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誰が世を指弾できるものか キリスト教的非キリスト教

2020.06.15 (Mon)

広くキリスト教のものとされる特徴がパリサイ的であることについて



人間の存在は儚いものであるという認識は、キリスト教に限らず広く世界に見られる人類普遍のものであることは、いまさら言うまでもないことです。
様々な宗教は、この人間存在の危うさ空しさを仮定的あるいは心理的に回避する方策となっています。

殊に聖書教では、自分を存在させた創造神との関係を捏造してでも、この逃れ難い難問をどうにかしようとする基本的な姿勢がほとんどに宗派に共通していると言えるでしょう。これはある人々、特に「なにかと、きちんとしていたい人」にとっては最大利益となっています。ですが、これは罠にもなるものです。

「ノアの大洪水」や「ソドムとゴモラの滅び」のような「義人の救い」の捉え方でゆくと、誰も滅ぼされようなどと思わないので、「自分が義人である」とすることで他ならぬ神に取り入ろうとする傾向が避けられないでしょう。

そのように、自らを「義人」に仕立てるために努め、教理や道徳を誇り、あるいは宗派間の比較の結果に各自が安堵するという、却って危うい土台の上に信者を安住させるという「信仰」が、それぞれのキリスト教団体の在り方を決定付けているというべきでしょう。

それぞれの教団が、恰も「ノアの箱舟」であり、その宗派の信者であれば神に是認されていて、神の裁きがあろうとも滅ぼされることがなく、あるいは天国、あるいは楽園に入れるという、救いに選ばれた者の安心に浸らせ、心理上のモルヒネのように作用して、信者本人の実態を忘れるという夢心地に誘うのが「キリスト教」というものです、と言えば、あらゆるキリスト教団体から批難轟轟となりそうではありますが、やはり、そのように観えるものです。実際、わたしの知るところでの「宗教信者」様方には精神的に異様なほど依存症的に惰弱な部分が共通してあります。それでいて、いや、そのせいか頑固で視野が狭いのです。

実際の教えの結果として、この世の終りが来ても自分たちだけが天に取り去られ、あるいはシェルターに保護される妄想を掻き立て、また自分たちのために食料貯蔵している宗派などは、部外者がそれをどう感じるかをわきまえ、また自らの懐く動機に何か異様さを感じないとすれば、そのキリスト教は無い方が良いように見えます。

「聖書の教えなるぞ!」と言いつつ、その誉められたものでもないその人の考え行っている事の実態を振り返ることが無いとすれば、聖書の記述を導いた神に向かって自分たちの異様な行動の責をすべて負わせていることになりますが、キリストが言われた『その実によって』偽預言者を見分けるということでは、二歩も三歩も引いて眺める必要がありそうです。
まして、それぞれに異なる教理や信条を言い立てながら、それぞれ自分が正しいとするのであれば、これはいったいどういうことなのでしょうか。神はどこかの宗派にだけ味方し、他には敵対するのでしょうか。

その教団の信者ご本人にとっては救われるという「福音」なのでしょうけれども、その教えは外の人々にとっては「災難」を意味する以外なく、その原因と言えば「その宗派を信じなかった」からというところで、「自分の神様は了見が狭い」と教えていることにもなるでしょう。
その神様から是認されるために自分はすべき事を行っていると思えば、他の人々にいろいろと指図もしたくなることでしょうし、それが隣人愛だとも思うでしょう。しかし、それはどこが「隣人愛」でしょうか。人格無視のありがた迷惑、余計なお世話です。

この人たちもそれなりに、「信仰によって義とされる」や「滅びに至る道は広く、そこを通る者が多い」などの聖書の句を挙げては、宗派の正義を立てたつもりでしょうけれども、「たとえ自分の隣に居る不信者が滅びようとも、自分は救われる」と思うその心の在り方が本当にキリストの精神に倣うものかどうか考えたことはお有りでしょうか。
それでもなお「そう聖書に書いてあるのだ」というなら、「その利己的精神の原因は神なのだ」と言っているのです。

こうして「キリスト教」の看板の下に、「非キリスト教」が教えられ、なんと広く信者を集めて来たことでしょうか。自分の救いに近視眼になり、それがどんな醜態をさらしているかに気付かないからでしょう。それでは日本のクリスチャンの少なさは却って神の恵みということになります。


気付けば恥ずかしい大いなる誤解
その誤謬の大元には、『罪』というものの観方があるでしょう。
端的に言って、『聖徒』と『信徒』の区別を悟って来なかった結果、聖書の言う『罪』がどんなものかも分からなくなってしまったのです。

これはキリスト教徒というものを新旧の聖書全体から捉えず、把握しないところからくる大いなる誤解です。
それは「イスラエル」というアブラハムの裔*である者に約束された類い稀な神の選民としての恩寵が、聖書を読んだだけで自分に向けられたものだと思うところで、恥ずべき勘違いをしているのであり、その選民とされた人々さえ、世界すべての人々の救いのために備えられているのに、神が救うのは信者の自分たちだと思い込むところで、広く人々を現在の思想信条に関わらず救おうとする神意を無視して、正義を自分で決め付け、その利己性を聖書の記述の仕業にするという、驚くべき破廉恥をやってのけていることになります。*(創世記22:18)

その傲慢さは、自分の最大利益の永遠の命が関わっていると妄想するために著しく頑迷で、神意が何かを探るまでもなく、「救い」欲しさに、自分は正義だと言い張るばかりで、ほかの意見は間違いに違いなく、あるいは悪魔の教えであるから耳を傾けてはならないとまでに強固に塗り固められているほどです。

しかし、もともと人間の真相との整合性もない教えであれば、あちこち誤謬からの齟齬も出てきて、そのため教理や教団の正しさの維持のために信者に無理を押し付けもしなければならず、人のための宗教ではなく、すっかり信者の無理な支えなくして成り立たない偶像のような宗教団体にもなりましょう。おかしな教えのために信者に強引に支持を要求し、奴隷化でもしなければ教団がもたない宗派が林立し、それぞれに信者は喜んでそうするかどうかの違いばかりです。

そこで、神の意志の真相を幾らかでも知るときに、それがどれほど恥ずかしい態度であるかが分かろうというものなのですが、もはや利己主義もそこまで進んでしまうと、いまさら後戻りも難しいのでしょう。
それが「キリスト教」という看板を掲げて人々を集め、主流派を成しているというところは、もはや誰に変えられる趨勢でもないようです。
唯一、変革の希望があるとするなら、よほどの事、人間技を超えるような証しを備えた教え、つまり聖霊の言葉の到来を待つ以外にないのでしょう。(使徒4:16)

それにしても、日本という特に宗教に熱心でもなく、非キリスト教の土壌は、利己的で強圧的な「キリスト教」からの、つまり実際には汚れた潔癖症の脅威をほとんど受けずに済むという大きな利点があるものです。


これはキリスト教徒ばかりでもない事ですが、「自分は救われる」と思うからには、社会一般の周囲が悪く、自分はそれよりは清く優れていると喜んで思い込んだか、または、以前から高慢な性質を持っていた人にとって誘惑となる教えに捕えられたということでしょう。(ルカ18:9-14)

しかし、この世のすべての人はこの世から出たつもりでいて、どんなに聖人君子を気取り、どんなに修行を積もうと、やはりこの世を超越できるわけもなく、却って自分だけ気持の中で無駄に偉くなるばかりです。

さて、その人がこの世を糾弾できたものでしょうか。
果たして、人間の不倫理性は誰にあっても変わるところがあるでしょうか。
あるいは、神が嫌われる人間の悪行もあるはずだから、それを避けるのは求められている行いだという詭弁を耳にしたこともありますが、隣人のためと云うならともかくも、神に嫌われない為とは何と独善的でキリストの犠牲を備えた神意を侮った見方、自分の矮小な正義に神を同調させる愚を曝す非キリスト教的思考なのでしょう。神は好き嫌いが激しいからと、その人は行いで神を宥めることができるのでしょうか。

いや、この世の悪がどれほど自分に関係なく酷く見えたにせよ、やはり、この世の悪はどれも我々人間の内から出て形作られたものです。そのような「罪の種」はどんな人間の中に実在しているのであり、この世を形作っているのは、他ならぬ我々人間ではありませんか。人間の悪行や不義理を悪魔のせいにするのは、妄想の中で責任回避しているだけのことで見苦しい言い訳です。
実にその悪は、我々一人一人の内に存在しており、ある人には思いもよらないほど極端な悪として社会に現れてはいても、誰にせよ、それは自分と無縁だと決め付けるなら、人の『罪』、つまり不倫理性を正直に省み、キリスト教の神髄たるイエスの犠牲の価値の大きさ「6000万デナリウス」*を越える巨額さに慄き、隣人を咎めるのを止めるという本来のキリスト教の動機も得られないことでしょう。*(マタイ18:24)『一万タラントン』ソロモンでも十年かけて払えない金の量

