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略解教理之詞言

2015.06.08 (Mon)

略文紹介



1. 最初の人アダムを創造した神は、人間を「神の象り」に創りました。それは、人間が神と同じように自由な意思を持つことを表します。そこで神は人間と人格的な関係を望み、自ら忠節な愛を示し、また人にも望みます。それがエデンの園の中央に植えられた二本の木の意味するところでした。

一本は「善悪を知る木」、もう一本は「永遠の命の木」と呼ばれ、それは人と神の関係に関わる選択となりました。『神の象り』である人間を自らのように尊重する神は、この選択を人の自由に委ね、強制も監視もされません。そこで人は神との関係性が問われます。その焦点は『愛によって神と結ばれる』かどうかにあります。

天使のひとりは、この点で自分を愛することを選択し、既に神から離れていました。その者は逆らう者という意味で『サタン』と呼ばれるようになり、神の創造界に不調和が生じ始めます。

アダムは、天使であったサタンが操る「蛇」の誘惑によって禁じられていた「善悪を知る木」の実を取って食した妻と行動を共にすることを選んで、同じく神への忠節な愛を捨てました。
こうして人は倫理上に欠陥を負うものとなり、その子孫に不道徳な傾向が遺伝してゆきました。

この不倫理性によって人類は大きな害を受けており、人々は隣人と問題なく過ごすことができません。不正と争い、犯罪や戦争など世の害悪の大半は人間自身の倫理上の欠陥に原因があります。その傾向は聖書では『罪』と呼ばれ、このために人間は皆、神の創造物として不完全になり『神の子』の栄光から脱落しています。

しかし、この人間の状態は神の創造の意図ではなく、今の不調和な世界も神の意図するものではありません。この問題が解決されなければ、創造の業はいつまで完遂されないことになります。
そこで神は、人間からこの倫理上の欠陥である「罪」を除き、創造された当初の人間の状態に戻すこと、つまり「贖罪」(しょくざい)を行われることを計画されました。

その「罪の赦し」ため神はイエス・キリストを用います。キリストとは「任命された者」を意味します。
人類全体から「罪」取り除いて、人類世界を改めるのが「神の王国」の役割であり、その主要な王にはイエス・キリストが即位します。



2.神は早くもエデンの園で、人間が陥った問題への解決法を予告しました。それが『女の裔』と呼ばれる何者かのことであり、聖書はこの『女の裔』が誰であるかを巡って数千年を越える永きに亘り書き継がれました。その『女の裔』つまりエヴァの子孫の何者かによって、『蛇』であるサタンが創造界にもたらした害悪も、すべてがサタンもろともに除かれることになります。

やがて、その『裔』はシュメール時代の人アブラハムの子孫の中から現れること、また彼の子孫にパレスチナの土地を与えることを神はアブラハムに約束します。
やがて、その家督を持った子孫はエジプトでひとつの民族を構成するほどに増え、イスラエル民族となります。
しかし、エジプトの王朝の交代によって、彼らは奴隷身分に落されてしまいました。

この民族をエジプトでの奴隷状態から「約束の地」パレスチナに導き出すために用いられたのが預言者モーセでありました。
神は、紅海の水を分けイスラエルをエジプトでの奴隷状態から救い、シナイ山麓でモーセを介し、この民族と契約を結びます。
それは、神が与える『律法』を守るなら、イスラエルは『聖なる国民、王なる祭司の民』となるという契約であったので、これは「律法契約」と呼ばれます。その律法では、罪の許しのためには犠牲が必要であることが、崇拝での動物の捧げ物の要求によって示されていました。

しかし、イスラエルはこの契約を守らず、遂にパレスチナを追われてバビロンに捕囚となります。
それでも、神はバビロニアの帝国を終わらせて、パレスチナに幾らかの人々を帰還させ、神殿喪失から七十年が経過すると神殿を再建させます。この役割を担ったメシア(任命された者)はペルシア帝国のキュロス大王であり、エルサレム神殿の再建と祭祀の復興を命じたのはこの王でした。

神はイスラエル民族が捕囚を経験する前から、預言者を通して律法契約に代る「新しい契約」とそれをモーセのように仲介する「メシア」の到来を予告していました。それは『契約の使者』とも呼ばれる新たなメシアとなる何者かのことでした。



3.パレスチナに帰った人々はユダヤ人と呼ばれるようになり、前五世紀の預言者マラキを最後に、旧約聖書はそれ以上書き加えられなくなります。
それからおよそ四百年が過ぎると、預言者の姿をした人物がヨルダン川でユダヤ人に『悔い改めの浸礼』を施し始めます。人々は久しぶりの預言者の到来を見て、この人が約束されたメシアではないかと噂しますが、その人「バプテスト(浸礼者)のヨハネ」はそれを否定し、自分の後に来る方がメシアであり、その方がユダヤ人らに聖霊また火でバプテスマを施すことになると告げます。

そこに北部ガリラヤのナザレ村から三十歳ほどのイエスという人物が訪ねてきます。ヨハネが水でバプテスマを施すと、この人には聖霊が降り、ヨハネはこの人をメシアとしてユダヤ人に示します。
それからイエスはメシア=キリストとしての活動を始め、多くの奇跡を行って人々の病気を癒し、『神の王国が近付いた』とユダヤ人に知らせ始めます。神はイエスに奇跡の力を与え、彼が来るべきメシア=キリストであることを証します。

しかし、メシアを受入れたユダヤ人は少なく、ここでもイスラエルの多くの人々は『新しい契約』に入ることを拒むばかりか、メシアをローマの権力に渡して無理に処刑させてしまいました。
その結果、メシアを受入れた幾らかのユダヤ人は「新しい契約」に入って聖霊が注がれるようになり、その人々もキリストの奇跡の業を受け継ぎましたが、その一方で、多くのユダヤ人はそれを妬みメシアの弟子らをも迫害するようになります。

そこで弟子たちはユダヤ民族を後にして世界に広がって行き、キリストによる世界の救いを知らせ、聖霊を受ける仲間を諸国民からも集めるようになります。キリストの弟子たちは、血統のイスラエルとは対照的に『神のイスラエル』と呼ばれます。こうして『女の裔』としての神の選びは、ユダヤ人から離れ始め、ユダヤ教とキリスト教は別の道を歩むことになりました。

キリストと彼に聖霊を注がれた者らが、アブラハムに約束された、世界の人々を『罪』というサタンの害から救う『女の裔』であり、律法契約が目指した『聖なる国民、王なる祭司の民』となる者らであり、新約聖書はこれを『聖なる者たち』と呼びます。彼らが『神の王国』、また『天の神殿』を構成する人々であり、天でキリストと共に『王また祭司』となることを目標にします。その働きの目的は、全人類から『罪』を除き、創造物としての栄光を回復させ、永生を得させることにあります。

彼らはキリストを仲介に『新しい契約』に入ったことを、その注がれた聖霊による奇跡の業と教理の知識によって示すことができました。新約聖書が書かれた時代には、キリスト教徒の集まりのほとんどが聖霊を受けた『聖なる者』で占められていたことが、その記述から分かります。彼らはキリストの犠牲による『新しい契約』に入ることで、アダムからの『罪』が仮赦免された状態に入るので『神の子』また『キリストの兄弟』とされます。

他方、キリストを退けた当時のユダヤの世代は、ローマ軍に攻撃され『火のバプテスマ』を受けることになり、エルサレムと神殿を失い、流浪の民となって「約束の地」から離れて行きました。神殿喪失の以降は、神の名が何と発音されるかも忘れ去られて今日に及んでいます。



4.その一方で、奇跡の『聖霊』を注がれていた『聖なる者』の中心的な使徒とユダヤ人の弟子らによって新約聖書が書かれ、旧約聖書の意味するところが明かされてゆき、最後の使徒ヨハネの著作が聖なる書に収められた文書の最後となりました。

『聖霊』の奇跡は彼らに働いて、外国語を話させ、預言を語らせ、使徒たちには病気を癒したり、教えの奥義を理解させていましたが、新約聖書はそれを今日に伝え、読む人々に神の一連の歩みを教えて信仰を促しています。

しかし、聖霊の賜物の奇跡も終わる時代が訪れます。『聖霊』が新たには注がれなくなり、世代が進むに従い『聖なる者』が減ってゆき、ついに地上から絶えます。歴史資料からすれば、それはおそらく第二世紀半ばの事であったでしょう。

『聖霊』を失ったキリスト教界は急速に本来の教えから離れ、ギリシア文化(ヘレニズム)やさまざまな異教の影響に曝され、ニケア公会議のあった第四世紀以降はすっかりとその姿を変えてしまいました。

今日、見られるキリスト教のほとんどは、この異教化したキリスト教なので、天国と地獄を信じ、三位一体の神を教え、刑具であった十字架を象徴としています。これらは『聖霊』がキリスト教徒を導いていた時代にはキリスト教のものではありませんでした。

しかし、イエスは「世の終り」の時期に弟子らが再び『聖霊』を受けることを予告しています。
彼らは為政者の前に引き出されますが、『聖霊』が彼らに臨み誰も論駁できない言葉を語り、それは諸国民への証しともなるというのです。ですが、このような弟子の姿を世界はまだ見ていません。しかし、聖霊を注がれる『聖なる者ら』が再び現れるとき、原始キリスト教が回復され、人々を救うという『神の名』も示されるでしょう。



