

§6.『聖なる国民』の誕生







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§1.信仰の人アブラハム

2012.12.08 (Sat)
§1.信仰の人アブラハム

前の章で見ましたように、創造の神は『蛇』のもたらした悪影響も『蛇』そのものをも除去するために『女の裔』を用います。
1.『女の裔』とは、直接にはエヴァの子孫を意味し、その子孫の誰かがサタンに致命傷を与えて、これを亡き者とすることがエデンの園で宣告されました。(創世記3:15)
 その裔、つまり子孫とは後のキリストを指すことを現代の私たちは知っていますが、聖書歴史の初期においては未だ謎となっていました。
そのように、神はご自分の意図を時代を降ると共に明らかにして来られましたが、そのことは、その計画が人間によらず、少なくとも数千年の寿命を持つ何者かの業であることを証明しています。

2. そして、四千年以上まえのこと、古代メソポタミア文明の時代に生きたひとりの人に神は語りかけ、この予告の続きを示唆しつつ次のように伝えます。
『アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。』(創世記18:18)
このアブラハムは「信仰の人」として知られます。この人は、神からこう語り掛けられます『「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」』
その人は、語られたことを信じて、親族と共にメソポタミアの都市ウルを後にし、数千キロに及ぶ旅に出ます。
この、子孫が増えて繁栄し「約束の地」を得るという神の約定はアブラハム契約と呼ばれています。
しかし、その約束の地に向かったとき既に彼は75歳に達していて、しかも子がありませんでした。(創世記12:1-4/17:1-21)

3.アブラハムに語られた神の約束の言葉から、「地のすべての国々または民族が、彼によって祝福される」という神の人間全体に対する計画が込められていることが見てとれます。
 また、それに関連して彼の子孫が「大いなる民」となることも含まれていました。これは、エデンで語られた事柄がより明らかにされた姿の『女の裔』と言うことができます。

4.その後、アブラハムは神に導かれて「約束の地」と呼ばれたカナン人の土地、現在の「パレスチナ」に到着します。そこが彼の子孫の所有するところとなるのですが、アブラハム自身には与えられません。
それでも彼は、与えられた自分の子孫に関する約束を信じて疑いません。しかも、その時には、高齢の彼には子がひとりも居ませんでした。

5.そこでアブラハムの妻サラは、自分の侍女から夫が子を得るよう計らい息子イシマエルが誕生します。
しかし、神はアブラハムの約束を受け継ぐ子孫はサラから生まれると告げます。高齢のサラはそれを聞いて笑いますが、彼女は翌年男子を出産し、イサクと名付けます。

 6.やがてイサクが成長すると、神はアブラハムにたいへん難しい試みを与えました。
 祭壇で羊を焼いて神に捧げるようにして、イサクを捧げよというのです。
しかし、アブラハムはイサクを連れてモリヤという山に行き、祭壇を築いて薪を並べ、愛する息子イサクに屠殺用の短剣を向けるところまで進みました。しかし、神の使いがアブラハムを留めます。
 『あなたのひとり子をさえわたしに与えることを差し控えなかったので、あなたが神を恐れる者であることをよく知った』。神はアブラハムの信仰の深さを認め、もう一度アブラハムの子孫の目的を告げます。
 『あなたがこの事をし、あなたの子、あなたのひとり子をも惜しまなかったので、わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、海辺の砂のようにする。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。』(創世記22:15-18)

7. アブラハムのこの行為は、見守る天使たちやサタンにも、そしてわたしたちのように後代に伝え聞くすべてにとってひとつのことを証明しました。
 それは、人間の中にも深い信仰を持って、深く愛する最も貴重なひとり子さえも差し出す者がいるということです。
 この一件は、神が自らの「ひとり子」をイエスとして地上に遣わし、その犠牲によってアダムの子孫を「罪」から受け戻して救うという二千年も後の神の犠牲を指し示していました。⇒「イサク献供に至るアブラハムの信仰
それだけでなく、「罪」に陥ってしまった人間にも、神のみ子を犠牲とするに足る者が居るという動かぬ証拠となったのです。この点で人類はアブラハムに大いに負うところがあります。(ヨハネ3:16)