もちろん、何でも赦せというのではありません。
それゆえ、人間社会からは警察力と軍事力を無くすことは不可能ですし、人間に『罪』があるままなら、戦争はおろか、犯罪さえ無くすこともけっしてできません。
この『罪』の表れのすべては、神の前に人類全員の連座制の処罰に服すべきところを、キリストというゆるしを与えられたのですから、どうして誰かがこの世から出た者のようにこの世の悪の全体を糾弾できるものでしょうか。
その人は、いつ神の側に立てたのですか。ご自分が「この世のものではない」とは、たいしたものです。人間ではないかのように御立派です。(ヨハネ第一5:19)

『世の者ではない』とは、キリストの兄弟、その犠牲をいち早く『初穂』として適用され、仮に『罪』を赦され『神の子』とされた聖徒、真実のイスラエルという選民だけができることであり、そのような格別の人に神の証しが無いわけもなく、奇跡の業を為す聖霊なくしては誰もがただの人に過ぎません。(ローマ8:1・9・14)
どんなに自分に聖霊は有ると唱えても、なんの証しがあるでしょうか。反対している他の宗派もそう言うでしょう。どなたも皆さん「ただの人」、「この世の構成員」であることに何の変わりがあるでしょうか。この世は皆がアダムの子孫であり、奇跡の聖霊を持つ聖徒でなければ誰もが「裁かれる前の罪人」であることに変わりはありません。

キリスト教界で広く教えられてきた「信者の救い」とは、これらの事の視界を奪って、恐ろしいほどに自覚のない人々を大量生産してこなかったでしょうか。律法がメシア到来によってユダヤ人の中から高慢な性格を焙り出す罠ともなっていたように、終末のキリストの再来の時にキリスト教徒の中で繰り返されるのでしょうか。

どこであれ、キリスト教の宗派が「信者だけの救い」を唱えた段階で、そこで既に神ともキリストとも何の関わりもないでしょう。
わたしの知るところからすれば、「クリスチャン」とは、自己愛の激しい思い込みに生きる人のことを言うのであり、神を独占するところでは辺りかまわぬ自己中心性が強く、それでいて神依存が生活全般に些細であるほど良いと勘違いしている人を指す言葉であると思えます。

惰弱なためか、神の象りとして与えられた自由をむしろ捨て、教えを垂れる偉ぶった教師が頼り甲斐のありそうに見えてしまい、自分を奴隷として投げ出して安心する人々とも言えましょう。その先生方の内心の望みは「支配」や「金」であり、これはまさしく成就しております。
一方の信者はそれほどまでして救われたいらしいのですが、その動機は恐怖と判断拒否ではないのでしょうか。結果として、救いを望みながら、ますます死への奴隷となっています。到底、神に近付いたとは言えません。むしろ不信者の自然で晴朗な心の方によほどの希望が見えるほどです。

キリスト教とはすべての人、現状の思想信条に関わりなく、あらゆる人に向けられた『罪』からの救済と、創造されたままの栄光ある人間へと回復させようとの偉大な救いへの神の意志に深い価値を見出し、それに協働しようとする大志を意味するのであって、自分たちの救いに汲々とし、狭い宗派を箱舟に見立てて安心しているような些末なものではないのです。

と、このように書いたところで、どんなクリスチャン様が気付くでもないのでしょうけれども
やはり、書かざるを得ないものです。












宗教からの奇行の原因 - 随想 -

2019.12.01 (Sun)


宗教からの奇行


どうして、傍目には非常におかしな行動に人を駆り立てる「宗教」というものに人々は態々奴隷のように従ってしまうかを考えるに
おそらくは自然な思考から徐々に引き離されていった結果が、あのように極端な考えや行動や表れているのでしょうけれども、その過程を知らない者にとってはただ異様なばかりです。

それは「柱頭行者」のようにまったく奇異にしか見えない苦行ばかりでなく、細々した規則に従う潔癖症のような人々にしてもそうなのですが、結局は、自分に関心が向いているだけのことではないのでしょうか。

宗教というものの「怖さ」はよく語られるところですが、人は何を好き好んであのようなものに関わるのでしょう。
異様な行動をを促す宗教の怖さを感じると、たいていの人は自分も「感染」しないように心を閉ざし、どこがどうおかしいのかを指摘することはまずありません。

しかし、この件について思うところを書いて考えを整理してみようと思うのです。

さて、人は自分で生まれて来たわけではありません。
気付けばこの世に生きていたのであり、なぜ生きるのかの解説を受けて来たわけでもありません。

ですから、人は「自分という難問」を抱えて生きていることになります。
その「難問」には、「自分はなぜ生きているのか」「何のために生きているのか」という自己存在の謎があり、いずれは「死を迎える」という陰気な問題にも直面しないわけにゆきませんし、日々生きるための苦役の空しさをどうにか紛らわす必要もあるでしょう。

これらの難問を意識しないようにして過ごすことも一つの対処法ではありますが、人生を俯瞰すると「自分とはいったい何なのか」という事はどこかしらで考えに浮かぶことはまず避けられたものではありません。

「一度きりの人生だから悔いなく生きたい」と願うのは至極全うなことと言う以外に何と言えましょうか。
しかし、「間違いのない生き方の秘訣」やら「規則」などに従うことでそれが叶うなら簡単なことで、スピリチャルなどが流行るのも、「従っていれば良い」という安易さからでしょうが、人に「天からの指導」を求めさせ従わせるところでは経典の宗教も然程は変わりません。

所謂「カルト」と呼ばれる、信者の想いも行動も強く規制する宗教に入る人々の特徴の一つには、周囲の親しい関係者たち、また社会一般の規範のようなものに批判的で、実際に深い敬意を払えるような優良な指導を見出していないと感じる人々、また、自分が放置されていると感じていた人々が少なくないとのことです。

それは、その人の周囲の未熟度や、その人への関心の無さを表してもいるのでしょう。
しかし、社会一般はこの点で実際さほどのものを与えられない実情にあります。
この隙間を狙って、人々を支配したいと心の底では欲している宗教家らが人集めを始めると、そこそこの人数が集まってもくるでしょう。

そこで信者となる人々は、自らの周囲にはない、それ以上の「指導」や「関心」の必要を求めているのです。そしてこの人々が喜んで信じるのは、社会一般よりも優れたと思える規範であり、仲間の人々からの関心であり、そこで周囲からの遊離が起こり始めるのも当然と言えます。
しかし、これは紛れもなく損失です。なぜなら、その人々は社会に勝るものを探していながら、それ以下のものを掴んでしまい、しかもそのことに気付かないのです。つまり気付かれないように誘導するのが宗教家としての手腕です。そこで、多くの「カルト」と呼ばれる宗教が信者たちから情報を制限する必要が生まれ、定期的な集会への参加が必須のものとされます。つまり、常に信者の想いを制御して、理性的自己判断をさせない必要があるので、崇拝の名を借りて判断力を麻痺させ続けないとその教理や行動を強制できなくなってしまいます。

宗派の中ではインターネットを敵視、または独占化するところも少なくありませんが、その制限そのものが信者から自由で広い思考や判断を妨げ、自発性ある良心の働きを強制によって奪うことです。
なぜなら、人間は元より「カルト」向きには出来ていないからであり、「カルト」が求める事は、『神の象り』という人としての尊厳を捨てることだからです。それによって益を得るのは信者ではなく、紛れもなく教団であり、指導者です。

しかし、人間にとって「従う」ことは、自ら判断してより良い生き方が何かを考え続ける苦労がなく、体はともかく頭では他人任せでよほど「楽」なので止められないのでしょう。しかもそれが絶対的に価値があり、神の是認があると吹聴されればその安心感が宗教家の旨味です。そこに集まるのは奴隷予備者たちなのですから。あとは、幾らかまともそうな理屈をつけて「神はこう望まれています」と言えば、宗教家本人も驚くほど人は従順になるのです。しかも宗教家にとって吹聴した事は、病気の癒しの請負いでもない限り、大抵は人の死後の事なので責任もありませんし、死んだ人に問い詰められる心配もないのです。

やはり、この世という場は、ほとんどの場合で有意義な人生を人々に与えるほど甘いものではありません。
生涯を不自由なく終えられる人がどれほどいることでしょうか。
また、この世は不平等であり、社会には不公正が横行し、経済危機や戦争などの社会悪が有無を言わさず到来します。
病気や怪我は何時ともなくその身に生じかねず、それでなくても自然災害が覆いかぶさる危険性も避けられません。

このように有意義な一生、また幸福な生涯を阻害する要素の多いこの世を生きる人は、自分に不動な価値を添えること、つまり儚い命に持つに過ぎない自分の価値をどうにか保ちたいと願うものです。

人は、自分自身はもちろん、他の人についてもその存在価値を普段から実感しているものです。
その一つの表れとして、誰かが亡くなると弔いをする習慣を挙げられるでしょう。
それは故人を愛し、評価し、惜しむという精神の表れであり、それは故人ばかりでなく、自分を含めて人というものの価値を認識している証拠とも言えましょう。