5.「世の終わり」の時期は未だ到来していませんが、『聖霊』を受けるキリストの弟子が再び現れて、『神の王国』の王となるべきキリストの再臨と、その支配に従うべきことをこの世に明らかにするときに、はっきりと「世の終わり」の時期に入ったことを世界は知ることになるでしょう。そこで人類は忠節な愛を懐くか否か、つまり『信仰』が各人に問われることになります。
その後、『神の王国』がこの世を裁いて終わらせ、『この世』の空しい体制は終わります。

それは遠い昔にアブラハムに約束された『地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう』という神の言葉が、キリストの治める『神の王国』によって実現を迎える時となります。人々は祝福を享受し『罪』を去り、病気や老いから解放を受けます。

そこで「新十四日派」は神の次の一歩となる、『聖霊』が再び降ることを待ち望み、『神の王国』の到来に希望を託します。
『神の王国』は心に中に在るものではなく、この世に到来するものであって、この世の政治に取って代わる現実の支配であるというのが、最後の使徒ヨハネの指導を受けた第二世紀小アジアのキリスト教徒の信仰でした。

彼らの多くは「十四日派」と呼ばれましたが、それは「主の晩餐」を毎年のユダヤ暦ニサン14日に守ったからです。それは古代にモーセに率いられたイスラエルがエジプト出た前の晩に相当し、キリストの最後の晩でもありました。赤葡萄酒と無酵母パンを用いる「主の晩餐」はキリスト教に於ける最も重要な儀礼です。

終末の聖霊によるキリストの裁きの後に、人々は千年続くという『神の王国』によって、キリストの贖いを受けて『罪』の影響から遂に解放され、この世の苦しみは過去のものとなり、神の是認された創造物としての輝かしい姿を得ることになるでしょう。それがエデン以来変わらぬ神の意志であるからです。

千年の後、善人も悪人も含む、存在したあらゆる一般の人々の復活によって、人々はエデンの二本の木の選択に対応する、神の最終的な裁きを受けることになります。『罪』という利己心に固執する者は存在しなくなり、人を誘惑して神の裁きを意図せず推進したサタンもその邪悪な働きを終えて遂に滅ぼされます。
他方で『罪』を悔いる人々は象徴的に、『永遠の命の木』から食べることを許されて永生に入ることになり、以後は誰の死をも見ることもなくなります。こうして神の創造の業は本来の姿を取り戻すことになって完成され、永遠に及ぶことになるでしょう。
こうしてサタンである『蛇』はキリストたち『女の裔』によって致命傷を負って永遠の滅びに至り、人類はエデンの状態に戻されます。





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1.創造者である「神」と任命された「キリスト」

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
1.創造者である「神」と任命された「キリスト」


信徒は、天地の創造主であり唯一の「神」が存在することを信じるに留まらず、その神が人間を創造された目的や企図に回復させるためにキリスト(「任命された者」)を立て歴史上行動してこられたこと、また、そのキリストがナザレのイエスであったことを信じます。(使徒2:22)

 この創造の第一原因者は預言者モーセに神自らの名前を知らせ、それはイスラエル人によって永らく用いられてきましたが、西暦紀元から数世紀の間にこの神名は発音が失われ、現在は子音字四つだけが伝えられており、便宜的にエホヴァ、あるいはヤハウェとも呼ばれています。(出エジプト3:15/イザヤ42:8/詩篇83:18)
 神名が回復されるまで、信徒は残された略称「ヤハ」と発音し、また文面においては主に英字でYHWHまたはヘブライ語アラム式表記でיהוהと記します。それでも旧約聖書に倣って聖なる神名に敬意を払い、その乱用を避けます。(出エジプト20:7)

 この創造の神は、旧約聖書では『全能の神』(エル・シャダイ)とも称され、これに対して『大能の神』(エル・ギッボール)は、神YHWH自ら創造された唯一の被造物である『ひとり子』に相当するイザヤ書に現れています。(イザヤ9:6)
この『独り子』については、『他のすべてのものはこの方を通して創られ存在するようになった』ので、『全創造物の初子』とも呼ばれています。(イザヤ9:6/箴言8章/コロサイ1:14-16)

 『ひとり子』は父である神を愛してその神性を擁護することにきわめて熱心であり、また人をも深く愛して、両者のために自ら命を投げ打つ『仲介者』の務めを果たすためにアダムの罪を負わない方法で世に来られました。
それが処女からの誕生であり、世にあっては罪ない唯一の人イエスとなられ、神からの聖霊の注ぎによって任命を受け、旧約に約束されたキリストとなられました。(テモテ第一2:5/ルカ1:30-35)
 
 この任命されたキリストの死を通して、神YHWHの神性が被造物の間に立証され、同時に人間を罪の奴隷状態から買取り請け戻すための、罪の無い神の子の「魂」(ネフェシュ)という貴重な犠牲が代価として支払われました。(ヘブル10:12)
 この買い戻しは「贖い」(あがない)と呼ばれます。キリストに従う者が、神と人を愛するべきなのはこのことに拠ります。(テモテ第一2:6)

 信徒が神を信仰するとは、儀礼や礼拝を行うことではなく、神を知ることで心に起こされる崇敬の念を言い表して賛美し、キリストに従い「愛の掟」に従おうと努めることを意味します。(ヘブル13:15/ヨハネ13:34)
 加えて、終末には『聖霊』の言葉を受け入れ、その価値を認めることも求められます。(マタイ10:18-20)



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 補足情報
 イエスとは何者か:キリスト・イエスの由来を旧約と新約から探る

 神名浄化の至上命題:神が明らかに固有名を持つこと、それが今後何を意味するか









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2.キリスト教の目的

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
2.キリスト教の目的

聖書に記された創造の神の目的のひとつは、アダムのときに失われてしまった人間と神の関係を取り戻して、人間の「罪」を除き、彼らが創造の神を父のように受け容れることで、創造された通りに「神の子」にならせることにあります。(ヨハネ1:12)

アダムは創造者から離れて自分の道を行くことを選んでしまいました。
それが「善悪の知識の木」から実をとって食べるという、神の言葉に逆らい忠節な愛を示さない行為の意味するところでした。
その結果、神の創造の意図から離れ、自分の存在意義や創造されたことへの感謝を否定しましたが、これは神の是認を失うことであり、人間のすべての倫理の基礎を壊すことでした。(イザヤ43:27)

こうして、人間は倫理や道徳において不完全となり、以後子孫すべてにこの倫理上の欠陥を遺伝させました。
これは「罪」(カトリックでは「原罪」)と呼ばれ、人の犯す一つ一つの罪ではなく、人間の持つ悪い傾向を意味します。(ローマ5:12)

このため、人間は本来備わった輝かしい特性を失なって不完全な創造物になり、欲望のゆえに争うことを避けられません。(ヤコブ4:1-)

そこで、創造者は人間に寿命を与えました。それは、ひとつには不完全な人が永遠に生きることによって神の創造の目的が永遠に達成されないようなことのないためであり、「罪の報いは死」とされ人間には寿命という限界が与えられました。倫理上の欠陥である「罪」は人類と神との間を隔てる壁となっていて、人は誰も自らの力だけで聖なる神に近づくことはできません。(創世記3:22/ローマ6:23/イザヤ59:2)

この状態を打開し、人間を創造された通りの姿に戻すことを神は計画されました。
そのために、神と人の間に立つ「仲介者」(「仲保者」)が立てられました。それが「神のひとり子」とも呼ばれるキリストであり、この方の犠牲によって人類は創造された姿で永遠に生きる「神の子」に復帰することで、「罪の報い」である死を許される道が開かれました。この犠牲による「罪」の相殺は「贖い」(あがない)と呼ばれます。(コロサイ1:14-17)

この贖いによる人間の創造神との関係への復帰が聖書全体を貫く主題であり、信仰深いアブラハムという非常に古代の人に示され、その子孫イスラエル人が預言者モーセによって整えられ、キリストの到来によって人間回復の手段が具体的に現わされはじめました。その手段は「神の王国」と呼ばれキリストの教えの主要な部分となりました。(ルカ8:1)

「神の王国」はキリストの犠牲による贖いを適用して生ける人間の罪を無くし、その間に社会の仕組みを争いから愛に変えてゆく統治を行い、そうして人間を神に近づける働きを行うことになります。
そのためには、天に去ったキリストがその王国の王権を得てもう一度人間の社会に臨むことが待たれています。このキリストの帰還は「臨御(パルーシア)」(あるいは「再臨」「臨在」)と呼ばれます。(ルカ19:12/21:27)

現在は、このキリストが人間社会に対し偉大な王として「臨御」(りんぎょ)することが待たれています。
したがって今日のキリスト教の目的は、聖書の中に示されている長い時代に亘る神の計画の仕上げの部分を成していて、信ずる者には、神の目的のこれまでの歩みを知り、神の目的に賛意を抱いて将来に王権を受けるキリストの臨御を待つことが求められます。(マルコ15:43/黙示録22:20)

しかし、キリストの二度目の現れは、かつてイエスがユダヤに現れたときとはまるで異なる仕方となり、「雲と共に」臨御されるので、直接目で視ることはありません。(ルカ21:27/ヨハネ14:19/テモテ第一6:16)

それでも、キリストの臨御が人々にはっきりと知らされる段階があり、それは顕現(エピファネイア)と呼ばれ、そのときには、地上で起こる超自然の事柄を通して、キリストが確かに人類社会に関わっていることを誰もが知ることになり、そのようにして、あらゆる人々は象徴的に「雲と共にあるキリスト」を「見る」ことになります。(マタイ26:64)