8. その後、神と人間という遥かな立場の差を越えて、神はアブラハムを『我が友』と呼ぶようになりました。互いのために、最も大切な我が子を差し出し合うことにおいて、両者は堅く結ばれます。(イザヤ41:8/ヤコブ2:23)
 こうして、『女の裔』つまり人類を贖う救い主がアブラハムの子孫から起こされることが、この約束により一層確かなものとなりました。




 ⇒ §2.『アブラハムの裔』はイスラエル民族となる

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 ・ イサク献供に至るアブラハムの信仰




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§2.『アブラハムの裔』はイスラエル民族となる

2012.12.08 (Sat)
§2.『アブラハムの裔』はイスラエル民族となる

1.アブラハムへの神の契約は、一人子イサクを通して実現し、孫のヤコブがエジプトに住むようになってから、実際にひとつの民族となるほどに彼の子孫は大いに増えました。その民はヤコブの別名から「イスラエル」と呼ばれるようになります。それはヤコブが神との関係を求めることにおいて、神を圧倒するほどであったことからきた名前で、「イスラエル」には「神を圧倒する」という意味があります。(創世記32:24-29)
こうしてアブラハムの子孫は多くなりましたが、契約のもうひとつの事柄、つまりカナンの地を所有するということは。まだイスラエル民族に叶えられていません。
そこでひとりの傑出した人物が、この民を「約束の地」に導き入れるために用いられます。

2.それが預言者モーセです。
彼は『人と人がするように、神と顔を合わせて話をした』といわれるほど神と意思を通わせた大預言者となりました。(申命記34:10)
彼がそのように神と密接に意思を通わせた背景には、イスラエル民族にアブラハムの神を知らせ、その神との特別な契約をイスラエルが結ぶということがありました。
その契約によってイスラエル民族は『神に特別に所有される民』となります。それはまた、『諸国民がこの民によって自らを祝福する』という目的も示されます。つまり、『アブラハムの裔』が行うべき働きをイスラエルは行うという神のご意志が明示されているのです。

3.契約である以上、履行されるべきことがあります。
神とイスラエル民族との間に結ばれた契約では、イスラエル人は神の定める法律に正しく従わねばなりません。もし、そのようにするなら、神はイスラエル民族を『聖なる国民、祭司の王国』とします。それは、神がイスラエルを祭司また王として用い、世界中の人々から罪を除き、家族の一員のように神の是認の下に入って『神の子』とするためです。

4.エジプトでの奴隷労働から解放されシナイ山麓に集まっていた、イスラエルの人々はこの契約に同意し、モーセを仲介者としてアブラハムの神と『律法契約』を結びます。
これが『律法』と呼ばれるのは、神がイスラエル民族に六百ちかくの法律を定めて与えたことに由来します。
その最初の十箇条は「十戒」と呼ばれ、人手によらず二枚の石板に刻まれ、『契約の箱』に収められましたが、その箱は「契約の証し」とされました。

5.この箱の上に神が現れる象徴として、そこには奇跡による雲と光が宿り、その中から神がモーセに語られる「臨御」(りんぎょ)の座となりました。(レビ記16:1)
この箱の置かれる天幕は『会見の天幕』と呼ばれ、以後は崇拝の場所となります。
その場所には、「律法の巻物」と「契約の箱」が置かれ、『律法と証し』と呼ばれるようになります。(イザヤ8:20)

