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キリストの果たす役割6

2012.08.23 (Thu)
王としてのキリスト


イエスが最後にエルサレムを訪れ、その門を通るのに、普段とは異なり子ろばに乗って入られました。
群集はこぞって自分の外衣をイエスの通り道に敷き、手に手に棕櫚(ヤシ)の枝を持って王の到来に賛意の栄光を添えました。(マタイ21:7-10)

マタイはそれが『見よ,あなたの王があなたのもとに来る。気質の温和な者でありろばに乗って、駄獣の子なる子ろばに乗って』というゼカリヤ九章九節の成就であることに読者の注意を向けています。
それはかつてソロモンが王となったときの故事に由来するものでした。(列王第一1:32-37)

しかし、その時までイエスはご自分を王としては一度も民に示そうとされず、民衆の方からイエスを王にしようとして向かって来たときには、ひとり山奥に逃避までなさいました。(ヨハネ6:15)

一方、イエスは王を題材にした譬え話を弟子たちに度々語っていましたが、それらはご自分の役割や働きを暗示していて、それらがなお将来に関わるものであることを弟子たちは理解しました。

しかし、イエスが天で大祭司となったことは聖霊によって知ることができても、イエスが王権を帯びるのが何時なのかについては、イエスは常に「あなたがたはその時を知らない」と繰り返され、弟子らはついにそれを知ることはありませんでした。(マタイ24:42)

さて、「キリスト」をユダヤ人は「メシア」と呼びますが、旧約のイザヤ九章の聖句はメシアの輝かしさについて、こう述べていました。

『ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。』(イザヤ9:6-7)

この旧約に預言されていた「約束のメシア」を、ユダヤ人は切に待望し待ち焦がれていました。(ルカ3:15)
かつてのダヴィデ王はユダヤ=イスラエルの最強の王で、その王国の版図は史上最大となってエジプトとの境からユーフラテスの西岸に及び、神がアブラハムに約束した全域をすっかり手中に収めました。

そのようにメシアが強力な王となって、再び統治することにユダヤ人は心からの期待を寄せていたことは充分に想像のつくところです。
特にイエスの現れる頃まで、ユダヤ=イスラエルは五百年以上に亘りダヴィデ王統による独立を失い、約70年続いたハスモン朝は別として、常に諸強国の属州としてその統治下にありましたから、「神の選民」を自認するこの民族にとって、被征服民の屈辱から脱して、栄光ある王国が再興されることは大いに切望するところでありました。

イエスがメシアであると信じてやまない弟子たちやユダヤ人も、王への期待はけっして弱くはなく、時折イエスに尋ねたことを聖書は語っています。(マタイ20:21/ルカ17:20/使徒1:6)

例えれば、イエスと弟子たちが最後にエルサレムに向かう途上で、弟子たちはエルサレムに一行が到着すれば『たちどころに王国が来る』と信じていたことを福音書は明らかにしています。
また、イエスが生き返った後にも『あなたは、今このときに王国を建てられるのですか?』と質問しています。

こうした弟子たちの期待があることを知っていたイエスは、王国が彼らの時代にも、また、イエスが復活してすぐにも設立されないことを繰り返し教えて来られました。

イエスが生き返って後に使徒たちに問われたときには『神ご自身の権限内に置かれている時や時節については、あなたがたの与るところではない』と返答され、王国の設立がその時でもなく、将来の不定の時になされることを明らかにされました。

また、エルサレムへの最後の旅の途上では、ひとつの譬え話を用いて王国設立の時期がまだ先になることを弟子たちに教えています。

つぎに、その譬えを見ましょう。


 ⇒ 王権を得る旅へ










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キリストの果たす役割7

2012.08.23 (Thu)
主人の旅と不在


それは「ミナの譬え」と呼ばれます。
そこで弟子たちの先走る思いとは裏腹に、譬え話では、生まれの高貴な人物が王権を確かなものとして授かるために遠く旅をすると語られます。
これは、当時のローマ帝国に従属する王たちが皇帝からの王権の承認を得て、それを確立するために帝都に赴くという、実際の習慣を思い起こさせるものであったでしょう。

イエスの当時ユダヤと周辺を治めていたヘロデ大王の子らもそのようにローマに行って、そこで従属の王権を得てから、再び領地に正式な王として戻っていました。しかし、実際に支配を始められるか否かは帰国した時点では定かではありません。
ローマ皇帝の承認状は手にしてはいても、対立王子や諸勢力を屈服させてはじめてその王権も意味を持つことになりました。
そこで、この「ミナの譬え話」の王の帰還の場面は、それを聴く弟子らにイエスの王権についても同様に思い巡らさせたことでしょう。

キリストの王権は弟子らの期待に関わらず、イエスの旅立ちとその後の期間があることが示されます。加えて、イエスの譬えは時期的なことから更に進み、弟子らの待つべき態度に触れてゆきます。
つまり、キリストの王権獲得には、相当の期間を要することが知らされてゆくのでした。

この譬え話では、王を得ることになる主人は、出立に際して家僕らに財産を分け、留守中に運用させることにします。
そして、この人物が王権を得て帰還したときには、家僕らは預かっていた財産の銀子(1ミナ)をどう増やしたか報告することになると語られます。

ある僕は1ミナを見事に10倍に増やしており、他の一人も5倍にすることができました。
しかし、ひとりは1ミナのまま差し出し、主人は厳しい人で、自身が撒きもしなかったものを刈り取るので怖かったから1ミナをそのままとっておいたと言うのです。

すると、主人は憤って言います。
「ならばそれを銀行に入れておけばよかったのだ。そうすれば利息と共に受け取れたものを!」
それから、この家僕から銀子を取上げ、さらに、この主人を王として受け入れるのを拒んだ市民らを「敵」と呼び、討ち殺させます。(ルカ19:14)

この譬え話の「王権」を確かなものとして戻る主人がキリストなら、留守を預かる家僕たちは弟子たちを指していることでしょう。
したがって、弟子らはキリストが戻られるまでになすべきことが委ねられることになります。

この「ミナの譬え」によく似たマタイの「タラントの譬え」(マタイ25:13-)では主人の財産を増やそうとしなかった家僕は『外の闇に投げ出され、そこで歯噛みします』、これは主人の家から出され、当然、家僕の務めを失います。

ミナの譬えでも、この不精な家僕から預けられていた財産が取り上げられるところは同じようですが、こちらでは、この主人が王となることを望まなかった市民らの処刑が続いていて、この不精な家僕も関連をほのめかされています。(ルカ19:27)

そこで家僕の務めについて記述を総合すると、主人が皇帝からの王権の許諾を得て帰ったときに、家僕はその王権を支持し高める務めがあることのように示唆されています。

そこで彼らに託されたものは、聖霊によるイエスの教えであり、特に王国に関する理解ということができるでしょう。
しかし、それは単なる教えではありません。彼らは主人である王となる方の王権を代弁し、その土地の支配者らにその権力を渡すよう求めることになります。

その発言は福音書が述べるように誰も論駁のできない言葉であり、彼らによらず聖霊が語らせるものとなると予告されています。
確かにそれを活用するなら、主人が王権を確かにして来られるときにふさわしい栄光や誉れで飾ることができます。
また、これらの反対する市民の存在は、キリストの王権を望まない人々が終末に居ることも示しています。

しかし、聖霊の言葉を語らないなら、それは主人が王となることを望まなかった市民らと幾らも変わるところがありません。王権を理解せず支持もしない彼らは、みな「王権」の反対者であり、王からすれば『敵』と見なされても仕方のないことでしょう。


ですから、イエスは弟子たちの『主人』として、弟子らに教えを残し、ある期間にわたって天に戻られます。つまり、その間はイエスは地上に対して不在となるのです。(マタイ24:43-51)
「キリストの再臨」という言葉は、キリスト教界で良く聞かれる言葉です。それはイエスご自身が『再び戻って来てあなた方を迎える』と語られていたところにより、それは何度か話されました。

再び来られる以上は、不在の時期があるに違いないのですが、多くのキリスト教徒は、イエスが自分の傍に居てくれることを願って、主が不在であることを軽視します。

使徒たちも、イエスが地上に居た間に王となられ、その王国が設立されることを期待していましたが、それはこのような譬えによって、イエスが王となるために旅立ち、しばらくの期間を経て王となった主人を弟子たちが迎えるというように理解するべきことが示されました。

しかも、弟子たちは主人の帰る時がいつになるのかを知りません。そこで『いつも見張っているように』と諭されています。(マルコ13:34-36)


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このように、神から正式に王権を与えられてのキリストの王としての登場は、イエスが地上にある間にも起きませんでしたし、これまでにも世界は王権を帯びたキリストが到来を見てはいません。(ヘブライ2:8)

キリストが王としての行動を起されるまで時があることについては、詩篇110編にも述べられていて『【主】*は、私の主に仰せられる。「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、わたしの右の座に着いていよ。」』(新改訳)とあります。この言葉は新約聖書でも五回繰り返され、キリストの王の立場に深く関わっていることを教えています。(*全能の神)

この言葉も、イエスが王権を受けるまで、神の右に座して時を待つことを教えています。そして、次にキリストが地上に関わりをもたれることは「再臨」という言葉で語られていますが、これに相当するギリシア語は「パルーシア」です。

「パルーシア」という言葉そのものには「到来」や「再び」という意味はありません。その言葉は「その場に関わりを持つ」という意味を持っています。つまり、一定の期間を過ごした後に、王権を得る前にキリストは地上に対して「関わりを持ち」はじめることになります。そこで「パルーシア」を王に成るべき方の「臨御」と訳されるのが妥当のように思えます。

その時に、イエスは再び聖霊を弟子たちに注ぐことを通して、大祭司としてとしての権能を発揮されることでしょう。
しかし、「王権」を得るのはその必要の生じる諸国民との戦いまで待たねばなりません。⇒「黙示録の四騎士

しかし聖書の全体は、このキリストの王となるべき「臨御」の時についてかなりの注意を向けて書かれています。なぜなら、それはただならぬ時代となるからです。

一方、その時までの間は地上に対してキリストはこの意味において不在(アプーシア)となります。
当然、大祭司として弟子たちを聖霊を通して選んだり、その人々が聖霊の業を行うことも無くなりました。

キリスト教界には聖霊が無くなったため、知識の統一ができなくなって分裂や分派が登場し、どこにもまったく「正しい宗派」というものがなくなりました。

それでも、人々の手元には聖書が残されています。それはモーセの頃から記された霊感の書であり、数多の神の事跡や聖霊の働きの記録が記されています。

わたしたちは、この書の中からかつて聖徒たちに注がれた聖霊の教えの姿を知ることができ、こうしてキリストの様々な役割を新旧の聖書からある程度探り出ことができます。

そして、今日のわたしたちの注意を集中するべきは、いつか始まることが待たれている、王権による実効支配前のキリストの「臨御」です。
聖霊を受ける弟子らがミナやタラントの譬えの不精な家僕のようにならないために、キリストの王権や「神の王国」への知識を知らせる聖霊の働きを隠さずに、堂々とその神の義に基づく啓示を世に知らしめる務めがあるのです。⇒ 「ミナの例え

そこで奴隷が主人を『厳しい方』と言うのは、聖霊の言葉や働きを公にすることへの怖れからであったことを、この『不精な奴隷』は自ら告白しています。(ルカ19:21/マタイ25:25)
つまり、世の政治家との対立を怖れ、聖霊の言葉を自ら封じてしまい、恰も地面に埋めてしまうという行いを通して、主人の王権をないがしろにしたのです。
『この世が受けることができない』『聖霊』というそれ以上ない宝を受けながら、それを運用することを怖れて躊躇する結果は、王となるべき主人からの拒絶と、この世と共に過ぎ去る者となる永遠の不名誉ばかりです。

実際、イエスは非常に多くの言葉をもって「王国」を説明していましたが、それはキリスト教界にあってどれほど理解されているのでしょうか。それらのひとつでも多くを知って、人々に広く知らせようとすることは、イエスの弟子を自認するすべての人の務めと言ってよいでしょう。

そのようにする方々は、キリストが「臨御」するときに、その王権に栄光を加えることになるでしょう。
ですが、キリストが戴冠し彼を王として迎えることを望まなかった不精な奴隷を含む全勢力を打ち砕くときには、ミナの清算は終わっていて、あとは家令たちの誰がどこを治めるかの話に進んでしまいます。

そして全ての敵を処罰する戦いに王は乗り進まれることでしょう。⇒ 黙示録の四騎士

では、キリストが「王なる祭司」となるためにこの世に「臨御」なさるとき、イエスはどのように世と関わることになるでしょうか。つまりそれは「世の裁き」に関わる事柄となります。

この将来に生じる事態について、その重要さからしても世界に周知されるべきことではありますが、その前に、キリストの死が成し遂げた事柄について次に考えましょう。
それは、神と創造に関わる根本的な理解に影響するものです。



 ⇒ 創造の助け手としての御子





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「新十四日派」について

2012.08.18 (Sat)