それまでの間、キリストの大使として任命される弟子たちが聖霊の賜物を受け「聖徒」として現れます。
彼ら聖徒が聖霊によって語り、奇跡を行うことで、古代のユダヤのように、世界はキリストを受け入れるか拒絶するかにより、人々がひとりひとり裁かれることになります。(ヨハネ10:38/14:12/マタイ12:31-32)

キリストと神の義を信仰のうちに迎える人々は、神の王国の支配と罪を除く「贖罪」(しょくざい)の祭祀を受けるための「千年期」に入ることになるでしょう。神の王国が「千年王国」とも呼ばれるのはそのためです。それは「神の子」への復帰を可能とする過程に人々が入ることを表しています。(黙示録20:4/21:1-4)



  次へ⇒ 3.「聖書」神の言葉




 補足情報
 キリスト教の究極目的:元来キリスト教は何のために存在しているのかを部外者向けに説明

キリストの王権領受の時:黙示録の四騎士に関連して、終末にキリストが王権を受ける時を解く


Quartodecimanism
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3.「聖書」 神の言葉

2012.05.06 (Sun)
”新十四日派の基礎教理”
3.「聖書」 神の言葉

 現在において信仰や賛美の根拠となるものは、「聖書」と呼ばれる「旧約」と「新約」の二部を併せ通常六十六の書*をまとめた書物です。この書をより深く知ることを通して神を、つまりその性質や行いを知るようになり、それは心に畏敬をもたらすことになるでしょう。

 旧約聖書は神が地を整えた過去から人類の始祖アダムの歴史を含め、偉大とされる預言者モーセのときから、キリスト前四百年ほどの時代まで書き継がれました。モーセの「律法」・詩篇などの「諸書」・「預言書」の三部で構成されています。

 その後、四百年の時代の空白があった後、キリストの現れる直前のバプテストと呼ばれるヨハネの登場から、イエスの宣教と死、そしてキリストの使徒たちの時代に新約に属する書物が記されました。
キリストの伝記には四つの福音書があり、その後の使徒たちの活動と主要な弟子たちの書簡が続き、終わりに黙示録があります。

 これらはキリストの初代に属する使徒や弟子たちによって書かれ、最後は使徒ヨハネの黙示録や福音書などを以って、以後は聖書に含まれるほどに価値ある霊感の著作は現れなくなりました。
その他の多くの似た書物も書かれましたが、それらと聖書に含まれる書との間には読んで分かるほどの違いがあります。
聖書文書はたとえ難解な書であっても人の価値観を刺激し、神に関する新たな展望が開かれるのに対し、外典や偽典と呼ばれる書物は霊感に欠け、凡庸さを免れないために自ら退けられたようなところがあります。

確かに聖書の周辺にはそれに似た疑典や、聖典に含まれなかった外典も無数に存在していますが、聖書の66冊はユダヤ人や初期キリスト教徒によって選別され続けて今日に至っており、聖書の全体に習熟した読み手なら、正典とそれ以外の価値の違いは実感できるものです。それは親しい人の名を偽った手紙のようで、聖書に習熟すると違和感を感じさせます。

 最終巻とされている使徒ヨハネの黙示録は、「終末」と呼ばれる王権を帯びたキリストの帰還の時代を預言する書で、旧約の預言書やダニエル書とリンクして「人類の裁き」や「神の王国」の実現という将来までを知らせる書となっています。

 したがって、聖書という本は、創世記からの最初の五冊とヨブ記を編纂したモーセの時から少なくとも13世紀間記され続け、わたしたちの時代の先までをも予告しているので、この書の中には意志の一貫した神の計画(経綸[けいりん])が込められています。それは人間が考案して書き上げることができるものではありません。

 これらの書には、神が霊感を与えて書かせた御言葉や預言、また神の御力の表明である聖霊がどのように働いたかを知らせる過去の事跡が含まれていて、それらが人の信仰を呼び起こす元となります。
その意味で、聖書はキリストの帰還するまでの間における人々の信仰の唯一の礎となっていますので、この本を知るほどに神に引き寄せられるでしょう。

 聖書は、いずれの部分も人の手によって書かれましたが、神の霊感が導いたと言える一種の聖性を備えているので、そこに含まれる各書には古来高い価値が認められ、歴史的にも芸術的にも大きな影響を与えてきました。
 聖書ほど多くの古写本が存在する本はなく、これほど翻訳され世界に流布した本もありません。


「旧約聖書」はユダヤ=イスラエル人の言語であるヘブライ語と、幾らかの部分が古代オリエントの共通語であったアラム語で書かれました。最も古い写本は前二世紀に遡る「死海写本」があります。
「新約聖書」は古典ギリシア語が原典とされており、最も早い時期の新約の写本はギリシア語大文字で記されたもので、現在一番古いパピルス断片は西暦二世紀のものです。

 聖書翻訳については、それぞれの言語の持つ言葉のニュアンスの違いや、翻訳者の傾向により「完璧な翻訳」というものはけっして存在しません。ほんの僅かな言葉の差でも大きな違いになることは意外に多いのです。
そこで、翻訳聖書を読むなら、傾向の異なるような複数の翻訳聖書を持ちそれぞれを読むことをお勧めします。

もし、本文(ほんもん)のヘブライ語やギリシア語を参照でき単語の意味や文を確認できる環境を持つことができるなら、更に理解を精密に深める機会を得られるでしょう。最近はインターネット上に主要な古写本や逐語訳付き復元本文なども公開されているので、利用はさほど難しいことではありません。

 言語は考え方を左右します。それら原語の逐語訳などを用いて本文の世界に触れることで、聖書の世界の息遣いを聴き、その本来のニュアンスに近づくときに理解は劇的に啓かれ、より一層聖書に引き寄せられることでしょう。

 しかしこれは、聖書の言葉を逐一、神の霊感の込められた不動の言葉であると、偶像のように見做す態度とは異なります。
それぞれの写本による違いについては、新約はもちろんのこと、専門の抄本写字生によって書き継がれた旧約聖書でさえも、写本による差異がまったくないわけではありませんし、ふたつのどちらの意味にもとれる単語も幾つか存在しています。

多くの翻訳聖書は、ほぼ信頼することができますが、翻訳が難しい箇所や意味が分かり難いところは、どんな翻訳でもそれぞれ避けることができません。また、翻訳した人々が属する宗派の教理の影響もまったく除くことも難しいと言わざるを得ません。
 それでも、大半の場合でも文章上の差は、文脈の意味をまったく取り違えるものに至ることは少なく、翻訳聖書は信頼できないからと、それらすべて退けてしまう必要はないでしょう。むしろ、様々に異なる言い回しからヒントを得ることの方が多いのです。


 聖書を「新約」「旧約」と呼ぶ慣わしは非常に古く、西暦第二世紀の小アジア派で用いられています。これらの「約」は「契約」を意味し、聖書中の預言者モーセによる古い「律法契約」とキリストによる「新しい契約」という二つの代表的契約を意味しています。
しかし、聖書中には他にも幾つも契約がありますし、他の理由からも「旧約・新約」の呼称に問題が無いわけではありません。

 別の呼び方、つまり古い方を「ヘブライ語聖書」、新しい方を「ギリシャ語聖書」と呼ぶ方法もあるでしょうが、これについては、「ヘブライ語聖書」(旧約)の古代ギリシア語訳で「七十人訳」(セプチュアギンタ)と呼ばれるところの、これもまた重要なギリシア語聖書資料があって、聖書学習を進めてゆくと、この「ギリシア語の聖書」と新約部分を意味する「ギリシア語の聖書」の間で頻繁な混乱が生じ易くなってしまいます。
そこで、幾らか問題のあるとしても、この「新約」「旧約」と聖書を呼ぶ慣わしは今日でも簡便で有用といえるでしょう。

 旧約聖書は現在もユダヤ教の聖典であり、これは「タナハ」[TANAKH]と呼ばれています。しかし、ユダヤ教徒は今日に至るまで新約聖書を認めず、イエスは「ガリラヤの私生児で魔術師」であると見なします。

 一方で新約聖書は、旧約聖書の内容の上に立ってはじめて理解できるものなので、旧約を学ばないキリスト教徒は理解に混乱を招きます。また、ユダヤ教徒は新約を読まないので、旧約に書かれた深い意味を悟れずにいます。

 この分離はユダヤ人のキリストの拒否によって惹き起こされましたが、キリスト教徒の方はユダヤ教徒を「主殺しの民」と見なして度々迫害してきました。この不和がユダヤ教とキリスト教の双方の理解を分断して今日までに及んでいます。

 聖書全巻は、最後の十二使徒ヨハネによって西暦百年ころに書き終えられたもので、旧約も新約も全部で四十人ほどの著者は、全員がヘブライ人であり、そのほかの民に属する著者はいません。
 キリスト・イエス自身もまったくのヘブライ人であり、聖書はイスラエル=ユダヤの中に与えられ完成したものですから、聖書の教えはヨーロッパではなくユダヤの観点から見る必要があります。

 ですが、この点で大いに恵まれているはずのユダヤ教徒はイエスを認めず処刑してしまい、新約というユダヤ教を次元上昇させたはずの優れた教えを受け入れていません。

 一方で、キリストの教えを受け入れたヨーロッパは、ユダヤを嫌い、その本来の観点を捨て、五世紀頃までに自分たちの哲学や神秘主義を織り交ぜて異教的キリスト教会を作ってしまいました。今日見られるキリスト教会は、現在もこのギリシア=ローマ型のキリスト教スタイルのまま続いてきたものがほとんどです。

