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囚われてなお語るパウロ

2019.05.04 (Sat)

◆ローマ市民権に守られる

エルサレムというユダヤ主義の坩堝の中に在って、今やパウロは、ローマ市民権を持っていたための保護を受け、アントニア要塞の兵営に居ます。
もはや、パウロの宣明するユダヤ教から離れたメシアの教えであるキリスト教は、ユダヤから強烈な拒絶を受けることが明白となりました。
その対立は異邦人であるローマ軍の士官たちには理解が進みません。ともあれ、ユダヤの群衆からこれほどの仕打ちを受けるからには、このパウロという人物に何かしら大きな問題があることだけは分かるのですが、それが何であるのか、また、どう処置してよいのやらも分からず、翌日にはユダヤの宗教指導者で構成される最高会議「サンヘドリン」を招集させ、パウロの問題を知ろうとしたのですが、またまた大混乱の内に被疑者パウロを再び兵営に戻すのがやっとの有様でありました。ユダヤ教指導層からすれば、パウロは理屈抜きに消し去るべき存在になっています。

ユダヤ教徒のパウロに対する敵意はすさまじく、アントニア要塞からパウロが出る時を狙うことが画策され、およそ40人ほどが『パウロを殺すまでは飲食を断つ』と誓って暗殺を決行しようと、必殺の機会を窺い始めていました。彼らはパウロを要塞から外におびき出すために、祭司長派に話し、サンヘドリンと組んでパウロを詳しく取り調べると称して連れ出すよう千人隊長に依頼し、パウロを神殿に付随する会堂に連れて来させるように言付けるよう依頼します。その途中で殺害するつもりであり、これは祭司長派にとって嬉しい申し出でしょう。しかし、これを聞き知ったパウロの身内が居たのです。

実はパウロの姉妹がエルサレムに居て生活しており、その息子がどのようにしてかこの陰謀について気付いたのでした。
この若者は勾留人を世話する親族として兵営に入って行き、まず、パウロに話すと、パウロはこの甥を千人隊長に会わせ、この陰険な計画を伝えさせます。
士官はローマ市民を守る務めがあり、ローマ市民はたとえ嫌疑をかけられていても縛ることは法により禁じられ、まして、殺害を許したとなれば殺人罪を問われましたから、ローマの駐屯兵としてこの陰謀は何としても防がねばなりません。そのために、以後のパウロはローマ市民として帝国の権力の厚遇を受け、ユダヤ人から守られることになります。

千人隊長は若者には口外を禁じてから帰すと、人目に付かない夜間、パウロをカエサレイアの総督府に保護することを決意し、第三夜警時(午後九時)に歩兵二百、騎兵七十、補助兵二百というパウロ一人を護送するには随分と多い兵数を準備させ、また、当時の総督であったアントニウス・フェリクスに書き送り、護送する男がユダヤ人に捕われて殺されそうになっていたが、ローマ市民であること、ユダヤ人の訴えが投獄にも死刑にも価しないユダヤ人の律法に関連するものに過ぎないこと、そして彼を殺そうとの陰謀があることを察知したので、そちらに送り、ユダヤの告訴人らには総督に訴え出るよう申し渡したことを知らせます。

ですが、このフェリクスという総督は公明正大を期待できるような支配者とも言えないのです。
ヘロデ・アグリッパスⅡ世の妹ドルシラに横恋慕し、地方長官の夫から引き離して妻とした人物で、ユダヤ人に対しては強権的に振る舞い、ローマに逆らいそうな者を容赦なく処刑したので、ヨセフスによれば彼は「日毎に処刑に追われた」と書かれてもいたのです。この総督にとってユダヤ人個人の命ならそう重いものでもないでしょう。 しかし、この横暴な総督の反ユダヤ的な姿勢もこの状況下ではパウロに有利に働くことになります。

ローマの守備隊にとってもユダヤ人にローマ市民を殺害されたとなっては面目も潰れます。ローマ兵らは夜の間にパウロを護送し60kmも離れたアンティパトリスまで強行軍を行い、次いで昼の間は騎兵隊に守られてカエサレイアに送られたパウロは、総督フェリクスによってヘロデ大王が建てた総督官邸に翌日には留置されているに至るのでした。

それから五日が過ぎると、エルサレムから告訴人である大祭司アナニアと長老らが弁護士テルトゥルスを伴ってパウロの告訴に到着し、『この男は疫病のような輩でありまして、各地のユダヤ人の間で紛争を引き起こし、ナザレ人派の頭目で、神殿まで汚そうとしたのでこれを取り押さえたのであります』とその主張するところを述べます。これはパウロが悪行者としてではなく、宗教上の争いの当事者であるとするものです。それでも、ローマにはエルサレムや神殿の秩序の維持を行う務めがあることも関係します。以前にアキュラとプリスキラがローマ退去の命に従わざるを得なかったのも、ユダヤ人同士の抗争、おそらくユダヤ教とイエス派の争いが原因でしたが、この弁士はそのように帝国に迷惑をかける悪名高い元凶がこのパウロという男であると言っていることになります。

対してパウロは、自分がエルサレムに上ってから僅か12日が過ぎたばかりであり、神殿でも、どこかの会堂や街中でも、争論を吹きかけて群衆を扇動するなどしたところを誰も見てはいないこと、しかし、自分の派に従って、先祖の神に仕え、律法と預言者らを信じ、義者も不義者も復活するという希望を抱き、神にも人にも良心を持って常に努めていると弁明します。
自分は同朋への施しを行うため、また、供え物(献金)をしようと数年ぶりでエルサレムに戻り、供え物のために浄めを受けているところで、群衆も騒ぎもなかったのであり、ただアジア州からのユダヤ人が何人かそこに居たので、勘違いから騒ぎになったのであり、何かの咎を訴えるべきは彼らであり、そうしないのなら、ここに居る者らがサンヘドリンでわたしにどんな罪を認めたのかを話すべきであることを訴え、『わたしは、そこで「死人の復活について裁かれている」と言っただけです』とも付け加えます。

これを聴いたフェリクスは、妻ドルシラが使徒のヤコブを死刑に処しペテロを逮捕させその後亡くなったユダヤ王家ヘロデ・アグリッパスⅠ世の娘であり当時のユダヤ王アグリッパスⅡ世の妹でもあります。そこでユダヤの内情やイエス派を巡るこの辺りの状況に詳しくもあったので、エルサレムの千人隊長リュシアスが来たときに裁決するとして裁きを保留し、パウロを引き続き留置するも、ある程度の自由と仲間の世話が受けられるよう手配しました。
しかし、カエサレイアでのこのようなパウロの拘留生活が年を越して長くなろうとは誰も思わなかったでしょう。

その後フェリクスは何度もパウロを呼び出してはキリストに関する話を聴くようになります。何らかの事で、彼はパウロが多くの金を有していることに目を付けます。使徒言行録を記したルカは『同時に彼はパウロから金を受け取ろうとの魂胆もあった』と記しています。ルカは明確には語っていないのですが、総督が目を付けた金とは、エルサレムに上るまでにパウロが集めた寄付金のことを指すのでしょう。確かに審議中でパウロは各地からの寄付を預かってエルサレムに到着したところであったことをフェリクスの前で弁明してもいました。
犯罪を行ったわけでもないパウロですから、保釈を望んでフェリクスに金を渡すのであれば、それも出来ないことではなかったのでしょうけれども、パウロにはその素振りもなく、却ってフェリクスにキリスト教の義や節制について話すものですから、総督は却って怖れを懐く結果になってしまいます。


◆ローマへの道が開かれる

こうして時は過ぎ『二年が終わった』とルカは記します。ローマ法には判決が下されずに二年が経過した被疑者は解放されるべきことが定められていました。しかし、新任の総督フェストゥスは『ユダヤ人の歓心を買おうとパウロを留置のままにした』とあります。

前任のフェリクス解任の理由は、彼がユダヤ主義者に対して余りに苛酷に当たるため、却ってユダヤ人が反抗的になって治安が悪化してしまい、ユダヤの主だった者たちがこの件を皇帝ネロに訴えたために彼は解任されていたのです。ここで歴史は、西暦60年を以ってフェリクスがユダヤ総督を更迭されローマに呼び出されたと有力視されていますので、ルカの言う『二年』というのは、パウロの拘留が丁度そのときまで長引いたということなのでしょう。
ユダヤに厳しかった前任者との違いを印象付けるために新任のフェストゥスが祭司長派が憎むパウロを期限切れにも関わらず釈放せず『ユダヤ人の歓心を買おうと』していたのであれば、当時の状況によく合致します。しかし、もし釈放されていたなら、またしても狂信的なユダヤ教徒にパウロ殺害の機会を与えてしまったのかもしれません。そうなると釈放は恩恵とはならないでしょうし、ローマ市民を危険に曝した咎めを新総督は負わねばなりません。

さて、着任して三日目にフェストゥスはエルサレムに上りますが、そこで祭司長派や長老たちからパウロをエルサレムに連れ戻して裁くよう要請されます。
しかし、新総督は事情を知ってか、彼らがカエサレイアに代表者を派遣してパウロを訴えるようにと取決めました。ここでユダヤの宗教家らの、その道中でパウロを襲うという目論見が再び外されます。おそらくはフェストゥスもその件についてはパウロがカエサレアに居た理由など聞いていたのでしょう。彼がユダヤ人に寛大であろうとしても、やはりローマ市民を死の危険に曝すわけにはゆきません。

それでも、エルサレムから訴訟の者らが到着すると、フェストゥスはユダヤ人に恩を売ろうとパウロに向かって『そちはエルサレムに上り、わが前にて裁かれんことを願うか』と皆の前でたずねます。しかし、エルサレムのユダヤ人らはどれほどパウロを殺そうとしてきたことでしょうか。やはり総督府の在るカエサレイアを出ればパウロは再び命を狙われ、そのときこそ落命するかも知れず、彼のローマに向かう願いも、主イエスの意向も果たされずに終わる危険が非常に高くなります。

そこでパウロはローマ市民であることを活用し『皇帝(尊厳者)に上訴致します』と申し出たのです。パウロとしてはローマに行く窮余の一策、それが主イエスの導きであると思えたのかも知れません。

しかし帝都ローマで裁判を受けるために多くの資金が要ります。それは現代でも訴訟に高額の費用が掛かるのと変わりません。そのうえ皇帝への直訴となればローマまでの旅費も食費も自前であるうえに、仕事にできない間の自分自身の生活費はもちろん、証人や弁護人にかかる費用や様々な出費を覚悟しなければなりません。ですが、パウロの手許にはユダヤの信仰の仲間への寄付金の残りがどれほどかは分かりませんが、依然として十分な資金が残されていたのでしょう。つまり前任の総督が目当てにしていた金です。

そこでパウロに対する主の意志であるローマ行きが、ユダヤ人の陰謀を排しローマ市民としての彼の上訴によって成し遂げられる道が唯一開かれることになっていたのです。
今日の法で言えば、寄付の意図とは異なる使途への充当となり問題がありますが、この資金の出所についてルカは書いていません。実際ユダヤ救援の資金が用いられたとしても、パウロ自身の訴訟費用が必要になることは誰も予測していなかったことであり、彼の生命と彼がローマに行くべき主の意志とが生じたこの件の場合に、当時、寄付者の意向の再確認は不可能と言え、古代世界でどこまで寄付金の趣旨に沿った使途に用いるべきであったかを論じるには相当な無理があることでしょう。

ですが、これも推測であり、或いはパウロの家はローマ市民権を得るほどに名家であって、多くの可処分財産を有していた可能性もなくはありません。それでも、エルサレム到着の折にヤコブからは自らの身の潔白を示すために、パウロが多額の金銭をナジル人らの浄めに用いるよう勧告されたのは、やはり持参した寄付金の使い道への指示であったと捉える方が自然な流れといえます。

ともあれ、様々な要件が自然に備わり、パウロのローマ行きは、兵士による護送によってユダヤ人暴徒から守られつつ可能となります。これはユダヤ人としては稀に受ける保護でありました。その結果、ローマに向かうパウロの身は帝国の権力が守ることになるのでした。

さて、フェリクスの後を継いだフェストゥスも総督府に居るパウロに関心を寄せ、ヘロデ・アグリッパスⅡ世とその妹にして妃となっていたベルニケー(ドルシラの妹)が新総督に表敬の訪問に来た際に、前任者から引き続き留置させられている一風変わった人物について話をします。ユダヤ人らから訴えられているのに何ら罪のはっきりしない男で、イエスという亡くなった者が生きているというので、自分はすっかり閉口してしまい、エルサレムで裁きを受けるかと尋ねたところ皇帝に上訴すると言ったので、ローマに送るまで引き続き留置していると知らせます。すると、ユダヤ教に通じたアグリッパスはパウロに会ってみたいと思い、翌日にはローマ士官らや町の有力者らと共にパウロに接見します。その「罪」を見定めるためでもありました。

しかし、パウロの主張は尽く宗教の問題であり、それが理解できるアグリッパスに向かって『預言者たちを信じていらっしゃるのでしょう?』と問いかけます。
もちろんヘロデ王家は離散のユダヤ人であると自称し、ユダヤ教の守護者という触れ込みで、あのエルサレム神殿、つまり十二使徒らも讃嘆の声を挙げた当時の神殿を建てたのが、王家の祖であるヘロデ大王であったのですから、アグリッパスもユダヤ教を知らないはずもありません。来るべきメシアについても聞き及んでいたでしょう。熱心なユダヤ教徒を自認しているほどなのですから。

しかし、アグリッパスは『お前は短時間の内にわたしを説得してキリスト教徒にしようとするのか』と答えました。ユダヤ教徒に宥和的に振る舞い自らの権力基盤を固める必要のある王にとっては、例え納得ができたとしてもナザレ派に組みすることは立場上むずかしいことで、王として関わりたくもなく、パウロの話を聴いたのも好奇心からで、いくらか後悔さえしていたかも知れません。

この審問が済むと権力者らは退席しながら『あの人は死罪や監禁に当たるようなことは何一つしていない。』と言い合い、アグリッパスは『あの者は皇帝に上訴していなければ釈放されていただろう』とフェストゥスに語ります。これはかつてピラトゥスやヘロデ・アンティパスがイエスに罪を認めなかったのと同様に、頑迷なユダヤ教徒と公平な観方のできる為政者らの見識の違いを際立たせるものです。それを通して、モーセの律法に固執しメシアの到来を認めないユダヤ人にしてみれば、イエスとその弟子たちの教えがどれほど受け入れ難いものであったかがますます明らかです。もはや遠からずユダヤ教とキリスト教とは決別することになるでしょう。


◆囚人となっての航海

しばらくして、パウロは他の何人かの囚人らと共にカエサレイアからローマに向けて護送されることになります。時は西暦59年にはなっていたと考えらていますが、総督の交代時期からすれば西暦60年であった可能性もあります。
護送される囚人らは皇帝直属の部隊の百人隊長ユリアスに委ねられ、パウロに同行するルカたちも含めて一行は小アジアの船に乗せられます。季節は夏の後半になっていたようです。

この民間の船で小アジア南岸の港ミラまで進みます。そこでユリアスはイタリアに向かう船を見つけ、一行を乗り込ませたのですが、これは当時の比較的大きな船で乗り込んだのは276人であったとルカは記しています。しかし、出帆したものの、風向きが悪くてなかなか進まない中、西に進むの諦めて南下し、クレタの島の南側を帆走してようやくに島の中央部、ラサヤの街が東方8kmにある「良い港」と呼ばれるところに入港できました。地中海では今の暦で9月から翌3月までは海が荒れるため、その間の航海が危険なものになるので、雨がちな冬の明けるまではどこかの港に留まる安全策を取るのが常識であったのですが、そこの「良い港」は冬を越すのには不向きであったと書かれています。

そこでパウロも、ここから先に進むのは積荷ばかりでなく、乗り手の命にも危険があると進言したのですが、船長や船主はクレタ島の中でもそう少し先の過ごしやすい港まで行くことにしていて、しかも、そこにその時期にしては珍しくたおやかな南風が吹いてきたものですから、百人隊長のユリアスもそちらの言葉に信頼を置き、65kmばかりの航海であるし、これは行けるというところでした。しかし、これが災いの始まりとなるのでした。一行を乗せた船がクレタ島の南岸を進んでいると、間もなく地中海の台風であるユーラクロンと出合ってしまい、その強い風が島の方から吹き下ろしはじめました。

船は島に沿って西に進むことができず、地中海のただ中に吹き出されてしまいます。船乗りは船をロープで補強し、帆は下ろして流されるままにする以外に方策がなくなりました。
海はひどく荒れ最初は積荷を、次の日には船具さえ捨てて流されるままに過ごしますが、何日も昼は太陽も夜は星も見えず、すっかり望みも絶えたかに思えた日にパウロの下に天使が遣わされ、船は失われても命を落とす者はひとりもいないことが告げられます。パウロは人々にそれを伝え、どこかの島に打ち上げられると教えます。

嵐に遭ってから14日になっても状況は変わらず、連日荒れた海のただ中を流され続けていましたが、水夫らは海が次第に浅くなって陸地に近付いていることを悟っていました。
それまでの間、皆が食事を摂らなくなっていましたが、パウロは誰一人失われないことを再び預言して、皆にパンを食べるように勧めます。同乗の人々も満腹するほど食べて、それから穀物も捨てて船が漂着するのを待つと、夜が明けて砂浜のある入り江が見えていました。

水夫らは舳先の帆を上げて浜に向かって船を前進させますが、舳先を浅瀬に乗り上げて船は動かなくなると、船の後部は打ち寄せる激しい波に壊され始めてしまいました。囚人を護送していた兵士らは、囚人を逃亡させないために殺そうとしましたが、航海を通してパウロに心服していたであろう百人隊長のユリアスは『彼を救おうと兵士らを制して』、なお浜まではいくらか距離があったので泳げる者は飛び込ませ、他の者は浮くものにつかまらせて陸に上がるようにさせ、こうしてパウロに言ったようにすべての者が失われずに命を長らえることができたのでした。

その島はマルタ島であり、フェニキア語を話す島の人々は、言葉の障碍があるにも関わらず地中海特有の冬の氷雨の中、焚き火でパウロらを温めるなど遭難者を暖かく迎え、パウロは土地の長官プブリウスの接待を受けた際に、長官の父親の熱と下痢を癒して返礼すると、島の人々も自分たちの病人を連れて来てはパウロに癒してもらいました。これはもはや悪人の所業でないことは誰の目にも明らかです。

この航海は難破という危険を伴ったものの、パウロの周囲の人々には安全があり、ユリアスのパウロへの敬愛のようなものも感じ取れる結果を得ました。それは、この後のパウロに対する境遇を和らげ、ローマでのパウロの活躍の幅を広げるものともなったことでしょう。

そうして、パウロたちはこの島で三か月を過ごし、同じくこのマルタ島で冬を過ごしていたアレクサンドレイアの船に乗り換えてイタリアに向けて出帆しました。まずシチリア島のシラクサに到着し、それからイタリア半島の先端にあるレギオンを後にして、南から春の順風を受けネアポリス(現ナポリ)湾に在った当時イタリア最大の港ポテオリに入り、遂に波乱万丈の海の旅を終えることになりました。

護送されている囚人とはいえ、ユリアスの親切を受けてパウロには相当に自由が与えられていたようで、ポテオリでは仲間を見つけては勧められるままそこに七日留まって後、いよいよ陸路でローマに向かいます。ローマの仲間たちはパウロ到着の知らせを受けて、ローマから松並木で知られるアッピア街道を60kmほど下った三軒宿(トレス・タベルナ)の辺りまで出迎えに来たので、その姿を見たパウロは大いに勇気づけられ、神に感謝を捧げたとあります。


◆ローマでの軟禁生活

ローマに入ると、パウロは監獄の収監されることもなく、自ら借り上げた一軒の家に軟禁されますが、それも見張りの番兵はただ一人だけという当局からの信頼ある厚遇を受け、仲間たちの世話の出入りはもちろん、彼の話を聴きに来る者らさえ拒まれなかったので、囚人という立場ながらカエサレイアよりも自由に、自分の家の中であれば何に妨げられることなく宣教することができました。ローマではアキュラとプリスカなど、以前からの仲間たちとも顔を合わせることができたでしょう。
加えて、ローマ在住のユダヤ教徒らもパウロの話に耳を傾けて特に反発もしませんでした。また、彼の許にはエクレシアの信者ばかりか、以前に世話した各地の仲間も尋ねています。

例えればエフェソスのオネシフォロスがいます。この人物はパウロがミレトスに呼び寄せたエフェソスの主だった年長者の一人であったのでしょう。オネシフォロスはパウロがローマに移されたことを知って、人口百万を数えたという巨大都市ローマの喧騒に足を踏み入れることを厭わず、『丹念にわたしを捜しまわった末、尋ね出してくれた』とパウロが手紙に述懐しています。『彼はたびたび、わたしを慰めてくれ、またわたしの鎖を恥とも思わなかった』ともパウロは述べ、宣教の報いに忠節な友に恵まれたパウロの幸福が窺えます。後にエフェソスをも襲った反対の嵐の中でもこのオネシフォロスは忠節を保って、パウロの支えとなり続けています。

また、小アジア奥地のリュコス渓谷からはエパフラスが訪ねてきました。リュコス渓谷近隣のコロッサイ、ヒエラポリス、ラオディケイアのエクレシアイはこのエパフラスの働きに負うところが大きく、とくにコロッサイのエクレシアは彼によって設立されたと見做しても良いほどらしく、パウロはコロッサイの人々が『エパフラスから学んだ』とも述べています。(コロサイ人への手紙1:7/4:13)
このエパフラスもローマにパウロを訪ねて、長い滞在をしたのでしょう。パウロは彼を『わたしと共に捕われの身になっているエパフラス』とコロッサイの信者のフィレモンに書き送っています。(フィレモンへの手紙23)

このフィレモンという信者は裕福な人であったようで奴隷を持っていましたが、そこからオネシモスという名の奴隷が逃亡してローマに来ていたところ、この人も何かのきっかけでパウロによって信仰を懐くに至り、キリスト教徒となったのですが、コロッサイの主人フィレモンも同じ信仰にあったため、パウロが仲立ちとなって主人フィレモンと逃亡奴隷オネシモスを仲裁した短い手紙が、「フィレモンへの手紙」として新約聖書に収められています。この手紙は逃亡したオネシモス自身とテュキコスの二人によって、コロッサイと、おそらく今日エフェソス宛とされる手紙とが共に届けられています。(コロサイ人への手紙4:9)

また、やはりフィレモンへの手紙の中で、パウロの許にはテモテやルカだけでなく、マルコ、つまりあのキュプロス出身のバルナバの従兄弟が居たことも知らせています。
では、あのバルナバは、二回目の宣教旅行から別れ、55年頃にパウロがコリントスへの手紙の中で言及して以来、使徒言行録からも記述がなくなっているバルナバはどうしていたのでしょうか。
伝承によれば、バルナバはキュプロス島で宣教をする内にユダヤ教徒の反対行動に遭って命を落とし、マルコがサラミュスで彼を葬ったとされています。聖書からはキュプロスに旅立って以後のバルナバの消息が辿れなくなっていることを考え合わせると、この伝承は否定できないところがあります。
ともあれ、かつてはこのヨハネ=マルコの行動が原因で仲たがいしたバルナバとパウロではありましたが、そのマルコ自身がパウロの許に来ていたことはそうした蟠りも過ぎ去ったことになっている姿が見えますし、実際パウロはマルコについて、手紙でも『彼はわたしの務めをよく助けてくれる』と後に書いています。(テモテへの第二の手紙4:11)

パウロが囚われてローマに送られたことを聞いたなら、まず援助の手を差し伸べそうなのがマケドニアのフィリッポイのエクレシアでしょう。あの紫布商人のリュディアの浸礼以来、この人々は何度パウロの必要を満たしてきたことでしょうか。やはりフィリッポイの人々はローマに居るパウロの許にエパフロデトスを遣わして援助品を届けさせています。(フィリピ人への手紙4:15-16・18)
しかし、このエパフロデトスはローマに着いてから病気に罹ってしまい『死ぬほどになった』とパウロは書き送っています。フィリッポイのエクレシアとしては、パウロに遣わした者が、却って世話になってしまったことに心を痛めたことでしょうけれども、パウロは彼の熱心を誉めて『あなたがたがここに来てわたしに仕えられない分を十分に埋め合わせた』と述べ、幸いに病気も治ったので彼を急いで帰らせるとも書いていますが、そのフィリピ人への手紙が快癒したエパフロデトス自身によって送られています。

こうして二年間にわたるパウロの帝都での生活は、ローマの地元での宣教も実を結んで、船旅を共にした隊長ユリアスのような異邦人でもメシア信仰に触発された人々が現れたことでしょう。皇帝の親衛隊の全員とその周辺に福音を知らせる結果となったばかりでなく、ネロの帝室からも信者も得た様子が彼の手紙類からも分かります。
それらに加えて、約十年に及ぶ彼の異邦宣教が実を結び、各地の仲間とのやりとりの中で何通もの手紙が書かれ、その内容を通して今日の人々にまでパウロが会得していた『神聖な奥義』の様々な教えが伝えられているのです。

