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「新十四日派」について

2012.08.18 (Sat)

新十四日派の概要 ⇒ 要諦


◆基本信条[Σύμβολο της Πίστεως]
新十四日派は

・ローマ国教化後のギリシア=ローマ型を去って、ヘブライ由来の原始キリスト教を探ります。

・自分が救いを一旦差し置いてキリスト教を探求します。

・創造者が神として全創造物の上に高められることを最も重要な事と見做します。

・それは神が主権を持って支配するためでなく、神の象りが自由を得るべき倫理の完成のためです。

・人間が創造された神の企図に復帰し、創造界が再び調和を得ることを神の意志と認識します。

・その結果として人は神との絆を回復し、愛する隣人を初めて見出します。

・この目的のために創造者は行動してこられ、その過程が聖書に記されてきました。

・アダムの子孫であるすべての人間には倫理的欠陥である「罪」があります。

・この「罪」とは各個人の犯す個別の悪行を意味しません。

・「この世」は創造者の意志から逸脱していて「罪」の結果である貪欲が動かしています。

・人は、誰も善行や道徳性によって「罪」を逃れることはできません。

・そこで「この世」では法と権力が避けられません。

・キリストは「罪」を贖い、人々を神の創造された倫理状態に引き上げる「救い」を行われます。

・「罪」の対極にあるのは「愛」であり、完全な愛は法と権力の強制を無用にします。

・キリストが体現した究極的な愛は、倫理上の完全性を人にもたらします。

・信仰は忠節で普遍な愛を動機とするもので、愛は信仰に優ります。

・キリストの戻られる「終末」での拠り所は「聖霊」であり、将来のその働きへの理解を鮮明に保ちます。

・神は終末に再び「聖霊」を注ぎ、ある人々を「聖徒」に任じて「神の王国」と「裁き」を世に通告します。

・「信仰」とは、偉大な価値と神の力量への信頼を持ち、自らも忠節であることを意味します。

・キリスト教信仰とは、神が創造者でありキリストが仲介者であり聖霊が両者の意向の働きを担う事を信じることです。

・聖書は第二世紀までに二度目に書き終えられ、以後「聖霊」と神の名の発音は地上から去りました。

・聖霊の無い間は、聖書の中だけに真実のキリスト教の姿を見ます。

・真正なキリスト教とその崇拝を回復することは、人間にできることではありません。

・聖書に従えば神の是認を得るわけではなく、逆の結果を刈り取った例が多くあります。

・聖書の単語や文法に拘ることが教理を導くわけでもありません。

・人間に聖書のすべては理解できませんし、自己正当化の具、また偶像視するべきでもありません。

・聖書に理解されるべき事柄が網羅されているわけではなく、語られていない重要な事柄もあります。

・キリストは『王権を得る旅』に出られ、現在までこの世に対して不在となっています。

・当派は、第二世紀の小アジアのキリスト教「十四日派」を範とするキリスト教を標榜します。

・ユダヤ人の無酵母パンの初日の前夜をニサン十四日の開始と定め「主の晩餐」を挙行します。

・聖霊は切に願い求められるべきもので、自動的な時間経過を待つものではありません。

・エデンの園で知らされた『女の裔』が、『世の光』と呼ばれる人類救済の手段であると認識します。

・キリストと「聖徒たち」とがエデンの園で語られた「女の裔」であると見做します。

・聖霊が、真理や神の名を知らせ、聖徒を指し示し、終末にキリスト教を浄めるものと理解します。

・「女の裔」の継承は、キリスト後にユダヤ民族を去り、水と霊から生まれる『神のイスラエル』に移りました。

・聖書の大半が契約にある者に対して語られており、今日の読者すべては契約の対象外にあります。

・契約外で信仰持つ人々に語られた聖書の部分もあり、彼らは『シオン』また『女』とされています。

・『シオン』また『女』は終末のすこし以前から活動を始め、聖徒たちを迎えます。

・『シオン』また『女』は聖徒たちよりも大きい集団を構成し、そこに更に多くの諸国民が向かいます。

・真実のキリスト教の救いは信者のための内向きのものではなく、聖霊に信仰を抱く可能性を持つあらゆる人々に広げられるものです。

・「神の王国」が実際の支配となりキリストの「臨御」の後に千年続くものと信じます。

・聖霊降下による聖徒の出現が、「終末」に入ったことの真の印であると解します。

・為政者への聖霊の発言への反応で人々は分けられ、キリストによって終末の世は裁かれます。

・人が救いを得るかどうかは、聖霊に対する信仰と聖徒への行動によって決まります。

・キリストは「雲と共に来る」ので、裁きの為にもその姿を人が見ることはありません。

・裁きの最終的な時期に神とキリストの力が表明されることを通し、人々は「キリストを見」ます。

・聖徒たちが天に召集されて「神の王国」が実現します。信じた者たちは地を拝受します。

・千年王国は、聖徒の天への復活と全ての人々の地への復活との間を分かつものとなります。

・キリストと聖徒たちは「王なる祭司、聖なる国民」となって人類を「罪」から救います。

・千年の後で、死人のすべてが「罪」の無い状態で復活し、最後の一度の裁きに臨みます。

・千年王国の後に中傷者も復し、神ご自身による最終的な裁きがすべての創造物に臨みます。

・中傷者の恒久の滅びは、裁きの完了と罪や死の永久の無存在をもたらします。

・千年後の神自らの裁きによって、世界は創造で意図された状態に復され、政治と宗教は終わります。

・政治は現在は必要であっても神との敵対に至り兼ねないので、深く関わることを避けるよう努めます。

・信徒は貪欲を去って愛を求め「愛の掟」を最大の規範とし、他には規則や戒律を設けぬよう努めます。

・自らの義を捨て「神の安息」に入り、「この世」の争いや虚しさから距離を置いた生活に努めます。

・自派の教理も立場も無謬ではないことを認め、他者への優越感や敵意を避けます。

・聖書は神の働きの記録ではあっても、神の働きそのものではなく、偶像化されるべきでありません。

・キリスト教は個人の信仰であり、社会で信仰するものではありません。

・信徒は、思想信条の異なる他者との社会や生活を想定し、可能な善意を以って対処します。

・未信者はもとより互いに、またどの宗派の方にでも望む方に聖書研究を助けるよう努めます。

・その目的は、仲間の信徒を作るためでなく、共に終末に心を整える人々となるためです。

・終末の裁きまでは、誰もが『罪』を負うことでは変わりません。

・教理の知識が人に救いをもたらすわけではなく、逆に作用する事もあります。

・信仰内容は、習熟によっても、思考方法によっても、誰もがまったく同じものとはなりません。

・聖霊の降らない限り、誰も神の是認の下に在るとは見做しません。

・神は存在するようになったあらゆる魂を所有され顧みられます。

・神は贅沢や気ままな願いを聞くことはありませんが、あらゆる魂の渇望を聞かれることを理解します。

・聖徒らの神の経綸に関わる祈りには、異例な反応が期待されます。

・聖霊の再降下を祈り求めるのは、利己心からではなく、自他すべての幸いを願うからです。

・そこで、信仰内容に幾分かの相違がある信徒も容認されるべきところもあります。

・信仰する動機や価値観や倫理性欠如による混乱、基礎合意に反する場合、上の限りではありません。

・信仰を抱くに当たり求められるのは価値観であり、知識に依るよりも個人の倫理の問題となります。