新十四日派の概要 ⇒ 要諦


◆基本信条[Σύμβολο της Πίστεως]
新十四日派は

・ローマ国教化後のギリシア=ローマ型を去って、ヘブライ由来の原始キリスト教を探ります。

・自分が救いを一旦差し置いてキリスト教を探求します。

・創造者が神として全創造物の上に高められることを最も重要な事と見做します。

・それは神が主権を持って支配するためでなく、神の象りが自由を得るべき倫理の完成のためです。

・人間が創造された神の企図に復帰し、創造界が再び調和を得ることを神の意志と認識します。

・その結果として人は神との絆を回復し、愛する隣人を初めて見出します。

・この目的のために創造者は行動してこられ、その過程が聖書に記されてきました。

・アダムの子孫であるすべての人間には倫理的欠陥である「罪」があります。

・この「罪」とは各個人の犯す個別の悪行を意味しません。

・「この世」は創造者の意志から逸脱していて「罪」の結果である貪欲が動かしています。

・人は、誰も善行や道徳性によって「罪」を逃れることはできません。

・そこで「この世」では法と権力が避けられません。

・キリストは「罪」を贖い、人々を神の創造された倫理状態に引き上げる「救い」を行われます。

・「罪」の対極にあるのは「愛」であり、完全な愛は法と権力の強制を無用にします。

・キリストが体現した究極的な愛は、倫理上の完全性を人にもたらします。

・信仰は忠節で普遍な愛を動機とするもので、愛は信仰に優ります。

・キリストの戻られる「終末」での拠り所は「聖霊」であり、将来のその働きへの理解を鮮明に保ちます。

・神は終末に再び「聖霊」を注ぎ、ある人々を「聖徒」に任じて「神の王国」と「裁き」を世に通告します。

・「信仰」とは、偉大な価値と神の力量への信頼を持ち、自らも忠節であることを意味します。

・キリスト教信仰とは、神が創造者でありキリストが仲介者であり聖霊が両者の意向の働きを担う事を信じることです。

・聖書は第二世紀までに二度目に書き終えられ、以後「聖霊」と神の名の発音は地上から去りました。

・聖霊の無い間は、聖書の中だけに真実のキリスト教の姿を見ます。

・真正なキリスト教とその崇拝を回復することは、人間にできることではありません。

・聖書に従えば神の是認を得るわけではなく、逆の結果を刈り取った例が多くあります。

・聖書の単語や文法に拘ることが教理を導くわけでもありません。

・人間に聖書のすべては理解できませんし、自己正当化の具、また偶像視するべきでもありません。

・聖書に理解されるべき事柄が網羅されているわけではなく、語られていない重要な事柄もあります。

・キリストは『王権を得る旅』に出られ、現在までこの世に対して不在となっています。

・当派は、第二世紀の小アジアのキリスト教「十四日派」を範とするキリスト教を標榜します。

・ユダヤ人の無酵母パンの初日の前夜をニサン十四日の開始と定め「主の晩餐」を挙行します。

・聖霊は切に願い求められるべきもので、自動的な時間経過を待つものではありません。

・エデンの園で知らされた『女の裔』が、『世の光』と呼ばれる人類救済の手段であると認識します。

・キリストと「聖徒たち」とがエデンの園で語られた「女の裔」であると見做します。

・聖霊が、真理や神の名を知らせ、聖徒を指し示し、終末にキリスト教を浄めるものと理解します。

・「女の裔」の継承は、キリスト後にユダヤ民族を去り、水と霊から生まれる『神のイスラエル』に移りました。

・聖書の大半が契約にある者に対して語られており、今日の読者すべては契約の対象外にあります。

・契約外で信仰持つ人々に語られた聖書の部分もあり、彼らは『シオン』また『女』とされています。

・『シオン』また『女』は終末のすこし以前から活動を始め、聖徒たちを迎えます。

・『シオン』また『女』は聖徒たちよりも大きい集団を構成し、そこに更に多くの諸国民が向かいます。

・真実のキリスト教の救いは信者のための内向きのものではなく、聖霊に信仰を抱く可能性を持つあらゆる人々に広げられるものです。

・「神の王国」が実際の支配となりキリストの「臨御」の後に千年続くものと信じます。

・聖霊降下による聖徒の出現が、「終末」に入ったことの真の印であると解します。

・為政者への聖霊の発言への反応で人々は分けられ、キリストによって終末の世は裁かれます。

・人が救いを得るかどうかは、聖霊に対する信仰と聖徒への行動によって決まります。

・キリストは「雲と共に来る」ので、裁きの為にもその姿を人が見ることはありません。

・裁きの最終的な時期に神とキリストの力が表明されることを通し、人々は「キリストを見」ます。

・聖徒たちが天に召集されて「神の王国」が実現します。信じた者たちは地を拝受します。

・千年王国は、聖徒の天への復活と全ての人々の地への復活との間を分かつものとなります。

・キリストと聖徒たちは「王なる祭司、聖なる国民」となって人類を「罪」から救います。

・千年の後で、死人のすべてが「罪」の無い状態で復活し、最後の一度の裁きに臨みます。

・千年王国の後に中傷者も復し、神ご自身による最終的な裁きがすべての創造物に臨みます。

・中傷者の恒久の滅びは、裁きの完了と罪や死の永久の無存在をもたらします。

・千年後の神自らの裁きによって、世界は創造で意図された状態に復され、政治と宗教は終わります。

・政治は現在は必要であっても神との敵対に至り兼ねないので、深く関わることを避けるよう努めます。

・信徒は貪欲を去って愛を求め「愛の掟」を最大の規範とし、他には規則や戒律を設けぬよう努めます。

・自らの義を捨て「神の安息」に入り、「この世」の争いや虚しさから距離を置いた生活に努めます。

・自派の教理も立場も無謬ではないことを認め、他者への優越感や敵意を避けます。

・聖書は神の働きの記録ではあっても、神の働きそのものではなく、偶像化されるべきでありません。

・キリスト教は個人の信仰であり、社会で信仰するものではありません。

・信徒は、思想信条の異なる他者との社会や生活を想定し、可能な善意を以って対処します。

・未信者はもとより互いに、またどの宗派の方にでも望む方に聖書研究を助けるよう努めます。

・その目的は、仲間の信徒を作るためでなく、共に終末に心を整える人々となるためです。

・終末の裁きまでは、誰もが『罪』を負うことでは変わりません。

・教理の知識が人に救いをもたらすわけではなく、逆に作用する事もあります。

・信仰内容は、習熟によっても、思考方法によっても、誰もがまったく同じものとはなりません。

・聖霊の降らない限り、誰も神の是認の下に在るとは見做しません。

・神は存在するようになったあらゆる魂を所有され顧みられます。

・神は贅沢や気ままな願いを聞くことはありませんが、あらゆる魂の渇望を聞かれることを理解します。

・聖徒らの神の経綸に関わる祈りには、異例な反応が期待されます。

・聖霊の再降下を祈り求めるのは、利己心からではなく、自他すべての幸いを願うからです。

・そこで、信仰内容に幾分かの相違がある信徒も容認されるべきところもあります。

・信仰する動機や価値観や倫理性欠如による混乱、基礎合意に反する場合、上の限りではありません。

・信仰を抱くに当たり求められるのは価値観であり、知識に依るよりも個人の倫理の問題となります。

・努めて聖書と周辺の資料を研究し、個人の認識を高め、自己判断を行い大衆化を避けます。

・信徒は『シオン』また『女』と呼ばれる集団を構成することを目指します。

・神の観点を持つよう努め、自己義認や人間中心主義、またご利益信仰を避けます。

・信仰と生活のバランスを重視し、狂信と大衆化を避け、教養と良識ある信仰者を目指します。

・個人の良心的決定、また個性や才能を互いに尊重し、愛に基く優れた資質を伸ばすように評価し合います。

・互いの間に問題が生じた場合には、権威によらずアガペーを理念として解決に努めます。

・それでも理想主義だけで『罪』ある人をすべて扱えないことを認め、必要に応じ内外に対策も講じます。

・神の意志に反する場合を除き、公の法から逸脱のないよう努め、害ある事柄は法に委ねます。

・この信仰を放棄すること、派から離脱するのは随時自由ですが、その旨通知されることを期待します。

・この派に所属することが救いを意味するとは限りません。脱退者も一般人と共に希望を維持します。

・但し、『背教』に相当する裏切りを意図する場合は、必ずしもその限りとは言えません。

・当派は将来、聖徒となる人々からの聖霊の声に従い、人間由来のこの「派」としての役割を終えます。

・もし、当派が聖徒を生み出す『シオン』また『女』とされるなら、その後の新たな展開が始まるでしょう。


⇒ 「新十四日派」の特長と要諦


◆小アジアで完成されたキリスト教
 十二使徒の最年少で最後に残されたヨハネは、エルサレムの滅びを逃れた後、主の母を伴い小アジアのエフェソスに腰を落ち着けましたが、西暦第二世紀に入る頃、ドミティアヌス帝の迫害を受けて、多島海の小島パトモスに数年の流刑に処されました。この最後の使徒は、ドミティアヌスが暗殺されて後、恩赦を受けてエフェソスに帰還を果たしトラヤヌス帝の治世まで生存したと伝えられています。

 エフェソスやスミュルナをはじめ、その周辺の諸都市がこの使徒の薫陶を受けていたことは、黙示録の七つのエクレシアへの主の言葉からも明らかで、その他の資料も使徒ヨハネの教えが小アジアにあったことを述べています。

 この時期のキリスト教は、既にパウロもペテロをはじめとする十二使徒も亡くし、主の兄弟ヤコブたちも眠りに就いていて、聖霊による主の監臨は続いていても、キリスト教の理解の進展の望めるところは、このヨハネの許だけとなっていたと言ってよいでしょう。
使徒ヨハネに臨んだ聖霊による理解が、奥義の家令パウロと双璧を成すほどに高いものであったことは、その名による著作に明らかです。

 それは聖書中の黙示録とヨハネ福音書、そして書簡が彼の晩年に至って書かれたことが物語っています。

 ヨハネの影響の臨んだ小アジアの地域には、周囲に見られない教えの特徴がありました。
そのひとつが黙示録にある「千年王国」であり、もうひとつにはユダヤの過ぎ越しの前日に合わせた「主の晩餐」が挙げられます。

◆ニサン14日遵守
殊に、使徒ヨハネによって聖書の最終部分が書き終えられた西暦第二世紀に入って以降、小アジアのキリスト教徒の多くは、外部から「十四日派」と呼ばれるようになりました。

それは、毎年ユダヤ暦ニサン月14日の晩にキリストが命じた「主の晩餐」と呼ばれる儀式を、ミサや昼に行う聖餐式ではなしに行うところから付けられた名称です。その名称そのものは、彼らの周囲のキリスト教徒が「聖餐」をユダヤの過ぎ越しの日付ではなく、その後の日曜日に「復活」を祝う行事として変更していたことを示すものでもあります。

ですが、「主の晩餐」について使徒パウロは『主の死を告げ知らせる』ものであることを記しており、それは復活の祝いではなく、崇高な主の死を追想するものであるべきでした。

現在のユダヤ教徒は、ニサン15日に過ぎ越しの食事をとりますが、これはキリストの時代から変わりなく継承しています。
ですが、この一日のずれによって、キリスト・イエスが正しくニサン14日に犠牲となる道が拓かれました。


◆聖霊を通した指導
聖霊は、それを受けた人々がキリストと共になる「聖徒」であることを証しただけでなく、聖徒がイスラエルからだけでなく諸国民からも一定数が選ばれるよう、初代の弟子たちを導きました。
それは、キリスト後に地上に残った使徒たちの一大事業であったということができます。

また、小アジア地方のキリスト教徒は最後の使徒ヨハネの指導を受けたので、初代キリスト教徒に注がれた聖霊を通した教えを最後まで受けた人々でありました。

彼らはヨハネの福音書や書簡、また黙示録の担い手であり、新約聖書の最後を占めるこれらキリスト教の教えの最後の展開を授かった人々でもあります。

ヨハネ黙示録にだけ書かれた「神の王国」が千年続くこと、またそれがこの世の支配を実際に受け継ぐものであることをこの人々は理解していましたが、それは他の地域のキリスト教徒に受け入れられたとは言い難いところがあります。殊に、シリア系の異邦人主体のキリスト教は黙示録を排斥する姿勢が強く、当初はこの書を聖書から排除したほどでした。

第四世紀に至ってアウグスティヌスのように影響力の大きい教父たちは、「千年紀」を伴う実際の『神の王国』の出現を否定し、それ以前の小アジアの教父たちの教えを退け、その写本に手心を加えることまでも行い、千年紀信仰をもみ消しました。

第四世紀325年にはローマ皇帝コンスタンティヌスはニケアーの宗教会議を主宰し、キリスト教指導者でもないこの皇帝が裁可を下して、小アジアのキリスト教はほとんど否定されました。
341年のアンティオケア会議で、遂に「十四日派」も異端の烙印が押されて以降、この派は衰退し、数百年を経て、中世の暗闇の中に消滅してゆきました。


このように、西暦第二世紀の小アジアに存在していたキリスト教の特徴に、年に一度ニサン月14日の「主の晩餐」の遵守と、黙示録を擁護し「王国」の千年支配の信仰することの二つを挙げることができます。

また、ヨハネの当時の弟子たちの中には、減少しつつあったとはいえ、「聖霊の賜物」を有する人々が残されていた様がヨハネの書簡にも覗えます。また、当時を知らせる多くの資料は、西暦第二世紀には依然「聖霊の賜物」を有する人々が生存していたことが伝えられています。これについてはアウグスティヌスも認めざるを得ませんでした。
カトリックが今日でも「聖人」に列するに当たり、その人物が複数の奇跡を行ったことを条件にするところに、古代の聖霊の賜物ある人々の痕跡が見られます。つまり、「聖なる者」と「奇跡の業」は深く関係していたのです。

◆主と聖霊の不在(アプーシア)
その第二世紀の人々を最後として、聖霊を通したキリストの監臨は終わり、主は「王権領受の旅」に出立されたのでしょう。この間の聖霊降下によるキリストの指導の時代はおよそ百年間であったと思われます。
その後、今日まで千八百年近く主の不在と聖霊の無い時代が過ぎ去って参りました。

かつて神は預言者マラキを最後にバプテストのヨハネまで、およそ四百年の間、霊感を誰にも与えず、沈黙して来られましたが、キリストの使徒後からおよそ千八百年の間、正しく聖霊を受けた人を世界は見ていません。
それは、神が終末でもない時代に不必要なことをなさらなかったからでしょう。

しかし将来に、帰還となる王の『臨御』(パルーシア)が始まり、再び弟子らへの聖霊の注ぎが行われ、彼らはキリストの代理発言者『聖なる者』となります。
キリストはこの人々を通して純正なキリスト教を回復され、宗教やイデオロギーに関わらずあらゆる立場の人々が、浄められたキリスト教に信仰を働かせて流れのように集まってくることでしょう。

聖なる者らが選ばれることの目的は、為政者の前で『神の王国』の王であるキリストに支配を委ねるよう聖霊の言葉によって勧告を加え、神の名を知らせ、その証人となります。また、世界に対してキリストの帰還と、人々から「罪」を除いて祝福する『神の王国』の到来を広く知らせることにあります。
この聖霊の発言を以って、世界は間違いなく「終末」に入ったことが印付けられるでしょう。


◆聖霊と聖徒の待望
「新十四日派」は、使徒ヨハネによって小アジアでキリスト教が完成され、西暦第二世紀のその後の数十年の期間に亘ってその地で『純粋な時代』*を保ったと見做し、これらの特徴を基礎に据えたうえで、現代までの研究成果を踏まえ、様々な証拠の蓋然性の追求によって教理を探りながら、次なる聖霊降下による「聖徒」の到来、そして主の臨御の始まりを待つものです。 *(第二世紀後半エフェソスのエピスコポスであったポリュクラテスの言葉)

それは、キリストの臨御に対して『整えられた民』を準備し、また、王権を得るキリストを真実に『王の王、主の主』として迎えるシュロの葉を手に栄光を讃える人々の注意を予め喚起すること、また聖霊を注がれる弟子たちの到来のときに、その人々に教えを委ねて、「新十四日派」としての働きを終了することになるでしょう。

その後は、聖霊を受ける『聖徒』たちが聖霊を通して教えるので、キリスト教には原初の正統さと純正さが「回復」されるばかりか、人々の救いとなる「神名」が知らされ、加えて新たな教えも展開されることでしょう。
世界中の人々は聖徒の聖霊の声を聴き、その奇跡の業を見て信仰を働かせ、象徴的なひとつの地所『シオン』に『流れのように向かう』ことでしょう。

このキリストの『臨御』という終末の出来事が起こるまで、新十四日派はニサン14日の「主の晩餐」を護持し、「千年王国」に先立って不可視性の『雲のうちに』帰還なさる主キリストと、その『大使』となる聖徒の選出による出現を待ち続けるものとなります。「終末」は何十年も続くものではなく、おそらくは「聖徒」の現れから十年もかからずに「この世」は終局に至るでしょう。

これらは神の偉大な計画(経綸)の一部を成すものであり、最終的な目的は、創造者が神として高められ、キリストの仲介により神と人を隔てる人間の「罪」が除かれ、全創造物が創造者の意図するところとなることです。



 ⇒ 新十四日派の基礎的教理






◆「新十四日派」の教理の特徴


全体を支える四つの特徴的教理があります。
現在それは「原罪論」「聖霊論」「回復論」の三本の教理の柱であり、他に「教理の教理」とも言える「教理控制」の併せて四つが挙げられます。詳しくは、以下の各項目をクリックしてご覧ください。


1.原罪論 
人間の「罪」のために間違いの無い真理も正義も人間にはありません。人間の争う理由、加えて宗教と政治の存在理由がここから導かれます。人はこの「罪」から逃れない限り、貪欲の支配し、苦しみ満ちる「この世」から逃れられないでしょう。キリストの贖いの犠牲はこの「罪」の相殺をもたらし神と人との和解に至らせます。その和解が聖書全巻を貫く主題となっていることに新十四日派は人々の注意を喚起します。また、この理解から、「罪」ある現状にある以上、人は互いの外見によって内面を裁けないことも理解します。


2.聖霊論 
人間の罪のために、神と人との間には障碍となる壁があり、人間の側から神に近づくことも神を知ることも出来ません。そこで神は聖霊を通してそれらを教示されました。終末に聖霊はかつてない仕方で活動することでしょう。
また、イエスの時と同様に、「聖霊」は人類の「裁き」にも深く関わることになります。
聖霊が注がれるのは限られた人々であり、その人たちは先立って贖われ、信仰による義を得て、キリストと共に「神の王国」を構成することになります。新十四日派は「聖霊」の教理を純化し、あらゆる人間の努力や業や思い込みを去って、完く神の介入を待つという信仰を基本とするものです。

 
3.回復論 
この「回復」とは、将来の聖霊の再降下によってキリスト教が正され浄められることを云います。聖霊が特定の人々に再び注がれるようになると、真実のキリスト教がもたらされ、神の名をもって王国の到来とキリストの臨御が宣告されます。世の多くの人々があらゆる宗教やイデオロギーを去って清められ、流れのように回復されたキリスト教に向かうことになるでしょう。
そこは「シオン」と呼ばれる人々の集まりとなり、全地の裁きに際して、聖霊の言葉に信仰を表して聖徒を支持するあらゆる人々がそこに向かい、反対する勢力がその人々を攻撃する時に、神YHWHはキリストに王権を与えてその象徴的地所「シオン」を守らせます。


4.教理控制
これは聖霊降下の無い間の教理の暴走を抑え、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないため、また他宗派との争いを避けるための策で、教理そのものに抑制をかける「教理の教理」のような働きをします。また、教理の更新を自在にし、理解の進展や向上においても、この教理の制約は非常に効果的に補助します。そして、教理を信仰するのではなく、神を信仰し待つ態度を培わせるものともなるでしょう。加えて、教理を理解し納得することがそのまま信仰となるわけでなく、教理を信じることで救いを得るわけでもないことも銘記させます。






 新十四日派のより先進的理解





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キリストの果たす役割4

2012.08.17 (Fri)
キリストが導いた聖なる者たち

イエスが天に去って十日後の五旬節の日に、初めて聖霊を注がれ奇跡の能力という賜物を受けた弟子たちはその後も増えてゆきます。
その能力の種類も増えてゆき、後にパウロは九つの賜物の種類を挙げています。(コリント第一12:7-11)