パウロの生涯は、モーセの律法を全うして『罪』のないことを証ししたキリスト・イエスを基礎として、その犠牲の上に成り立つ新たな教え、即ち「キリスト教」へと人々を導く貴重な役割に捧げられました。彼こそはまさしく『諸国民への使徒』また『奥義の家令』であり、 確かに主イエスの選んだ器として、諸国民の中から、神の経綸がモーセからイエスへと大きく舵を切っていたことを知らせる先駆者であったのです。

それでも彼は単に善良で温厚なだけの宗教家ではありませんでした。多くの外敵と戦い、様々な苦境や障碍を、また仲間についても悩み苦しみ、時に怒りを宿し、涙を流すなど、人間らしい素のままの感情を表すことでは取澄ました仮面人間ではなかったのです。

また、パウロ自身は負い目を絶えず感じて行動していたことを告白してもいました。
つまり、かつて自分が反対者としてナザレ派となったユダヤ同朋を迫害し、その結果、おそらくは命を奪うこともあったことであり、そこで自らを『使徒の中で』また『聖徒の中で最も小さな者』と呼ぶときに、その苦衷が窺えます。

身から離れない眼病を『高慢にならぬよう、絶えず平手打ちを加えるもの』と語り、内に秘める偉大な奥義の知恵にも関わらず、また行う奇跡の大きさにも驕らず、律法に通じたユダヤ人でありつつローマ市民権保持者で五か国語を操るほどの素養と身分とを備えてはいても、なお謙虚にして熱烈な想いを彼自身の過去の負い目が形作っていたと言えるでしょう。
しかし、キリスト教という神の経綸に触れるすべての人にとって、この人物に負う事の方がどれほど重いでしょうか。











神殿でのパウロ

2019.01.31 (Thu)



◆エルサレムへの旅立ち

ギシリア本土での三カ月の間にローマ人への手紙を書いたパウロは、それを女執事(ディアコノン)としたフォイベに託したようで、書中、彼女の便宜をローマのエクレシアに頼んでいます。
こうしてローマへの便りは西に向かい、ローマのパウロ受入れ準備が進む中、パウロの一行は東を目指して、いよいよエルサレムへの旅程に就こうとしていました。キリストの業は東西に世界を駆け巡り、ユダヤ教を超える教えがますます人々に知られる機会を広げます。
しかしここで、彼を襲おうとするユダヤ人の陰謀に一行が気付くところとなりました。港で仲間から離れるパウロを殺害するつもりなのでしょう。あるいは、同乗した航海の最中に海に突き落とすかも知れません。
やはり彼はどこでも反対を避けることが難しくなっています。

そこで、コリントスに隣接する東の港であるケンクレイアから順当にエーゲ海に乗り出すのを止め、陸路マケドニアに遠回りすることにしました。
こうして難を逃れたパウロの一向は、再度マケドニアのエクレシアイを強め、フィリッポイではパウロの活動を支え続けた懇意の仲間らにも挨拶に立ち寄り、そこで彼らはニサン14日に旧知の仲間たちと『主の晩餐』を無酵母パンと葡萄酒を用いて行っていたことでしょう。それは聖霊を注がれた者にとってキリストを介した『新しい契約』に預かったことを示す唯一の祭事です。

それからユダヤ教の「無酵母パンの祭り」の時期をフィリッポイで過ごし終えると、パウロらはかつて最初にマケドニアに入った逆の旅程を辿り、エーゲ海を渡ってあのマケドニア人の幻を見たトロアスに入り七日滞在しますが、その最後の晩に彼らがパンを分け合う会食(愛餐)をして惜別の時を過ごしていました。

このときには『無酵母パンの祭り』が終わっていたのですから、この食事が『主の晩餐』とは言えず、その言及も葡萄酒も書かれておりません。
キリスト教ではこの日の『パンを割くための集まり』が『週の初めの日』(日曜)であったというルカの記述を根拠に、これが日曜日に聖餐を行っていた証拠だとされますが、『パンを割く』(クラオー)という言葉は、ペンテコステ後にエルサレムに滞在していたディアスポラの民を、日々地元のユダヤ人が家々に食事に招いていた場面でも『パンを割く』とルカは書いていますし、どちらも「無酵母パン」の時期を過ぎていました。そこで、この双方に同じ言葉『パンを割く』といっても普段のパン(ホメッツ)に違いなく、イエス信徒の会食の『愛餐』(アガペー)という以上の解釈はできません。そこで後代の教会が日曜礼拝を制度化する目的での聖句のこじつけが窺えます。

しかし、これが毎日曜の定期儀礼であったとの主張にはやはり無理があり、安息日以外の日に移動を始めたであろうパウロの一行を、トロアスの人々が安息日の翌日に出発する彼らをもてなす会食の席を設け、そこでもパウロは自らのキリスト教理解を伝えようとしていたと捉える方がよほど記述に沿います。各地のエクレシアには一定数のユダヤ教からの仲間も混じっていたことはパウロの手紙類にも明らかですが、その人々の前でわざわざ安息日に旅行を始めたりするものでしょうか。

さてその夜、多くの灯火が照らすなか、パウロはその三階の間で講話をして真夜中に及んでいましたが、このとき奇跡が起こることになります。
パウロの講話で窓際に座っていたエウティコスという名の若者が眠り込んで落下してしまい、皆で下りて見ればもう息はありません。
しかし、古代にエリヤがしたように、パウロは彼の上に身を伏せ『魂はその内にある』と言うと若者は生き返っていて、家に連れて帰ることができました。
その後もパウロは階上で食事をしつつ、話続けて明け方まで過ごしたとあります。イエスの召命に従う彼には『霊に縛られてエルサレムに上ろうとしている』と言う意識があり、もう会えないと思われる人々にできるだけ多くのことを授けておきたいと願ったのでしょう。パウロの内にはユダヤ教を完成に導く『奥義』があり、後に「キリスト教」と呼ばれるその類稀な理解を出来る限り諸国の地に残しておきたかったに違いなく、奇跡を起こしてなお熱心に語り続ける姿にその想いの丈が窺えます。

翌朝、ルカたちは七日を過ごしたトロアスから船に乗ってアソスへ向かいますが、パウロは乗船せず、陸路アソスに南下しようとします。おそらくはその途中の人々にも挨拶をしておきたかったのでしょう。
こうして一行は、アソスでパウロと落ち合ってから、小アジアの沿岸を南下し四日目にミレトスに着きます。ここはエフェソスから50kmほど行き過ぎたところです。
このミレトスの街もエフェソスの南にあって、ギリシア本土と東方を結ぶ上での要衝であり、この街の遺跡もエフェソス同様に度々氾濫するマイアンデル川が上流から運ぶ膨大な土砂のために、今日ではすっかり内陸に位置してしまいましたが、かつては海に突き出した小さな半島に、あたかも港とされるべく自然に穿たれていた湾に、今でも遺跡に見ることができる大理石の二つのライオン像で知られた「ライオンの港」が設けられていました。

さて本来なら、パウロが三年を過ごしたエフェソスの人々には是非にも会っておきたかったことでしょうけれども、彼は急いでいて、ペンテコステにはエルサレムに着くつもりだったのです。そうすればユダヤ人としての神殿詣り(アリヤー)の務めを果たしつつヤコブ率いるイエス派と顔を合わせることになり、ユダヤ教に近い彼らの心証もその分だけでも害さず済むはずです。当時、神YHWHの神殿は依然としてそこに在り、ザドク系祭司団により崇拝が継続される強力なユダヤ主義の中心地であったからです。

そこで彼はエフェソスに使いを出して、長老たち(プレスビュテロイ)をミレトスまで呼び出すことにします。やはり、エフェソスで手間取っていた間に起きたような騒動になっては、エルサレムに残された30日ほどの内に到着できないようなことになりかねません。銀細工人組合の輩に捕まりでもしては旅程も台無しですから、敢えてエフェソスを通り過ぎてもいたのでしょう。反対行動のために彼には避けるべき場所がいくつも出来てしまっていたものです。

エフェソスの主だった人々が到着し、パウロは『公けの場でも家々でもあなたがたを教え』それゆえ『今や、わたしはあなたがたの血について潔白だ』とも言います。以後は『あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神のエクレシアの世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督(エピスコポス)に任命なさったのだから。』とエクレシアの将来を彼らに託します。

しかし、その後はエクレシアを託された人々も安泰ではいられないことをパウロはこう警告しています。
『わたしが去った後に、残忍な狼どもがあなたがたのところへ入り込んで来て群れを荒らすことが、わたしには分かっています。また、あなたがた自身の中からも、邪説を唱えて弟子たちを従わせようとする者が現れるでしょう。』
そこで長老たちへに訓戒して『だから、わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。

そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたを委ねます。この言葉は、あなたがたを立て起こし、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです』。
また、主イエスの言われた『受けるよりは与える方が幸いである』との言葉*を思い出しては、パウロ自身が信徒から貪らなかったように自分たちで働いて糧を得、弱き者を支えるようにと語ってから共に跪いて祈ります。*(この言葉は福音書に無く、別系統に存在したとされるキリスト語録「アグラファ」引用の典型例ですが、ギリシアの言い習わしでもあったとされます)

それから『あなたがたは、もはやわたしを見ないだろう』というパウロに、精魂傾けキリストの教えを説き続けた彼への感謝がこみ上げたのでしょう、エフェソスの人々はパウロの首を抱いて激しく泣き出したとルカは記します。
そこで一行は『彼らを振り切るようにして船出し』、南西に位置するコス島、それから翌日にロードス島に渡って、更に翌日には再びアナトリアの半島の南側にあるパタラ港に入り、そこでパレスチナの海沿いのフェニキアの船に便乗して、遂にパレスチナに上陸しました。

そこはフェニキア貿易商人の街であるテュロスであり、その船の目的地であったのでしょう。『その船は積み荷を降ろした』とルカは書いています。
このテュロスで一行は弟子たちを探して、そこに七日留まりますが、聖霊を持つ弟子たちはパウロに『エルサレムに上ってはいけない』と言い出します。それぞれの聖霊も、パウロに注がれた霊も、街々でその都度教える通り『投獄と患難とが、わたしを待ちうけている』という同じことを教えているのでしょう。

それは彼らが更に海岸沿いの南にある港町カエサレイアに向かい、サマリアに福音を伝えたフィリッポスの家に泊まるとより明らかになります。そこにあの大飢饉の到来を予告したアガボスがエルサレムから来ては、より鮮明に預言して、パウロの帯を取ると自分の手足を縛り上げ、『この帯の持ち主を、ユダヤ人たちがエルサレムでこのように縛って、異邦人の手に渡すだろう』と言うのでした。

そこでいよいよルカたち同行者らもパウロには都に上らないで欲しいと泣いてまで嘆願します。
しかしパウロは答えて、『泣いたり、わたしの心をくじいたり、いったいこれはどういうことですか。主イエスの名のためならば、エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、わたしは覚悟しているのです。』と述べ、イエスがそうであったように、自らの死を知りながら決然とエルサレムに顔を向け、十二人の先頭を歩いたような確固たる決意をパウロも同じくしている姿が窺えます。この不変の態度を前にして、同行者らはもはや黙る以外にありません。(マルコ福音書10:32)



◆エルサレムの騒動

数日後、いよいよエルサレムに上り、カエサレイアからの仲間も含めた一行はキュプロス出身の弟子の家に滞在し、翌日には主の兄弟ヤコブに挨拶に行きます。
彼の到着は既に知られていたらしく、長老たちもそこに集まっていました。
パウロは諸国民の転向を話して聞かせますが、ヤコブには彼について大きな心配をしていることを明かして『「兄弟よ、ご存じのように、幾万人ものユダヤ人が信者になって、皆熱心に律法を守っています。
この人たちがあなたについて聞かされているところによると、あなたは異邦人の間にいる全ユダヤ人に対して、『子供に割礼を施すな。慣習に従うな』と言っては、モーセから離れるように教えているとのことです。
いったい、どうしたらよいでしょうか。彼らはあなたの来られたことをきっと耳にするでしょう。』

このヤコブは、『ナザレ派』とも呼ばれていたユダヤ教の到達点としてのメシア信仰を懐くユダヤ教「イエス派」と、パウロの先進的な国際的『クリスティアノイア』のメシア信仰者との衝突を懸念していたのであり、そのことは使徒会議の議決からも明らかでした。『古来、各街でモーセが読まれている』からであり、彼の裁定は律法を挟んだ双方の民の融和を図るための暫定的な調停であったからです。パウロもその異なりを『二つの民(両者)』と呼んでいる通りです。(エフェソス人への手紙2:15)

聖霊が導くパウロの宣べ伝える教えについて、ヤコブが決して反対している訳ではないのですが、使徒筆頭のペテロもヘロデ王統の逮捕を逃れて諸国を渡り歩いている状況では、ユダヤ教の背景のままにメシア信仰に達した人々をまとめる役割を担うのは、ユダヤ人全般からも律法に篤い『義人』と敬われるヤコブをおいて他にいません。しかも、彼は血統上では主イエス、つまり王となるべきメシアの弟ですから、イエス派内部をまとめるにも堅固な立場にあります。

パウロの到着について、既にヤコブはその対策を練っていました。
『 そこで、わたしたちの言うとおりにしてください。わたしたちの中に誓願を立てた者が四人います。
この人たちを連れて行って一緒に身を清めてもらい、彼らのために頭髪を切る費用を出してください。そうすれば、あなたについて聞かされていることが根も葉もなく、あなたは律法を守って正しく生活している、ということがみなにも分かるでしょう。』

一方でパウロは、自身も含めて『聖霊に導かれる者は律法の下にはいない』とその手紙に書いています。(ガラテア人への手紙5:18)
ですが、また彼は『ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。』とも語っていましたから、ユダヤ教イエス派に属する仲間を躓かせないためにヤコブが心を砕いてパウロのために取り計らってくれた事柄が、旧来の律法に規定された『ナジル人』の誓約であっても、ユダヤの仲間の費用の助けを与えることにします。

ユダヤ教の『ナジル人』の誓約では、一定の期間に精進潔斎して神への務めに励むことが律法の中で認められ、その間には飲酒をせず、死体に触れず、髪の毛を切らずに過ごすべきことが定められています。そうすることで、その人は神の前に聖なる者と見做され、一般のユダヤ教徒に勝って神への献身に励みました。(民数記6:2-21)

ですが、この誓約の終了に当たっては、伸びた髪を切るに際し、多くの捧げ物を祭司に与えなければならず、パウロの当時には相当額の費用が掛かったので、富んだ者らが慈善行為としてナジル人の期間を明ける人々の費用を賄うことが習慣とされていました。
そこでヤコブが思い図ったことは、ユダヤ人の中ですこぶる評判の悪いパウロも、誰にでも出来ることではない篤志家としての行動を見せることで、幾らかでもその不評を封じることであったのです。

しかし、ヤコブの策が功を奏することはありませんでした。
というのも、パウロの一行にはギリシア人、エフェソスのトロフィモスが含まれており、この二人がエルサレム市内で共に居るところを、アジア州から来ていて彼らを見知っていたユダヤ人に見られていたのです。

もちろん、ユダヤ人でなくても当時の神殿の広い境内に入域することができました。
しかし、神殿域の中枢である「聖所」とも呼ばれた神殿の建物そのものに非ユダヤ人が入ることは禁じられていましたから、神殿の建物の周囲には、「異邦人は柵の中に入ってはならない」とギリシア語とラテン語で刻まれた1.3mの石壁が巡らされていて、その禁を犯した者は死刑に処せられるとも記されていました。異邦人が入れるのは『外の庭』、つまり『異邦人の中庭』と呼ばれた本殿を囲む広い境内までに限られたのです。(ミドット2:3)

その異邦人には禁断の聖域である神殿の建物に入ると、まず「婦人の中庭」があり、そこはイスラエルの女性が入ることを許された場所で、『宝物庫』や「ナジル人」の部屋もこの部分にあり、この当時には四隅にそれぞれ四皿の灯火を持つ巨大な燭台が四基据えられていたとされます。
そこから15段の階段を上がると「イスラエルの中庭」と呼ばれた場所になり、そこには正方形の祭壇が中央に在って、イスラエルの男子は祭司たちによる各種の犠牲の奉献を目にすることができました。その奥には祭司団だけが崇拝奉仕する聖所と至聖所を有する本神殿の、四本の柱と金で装飾された正面を見ることができましたが、それは東に向いていたので、ヨセフスは「太陽が昇ると燃え盛る炎のような輝きを反射した」と当時を記したユダヤ戦記で述べています。(戦記5:4:6)

そこでは、年に一度の『贖罪の日』ともなると、大祭司直々に罪の赦しが宣告され、イスラエルの男子はその赦しに預かりつつ、神の聖なる御名"YHWH"が三度発音されるのを聴く機会を得ていました。この神名について、捕囚期後のユダヤは、この時代までにその名を発することをこの聖域以外では禁ずるようになっていましたので、異邦人はその発音を聞く機会から閉め出されていました。
これが後に、神の御名の発音がやがて忘れ去られる原因となってしまいます。この神の固有名が忘れられた影響は、三世紀までにキリスト教界に三位一体を推進させる結果を招きました。ユダヤ教とキリスト教は、その後も敵愾心が拭い難いものとなっていったからです。

さてパウロがこの神殿を最後に訪れたが、おそらく西暦56~57年と考えられていますから、当時は律法に基く神殿での崇拝が継続されレヴィ族と祭司団により恭しく執り行われいて、ローマ皇帝さえもがそれなりの代理者を立てて、その犠牲を献じさせ、その使節は「ソーレグ」と呼ばれたという、あの異邦人の限界を示した壁の外から犠牲の捧げられるのを待っていたというほどに、エルサレム神殿は諸国民からも敬われる帝国の誇らしい名所であったのです。

そこで、パウロがナジル人たちの期間の終りの儀式に立ち会うために聖域の神殿に入ると、そのエフェソスからのユダヤ人らがパウロを見かけるなり、トロフィモスを神殿の聖域に連れ込んだものを思い込みました。おろらく、パウロが普段から諸国民であっても聖霊が注がれた仲間を『兄弟』(同朋)と呼ぶ習慣に反感を覚えてのことでしょう。
パウロを捕まえると周囲のユダヤ人に叫んで『イスラエルの人々よ、加勢にきてくれ。この人は、いたるところで民と律法とこの場所にそむくことを、みんなに教えている。その上、ギリシヤ人を神殿の内に連れ込んで、この神聖な場所を汚したのだ」。』と言っては騒ぎたてたので、祭司たちは聖所が汚されることを恐れて、建物の外側に面する九つの扉をすべて閉じてしまい、ユダヤ教徒らはパウロを聖所から引き出して殺そうとします。

神殿に隣接するアントニア要塞に詰めていたローマの千人隊長は、市内が大騒ぎになっていると聞くと、直ちに百人隊長と兵士らを率いて現場に向かい、パウロが打ち叩かれているのを見つけましたが、兵士らが来たのを見たユダヤ人らはその手を止めて、パウロがどうしたのかを話すのですが、まちまちの話で要領を得ません。
そこで千人隊長は、取り調べのためにパウロを兵舎に連行することにしますが、ユダヤ人らがパウロに手を出すので、パウロを抱え上げる必要があるほどでした。

かつてイエスがまったく理不尽な裁きの後に処刑され、その後ステファノスが石打に遭ったエルサレムで、いまやパウロまでもが多くの熱狂するユダヤ人の手に掛ろうとしているのですが、それはユダヤ教という教えの強烈な正義感の行わせる業で、その正義感は諸刃の剣であり、怒りの感情に任せた虐待が避けられません。それこそが正義が不正義へと変質するところなのですが、このような正義、「人間の義」は「神の義」とはなりません。
ヤコブはこう記しています。『人の怒りは、神の義を行うするものではない。だから、あらゆる汚れやあふれるほどの悪を素直に捨て去り、心に植え付けられた御言葉を受け入れなさい。この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができる。』(ヤコブの手紙1:20-21)
今や、キリスト教の言葉がユダヤ教徒に向かって語られる場面に入っていました。ですが、ユダヤ人はその言葉を聴くでしょうか。

どうであれパウロには覚悟が出来ており、エルサレムの民衆に向かって話かけます。人々はそれがヘブライ語であるので、その話を聞こうと静まるのでした。
パウロは自分がキリキア州タルソス出身のディアスポラの民で、かつてエルサレムの教学院に来て律法学者ガマリエルⅠ世に就いて学んだヒレル系パリサイ派であることを明かします。これはユダヤ教徒としては主流派であり、様々な知識に長け、相当に律法に通じていることを知らせることにもなります。

それから、イエス派には反対して、その信者たちを捕えてはエルサレムに引いて来るという活動に携わっていたこと、それも祭司長派の許諾を得て行っていたことも述べます。ここまでならパウロは身内の仲間であることになり、ユダヤ主義者も共感できるところです。
しかし、彼は自分の身に起ったことのありのままを話して、自分の転向の由来を説明し始めました。

つまり、ダマスコス郊外でのキリストとの奇跡を通した邂逅であり、一時盲目になったこと、
彼は、自分の身に起った奇跡について話すことで、その場の群衆にもメシア信仰を促したいと思ったのでしょう。
しかし、元々イエスを葬り去ったユダヤの群衆には、復活のイエスが、一人の強硬なパリサイ人を奇跡によって転向させたからといって改心する理由にはなりません。
『こんな男なぞ、地から除き去ってしまえ、生きている価値などなかったのだ』との叫び声が上がると、その場は再び騒乱に包まれ、男たちの投げる上着の数々や土が舞い上がり、神からの奇跡を認める素振りも見せません。

千人隊長はパウロにどれほどの罪があるのかを知るために鞭打つ用意を百人隊長に命じますが、パウロは『ローマ市民である者を、裁判もせずに鞭打つことが許されるのですか』と問いかけました。パウロがタルソスの名の知れたローマ市民権相続者であると言うと、兵も士官もパウロにした処遇を恐れて解きはしますがその咎を明らかにするために、翌日にはサンヘドリンを召集しパウロをその中に立たせました。
パウロはサンヘドリンが復活を信じるパリサイ派と、信じないサドカイ派で構成されているのを見ると、『わたしはパリサイ派ですが、死人の復活について裁かれているのです』と言います。おそらくは、復活したイエスの奇跡に面したことを示唆していたのでしょう。

サドカイ派は復活を信じないので、かつてイエスに向かって「七人の夫に嫁いだ妻は、復活したとき誰の妻になるのか?」と問い詰めていました。
しかし、彼らは、イエスに復活後の人々は『嫁ぎも娶りもしない』と言われてしまい、『神は死んだ者の神ではなく生きている者の神であり』『わたしはアブラハム、イサク、ヤコブの神である』と言われたが『神にとってはみな生きている』と強力に論駁されていました。これを聴いていたパリサイ人は『見事なお答えです』と、この件には賛意を惜しみませんでした。しかも、それはイエスご自身が死と復活を遂げるわずか数日前のことであったのです。

そこで、復活を信じる議場のパリサイ派はパウロに味方を始め『この男には何の悪いところもない。(ダマスコスでは)霊か天使が彼に話しかけたのだろう。』と言い出し、サドカイ派と論議が激しく戦わされます。やがて千人隊長はパウロが引き裂かれるのではないかと心配するほどになったので、兵士らにパウロを奪って兵営に連れて行くように命じます。
ユダヤ主義の真っただ中で、エフェソスでも経験しなかったような騒擾に巻き込まれたパウロに、その夜、イエスは語りかけて勇気を持つように、そしてローマでも語らなければならないと力付けました。彼の命はエルサレムでは終わらないということです。






ギリシアからローマへと

2018.12.21 (Fri)


◆コリントスの問題

コリントスへの第二の書は「涙の書簡」と呼ばれることもあるほどに、パウロは臆面もないほど大きな感情の起伏を見せています。
冷静に教えを語る場面と、『狂人のように』激しい言葉を連ねたかと思えば、コリントスの人々への満足を表してもいます。
その余りの違いように研究者らは、これらが幾つかの書き貯めた文書を集めて一つの手紙に仕立てたものではないかと考えています。

そうであれば、確かにパウロは以前からコリントスの集まり(エクレシア)の状態に気を揉んでいたことは明らかで、エフェソスを発つ頃から彼らのためにいろいろと書き始めていたということはなるほど想像に難くありません。実際、この手紙には異なる内容が盛り込まれていて、パウロ自身の使徒職についての弁明、コリントスの仲間への『涙』を伴う訓戒、先に送った手紙での訓戒に一定の成果があったことを誉め、それからパレスチナへの献金の勧めも含まれています。

さて、パウロがトロアスでテモテたちと合流しても、彼の気持ちは安らがず、『兄弟テトスに会えなかったので、不安の心を抱いたまま人々に別れを告げ、マケドニア州に発った』と述べています。(コリント人への第二の手紙2:13)
しかし、フィリピに居る間にコリントスからテトスが来るに及び、パウロは第一の手紙への反応を含めて、その様子を知ることができ幾らかの喜びを得たことが書かれています。
第一の手紙で強く譴責した悪行者には、仲間からの懲らしめが臨み、その事では改善をみたようです。
それでもパウロの感情を揺さぶっていたのは、コリントスの人々の改まり難い性質でありました。

