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洗礼で聖霊を受けるか (回答)

2012.09.25 (Tue)
さて、ご質問の件ですが
Act2:28『悔い改めなさい、そしてあなたがた一人一人が罪の許しを受けるためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう』

これは割りに簡単な答えになります。

と言いますのも、使徒言行録第二章では、語られた相手が我々とは異なる立場にあったからです。

当日の背景を見ればこれは明瞭です。
つまりユダヤのシャブオート(五旬節)の祭りの当日であり、まさに聖徒が最初に産み出された日で、今後はまずユダヤ人の中から聖徒を増やしてゆかねばなりません。
彼らは割礼を受けたモーセの律法契約に預かる民であって、律法不履行の罪から「救われる」ことは、父祖の罪に連なることに咎めを感じていた良心の鋭い人にとっては大いに望ましいことであったでしょう。(Deu28:15/Gal 3:13)

この「救い」についてはユダヤ人と異邦人に差異があります。
ユダヤ人は律法契約に関して神の前に異邦人には無い『呪い』を負っておりました。
彼らがその罪から「救われる」にはメシアを受け入れて「新しい契約」に与る以外に道がありません。殊に聖徒出現の当初においては強くそう言えるでしょう。

彼らの「悔い改め」とはバプテストのヨハネが促していた、律法不遵守とその結果である契約の廃棄に対する自分たち民族の不行跡についてのこと、これは当時のユダヤ人であれば心の痛むことであったに違いありません。
ヨハネの許を訪ね、悔い改めのバプテスマを受けたのはユダヤ人であり、この点で心を整え、メシアと新しい契約へと備えられました。したがって彼の「悔い改めのバプテスマ」がユダヤ人に限るものであることは時代の背景から明らかに見えています。(Luk1:17)

このヨハネはユダヤ=イスラエルに警告を与える古い型の最後の預言者でありました。
続いてキリストが現れ、そのユダヤ人の弟子なるには、まず第一に血統上のアブラハムの裔が律法契約の破綻を「悔い改め」て、それから「新しい契約」に入り「救われて」「聖霊を受ける」機会を提供する務めがありました。
それは神がアブラハムに約した事柄を、血統のままの裔に果たす意図に基づくものであったでしょう。(Gen12:3)

この時点であれば、引用のように『聖霊のバプテスマとは、罪の赦しを受けた者に与えられる、神様の恵みの賜物です』と言うことは可能です。

一方で、キリストの水のバプテスマはユダヤ人に関するものだけではなくなります。
フィリッポスがサマリアの人々やエチオピアの宦官にも水のバプテスマを施すきっかけを作ったのは、ユダヤ人のメシアの弟子らへの迫害であり、メシアの更なる拒絶と言えるでしょう。
そうして、ユダヤ人の体制がメシアに対する拒否を更に加えて明らかにすることで、自動的にメシアの「救い」は非イスラエルに向かいはじめます。
特に、ペテロがコルネリウスを訪ね、無割礼のまったく律法に関わらなかった異邦人にも聖霊が注がれて、「救い」は新たな意味を持つようになります。異邦人にもアダムの罪がありユダヤ人とは異なるものの、彼らも悔いるべきものがあります。

しかし、異邦人は律法契約の呪いを負いませんので、彼らの救いは必ずしも「新しい契約」に与る必要はありません。もともと契約に関わるアブラハムの裔ではないからです。
それでも、コルネリウスをはじめとした異邦人からこの契約に参与する人々が出たことは、即ちユダヤ人が拒絶の意志を明確にした為、神の側でメシアの下での祭司を補充するための行動であり、これはオリーヴの接木のたとえにも明らかです。

続くAct2:29で『この約束はあなたがたとあなたがたの子ら、遠くの者ら一同、そして神の召しに与るすべての者に与えられている』と続ける理由もここにあるでしょう。
つまり『約束』とは神がアブラハムに与えたものなので、ユダヤ人を意味する『あなたがたとあなたがたの子ら』という血統、そして『遠くの者ら一同』つまりディアスポラしている同胞を指していると読めます。
但し、最後の『神の召しに与るすべての者に』は異邦人を含むか定かでありませんが、後にパウロも言うように『神の言葉は、まずあなたがた(ユダヤ人)にこそ語られるべきでした』し、『約束』に与る以上は、特に異邦人であれば『招かれ』『選ばれる』からには誰にでもということはあり得ません。(Act13:46)

