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1.原罪論

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
1.原罪論 

人間の争う理由、加えて宗教と政治の存在理由が導かれます。


 人間はみなが倫理的欠陥を抱えていて、それが世界に争いと敵意をもたらしています。

 この倫理的欠陥は聖書で「罪」と呼ばれており、アダムから遺伝しているのでこれを免れる人はいません。

 人類はこれから逃れない限り、争いと敵意、またそこから出る奪い合いや中傷や搾取や欺瞞など、あらゆる悪から逃れることができません。

政治の由来
 人々は互いの貪欲を牽制し合いながら生きる方法を、自らの必要に迫られて造り上げました。

 それが政治であり、これは互いの欲望の調停また規制するためのものであり、有無を言わさぬ権力(暴力)を基礎とし、通貨を流通させ、「罪」ある者でも何とか互いに秩序を保てるようにと作った、「罪」への応急処置法のひとつです。

 わたしたち人間は、互いに助け合うことが出来る一方で、互いを警戒し警察や軍隊などの暴力の保護を必要とすることにおいて倫理的欠陥が現れています。

 この「罪」は、神が人間を創造した本来の基準に及ばないので、「罪」は人間と神との間に壁のようになって、そこには断絶があり、人間は神に創造されたままの「神の子」となっていません。

宗教の由来
 そのため、人間は神についてはもちろん、人間自身についても真相を知ることが出来ません。
 そこで、自分たちがなぜ存在するのかを含めて、様々な問いに対する答えは人間のうちにないので、人間以上の源に尋ねようとします。この人間以上の源への問いがある以上、そこに宗教の必要があってそれは絶えないでしょう。


「罪」を除くことは人間自身にはできません。
それで、人間はずっと争いや犯罪を繰り返してきましたし、「罪」ある限りこの状況から逃れる術はありません。
政治は暴力という「罪」に対する不完全な対処法を用いざるを得ず、間違いのない政治も司法もありませんから、これからも倫理的に混沌とした社会を続けるでしょう。

また、神との間に「罪」が障碍として存在し続けるので、人間の能力では宗教上の真実を知ることが限られており、そのため、自分は正しいとして譲らない様々な宗教を乱立させている状況もしばらくは続くことでしょう。

しかし、神は倫理的欠陥のない、自らのひとり子を仲介者として人間の「罪」を除くよう取り計らわれました。
その方法は、まずひとり子はご自分の命(魂)を差し出して、アダムの持っていた欠陥のない命(魂)の代わりとし、人類がアダムの命によらず、み子自身の命によって生きるようにすること。これは「贖い」(あがない)と呼ばれます。

人々はキリストの命によって生き、欲ではなく愛によって生活するよう、新しい社会が与えられます。それは欲が支配する人間社会とはまったく異なる社会となりますが、このような愛の社会こそ、神が創造に際して意図したものでした。

神のひとり子によって宗教も清められ、人はアダムがそうであったように、神と直接に意思を通わせることができるようになり、一切の組織宗教も礼拝も必要が無くなります。

これらの事柄は「神の王国」の支配を人類にもたらすことで成し遂げられます。
そのため、旧来の人間支配は神の支配の到来に対抗する結果、自ら退かざるを得なくなることが予告されています。

この「王国」が、人類の「罪」に対する根本治療となり得るものであって、人間にはこれを行うことができません。

神の王国の「王の王」は復活したキリストであり、現在は人間社会に王となって臨もうとする時を待っています。
そのようにして、王キリストが人間社会に再び関わり始めることは「臨御」(りんぎょ[パルーシア])と呼ばれます。


聖霊論へ

 予備資料
 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか」


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2.聖霊論

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
2.聖霊論 

「聖霊」に関する理解はキリスト教界で重要なものとされる反面、混乱も招いています。
その原因は、今日では「聖霊」というものの実体を古代のように捉える事が出来ないところにあります。

今日でも「異言」をはじめとする第一世紀の使徒時代と同様の奇跡の力を持っていると唱える宗派もあれば、コリント第一13:8の『異言も廃される』というパウロの言葉などを根拠に、奇跡の賜物は過去のものになったとし、現に他宗派で為される異言などの奇跡は、他のからの源、つまりは悪霊の影響であるとする宗派もまた少なくありません。

聖霊の奇跡の力は過去のものとなったと主張する宗派でも、使徒2:38の『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』というペテロの言葉をそのままに信じて、信者になれば「聖霊」を受け取れるものと考えられています。
その聖霊は、その人の中にキリストを住まわせるものとなり、その人を導くものとなるとも、また、聖霊はその人の良心のようになり、それに従うなら罪の宣告を免れて救われるとも言われます。

では、聖書の全体を、つまり新約聖書だけでなく、旧約聖書を含んで俯瞰する場合に、聖霊と呼ばれるものがどのように観察されるでしょうか?
そこでまず、神の霊による働きの実例を見る必要があります。


まず、霊は天地創造において用いられており、地の塵から造られたアダムを生きたものとしています。神は『命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。』とあり、以後の聖書記述に於いての『息』や『風』は、『霊』との関連性を持ったものとして繰り返されます。(創世記1:2/2:7[息=霊=風])

『霊』は測定のできないものながら、人間の中でその生命活動に欠くことのできない力を与えているので、人が死ぬと『霊は抜けて神の許に集められます』(伝道12:7)但し、これは人の「霊魂」という日本語の概念とは異なっていて、死は思考の一切の停止を伴うものであり、感覚もないので(伝道9:5-6)人の死後には何の意識も残らないものとして聖書は述べます。人間の死の後には復活が待たれるのであり、「霊界」のようなものは聖書本来の概念ではありません。
生けるものの中で働く霊は、人を生かすという最も基本的な働きを為しています。これは神からの『肉なるものの霊』と呼ばれていて、動物にも存在します。(民数16:22/27:16/伝道3:19-21)

一方、聖霊は預言者たちなど特定の人々に神からの情報や知識を与えてきました。
かつてモーセをはじめとする預言者たちは聖霊を通し、聴く人々に神の言葉や教えを伝えました。
また、多くの詩篇を詠んだダヴィデ王も、聖霊によって語ったと述べます。(サムエル第二23:2)
聖書が聖なるものである由縁も、こうした聖霊の導きの下に書かれた著作の集大成であるからであって、もし、これが単なる人間の知恵の所産であれば「聖書」というその名は似つかわしいものとはなりません。(イザヤ34:16)

聖霊はサムソンのような人に奇跡の怪力をもたらし、預言者には神からの言葉を与え、あるいは癒しを行わせ、夢や幻で人を導き、神の知識を与えてきました。(申命記34:2/士師記3:10/歴代第二20:14/エゼキエル8:3)
これが、単に生物を生かすという基礎的な「霊」より高度な聖霊の役割と言えるでしょう。

いずれの場合にも、神の意志を行うための力を及ぼすのが聖なる霊であり、奇跡について聖書は「神の指」また「腕」という呼び方をしています。すなわち、電力のように離れた事柄で多用に働くものの、キリストのような人格を持たない神の「御手」と呼ぶものと言えます。(出埃8:19/13:9/ルカ11:20/使徒4:30)



◆贖罪によって与えられる新たな聖霊

しかし、この高次な聖霊の働きもキリストの後からは、更に大きく次元上昇します。それはまさに革新的な変化であったといえます。
それが「聖霊の賜物」と呼ばれる、あの五旬節の日からキリストの弟子たちに与えられた格別の聖霊を指します。
使徒ヨハネは、そのような霊はキリストの犠牲によって始めて備えられたことを証しして、『キリストが栄光を受ける以前であったので、霊はまだ無かった』と述べています。(ヨエル2:23/使徒2:16-21/コリント第一14:1/ヨハネ7:39)

イエスは弟子たちに、自らの去った後に特別な「聖霊」を与えることを約束していました。
それは『真理の霊であり、世が受けることのできないもの』であり、また弟子たちの『助け手』でイエスの言葉を思い出させるだけでなく、弟子たちを『真理の全体へと導く』ものでもあるとイエスは語られました。
(ヨハネ14:16-17/14:26/16:13)

このキリスト後に到来した「約束された聖霊」また「聖霊の賜物」は、それまでのどんな聖霊とも異なる画期的なものとなりましたが、これはユダヤ人の中でもイエスをキリストと信じた者たちだけに、この『聖霊のバプテスマ』が与えられ、ユダヤ体制には注がれません。(ヨハネ3:16-17)

したがってこの聖霊降下は、神の是認が律法契約のユダヤを去って『新しい契約』に移ったことを証しするものでもありましたが、それ以上に、弟子たちに真理が啓示され、様々な奇跡を行い、人々にイエスと同じ業を行って信仰を呼び起こすという、歴史上それまでにない人々の現れでもあったのです。
このように、キリストの犠牲が捧げられたことによって、初めて『新しい契約』に預かる『召された』聖なる弟子らが登場したことには新約聖書に異論の余地がありません。(ヘブライ9:15)

その日、聖霊を受けた弟子たちは自分の知らない言語で『神の壮大なことを話し』、以後はその翻訳や、預言、癒しなど、多様な奇跡を行う力も与えられてゆきます。(コリント第一12:4-11)
それは預言者であるなしに関わらず、老若男女を問わずキリストを信じるユダヤ人をはじめとして、やがては『契約の子ら』ではない信徒の異邦人にもこの「聖霊」は臨みます。(ヨエル2章/使徒10章)

それまで、ひっそりと迫害するユダヤ人を怖れて隠棲していたキリストの直弟子たちは、この聖霊降臨の日を境に力を得てユダヤ人に向かって強力な宣教を始めました。その後の勢いは聖霊の助けなくして考えられません。彼らにはイエスのような奇跡を行う権威が与えられ、この人々が世界に広がってゆくに従い、キリストの業も聖霊と共により大きく拡げられてゆきます。(使徒4:31-31)

その「聖霊」の特殊性をもたらしたものは、キリストの犠牲による贖罪であり、イエスの血によってそれらの弟子たちがアダム由来の「罪」を許されて『新しい創造物』(コリント第二5:17)とされ、また『神の子』とされた(ローマ8:16)ことを証しており、弟子たちはキリスト以外のどんな人にもそれまで下賜されることのなかった格別の「聖霊」を受ける者となったと言えます。その聖霊を受ける人々は水のバプテスマをも受けていたので『水と霊から生まれた』ということもできます。(ヨハネ3:5)

なぜ、この聖霊がそれを受ける人々をこれほどまでに変化させることができたのかを問えば、それがキリストの犠牲の価値を通して初めて与えられたものであり、この格別な聖霊はキリストの死以前には存在することが無かったからです。(ヨハネ7:39)

この「約束の聖霊」を受ける意味は、その人が全人類に先立って既にキリストの犠牲を通して贖罪された『初穂』という信徒の中でも少数者に属すること(ローマ8:23)また、天でキリストと共に霊者となって『神の王国』を構成し、『祭司の王国、聖なる国民』(ペテロ第一2:9)となって全人類の贖罪を行い、また、その王国の存在する間の支配を任された『ダヴィデの子孫』となるよう招かれた『選ばれた者』であることの『身分を証しするもの』(エフェソス1:13)ということができます。



◆選ばれた者だけに下賜される聖霊

したがって、これは信ずる者には誰にでも与えられるものではありません。
確かに使徒2:38は『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』と述べてはいますが、これが語られた相手が『契約の子ら』即ち、ユダヤ人またユダヤ教徒であったことを忘れると、大きな誤解を招くでしょう。
なぜなら、ユダヤ人は既に『祭司の王国、聖なる国民』となるべき律法契約の当事者(出埃19:5-6)であったからです。

それゆえ、既に神を信仰していたユダヤ人が、更に進んでキリストがナザレ人イエスであると信じて受け入れるなら、古くなっていた『律法契約』を去ってそのままキリストの『新しい契約』に入り、その契約は「義」を彼らに仮承認し「罪」を赦して『神の子』の身分を与えました。(エフェソス1:13/4:30)

しかし、ユダヤ人の中からイエスをキリストと信じる人々の数が不充分であったので、『聖なる国民』を充足させるために『アブラハムの子孫』として一定数の異邦人が招かれ聖霊を受けました。その最初がローマ士官コルネリウスであり、その当時は彼に続く多くの人々が聖霊を受け『イスラエルに接木』されました。パウロはそれを『養子縁組の霊』とも呼んでいます。つまり、異邦人からも『神のイスラエル』に人々が選ばれたことを示唆しています。 (ローマ11:17-24)

聖書が書かれた時代には、ユダヤ人と異邦人とを問わず信者の集まりの大半の人に聖霊が注がれていたことが聖書の記述から分かります。(エフェソス2:18-19)