コリントスのエクレシアでは、依然として分派的な傾向が収まってはいない様が窺えます。
原因を造っていたのは、『大使徒』を詐称する偉ぶった教師であり、弟子たちにはそれに追随してしまう者らが居て、派閥を競う事態となっていました。そのうえ、パウロの使徒職にさえも疑問を投げかけ、彼の言葉を軽んじる者らが少なくもなかったのです。
彼らは議論好きであり、ギリシアが長年培った哲学からくる論法も影響したのでしょうか、先の手紙でパウロは、自分はこの世の知恵を語らないと言い『わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも刑柱(十字架)につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた』とも彼らへの手紙に書いています。パウロには聖霊の証しがあるので『わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によった』とも述べ、彼の行っていた驚異的な程の奇跡の業に神とキリストの繋がりや信任があったことを述べています。

しかし、コリントスの仲間は『大使徒』らを重んじ、パウロをないがしろにしていることがテトスから伝えられたのでしょう。そこで第二の手紙ではパウロは、自分が『彼の手紙は重味があって力強いが、会って見ると外見は弱々しく、その話し方は貧相だ』と低められている様をそのままに書いています。

確かに、パウロの話し方には幾らか分かり難いところがあり、『経験の浅い者たちが誤解している』と、ペテロがその手紙の中で心配していますし、後の時代の「教父」(キリスト教指導者)であったエイレナイオスも、パウロの手紙文に見られる倒置法が内容を分かり難くしていることについて記しています。(ペテロ第二の手紙3:16/異端反駁Ⅲ:6)
コリントス宛てなどの長い手紙では、読んでいてパウロが何について語っているのかが読み進めてからでないと分からないところもあり、エイレナイオスが述べるように、そこには幾分か性急なパウロの語り口の特徴が表れているのでしょう。

一方、コリントスの『大使徒』らは恰幅もよく、物越しも洗練され、話し方も流麗であったのかも知れませんが、パウロには外面の欠けたところを遥かに超えたものが備わっていたことにコリントスの人々は知るべきでありました。元々パリサイ派で律法に通じたパウロには、キリストに至るまで旧約聖書の中に秘められていた様々な奥義の理解が溢れるほどに明かされ、その内容の重大さからすれば、彼が性急にほとばしるように語ったとしても、それは共感できるところです。(コリント人への第二の手紙10:7)
この『諸国民への使徒』パウロに、神とキリストからの信任があり、天からでなければ得られない『目も見ず、耳も聴かず、人の心に思い浮びもしなかったこと』さえ教えるパウロを敬服すべき理由は十分過ぎるほどあったのです。

エフェソスでの尋常ならざるパウロの奇跡を間近に見た人であるなら、ここまでパウロの持つ超自然の事柄を並べる必要もなかったのでしょう。そこでパウロは雄弁なアポロにコリントスに行くよう願っています。分派してしまったそれぞれの領袖のパウロとアポロが一致を見せるなら、それが彼らにとって一番の薬になったことでしょう。ですが、そのときアポロは事情が有ってかそうしませんでした。(コリント人への第一の手紙16:12)

コリントスのエクレシアには、聖霊の賜物が満ちていて、それは却ってパウロという人物が奇跡(デュナミス)に於いても奥義(ミュステーリオーン)においてもどれほどの者であるのかを悟るのに高慢さの雲がかかっていたのかも知れません。
しかし、パウロは自らを『奥義の家令』(オイコノモース ミュステーリオーン)と評価されるべきことを書いています。(コリント人への第一の手紙4:1)
確かに、彼には多くのキリストからの教えに満たされ、それはコリントスへの第一の手紙の随所にも明らかです。彼は復活する聖徒たちが肉の体から霊の体へと一瞬に変えられること、すべて後にはキリストも一切の権威を神に返すこと、などを証ししています。これらは神からの知恵なくして語れる内容ではありません。

しかし、コリントスの人々はパウロがどれほど重大なことを話しているのか、まだ分かっていなかったのでしょう。彼らの関心といえば、議論好きな割に生活上の事柄であり、そこから考えの違いが始まり内部で分裂し、秩序を失っていました。それぞれが自分の思いついた教理を教え『復活など無い』という、まるでサドカイ派のような者らもいたのです。これは復活の主を宣明するキリスト教からの逸脱であり、コリントスの集まりにあった分裂のひどさを物語っています。

そこでパウロは彼らが『肉的』であって『霊的』ではないと断じてもいます。真に霊的であるなら、聖霊の教えることに素直に耳を傾けたことでしょうが、コリントスの集まりでは、霊の賜物によって皆がまちまちに話し、しかも異言は翻訳されず、何かを学ぶという環境でなかったことも書かれています。まさに彼らの分裂と蒙昧の原因がそこに示唆されているかのようです。(コリント人への第一の手紙3:1-4・14:26-33)

今日に至るまで、キリスト教界は分裂を重ね、多くの流血をも避けられませんでしたが、それらをパウロが見ていたなら何と言ったでしょうか。もちろんそれは霊的とは言えません。使徒時代のように『聖霊』が注がれていない以後のキリスト教界であればなおさらのことでしょう。コリントスの人々の分裂傾向は後の時代の学ぶべき教訓とも言えます、

パウロは二通目の手紙では、自分の内にあることがどれほど貴重なものかを知らせるために、『狂人のように』自分を証しし、使徒として宣教にどれほどの苦難を味わったのか、また、幻の内に『第三の天』にまで挙げられ、そこで人に語ってはならないほどの超絶的秘儀を見聞きするに至ったことさえあるとも書いています。(コリント人への第二の手紙11:21-27・12:1-7
こうまで自分を弁明しなければならないほどにパウロを追い込んでいたのは、彼らの神聖な奥義に対する世的な鈍感さと、その彼らへのパウロの愛情であったと言えるでしょう。パウロはコリントスの弟子らの『父』であるという想いを先の手紙で明かしてもいました。彼にとってコリントスの人々は、手塩にかけた子供のようであったのです。(コリント人への第一の手紙4:15)

またここに、聖霊を注がれて奇跡の賜物を与えられた聖なる者らであっても、自ら霊的な事柄への価値を努めて認識するべきであったことが示されていたと言えます。そうでなければ聖なる立場から『離れ落ちる』こともあり、キリストが帰還されるときに、『神の御前で、聖にして、非のうちどころのない者とされる』よう『狭い戸口からはいるように努める』必要があり、それは『入ろうとしても入れない人が多い』とイエスが語られていたことでもあります。(テサロニケ人への第一の手紙3:13/ペテロ第二の手紙3:17/ルカ福音書13:24)



◆災害地への支援金

コリントスへの手紙には、パレスチナの聖徒たちへの募金を集めようとしているパウロの姿も見えます。
およそ15年後の西暦70年、また、その後の一世紀から二世紀の時代に、小アジアの山間部を襲った大地震でラオディケイア市は倒壊したものの、街が裕福なために自力で復興したことをローマの歴史家タキトゥスが伝えていますが、西暦117年頃の大地震でスミュルナがほぼ全壊したときには、マルクス・アウレリウス帝が十年間の租税免除と再建資金の供与を行ったことも伝えられていますが、タキトゥス自身が小アジアに赴任していた官吏でありましたから、これはローマ帝国としても激甚災害の被災地に無頓着でなかった証しといえます。

一方、使徒言行録の中に書かれた『大飢饉』については、使徒言行録のコルネリウスの記述の前に、エルサレムの聖霊注がれた預言者アガボスが『大飢饉が起ることを霊によって示した』という記述があり、ルカはその災いの範囲を『全世界に』とも書いていますが、特にユダヤで被害が大きかったことのルカ特有の誇張表現であったのかも知れません。(使徒言行録11:28)

ルカはこの災害が『クラウディウスの時に起った』と記していますが、この皇帝の在位は西暦41年から始まり54年に及びましたので、パウロがエフェソスを後にするこの時期までがこの第四代皇帝の支配であったことになります。アキュラとプリスキラにローマ退去を迫ったのもこの皇帝でありました。このクラウディウス帝の治世中に起った飢饉については、ヨセフスの「ユダヤ古代史」(20:15・101)に、やはりクラウディウス在位中でクスピウス・ファドスとティベリウス・アレクサンドロスがユダヤ総督であった西暦44年から48年にかけてエルサレムを含むユダヤが大飢饉を被ったことが記されていますので、それはエルサレムで、異邦人への割礼を免除する決定を下した使徒会議の数年前に起っていたことになります。

災害は平素からの生活弱者を直撃することは古今変わるところがありません。特に奴隷身分の生活は元より辛いものであるとヨセフスも書いていますし、この飢饉では困窮者は生活必需物資も買えずに死んでいったとも書かれています。
被災した地域への募金などの援助は、公私に関わらず必要とされたことは今日と同様であり、このユダヤの大飢饉ではユダヤ教に改宗していたアディアベネ王国(現イラク北部)の王妃ヘレネもアレクサンドレイアから大量の穀物を、キプロスからは干しイチジクを輸入してユダヤの困窮者に配給させていたこと、その息子イザテスも多額の金子をエルサレムの指導者らに送り、貧しい者らに与えさせたとヨセフスは記してもいます。

まして、ディアスポラのユダヤ人がエルサレム逗留の時に地元の人々に食事や宿を提供され、土地を売却までして資金を賄ったことへの感謝を示す意味があるだけでなく、異邦人であろうと人間味ある慈善の相互援助の意識は『聖なる者の全体』を気遣うべき弟子たちであればこそ、パウロの提唱した募金も強いて取るようなものとは言えないでしょう。彼のこの募金への意図は別の手紙にこう書かれています『もし異邦人が彼ら(ユダヤ人)の霊の物にあずかったとすれば、肉の物をもって彼らに仕えるのは当然だからである』(ローマ人への手紙15:27)

それらの援助の送り先がユダヤであったところで、パウロが担当者に無割礼のギリシア人テトスを用いたのも、異邦人の自発心を促したようにも見えます。それがけっして横流れして誰かユダヤ人の欲得を満たすようなところがないと示す意味もあったとも見えます。

既に49年頃に、エルサレムでの使徒会議の折にも、パウロはバルナバと共に救援資金をエルサレムに運んでいましたが、50年代半ばに至っても飢饉の災難は依然として過ぎ去っていなかったのでしょう。パウロの心中にはエルサレムに上るべき主イエスの自分への意向を感じており、それが最後の聖都訪問になる予感もあったなら、マケドニアとアカイアの救援資金をできるだけ集めて行きたいという願いが彼を動かしていたとも考えられます。
そうしてパウロは、エルサレムに上る前に救援資金を集め、コリントスの無秩序を静めて、次なるイエスからの使命に踏み出そうとの決意が窺われます。

パウロはマケドニアを巡りつつアカイアに入り、遂にコリントスに着いたはずですが、彼がギリシアに三カ月留まったこと以外、ルカは問題の多いそこの集まりの反応についても、パウロがコリントスの諸問題をどうしたかも述べていません。おそらくは、然程に良い反応がなかったのでしょう。

それから約四十年が過ぎ、パウロも世を去った後にローマからコリントスへ一通の手紙が送られました。差出人はローマに居たクレメンス(クレーメース)という人物で、更に後の第三世紀の著名な教父オリゲネースによると、このクレメンスは聖書中のフィリピ人への手紙にその名が記されている人物であるとしています。この手紙は聖書に匹敵するほど霊的な内容を持ちませんが、当時の実情を伝える資料ではあります。(フィリピ人への手紙4:3)

もう第二世紀に入ろうとする頃、このクレメンスはローマの集まりを代表する監督(エピスコポス)となっていましたが、この時代に至ってもコリントスのエクレシアには分裂の問題が有り、使徒たちを知っていたらしいこのクレメンスが彼らに手紙を書いて、コリントスの集まりの不一致を咎めています。
『あなたがたは論争好きだ』とクレメンスは指摘し、彼らがどれほどパウロを苦しめたかを思い起こさせ、反省を促しています。この手紙からすれば、どうやら、コリントスのエクレシアの性向はパウロ以後も続いたことが窺われ、それは容易に改善はしなかったのでしょう。使徒言行録に於けるコリントスについてのルカの沈黙は、彼らへの諦めを暗に伝えているのかも知れません。

加えて、パウロがこれらギリシアで二度目に過ごした時期については、聖書で明らかになっているパウロの行動に当てはまらない宣教が一つ聖書中にあります。

それは、パウロがこの時期までにイリュリクム(イリュリア)にも伝道に赴いたと書かれていることなのですが、この地方はイタリアを対岸にするアドリア海を望むバルカン半島の西側を意味します。つまり、現在のアルバニアから北側のモンテネグロからクロアチアなどがある方面ですが、パウロの当時にイリュリクムはマケドニアの一部にされ、アルバニア方面に限定されていましたので、ルカがマケドニアについて『この地方を巡り歩き、言葉を尽くして(人々を)励まし』と記されたパウロの活動に含まれていたのかも知れませんが、そのイリュリクムの地が当時のパウロの宣教の西の端となっています。おそらくはその地方独特の海に迫った山の高みからアドリア海を眺めては、その向こう側に横たわるイタリアへの思いを馳せたことでしょう。 (ローマ人への手紙15:19/使徒言行録20:2)



◆ローマ人への手紙と贖いの教え

ギリシアでの三カ月の間に、彼はローマの集まりに長文の手紙を書いています。
その中で、彼は自由な身の上のままでローマに赴くことを想定していたようで、ローマの向こう側のスパニア、つまりイタリア半島の更に向こう側、西に端にあるイベリア半島のスペインにも向かう意気込みを記していたのです。
パウロは、ローマ帝国の東側には、宣教において手付かずの場所は残されていないとも述べています。彼の宣教意欲には並々ならぬものがあり、『わたしの血が、あなたがたの信仰の供え物の祭壇に(献酒のように)注ぎ尽くすことになったとしても、わたしはそれを喜ぶ。』とかつて宣教した仲間たちに言っています。(ローマ人への手紙15:23/フィリピ人への手紙2:17)

さて、西暦54年のクラウディウス帝の崩御から一年以上が経っていたこの時分に、勅令によって追放されていたユダヤ人たちはローマに戻ってきていたのでしょう。エフェソスまでパウロと一緒にいたアキュラとプリスカも戻っていた様がこのローマ人への手紙から分かります。また、この書には多くの個人名が書かれており、パウロ自身の『同族の者たち』というのは、おそらくベニヤミン族の親戚なのでしょう。他にも諸国の人々の名前が挙げられていますが、これほど多くの個人名の現れる書簡は他にありません。パウロの語るところを筆記して手紙に記したコリントスのテルティオスという人物までがそこに挨拶を書いてもいますし、他のコリントス側の名前の挨拶も少なからず挙げられていますので、これらの名前の数々を概観すると、この時期までのパウロの宣教が実を結び、多くの信仰の仲間を得た喜びを垣間見るかのようです。

ですが、ローマのエクレシアにも問題がなかったとはいえないようです。
特に、ユダヤ人のローマ退去令によって、ユダヤ人が去った後の異邦人による集まりの運営が数年続いたところに、再びエクレシアで二つの民が顔を合わせたのですから、双方の意識の違いを乗り越えて融和するための新たな理念が求められていたことは明らかです。
そこでパウロはユダヤ人と諸国民で構成される集まりに向けて、『外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また、肉に施された外見上の割礼が割礼ではない。内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなく霊によって心に施された割礼こそ割礼なのだ。』と語りかけ、エクレシアの誰もが真に神の民となるようにと訴えます。(ローマ人への手紙2:28-29)

このようにパウロの優れたところは、今やユダヤ教を脱皮していたキリスト教という新たな次元の宗教を備えるべく、神の秘儀を知らせる『家令』として深い理解が託されていたことであり、それはキリスト・イエスが犠牲の死を遂げて後に開示され始めた、まったく新しい教えであったのです。それは律法にまったく服した生涯を送ったイエス・キリストとは別に、律法から解かれた後の使徒たちを通して知らされなければなりません、『キリストが律法の終り』に位置していたからです。ローマ人への手紙は、このようなキリスト教の根幹となる教えを端的に記していますので、古来、パウロの書簡で最重要の位置を占めていると評価されてきたのです。(ローマ人への手紙10:4/ガラテア人への手紙4:4-5)

その中で、彼はイスラエルに与えられていたモーセの律法の意義をユダヤ人にも諸国民にも明らかにしています。
ユダヤ人には神の言葉が託されたことにおいて大いに益となったこと、律法は聖く、善にして義なるものであることを述べています。

しかし、その一方で、モーセの律法はキリストに在って一心に生きるパウロでさえも肉的であると糾弾するものであり、実際、彼自身が『罪の下に売られてしまっていて、自分の行うところが願うところではなく、憎んでいることを行っている』とも告白しています。つまり、自分の内に宿る『罪』がそれを行わせているとして、『ユダヤ人にもギリシア人にも不公平はなく』、『律法の内に在って罪を犯した者も』『律法なしに罪を犯しても』共に裁かれることを述べています。つまり、律法は人間全体の中に巣食う『罪』というものを知らせる働きを持っていたというのです。(ローマ人への手紙7:19-20)

これを述べてから、パウロはキリストの犠牲がどのように人間の『罪』を取り去るかという、キリスト教の最も重要な『贖い』について明解に説明し、それがユダヤ人か諸国民かに関わりなく、あらゆる人種に必要不可欠であったことを説いて、アダムとイエスを対照させてこう述べます。『ひとりの罪過によってすべての人が罪に定められたように、ひとりの義なる行為によって、いのちを得させる義がすべての人に及ぶ。』つまり、アダムがエデンで禁じられた善悪の知識の木の実を食べてしまい、子孫全体が『罪』という倫理上の欠陥を負ったように、キリストの死に至るまでの忠節が、子孫の全体の『罪』を相殺して許しをもたらすことになります。(ローマ人への手紙5:18)

人が生まれながらに『罪』を負っているという教えは、律法に従うユダヤ教には本来はありません。律法を守ることで彼らは『義』を得られると信じるからです。
『律法を行うことでは、だれもが神の前に義とせられないからである。律法によって罪の自覚が生じる』と述べるパウロは、明らかにユダヤ教から離れていて、そこにキリストの犠牲の価値の高さが説かれます。これこそがキリスト教というものであり、他方でユダヤ教は今日に至るまで来るべきメシアを待ち続けているままですが、パウロは『わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えている』また、律法と聖霊を対照して『文字は殺し、霊は生かす』とも言います。キリストの犠牲は当時の弟子たちに聖霊をもたらしていたからで、それは彼らが律法から解かれた証拠でもありました。(ローマ人への手紙/コリント人への第二の手紙3:6)



◆キリストと共に神の子とされる者たち

ユダヤ教を超えたキリスト教の高みに彼らを至らせたのは、当然ながら律法を守ろうとする行いである『業』ではありません。パウロはそれが『信仰』によるものであったと教えます。つまり、イエスが約束されたキリストであることを信じる「メシア信仰」を抱いたからであり、ただ神を信じるという以上の信仰であったのです。(ローマ人への手紙3:21-22)

ローマ人への手紙の第八章でパウロは『すべて神の霊に導かれている者は神の子である』また『あなたがたは・・神の子とする霊を受けた。この霊によってわたしたちは「アッバ*、父よ」と呼ぶ』とも述べて、聖霊を注がれた当時の仲間たちの高められた立場を説いています。*(アラム語で「父」の親称)
それはキリストが復活し生きていることによって『キリスト・イエスに結ばれて、神に対して生きている』のであり、『キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせた方は、あなたがたの内に宿っている霊によって、あなたがたの死ぬべき体をも、生かしてくださる』とも語り、彼らが聖霊によってキリストを結ばれたことの大いなる価値を知らせます。(ローマ人への手紙6:11・8:11)

キリストに不滅性をもたらした義の完全さにも与る彼らには『今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない』ともパウロは語りますが、これは彼らがもはや不滅性に達したという意味ではありません。パウロ自身が自分に『罪が有る』と告白するように、アダムからの『罪』は引き続き彼らの肢体に働いているのですが、キリストの犠牲に免じて、仮の義が貸与された状態にあります。
これが『新しい契約』の意義であり、契約というものが不確定な事柄について取り結ばれるように、聖霊を注がれた弟子たちに於いては、彼らがキリストに倣う生涯を送り、一定の清さを保つことを条件にキリストの義が彼らにも適用されることを可能にしていました。
ですから、それは聖霊を注がれた彼ら自身によって契約を全うする余地が残されていたのです。

キリストの犠牲の益を受けて義の完全性に到達することは、最終的には信仰を持つことになる人類の全体に広げられてゆくものですが、その『罪』の赦し、つまり『贖罪』は大祭司キリストと従属する祭司となる彼ら『神の子ら』の働く「千年王国」によって成し遂げられるものです。そこで聖霊を注がれた彼らは、予め『罪』を許され、『神の王国』に召されてもいるのです。

ですからパウロが『被造物は、実に切なる思いで神の子らの現れを待ち望んでいる。なぜなら、被造物が虚無に服したのは自分の意志によるのではなく、服従させた方によるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されている』と語るのは、創造されたすべての者にとって『神の子ら』である聖霊注がれた人々が現れてその希望が現実のものとなることを指しています。(ローマ人への手紙8:19-21)
そこで彼は聖霊を注がれた当時に仲間たちを『霊の初穂を得ているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいる』とも記します。(ローマ人への手紙8:23)

この理解はパウロだけのものではありません。
イエスの弟であるヤコブも『父は、わたしたちを、いわば被造物の初穂とするために、真理の言葉によって御旨のままに生み出して下さった』とその手紙に書いていますが、これはキリスト教理解に於いて異邦人を導いたパウロとエルサレムでユダヤ教イエス派を導いていたヤコブの間に共通の認識がなければ書き得なかったと言えるでしょう。
律法への見方はこの二人の間に異なりがありましたが、ヤコブがパウロのように語り、行動していたならユダヤの弟子たちは猛烈な迫害を受けて存在さえ危ぶまれ、そうなればユダヤ人からの転向者を受け入れる器もなくなってしまっていたことでしょう。(ヤコブの手紙1:18)

パウロはローマ人への手紙の第十一章で、異邦人の弟子たちは血統のイスラエルの不足を補うために、イスラエルという木に『接木された枝』との比喩で言い表しています。
そのようにして人類救出のための選民イスラエルの全体数が揃うためであったとも語ります。
ですから、キリストの弟子たちの業、『神の子ら』を召し出す宣教では、異邦人へのパウロの働きも、ヤコブの務めも共に必要であったのです。

こうしてギリシアのコリントスに居ながら、パウロの想いはまだ見ぬローマへと向かっていました。彼にはその前に義援金を携え、エルサレムを訪れる必要がありましたが、それはそれまで以上に波乱に満ちる旅の始まりとなります。しかし、そのことをまだ彼は知りませんでした。






エフェソスとアジア州の収穫

2018.11.02 (Fri)




パウロは、コリントスでの一年半を過ごしてなおそこに留まっていましたが、バルナバと別れて以来の、あの『幻』を見てギリシアに導かれた旅を一度終えるつもりになっていました。
彼はそれまで、神に対して何らかの請願をしていたとのことで、そのために長く伸ばしていた髪をケンクレイアの港で切ると、ギリシア本土を後にしてアンティオケアのあるシリアへの帰還の船旅に出ます。(使徒言行録18:18)

一行が小アジアの主要都市であるエフェソスに入港すると、同行していたアキュラとプリスキラの夫婦を残して、パウロは一人で会堂に入ってゆき、ユダヤ人と論じますが、彼としてはシリアへの旅の途中に立ち寄ったのであり、エフェソスに腰を落ち着けるつもりはなかったので「また来るだろう」と言っては、あの夫婦もそこに残して地中海を東に向かう船に乗り、カエサレイアに港に到着するとアンティオケイアに戻ってゆきました。こうして二度目の宣教旅行が終わります。

その間にアキュラとプリスキラは信仰に熱心で非常に雄弁な一人のユダヤ人にエフェソスで出合っていました。
エジプトのアレクサンドレイアから来たアポロというギリシア名を持つ離散のユダヤ人で、旧約聖書に通じイエスについての知識も得ていたので、彼が会堂で大胆に語っていたところを二人が見つけました。しかしアポロはバプテスマについてはヨハネのものを知るばかりでもあったので、夫婦は彼を招くとより多くの事を知らせることができたのです。

このアポロは、アカイアに教えを伝えたい知人がいたのでしょうか、エフェソスに留まらずギリシアに渡ることを望んでいたので、仲間は行く先の信者たちへの紹介の手紙を託しましたから、アポロは当地に着くと直ちにイエス派に合流し、ユダヤ人を痛烈に論破しては信者たちを大いに助けたのでした。実にこのアポロのコリントスでの活躍は、パウロやペテロに匹敵するほどのものであったことも後に書かれています。(コリント第一3:22)