したがって、神の前におけるユダヤ人の状況を異邦人のものと混ぜこぜにして誰かれ構わずに『聖霊のバプテスマとは、罪の赦しを受けた者に与えられる、神様の恵みの賜物です』と言うことは、聖書全体の理解からすると成り立ちません。Act2:28の水のバプテスマを受ければ聖霊も受ける、というのは五旬節当時からしばらくのユダヤ人にのみに適用でき、また確言できる言葉であったからです。(おそらく異邦人にこのように語った場面はなかったでしょうし、コルネリウスには聖霊が先んじています)


こうした誤解もユダヤ教とキリスト教の不和の悪影響のひとつでしょうか?ユダヤ側から見ればパウロの発言の意味など一目瞭然でしょうが、あちらはキリスト教も新約聖書も認めず読まず、むしろパウロを何とか殺害したいとの強い意志を抱き続けたほどでした。

他方でキリスト教と言えば、ユダヤ教を主殺しの迫害者として嫌い、新約をかつて異邦人のあいだで流行したヘレニズム式に解釈しては、ユダヤ教から遊離した独自な教理を作ってしまって悦に入り、こうして双方を結ぶ理解によって打ち立てられるべき高度な教理は潰えてしまい、共に神の経綸の全体像については依然どちらも蒙昧の中に留まって、片や懐古に浸り、片や幼稚に夢見ています。
これほど重大な理解に双方が揃って背を向けたように、旧約と新約に分断されたこの実情は非常に奇異で嘆かわしい状態と云わねばなりません。

聖書を読むときは、前後の文脈はもちろんのこと、全体の知識との調和のうちに理解されてゆく必要があります。
そこに求められるのは、聖書全巻とユダヤ=イスラエルに対して該博であることでしょう。(ギリシア語はずっと付加的です)
今は「新約時代」だから新約を中心に・・という見方は、新旧の聖書が如何に緻密に絡み合っているかの醍醐味を幾らも味わったことのない人だけが主張し兼ねない単純な割り切りと云うべきでしょう。

聖書中に何かひとつの言葉を見つけて、「そこにそう書いてあるのだからそうなのだ」式の信仰は、「点と線」のような理解でしかありません。機械的に聖句を覚えて羅列できたところで、少なくとも歴史や文化という「面」の把握にはなりません。それでも聖書を理解したと思うような「クリスチャン」をよく見かけます。
このような「信仰」はどうやら英米にルーツがあるようで、日本までもがこれを無抵抗に受け入れる愚は、是非とも避けるべきであると常々痛感いたしております。

これも詰まるところ、関心の対象が神なのか自分なのかという問題を孕んでいるようです。
教会の信者に、「水のバプテスマを受けてもあなたがたには聖霊はありませんし、いつか天のイエスの身許にゆくこともありません」と言えば激しい反発を招くことは目に見えています。

その希望は、元々『神のイスラエル』となって、天からこの世のすべての人々の贖罪を行う、祭司として『世の光』となる『聖徒』の極めて異例な高い立場にこそ与えられるものなのですが、その美味しい部分だけ約束されてしまい、迫害の死をも辞さないほどの世界宣教に聖霊と共に邁進する苦難の部分は知らされず、教会の信者獲得の策にはまったものですから、まるでご馳走を引っ込められたかのような不満が感じられるとしても、無理はありません。

ですが、キリスト教にアプローチしていながら、利己心を煽られるという矛盾には気付けないものでしょうか?
たいていの宗教はご利益目当てで入信するものという一般的な常識からすると、「クリスチャン」でもよほどの倫理観や潔さを持っているような方でもないと、これは高望みかもしれませんね。

残念ですが、それが現実なのでしょう。





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キリストの果たす役割8

2012.09.10 (Mon)
創造の助け手としての御子

さて、神に最初に創造されたという『知恵』(ホクマー)と呼ばれる者が存在します。(箴言8)
彼は、創造の業において神の代行者となり『名匠』ともなったと箴言にあります。
しかし、ユダヤ人はこれを充分に啓示されていなかったので、この『知恵』が何を表しているのかは謎のままでした。

しかし、新約聖書の筆記者たちは、この「創造の初め」であり神以外を創った者について証しをして書いています。
十二使徒のヨハネは、その福音者の初めの部分でこのように述べています。
『初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。それは初めに神と共にあった。すべてのものは、それ(言葉“ロゴス”)によって生じた。それを離れて生じたものは一つとしてなかった。』(ヨハネ1:1~3)