ここで聖書の言葉を一言加えることが許されるなら、『悲しみの家に入るのは、宴会の家に入るのにまさる。死はすべての人の終りだからである。生きている者はこれを心に留める』という賢者ソロモンの言葉が相応しいように思えます。(伝道7:2)
もちろん、人は愉快に生きる喜びを必要としてはいるのですが、死の問題を避けてばかりいては自分の人生というものを考え、死ぬという問題に対処することを忘れてしまいます。

ですが、これは宗教を信じている人々でさえ陥っている問題でもあるのです。

と申しますのは、つまるところ、宗教の一つの働きには、「人間の価値をどうするか」という難問を何とかしてでも処理するというところがあるのです。

その「処理の方法」の一つが「死後の世界」つまり「天国」であり「楽園」ともなっていますし、輪廻転生もまたその類でしょう。
結論から言いますと、この世とは人の価値を相応しく認めるような場ではないのであり、そのことを最も承知しているのは、たいていは他ならぬその本人です。

そこで、この世に足りないものを何かで補充する必要があるのですが、それはかなり「深刻な不足」に対する補充と言えましょう。
宗教とは、この不足を何が何でも埋めようとして、人々がすがり求めるものであり、それが非現実な嘘であっても構わないところが便利でもあるのです。世の苦しみも「人を磨くための試練」としておけば、宗教家の立場もとりあえず安泰でしょう。

一方で、この世がもたらしている人間の価値の不認識のそっけなさは当然に世界普遍のものであり、「宗教」という人類共通の価値補充策を様々に練り上げさせてきたものです。
つまり、それが様々な「上なる者」(神)や教理や崇拝や信仰行動を存在させて、世界の各地でそれぞれに繁栄してきたということでしょう。その人類普遍の価値の欠損を埋める心理作用が宗教の本質ではないのでしょうか。それだけ「この世」という環境が人に苛酷だということです。そしてその対応策が様々な宗教であるでしょう。それぞれの宗教が与える益の特異性や大きさに応じて、信者には求められる事柄の程度や質が異なってきますが、それは益に見合う代価の支払いのようです。

そこで宗教を信じている人々でさえも「死の問題」を避けてばかりいて、対処を忘れる」危険性があると申しましたのは、宗教によっては自分の人生をどう生きるかについて、歪んだ見方をし兼ねないということなのです。

死後の幸福を説く宗教の場合、仮想上にしても人の価値は死後も保たれますが、現実では刹那的な生き方を選択し兼ねない危険も生じます。
つまり、死後の安寧と引き換えに現状の生また命を軽く見てしまう傾向への危険です。
そこで、その宗教の質が問われてもいるのですが、ある宗教が「教えに不備があるかも知れませんので自己責任でお願いします」などと信者に言うことはまずありません。ほとんどの宗教は、信者となることの益を請け負いますので、その教えは間違いのない絶対のものでなければ有り難くもなく、人心は離れてしまい兼ねません。つまり宗教とは教え手の欲と信者の欲の出会いから生じた便宜的関係という以外ありません。人と人との支え合いであり、神は名目でそこに居てくれれば十分です。

宗教の絶対化は、社会が全体で入信する「コミュニティの宗教」の場合には必須になってしまいます。そこでフランスが革命後に思想宗教の自由を掲げたときにどれほどの困難を乗り越える必要があったかには目を見張るものがあり、動機はともあれ百年をかけて流血まで見ながら徐々に達成されたものであったのです。

今日でこそ、日本のような国家環境では、当たり前のように人に信仰までを規定されることはなくなりましたが、実はこれも最近になっての自由であり、しかも先進国という限られた国でこそ当然の権利ではあるのですが、現実的には、多くの国に於いて人々に思想も宗教も自由があるとは言えません。思想や宗教の自由とは、人間が切り拓いた非常に優れた施策であり、公平性を教える良質な教育と、理想を堅持する大志のないところには存在し得ないものでしょう。大抵の人は放っておけば偏狭で利己的に傾くものです。

ともあれ、「基本的人権」として謳われるようになった思想宗教の自由は、人というものについて回る「宗教の必要」に自由さを加えるものとなり、自分の生涯をどう考え、どう生きるかをより良く自らの決定に委ねられる道となって開かれました。

しかし、残された問題は宗教の方です。
世界のあちこちで人間の必要を満たすべく興されてきたそれぞれの宗教が、本当に人の価値を保ち、同時に歪んだ生き方をさせてしまわないか否か、これは社会や為政者がジャッジするところではなくなり、個人の裁量に任されたわけです。
地下鉄サリン事件のような、ガイアナの集団自殺事件のような極端な実害のない限り、社会は審判者としては宗教に踏み込みません。

そこで、宗教が無謬を唱えてしまえば、人類が築き上げた思想宗教の自由など呆気なく相殺されるばかりで、それは牢獄から解き放たれた人々を別の獄に繋ぐようなものです。宗教の方は古代の蒙昧、中世の暗黒からどれほど進歩したのでしょうか。宗教には依然として人間の不合理性の未開の暗部が解消されずに残っており、それは人間が非常に愚かな事にさえ藁にもすがる思いで自分自身という難題を解決できないでいることの表れなのでしょう。

まさに、宗教が人の行動や生活様式に口を挟む場合、また、他の宗教や宗派に敵意を抱かせる場合、そこに実害がないとは言えない危険性にも注意が必要でしょうけれども、そこは自己責任となっているのが実情です。つまり、どの宗教を選ぶも自由という環境にはそれなりの危険があるのです。しかも、正面切って何かの信仰を否定し、信仰を止めさせる権限は法的には誰も持っておりません。

そうなりますと、人は自由な社会の中で、思想や宗教の大海に投げ出されることになるわけで、その大海の海水のほとんどは無信仰や、希薄信仰で構成されている一方で、貪婪な宗教家が肉食魚やクジラのように小魚を狙って跋扈しつつ、すべて世の潮流もあらぬ方向に強力な海流のように社会全体を押し流していることには気づき難いものです。

やはり、人は「自分をどう生きるか」という問いの答えを求めつつ、思想宗教の海を漂っているのでしょう。
いつかは死によって自分の価値や、自分の生涯を評価しなければならなくなる現実に正面から向き合わざるを得なくなる人間というものは、やはり宗教を手放せないでしょう。その点で言えば「無宗教」でさえ立派に宗教となっています。それも自己存在への対処法のひとつなのですから。加えて「考えないようにする」も対処法であり、それも一種の宗教ともなるでしょう。いや、宗教でさえ逃避となってしまうのです。

こうして人間と宗教の関係を見ると、宗教とは人が生きる上で必要とされる一方で、諸刃の剣であることになり、賢い判断が個人に求められていることが分かります。
しかし、それにしては人々が宗教ではあまりにも無防備に曝されているものです。しかも、これは個人で判断すべき生き方を含んでいますので、本来、誰かに相談して決めてもらう性質のものでもありません。

しかし、多くの宗教団体の信者は、教勢の拡大が善であると思い込み、とにかく誰かを信者仲間にしようとしていますから、「この信仰をするかどうかはよく考えてからにしてください」などと人権を保護しつつ言うでしょうか。
こうして社会と宗教の関係を考えると、「宗教には充分に気を付けて慎重にしてください」と言えるのは宗教家ということになるのです。これは社会構造上の矛盾です。

しかも宗教自身の最大の問題は、その不明性にあります。
これはつまり、宗教自身が抱える二律背反で、「信仰」というものが信者の主観による判断の結果であり、科学的に証明されるものではないからです。
もし証明されたなら、それは「信仰」ではなくなり、人の生き方に自由は存在しなくなるでしょう。

そこで宗教は本質的に証明の必要がありませんので、誰かを騙せればそこで成立するものなのです。
つまり、「虚構」がまかり通る世界が「宗教」の姿でもあるのです。人々はたとえ虚構でも自分という存在に安堵したいものですから、多様な宗教、相反する教理が並立するのも当然でしょう。それは人が見ている「夢」のようなもの、同床異夢です。

宗教という「虚構」の問題が解決されない原因は、その人間からだけの視点にあります。
つまり、自分が存在価値を持ってここに生きている以上、存在させた「何者か」を認める必要があり、「そちらから人間をどう見ているのか」というように、自分を一旦わきに置いて考えることなく、とにかく自分の価値の保存(保身)を何とかしようと焦れば、人間の欲に迎合した教理に酔ってしまい、却って自己価値を失い、宗教家の奴隷になり果てながらその実害にさえ気付けないという醜態を曝すことになってゆくでしょう。それは人からの願望で神を形作ってしまうからでしょう。一種の偶像のようでもあります。

さあ、そうなると人が「自分をどう生きるか」について、「正解」を宗教から得られるでしょうか?
これは「正解」ということでは得られないでしょう。

自分の限られた生涯を、間違いなく、充実感に溢れて生き抜くという前提にはじめから無理があるのです。
この世は、最初からそれを人々に提供しませんし、できません。個人の尊厳のような人間が創出し法に定めた価値についても、そう努めてもすべての人に配慮などできたものではないのです。

