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1.人の創造

2012.06.21 (Thu)
1.人の創造

1:聖書の「神」とは世界の創造者であり、全能者と称えられます。
この「神」は、世界の創造の最後に人間アダムを造り、女エヴァをも加えました。

創世記は人間について、物質の創造物(肉)としてながらも、神のその「象り」に創られ、地上の管理の役割を委ねるよう意図されていました。

2:最初に造られたアダムとエヴァは以後、子孫を増やしつつ地を従えてゆくべく、まずエデンの東の園に置かれました。
エデンとは「愉しみ」を意味し、人間は本来、楽園のような環境に置かれるように創造されていたことがその名「エデン」に込められています。
それは、人間に関する神の創造の意図であり、今日見られるように不完全でときに過酷な人間の状況は、神の人間に対する目的からは大きく外れています。

この不幸の原因を示し、そこから人類を救い出すことが聖書が記された目的であり、それがどのように進展してきたかを聖書はわたしたちに語りかけてくれます。

3:創世記冒頭の七日間は人間の登場に備えて地球を整える神の業を述べていますが、宇宙の創造を述べているわけではありません。また、その一日は24時間の一日ではなく、永い「神の一日」でしたから、聖書はその第七日が終わっていないことを示唆しています。

創世記のこれらの各章は、科学的に創造を語ることよりも、より重要な論点である神と人の問題に早くも進みます。聖書は科学を説明する本ではなく、その注目すべきは道徳的また倫理的な問題であり、そこに聖書が存在する理由があります。


4:さて、神の創造については、創造の「助け手」また「知恵」と呼ばれる者がいたことも聖書は教えています。
その「助け手」は、全創造物に先立って創られた「神の初子」であり、神が直接に創造した唯一の存在であるので「ひとり子」とも呼ばれています。

神の創造は物質のものだけでなく、霊の存在者たち「天使」も含まれていましたが、本来彼らは神に仕える者たちです。
天使らと人間とは共に神を認識できる理知を持っており、その前に自由意志を以って行動できる創造物となりました。

5:神は人間を「神の象り(かたどり)」に造ったと創世記に記されていますが、意思決定の自由が「神の象り」の最大の特徴となっています。

たとえれば、優れたコンピュータに意志を与え、独自に選択や決定を行えるようにし、考えたことを製作者に関係なく語れるとしたらどうでしょう。
それは単なるモノではなくなり、ある意味で創世記の述べるように『わたしたちのひとりのようになった』と言うことが出来るでしょう。

6:人間も同じように、本能だけに従うわけではない理知を持つ創造物は、神とは別の存在で個別の意識と自由な思考を持つものであり、神はこの種の創造を通して家族のような交友を可能にしました。

それで神はこの自由意志を尊重します。なぜなら、それを与えられた者たちが神自らの象りであるので、それを尊重することは神が自らを尊重するのと同じだからです。

7:そのために、神はすべてを知ることができるにも関わらず、人間のような「神の象り」に造られたものたちの自由意志の決定を敢えて予知しないことがあります。
それは一種のプライバシーであり、信頼が求められる関係です。そうでなければ神は人の決定や選択を強制することができたでしょう。

こうして神は、天使や人間という自由意志を持つ創造物に囲まれ、互いに平和で幸福な関係を築くことを意図されました。



 ⇒ 2.サタンの由来





2.サタンの由来

2012.06.21 (Thu)
2.サタンの由来

1:創造物とは言え、自由意志で行動することを許された者たちには、自分の創造者を意に介さずに考え行動することも不可能ではありません。
それは、神が自由であるように、我々にも与えられた「神の象り」の持つ自由です。

2:しかし、創造者を認めずに生きることは自分の存在由来や理由を退けることであり、そこにはっきりと偽りがあります。
また、自分を誕生させた神に愛情もないばかりか、敬意も感謝も抱かない忘恩も免れないでしょう。したがって、理知ある創造物がもし神を認めないとしたら、それはすべての倫理の基礎を壊すことになります。