更にパウロも、コロサイ人への手紙の中で、この件について疑いようのない記述をしています。
『彼(イエス)は、見えない神の像であって、全創造物の初子である。すべての物は、天にあるものも地にあるものも、見えるものも見えないものも、王座も主権も、支配も権威も、みな彼によって造られた。すべての物は彼を通じて、彼のために創造されたのである。』(コロサイ1:15・16)

こうしてキリスト・イエスの由来はキリストの弟子となったユダヤ人には啓示され明らかとなりました。
イエスが、創造の根源者である神を『父』と呼ぶのはこのように適切であり、同時にキリスト・イエス自身も神のような方であり、旧約聖書では、イエスの「父」を『全能の神』(エル・シャダイ)と呼び、御子イエスを『大能の神』(エル・ギッボール)と称し、父に従属する方であることを明らかにしています。(イザヤ9:6)

これについてはパウロもテモテ第一6:15で、天に昇ったイエスを『大能の神』と呼んでいることに一致し、ヨハネ福音書の冒頭でイエスを「言葉」として『言葉は神と共にあった。言葉は神であった』と記しました。ヨハネは、このふたつ目の『神』の語には定冠詞を付さず、最初に現れる『神』の語との区別を設けているのはそのためでしょう。

ヨハネは続けて『こうして言葉は肉体となって我らの間に宿った。我らはその栄光を目にした。それは父のひとり子の栄光であり、慈愛と真実とに満ちていた』。と書き記し、父なる神に次ぐ方が地上に来られたことを証ししています。(ヨハネ1:14)

御子は天を一時去って、ダヴィデ王の家系に属する大工ヨセフの婚約者マリアの胎内に移り、この夫婦の帰省先のベツレヘムで預言の通りに誕生しましたが、その命はアダムに連ならず、その罪を受け継いでいません。

この御子が人間イエスとなって地上に在られる間にも、神である父に対する深い愛情や尊敬を度々示されました。
殊に、御父の崇拝されるエルサレムの神殿について、そこが汚されることに対しては他では見られない敢然とした行動に出られました。

イスラエルの至聖なる神YHWHの『名が置かれる』家であったエルサレムの神殿は、イエスにとっては少年の時から『父の家』でありました。
しかし当時には、そこで犠牲を捧げるための動物や鳥たちを暴利で売る商売人たちや両替商が境内を占め、長さ450mある神域の間を神聖視せずに近道として荷物を運搬する認識の無い者らがいました。

今や、聖霊が降り正式にキリストとなられたイエスはこれを許されません。縄をむちとされ動物を追い出し、商人たちの机をひっくり返し『わたしの父の家は「諸国民の祈りの家と呼ばれるであろう」と書いてあるのに、お前たちはそれを強盗の巣窟にした!』と叫びます。(イザヤ56:7/マラキ3:1-3)

その勢いには弟子たちも唖然とさせられたようです。彼らは『神の家に対する熱心がわたしを食らい尽くす』という詩篇の言葉を目の当たりにしたと言われますが、イエスがこのように実力を振るったことは他に記録されておりません。それほどイエスの父への思慕はまことに強固であったと言えましょう。(ヨハネ2:17/詩篇69)

このように父に対してはその神聖さを擁護する格別な熱意を行動にまで表す一方、イエスは当時の宗教家たちのような大仰な盛装をせず、上等の亜麻布の上衣を着けてもずっと質素な身なりで生涯を通されました。そのことを指してか、イザヤの預言書は『彼には堂々たる姿も光輝もなく、我らに彼を望ましく見せる外見もない』とあります。(イザヤ53:2)

エルサレムの人々はイエスをガリラヤの田舎者と見なしてもいました。こうした廉直さをイエス自身は『わたしは父を尊んでいる』と語り『わたしが自分に栄光を付すのは空しい』とも言われます。つまりご自分の質素な佇まいによって神の前に謙虚に振舞われます。(ヨハネ8:49.54)

裁きについても『子は父のなさることを見てする以外に、自分からは何事も行うことができない』と言われ『わたしは、自分から(独自に)は何事もすることができない。ただ聞いた通りに裁くのである』。とも語って父を高めます。

その一方で、『わたしを信じないとしても、父がわたしに行わせる(奇跡の)業は信じよ』。
また父の神殿を清める強い熱心を示す一方で、ご自分については『人の子を罵倒する者も許される』と言われるのです。(ヨハネ10:38/ルカ12:10)