人は、この世に対して、自分と周囲の親しい人々の益を願って行動しているのですが、この世そのものの有り様を変えることはまずできませんし、人によっては思考の範囲外です。
精々が、社会を幾らか改善する程度で、本質的に誰にも価値を与え、幸福にすることなど有り得ませんし、人間自身がそのようには行動できないことは歴史も証明してきた通りです。

人々は、死後も自分の価値が残り、あるいは天国で、あるいは楽園で生き続けることを望むにしても、自分自身にそれを阻害する原因があることに思い致すことはまずありません。多くの宗教が、信仰すれば、拝めば、道徳律をまもれば・・などの自己価値の保存方法を説くにしても、つまるところ、個人の救いの請合いでしかなく、利己心を煽っているばかりではないでしょうか。道徳や慈愛を説きそうな宗教が、実は利己主義を教えているという矛盾がそこにあります。

人の価値を阻害するこの世を構成しているのは、紛れもなく自分たち人間であり、その自分たちが作り上げているこの世が自分たちの価値を阻害し、自ら宗教の夢を見させているというべきではありませんか。これは循環悪です。

この世に溢れる諸苦の根源を自らの内に持ちながら、そこから逃れる夢を見るのであれば、はじめから自らの諸苦の原因をどうするかを考えるべきではないのでしょうか。
それを教えない宗教は、ずっと「夢」を人に与えるでしょうけれども、それは原因と結果を堂々巡りさせる虚構というべきでしょう。

まさしく、キリスト教というものは、そもそも人が救いを必要としている状況の原因を特定する点で優れており、その悪の根源を人から除くという、もとより人間に不可能な事柄を教える点で特異であるのです。そのうえ「悪」の対極に「愛」があることを指摘したことでは他の追随を許さないほどの高みにあります。

しかし、教会でさえ、信者の天国行きを請け負うという教えに堕落し、利己心を煽る結果となってきたのはどういうことでしょうか。
そのうえ、その益を確かなものと吹聴するために、自説の正しさに頑なで、信者と不信者の間に「欲の壁」を築いてもきませんでしたか。「クリスチャンの生き方」なるものが、つまるところ、ご利益確定を印象付けるための差別化であるなら、それはただ人の欲を煽ることでしょう。

こうしてキリスト教という名の宗教も、他と然して変わらず、人の価値を保つことを看板に、却ってそこから外れ、カルト教団に至っては神の裁きからの延命を請合い、信者の信仰行動ばかりか、生活にまで細かく支配している姿を見なければならないのは大きな不幸というべきです。家庭内や親族間での暗黙の信仰の強制、不信者への蔑視や差別、こうしたことが人の価値を保全することでしょうか。
いや、明らかに逆でしょう。

しかし、人は何らかの宗教なしには済まないでしょう。
それが同時に自らを省みる人間らしさでもあるのですが、宗教というものが果たして、その人間らしさにどれほど貢献できているのか、人間らしさを高める方向に作用しているのか、これはかなり難しい状態にある、というのが実際のところなのでしょう。

人は、自らの存在の価値を保存しようとして宗教に頼り、結果として、その価値を見失い、奴隷化させられ、本人はたいへん良いつもりで不自然な奇行に走らされるのでしょう。それが不自然である程に、その確信が増すというスパイラルが起り、人々はその深い穴に巻き込まれてゆき、周囲との軋轢を生むことにもなるでしょう。

ですが、そのほとんどは利己心を煽られた結果というべきではないのでしょうか。
それで大半の宗教は信者の救いや益を騙り、信者は多いほど良いのです。
教祖と信者の飽くなき欲と欲との強固に固まった構造物が、宗教団体という名のグループ同士の間で、また信者と不信者との差別の壁を作るものとなってはいないでしょうか。やはり、奇行の本質は強欲の結果でしょう。







預言者に石を投げる現代の宗教家

2019.05.28 (Tue)


これはキリスト教に限ることではないのですが
宗派の創唱者には陥り易い罠があります。
つまり、自分を過大評価することですが

問題の発端は、自分が格別の人間であると思い込むところにあります。
また、そうでも主張しないと信者を得ることもできないという事情が有ってのことかも知れません。大衆には傑出した人の現れを好むところがあり、ただの人でもそれらしくさせてしまう力を発揮するもので、その人に架空の人格さえ与えることがあります。
もちろん、新興宗教では一人を偶像視することが典型的ではありますが、誰かを特別視することでは、その宗派の頂点をグループが構成していてもやはり変わるところがありません。

おおよそ新興宗教では、何かの教えに時流に乗る魅力があって、人気を博しては教勢を拡大する時期が続いた後に、いずれ停滞期を迎えることになります。
その停滞をもたらす原因には、誰かを偶像視する無理や、教えの不合理さ、信者の良識の無さなどが祟って世間に醜聞が漏れ、やはり只の人を信者たちが担ぎ出していた現実が露呈することもあるでしょう。

理想を夢見ていたにも関わらず、実はその宗教が特に格別ということもなく、信者はもとより、教祖も同じ人間であることの証拠をじわじわと並べられることにはなるのです。

しかし、熱心であるほどに信者の多くはそれを認めるわけにゆきません。それ以前の自らの崇拝活動も信心も否定するということが、ほとんど自己人格の否定に近い損害を招くからで、信仰していた年月や、注いだ犠牲が大きいほどに、生き方の修正はそれだけ困難になってしまい、恰も政治家たちが不正行為を為したことを認めるのが築き上げた立場上から困難であるように、信者も信仰していた宗教の醜聞などを認めて道を改めることなど、余程に謙虚な人でもなければできることではありません。

古くて非常に大きな宗派であれば、まだいくらか正直に対応もできるところでしょう。永い歴史の中で多くの醜聞を既に曝して来た以上、今更何かを隠して却って不評を買うほど自らが改善されていないことを曝して信者を落胆させ、現代までも続く弊害ある宗教としての価値を疑われることを避けるためです。しかし、そのような宗派ですら自らの組織体を十分に省み、隠蔽体質を免れているかといえば、そうも言い切れないようです。

まして新興宗教系となりますと、組織体が小さめのこともあってか、信者への情報統制によって自派の格別さを装い続けることが内部だけでもできるものなら、それで済ませてしまおうと指導層は思い勝ちのようで、「インターネット上の情報は信頼できない」と特に強調する傾向が各派に揃って見られます。

しかし、それでは情報を判断する能力や見識が信者の間で育たず、イエスが取り柄もない田舎のナザレから来たこと、安息日に癒しをしたからということで奇跡の徴をも退けたユダヤの常識に従ったような近視眼的な人々を作っていることになるでしょう。
イエスをメシアとして受け入れたのは、宗教家のようではない民衆であったのは、そこに自然な感受性が働き、優越的な固定観念からは解放されていて、自らメシアの現れを判断することができたからではないのでしょうか。

そこで宗教家が恐れたのは、民が強力な大衆性を発揮して、イエスを先頭に立てて団結されないことであり、それはロバに乗った王としてのイエスを歓呼して迎えるという誰が統率したでもないセレモニーへの強い不服を言い表したところに明らかです。
宗教家の面子はまったく潰され、民への影響力は自然に失われました。


その点では、教理の正統性をふりかざすキリスト教の宗派の大半は誉められたものでもありません。
まさに信者を「教理の隷属」に置いて、多様な情報を取り入れて自ら判断をする自発性を抑制しているからです。

指導層は、それぞれの派に何か忌々しい問題があろうとも、神に導かれているのであるから「いずれは神が正して下さる」と信者たちが考えるように誘導しています。
それは古代のユダヤが律法に従わず、悪行が蔓延った時期があったにしても、それによって彼らが契約の民であり続けたようにです。
ですが、この考えには大きな無理があります。

まず第一に、ユダが神殿もろともに滅ぼされバビロンに捕囚になったようなことを自派に認められるというのでしょうか。
当時の指導層が徹底的な糾弾に曝されたのであれば、現代のその宗派にとって、いったいどれほど損害をもたらすことなのでしょう。

そのうえ、神はイスラエルの罪を指摘するために預言者らを遣わし続けたのですが、新興宗教の中にそのような厳しい通告を行うような人が存在できるものでしょうか。

こうした預言者たちについてイスラエルがどう反応してきたかを再考するなら、どれほど現代の新興宗教の数々に似たことが起っているかに気付かされずにはいられません。

エルサレムについてイエスは『自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ』と呼びかけ、殉教者ステファノスには『あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者が一人でもいたでしょうか』と糾弾の声をあげているように、契約の選民であったにも関わらず、ユダヤの宗教指導者らは神の是認には程遠い状態であったのです。

そのため、遣わされた預言者たちは命の危険に曝されていたのであり、彼らが迫害された理由といえば、宗教指導層にとって都合の悪い存在であったからなのです。
指導者らに神からの譴責の言葉を聞くだけの潔さなどは期待もできなかったのも、本来、改善を求める声を聞く耳があったなら預言者の必要もなかったからでしょう。