当然ながら「神の象り」に創られた者らには、創造者を愛し神として認め、その自由意志を善用するべき理由があります。

3:一方で神の側には、創造物の逸脱によって創造のはじめの企図が成し遂げられないという状態が生じます。
もし、自由意志を与えたコンピュータが、その自由さを用いて作り手である人を無視し、害までを与えるようになったら、作り手はどうするでしょうか?
その機械を存在させた作り手自身には、それを廃棄する権利や、他の人にまで害を与えるなら処分するべき責任さえ生じるでしょう。


4:さて、この意思の自由を善用せず、利己的になって神を神として認めることを止めた最初の存在者は天使の一人でありました。

彼は特に優れた「ケルヴ」と呼ばれる種類の天使でしたが、自分の高貴さに自惚れて、自らが『神のように』なろうと欲するようになったことを聖書は知らせています。
この天使は、後にキリストにも自分を崇拝するよう求めたのですが、そこに『神のように』なろうとする野望がはっきりと表れています。

この天使は後に、仲間の天使たちに働きかけて自分と同じように神を無視して『神のように』なるように唆しています。その結果少なくない数の天使たちが、『自分の持ち場を離れて』地上に来ました。この天使たちは、今は悪い霊者となって人間に関わります。それで聖書は心霊術などを避けるよう教えています。

5:このように創造された理知ある者が、神の意図に反する敬意を持たない行動に出たことは、神が自らの『象り』を尊重しようとすることにおいて避けられないリスクでした。
つまり、神はそのようなリスクを負ってまで、理知を持つ創造物の自由意志を守り、自らと同じように考え行動する者たちの自由を実現しようとしていると言えます。


6:しかし、ひとりの天使が自ら「反抗者」すなわち「サタン」となって神に創造された意図から離れましたから、神の創造の企図は一時的に停滞し、それによって創造界には不調和が入り込むことになりました。
もちろん、これは神が意図したことではありませんし、その天使も初めからサタンとして、また悪魔に創られたわけではありません。それは自由意志の用い方、つまり「愛」が関わる事柄でした。
同様に、人間のひとりひとりにも、自由意志を用いて神との関係をどうするかが問われることになります。

千年期の間、悪魔が人間社会から隔絶されて過ごし、再び解き放たれるのは、悪の源となった悪魔を神は、あらゆる理知ある被造物の自由意志を試みる器として用いるためであり、そこに悪い者をも創造物として用いる神の知恵が反映されています。



 エゼキエル28:12-19
 マタイ4:2-11
 黙示録20:2-3
 箴言16:4




 ⇒ 3.善悪の知識の樹














3.善悪の知識の木

2012.06.21 (Thu)
3.善悪の知識の木


1:サタン(反抗者)は創造者を認めず、まるで自分が創造されたのではないかのように自由な生き方を、つまり『神のように』なるよう他の創造物を誘惑します。それは、神から離れる者たちの上に立ち、まさに『神のように』君臨したい願望から、より多くを自分のような反抗の道に引き入れようと惑わし続けています。創造界はサタンにより悪の横行する不調和な世界となっています。
その行為では中傷を用いるので、彼は「中傷者」(ディアボロス)つまり「悪魔」とも呼ばれるようになりました。


2:サタンはエデンの園にいるアダムらをも独立の道に誘いこもうとしました。
それは「神の象り」、つまり神に似て自由な選択者として創られた理知的創造物には、尽くサタンが誘惑するためにその誘惑は必ず経るべきものとなってゆきました。
この命、また創造物の存続に係わる重要な選択は、アダムたちにエデンの園の中央に設けられた二本の樹で象徴されました。一本の木は『善悪の知識の木』、もう一本は『永遠の命の木』と呼ばれます。
その目的は、真に忠節を示す者を存在させ、そうでない者を創造界から除外するためです。