イエスは事毎に父に頼って祈り、『苦しみを通して従順を学ばれた』とも書かれています。そして、この試みに打ち勝ち世を征服された御子を、神は復活させ天に帰らせました。(ヘブル5:8)

それは、最期まで父である神を高め、忠節を尽くした生涯でありました。父子は愛で強固に結ばれており、また人を造られた「知恵」(ホクマー)としての人間への愛をこの上ない仕方で表す生き方でもありました。
このように、キリスト・イエスは神と人を深く愛して双方を繋ぐ絆となられました。

ですから、イエスは人々の罪の犠牲となっただけではなく、父である全能の神を高めることにおいても大きな働きをなさっていたのです。
そのことは、ひとつの極めて重要な証明を創造された世界全体にもたらすことにもなりました。

では、次にそれがどんな証明であったかに注目しましょう。



 ⇒ 父の神性の立証












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キリストの果たす役割9

2012.09.10 (Mon)
父の神性の立証

キリストが大祭司、また偉大な王に任じられ、人類の罪を贖い、千年間地上の社会を治めて、人間を創造されたままの罪のない状態に戻し、そうして神と和解させ「神の子」に復帰させる務めを果たすことについてをこれまで見てきました。

これらの務めのすべては人間に関わることでしたが、実はキリストには『父なる神』についても成し遂げることがあります。

人間は神に創造された知性ある存在です。人間は「神」という概念を持ち、また理解します。その理由は、本来人間が、神と意志を通わせ、その交友を享受し、幾多の益に与ることができるように創られたからといってよいでしょう。
しかし、そのように神と意志を通わせるのは人間だけではありませんでした。物質ではない領域に創造された天使たちも、天界というより神に近いところにあって神との交友を享受し、また神の使いとして仕えています。

これらの天使たちの中の『ケルヴ』と呼ばれる種類の使いのひとりは、たいへん有能で美しかったとされています。(エゼキエル28)
この使いは、その優れた立場に酔って高慢になり、創造の父である神の意志に従うことから離れようとしました。

彼は「反抗者」を意味する「サタン」と呼ばれることになりますが、自分と同じように神の創造の意図を離れ、神の意志から離れた生き方をするよう他の者たちにも働きかけるので「中傷者」を意味する「悪魔」(ディアボロス)とも呼ばれるようになりました。
このサタンは、エデンの園でエヴァを誘惑して、人類最初の夫婦を神から引き離すことに成功しましたが、こうして人間は、自分たちの作り手である父の意志に従うことを離れて、自由勝手に生きることを選びます。

それは、自分たちが創造されたにも関わらず、そのことを意に介さないで生きることであり、創造物としてではなく恰も『神のようになって』善悪を自分たちで決めることでしたが、この倫理的欠陥は遺伝によって人類全体が背負うものとなりました。(ローマ5:12)

今日の人類は、このような倫理の基礎を損なった状態にあるので、皆が倫理上に欠陥を持っています。それで人間社会には不義や争いが絶えることがありません。
この人間の「罪」は、キリストが大祭司となって贖いを適用してくださることになるのですが、そのことについては以前に書いた通りです。

さて、サタンはエヴァをたぶらかしたように、天界の使いたちをも誘惑し『三分の一』とも言われる相当数の天使を堕落させることに成功します。
このひとりの天使の創造物としての逸脱は地上だけでなく、そうして天界にも影響を及ぼしました。(黙示録12:4/ペテロ第一3:19-20/創世記6:1-2)

その結果、「創造の父をどう見なすか」という問いが天地のすべての理知ある創造物に投げかけられました。
創造の父を神として、その意志を尊重して生きるべきか。あるいは、生まれた以上は自分の思う通りの自由にしたいのか。という生き方の違いがそこにあります。

ですが、創造されたものには、創造の意図があり、それを離れてしまうと自分たちの設計された通りの働きからずれてしまい。創造者からしてみれば、創造の意義は成し遂げられません。
加えて、創造の父を否むことは、倫理破壊の道をずっと歩まねばなりません。したがって、創造者から離れた独立的な生き方の道を歩む者は自らを傷つけるだけでなく、創造された世界全体をも害することになります。そのように倫理的に害された世界が確かにわたしたちの目の前に存在しており「この世」と呼ばれています。