・努めて聖書と周辺の資料を研究し、個人の認識を高め、自己判断を行い大衆化を避けます。

・信徒は『シオン』また『女』と呼ばれる集団を構成することを目指します。

・神の観点を持つよう努め、自己義認や人間中心主義、またご利益信仰を避けます。

・信仰と生活のバランスを重視し、狂信と大衆化を避け、教養と良識ある信仰者を目指します。

・個人の良心的決定、また個性や才能を互いに尊重し、愛に基く優れた資質を伸ばすように評価し合います。

・互いの間に問題が生じた場合には、権威によらずアガペーを理念として解決に努めます。

・それでも理想主義だけで『罪』ある人をすべて扱えないことを認め、必要に応じ内外に対策も講じます。

・神の意志に反する場合を除き、公の法から逸脱のないよう努め、害ある事柄は法に委ねます。

・この信仰を放棄すること、派から離脱するのは随時自由ですが、その旨通知されることを期待します。

・この派に所属することが救いを意味するとは限りません。脱退者も一般人と共に希望を維持します。

・但し、『背教』に相当する裏切りを意図する場合は、必ずしもその限りとは言えません。

・当派は将来、聖徒となる人々からの聖霊の声に従い、人間由来のこの「派」としての役割を終えます。

・もし、当派が聖徒を生み出す『シオン』また『女』とされるなら、その後の新たな展開が始まるでしょう。


⇒ 「新十四日派」の特長と要諦


◆小アジアで完成されたキリスト教
 十二使徒の最年少で最後に残されたヨハネは、エルサレムの滅びを逃れた後、主の母を伴い小アジアのエフェソスに腰を落ち着けましたが、西暦第二世紀に入る頃、ドミティアヌス帝の迫害を受けて、多島海の小島パトモスに数年の流刑に処されました。この最後の使徒は、ドミティアヌスが暗殺されて後、恩赦を受けてエフェソスに帰還を果たしトラヤヌス帝の治世まで生存したと伝えられています。

 エフェソスやスミュルナをはじめ、その周辺の諸都市がこの使徒の薫陶を受けていたことは、黙示録の七つのエクレシアへの主の言葉からも明らかで、その他の資料も使徒ヨハネの教えが小アジアにあったことを述べています。

 この時期のキリスト教は、既にパウロもペテロをはじめとする十二使徒も亡くし、主の兄弟ヤコブたちも眠りに就いていて、聖霊による主の監臨は続いていても、キリスト教の理解の進展の望めるところは、このヨハネの許だけとなっていたと言ってよいでしょう。
使徒ヨハネに臨んだ聖霊による理解が、奥義の家令パウロと双璧を成すほどに高いものであったことは、その名による著作に明らかです。

 それは聖書中の黙示録とヨハネ福音書、そして書簡が彼の晩年に至って書かれたことが物語っています。

 ヨハネの影響の臨んだ小アジアの地域には、周囲に見られない教えの特徴がありました。
そのひとつが黙示録にある「千年王国」であり、もうひとつにはユダヤの過ぎ越しの前日に合わせた「主の晩餐」が挙げられます。

◆ニサン14日遵守
殊に、使徒ヨハネによって聖書の最終部分が書き終えられた西暦第二世紀に入って以降、小アジアのキリスト教徒の多くは、外部から「十四日派」と呼ばれるようになりました。

それは、毎年ユダヤ暦ニサン月14日の晩にキリストが命じた「主の晩餐」と呼ばれる儀式を、ミサや昼に行う聖餐式ではなしに行うところから付けられた名称です。その名称そのものは、彼らの周囲のキリスト教徒が「聖餐」をユダヤの過ぎ越しの日付ではなく、その後の日曜日に「復活」を祝う行事として変更していたことを示すものでもあります。

ですが、「主の晩餐」について使徒パウロは『主の死を告げ知らせる』ものであることを記しており、それは復活の祝いではなく、崇高な主の死を追想するものであるべきでした。

現在のユダヤ教徒は、ニサン15日に過ぎ越しの食事をとりますが、これはキリストの時代から変わりなく継承しています。
ですが、この一日のずれによって、キリスト・イエスが正しくニサン14日に犠牲となる道が拓かれました。


◆聖霊を通した指導
聖霊は、それを受けた人々がキリストと共になる「聖徒」であることを証しただけでなく、聖徒がイスラエルからだけでなく諸国民からも一定数が選ばれるよう、初代の弟子たちを導きました。
それは、キリスト後に地上に残った使徒たちの一大事業であったということができます。

また、小アジア地方のキリスト教徒は最後の使徒ヨハネの指導を受けたので、初代キリスト教徒に注がれた聖霊を通した教えを最後まで受けた人々でありました。

彼らはヨハネの福音書や書簡、また黙示録の担い手であり、新約聖書の最後を占めるこれらキリスト教の教えの最後の展開を授かった人々でもあります。

ヨハネ黙示録にだけ書かれた「神の王国」が千年続くこと、またそれがこの世の支配を実際に受け継ぐものであることをこの人々は理解していましたが、それは他の地域のキリスト教徒に受け入れられたとは言い難いところがあります。殊に、シリア系の異邦人主体のキリスト教は黙示録を排斥する姿勢が強く、当初はこの書を聖書から排除したほどでした。

第四世紀に至ってアウグスティヌスのように影響力の大きい教父たちは、「千年紀」を伴う実際の『神の王国』の出現を否定し、それ以前の小アジアの教父たちの教えを退け、その写本に手心を加えることまでも行い、千年紀信仰をもみ消しました。

第四世紀325年にはローマ皇帝コンスタンティヌスはニケアーの宗教会議を主宰し、キリスト教指導者でもないこの皇帝が裁可を下して、小アジアのキリスト教はほとんど否定されました。
341年のアンティオケア会議で、遂に「十四日派」も異端の烙印が押されて以降、この派は衰退し、数百年を経て、中世の暗闇の中に消滅してゆきました。


このように、西暦第二世紀の小アジアに存在していたキリスト教の特徴に、年に一度ニサン月14日の「主の晩餐」の遵守と、黙示録を擁護し「王国」の千年支配の信仰することの二つを挙げることができます。

また、ヨハネの当時の弟子たちの中には、減少しつつあったとはいえ、「聖霊の賜物」を有する人々が残されていた様がヨハネの書簡にも覗えます。また、当時を知らせる多くの資料は、西暦第二世紀には依然「聖霊の賜物」を有する人々が生存していたことが伝えられています。これについてはアウグスティヌスも認めざるを得ませんでした。
カトリックが今日でも「聖人」に列するに当たり、その人物が複数の奇跡を行ったことを条件にするところに、古代の聖霊の賜物ある人々の痕跡が見られます。つまり、「聖なる者」と「奇跡の業」は深く関係していたのです。

◆主と聖霊の不在(アプーシア)
その第二世紀の人々を最後として、聖霊を通したキリストの監臨は終わり、主は「王権領受の旅」に出立されたのでしょう。この間の聖霊降下によるキリストの指導の時代はおよそ百年間であったと思われます。
その後、今日まで千八百年近く主の不在と聖霊の無い時代が過ぎ去って参りました。

かつて神は預言者マラキを最後にバプテストのヨハネまで、およそ四百年の間、霊感を誰にも与えず、沈黙して来られましたが、キリストの使徒後からおよそ千八百年の間、正しく聖霊を受けた人を世界は見ていません。
それは、神が終末でもない時代に不必要なことをなさらなかったからでしょう。

しかし将来に、帰還となる王の『臨御』(パルーシア)が始まり、再び弟子らへの聖霊の注ぎが行われ、彼らはキリストの代理発言者『聖なる者』となります。
キリストはこの人々を通して純正なキリスト教を回復され、宗教やイデオロギーに関わらずあらゆる立場の人々が、浄められたキリスト教に信仰を働かせて流れのように集まってくることでしょう。

