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グレコ=ローマン型キリスト教との違い

2012.11.29 (Thu)
                                                  .

概要
今日のグレコ=ローマン型キリスト教は主流を占めています。
その主要な誘因を、目に留まる範囲で分析すると

「自分」が積極的に関わることのでき
「自分」の中にキリストを住まわせ神の是認を実感できる
つまり、自分を生き生きとさせ、快活にさせる効果としての信仰なのでしょう。

この願望そのものは何とも断じられるものではありません。

しかし、わざわざそれをキリスト教として展開されることで、キリスト教そのものが背景に押し遣られているように思えてなりません。

上記のような崇拝方式は「自分」を関心の中心に据え、「神は自分に何をしてくれるか」を問いかけるものではないでしょうか?それは例えボランティア活動に熱心で利他的慈愛溢れる活躍を賞される場合にあっても同様でしょう。

そこでは、神自身の意志は何か、神の行おうとすることは何かを問う姿勢はどうしても後退を余儀なくされることでしょう。

ニケアー会議以来のグレコ=ローマン型キリスト教は、ヘブライに伝わる根源の部分に敬意を払わず、当時の世俗的必要によって設立されたという当初のあり方をそのままに踏襲しているかのように見えます。

ユダヤ教は自らを僕として神を伏し拝み、キリスト教は神を崇めつつ、実は自分の僕にしているかのようです。
この視座から眺めるなら、キリスト教徒の姿勢は神と人の対立という構図で見ることができるほどです。

以下のようにどれほど多くの相違点を論ったとしても、問題の根源は、この崇拝の主体は何か?というところに帰るでしょう。
そこには、愛の対象の違い、それも主体は自分か神かという倫理問題が横たわっているように感じられてなりません。
例え、伝道活動にどれほど熱心であり、多くの人々を導いていたとしても、慈善活動に熱心で困窮に手を差し伸べていても、この問いについてはその人の内奥の如何が答えられたわけではないでしょう。専らに自分を愛していないとは外からはよくは分かりません。

その一方で、価値観の耳を欹て、精緻に聖書全巻の記述を追うなら、そこに数千年に及ぶ神の計画と足取りを見ることができ、その素晴らしさには唯々圧倒されるばかりです。
この神のご意志と、為さる事柄に対しては、畏怖の念の内に謙虚に分を弁え、ひたすらその道を尋ねて「求め続け、敲き続ける」以外にありません。

このように関心の対象を違えることは、多くのキリスト教会の事情を知るに従い、どれほど対照的であるかを思い知らされております。



以下はその違いの顕れとしての論議と云えます
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◆「新約時代のクリスチャンは確かに主の血にあずかり、値なくして罪をゆるされ、祝福にあずかるものです。そのことは事実です。」

A:聖霊を受ける聖徒が罪を許され、祝福されると言うなら間違いではないし、かつて初代キリスト教徒にあってそのような時代もあった。それを現代人が聖書で読み、書かれたままに自分のことであると思い込んで上記のように言う人は非常に多いが、自分のメリットを探して聖書を浅く読むところに原因があると思われる。

聖徒(ハギオス)という限られた人々が、人類全体に対する祭司職を得る「神の王国」を救済機関とされ、そのとき生きるすべての人の罪を贖うというのが聖書の神の計画であり、その王国の王がキリストとなる。
他方、「聖徒」以外の教徒は「信徒」(ピストス)であるので、「クリスチャンが誰でも救われる」としてしまうと、「救い」の範囲は極めて狭くなり、全人類に向けられた神の善意を少数のクリスチャンだけのものにしてしまう。

そこに表される精神は、閉鎖性と優越感、偏狭さと公正さ、ほどにまったく異なってくる。

今日、聖霊を受けた聖徒は誰も居ないうえに、将来には人類の裁きを控えているので罪の許しも祝福もなお将来に確定するものであり、現在は「事実」とはなっていない。

聖徒とは聖霊の賜物を受けた人のことであるが、初代キリスト教徒以降、聖霊の賜物は絶え、キリストも王権を得る旅に出て不在となった。
その影響はキリスト教界が、知識に蒙昧で敵意の内に分裂しており、世の抗争に加担し、この世への貢献を旨とするところなどに、聖霊も神の是認も持ってはいないことが明白に顕れている。