6.モーセのときにアブラハムの神はご自分の名前を知らせます。
ですが、この名前が何であったかをイスラエルは現代までに失ってしまいました。彼らは神の名をあまりに神聖視したので、崇拝の場所以外での発音を禁じていましたが、やがてキリストの後の時代に神殿を失ってしまい、崇拝の場所そのものが無くなったため、発音する機会を失いました。
ですが、神の名の子音字だけは残されており、現代のヘブライ文字では[יהוה]となります。これは英字に置き換え「YHWH」とも表されます。
この読み方を知る者は地上から居なくなったので、よく聞かれる「エホバ」や「ヤハウェ」も便宜的な発音に過ぎません。人類が次にこの名を知るのは世界の終末の時期となり、それは人間の救いに関係します。(出埃3:13-15/イザヤ42:8/マラキ1:11/使徒2:21)

7.さて、律法契約を結んだイスラエル民族ですが、モーセの時期から信仰の欠如を示すところがありました。そこで神はイスラエル民族が『約束の地』に入るのを40年待たせます。その間にエジプトを出たときの不信仰な世代が荒野で死に絶えました。(民数記14:29-)
このイスラエルの不信仰は律法契約の結末を暗示するものとなってしまいます。



 ⇒ §3.聖なる国民、王なる祭司



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§3.聖なる国民、王なる祭司

2012.12.08 (Sat)
§3.聖なる国民、王なる祭司

1.神はご自分の崇拝方法も律法の中に定められました。
崇拝は「契約の箱」の安置された「会見の天幕」を中心とし、その前に祭壇が設けられ、動物の犠牲が捧げられました。それは人に「罪」があって、神にそのままでは近付けないこと、命(魂)の犠牲が要求されることを何度も示すことであり、それは後にキリストの犠牲によって完全に満たされます。
ですから、キリストは律法で捧げられる動物の犠牲を終わらせることになりました。

2.さて、神はイスラエルをエジプトから導き出すに当たって、エジプトのファラオの妨害に遭いましたが、最後の晩にファラオを含めエジプト中の初子の命を奪います。しかし、家の戸口に子羊の血をはね掛けた家の初子は守られました。これは贖い(あがない)と呼ばれる身代わりです。
そこで神は『初子はわたしのものである』と言われます。
なぜなら、子羊の血によって初子たちの命を救ったからです。
このため、全イスラエルの初子を神は自分のものとして取り分け、ご自分の崇拝にそれら初子たちを用いることを意図されます。

3.しかし神は、民の初子から一人ずつ聖職者を任命するのではなく、一つの部族をまるまる崇拝のために浄めて用いることを意図なさいます。
数えると、全イスラエルの初子の総数とレヴィ族男子の総数がほぼ釣り合いましたので、神は幾らかの不足数を会見の天幕に金として納めさせ、このレヴィ族全体を取り分けて浄め、ご自分の崇拝を司る者ら、また『祭司』として任じました。(民数記3:12-3)
彼らは、神に取り分けられた聖なる者とされ、他の部族よりも高い道徳や衛生の基準を守るよう求められます。(民数記8:6)
また、部族の頭であったモーセの兄アロンを大祭司としました。

4.律法では、年に一度「贖罪の日」(しょくざいのひ)に大祭司は自分と祭司たちの罪を動物の犠牲によって贖って浄め、それからイスラエルの民の罪も同様にして浄めました。(レヴィ記16:11/15)
このことは、将来に全人類が罪から浄められることの模式であり、この大祭司がキリストを指し示していることを、イエスの弟子たちが新約聖書中で知らせています。(ヘブル3:1)

5.大祭司がキリストであれば、従属の一般の祭司たちは新約の時代の誰を指していたのでしょうか?
律法下の祭司制度から推論すれば、その人々はキリストを中心として、従属する一定数のキリスト教徒の人々ということができるでしょう。
律法契約の目的は、「聖なる国民、祭司の王国」を「イスラエル」十二部族の全体から召すことでしたが、律法契約下のイスラエル民族の全体から祭司が召されることは遂にありませんでした。
では、この律法の目的、イスラエル民族が律法を守ることによって、首尾よく彼ら全体が聖なる者となったでしょうか?