彼らに「約束の聖霊」が注がれたのは「神からの選び」の証しであり、同時に「聖霊の賜物」を以って他の人々からもそれと分かる印となり、且つ、キリストの弟子たちに真理の知識を与えましたから、聖霊が注がれていた初期のおよそ百年間、彼らに今日のような分裂は起こりませんでした。(ガラテア5:22/教会史Ⅱ14)

聖霊はイエスの父から発し(ヨハネ15:26)、イエス自身が用いる(16:15)もので、初代のキリストの弟子たちが世に居る間、キリストは天から弟子たちを導き、奇跡を行わせ、知識を与え、大胆に語らせ、宣教の方向を示し、迫害にある者を励ますなど、縦横の働きを行いました。これらの働きにより、最後の使徒ヨハネに至って、遂にキリストの教えは完成を迎え、聖書も一度書き終えられるに至りました。当時は集まる弟子たちのほとんどが聖霊を注がれた「聖なる者」であり、新約聖書はこの人々に専ら語っています。(ローマ1:7/コリント第一1:2)


しかし、初代の弟子たちが世を去るに従い、「聖霊の賜物」を持つ「聖なる者」とされる弟子は姿を消してゆき、遂に「約束の聖霊」を有する弟子は地上から絶えました。当時の複数の資料からこの点を裏付けることができ、アウグスティヌスなどの著名な教父も、第二世紀頃まで聖霊を有する信徒が居たことを認めています。⇒エクレシア内の信徒と聖徒

キリストは『王権を得るための旅』に出立し、この格別な「聖霊」を通して弟子たちを監督する時代は終わりを迎え、今日に及んでいます。キリストが王権を得る時節がいつであるかについては、使徒たちですら『あなたがたの預かるところではない』と言われていますので、人は誰もキリストの再来と、再び弟子たちに聖霊が注がれるようになる時がいつかを知らされてはいません。(使徒1:7)



◆終末での聖霊の働き

しかし、世が終末を迎えるときにキリストは王権を佩びて世に対面されますが、これは『臨御』(パルーシア)と呼ばれており、その言葉の示すようにキリストは以前のように「再来」されるのではなく、『雲と共に』来られるキリストは、人類からは見えない様でご自分の弟子たちに再び「約束の聖霊」を注ぎ『聖霊の賜物』を与えて、重要な責務を彼らに果たさせます。
その責務には、世界宣教を行い、救い主の名を知らせ、裁きの根拠を据えることが含まれます。(マタイ10:18/使徒1:8/イザヤ43:10/使徒2:21・15:14/ヨハネ16:8)

その責務のひとつは、世の為政者たちの前に引き出され、そこで聖霊の言葉を宣し、キリストが王権を佩びる『神の王国』に支配権を渡すように勧告します。それは『諸国民に対する』それまでにない最も大きく最も意味深い宣教となります。(マタイ10:17-20/ハガイ2:6-7/イザヤ2:2-4)

ですが、これは聖霊を受ける弟子たちにとっては試練の時となります。命欲しさに保身に走ればキリストと共になるという特権は失われるでしょう。少なからぬ聖霊を持つ弟子が世界の敵意の的となり殉教を遂げるとされています。(マタイ10:32-42/ルカ21:12-17)
殉教を逃れた残りの聖徒たちは一斉に地を後にする時が到来することをも聖書は告げますが、これがキリスト教界で「携挙」と勘違いされていることです。(テサロニケ第一4:17/黙示録11:7-12)

さらに聖霊の発言は、全人類に対して救いの道を教えます。
救いに関わる重要な要素は『神の名』であり、初代のキリストの弟子たち以来、これまで聖書中にありながら読めなかった神の名前が発音され知らされることになり、それに頼る者、信仰のうちに呼び求める者が救われることになります。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


 そして、「約束の聖霊」のもうひとつの重要な働きは、人類の「裁き」に関わるものです。(ヨハネ16:7-11)

 王であるキリストの見えない臨御の理由は、「神の王国」によって人間の支配と崇拝を終わらせるに当たり、神の支配と贖罪を受入れるかどうかについて、人類のひとりひとりの意志を確かめるためで、これは終末の「裁きの日」に為されます。

 もし、神からの最高権力を帯びた大王キリストが直接に輝かしい姿を直接に現わしてしまえば、その厳しく威力に満ちた様は人を慄かせてしまい、人の内面の選択が表れなくなってしまうので、人間の裁きには「聖霊」が用いられます。

 かつて、キリストが質素な姿でユダヤ人の間に現れたとき、その行う聖霊による奇蹟の業は人々をふたつに分けるものとなりました。つまり、イエスをキリストとして認める人々と頑なにそうしなかった人々です。
将来の終末の裁きでは、聖霊を注がれた弟子たちの言葉に信仰を置くか否かでキリストへの信仰が一人一人に問われることになるでしょう。これはアダムが経験した「二本の木」の選択に相当すると考えられます。人々がふたつに分けられるからです。(マタイ25:31-32)

 将来、世の終末に臨んで、再びキリストの弟子の中から「約束の聖霊」を受ける人々が現れるとき、彼らは「聖霊の賜物」の奇跡的力を大いに揮って、それを見聞きする世界つまり『天地を激しく揺り動かす』ことになるでしょう。(ヨエル2:1-10/ハガイ2:7)
すると、多くの追随者が現れて、流れのようにキリストの側に向かう様子がイザヤ書などに描写されています。(イザヤ2章/ミカ4章)

 他方、決定的な聖霊の奇跡の力を見ながらも、なお信じない人々については、その不信仰ゆえに裁かれることになります。(ヨハネ3:36)それは、イエスの行う神の業を見ながら信じなかったユダヤの人々、特に傲慢であるがゆえにイエスを受け入れなかった宗教家たちが裁かれ、その世代のうちにローマの攻撃を受け、ユダヤとエルサレムの神殿を失い、やがて流浪の民となった故事に教訓として聖書と歴史に刻まれています。(ルカ19:41-44)

 キリストは『わたしを信じなくても、わたしの業は信じなさい』また『人の子を蔑める者も許される』と語りましたが、『聖霊を冒涜するものには許しは無い』と警告された背景には「聖霊」が人々を裁くものとなるという重要な事柄があります。(ヨハネ10:38/マタイ12:32/ルカ12:10-12)



◆聖霊は誰に注がれるか

 ここで言う聖霊とは、生けるものの中で働いている神の霊や、単に崇拝者を導く聖霊以上のもの、先立って贖罪される人々に与えられる「約束の聖霊」のことを言うのであって、他の人に聖霊はまったく働かないと言うのではありません。
キリスト教界では、この辺りが判然としないので、誤解から混乱を来たしています。

では、「約束の聖霊」は将来の何時、また誰に注がれるのでしょうか?

 人は神の知識を『求め続け、敲き続ける』必要がありますが、神はこのように求め続ける人々に「真理」を啓示され、ご自身の「義」を明らかにされます。その人々が、自分の受けるご利益目当てなら、願いを叶えるような「真理」を見つけると、それ以上に『求め続ける』ことはないでしょう。関心が自分に向いているからです。
しかし、神の意志を探る人は、人間の正義や自分たちだけが正しいと主張することなく、ひたすらに『神の義』を『求め続け、敲き続ける』理由があります。関心が神に向いているからです。まさにそのような人々に聖霊は与えられる(ルカ11:9-13)と聖書は述べています。

 聖霊降下はキリストの「再臨」とも呼ばれる『世の裁き』の時節を印付けるのに、これ以上ない最大の証拠となるでしょう。
聖霊を受け、キリストと共になる弟子たちは、キリストのような最期を覚悟しなければなりませんが、そのようにして彼らも『世を征服する』ことになり、キリストと共に王として治めるに相応しい者と見なされることになります。(ヨハネ第一5:4/黙示録2:10)

 このように「聖霊」に関わる事柄は全人類に関わるきわめて重大なものですが、キリスト教界の聖霊理解は、キリストのような殉教を覚悟するのではなく、心に内住し個人に益与えるという程度のものに留まるご利益信仰になってしまっています。

しかしそれが、その人々の信仰である以上、無理に変えることもできません。そこには、その人の強い欲望も関わっていることでしょう。
 それは同時に、そのような信仰を抱く人々の、神と人類のために捧げられたキリストの犠牲の生涯を知ってなお、個人の利益に関心の向くという心の状態、また価値観の大きな異なりを物語っていることでしょう。(コリント第二5:15)

しかし、「聖霊」は、個人の利益ではなく、キリストの再臨や全人類の裁きと救いの関わる重大事であることは聖書全体の流れが示すところであり、これを見誤ることは致命的な結果に至ることが目に見えています。それが『けっして許されることのない』という「聖霊を冒涜」することになり兼ねないからです。(マタイ12:32)

 その点、「クリスチャン」と称える人がたとえ「聖霊」を受けないとしても、聖霊を受けた人々の言葉に信仰を働かせて転向してくる無数の人々を信仰の先達として迎える立場に立つことになるのであり、この聖霊理解をもたなければ、却って将来の「聖霊」に関する予想外な進展に心を頑なにしてしまい、救いから最も遠い者となってしまう大きな危険の中に居るとも考えられます。(ヘブライ4:7)

ですが、時は依然残されており、新たな聖霊の理解を通して、神の御旨を求める信仰を懐くことの扉は開かれています。








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 予備資料
 「終末の裁きで人は何を問われるか」




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3.回復論 

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
3.回復論 

 この「回復」とは、将来の「終末」の時期に聖霊の再降下によって清められたキリスト教が再興することを云います。

 キリスト教界はすっかり分裂し、互いに自分たちが正しいと信じて譲りません。それが「宗教」というものなのでしょうか。
最近では、このようなキリスト教徒の分裂を是正しようという幾つかの動きもあり、カトリックとプロテスタントを和解させようとするエキュメニカル運動はその最たるものでしょう。

 しかし、キリスト教初代から第二世紀半ばまでは、ほぼ異教といえるグノーシス主義を除いては弟子の間に分派らしいものは無かったと言われます。そのうえグノーシス諸派と初期キリスト教との間には、神とイエスに対する認識に明確な違いがありました。

 原始キリスト教の時代に、分裂分派への抵抗力として働いていたのが、神の聖霊であったことはまず間違いのないことでしょう。
各地の集まりには聖霊が注がれ、それを通して教えも与えられていたので、聖霊に従うことで一致を保つことが可能でした。

 しかし、使徒時代が終わると聖霊がキリスト教徒から去りました。聖霊が働いていた時代とそれが去って行った様子は、エウセビオスの「教会史」にいくつもの資料の出典を伴って歴史に刻まれています。
そうしてキリスト自身も神から「王権を得るための旅」に出られ、今日までキリストの不在は続いています。

 導きとなる聖霊を失ったキリスト教界は漂流を始めることになり、その後は聖書だけが頼りとなりましたが、印刷技術の進んで以降は人々が聖書を読める時代を迎えると、その解釈を巡ってそれぞれに様々な逸脱が始まり、後には派閥に分かれて行き、その無数の枝葉が今日に至っています。

 しかし、キリストが帰還を果たされる「終末」になると、再び聖霊が注がれることになり、それを受ける人々は神からの教えを再び受け、その言葉が人類に伝えはじめられることが聖書に度々予告されています。

 このことによって生じる神の正当な信仰が再興されることを十四日派は「回復」と云いますが、正確には「キリスト教教理の回復」です。

 かつてユダヤ=イスラエルは神との律法契約に違反して、異国のバビロンに強制移住された時期があり、これは「バビロン捕囚」と呼ばれています。

 それはイザヤやエレミヤという預言者たちによって予め知らされていましたが、その予告の中にはその後、イスラエルが故郷に戻って神殿も再建し祭儀が復興することも含まれていました。それは「回復(慰め)の預言」と呼ばれ、これは一度バビロン捕囚後のイスラエル民族の上に起こりました。

 その預言に違わず神殿を失ってから一世代の内に、この国民は神殿の土台を再び置いて、神への仮の祭儀を始めています。
しかし、それらの回復の預言の中にはその当時に起こらなかったことも含んでおり、それらの事柄の成就は現在まで生じていません。また、当時の成就が鏡のように将来の「終末」に起こる事柄を示唆している部分もありますが、これは「予型」または「前表」と呼ばれ、預言が二度成就することを指しています。


 ユダヤ=イスラエルは捕囚を解かれて一部の人々がパレスチナに戻り神殿の再建を行いました。
しかし、せっかく再興した神殿祭儀も、ユダヤ人の不信仰から五百年ほど後に失なわれてしまいます。

 多くの預言者によって予告されていたキリストがイスラエルに現れたとき、この国民は、この神からの人ナザレのイエスを刑死に追いやり、その結果二度目の神の処罰によって神殿をローマ軍に破壊されてしまいました。

 その後、二千年もの期間が経ようとしていますが、イスラエルは今日まで神殿を再建できておらず、神への祭儀も行われていません。では、「回復の預言」の残りの部分は成就しないのでしょうか。