そこで、本当にキリスト教を理解しようと思うなら、新旧の双方をバランスよく学ぶ必要があります。

 使徒ヨハネが指導した第二世紀初め頃の小アジアのキリスト教は、そのユダヤ性を周囲の異邦人的キリスト教から非難され、ヨハネ黙示録さえも聖典から除外されるほどでした。
 しかし、これらの最後期の著作群は新約聖典の中でも重きを成していて、将来の弟子たちのあるべき姿までをも知らせる点では最も傑出した内容を持っています。

「新十四日派」は、エルサレムの「柱」と見なされ、十二使徒の最後に残ったヨハネを通して、ユダヤ・キリスト教の伝統を受け継いだ小アジアの「十四日派」と呼ばれる人々のキリスト教を再興し、聖書全巻を貫くイスラエルの観点を保ちつつキリスト教を追求してゆくものです。










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4.『神の義』

2012.05.05 (Sat)
”新十四日派の基礎教理”
4.『神の義』

 キリスト・イエスは『神の義を求める』よう命じられました。(マタイ6:33)
『神の義を求める』とは、神にこそ正義があることを認めることから始まります。

当然ながら、様々な人間の作った「人の義」に固執することはできなくなるでしょう。
なぜなら、誰であれ人間が「完全な正義」を提出してみせることができるものでしょうか?
使徒パウロは『あらゆる人が偽りであっても、神は真実であるように!』と正しさが神にあることを強調しています。(ローマ3:4)


宗教と政治の世界には完全な正義がありません。
そのために、このふたつの分野では争いが絶えませんが、その原因は本当の「正義」を誰も持っていないところにあります。人が正義を持てないのは、人類全体に倫理上の欠陥があるためで、聖書はこれを「罪」と呼びます。

「罪」は個人の失敗や不義理を指すものではなく、人類全体に宿る倫理上の欠陥、つまり貪欲の傾向のことです。
この「罪」のある限り、人が真実の正義を自ら持つことも、争いを無くすこともあり得ません。

しかし、神にあってはそうではありません。神はその正義によってすべての争いを止めさせ、政治にも宗教にも唯一の正当を主張できる方です。
それを実現させるのが「神の王国」であり、その目的は人間から「罪」を除き、貪欲ではなく愛によって動かされる社会を与えるところにあります。
それで、「山上の垂訓」の有名な言葉『神の義と王国を第一に求めよ』にはこうした深い意味があります。(マタイ6:33)

しかし、ユダヤの宗教指導者は自分たちの正義に固執し続けて、キリスト・イエスが現れたとき、遣わされたキリストを退け処刑させてしまいました。

彼らの正義とは、イエスが自分たちの方法で安息日を守っていないからイエスは間違いであるという、外面的な規則の問題に過ぎませんでした。彼らは自分たちは正しいと思い込んで疑うことも無く固執し、キリストに示されていた貴重な「神の義」をも退けてしまいました。

また、彼らは神の律法を守るなら正義を得られると考えましたが、そのようにして自分の中に「罪」があることを認めませんでした。パウロはそれを『神の義を知らず、自己の義を建てようとして、神の義に服さなかった』と指摘しています。(ローマ3:10)

そこでやはり『神の義を求める』ためには、人間の義に固執することはできません。
つまり、人は自分たちで正義を打ち立てることを断念し、神から正義を求めようと心をニュートラルにする必要のあることを意味します。(ヘブル4:7.10)

それは主に倫理面、つまり政治の論争、つまり人々を分断する意見の違いや愛国心などに出来る限り関わらない姿勢を意味するでしょう。

加えて、キリスト教界には無数の宗派があり、それぞれが「正統」を主張するかもしれませんが、私共は自派に正義があると主張するものではありませんし、唯一の正統を称えることもありません。
それは、神こそが真の正義を持つことを認め、それが示されることを待ち望むことで『神の義を求める』ためです。

『主の奴隷は争うこと(必要)なし』と使徒パウロが言い表したように、神こそが正義も正当も持たれることを認めて『神の義を求め』ようとすれば、自ずと人間のあらゆる「正義」を巡る争いから自由にされます。(テモテ第二2:24)

パウロは、弟子たちが『言葉を巡って争うことのないよう厳しく命じる』ようにと指示しています。
宗派毎に分断された人々が、それぞれの表面的な違いを理由に排撃しあうのは、非キリスト教的であり、また虚しいものではありませんか?(テモテ第二2:14)

キリスト教であれ何であれ、様々な宗派が自己正当化して争い合うことは無益であり、『神の義』の前には何の意味も成しません。
この観点を持てば、宗教や政治などで様々な争い事を起こしたり、その敵意やストレスで疲れることから解放されて、神の平和な「安息」に入ることができます。(ヘブル4:10)

現在、その平和は自分にとってより正しいと思えることはあっても、それをまったく正しいとは看做さず、主張しないところから始まります。今日まで、使徒たちや初代の弟子のように、神の聖霊を受けて真理を語れる人は世に一人も現れていないからです。(ローマ3:10)

このような実際的観点を持てば、様々な教派の人々を尊重でき、意見の違いで対立することを避けられます。
私共はこうする事を「教理控制」と名付けました。これによって私共ばかりでなく様々な宗派の人々にあっても、教理という不確かなものが偶像化して人々に敵意をもたらすのを防ぐことができます。(マタイ15:9)

実際、人類の裁きはこれからであり、誰もがひとりひとり公正に裁かれると信じるならば、何かの宗派に入ることで救われるとは思えないでしょう。(マタイ25:32)

真理も信仰もひとつ、と反論されるかも知れませんが、それらは人間の所有するところではなく、現実とは程遠い理想となってしまいました。真理も信仰も神からの啓示によって与えられるもので、人間の「真理」は間違いや訂正を免れません。それにも関わらず、自分たちだけを正しいと主張するなら論争が起こってしまい、多くの宗派に分かれて反目するのを避けられません。(ルカ16:15)

今日、真理も信仰も持つと正しく言える人がいるなら議論の余地無くキリスト教はひとつになっていることでしょうし、将来に神が聖霊によって啓示を与えるときには実際にそうなることでしょう。そこに『神の義』がありますので、聖霊の言葉を聴く者は心を頑なにしないで受け容れる理由があります。(ヘブル3:15)

そのような将来の一致をもたらす聖霊の業を、私共はキリスト教の「回復」と呼びます。
それは神の業であって人間の努力の産物ではありません。(イザヤ2:2-4)
人類がやがて聖霊を通して神からの言葉を聴くときに、かつてのユダヤ人のように『心を頑なにしてはいけない』と聖書は警告を与えています。(詩篇95編)

『神の義を求める』とは、このようにして自らに「罪」という倫理上の欠陥のあることを認め、神と人との間の平和を促進することです。




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 「教理控制










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5.キリストの教え「愛の掟」

2012.05.05 (Sat)
”新十四日派の基礎教理”
5.キリストの教え「愛の掟」

『あなたがたは互いに愛し合いなさい』というキリストが与えた掟は、文面は簡単な一カ条ですが、行うに当たってそれは易しいものではなく、その人の持つ様々な良い特性が様々な場面で求められ、またその人なりに伸ばされてゆきます。それは固定された条文であるモーセの「律法」と比較すると、外面と内面というほどに、異なる意義を有しています。(ヨハネ13:34/ローマ13:8)

これをキリストは『あなたがして欲しいと思うところを他の人に行いなさい』また『隣人を自分自身のように愛するように』とも述べておられ、『受けるより与える方が幸福』という精神が示され、加えてモーセの律法の『神と隣人を愛せ』という条項が最も重要であることも示されました。(マルコ12:29.30)

これがキリストに従おうとする者すべてに求められる「掟」であって、予め定められた規則に従うことではないところにキリストの教えの革新性や素晴らしさがあります。(コロサイ2:14)
定められた規則を守ることは、一般の法律のように一定の道徳水準は満たさせても、その人そのものを内面から変えてゆくものにはなりません。条項を守る行いでは、その人の動機は必ずしも問われません。(ローマ13:10)

しかし、使徒パウロが指摘したように、キリストに従う者は一切の律法から放たれており、十戒をはじめとする旧約の掟を履行することは一種の「奴隷」状態へと逆行することになります。(コロサイ2:21)
しかしキリストの信徒は、ユダヤ教のようにではなく愛によって「心に律法が書き記された」ように行動することが出来、またそれが求められています。それこそは神と隣人を愛するという一言に尽きます。(エレミヤ31:33)

この「愛の掟」は細かな規定がまったく無いので、その人の心にあるものが問われることになります。
この掟を行おうとすると、その人は自分の愛や共感や同情などを奮い起こさねばならず、積極的に関わることになります。したがって、この掟は履行される度に、その人の内面をアガペー愛の方向に形作り、それはその人をより一層キリストに倣う者としてゆくことでしょう。

「神の王国」とこの「愛の掟」はキリストの教えの二本の柱のようになっています。
現在の世の中はキリストの愛とは逆の欲の争いを中心として動いていますが、これは人間の創造された姿からも、イエスのように善を行い、敵をも愛するほどの精神からも大きく隔たっています。(マタイ5:44-47/ヨハネ第三11/ヨハネ第一4:8)

現在の世界では、周囲と自分自身の「罪」の傾向から「愛の掟」を実践しようとしても行えることは限られてしまいます。しかし「神の王国」が到来しその支配されるときには、人間は愛を中心にして動く社会を受けることになり、現在の世とは異なる愛の精神をより一層伸ばすことが出来るようになります。(ルカ6:27.35/ヨハネ第一2:17)