さて、これらのことの間に、パウロの方はアンティオケイアを発って、三度目の宣教旅行を始めていました。
今回もキリキアからアナトリアの高地に入りましたが、この度はガラティアからフリュギアを通って小アジアに入ったのでしょう。
使徒言行録には、小アジアに到着するまでのパウロの旅の記述が無いのですが、地形や通行可能な道路からしても、後のパウロの手紙の幾つかによっても、彼はリュコス渓谷沿いの諸都市をまわって来たことでしょう。それらの都市にはラオディケイア、ヒエラポリスが在り、加えてコロッサイも通ったかも知れませんが、パウロ自身はコロッサイで宣教はしていないと述べた箇所が手紙にありますので、滞在はしていないようです。(コロサイ人への手紙1:4・2:1)
これらの街はいずれ劣らぬメシア信仰者の集まり、つまりエクレシアをそれぞれに持つことになりますが、それは、当時この地域でのエパフラスという人物の献身的な働きによるものです。この人は後にパウロの許を訪ねて苦難を共にすることになります。(フィレモンへの手紙23)

パウロがとった旅程としては、リュコス渓谷からマイアンドロス川に沿って降るとミレトス方面の海岸に出ることになりますし、あるいはその川の有名な蛇行と水害を避け、高地の中の道を通ってサルディスからペルガモン方面に向かい、それからスミュルナに出て海沿いを経由しエフェソスに入ったかも知れません。ともあれ、使徒言行録はその辺りを省いてエフェソスに着いたパウロを描きはじめます。おそらくパウロはこの三回目の宣教旅行の出発に当たってアキュラとプリスキラだけでなくルカたちをも伴っていなかったのでしょう。

パウロがエフェソスに入ったとき、アポロはすでにコリントスで熱弁をふるっていた頃であったのですが、アポロと同じ出身地のアレクサンドレイアから到着したばかりの12人ほどの男子をパウロは見つけます。(使徒言行録19:1-)
これらの人々もヨハネのバプテスマまでを知っていたので、どうやらアポロを追ってエフェソスに到着したようです。パウロが『信仰に入ったときに聖霊を受けましたか?』と聞くと、『聖霊』というものがあることも知らないと答えます。そこでパウロがイエスの名によるバプテスマを彼らに施し、彼らに按手、つまり頭の上に手を置くと、このユダヤ人たちにも聖霊が降って、異言を話したり、預言したりするようになりました。



◆エフェソスと小アジアでの業

パウロはエフェソスに到着すると、まずユダヤ人の会堂で三カ月の間『神の王国』について講話し続けて幾らかの信者たちを得ましたが、ほかの者らは信じずに反対し、集まった信者の前でパウロを罵倒するのでした。
そこでパウロは、ユダヤ人の会堂を後にして、テュランノスという今では無名な哲学者のものである講堂に場所を移し、信じた人々に話を続けました。この当時のギリシア文化圏では依然として哲学が盛んで、各地の哲学者は自分の学校を持って講義していたと言われます。西欧の写本のあるものの註釈によると、パウロは、哲学者テュランノスの講堂を11時から16時の間を時間借りしていたと記しています。そのようにでもしなければ、律法主義にこだわるユダヤ人からの妨害に対処できなかったであろうことは、これまでのパウロに対する彼らの反応からも無理からぬことと推して知れるところです。

この講堂でのパウロの講義は二年も続いたと書かれていますが、いまやパウロの伝えるメシア信仰はユダヤ教の会堂に依存しなくなり、ユダヤ教イエス派であったメシア信仰者も、いよいよユダヤ教から離れてエクレシアを形作り「キリスト教」という新たな道を選び取った姿がそこに見えます。

しかし、問題も起っていました。そのひとつが、以前に設立したエクレシアへのユダヤ主義者の影響です。
アナトリアを横断する旅の途上でガラティアを通過するときに、彼はその地の人々から暖かく迎えられたようで、その様子が僅かにガラティア人への手紙から窺えます。
実はパウロには眼に持病があり、これから逃れられるよう三度イエスに求めていたのですが、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いところに完うされる』と答えられていました。そこで彼は眼の病気のことを『高慢にならないように、わたしの肉体に一つのとげが与えられた』と謙虚に述べています。(コリント人への第二の手紙12:7-9)

ガラティアの人々がパウロからメシア信仰を聴くきっかけになったのが、この眼病であったことを彼らへの文面が教えています。おそらくガラティアに差し掛かったところでその病気が悪化してしまったのでしょう。(ガラテア人への手紙4:13)
眼を患った旅人を世話することは容易なことではなかったでしょうけれども、ガラティアの人々は眼を患うパウロに『できることなら、自分の目をえぐり出してでも与えようとした』というほどに慈しみを示したと書かれています。

しかし、今やガラティアの仲間たちには信仰の危機が訪れていました。パウロは『あなたがたが、こうも早く別の福音に転向してしまったのをわたしは驚いている。』と手紙のはじめに書いています。
パウロの去った後、彼らの許にユダヤ主義者が入り込み、律法の掟や割礼を守らせようと説き伏せていたのでした。
そこでパウロは、エルサレム会議での出来事や、その後のペテロやバルナバの日和見的な行動の偽善に敢然と抗議したことなどをこの手紙の中で明かしています。

エルサレムの弟子たちをまとめていたヤコブは、エルサレム会議のときにパウロに右手を差し出し、彼に無割礼の諸国民への宣教を託していたのです。
ですが、今やガラティアの人々は『日や月や季節や年などを守っている。あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではないか』。つまり、律法が定める安息日やユダヤの祭日、また新月などの祭礼を異邦人である彼らが行っていましたし、更には割礼をも受けさせようとする圧力に曝されていたものですから、『割礼を言う者なぞ、いっそ去勢してしまえばよい』とパウロはなじってします。(ガラテア人への手紙4:10-11・5:12)

パウロはこの情況下にある人々に対して『律法はキリストに導く教師であり』、『律法の実行に頼る者は誰もが呪われており』また『律法によってはだれも神の前に義とされないことは、明らかであり、なぜなら「正しい者は信仰によって生きる」からである。』ことなどを優れた理解と見事な例証によって説き勧めています。(ガラテア人への手紙3:10-12、24)

この手紙がいつ書かれたのかについてはよく分かってはいませんが、この時期にエフェソス滞在中ではないかともされています。
眼病の悪化したパウロを助けたのが同行者ではなく、その土地の人々であって、人間味ある慈愛を表し目に障害を負ったパウロを世話し、しかもそれが福音を伝えるきっかけをも作ったというのであれば、おそらくは医師ルカを含め、テモテやその縁者にも頼れず、他の仲間も伴わなかったであろう第三回目の宣教旅行中のアナトリアでの旅程に合致するようなところがあります。


◆霊的勝利と反対運動

さて、エフェソスの街はシリアのアンティオケイアに次いで大きな街であり、この帝国第四の規模に相当する都市は、当時人口25万を擁していたとされます。
海港を市域に併設し、商業で賑わうこの街は、ローマ帝国アジア州の首都と位置付けられていました。当時の七不思議に挙げられた建造物、多産の女神アルテミスがその巨大神殿に祀られており、その門前町でもありました。
この大神殿には広い境内があり、そこに犯罪者が逃げ込むと権力者も逮捕できなくなります。治外法権の聖域であったのです。
そのうえ、エフェソスが他国の軍隊に蹂躙されても、敵兵らも神を恐れて神殿での略奪はおろか、この聖域にも踏み込みませんでした。
そこで人々は自分の財産を神殿に預けるようになり、集まった多量の財産を元手に、神殿は銀行業も行っていたのです。

この大神殿はキュロス大王に征服されるまで栄えたサルディスを首都としたリュディア王国の富裕王クロイソスによる創建で、建物単体ではヘレニズム世界随一の巨大建造物であったとも言われます。
時代が下り、この神殿はアレクサンドロス大王の以前に一度焼けていました。そこで大王が再建の援助を申し出たのですが、エフェソス市民はそれを辞退し、女性たちが宝石類を寄進することで再建資金としたという出来事があり、それは市民をして女神アルテミスの神殿への敬愛と強い帰属意識を培わせていたので、やがてパウロもその市民感情の矢面に立たされる場面に至ります。(使徒19:23-/コリント第二1:8)

パウロのエフェソスでの活動が大きな成果をもたらしたことは、『アジアに居る者は皆が福音を聞いた』というルカの言葉に表れているだけでなく、また『神は、パウロの手によって、異常なまでに力ある業を次々になされた。例えれば、人々が、彼の身につけている手ぬぐいや前掛けを取って病人にあてると、その病気は除かれ、悪霊も出て行くのであった。』とも記しているのですが、これほど強力な聖霊の力を見ることはルカであっても異例であったのでしょう。
それらに加えて、パウロの宣教が大きな成功を収めていたことは、猛烈に反対した者の言葉『エフェソばかりでなくアジア州のほとんど全地域で、多くの人を説き伏せ、たぶらかしている。』という批難の言葉が却って強い証しとなっています。(使徒言行録19:26)

この頃、エフェソスにはスケウワスという祭司長の七人の息子たちが巡回除霊者として来て居ていました。これはユダヤ教の習慣となっていましたので、イエスも『わたしが悪霊の頭によってそれを追い出すのなら、あなたがたの息子たちは何によってそうするのか』と、聖霊の強力な働きを誹謗しないようユダヤ教指導層に警告している場面があります。(マタイ福音書12:27)
その息子たちがパウロの強力な霊力にあやかろうと『パウロの宣べ伝えているイエスによって命じる。出て行け』と、悪霊に憑かれた人に試して言ってみたところ、悪霊が話して「イエスのことは知っている。パウロのこともよく知っている。だが、いったいお前たちは何者だ。」と言われたうえ、その悪霊につかれている人が、彼らに飛びかかり、みんなを押えつけて負かしたので、彼らは傷を負ったまま裸になってその家から逃げ出しすという事件が起り、これは当地のユダヤ人だけでなくギリシア人たちにも知れ渡り、『人々は皆恐れを抱き、主イエスの名は大いに崇められるようになった。』ともあります。
エフェソスでは、魔術を行っていた人々も改心し、それぞれが魔術の書物を持ち寄ってきては人々の前で焼き捨てたともあり、それらの総額は銀にして五万枚であったと書かれていますが、これが通貨ドラクマであれば3億円に近い金額にもなるでしょう。

これらの奇跡を伴う活動が目立たないわけもなく、アルテミス大神殿の門前町でもあるエフェソス市内ではパウロの活動が広まることに脅威を覚える市民もあり、特に銀製の霊験あらたかな神殿模型を作っては商売をしていた組合の頭であるデメテリオスは憤懣やるかたなく、その商売の関係者を集めては、「あのパウロが『人の手の造ったものなど神ではない』などと言ってはエフェソスばかりか、アジア全域で大勢を説き伏せ、たぶらかしていて、このままではわれわれの仕事の評判も落ちるばかりか、全アジアと世界から崇敬されている女神様のご威光まで失われるかも知れないのだぞ」と焚き付けると、集まった者たちは激怒し『至高なるはエフェソス人のアルテミス!』と叫び出し、街は怒号に包まれ混乱するに至ります。

後に、パン焼き人と同業組合のストライキが、第二世紀にエフェソスで起きたそうで、その煽りを受けた全市が大騒動に陥った記録があるとのことです。当時の民衆の騒動がどれほど恐ろしいものであったかについては、行政も兵士も抑えることができず、法の支配が機能しなくなり、つるし上げられた者に民衆による私刑が行われたことが史料から窺えます。それが市民に蓄積した鬱憤のはけ口であり、為政者も富裕層も、この民衆の怒りを恐れて寄付を行い、都市を飾り、浴場に遊戯施設や劇場を建てては彼らの機嫌をとっていたほどです。
第三世紀末には有名な「テッサロニキ暴動」が起り、当時の皇帝テオドシウスⅠ世は軍団を率いて民衆を闘技場に閉じ込めるほどでありました。

これらのことからパウロによって広められていた信仰がエフェソス市民には焦眉の問題となるほどに影響が大きかったことが知れようというものです。殺気立った暴徒はパウロをつるし上げたかったことでしょうけれども、彼らが見つけたのはマケドニアからの二人のパウロの同行者でした。
群衆は、半円形の直径が140mもあり、二万四千もの聴衆を収容できるエフェソスの大劇場になだれ込み、皆が勝手に叫びたてていたので大半の者はそれが何の集まりなのかも知らなかったという混乱ぶりでありました。
例によってその責任を感じたパウロは、自分からその渦中に入ろうとしたのですが、まず弟子たちに阻まれ、次いでアジア州議会の議員の何人かもパウロに使いと送ってはけっして中に入らないようにと伝えていました。
群衆は二時間にわたって叫び続け、とうとう市の書記官が現れ、改めて言い分を聴くからと皆を宥め、その集まりが順当ではなく帝国への反乱の嫌疑も避けられないことを諭されてのち、騒動はようやく終わることになりました。



◆コリント人への手紙

この時期、パウロがエフェソスで過ごした二年の終りに、彼によってコリントスへの第一の手紙が書かれています。
その内容からは、以前に一年半過ごしたコリントスの集まりで生じていた、容易ならぬ複数の問題を案じていた姿が見えます。
コリントスの弟子に中にはエクレシアの状態を心配してパウロに相談をしていたようで、『クロエの家の者らから打ち明けられたのだが・・』と挨拶に次いで書いています。使徒言行録には記載が無いのですが、パウロはエフェソス滞在中からコリントスを一度訪ねたのではないかとも考えられていますし、問題が知られて後、テモテが派遣されていたことは手紙の文面から分かります。(コリント人への第一の手紙16:10)
彼らの中には『自分はアポロにつく、わたしはペテロに』などと分派が出来てしまっているだけでなく、性道徳に放埓な者もいました。
コリントスのエクレシアの中には聖霊の賜物に恵まれている反面、集会には秩序が欠けていて、『主の晩餐』でも分派の違いが強調されてしまうほどでありました。
内部に多くの問題を抱えたコリントスへの集まりに対して、パウロは長文の手紙を書くことになり、それも一度では済まないことになります。

また、当時の都市生活で避けられない異教の隣人や風習との接触についてもこの手紙でパウロは指針を与えています。
例えれば、ヘレニズムの諸都市ではどこにも異教の神殿があり、人々は食物を神前に供える習慣がありましたが、それらは食物として良いものであったため、下げられてきた食物は調理され、人々は神殿域の食堂でそれに与りました。これは形式上崇拝の一部ともされていたのですが、実際には今日の家族で外食を楽しむような場であったのです。
また、一度供えられ、「神聖にされた」肉などの食材もすぐにアゴラと呼ばれる公設市場で売られていました。そこで、弟子となった諸国民には、その環境を自分の信仰にどう合わせるかという問題も生じていたのです。

パウロは、『神の創造物はどれも退ける必要もない』と円熟した者の見方もあることを示しながら、その一方で信仰に浅く、弱い人はそのようには考えられず、『悪霊の食卓』を避けることがその人の良心の命じるところとなることを円熟した者たちが配慮し『躓かせることが無いように』と勧めています。
これは、弟子らにモーセの律法のような画一的な規則ではなく、互いを思いやる心を持つよう教えているのであり、それは遠い昔に預言者エレミヤが『その律法を、その心の書き板に書き記す』と予告していた新たな契約の姿を表していたといえます。(エレミヤ書31:33)

確かにパウロは、最初の手紙の第13章に於いて、『愛』(アガペー)について最上級の言葉を用いて描き出してします。

コリントスのエクレシアには、あるゆる種類の聖霊の賜物が見られましたが、パウロはそれらに優る精神としてこのアガペーを高く掲げます。
聖霊を注がれた『聖なる者』であっても、天に召されるなら、聖霊は保持し続けるにしても地上で受けた賜物の奇跡は必要は無くなります。
どんな賜物であろうと、信仰の業であろうと、『愛が無ければ意味を成さない』のであり、『信仰、希望、愛の三つは残るが、最大のものは愛である』と書いています。それこそがキリスト教の本質であり、聖霊の有る無しに関わらず、イエスに感化されるものの実であるはずなのです。

もちろん、当時の聖徒であっても完全にこの『愛』を体現できたわけではなく、却ってコリントスのエクレシアには多くの問題が生じていました。
それゆえにもパウロは、彼らにこれほどまでにアガペーについて言葉を究めて称揚したのでしょう。これこそがキリスト教の目指すべき到達点であり、エクレシアの問題を前に、それをはっきりと語るべき必要を見て取ったのでしょう。


◆マケドニアでの再会

さて、パウロはエフェソスでの二年間の活動を閉じ、問題多いコリントスに向かう必要を強く感じてそちらをすぐに訪問しようとしていましたが、コリントスの問題の重さのためか、計画を変更し、まずマケドニアを回ってからアカイアに行こうと考えます。(コリント第一16:7)
その背景には、自分自身についての主の意志を予知していたということもあります。
『パウロは霊に感じて、マケドニヤ州からアカイヤ州を経てエルサレムへ行く決心をした。そして言った、「わたしは、そこに行ったのち、是非ともローマをも見なければならない」。』彼には三回目の宣教旅行の終りが見え始め、主イエスに召された使命の先に帝都ローマが視野に入ってきていました。今後はどちらの地方をも訪れることができなくなるかも知れないという思いがよぎったのでしょう。

そこで彼は、テトスをコリントスに遣わし、テモテとエラストをマケドニアに向けて先発させ、自分自身はというと、あるいはコリントスへの最初の手紙を書いたりしてエフェソスに留まっていたのですが、その間に起こってしまったのが銀細工組合の大騒動であったのです。(コリント人への第一の手紙16:5・8-9)
彼はコリント人への第二の手紙の中でもアジア州で受けた苦難について『わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。』とも書いています。(コリント人への第二の手紙1:8)
また第一の手紙の中でパウロは、エフェソスでは『野獣と戦った』ことも書きましたが、これが闘技場での見せ物にパウロが出されたのか、象徴的な野獣との戦いを言うのかは、ルカも触れず他の言及もないため、今日では分かりませんが、エフェソスやアジアで活動の大きな成果を得た半面、パウロには相当な圧力が加わっていたことを教える記述となっています。(コリント人への第一の手紙15:23/テモテへの第二の手紙4:17)

パウロやルカらは騒動を経験してのち、五旬節が過ぎたころにエフェソスを後にし、海路をとってトロアスに向かい、そこでテモテらに合流し、そののち、久しぶりにマケドニアのフィリピに逗留しているところでコリントスからのテトスを迎え、皆で再会の喜びを共にすることになりました。(使徒言行録19:21-22/コリント人への第二の手紙7:5-15)
しかし、実はコリントスの集まりの状況は大きく改善されることはありませんでした。そこでパウロはコリントスへの二番目の手紙をマケドニアから書くことになります。





主の導くままにギリシア本土へ

2018.09.05 (Wed)



◆西へと導かれる宣教旅行

エルサレムの使徒会議の後の早い時期に、パウロとバルナバは以前に旅行してメシアの福音を伝えてまわった諸国をもう一度訪ねることを思い立ちました。
バルナバは従兄弟のマルコを再び伴いたいと思うのですが、それにパウロは断固反対します。前回のマルコの行動で信頼できないと判断していたのでしょう。
そこでバルナバとパウロは大喧嘩を演じたようで、それまでの二人からすれば起こりそうもない仲たがいをしてしまったようです。聖霊を内に注がれたとはいえ、『罪』の影響を克服しているわけではありません。『聖徒』といえども人間的なところは、かえってこれを読む人々にはある種の励みのようなものを与えるところもあるでしょう。(ローマ人への手紙7:18)
バルナバは思った通りにマルコを連れて故郷のキプロス島に船出しましたが、パウロの方はユダヤ人シラスを伴い自らの故郷キリキアを経由して前の旅で向かったトルコの高地を目指します。
それでも新たな宣教旅行は大きな成果を収めることにあるのでした。

キリキア州にはアナトリア(トルコ半島)に在っては珍しく平野の広がる穀倉地帯があり、中心的な都市タルソス(現存)がパウロの出身地でありました。
かつてバルナバが彼を捜して訪れ、そこから宣教しながらシリアを通ってアンティオケイアに旅した逆のコースをこの度はシラスを伴って進み、故郷の町を背に北上し、「キリキア門」と通称されたタウロス山脈を越える唯一の隘路から、アナトリア高原を目指す険しい上りの行程をとったと考えられています。

そこから先頃尋ねたリュストラ、イコニオム、ピシデイアのアンティオケイアへと遡ってゆくに際し、エルサレムでの議決を知らせて回り、各地の『それぞれの集まりはその決定に励みを受けつつ日毎に人数を増していった』と記されています。
さて、パウロはリュストラで一人のユダヤ人女信者の息子で仲間に評判のよい若者に資質を見出し、自分の宣教旅行に連れて行くことを思い立ちました。その願いは叶えられ、パウロはこの若者テモテ(ティモテオス)に割礼を受けるように求めます。それはパウロたちがユダヤ人の諸会堂を巡ってゆく宣教方法において、ユダヤ教徒からのつまずきを作らないためであったことは明らかです。しかもテモテの父がギリシア人であることはこの地方で広く知られていたことでした。

パウロはシラスに加えテモテを伴い、ピシデイアから未だ進んだことのないアナトリアの中央部ガラティア、フリュギアに入りましたが、本来はその先にある人口の多く繁華な小アジアの諸都市を目指していたのでしょう。しかし、ここで使徒言行録は『彼らはアジアで音信を語ることを禁じられた』としています。
そこで一行はトルコ半島の北西を進み、アジア州を南にして今日のマルマラ海に面した古代名ミュシアと呼ばれる地方に入り、そこから更に北の黒海沿いに位置するビチュニア方面に向かおうとしましたが『イエスの霊がそれを許さなかった』と書かれています。彼らの主の意図は何であったのでしょうか。

ビチュニア行きを引き留められた彼らはアナトリアを横断してその先端の港町トロアスにまで出てしまいましたが、目の前にはエーゲ海があるばかりです。
しかしパウロはそこで幻を見ました。その中では、ひとりのマケドニア人が現れ『こちらに渡って来て、わたしたちをお助けください』と言うのです。

これに神意を見出したパウロの一行はそのまま海を渡って対岸のギリシア本土、つまりヨーロッパに向かうことにします。もはやイエスが彼らをそちらに導いていることに疑う余地がありません。
そしてここからこの使徒言行録の筆者であるルカ本人がパウロの一行に加わっていることが一人称に文章が変化していることから分かります。
総じて新約聖書の筆者たちは手紙文でもないと自分自身についてはっきりとは書きません。それは書いていることが自らの功績であるかのようにしたくないからでしょう。彼らの全体を導くのは聖霊を用いる主イエスであって、だれか傑出した人間でもなく、人を遥かに超える天からの導き手に膝を屈する姿勢の表れではないでしょうか。



◆マケドニアの収穫

さて、彼らはトロアスから出帆し、サモトラケ島を経て二日目にはいよいよヨーロッパに上陸し、マケドニアの主要な都市フィリピ(フィリッポイ)に入りました。
この場所では百年以上前のこと、ユリウス・カエサルの暗殺を行ったブルータスの一党とその仇を討とうとするアントニウスとの大決戦が行われ、晴れてカエサルの名誉が回復された目出度い場所となったために、この都市フィリピはローマ市民権が与えられる栄誉に浴していました。

その一方で、ユダヤ教の影響は小さく、この町にはシュナゴーグつまりユダヤ教の会堂がありません。
そこでパウロたちは、安息日に河原に行ってみることにします。ユダヤ人なら会堂が無ければ、人が集まりやすい開けたところを『祈りの場所』としている可能性があったからです。
すると、そこには女たちが集まっています。それは洗濯のためであるのか、ユダヤ教としての集まりであったのかは分かりませんが、パウロが座って話を始めると何人かの女たちがそれを聴こうとパウロの許に来ました。
その中に、本来は小アジアのテュアティラ市特産とされる紫布を扱う女商人リュディアが居ました。彼女はユダヤ教の素地があるようで『神を崇める者』であったとルカは記しています。これは異邦人でもユダヤの会衆に含まれる信仰者(プロセーリュトス)を意味していたのでしょう。そこで彼女のメシアへの理解は早く『主は彼女の心を開いてパウロの話に耳を傾けさせた』とあり、早速にパウロの一行はマケドニアで成果を得て、このリュディアの一家はバプテスマを受けました。
信者となったリュディアはパウロの一行が自宅に泊まるよう熱望し『もしわたくし共が主を信じる者とお思いでしたら』と言っては『強いてそうさせた』とあります。

それからもパウロたちは『祈りの場所』で宣教を続け、フィリピの街での知られるようになっていたようですが、ユダヤ教徒の反対は無くとも必ずしも好意的反応ばかりではなかったことが窺えるような出来事が起こりました。
悪霊の力によって占いをする奴隷女がパウロたちの後をつけてきては『この人たちはいと高き神の僕で、あなたがたに救いの道を宣べ伝えているのです』と幾日も言い続けたので、遂にうんざりしたパウロが、『イエス・キリストの名によって命じる、この女から出て行け』と霊に告げるとすぐに憑依は解けたのですが、これを悪霊は狙っていたのでしょう。この奴隷の占いによって利益を貪っていた主人らは、パウロとシラスを捕えて政務官の前に引き出し『この者どもはユダヤ人でありまして、我々ローマ人なら行うことも受け入れることもできない慣習を宣伝しています』と告発すると、群衆も反対し始めました。キリストの福音は異邦人だからといって喜ばれるものではなかったのでしょう。
弟子らがメシア信仰の福音を携えて諸国民に向かっても必ずしも好意を受けないことには、ユダヤ教とはまた違った原因があります。聖書の神は商売や儲けの神でも、幸運の神でもありませんから、ご利益信仰や悪霊の影響なども邪魔をすることは避けられないところです。(ルカ福音書1:52-53)