それらには、最初に与えられた「異言」という外国語で神に関することを話す能力の他に、「預言の賜物」では後に起こることを知らせ、飢饉や地震、またパウロの身の上に起こることを知らせて、覚悟を促したりすることもありました。(使徒11:28/21:11)
また、イエスが予め語っていたように『真理の全容に案内する』という、『知識』の賜物もあり、その働きで各地の弟子たちはその教えを混乱させたり、異なった教理で分裂してしまう事態を避けることができました。(ヨハネ16:13)

それで、パウロと異なる意見を持つ弟子が出てきても、パウロは徹底的に反論する必要がなく、却って『これと違った意見を抱くことがあっても、神はあなたがたに啓示してくださるでしょう』と穏やかに言うことができました。(ガラテア5:10/コリント第一14:37/フィリピ3:15/ヨハネ第一2:20-)

このように、聖霊の賜物は「異言」のように人々に広く福音を知らせることを助けるものもあれば、弟子たちの全体の一致を保つことを助ける働きもあったと言えます。

当時の集まりは、これら様々な聖霊の賜物を通してプログラムが満たされ、人々はそこから信仰上の糧を得ることができました。
パウロは当時の集会を秩序立て、異言を話すならひとりずつ順番にして、できれば翻訳できる人を付けて聴いている皆が理解できるようにするようにと勧告しています。(コリント第一14:26-40)

さらに、使徒たちには「癒し」の力も与えられており、ペテロやパウロは死んでしまった人を生き返らせることも行っています。
それはあたかも、キリストの行った業を弟子たちが受け継いで地中海世界の各地に広げられたかのようです。これについてはイエスも『わたしを信ずる者は、わたしと同じ業を行い、しかもより大きく行う。わたしが天にゆくからです』と予告していました。(ヨハネ14:12)

使徒の生きている時代の初期には、信じて集まる人々のほとんどが、この「聖霊の賜物」を受けた人になったことが新約聖書の記述から分かります。
パウロは、これらの聖霊の賜物は、それを受けた人々がキリストと共になるように選ばれ召されたことの印であると語っています。(エフェソス1:14/コリント第二5:5)

キリストは既に天に戻っていますので、『キリストと共になる』とは、彼らもいずれは天に昇ってキリストのような霊の姿となって共に神に仕えることを知らせています。(フィリピ1:22-23)
使徒たちは、この人々を『聖なる者』または『聖徒』(ハギオス)と呼びました。この人たちの行う奇跡の業は、彼らが地上に居る間からキリストと業を分け合う者であることを証しているかのようです。(ローマ1:7)

聖霊を用いて、キリストは天から使徒や際立った弟子たちを導き続け、宣教に赴く方向を教え、迫害の際には傍にあって励ましを与えます。

また、「王国の鍵」を与えたペテロを用いて、まったくの異邦人であるコルネリウスのところの出向いて、選ばれた非ユダヤ人にも聖霊が注ぐというご自分の意志を遂行させ、そうしてペテロが鍵を用いて「王国」にユダヤ人以外の人々も含めさせるようにします。

これら、使徒時代の奇跡的で充実した業の進展は、聖霊によるキリストの天からの指導なしには成し遂げられなかったことでしょう。

しかし、使徒時代の後期になると、弟子の中には聖霊の賜物を受けない人が次第に現れてきている様子が聖書に散見します。(ヘブル6:9-10/ローマ8:9)
これらの人々は、自分に聖霊がないからといって神に捨てられているわけではありません。

むしろ、聖なる者たちの働きから益を得ることができ、それはキリストと聖徒が共になった後には、さらに贖罪されて地上で「神の子」となるので、アダムがそうであったような創造された本来の素晴らしい人間として地上で生きることができます。(マタイ5:5/詩篇37:11)
ですから、聖霊ない弟子らは聖徒たちの存在に感謝することができます。そして実際、聖徒に選ばれるということはけっして楽なことではありません。

パウロもペテロも、聖徒たちが『聖なる者』として『聖なる行状』を保つことを求めており、加えて彼らには迫害や誘惑があることが再三予告されています。彼らはイエスに続き、それらに打ち勝って『世を征服する』務めもあるのです。(エフェソス5:3/ペテロ第一1:15)

初期キリスト教は、多くの殉教者を出しましたが、死に面しても揺らがぬ信仰や静穏さには、異教徒からの同情や尊敬さえも得ることになり、それは結果的に更なる信者をもたらすことにもなりました。
イエスは、『わたしの杯を飲み干せるか?』と使徒らに尋ねましたが、それは彼らがイエスの後に続く決意を問うものでしたし、パウロはそれを『キリストへの死へのバプテスマ』と呼び、実際彼もローマで処刑されたとされています。(マルコ10:38/ローマ6:4)

しかし、今日のキリスト教徒の集まりに古代と同様に聖霊を持つ人を見ることはありません。もし、正しく聖霊を持つ人がいれば、キリスト教界はこれほど分裂はしていないことでしょう。
聖霊は神の御力であり、明瞭に働くのでパウロはその現れを、英語でマニュフェストとも訳される「ファネローシス」という語を用いて言い表しました。(コリント第一12:7)
それら教えや奇跡が組み合わされると、様々に集まった人々全体を益することができる意義深いものとなったことが聖書に窺われますので、本人の陶酔や自己満足で終わるようなものではなかったと言えます。(コリント第一12:4-12)


では、古代のように聖霊を注がれた聖なる者は、今日居ないのでしょうか。


 ⇒ 聖徒の伝承 






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キリストの果たす役割5

2012.08.17 (Fri)
賜物は地上を去る


聖霊の賜物を持つ聖徒たちは、キリストの同世代の人々が寿命を迎えて去ってゆくにしたがい人数が減るようになり、やがてまったく居なくなったことが第二世紀頃の歴史から窺えます。

例えれば、第四世紀の有名な教会史家カエサレアのエウセビオスは、初代キリスト教徒が後の時代のような派閥の分裂が起こらなかったことについて『そのためシモン(マグス)も同時代の他の者らも、この使徒時代には何の組織も作ることが出来なかった。なぜなら、真実の光と、そのころ神から出て人類を照らし、地上で活動した使徒たちに宿った聖なるロゴスは、すべてに打ち勝ち圧倒したからである。』と述べています。(教会史Ⅱ14)

また、初期のキリスト教徒であったヘゲシッポスの語ったところも伝えられており『しかし、使徒たちの聖なる合唱隊がそれぞれ絶え、神的な知恵を自分の耳で聴くことを許された世代が過ぎ去ると、神を信じない血迷った一団が、単なる教義を教える者たちの瞞着によって根を下ろした。』と記録されています。(教会史Ⅲ32)

第二世紀にシリアで書かれたとされる「イザヤの昇天」という本は、当時のシリアの状況を述べて、聖霊によって預言する者が激減したことを伝えています。
最後の使徒ヨハネは、西暦第二世紀の始まる頃までエフェソスで生活していたとされますが、彼の最晩年に書かれたヨハネの手紙からしても、当時にはまだ聖なる者が残されていました。

さらには、エフェソスの近くのスミュルナのポリュカルポスという人は使徒ヨハネを知る人でしたが、117年の夏になってもイエスに癒された人が生きていたと書いています。
同じ頃、キリスト教徒で著作家のシリア出身のクワドラトゥスは、彼自身が「預言の賜物」を持っていることで人々に知られており、彼も当時にイエスに癒された人の生存を書いたことが知られています。

これらの情報を総合すると、キリストと同世代の人々が世を去る頃になると、聖霊の賜物も少なくなって、やがて無くなっていった形跡が見て取れます。
それはおそらく、西暦100年から130年くらいの間のように観察できます。

これに呼応するように、西暦120年を過ぎる頃から使徒たちや、初代の有名な弟子の名を借りた「疑典」と呼ばれる怪しげな内容の書物が続々と現れはじめます。それはまるで著作権が切れたかのように押し寄せてきました。

それらは霊感を受けた聖書の一冊のように装ってはいますが、聖典の精神からはあちこちに逸脱が隠せません。
このような疑典の流行は、キリスト教を警護し逸脱を「抑制していたもの」が去ったことを暗示しています。逸脱を防止していたそれは弟子たちに注がれていた聖霊と言えるでしょう。(テサロニケ第二2:7)

これらの書物には、当時流行していたヘレニズムという諸民族の宗教や哲学の混合思想の影響があり、キリスト教は疑典などを通してヘレニズムの入り混じった異教の教えに間断なく曝されることになります。
こうして、初期キリスト教著作家たちのいう『純正な時代』や『汚れない処女』の日々は終わりを迎えます。

その間、ユダヤ教徒とキリスト教徒の仲は非常に悪くなってしまい、互いの教えを排撃し合う度合いは強まるばかりで、キリスト教徒は旧約本来の教えを好まず、ユダヤ教徒はイエスも新約も価値をまるで認めません。
これでは、聖書全巻の一貫した見方を双方が拒んでしまい、全体の意味を捉えることが非常に困難となります。

こうして、元来ヘブライの教えであったキリスト教は、ギリシア的哲学や宗教と混合を始め、やがては混血したかのように、どちらともつかない宗教となってゆきます。いわゆるギリシア=ローマ型の「キリスト教」がやがて登場してきます。

さらに追い討ちを掛けたのが教えの変質による分裂でした。西暦150年を越えたあたりからは、最初の分派が内部から起こったことを教会史は伝えています。
トルコ半島中部の現在のアンカラに近いフリギア地方で、モンタノスという人物が「霊」を受けて前後不覚の憑依状態に陥ります。
そして、失われた聖霊は自分に移ったと唱え、預言者を自称して弟子を増やして行きます。

しかし、聖なる者の場合、聖霊の賜物は憑依状態に陥らせるものではなく、パウロによると自分の意識をはっきりと持っているだけでなく、聖霊の賜物の働きを自分でコントロールできたことが知らされています。(コリント第一14:15/14:27-33)
ですから、モンタノスに訪れた「霊」というものは、聖霊ではないでしょう。

イエスは弟子たちに偽預言者に注意するよう促して『その実によって彼らを見分ける』と語っていました。(マタイ7:15-20)
その点、まさにモンタノスの『実』は良いものとはなりませんでした。女預言者を加えた彼らは自分たちは貪欲な生活をしつつも、弟子らには結婚を禁じるなど禁欲を奨励したのです。(テモテ第一4:1-3)

その派の根拠になったのが彼らの預言で、しばらくすると戦争や無秩序が起こってキリストの予告したこの世の終わりが来る、と緊急感を煽ったのです。
しかし、女預言者が死んでもそのような事態は起こりませんでした。この一連の「モンタヌス運動」をはじめとして、キリスト教界はその後様々な分裂を経験することになります。(ルカ20:30)

それは、聖霊を持った聖徒たちが去ったのと入れ替わるように現れました。
それから二百年が経過すると、ローマ帝国はキリスト教を国教に定めたので、キリスト教は政治と手を握っていて、権力の穢れを避けることは出来なくなってしまいます。
キリスト教のその後は、初代の教えとは異なった教理、つまり多くの『パン種』を次々に埋め込まれ、世界一大きな宗教に膨れ上がりましたが、同時に清さを失って行きました。(マタイ16:12)

しかしそうなると、聖徒の後のキリスト教は聖霊という舵を失い漂流を始めた船のようになったのでしょうか?
今日まで初代と同じように正しく聖霊の賜物を持った人が現れたという記録は見当たらず、また、歴史を眺めても、現れるべききっかけも起こってはいません。

では、どうして聖霊の賜物は無くなったのでしょうか?
また、キリストは聖霊を通して弟子たちを指導することを止めたのでしょうか?

この疑問には、キリストの「神の王国」の王としての役割が関係しています。
次に、この観点からキリストを考えましょう。



 ⇒ 王としてのキリスト









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キリストの果たす役割1

2012.08.16 (Thu)
1.神と人との仲介者

キリスト教を信じるのに、イエス・キリストの役割についての理解をはっきりさせておくべきなのは言うまでもありません。

テモテ第一2:5でパウロは、『神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです』。と書きました。[新共同訳]

では、クリスチャンを自認する方なら、このキリストが仲介者であるという点で、どのくらい理解がはっきりしているのかを少しテストしてみましょう。

まず、イエスという方の役割について簡単に追ってみると
西暦起源前数年に、名義上の父をヨセフとしてその妻となっていたマリアを母として旅先のベツレヘムの馬小屋に生まれます。
ヨセフの家系はダヴィデ王の子孫で、正統な王権相続権がありました。
そのため、当時ユダヤを治めていたヘロデ大王は幼子イエスを警戒して、ベツレヘムの二歳以下の男児を皆殺しにしました。

そこで、イエスにはイスラエルの「王」としての相続権があったことが分かります。

それから、イエスには偉大な預言者の役割もあります。
モーセは申命記の中で次のように述べています。
『あなたの神、【主】は、あなたのうちから、あなたの同胞の中から、私のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。彼に聞き従わなければならない』。(申命記18:15[新改訳])

モーセという人物は、神とイスラエルとの間に立って、契約の仲介者となって働いた偉大な預言者でした。
では、それほどまでに重要な働きした預言者が現れたのでしょうか。
後に、神はモーセを仲立ちに締結した律法契約を超えるものについて予告していました。

『見よ。その日が来る。──【主】の御告げ──その日、わたしは、イスラエルの家とユダの家とに、新しい契約を結ぶ。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。──【主】の御告げ──わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(エレミヤ31:31.33[新改訳])


新約のヘブル人への手紙は、この新しい契約の仲介者が誰であるかを知らせます。そこではモーセが律法契約の発足で活躍したことを語ってから次のように述べています。
『 しかし今、キリストはさらにすぐれた務めを得られました。それは彼が、さらにすぐれた約束に基づいて制定された、さらにすぐれた契約の仲介者であるからです。』(ヘブル8:6[新改訳])

それで、イエスはモーセよりも勝った預言者であるばかりではなく、より高度な契約の仲介者となったことを、聖書はわたしたちに知らせています。

契約の仲介者ということは、両方の側を取り持つ役割で、片方は「神」であり、もう片方は「人間」です。

神は「律法契約」をイスラエル民族と結びましたが、イスラエル民族としてはこの「律法契約」を守ることに失敗してしまいます。その原因は、彼らの「不信仰」にありました。
しかし、神は以前に交わしたアブラハムとの約束を守るために、別の契約をイスラエルと結ぶことを意図され、そこで「新しい契約」を用いられることになりました。その「新しい契約」の仲介者はモーセに勝って偉大な預言者となられたイエス・キリストです。

これらの契約は、神がアブラハムの子孫であるイスラエル民族を用いて人類全体を祝福するという計画を成し遂げるためのものでした。
それは、「イスラエル」というものを通して、人間に宿っている「罪」を浄め、最終的に人間が倫理的欠陥を尽く無くし、神に創造されたままの清さを取り戻すことで「神の子」の状態に復帰させる目的を達成させます。

それで、イエスはただ「新しい契約」の仲介者であるだけでなく、最終的には『神と人との仲介者』ともなられます。

キリストが人類を神と和解させる仲介者としての務めのはじめは、具体的にまず「大祭司」となることが含まれていました。その務めについては、モーセの律法の下での「大祭司」の取り決めが、鏡が実体を映すかのようにして、予め模型的にキリストの大祭司職について指し示していました。

では、次にキリストの果たす「大祭司」としての役割を律法下の大祭司の奉仕と照らして見てみましょう。

 ⇒ 大祭司としてのキリスト





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キリストが果たす役割2

2012.08.16 (Thu)
2.大祭司としてのキリスト


エルサレムの神殿では、律法の取り決めに従って定期的に動物の犠牲が捧げられましたが、それはイスラエルの罪のためのものとされていました。

しかし、それらの動物の犠牲は人間の倫理上の欠陥である罪の贖いとなったでしょうか。
パウロは『年ごとに捧げられた犠牲は、近付く者たちを完全にはできなかった』と言います。そのためイスラエル人にとっては『それらの犠牲は年ごとに罪を思い起こさせる』ばかりでした。
なぜなら『雄牛や山羊の血が罪を贖うことはない』からです。(ヘブル10:1.3.4)

『しかし、キリストは、罪のために一つの永遠の犠牲を捧げ、神の右の座に就きました』それはイスラエルの罪だけでなく世界の人々の罪への贖いともなります。(ヘブル10:12)
パウロはその犠牲の価が何に相当するかを示して『一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになった』と言って、イエスの贖いはアダムの失ったものを償うことを明かします。(ローマ5:18)