そこで、神は全能性を発揮して、この事態をいつまでもは容認されず、時を定めてその道をゆく者らの歩みを終わらせます。
創造者である父を神として、創造の企図に沿って生きることこそが正義であり、創られたものすべての益であることを全創造界は味わい知らねばなりません。

これには創造者の「神性の立証」が掛かっています。現在の人間社会を見ても、人々は創造主をそのご意志に従うべき神として認めた生活を送っているようには見えません。それは聖書の神を信仰するという人たちにしても同様です。
この状況が示すことは、アダム以来、創造者の立場に変化は無いということでしょう。

このような創造主への無関心をサタンは喜んでいることでしょう。使徒ヨハネは『世は邪悪な者の支配下にある』と書いて、神を無視する風潮の源を明かしています。
それは、神を信じると唱える人々の中にも、利己的に自分の救いなどの益を求めて、神には無頓着な態度を持つことにおいて、結果としてはサタンの精神を抱いてしまうことでは変わりありません。

父である神を深く愛する御子は、創造界が神を崇めてはいない状況を極めて残念に思っていたことでしょう。
神ご自身も、サタンの傲慢な独立によって生じたこの問題をいつまでも放置することはありません。ご自分の「象り」に創られた理知ある被造物の自由な意思を尊重しつつも、その全能性に違わず創造の企図を必ず実現されます。

創造のままの調和した世界をもたらすために、神は最初で唯一自ら作られた御子を、すべての創造物の一致の要とすることにされました。(コロサイ1:20)
神の「ひとり子」は、第一原因者である「全能の神」に次ぐ「大能の神」に位される方ですから、この第二の地位に在られる方が、第一の神を愛し、その意図に従うなら、他のすべての被造物もそのようにすべき道理が生じます。

サタンは、人間社会に来られた御子を誘惑し、躓かせることができたなら、創造界が神に従う理由を失わせることもできたでしょう。
そのような生き方は、虚しく刹那的なものではありますが、自分の思うがままに生きるということで神から独立し解放されたと看做すことが彼らにはできるのでしょう。

しかし、キリスト・イエスは誘惑を退け、父の神性を一心に支持して、死に至るまでの忠節を示されました。
これはサタンからすれば、独立の歩みの根拠を失わせ、創造物すべてが父を神として仰ぐべき理由を証しされてしまったことにおいて、まったくの敗北となりました。それはサタンに従った霊者たちにしても同様です。 この点について、ヘブル書には次のようにあります。『その死によって、死の強い力を司る者を無に帰せしめる[カタルゲオー]ためでした、その者とは悪魔[ディアボロス]です。』(ヘブル2:14)

キリストは父の神性を立証する死を遂げられた後、再び霊者となってから、この論議の結論を堕落した天使たちにも通知しました。聖書はそのことを、キリストは霊に復活された後『獄にある霊たちに宣告された』と記しています。この論争には、はっきりと決着がつきました。もはやサタンをはじめ自らを「神のようにする」者らからの反論の不可能となりました。(ペテロ第一3:19)

こうして御父こそが神であることを命を賭けて立証したキリストは、創造界の一切をご自分において一致させるという父の意志に適うものとなられ、いまや、その権限を行使される時が神から示されるのを、父の右に在って待っておられます。(詩篇110:1-2/フィリピ2:8-11)
その「時」は、キリストが天にあるもの、地にあるものの一切への権限を与えられた「王の王、主の主」として、自分を「神のようなもの」とするすべてのものを一掃する権力を行使する日であり、人類にとっても「裁きの日」となるでしょう。

そこで問われるのは、神を神とするか、というエデンのときと同じ事柄となります。
人類は、雲と共に来るキリストの姿を直接には見ることはありませんが、信仰ある人々に聖霊を注ぎだし、世の為政者らに対しご自分の代理大使として聖霊の言葉を彼らに語らせ、またモーセの時のように多くの徴となる奇跡を行わせるでしょう。
こうして、初めて聖霊の奇跡を見聞きする人類全体が真の信仰を抱く機会を得られます。

その人々もサタンの強い誘惑を受けることでしょうが、信仰を守ろうとする人々は強固に守られた古代の先例のように安全に保たれます。
これら一連の「終わりの日」の裁きを主導するのはキリストであり、それから救われる人類は、今日の「欲」が支配する社会を去って、まったく新しい「愛」の支配する輝かしい「神の王国」を受けることになってゆきます。