 一方、イエス・キリストは自らの弟子たちが「生ける神殿」になることを告げていました。
彼らは聖霊を受けてあたかも神殿の石のひとつひとつのようになると言われました。
その天の神殿は、当然に動物の犠牲を必要としません。キリストは完全な犠牲を一度限り捧げて、供え物と犠牲を終わらせているからです。

また、かつて地上のエルサレムに在った神殿は『御名を置く処』と呼ばれたように、将来も聖霊を注がれる弟子たちによって基礎の置かれる象徴的神殿も、古代のように『御名を置く処』となり、二千年近く発音ができずにいた全能の神の御名は聖霊によって知らされることになるでしょう。御名が知られていた時代に、詩篇がわざわざ『人々はシオンで御名を知らせる』と述べる理由も将来にあることでしょう。(詩篇102:21)

 聖霊を受けた弟子は、キリストを介して『新しい契約』の当事者であり、もう一方の当事者たる神の御名を知るべき理由があり、確かにキリストは御父の『御名を弟子たちに知らせました』と福音書は述べます。(ヨハネ17:26)
また、メシアを予見した詩篇第22では『わたしはあなたの御名を兄弟らに伝えます・・』とあり、神名を宣告することに於けるキリストの役割と、知らされる対象が明記されています。(詩篇22:22)

 『新しい契約』に招かれ聖霊を注がれた人々は、西暦第二世紀半ばを過ぎるころに居なくなったようですが、それはキリストが再び地上と関わりを持つ終末まで、神の許で待つ期間の始まりを教えるものと言えます。
その一方でイエスは「終わりの日」の預言を語り、その中で世の終わりの時期に聖霊を受ける弟子たちが再び現れることを予告し四つの福音書それぞれに、彼らが為政者に対して聖霊によって語る将来の姿が、ほかならないイエス自身によって語られているのです。

したがって、旧約のイザヤやエレミヤたちの「回復の預言」の成就していない残りの部分や将来を指し示す二重の意味とが「終わりの日」のイエスの弟子たちの上に実現すると信じる理由があります。

 聖霊を注がれた弟子たちが再び現れるときこそ、神との絆を得た彼らが唯一正統な崇拝を回復し始めるでしょう。
この人々は現在の「バビロン」に相当する、異教と融合したキリスト教界に居るようですが、やがて神に集め出されるようにして、聖霊を受けるに際してそこから出るのでしょう。

 この人々は「シオン」と呼ばれる会衆(エクレシア)に集まって来るようですが、この会衆が「新十四日派」であるか否かは、現在のところ分かりません。それでも、聖霊を注がれる人々には、先在する母体となる組織があることはイザヤと黙示録に明らかです。

 聖霊を受ける人々は「生ける神殿」となって、『シオン』と呼ばれる母体組織の中核『シオンの子ら』となります。こうして、シオンの山上にかつて存在していた神殿は、より次元の高い姿で再び現われることになるでしょう。それは地上のエルサレムとは何の関わりも持ちません。

 それは、キリストの帰還を示す純粋なキリスト教の回復でもあり、聖霊の発言を通して、世に居る良心に従おうとする人々は、神を知り、信じることができるようになり、迷うことなく真の教えの源となる『シオン』に流れのように向かうようになるでしょう。

 このように、キリスト教が浄化されて様々な宗派から人々が集められ、あるいは異なる宗教からも人々が合流することは、難渋するエキュメニカルのような人間の労苦を注ぎ続けるまでもなく、神のみ力によって見事に成し遂げられるでしょう。

 そのとき、「神殿の定礎」に相当する『神の王国』の前段階でさえ、歴史上けっして無かったほどに高められ、古代のようにイスラエル一国のことではなく、世界の人々に広げられてゆきます。そうして人々はアダムが問われたような「神か人か」の選択を、誘惑の元で表明する機会を得ますが、これが聖霊を介する「裁き」となります。

 その裁きは、驚くべき聖霊の発言によって、世界の隅々に及ぶものとなりますが、人類全体はこの発言を巡って揺れ動き、宗教と政治は著しい糾弾を受けることになり、当然ながら反対する人々も現れることになります。

 特に、聖徒の中からも世との妥協をする者らが現れ、聖霊ではない不思議な力を行使して、多くの人々を『背教』と呼ばれる新たな全体主義的宗教に誘い、また強制します。

その中でも、特に目立った人物が現れ、彼はユダ・イスカリオテがそう呼ばれたように『滅びの子』と記されています。
 この者は背教の中心となり、キリストを自認して宗教上の最高の立場を得るのでしょう。『神の座に就いて、自分は神だ』と言うさまが聖書に描かれています。

しかし、そのような期間は十年も続くものではありません。ほんの数年で終局(キリストの顕現)を迎え、キリストが帰還されている紛れも無い証拠となる事態の推移の内に、世界を巻き込む強力な『背教』も終わりに至ります。それは神に抗う終末の頂点を築きますが、その力は「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれる神とこの世との争いに発展し、この世の権力は完膚なきまでに打ち破られます。

 それは人類史の転換点となり、過酷なこの世は終わりを迎え、神の支配と贖罪を行う『神の王国』が到来することに道を拓きます。
 千年続くというその王国を通し、創造物の初子であるキリストが、天と地の属する全ての知的存在者をひとつにまとめ、神の家族(オイコノミア)として復帰させることになります。

 『神の王国』の崇拝と支配により、この世に見られる『罪』の影響が除かれ、創造の意図のままの世界に戻されることにより、創造の業も遂に完遂を見ることになります。

 そこでは今日に見られる苦難あふれる生き方はありません。人は『罪』から清められ、『神の象り』としての栄光をまとい、祝福に浴することになり、創造者と自由に意思を通わせ、互いに愛すべき隣人を見出すことになるでしょう。そこに政治と宗教の余地はありません。それらは共に人間の『罪』への対処法であったからです。

 それで、今は聖書に記された神の言葉を学びつつ、その回復を待つのがキリスト教徒の務めといえます。
その間、伝道をしないわけではありませんが、人間がどれほど努力を傾注して伝道しても、到底得られない数の人々が、聖霊の発言を聴くことで集められるでしょう。それこそ神の業であり、「シオン」は膨大な数の人々を受け入れるべく「天幕布を張り伸ばす」ことで「ためらう」べきではないのでしょう。(イザヤ54:2)

 そのときには、聖徒でなくとも聖霊を通し何らかの指示を受けることがあるでしょう。
『シオン』に聖徒、即ち『シオンの子ら』が現れるとき、『シオン』そのものにも変化が起こることが何度も預言されています。

「新十四日派」は、聖霊の無い人に絶対的な正しさを認めませんが、初代キリスト教徒のように聖霊が注がれる人々が現れるなら、その人々を「キリストの兄弟」と見做して支援することになります。(マタイ25:32-36)





 予備資料
 旧約聖書の預言書(ネイヴィーム)の中の「回復の預言」集



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4.教理控制

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
4.教理控制


人間は『罪』ある現状では、絶対者である神に真っ向から遭遇することはありません。
なぜなら、聖なる神は人の『罪』を容認しないからであり、それゆえにもキリストの犠牲を介する必要があるからです。

 神は、人にご自分を証明可能な方法で顕現なさることはありません。宗教の存在理由もそこにあります。
その理由は、人間のすべてにエデンに於ける倫理的選択の道を開くためであり、人は皆、その『裁き』を前にしているからです。
 絶対者の圧倒的な現れは、人の自由意志を奪うものでもあるので、現在のところ、神は信仰によって人に捉えられるものではあっても、科学のような客観的検知は不可能です。(出埃33:20/ヨブ記34:29)

 また、聖書といえども、信仰を抱く人に、すべてを余すところなく語っているわけではありません。
書かれているところではなく、書かれていないところによってイエスの当時のユダヤの宗教指導者らは躓き、キリストを退ける結果となりましたが、彼はに聖書の知識が足りなかったのではなく、熟知しているゆえに慢心を招いたのです。

 そこで、新十四日派は、教理を絶対化することを避けます。
ただ、派としての基本的な教理は保持するものの、それを不動のもの、また絶対のものとは見做しません。
もし、そうしてしまうなら、ユダヤの宗教家らと同じ道を辿ることになるでしょう。

 教理に優って重要なものは、愛に基く価値観であり、これこそがナザレ人イエスをキリストとして認めた人々が有していたものでありました。

 そこでこの「教理控制」は、教理の暴走を抑え、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないための策として、教理そのものに抑制をかける「教理の教理」のような働きをします。


 教理は信ずる人を動かし、人生の選択をも左右するものであり、非常に注意されるべきものです。
 聖書の言葉を巧みに用いても、それが人間由来の教えである以上は間違いを免れません。

 サタンもイエスを誘惑するのに聖書の言葉を用い、その解釈が正しいかのように語りました。
まして、生身の人間であれば、この種の誘惑に曝されると容易に罠にはまりかねないでしょう。

 神ではなく人間に由来する教えについては、その教えに純粋に従ってしまう人ほど大きな害を受けます。
教導者に悪意が無かったにしても、それは一種の罠となります。

しかし、そこに信仰が絡み本人の同意の上であったとなれば、たとえ損害の補償を得るとしても容易ではありません。
そして保障を得たとしても、失ったものの多くは帰っては来ないでしょう。

 完全な宗教が今日の人間に無いとなれば、どんな宗教にせよ教理で間違いの無いものはありません。
そこで新十四日派は、教理そのものに間違いが潜んでいる危険をも信徒に予め通知し、その教えに沿って行動するか否かについては、本人の良心を働かせた判断に委ね、本人の良心を尊重し強制を避けます。

 また、原則的に信徒それぞれの信仰を認め、内心の信念までに立ち入りません。
新十四日派への参加も協働も自由意志であり、派そのものへの従順を条件とするものではありません。

 また、「求め続け敲き続けるなら受ける」との言葉に従い、何がより価値あることかを探求し続ける動機を与えるのもこの教理控制の重要な働きと言えます。
なぜならば、ある教理を正しく間違いの無いものと宣言してしまうと、自由な探求は阻害されてしまい、より真実な教えを求める努力は凍り付いて身動きがとれなくなってしまうからです。

 したがって新十四日派は、自らの教理のどれもがまったく正しいと称えるものではありません。
もちろん、理性によってより正しいと信じる教理を持ちますが、他の宗派の教えの全てを誤謬とは判断しません。
誤謬は誰が唱えようと誤謬であるからです。ここに権威主義者と衆愚の陥りやすい罠があります。

また異教諸宗派についても崇拝を共にすることはないとしても、公共の法に触れるような行いのない限りその崇拝心に敬意を払い、忌避すべき邪教徒のようには判断しません。

このように、教理控制が新十四日派に適用されるにしても、派に参加する以上は一定の同意事項を有します。しかし、この教理控制が働くので、その信条は絶対不変のものとはなりません。それらは蓋然性の追求の範囲を出るものではなく、個人の信仰がそれらを信念とするものです。

 また、正確な聖書理解を持っていることが、神により近づき、是認を深めるわけでもありません。
むしろ、逆に本人は神に従うつもりで居て、正確に知識によって神への反対行動を起こしてしまっている例が、聖書にも歴史にも存在してきました。
 そこには、知識の有無に関わらず、それぞれに人が倫理上の決定を下し、自らがどんな者かを露わにするという、神の裁きの本質が垣間見えています。

 聖書に関わる正確な理解は諸刃の剣であり「聖書に正確に従えば、そこに正しい宗教が興る」と捉えることは、従順によって神の是認を得ようとする事に等しく、自らの「正しさ」を神に責任転嫁することになります。

 神が人に望むのは「求め続け、敲き続ける」ことであって、「人が作り出した義」に安住することではありません。それは神から最も厳しく裁かれるものとなるでしょう。そもそも聖書は、知り尽くすことも出来ないものであり、どうして「聖書に正確に従う」ことなど出来るでしょうか。
 
 おおよそ宗教や宗派の教条の違いには、神との断絶という人間共通の「罪」の結果である不一致が顕されており、宗教という分野に人間が正解を持っていないことの証しでもあります。この点で人はみな同じ立場にあり、そこで多種多様な教条は陳列されるほかありません。

総じて言うなら、教理の学習が信仰を形成するにしても、教理を理解することがそのまま信仰となるわけでも、神に人を近づけるわけでもありません。この点で、教理が人の限界を超えさせることはありません。
また、多様な宗教の信者が、ある程度の異なる教理を有していても、その神に向かう動機が同じであるということがあり得まし、その逆もまたあり得ます。

 その動機は「倫理上の選択」に属する事柄であり、理屈の理解とは異なるものです。
それゆえ、宗派の異なる人々を尊重するべき理由も生じます。

 ですが、真に神との絆である聖霊を受ける人々が現れるなら、そこには真実の宗教が実現することになります。神から直接の言葉を語る以上、それを人間のものと同列に見做すべきではありません。