聖なる者らが選ばれることの目的は、為政者の前で『神の王国』の王であるキリストに支配を委ねるよう聖霊の言葉によって勧告を加え、神の名を知らせ、その証人となります。また、世界に対してキリストの帰還と、人々から「罪」を除いて祝福する『神の王国』の到来を広く知らせることにあります。
この聖霊の発言を以って、世界は間違いなく「終末」に入ったことが印付けられるでしょう。


◆聖霊と聖徒の待望
「新十四日派」は、使徒ヨハネによって小アジアでキリスト教が完成され、西暦第二世紀のその後の数十年の期間に亘ってその地で『純粋な時代』*を保ったと見做し、これらの特徴を基礎に据えたうえで、現代までの研究成果を踏まえ、様々な証拠の蓋然性の追求によって教理を探りながら、次なる聖霊降下による「聖徒」の到来、そして主の臨御の始まりを待つものです。 *(第二世紀後半エフェソスのエピスコポスであったポリュクラテスの言葉)

それは、キリストの臨御に対して『整えられた民』を準備し、また、王権を得るキリストを真実に『王の王、主の主』として迎えるシュロの葉を手に栄光を讃える人々の注意を予め喚起すること、また聖霊を注がれる弟子たちの到来のときに、その人々に教えを委ねて、「新十四日派」としての働きを終了することになるでしょう。

その後は、聖霊を受ける『聖徒』たちが聖霊を通して教えるので、キリスト教には原初の正統さと純正さが「回復」されるばかりか、人々の救いとなる「神名」が知らされ、加えて新たな教えも展開されることでしょう。
世界中の人々は聖徒の聖霊の声を聴き、その奇跡の業を見て信仰を働かせ、象徴的なひとつの地所『シオン』に『流れのように向かう』ことでしょう。

このキリストの『臨御』という終末の出来事が起こるまで、新十四日派はニサン14日の「主の晩餐」を護持し、「千年王国」に先立って不可視性の『雲のうちに』帰還なさる主キリストと、その『大使』となる聖徒の選出による出現を待ち続けるものとなります。「終末」は何十年も続くものではなく、おそらくは「聖徒」の現れから十年もかからずに「この世」は終局に至るでしょう。

これらは神の偉大な計画(経綸)の一部を成すものであり、最終的な目的は、創造者が神として高められ、キリストの仲介により神と人を隔てる人間の「罪」が除かれ、全創造物が創造者の意図するところとなることです。



 ⇒ 新十四日派の基礎的教理






◆「新十四日派」の教理の特徴


全体を支える四つの特徴的教理があります。
現在それは「原罪論」「聖霊論」「回復論」の三本の教理の柱であり、他に「教理の教理」とも言える「教理控制」の併せて四つが挙げられます。詳しくは、以下の各項目をクリックしてご覧ください。


1.原罪論 
人間の「罪」のために間違いの無い真理も正義も人間にはありません。人間の争う理由、加えて宗教と政治の存在理由がここから導かれます。人はこの「罪」から逃れない限り、貪欲の支配し、苦しみ満ちる「この世」から逃れられないでしょう。キリストの贖いの犠牲はこの「罪」の相殺をもたらし神と人との和解に至らせます。その和解が聖書全巻を貫く主題となっていることに新十四日派は人々の注意を喚起します。また、この理解から、「罪」ある現状にある以上、人は互いの外見によって内面を裁けないことも理解します。


2.聖霊論 
人間の罪のために、神と人との間には障碍となる壁があり、人間の側から神に近づくことも神を知ることも出来ません。そこで神は聖霊を通してそれらを教示されました。終末に聖霊はかつてない仕方で活動することでしょう。
また、イエスの時と同様に、「聖霊」は人類の「裁き」にも深く関わることになります。
聖霊が注がれるのは限られた人々であり、その人たちは先立って贖われ、信仰による義を得て、キリストと共に「神の王国」を構成することになります。新十四日派は「聖霊」の教理を純化し、あらゆる人間の努力や業や思い込みを去って、完く神の介入を待つという信仰を基本とするものです。

 
3.回復論 
この「回復」とは、将来の聖霊の再降下によってキリスト教が正され浄められることを云います。聖霊が特定の人々に再び注がれるようになると、真実のキリスト教がもたらされ、神の名をもって王国の到来とキリストの臨御が宣告されます。世の多くの人々があらゆる宗教やイデオロギーを去って清められ、流れのように回復されたキリスト教に向かうことになるでしょう。
そこは「シオン」と呼ばれる人々の集まりとなり、全地の裁きに際して、聖霊の言葉に信仰を表して聖徒を支持するあらゆる人々がそこに向かい、反対する勢力がその人々を攻撃する時に、神YHWHはキリストに王権を与えてその象徴的地所「シオン」を守らせます。


4.教理控制
これは聖霊降下の無い間の教理の暴走を抑え、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないため、また他宗派との争いを避けるための策で、教理そのものに抑制をかける「教理の教理」のような働きをします。また、教理の更新を自在にし、理解の進展や向上においても、この教理の制約は非常に効果的に補助します。そして、教理を信仰するのではなく、神を信仰し待つ態度を培わせるものともなるでしょう。加えて、教理を理解し納得することがそのまま信仰となるわけでなく、教理を信じることで救いを得るわけでもないことも銘記させます。






 新十四日派のより先進的理解





1.原罪論

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
1.原罪論 

人間の争う理由、加えて宗教と政治の存在理由が導かれます。


 人間はみなが倫理的欠陥を抱えていて、それが世界に争いと敵意をもたらしています。

 この倫理的欠陥は聖書で「罪」と呼ばれており、アダムから遺伝しているのでこれを免れる人はいません。

 人類はこれから逃れない限り、争いと敵意、またそこから出る奪い合いや中傷や搾取や欺瞞など、あらゆる悪から逃れることができません。

政治の由来
 人々は互いの貪欲を牽制し合いながら生きる方法を、自らの必要に迫られて造り上げました。

 それが政治であり、これは互いの欲望の調停また規制するためのものであり、有無を言わさぬ権力(暴力)を基礎とし、通貨を流通させ、「罪」ある者でも何とか互いに秩序を保てるようにと作った、「罪」への応急処置法のひとつです。

 わたしたち人間は、互いに助け合うことが出来る一方で、互いを警戒し警察や軍隊などの暴力の保護を必要とすることにおいて倫理的欠陥が現れています。

 この「罪」は、神が人間を創造した本来の基準に及ばないので、「罪」は人間と神との間に壁のようになって、そこには断絶があり、人間は神に創造されたままの「神の子」となっていません。

宗教の由来
 そのため、人間は神についてはもちろん、人間自身についても真相を知ることが出来ません。
 そこで、自分たちがなぜ存在するのかを含めて、様々な問いに対する答えは人間のうちにないので、人間以上の源に尋ねようとします。この人間以上の源への問いがある以上、そこに宗教の必要があってそれは絶えないでしょう。


「罪」を除くことは人間自身にはできません。
それで、人間はずっと争いや犯罪を繰り返してきましたし、「罪」ある限りこの状況から逃れる術はありません。
政治は暴力という「罪」に対する不完全な対処法を用いざるを得ず、間違いのない政治も司法もありませんから、これからも倫理的に混沌とした社会を続けるでしょう。

また、神との間に「罪」が障碍として存在し続けるので、人間の能力では宗教上の真実を知ることが限られており、そのため、自分は正しいとして譲らない様々な宗教を乱立させている状況もしばらくは続くことでしょう。