それで「愛さない者は命に入らない」というヨハネの言葉は、憎しみが「神の王国」に入るに相応しくなく、そのようにし続ける人が除外されても仕方ないことを知らせています。(ヨハネ第一3:14)

それで、信徒に務めは「神と人を愛する」ことであり、このほかのことを定めとすることはありません。*
「愛の掟」は生活のあらゆる場面で適用する機会が生じるので、求め続けるべきものであり、何をしていれば良いとか救われるとかいうこととは無関係に、アガペーがその人の特質となってゆくものです。(箴言3:27)

この「掟」に従う人々は、「掟」に基くその行いの判断に意見を求めることはあっても、どのようにすべきかを決定してもらうようなことはありません。もし、そうするなら律法遵守に逆戻りしてしまいます。そこでは失敗もあるでしょうが、個人においてそれを修正し続けることで、状況に柔軟に対処できるように個々に成長させることができます。
また、効果の良し悪しはあっても、他から善悪を宣告されるべきでもありません。また、それは単に愛情や慈善に耽溺することでもありません。(ローマ14:1-4/コリント第二9:7)

現在が欲のために争い奪い合う社会であるために用心も必要ですが、信徒はその限界や資質に応じて自らの愛に基づく言行を追い求め続けます。(マルコ14:7/アモス5:14)

それは誰にとっても常に易しい「掟」とはならないでしょう、そこで、愛の資質はずっと向上させてゆくべきものとなります。その最終目標は「キリストの丈の高さ」であり、真に利他的な愛の人となることにありますが、現在の世ではそこまでは到達できません。(エフェソス4:2.13)

しかし、それでも愛の資質を向上させるに従い、その人は「神の王国」に相応しい人となりを造ろうと努力することになり、その姿勢は神の意図された精神を理解するようその人を助け、キリストの犠牲に与る永遠の命を自他共に得るよう希望して、利他性を培うことになるでしょう。

しかし本来は、その効果を願って、あるいは酬いを求めて「愛の掟」を履行しようとするわけではありません。その動機はその人の内奥から湧き上がるような無作為のものであるほどにより相応しいもの、つまり、アダムからの『罪』への悔いに動機があることでしょう。


(*コミュニティを害する恐れのある道徳基準の低い信徒に対しては、勧告によってある水準を維持するよう求めることはあるでしょう(テモテ第一1:9-11))




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 補足情報
  「愛の掟」 :この世を動かしている精神とキリストの教える愛(アガペー)の違い






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6.キリストの王国

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
 6.キリストの王国


『王国』というキリストの教えの中でも特に大きなこの主題は、聖書の全編を流れる「人類の救い」に深く関わります。キリストであるイエスはこの『王国』について弟子に度々語り、多くの譬えを用いて様々な角度から教えました。

しかし、それはギリシア語で『天の王国』また『神の王国』であって一般に言われるような「天国」のように、天で人々が至福を味わうものとは異なります。

それを一言で云うなら、地上に創造された人間を創造された本来の輝かしい状態に復帰させることを目的とする、統治と贖罪のための時限的機構ということができます。
それは、いずれはこの地上をあまねく治める現実の政権となるのであって、人の「心の中に在る」と云うようなものではありません。

この王国については聖書の中に様々な形で書かれてきたので、時代と共に徐々に実体が明らかにされてきました。

アダム以来、人間が創造の神から離れてしまってのち、神は今から四千年以上昔の人アブラムにご自分を現わし、彼の子孫を通して『地上のすべての家族は自らを祝福する』ことになると約束されました。

それから四百年以上を経たモーセのときに、神がアブラハムの子孫であるイスラエル民族と契約を結ぶときにも、やはり神は『契約を守るなら、あなたがたを祭司の王国、聖なる国民とする』と言われ、彼らが人類を祝福する特別な王国になることを示されました。

そのため、イスラエル人はその「王国」の実現を願い、その王となる任命された方が彼らの中から現れるのを待ち望んできました。その方は古代イスラエルの王ダヴィデの王統に属する家系から来られることが、後に神から知らされます。その方は「平和の君」と呼ばれ、イスラエルを超え世界を統べ治めるとこも預言されました。

また、その方は神から任命されるので「メシア」(任命された者)という称号で呼ばれることになりました。そのギリシア語が「クリストス」でわたしたちが「キリスト」と呼んでいるイエスのことです。

イエス・キリストは、ダヴィデ王の家系に属するヨセフとマリアの長男として生まれ、地上で過ごされた期間中に王になることはなく、むしろ磔にされ処刑されました。しかし、これはアダムの時以来、先見された犠牲の死でありました。
まず、キリストはこうしてアダムに対応する贖いの犠牲となり、人々を救う基礎を据えられ、人間となって地に降った目的を果たしました。

その後、復活したキリストは霊の存在となって神の許に戻られ、自らの王権に取得と「王国」の実現の時を待って準備してこられました。そのひとつが、弟子の中から選ばれた人々に聖霊を与え、キリストが行っていたような奇蹟を行わせたことです。

彼ら初代の信徒たちが聖霊を受けたことは、その人たちが神の王国に迎えられ、イエスと共に霊の存在となって「王また祭司」として仕えるのに選ばれたことを意味しました。

そのため使徒ペテロは当時の信徒たちを指して『あなた方は王なる祭司、聖なる国民』であると、昔にイスラエルへ語られた言葉をもう一度繰り返しました。つまり、聖霊を受けた初代の弟子たちが「神の王国」に召かれたことを示しています。

この王国の支配が始まる前に、キリストがもう一度人間社会に関わりを持ち始める時期が来ます。
これは一般に「再臨」とも呼ばれますが、私共には、王権を帯びたキリストの「臨御」(りんぎょ)と呼ぶのが適当と思われます。
というのも、キリストが二度目に来られるのは『神の王国』の王権を帯びた霊の姿となってのことで、人間の肉の弱さを持たないからです。

将来、キリストの「臨御」の後「神の王国」は世界を治め、何者にも妨げられず千年の間に生ける人々を愛に基づいて治め、また「罪」を除いて永遠の健康をもたらします。

これが人間の救いであって、至福の天国や死後霊魂がどこかで生き続けるという教理は、元々イスラエル=ユダヤの教えにありませんし、その救いは人類全体を含む大いなる神の意志なので、キリスト教は個人の利得や軽い癒しなどの「ご利益信仰」とは正反対のものです。

また、人間の政治と宗教も人間の「罪」への対症療法であって、「罪」の根本治療を施す「神の王国」の前には道を空けるべきものとなります。

この「王国」の支配を通して人間は「神の子」の立場に回復され、アダムが得ていた輝かしい姿を再び見せるようになります。諸苦は消え悲しみも去り、人は寿命や老化に制限されない人生に入ることになり、「王国」はその役割を果たします。

千年続くこの王国の築く世界は、人類の贖いがどれほど優れたものになるかを諸世紀の復活者たちに明瞭に示すものとなり、人間の業は神の業に到底及ばないことの証拠となるでしょう。




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 補足情報
「神の王国」 死者の行くという「天国」とはどのように違うかを聖書歴史から説明                      










                                     .

7.信徒と聖徒

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
7.信徒と聖徒

それで、神の側を選ぶ人すべてが天に行くわけでは無く、キリストと共になるよう選ばれた限られた人々だけが、「王国」の聖なる国民、「神のイスラエル」となって天に挙げられアブラハムへの約束が果たされることになります。(創世記22:18)

その違いを分けるものは人の思い込みや願望によるものではなく、初代のエクレシアにおいて「神に選ばれ召された」人は神からの奇跡の業を行う「聖霊の賜物」をはっきり持つので「聖なる者」あるいは「聖徒」(ハギオス[ἅγιος])と呼ばれていたことを新約聖書は明らかにしています。(ローマ1:6.7/テトス3:6)

一方、エクレシアに交わって日の浅い初心者をはじめ、聖霊を持たない一般の「信徒」は席を区別され、その人が聖霊を持っているかどうかは、他の人からも分かるものであったことを新約聖書は伝えています。(ローマ8:9/コリント第一14:16)
その聖霊の賜物が、それを持つ人に現れている状態を、パウロは霊の『顕現(ファネローシス)』と呼んでおり、それは本人にだけ分かるようなものではなく、自他共にはっきりと認めることができるものであったこと、また、聖霊の注ぎが『聖なる者』の印であったと記しています。(コリント第一12:7/エフェソス1:13)

聖徒らの受けた霊は『真理の霊』でもあり、それは彼らに知識を与えて導いたのでユダヤ的背教の「グノーシス主義」に耐えつつ、二世紀の半ばにその聖霊を受けた人々が去るまで、つまり悪霊の主導する「モンタノス派」が登場するまでは、キリスト教界は同じ信仰を保って分裂するところがなかったと言われます。(ヨハネ14:17/16:13)
他方、今日のキリスト教界の四分五裂と果てしない争論は、互いに聖霊のない状態を証拠立てていると言ってよいでしょう。

初代のエクレシアに集まる人々の大半が、聖霊を注がれ奇蹟的な業を行う「聖徒」でありましたから、新約聖書のほぼ全体が聖霊を持つ彼らに向けて書かれた内容であり、初代の聖徒たちが去って聖霊が無くなった後には、教理が混乱し、聖書の表面を呼んだままに、洗礼を受ければ皆が聖霊を注がれて天に行く聖徒であるとされる誤解が生じ、それは今日までキリスト教界での大勢を占めた理解になってしまっています。それでは仏教の極楽や、イスラムの天国と変わらない教えになり、キリスト教の優れたところは失われてしまいます。(使徒4:31/コリント第一14:5)