3:その二本の木が園の中央に置かれたことは、その選択が些細なことではなく、『命と死、祝福と呪い』という選択であり、エデンの園での命の存続に掛かっていたことを示していました。
この選択はエデン以後もすべての人間に問われることになり、最後の審判をも決する一貫した論点となります。(申命記30:19/ヨハネ1:12)
『神の象り』として理知を持ったものが、神の創造物として生きるのか、あるいは神を愛さず自分を愛して勝手に生きるのかは、神の創造物の結果を左右するものとなりますが、神は自らの『象り』の意志を尊重して、選択の自由に介入されません。
もちろん全能の神はその意志を成し遂げられます。それで創造の意図を外れたものが永久に存続することは許されないのです。それはすべてを造った者に属する当然の権利でもあるでしょう。


4:『善悪の知識の木から採って食べてはならず、触れてもならない。あなたが死ぬことのないためだ』という神からの愛ある禁令は、同時にアダムらの神への愛を試すものとなりました。
そこには、単にひとつの命令の従うか否かという「従順」を越える問題が孕まれています。その問題は「従順」というよりは「選択」でありました。神はアダムたちが命令を守るかどうかを見るよりも、死なないことを願ったからです。
ですからエデンで「被造物の愛ある忠節」が試されたということができるでしょう。忠節であれば被造物からの自発心によって創造者は神という最高の地位に就くことになり、創造界は神の意図したままの愛に満ち安定したところとなります。
まさに、これこそ被造物の隷属を望まない創造者の美というべきでしょう。


5:もし、『善悪の知識の木』の実から食べるようなことになれば、永遠に生きることはなくなるでしょう。
しかし、創造者を愛して当然の敬意ある忠節を表すなら、彼らは『永遠の命の木』から採って食べ、創造の当初の意図のままに彼らも神と共に永続することになります。
もちろん、神はアダムたちを創り愛情を注いできた以上、サタンの誘惑を退けることを願ったに違いありません。
その禁令を通して、倫理的に無垢であったアダムたちにも、創造者を認めてその意志に沿うか、創造者を意に介さない気ままな生き方を選択するかの機会が一度限り開かれました。


6:神はこの選択について先見せず監視せず、彼らを妨げることなく自らの象りとしての彼らを尊重して、そのプライバシーを保ちました。
それは神が自らの尊厳を守るのと同じく「神の象り」を尊重し、その自由意志にしたがって行動させるためでした。神は理知ある者らに支配的な従順の強要をされません。彼らが創造者を自発的に愛し支持することを望みます。それこそが真実の愛の関係だからであり、人はそのように造られています。愛は利他的であり、罪は利己的であり、共に自由意志から生じます。
またそれは、神がわたしたち人間を単なる「物」や奴隷やロボットのように見ていない証拠です。わたしたちは、神を認識することができ、意志を通わせることのできる『神の象り』つまり『神の子』として創られたからです。


7:そしてしばらくの間は、アダムもエヴァもこの禁令に従っていました。
では、それは神を真に愛するからであったでしょうか?それとも、ただ『死』を避けたいからだったのでしょうか?
理知ある存在者が本当に神を愛するか否かを明らかにするために、サタンの意図とは裏腹ながら、サタンの誘惑は、すべての神の象りである創造物に対して例外なく試練として与えらることになります。私たちも終末の裁きにおいて同じく誘惑を受け選択を行うことになるでしょう。それは創造者への愛を表明する機会となります。




 創世記2:15-17


 ⇒ 4.蛇の誘惑






4.蛇の誘惑

2012.06.21 (Thu)
4.蛇の誘惑


1:アダムとエヴァが善悪を知る木から実をとって食さないことに苛立つ者がありました。
それはサタンであり、アダムらが禁令を守ることには神を愛のうちに尊重するからでなく、あるいは彼らが、ただ死にたくないという利己的な欲望からのものであってほしいと願ったでしょう。

そこでサタンは、彼らを誘惑する行動に出ます。
まず、アダムを神から引き離すのに何が効果があるかを念入りに観察したであろうサタンは、アダムの妻に着目したことでしょう。
アダムを神から引き離すのに効果を期待できる事として、彼のエヴァへの愛着が最も効果的であることは充分考えられることです。