しかし、神は倫理的欠陥のない、自らのひとり子を仲介者として人間の「罪」を除くよう取り計らわれました。
その方法は、まずひとり子はご自分の命(魂)を差し出して、アダムの持っていた欠陥のない命(魂)の代わりとし、人類がアダムの命によらず、み子自身の命によって生きるようにすること。これは「贖い」(あがない)と呼ばれます。

人々はキリストの命によって生き、欲ではなく愛によって生活するよう、新しい社会が与えられます。それは欲が支配する人間社会とはまったく異なる社会となりますが、このような愛の社会こそ、神が創造に際して意図したものでした。

神のひとり子によって宗教も清められ、人はアダムがそうであったように、神と直接に意思を通わせることができるようになり、一切の組織宗教も礼拝も必要が無くなります。

これらの事柄は「神の王国」の支配を人類にもたらすことで成し遂げられます。
そのため、旧来の人間支配は神の支配の到来に対抗する結果、自ら退かざるを得なくなることが予告されています。

この「王国」が、人類の「罪」に対する根本治療となり得るものであって、人間にはこれを行うことができません。

神の王国の「王の王」は復活したキリストであり、現在は人間社会に王となって臨もうとする時を待っています。
そのようにして、王キリストが人間社会に再び関わり始めることは「臨御」(りんぎょ[パルーシア])と呼ばれます。


聖霊論へ

 予備資料
 「人はなぜ傷つきながらも政治と宗教を存続させるのか」


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2.聖霊論

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
2.聖霊論 

「聖霊」に関する理解はキリスト教界で重要なものとされる反面、混乱も招いています。
その原因は、今日では「聖霊」というものの実体を古代のように捉える事が出来ないところにあります。

今日でも「異言」をはじめとする第一世紀の使徒時代と同様の奇跡の力を持っていると唱える宗派もあれば、コリント第一13:8の『異言も廃される』というパウロの言葉などを根拠に、奇跡の賜物は過去のものになったとし、現に他宗派で為される異言などの奇跡は、他のからの源、つまりは悪霊の影響であるとする宗派もまた少なくありません。

聖霊の奇跡の力は過去のものとなったと主張する宗派でも、使徒2:38の『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』というペテロの言葉をそのままに信じて、信者になれば「聖霊」を受け取れるものと考えられています。
その聖霊は、その人の中にキリストを住まわせるものとなり、その人を導くものとなるとも、また、聖霊はその人の良心のようになり、それに従うなら罪の宣告を免れて救われるとも言われます。

では、聖書の全体を、つまり新約聖書だけでなく、旧約聖書を含んで俯瞰する場合に、聖霊と呼ばれるものがどのように観察されるでしょうか?
そこでまず、神の霊による働きの実例を見る必要があります。


まず、霊は天地創造において用いられており、地の塵から造られたアダムを生きたものとしています。神は『命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きた者となった。』とあり、以後の聖書記述に於いての『息』や『風』は、『霊』との関連性を持ったものとして繰り返されます。(創世記1:2/2:7[息=霊=風])

『霊』は測定のできないものながら、人間の中でその生命活動に欠くことのできない力を与えているので、人が死ぬと『霊は抜けて神の許に集められます』(伝道12:7)但し、これは人の「霊魂」という日本語の概念とは異なっていて、死は思考の一切の停止を伴うものであり、感覚もないので(伝道9:5-6)人の死後には何の意識も残らないものとして聖書は述べます。人間の死の後には復活が待たれるのであり、「霊界」のようなものは聖書本来の概念ではありません。
生けるものの中で働く霊は、人を生かすという最も基本的な働きを為しています。これは神からの『肉なるものの霊』と呼ばれていて、動物にも存在します。(民数16:22/27:16/伝道3:19-21)

一方、聖霊は預言者たちなど特定の人々に神からの情報や知識を与えてきました。
かつてモーセをはじめとする預言者たちは聖霊を通し、聴く人々に神の言葉や教えを伝えました。
また、多くの詩篇を詠んだダヴィデ王も、聖霊によって語ったと述べます。(サムエル第二23:2)
聖書が聖なるものである由縁も、こうした聖霊の導きの下に書かれた著作の集大成であるからであって、もし、これが単なる人間の知恵の所産であれば「聖書」というその名は似つかわしいものとはなりません。(イザヤ34:16)

聖霊はサムソンのような人に奇跡の怪力をもたらし、預言者には神からの言葉を与え、あるいは癒しを行わせ、夢や幻で人を導き、神の知識を与えてきました。(申命記34:2/士師記3:10/歴代第二20:14/エゼキエル8:3)
これが、単に生物を生かすという基礎的な「霊」より高度な聖霊の役割と言えるでしょう。

いずれの場合にも、神の意志を行うための力を及ぼすのが聖なる霊であり、奇跡について聖書は「神の指」また「腕」という呼び方をしています。すなわち、電力のように離れた事柄で多用に働くものの、キリストのような人格を持たない神の「御手」と呼ぶものと言えます。(出埃8:19/13:9/ルカ11:20/使徒4:30)



◆贖罪によって与えられる新たな聖霊

しかし、この高次な聖霊の働きもキリストの後からは、更に大きく次元上昇します。それはまさに革新的な変化であったといえます。
それが「聖霊の賜物」と呼ばれる、あの五旬節の日からキリストの弟子たちに与えられた格別の聖霊を指します。
使徒ヨハネは、そのような霊はキリストの犠牲によって始めて備えられたことを証しして、『キリストが栄光を受ける以前であったので、霊はまだ無かった』と述べています。(ヨエル2:23/使徒2:16-21/コリント第一14:1/ヨハネ7:39)

イエスは弟子たちに、自らの去った後に特別な「聖霊」を与えることを約束していました。
それは『真理の霊であり、世が受けることのできないもの』であり、また弟子たちの『助け手』でイエスの言葉を思い出させるだけでなく、弟子たちを『真理の全体へと導く』ものでもあるとイエスは語られました。
(ヨハネ14:16-17/14:26/16:13)

このキリスト後に到来した「約束された聖霊」また「聖霊の賜物」は、それまでのどんな聖霊とも異なる画期的なものとなりましたが、これはユダヤ人の中でもイエスをキリストと信じた者たちだけに、この『聖霊のバプテスマ』が与えられ、ユダヤ体制には注がれません。(ヨハネ3:16-17)

したがってこの聖霊降下は、神の是認が律法契約のユダヤを去って『新しい契約』に移ったことを証しするものでもありましたが、それ以上に、弟子たちに真理が啓示され、様々な奇跡を行い、人々にイエスと同じ業を行って信仰を呼び起こすという、歴史上それまでにない人々の現れでもあったのです。
このように、キリストの犠牲が捧げられたことによって、初めて『新しい契約』に預かる『召された』聖なる弟子らが登場したことには新約聖書に異論の余地がありません。(ヘブライ9:15)

その日、聖霊を受けた弟子たちは自分の知らない言語で『神の壮大なことを話し』、以後はその翻訳や、預言、癒しなど、多様な奇跡を行う力も与えられてゆきます。(コリント第一12:4-11)
それは預言者であるなしに関わらず、老若男女を問わずキリストを信じるユダヤ人をはじめとして、やがては『契約の子ら』ではない信徒の異邦人にもこの「聖霊」は臨みます。(ヨエル2章/使徒10章)