上記の提題のような捉え方が今日にもたらしかねないものは、何故、特定の人々だけが罪の赦しを受けたかについての理由とその責務についての無頓着であり、そのこと自体が「主の血に与る」に相応しくないことを証してしまっている。また、自己中心な優越感と部外者への蔑みを懐くおそれもあるだろう。理由は、聖徒としての務めを負う意識なく、その特権だけを受けようとするからである。


・私たちには、救い主が必要です。イエス・キリストを心にお迎えすることによって、あなたは永遠の地獄から救われるのです。
A:将来に人類の裁きが控えているために、今現在に救いを確定することは無理であり、人の利己心に訴えて救いを求めさせるなら、それは神の意志を無視するばかりか、キリストの自己犠牲の精神にも逆行するものである。そこに大志も隣人愛も無い。少女趣味的なご利益の夢想ではないか。そのうえ、終末の裁きで何が問われるかについて、信徒を盲目にならせる危険を冒してはいないか。


・あなたが心のとびらを開くことによって、イエス様をお招きすることができました。聖なるイエス様は、私たちのいのちの中におられ、天国の岸辺に導かれるまで共にいてくださるのです。
A:これではキリストは信者個人のコンパニオンまたは下僕ではないか。利己主義の塊というべきである。
キリストが聖霊によって人に住むとは、『約束の聖霊』を受けた人類救済に命を賭す『聖徒』と呼ばれる人々だけが、その義の信用借りによって経験し得ることであって、それは彼らに王国という神の偉大な手段を与えるためのものであり、個人の救済を約束するような軟弱なものではない。問われるのは、イエスが個人のために何を為すかではなく、個人がイエスと協働して人類共済に何を為すかである。(コリント第二5:14-15)


・聖霊とは、三位一体の第三の位格であり、良心のささやきです。あなたが罪を犯したり、悪いことをする時にはあなたの罪を知らせ、また悲しみます。でも正しい時には平安をもたらすと、聖書には書いてあります。聖霊はあなたの教師であり、正しいことへ導き、聖書を理解する手助けもしてくれます。
A:その目的は個人の善行による神の是認の獲得であり、『罪』が何かを見紛わせる律法主義への後退である。
またスピリチャルとどう異なるのか?聖霊は主ご自身や使徒、また聖徒たちに奇跡を行わせた神の威力であって、他者から観察され信仰を惹き起こすものであり、個人へのささやきなどではない。パウロは霊の顕現を「ファネローシス」と呼んで、それは誰にも明瞭なものであったことを伝えている。良心は個人に属するものだが、聖霊はそうではない。三位一体とは神やキリストの観点からすれば、随分と迷惑なことにならないか?異教の蔓延ったヘレニズムの古代思想の三位一体をキリスト教に持ち込んだ上、よくも21世紀の今日までそこで足踏みを続けられたものと却って感心させられる程ではあるが。いずれにせよ、「聖書は個人の人生の案内書」では無く、それを遥かに超えている。聖書を知る程に、それが見えて来よう。



・毎日、聖書を読みましょう。神様があなたに語りかけていることが分かります。

A:毎日読むのはよいことだが、聖書が語りかけるのはまず「女の裔」また「聖徒」に対してであり、その記述の大半はそのようである。我々はこの『諸国民の光』となる人々についての情報から間接的な益に預かるのである。

また、実際にはユダヤ人も、どんな学者も聖書の全部を理解できているわけではなく、謎の部分、将来に分かるであろう重要な部分も多く、読むことはできても隠されている内容も非常に多く、これは「語りかけている」とは言い難い。イエスは『耳ある者は聴け』と言われたが、それは今日も変わらず、読んでそのまま理解できるところは多くはなく、聖書は、多くの人々に依然として隠された本と言える。