イエスの時の書士やパリサイ人らは、自分たちの父祖が殺めた預言者たちの墓を飾り立て、『もしわたしたちが先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流すことなどけっしてしなかった』と言い合っていながら、実は約束のメシアを殺害に追いやるという父祖たちにまさった悪行に手を染めようとしていたのです。
これはその父祖らに勝る悪業、偽善の上塗りでありました。

そこで当然ながら、古来、預言者たちは体制派からは現れていません。体制を批難する側に立って語ったから当然でしょう。
迫害に直面する彼らが、法の保護から押し出され「アウトロー」とならざるを得なかったのも宗教体制派がまったく邪悪で、悔いることを知らない者らであったからに他なりません。

偉大な預言者エリヤが忍んだ境遇も、預言の内容が体制派に都合悪くエレミヤが何度も囚われ、イザヤなどは鋸引きで命を落としたとも伝承されているのですが、そして今日、宗派の信者の囲い込みや、指導層の権威を守ろうとする新興宗教の中枢も然して変わらないでしょう。

宗派の問題を最も的確に暴くのは、けっして宗教団体の指導層ではなく、外部の人々、特に元信者であるのですが、この人々を忌避などし、発言を封じるために信者との交友を禁じて、家族であってさえその接触を断つというのは、現代の迫害に等しく、真に問題点を指摘できる人々を排除し、自らを省みる機会を拒絶するということでは『預言者に石を投げている』のと同じことではありませんか。これは人間共通の陥り易い弱さでしょう。

しかし、それでいったい誰が益に与っているというのでしょう。
家族親族の関係を寸断し、交友を禁じて職にまで障碍を置き、そうして自分たちの宗教の改善の機会さえ放棄しているではありませんか。守られるのは指導層と組織体の体裁ばかりの近視眼的施策であり、もはや人々を導く度量などはありません。

そのうえ宗教指導者が自ら預言者を自認しているとすれば、それはイスラエルに現れた預言者の働きを一向行えない「無意味な預言者」にしかならないでしょう。神は人を超えるからこそ、預言者が興され、人の至らないところを指摘するからです。本来、預言者とは、そうお目出度い存在とはいえません。

しかし、新興宗教のシステムは大抵はそうでありません。
「いずれは神が問題を正すはず」と言いつつ、問題を指摘する本質的に預言者の役割を務められる人々を黙らせ、人権さえ損なっている姿は、キリストに糾弾されたユダヤ宗教家のものであり、それは人を虐げているばかりか、古代と同様に神に向かって不敬を行っており、やはりキリストはそれを是認などなさらないのではありませんか。もちろん「聖霊が語らせる」わけもありません。

あちこちの宗派から聞かれる幼児への性的虐待の醜聞は、実におぞましいこととは言え、もはやどんな宗教団体であれ完全に免れていると主張する信憑性は無くなっているかのように見受けられます。おそらくは、それは宗教の問題をこえて、人間自身に宿る邪悪さのひとつの表れなのでしょう。
そうであるなら、宗派の面子に拘るべき理由もありません。人間共通の悪に対し、迅速で適切な対応を取る以外の何があるでしょうか。

逆に、宗派の権威のために覆い隠しているなら、その愚行はやがて白日の下にさらけ出されると見るのが当然ではありませんか。
それが衆目を集めることになれば、もはや主張するキリストの教えとやらも色あせることでしょう。

それに加えて、中間幹部の横柄さは、その宗派の指導部の性質の反映というべきでしょう。
多様な宗教の多くが幹部を優遇するのは、中枢の指導を末端まで行き渡らせるのに必要不可欠だからであり、その報酬として権威の分配が行われています。
つまり「偉くなりたい」「人を従わせたい」「誉められたい」などの悪魔的欲望を遂げるのを代償に、信者たちを支配し偉ぶることを内々に奨励することにより中枢の指導層と中間幹部の思惑は一致を見ることになるのです。中間幹部が尊大であれば、いよいよ頂点の指導層の偉大さが増し加えられるからです。

そうして自分の永遠の命が確保できたと思えば、その信者は欲のままに進んで、命の次には権威を望み、いよいよその正体を見せることになるでしょう。その教えがはじめから欲を煽ったものであったのならそれも自然な流れで、名前のほかにはキリスト教とは特に関係もありません。

人が自分の偉さを実感する方法は「人々に規則を細々と与え」、自分は「出来るところで恣意的に振る舞う」ことであると言えましょう。古来「小役人」が民衆に嫌われてきたにも理由があるのです。やはり宗教団体でも幹部が専横に振る舞っているという情報には事欠きません。
これをペテロは戒めており、『主要な牧者の現れるときに誉められることを目指す』よう解き勧めているのは、まさにこうした逸脱についてのことでしょう。

ですが、このペテロの言葉に従えるとすれば、その人は権威主義者ではない違いなく、自分のために上の位を望んでいるような野心家であるはずがありません。それは余程に利他的な人であり、まず少数派であり、そのうえ地位を得るどころか端に追いやられるような『幼な児』のように純真な人でありましょう。つまりは、まず居ないということです。中でも才能に恵まれた人であれば、野心家の陰険な策略に無策で曝され、害を受けることにもなるでしょう。

しかし、他者を押し退け、役職に貪欲で、特権意識に燃えているような人が権威を得るのが世の常であり、いったいどんな宗教がこれを免れていることでしょうか。つまるところ皆「世のもの」言う以上にありません。自然とそうなるのであり、内心の野心を禁じる方法が人には備わっていないからでしょう。
まして、それを気にもせず、幹部の地位欲しさの特権意識を煽っているようであれば、その結果はどんなものになるのでしょうか。

「いずれ神が正してくださる」と言いつつ、預言者に相当する知恵ある人々を「背教者」のレッテルを貼って駆逐する実行犯は、この幹部たちの役割であり、実に最初に石を投げ始めるのが彼らでしょう。
しかし、宗派の悪行を「いずれ神が・・」と一般社会が許すものでしょうか?そういう信者たちも幹部と同罪という以外に何と言えるでしょうか。幹部をはじめとして指導者も、そして一般信者までが一緒になって的確な批判者に向かって石を投げていることでしょう。

他方で、聖書はイスラエルやユダヤの悪行の顛末を包み隠さずに記録しているのであり、その正直さと新興宗教諸派の対照からすれば、どこかが根本的に異なっていると判断されるべき理由があることになるではありませんか。

聖書の中で、異教を避けるべきことは書かれていても、神からの都合の悪い情報を遮断したのは、その語るところを預言者もろとも消し去ろうとした宗教指導者であったのです。
そして預言者とは、常に中枢からは現れなかったのです。なぜならサンヘドリンのニコデモスの例が示すように、問題提起は外から起こされなくてはろくな改善も望めません。しかし、人同士は互いに異なる意見を尊重し、情報を交換してこそ健全な方向に少しでも歩めるからなのです。それこそが「人はみな不完全」と認めることでしょう。

批判にも様々なものがあり、的外れなものがあるにしても、なお傾聴に値するものを見分ける価値観や良識こそが指導層に求められるものでしょう。(箴言13:10)
その賢さを投げ捨て面子に拘っているなら、いずれは「預言者の墓を飾る」ことになるでしょう。その人々にとって預言者には飾りつけられた墓の中でいつまでも静かに眠っていて欲しいのです。 古代も 現代も、人々は倫理的に改善もしていませんから、時代も宗派も様々ながら、石を投げつけるところは何も変わりません。(マタイ27:52)

そのうえ終末が到来して、真実に聖霊で語る人々が現れるとすれば、その人々がやはり石を投げつけられるのは目に見えています。
そして加害者らは、その正当な酬い、いや二倍を受けることになるでしょう。『聖なる者たちの血に酔う』からです。
この偉ぶりと面子へのこだわりが、終末に『大いなるバビロン』と変じさせる元凶となるのでしょうか。

人に悪を行わせるのは、「間違った聖書解釈」でも「間違った宗派に入った」からでもなく、ただ、その人の悪の傾向そのものでしょう。
その人は、何を信じようと、何を行おうと、その人となりを変えられるでしょうか。「新しい人格」の表面を装ったところで、アダムからの罪を免れているなどと思ってよいものでしょうか。
いえ、誰であれそう思うのはまやかしに過ぎず、自分の悪への警戒を怠ることになり、そのうえキリストの犠牲の大きさを知らないと言っているのと同じです。



主観の自由である「信仰」 蹂躙不可!