それまで、ひっそりと迫害するユダヤ人を怖れて隠棲していたキリストの直弟子たちは、この聖霊降臨の日を境に力を得てユダヤ人に向かって強力な宣教を始めました。その後の勢いは聖霊の助けなくして考えられません。彼らにはイエスのような奇跡を行う権威が与えられ、この人々が世界に広がってゆくに従い、キリストの業も聖霊と共により大きく拡げられてゆきます。(使徒4:31-31)

その「聖霊」の特殊性をもたらしたものは、キリストの犠牲による贖罪であり、イエスの血によってそれらの弟子たちがアダム由来の「罪」を許されて『新しい創造物』(コリント第二5:17)とされ、また『神の子』とされた(ローマ8:16)ことを証しており、弟子たちはキリスト以外のどんな人にもそれまで下賜されることのなかった格別の「聖霊」を受ける者となったと言えます。その聖霊を受ける人々は水のバプテスマをも受けていたので『水と霊から生まれた』ということもできます。(ヨハネ3:5)

なぜ、この聖霊がそれを受ける人々をこれほどまでに変化させることができたのかを問えば、それがキリストの犠牲の価値を通して初めて与えられたものであり、この格別な聖霊はキリストの死以前には存在することが無かったからです。(ヨハネ7:39)

この「約束の聖霊」を受ける意味は、その人が全人類に先立って既にキリストの犠牲を通して贖罪された『初穂』という信徒の中でも少数者に属すること(ローマ8:23)また、天でキリストと共に霊者となって『神の王国』を構成し、『祭司の王国、聖なる国民』(ペテロ第一2:9)となって全人類の贖罪を行い、また、その王国の存在する間の支配を任された『ダヴィデの子孫』となるよう招かれた『選ばれた者』であることの『身分を証しするもの』(エフェソス1:13)ということができます。



◆選ばれた者だけに下賜される聖霊

したがって、これは信ずる者には誰にでも与えられるものではありません。
確かに使徒2:38は『バプテスマを受けなさい、そうすれば聖霊を受けます』と述べてはいますが、これが語られた相手が『契約の子ら』即ち、ユダヤ人またユダヤ教徒であったことを忘れると、大きな誤解を招くでしょう。
なぜなら、ユダヤ人は既に『祭司の王国、聖なる国民』となるべき律法契約の当事者(出埃19:5-6)であったからです。

それゆえ、既に神を信仰していたユダヤ人が、更に進んでキリストがナザレ人イエスであると信じて受け入れるなら、古くなっていた『律法契約』を去ってそのままキリストの『新しい契約』に入り、その契約は「義」を彼らに仮承認し「罪」を赦して『神の子』の身分を与えました。(エフェソス1:13/4:30)

しかし、ユダヤ人の中からイエスをキリストと信じる人々の数が不充分であったので、『聖なる国民』を充足させるために『アブラハムの子孫』として一定数の異邦人が招かれ聖霊を受けました。その最初がローマ士官コルネリウスであり、その当時は彼に続く多くの人々が聖霊を受け『イスラエルに接木』されました。パウロはそれを『養子縁組の霊』とも呼んでいます。つまり、異邦人からも『神のイスラエル』に人々が選ばれたことを示唆しています。 (ローマ11:17-24)

聖書が書かれた時代には、ユダヤ人と異邦人とを問わず信者の集まりの大半の人に聖霊が注がれていたことが聖書の記述から分かります。(エフェソス2:18-19)

彼らに「約束の聖霊」が注がれたのは「神からの選び」の証しであり、同時に「聖霊の賜物」を以って他の人々からもそれと分かる印となり、且つ、キリストの弟子たちに真理の知識を与えましたから、聖霊が注がれていた初期のおよそ百年間、彼らに今日のような分裂は起こりませんでした。(ガラテア5:22/教会史Ⅱ14)

聖霊はイエスの父から発し(ヨハネ15:26)、イエス自身が用いる(16:15)もので、初代のキリストの弟子たちが世に居る間、キリストは天から弟子たちを導き、奇跡を行わせ、知識を与え、大胆に語らせ、宣教の方向を示し、迫害にある者を励ますなど、縦横の働きを行いました。これらの働きにより、最後の使徒ヨハネに至って、遂にキリストの教えは完成を迎え、聖書も一度書き終えられるに至りました。当時は集まる弟子たちのほとんどが聖霊を注がれた「聖なる者」であり、新約聖書はこの人々に専ら語っています。(ローマ1:7/コリント第一1:2)


しかし、初代の弟子たちが世を去るに従い、「聖霊の賜物」を持つ「聖なる者」とされる弟子は姿を消してゆき、遂に「約束の聖霊」を有する弟子は地上から絶えました。当時の複数の資料からこの点を裏付けることができ、アウグスティヌスなどの著名な教父も、第二世紀頃まで聖霊を有する信徒が居たことを認めています。⇒エクレシア内の信徒と聖徒

キリストは『王権を得るための旅』に出立し、この格別な「聖霊」を通して弟子たちを監督する時代は終わりを迎え、今日に及んでいます。キリストが王権を得る時節がいつであるかについては、使徒たちですら『あなたがたの預かるところではない』と言われていますので、人は誰もキリストの再来と、再び弟子たちに聖霊が注がれるようになる時がいつかを知らされてはいません。(使徒1:7)



◆終末での聖霊の働き

しかし、世が終末を迎えるときにキリストは王権を佩びて世に対面されますが、これは『臨御』(パルーシア)と呼ばれており、その言葉の示すようにキリストは以前のように「再来」されるのではなく、『雲と共に』来られるキリストは、人類からは見えない様でご自分の弟子たちに再び「約束の聖霊」を注ぎ『聖霊の賜物』を与えて、重要な責務を彼らに果たさせます。
その責務には、世界宣教を行い、救い主の名を知らせ、裁きの根拠を据えることが含まれます。(マタイ10:18/使徒1:8/イザヤ43:10/使徒2:21・15:14/ヨハネ16:8)

その責務のひとつは、世の為政者たちの前に引き出され、そこで聖霊の言葉を宣し、キリストが王権を佩びる『神の王国』に支配権を渡すように勧告します。それは『諸国民に対する』それまでにない最も大きく最も意味深い宣教となります。(マタイ10:17-20/ハガイ2:6-7/イザヤ2:2-4)

ですが、これは聖霊を受ける弟子たちにとっては試練の時となります。命欲しさに保身に走ればキリストと共になるという特権は失われるでしょう。少なからぬ聖霊を持つ弟子が世界の敵意の的となり殉教を遂げるとされています。(マタイ10:32-42/ルカ21:12-17)
殉教を逃れた残りの聖徒たちは一斉に地を後にする時が到来することをも聖書は告げますが、これがキリスト教界で「携挙」と勘違いされていることです。(テサロニケ第一4:17/黙示録11:7-12)

さらに聖霊の発言は、全人類に対して救いの道を教えます。
救いに関わる重要な要素は『神の名』であり、初代のキリストの弟子たち以来、これまで聖書中にありながら読めなかった神の名前が発音され知らされることになり、それに頼る者、信仰のうちに呼び求める者が救われることになります。(詩篇102:21/ヨエル2:32/使徒2:21)


 そして、「約束の聖霊」のもうひとつの重要な働きは、人類の「裁き」に関わるものです。(ヨハネ16:7-11)

 王であるキリストの見えない臨御の理由は、「神の王国」によって人間の支配と崇拝を終わらせるに当たり、神の支配と贖罪を受入れるかどうかについて、人類のひとりひとりの意志を確かめるためで、これは終末の「裁きの日」に為されます。