また、聖書が「あなた」と呼びかけるとき、それがいつも自分だと思う傲慢さを培って何の益があろうか。聖書全巻の知識の不足がこれをもたらしている。したがって、聖書を読む際には、まず全体の状況を私情を挟まず冷静に把握しなければならない。キリストは常々『耳有る者は聴け』と述べ、情報を得る者が誰でも益を得るわけではないことを証している。

加えて、教師が聖書通読を薦めるとしても、それは一二回で充分であり、通読ばかりに専念すると表面に触れただけで深く熟考する事ができない。むしろ、部分を繰り返し読み、注意を集中して他の箇所との関連を探るべきであり、それを全体に及ぼしてゆく方が良い。そうでなければ、却っていつまでも全体を熟知できないだろう。


◆ある人はキリスト教の完成がキリスト後であることにフラストレーションをもつ

A:それは使徒時代の聖霊降下によるキリストの監臨の意義の知識が無いか信じられないため
キリストは復活後、天から「約束の聖霊」を送ったが、その聖霊の働きを通して初代の弟子たちに知識を与え続け、こうしてキリスト教がひとたび完成をみる。それは最後の使徒ヨハネの黙示録を含む著作を中心に小アジアから受け継がれるはずであった。


◆新生とは、「二度目の誕生をする」という意味です。罪人は、イエスのバプテスマと十字架とを信じて霊的に救われて新たに生まれ、義人となります。
人はイエスのバプテスマと血を信じて霊的に新たに生まれることができます。新たに生まれた者とは、すべての罪を洗われ、イエスの再臨を待ち望んでいる人々です。


A:「新生」とされるものがヨハネ福音書第三章の記述に基づくものであれば、その新たな誕生とは、アブラハムの裔が真に「神の特別な所有に帰する民」としてメシアと共に「神の王国」で「王なる祭司」となるべく、アダム由来の「罪」ある肉の命を去って天の霊の命に移されるべきこと、また地上に「罪」ある肉体として在る間から聖霊を受け、その選びに相応しく産み出されることを象徴的に述べていたのであり、「新しい契約」に与る人々の状態を説明するものであった。
契約参与者はまずユダヤ人であり、次いで選ばれた異邦人であったが現在は誰も居ない。

人は、何かの機会に自分を改善したいものである。
それがバプテスマや、回心を以って自分は変わったと思う心理作用ならば、そう長続きするものではない。
なぜなら、実際には然したる変化は起きておらず、それでも自分が新生したと思うのは自由ながら、その意味するところは個人という極めて小さい範囲のものである。

その再び生まれることはイエス帰天直後の五旬節を以って開始された。それ以来、聖霊の賜物を受ける者は天に召された者、キリストの体を構成する神殿の石となるからには、地上に居る間から彼らの「罪」が赦され「義」が仮に承認される必要があった。その状態は、アダムではなくイエスの命に在って生きるのでなければならなかった。彼らはキリストと共に死に、その復活によって共に生きることをパウロは再三説いている。
彼らは律法下の祭司のように民に先立って贖罪されなければならなかったからである。そうでなければ、人類の贖罪を為す立場に就くことは無い。

それは限定された人々だけに承認されることであり、信仰もてば誰でもという類のものではけっしてない。
聖霊の賜物は初代の弟子たちと時を同じくするかのように一度天に引き挙げられ、キリストの不在の開始を印象付ける仕方で今日まで中断している。
また水のバプテスマが人の「罪」を除くことはなく、それがペテロによって「浄めの水」(祭司を含意)に例えられるのは聖霊を受ける人々だけに向けられた言葉となっている。生ける一般人の贖罪は「神の王国」でのキリストの贖いを待たねばならない。そこでいう「罪」とはアダム由来の「罪」であり、社会一般的な罪を意味しない。
上記のような見方は、「新しい契約」の意義を把握することではじめて改善される。