そのためにイエスは「アダムの罪」の無い人間でなければ、贖いとなることはできません。アダムの子孫は皆が尽く罪にあるからです。しかし、イエスは天からの方であり、マリアの処女懐胎によって地に来られた奇跡の方であり、唯一人罪の無い方となりました。
もし、イエスが普通の出生であったなら、キリストとして任命を受けることはできなかったことになります。

そうしてはじめて人間イエスは、人間アダムの罪への行いを相殺するために義の行いをし、死に至るまで試されたことによって、アダムの行いを無に帰せしめることができます。(ローマ5:19)

この働きを為すため、イエスはすべての人々を罪から贖う「大祭司」となられます。
それでヘブル書は『わたしたちの弱さを思いやることのできない方ではない方を、つまり罪を犯されなかったけれども、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に直面した方を大祭司としているのです』と書いています。(ヘブル4:15)
キリストは、地上での歩みを通して人間の労苦や誘惑に面したので、わたしたち人間の罪に流されやすい弱さを知っているので、人の罪を共感を抱いて扱ってくださると言うのです。

また、キリストの大祭司職は、モーセの律法の下での大祭司よりも遥かに次元の高いものなので、モーセの兄であった大祭司アロンの形式によるのではなく、さらに古代の他の人物、つまりアブラハムの昔に居た祭司でありながら王でもあったメルキゼデクという人物にも例えられています。(ヘブル5:10)

モーセの律法下では、「大祭司」と「王」との役職がはっきり分けられ、それぞれ別の人物が任命を受けましたが、キリストの場合はそれとは異なり、メルキゼデクのように王と祭司を兼ねる任命を受けます。
それは、イエスが祭司の家系のレヴィ族ではなく、ダヴィデ王家の家系に生まれたことが、律法の下での祭司とはならず、「王なる祭司」となることを示していました。

任命を受けた後の大祭司キリストは、その大祭司の役職を通して、ご自分の捧げた犠牲をどのように適用するかの権限を持ちます。
ヘブル書が、死に至るまで試された後のイエスの栄光について『そうして、権威を授かった後、ご自分に従うすべての者らの永遠の救いに責任を負う者となられました』と述べる通りです。(ヘブル5:9)

この大祭司への任命は、キリストの死を遂げた後のことでした。
その点をヘブル書は『もし彼(キリスト)が地上におられたなら、そこには律法にしたがって供え物をささげる祭司たちが居るのだから、彼は(まだ)祭司ではなかったでしょう。』と明らかにしています(ヘブル8:4)

また、キリストも地上の大祭司のように捧げる犠牲を携えるために準備する必要がありました。それは即ちご自身の「血」の犠牲です。そのためにも、キリストが大祭司として活動するのは犠牲の死の後となります。(ヘブル8:3)


さて、犠牲の死を遂げられ、捧げるべきご自分の「血」の価値を携え天に戻ったキリストは、いよいよ大祭司としての職務を始められますが、そこで律法下の大祭司よりも高度な、どんな祭儀を司ったのでしょうか。

その職務には「聖霊」が大きく関わることになります。
では、大祭司としてのキリストが実際に何を行われたかを見ましょう。



 ⇒ 3.最初に祭司たちを贖う






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キリストの果たす役割3

2012.08.16 (Thu)
3.最初に祭司たちを贖う


キリストが大祭司の任命を受けたのは、犠牲の死を遂げてから神によって生き返り、その犠牲を携え天に昇られ、天に復活して以降のことでした。そのようにして『ひとつの犠牲を永遠に捧げて神の右に座した』と言うことができます。(ヘブル10:12)

それから十日して、ユダヤは五旬節の祭りとなりますが、この日にエルサレムの街の隅でひっそりと隠れて集まっていた約百二十人の弟子たちには驚異的なことが起こります。

それが、以前にイエスが度々語っていた『助け手』となる『聖霊』の到来でした。そのときから「小さな群れ」であった彼らは力を受け、奇跡の能力を与えられ弟子の数は日毎に大きく増えてゆきます。(使徒2章)

この聖霊についてイエスは『わたしが去って行かなければ助け手は来ない』と語っていましたが、その言葉の意味は、イエスが大祭司の任命を天で受けてはじめて、その罪を贖う権能を得たので、贖いをその百二十人ほどの弟子たちに最初に適用したことを物語っています。

ですから「聖霊の賜物」は、罪の贖いなくしてはけっして与えられない貴重なもので、罪を許された「神の子」だけが受ける特権と言えます。(ヨハネ16:7/1:12)

それなので、パウロは『従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。』と言うことができました。(ローマ8:1-2)

聖霊を受け、その奇跡の賜物を得た特定の人々については、ちょうど律法の規定に沿って、大祭司が最初に自分自身と共に働く祭司たちの罪を贖ってから後に民の全体を贖ったように、大祭司となったキリストもまず自らの死を通して完全にされ、それから共に働くことになる弟子たちを人類全体に先立って罪から贖ったことを表していました。(レヴィ記16章)

それらの聖霊を受けたキリストの弟子がイスラエル人であってもなくても、個人の出身民族に関わらず、モーセの時代から語られた『選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神の所有に帰する民』であると指摘し宣言したのはペテロでした。(ペテロ第一2:9)

かつてのレヴィ族の祭司たちのように、キリストの犠牲を代価に神に買取られた民である彼らは、キリストと共に神殿を構成する「石」となり、もはや地上に実在する石の神殿を必要とはしません。その高度で新たな祭司制度はイスラエルだけでなく人類全体の罪を贖う奉仕を行うことになります。


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パウロは、聖霊の賜物を得た彼らを「初穂の霊を持つ」と表現していますが、それは彼らが、大祭司キリストによって祭司となるべく人類に先立ってキリストの犠牲が適用された「人類の初穂」と見なされる選ばれた格別の人たちであることを物語っています。

こうして、キリストは新しい祭司制度を発足させましたが、これを可能にするために存在したのが「新しい契約」でした。聖霊を与えられてこの契約に招かれた人々こそ本当の意味での神の民「イスラエル」であり、全人類を祝福する『諸国民の光』となります。

この血統によらない、信仰によって選ばれた神の民、また聖なる国民のことを、パウロはユダヤ人と区別して『神のイスラエル』と呼んでいます。そこには様々な国の人々が含まれたからです。

ですが契約とは、不確定なものに対して取り決められるものです。
「新しい契約」の場合は、キリストと共になる人々を、その肉体でいる罪ある間であっても、仮の義を貸し出して「神の子」としての罪のない状態にあると見なす働きをしました。それが「契約」であり、聖霊を受けた人々が最終的に罪のない「神の子」となるかどうかは地上にいる限りは不確定でした。それなので、パウロは彼らの受けた聖霊の賜物は「約束手形」であるとも書いています。(エフェソス1:14)

しかし、彼らの肉体には、実際にまだアダムからの罪があるので、彼らの「義」は生涯を通じて、愛のうちに『傷なく、しみのない状態を保って』『貞潔な処女のように』生きるなら天でキリストと共になる、という条件が付されてます。
ですから、ユダヤ人が律法契約に失敗したように、聖霊を受けた弟子らも個々に失敗することも有り得ることになります。そこでイエスは彼らに『狭い戸口を通って入るよう』な努力を求めていました。

ですが、最終的にこれらの聖霊を受けた弟子たちは天に召され、いよいよ新しい祭司制度が機能して、全人類を罪から救う時代が到来します。
人々は、今の貪欲と争いに満ちる社会を後にして、愛と協調の社会を学びはじめます。
しかし、その過渡期には適正な支配を受ける必要があり、キリストが王として人類を治めることになります。その支配が如何に慈悲深いものになるかは、福音書が明かす通りになるでしょう。

このキリストの支配のことは「神の王国」と呼ばれます。
それはけっして人々の心の中にだけあるものでも、今の世の中を改善してゆくものでもありません。
むしろ、倫理的欠陥として人間全般に巣食う「罪」そのものを、生きる人々から完全に除き去る根本治療となります。
『その王国は、ほかのすべての王国を打ち砕いて終わらせ、それは大きな山となって全地に満ちる』ことになりますが、それは社会の大きな具体的変化なくして達成されるものではありません。(ダニエル2:44)

その変化の起こる前に、聖霊は再び弟子たちの選ばれた人々に注がれ、「神の王国」とキリストの到来が世界に知らされることになりますが、この点は後の部分で詳しく考えます。

さて、この「王国」を通して、罪を許され、愛を学んで「神の象り」に創造された通りの「神の子」に復帰した人類は、神との完全な和解に至り永遠の命に入ります。

これこそが、『神と人との仲介者』として任じられたキリスト(任命された者)の果たす、比類なく壮大で素晴らしい大事業です。この教えを信じるキリスト教徒とは何と幸いな人々でしょう。
まさに、「神と人の和解」こそが創世記から黙示録までを貫く永遠のテーマとなっています。

そして、イエス・キリストは人間だけでなく、神についても成し遂げる非常に大きな働きがあります。それもまた、キリストでなくてはできない事ですが、それによってイエスの父である創造の神は最高度の栄光を受けることになります。

しかし、そのことを考える前に、聖霊の賜物を受けた弟子は今日も居るのでしょうか。
この人々がどうなっているのかについて、次に見てみましょう。


 ⇒ 「聖なる者」



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非三位一体論者の挙例

2012.08.05 (Sun)
 三位一体を信奉しないキリスト教徒の歴史

   三位一体の教理を否定してきた教派および個人と集団

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ユダヤ教から進んだ原始キリスト教も、共に同じくエルサレム神殿で崇拝されていた唯一神”YHWH”*を崇めるものであり、イエス・キリストもその直弟子らも生涯ユダヤ教と神を同じくしていた。イエス自身、自ら『人の子』と述べ、また自らは『父を尊ぶ』とも云われ、祈りをも捧げるユダヤ教徒としての生涯を全うしている。イエスは福音書中では『神の子』であることを繰り返し語っており、十二使徒もパウロもキリスト・イエスが創造神であったとの認識を表す場面も記述も聖書にはない。

したがって第四世紀以前の「普遍的キリスト教」は唯一神を信奉していたことは明らかなことで、キリスト=メシアとは、神から任命を受けた印として、頭に「香油を注がれた者」の意であってユダヤ教の概念であり、神の使者ではあっても神自身ではない。
*(現在は発音不明となっている神の固有名を示す聖なる四文字でユダヤ人には「ハ シェム ハ メフォラーシュ」と呼ばれる)

旧約聖書に於けるその役割は、モーセに匹敵する偉大な預言者、世界を統べ治る王、人類の父、平和の君、大能の神(従属的)、契約の使者であり、新約聖書では贖い主、神と人との仲介者、裁き主(臨在時の)、神への道、命の与え主、聖徒の代理人、天の大祭司等がある。しかし他方で、創造の神、またアブラハムに現れた全能の神であるという概念は聖書中にない。

そこでキリストを神の座に就けるには、キリストをユダヤ教の神と同等にする以外に方法はなく、まず二位同質説からキリスト教界に取り入れられ、後にヘレニズム文化に見られた三面神体の神秘宗教から移植されたのが三位一体説であった。

以下の一覧の以前(第三世紀まで)の歴史では、キリスト教徒は絶対的多数が一神論を信奉していたところに、ヘレニズム異教に影響されつつあったキリスト教とユダヤ教徒との強い不和が影響し、ユダヤ教徒と神を分ける動機が生じ、また強まっていった。
キリストを神に祭り上げたいキリスト教徒の都合といえば、元来はユダヤ教に対する強烈な敵愾心であった。
しかし、第三世紀まではキリストも神か否かが論じられていたのであり、聖霊を加えた三位一体説の登場は、エジプトの異教における三神一組の影響を受ける第四世紀を待たねばならなかった。

三位一体派はアレクサンドレイア発の新生異端キリスト教であり、その変質的教理の登場には当然ながら異を唱える人々を避けることはできなかった。。⇒「アンブロジウス 俗世との岐路に立った男


◆アレキサンドリアの執事(ディアコノス)であるアレイオス(ca.250-ca.336)

 このアレイオスから「アリウス派」いう半ば侮蔑を含んだ名称が生じ、以後は非三位一体論者は一括りにこの名で呼ばれることが多くなった。しかし、普遍教会には初めから三位一体は存在しなかったので、「アリウス派」の名称を付されるようになったのは、論争が高じるようになった後からである。

 アレイオスはリビア(キレナイカ)の出身者で、誰も彼の人格面について攻撃していないところは、アタナシオスとは異なり、高潔なキリスト教徒であったと考えられる。
 シリアのアンティオケイアで学び、師はルキアノスであり、オリゲネスの影響を受けていたと言われる。
その後、彼は道徳的に厳しいドナトゥス派の頭目の一人、メリティオスに加担し、一時は普遍教会から追放されていたところを、アレクサンドレイアのディアコノイの叙品に含まれ、復帰を果たしたとのことであるから、道義に厳しい観点があったように見受けられる。彼は弁舌に長けた人でもあり、周囲に慕う人々も少なくなかったという。

 彼が、この論争に入ったときには、既によい齢に達していたというので、三位一体説は彼の人生の終わり近くなって始まったものか、あるいはその主張を強めたと見ることができるが、それは第四世紀に入ってからということになる。
 第三世紀にはオリゲネスが、「子は父よりも小さい光」と述べており、「子と父は実は同じ神だった」という神概念を第三世紀の資料に見出すことはない。しかもオリゲネスはアレクサンドレイアの出身であり、第三世紀前半の彼の時代にはその地に三位一体説は無かったことになる。

 それで、ローマ帝国周辺の諸部族が「アリウス派」を信奉していたというよりは、唯一神論の方がヘブライの古から信じられてきていたのであり、シンプルな神認識は古来のものであった。辺境にゆくほどに古いものが残るという実情に鑑みても、これは説得力を持つ。当時のアレクサンドレイア市はローマに劣らない大都会であり、より先進的で洗練されたギリシア語文化の中心都市となっていた。
 三一派からすれば、古来の信徒に「アリウス派」のレッテルを貼ることで、後出の彼らは優越感と排撃の便宜を得た。しかし、単純明解な唯一神論が後から発生したのではなく、三位一体説が異教神秘主義的ヘレニズム思想の混沌とするエジプトから後から発生したという方が有体と言え、より複雑なものは後から造られるものである。

西暦紀元以降の時代のアレクサンドレイア市では、エジプトとギリシア、またオリエント東方など様々な宗教や心霊術の混沌とするようなキリスト教にとっては危うい地域であり、オシリスなど三つ組を構成する神々が信奉されていた。加えて当時のギリシア哲学は非常に宗教的になっており、哲学の中心は既にアテナイからアレクサンドレイアに移っていた。しかもキリスト教側も哲学者で教父のユスティヌス以来ギリシア哲学と迎合を始めており、第四から第五世紀にはギリシア哲学を通してキリスト教が解釈されるまでに変化していた。そこでキリスト教が時流にのった思想を利用して信者を獲得しようとするには多くの危険が伴った。つまり、キリスト教を実質的に異教に入れ替えてしまう危険である。

 三位一体を推進することになる監督のアレクサンドロスや執事のアタナシオス(298-373)とは、元々同じアレキサンドレイアの教会(エクレシア)に属していたが、執事アレイオスはアタナシオスより50歳ほど年長だった。「キリストは神によって創造され、したがって神より後に存在するようになったゆえに、み子なるキリストは、父なる神に従属しており、本質を異にする」という従来のヘテロシウス説を唱え、ニカイア会議で一度は敗れるが皇帝の心変わりを得て、その後も旧来の一神論は、しばらく帝国内では優勢であり続け、特に帝国辺境では広く信じられていた。



◆エウセビオス(ニコメディアの)341没
 教父時代における聖俗両面で影響力の非常に大きな人物であり、ニケアー会議でもアレイオスの擁護者で弁の立つ人物であった。
彼は、335年にコンスタンティヌス大帝を動かしてニケア議決をひっくりかえし、三位一体派を禁令に処させたうえ、アタナシオスもアウグスタ・トレヴェロールム(現ドイツ・トリーア)に追放させた。臨終のコンスタンティヌス帝(337没)に洗礼を施したのは彼であると云われている。以後、ウァレンティアヌスⅡ世に至るまで(異教のユリアヌスを除いて)皇帝は代々一神論を信奉したが、その基礎を据えたのがこの人物であったと言える。