 もし、神からの最高権力を帯びた大王キリストが直接に輝かしい姿を直接に現わしてしまえば、その厳しく威力に満ちた様は人を慄かせてしまい、人の内面の選択が表れなくなってしまうので、人間の裁きには「聖霊」が用いられます。

 かつて、キリストが質素な姿でユダヤ人の間に現れたとき、その行う聖霊による奇蹟の業は人々をふたつに分けるものとなりました。つまり、イエスをキリストとして認める人々と頑なにそうしなかった人々です。
将来の終末の裁きでは、聖霊を注がれた弟子たちの言葉に信仰を置くか否かでキリストへの信仰が一人一人に問われることになるでしょう。これはアダムが経験した「二本の木」の選択に相当すると考えられます。人々がふたつに分けられるからです。(マタイ25:31-32)

 将来、世の終末に臨んで、再びキリストの弟子の中から「約束の聖霊」を受ける人々が現れるとき、彼らは「聖霊の賜物」の奇跡的力を大いに揮って、それを見聞きする世界つまり『天地を激しく揺り動かす』ことになるでしょう。(ヨエル2:1-10/ハガイ2:7)
すると、多くの追随者が現れて、流れのようにキリストの側に向かう様子がイザヤ書などに描写されています。(イザヤ2章/ミカ4章)

 他方、決定的な聖霊の奇跡の力を見ながらも、なお信じない人々については、その不信仰ゆえに裁かれることになります。(ヨハネ3:36)それは、イエスの行う神の業を見ながら信じなかったユダヤの人々、特に傲慢であるがゆえにイエスを受け入れなかった宗教家たちが裁かれ、その世代のうちにローマの攻撃を受け、ユダヤとエルサレムの神殿を失い、やがて流浪の民となった故事に教訓として聖書と歴史に刻まれています。(ルカ19:41-44)

 キリストは『わたしを信じなくても、わたしの業は信じなさい』また『人の子を蔑める者も許される』と語りましたが、『聖霊を冒涜するものには許しは無い』と警告された背景には「聖霊」が人々を裁くものとなるという重要な事柄があります。(ヨハネ10:38/マタイ12:32/ルカ12:10-12)



◆聖霊は誰に注がれるか

 ここで言う聖霊とは、生けるものの中で働いている神の霊や、単に崇拝者を導く聖霊以上のもの、先立って贖罪される人々に与えられる「約束の聖霊」のことを言うのであって、他の人に聖霊はまったく働かないと言うのではありません。
キリスト教界では、この辺りが判然としないので、誤解から混乱を来たしています。

では、「約束の聖霊」は将来の何時、また誰に注がれるのでしょうか?

 人は神の知識を『求め続け、敲き続ける』必要がありますが、神はこのように求め続ける人々に「真理」を啓示され、ご自身の「義」を明らかにされます。その人々が、自分の受けるご利益目当てなら、願いを叶えるような「真理」を見つけると、それ以上に『求め続ける』ことはないでしょう。関心が自分に向いているからです。
しかし、神の意志を探る人は、人間の正義や自分たちだけが正しいと主張することなく、ひたすらに『神の義』を『求め続け、敲き続ける』理由があります。関心が神に向いているからです。まさにそのような人々に聖霊は与えられる(ルカ11:9-13)と聖書は述べています。

 聖霊降下はキリストの「再臨」とも呼ばれる『世の裁き』の時節を印付けるのに、これ以上ない最大の証拠となるでしょう。
聖霊を受け、キリストと共になる弟子たちは、キリストのような最期を覚悟しなければなりませんが、そのようにして彼らも『世を征服する』ことになり、キリストと共に王として治めるに相応しい者と見なされることになります。(ヨハネ第一5:4/黙示録2:10)

 このように「聖霊」に関わる事柄は全人類に関わるきわめて重大なものですが、キリスト教界の聖霊理解は、キリストのような殉教を覚悟するのではなく、心に内住し個人に益与えるという程度のものに留まるご利益信仰になってしまっています。

しかしそれが、その人々の信仰である以上、無理に変えることもできません。そこには、その人の強い欲望も関わっていることでしょう。
 それは同時に、そのような信仰を抱く人々の、神と人類のために捧げられたキリストの犠牲の生涯を知ってなお、個人の利益に関心の向くという心の状態、また価値観の大きな異なりを物語っていることでしょう。(コリント第二5:15)

しかし、「聖霊」は、個人の利益ではなく、キリストの再臨や全人類の裁きと救いの関わる重大事であることは聖書全体の流れが示すところであり、これを見誤ることは致命的な結果に至ることが目に見えています。それが『けっして許されることのない』という「聖霊を冒涜」することになり兼ねないからです。(マタイ12:32)

 その点、「クリスチャン」と称える人がたとえ「聖霊」を受けないとしても、聖霊を受けた人々の言葉に信仰を働かせて転向してくる無数の人々を信仰の先達として迎える立場に立つことになるのであり、この聖霊理解をもたなければ、却って将来の「聖霊」に関する予想外な進展に心を頑なにしてしまい、救いから最も遠い者となってしまう大きな危険の中に居るとも考えられます。(ヘブライ4:7)

ですが、時は依然残されており、新たな聖霊の理解を通して、神の御旨を求める信仰を懐くことの扉は開かれています。








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 予備資料
 「終末の裁きで人は何を問われるか」




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3.回復論 

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
3.回復論 

 この「回復」とは、将来の「終末」の時期に聖霊の再降下によって清められたキリスト教が再興することを云います。

 キリスト教界はすっかり分裂し、互いに自分たちが正しいと信じて譲りません。それが「宗教」というものなのでしょうか。
最近では、このようなキリスト教徒の分裂を是正しようという幾つかの動きもあり、カトリックとプロテスタントを和解させようとするエキュメニカル運動はその最たるものでしょう。

 しかし、キリスト教初代から第二世紀半ばまでは、ほぼ異教といえるグノーシス主義を除いては弟子の間に分派らしいものは無かったと言われます。そのうえグノーシス諸派と初期キリスト教との間には、神とイエスに対する認識に明確な違いがありました。

 原始キリスト教の時代に、分裂分派への抵抗力として働いていたのが、神の聖霊であったことはまず間違いのないことでしょう。
各地の集まりには聖霊が注がれ、それを通して教えも与えられていたので、聖霊に従うことで一致を保つことが可能でした。

 しかし、使徒時代が終わると聖霊がキリスト教徒から去りました。聖霊が働いていた時代とそれが去って行った様子は、エウセビオスの「教会史」にいくつもの資料の出典を伴って歴史に刻まれています。
そうしてキリスト自身も神から「王権を得るための旅」に出られ、今日までキリストの不在は続いています。

 導きとなる聖霊を失ったキリスト教界は漂流を始めることになり、その後は聖書だけが頼りとなりましたが、印刷技術の進んで以降は人々が聖書を読める時代を迎えると、その解釈を巡ってそれぞれに様々な逸脱が始まり、後には派閥に分かれて行き、その無数の枝葉が今日に至っています。

 しかし、キリストが帰還を果たされる「終末」になると、再び聖霊が注がれることになり、それを受ける人々は神からの教えを再び受け、その言葉が人類に伝えはじめられることが聖書に度々予告されています。

 このことによって生じる神の正当な信仰が再興されることを十四日派は「回復」と云いますが、正確には「キリスト教教理の回復」です。

 かつてユダヤ=イスラエルは神との律法契約に違反して、異国のバビロンに強制移住された時期があり、これは「バビロン捕囚」と呼ばれています。

 それはイザヤやエレミヤという預言者たちによって予め知らされていましたが、その予告の中にはその後、イスラエルが故郷に戻って神殿も再建し祭儀が復興することも含まれていました。それは「回復(慰め)の預言」と呼ばれ、これは一度バビロン捕囚後のイスラエル民族の上に起こりました。