▼キリスト教徒による現イスラエル民族への過剰な期待

●ユダヤ人の選びの永続性を認めているのかいないのか?
A:血統上のイスラエルには認めない。
血統上のイスラエル体制はメシアを明確に拒絶し殺害に及んだため、その世代の内に神殿を破壊されモーセの律法の履行は不可能とされた。それは処罰であって律法契約の終焉であった。前後して神が肉のイスラエルを去って、新しい契約下の異邦人を含む「神のイスラエル」をアブラハムの真の子孫と見做しはじめたことにより、そちらを「王なる祭司、聖なる国民」である選民とし「諸国民の光」とすることに決した。この入れ替えがないなら、そもそも「新しい契約」を締結する意味はなかった。聖霊の印はイエス派には降下してもユダヤ体制には与えられていない。

●具体的には、1948年のイスラエル建国と1967年のエルサレム奪還を預言の成就と認めるのかどうか?
A:認めない
「預言者たち」の「回復の預言」は一度、バビロン捕囚からの帰還を通して成就した。しかし、将来の対型的成就は、本来「新しい契約」に関わる聖霊を受けた「聖徒」たちと周辺に関して成し遂げられるものとなる。その「回復」とはユダヤ教ではなくキリスト教においての聖霊による「回復」であり、終末に於けるキリストの帰還による真正なキリスト教の回復を意味する。
しかし、上記の出来事は単なる宗教による民族の抗争でしかない。そこにヨシュアのカナン入植のような神の是認や優越の意識があるなら、征圧される側からすれば益々受け入れ難いことに違いない。より平和的共存を妨げたのは上記のような思い込みであろう。⇒「聖霊によるキリスト教の回復」

●今はイエスを拒否しているユダヤ人の救いが、終末には完成することを認めるのかどうか?
A:認めない
ユダヤ人は新しい契約に入るのでない限り、血統ゆえの体制としては既に「神の特別な所有に帰する民」の特権を失っており、その原因はメシア拒絶であった。現在のユダヤ人は神からの恩寵の点で他のいかなる民族から抜きん出るところはもはやない。メシア信仰は個人が見出すものであり、イスラエルの『残りの者だけが帰ってくる』。また、諸国民がアブラハムの食卓に就き、一方で血統上のイスラエルは退けられることはイエスによってもパウロによっても語られている。
イスラエルへの「回復の預言」は、血統のイスラエルではなく、『神のイスラエル』に起るのであり、それは『民でなかった者らを、わたしの民と呼ぶ』という言葉にもある通り、『水と霊から生まれた』人々、終末の『聖徒』の回復によって成就されるものである。
また、体制の改宗には大衆化と教理の劣化が避けられないものである。それはキリスト教に回復ではなく汚染をもたらすに違いない。それはイスラエルの歴史も証明しているのであり、人々はそこから学ぶ必要がある。


●「十戒」をキリスト教徒にも適用されるものと認めるか?
A:認めない
十戒の石板の存在は、律法契約の証として意義があったものであるから、人手によって書かれたのではないという理由だけで、人類全体に与えられたものと考えるべきではない。そもそも律法は『ヤコブに与えられた』ものであり、契約に入ったのはイスラエル民族である。(詩篇147:19)
その一方で、ヨブ記は契約の外にある人々には、道徳上の因果応報が通用しないことを明らかにしており、後代のキリスト教を予示している。

十戒は「契約の箱」に納められ、その箱は全能の神がなぜ罪ある一民族に帯同し、その戦いに肩入れするのかを、そこにイスラエルとの契約が存在することを表明する「証」であった。

新しい契約が到来し、パウロが「キリストは律法の終わり」と宣言したように、新しい契約に入ったユダヤ人ですら律法履行の務めから解かれたのである。イエスの「一点、一画・・」の発言は、『罪を明らかにする』律法の働きを述べたものであり、その精神に沿って生きる務めは千年期に到来する。但し、現在はこの十ヶ条とはいえパリサイのように律法の業に腐心することにはならない。

律法が契約であった以上「律法のひとつを守る者はそのすべてを守る義務が生じる」ゆえに、十戒であっても取り除かれた律法の例外的存続部分となることはない。キリスト教徒の負うべきものは「愛の掟」以外に無い。十戒と雖もやはり律法であり、外的規制であるのに対し、アガペーは次元が異なっている。これこそ内的規制であり、キリスト教がユダヤ教から脱皮した優美さを示している。⇒「キリスト教の神髄「愛の掟」」












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