◆ウルフィラス (ca.310-383)
四世紀に於ける蛮族への宣教で非常に有名な人物
非ゴート族でカッパドキア出身のギリシア人、蛮族によって奴隷にされた、或いは奴隷に生まれたか、若年期に捕虜になったかもし知れない。ゴート族として成長し、彼は後でギリシアとラテンの言語に熟達した。
彼はニコメディアのエウセビオスにエピスコポスに任命されたが、彼の出身地のゴート族は彼を宣教者として迎える。
ゴート族の首長からの迫害があった348年に、コンスタンティヌス二世の許可の下にモエシアのイストルムのニコポリスに逃れる。
そこで彼はギリシア語からゴート語に聖書を翻訳する。その過程でゴートアルファベットを考案。その写本はウプサラ大学図書館で1648年以来保管されている。それが「銀の聖書」と呼ばれるオストロ・ゴート王テオドリックのために作られたもので、ウルフィラスからおよそ百年後にラヴェンナかブレシアで製作されたものと考えられる。ラヴェンナ市には、今日も一神派のバジリカが複数建っているのを見ることができる。
彼は後に[http://d.hatena.ne.jp/Quartodecimani/20140317/1395013956:title=ドロストルムのアウクセンティウス]となる男子を養子にとっている。
彼については主に五つの人物伝が伝えられているが、ふたつはアリウス派で三人がカトリックによる。


◆メディオラヌムのアウクセンティオス -374
エピスコポス・アンブロジウスの前任者で一神論派のギリシア人、ラテン語は不自由したという。
彼はその地位をピクタヴィウムのヒラリオスに脅かされていたが、皇帝コンスタンティアヌスⅡ世が一神派であったために保護され、生涯をメディオラヌムのエピスコポスで終えることができ、三一派のヒラリオスはフリュギアに追放されている。


◆ドロストロウムのアウクセンティオス
ドロストロウムはドナウ河畔の現ブルガリアのシリストラ、ローマ帝国ではモエシア州に属し、ゲルマン諸族との接点に近い辺境であった。彼はアレクサンドレイアでディアコノスを務めメルクリウスの渾名を持っていた。
メディオラヌムの自分と同名の前任者で一神派のアウクセンティオスの支持者でもあったが、彼の死去によりメディオラヌムのエピスコポスに推挙されていたが、三一派に担ぎ出された知事アンブロジウスに敗れている。
若いころウルフィラスの養子になったとも


◆ラティアリアのパラディウス
ドナウ河畔のラティアリアはダキア州にあった。彼は一神論派の論客であり、アンブロジウスは自著「信仰論」の中に彼を批判するための書「一神論派の駆逐方法」を加えて皇帝グラティアヌスに献上し、その影響力を除こうとしている。
このパラディウスも辺境のエピスコポスであり、素養ある熱心な一神論者の有能な弁士であったため、三一派に加担したアンブロジウスに討論を申し込むが、勝てないことを悟ったアンブロジウスは皇帝を動かし政治力を用いて彼を討論の場に出させなかった。


◆シギドゥヌムのセクンディアヌス
ラティアリアのパラディウスと共に、381年に行われたヴェネツィアの東80kmにある町アクレイアでのアンブロジウス一派との討論に出るはずであったが、皇帝テオドシウスの権力の脅しを恐れて討議には出頭せず、パラディウスと共に地元から投票にだけ加わったが、アンブロジウスの政治力に屈し、三一派の優勢を崩せなかった。


◆コンスタンティウス帝(位337-361)及びウァレンス帝(位364-378)
 一度、ニケアーの議決が覆ったため三位一体派が衰退し大帝コンスタンテヌスの子、コンスタンティウス帝、ウァレンス帝と三位一体を特に信じない古来の一神信仰を持つ権力者が続く。

以後のカトリックの歴史では考えられないことだが、コンスタンティウスⅡ世帝は東方教会と共に、ローマの司教リベリウスに圧力をかけ、連綿と続くローマ教皇の中でただ一人三一派から一神論派に転向させることに成功している。それがため、ほかに迫害に屈してトラディトル(妥協者)となった教皇や行状芳しからぬ教皇が多く居たにも拘わらず、この時期、一神論と三一派を行き来したリベリウスだけがカトリックの「聖人」に列せられていない教皇として名を留めている。

こうした帝国の一位論優勢が覆るのは、受洗もままならぬ地方長官であったのが、突然に三位一体派によって俄か司教に祭り上げられたアンブロシウスを待たねばならず、このミラノ司教が、ふたりの皇帝の上に権威を振りかざすようになって「カトリック教令」を下させた380年以降にようやく権勢の強制によって三一派は勢力を盛り返す。その教令は、以後はエジプト式のキリスト教を普遍(カトリック)とすることを定めた。その後は一神論派の集会が権力によって禁じられる ⇒ アンブロジウス当時の三一派の趨勢


◆ウァレティアヌス二世帝(位375-392)
 ウァレンス帝の子で母ユスティナの信仰を受け継ぎ三位一体派ではなかった。
アンブロシウスに膝を屈め、三位一体を強要されたグラティアヌス(位375-383)とテオドシウス(位379-395)のふたりの皇帝に挟まれ存在感は薄かった。この皇帝の死の前後して、アンブロシウスが使嗾した「アリウス派」への過酷な迫害が始まっている。


◆スティリコ 365-408
 テオドシウス一世を支えた将軍、メディオラヌムを攻囲したゴート族を撃退している。
父はヴァンダル族の軍人、母はローマ人。
彼は自分がローマ人でない自覚を持っており、周囲は彼をアリウス派としていた。
 ホノリウス帝は彼に内通を疑いラヴェンナで処刑してしまうが、そのために西ローマは軍の中核を失い、スティリコに従っていた多くの蛮族出身の将兵が敵方に寝返り、西ローマの滅亡を早める結果となった。


◆東ゴート王テオドリック、及び東ゴート族
 493年以降イタリアのほぼ全域を50年に亘って支配した東ゴート王国は一神論を信奉していたので、首都であったラヴェンナ市などには今だに「アリウス派」のものとして建てた教会堂が複数現存する。

 テオドリック王曰く「宗教は王といえども自分の意のままに左右しえない事がらである。なぜなら、何人もその意志に反することを信ずるよう強いることはできないからである」と自ら述べたように、彼は一方でカトリックの保護も行って宗教上の寛容さを示してもいたのだが、それと共に当時イタリアの非三位一体派には無理強いする必要のない自然さがあったことが分かる。
 東ゴート族はその王国が滅亡に至るまで、アリウス派と唯一神論を保った。


◆ブルグンド族
北欧バルト海に浮かぶ島由来のこのゲルマン支族がいつから一神論の古いキリスト教に改宗したかは定かでないが、西ローマは彼らを「アリウス派」として警戒していた時期があり、それは彼らが第二ブルグンド王国を維持していた時代まで継続していたという。その後、西暦500年頃を境にこの対立は解消されカトリックに同化した。


◆西ゴート族
  南フランスからヒスパニアに居住していた西ゴート民族も、司教ウルフィラスの働きもあり「アリウス派」を信奉していた。5世紀半ばから、711年までスペインに存続した西ゴート王国は、「アリウス主義」の拠点であった。
 後にフランク王のクローヴィスがローマと組んで西ゴート族の地に攻撃を仕掛けるに際し、「神の加護を得て」アリウス派を屈服させる意図を前面に出し、数多くの惨殺を行こなわせたが、教皇グレゴリウスは、彼らがカトリックの正統的信条を擁護したとの理由で彼らの残虐非道の罪を赦すよう祈願したという。
 修道院で教育されたフラビオ・レカルドⅠ世王が第三回トレド会議(589年)において自らカトリックに改宗する旨を示し、西ゴート王国の国教と定めて後はアリウス派も衰微していったが、ヒスパニアには、アフリカから別の完全なる唯一神論、ユダヤ教同様に三位一体を異端とし「三位などと言ってはならない」とするイスラム教が迫りつつあった。



◆ネストリウス派
 アレクサンドリア総大司教キュリロスの神性不可分説に対し、アンティオケア学派出身でコンスタンティノポリス総主教であったネストリウス(ca.381-ca.451)は、キリストの位格は1つではなく、神格と人格との2つの位格に分離されると考えた。それゆえ、人性においてキリストを生んだ「マリア」が神の母(テオトコス:Θεοτοκος)であることを否定するが、これは神母マリアを崇拝する普遍教会の許すところではなかった。(マリア崇拝がイシスやキュベレなどの地母神崇拝との結びつきを指摘されることを普遍教会側は恐れていた)

 この派はエフェソス公会議において異端とされた後、498年セレウキア・クテシフォンに新しい総大司教を立てるなど、東方世界に活路を見出し、その一部は変質しながら中国までに及び当地では「景教」と呼ばれた。現在もカルデア典礼カトリック教会と呼ばれ中東に存在しており、アメリカやオーストラリアの移民の中にも信徒がいる。


◆ロンゴバルト族
  ゲルマンの一支族で、5世紀から6世紀にかけて北イタリアを占領した民族。
 彼らは前住の東ゴート族の信仰を取り込んで非三位一体信仰であり、アタナシオス派のローマ人を迫害するほどの勢いであった。現代イタリアのミラノを中心とした州の名「ロンバルディア州」にその「長い髭」の意をもつ名を留める。


◆ヴァンダル族
  北アフリカに及んだゲルマン民族で、スペインのアンダルシア地方にその名の痕跡を留める。ヨーロッパの東ゴート族・ロンゴバルト族の時期に前後してジブラルタルからモーリタニアそしてチュニジアへと侵入した。
 ヒスパニアに居住する以前の四世紀半ばから非三位一体のキリスト教を信奉しており、この民族により、455年、帝国の象徴的中心であったローマ市は西ゴート以来再び外敵に占領された。ヴァンダルによる略奪は激烈という程ではなく、倒壊した建造物はなかったが、それは帝国内を震撼させ、また三位一体説を採りはじめた当時のローマ教会をも圧迫した。
 三位一体の強力な論客、ヒッポの「聖」アウグスティヌスはこの唯一神論を信じるこの「蛮族」の攻囲の中で息を引き取った。430年
 ヴァンダル族も滅亡まで「アリウス派」であり続け、最後の王ゲリメルもローマに捕虜となった後に、貴族に列せられる特権を固辞してすら一神論に留まった。



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改革期以降


◆ジョーン・ボーシェイ Joan Bouchey (あるいはブッチャー)

 ヘンリーⅧ世治下の英国で、この女性は王室内の女性たちに翻訳の禁じられていたはずのウイリアム・ティンダルの新約聖書を頒布したために捕えられた。査問委員会は、彼女が再浸礼派と関連があり、更に三位一体を否定することによって公然と「神を冒涜した」とし1543年に断罪し、ヘンリーVIII時代以来、相当数の処刑が行われていたロンドンのスミスフィールドに於いて、エドワードIV世治下の1550年5月2日、火刑に処された。


◆ミゲル・セルヴェト Miguel Serveto (1511-1553)⇒「セルヴェとその影響

 スペイン出身の医師にして法律家、気鋭の科学者であった。三位一体を含んで当時のキリスト教会の教理や慣習を痛烈に批判した著書を数多く出した。

 ことに「キリスト教の回復」では三位一体を「理解することができず、物事の性質上あり得ない事柄であり、また実際に冒涜的な事柄とさえ看做せる」とし「三頭の怪物」とまで述べた為、当然のことながら、やがて彼はカトリックに追われる身となり、逃避行の途上スイスに差し掛かったところを、自らの知人でもあった新教の改革者ジャン・カルヴァン、まさにその人の慫慂によってとろ火でじわじわと五時間をかけて焼き殺された。
これはカルヴァン最大の汚点とされ、1903年にジュネーヴ市シャンペルの丘にはこの一件の贖罪の碑が立てられた。

 宗教改革に求められたのは、旧来の教えに慣れた大衆がついてこられる程度の、相応しいカトリックの調整であって、当初はルターでさえ新派の立ち上げを意図してはいなかった。
 キリスト教回復の不徹底が社会総信徒制の宗教体制の限界であり、この当時にはフマニスト(人文主義者)らの活動によって、ようやくにギリシア語やヘブライ語文献の再調査が始まり、キリスト教に染みついた中世スコラ哲学の誤謬に一部の識者らが気付き始めた段階に在ったため、非三位一体説や再浸礼派などのキリスト教刷新は、不穏当な極論とされかねない状況であった。


◆ダヴィード・フェレンツ Dávid Ferenc(1510‐1579年)

 トランシルヴァニア出身でザクセン系のハンガリーの聖職者、ルーテル派から改革派、そして唯一神論者となる。
彼は聖書中に三位一体の根拠を得ず、聖霊のペルソナに疑いを持ち、1565年から三位一体を論駁し始める。
1568年からはトランシルヴァニアでユニテリアン教会を創始、三位一体を教えず却ってそれは「聖書に反する」とした。また、キリストが神に祈っていたことからキリストの神性を否定した為にトランシルヴァニア公と衝突、終身刑を宣告されトランシルヴァニアのデヴァの獄中で病死した。現在、その牢獄跡でフェレンツが記念されているのを見ることができる。

しかし、彼はトランシルヴァニアにユニテリアンのヨハン・ジークムント*学院を興しており、彼の意志は義理の息子ヨハン・ゾンメル(Johann Sommer)、次いでギョルギィ・エネディ(György Enyedi)へと学院に受け継がれ、後の唯一神論者たちも絶えることなく、現在もハンガリー・ユニテリアン教会が積極的に活動している。
英語圏のユニテリアンは19世紀まで、彼らの存在に気付いていなかったという。

*彼がこの名を学院に冠したのも、トランシルヴァニア公ジークムントⅡ世ヤーノシュ(1540-71)に彼が献策したトルダの勅令が1568年に発布され、様々な宗派を理由に迫害することが全面的に禁じられたことへの感謝が込められている。この勅令は16世紀にしては極めて先進的であった。
<György Enyedi(1555-28 Nov. 1597) Hungarian Unitarian bishop,The John Sigismund Unitarian Academy in Kolozsvár a theological school founded in 1557 by the Unitarian Diocese of Transylvania.>

◆レリオ&ファウスト・ソッツィーニ(ポーランド同胞団)1539-1604

  ミゲル・セルベトの刑死を目撃していたレリオは、受刑者の決然とした態度に感じ入り、丹念に聖書を見直してその非三位一体を確信した。
 その後、自らの弟ファウストと共にローマの検邪聖庁の追っ手を逃れてポーランドのクラクフに至り、その地の再浸礼派と合流し小改革派を起こした。
 これら信徒は三位一体説を退けポーランドで成長した派として確立されたが、後にイエズス会による情け容赦ない迫害を受け四散。   

 その派のごく一部はカトリックの及ばないイングランドに渡って、その後のユニテリアン運動の母体となった。


◆ジョン・ミルトン(1608-1674)

 あの「失楽園」の著者、この一冊を読んでも彼が神とキリストを被造物として明確に区別して役割を与えており、部分的にせよ17世紀イングランドの知識階層に三位一体放棄の気風が漂っていたことを今に伝えている。
彼は単なる詩人ではない。「宗教改革論」を著すほどの宗教の論客であり、その中では、ブリトゥンの改革の遅れた原因を指摘し、改善を促してもいる。またヘブライ語については、ロジャー・ウイリアムズに教えるほど通じていた。
1641年には、ローマ教皇を『大いなるバビロン』と見做しているところも、当時の新教側に立っていたことを示している。実際に彼は清教徒革命のオリヴァー・クロムウェルを支持して、カトリックに抗するイングランドの役割に深く期待していた。
1650年にはポーランドのソッツィーニ派由来の”The Racovian Catechism”(「教理回復」)の出版の行っている。


◆アイザック・ニュートン卿

 歴史上最大の科学者としてあまりにも有名なこの人物も、本件に関して物理学以上に多量の文書を残している。
 殊にその著「二つの聖句の著しい変造に関する歴史的記述」(1754年)にギリシャ語本文のなかへ、あたかも三位一体を言い表しているかのように挿入された偽のふたつの聖句を指摘し、自らの三位一体に対する「理解できないものは信仰の対象たり得ない」との主張を、地位を失う恐れから公表を控えた文書のなかでこそは雄弁に語った。

 彼が錬金術にのめり込んでいたことは膨大なメモの存在が証しする通りながら、他方で丹念な聖書研究をして唯一神への結論に達したのであるので、単に「アリウス派であった」とフリーメーソンの密議参入者と同様の怪しさを匂わせるのはどうであろう?彼の精緻な聖書研究が非三位一体論を自己発出させたと考えていけない理由はない。
 ともあれ、あたかも三位一体を裏付けたかのようであったヨハネ第一5:7などの挿入句*が大抵の現代訳で省かれるようになっているのは、ニュートンを含む今日までの聖書学者たちの一致した見解となっている。(*3-4世紀スペインか北アフリカで挿入されたと考えられているという)



◆トーマス・エイケンヘッド Thomas Aikenhead (1676-1697)