 その預言に違わず神殿を失ってから一世代の内に、この国民は神殿の土台を再び置いて、神への仮の祭儀を始めています。
しかし、それらの回復の預言の中にはその当時に起こらなかったことも含んでおり、それらの事柄の成就は現在まで生じていません。また、当時の成就が鏡のように将来の「終末」に起こる事柄を示唆している部分もありますが、これは「予型」または「前表」と呼ばれ、預言が二度成就することを指しています。


 ユダヤ=イスラエルは捕囚を解かれて一部の人々がパレスチナに戻り神殿の再建を行いました。
しかし、せっかく再興した神殿祭儀も、ユダヤ人の不信仰から五百年ほど後に失なわれてしまいます。

 多くの預言者によって予告されていたキリストがイスラエルに現れたとき、この国民は、この神からの人ナザレのイエスを刑死に追いやり、その結果二度目の神の処罰によって神殿をローマ軍に破壊されてしまいました。

 その後、二千年もの期間が経ようとしていますが、イスラエルは今日まで神殿を再建できておらず、神への祭儀も行われていません。では、「回復の預言」の残りの部分は成就しないのでしょうか。


 一方、イエス・キリストは自らの弟子たちが「生ける神殿」になることを告げていました。
彼らは聖霊を受けてあたかも神殿の石のひとつひとつのようになると言われました。
その天の神殿は、当然に動物の犠牲を必要としません。キリストは完全な犠牲を一度限り捧げて、供え物と犠牲を終わらせているからです。

また、かつて地上のエルサレムに在った神殿は『御名を置く処』と呼ばれたように、将来も聖霊を注がれる弟子たちによって基礎の置かれる象徴的神殿も、古代のように『御名を置く処』となり、二千年近く発音ができずにいた全能の神の御名は聖霊によって知らされることになるでしょう。御名が知られていた時代に、詩篇がわざわざ『人々はシオンで御名を知らせる』と述べる理由も将来にあることでしょう。(詩篇102:21)

 聖霊を受けた弟子は、キリストを介して『新しい契約』の当事者であり、もう一方の当事者たる神の御名を知るべき理由があり、確かにキリストは御父の『御名を弟子たちに知らせました』と福音書は述べます。(ヨハネ17:26)
また、メシアを予見した詩篇第22では『わたしはあなたの御名を兄弟らに伝えます・・』とあり、神名を宣告することに於けるキリストの役割と、知らされる対象が明記されています。(詩篇22:22)

 『新しい契約』に招かれ聖霊を注がれた人々は、西暦第二世紀半ばを過ぎるころに居なくなったようですが、それはキリストが再び地上と関わりを持つ終末まで、神の許で待つ期間の始まりを教えるものと言えます。
その一方でイエスは「終わりの日」の預言を語り、その中で世の終わりの時期に聖霊を受ける弟子たちが再び現れることを予告し四つの福音書それぞれに、彼らが為政者に対して聖霊によって語る将来の姿が、ほかならないイエス自身によって語られているのです。

したがって、旧約のイザヤやエレミヤたちの「回復の預言」の成就していない残りの部分や将来を指し示す二重の意味とが「終わりの日」のイエスの弟子たちの上に実現すると信じる理由があります。

 聖霊を注がれた弟子たちが再び現れるときこそ、神との絆を得た彼らが唯一正統な崇拝を回復し始めるでしょう。
この人々は現在の「バビロン」に相当する、異教と融合したキリスト教界に居るようですが、やがて神に集め出されるようにして、聖霊を受けるに際してそこから出るのでしょう。

 この人々は「シオン」と呼ばれる会衆(エクレシア)に集まって来るようですが、この会衆が「新十四日派」であるか否かは、現在のところ分かりません。それでも、聖霊を注がれる人々には、先在する母体となる組織があることはイザヤと黙示録に明らかです。

 聖霊を受ける人々は「生ける神殿」となって、『シオン』と呼ばれる母体組織の中核『シオンの子ら』となります。こうして、シオンの山上にかつて存在していた神殿は、より次元の高い姿で再び現われることになるでしょう。それは地上のエルサレムとは何の関わりも持ちません。

 それは、キリストの帰還を示す純粋なキリスト教の回復でもあり、聖霊の発言を通して、世に居る良心に従おうとする人々は、神を知り、信じることができるようになり、迷うことなく真の教えの源となる『シオン』に流れのように向かうようになるでしょう。

 このように、キリスト教が浄化されて様々な宗派から人々が集められ、あるいは異なる宗教からも人々が合流することは、難渋するエキュメニカルのような人間の労苦を注ぎ続けるまでもなく、神のみ力によって見事に成し遂げられるでしょう。

 そのとき、「神殿の定礎」に相当する『神の王国』の前段階でさえ、歴史上けっして無かったほどに高められ、古代のようにイスラエル一国のことではなく、世界の人々に広げられてゆきます。そうして人々はアダムが問われたような「神か人か」の選択を、誘惑の元で表明する機会を得ますが、これが聖霊を介する「裁き」となります。

 その裁きは、驚くべき聖霊の発言によって、世界の隅々に及ぶものとなりますが、人類全体はこの発言を巡って揺れ動き、宗教と政治は著しい糾弾を受けることになり、当然ながら反対する人々も現れることになります。

 特に、聖徒の中からも世との妥協をする者らが現れ、聖霊ではない不思議な力を行使して、多くの人々を『背教』と呼ばれる新たな全体主義的宗教に誘い、また強制します。

その中でも、特に目立った人物が現れ、彼はユダ・イスカリオテがそう呼ばれたように『滅びの子』と記されています。
 この者は背教の中心となり、キリストを自認して宗教上の最高の立場を得るのでしょう。『神の座に就いて、自分は神だ』と言うさまが聖書に描かれています。

しかし、そのような期間は十年も続くものではありません。ほんの数年で終局(キリストの顕現)を迎え、キリストが帰還されている紛れも無い証拠となる事態の推移の内に、世界を巻き込む強力な『背教』も終わりに至ります。それは神に抗う終末の頂点を築きますが、その力は「ハルマゲドンの戦い」と呼ばれる神とこの世との争いに発展し、この世の権力は完膚なきまでに打ち破られます。

 それは人類史の転換点となり、過酷なこの世は終わりを迎え、神の支配と贖罪を行う『神の王国』が到来することに道を拓きます。
 千年続くというその王国を通し、創造物の初子であるキリストが、天と地の属する全ての知的存在者をひとつにまとめ、神の家族(オイコノミア)として復帰させることになります。

 『神の王国』の崇拝と支配により、この世に見られる『罪』の影響が除かれ、創造の意図のままの世界に戻されることにより、創造の業も遂に完遂を見ることになります。

 そこでは今日に見られる苦難あふれる生き方はありません。人は『罪』から清められ、『神の象り』としての栄光をまとい、祝福に浴することになり、創造者と自由に意思を通わせ、互いに愛すべき隣人を見出すことになるでしょう。そこに政治と宗教の余地はありません。それらは共に人間の『罪』への対処法であったからです。

 それで、今は聖書に記された神の言葉を学びつつ、その回復を待つのがキリスト教徒の務めといえます。
その間、伝道をしないわけではありませんが、人間がどれほど努力を傾注して伝道しても、到底得られない数の人々が、聖霊の発言を聴くことで集められるでしょう。それこそ神の業であり、「シオン」は膨大な数の人々を受け入れるべく「天幕布を張り伸ばす」ことで「ためらう」べきではないのでしょう。(イザヤ54:2)