こうして、生ける人々は「罪」を浄められ、創造された通りの「神の子」への復帰を果たす道筋に入ることになるでしょう。
神と人との仲介者として任命を受けた「ひとり子」は見事にこれらのことすべての礎となる犠牲の死を遂げられました。

それから二千年が過ぎようとしていますが、純粋であった初代キリスト教は今日見る影も無いほど異教や哲学などと混濁していますし、世界はますます不安定な方向に進んでしまっているように見えます。
人間の力で、このような状況をまったく改めることができるものでしょうか。むしろ、こうした人間の弱さこそが救世主キリストの浄める御力を際立たせることになるでしょう。

人の待つべきは、対症療法のような人間の政治や宗教という応急処置ではなく、神の任じた偉大なる王にして大祭司であられる方の到来以外にありません。この方の支配こそが根本治療となることは、どれほど科学が発達しようと、いかに優れた指導者が現れようとけっして揺らぐことのない真実です。


さて、イエス・キリストの果たす役割を様々な角度から見ましたが、結論として、この方こそ世界にとって欠くことのできないあらゆる事柄の「救世主」であり、神と人への愛の最大の模範者であることが明らかです。(使徒4:12)

今、ご自身は聖霊による弟子たちへの指導を再び始める時を、御父の右に座して待っていらっしゃいます。
そして、ひとたび行動を起されるなら、時を延ばさずに短期間にすべてを裁かれ、「神の王国」をもたらされることでしょう。

キリストは最後の使徒ヨハネにこう言われました。
『わたしは速やかに来る』。(黙示録22:20)

それゆえ、わたしたち一人一人がこの方をどうお迎えするかは極めて重要、いや最重要の事柄となるでしょう。

















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ご質問エフェソスsep.6.12

2012.09.06 (Thu)
ご質問の件


お使いの翻訳は新改訳のようですね。

Eph2:19
αρα ουν ουκετι εστε ξενοι και παροικοι, αλλα εστε συμπολιται των αγιων και οικειοι του θεου,
あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒達と同じ国民であり、神の家族なのです。

ここでは、まず小アジアのエクレシアに集まっていた人々の背景があるでしょう。パウロは2:11-12で彼らをまったくの異邦人であったことを指摘しています。この書簡は第二世紀という早い時期から「エフェソス人への」という宛先で知られてはいますが、宛先は元々書かれたものではないようで、有力な写本の幾つかは宛先不明になっています。それでも、小アジア方面での新たに転向してきた異邦人に語られたものらしいことはコロサイ書との共通性が見せているところです。

まったくの異邦人であることは彼らをして、ユダヤという神の民ではないところに遠慮や自信の無さを感じさせていたのでしょう。
またコリントスのエクレシアほどには霊の賜物の種類を持っていなかったようです。1Cor1:7 Eph1:17-19
これらはエフェソスをはじめとする小アジアの人々に弱さを感じさせるものであったのでしょう。
自分の手塩にかけて育てた小アジアの人々を、パウロはローマの軟禁状態の中から励ましを与える必要を感じてこの書簡をしたためております。
「同じく聖なる民」[συμπολιται των αγιων ]と言ったときパウロをはじめとするユダヤ=イスラエルにあった本来のアブラハムの子孫という特権に彼らが預かることにおいて堂々としていて良いことを、彼ら異邦人は励まされる必要があったようです。
彼らには、聖霊の賜物があり、いまやはっきりと「神に属する民」(神のイスラエル)の一員であることは明白で、彼らは臆しているべきではありません。
それで、この句はむしろ彼ら書簡のあて先の人々が聖徒であることを強調しております。

Eph2:20
εποικοδομηθεντες επι τω θεμελιω των αποστολων και προφητων, οντος ακρογωνιαιου αυτου Χριστου Ιησου,
あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

この句は、聖徒がキリストの上に建てられ神殿の石となる人々であるという概念を用いて、彼らの基には「使徒たち[αποστολων](アポストローン複数)や預言者たち[προφητων](プロフェートーン複数)という土台の上に」、の意味は、使徒は分かりやすいですが、ここでの預言者たちの「預言」とは、聖霊の賜物のうちでパウロはこの「預言」を高く評価しており、しかもその賜物を得ることは異言よりずっと難しかったようです。
このように聖霊の賜物として預言する人々を「預言者」と称する習慣は新約聖書だけでなく、初代キリスト教徒の歴史的資料でも確認ができるところです。
そこでこの句は、キリストを礎石とし使徒たちや預言者たちという先達がそこに載り、さらにエフェソスの聖徒たちがその上に載っているという事を語ったのでしょう。