イエスはそれを次のように告げていらっしゃいました。
『わたしはあなたがたを遣わす。それは、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。人々に注意しなさい。彼らはあなたがたを衆議所に引き渡し、会堂でむち打つだろう。またあなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対して証しをするためである。』(マタイ福音書10:16-18)

まさしく、政務官らは二人を鞭打ち、看守には厳しく見張るよう申し付け牢につながせます。看守長は彼らを一番奥の牢に入れたうえ、足枷にもつなぐという念の入れようでした。
しかし、夜半に大きな地震が起こり、牢獄は土台から壊されてしまい、牢獄の戸が開いてしまったうえ、鎖もみな解けてしまったというのです。
多くの囚人が逃げ散ってしまいました。看守長はその責を問われることを悟って自害しようとしますが、パウロたちが『わたしたちはここに居る』と言ってそれを制し、パウロとシラスは逃げずに居ます。
看守長は起きた出来事にパウロたちの唱える信仰に帰依したのでしょう。二人に平伏しては『救われるにはどうしたら良いでしょうか』と尋ねるので、二人は『主イエスを信じなさい。そうすればあなたも家族も救われる』と教えます。看守長は二人を自宅に招き入れ、傷を洗い食事も供し、そこで家族と共にバプテスマを受けました。

この地震による出来事は、看守長ばかりでなく政務官らにも衝撃であったらしく、翌朝になると二人を放免するようにと看守長に言ってきますが、パウロもシラスもローマ市民権の保持者であったものですから、彼らを裁判もせずに鞭打ったり牢につないだりしたことはローマ法を犯すことになってしまいます。政務官らは恐縮してパウロたちのところまで出向いてきては、宥めつつ、パウロたちが何処ぞに退去することを懇願し始めました。このフィリピでは行政から法規までイタリアと同等に行われる植民市扱いが行われるべきであったのです。

そこで二人はリュディアの家を訪れて仲間となった人々を励ましてから、さらにマケドニアの旅を続けるためフィリピを後にし南に位置する都市テサロニケーに向けて歩を進めます。ですがパウロの生涯にわたってこのマケドニア最初の都市フィリピの仲間たちとは深い友愛に結ばれ、以後彼らはパウロへの援助を何度となく行い、パウロの活動を支援し続けることになります。(フィリピ人への手紙4:14-15)

テサロニケーはギリシアではアテナイに次ぐほどの大きな街でありユダヤ教の会堂もあります。
パウロは会堂で三つの安息日にわたってキリストの受難と復活を旧約聖書から説いて証しをすると、何人かのユダヤ教徒がそれに納得し、それに加えて多くのギリシア人たちや貴婦人らがパウロたちに従うという成果を上げることに成功します。

ですが、やはりユダヤ教に固執する者らはこれを嫉んで暴徒を組織したので、テサロニケーの街は混乱に陥りました。
暴徒らは、パウロとシラスを捕えようと、彼らをもてなしていたヤソンの家に乱入してはみたのですが見つかりません。
その間に、信仰の仲間となった人々は夜の内に二人をさらに南の都市ベレヤへと送り出していたのでした。

テサロニケーを追われたパウロたちは、50kmほど離れた都市ベレア(ベロイア)に逃れます。ここはかつてのマケドニア王国の中心的な街であり、インドに至るまでを征服したマケドニア=ギリシア帝国の礎がここにあったようにアレクサンドロス大王の父、フィリッポスⅡ世の墳墓を今も見ることができます。
この比較的大きな街にもユダヤ人の会堂があり、ルカが述べるところでは、この土地のユダヤの人々は大らかで、パウロたちの語るところを受入れ、語られたことを確認するために毎日に旧約聖書を照合したとベレアのユダヤ人を誉めています。

ですが、ベレアがパウロを受け入れたことを察知したテサロニケーのユダヤ人らが、ベレアまで来ては騒動を焚き付けたものですから、メシア信仰を持った人々はパウロを保護して海岸に送り出しますが、パウロ自身はこのように機転の利いた仲間の策に幾らか抵抗を試みたような痕跡があります。マケドニアを後にするのは本意でなかったのでしょう。彼はむしろテサロニケーに戻ろうと一度ならず試みたと手紙に記しています。(テサロニケ第一の手紙2:17-3:2)
ともかくベレアの仲間たちはパウロに付き添って海路をとり、ギリシア文化の中心であるアテナイへと送り届けます。こうして騒乱の内にパウロのマケドニアでの活動が終わり、彼はギリシア本土を南下してアカイア州で宣教を続けることになるのでした。



◆アカイアの日々

パウロはシラスやテモテをマケドニアに残していました。おそらくはテサロニケーやベレアに入って日が浅く、新たにメシア信仰を見出した人々に助けを残す必要もあったのでしょう。そこでベレアからの随伴者たちが戻るに際し、シラスとテモテにはできるだけ早くアテナイのパウロの許に来るよう言付けました。しかし、実際に彼らが再会するの時期はパウロのアテナイ滞在に間に合わないことになるのでした。

二人の到着を待つ間にパウロが無為に過ごすわけもありません。テサロニケーよりも大きなこのギリシアの中心都市にはユダヤ教の会堂もあり、彼はそこでのメシア信仰の表明しユダヤ人との論戦に入ります。
また、当時の各都市で「アゴラ」と呼ばれる市場を伴う繁華な広場でも話をしたので、このギリシア哲学の故地にいたパウロの論じ合う相手は、ストア派やエピクロス派の哲人たちにも及ぶようになり、アテナイの人々もその論議を知ろうとして、アクロポリスの麓にあったアレオパゴスの裁判所にパウロを招きます。この当時の裁判権はローマのものとなっていましたので、この場所では裁判というよりは様々な議論の行われる場所となっていたことでしょう。当時のアテナイは、独立を失って久しく、既に以前のような文化の栄えは失っていましたが、それでも人々は哲学的論議に明け暮れ、暇な時間さえあればそれに打ち込んでいたことを使徒言行録も記しています。

ですが、アテナイ人にとって『異国の神(ダイモーン)を広める者らしい』というパウロへの評価は危惧を孕んだものであったようです。というもの、既に五百年も前のことですが、かの哲人ソークラテースが訴えられたのもアテナイが認めていない別のダイモーンへの祭礼を唱えたということであったのです。
もちろん、パウロがローマ市民権保持者であれば、刑罰を覚悟する必要まではなかったのでしょうけれども、これはアテナイでの査問のようでもあり、そう歓迎されているわけでもありません。
そこでパウロは市内で見つけた『知られていない神へ』との献辞の刻まれた祭壇があったことを述べてから『あなたがたが知らずに崇拝するもの、それを告げ知らせます』と慎重に話を起こします。
そのうえで、神たるものは人の世話を必要とする方でも神殿に住まねばならないわけでもないことを告げ、創世記の人の創造を彼らにも分かる仕方で話すと、クレタのエピメニデスの詩とキリキア出身の前三世紀に活躍した詩人アラートスの句を用いながら創造の神の例証を試みます。この辺りまではアテナイ人にとって同意できないものではなかったことでしょう。

しかし、パウロがメシア信仰に踏み込み『神は自らお定めになったひとりの人を通してこの世を裁くための日をお決めになった。そしてこの方を死人の中から生き返らせてそのことを証しされた』という及んで、人々は嘲笑をはじめ、またある人は『そういうことなら、またいずれ聴こう』と言いだしました。つまり、復活が躓きのもとだったのです。一般人ばかりか、現存する宇宙に統一的な秩序や摂理があると見做すストア派でも、精神の平静によって死を克服しようとするエピクロス派でも、この復活という事柄は受け容れられそうにありません。
それでもこの裁判所の判事ディオニュシオスやダマリスという女は信仰を持ったと記されています。
このようにアテナイでのパウロは大きな収穫を得なかったようで、彼はいくらか滞在しただけでそこを去り、さらに南にある両側から海に挟まれた都市、コリントスに移ります。

彼はコリントスでも安息日毎にユダヤ人の会堂で論じますが、そこでアキュラとプリスキラというユダヤ人の夫婦と出会います。この夫妻は先頃までローマに住んでいたところ、ユダヤ人の騒乱を嫌ったクラウディウス帝のローマ市からのユダヤ人退去令のために移って来たところだったと記されているので、これは西暦49年か50年のコリントスという歴史地理上の座標を教えています。
この以前、あのペンテコステの時にローマから来てエルサレムに逗留していたメシア信仰者がローマに戻って宣教をしていたようで、ひと世代ほど後の歴史家であるスエトニウスによれば、「クレストゥス」という指導者がユダヤ人に騒擾をもたらしていたので皇帝がユダヤ人にローマからの退去を命じたと記されています。
エルサレムで使徒会議が行われている頃に、あのステファノスのような事が各地で起っていたとしても不思議はありません。まさにパウロがローマ人への手紙を書いていた時期に当たる西暦57年には未だパウロがローマに到着していないにも関わらず、ポンポニア・グラエキナという帝室に近い貴族の夫人がローマでは禁じられた宗教を意味する「異国の迷信」の廉で審問のために夫に引き渡されるという事件があったと、タキトゥスの「年代記」に記録されてもいますが、これはキリスト教であったろうと考えられています。
やはり、ナザレ人イエスによって巻き起こされたメシア信仰の与えた影響の大きさが、ユダヤ人のローマ追放という事件にも表れていると見てよいのでしょう。

迫害に追い立てられマケドニアからアカイアへと流されるようにしてコリントスに辿り着いたパウロと、既にメシア信仰に達していてローマを追われた夫妻とは共感するところが多かったでしょう、さら天幕作りという共通の技術を持っていたので共に仕事を始めたことをルカが書いています。ですがマケドニアからシラスとテモテが合流すると、パウロは専ら宣教に力を込めるようになり、ユダヤ人からの反対もまた強まります。
イエスはパウロに幻を再び与え『臆するな、語り続けよ。黙してはならない。』『この街にはわたしの民が多いのだ。』と励まし、彼はそれに応えて一年半もの間、当地コリントスに留まることになります。

この滞在の間に、パウロはマケドニアのテサロニケーに手紙を書いていて、新約聖書にその上下の二通がありますが、これらはパウロが書いた書簡群の最初期のものとされています。差出人はパウロとシルワノ(シラス)とテモテという宣教の一行であり、第一の手紙ではパウロの許にテモテがマケドニアから到着したことを伝えています。いくらかの献金と彼らの信仰の良い知らせを携えてきたのでしょう。しかし、テサロニケーの人々が強い反対に面していることも知らされ、彼らを『聖霊の喜びによって』迫害を耐えていることを励まします。確かにテサロニケーの反対は異様なまでに執拗であったことが思い起こされます。(テサロニケ第一の手紙3:4)
さらに励ましの言葉ばかりでなく、パウロの驚くべき神意への理解が記されていて、キリストの戻られる終末に起る幾つかの事柄への預言さえ含まれています。(テサロニケ第一の手紙4:15-18/第二の手紙2:3-5)

これらには、パウロが手紙で語りかけるパターンが示されていて、挨拶に続いてすぐに高度な教理が語られます。それから聖霊を注がれた者としての栄光の高さが語られ、生き方への教訓があり、『新しい契約』に入った者として信仰と清い生活を送るよう励ましてします。これは後のパウロの手紙に共通するもので、書かれた相手がパウロと同じく聖霊によりイエスと結ばれた『聖なる者』であることを示しています。
それでも今日の読者は、当時の真実のキリスト教の姿を知ることやパウロの得ていた高度な理解を通して、人類の祭司となる聖徒たちの姿を知ることができ、来るべき終末についても示唆が与えられます。それらの知識は今日のキリスト教界にはびこる誤謬を見抜ばかりかキリストの再来について心を整えさせるものとなるでしょう。



◆巻き起こる争論の原因

使徒言行録を俯瞰すると、この時代の特性が宣教にプラスに働いていたともいえます。
殊に、ローマは帝国となって安定期に入っており、「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼ばれる比較的に平和な時期が地中海世界を覆っていました。ユダヤ教は帝国公認の宗教であり、帝国の各地に離散(ディアスポラ)で住んでいるユダヤ人は会堂での安息日の集まりを続けることができていました。その集まりでメシアの到来を告げるパウロやバルナバのような活動が自由に行えたのも、この時代の状況が整っていたといえます。

しかし、それにしてもユダヤ人の反対というものはどこに行っても止むことがありません。こうしてパウロたちは宣教を行って幾らかの仲間を得る度に、ユダヤ人からも諸国民からも反対を受けては移動を繰り返す日々をシリアやパレスチナばかりでなくマケドニアでも経験することになりました。
その理由といえば、新約聖書は『不信仰』としていますが、これはメシアとして来られたイエスを受け入れなかったことを指す、ユダヤ教徒のメシア信仰についての『不信仰』なのです。

具体的には、身近で行われていた律法に基く崇拝に深く慣れ親しみ、そこに自分たちの価値を見出して人生の目的にしており、神に選ばれたという民族の伝統の誇りも手伝って、自分たちは少しも不信仰ではなく、むしろ自分たちほど神に従っている者もいないとすら感じていたことでしょう。キリスト・イエスもユダヤ教徒として律法に従ってもいたのですから、ましてユダヤ教徒は生活上の細かな規定を守ることに神の是認を感じてもいたに違いなく、それが崇拝の目的のようにも思えたことでしょう。

彼らは、崇拝方式に自分たちの正しさを見出して、神がメシアを通して知らせる新たな崇拝方式に従うことを拒んだのでした。しかし、メシアが現れたなら『彼がわたしの名によって、わたしの言葉を語るのに、もしこれに聞き従わない者があるならば、わたしはそれを罰するであろう。』と律法そのものに神の命令が書かれていたのです。(申命記18:19)

今日のユダヤ教も当時のままのパリサイ派を思わせるほどに律法への熱心さを見せています。まさしく今日のユダヤ教は当時と同じヒレル系パリサイ派であり、ナザレのイエスについては「魔術を行ったガリラヤの私生児で、ローマ総督に処刑された」という見方は変わっていません。

しかし、崇拝の方式が正義そのものになっているというのは、現代でも一神教に熱心な信仰者によくみられる共通の態度でもあります。
そして、将来にキリストがこの世に対して「帰還」されるときには、今日のキリスト教界が同じ反応をして、神の真意が示されてもそれを受け入れないということは起り得ないことではありません。

信仰する人々の多くは、自分の義を求め、神の是認や救いの確定を急ぎます。
確かに神との関係性を願うことは間違いではないでしょう。しかし、大切にするべきは自分の存在の確保や自分が救われることなのでしょうか?
詩篇には『あなたの忠節な愛*は命に勝る』とあります。これを詠んだダヴィデにとって、神との関わりを通して学んだところに自分の命を超える神の愛の優越性があったのでしょう。人にとって神との関係というものが命にさえ勝るものであることをこの句は端的に語っております。(詩篇第63:3)*(ヘセド「不変の慈愛」)

創造神にとっては人を復活させ永遠の命をもたらすことさえ問題ではありません。問題となるのは、「その人が神に対してどう関係するのか」というところにあり、自分が救いを受けて存在を確保しようとするところにはけっしてありません。それはむしろ自己中心的な態度であり、生死を超越する神を本当には信じていないかのようではありませんか。

メシアを目の前にしながら信仰しないユダヤ人に、イエスは『あなたがたは、聖書の中に永遠の命があると思って調べているが、この聖書がわたしを証ししているのだ。』と語られましたが、その人々の動機がそこに指摘されています。彼らの心は神よりは自分に向いていたというべきでしょう。(ヨハネ福音書5:39)
彼らは自分のために神を崇拝していたことが暴露されていたと言えますが、これは他の宗教であってもそれぞれに起っているに違いありません。それこそは「ご利益信仰」というものです。

メシア信仰が伝えられたときのユダヤ人の反応から学ぶところに重要なものがあります。
彼らはモーセの律法を守ることが善であり、神との良好な関係を意味するものとしてきました。
しかし、メシアが現れ奇跡の数々を行ったときに、人々はふたつに分けられましたが、その抜き差しならないメシアの論議に神の介在が見えています。(テサロニケ人への第一の手紙2:15-16)
当時のユダヤ教徒にとって、ナザレのイエスをメシアとして受け入れるためには、その到来を悟る価値観と自分の想いを調整する心の柔軟さが求められたと言えるでしょう。

そこで各個人は試みの篩いに掛けられ、頑なにならせる様々な誘惑が生じました。それは地位や面子や既得権などであり、生業や交友関係までも影響を受けざるを得なかったことも多々有ったことは容易に想像がつきます。そこで彼らは誘惑に遭い自分がどんな者であるのかを試されたのです。激しく反対する人もあれば無反応な人も結果としては同じであったでしょう。
そこで問われたのは「神と自分をどう見做すのか」ということであり、自分の都合を離れメシアの現れを客観視し、真価を判断できなければなりませんでしたし、さらには必要な応じ、自己犠牲の精神も求められていたのです。

イエスは神の王国を真珠に例え、価値を悟る目利きの商人は、『高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う』と語られました。(マタイ福音書13:46)
使徒言行録の弟子たちはまさしくその価値を悟り、描かれるそれぞれの土地の人々がそれぞれに協働出来ることを行いましたが、出来ることさえ行わないのではありません。福音が何を意味するのか、どれほど価値のあることかを悟っていたことは間違いのないことです。特にパウロやバルナバのように召命に従ったとはいえ、生涯を諸国民への宣教に費やしたのもキリスト・イエスに倣う行動であったのです。
パウロは手紙でこう書いています。『彼がすべての人のために死んだのは、生きている者がもはや自分のためにではなく、自分のために死んで生き返った方のために生きるためである。』(コリント人への第二の手紙5:15)





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『後の者が先になる』 二つの民

2018.07.24 (Tue)


◆福音を受け入れる諸国民と拒むユダヤ人


諸国民への宣教の任務を担って船に乗ったバルナバ、パウロ、マルコは、キプロス島ではまず東南部の良く知られた天然の良港サラミスに到着し、ユダヤ人の会堂をまわってはメシア信仰を広めます。
それから島の中を巡って後、サラミスの反対側のパフォスにまで至ると、そこはローマ元老院直轄領キプロスへの執政官代理の赴任先であったようで、当時はセルギオス・パウロスという使徒のパウロと同じ名の貴族が着任していましたが、この人は聡明であるうえ、メシア信仰に一方ならぬ関心を示して、バルナバの一行を招いてまでその話に耳を傾けたいと願うので、彼らはその前でメシア信仰の福音を説きます。

しかし、ここで悪霊の邪魔が入ります。この執政官代理の傍に居た『呪術者エルマ』は自分の主人がメシア信仰に至るのを妨げようとしたのですが、どんなことをしたのか使徒言行録は書いていませんが、何等かの魔術を仕掛けたのでしょう。それに対し使徒パウロが聖霊に満ちて『見よ、主のみ手がおまえの上に及んでいる。おまえは盲目になって、当分、日の光が見えなくなるのだ』と宣告すると、この呪術者もたちまちに盲目となり、手を引いてくれる者を求めます。
これを見ていた執政官代理は唖然とし、却ってメシア信仰を抱くに至るのでした。
パウロが後に『わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によるのではなく霊と力との証明によるものであった。』と書いているように、使徒や初期の弟子らの宣教にはキリストの霊の証しが伴うもので、その霊は悪霊の妨害に勝る力を示したのです。(コリント人への第一の手紙2:4)

こうして一行はキプロス島を一巡すると、それからアナトリア(現トルコ)に向かうことにします。
パフォスから船出して、半島南部パンヒュライア州のペルガ(ペルゲー)の港に着きましたが、ここでバルナバの従兄弟のマルコは何を思ったか、エルサレムにある母の家に帰ってしまうという予想外の行動に出ます。バルナバとパウロはマルコを諦め、内陸に向かいピシデア(ピシディオス)州のアンティオケイアに着きます。当時あちこちに同じアンティオケイアという名の町があったのは、百年ほど以前までトルコからシリアを経て東方に至るまでを支配したセレウコス朝に「アンティオコス」の名を持つ王が何人も出たところによります。当時の、王や妃、また王子の名によって都市を建設したり、改名したりする習慣がしのばれます。

さて、このトルコ半島の内陸部のアンティオケイアでも、バルナバとパウロはまず安息日にユダヤ人の会堂に入ります。
モーセと預言者たちの朗読が終わると、会堂の役員がふたりに人を遣わしては『兄弟たちよ、どちらかの方かが、ここの人たちに何か奨励の言葉がありましたらどうぞお話し下さい』と要請してきました。もちろんこれは願ってもないことで、パウロは立ち上がると『イスラエルの方々、ならびに神を畏れる(異国の)みなさん、聞いてください』と話し始め、旧約聖書のイスラエル民族の歴史を回顧した後に、イエスがメシアとして来られたことを説明し、『この救いの言葉はわたしたちに向けられているのです』と演説し、イエスを神が復活させたことにも言及し、律法の罪からのイエスによる解放を知らせます。
すると、ここの会堂の人々の反応はたいへんに良いもので、次の安息日にもイエスの福音を話してほしいと懇願されるほどであったといいます。

そして、次の安息日には、異邦のこの町の人々のほとんどが会堂に押し掛ける様相を見せましたが、これはそれまでなかったほどのことだったのでしょう。主導権を奪われ面目を潰された常連のユダヤ人らはそれを見ると猛烈な妬みに満たされ、パウロの語る新しい事柄に言い逆い始めます。いつも争論の渦を巻き起こすパウロはここでも同じ経験をすることになったようですが、彼とバルナバとはユダヤ人らに向かって『神の言葉は、まずあなたがたに語り伝えられるべきものでした。しかし、あなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者としたのです。では見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じておられるからです。「わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てにまでも救いをもたらすために。」』(イザヤ書49:6)

これを聞いた異邦人たちは喜びに沸き、多くの人々がメシア信仰を受入れることになったとルカは記します。
そこでユダヤ人たちは、町で有力な信仰にあった貴婦人らを説き付け、迫害を煽動してパウロとバルナバを地区の外に追い出すことに成功しますが、ふたりは、ユダヤ人らに対して忌むべき異教の土地に対するかのようにサンダルについた塵をユダヤ教徒に向かって振り払うと次の町、イコニオムへと進みます。
しかし、残された異邦の人々は聖霊に満たされるようになり、パウロたちの宣教はひとまずこの町でも成功を収めたのでした。



◆エルサレム使徒会議

ユダヤの宗教的習慣の中で生活してきた特にヘブライ語を話す人々であれば、メシア信仰に入ったといえども、律法に沿って形作られた習慣や良心の働きは変えられません。人々の意識が変化し、キリスト教という別の新たな教えに到達するには、まだまだ時を必要としていた時期でありました。
ですから、コルネリウスのためにペテロが異邦人の家に入り込んで彼ら無割礼の異邦人と親しくしたことや、パウロのようにモーセの習慣を異邦人に教えようとしない極論に眉をひそめたとしても、自然な反応だったでしょう。
メシアとして来られたイエスの進める神の経綸が、彼らの常識には追いつけないほど革新的であったからです。

エルサレムでは、伝統的な神殿祭祀がレヴィ族によって身近に続けられ、イエス派も主の弟ヤコブを主軸にし、その神殿を中心に活動を行っていたのですから、やはりユダヤ教の中のイエス派と呼ばれる崇拝の範疇に留まっていたのであり、ヘブライストの弟子たちの律法遵守が、後に起こるヤコブの殉教に至っても変わらなかったことは聖書からも当時の史料からも知られるところです。

むしろ、ヤコブは律法を守ることに於いてはユダヤの良心を代表するかのように模範的であり、日毎に神殿で祈りを捧げる姿を見ては、周囲のユダヤ教徒からさえ深い尊敬を受けていたことが、ヘゲシッポスというユダヤ系とされる著名なキリスト教徒を通して伝えられていますし、当時のユダヤ人で歴史家となったヨセフスも彼を「義人」と呼んでいます。そこでエルサレムのイエス派も平安を得ていたのでしょう。他方、パウロはシリアが拠点で、ペテロも逮捕を逃れてエルサレムから離れていました。(教会史6:22:8)

そこで、ユダヤのエルサレムとシリアのアンティオケイアとの間には、崇拝意識に違いが生じ、パウロたちの宣教が実を結ぶに従い、ますます相違が大きくなっていたことは想像に難くありません。しかし、ユダヤ教の色彩の強いエルサレムのイエス派からすれば、異邦人の割合が高いアンティオケイアの集まりに対して優越感を持たざるを得なかったのも当時では無理からぬところがあります。

この頃、ヤコブがまとめるエルサレムの集まりの中からの人々がアンティオケイアのエクレシアに来ると、異邦人に向かって『あなたがたは割礼を受けなければ救われない』と教え始めたところで、双方集まりの人々が抱く信念の違いがはっきりと出てしまいました。ですが、ユダヤ人からすれば割礼をこのように重要視することは、創世記以来の伝統からして自然な結論であり、確かに聖書的な観点に立っています。(創世記17:11〜14)