しかし、キリスト教の目的が天国の至福で終わってしまうのなら、却って神からの「救い」をキリスト教徒に限定してしまうことになり、人類全体を救済するキリストの犠牲は狭い範囲に限られてしまう上に、キリスト教を「聖霊の内住による救い」のご利益信仰にしてしまい兼ねません。それは同じ「聖霊」を教えることにおいて似ているようでいて、利他心から利己心へと180度変化してしまっていることになります。その信仰では、未信者への優越感と軽視を避けられませんし、キリスト教の精神とは言えません。

また、「聖霊」が自分たちに有るというなら、使徒たちの時代のような奇跡を行う『聖霊』を求めることも、注がれることもないでしょう。それは切に願い求め、探し続けるところに与えられるものであることをイエスは教えているからです。

ですが現在まで、いまだキリストの「再臨」が起こっていないことを証しするかのように、キリスト教初代のときのように聖霊を注がれて奇蹟の業や神の宣告を世界に語る人はどんな宗派からも現れていません。つまり、古代のように証しをするような同じ聖霊は、今日どこにもないのです。

もし、本当に聖霊が注がれた『聖なる者ら』が現れるなら、その人たちはキリストの王国の大使のように、「王国」の到来を論駁のできないほどの聖霊の言葉をもって政治家たちに告げるので、「王国」は大きな争点となり世界の人々の注目を集めることになると福音書は語っています。(ルカ21:12-15/マタイ10:18-20)

この聖霊の言葉を巡って、将来、人々は「神の王国」か「人間の支配」かの選択ができるようになり「裁き」にも連なることになるでしょう。それはエデンの園の中央に在った二本の木への選択に相当する、信仰に関わる神からの問いとなるでしょう。『キリストの兄弟ら』である聖徒たちを支持するか否かが、人をキリストの左右に分けるものになると福音書は告げます。(マタイ25:31-)

その「終末」とよばれる時が到来すると、聖徒たちを通じた聖霊の発言は世界の注目を集め、人間社会を激動させることになります。
その結果、信仰を抱く人々が数多く現れ、その人たちは流れのように「シオン」と呼ばれる神の崇拝に向かいます。(ハガイ2:7/イザヤ2:1-3)

ですから、「聖なる者」が現れなくてはキリストの「再臨」も「王国」も来ませんので、これを信ずる者たちは彼らの現れることを切に待ちつつ、毎年春先の一晩を取り分けて、キリストの創始した「主の晩餐」の儀式を行います。(ルカ22:19-20)

その儀式では、キリストの体を表す無酵母パンと、キリストが血の犠牲を以って仲介する「新しい契約」を表す赤ぶどう酒の二種類ののエレメントを用いて、信徒たちは観想の時を持ちます。しかし、聖霊を持たない信徒はパンにもぶどう酒にも与りません。信徒は契約の外にいるからです。(コリント第一11:27-29)

しかし、聖徒が現れるときには、彼ら聖霊の賜物をはっきりと有する人々がそれらに与るところを見守り、神の計画の進展を共に喜ぶことになるでしょう。

西暦第二世紀の小アジア地方のキリスト教徒たちは、ユダヤ暦のニサン月14日の晩にこの「主の晩餐」を行っていました。
これはキリストの十二使徒中、最後まで残ったとされる使徒ヨハネに由来するもので、彼らは「十四日派」と呼ばれていましたが、ローマ国教化に圧迫されやがて中世の闇の中に姿を消してゆきました。

21世紀の「新十四日派」は、聖霊の再降下は別にしても、キリスト教完成の姿に最も近いと思われる古代に存在した「十四日派」という使徒由来の小アジアの教理と信仰のモデルを踏襲を標榜するものです。

それはローマ国教化によって本来ヘブライのものであったキリスト教が、ヘレニズム哲学や異教と混じって変質を遂げる以前の原始キリスト教への回帰を目指すものでもあります。


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 補足情報
 エクレシア内の信徒と聖徒:初代期にも見られた信徒と聖徒の区別

 聖霊と聖徒:聖徒とはどのような人々か

 主の晩餐とは何か:キリストが定めた唯一の定日行事の意義




                                   .


8.信徒の務め

2012.05.04 (Fri)
”新十四日派の基礎教理”
8. 信徒の務め


現状で考えられる「務め」と思える事柄を以下に列挙しておきます。


◆「愛の掟」

信徒の務めるべきことは、何を以っても「愛の掟」に尽きます。

そこから、様々な務めが派生することでしょうけれども、もっとも重要なことはその人の自発心、つまり「愛」からその務めが起こされることです。

 人を愛することは、わざわざ「親を敬え」や「不義を行うな」という規則を設けなくてもその人の内奥からその動機が湧いてくるでしょう。そのようにして愛を育て向上させてゆくことがキリストに倣うことであり、キリスト教徒と呼ばれるに値します。

 この世は、利得や法律の処罰という外からの要求によって人を動かそうとしますが、神の世の原動力は人の内面に働く「アガーペー」と呼ばれるキリストに倣う愛によるもので、外面と内面ほどにまったく異質なものです。

他方で、人類社会は、この「愛」の動機によって行動することに慣れていません。
正義を定めるのは法規であり、宗教では信者の生活を規定することで神の前に善と判断されるとしても、それは人間の観点のものに過ぎず、神は人の内面をご覧になると聖書が教える以上、人に見せるための善は神の前には意味を成しません。
そこで、神に近づきその道を歩もうとするなら、日々キリストの愛に倣うよう努める必要があります。

 その愛の務めは、その人の限界や能力に応じて与え、助け合い、喜ばせ、忍耐し、善を共に喜び、悲しみを共に分かつことを意味します。欲に動かされるこの世はいつしか終わっても、愛の行動原理は永遠に続くものとなるでしょう。(コリント第一13章)


また、神への愛は聖書に親しませ、より多くを知ろうとし、また人にもその教えを語り、内容を知らせたいと思うでしょう。

それは、良い評判を勝ち得て模範者となることを目的とするわけではなく、また、他の人と比べて自分を悦ぶのでもありません。常に自己の内奥の良心への問いであり、その絶えざる奉仕であって、これを誰かに誇るなら愛の動機は失われ、行ったことも色褪せることになるでしょう。
ただ、その喜びとするところは全体の益にあります。そこでは自分自身を愛することも含まれないわけではありません。即ち、自分を愛するように他の人々をも愛するということです。(マタイ7:12)

 万一、道徳性が低く、エクレシアのコミュニティを害する危険がある場合には、その信徒の認識は「愛の掟」を履行するまでに達していないと見做されるでしょう。
 このような場合に限り、エクレシアを監督するエピスコポスは他の役員の協力も仰ぎつつ、その信徒に一定の教条を課すこともあり得ますし、法を犯すほど著しい場合、外部の権力に委ねるべきこともあるでしょう。(テモテ第一1:8-11)

また、個人間の問題への対処については、マタイ18章にある解決法を採用するでしょう。



◆「神の安息」に入る

 モーセの律法下では、六日労働して七日目を休むという「安息日」としてそれは表現されていました。
つまり、神の創造の業が象徴的六日間で終了し、第七日を休んだことにちなむものですが、この第七日は現在も続いていることを新約聖書は教えています。

 しかし、キリストが律法を成就させて終わらせ、使徒パウロを通しこの安息日を不労働で過ごすことよりも重要な意味が指摘されました。それは「安息日」の示していた意義を知り、その精神に沿うことです。
 したがって、信徒が七日に一日の不労働を守ることにこだわる理由はありません。

 神の休みの意義は「自分の業を止め、神の安息に入る」というところにあります。
神の安息とは、ひとつには現状で人々が『顔に汗してパンを食し、遂に地面に帰る』という云わば「生きるために生きる」生活から精神的に自由にされ、神こそが必要な一切の供給者であることを認め、それぞれに相応しい範囲で金銭や利得を求めても、あくせくとはしない考え方をすることを意味します。むしろ、自分の状況に関わらず、神への感謝のうちに人に益を与える機会を求めるほどになれるでしょう。

 イエス・キリストは山上の垂訓の中で『何を食べるのか、何を着るのかと思い煩うな』と訓戒されました。このように自分の益に目ざといこの世に在っても、キリストの教えに則して、恰もアダムがエデンの園に居たときに似た自由さを心に抱くことは不可能ではありません。

 また、『神の休みに入る』人は、人間の正義を立証しようとする様々な務めから離れ、政治や宗教、またイデオロギーに関わって空しい活動に邁進することからも解放されます。
なぜなら、真の正義は神にだけ在り、どんな人の正義も不完全であり間違いを避けられず、真の正義とはなり得ないからです。

この点で『神の休みに入る』とは、自分を中心にした利己心から離れることも意味します。
つまり、「神は自分に何をしてくれるのか」と問うことを止め、「神が何をなさろうとしているのか」を求める信仰方式を受容れます。それはご利益信仰の利己心を去り、神の意志を求めて自己犠牲を完うされたキリストの精神に倣うものです。