6.もし、契約がまったく破られるなら、その契約は失効します。
神とイスラエルの間に締結された律法契約も同じです。
契約とは、不確かなものがあるところで行われる取引です。
この点で、律法契約がどうなったかを次にみてみましょう。


 ⇒ §4.「律法契約」の失効と『新しい契約』



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§4.「律法契約」の失効と『新しい契約』

2012.12.08 (Sat)
§4.「律法契約」の失効と『新しい契約』

1.イスラエルは「信仰の人」アブラハムの子孫であったにも関わらず、彼らの多くは信仰の欠如を示し続けてきました。
神はそれを『エジプトを出て以来ずっと』であったと語ります。
それは後に、イスラエルが王を戴く時代になっても変わりませんでした。
彼らは、律法を守らないばかりか、異教の神々を崇拝して、神YHWHの神殿にまで禁じられた偶像を置き、民も自分たちの崇拝の場所を作っては、そこで他の神を崇拝までしました。(列王第二21:15)

2.律法を守らないことで、民の福祉も省みられず、裁きも不公正なものとなりますが、権力者は預言者や無辜の血を流してはばかりません。
そこで神は、遂にイスラエル民族を罰することにします。
西暦前六世紀、律法契約の始まりから約千年後に、神はユダ王国がバビロニア帝国に滅ぼされるに任せます。(エレミヤ20:4)
彼らは遠くバビロンに流刑となって連れ去られ、首都エルサレムと神殿は破壊され、約束の地はおよそ五十年に亘って人の住まない土地となっていたそうです。

3.このことは、再三預言者たちによって警告されていましたが、この民は心が硬くて預言の言葉を聞かず、かえって滅びを警告する預言者を殺したりまでするのでした。(エレミヤ7:23-26/ルカ23:37)
こうした国の滅びの預言の中にも、神はひとつの希望をイスラエルに与えていました。
それが『新しい契約』と呼ばれる希望です。

4.預言者エレミヤは、その契約について次のように記しています。
『それらの日の後にわたしがイスラエルの家に立てる契約はこれである。すなわちわたしは、わたしの律法を彼らのうちに置き、その心に記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。とYHWHは言われる。』
『新しい契約』はモーセの律法のように細かな規則を並べるものとはなりません。律法の精神はイスラエルの心に刻まれるので、この契約が失敗することはないでしょう。(エレミヤ31:31-33)

5.では、この『新しい契約』は何時はじまるのでしょうか?
一時期の捕囚を解かれた民は、ユダ族を中心に神殿を建て直し、エルサレムを再建しましたから、以後はユダヤ人と呼ばれるようになります。神殿の再建は、ソロモンによって建立された神殿がバビロニア軍によって破壊された年から七十年が満ちた翌年のことであったと伝えられています。
帰還した一部の人々には『メシア』という偉大な王が現れて、ユダヤを以前のような独立し繁栄した国にしてくれるという預言がなされており、『新しい契約』が何かは分からないものの、その後ユダヤ人は『メシア』の到来を心待ちにするのでした。(イザヤ9:6-7)

6. しかし、『契約の使者』また『預言者エリヤ』という何者かの到来を予告する預言者マラキを最後に、イスラエル民族からは預言者は現れなくなってしまいます。それはあたかも、次の登場者に大いに期待をさせるかのような四百年に及ぶ神の沈黙に入ったかのようでした。(マラキ3:1/4:5-6)
『アブラハムの子孫』への約束は果たされずに終わるのでしょうか?
それからの期間に幾らかの書物も書かれましたが、霊感に欠けるうえ、ヘブライ語の原典が残っていなかったため、それらの雑多な書物はユダヤ人自身によって聖書には含まれませんでした。それらは外典また疑典と呼ばれます。