 そのことの起こるまでの期間、新十四日派は、神と人の交渉の記録であり、また神の啓示されてきた事柄の集大成である聖書を探り、より正しいと考えられる事柄を追求し、それを仮の教理とするものです。そこで重要なのは、個人の価値観であり、倫理性(道徳性ではなく)となるでしょう。それがその人の信仰の判断を作るからです。

 したがって、聖徒たちの現れるときに、新十四日派は務めを終えて聖徒に従うものですが、それまでは、この教理控制だけは不変を保ちます。これは神の物事に対する人間の限界の指標であるからです。







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1.創造者である「神」と任命された「キリスト」

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
1.創造者である「神」と任命された「キリスト」


信徒は、天地の創造主であり唯一の「神」が存在することを信じるに留まらず、その神が人間を創造された目的や企図に回復させるためにキリスト(「任命された者」)を立て歴史上行動してこられたこと、また、そのキリストがナザレのイエスであったことを信じます。(使徒2:22)

 この創造の第一原因者は預言者モーセに神自らの名前を知らせ、それはイスラエル人によって永らく用いられてきましたが、西暦紀元から数世紀の間にこの神名は発音が失われ、現在は子音字四つだけが伝えられており、便宜的にエホヴァ、あるいはヤハウェとも呼ばれています。(出エジプト3:15/イザヤ42:8/詩篇83:18)
 神名が回復されるまで、信徒は残された略称「ヤハ」と発音し、また文面においては主に英字でYHWHまたはヘブライ語アラム式表記でיהוהと記します。それでも旧約聖書に倣って聖なる神名に敬意を払い、その乱用を避けます。(出エジプト20:7)

 この創造の神は、旧約聖書では『全能の神』(エル・シャダイ)とも称され、これに対して『大能の神』(エル・ギッボール)は、神YHWH自ら創造された唯一の被造物である『ひとり子』に相当するイザヤ書に現れています。(イザヤ9:6)
この『独り子』については、『他のすべてのものはこの方を通して創られ存在するようになった』ので、『全創造物の初子』とも呼ばれています。(イザヤ9:6/箴言8章/コロサイ1:14-16)

 『ひとり子』は父である神を愛してその神性を擁護することにきわめて熱心であり、また人をも深く愛して、両者のために自ら命を投げ打つ『仲介者』の務めを果たすためにアダムの罪を負わない方法で世に来られました。
それが処女からの誕生であり、世にあっては罪ない唯一の人イエスとなられ、神からの聖霊の注ぎによって任命を受け、旧約に約束されたキリストとなられました。(テモテ第一2:5/ルカ1:30-35)
 
 この任命されたキリストの死を通して、神YHWHの神性が被造物の間に立証され、同時に人間を罪の奴隷状態から買取り請け戻すための、罪の無い神の子の「魂」(ネフェシュ)という貴重な犠牲が代価として支払われました。(ヘブル10:12)
 この買い戻しは「贖い」(あがない)と呼ばれます。キリストに従う者が、神と人を愛するべきなのはこのことに拠ります。(テモテ第一2:6)

 信徒が神を信仰するとは、儀礼や礼拝を行うことではなく、神を知ることで心に起こされる崇敬の念を言い表して賛美し、キリストに従い「愛の掟」に従おうと努めることを意味します。(ヘブル13:15/ヨハネ13:34)
 加えて、終末には『聖霊』の言葉を受け入れ、その価値を認めることも求められます。(マタイ10:18-20)



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 補足情報
 イエスとは何者か:キリスト・イエスの由来を旧約と新約から探る

 神名浄化の至上命題:神が明らかに固有名を持つこと、それが今後何を意味するか









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2.キリスト教の目的

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
2.キリスト教の目的

聖書に記された創造の神の目的のひとつは、アダムのときに失われてしまった人間と神の関係を取り戻して、人間の「罪」を除き、彼らが創造の神を父のように受け容れることで、創造された通りに「神の子」にならせることにあります。(ヨハネ1:12)

アダムは創造者から離れて自分の道を行くことを選んでしまいました。
それが「善悪の知識の木」から実をとって食べるという、神の言葉に逆らい忠節な愛を示さない行為の意味するところでした。
その結果、神の創造の意図から離れ、自分の存在意義や創造されたことへの感謝を否定しましたが、これは神の是認を失うことであり、人間のすべての倫理の基礎を壊すことでした。(イザヤ43:27)

こうして、人間は倫理や道徳において不完全となり、以後子孫すべてにこの倫理上の欠陥を遺伝させました。
これは「罪」(カトリックでは「原罪」)と呼ばれ、人の犯す一つ一つの罪ではなく、人間の持つ悪い傾向を意味します。(ローマ5:12)

このため、人間は本来備わった輝かしい特性を失なって不完全な創造物になり、欲望のゆえに争うことを避けられません。(ヤコブ4:1-)

そこで、創造者は人間に寿命を与えました。それは、ひとつには不完全な人が永遠に生きることによって神の創造の目的が永遠に達成されないようなことのないためであり、「罪の報いは死」とされ人間には寿命という限界が与えられました。倫理上の欠陥である「罪」は人類と神との間を隔てる壁となっていて、人は誰も自らの力だけで聖なる神に近づくことはできません。(創世記3:22/ローマ6:23/イザヤ59:2)

この状態を打開し、人間を創造された通りの姿に戻すことを神は計画されました。
そのために、神と人の間に立つ「仲介者」(「仲保者」)が立てられました。それが「神のひとり子」とも呼ばれるキリストであり、この方の犠牲によって人類は創造された姿で永遠に生きる「神の子」に復帰することで、「罪の報い」である死を許される道が開かれました。この犠牲による「罪」の相殺は「贖い」(あがない)と呼ばれます。(コロサイ1:14-17)

この贖いによる人間の創造神との関係への復帰が聖書全体を貫く主題であり、信仰深いアブラハムという非常に古代の人に示され、その子孫イスラエル人が預言者モーセによって整えられ、キリストの到来によって人間回復の手段が具体的に現わされはじめました。その手段は「神の王国」と呼ばれキリストの教えの主要な部分となりました。(ルカ8:1)

「神の王国」はキリストの犠牲による贖いを適用して生ける人間の罪を無くし、その間に社会の仕組みを争いから愛に変えてゆく統治を行い、そうして人間を神に近づける働きを行うことになります。
そのためには、天に去ったキリストがその王国の王権を得てもう一度人間の社会に臨むことが待たれています。このキリストの帰還は「臨御(パルーシア)」(あるいは「再臨」「臨在」)と呼ばれます。(ルカ19:12/21:27)

現在は、このキリストが人間社会に対し偉大な王として「臨御」(りんぎょ)することが待たれています。
したがって今日のキリスト教の目的は、聖書の中に示されている長い時代に亘る神の計画の仕上げの部分を成していて、信ずる者には、神の目的のこれまでの歩みを知り、神の目的に賛意を抱いて将来に王権を受けるキリストの臨御を待つことが求められます。(マルコ15:43/黙示録22:20)

しかし、キリストの二度目の現れは、かつてイエスがユダヤに現れたときとはまるで異なる仕方となり、「雲と共に」臨御されるので、直接目で視ることはありません。(ルカ21:27/ヨハネ14:19/テモテ第一6:16)

それでも、キリストの臨御が人々にはっきりと知らされる段階があり、それは顕現(エピファネイア)と呼ばれ、そのときには、地上で起こる超自然の事柄を通して、キリストが確かに人類社会に関わっていることを誰もが知ることになり、そのようにして、あらゆる人々は象徴的に「雲と共にあるキリスト」を「見る」ことになります。(マタイ26:64)

それまでの間、キリストの大使として任命される弟子たちが聖霊の賜物を受け「聖徒」として現れます。
彼ら聖徒が聖霊によって語り、奇跡を行うことで、古代のユダヤのように、世界はキリストを受け入れるか拒絶するかにより、人々がひとりひとり裁かれることになります。(ヨハネ10:38/14:12/マタイ12:31-32)

キリストと神の義を信仰のうちに迎える人々は、神の王国の支配と罪を除く「贖罪」(しょくざい)の祭祀を受けるための「千年期」に入ることになるでしょう。神の王国が「千年王国」とも呼ばれるのはそのためです。それは「神の子」への復帰を可能とする過程に人々が入ることを表しています。(黙示録20:4/21:1-4)



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 補足情報
 キリスト教の究極目的:元来キリスト教は何のために存在しているのかを部外者向けに説明

キリストの王権領受の時:黙示録の四騎士に関連して、終末にキリストが王権を受ける時を解く


Quartodecimanism
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3.「聖書」 神の言葉

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
3.「聖書」 神の言葉

 現在において信仰や賛美の根拠となるものは、「聖書」と呼ばれる「旧約」と「新約」の二部を併せ通常六十六の書*をまとめた書物です。この書をより深く知ることを通して神を、つまりその性質や行いを知るようになり、それは心に畏敬をもたらすことになるでしょう。

 旧約聖書は神が地を整えた過去から人類の始祖アダムの歴史を含め、偉大とされる預言者モーセのときから、キリスト前四百年ほどの時代まで書き継がれました。モーセの「律法」・詩篇などの「諸書」・「預言書」の三部で構成されています。

 その後、四百年の時代の空白があった後、キリストの現れる直前のバプテストと呼ばれるヨハネの登場から、イエスの宣教と死、そしてキリストの使徒たちの時代に新約に属する書物が記されました。
キリストの伝記には四つの福音書があり、その後の使徒たちの活動と主要な弟子たちの書簡が続き、終わりに黙示録があります。

 これらはキリストの初代に属する使徒や弟子たちによって書かれ、最後は使徒ヨハネの黙示録や福音書などを以って、以後は聖書に含まれるほどに価値ある霊感の著作は現れなくなりました。
その他の多くの似た書物も書かれましたが、それらと聖書に含まれる書との間には読んで分かるほどの違いがあります。
聖書文書はたとえ難解な書であっても人の価値観を刺激し、神に関する新たな展望が開かれるのに対し、外典や偽典と呼ばれる書物は霊感に欠け、凡庸さを免れないために自ら退けられたようなところがあります。

確かに聖書の周辺にはそれに似た疑典や、聖典に含まれなかった外典も無数に存在していますが、聖書の66冊はユダヤ人や初期キリスト教徒によって選別され続けて今日に至っており、聖書の全体に習熟した読み手なら、正典とそれ以外の価値の違いは実感できるものです。それは親しい人の名を偽った手紙のようで、聖書に習熟すると違和感を感じさせます。

 最終巻とされている使徒ヨハネの黙示録は、「終末」と呼ばれる王権を帯びたキリストの帰還の時代を預言する書で、旧約の預言書やダニエル書とリンクして「人類の裁き」や「神の王国」の実現という将来までを知らせる書となっています。

 したがって、聖書という本は、創世記からの最初の五冊とヨブ記を編纂したモーセの時から少なくとも13世紀間記され続け、わたしたちの時代の先までをも予告しているので、この書の中には意志の一貫した神の計画(経綸[けいりん])が込められています。それは人間が考案して書き上げることができるものではありません。

 これらの書には、神が霊感を与えて書かせた御言葉や預言、また神の御力の表明である聖霊がどのように働いたかを知らせる過去の事跡が含まれていて、それらが人の信仰を呼び起こす元となります。
その意味で、聖書はキリストの帰還するまでの間における人々の信仰の唯一の礎となっていますので、この本を知るほどに神に引き寄せられるでしょう。

 聖書は、いずれの部分も人の手によって書かれましたが、神の霊感が導いたと言える一種の聖性を備えているので、そこに含まれる各書には古来高い価値が認められ、歴史的にも芸術的にも大きな影響を与えてきました。
 聖書ほど多くの古写本が存在する本はなく、これほど翻訳され世界に流布した本もありません。


「旧約聖書」はユダヤ=イスラエル人の言語であるヘブライ語と、幾らかの部分が古代オリエントの共通語であったアラム語で書かれました。最も古い写本は前二世紀に遡る「死海写本」があります。
「新約聖書」は古典ギリシア語が原典とされており、最も早い時期の新約の写本はギリシア語大文字で記されたもので、現在一番古いパピルス断片は西暦二世紀のものです。

 聖書翻訳については、それぞれの言語の持つ言葉のニュアンスの違いや、翻訳者の傾向により「完璧な翻訳」というものはけっして存在しません。ほんの僅かな言葉の差でも大きな違いになることは意外に多いのです。
そこで、翻訳聖書を読むなら、傾向の異なるような複数の翻訳聖書を持ちそれぞれを読むことをお勧めします。