 人間の正義のもたらす益は不確実ですが、神の正義がもたらすものは『神の王国』という人類の成し遂げられない膨大な益を人類のすべてに与えます。しかもそれは、すでに捧げられたキリストの犠牲によって実現することは間違いない状態に入っているのです。
 そこで、神の休みに入る人は、人の正義を満たそうとする様々な努力や争いの虚しさを見抜き、泰然として、すでに『神の王国』という休みに入っているかのように振舞うことができます。その中には、自分の信じる事柄を他者に強要しないことも含まれます。

 神の休みに入るには、信仰を必要とすることではありますが、このように「休み」に入る人は神に頼って生きるので、経済的にも思想的にも、また様々な生活上の争いからも解放されて、この世の生き方を後にすることができるのです。
 これこそ金銭によらずに様々な益を得られる、精神的に豊かて安寧な生活と言うことができるでしょう。

 このような信仰に近付くにしたがい、自分の人生をより良くすることよりも、神のご意志と協働したいと願うことでしょう。
それは、その人に利他的な資質を培わせ、金銭や欲のための奴隷のように生きることを防ぐ働きをするものと思われます。
 それは常に楽な道とはならないでしょうけれども、心に自由や愛を掲げることはできるでしょう。
それでも、その人がすでに善人として認められ、永遠の命に値すると見なされているわけではありませんが、そのような性質を望んでいることを示し、神の意図やキリストの精神に深い価値を認め、賛同しているのでそうすることでしょう。



◆公権力に対して

 公共の規則や法律については『上なる権威』である公権力を神に従属するものと看做せというパウロの教えに則して、従うことに努めます。

場合によっては、神への愛と人を愛することが競合することも起こりえます。それは倫理や一般道徳上の問題が絡む場合です。

例えれば、人に便宜を図ろうとしても、それが法に抵触するようなこともあるでしょう。
そこでも、『上なる権威』に従うというキリスト教の教えに従う決意が求められます。
 但し、どんな場合でも世の正義が正しく正義となるとはいえません。法律が普遍的正義を代表するものではなく、その「正しさ」は常に暫定的であり変化するものであることは留意されなくてはなりません。そこで個人の良心上の判断が求められることもあるでしょう。

 逆に公権力が信徒に神への愛に反する行いを要求することがあるなら、「人間より神に従う」という原則に立つ決意を尽くす必要も生じるでしょうけれども、それは極めて稀なことでしょう。

 また、信徒の間は平和が保たれることが望ましく、これを乱す争論や諍いはキリストの方式に則って迅速で丁寧に解決されるよう尽力しこれを軽視しません。万一、感情的しこりがどうしても残るなら、それぞれがしばらく離れる必要があるかも知れず、そこは将来の『贖罪』に預からない限りは消えない『罪』の影響の実在を認めねばならないこともあるでしょう。

そこでは、誰もが引き続きアダムの命にあり、「罪」が働くということを直視する必要は残っています。
ですから、様々な犯罪が犯されることがまったく避けられるわけではなく、ときに世俗の法の介入を必要とするところは一般の人々と変わりません。

ですが、そうしたことが奔放なこの世と同じように起こることはないでしょう。
このような倫理上の問題においても、最重要な資質はアガーペーであり、「正義」の履行ではありません。

「愛の掟」に従おうとしてもあるいは失敗したり、人から気付かされることや、勧告されなければ分からないこともあるかも知れませんが、様々な経験が加わると共に円熟性を増して、より練達したキリスト教徒となってゆくことでしょう。

このように、「愛の掟」ひとつでも聖書に通じ、神の特質を知るに従い信徒の進歩が見られるようになるでしょう。


◆集まり

また、こうした愛の業を高め励ますために信徒らが集まる、または会合することが有益であることは明らかで、パウロも『愛と優れた行いを鼓舞し合うために、集まりを続ける』ようにと勧告していますが、よりよく「愛の掟」を行う願いを持つことで、また他の仲間を愛することで、集まりへの出席に見られることでしょう。しかし、それを強要する必要はありません。

 集会は、聖書朗読と理解のための学習と祈り、また互いへの励ましのために行われるべきものです。
初代のキリスト教に倣う通常の集まりは、儀式や礼拝のためではなく、神への理解を深めるために学ぶ機会であり、愛の業を互いに励ますなどの目的に沿うものとなるべきでしょう。
 学習のための朗読は、通読を目的とせずに、一定の範囲を集中的に学ぶためのものとする方が得るものは大きいでしょう。
通読の奨励は、却って理解を妨げ兼ねません。

 神への賛美とは、(現在のところ)聖書を通じて神を知ることで、内心に起こる偉大さへの価値観や様々な感動言い表すことでしょう。このような賛美は儀式よりも価値があり、隣人を愛することは宗教上の優越感に勝ります。

 儀礼といえば「主の晩餐」と「浸礼」があるくらいで、役職任命の際に「按手」がなされます。
それらは表象であって「秘蹟」や「聖変化」のような神秘的事象ではありません。

 「祈り」は、神に語ることであると理解しますので、同じ内容の繰り返される「祈祷」や「まじない」のような儀礼は含まれません。

 この世に在っては、信仰や価値観を同じくする人々が共に学び、助け合いつつ神の業(経綸)に協働しようとすることには多くの利点があり、互いの理解や信仰を磨くことができます。

 このように努めることは、終末のキリストを迎え、「神の子たち」である聖徒の登場を待つという、「整えられた民」を形成する一員となり、神の栄光と人類の益に仕えることを大いに助けるものとなるでしょう。



◆職制

 各集まりはエクレシア(招会)であり、専任のエピスコポス(監督)が一名置かれます。
エピスコポスはエクレシアを教えることに責任を持ち、最終的意志決定を行い一致を図ります。
この職につく人に求められる資質は、教理を深く理解しそれを信じて行動できるところにあります。
また、独善的でなく、目立つことを望まず、人を鄭重に扱える人となりが必要でしょう。

 エピスコポスの下にはディアコノス(執事)が不定数任命され、実務に当たります。

 年長で、信仰に長い男子はプレスビュテロス(長老)として不定数が認証されます。
プレスビュテロイは年長者会議を持ち、エクレシアの運営に参画し、また助力します。
これらの年長者はエクレシアの必要の応じ、幾つかの専任の割り当てを受けるとき、ディアコノイを援助します。
この人々には、全体の益を中心に考えつつも、特に個人に辛抱強く慈愛ある関心を払うことができ、エクレシアの教育や牧羊にも貢献する資質が生かされることでしょう。

以上は、第二世紀の小アジアの職制に倣うものです。

 年長者会は議長を定期交代で勤め、できればそのようにして各自がその資質を向上させるよう機会を作ります。
議決権はエピスコポスとプレスビュテロイが有し、全会一致を目指しますが、ひとりでも強い反対がある場合には、他のエクレシアのエピスコポイ同士を交えた会合などを工夫できるでしょう。
また年長者会は、議長のほかに可能な限り最年長者一名を代表とします。
この代表者は人としての経験の長さからくる円熟性のゆえに、その意見が重んじられるでしょう。

 会議は集まりの前後などに定例会を行い、必要に応じて臨時会をエピスコポスまたは議長発案で開きます。
エピスコポスは原則的にこれらの会議に一員として参加します。
また、ディアコノイは招かれる場合に参加または傍聴を委嘱されます。

 会議では、古代の先例に努めて倣い、政治的また策略的手法を避けるべきでしょう。
もし、調和を著しく壊す会議参加者がある場合には、エピスコポスは訓戒を与えることが適当なこともあるでしょう。
プレスビュテロス一名はエピスコポスの不在の際に、その代行を果たすこともあるでしょう。
それは依頼によることも、また緊急なら年長者会の推薦から代行を受諾することも考えられます。

 これらの主要な勤めは可能な限り男子が任命され、その働きを実行します。
しかし、相応しい男子が居ないとエピスコポスが判断する場合には、資質を有すると看做される女性が幾つかの条件の下で用いられることもあります。但し、その人は以下のディアコノンとして任命された状態にある必要があります。

 ディアコノンと呼ばれる女性の職制をパウロが挙げていることから、この職については女性の特別の任命があります。上記の男子の職を代行する場合はディアコノンの任命を受け、その立場で代行の職を果たします。



◆宣教

加えて、「愛の掟」に沿ってあらゆる事柄で達成目標のようなものを原則的に設けませんが、キリスト教界の中で、この稀なる「新十四日派」の理解を絶やさず、むしろ広めるよう願うのは理に適ったことでしょう。

ことに、『霊と花嫁』つまり聖霊と聖徒は『来なさい!と言いつづける』と黙示録は伝えています。それに加えて『すべて聴く者も、来なさいと言いなさい』『誰でも来て命の水を飲みなさい』と書かれたからには、人々に命をもたらすことに貢献できるよう信徒すべてにとっても、この聖書理解を知らせようとすることは妨げられるべきものではなく、その精紳に従うものと云えます。但し、聖霊の無い段階では、宣教そのものが命を与えるのではなく、その機会を大きくするという以上のものではありません。

 それでも「新十四日派」には特徴となる幾つかの基本的理解があり、これらを基礎に派としての存在意義があります。
それらは、人に罪があり、キリストの犠牲による贖いを必要としていること、終末では見えないキリストに代り、聖霊が信仰の対象となること、聖霊を受ける「聖徒」が現れキリスト教が回復されること、聖霊の介在を通して世が裁かれること等が教えの根本に据えられ、これらが変えられることは、ほとんど考えられません。