2019.05.17 (Fri)

キリスト教でも他の宗教でも、「信仰」を持った人々というものは、自分の何かを差し出して、神からの益に与ろうとするものではあります。それによって人は神のような何か「上なるもの」との関係を築くことができると教えられるので、それが「信仰」の為せる業とも考えられていることでしょう。
そうであるのなら「信仰」というものの目的は、人を何かの基準に沿った行動をさせることなのでしょうか。また、同じ信仰になく、そうしない人をどう見做すのでしょう。


さて、人は自分をどう生きるか、という問題を考えなくてはなりません。

というのも、人は誰も自分から生まれてきたわけでもなく、自分という人間について、その人生にどう意味を与え、儚い一生にどう対処するべきかを生まれながらに知らされていないばかりか、人々の間にすら誰もが納得しているような答えもありません。

そこで、それぞれに人生の意味付けを捜すことにもなれば、ある人はどこかで諦めてしまうことにもなるでしょう。
ですから、今、何かの信仰を持っているということは、その教えに人生の意味付けや目的を見出しているということなのでしょう。
もちろん、それは確信を得たうえで信仰を持ったのでなければあまり意味もありません。


それにしても、世界には様々な宗教の信仰や思想に基づく信念があり、人々がそれぞれ望ましい何かに人生の意味を見出してきたのです。
しかも、それぞれに確信があってこそ、信仰に熱意も抱けるものです。ですが、その人がどれほど確信を抱いたからと言って、信じた事柄が誰もが認める事実や真実になったわけではありません。それは依然として「ひとつの信仰」に留まっているのです。

そこで、様々な信仰を持つ人々がそれぞれに確信をもって熱心であるほどに、自分の信仰、また他の異なる信仰というものをどう見なすか、という難しい問題にも直面することになります。

特にキリスト教のような多神教ではない信仰の場合には、「あれか、これか」という信仰の条件がついてまわります。
何かの教えを唯一正当とすると、その人の信仰そのものが、別の信仰と両立し得ないという事が起こりますから、どちらかが正しく、どちらかが間違っていることにならざるを得なくなるのです。しかも、自分たちの「正しさ」が絶対であるとするなら、他の教えの「間違い」によって、つまり他との違いに「依存する」ことにもなってきます。周りが「間違っている」ことを頼りにして、それを自分たちの「正しさ」の証しにしてしまうのです。

そうなると信仰の有無や違いによって、比較による差別が避けられず、人間関係にいろいろと制約も生じることはまず避けられません。その酷い結果に宗教紛争もあるのでしょう。破壊と殺戮を繰り返す過激派の「正しさ」というのは、どういうことなのでしょうか。
そこで人は正しさを巡って戦うのですが、武器を持った争いばかりでなく、差別や嫌がらせや、優越感や蔑視など、多様な害悪がその「正しさ」の中から出てきてしまいます。それは人間関係の阻害なので、もちろん道徳的には正しくもありませんが、理屈のうえでは、それぞれの「正しい教え」から出てきているのです。

それを特に信仰を持つでもない人々から見ると、「人生について考え過ぎるのは良くない」という結論を誘うことにもなります。信仰の行いが却って愚かで有害に見えるからです。
そのため独善的な教えを持つ宗教は、外部の観点を断つために信者の情報を制限しなくては正当性の維持も難しくなってくるでしょう。実際に幾つかの宗派がそれぞれに「インターネットは危険」としますが、「自分たちだけが正しい」とのその主張は、そこまで外部の評価に耐えられないほど「危うい正しさ」なのでしょう。

「真理は一つ」と口で言うことはいかにも簡単なことですが、人は宗教上の「真理」を証明することができません。精々が聖典に書いてあるとか、信者の行状が道徳的だという程度のことにしかなりません。「圧倒的な真理」など、どこに存在するでしょうか?どんな信仰であれ、たとえ絶対に正しい信仰というものがあったとしても、信仰というものはやはり信仰の範疇にあり、人それぞれの倫理観や価値観による判断を必須とするものではありませんか。

そのうえ「正しい宗教」を広めようと伝道を行っても、あまり人々に喜ばれないのも、教えようとする側からの圧力や、優越感などを、聞く側が敏感に感じ取るところに原因があるように観察されます。伝道する側からすれば、善いことをしているつもりなのですが、受ける方では自分の意志や決定権が脅かされるような不安があるものです。相手は理屈を準備しているに違いないので、洗脳の危険を感じるとも言えるでしょう。

さて、そこでこの状況を冷静に考え直すなら、視界に入ってくるものがありませんか?

つまり、人間というものには、絶対の宗教や正しさというものを強制することができません。それは人の性質に反するのです。
たとえ、本当に「絶対正義」がこの世に存在したとしてもです。
信仰とは、確定していないことへの主観的な判断を含んでいますので、絶対の真実の下には存在しようがありません。

信仰に関する人間にとっての「正しさ」は、常にその人の主観によって「正しい」のであり、科学や数学のような客観では、人生に関する絶対の真理なり正しさなりの正解がないという現実を直視する必要がどうしてもあるのです。無生物である法則には何の倫理を期待できるでしょうか。神が人に信仰というものを求める限り、科学は神の存在も不存在もけっして証明できないでしょう。

人は内心の傾向によって、信じたいものを信じるからこそ、神は信仰によってその人を終末に見極めもすると言われるのでしょう。即ち、問われるのは倫理であり、自他を、また神を認識し得るものにこそ意味のある事柄です。そこでは、神はいないと信じることも含まれる個人の決定、倫理問題の解の一つです。

そこで人には、自分の人生を自分で決める自由があることになります。
それは数式のように導き出せるものではなく、個人の意志の自由によって「見出される」必要があるでしょう。
それが「倫理」と呼ばれる、個人個人が選択し責を負う領域のもので、他の誰が代れるものでも押し付けられるものでもありません。

それに加えて、元来、神が「信仰」というものを介してこそ人間と関わる理由を考えれば、この結論はたいへん納得のゆくものともなるでしょう。
もし、全知全能の神が存在し、その神が自らを人々に現されるときには、どんな人間であれ、圧倒されてしまい、信仰どころかただ真実だけがそこにあり、何の異論も反論もできないでしょう。それは一種の奴隷状態です。

そこでは、真理はひとつであり、選択肢も逃れ場もありません。
人は神との関係を自分で決めることなど「冒涜」などと決め付けられて不可能となり
ただ従順である以外に何の自由も持てません。
そこには神の意志だけが正しく、あとはみな間違いとなります。人の意志さえ意味を持たなくなるでしょう。

さて、人はそれが幸福と思えるものでしょうか?


多くの人々は、自分自身をどう生きるのか、その目的は何か、などの答えを求めて宗教に向かって問い掛けてきたことでしょう。
そこで、「決定的な解答」に出会いたいと思うのは自然な願いでしょうけれども、そもそも人を創られた神が、人の意志を尊重して、絶対的には自らを現さず、示さないとしたら、どういうことになるでしょうか。

実に聖書には、『神は自らに似せ、その象りに人を創られた』とあります。
その同じ神が、人を威圧してしまうなら、その意志も自由な判断もわざわざ奪ってしまうことになるでしょう。それは隷属というほかありません。

ですから、エデンの『園の中央に二本の木を植え』、アダムとエヴァを監視せず、垣も設けなかったのも、その意志の選択を見るためであり、神が自由な意志を持つように、人にもそれを持たせ、犯さなかったと言えるのではないでしょうか。
そこで強制してしまうなら、そもそも『二本の木』の必要がありません。

神が人をそのように扱われたのは、自らの『象り』を尊重することであり、人の意志決定を妨げたなら、神は自らを卑しめることになったでしょう。
そこで試されたのは「従順」と言うより、他者との関わり方の選択であり、それが「倫理」と呼ばれる個人の決定でしょう。人は自ら望むままに生きるよう創られているのではないでしょうか。

では、どうなのでしょう。
神は「絶対的な正義」を示して、人に服従を求めているのでしょうか。
それならば「信仰」とはいったい何ですか?


ですから、聖書にある規準に従えば、神に受け入れられて救われる、との教え
また、神は人に対して主権を行使することを望んでいる、など
これらは人間一般が陥り易い「神への誤解」でありましょう。
神が人を自らの『象り』としたと書かれているにしては、むしろ支配し奴隷化が目的であるとするところはまったく大きな誤解です。

「人は神の定めた摂理に従って生きることが幸福である」とはそうであるにしても
人は絶対的で不動の幸福を願うあまりに、自らを縛って『神の象り』の自由な意思決定を踏みつけてしまう傾向が非常に強いため、神や上なるものに対して自分を奴隷として差し出して自分を正当化し、内心で保身を謀ってはいないものでしょうか。その関心は自己保存本能という『恐れ』からきてはいないでしょうか。つまり、自分を売り渡すことによって、「救い」という代価を得ようとしているのです。

しかし、聖書詩篇は、人にとって『命に勝る』ものがあることを述べます。Ps63
それは『神との関わり(忠節な愛)』とありますが、保身目的で神に近付こうとするなら、その人は逆に『命』の方が『神との関わり』に勝ると言うことになってしまいます。
キリスト教徒であれば、それがイエスの示した精神とは真逆であることに疑問の余地がありません。
聖書の主題は「永遠の命」ではなく「愛」であって、神はそれを人に問われます。愛ある人こそ神と結ばれ共に生きるべきだからです。神が保身目当ての崇拝者に囲まれることを望むでしょうか。