もし、本文(ほんもん)のヘブライ語やギリシア語を参照でき単語の意味や文を確認できる環境を持つことができるなら、更に理解を精密に深める機会を得られるでしょう。最近はインターネット上に主要な古写本や逐語訳付き復元本文なども公開されているので、利用はさほど難しいことではありません。

 言語は考え方を左右します。それら原語の逐語訳などを用いて本文の世界に触れることで、聖書の世界の息遣いを聴き、その本来のニュアンスに近づくときに理解は劇的に啓かれ、より一層聖書に引き寄せられることでしょう。

 しかしこれは、聖書の言葉を逐一、神の霊感の込められた不動の言葉であると、偶像のように見做す態度とは異なります。
それぞれの写本による違いについては、新約はもちろんのこと、専門の抄本写字生によって書き継がれた旧約聖書でさえも、写本による差異がまったくないわけではありませんし、ふたつのどちらの意味にもとれる単語も幾つか存在しています。

多くの翻訳聖書は、ほぼ信頼することができますが、翻訳が難しい箇所や意味が分かり難いところは、どんな翻訳でもそれぞれ避けることができません。また、翻訳した人々が属する宗派の教理の影響もまったく除くことも難しいと言わざるを得ません。
 それでも、大半の場合でも文章上の差は、文脈の意味をまったく取り違えるものに至ることは少なく、翻訳聖書は信頼できないからと、それらすべて退けてしまう必要はないでしょう。むしろ、様々に異なる言い回しからヒントを得ることの方が多いのです。


 聖書を「新約」「旧約」と呼ぶ慣わしは非常に古く、西暦第二世紀の小アジア派で用いられています。これらの「約」は「契約」を意味し、聖書中の預言者モーセによる古い「律法契約」とキリストによる「新しい契約」という二つの代表的契約を意味しています。
しかし、聖書中には他にも幾つも契約がありますし、他の理由からも「旧約・新約」の呼称に問題が無いわけではありません。

 別の呼び方、つまり古い方を「ヘブライ語聖書」、新しい方を「ギリシャ語聖書」と呼ぶ方法もあるでしょうが、これについては、「ヘブライ語聖書」(旧約)の古代ギリシア語訳で「七十人訳」(セプチュアギンタ)と呼ばれるところの、これもまた重要なギリシア語聖書資料があって、聖書学習を進めてゆくと、この「ギリシア語の聖書」と新約部分を意味する「ギリシア語の聖書」の間で頻繁な混乱が生じ易くなってしまいます。
そこで、幾らか問題のあるとしても、この「新約」「旧約」と聖書を呼ぶ慣わしは今日でも簡便で有用といえるでしょう。

 旧約聖書は現在もユダヤ教の聖典であり、これは「タナハ」[TANAKH]と呼ばれています。しかし、ユダヤ教徒は今日に至るまで新約聖書を認めず、イエスは「ガリラヤの私生児で魔術師」であると見なします。

 一方で新約聖書は、旧約聖書の内容の上に立ってはじめて理解できるものなので、旧約を学ばないキリスト教徒は理解に混乱を招きます。また、ユダヤ教徒は新約を読まないので、旧約に書かれた深い意味を悟れずにいます。

 この分離はユダヤ人のキリストの拒否によって惹き起こされましたが、キリスト教徒の方はユダヤ教徒を「主殺しの民」と見なして度々迫害してきました。この不和がユダヤ教とキリスト教の双方の理解を分断して今日までに及んでいます。

 聖書全巻は、最後の十二使徒ヨハネによって西暦百年ころに書き終えられたもので、旧約も新約も全部で四十人ほどの著者は、全員がヘブライ人であり、そのほかの民に属する著者はいません。
 キリスト・イエス自身もまったくのヘブライ人であり、聖書はイスラエル=ユダヤの中に与えられ完成したものですから、聖書の教えはヨーロッパではなくユダヤの観点から見る必要があります。

 ですが、この点で大いに恵まれているはずのユダヤ教徒はイエスを認めず処刑してしまい、新約というユダヤ教を次元上昇させたはずの優れた教えを受け入れていません。

 一方で、キリストの教えを受け入れたヨーロッパは、ユダヤを嫌い、その本来の観点を捨て、五世紀頃までに自分たちの哲学や神秘主義を織り交ぜて異教的キリスト教会を作ってしまいました。今日見られるキリスト教会は、現在もこのギリシア=ローマ型のキリスト教スタイルのまま続いてきたものがほとんどです。

そこで、本当にキリスト教を理解しようと思うなら、新旧の双方をバランスよく学ぶ必要があります。

 使徒ヨハネが指導した第二世紀初め頃の小アジアのキリスト教は、そのユダヤ性を周囲の異邦人的キリスト教から非難され、ヨハネ黙示録さえも聖典から除外されるほどでした。
 しかし、これらの最後期の著作群は新約聖典の中でも重きを成していて、将来の弟子たちのあるべき姿までをも知らせる点では最も傑出した内容を持っています。

「新十四日派」は、エルサレムの「柱」と見なされ、十二使徒の最後に残ったヨハネを通して、ユダヤ・キリスト教の伝統を受け継いだ小アジアの「十四日派」と呼ばれる人々のキリスト教を再興し、聖書全巻を貫くイスラエルの観点を保ちつつキリスト教を追求してゆくものです。










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4.『神の義』

2012.05.05 (Sat)
”新十四日派の基礎教理”
4.『神の義』

 キリスト・イエスは『神の義を求める』よう命じられました。(マタイ6:33)
『神の義を求める』とは、神にこそ正義があることを認めることから始まります。

当然ながら、様々な人間の作った「人の義」に固執することはできなくなるでしょう。
なぜなら、誰であれ人間が「完全な正義」を提出してみせることができるものでしょうか?
使徒パウロは『あらゆる人が偽りであっても、神は真実であるように!』と正しさが神にあることを強調しています。(ローマ3:4)


宗教と政治の世界には完全な正義がありません。
そのために、このふたつの分野では争いが絶えませんが、その原因は本当の「正義」を誰も持っていないところにあります。人が正義を持てないのは、人類全体に倫理上の欠陥があるためで、聖書はこれを「罪」と呼びます。

「罪」は個人の失敗や不義理を指すものではなく、人類全体に宿る倫理上の欠陥、つまり貪欲の傾向のことです。
この「罪」のある限り、人が真実の正義を自ら持つことも、争いを無くすこともあり得ません。

しかし、神にあってはそうではありません。神はその正義によってすべての争いを止めさせ、政治にも宗教にも唯一の正当を主張できる方です。
それを実現させるのが「神の王国」であり、その目的は人間から「罪」を除き、貪欲ではなく愛によって動かされる社会を与えるところにあります。
それで、「山上の垂訓」の有名な言葉『神の義と王国を第一に求めよ』にはこうした深い意味があります。(マタイ6:33)

しかし、ユダヤの宗教指導者は自分たちの正義に固執し続けて、キリスト・イエスが現れたとき、遣わされたキリストを退け処刑させてしまいました。

彼らの正義とは、イエスが自分たちの方法で安息日を守っていないからイエスは間違いであるという、外面的な規則の問題に過ぎませんでした。彼らは自分たちは正しいと思い込んで疑うことも無く固執し、キリストに示されていた貴重な「神の義」をも退けてしまいました。

また、彼らは神の律法を守るなら正義を得られると考えましたが、そのようにして自分の中に「罪」があることを認めませんでした。パウロはそれを『神の義を知らず、自己の義を建てようとして、神の義に服さなかった』と指摘しています。(ローマ3:10)

そこでやはり『神の義を求める』ためには、人間の義に固執することはできません。
つまり、人は自分たちで正義を打ち立てることを断念し、神から正義を求めようと心をニュートラルにする必要のあることを意味します。(ヘブル4:7.10)

それは主に倫理面、つまり政治の論争、つまり人々を分断する意見の違いや愛国心などに出来る限り関わらない姿勢を意味するでしょう。

加えて、キリスト教界には無数の宗派があり、それぞれが「正統」を主張するかもしれませんが、私共は自派に正義があると主張するものではありませんし、唯一の正統を称えることもありません。
それは、神こそが真の正義を持つことを認め、それが示されることを待ち望むことで『神の義を求める』ためです。

『主の奴隷は争うこと(必要)なし』と使徒パウロが言い表したように、神こそが正義も正当も持たれることを認めて『神の義を求め』ようとすれば、自ずと人間のあらゆる「正義」を巡る争いから自由にされます。(テモテ第二2:24)

パウロは、弟子たちが『言葉を巡って争うことのないよう厳しく命じる』ようにと指示しています。
宗派毎に分断された人々が、それぞれの表面的な違いを理由に排撃しあうのは、非キリスト教的であり、また虚しいものではありませんか?(テモテ第二2:14)

キリスト教であれ何であれ、様々な宗派が自己正当化して争い合うことは無益であり、『神の義』の前には何の意味も成しません。
この観点を持てば、宗教や政治などで様々な争い事を起こしたり、その敵意やストレスで疲れることから解放されて、神の平和な「安息」に入ることができます。(ヘブル4:10)

現在、その平和は自分にとってより正しいと思えることはあっても、それをまったく正しいとは看做さず、主張しないところから始まります。今日まで、使徒たちや初代の弟子のように、神の聖霊を受けて真理を語れる人は世に一人も現れていないからです。(ローマ3:10)

このような実際的観点を持てば、様々な教派の人々を尊重でき、意見の違いで対立することを避けられます。
私共はこうする事を「教理控制」と名付けました。これによって私共ばかりでなく様々な宗派の人々にあっても、教理という不確かなものが偶像化して人々に敵意をもたらすのを防ぐことができます。(マタイ15:9)

実際、人類の裁きはこれからであり、誰もがひとりひとり公正に裁かれると信じるならば、何かの宗派に入ることで救われるとは思えないでしょう。(マタイ25:32)

真理も信仰もひとつ、と反論されるかも知れませんが、それらは人間の所有するところではなく、現実とは程遠い理想となってしまいました。真理も信仰も神からの啓示によって与えられるもので、人間の「真理」は間違いや訂正を免れません。それにも関わらず、自分たちだけを正しいと主張するなら論争が起こってしまい、多くの宗派に分かれて反目するのを避けられません。(ルカ16:15)

今日、真理も信仰も持つと正しく言える人がいるなら議論の余地無くキリスト教はひとつになっていることでしょうし、将来に神が聖霊によって啓示を与えるときには実際にそうなることでしょう。そこに『神の義』がありますので、聖霊の言葉を聴く者は心を頑なにしないで受け容れる理由があります。(ヘブル3:15)

そのような将来の一致をもたらす聖霊の業を、私共はキリスト教の「回復」と呼びます。
それは神の業であって人間の努力の産物ではありません。(イザヤ2:2-4)
人類がやがて聖霊を通して神からの言葉を聴くときに、かつてのユダヤ人のように『心を頑なにしてはいけない』と聖書は警告を与えています。(詩篇95編)

『神の義を求める』とは、このようにして自らに「罪」という倫理上の欠陥のあることを認め、神と人との間の平和を促進することです。




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 「教理控制










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5.キリストの教え「愛の掟」

2012.05.05 (Sat)
”新十四日派の基礎教理”
5.キリストの教え「愛の掟」

『あなたがたは互いに愛し合いなさい』というキリストが与えた掟は、文面は簡単な一カ条ですが、行うに当たってそれは易しいものではなく、その人の持つ様々な良い特性が様々な場面で求められ、またその人なりに伸ばされてゆきます。それは固定された条文であるモーセの「律法」と比較すると、外面と内面というほどに、異なる意義を有しています。(ヨハネ13:34/ローマ13:8)

これをキリストは『あなたがして欲しいと思うところを他の人に行いなさい』また『隣人を自分自身のように愛するように』とも述べておられ、『受けるより与える方が幸福』という精神が示され、加えてモーセの律法の『神と隣人を愛せ』という条項が最も重要であることも示されました。(マルコ12:29.30)

これがキリストに従おうとする者すべてに求められる「掟」であって、予め定められた規則に従うことではないところにキリストの教えの革新性や素晴らしさがあります。(コロサイ2:14)
定められた規則を守ることは、一般の法律のように一定の道徳水準は満たさせても、その人そのものを内面から変えてゆくものにはなりません。条項を守る行いでは、その人の動機は必ずしも問われません。(ローマ13:10)

しかし、使徒パウロが指摘したように、キリストに従う者は一切の律法から放たれており、十戒をはじめとする旧約の掟を履行することは一種の「奴隷」状態へと逆行することになります。(コロサイ2:21)
しかしキリストの信徒は、ユダヤ教のようにではなく愛によって「心に律法が書き記された」ように行動することが出来、またそれが求められています。それこそは神と隣人を愛するという一言に尽きます。(エレミヤ31:33)