また、基本的に、御利益信仰や、人間の願望を中心にした理解を離れ、神の視点を保つよう努めるところは、多くのキリスト教とも、様々な宗教の教えとも異なることでしょう。

 信徒の宣教については、できないところではなく、できるところから、また、何かを自ら工夫したり、機会を祈り求めて宣教を行うことは、誰もがすぐにでも始められることでしょう。
 聞く人々から疑問を唱えられることを恐れる必要はありません。その信徒の信じたことを信じたままに述べればよく、もしそこで間違いがあったなら、後に訂正すればよいのですし、その人は神の正義を代表するわけではありませんから、分からないことは「分からない」と言ってよいのです。その方が「正しい」からです。

 「新十四日派」の教えの利点は、現実的価値観に合致しており、常に聖書記述を基に展開しているので、根本を理解すれば、それぞれの個人が聖書理解を深めてゆける融通性にあります。絶対的な教理は、聖霊の無い以上、誰も持ち得ないからです。
ですから、教理の細かいところまでを無理に統一する必要はありませんし、仔細を争論する必要もありません。

 福音宣明者フィリポがバプテスマを受けたばかりの宦官から引き上げられたように、求められもしないのに、手取り足取り「指導」し過ぎて、その人の信仰の主人となるべきではありません。

 また、ご利益信仰ではなく、キリストに似た公共益を願う人にこの宣教は向きますが、誰彼なく仲間を増やすことは人格面での玉石混淆を起こさせ、要らぬ問題を招くでしょう。「新十四日派」は仲間も愛することに心を傾けますが、人の増加よりも重要なのは、人の「動機」や教えの「教理」などの純粋性となるでしょう。

 「救い」は、すべての人が聖霊の言葉を聞く時に、心を頑なにせず、神とキリストの王国に希望を置き、聖なる者たちを支持することによりますから、仲間にならなければ救われないわけではないことを理解しているので、「救うために」入信させなければならないわけではありません。

 それで、宣教の主目的は、帰依者を増やすより、この世やキリスト教界において誤解されている「神の王国」や「裁き」について、自分の理解していることを広く「知らせること」にあります。また、メンバーでない人々がこの教理を扱い、宣伝することを留める必要もありません。また、反対する人であっても、結果的にこちらの理解を広める助け手となるでしょう。

 宣教に当たって私共は、その主張する教理がまったく正しく、他の宗派にあらゆることで優越するとは考えません。
それは、より正確さを求めるところからの蓋然性の追求であって、神の霊感や聖霊を受けたわけではないからです。
そのため間違いは避けられず、訂正も必要とする人間の業なので、前述の「教理控制」という制約により、教理が絶対視されることを防ぎます。

 したがって、私共が宣教に当たって他宗派をまったくの「邪教」の信者のように看做したりはしません。いずれの教えにも大なり小なりの間違いは避けられないからであり、私共もまたそのようです。
 そこでは、可能な限り論争や敵意を避ける必要が生じます。議論に勝ってもキリスト教徒としては負けることのないためです。

 この点で、ほとんどのキリスト教は、新十四日派の一式の教理とは基礎の認識が異なっていますので、意見の交換という形を保ち、争論にならないよう留意する必要もあるでしょう。
 万一、新十四日派より信じられる優れた教理に出合う場合、この派を離れるも自由です。ただ、その事を伝えてから離れるのが賢明でしょう。それを仲間に伝えることも構わないばかりか、その教えを派として考慮に加えることさえ考えられます。

しかし将来、誰かに聖霊が注がれたことがはっきりするなら、そこに真実の知識が生じるので、そのときには明確に何が正しいかを述べるべき時となります。
 そのときまでは、より良い教えを尋ねて『求め続け、敲き続け』、価値観と理性を根拠に、叶う限り、教えを研ぎ澄ませて参ります。



◆バプテスマ(参入儀礼)

 バプテスマとは、人間共通の「罪」を認めで悔い改め、イエスを神に遣わされたキリストと信じ、神の人間救済の業がキリスト・イエスに託されたと認めるので、自らの希望をキリストの為すままに委ねることを示す儀礼です。それは「ゴール」ではなく「スタート」を意味します。

 確かに信仰は救いに不可欠なものですが、信仰やバプテスマが救いの保証ではありません。
信徒であってもなくても、人はキリストの帰還のときの裁きを経ることに変わりはありません。
救いは信徒になることで得られるのではなく、これから現れる聖徒を支持するか否かに関わります。 

 それでも、バプテスマを受けることは、神の救いの業の知識を得て自らの内に宿る「罪」を認め、その「罪」ある状態を望んではおらず、神の救済の御旨とキリストの贖いと聖霊の発言に信仰を示すことであり、また、何事にも利己心を抑えて『神に清い良心を願い求め』、隣人に愛ある善意を施し、信仰の仲間を持って助け合うことに意義があります。それはキリストの帰還にその人を備えるものとなるでしょう。

 したがって、「神と子と聖霊の名による水のバプテスマ」を受ける人は、基本的な教理を得心しており、人間共通の「罪」を認めて自分の義を立てることを止め、利己心に歩むことから離れ、わたしたちの為に死んだ方の利他性に沿って生きる願いを表すことになります。
バプテスマがどんな人間でも組織でもなく、神と子と聖霊とに信を置いて自身を委ねることであると理解していることが相応しいでしょう。

 それはひとつの宗派や教団に属することを意味するのではなく、本人と神の関係を表すものです。
そこで十四日派では、他のどんな宗派でどのようにバプテスマを受けたかに関わりなく、それが本人の得心できるバプテスマであったのでしたら、それを尊重し有効とみなします。それは本人以外の誰も取り消されるものではないでしょう。

バプテスマは、浸礼の形が最も相応しく、可能であれば水に浸すバプテスマ(浸すこと)が薦められますが、古代に則り、事情によっては滴礼なども否定するものではありません。受浸後の塗油や洗足についての必要はないでしょうが、禁じる理由は今のところありません。しかし、何にせよ、儀式は凝り始めるとたいていは良い方向に進まないものです。
 この水の儀礼は神秘的な奇蹟ではありませんが、個人として神に覚えられる記念となるでしょう。しかし、より重要な意義は、神の御前に、キリストの贖いを必要とする罪人であることをその人自身が認めたところにあります。これを神が見逃すことはけっしてないでしょう。



◆「主の晩餐」

 これは主イエス・キリストの「死」を宣れ告げる年一回の行事であり、主の「復活」を祝うグレコ=ローマン型キリスト教とはまったく性質を異にするもので、十四日派の「主の晩餐」は厳粛なものであり一切慶事の扱いはしません。

 キリストの死には、人類の「罪」の贖い代が供えられたばかりでなく、より重要なことに、死に至るまでの忠節によって神の神性が立証され、サタンの裁きの根拠が置かれました。その結果、それまでの預言がすべて成就する道が拓かれ、創造界全体が神の意図に従って調和を得る礎が据えられました。

 キリストの死には、このように重く多様な意義が集中しており、如何に復活が奇跡であるとしても、その死の崇高さにはとても及ぶものではありません。

 コンスタンティヌス以来、ヘブライの教えを離れたキリスト教は、この理解の欠如により、目出度い「復活」という一般的な祝い事に入れ替えてしまい、そこに異教の女神イシュタルの祭事を取り入れるなどして、今日まで大きく「主の晩餐」を誤解してきました。

しかし、こうしたグレコ=ローマン化せずに、しばらくの期間古来の「主の晩餐」を行っていたのが、最後の使徒ヨハネの指導した小アジア地方のキリスト教徒であり、彼らは「十四日派」(クワルトデキマーニ)と呼ばれました。

 そこで新十四日派は、その先人たちに倣い、第四世紀のニケアー会議からのグレコ=ローマン型ではなく、より古い西暦第二世紀に遡ったキリスト教を回復しつつ「主の晩餐」を行おうとするものです。

 その日付は小アジアの十四日派の習慣に則り、ユダヤ人がニサン15日に「過ぎ越し」(ペサハ)に入る陰暦一日前(の日没後)に行うものとします。
 第二世紀の十四日派の人物、エフェソスのポリュクラテースの言葉に従い、それは天文の計算によらずユダヤ人の祭りに一日違いで寄り添うものとしますので、主の晩餐の夜は常にユダヤ暦のニサン月14日の夜となります。その晩はキリストの公生涯最後の夜であり、イスラエル民族がエジプトで過ごした最後の夜でもありました。

 そこでイエスは、それまでユダヤで行われてきた出エジプトを記念する食事儀式を、ご自分の死の門出を記念する食事儀礼に換えられました。
 それが無酵母パンとぶどう酒のみによる会食儀礼であり、イエスを仲介者とした弟子たちの『新しい契約』が関わっています。
 その食事に与ったのは十二使徒だけでしたが、その後「約束の聖霊」が下賜されるにおよび、『新しい契約』に参与する弟子は増え、彼らは引き続き年毎の「主の晩餐」で無酵母パンとぶどう酒に与ってきました。

 現在は「約束の聖霊」を有する人が存在しないため、表象である無酵母パンとぶどう酒を受ける者は居ないので、これらの物品は陳列されても飲食されません。

しかし、将来に正しく聖霊の顕現を有する信徒が現れるときには、その人の表象物に与る様を見ることができ、それは久しく続いた「新しい契約」の与る「聖徒」の不在の終了が印付けられ、且つ、キリストの臨御(パルーシア)が開始されていることの証拠となり、この世は終末に入ったことになります。

 これはきわめて重要な儀式であり、キリストの死の意義を回想し、参加者が信仰を抱いて次の新たな展開を待ち望む姿勢を示すものとなることでしょう。






バプテスマの意義


初代キリスト教徒の時代











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