人が「永遠の命」を目当てに「信仰する」のなら、命や救い欲しさに自分の自由を縛った信者は、他の人々まで縛ろうとするでしょう。特に子の世代、二世以降の信者はその強制の被害を容易に被り兼ねません。
確かに、誰も愛する人に「過ぎ去る存在」になってほしいわけもありません。しかし、「救いのためには愛する者も強制して奴隷化させる必要があり、それを神も望む」というのでしょうか。

「我飢えるとも、子は飢わさじ」とは天晴な親の姿ではありますが、そもそも神は災害ではありません。
神が全能であることを信じるのであれば、神にとっては誰であれ永生を与えることができるはずであり、その神が人を脅して信者を得る必要があるのでしょうか。他方で、不老不死を望むことはどんな悪人でも、いや貪欲であるほどに手に入れたいと思うことでしょう。

そこで誰かが「信仰しない危険」を唱えるとすれば、それこそは神ではなく、常に人間が唱えるのであり、人々の欲を煽り、しかも自らは更に貪欲で横柄な人格の持ち主でしょう。危険だから信仰するものではないからです。

しかし、往々にして、「絶対の宗教」は自分と愛する者たちための保身になることを請合うので、信者自ら奴隷化することが、必ず信者に救いを与えて幸福にすると信じて疑わないまでに硬直化し強度の頑迷さに至ります。
さて、それが「信仰」でしょうか。

天国や楽園などで「生ける希望」などと吹聴しながら、実は保身目当ての絶対主義で、キリストの死によって死への恐怖から解かれたとは言えず。むしろ、神の裁きの理由も考えず、ただ利益を望んでいる状態を「信仰」とうそぶいていませんか。
パウロはこうも書いています。
『働く人に対する報酬は、賜物ではなく、当然の支払いである。
しかし、働きはなくても不敬虔な者をさえ義とする方を信じる者は、その信仰が義と認められるのである。』ローマ4:4-5

キリスト教に於いては聖典にある言葉に固執し、人にとって生きて行くために重要な事柄から引き離して奴隷として働かせ、そうして「言葉の罠」に嵌まらせて神からの支払いを期待させ、神の言葉に精通しつつも自然の情愛を失い、聖典の言葉の本来の意味からさえ遠く離れてゆく姿は、かつてキリストを葬り去った宗教家の轍を踏んでいませんか。(シナイ契約はメシア信仰へのアンチテーゼなのでしょう。パウロはそれを「奴隷」としています)

こうしたパリサイ派のようなことは、独善的な宗派に於いては当然のように教えられ、まさに実践されていることではありませんか。
保身の為に自分を差し出し、隷属の業を課され人格を制限された人々の群がそこに見られるでしょう。

自己義認が強く、唯一正統で、他は悪魔の滅びの道、などと主張する愚かさがどれほど利己的で醜いものであることか。
それは神がその栄光を与えるべき人間を踏み躙っているのであり、延いては神をも卑しめていることになるでしょう。

人は自分という存在について探求し、対処法を考えている内に、理屈を捏ね繰り回す貪欲な宗教に「信仰」を懐いて、実は神でない誰かに自分を差し出してしまい、奴隷となってしまうのです。それは怪しい投資話に夢中になるのに似ています。
ですから、あちこちの宗派で「永遠に比べれば、今の人生など僅かだから・・」といわれて、生活を投げ出して宗教団体に「投資する」よう誘惑されているのです。

そんなひどい話に乗ってしまう原因といえば、その人の貪欲が煽られた結果なのでしょう。つまり、利己心という「サタンの象り」であり、自分を差し出した相手であるボスと同じ性質を帯びるのです。その圧制の下で人の自由を尊重する姿勢は失われることになり、誰が偉いかを問い始めることにもなるでしょうし、権威を横暴に振う者も現れるでしょう。弱きを顧みず切り断つことで自分の身の安全を感じ、そこで優越感に浸る主人のはびこる「奴隷制」だからです。

「自分たちだけが正しい」と唱えることで、その人たちは周囲との関係に問題を抱えることは避けられません。その本質が倫理問題だからであり、問題は家庭の中からさえはじまり、友人知人、仕事でも学校でも、更に差別化が強ければ、果ては病院や介護施設から墓に至るまで、人と人の関係を阻害し、軋轢を生むことさえ起こり兼ねないでしょう。しかし、当の信者は、それが反対に遭うという犠牲をはらい、大事になるほどに確信を強めることになります。迫害されているのだから「ますます正しい」と説かれて信じてゆくことになるでしょう。

ですが、周囲から自分の人格が認められ、また自由な決定を尊重して欲しいのであれば、まず、自らが周囲の人々を尊重するべきではないのですか。自分が自由に述べ行動するように、他の人々も自由に主張することを認めてはじめて、人は人らしく生きられるものです。自己義認が無ければ、わざわざ人間関係を荒立てる理由がありません。しかし、唯一正当などと自認している人が真実な謙虚さをもって振る舞えるものでしょうか?それはまさしく倫理問題です。

逆に、真の信仰であれば、それは事実とは未だ成っていない事柄への自分の「主観による判断」であることを認められるはずであり、まったく事実であるかのように正しいとは言わないでしょう。それは「信仰」を通り越した「決め付け」ではないのでしょうか。

ですから、自由のあるところに惹き起こされるのが信仰と言えましょう。
それは強制できるものとはいえませんし、脅して抱かせるものでもないのです。
人が恐れなく、束縛のないところで自ら選び取るものが信仰であって、その結果に隷属があるなら、それは矛盾しています。

この点で、唯一正統を主張し、絶対正義を唱える「信仰」というものがあるなら、それは少しも「信仰」ではなく、人格を無視した「強制」であって否応なく人を奴隷とすることを意味するでしょう。
その「教え」は「信仰」から外れて大いに間違っているばかりか、創造の神を自分のような圧制者であると吹聴していることにもなるでしょう。

神の御言葉が『諸刃の剣より鋭く、心の想いと願望とを切り分けるほどに鋭い』というのは、このようなことではないのでしょうか。ただ字面に従っていれば神に受け入れられるのではないのです。
また、『人はそれぞれ、その欲によって引き出され試練を受ける』のであれば、注意するべきは行動の外面よりは、心の中ということになります。
しかもそれは、気付き易いものではなさそうです。 よほどに気を付けていてすら誰にとっても『心は不実』なので、「自分は信仰にある」と自らの心を疑わずに慢心しているなら・・さて、どうなるのでしょうか。自分の意志と逆の方向には進みたくないものです。

このように、人が、自らの存在意義を探ってその空しさに怯え、却って「信仰」の名の下に自由を失い、人の奴隷になるということ、それが現に起こっているのです。
誰かが「唯一正統」を唱えるなら、その人は「神」の座を占めているのであり、自分が崇拝されることを願っているのです。それに従う「信仰」とは、神へのものではありません。





キリスト教の「救い」とは

2016.04.21 (Thu)


様々な宗教と呼ばれるものがありますが、キリスト教の趣旨は何でしょうか?

◆教会の「救い」
教会の人々に尋ねると「信者の救い」があることについて話されるでしょう。

洗礼を受けて信徒になれば「救われる」とされています。
つまり、有意義な人生を過ごせる、または、神の裁きでは犯した様々な罪を赦され、死後には神の憤りや地獄から逃れ、天のキリストの許に召されて永遠に安らかに過ごすこと、などを聞くことになるでしょう。

また、信徒になるとキリスト自身が聖霊によってその人の中に住み、人生を導いてくれるとも言われるでしょう。
多くの場合、「救い」を得る条件が「人の罪を担って亡なり、復活した神であるキリストへの信仰」とされます。

「この世」に悪や苦しみがあっても、すべては神の摂理や意志によって動かされているので、人にはそれぞれ神の目的があり、苦しみを試練として乗り越え、キリストに従い人生を全うすることが崇拝であるともされるかも知れません。どんな職業に就き、誰を配偶者に迎えるか、人生の成功を導くのも神であるキリストの思し召しによるのであり、最後は天の「イエスさま」の許に召され永遠の至福に入ります。それが「信仰」の酬いです。
「イエスさま」という神の意志に従い、モーセの十戒などの道徳を守りつつ、神の摂理が働く「この世の中」に在って自分の人生を「イエスさま」と歩むことがキリスト教の目的であるとも説明されるでしょう。

このような信仰では、実はこの世を生きる信者が主人公であり、「イエスさま」も聖書もその生き方をサポートするものです。
人間の務めは「その生活によって神への賛美を捧げる」ことになるとも教えられるでしょう。
また、その「キリスト教的」な人の生き方でこの世も改善される余地があると感じられるかも知れません。

他方で、キリスト教を信じない人々はこうした恩寵には入らず、死後は地獄に行くと教えられもします。
日本の「クリスチャン」は人口の1%ほどと言われますので、教会の教えによると他のほとんどの人が「救い」に無縁となっているのですが、これでは間口の広い神道や仏教と比較しても、対照的に著しく「狭き門」であり、なるほど日本の「クリスチャン」という、十字架を下げた人々の気位も高いはずでしょう。