ですがそこで『パウロやバルナバと彼らとの間に、少なからぬ紛糾と争論とが生じた』と使徒言行録に記されています。
異邦諸国民へと業を広げていたバルナバとパウロの居たアンティオケイアの集まりからすれば、エルサレムのモーセ中心の見識には違和感を感じた人々もあったでしょう。国際都市であるアンティオケアとしてはこれは放置できないと判断します。

キリスト教は未だユダヤ教からはっきりと分かれていないこの時期に、このような信念の異なりは避け難いことであったのでしょう。人はすぐにその信念を変えられませんし、信念とは安易に変えるようなものでもありません。
その一方で、ヘレニズムの諸国民からすれば、割礼は古臭い因習的で暗い印象が否めないもので、嘲笑さえ受けるものでした。もし、割礼を求めるなら、その宣教の速度に影響したことでしょう。
また、割礼というものは、イスラエルの血統の保持と民族の繁栄に寄与するものでありましたが、今や血統に依拠しない崇拝へと変化しつつありました。

この時点では弟子たちの間で、モーセの契約とキリストの『新しい契約』とがどのように扱われるべきかについては、イエスからの聖霊に導かれつつも、未だ手探りでいた姿がそこに見えます。しかし、後のパウロに与えられた先進的な知恵『奥義』の理解によって、キリストの弟子らの進むべき道がはっきりと示されることになってゆきます。

さて、割礼の問題が生じたアンティオケイアの人々は、バルナバとパウロに加えて無割礼のギリシア人であるテトス(ティトス)を含む数人をつけてエルサレムに送り出し、使徒や年長者らと協議するよう計らいました。こうして、後に「エルサレム使徒会議」と呼ばれるキリスト教をまとめるための集まりの舞台が整います。

一行は道々各地の集まりの人々に諸国民の転向の話を聞かせてはエルサレムへの道を進んでゆきました。
エルサレムに到着すると、彼らは当地のエクレシアと使徒たちから歓迎を受け、さっそくに諸国民の中でなされた業と人々の帰依について報告をします。
しかし、パリサイ派からの信者たちは、やはり『割礼を受けさせ、律法を守らせるようにさせるべきだ』と言い続けるので、使徒と年長者たちが会合を持ち、この件を討議することになります。
議事のほとんどは残されていませんが、終盤で結論へと導いた使徒ペテロの発言をルカは記録しています。
『人の心を知っておわす神は、わたしたちと同じように異邦人にも聖霊をお与えになり。彼らに証しを立てられました。また神は、信仰によって彼らの心を清め、わたしたちと何の差別もされませんでした。では今なぜ、わたしたちもわたしたちの父祖も負いきれなかったくびきをあの弟子たちの首にかけて神を試すようなことをするのでしょうか?』(使徒言行録15:8-10)
これを聴いた一同は静かになったとあります。奇跡の聖霊の力の証しを立てられては反論も出てこなかったのでしょう。


◆ヤコブの議決

そこで先の宣教旅行を経験していたバルナバとパウロが、無割礼の異邦人の間で神がどれほど多くの奇跡の印を行われたかを話して聞かせ、集まった皆はそれに聴き入りました。
二人が話終えると、エルサレムのエクレシアをまとめていたイエスの弟ヤコブが、結論を導きこう言います。

『神が初めに心を配られ、異邦人の中からも御自分の名を信じる民を選び出そうとなさった次第については、シメオンが話してくれました。預言者たちの言ったこともこれと一致しています。次のように書いてあるとおりです。「その後、わたしは戻って来て、倒れたダヴィデの幕屋を建て直す。その壊された所を建て直して、元どおりにする。
それは、人々のうちの残った者や、わたしの名を唱えるすべての異邦人も主を求めるようになるためだ。」』(使徒言行録15:14-17)


ヤコブは旧約の預言書つまり「預言者たち」(ネイヴィーム)からアモスの預言にイザヤの言葉を僅かに絡めて引用しましたが、それはユダヤ教も特に考えの固いパリサイ派からの人々の同意を促す効果があったことでしょう。そこでは神殿が建てられる以前の幕屋がエルサレムに持ち込まれた故事を引き合いに、イエスによって再び興された神への崇拝の始まりの時期に居た弟子たちの状況が映し出され、そこにはイスラエルの残りの者たちだけでなく、異邦諸国民も共にその『幕屋』の再興に連なると予告されていたのです。(アモス書9:11-12/イザヤ書45:20-21)

続けてヤコブは、会議を総括してこう述べます。
『それで、わたしはこう裁定します。神に立ち帰る異邦人を悩ませてはなりません。
ただ、偶像に供えて汚れた肉と、淫らな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるようにと手紙を書きましょう。昔からどの町でもモーセの律法が告げ知らされ、安息日ごとに会堂で読まれているのですから。』(使徒言行録15:19-21)


こうして当時の主要な弟子たちは、ひとつの結論に至ることになりました。つまり、諸国民からの弟子たちには割礼も律法遵守も強制しないというのです。しかし、これは千年以上続いたモーセの伝統からすれば驚くべき変化であり、議場から出た結論に驚愕したユダヤの弟子たちも多かったことでしょう。しかし、この裁定がなければ二つの民は共に「主の晩餐」に与ることもできないのです。

そこでやはり、ヤコブの裁定には双方の民の異なりへの配慮が加わります。つまり、当時のヘレニズム文化の各都市で日常行われていた偶像崇拝とそれに関わる食事、また奔放な性交渉、売春や買春を避けること、また、律法がユダヤの会衆(カハル)に交わる異邦人に要求していた「血の禁令」も守り、そうすることで、それまで無割礼ながらユダヤ教の会堂に出入りを許されてきた『神を畏れる者』としての最低限の規準を異邦人の仲間も同じように保って、エクレシアでユダヤ人と異邦人とが会堂を共にすることができ、分裂することがないようにという配慮です。こうすれば、これまで通りにユダヤ人からしてもその無割礼の異邦人と会堂の場を共にしない理由はなくなります。

ですから、このヤコブの裁定をもって、今日のキリスト教徒までに課せられた掟と見做すのは的外れなことで、特に律法中の「血の禁令」がキリスト教徒にまで延長されたと見做すべきでもありません。確かに『絞め殺した動物の肉』には血が残っているのでユダヤ教徒には禁忌される食物になりましたが、血を飲み食い、さらには輸血で体内に取入れることまでもキリスト教が禁忌しているとしますと、血によって人の『魂』(ネフェシュ)の尊さや重さを教えようとした律法の教訓が、ただ血という液体を『魂』と教えたことにされてしまいます。
しかし、キリストはご自分の血の犠牲を神の前に捧げましたが、液体の血を捧げたのではなく、物質ではない『魂』を捧げたことの象徴が血であったのです。

メシアに至る前の段階に在ったユダヤ教では、血の禁令を通して『魂』の意義が教えられ、祭儀では膨大量の動物の血の扱いがされ、祭日の神殿では祭司たちは白い服に血がかかる中で奉仕していました。
しかし、最終的な血の犠牲であるキリストの『魂』が神に捧げられ、『贖い』が満たされた以上、『真理と霊によって』崇拝される時代が到来して以降は、もはや崇拝であれ義認であれ血液が関わることは二度と無いでしょう。『すべてのものを浄めるのは』キリストの血であり、ほかのどんな血でもないのですから。(ヘブライ人への手紙9:22・28)

多くのキリスト教の宗派では、聖書の中に「規則」を見つけようとしてきました。それらを神から義と見られるために、また救いのために守る必要があると主張されます。現代でもモーセの「十戒」だけはキリスト教徒にも課せられていると教えられる宗派もあります。
しかし、ヘブライストの弟子をまとめるヤコブですら、『律法全体を守っても、一つの点でつまずくなら、その人はすべてを犯した者となる』というのです。(ヤコブの手紙2:10)
キリスト教徒を自認しながら律法中の規則を適用しようという動機は、その人が神の是認を得たいという欲求であり、神の裁きを逃れて安心したいところにあることでしょう。そのために規則を探しては神からの命令に服従していることにしたいのです。しかし、それではメシアの到来のときに律法に固執し、メシア信仰を働かせなかった人々と変わるところがありません。

また、その人は、「救いのためには善人でなければならない」と言っていることになるのですが、イエスは『義人ではなく、罪人を招きに来た』と言われ、パウロは、律法のような神の前での業の義ではなく、救いの手立てであるキリストへの『信仰によって義とされる』という基本的教えを何度も強調しています。どんなに善人を装っても、人はみなキリストの犠牲が必要なアダムの子孫であるからです。血を避けた人が神の是認を受けるのではなく、キリストを信仰する人が神に受け入れられるのは明らかです。(マタイ福音書9:23/ローマ人への手紙9:30-32)
しかも、神の裁きはどんな人に対しても公平に臨むことは避けられません。まして、モーセの十戒にせよ、使徒会議での裁定にせよ、キリスト教徒の不変の規則にすることは、当時の状況への無理解と自分の救いを急ぐ利己心とを露わにするばかりです。(使徒言行録10:35)

ともあれ、使徒の時代に在っては、ユダヤ人と異邦人という『ふたつの民』をキリストの許に平和に召すという役割をヤコブの裁定が持つことになりました。(エフェソス人への手紙2:15)
彼らはバルナバとパウロに加え、数人の証人を付けてアンティオケイアに返し、その手には議決を記した書簡を持たせました。
ヤコブはその中で『聖霊とわたしたちとは、次の必要事項のほかは、どんな負担をも、あなたがたに負わせないことに決めた。』としています。つまり、その決定にはペテロやパウロたちに存分に働いた聖霊の証しすることを皆が承認したという意味合いも含まれているのでしょう。反対意見を抑えたのはどんな人の意見でもなく、聖霊の働きであり、そうでなければ誰がユダヤ人の律法主義を抑えることなどできたでしょうか。
この「使徒会議」が行なわれたのは、キリストの犠牲が捧げられ、聖霊が注がれるようになってから、はや16年になろうという西暦49年のことであったろうとされています。



◆賃金の例え話

この知らせを聴いた諸国の人々は大いに喜んだとされていますが、各地での諸国民の弟子の増加を促したことでしょう。
しかし実際のキリスト教の進展は、律法を引きずるユダヤ人ではなく、その後は身軽な異邦人の中でギリシア語を用いつつ進んでゆくことになります。
実は、そのことがイエスの語られていた「賃金の例え」に予め示されていました。『後の者は先になり、先の者は後になる』というマタイ福音書の第20章にある講話です。

葡萄園の収穫の時期に、その持ち主には多くの人手が必要になります。
ある主人は日当1デナリウスという約束で何人か雇い入れ、さっそく朝から働いてもらいます。
しかし、それでは人手が足りず、午前9時頃に広場に居る人々を雇いましたが、それでも足りません。そこで正午と午後3時にも雇い、最後は午後5時にさえも新たに雇います。

さて午後6時になり、雇ったすべての人々に賃金を払うことになって、何と、この主人は一時間だけ働いた人にも、朝から働いた人々にも1デナリウスを支払うのでした。
そこで収まらないのが、最初の人々であることは言うまでもありません。
それでも主人は『友よ、わたしはあなたに対して不正をしてはいない。あなたはわたしと1デナリウスの約束をしたではないか。
自分の賃銀をもらって行きなさい。わたしは、この最後の者にもあなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは、当り前ではないか。それともわたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』
というのです。

もちろん、こんなことをすれば労働に関わる法律に抵触してしまうのが現代ですが、これは例え話であり、イエスは何事か重要なことを弟子たちに残そうとして語られたのです。
そして話の最後にイエスは『このように、後の者は先になり、先の者は後になるであろう』と言われるのです。(マタイ福音書20:16)

この例え話も『天の王国』に関わることであると前置きされていましたから、これは賃金の払い方を話しているのではありません。
キリストの現れによって、ユダヤ教からキリスト教へと移り変わる過程で、千数百年続いてきたモーセの律法体制を築き守り続けてきたイスラエル民族の歴史上の労苦は多少のものではありません。旧約聖書の分厚さにもそれは見えているのですが、内容を読むなら、そのページ数がどうということさえ越える苦難の連続でありました。それは、まるで炎暑のなかで一日中働き続けてきたかのようです。
ですから、この民族にとって『神』と『律法』とはモーセ以来ずっと断ち難く結ばれてきました。ですが、そのモーセも言うように、メシアが到来した後には神の新たな崇拝の方式を受け入れなくてはなりませんでしたが、これは習慣的な良心の働きをも変える必要があり、簡単なことではありません。(申命記18:15-19)


その一方で、キリストの福音に触れて転向してきた諸国民は、延々と続いたユダヤの苦しみの歴史から学ぶことができ、その最終結果である聖霊を注がれ、真の『アブラハムの裔』に含まれるという『1デナリウス』を得ることになり、そのうえキリスト教理解に於いても先を行くという、ユダヤ人からすれば妬ましい境遇に置かれることになりました。

ですから、イエスがこの葡萄園の主人に『わたしが気前よくしているので、ねたましく思うのか』と言わせたからには、やがて現れる異邦人イエス派を受け入れるよう促す意味があったのでしょう。

ですが、実際には、ヤコブの裁定をもってしても、ユダヤ人イエス派の優越感や律法重視はなくなることはなく、以後もパウロはユダヤ教徒ばかりでなく、これらのヘブライストの弟子たちの意識とも戦い続けなくてはなりませんでした。まさしくパウロが自認したように彼は『奥義の家令』であり、聖霊の知恵はパウロを異邦人聖徒の先頭に立たせ、新たな崇拝「キリスト教」へと導くことになってゆきます。パウロは確固として、こう言ってはばかりませんでした。『キリストは律法の終わりである』(ローマ人への手紙10:4)

それでもイエスが、その地上の公生涯の間に語られたこれら多くの言葉が、パウロたちの支えとなっていたことでしょう。こうした変化をもたらしていたのは、明らかに主イエスであったからです。
キリストが天から導いているこの時期に、弟子たちは聖霊に教えられつつ「キリスト教」という、律法を超えた新次元に到達しようとしていたのです。







弟子らに与えられた大事業

2018.07.12 (Thu)



◆サウロという論争の渦

エルサレムを追われた弟子たちが、メシア信仰を携えて各地に広がってゆく間に、それを迫害するパリサイ派のサウロは、イエス派を取り締まる権限をサンヘドリンから取付け、百キロも北方のシリアのダマスコスにまで至っていました。イエス派の信仰を持つ者は誰であっても捕えてエルサレムに送還しようとするその鼻息は荒く、彼はイエス派からすっかり恐れられる虐待者として知られていたのも無理はありません。

さて、イエス派を追う彼が、従者を連れてダマスコスの近傍まで来たとき、突然に強烈な光が彼のまわりに輝いたのでサウロはそこに倒れました。
『サウル、サウル*、なぜわたしを迫害するのか』と言う声を聞きますが、姿はなにも見えません。『あなたはどなたですか』と尋ねると『わたしはイエス、あなたの迫害している者だ』と答えがありました。さらに『さあ、起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる』とも言われます。
*(本文でここはギリシア語サウロスではなくサウルとなっていて、イエスがヘブライ語で語ったことを示唆しています)

彼は視力を失ってなってしまい、従者に手を引かれてダマスコスの門をくぐります。市内にはアナニアスという名の弟子が居ましたが、主は幻として現れ、『立って「エウテイアン(真っ直ぐ)」という街路のユダの家に行き、そこにサウロというタルソス出身の人を尋ねるように、今、彼は祈っている。彼は幻の中でアナニアスという者が来ては、彼の目を開けてくれるよう手を置くのを見た』。こう言われたアナニアスの方は「タルソスのサウロ」と聞いて心中穏やかでありません。『主よ、わたしは多くの人からその輩については、あなたの聖なる者たちにどんな悪事を働いたかを聞いております。』ですが、主は急かして『さあ、行きなさい。あの者は、諸国民たち、王たち、またイスラエルの子らへの、わたしが選んだわたしの名を伝える器なのだ。わたしの名のためにどんなに苦しまなければならないかを、彼に知らせよう。』と言われます。

そこでアナニアスが言われるままにサウロを訪ねると、その手を置いて『兄弟サウロよ、あなたが来る途中で現れた主イエスは、あなたが再び見えるようになるため、そして聖霊に満たされるために、わたしをここにお遣わしになりました』と言うと、サウロはその場で視力を回復し、すぐにバプテスマを受けると、ユダヤ人の会堂に行ってはイエスこそ神の子であると唱え始めたものですから、ユダヤ教徒はサウロのあまりの変化に驚き戸惑います。
しかし、サウロの論議はますます力を得てイエスがメシアであることを確固として証し続けるので、遂にユダヤ教徒らはサウロを厭い嫌うようになります。今日でも、ある宗派にとって以前には中枢で働いていた人物が別の教えを受入れ、古巣が論破されるのことは大きなダメージを受けずには済みません。そこで内情を暴く元の仲間を「棄教者」や「背教者」として称しては隔離したりして、なんとか黙らせたいと願うことでしょう。やはりパウロはその後何度も殺されかけています。

彼が後に書いた手紙の内容を比較すると、それからしばらくの間の彼の行動がある程度分かります。
まず、サウロはアラビアに出掛け、そこでメシア信仰を広めようとしたのでしょう。おそらくはそこでもユダヤ人は強い拒絶反応をみせたようです。ユダヤ教徒らはアラビア方面を広く支配し、ヘロデ王家にも親しかったナバテア王アレタスⅣ世の権力を利用してサウロを捕えようとしていたのでしょう。その追手はダマスコスに戻ったサウロに追いつき、アレタス王の総督府もサウロを捕縛するために市内を探すようになっていました。(ガラテア人への手紙1:15-17/コリント人への第二の手紙11:32)

しかし、その謀略を悟ったサウロを弟子たちが匿い、以前には激しい迫害者であった彼を保護することにします。
追手にはユダヤ教徒も加わったらしく、反対派は皆でサウロを狙い、ダマスコスのすべての市門を見張らせていましたから、いずれ市内で見つかれば殺されてしまうでしょう。
そこで仲間たちは、彼を籠に載せて夜の間に市の城壁から吊り降ろして市外に脱出させることに成功します。(使徒言行録9:23-25)

その後のサウロがどうしていたかは聖書に詳しくありませんが、故郷で天幕造りの生業に勤しんでいたのかも知れません。
しかし、ガラテア人への手紙によると、それから三年してエルサレムに上り、ペテロの家に15日滞在して主イエスの弟ヤコブに会ったそうですが、他の使徒には会わないでそこを立ち、シリアを通って出身地キリキアへ戻ったとしています。(ガラテア人への手紙1:18-24)

このエルサレム滞在中にもギリシア語を話すユダヤ教徒とサウロは争論になってしまい、やはり命を狙われています。ですが、ステファノスのような殉教者をまた出して、イエス派にそれ以上の窮境をもたらすことは双方の誰も望んだことではないでしょう。そこで弟子たちはサウロを北西の地中海沿岸の港カエサレイアまで連れてゆき、彼の故郷に送り出したとルカは記しています。(使徒言行録9:26-30)

一方で、弟子たちがサウロを故郷のキリキア州(現トルコ南東部)に送り出した後『ユダヤ、ガリラヤ、サマリアの全地方にわたって平安を保ち、基礎がかたまり、主を畏れ聖霊に励まされて歩み、次第に信者の数を増して行った。』とルカは書いていますから、パリサイ派としてもイエス派としてもサウロという人物がいかに論争の渦の中心であったかを暗示しています。彼がパレスチナでもアラビアでもシリアでも、そこで活動すると必ず騒動になっていたのです。今やサウロは、ステファノスを超えるほどに強力なイエス派の論客であったといえましょう。(使徒言行録9:31)

さて、このエルサレム訪問のときに、サウロはバルナバ(バルナバス)という人物の世話になっていますが、このレヴィ族でキプロス(キュプロス)島出身のヘレニストの弟子は、サウロを高く評価しており、また親しみを覚えたようで、それからしばらくするとサウロをキリキアのタルソス市まで訪ねては捜し出し、シリアのアンティオケイア市に連れてきています。



◆諸国民への使徒

当時のアンティオケイア市は50万の人口を擁していたという、ローマ、アレクサンドレイアに続く帝国内では第三の大都会。欧州と中東を結ぶ交通の要衝であり、様々な民族が多用な産物を携えて往来する国際都市でありましたから、開明で闊達な気風に恵まれていました。
そこは律法祭祀が間近な神殿で行われているユダヤ色の濃厚なエルサレムとは随分と違います。それでも、この都市のユダヤ人はセレウコス朝シリアの時代から一定の権利を認められており宗教的な寛容性がありました。この当時ユダヤ教の一派であったイエス派の弟子たちにも集まる上で都合が良かったのでしょう。

アンティオケイアでは、あのステファノスからの迫害を逃れてきた人々によってメシア信仰が伝わり、イエス派のグループが形成され成長していましたが、ここでは安定的に集まりを持ち、しばらくするとそれは「エクレシア」と呼ばれるようになります。そのギリシア語には「召し出された者たち」の意味があり、元はギリシアの都市国家での議会を指して用いられていた言葉です。これを日本語に訳すなら「評議会」や「民会」、また天に召される聖なる者たちの集まりと捉えて訳せば「招会」となるでしょう。
当時はユダヤ教も異邦人への伝道に努めている時期でもあり、ユダヤ教の会堂(シュナゴーグ)には異邦人でも割礼を受けてユダヤ教徒になった『改宗者ら』(プロセーリュトイ)も、また割礼を受けるまでには至っていないものの、定期的に会堂に集まって学ぶ『神を畏れる者ら』(フォベオマイ)も会堂のユダヤ教徒に含まれていて、とくにこの国際都市のようなところでは、ユダヤ教の伝道も成果を得ていた時期にも重なっていました。

そこで、この街のイエス派の人々は、初めのうちはユダヤ人だけにナザレのイエスを宣明していたのですが、そこにはバルナバのように地中海に浮かぶキプロス島や、アフリカのキレネ州(キュレーナイケー現リビア東部)方面から来ていたイスラエル人たちが、ギリシア語を話す異国の人々にメシア信仰を伝えるようになっていたとルカは記しています。バルナバスも異邦人に話しかけるようになった一人なのでしょう。そこで彼がサウロの五か国語を操る能力と、ユダヤの教学院で学んだ律法の博識を評価し、タルソスから呼び寄せたことはなるほど理解できることです。ルカはバルナバとサウロについて『その後の一年間、彼らはエクレシアを集め、多くの人々を教えた』とも記していますが、既に、彼らのエクレシアはユダヤ教の会堂とはまったく別の集まりになっていたことを窺わせます。

こうしたバルナバの努力が実を結んだのでしょう。このシリアのアンティオケイアでイエス派が初めて「クリスティアノイ」と周囲から呼ばれるに至ったこともルカは記していますが、それが今日「クリスチャン」と英語でキリスト信仰者を呼ぶ由来となりました。この街ではユダヤ教とメシア信仰が異なるものであることを周囲の人々も認知していたとことを示しています。それはまた、メシア信仰が頑迷なユダヤ教を後にして、いよいよ「キリスト教」となって新たに開花し、世界に向けた『聖なる者たち』の収穫が始められる端緒でもありました。(使徒言行録11:20-26)

しばらくするとアンテイケイアの集まりには教え手の人数も増えていました。すると霊が人々に話しかけて『あなたがたの中からバルナバとサウロとを、わたしのために聖別して、彼らに授けておいた任務に当らせるように』と命じます。(使徒言行録13:2)
その『任務』が何であるのかは、その後の彼らの活動に明らかになるのですが、サウロ自身は自分が『使徒となるために召された』。また、『わたしは諸国民への使徒です』と述べています。それはイエスに付き従った『十二使徒』とはまた別の、『諸国民たち、王たち、またイスラエルの子らへの、わたしが選んだわたしの名を伝える器』として労苦の絶えない使命を意味していたのです。

ここに於いて、遂にサウロはギリシア名『パウロ』(パウロス)を名乗り始めるに至ります。諸国民への使徒パウロの誕生でありました。
人々は、彼とバルナバの上に手を置く任命の儀式を行って、直ちに市に隣接するセレウケイア港から彼らを送り出しました。以後サウロ改めパウロは、しばらくアンティオケア市を基地に広く宣教活動をすることになりますが、その働きはトルコ半島(アナトリア)からギリシア本土へとパレスチナのユダヤ人を後にして、遂に帝都ローマにまでイエスの福音を押し広げ、多くの諸国民から聖なる民を招き寄せることになります。(マタイ福音書8:11-12)
その最初の行く先は、バルナバの故郷キプロス島のサラミス市ですが、それは故郷の人々にイエスの福音を伝えたいというバルナバの願いがあってのことでしょう。彼は同郷出身の従兄弟のヨハネを連れて行くことにしますが、このヨハネはギリシア名をマルコ(マルコス)と云い、後にペテロの通訳となり、この使徒から多くの情報を得てマルコ福音書を著すことになります。



◆異邦人を招くペテロの鍵

サウロが使徒パウロとして召されるしばらく前に、使徒ペテロの方は主イエスの霊に導かれ、大きな役割を果たすという経験をしていました。それはペテロがパレスチナ海岸沿いのルダという街でひとりの寡婦を生き返らせただけのことではありません。