2:アダムとエヴァにとって物陰に潜む蛇という生き物は、用心深くまた賢そうに見えていました。
サタンは蛇を用いてエヴァに近づき話しかけます。それは人の声を出さない蛇があたかも話しているかのように見せたのでしょう。

『あなた方はそれ食べても死ぬことはない、むしろ目がひらけて善悪を知り、神のようになれる』と蛇の背後で悪魔は語ります。するとエヴァにはその実は食べるに好ましく見え始めました。つまり、「死ぬことはない」と聞き、その果実の見え方が変わり、その実はとても美味しそうで、初めて味わう興味を強く感じていたのでしょう。
エヴァにとっては「死ぬことはない」なら神の戒めに従う必要はないと見なしたのでしょう。そこで彼女は、神に対する愛着や敬意を示しませんでした。


3:エヴァはその実を採って食べてしまいましたが、すぐに死ぬことはなかったので、自分は死なないと思い込み、ますます蛇を信じたことでしょう。こうして『蛇』は一言も食べるようには言わずにエヴァに禁令を破らせることに成功します。
後代、使徒パウロは「エヴァはまったく欺かれた」と書いています。既に死ぬ状態に入った彼女は「神のようになる」ことはともかく、新しい果実を味わい、未知であった味を夫にも知らせようと思ったことでしょう。

そして、アダムと一緒になったときに、おそらくエヴァは普段食事を共にするときのように彼にもその果実を差し出します。アダムは不意を撃たれた形となりました。それでも彼は、妻を通して聞く蛇の言葉に欺かれませんでした。
つまり、彼は自分に死の危険が近づいたことを予感したでしょうし、当然、妻が既にその道に入ってしまったことも悟ったことでしょう。そして、遂にアダムもその実を食べてしまいます。

4:後に、神から「なぜ食したのか?」と尋ねられたときに、アダムは「あなたが一緒にいるようにと言った女が与えたので」と答えています。
この返答からすれば、神を批難するような言葉の中に、女が一緒に居るべき者であることが強調されていますので、アダムの愛着がエヴァにあったことを示唆しているとみることができるでしょう。
つまりアダムは、神を捨ててもエヴァを愛して運命を共にしようとする意志が働いたと推察できるのです。それこそが『蛇』がエヴァに近づいた狙いだったでしょう。

その後、彼らは自分たちが『裸であることに気付く』のですが、それは初めて行った自由意志からの選択によってプライバシーの意識が生じたのでしょう。この『裸に気付く』ことを、初の男女が性交を持った象徴と信じる人々もいますが、神はその以前から『産めよ増えよ』と両人を祝福していることからすると、それを禁令と見なすのは難しいでしょう。

5:こうして、人はあたかも「神のようになって」創造者である神を意に介さずに独立し、創造の企図を離れて自由に行動するという「蛇の道」を選択する結果となってしまいました。

それは軽い問題ではありません。自分自身の存在の由来も創造者への感謝も無視することであり、そこには最も基本的な嘘があります。神の創造した世界は、彼らの利己心から創造当初の意図を外れて行きました。
このことは、地上に「悪」という要素をもちこむことにもなりました。人間が「善悪を知る」とは、それを食することで、神の基準に沿うことも、離れることも、その双方を知るまったく自由な行為者となったことにおいて、恰も『神のように』なったのでしょう。

6:その一方、倫理の問題である「罪」([ハッタート]的を外す)を抱えるようになった人間は、やがて「権力」によって法律を強制されたり、金銭を使わなければ社会生活の難しい状態に入りました。もし、『善悪を知るの木の実』を食べなかったら『永遠の命の木』から採って食べ、この二本の木で表された試みを無事に通過していたことでしょう。

その後の人間は創られたままの善性を破壊され、すべての道徳や倫理の基礎をこのように失って以後は「愛」を去って「欲」に従い互いに奪い争う者となってゆきます。
それが、サタンに追従した結果であり、今日に至るまで人間の社会は倫理上の欠陥を負っていることは明らかなことで、それは歴史も示し続けてきた通りです。