 彼はキリスト教全般に対して批判的でキリストよりはムハンマドを好んだ。18歳の学生の頃から三位一体を認めずに絞首刑を辞することなく、スコットランドのエジンバラで1697年1月8日に処刑された。20歳であった。



◆ウィリアム・ウィストン (1667-1752)

 ニュートン卿の後任としてケンブリッジの数学ルーカス栄誉教授職に就くが、先輩が保身のために公にしていなかったことを熱意に燃えて大いに明らかにした為、学士院から追い出され、その先輩にも見捨てられ科学者の地位を失うも、元から英国国教会に属し、後に「原始キリスト教再興」(1711)を著したが、世間からはほとんど共感されず、却って国教会側からその内容を告発される結果となった。ロンドンに出て1715年に原始キリスト教振興協会を設立することにより、三位一体の無かった原初の純粋さへの回帰を促した。
その後はバプテスト派に属したが自身は、イスラエルの帰還が近付いていると説いて英国各地を巡っている。



◆ジョセフ・プリーストリー(1733-1804)

 酸素を発見した化学者として歴史に名を残したが、三位一体を否定するユニテリアン教会の牧師である。というよりは、ユニテリアンの唱道者リンゼイの友人であり、その新しい宗派に協力を惜しまず、自らも説教壇に立ったということらしい。

その著書の「誤りと迷信という古い建物を爆破して」という、先鋭的題名が災いしてか、英国国教会信徒に家を襲われ晩年は渡米した。



◆ユニテリアン運動

 イングランドでは早くも13世紀から聖書研究が学者や民衆のなかで進められており、三位一体を否定し、神の唯一性を信じる主義は一定の歴史を持つといえる。一位論は16世紀海を越えてニューイングランドに移植され、英国と共に北米で発達。

 最初の「ユニテリアン」としての集まりは、唱道者リンゼイによる英国で1774年のことであったという。当初から信徒の信念をそれぞれに保つという自由度の高さがあったが、礼拝方式の斬新な変更は当時の人々を困惑させることもあったという。

後にピューリタンの地マサチューセッツを訪れた内村鑑三を最初に迎えたのも、福沢諭吉が日本向けのキリスト教として着目したのもこの教派であった。現在もボストンを中心にユニテリアンの教会が存在しており、それなりに「市民権を得た教会」と云うことができよう。

 イエス・キリストを宗教指導者としては認めつつも、その神としての超越性は否定するこの運動は英米において今日も健在であり、特に米国のUUなどの団体は少数者の信教の自由を擁護する面で大いに活動している。



◆キリスト・アデルフィアン派 (Christadelphians)

 北米で1845年頃に発足したとのこと、当初はグループの名称がなかったが、南北戦争当時良心的兵役拒否を貫くべく登録の必要が生じ、その時に英国生まれの医師ジョン・トーマス(1805-1871)が急遽代表するかたちで名称をキリスト・アデルフィアンとした。その後も良心的兵役拒否を続け二度の世界大戦もその立場を堅持し、代替作業を受ける許可を得たが、ドイツでは犠牲者を出している。

 教理では、三位一体を退け、地獄や霊魂不滅も否定、永遠の命に入らない魂の消滅、死者の復活とキリストの地上への再臨と王国の到来を信奉。ただし、キリストの地上生誕以前の存在は認めていない。また、悪魔を抽象的悪の性質と捉え、実在するものまた、堕落した天使とは見ていない。聖徒と信徒の区別はなく、罪によって神と隔てられた人間はキリストの弟子となり和解する。

 集団内では僧職階級を設けず、集まりを「エクレシア」と呼び、19世紀に英米で繁栄、20世紀半ばから英米豪で再び増加傾向をみせている。今日では120か国に5万人の信徒を持つ。
日本にも幾らかの信徒が存在するということである。



◆エホバの証人派
 
 ここの信徒らは認めないかもしれないが、長いスパンで見ると、英米のピューリタンの気風を受け継ぎ、聖書に綿密に従おうとする幾つかの派が現れたが、「国際聖書研究者協会」(前身)もその一つと言えよう。
 特に年代計算による預言解明を行う19世紀当時の密議解明の流行に同調した創唱者のチャールズ・ラッセルが、1876年からアドヴェンティスト派との共通する教理を唱導し、そこから「七つの時を2520年」とするウイリアム・ミラーに源を発するアメリカの覚醒運動の教理の流れを汲んでいる。しかし、三位一体はアドヴェンティスト派以上にはっきりと否定され、キリストの贖いの教理は明解となっている。

 独自の教義は、1914年を強調して大患難の勃発と携挙を予告したが、アドヴェンティストのような失望を経た後、やはり1920年からは二代目会長の下で教理をSDAのように「天での成就」に変更し、世界大戦等の社会悪を印としてキリストの臨在が1914年以来始まっているとされ現在まで継承している。
 周囲をサタンと断じ、正義感むき出しで三位一体等を暴いている事もあって、彼らに対するキリスト教界からの風当たりは今も強い。ともあれ、現代人には身近で気性の激しい非三位一体論者ではある。
 終末の時がいつになるかを預言したことの結果として20世紀後半にピークを迎え、21世紀に入り減衰が見られている。



◆ライナス・ポーリング(1901-1994)

 彼の師にはアルノルト・ゾンマーフェルト、ニールス・ボーア、エルヴィン・シュレジンガーなど物理学の大御所が居並び、物理学を応用した彼は化学結合の性質を解き明かし「分子生物学の父」と呼ばれ、この分野でノーベル賞をひとつ受けている。
彼はオッペンハイマーに原子爆弾の研究(最初の核実験は「トリニティ」と呼ばれる)に誘われたが、平和主義のゆえにこれを辞退。むしろ地上核実験の廃止を国連に訴えて米国内からは共産主義者のレッテルを張られる。
しかし、1963年にフルシチョフとケネディによる部分的核実験禁止条約が発効すると、彼はノーベル平和賞も受賞する。
 このほかに、大気汚染の憂慮して1950年代に早くも電気自動車の開発に着手するが、電池の進歩がない限り普及しないことを見極めてこの計画に中止を提言している。その先見性は21世紀の今日にあって電気自動車の躍進に証明されている。
この優れた学者もまた三位一体を信じないユニテリアンであった。




◆小田切信男(1909-1982)

 北海道で聖公会のバプテスマを受け、戦後に東京で医院を開業。
その間、東京神学大学夜間講座で受講生、また日本聖書学研究所で聴講生、医院二階をこの研究所として提供、後に日本聖書学研究所名誉会員。

 YMCAのメンバーであり神学者であるスイス人のエミール・ブルンナー教授が、設立されたばかりの国際基督教大学(ICU)の客員教授として来日した折に二つの質問を提起、1つめは、キリストの神性を認めることが、そのままキリストの神告白となるべきかどうか。2つめは、キリストを神とすれば神が死んだことになるが、聖書の立場からして神は死ねるものかどうか。いずれについてもブルンナー教授の解答は得られなかったという。
イエス・キリスト御自身は神ではなく、神といえば必ずイエス・キリストの父なる神であるとの見解を表明。⇒ 小田切信男氏の福音論







こうして概観すると、理系の優れた人々に非三位一体論者が多いことが分かる。
分析的な思考をする場合、アミニズム的、スピリチャルな要素に非理性的蒙昧を嫌悪する以外ないように思われる。

一方で、中世の暗黒のままに現代のキリスト教が三位一体を護持している理由には、欧州がキリスト教社会であり、キリスト教を大衆の精神を規制し秩序を与える必要があることに起因している。ローマ国教化から、ヨーロッパ封建制、主権国家の概念の登場に至るまで、キリスト教は個人が懐くべき信仰ではなく、社会単位の信仰であり続けてきた。
そのために、大衆の信仰心の限界を超えるような変革は不可能であり、もはや社会的キリスト教は原始の姿に回復できるような状況にない。
「三位一体」の信仰は、「天国と地獄」また「十字架」の象徴と共に、大衆のご利益信仰を形成しており、大衆は『この世』以外の何者でもなく、『この世は邪悪な者の配下にある』以上、唯一神のキリスト教信仰が優勢になることは期待ができない。
世界は、三位一体を信じるキリスト教が趨勢を占めたまま終末を迎えることになるだろうが、それこそが神の遠謀深慮であると言える理由がある。

  ⇒ 三位一体論について



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2012.08.05 (Sun)
三位一体   Trinitas(羅)

教会員にとっては教えられるままに、三位一体を真実として受け容れている方々がほとんどであるので、実は三位一体の方が後から現れたと聞けばいぶかしく思うであろう。
つまり、初代教会はテオドシウス帝の発布した「カトリック教令」にしっかりと受け継がれたのであって、そこに一神論を主張するアリウス派という異端が後から現れたという説明がなされることが今日の趨勢となっているからである。

しかし、ユダヤ教から興った原始キリスト教は純然たる一神教であり、イエスも誕生後に律法に従い割礼を受け、生涯にわたりエルサレム神殿で崇拝し、その神に請願を祈り、また『自分からは何もできない』と云われるほどに神に頼る姿勢を見せ、『父のほかに良い者はいない』とも自らを低め、その地上の生活と犠牲の死を通して『従順を学んだ』と聖書も記す。
その使徒らもキリストをその称号の通りに神から任命された者として受け入れていたのであり、使徒ペテロは神への祈りの中で御子をダヴィデ王の呼称を踏襲して『あなたの僕イエス』と呼んでもいる。

キリストであったイエスは、『父の家』であるエルサレム神殿が商売や移動の都合で汚されていたのを見て、まったく例外的に実力行使に及んでいたが、それは神への忠節な熱心から出たことであったことが聖書に記録されている。
神と子が同じ存在であったとなれば、その熱心は単に神自身の憤りの表明となり、イエスの『わたしは父を尊んでいる』という言葉の意義も色あせてしまう。

もし、三位一体を教える教会と接触せずに聖書を読んだ人が神は三位一体であると考えるだろうか。
それは無理であろう。ユダヤ教が律法だけでは事足りず、無数の口頭伝承を加えて信者を規制してきたように、聖書だけ読んで三位一体を信じるはおろか、その概念さえ自然には持てるものでない。それはキリスト教界からすら三位一体を否定する人々が現れてきた歴史にも明らかと言える。
したがって、教会員さえもが「教会がそう言うのだから」と自分の中でつじつまを合わせて洗礼を受けるしかない。

当然ながら、複雑なものは単純なものより後に作られるのであり、単純明解な一神論が三位一体に置き換えられるのは第四世紀を待たねばならず、三一派がキリスト教界の趨勢となるには更に年月を要しており、その間には数世紀にわたる両派の一進一退の勢力争いが続き、遂に権勢に勝る三一派が趨勢を形作ったのである。

以下に、その来歴と影響を書き出してみよう。


■三者が等質で『唯一の』神

キリスト教における三位一体は、神は三つの位格(ペルソナ)を持っていて、1.父なる神 2.子なる神 3.聖霊 が共に一つの神を構成しているという。
東方正教会では「至聖三者」と呼ばれ、カトリック、プロテスタントという三大教派を中心に信じられてきた教えであるが、この三位一体を信仰箇条とする教派は、共通する教理を議決した公会議の名から「カルケドン派」とも、またヘブライからの教えを離れたギリシア=ローマ(グレコ・ローマン)型と呼ぶことも不適切ではない。

イエスも神ならば、その父も神であり、加えて聖霊も同じ「神」であり、しかも、その三者は等質にして不可分であり、その実体は三つではなく一つであるとされているのが三大教派の三位一体説である。
これを裏付けるかのような「アタナシウス信経」が、ローマカトリック圏内で根拠として利用されてもきたが、今日までにこの資料は五世紀の捏造であることが知られている。

ヘレニズム神秘主義の三神一体は、古代より様々な地域の多神教宗教において存在してきた教理のひとつである。
キリスト教においては、エーゲ文明に源泉をもつ神概念を萌芽とし、前4世紀のプラトンのギリシア幾何学(聖三角形)を媒介し、諸国の宗教に流行した三面神崇拝の渾融するヘレニズム思想がヘブライ由来のキリスト教が国際化に曝される中で、後4世紀(380年カトリック教令)に至ってエジプトからローマ帝国の法制度化と帝国の国教化を経て「キリスト教」に混じったが、それはローマ帝国も教会も東西に分裂する以前であったため、ヨーロッパで広汎に教理とされた。その後、西欧ではようやく五世紀に広範囲なキリスト教の教理として確立をみるが、8~9世紀にかけてもカトリックの十分に及んでいなかった辺境では依然として論争が残っていた。

■原始キリスト教以前の典拠なし

「三位一体」という言葉は、聖書全巻にも、新約聖書編纂より成立の早いとされる「ディダケー」にも皆無であることはよく知られる。使徒ヨハネの死去十数年後のアンティオケイアの教父イグナティオスにも、二世紀後半に殉教したアレクサンドレイアのユスティヌス(ca100-165)の著作にもその痕跡すらない。むしろ、ユスティノスはキリストは神に次ぐ”第二の位にある”ことを述べているし、キリストが創造物に先立って神と共にあり、”神はキリストを通して万物を美しく整えた”と述べ、コロサイ書第1章15節と調和した見方を唱えている。(第一護教論13:2-4/第二護教論6:1-5)

「三位一体」の言葉そのものを記す古いキリスト教の著書としては、西暦180年ごろのアンティオキアの教父テオフィロス(?-ca183)の著書に初めてτριας[トリアス「三位性」の意]というギリシャ語によって現れてはいるが、そこで後の三位一体説を唱えていない

 三位一体と同義のラテン語で[トリニタス]という語を用いたのは三世紀の教父テルトゥリアヌス(ca150-ca220)と云われているのだが、カトリックの刊行物も認めているように、テルトゥリアヌス自身も三位一体の意味においてその語を用いていない。

前述の教父テオフィロスの時期のキリスト教にも三位一体の概念がなかったし、アレクサンドレイア出身の著名な初期ギリシア教父オリゲネス(ca185-ca254)もまた”父と子は、その本質について言えば二つのものであり・・・父と比べれば子は非常に小さな光である”とその著書「諸原理について」の中で述べている。その理由については”「御子が御父よりも優れた方ではなく、劣った方であると言明する。私たちがそう言うのも、「私をお遣わしになられた方は私よりも偉大な方である」と言った方を私たちは信じているからである”とも言っている。
このように、第三世紀の使徒後教父文書にも三位一体を窺わせるような文言を見出すことはない。

エジプトのアレクサンドレイアには使徒伝来とされる司教座が置かれており*、アレクサンドロス大王による創建からプトレマイオス朝を経てローマに降って後もギリシア文化圏に属し、プラトン哲学的な思索と聖書の比喩的解釈で知られていた。即ち、この「世界の結び目」と呼ばれたこの学術都市は、キリスト教と多様な異教思想との危うい接点であった。(*使徒がこの地を訪れた記録は聖書には無い)

その当時はユダヤ教側も諸国民への宣教に取り組んで一定の成果を得てもいたことで、やはり諸国に広がるキリスト教には嫉妬を懐きやすい状況があった。やはりユダヤ教側は、自分たちの中から現れてきたキリスト教に対して激しく反対していたので、イエス派信徒に対するローマ帝国からの迫害に乗じて、密告はもちろんのこと、処刑の手助けも進んで行っていた様が古資料に残されている。
そこでキリスト教側は、ユダヤ教を強く怨んでおり、それはキリストの非ユダヤ化とキリスト教のヘレニズム化を強力に推し進める動機となっていた。

そこで、キリスト教がユダヤから全く取り去られ、ギリシア=ローマ独自のものへと再構成される下地は充分にあった。しかも、その間にユダヤ人イエス派信徒はユダヤ教側からの迫害に遭い、姿を消して行く途上にあった。ユダヤ人からすれば三一は勿論、メシアが神自身であるという教えはヘレニズム異教への堕落であり、受け入れることはまず不可能である。だが、キリスト教界はユダヤ人信徒を失ってゆくに従い、キリスト教の教師は非ユダヤ人に占められ、そこにユダヤ人との不和が働いて、異邦人主体のキリスト教界はヘブライズムを厭いギリシア文化に近付いてゆく。こうして二つの宗教は別の神概念の道を邁進してゆくことになる。
しかし、それは「聖書教」の分裂であり断片化でもあったので、双方から新旧の聖書を通じた一貫性ある貴重な理解が失われることを意味した。