 ⇒§5.『新しい契約』の仲介者イエス


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§5.『新しい契約』の仲介者イエス

2012.12.08 (Sat)
§5.『新しい契約』の仲介者イエス

1.西暦29年、ユダヤの荒野に預言者の姿をした人物が現れます。
彼は名をヨハネと言って、ヨルダン川でユダヤ人に『悔い改めの浸礼(バプテスマ)』を施し始めます。(マルコ1:4-8)
それはユダヤ人が、それまでの律法契約を守らなかったことへの悔い改めを促し、彼の後に続く『メシア』のために心の整えられた民を準備するという役割がありました。(マラキ4:5-6/ルカ1:17)

2.ヨルダン川でヨハネがバプテスマを施しているところへ、ガリラヤの田舎から三十歳くらいの人物が訪ねてきますが、この方は昔から到来の予告された天からの人でありました。この人こそ、わたしたちがメシアまたキリストであると信じる方、ナザレのイエスです。(ヨハネ1:36/ルカ3:21-23)
この方がヨハネからバプテスマを受けると、イエスには天から聖霊がその上に降り、こうして神の任命を受けイエスはキリストとなられました。(使徒2:36)
ヨハネは彼を見ると、『見よ!神の子羊』と言ってユダヤの人々に示します。

3.イエスは聖霊という神からの力によって多くの奇跡を行われますが、それを困窮している身分の低い民のために行われます。(ルカ4:40)
また、事の本質を突いた発言は聴く人々をひきつけ、宗教家たちの間違いや偽善をも暴きます。(ルカ11:45-46)
そのため、キリスト・イエスは宗教家に蔑まれていた底辺の階層の人々と共にあり、尊大なところがありません。(マタイ9:10-13)

4.また、イエスはユダヤ人たちに『神の王国』について多くのことを伝えます。それは古代にアブラハムが、そしてモーセの律法が指し示していた『聖なる国民、王なる祭司』となる特権をユダヤ人により具体的に知らせることでした。(ルカ4:43/マタイ10:6-7)
ユダヤ人は律法契約には失敗しましたが、『諸国民が自らを祝福する』民となる希望は『新しい契約』によって残されており、キリストはユダヤ人に「許し」と『神の王国』への道を拓きます。
イエス・キリストはその『新しい契約』をユダヤ人が神と結ぶための仲介者となられるためにも来られたのです。(ヘブル9:15)

5.かつてモーセは言いました。『YHWHは、あなたの中、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない。』(申命記18:15)
そのときまでモーセを超えるような預言者は遂に起されていませんでしたが、イエスの行う奇跡も優れた言葉も、それはモーセを超える方であることを示していました。(ヘブル3:3)
そしてモーセが律法契約を仲介したように、イエスは新しい契約を仲介されます。それによって、今度こそイスラエル民族は『聖なる国民』となって諸国民の光のようになれるはずです。(使徒13:47)

6.しかし、イスラエルはここでも信仰の欠如から失敗を犯します。
せっかく現れたメシアをその通りには受け入れられませんでした。
特にユダヤの宗教家たちはイエスを憎み、契約に入るどころか、イエスを殺そうとしたのです。(使徒7:52)
これは彼らの父祖アブラハムの行ったこととは正反対であり、自ら『女の裔』の一員、『聖なる国民』に相応しくないことを証明してしまいました。
こうして、イスラエルは皆が国家として『聖なる者』となることはありませんでした。信仰を抱いた僅かな人々がイエスをメシア=キリストをして受け入れただけだったのです。(ローマ9:27)




§6.『聖なる国民』の誕生





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§6.『聖なる国民』の誕生

2012.12.08 (Sat)
§6.『聖なる国民』の誕生

1.イエス弟子の裏切りを使って、宗教家たちはイエスを捕まえることに成功します。それから『自分を神の子とした』ことが冒涜に当たるとして死刑の裁定を下しますが、これらはみな卑怯な不正の中で行われます。
それからローマ総督に引渡して無理やりに死刑にさせることまでします。
彼らは『この男の血(の責任)は自分らと子らにかかっても良い』と言ったと伝えられます。(ヨハネ19:7/マタイ27:25)