この「愛の掟」は細かな規定がまったく無いので、その人の心にあるものが問われることになります。
この掟を行おうとすると、その人は自分の愛や共感や同情などを奮い起こさねばならず、積極的に関わることになります。したがって、この掟は履行される度に、その人の内面をアガペー愛の方向に形作り、それはその人をより一層キリストに倣う者としてゆくことでしょう。

「神の王国」とこの「愛の掟」はキリストの教えの二本の柱のようになっています。
現在の世の中はキリストの愛とは逆の欲の争いを中心として動いていますが、これは人間の創造された姿からも、イエスのように善を行い、敵をも愛するほどの精神からも大きく隔たっています。(マタイ5:44-47/ヨハネ第三11/ヨハネ第一4:8)

現在の世界では、周囲と自分自身の「罪」の傾向から「愛の掟」を実践しようとしても行えることは限られてしまいます。しかし「神の王国」が到来しその支配されるときには、人間は愛を中心にして動く社会を受けることになり、現在の世とは異なる愛の精神をより一層伸ばすことが出来るようになります。(ルカ6:27.35/ヨハネ第一2:17)

それで「愛さない者は命に入らない」というヨハネの言葉は、憎しみが「神の王国」に入るに相応しくなく、そのようにし続ける人が除外されても仕方ないことを知らせています。(ヨハネ第一3:14)

それで、信徒に務めは「神と人を愛する」ことであり、このほかのことを定めとすることはありません。*
「愛の掟」は生活のあらゆる場面で適用する機会が生じるので、求め続けるべきものであり、何をしていれば良いとか救われるとかいうこととは無関係に、アガペーがその人の特質となってゆくものです。(箴言3:27)

この「掟」に従う人々は、「掟」に基くその行いの判断に意見を求めることはあっても、どのようにすべきかを決定してもらうようなことはありません。もし、そうするなら律法遵守に逆戻りしてしまいます。そこでは失敗もあるでしょうが、個人においてそれを修正し続けることで、状況に柔軟に対処できるように個々に成長させることができます。
また、効果の良し悪しはあっても、他から善悪を宣告されるべきでもありません。また、それは単に愛情や慈善に耽溺することでもありません。(ローマ14:1-4/コリント第二9:7)

現在が欲のために争い奪い合う社会であるために用心も必要ですが、信徒はその限界や資質に応じて自らの愛に基づく言行を追い求め続けます。(マルコ14:7/アモス5:14)

それは誰にとっても常に易しい「掟」とはならないでしょう、そこで、愛の資質はずっと向上させてゆくべきものとなります。その最終目標は「キリストの丈の高さ」であり、真に利他的な愛の人となることにありますが、現在の世ではそこまでは到達できません。(エフェソス4:2.13)

しかし、それでも愛の資質を向上させるに従い、その人は「神の王国」に相応しい人となりを造ろうと努力することになり、その姿勢は神の意図された精神を理解するようその人を助け、キリストの犠牲に与る永遠の命を自他共に得るよう希望して、利他性を培うことになるでしょう。

しかし本来は、その効果を願って、あるいは酬いを求めて「愛の掟」を履行しようとするわけではありません。その動機はその人の内奥から湧き上がるような無作為のものであるほどにより相応しいもの、つまり、アダムからの『罪』への悔いに動機があることでしょう。


(*コミュニティを害する恐れのある道徳基準の低い信徒に対しては、勧告によってある水準を維持するよう求めることはあるでしょう(テモテ第一1:9-11))




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 補足情報
  「愛の掟」 :この世を動かしている精神とキリストの教える愛(アガペー)の違い






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6.キリストの王国

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
 6.キリストの王国


『王国』というキリストの教えの中でも特に大きなこの主題は、聖書の全編を流れる「人類の救い」に深く関わります。キリストであるイエスはこの『王国』について弟子に度々語り、多くの譬えを用いて様々な角度から教えました。

しかし、それはギリシア語で『天の王国』また『神の王国』であって一般に言われるような「天国」のように、天で人々が至福を味わうものとは異なります。

それを一言で云うなら、地上に創造された人間を創造された本来の輝かしい状態に復帰させることを目的とする、統治と贖罪のための時限的機構ということができます。
それは、いずれはこの地上をあまねく治める現実の政権となるのであって、人の「心の中に在る」と云うようなものではありません。

この王国については聖書の中に様々な形で書かれてきたので、時代と共に徐々に実体が明らかにされてきました。

アダム以来、人間が創造の神から離れてしまってのち、神は今から四千年以上昔の人アブラムにご自分を現わし、彼の子孫を通して『地上のすべての家族は自らを祝福する』ことになると約束されました。

それから四百年以上を経たモーセのときに、神がアブラハムの子孫であるイスラエル民族と契約を結ぶときにも、やはり神は『契約を守るなら、あなたがたを祭司の王国、聖なる国民とする』と言われ、彼らが人類を祝福する特別な王国になることを示されました。

そのため、イスラエル人はその「王国」の実現を願い、その王となる任命された方が彼らの中から現れるのを待ち望んできました。その方は古代イスラエルの王ダヴィデの王統に属する家系から来られることが、後に神から知らされます。その方は「平和の君」と呼ばれ、イスラエルを超え世界を統べ治めるとこも預言されました。

また、その方は神から任命されるので「メシア」(任命された者)という称号で呼ばれることになりました。そのギリシア語が「クリストス」でわたしたちが「キリスト」と呼んでいるイエスのことです。

イエス・キリストは、ダヴィデ王の家系に属するヨセフとマリアの長男として生まれ、地上で過ごされた期間中に王になることはなく、むしろ磔にされ処刑されました。しかし、これはアダムの時以来、先見された犠牲の死でありました。
まず、キリストはこうしてアダムに対応する贖いの犠牲となり、人々を救う基礎を据えられ、人間となって地に降った目的を果たしました。

その後、復活したキリストは霊の存在となって神の許に戻られ、自らの王権に取得と「王国」の実現の時を待って準備してこられました。そのひとつが、弟子の中から選ばれた人々に聖霊を与え、キリストが行っていたような奇蹟を行わせたことです。

彼ら初代の信徒たちが聖霊を受けたことは、その人たちが神の王国に迎えられ、イエスと共に霊の存在となって「王また祭司」として仕えるのに選ばれたことを意味しました。

そのため使徒ペテロは当時の信徒たちを指して『あなた方は王なる祭司、聖なる国民』であると、昔にイスラエルへ語られた言葉をもう一度繰り返しました。つまり、聖霊を受けた初代の弟子たちが「神の王国」に召かれたことを示しています。

この王国の支配が始まる前に、キリストがもう一度人間社会に関わりを持ち始める時期が来ます。
これは一般に「再臨」とも呼ばれますが、私共には、王権を帯びたキリストの「臨御」(りんぎょ)と呼ぶのが適当と思われます。
というのも、キリストが二度目に来られるのは『神の王国』の王権を帯びた霊の姿となってのことで、人間の肉の弱さを持たないからです。

将来、キリストの「臨御」の後「神の王国」は世界を治め、何者にも妨げられず千年の間に生ける人々を愛に基づいて治め、また「罪」を除いて永遠の健康をもたらします。

これが人間の救いであって、至福の天国や死後霊魂がどこかで生き続けるという教理は、元々イスラエル=ユダヤの教えにありませんし、その救いは人類全体を含む大いなる神の意志なので、キリスト教は個人の利得や軽い癒しなどの「ご利益信仰」とは正反対のものです。

また、人間の政治と宗教も人間の「罪」への対症療法であって、「罪」の根本治療を施す「神の王国」の前には道を空けるべきものとなります。

この「王国」の支配を通して人間は「神の子」の立場に回復され、アダムが得ていた輝かしい姿を再び見せるようになります。諸苦は消え悲しみも去り、人は寿命や老化に制限されない人生に入ることになり、「王国」はその役割を果たします。

千年続くこの王国の築く世界は、人類の贖いがどれほど優れたものになるかを諸世紀の復活者たちに明瞭に示すものとなり、人間の業は神の業に到底及ばないことの証拠となるでしょう。




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 補足情報
「神の王国」 死者の行くという「天国」とはどのように違うかを聖書歴史から説明                      










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7.信徒と聖徒

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
7.信徒と聖徒

それで、神の側を選ぶ人すべてが天に行くわけでは無く、キリストと共になるよう選ばれた限られた人々だけが、「王国」の聖なる国民、「神のイスラエル」となって天に挙げられアブラハムへの約束が果たされることになります。(創世記22:18)

その違いを分けるものは人の思い込みや願望によるものではなく、初代のエクレシアにおいて「神に選ばれ召された」人は神からの奇跡の業を行う「聖霊の賜物」をはっきり持つので「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス[ἅγιος])と呼ばれていたことを新約聖書は明らかにしています。(ローマ1:6.7/テトス3:6)

一方、エクレシアに交わって日の浅い初心者をはじめ、聖霊を持たない一般の「信徒」は席を区別され、その人が聖霊を持っているかどうかは、他の人からも分かるものであったことを新約聖書は伝えています。(ローマ8:9/コリント第一14:16)
その聖霊の賜物が、それを持つ人に現れている状態を、パウロは霊の『顕現(ファネローシス)』と呼んでおり、それは本人にだけ分かるようなものではなく、自他共にはっきりと認めることができるものであったこと、また、聖霊の注ぎが『聖なる者』の印であったと記しています。(コリント第一12:7/エフェソス1:13)

聖徒らの受けた霊は『真理の霊』でもあり、それは彼らに知識を与えて導いたのでユダヤ的背教の「グノーシス主義」に耐えつつ、二世紀の半ばにその聖霊を受けた人々が去るまで、つまり悪霊の主導する「モンタノス派」が登場するまでは、キリスト教界は同じ信仰を保って分裂するところがなかったと言われます。(ヨハネ14:17/16:13)
他方、今日のキリスト教界の四分五裂と果てしない争論は、互いに聖霊のない状態を証拠立てていると言ってよいでしょう。

初代のエクレシアに集まる人々の大半が、聖霊を注がれ奇蹟的な業を行う「聖徒」でありましたから、新約聖書のほぼ全体が聖霊を持つ彼らに向けて書かれた内容であり、初代の聖徒たちが去って聖霊が無くなった後には、教理が混乱し、聖書の表面を呼んだままに、洗礼を受ければ皆が聖霊を注がれて天に行く聖徒であるとされる誤解が生じ、それは今日までキリスト教界での大勢を占めた理解になってしまっています。それでは仏教の極楽や、イスラムの天国と変わらない教えになり、キリスト教の優れたところは失われてしまいます。(使徒4:31/コリント第一14:5)

しかし、キリスト教の目的が天国の至福で終わってしまうのなら、却って神からの「救い」をキリスト教徒に限定してしまうことになり、人類全体を救済するキリストの犠牲は狭い範囲に限られてしまう上に、キリスト教を「聖霊の内住による救い」のご利益信仰にしてしまい兼ねません。それは同じ「聖霊」を教えることにおいて似ているようでいて、利他心から利己心へと180度変化してしまっていることになります。その信仰では、未信者への優越感と軽視を避けられませんし、キリスト教の精神とは言えません。

また、「聖霊」が自分たちに有るというなら、使徒たちの時代のような奇跡を行う『聖霊』を求めることも、注がれることもないでしょう。それは切に願い求め、探し続けるところに与えられるものであることをイエスは教えているからです。

ですが現在まで、いまだキリストの「再臨」が起こっていないことを証しするかのように、キリスト教初代のときのように聖霊を注がれて奇蹟の業や神の宣告を世界に語る人はどんな宗派からも現れていません。つまり、古代のように証しをするような同じ聖霊は、今日どこにもないのです。

もし、本当に聖霊が注がれた『聖なる者ら』が現れるなら、その人たちはキリストの王国の大使のように、「王国」の到来を論駁のできないほどの聖霊の言葉をもって政治家たちに告げるので、「王国」は大きな争点となり世界の人々の注目を集めることになると福音書は語っています。(ルカ21:12-15/マタイ10:18-20)

この聖霊の言葉を巡って、将来、人々は「神の王国」か「人間の支配」かの選択ができるようになり「裁き」にも連なることになるでしょう。それはエデンの園の中央に在った二本の木への選択に相当する、信仰に関わる神からの問いとなるでしょう。『キリストの兄弟ら』である聖徒たちを支持するか否かが、人をキリストの左右に分けるものになると福音書は告げます。(マタイ25:31-)

その「終末」とよばれる時が到来すると、聖徒たちを通じた聖霊の発言は世界の注目を集め、人間社会を激動させることになります。
その結果、信仰を抱く人々が数多く現れ、その人たちは流れのように「シオン」と呼ばれる神の崇拝に向かいます。(ハガイ2:7/イザヤ2:1-3)