Eph4:3
σπουδαζοντες τηρειν την ενοτητα του πνευματος εν τω συνδεσμω της ειρηνης·
平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

おや!
やはり「平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」
となっております。上記本文でもネストレ=アーラントでも「聖なる者たち」(ハギオイ[αγιοι])の単語は出てきてはいません。

ご質問の句は3:18のようですね
ινα εξισχυσητε καταλαβεσθαι συν πασιν τοις αγιοις τι το πλατος και μηκος και υψος και βαθος,
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり

パウロは聖徒たちに対して「すべての聖徒たちに」とか「すべての聖徒たちと共に」という言葉を用いる習慣があります。このエフェソス人への手紙では「すべての聖徒たち」≒[παντας τους αγιους]が五回使われ、これはパウロ書簡で最も多いようです。
コリントスへの第二の書簡では、困窮したエクレシアへの援助の募金について「聖なる者たちへの奉仕」9:1と書いておりますが、もちろんその援助は、意味の上では、原則的にエクレシア全体へのものですから、そこに聖霊のない人々も幾らか居たでしょう。しかし、初代のこの時期には、新規参入者や子供らを除いて(コリント第一14:16.23.24)エクレシアのほとんどを聖徒が占められており、当然に聖徒が代表していたことでしょう。エクレシア(「召しだされた者ら」)という言葉そのものも聖徒の存在を前提にしています。
そこで上記Eph3:18に、「すべての聖徒とともに」の語があっても、それが必ずしも聖徒以外に語られたと判断しなければならないわけではないようです。これは「他のエクレシアの聖徒たちと同様に」と解してよいようです。
殊にエフェソス人への手紙は、聖徒を励まそうとのパウロの意欲に溢れており、私には信徒への音信は感じられません。
他のエクレシアへの書簡にしても、当時のキリスト教徒の全体は聖霊に覆われたように神の力や知恵に満たされて、広く広がっていながらも教理の大きな違いによる分裂が避けられ、ヨハネの晩年の書簡のような、あるいはパウロ最後期の牧会書簡のような危機感は無かったように読めます。それはエクレシアが真にエクレシアであった時代、聖徒で満ちるキリスト教の最盛期であった時代の記録そのものなのでしょう。
聖書及びその原型が記されていったこの時期を今日と比較することは到底無理でしょうし、その違いは直接には聖霊の有無によると見てよいように思えます。

当時のエクレシア内部の信徒と聖徒のはっきりした区分が聖句に中に登場しているなら、今日のような理解の混濁も起こらなかったことでしょうが、この点が明瞭になるのは使徒時代の終わりを待たねばならないようです。
それでも、このエフェソス書は異邦人聖徒の得たものの大きさを知る手がかりを様々に与えてくれるものとなっており、イスラエルとの対比において励ましを与えているところは、やはり聖徒は本来アブラハムの血統に属するものであることを知らせるものともなっております。
接木された異邦人は、そのアブラハムの根に与ってはじめて聖霊の賜物を得ましたが、小アジア異邦の人々には気後れするようなところがあり、パウロは彼らの得たものの価値の高さや重さを知らせる必要をこの書簡で果たしたといえましょう。

ついでに、Eph4:3の「霊の一致」[την ενοτητα του πνευματος]については
エクレシアが地中海世界から東方オリエントへと隔たっていても聖霊の教えが分裂を防いでいましたから、第二世紀のはじめ頃まではエクレシアの分裂や分派は防がれました。つまりキリスト教の中央はローマでもエルサレムでもなく天のキリストの御許にあったと言えます。当時キリストは、実際に天界から聖霊によってエクレシアの全体を導く礎石でありました。
それを鑑みるに、聖霊の教えるところに従うことが一致をもたらしていたでしょうから、パウロは彼らも聖霊の教えに従順であるよう促すことでの『平和と一致』を訴えたことでしょう。それが即ち「霊の一致」という言葉に結実したのでしょう。(1Cor7:40)
第二世紀以降の分裂や分派の発生は、即ち聖霊を失った証拠と言ってよいでしょう。
今日、千を越えるキリスト教の分派と論争と正義感のぶつかり合いは、神の平和と一致をもたらす聖霊の無さを痛感させるものと言わざるを得ません。








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