その不思議な出来事の顛末は使徒言行録の第10章に記されています。
そこで彼は、港町ヨッパ(ヤッファ)の皮なめし職人の家に逗留していたときのこと、昼の食事をその家の者が用意している間、祈りをするために屋上に居たのですが、空腹でいた彼は夢うつつ(エクスタシス)の状態になり、天から大きな布に包まれた様々な動物が降ろされてくる幻を見ていました。しかし、それらは律法で食べることが禁じられていた『汚れた』とされるものばかりでした。例えれば、律法は蹄が分かれていて、また反芻する動物を清いとして食べることが許されています。そこでブタやウサギなどは『汚れた』動物となり食べることはできません。
それであるのに、天から声がして『起きて屠って食べよ』とペテロに言うのです。『主よ、それはできません。わたしはあらゆる清くないものや汚れたものを今まで食べなかったのです。』と律法に従ってきたペテロは答えます。
すると声は『神がきよめたものを、清くないなどと言ってはならない』と言うのですが、これが三度繰り返されたと書かれているからには、ペテロは三度清くない動物を拒否したのでしょう。それから布は引き上げられます。
ペテロは、この幻の意味は何だろうと考え込んでいるところに、階下では三人の人が彼を訪ねて来たところで霊がこう言います。『何も疑うことなく彼らと共に出かけるがよい。わたしが遣わしたのだ。』

この三人の人々は、ローマ軍の百人隊長コルネリウスの家令と部下であり、ヨッパから海岸沿いに50kmほど北に位置するローマ軍の拠点、ヘロデ大王が新設した港湾都市カエサレイアから訪れ、ちょうど皮なめし職人シモンの家を捜し当て、ペテロの所在を尋ねたところだったのです。コルネリウスは律法が求める『割礼』は受けていないものの、イスラエルの神YHWHを崇めて、ユダヤ教の会堂に入ることを許されていた『神を畏れる者』であり、この前日の午後三時頃、コルネリウスは自宅で祈りを捧げていたところ、輝く人が現れて『コルネリオスよ、あなたの祈りは聞きいれられ、あなたの施しは神のみ前におぼえられている。そこでヨッパに人を送ってペテロと呼ばれるシモンを招きなさい。』と言うのです。そこで彼は家令二人に、やはり信仰に篤い兵士一人をつけて送り出し、ヨッパの海岸沿いにあると云われた皮なめし職人シモンの家をちょうど捜し当てたところであったのです。

ですから、主は律法を必ずしも守ってはいない異邦人であっても、同じ神への信仰に篤い人物をペテロに面会させることで何かを意図されていたことが分かります。
それから二日して、ペテロはカエサレイアに到着し、コルネリウスからの歓迎を受けますが、そこには彼の家族や友らも集まっていたとあります。もちろんその人々もイスラエルの神を信奉していた人々なのでしょう。
コルネリウスは、天使の声が招くよう命じたその人物ペテロを見ると、その前に跪きますが、使徒は『お立ちください。わたしも同じ人間です。』と言って彼を引き起こします。これは後の仰々しい宗教指導者とは随分と違う対応でしょう。足先に接吻などさせません。

ペテロは集まった異邦の人々に向かって、どれほど律法が契約にあるイスラエルを特別視して諸国民との交流を制限しているかを述べます。(ヨハネ福音書18:28/ガラテア人への手紙2:15)
すでにペテロがコルネリウスの家の中に入ったところで、当時のユダヤ教の習慣からすれば掟に違反し汚れた行いをしていたのです。以前、イエスが地上で宣教なさっているときにも、ひとりのローマ士官が、その奴隷の癒しをイエスに依頼するのに、自分が異邦人であるからと、ユダヤの年長者を送り、自らは出向かず、イエスも家に招かなかったことがありましたが、イエスはその信仰を高く評価していたのです。(マタイ福音書8:5-13)
しかし、ペテロはヨッパで見た幻の意味を悟り『神は人を偏り見ないかたで、神を敬い義を行う者はどの国民でも受け容れて下さることが、実によくわかってきました。』と一同の中で述べます。(使徒言行録10:34-35)

それから、昨今『ヨハネがバプテスマを説いた後、ガリラヤから始まってユダヤ全土にひろまった福音』すなわちイエス・キリストのなさった業と死と復活について証しします。神はイエスを『死せる者と生ける者との審判者として立てられ』かつての『預言者たち』(ネイヴィーム)もキリストへの信仰によって罪の赦しが得られることを知らせていたことにも触れます。

しかし、そう話している最中に驚くべきことが起ります。コルネリウスと共にペテロを迎えた人々に聖霊が注がれ、異言を話始めたのでした。
これにはペテロと共にヨッパから来ていた割礼を受けていた仲間たちも大いに驚きます。それまでの数年、聖霊を注がれるのは『契約の子ら』であるイスラエル、または割礼を受けた『改宗者』に限られてきたからです。

ここにおいて、ペテロの見た幻の意味がまったく明らかになりました。
つまり、神は『新しい契約』に律法契約の外に居た人々、ユダヤ人からすれば汚れたものとされていた無割礼の諸国民を招いたということです。コルネリウスのことが有ってからしばらくして、パウロとバルナバの召命がされたことからしても、神とキリストの意向は明瞭です。

しかし、それは旧約聖書、つまりそれまでに書かれた事柄に固く従うユダヤの常識からは、余りにもかけ離れた事態の進展でありました。『割礼』とは、イスラエルだけでなく関係する異邦人も受けるべき、『定めない時に至る契約』と書かれていたのです。(創世記17:9-16)
そこでエルサレムのイエス派の中からも、ペテロがユダヤの習わしに従わず、無割礼の異邦人の家に入って自らを汚したと非難する人々がありました。未だメシア信仰がもたらすキリスト教がどれほど革新的かを理解していなかったユダヤ人の弟子からすれば、律法や習慣に従わないことは、到底神に受け入れられるものには思えなかったのです。

しかし、神の意図は彼らの敬虔な常識を遥かに超えるものでありました。もはやアブラハムの血統の重要性は過去の物になろうとしていたのです。それは使徒ペテロの諸国民へと切り拓いた役割が、如何に画期的なことであったことかを教えるものです。
実は、このペテロには、かつてイエスからこのような役割を受けることを示唆されたことがあったのです。
『わたしは、あなたに天の王国の鍵を授けよう。あなたが地上で繋ぐものは、天でも繋がれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう。』(マタイ福音書16:19)
ペテロに授けられたこの『王国の鍵』が何を意味したかは、無割礼の異邦人であるコルネリウスたちに聖霊が注がれたところまでの経緯を追うと、彼が確かに『王国の鍵』を用いていた姿が見えます。

それまで、モーセ以来『契約の子ら』であったイスラエル民族の中から悔いて、イエスにメシア信仰を抱いた人々に聖霊が注がれ、選ばれてきたのですが、サマリアに出向いたペテロがそこの人々に手を置いてゆくと、彼らにも聖霊が臨み、こうしてサマリアの人々にもメシア信仰を通して『天の王国の鍵』で主と結ばれる機会が与えられましたが、ペテロが鍵を開け、サマリア人を招き入れていたといえます。
その一方で、シモン・マグスはペテロに激しく叱責され退けられましたが、確かにあの魔術師が『聖なる者』とされ、『天の王国』に入るとはとても考えられません。

そして今、ローマの軍人ではあっても神への信仰に篤いコルネリウスに現れた天使が指名したペテロが鍵を解き、無割礼でまったくの異邦の世界にも『アブラハムの裔』となり、その相続財産である『天の王国』へと手が差し伸べられ始めました。
そこで、イエスの霊がコルネリウスと『鍵』を委ねられた使徒ペテロとをつなぐよう取り計らった理由が明らかです。(使徒言行録1:8)


◆羊の囲いの例え

こうしてイエスが、律法契約に在ったイスラエルだけでなく、契約の外に居た人々をもご自分の王国の支配を共にするよう招くことになることは、次の例え話にも予め示されていたのです。
それはヨハネ福音書の第十章の『羊の囲い』で知られる例えですが、絵に描いて説明されるように明解です。

羊らは、寒い期間は夜間を囲いの中で過ごしますが、この例えが語られたのがユダヤの冬の祭り「ハヌカー」(再献納の祭)の時期でしたから、そのときにイエスは囲いに入る羊の例えを話されたのでしょう。

門番が出入り口の扉を開けて羊飼いを通すと、羊飼いは中の羊たちを呼び、聞きなれた羊飼いの声に羊たちは安心して着いて行き、豊かな牧草地に導かれます。
ですが、囲いをよじ登って入る者は羊泥棒で、奪い、殺しなどする目的で羊に近付こうとするのですが、羊はその声に従いません。
また、雇われの牧者も、狼や熊などの危険が羊に迫れば、逃げ出してしまいます。
しかし、イエスは『 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。』と言われます。イエスのとって羊はご自分のものであり、命を懸けても守ると言われるのです。
これはご自分の犠牲によって、それに信仰を働かせる者に命を得させることを言われるのでしょう。

加えて『門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行く』とも言われます。
イエスのための門を開く門番というのは、ユダヤの律法体制からキリストの『新しい契約』へと橋渡しをしたバプテストのヨハネのことでしょう。
そうであるなら、羊が入っていた『囲い』というのは、『律法契約』であったと見ることができます。キリストに従うことになる信仰を働かせる羊たちは『律法契約』の中に守られていましたが、そこに泥棒も来ては羊を奪おうと試みましたが成功しませんでした。これはユダヤに現れ度々に騒擾を起こした偽メシアらのことを言うのでしょう。(10:8)しかし、誰が『律法契約』の囲いから『新しい契約』の豊かな野原に導き出したわけでもありません。門番のヨハネによって『門から入る者』イエスが本当の羊飼いであり、またイエスは『わたしは門である』と言われるのは、羊たちを『新しい契約』へと引き出す唯一の入り口となられたことを言うのでしょう。偽メシアには聖霊をもたらすなど不可能なことです。

こうして、この例えによって、それまで千数百年にわたり続けられて来たモーセの崇拝体制から、新たにイエスが別の崇拝へとイスラエルの羊を招き出した様が描かれていたことを理解できます。

しかし、この例え話はここで終わりませんでした。
『わたしにはまた、この囲いに居ない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となる』
コルネリウスら無割礼の異邦人に聖霊が注がれたことや、パウロたちが諸国への宣教に送り出されたことが、この例えに付け加えられた『囲いに居ない他の羊』という一言によく表されています。
ですから『アブラハム裔』とは、ただその子孫であれば良いということではなく、アブラハムのような信仰を抱く人々によって構成されるべきなのであり、ユダヤ人で父祖に相応しい信仰を見せたのは僅かな人々であったことが明らかになってしまいました。
そこで後から加わってくる異邦人の群れと、囲いから出されたユダヤの群れとは、ひとりの羊飼いイエスの下にまとめられ、牧草の豊かな『新しい契約』の自由な広野に導かれることになります。

しかし、この例えを聞いていた弟子たちは、そのときには誰も意味を悟らなかったとも記されています。当時にはパレスチナでの主の業が行われている最中で主の業が拡大される以前でしたから、それも無理もありません。それでも、彼らが世界へと広げられる業に邁進するようになると、この例えを身を以って体験していることに気付いたことでしょう。

ですから、キリスト・イエスの業を受継いだ弟子たちは、イエス自身がパレスチナで行われたよりもさらに『大きな業』に取り掛かっていたのであり、それは集まってきた弟子たちを聖霊を通して縦横に用いた大事業であったというべきでしょう。その目的は、『王なる祭司、聖なる国民』となる人々『アブラハムの裔』を集めて『神の王国』を設立することにあったのです。(ヨハネ福音書14:12/ペテロ第一の手紙2:9)
それこそは律法契約が目指しても、成し遂げなかったことであったのです。(出エジプト記19:5-6)







宣教の拡大と悪霊の妨害

2018.06.24 (Sun)


◆サマリアがメシア信仰を受け入れる


ステファノスの石打ちが起こると、エルサレムの様子は一変し、イエス派全体に激しい迫害が起こされます。
それまでイエスの弟子たちへの怒りを忍んできた反対する体制派に、暴発するきっかけが与えられてしまったかのようで、外地から来ていてイエス派となった人々は皆が追い散らされました。それはユダヤがメシアを拒絶したように、その弟子たちをも退けることの決意表明のように見えます。

あのペンテコステ以来、エルサレムで新たな信仰のうちに心をひとつに生活を共にしていたグループは四散し、イエス派は再び抑圧され、目立たない存在になったことでしょう。ユダヤ教の最高議会であるサンヘドリンを構成する宗教家らにとって、イエス派がエルサレム市内で顕著な存在でいることなど到底許せなかったことは、彼らの主人イエスを葬り去ったところからも明らかです。
十二使徒を残して逃げ出した人々はよほどひどい扱いを受けたのでしょう。しかし、エルサレムの共同生活で温められ、よく養われたメシア信仰を、イエス派の人々が聖霊の印と共に各地に携えてゆくことになりましたから、教勢の更なる拡大を促す結果ともなったのです。

さて、あの七人のディアコノイの一人であったフィリッポスについては、ルカが使徒言行録にその聖霊に導かれた宣教の様子を記録していますので、この人物は以後『福音宣明者フィリッポス』と呼ばれるようになります。
この福音宣明者は、エルサレムから脱出すると、まず北西にあるサマリアの地域に向かいます。
当地の人々はフィリッポスの語ることを喜んで聴き、悪い霊に憑かれていた人々は解放され、障害のある人々は癒されたりしたため、サマリアでは大きな喜びの声が上がったと記されています。

サマリア人は、前八世紀のアッシリア帝国の時代以降、おそらくイスラエル十部族や、後に帰還した人々とも混血したであろう民であり、モーセの律法を受入れて割礼を施し、神YHWHを崇拝して祭礼をまもり、ヘレニズムの時代には自分たちの神殿をサマリアのゲリツィム山上に持っていた時期もあったのです。彼らが今も所有する「サマリア五書」はサマリア文字で書かれ、捕囚期以前の古ヘブライ語の方言によるものながら、今日では世界で最も古い律法の写しであり、旧約聖書研究家たちに多くの補足情報をもたらしています。

しかし、サマリア人のゲリツィム神殿は、キリストの近付く前130年頃に、ユダヤのハスモン王朝の軍隊によって破壊されていました。ユダヤ人はサマリア人を特に嫌っていたのです。その原因といえば、ユダヤとサマリアが唯一の神に向かって別の神殿で幾らか異なる崇拝を捧げていたことにユダヤ人が我慢ならなかったからです。サマリアの崇拝に対する熱心さはユダヤに引けを取るものでもありませんでした。そうなると、神への崇拝を巡る両者の対立もいきおい激しくなったことは容易に想像されます。

ユダヤ人にとって「お前はサマリア人だ」と言われるのは、ひどい侮辱を受けることで、イエスもこの言葉を掛けられたことがありました。(ヨハネ福音書8:48)
自分たちの正義に凝り固まっていたユダヤはゲリツィム神殿を破壊して後も、サマリアを占領しては市街を破壊し尽したこともありました。加えて、ユダヤ人はエルサレム神殿の境内にサマリア人が入ることを許さず、神に向かってはサマリア人に永遠の命を与えないよう公然と祈り求めていたというのです。それではサマリア人はどうしたら良いと言うのでしょう。

このような状況にあって、サマリア人はゲリツィム山上の神殿跡地での崇拝を続けて来てきましたので、サマリアの水汲み女が旅の途中で通りかかったイエスに、『わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています』と言葉を投げたのには、このような反目があってのことです。

しかし、イエスは『あなたがたが、この山でも、またエルサレムでもない所で父を崇拝する時が来る』と答えられました。その言葉の中にあって、神殿での動物の犠牲を捧げる時代が終わり、『霊と真理によって』崇拝する新たな時代の到来を語られていたのです。
さらに、イエスがそのサマリア女の境遇を言い当てたので、驚いた彼女が町の人々に知らせに走ってゆくと、サマリアの人々はこぞってイエスをメシアとして認めたのでした。この挿話はヨハネ福音書の第四章にありますが、そこでイエスは、旅に疲れ切って腰を下ろしていたところ、キリストに対するサマリア人の信仰にすっかり爽快にされます。

福音書中でのイエスのサマリア人への評価は、ほかのユダヤ人がしていたように卑しめるようなものではありません。もちろん、『救いはユダヤ人から出る』とはっきり言われましたが、似ていても異なる崇拝を行うこの人々を蔑むようなことはされませんでした。多くの宗教が教理や儀礼の違いを巡って似た宗派同士で争い合う現実からすれば、イエスの寛容さが際立ちます。イエスの語られた、かの有名な「サマリア人の例え」がルカ福音書10章の後半にありますが、これはまさにユダヤ人の宗教的不寛容を正すものであって、ただ隣人愛を勧める訓話ではありません。

このイエスの一行とサマリアの町の人々との交流があってからわずか三年経過したばかりの時期に、エルサレムで育まれたメシア信仰がフィリッポスによって運ばれて来ると、サマリアの人々はこれを暖かく迎えて、大勢が人並みを打って『イエスの名による』水のバプテスマを受けたことに不思議もありません。それを聞いたエルサレムの使徒たちは、ペテロとヨハネをサマリアに遣わすことにします。彼らからすれば、エルサレムでの信仰共同体が散らされてしまったところで、新たに聞くよい知らせであったことでしょう。
かつてイエスが、サマリアの地について『畑は収穫を待って、白く色づいている』と期待を込めて語られた言葉は、こうして数年後に使徒たちによって刈り取られる時期を迎えたのでした。(ヨハネ福音書4:3-42)



◆魔術師の邪魔

使徒らが到着し、サマリア人たちに手を置いてゆくと、彼らにも聖霊が降るようになります。それはまさしく、神もキリストも彼らを受入れ、『聖なる者』、天の祭司職を委ねることになんの障碍もなかったことの証しです。

ですが、これを見ていたひとりの男が強い欲望に捕われます。その名はシモンと云い、フィリッポスがサマリアに来るまでは強力な魔術を行って注目されていたのですが、もちろん彼の魔術は聖霊からくるものではありません。ですからフィリッポスに注がれていた聖霊の奇跡の業には敵わず、かえってこのシモンは福音宣明者に同行しては聖霊の起こす奇跡に驚き入っていました。

そこに使徒が到着し、奇跡の聖霊が注がれるのを見ると、ペテロの高い権威をわが物としたい欲求に駆られます。自分は他の人々のように聖霊を受けるだけでは満足しなかったのでしょう。
そこでシモンは何と、使徒に金子を差し出してその権威を望みました。
直ちにペテロは叱責して『お前の金は、お前と一緒に滅び失せてしまえ。神の賜物が金で得られるなどと思うのか。お前の心は神の前に正しくないから、到底この事に預かることなどできはしない。むしろ、この悪事を悔いて、主に祈れ。そうすれば、或いはそんな思いを心に懐いたことが赦されるかも知れない。お前には苦い胆汁が残っており、不義の縄目が絡み着いている。それがわたしには分かるのだ。』(使徒言行録8:20-23)

魔術師シモンは即座に、『仰せのような事が、わたしの身に起らないように、どうぞ、わたしのために主に祈って下さい』と執り成しを乞い、この場で死ぬようなことはありませんでした。
しかし、この魔術師シモンは、その後もキリスト教に悪影響を及ぼし続けていたと、聖書以外の複数の史料が伝えていて、特に第二世紀にギリシア語で著述したキリスト教指導者(教父)エイレナイオスは、この魔術師シモン(シモン・マグス)からキリスト教に似た異教「グノーシス派」が興されたとしています。

これは後に起るユダヤ体制の崩壊に伴って、ユダヤ教に失望した多くのユダヤ人の宗教の受け皿となり、かなりの流行をみて、初期キリスト教への大きな脅威となって蔓延することになります。
その教えは、ユダヤ教とキリスト教を掛け合わせ、そこに様々なヘレニズムの異教や呪術を混ぜ合わせ、その神秘主義でいくらかの奇跡も行ったのでしょう。そこに西暦70年に起こったユダヤ体制の滅びによってユダヤ教徒らが多く加わってきます。

十二使徒で最後まで残ったヨハネも、晩年をこのグノーシス派との戦いに費やしていますが、その一派の教えでは、キリストは、ナザレ人イエスに憑依していた霊の存在者であり、磔刑ではイエスから離れたので、肉体の苦しみを受けてはいなかったと教えていました。
しかし、これはイエスを身近に知り、従兄弟でもある使徒ヨハネにとっては到底許せる教理であろうはずもなく、『イエス・キリストが肉体をとってこられたことを告白しないで人を惑わす者が、多く世にはいってきたからである。そういう者は、惑わす者であり、反キリストである。』と警告し、『そのような人を家に入れることも、挨拶することもしてはいけない。』と命じてもいたのです。(ヨハネ第二の手紙7・10)

悪霊の行う不思議は、使徒ヨハネの晩年までには聖霊が行う奇跡に紛れ込もうとする傾向を強くしていたことがヨハネの手紙に窺えます。『愛する者たちよ。すべての霊を信じることはしないで、それらの霊が神から出たものであるかどうか、試しなさい。多くの偽預言者が世に出てきているからです』(ヨハネ第一の手紙4:1)
第二世紀の「ヘルマスの牧者」などの史料によれば、自分は聖霊による預言者だと称する者が、他の預言者たちが一斉に語っている内容と一致できずに素性が明かされてしまう場面や、仲間から金銭や物資をむやみに求める姿が描かれています。

聖霊によって生み出されたイエス派の清さは、こうした悪霊の影響力にしばしば曝され、宣教まで妨害されることがあったことを使徒言行録が述べています。(使徒言行録13:8・16:16)
聖霊の意義は、奇跡を起こすことだけにではなく、そこに神の印を見出し、伝える教えや神の意向に注意を促すものであるのですが、ともすると珍奇な現象への好奇心に向かってしまう人が出るのはどうしても避けられないようです。同じ聖霊の奇跡に接しても、シモン・マグスだけは他の人とは異なって、神の善意ではなく、不思議の大きさに感嘆していたのでしょう。

そのような人は聖霊と悪霊の違いに無頓着でいられるばかりか、その神秘主義がご利益をささやくなら、利己心を呼び起こされて、すっかりそこに捕われ、その霊を擁護してしまい兼ねません。その人の心は倫理や神の精紳性に向いていないからです。それこそは悪魔の願うところであり、悪霊の一党には不思議な現象を幾らか起こす他には倫理性というものが本来ありません。それはシモン・マグスが行いで示して見せた通りです。

また、モーセの時代にもバラムという欲に目のくらんだ神の預言者も前例となっています。共に『分別が欠けている』というべきでしょう。聖書は倫理を主題とするものですから、不思議やオカルトの方向から読まれ、何かを言い当てようとしたり、解釈しようとしたりするべきものではないのです。知的好奇心から聖書中の黙示や預言にばかり関心を持つ人々も少なくありませんが、その人はキリスト教に対して本質的に傍観者である以上にはなりません。
そのうえ利己心に無防備であればバラムやシモン・マグスのような行いを犯し兼ねないでしょう。(箴言15:21/ペテロ第二の手紙2:13-15/民数記22)

モーセの古代から、律法で心霊術や卜占などを異教の崇拝と共に固く戒めていたことにはこうした背景があるのです。(申命記18:10)
しかしそれでも、人々の間から珍妙な不思議に対する好奇心ばかりの次元の低い関心は絶えたことがありません。それは古代から現代社会に至るまで一向変わることなく、大衆は常にこれらの霊からの接触を珍重し好んできたのです。(列王記第二17:14-17)

いわゆる「スピリチャル」もそのひとつでしょう。それは世の好奇心をくすぐり、人々の孤独を和らげ、日常の煩わしい判断の苦痛を軽くさせるかも知れませんが、無害な悪霊との交流などあるものでしょうか。悪霊からすれば、この世の大衆など簡単にそそのかせるなどと思っていることでしょう。

かつて使徒の時代から悪霊の妨害が有ったように、この世が裁きに直面する「終末」の時期にもその影響が避けられないばかりでなく、神の裁きに於いて人々を分ける誘惑となることも聖書最終巻の黙示録やパウロ書簡が知らせているので、これはけっして軽く見てよいものではありません。(黙示録16:13-14/テモテへの第一の手紙4:1-2)



◆悪霊とは

聖書にたびたび記されている『悪霊』ですが、これは『聖霊』が神から発しキリストによって聖徒に与えられるように、悪魔から発する見えない力であるように思えるかも知れませんが、記されたところによると、そうとばかりは言えません。人格を示している場面が多いのです。

イエスがキリストとしての業を始められ、多くの病人たちを癒すようになりましたが、その中には『悪霊に憑かれた』人々も含んでいたことが福音書のすべてに書かれています。
「霊に憑かれる」という事は、今日ではあまり聞かないものですが、福音書の中の多くの箇所で描かれています。その箇所が少なくもないので、現代の聖書の研究者たちは、これは精神病のことをそう表現したのだろうと想像してもいます。確かに、福音書の悪霊は、人に癲癇(てんかん)を起こさせてもいます。(マルコ福音書9:26)

しかし、福音書に描かれるそれらの『汚れた霊』また『悪霊』は、イエスを見ると叫んだり、平伏したり、イエスと会話さえいているのです。これは病気では説明のつかない人格ある何者かの憑依を示しています。(マタイ福音書4:24/マルコ福音書3:11/ルカ福音書8:30)