ですから、「聖なる者」が現れなくてはキリストの「再臨」も「王国」も来ませんので、これを信ずる者たちは彼らの現れることを切に待ちつつ、毎年春先の一晩を取り分けて、キリストの創始した「主の晩餐」の儀式を行います。(ルカ22:19-20)

その儀式では、キリストの体を表す無酵母パンと、キリストが血の犠牲を以って仲介する「新しい契約」を表す赤ぶどう酒の二種類ののエレメントを用いて、信徒たちは観想の時を持ちます。しかし、聖霊を持たない信徒はパンにもぶどう酒にも与りません。信徒は契約の外にいるからです。(コリント第一11:27-29)

しかし、聖徒が現れるときには、彼ら聖霊の賜物をはっきりと有する人々がそれらに与るところを見守り、神の計画の進展を共に喜ぶことになるでしょう。

西暦第二世紀の小アジア地方のキリスト教徒たちは、ユダヤ暦のニサン月14日の晩にこの「主の晩餐」を行っていました。
これはキリストの十二使徒中、最後まで残ったとされる使徒ヨハネに由来するもので、彼らは「十四日派」と呼ばれていましたが、ローマ国教化に圧迫されやがて中世の闇の中に姿を消してゆきました。

21世紀の「新十四日派」は、聖霊の再降下は別にしても、キリスト教完成の姿に最も近いと思われる古代に存在した「十四日派」という使徒由来の小アジアの教理と信仰のモデルを踏襲を標榜するものです。

それはローマ国教化によって本来ヘブライのものであったキリスト教が、ヘレニズム哲学や異教と混じって変質を遂げる以前の原始キリスト教への回帰を目指すものでもあります。


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 補足情報
 エクレシア内の信徒と聖徒:初代期にも見られた信徒と聖徒の区別

 聖霊と聖徒:聖徒とはどのような人々か

 主の晩餐とは何か:キリストが定めた唯一の定日行事の意義




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8.信徒の務め

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
8. 信徒の務め


現状で考えられる「務め」と思える事柄を以下に列挙しておきます。


◆「愛の掟」

信徒の務めるべきことは、何を以っても「愛の掟」に尽きます。

そこから、様々な務めが派生することでしょうけれども、もっとも重要なことはその人の自発心、つまり「愛」からその務めが起こされることです。

 人を愛することは、わざわざ「親を敬え」や「不義を行うな」という規則を設けなくてもその人の内奥からその動機が湧いてくるでしょう。そのようにして愛を育て向上させてゆくことがキリストに倣うことであり、キリスト教徒と呼ばれるに値します。

 この世は、利得や法律の処罰という外からの要求によって人を動かそうとしますが、神の世の原動力は人の内面に働く「アガーペー」と呼ばれるキリストに倣う愛によるもので、外面と内面ほどにまったく異質なものです。

他方で、人類社会は、この「愛」の動機によって行動することに慣れていません。
正義を定めるのは法規であり、宗教では信者の生活を規定することで神の前に善と判断されるとしても、それは人間の観点のものに過ぎず、神は人の内面をご覧になると聖書が教える以上、人に見せるための善は神の前には意味を成しません。
そこで、神に近づきその道を歩もうとするなら、日々キリストの愛に倣うよう努める必要があります。

 その愛の務めは、その人の限界や能力に応じて与え、助け合い、喜ばせ、忍耐し、善を共に喜び、悲しみを共に分かつことを意味します。欲に動かされるこの世はいつしか終わっても、愛の行動原理は永遠に続くものとなるでしょう。(コリント第一13章)


また、神への愛は聖書に親しませ、より多くを知ろうとし、また人にもその教えを語り、内容を知らせたいと思うでしょう。

それは、良い評判を勝ち得て模範者となることを目的とするわけではなく、また、他の人と比べて自分を悦ぶのでもありません。常に自己の内奥の良心への問いであり、その絶えざる奉仕であって、これを誰かに誇るなら愛の動機は失われ、行ったことも色褪せることになるでしょう。
ただ、その喜びとするところは全体の益にあります。そこでは自分自身を愛することも含まれないわけではありません。即ち、自分を愛するように他の人々をも愛するということです。(マタイ7:12)

 万一、道徳性が低く、エクレシアのコミュニティを害する危険がある場合には、その信徒の認識は「愛の掟」を履行するまでに達していないと見做されるでしょう。
 このような場合に限り、エクレシアを監督するエピスコポスは他の役員の協力も仰ぎつつ、その信徒に一定の教条を課すこともあり得ますし、法を犯すほど著しい場合、外部の権力に委ねるべきこともあるでしょう。(テモテ第一1:8-11)

また、個人間の問題への対処については、マタイ18章にある解決法を採用するでしょう。



◆「神の安息」に入る

 モーセの律法下では、六日労働して七日目を休むという「安息日」としてそれは表現されていました。
つまり、神の創造の業が象徴的六日間で終了し、第七日を休んだことにちなむものですが、この第七日は現在も続いていることを新約聖書は教えています。

 しかし、キリストが律法を成就させて終わらせ、使徒パウロを通しこの安息日を不労働で過ごすことよりも重要な意味が指摘されました。それは「安息日」の示していた意義を知り、その精神に沿うことです。
 したがって、信徒が七日に一日の不労働を守ることにこだわる理由はありません。

 神の休みの意義は「自分の業を止め、神の安息に入る」というところにあります。
神の安息とは、ひとつには現状で人々が『顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る』という云わば「生きるために生きる」生活から精神的に自由にされ、神こそが必要な一切の供給者であることを認め、それぞれに相応しい範囲で金銭や利得を求めても、あくせくとはしない考え方をすることを意味します。むしろ、自分の状況に関わらず、神への感謝のうちに人に益を与える機会を求めるほどになれるでしょう。

 イエス・キリストは山上の垂訓の中で『何を食べるのか、何を着るのかと思い煩うな』と訓戒されました。このように自分の益に目ざといこの世に在っても、キリストの教えに則して、恰もアダムがエデンの園に居たときに似た自由さを心に抱くことは不可能ではありません。

 また、『神の休みに入る』人は、人間の正義を立証しようとする様々な務めから離れ、政治や宗教、またイデオロギーに関わって空しい活動に邁進することからも解放されます。
なぜなら、真の正義は神にだけ在り、どんな人の正義も不完全であり間違いを避けられず、真の正義とはなり得ないからです。

この点で『神の休みに入る』とは、自分を中心にした利己心から離れることも意味します。
つまり、「神は自分に何をしてくれるのか」と問うことを止め、「神が何をなさろうとしているのか」を求める信仰方式を受容れます。それはご利益信仰の利己心を去り、神の意志を求めて自己犠牲を完うされたキリストの精神に倣うものです。

 人間の正義のもたらす益は不確実ですが、神の正義がもたらすものは『神の王国』という人類の成し遂げられない膨大な益を人類のすべてに与えます。しかもそれは、すでに捧げられたキリストの犠牲によって実現することは間違いない状態に入っているのです。
 そこで、神の休みに入る人は、人の正義を満たそうとする様々な努力や争いの虚しさを見抜き、泰然として、すでに『神の王国』という休みに入っているかのように振舞うことができます。その中には、自分の信じる事柄を他者に強要しないことも含まれます。

 神の休みに入るには、信仰を必要とすることではありますが、このように「休み」に入る人は神に頼って生きるので、経済的にも思想的にも、また様々な生活上の争いからも解放されて、この世の生き方を後にすることができるのです。
 これこそ金銭によらずに様々な益を得られる、精神的に豊かて安寧な生活と言うことができるでしょう。

 このような信仰に近付くにしたがい、自分の人生をより良くすることよりも、神のご意志と協働したいと願うことでしょう。
それは、その人に利他的な資質を培わせ、金銭や欲のための奴隷のように生きることを防ぐ働きをするものと思われます。
 それは常に楽な道とはならないでしょうけれども、心に自由や愛を掲げることはできるでしょう。
それでも、その人がすでに善人として認められ、永遠の命に値すると見なされているわけではありませんが、そのような性質を望んでいることを示し、神の意図やキリストの精神に深い価値を認め、賛同しているのでそうすることでしょう。



◆公権力に対して

 公共の規則や法律については『上なる権威』である公権力を神に従属するものと看做せというパウロの教えに則して、従うことに努めます。

場合によっては、神への愛と人を愛することが競合することも起こりえます。それは倫理や一般道徳上の問題が絡む場合です。

例えれば、人に便宜を図ろうとしても、それが法に抵触するようなこともあるでしょう。
そこでも、『上なる権威』に従うというキリスト教の教えに従う決意が求められます。
 但し、どんな場合でも世の正義が正しく正義となるとはいえません。法律が普遍的正義を代表するものではなく、その「正しさ」は常に暫定的であり変化するものであることは留意されなくてはなりません。そこで個人の良心上の判断が求められることもあるでしょう。

 逆に公権力が信徒に神への愛に反する行いを要求することがあるなら、「人間より神に従う」という原則に立つ決意を尽くす必要も生じるでしょうけれども、それは極めて稀なことでしょう。

 また、信徒の間は平和が保たれることが望ましく、これを乱す争論や諍いはキリストの方式に則って迅速で丁寧に解決されるよう尽力しこれを軽視しません。万一、感情的しこりがどうしても残るなら、それぞれがしばらく離れる必要があるかも知れず、そこは将来の『贖罪』に預からない限りは消えない『罪』の影響の実在を認めねばならないこともあるでしょう。

そこでは、誰もが引き続きアダムの命にあり、「罪」が働くということを直視する必要は残っています。
ですから、様々な犯罪が犯されることがまったく避けられるわけではなく、ときに世俗の法の介入を必要とするところは一般の人々と変わりません。

ですが、そうしたことが奔放なこの世と同じように起こることはないでしょう。
このような倫理上の問題においても、最重要な資質はアガーペーであり、「正義」の履行ではありません。

「愛の掟」に従おうとしてもあるいは失敗したり、人から気付かされることや、勧告されなければ分からないこともあるかも知れませんが、様々な経験が加わると共に円熟性を増して、より練達したキリスト教徒となってゆくことでしょう。

このように、「愛の掟」ひとつでも聖書に通じ、神の特質を知るに従い信徒の進歩が見られるようになるでしょう。


◆集まり

また、こうした愛の業を高め励ますために信徒らが集まる、または会合することが有益であることは明らかで、パウロも『愛と優れた行いを鼓舞し合うために、集まりを続ける』ようにと勧告していますが、よりよく「愛の掟」を行う願いを持つことで、また他の仲間を愛することで、集まりへの出席に見られることでしょう。しかし、それを強要する必要はありません。

 集会は、聖書朗読と理解のための学習と祈り、また互いへの励ましのために行われるべきものです。
初代のキリスト教に倣う通常の集まりは、儀式や礼拝のためではなく、神への理解を深めるために学ぶ機会であり、愛の業を互いに励ますなどの目的に沿うものとなるべきでしょう。
 学習のための朗読は、通読を目的とせずに、一定の範囲を集中的に学ぶためのものとする方が得るものは大きいでしょう。
通読の奨励は、却って理解を妨げ兼ねません。

 神への賛美とは、(現在のところ)聖書を通じて神を知ることで、内心に起こる偉大さへの価値観や様々な感動言い表すことでしょう。このような賛美は儀式よりも価値があり、隣人を愛することは宗教上の優越感に勝ります。

 儀礼といえば「主の晩餐」と「浸礼」があるくらいで、役職任命の際に「按手」がなされます。
それらは表象であって「秘蹟」や「聖変化」のような神秘的事象ではありません。

 「祈り」は、神に語ることであると理解しますので、同じ内容の繰り返される「祈祷」や「まじない」のような儀礼は含まれません。

 この世に在っては、信仰や価値観を同じくする人々が共に学び、助け合いつつ神の業(経綸)に協働しようとすることには多くの利点があり、互いの理解や信仰を磨くことができます。

 このように努めることは、終末のキリストを迎え、「神の子たち」である聖徒の登場を待つという、「整えられた民」を形成する一員となり、神の栄光と人類の益に仕えることを大いに助けるものとなるでしょう。



◆職制

 各集まりはエクレシア(招会)であり、専任のエピスコポス(監督)が一名置かれます。
エピスコポスはエクレシアを教えることに責任を持ち、最終的意志決定を行い一致を図ります。
この職につく人に求められる資質は、教理を深く理解しそれを信じて行動できるところにあります。
また、独善的でなく、目立つことを望まず、人を鄭重に扱える人となりが必要でしょう。

 エピスコポスの下にはディアコノス(執事)が不定数任命され、実務に当たります。

 年長で、信仰に長い男子はプレスビュテロス(長老)として不定数が認証されます。
プレスビュテロイは年長者会議を持ち、エクレシアの運営に参画し、また助力します。
これらの年長者はエクレシアの必要の応じ、幾つかの専任の割り当てを受けるとき、ディアコノイを援助します。
この人々には、全体の益を中心に考えつつも、特に個人に辛抱強く慈愛ある関心を払うことができ、エクレシアの教育や牧羊にも貢献する資質が生かされることでしょう。