■異教に観られる三一神
これらの状況下で、アレクサンドレイアは諸国の宗教とキリスト教混交の危険地帯であり、オシリスのエジプト三神組崇拝、またヘレニズムに見られるヘカテーの三面神崇敬への触媒の作用を及ぼす、また当時人種文化の混じり合うさまを「熱した溶鉱炉」というように表現もされていた。
それに加え、ギリシア哲学の中心地もアテナイからアレクサンドレイアに移っており、しかもその哲学は宗教化した時期にあった。
ヘレニズムの流行から、ユダヤ民族からもフィロンのようなヘレニズムとの折衷を指向する者さえ現れており、その路線を継承したのが、アレクサンドレイアのクレメンスのような異教哲学的「キリスト教徒」であったが、それは様々な宗教的ニュアンスの渾融を特色としていた。

アーリア系の宗教には三一の神々が特徴的に観られる。
ヒンズー教の「トリムールティ」とはブラフマー(創造神)、ヴィシュヌー(存続神)、シヴァ(破壊神)の三神によって諸相は変転を繰り返すとされる。仏教では、阿弥陀三尊で表され、阿弥陀如来像を中心に、勢至菩薩と観世音菩薩を伴う。「三尊」にはほかにも幾つかの配置があるが、仏教に限らず古来三つの崇拝対象は異教圏で採用されている。
イラン系のミトラ神、ヴァルナ神は、ミタンニ文化にまで遡るほど古い由来を持っているが、ヒンズーではアスラ族諸神の代表格でもあり、ゾロアストロス教のアフラ=マツダ神はイランでは太古のアスラ族の神でもあり、それはインドではアシュラとして仏教に入り、日本の興福寺に国宝として安置されている阿修羅像は三面六臂の姿であり、闘争の神として「修羅場」の語源をも提供している。

太古から、三神一体や三面を持つ神像はヘブライ文化以外で培われてきていたが、東西の文化が混じり合うヘレニズムの中心アレクサンドレイアでは、アーリア系からアジア・アフリカの宗教文化が混融する土壌にあった。西暦起源後にキリスト教がそこに入ったときには、ユダヤ教のようではなく排他性の弱いキリスト教には、教理の混濁する脆弱性があり、やはり、三位一体説が、二位論をさえ凌駕して登場する背景には異教徒の宗教概念の先在があったことを窺わせる。

■神名の問題
第三世紀まではキリスト教側でユダヤ教に対抗するために、神殿の消滅により固有名も曖昧となっていたユダヤの神に対してキリストの優越性を説く過程で、キリストも神とする傾向が高まりを見せていたが、それはユスティノス(mt)の著作「トリュフォンとの対話」にも見えている。だが、そこでは未だ二者論であり、ヘレニズム異教の三神論に同調したような形跡は残っていない。

ローマのクレメンスはその手紙の中で、コリントのキリスト教徒の不和を糾弾する文の中で「君たちは主の御名に冒涜を加えている。」と書いているが、この『主』がキリストを指すことは前の文章から分かるのだが、「御名」と有ればユダヤ人信徒であれば、旧約の神である『主』(アドナイ)つまり神YHWHと混同し兼ねない。当時にはユダヤ教ナザレ派は依然健在であったため(西暦100頃)その誤解はまだ避けられたであろうが、ユダヤ教からの信者が去った後のエクレシアではそれも期待できる状況にはない。

■強引な教説の開始と論争
しかし、後の第四世紀に入ったころ、アレクサンドレイアのエクレシアでは、キリストも神であるとの見解が支配的となり、更に進んではっきりと三位一体説を唱え始めると、執事(ディアコノス)のひとりであったシリア学派のアレイオス(250-336)は、キリストが神であるとの主張、また当時のヘレニズム影響下のキリスト教に於ける新たな三つ組の神を推進する風潮に異議を唱えた。
だが、他のディアコノイは趨勢に従って彼に反対し、エクレシアとしての結論をエピスコポス(監督)のアレクサンドロスが出したが、その裁定は、キリストも神とするというところとなって、アレイオスを破門に処してしまった。

こうして、アレクアンドレイアの監督アレクサンドロス(?-326)と、次いで当時若きディアコノス(執事)のひとりであったアタナシオス(298-373)は、明確にエジプト地域で古来優勢であった三神一体*をキリスト教のものとする意志をもった。その動機のひとつは、エジプトではキリストも神であることの理解は既に趨勢を成しており、都会的なヘレニズムの異教徒たちへの宣教を効果的に進めるという目的であったようだ。第四世紀当時のローマ世界の宗教の状況は、未だに大多数の異教の中にユダヤ教とキリスト教が熱心な少数者として存在していたに過ぎない。神秘主義の感銘を与えて取り込むべき雑多な異教徒が市井に溢れていたというべき状況であった。
*(オシリス(父)・イシス(母)・ホルス(子)の三一神、ヘレニズムでは三体合体の神ヘカテー(ローマでは「トリティア」)などの三面神の崇拝が古来からあった。哲学ではプラトンが幾何学を援用した「聖なる三角形」(直角三角形)が父神と母神の間に小神を生み出すことを説いている)
当時のローマ帝国は、キリスト教の法令による国教化と異教排斥の以前であり、帝国貴族や高官も依然としてギリシア・ローマの神々の崇拝者であって、それら知識層を占める異教を奉じる市民の多くを改宗される目論見を抱くなら、ヘレニズムとの渾融は手っ取り早い手段であった。だが、それを用いるならばキリスト教の純粋性から離れ、異教を取り込むことを意味する。

これに激しく反対し続けたのが、アレイオス(アリウス)であった。彼は父なる神と子なるイエス・キリスト、および聖霊は全く異なる(ヘテロウシオス)と抗弁して上長に逆らうことになり、新しい概念が大勢を占めつつあることに抗した。(キリスト神論争が始まった時点で、23人を数えたアレクサンドレイアのデイアコノイの中でアレイオスは二番目の年長者になっていた[A.Jones]CoE:142)

アレイオスの主張の概要は、「御子」はあらゆるものに先立って創られたが、「父」である神には先んじない、という簡明な事柄であった。(コロサイ1:15) しかし、エジプトでは古来の正統な教理は存在を容認されるものともならなかった。そこでエクレシアを主宰するアレクサンドロスはアレクサンドレイアに依存する諸都市のエピスコポイも参集させて評議し、アレイオスと支持者を破門としてしまった。

この分裂に対し、各地のエクレシアイは憂慮しアレクサンドロスとアレイオス両者を和睦させようと心を砕いた。その中にはヒスパニアの高名なエピスコポスであったホシオスも含まれる。彼は後に大帝となるコンスタンティヌスからこの調停を依頼されていたという。
一方のアレイオスはシリアのアンティオケイアで学んだ人物であり、オリゲネスの流れを汲んでいたとされるが、そのシリアのアンティオケア学派の同窓生らも各地でアレイオスの排斥は行き過ぎであると認識していた。そのようなひとりに、ニコメディアのエウセビオスもいた。

加えて、当時「三位一体」は今日のままの形で現れてはこなかった。それはエジプト以外ではまだ御子が神か否かの論争に終始していたのである。そこにはユダヤ教に対する強い嫌悪とキリスト教の優位確立への願望が作用していた。
当時の形勢は、この二位論(後の三位一体論)より一神論の信徒を持つ地方が多かった。その理由のひとつは、帝国辺境に存在した蛮族への布教は、原始キリスト教において続けられ、ローマより北のヨーロッパで専ら以前の唯一神の宣教が実を結んでおり、ヘレニズム異教の坩堝であったエジプトを別にした辺境に於いては一神論が趨勢を占めていたからである。

両者間の論争と確執は集会所の占有を巡って次第に各地に拡大をはじめ、帝国内に物議を醸しその騒動が政情にも影響するに及んで、クリスチャンを自認しただけのローマ皇帝までもキリスト教に肩入れし、その分裂を防ごうと考えて第一回ニカイア公会議が準備されるが、これは皇帝コンスタンティヌス主宰であるばかりか、様々な費用が国庫から支出されており、参加者は皇帝の権威に阿る状態にあった。

但し、この段階では依然「三位一体」までには至っていない、未だ、神とキリストが同質か否かの「二者」の論議に終始しており、「聖霊」を含む現在の「三位一体」がはっきりと教会議論の俎上に現れるのはこの第四世紀後半となる。
後に姿を現す「三位一体」はエジプトのエクレシアイで醸造されてはいたが、世に出る時節はまだ来ていなかった。


■帝国の介入
当時のローマ皇帝コンスタンティヌスは、ナタリス・インヴェクチ・ソリス(征服されることなき太陽の意)なる太陽神崇拝者であって、キリストと太陽神を混同していた上、死の直前までバプテスマを受けたキリスト教徒ではなかったのであるが、この問題については積極的に関わらざるを得ないと考え、自らが持つローマ帝国の最高神祇官(ポンティクス・マクシムス*)の立場も手伝ってか、自らをキリスト教指導者と見做し、帝国内の各地の司教(エピスポコイ「監督」)を小アジア(現トルコ)のニカイア(ニケアー)に召集をかけた。(*ローマ共和制以来の最高宗教職名でカエサルが多額の賄賂を払っても入手したという重職であるが、本来キリスト教とは何の関わりも無い。この顕職が後の教皇へと継承される)

 こうして、古代の蒙昧の内にキリスト教の教えが巨大な世俗権力の介入を最初に招いたのは、西暦四世紀の325年のことであった。
会議の議事録は残されていないが、その結果はアレイオスの敗北とはなった。 しかし、そこでまともな神学論争は行われなかったという。アレイオスの発言はしばしば無視され、その最中には故意に退席する者らもあったという。そして、最終的に裁可を下したのは、本来部外者のはずの皇帝であり、それも、まとまらない議事に介入してのことであったことをカエサレイアのエウセビオスが記している。

 議決に賛同することを最後まで拒否したアレイオスを含む三人は帝国の権力によって流罪とされる。
しかし、カエサレアのエウセビオスなど逡巡した中間派も少なくはなかった。多くの出席者は権力者としての皇帝の意向に従って議決を了承し、次いで皇帝を讃える祝賀の宴会に与った。

■ニケアー後の混沌
 こうして一旦は終わった会議ではあったが、皇帝御座所のニコメディアのエピスコポスであったエウセビオスが内々に働きかけ、皇帝の傍にあって議決を覆すに至り、それでなくてもキリスト教徒とも思えぬほど素行の芳しくないアタナシオスは、それも追い討ちとなって以後五度も帝国から流刑に処されることになる。

 その後、両者の形勢は一進一退であり、宗教の本質を更に外れて教勢を競い、そこに政治権力の抗争を伴って、宗教は政治状況に大きく影響され始める。この間に二位論は次第にエジプトの三位論への影響を強くしたようである。そこでは同時に、神が三位一体かそうでないかということよりも、どの宗教家が主導権を握るかという争点に入れ替わっていた。

360年にアタナシオスはカッパドキアの大バシレイオスの知己を得る。
このバシレイオスは修道制に於いてエジプトに倣うところあり、アタナシオスを介して多くの影響を受けている。
やがて、カッパドキア派はアレクサンドレイア派と共に、以後の「キリスト教」を形作ることにおいて主導的な役割を果たす。

加えてアタナシオスはローマにも流刑となっていた時期に、ローマのエクレシアに侮り難い影響を残しており、これも彼の死後に三一派を前進させる一助となるが、このように、皇帝はアタナシオスを流配させる度に各地に同調者を得させるという失態を犯してした。

■政治的決着
しかし、帝国外縁部での明快な一神論の優勢が覆されたのは、宗教の正統性の勝利とは縁遠い強引な権力による刷新であった。
この点では、メディオラヌム(現ミラノ)の官吏であった俄仕立ての司教アンブロシウスという人物を挙げないわけにはゆかない。彼は一神派に占められていたメディオラヌムの司教座が空いた時に、三位一体派によって担ぎ出された地方長官であった。バプテスマも受けるかどうかというところでいきなりに司教座を占めたのである。

この登用は、メディオラヌム市の三一派が大バジリカを占有して趨勢を決したばかりでなく、やがて帝国全体の流れを三位一体派に力ずくで変えることになった。それは彼が政治の手法を心得ており、ふたりのキリスト教徒の皇帝を三位一体派に改宗させたうえ、その施策までを諌める立場をとったからである。

キリスト自身は、自分を王にしようとする人々を避け、ペテロには武器の使用を戒め、政治では自分も弟子らも関わる風情も見せなかったのであるが、この元官吏はそうしなかった。グラティアヌスとテオドシウスというふたりのキリスト教徒の皇帝をまるで臣下のように手玉に取り、テオドシウス帝に政令を発布させ、帝国全体でアレクサンドレイア式の三位一体派キリスト教を正統とさせ、有無を言わさぬ権力によって一神派を禁じ、当時の趨勢を決定付けさせたのはこのアンブロジウスである。

その政治力による三一派の強引なキリスト教の「刷新」は、西暦380年のテオドシウス帝によって宗教上の決定的な施行を目的とした「カトリック教令」となって現れた。以後「キリスト教」と称する権利を持つものはエジプト式のものであり、それ以外は異端とされた。これに伴い古来ローマの神々の崇拝も禁止の措置を取られるに至る。
今日の「キリスト教」が、ユダヤではなくヨーロッパ文化のものと見做されるのも、キリスト教がローマ帝国の国教となり、こうして帝国がそれを規定したところに由来しているのである。

こうして、「正統派」のキリスト教は世俗権力にまみれ、自分たち以外をすべて迫害する程に変質して武器を執るようになっただけでなく、神概念を曖昧にする古代に流行したヘレニズムの神秘思想「三位一体」をカトリックとして強要したのであった。これが380年に発布された「カトリック教令」の効果である。こうしてヘブライ由来のキリスト教はグレコローマン文化の、即ち内面までヨーロッパの宗教へと変質を遂げた。⇒ アンブロジウス
また、死刑の刑具であった十字架をバジリカに飾って重んじる習慣も、アンブロジウスのウァランス帝の皇后ユスティナに宛てた書簡に表れている。その文面によると、一神論派は「十字架の前にひざまずく」ことを拒否していたことが窺える。その一方で皇帝はそれまでの十字架刑を禁止していた。


■テオドシウス帝の会議
325年に行われた第1ニカイア公会議はニカイア信条を採択し、アレイオスの破門とアリウス派の否定をもって終わった。しかしこれによってもアリウス派の問題は決着せず、政治問題も含めてより複雑化していた。
これを解決するため「カトリック教令」の翌年、381年に再び公会議がコンスタンティノープルで行われた。

主催者となったのはアンブロシウスに膝を屈するローマ皇帝テオドシウス1世で、行われた場所からコンスタンティノープル公同会議と呼ばれている。
コンスタンティノポリスは伝統的にアリウス派への賛同者が多い土地であったが、ニカイア信条の支持者であった皇帝テオドシウスは信頼していたナジアンゾスのグレゴリオスと共に会議を主導した。このカッパドキアの系統は大バシレイオスがアタナシオスと360年に接触して昵懇となることにより、すでにエジプトの教理を受け入れており、そこに自分たちの活路を見出していた。共通項として修道会が挙げられる。(また、おそらくは儀式で十字架を用いる習慣にカッパドキア派が積極的役割を果たしたように思える)
コンスタンティノープル公同会議の参加者は僅か150名ほどで、そのすべてが東方ギリシア圏からの参加者であった。

会議では最終的にニカイア信条を修正し、聖霊についての一文を付加するなど拡充し、翌382年には補足の会議が持たれ、そこでは「聖霊」の神格化も「決定」された。遂に今日的「三位一体」が会議で承認されて現れたのである。これらは「カトリック教令」に呼応するその後三年のことであった。国教化を通してキリスト教は個人の信仰によるものではなくなり、生まれによってキリスト教徒が造られる「コミュニティの宗教」となった。

この議決として、ニカイア・コンスタンティノポリス信条が採択され、アリウス派、サベリウス主義、アポリナリオス(シリアのラオディケイアの-390)主義およびホモイウジオス主義者(ニカイア信条に入っていた「同質」という言葉に反対し、「相似」(ホモイウジオス)という言葉を支持した人々)の呪詛も決定した。こうして帝国として崇拝する宗教の概要が定められた。

その後70年が経過して、ニカイア・コンスタンティノポリス信条の方が「ニカイア信条」と呼ばれるようになってゆく。これは450年のカルケドン会議で強化されることになった。カルケドンのクレドでは理解不能の「キリストは唯一の同じ神」とされ、「神性と人性はふたつの位格に分割されない」ともされ、今日まで続く「三位一体」の形がようやくに整った。つまりキリストは人性を持つがまったく神であり、旧約聖書の神と同じだと云うのである。