 そのときには、聖徒でなくとも聖霊を通し何らかの指示を受けることがあるでしょう。
『シオン』に聖徒、即ち『シオンの子ら』が現れるとき、『シオン』そのものにも変化が起こることが何度も預言されています。

「新十四日派」は、聖霊の無い人に絶対的な正しさを認めませんが、初代キリスト教徒のように聖霊が注がれる人々が現れるなら、その人々を「キリストの兄弟」と見做して支援することになります。(マタイ25:32-36)





 予備資料
 旧約聖書の預言書(ネイヴィーム)の中の「回復の預言」集



4.教理控制

2012.05.19 (Sat)
新十四日派の教えの特徴
4.教理控制


人間は『罪』ある現状では、絶対者である神に真っ向から遭遇することはありません。
なぜなら、聖なる神は人の『罪』を容認しないからであり、それゆえにもキリストの犠牲を介する必要があるからです。

 神は、人にご自分を証明可能な方法で顕現なさることはありません。宗教の存在理由もそこにあります。
その理由は、人間のすべてにエデンに於ける倫理的選択の道を開くためであり、人は皆、その『裁き』を前にしているからです。
 絶対者の圧倒的な現れは、人の自由意志を奪うものでもあるので、現在のところ、神は信仰によって人に捉えられるものではあっても、科学のような客観的検知は不可能です。(出埃33:20/ヨブ記34:29)

 また、聖書といえども、信仰を抱く人に、すべてを余すところなく語っているわけではありません。
書かれているところではなく、書かれていないところによってイエスの当時のユダヤの宗教指導者らは躓き、キリストを退ける結果となりましたが、彼はに聖書の知識が足りなかったのではなく、熟知しているゆえに慢心を招いたのです。

 そこで、新十四日派は、教理を絶対化することを避けます。
ただ、派としての基本的な教理は保持するものの、それを不動のもの、また絶対のものとは見做しません。
もし、そうしてしまうなら、ユダヤの宗教家らと同じ道を辿ることになるでしょう。

 教理に優って重要なものは、愛に基く価値観であり、これこそがナザレ人イエスをキリストとして認めた人々が有していたものでありました。

 そこでこの「教理控制」は、教理の暴走を抑え、教理そのものが偶像化されて人の生き方を狂わせないための策として、教理そのものに抑制をかける「教理の教理」のような働きをします。


 教理は信ずる人を動かし、人生の選択をも左右するものであり、非常に注意されるべきものです。
 聖書の言葉を巧みに用いても、それが人間由来の教えである以上は間違いを免れません。

 サタンもイエスを誘惑するのに聖書の言葉を用い、その解釈が正しいかのように語りました。
まして、生身の人間であれば、この種の誘惑に曝されると容易に罠にはまりかねないでしょう。

 神ではなく人間に由来する教えについては、その教えに純粋に従ってしまう人ほど大きな害を受けます。
教導者に悪意が無かったにしても、それは一種の罠となります。

しかし、そこに信仰が絡み本人の同意の上であったとなれば、たとえ損害の補償を得るとしても容易ではありません。
そして保障を得たとしても、失ったものの多くは帰っては来ないでしょう。

 完全な宗教が今日の人間に無いとなれば、どんな宗教にせよ教理で間違いの無いものはありません。
そこで新十四日派は、教理そのものに間違いが潜んでいる危険をも信徒に予め通知し、その教えに沿って行動するか否かについては、本人の良心を働かせた判断に委ね、本人の良心を尊重し強制を避けます。

 また、原則的に信徒それぞれの信仰を認め、内心の信念までに立ち入りません。
新十四日派への参加も協働も自由意志であり、派そのものへの従順を条件とするものではありません。

 また、「求め続け敲き続けるなら受ける」との言葉に従い、何がより価値あることかを探求し続ける動機を与えるのもこの教理控制の重要な働きと言えます。
なぜならば、ある教理を正しく間違いの無いものと宣言してしまうと、自由な探求は阻害されてしまい、より真実な教えを求める努力は凍り付いて身動きがとれなくなってしまうからです。

 したがって新十四日派は、自らの教理のどれもがまったく正しいと称えるものではありません。
もちろん、理性によってより正しいと信じる教理を持ちますが、他の宗派の教えの全てを誤謬とは判断しません。
誤謬は誰が唱えようと誤謬であるからです。ここに権威主義者と衆愚の陥りやすい罠があります。

また異教諸宗派についても崇拝を共にすることはないとしても、公共の法に触れるような行いのない限りその崇拝心に敬意を払い、忌避すべき邪教徒のようには判断しません。

このように、教理控制が新十四日派に適用されるにしても、派に参加する以上は一定の同意事項を有します。しかし、この教理控制が働くので、その信条は絶対不変のものとはなりません。それらは蓋然性の追求の範囲を出るものではなく、個人の信仰がそれらを信念とするものです。

 また、正確な聖書理解を持っていることが、神により近づき、是認を深めるわけでもありません。
むしろ、逆に本人は神に従うつもりで居て、正確に知識によって神への反対行動を起こしてしまっている例が、聖書にも歴史にも存在してきました。
 そこには、知識の有無に関わらず、それぞれに人が倫理上の決定を下し、自らがどんな者かを露わにするという、神の裁きの本質が垣間見えています。

 聖書に関わる正確な理解は諸刃の剣であり「聖書に正確に従えば、そこに正しい宗教が興る」と捉えることは、従順によって神の是認を得ようとする事に等しく、自らの「正しさ」を神に責任転嫁することになります。

 神が人に望むのは「求め続け、敲き続ける」ことであって、「人が作り出した義」に安住することではありません。それは神から最も厳しく裁かれるものとなるでしょう。そもそも聖書は、知り尽くすことも出来ないものであり、どうして「聖書に正確に従う」ことなど出来るでしょうか。
 
 おおよそ宗教や宗派の教条の違いには、神との断絶という人間共通の「罪」の結果である不一致が顕されており、宗教という分野に人間が正解を持っていないことの証しでもあります。この点で人はみな同じ立場にあり、そこで多種多様な教条は陳列されるほかありません。

総じて言うなら、教理の学習が信仰を形成するにしても、教理を理解することがそのまま信仰となるわけでも、神に人を近づけるわけでもありません。この点で、教理が人の限界を超えさせることはありません。
また、多様な宗教の信者が、ある程度の異なる教理を有していても、その神に向かう動機が同じであるということがあり得まし、その逆もまたあり得ます。

 その動機は「倫理上の選択」に属する事柄であり、理屈の理解とは異なるものです。
それゆえ、宗派の異なる人々を尊重するべき理由も生じます。

 ですが、真に神との絆である聖霊を受ける人々が現れるなら、そこには真実の宗教が実現することになります。神から直接の言葉を語る以上、それを人間のものと同列に見做すべきではありません。

 そのことの起こるまでの期間、新十四日派は、神と人の交渉の記録であり、また神の啓示されてきた事柄の集大成である聖書を探り、より正しいと考えられる事柄を追求し、それを仮の教理とするものです。そこで重要なのは、個人の価値観であり、倫理性(道徳性ではなく)となるでしょう。それがその人の信仰の判断を作るからです。

 したがって、聖徒たちの現れるときに、新十四日派は務めを終えて聖徒に従うものですが、それまでは、この教理控制だけは不変を保ちます。これは神の物事に対する人間の限界の指標であるからです。







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