7:聖書は『世界は邪悪な者の支配下にある』と述べていますが、それはサタンが世界を実際に統治や指導していると言うよりは、創造の神から離れた人間が、否応なしに「貪欲」というサタンの道を歩んでいることを表しています。
貪欲が動かす世界は、いつの時代にも大多数の人々に貧困を与え、それでなくても老化や病気がついてまわります。そのうえ、敵意充ちる政治上の争いも多くの命を奪い去ってきました。

これらが、アダムの従った悪魔の道の結果となって私達の目の前にあり、「この世」と呼ばれています。



 創世記3:1-13
 テモテ第一2:14 


 ⇒ 5.『女の裔』とは





5.『女の裔』とは

2012.06.21 (Thu)
5.『女の裔』とは

1:神の創造の企図を離れた人間を永久に存在させることは、神の意志が永久に遂げられないことも意味します。
それは創造されたものすべてにとっても良いことではありません。
そこで、神は自らの企図を離れた被造物には寿命という生命の限界を定めましたが、これは創造者としての当然の処置と言えます。

2:神はアダムたちにそれらの処置を宣告しました。
人は『顔に汗してパンを食し、ついに地面に帰る』という現状の人間の実情が定められました。

 その後のアダムについては、エデンの園の『生命の木からも採って食さないよう』園を追われ、木を守るために回転する炎の剣が置かれました。
彼らは、神の是認から退けられエデンを追われ、辛い労働によって命をつないで行くという今の現実に入っていったのでありました。

3:こうして神を退けた人間は創造物としての神の是認を失い、以後は、サタンと同様に倫理の基礎を失った『罪』あるものとして生きる以外になくなりました。
こうして『神の子』の地位からは堕ちてしまい、創造者との関わりは制限され、自分たちの方から神を知ることもできなくなり、人間存在や生きる理由などを求めても人間同士に答えはないので、自分たち以上のものを求めて、人間は様々な宗教を発達させることになりました。
それは人類全般が神という「上なるもの」を求める性質を持つものであることを明らかにするものとなっています。

4:しかし、神はサタンのように創造界を乱す者らをそのままにして、創造そのものを間違った方向に進むままにはさせません。それは創造物全体のためにもならないからです。
そこでサタンのように神から離れる者らへの根本的解決方法を創世記第三章で始めて明かし、それは聖書全体を貫流する主題となってゆきます。創世記第三章十五節は次のようにそれを宣言しています。

『わたしはお前(蛇)と女の間に、またお前の子孫と女の子孫との間に敵意を置く、彼(女の子孫)はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くだろう』。

5:それはつまり、サタンが地面を這う蛇のように低められた状態に入り、最後は『女の裔』と呼ばれる何者かに『頭を砕かれ』致命傷のうちに死に至りますが、『蛇』もまた『女の裔』を傷つけるということが、ここに宣告されているのです。

これは直接にはメシア=キリストに当てはまり、キリストとなったイエスは磔刑の死を遂げますが、復活してからは蛇にまったく勝利することを、そして最後には、キリストを意味する『女の子孫(裔:すえ/胤:たね)』によるサタンの処置、つまり「女の裔」がサタンに致命傷を与えることを意味しています。

6:そこで、サタンを無に帰せしめ人間に救いを与えるところの、この『女の裔』とはだれかという謎を巡って、以後の聖書物語が展開してゆくことになります。聖書という本は『女の裔』や人類を救う方法を徐々に明らかにしながら、モーセという古代の人物以来、十六世紀間の長きに亘りイスラエル民族を通して書き進んでゆくことになりました。

エデンの園で与えられた『女の裔』についての理解は、後のメソポタミア文明、古代シュメール期に生きたひとりの人物に明かされます。それは今からおよそ四千年も前のことでした。それから聖書記述を通して、人類救出の神の手段である『女の裔』が次第に明らかにされて行きます。




 ⇒ §2アブラハムとその裔




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