以後、中世期に三位一体説は教皇権によるヨーロッパ封建制という世俗権力によって権威を与えられてきた。
それは、政治と宗教の癒着した姿であり、軍事力の脅しと地獄の恐怖によって大多数のヨーロッパ下層民を首尾よく統治する機構であり、それが擁護し続けてきたのが神の理解を阻む「三位一体説」であった。
こうして「キリスト教」と呼ばれる宗教は、ヘブライの香りを失い、ヨーロッパ臭い「グレコローマン」のものと変質し、以後はヘブライの祭りに変えてケルトやゲルマンの宗教習慣が後のゴシック文化へとなだれ込んだ。 歴史を俯瞰すると、三位一体説の混入は、キリスト教が変質を遂げる最初の一歩であったかの観がある。

しかし、ヨーロッパ封建制度のとうに終わった現代に、「クリスチャン」の大半が、未だに中世の蒙昧を後生大事に戴いているのは奇妙なことであるが、それこそが保守的な余りに時代の進歩を常に拒んできた宗教というものの実相である。この宗教世界では未だに中世で足踏みをし続けていると言ってよいであろう。

 一方、キリスト教の母体となったユダヤ教や、同じくアブラハム以来の啓典の神を崇拝するイスラム教もまったくの一神教であり、当然ながら三位一体をまったく容認しておらず、「キリスト教」を多神教に堕したものと見なす。神からメシアを約束されたユダヤ人からしてみれば、三位一体は汚れた異邦人の空想物に過ぎない。

しかし、キリスト教界に三位一体を招かせることになった様々な悪影響を硬軟取り混ぜて及ぼしたのは、明らかにユダヤ人によるキリスト自身と初期キリスト教徒への陰湿な反対行動にある。そのためにキリスト教徒側は、ユダヤ人と神も、安息日も、主の晩餐と無酵母パンの祭りさえも時期を同じくしない強い願いを懐いていった。

ニカイア会議の決議では、ユダヤの土曜の安息日とキリスト教の日曜安息の違いが法令化によって確定され、ユダヤの過ぎ越しとキリスト教の復活祭がけっして重なることのないようにとキリスト教において復活祭の日付だけが陰暦で定められるところとなった。
しかし、キリストの定めた「主の晩餐」はユダヤで年一度行われる「過越し」の延長線上にあることは否定できるものではないにも関わらず、キリスト教側は日曜を「主日」とし、無酵母パンをホスチアや発酵させたパンに入れ替え「パン裂き」(クラスマ)を行うべき日を年に一度ではなく習慣的に行う聖体拝受と変更したが、これが一般的教会で「日曜礼拝」と称される基礎を作った。
(例年のイースターの日付の移動にユダヤ嫌悪が顕著に表れている)

キリストを神の座に就けようという傾向も、ユダヤの名も忘れられた神を崇拝することを嫌ったところにあった。
神名については、セプチュアギンタと新約聖書では、ユダヤ人の習慣もあって使徒らの時代には既にヘブライの神の名が表れなくなっており、イエスがキリストであることを信じる「信仰」が強調されているところも「三位一体」を推進するものとなった。


◆教理の入り口に蓋をする「玄義」
「キリスト教」の擁護者たちによれば、一般人に三位一体を信じさせると、神に関する理解が複雑になってしまうが、これは神聖にして深遠なる「玄義」(人には理解不能のもの)であるとし、しばしば神の神秘を「理解する必要もない」と締めくくられる。
即ち、理解せずに信じよということである。しかし、理解できぬものは信仰できていない筈であり、聖書中のキリストの言動と三位一体の概念との違いは、しばしば信徒を動揺させるものとなっている。特にキリストの父への熱烈な神としての擁護と、自身の質素さ無力さとの対比や、一心に父を讃えて命までをも賭してゆくイエスの姿や自己犠牲の精神を「自作自演」に封じて無意味なものとしてしまうものが三位一体説である。

 それは福音理解の明解さから離れざるを得ないので、今日多くのキリスト教僧職者にとってもその難解のゆえに、質問する信徒たちに教えることがとても難しいと言われており、実際、信徒の側でも崇拝の対象が曖昧にされるものとなっている。

 そこで、それゆえにも理解を超えるキリスト教は「宗教」であるとも強弁される。それは「信仰するようになった者の中に聖霊が置かれ、その聖霊がその個人に啓示するもの」とのスピリチャル宗教のような教えも為されているとのことながら、それでは恰も童話のように、巧妙な詐欺師らに対し「裸の王様」の現実を言い出せなかった大人たちのような状況が信徒に中に見られることであろう。

しかし、宗教で最重要な崇拝の対象、つまり「神を知る」ことについて理解不能の「玄義」を置いてしまうなら、高度で難しい部分もあるというのでもなく、キリスト教の入り口に蓋をするようなもので、入門者を「神はだれですか?」という基礎の最初から理解させないということにはならないのだろうか。まさしくこの説は、キリストの教えを探求しようとする求道者の前に立ちはだかってきた。即ち、聖書全体の理解という宝の前に置かれた、これを理解してはならぬという封印である。

したがって、バプテスマを施す条件として「三位一体」を強制するのであれば、「神(もキリストも聖霊も)を理解しない」ことを条件にキリスト教徒となることを許していることになる。

 この説が成立した第四世紀当時から、正統派を自認する大多数のキリスト教各派は、この教理を有しない者を「異端」として多大の努力を傾注して退け、極刑を以って排除し続けて来た。
 これは中世から21世紀の今日までも似た精神状況にあり、ただ社会の方が個人の権利において進歩してしまった為に、「異端者」を正面切って暴力で排除できなくなっただけのことで、そのキリストに相応しくも無い陰険な敵意は温存されており、相変わらず「三位一体」は「正統」キリスト教徒の印のようにされている。

 しかし同時に三位一体の教理を持たない教派や個人がキリスト教史上に何度も登場し、命を賭してまで抗議を行ってきたこともまた紛れもない事実である。⇒前頁

 ようやく第五世紀ころまでに、どうにか主流派の地位を確固とした三位一体が21世紀の今日まで延命している背景には、ルターをはじめ「宗教改革」が三位一体を安定させたカルケドン会議(451)の信条より以前のキリスト教までに遡及しなかったこと、また、かつてのアリウス派との抗争(論争ではなく)と同じく、自派の正統性を三位一体説擁護を通して訴えるところがあったためと思われる。それに加え、当時の歴史・考古学、文献批評などの限界もあり、当時の宗教的良心はカルケドンを問うところまで進めなかった。

◆保存の理由
その後、研究が進んでも三位一体を金科玉条のようにキリスト教界が抱え込んだ理由は、教会組織そのものの安定性を求めてのことであったように見える。というのも、宗教改革でヨーロッパに宗教上の激動が訪れると、単性派を含め幾多の教理や新派が萌え出て、真理を得たと思う人間の常としての闘争性が惹起されて、各地を不安定で危険な状況に陥れたことが影響しているであろう。しかし、その反動としての様々な教説を抑制することが社会秩序の安定が要請されてきた。即ち、一般大衆は急激な信条の変化について行けず、そこに自説の義を主張してやまない急進派らの過激さも加わったので、そこでは宗教が関係していても宗教そのもの問題ではなく、教理の決定による社会秩序の課題となっていた。

 ルターも次々に噴出してくる新手の過激な派閥には随分と手を焼き、遂に諸侯に農民を攻撃するよう訴え、多くの死者を出している。それはカトリックという漬物石が除かれた地域では避け難い状況であったようだ。当時の改革の指導者は、社会秩序の安定までをも荷わねばならず、諸侯の権力と協力して信条と新しい社会体制の創出を目指す過程で、自ずと宗教思想に制約が生じた。その原因は、カトリックに対抗するために、キリスト教をローマ国教以来の「神権政治」、旧態依然とした「コニュニティの宗教」として捉えざるを得なかったためである。キリスト教信仰が個人の選択とされるのは近代のフランス革命以降になった。

 宗教改革期では、社会状況の安定化のためにも過激派を押さえ込む便法として新教も諸派の対して「異端」を叫ぶことで諸侯の鎮圧も期待でき、自分たちにとって急激な改革に見える非三位一体派などの派閥を撃退するのに有効であったろう。

ルターからカルヴァンの時代に、ミゲル・セルヴェトが三位一体への強烈な論駁を行ったが、当時の改革者たちは、三位一体までも変更することを望まなかった。その理由はキリスト教改革があまりに急激に進むことで、永らく続いた伝統から大きく離れるなら、民衆に不安を与え、またカトリックからの弱まりつつあった迫害が再燃する危険を冒すことを躊躇したからであったという。

カルヴァンは、ジュネーヴ市で捕えられたセルヴェトを異端者として裁かせ火刑に処させたが、ルターの協力者メランヒトンは、その処置に同意する書簡をカルヴァンに送っている。だが、これに匿名ながら抗議するシャティロンのような人物もあり、更には三位一体を精査するきっかけを作ったソッツィーニらへの影響をもたらすことにもなった。

もちろん、処刑による理解の封じ込めはキリスト教のものでない残虐行為ではあるが・・「異端への呪詛」を叫ぶのは坊主の悪い癖で、東西キリスト教会もアナテマの呪文の掛け合いを行っていたのであるから、新教も込みで権力と結託した者だけがその呪詛を跳ね返してきたのである。それはもう宗教の仮面をかぶった権力闘争であり、権力の保護を得ない個人などの弱者がその「呪詛」の犠牲となって専ら火刑台に登ることになった。

 その後、近世に入ったヨーロッパでは、科学の隆盛と生活様式の急激な上昇のために懐疑主義が趨勢となり、さらに人間万能を謳歌する19世紀を迎え、もはや真剣にキリスト教を改革する必要すら人々は感じなくなり、その結果、英米に於いて覚醒運動のムーヴメントはあったものの、16世紀のような大変化は以後起こっていない。


■俯瞰される実態
 この結論として言えることは、宗教が政治の影響を受けるなら、どんな内容にせよ純粋に教理を吟味できなくなるということである。第四世紀に三位一体論はこの意味で純粋に宗教上の教理の論議とはならなかった。
 果たして三位一体について真剣な研究や論議が歴史上為されただろうか。むしろ、それが「玄義」だという思考停止が、理性による吟味を阻んできたのではないか。それはどことなく、パリサイが「安息日を守らないから」と外面でイエスを裁いたところを思い起こさせるものではある。

 今日では、教会が三位一体の保持を根拠に自分たちの歴史上の連続性から「正統性」をアピールし、信徒を失わぬための方策としているかのようにも見える。その動機もやはり教会組織の存続の利用にあるだろう。しかし、それこそが信徒の強固な信仰を妨げ、中世の蒙昧に浸るばかりで、人々に訴えるほどの教えを得損なわせているのではないか。
 そのうえに、哲学者らが三一論を用いてヘレニズム哲学を敷衍し、更にキリスト教の哲学化を進めてゆき、それは一般の信仰者の預かり知らぬ、また理解したからといって特に意味を成さない衒学の徒の玩遊する宗教哲学の世界と化していった。

 だが、三位一体の今日の保存には信徒の側の信仰する動機も関わっている。
ひとつには、超絶的なユダヤの神よりも、人間となり弱者に寄り添ったキリストの姿への親近感が考えられる。
また、「正統と呼ばれる信仰に留まりたい」という内心の願望であり、『「三位一体」を教えている教会なら安心できる』というような考えそのものが、その求めるものは神の探求ではなく、自分の「救い」ためであることを見せている。その関心の対象は神ではなく、もちろん自分自身であろう。これは一般に「ご利益信仰」と称されるものである。

これは神を崇めるにしては相応しくもない倫理的選択であるが、「長いものに巻かれていたい」という人間らしい欲が関わっているだろう。だが、その願い求める「正統的信仰」そのものが神への無理解であり、人間の尊大な組織を認めて、他方で神を無視する危険性はどうみても拭えない。
そこには、信徒の欲望による人間中心主義があるだろう。

また、日本では、グレコローマン由来の諸教会が継承してきた欧米文化を愛してやまない人々が、「キリスト教徒」を名乗り、その教会の文化を守ろうとして、キリスト教そのものには頑なに理解を閉ざすケースが多い。
この人々が望むのは、実は「キリスト教」というヨーロッパ系の習慣と精神文化であって、キリスト教ではないというべきであろう。
ウエディングドレスを着て商業施設に設けられたチャペルでの結婚式を望む人々にそれが端的に表れている。十字架も三位一体もそこでは「正統」を演出する麗々しいアイテムであろう。その主役は人であって神でもキリストでもない。


以下に、普遍教会側に三一の根拠とされてきた文書翻訳の抜粋を掲げる。
中世にあっては有難い「アタナシウス」の名を語ってはいるが、これは彼の時代でも場所でもなく、この教理の植え付けに躍起になっていた第五世紀、しかもエジプトではなく南仏由来のものと今日では認められているものである。




-アタナシウス信経抜粋- ()内補足

救われたいと思う者は、まず第一に、カトリック信仰として次のことを信ずべきである。
これを完全に、欠けることなく守らなければ、疑いなく永遠に亡びるであろう。
これがカトリックの信仰である。三位における唯一の神、一体における三位を礼拝する。
三位を混合し、あるいは実態を区分すべきでない。

そのため聖父と聖子と聖霊はそれぞれ別の位格([ペルソナ]人格に対応する語)であって、唯一の理性と同等の栄光、そして、同じく永遠の威光が聖父と聖子と聖霊とに帰せられる。
この聖父にしてこの聖子、この聖霊、造られざる聖父、造られざる聖子、造られざる聖霊、無限の聖父、無限の聖子、無限の聖霊、永遠の聖父、永遠の聖子、永遠の聖霊、しかし三つの永遠者でなく唯一の永遠者、三つの、造られざる者、無限者ではなく、唯一の造られざる者、唯一の無限者である。

同じく、全能の聖父、全能の聖子、全能の聖霊、しかも三つの全能者でなく、唯一の全能者である。
また神なる聖父、神なる聖子、神なる聖霊、しかも三つの神ではなく、唯一の神である。主なる聖父、主なる聖子、主なる聖霊、しかも、三つの主ではなく、唯一の主である。
個々に一つ一つの神の位格を持つ主をキリスト教の真理として信ずる。
三つの神、または、主と言うことは、カトリック教では禁じられている。

聖父は何ものにも造られず、生まれず、聖子は造られたものではなく、聖父からのみ生まれたものである。聖霊は造られたものではなく、聖父と聖子とから発出したものである。
そのため、唯一の聖父であって三つの聖父ではなく、唯一の聖子であって三つの聖子ではなく、また唯一の聖霊であって三つの聖霊ではない。

この三位一体において前後はなく、全位格が同じく永遠であり、大きさにおいて平等であり、すでに述べたように三位における一体であり、一体における三位を礼拝すべきである。
救われたいと望む者は三位一体について以上のように信ずべきである。

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所見:権威をかざして問答無用とばかりに「救われたくば」と繰り返す辺りに、迫害に捨て身であった初代とは異質なご利益信仰を感じざるを得ない。もちろん聖書的な風合いはない。これがどんな教理(正反対の非三位一体説)に従う要求であったとしても、「脅し」の批難は免れまい。意味不明の呪文のような中世の暗さを思わせる出何処の不確かな古文書である。このような怪文書に基礎を置いてキリスト教界が千五百年近く惑わされて来たのなら、それはいったいどういうことであろうか。




イエスとは何者か ホクマの謎

非三位一体論者の流れ

アンブロジウス 俗世との岐路に立った男


外部参考頁 ⇒ 「小田切信夫の福音論」サイト管理者の論説 

三位一体の存在しなかった原始キリスト教

ヨハネ14:11『わたしが父におり、父がわたしにおられる』について

341年アンティオケア会議:十四日派の破門
[The Council of Encaenia is held in Antioch]

380年テオドシウス帝の「カトリック教令」の発布
381年コンスタンティノープル公同会議:三位一体決議
382年コンスタンティノープル補足会議:聖霊の神格化






※最後に一言、付け加えておきたいことがある。
この「三位一体説」がキリスト教の趨勢を成している状態が、これからも続くであろう理由であるが
終末に於いて、この教理が「不法の人」を顕在化させ、人々を篩に分ける役割を果たす危険性が聖書から読み取れることが関係しているかも知れない。
それに加え、ユダヤ人の自己欺瞞的習慣により神名の発音も忘れ去られたのも、神が「三位一体説」を誘ったという蓋然性がないとは言えない。全能の神が、一神論も御名の発音も人類に示せないはずがないからであり、かつてイエスを屠るようユダヤ人の誤謬を用いた神が、終末というこの世の総決算ともいえる時期に、同じように経綸を進めないと誰が断言できようか。
もしそうなれば、これは恐ろしい罠となり、神はこれをはじめから承知で許していることになる。
ならば、それは終末まで廃れずに多くの人々に信じられ、趨勢を形成している必要がある。
<「三位一体説」は、終末に於いて究極的偶像(不法の人)崇拝を推し進めてしまう危険性がある>



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