以上は、第二世紀の小アジアの職制に倣うものです。

 年長者会は議長を定期交代で勤め、できればそのようにして各自がその資質を向上させるよう機会を作ります。
議決権はエピスコポスとプレスビュテロイが有し、全会一致を目指しますが、ひとりでも強い反対がある場合には、他のエクレシアのエピスコポイ同士を交えた会合などを工夫できるでしょう。
また年長者会は、議長のほかに可能な限り最年長者一名を代表とします。
この代表者は人としての経験の長さからくる円熟性のゆえに、その意見が重んじられるでしょう。

 会議は集まりの前後などに定例会を行い、必要に応じて臨時会をエピスコポスまたは議長発案で開きます。
エピスコポスは原則的にこれらの会議に一員として参加します。
また、ディアコノイは招かれる場合に参加または傍聴を委嘱されます。

 会議では、古代の先例に努めて倣い、政治的また策略的手法を避けるべきでしょう。
もし、調和を著しく壊す会議参加者がある場合には、エピスコポスは訓戒を与えることが適当なこともあるでしょう。
プレスビュテロス一名はエピスコポスの不在の際に、その代行を果たすこともあるでしょう。
それは依頼によることも、また緊急なら年長者会の推薦から代行を受諾することも考えられます。

 これらの主要な勤めは可能な限り男子が任命され、その働きを実行します。
しかし、相応しい男子が居ないとエピスコポスが判断する場合には、資質を有すると看做される女性が幾つかの条件の下で用いられることもあります。但し、その人は以下のディアコノンとして任命された状態にある必要があります。

 ディアコノンと呼ばれる女性の職制をパウロが挙げていることから、この職については女性の特別の任命があります。上記の男子の職を代行する場合はディアコノンの任命を受け、その立場で代行の職を果たします。



◆宣教

加えて、「愛の掟」に沿ってあらゆる事柄で達成目標のようなものを原則的に設けませんが、キリスト教界の中で、この稀なる「新十四日派」の理解を絶やさず、むしろ広めるよう願うのは理に適ったことでしょう。

ことに、『霊と花嫁』つまり聖霊と聖徒は『来なさい!と言いつづける』と黙示録は伝えています。それに加えて『すべて聴く者も、来なさいと言いなさい』『誰でも来て命の水を飲みなさい』と書かれたからには、人々に命をもたらすことに貢献できるよう信徒すべてにとっても、この聖書理解を知らせようとすることは妨げられるべきものではなく、その精紳に従うものと云えます。但し、聖霊の無い段階では、宣教そのものが命を与えるのではなく、その機会を大きくするという以上のものではありません。

 それでも「新十四日派」には特徴となる幾つかの基本的理解があり、これらを基礎に派としての存在意義があります。
それらは、人に罪があり、キリストの犠牲による贖いを必要としていること、終末では見えないキリストに代り、聖霊が信仰の対象となること、聖霊を受ける「聖徒」が現れキリスト教が回復されること、聖霊の介在を通して世が裁かれること等が教えの根本に据えられ、これらが変えられることは、ほとんど考えられません。

また、基本的に、御利益信仰や、人間の願望を中心にした理解を離れ、神の視点を保つよう努めるところは、多くのキリスト教とも、様々な宗教の教えとも異なることでしょう。

 信徒の宣教については、できないところではなく、できるところから、また、何かを自ら工夫したり、機会を祈り求めて宣教を行うことは、誰もがすぐにでも始められることでしょう。
 聞く人々から疑問を唱えられることを恐れる必要はありません。その信徒の信じたことを信じたままに述べればよく、もしそこで間違いがあったなら、後に訂正すればよいのですし、その人は神の正義を代表するわけではありませんから、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。その方が「正しい」からです。

 「新十四日派」の教えの利点は、現実的価値観に合致しており、常に聖書記述を基に展開しているので、根本を理解すれば、それぞれの個人が聖書理解を深めてゆける融通性にあります。絶対的な教理は、聖霊の無い以上、誰も持ち得ないからです。
ですから、教理の細かいところまでを無理に統一する必要はありませんし、仔細を争論する必要もありません。

 福音宣明者フィリポがバプテスマを受けたばかりの宦官から引き上げられたように、求められもしないのに、手取り足取り「指導」し過ぎて、その人の信仰の主人となるべきではありません。

 また、ご利益信仰ではなく、キリストに似た公共益を願う人にこの宣教は向きますが、誰彼なく仲間を増やすことは人格面での玉石混淆を起こさせ、要らぬ問題を招くでしょう。「新十四日派」は仲間も愛することに心を傾けますが、人の増加よりも重要なのは、人の「動機」や教えの「教理」などの純粋性となるでしょう。

 「救い」は、すべての人が聖霊の言葉を聞く時に、心を頑なにせず、神とキリストの王国に希望を置き、聖なる者たちを支持することによりますから、仲間にならなければ救われないわけではないことを理解しているので、「救うために」入信させなければならないわけではありません。

 それで、宣教の主目的は、帰依者を増やすより、この世やキリスト教界において誤解されている「神の王国」や「裁き」について、自分の理解していることを広く「知らせること」にあります。また、メンバーでない人々がこの教理を扱い、宣伝することを留める必要もありません。また、反対する人であっても、結果的にこちらの理解を広める助け手となるでしょう。

 宣教に当たって私共は、その主張する教理がまったく正しく、他の宗派にあらゆることで優越するとは考えません。
それは、より正確さを求めるところからの蓋然性の追求であって、神の霊感や聖霊を受けたわけではないからです。
そのため間違いは避けられず、訂正も必要とする人間の業なので、前述の「教理控制」という制約により、教理が絶対視されることを防ぎます。

 したがって、私共が宣教に当たって他宗派をまったくの「邪教」の信者のように看做したりはしません。いずれの教えにも大なり小なりの間違いは避けられないからであり、私共もまたそのようです。
 そこでは、可能な限り論争や敵意を避ける必要が生じます。議論に勝ってもキリスト教徒としては負けることのないためです。

 この点で、ほとんどのキリスト教は、新十四日派の一式の教理とは基礎の認識が異なっていますので、意見の交換という形を保ち、争論にならないよう留意する必要もあるでしょう。
 万一、新十四日派より信じられる優れた教理に出合う場合、この派を離れるも自由です。ただ、その事を伝えてから離れるのが賢明でしょう。それを仲間に伝えることも構わないばかりか、その教えを派として考慮に加えることさえ考えられます。

しかし将来、誰かに聖霊が注がれたことがはっきりするなら、そこに真実の知識が生じるので、そのときには明確に何が正しいかを述べるべき時となります。
 そのときまでは、より良い教えを尋ねて『求め続け、敲き続け』、価値観と理性を根拠に、叶う限り、教えを研ぎ澄ませて参ります。



◆バプテスマ(参入儀礼)

 バプテスマとは、人間共通の「罪」を認めで悔い改め、イエスを神に遣わされたキリストと信じ、神の人間救済の業がキリスト・イエスに託されたと認めるので、自らの希望をキリストの為すままに委ねることを示す儀礼です。それは「ゴール」ではなく「スタート」を意味します。

 確かに信仰は救いに不可欠なものですが、信仰やバプテスマが救いの保証ではありません。
信徒であってもなくても、人はキリストの帰還のときの裁きを経ることに変わりはありません。
救いは信徒になることで得られるのではなく、これから現れる聖徒を支持するか否かに関わります。 

 それでも、バプテスマを受けることは、神の救いの業の知識を得て自らの内に宿る「罪」を認め、その「罪」ある状態を望んではおらず、神の救済の御旨とキリストの贖いと聖霊の発言に信仰を示すことであり、また、何事にも利己心を抑えて『神に清い良心を願い求め』、隣人に愛ある善意を施し、信仰の仲間を持って助け合うことに意義があります。それはキリストの帰還にその人を備えるものとなるでしょう。

 したがって、「神と子と聖霊の名による水のバプテスマ」を受ける人は、基本的な教理を得心しており、人間共通の「罪」を認めて自分の義を立てることを止め、利己心に歩むことから離れ、わたしたちの為に死んだ方の利他性に沿って生きる願いを表すことになります。
バプテスマがどんな人間でも組織でもなく、神と子と聖霊とに信を置いて自身を委ねることであると理解していることが相応しいでしょう。

 それはひとつの宗派や教団に属することを意味するのではなく、本人と神の関係を表すものです。
そこで十四日派では、他のどんな宗派でどのようにバプテスマを受けたかに関わりなく、それが本人の得心できるバプテスマであったのでしたら、それを尊重し有効とみなします。それは本人以外の誰も取り消されるものではないでしょう。

バプテスマは、浸礼の形が最も相応しく、可能であれば水に浸すバプテスマ(浸すこと)が薦められますが、古代に則り、事情によっては滴礼なども否定するものではありません。受浸後の塗油や洗足についての必要はないでしょうが、禁じる理由は今のところありません。しかし、何にせよ、儀式は凝り始めるとたいていは良い方向に進まないものです。
 この水の儀礼は神秘的な奇蹟ではありませんが、個人として神に覚えられる記念となるでしょう。しかし、より重要な意義は、神の御前に、キリストの贖いを必要とする罪人であることをその人自身が認めたところにあります。これを神が見逃すことはけっしてないでしょう。



◆「主の晩餐」

 これは主イエス・キリストの「死」を宣れ告げる年一回の行事であり、主の「復活」を祝うグレコ=ローマン型キリスト教とはまったく性質を異にするもので、十四日派の「主の晩餐」は厳粛なものであり一切慶事の扱いはしません。

 キリストの死には、人類の「罪」の贖い代が供えられたばかりでなく、より重要なことに、死に至るまでの忠節によって神の神性が立証され、サタンの裁きの根拠が置かれました。その結果、それまでの預言がすべて成就する道が拓かれ、創造界全体が神の意図に従って調和を得る礎が据えられました。

 キリストの死には、このように重く多様な意義が集中しており、如何に復活が奇跡であるとしても、その死の崇高さにはとても及ぶものではありません。

 コンスタンティヌス以来、ヘブライの教えを離れたキリスト教は、この理解の欠如により、目出度い「復活」という一般的な祝い事に入れ替えてしまい、そこに異教の女神イシュタルの祭事を取り入れるなどして、今日まで大きく「主の晩餐」を誤解してきました。

しかし、こうしたグレコ=ローマン化せずに、しばらくの期間古来の「主の晩餐」を行っていたのが、最後の使徒ヨハネの指導した小アジア地方のキリスト教徒であり、彼らは「十四日派」(クワルトデキマーニ)と呼ばれました。

 そこで新十四日派は、その先人たちに倣い、第四世紀のニケアー会議からのグレコ=ローマン型ではなく、より古い西暦第二世紀に遡ったキリスト教を回復しつつ「主の晩餐」を行おうとするものです。

 その日付は小アジアの十四日派の習慣に則り、ユダヤ人がニサン15日に「過ぎ越し」(ペサハ)に入る陰暦一日前(の日没後)に行うものとします。
 第二世紀の十四日派の人物、エフェソスのポリュクラテースの言葉に従い、それは天文の計算によらずユダヤ人の祭りに一日違いで寄り添うものとしますので、主の晩餐の夜は常にユダヤ暦のニサン月14日の夜となります。その晩はキリストの公生涯最後の夜であり、イスラエル民族がエジプトで過ごした最後の夜でもありました。

 そこでイエスは、それまでユダヤで行われてきた出エジプトを記念する食事儀式を、ご自分の死の門出を記念する食事儀礼に換えられました。
 それが無酵母パンとぶどう酒のみによる会食儀礼であり、イエスを仲介者とした弟子たちの『新しい契約』が関わっています。
 その食事に与ったのは十二使徒だけでしたが、その後「約束の聖霊」が下賜されるにおよび、『新しい契約』に参与する弟子は増え、彼らは引き続き年毎の「主の晩餐」で無酵母パンとぶどう酒に与ってきました。

 現在は「約束の聖霊」を有する人が存在しないため、表象である無酵母パンとぶどう酒を受ける者は居ないので、これらの物品は陳列されても飲食されません。

しかし、将来に正しく聖霊の顕現を有する信徒が現れるときには、その人の表象物に与る様を見ることができ、それは久しく続いた「新しい契約」の与る「聖徒」の不在の終了が印付けられ、且つ、キリストの臨御(パルーシア)が開始されていることの証拠となり、この世は終末に入ったことになります。

 これはきわめて重要な儀式であり、キリストの死の意義を回想し、参加者が信仰を抱いて次の新たな展開を待ち望む姿勢を示すものとなることでしょう。






バプテスマの意義


初代キリスト教徒の時代











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