◆原始キリスト教の救い
教会の救いが主に「信徒個人」に益をもたらすのに対して、原始キリスト教では「地獄」ではなく「この世」という避けられない環境からの人類全体の救いが説かれます。

まず一言でいえば、「この世」とは、神からかけ離れた無法な世界であり、そこに自然の法則はあっても神の意志も摂理も働いているわけではありません。人は皆に『罪』があり、どうしても自分や他者の悪から逃れられません。
そこで、人が逃れられない「この世」という罪悪と苦しみと虚しさ満ちる場所から人類全体を創造された本来の姿に助け出す事が神の意図する「救い」であって、それこそが人に関するキリスト教の目的であり、今その人がキリスト教徒であるかどうかはあまり関係がありません。

ですから原始キリスト教の目的は、個人的な利益をもたらす信仰ではなく、世界の救いであるところが一般的キリスト教と大きく異なっています。キリストの犠牲によって人類に蔓延した悪への傾向である『罪』が相殺され、人間は神との関係を回復し創造された当初の輝かしい栄光と永生を得る機会が開かれます。つまり「エデン」の状態を回復し、死んだ者も復活によってその機会を得るのであって、死後に霊魂となって天国にゆくのではなく、死は存在しなくなることであり、まったく無意識です。

「この世」が人に苛酷である原因は、「この世」が創造者である神の意図からすっかり離れてしまっているからです。
しかも「この世」の悪の大半を作っているのは他ならぬ人間自身であり、人類には道徳的欠陥が宿ってしまっているので、世ではどうしても争いが絶えません。その中では困窮する人々の方が圧倒的に多いのです。神はこうした人々を顧み、その祈りを聞かれますが、富んだ者や成功者への配慮は必要がありません。(ルカ1:50-53)

原始キリスト教での主人公は神であり、人間はこの世からの救われる側であって、各個人が救いに値するかどうかは、終末というこの世が裁かれる時に至るまで確定しません。「この世」という諸悪の真相が露わにされてもなお、利己心満ちる「この世」を愛して救いを拒む人々も少なくはないからです。(ヨハネ第一2:15)


神は創造者であられ、存在させた人々の一人一人が創造本来の『罪』のない幸福な姿を取り戻すことを意図され、『この世』をいつか終わらせ、『罪』を浄める『神の王国』をキリストの下に建てられます。この『神の王国』をイエス・キリストは宣教の最大の主題とされていたのです。これが苦しみの絶えないこの世を根本から変えることのできる神の手立てなのであり、死後の至福を説く「天国」などではありません。

人々は「神がいるなら、どうしてこの世にはこれほどの悪や苦があるのか」と問いますが、むしろ「この世」の方が神の意志に反して勝手に動いているのです。
聖書はその原因が人間自身にあることを指摘してこう述べます。

『何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いがあるのでしょう。
あなたがたのからだの中で戦う欲望が原因ではありませんか。
あなたがたは、ほしがっても自分のものにならないと、人殺しをするのです。羨んでも手に入れることができず、争ったり、戦ったりするのです。
あなたがたのものにならないのは、あなたがたが(正しく)願わないからです。
願ってはいても得られないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです。』(ヤコブの手紙4:1-3)


この人間の倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼びます。それは具体的な悪行の一つ一つを言うのではなく、誰にも宿る悪の傾向を指します。その傾向は、人間自身で解決することができません。『罪』は遺伝して誰もが持って生まれてくるからです。

聖書はこの『罪』の由来を、最初に人アダムが自由な意志の下に神を退けた結果であることを告げます。
それが禁断の木の実を食べたという良く知られた罪を指します。それは単に間違った食事をしたということではありません。創造の神を認めずに、倫理の基礎が壊されてしまったので、人はどんな関係でも不道徳性が付いて回ります。
『ひとりの人によって、罪がこの世にはいり、また罪によって死が入ってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類に入り込んだ』と聖書は述べます。(ローマ5:12)

そこで神は、アダムの子孫である人類からこの『罪』を取り除き、創造された『罪』のなかった状態に戻すことを望まれ、苦難の「世」を終わらせ、人類全体を救い出すことを意図されます。
そのために神から遣わされたのがイエスというキリストです。「キリスト」とは「任命された者」を意味し『神と人との仲介者』の役割を果たします。(ローマ5:18)

このキリストを通して人間は『罪』から浄められ、互いの間に平和を得るだけでなく、神と和解することにより健康で老化することのない生命に入ることになります。それが創造された本来の人間の姿です。ですが、単にそれらの益を人々に得させるのが神の目的ではありません。

人間から『罪』を去らせ、神と深い絆で結ばれた『神の子』とすること、つまり神から離れてしまった人類をキリストを仲介者として神の輝かしい創造物として復帰させ、そうして創造の業を完了することこそが神の意志であり、キリスト教の最終的な目的となっています。これは、どんな人間にも実現できることではありません。(ヨハネ1:12)

ですから、原始キリスト教の目的は「この世」を改善することに本来はありません。
人を愛しても「この世」を善くしてゆくことを目指してはいないのです。
むしろ、苛酷な「この世」から人類を救い出すところに神とキリストの御意志があることを知らせます。

また、信者の個人的な利益のための宗教でもありません。
その人種や国籍はもちろん、個人の犯した悪行も社会的立場も、現在どんな思想や宗教をもっているかにも関わり無く、世界のすべての人々に「救い」が開かれるときが来ることも聖書は知らせます。(マタイ25:31-)
その救いをもたらすのがキリストが王となる『神の王国』であり、それは実際に地上を支配するもので、「信者の心の中にある」ものではありません。やはりそれは、人が死後にゆく至福の「天国」ではないのです。(ダニエル2:44)

神は終末に『神の王国』を世界に知らせますが、その知らせは諸国の政治家らとの論争を引き起こし、世論を沸騰させるほどの注目を得ることになることを聖書は知らせています。人類は『神の王国』の到来を巡って対立を始めます。すべての人が「この世」から離れたいと思うわけではないからです。(マタイ10:16-18)
終末に『神の王国』を伝えるのは「聖なる人々」であり、彼らには神からの格別な言葉が聖霊を通して授けられますが、それは誰も反駁することができないほどのものとなるとキリストは予告されました。(ルカ21:12-15)

キリストの伝道には、人類全体を救うことになる「聖なる人々」を『神の王国』へと集め出す目的がありました。(マタイ23:37)
つまり、ただ信者を集めていたのではなく、キリストと共に世界を救う『神の王国』つまり『神のイスラエル』に含まれるべき人々を集めていたのです。(テサロニケ第二2:1)

ですから、原始キリスト教徒の集まりは「教会」とは呼ばれず「エクレシア」と呼ばれていました。その意味は「召し出された人々」です。この「聖なる人々」が天に集められてキリストと共になり『神の王国』が出来上がりますが、それは「終末」という将来の時期に完成されます。これが極楽のような「天国」と誤解されてきましたが、『神の王国』とはキリスト教の他に例を見ない独創的なものです。

この世の終末が到来するとキリストは再び「聖なる人々」を地の四方から集め、この世に対して介入されます。(ゼカリヤ14:5)
その後『神の王国』が知らされ、それを信仰の内に受け入れる世界の人々が救われることになります。

これらの観点が、第二世紀までの原始キリスト教のはっきりとした特徴であったのです。
しかし、キリスト教がローマの国教とされると、『神の王国』はローマ帝国の存在によって無視され始めて今日に及んでいます。
そうして、キリストは王とはされず、信者個人の益に仕える僕とされていったのです。ですから『神の国はあなたがたの只中にある』とパリサイ人らの間にメシアが来ていることに注意を向けさせたイエスの言葉を、「神の国はあなたがたの心の中にある」と言われたように勘違いするのも、最初から『神の王国』がどんなものかの理解が曖昧だからです。

しかし、聖書に描かれるキリストは、世界を統べ治める大王であられ、その支配の目的は空しい世からの人類の救いであるのです。
キリストの「救い」とは、神の創造の業の完成であり、人類は創られた通りの栄光ある姿に戻され、老化せずに生き続けることになります。ですから、人をその死後に天に召すのが神の目的ではありません。神は人を地上に創造したのです。
この救いに求められるのはご利益信仰ではなく、創造神と和解し『神の子』としての絆を回復することにあります。(ヨハネ1:12)

こうして原始キリスト教と教会のキリスト教とを比較してみると、根本的な違いが見えます。
つまり、個人に益をもたらす信仰か、人類全体を救う信仰かという違いで、その信仰する動機も180度異なることになります。
キリスト教はイエス・キリストの自己犠牲の精神に倣うものであって、自分に益があれば良いというものでは決してありません。利己心は「この世」の原動力であり、利他心は神からの愛です。

もし、これをお読みのあなたが、個人的な利益をもたらすキリスト教をお望みなら、一般の教会がふさわしいことになるでしょう。
そうでなければ、この先をお読みになる価値があるかも知れません。

まさしく、何かの宗教を信じるということは、その人の道義的な選択と言えましょう。



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