2.こうしてキリスト・イエスは極悪人として磔に処され、死を遂げられました。
それは『神の子羊』としての死でもあり、かつてエジプトの子羊が多くの初子を贖って救い、それがレヴィ族の祭司職を産み出したように、キリストの血は新たな祭司職を産み出すことになります。(ヘブル9:14)

3.イエスは墓に葬られますが三日目に生き返り弟子たちの前に現れるようになり四十日に及びます。
そして、繰り返し『約束された助け手』としての聖霊が彼ら弟子たちに降ることを話され、それから天に戻られました。(ヨハネ14:26/使徒1:5)
それから十日すると、ユダヤは五旬節(ペンテコステ)の祭りとなりますが、この日の朝に、集まっていた弟子たちの上に轟音と共に聖霊が降ります。
すると、彼らに奇跡の力が臨んで、各自がそれぞれ異国の言葉で神の壮大な事柄を話し出したのでした。(使徒2章)

4.これは『新しい契約』の発効であり、かつてエデンで宣せられた『女の裔』、アブラハムに約束され、モーセの律法が目指した『聖なる国民、祭司の王国』の人々の誕生であり、彼らこそが『神の王国』の一員で、しかも人類の罪を贖罪する『祭司たち』となる見込みを伴い、現実に現れたことを意味します。(ペテロ第一2:9)
しかし、彼らの身分は仮のものであり、死に至るまで試みられ、その後、正式に認証されて天に召されます。
そうして初めて彼らの数が揃い、天で王国が現れることになります。(ダニエル7:18)

5.これらの『聖なる者たち』に先立って、イエスはバプテスマの時に同時に聖霊を受けキリストに任命されていましたが、それが大祭司イエスの登場でありました。(マタイ3:16-17)
そして、このペンテコステの日以来、従属の祭司たちが聖霊を受けることによって任命され新たな誕生を始めます。(コリント第二5:5)
彼らは聖霊の賜物と呼ばれる奇跡の力を持つことで、キリスト・イエスに続く者であることを世にはっきりと示します。(ローマ8:29)
使徒パウロは、この聖霊の印が彼らの身分を証しするもので、それは彼らがイエスのように霊の体になること、新しい契約によってアブラハムの遺産を受け継ぐことになると書きました。(ローマ8:16-17)

6.しかし、キリストに属する聖なる者たちが『女の裔』の一部として、キリストの体、また神殿の石のひとつひとつとなるのは、彼らが忠節な生涯を送った後に復活か、あるいは天への召しを受けてからとなります。(ペテロ第一2:5/テモテ第二2:17)
彼らはイエスのように復活か天の召しによって実際に『新たな生命の状態に入り』霊の体を持つことで仮のものではない真の『新たな誕生』を得ます。(ローマ6:4)
その目的は、キリストと共に『王なる祭司』となって人類の罪を除き、その間にサタンの影響を排して、地上に幸福な支配を行うことにあることはアブラハム以来示されてきた通りです。

7.こうして『女の裔』の実体である『神の王国』が見えてきます。
実に聖書は、この人々を召し出すために書かれたと言って良いほどです。
つまり、その王国とは、大祭司キリストと従属の祭司たちでなる国家であり、ユダヤ人が夢見た世界を統べ治める大いなる王イエス・キリストを戴く神の現実の支配であり、その支配と贖罪によって人類は自らを祝福し、神の是認された『子』としての立場を回復し、人間の創造されたままの輝かしい姿、永遠の命の木から食すことを許され、神と共に永遠に地上を歩むことを可能にするものとなるのです。(イザヤ9:6-7)







以上の一連の記事をほかのシリーズと合わせた上で、平易な言葉に書き換え、設問を設けた書物にしました。
「聖書に流れる神のご意志」と題し、疑問を待つ教会員を主な対象として、聖書を再考する助けとなるよう作りました。詳細はこちらをご覧ください


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