これらの存在者の由来について、聖書は幾らかの情報を今日に伝えています。
イエスの弟の一人と思われるユダが書いた、新約聖書に含まれるユダの手紙にはこうあります。
神は『自分の領分を守らないで、その住まいを見捨ててしまった天使たちを、大いなる日の裁きのために、永遠の鎖で縛り、暗闇の中に閉じ込められた。』(ユダの手紙6)

また、使徒ペテロはその第二の手紙の中でこう述べています。
『神は、罪を犯した天使たちを許してはおかず、彼らを奈落(タルタロス)に投げ込んで、裁きの時までは暗闇という鎖で拘禁しておかれている。』(ペテロ第二の手紙2:4)この『奈落』に当たる「タルタロス」とはギリシア語で『墓』(ハデース)の更に下方にあり、二度と出て来られない領域を指します。筆者のペテロはこの語を用いることで、悪の道に入ったことを悔いることもなく、赦されもしない、滅びを待つばかりの悪霊らの立場を言い表したのでしょう。

以上のふたつの句が、共に道を踏み外した天使の存在と、彼らが裁きの時に至るまでは留置されている様を伝えていますが、そこに一致するのが、イエスに叫んだ悪霊の次の言葉です。
『神の子よ、あなたはわたしどもとなんの関わりがあるのですか。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか。』(マタイ福音書8:29)

こうした聖書中の記述を俯瞰すると、天使としての立場から外れてしまった霊の存在者があり、『悪霊』に転じたことを教えていることが明らかになってきます。
アダムとエヴァが、人間本来の立場から外れてしまったように、この元天使たちもサタンの誘惑に堕ちたのでしょうか?彼らがサタンに従っていることからするとそのようです。
やはり、悪霊らには頭目が居て、それがサタンであることを、イエスの『悪魔とその使いたちに備えられた永遠の火』という言葉が示唆しています。(マタイ福音書25:41)
それは永遠の滅びの象徴の火であり、パウロは聖なる者たちが『天使たちをも裁くことになる』と書いてもいますし、聖なる者たちについては『平和の神は、サタンをやがてあなたがたの足の下に踏み砕くであろう』ともいうのです。(コリント人への手紙6:3/ローマ人への手紙16:20)

この堕天使らが、どのように道を踏み外したかについては、人類が登場して然程経ていない時代を描いた、創世記の6章にこのようにあります。
『人が地のおもてに増え始めて、娘たちが彼らに生れた時、神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻に娶った。』(創世記6:1-2)
太古には、天使が人間に化肉して地上を歩き回る自由を得ていたのでしょう。彼らが神々として人間の娘らとの関係を次々にもっていった様はギリシア神話に痕跡を残してもします。
ですが、これは創造の意図から外れていましたし、当時の世について神は、『人の悪が地にはびこり、すべてその心に思うところが、いつも悪い事ばかりであるのを見た』と記されています。

そこでは堕天使らやその混血の息子らであるネフィリムと呼ばれる権力者らの悪影響があったことが示唆されています。当時の世の混乱はノアの日の大洪水をもたらすことになり、その後の堕天使らは、自由を奪われ、今では幸いなことに、化肉して人間社会を歩き回るようなことは許されなくなったのでしょう。

それでも、これらの霊の勢力がまったく力を失ってはいないことは、現在までの心霊的な出来事、また交霊的な事柄にも見えています。これらの霊者は、サタンがエヴァに偽り語った『あなたがたは死なない』という言葉の証明するかのように、死者を装うなどして異教を推進しています。(創世記3:4/コリント人への第一の手紙10:20)
悪霊はそのように曖昧な仕方で人間社会に影響力を残していますが、すでに彼らの道が誤りであったことは、キリストの犠牲の死によってまったく立証されてしまいました。

ですから、キリストが『肉においては殺されたが、霊においては生かされ』『彼は獄に捕われている霊どものところに下って行き、宣べ伝えることをされた』とペテロが書いているのは、倫理の完全性に到達したキリストによる堕天使らへの罪の宣告について述べていたのでしょう。加えて、『これらの霊というのは、むかしノアの箱船が造られていた間、神が寛容をもって待っておられたのに従わなかった者どものことである。』とも述べています。(ペテロ第一の手紙3:18-20)

これらの処断されることが確定している悪霊らが、現状でも幾らかの影響力を人間に残しているからといって、それが全能の神の力量不足の証拠ではありません。
むしろ、この世を裁く終末では、再び現れる聖なる者らに反対するよう人々を惑わし、エデンの二本の木のときのようサタンと共に世界を誘惑し、この世をキリストとサタンのふたつに分離させることで、かえって悪霊どもが世に対する神の裁きを成し遂げるために意図せず働くという、必要不可欠な「悪役」を演じさせることを神は明かしていますが、それは旧約聖書の時代から『YHWHはあらゆるものを、ご自分の目的のために造られた、邪悪な者をさえ苦難の日のために。』と語られている通りです。(箴言16:4)
この意味は、サタンや悪霊が自ら邪悪な道に入ったとはいえ、創造の神は自らのような自由意志を付与した結果、離れ落ちる者が出ることを承知の上であり、あらゆる創造に意味があったということでしょう。(創世記1:27/黙示録16:14・9:20)

イエスは山上の垂訓の「主の祈り」のなかで『わたしたちを誘惑に陥らせないでください』とも祈るよう教えられました。
サタンとその勢力は徹頭徹尾「エデンの蛇」であることをやめません。その狙いは、人々がキリストによって創造者の許に立ち戻ることのないようにするところにあります。
ですから、その影響力に注意し、心霊術や異教の礼拝に不必要に関わらないなら、いまから誘惑の害を逃れる助けになるのです。





⇒「似て非なるサマリアへのキリストの想い

⇒「天使・悪魔・悪霊





聖なる者の戦い

2018.06.12 (Tue)

◆弟子らをも襲う迫害の波

イエス派がエルサレム市内で一定の勢力となる一方で、宗教家たちはイエス派が奇跡を行っては信仰に結束し、日々成長してゆくことに強い嫉妬を抱きます。
彼らはイエスに対して示した同じ敵意をその弟子たちにも惹き起こしましたが、それはまさしくイエスが弟子も受ける反対行動として予告して語られていた通りです。
『「僕は主人より上ではない」と、わたしが言った言葉を思い出せ。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。』(ヨハネ福音書15:20)
この言葉の通りに、ユダヤの宗教家らはイエスの業を受け継いだ弟子たちに対して、その主人にしたことを繰り返そうとします。
イエスが奇跡や癒しを行うことを宗教家たちは良くは思えませんでした。なぜなら、敬虔な業に熱心な自分たちが神から疎外されているのであって、イエスの側に神の是認があるなど、けっして受け容れることができなかったからです。

イエスや弟子たちによる聖霊の奇跡を宗教家が目にするのは非常に腹立たしいことであり、どんな犠牲を払ってでも、たとえ偽りを語り、殺人を行おうとも、彼らにとって迫害することは「正義」であり、イエス派という「間違い」をもみ消すつもりだったのですが、これは見ての通り、正さの仮面をつけた悪行でしかありません。(ヨハネの第一の手紙5:10)

しかし、彼らにはモーセの律法という後ろ盾があり、聖書には特に親しみ、極めて詳しいために、却って神の意志を汲み取ることができません。自分を正当化するために聖書を読んでゆくことにより、却ってその人の内面が露わにされるのが神のご意志なのでしょう。(ヘブライ人への手紙4:12)
そこには、聖書のままに忠実であれば神に受け入れられるわけではないことが示されています。
歴史の上で人々は聖書に忠実であろうとしてきましたが、そこに自分の正義を求めていたのであり、それでは神の是認に入ることもなく、往々にしてその「正義」は悪を行う言い訳にされてしまったのです。しかも、それは彼らの約束されたメシア、つまりキリストを殺害し、その教えを受継ぐ弟子たちにも反対を続けるという「正義」となってしまったのでした。

同様に、世界では今日まで様々な宗教がそれぞれに「正義」を掲げては、その主張とは裏腹に、敵意や迫害という「不正義」を行わせてきたものです。この点で宗教は今日までいくらも進歩しておりません。
そのような「正義」とは、数や力で反論を屈服させる「人間界の正しさ」であり、実は神の前には不正です。まさしく、この世は宗教以外でも「人間の正しさ」で溢れていて、争いというものは絶えることがありません。
ですが、キリストは『神の義を求めなさい』と山上の垂訓で教えられましたが、そうするには、「自分の正しさ」を控え、公正な態度で真摯に神の意志に注意を払わなくては得られるものではありません。(マタイ福音書6:33/ローマ人への手紙10:3)

しかし今や、サンヘドリンは使徒たちを逮捕し、牢獄に拘禁してイエス派の動きを止めようとしたのですが、夜中に天使が使徒を解放するという、予想外の事態が発生し、使徒たちには神殿で語り続けるよう命じられます。
そこで翌朝になると、祭司長派は、普段と変わらずに民を教えている使徒らの姿を見ることになり、いよいよ殺意を募らせたところで、律法学者(タナイーム)の長であったガマリエルⅠ世が賢い助言を与えます。使徒らが神からのものでないなら放っておけばいずれ廃れるだろうし、もし、そうでないなら、諸君は神に敵対することになり兼ねないと言って使徒たちを殺すことは制止したのでした。


◆最初に主に続いた殉教者

ですがその一方で、旧来通りの一般の信者たち、つまりモーセの律法を守ることによってこそ神の是認を受けられると信じる、特にギリシア語を話す者たち、キレネ(リビア)やエジプトのアレクサンドレイアからの解放奴隷と思われる集団の会堂に属する者らも、メシア信仰のイエス派が受け容れられず、ステファノスと議論になりましたが、聖霊の賜物としての『知恵』の霊を持つ彼には歯が立ちません。
そうなると、正誤を受け容れられない人間の常として、不法に訴えてでも、自分たちを正当化しようとするものです。
この『自由民の会堂』に属する信者たちは、ステファノスがモーセと神とを汚す言葉を吐いたという偽の証言をでっちあげ、大衆と共に年長者らや律法学生らを煽り立ててステファノスをサンヘドリンに引っ立てさせたのです。

そこで議員らに『この男は、ナザレ人イエスがこの聖所を打ち壊し、モーセがわたしたちに伝えた慣例を変えてしまうだろう』というのを聞きましたと訴えました。
弁明を始めたステファノスは、アブラハムから始めてモーセの生涯と荒野のイスラエルの反抗の歴史、そしてダヴィデ王が願い、ソロモンが建立した神殿があったにも関わらずバビロン捕囚に至ったこと、ソロモンも認めたように、神は神殿に住むような方ではないこと、また、イスラエルの民は常に預言者を迫害して石を投げ、そうしなかった預言者がひとりもいなかったこと、そして預言者たちが予告したメシアに手を掛けて遂に殺害したことをまでを語り、『あなたがたは先祖と同じくいつも聖霊に逆らってきたではないか』と糾弾するに及びます。すると宗教家たちは自分の両の耳に手を当ててステファノスに向かって突進し、彼を市の城壁の外に引き出して、そのまま『石打ち刑』を執行して殺害に及びます。

多くの人々が罪人を取り囲み、皆で石を投げつけて殺害するのがその処刑法ですが、何度も石を投げるので、ステファノスを憎悪する者らはそれぞれの外衣を傍らに置いては処刑に専念し、怒りの丈を彼に存分にぶつけたことでしょう。
おそらくは全身にあざやこぶで見るも無残にされたに違いないステファノスは、『主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と叫んで死の眠りに就き、キリスト・イエスに続く最初の殉教者の冠(ステファノス)を授けられるに至りました。その言葉は主イエスが磔の木に釘で打ち付けられたときのものでもあり、『敵のために祈れ』と言われたイエスの精紳に従うものであることを示しています。


◆自分の義を立て神の義に従わない宗教家

他方、宗教家たちがそれまで行ってきた神への反抗は積み重なってしまい、いまさらイエス殺害の非を認めて悔いる心境にはとてもなれなかったことでしょう。理を尽くして説かれても、自分たちの道を変えることはいよいよ難しくなるばかりです。

人が自分を正当化したいときに、より強く怒りを覚えるのは、間違った事を言われるよりは、相手が正しく理に適った反対意見を言っているときでしょう。正論の前に自分の間違いの言い逃れできなくなるので、実力を行使して黙らせ、その人を反論共々葬り去ってしまうほかに「自分の正しさ」を示すことができません。なぜなら、「正しい」と言っている自分が間違っているからで、『知識の霊』はおろか、比較されることにも耐えられません。まさに圧制者が情報統制するのもそのためです。

それにしても、宗教家ともあろう地位有る者らが両耳を手でふさいで、正論を聞くまいと大声を上げて突進するというのは、見苦しいばかりか、実は彼らに正しさの無いことを自ら示していたというほかありません。

しかし残念ながら、そのような「正義」は世の常であり、力と数で圧倒して押し切る者が「正しい」とされることは珍しいことでもありません。世で政治や宗教の敵意と争いの応酬が特に多いのは歴史が繰り返し示してきたところですが、その原因といえば「人間の正しさ」以外に何があるでしょうか。正義感と憎悪は裏表であり、「人間の正しさ」を押し通せば悲劇が起ります。多くの暴力や殺害は、正義感と憎悪の衝突であり連鎖ですが、人間はこれを止めることができません。

ユダヤの宗教家らも、怒りの余りに、ガマリエルⅠ世の賢明な勧告を踏み越え、いよいよ神に敵対する道をまっしぐらに突き進んだと言うべきでしょう。
『人の子は、父がなさるほかに自分からは何事も行えない』と言われるイエスにも、その弟子たちにも、自分から出たものでない「神からの義」という後ろ盾があったことに宗教家らは耐えられなかったのです。これこそは嫉妬に狂って『カインの道』に足を踏み入れてしまうことです。(創世記4:6-7/ユダの手紙11)

カインについて、『彼の業が悪く、その兄弟の業は正しかったので』『彼は邪悪な者から出て、その兄弟を殺した』と使徒ヨハネが手紙で指摘していますが、カインも神自らの勧告の言葉に従わず、彼の激情が兄弟殺しを躊躇させなかったのでしょう。(ヨハネ第一の手紙3:12)

キリスト・イエスも「人間の正しさ」によって殺害されました。それこそは決定的な倫理問題であり、人間の抱える『罪』の端的な表れで、『蛇の裔』の謀ることです。おそらく、人はこの点において最終的に裁かれるのでしょう。ユダヤの体制が滅びに向かったようにです。
そして、宗教家らの「人間の正しさ」による殺害は、イエスの弟子たちにもその日から向けられてゆくのでした。(ヨハネ福音書8:44)


◆類い稀な転向者

さて、その日ステファノスに石を投げ続ける者らの外衣の番をしていたのが、パリサイ派のサウロ(サウル)という人物であったのですが、彼はステファノスの処刑はまったく正当であり、イエス派は大いに間違っていると心底思っていたのです。(フィリピ人への手紙3:5-6)
ですから、その日以来巻き起こったイエス派への迫害の先頭にこの人物が立ち、多くの人々を逮捕しては殺害の手助けをし、イエス派迫害の急先鋒となったのがこのサウロであったのです。(コリント人への第一の手紙15:9)

しかし、この頑固なパリサイ人が、ユダヤ教徒について後になっては正反対のことを書いているのです。
『わたしは彼ら(ユダヤ人)が熱心に神に仕えていることを証しするけれども、その熱心さは、正しい認識に基づいてはいない。
なぜなら、彼らは神の義を知らず、自分の義を立てようとして、神の義には従わなかったのだ。』(ローマ人への手紙10:2-3)


先頭に立ってイエス派を迫害していたサウロが、後の半生ではイエス派の使徒となって奮闘し、律法主義者からの熾烈な迫害の中で過ごし、最後にはキリスト教徒としてローマ皇帝ネロの前に立つまでになるのですが、これは実に大きな変化です。

このサウロが、キリストの使徒パウロとなってからの労苦が如何に膨大であったかを、彼自身がコリント人への第二の手紙の第十一章で止め処もなく語っていますが、なんと、彼は一度ながら『石打ち刑』で処刑されてもいるのです。しかも、そこで彼の語る苦労のリストには、その後何年もの留置所暮らしの不自由さや、大海原で船が嵐に巻き込まれ、遂に難破したことや、最期に処刑されたとの伝承も含んでいないのです。(コリント人への第二の手紙11:22-29)

彼の最大の敵は、同朋であった律法主義のユダヤ人らでした。彼らからすれば、パウロは裏切り者であったからです。
しかし、その後の彼は、キリスト教の最先端の認識を授けられ、『奥義の家令』の責務を荷って先頭に立ち、命を懸けてイエス派の行くべき道を常に指し示す羅針盤であり続けました。

この類い稀な人物、ガマリエルの弟子パリサイ人サウロが、キリストの弟子となり、あの使徒パウロへと転身したことを想えば、『罪を彼らに負わせないで下さい』と叫んで死の眠りに就いたステファノスの言葉も空しくならなかったというべきでしょう。

これほど頑ななパリサイ人が、まったく変化したからには、いったい何が起ったのでしょうか?





イエスの業を受け継ぐ聖徒

2018.06.09 (Sat)



◆キリストの業を続行する弟子たち

この年のペンテコステの日に起った奇跡の出来事から、弟子たちには不思議な力が備わりました。外国語で話すことは『異言』と呼ばれましたが、しかし本人は話している事の意味がわかりません。その後『翻訳』の賜物を与えられた弟子たちも現れるようになり、集まっている他の人々に分かるように語られた異言を訳すようになります。

また『預言』の能力を持つ弟子は、これから起こる事を予告したり、隠されている事柄を知らせたりします。また『知識』と呼ばれる能力は、真理の理解を教えました。使徒ペテロには『癒し』の際立った賜物が与えられ、イエスが多くの人々に行っていたような顕著な癒しが彼を通して続けられたので、人々はペテロの歩く道沿いに病人を並べるほどであったと医師でもあったルカが書いていますが、そればかりでなく、後にはイエスのように死者を生き返らせもしています。(使徒言行録9:40-42)

イエスは、やはり最後の晩餐の席でこう予告して語られました。
『確かにあなたがたに言う。わたしを信じる者も、わたしの行っている業をするであろう。そればかりか、より大きな業を行うことになる。わたしが父の御傍に行くからだ。』(ヨハネ福音書14:12)

ペテロは、聖霊を注がれてから弟子たちの先頭に立って、ナザレ人イエスがどのようにメシアであったかを、イスラエルの人々に旧約聖書を縦横に用いて人々に知らせます。
預言者モーセが予告していたところの、モーセ自身のように偉大な預言者の到来がイエスの現れであったこと、また、イスラエルの民は、『あなたの裔によって地のすべての支族が祝福を受ける』とアブラハムに約束された事柄を相続するはずの『契約の子ら』であることに注意を向け、『あなたがたは、この聖なる正しい方を拒んで、人殺しの男を赦すように要求し、命の君を殺してしまった。しかし、神はこのイエスを死人の中から復活させたが、わたしたちは、その事の証人となったのだ。』と宣告し、聞き入るイスラエルの人々が何をすべきかをこう伝えます。

『自分の罪が消し去られるように、悔いて立ち戻りなさい。
こうして、の許から慰めの時*が訪れ、はあなたがたのために予め定められていた、メシアであるイエスを遣わしてくださる。』(使徒言行録3:1-20)
*(または「回復の時」)

つまり、アブラハムの子孫であり、神の規準を教えても、彼らに救いをもたらすことのなかった律法契約の中に在ったイスラエルには、イエスをメシアと信じるなら、今や律法契約の不履行を悔い、メシア信仰による『新しい契約』へと移ることによって、聖霊を通し、復活したメシアの指導の下に入る道が彼らに開かれたのです。

しかし、聖霊は神から出て、キリストの名によって注がれるものでありますから、キリストに信仰を働かせないなら『契約の子ら』であるイスラエルの民であってもそれが与えられるものとはなりません。(コリント人への第一の手紙6:19/ヨハネ福音書14:26)

ですから、イエスに激しく反対し続けたユダヤの宗教家らに『聖霊のバプテスマ』が行われることはけっしてありません。そこで、イエスの弟子たちに聖霊が注がれ奇跡の賜物が与えられたことをユダヤの指導者層は認めるわけにゆかず、力を用いて圧殺しようとして聖霊に抵抗を始めました。

彼らはバプテストのヨハネが宣告していた『悔い』からは遠く離れていることを示していましたが、ヨハネは宗教家らを『毒蛇の子孫』と呼んで、水のバプテスマを受けさせなかった言葉が福音書に見られます。(マタイ福音書3:7/創世記3:15/ルカ7:30)
やはりユダヤの宗教家らには、『新しい契約』に備えるために『義人の思いを持たせ、主の前に整えられた民』となるには、プライドが高く心が固過ぎたのでしょう。(ルカ福音書1:17)


◆聖霊が与えた賜物の助け

しかし、使徒たちの行う奇跡はエルサレムで広く知られていて、彼らはペンテコステの後も毎日神殿で教え、癒しを行っていました。特にペテロが通る場所に、人々は病人たちを置くだけでなく、彼の影がかかることでさえ癒されることを期待するほどでありましたから、これはまさしくキリスト・イエスの業の継承と言えましょう。(使徒言行録5:15-16/ルカ福音書6:17-19)
イエスはかつてこのように言われました。
『一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一粒のままだ。しかし、もし死ねば、豊かに実を結ぶ』。
まさしく、イエスという聖霊の業を行う一人の人の死は、弟子たちという多くの麦粒となって、聖霊の業は増やされてゆくのでした。(ヨハネ福音書12:24)

しかし、嫉妬にとらわれたサンヘドリンは神殿警護の職権で使徒たちを捕縛して連行させると『お前たちは何の権威によって、だれの名によってあのような事を行ったのか』と取り囲んで尋問します。
ペテロは聖霊に満たされて語り『あなたがたが木に架けて殺したのち、神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです』『この方こそが「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石」なのです。ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人には与えられていないのです。」』と堂々と語ります。

これを聞いた指導者層は、ペテロが無学の平民であるのに、こうして臆すことも無く見事な宣言を行うことを不思議に思います。
そのうえ、普段から神殿の入り口に座って物乞いをしていた足の不自由な者が癒されてそこに共に居る奇跡の証拠を見ては言い返すにも窮します。しかもエルサレム市内では彼らの奇跡が知れ渡っており、信じる者は男だけでも五千人にもなっていました。
ですが、彼らの主を死に渡した指導者層にとっては、彼らの言うことを認めるわけにはゆきません。そこで、イエスの名によって語ることを厳重に禁じてから釈放したのでした。

しかし、そんなことで神の業を行うのを躊躇し、イエスの名によって語るのを止めるような使徒たちではありません。今や彼らには奇跡の聖霊がという後ろ盾があり、それはキリストと彼らの断ち難い絆を証ししていたのです。
『神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられません。』とペテロとヨハネは答えます。

これが先頃までユダヤ人に怯え、扉にかんぬきを下ろしてひっそりと過ごしていたあの弟子たちなのでしょうか。
イエスが地上を去るときに語られた最後の言葉、『あなたがたの上に聖霊が降るとき、あなたがたは力を受ける』との予告は、大胆にされた彼らの姿にはっきりと見えます。

使徒たちは信者の皆に、体制側からのこうした脅しがあったことを告げ、一同で心を合わせ『主よ、いま、彼らの脅迫に目をとめ、僕たちに、思い切って大胆に御言葉を語らせて下さい。そしてみ手を伸ばして癒しをなし、あなたの僕イエスの名によって印と奇跡とを行わせて下さい。』と祈ると、その場は揺れ動き、すべての者たちに聖霊が降ったので、印を行う者の数はさらに増えてゆきます。(使徒言行録4:1-31)

それから使徒たちは神殿で教え、外地からの弟子たちは見出したメシア信仰を大いに喜び、ペンテコステの後もエルサレムに留まっていましたが、それをエルサレムの住民である信者たちがパンを共にするためにそれぞれの家に招いては援助します。また、土地を持っている者はそれを売っては仲間たちの必要を賄う資金とするよう使徒たちの許に持ち寄って、皆が個人の所有権を言い立てるような姿は見られません。
弟子たちは助け合って一つにまとまり「イエス派」とも言える一団を形成してエルサレムに逗留を続け、日々神殿に上り、熱心に祈りを捧げます。その様子を見る他の市民も彼らを誉め、神殿祭司たちも態度をやわらげるのでした。(使徒言行録4:32-35)

こうして使徒たちを通して癒しや奇跡が行われることで、イエス派は成長を続けましたが、人数が増えるに従い、全体の福祉を顧みる役職が必要であることを知らせる事態が発生していました。
ヘブライ語を話す(ヘブライスト)地元の弟子たちと、外地から来て逗留しているギリシア語を話す(ヘレニスト)弟子たちと間で、寡婦への配給に不公平が生じてヘレニストの寡婦たちに困窮があった事が使徒たちの知るところとなったのです。

使徒はこれを解消させるべく、配給の実務を担当させるために信頼できる七人の男子を任命します。
その中には、ステファノスやフィリッポスなどギリシア名のイスラエル人が見られる他に、おそらく元からのギリシア人でユダヤ教への改宗者ニコラオスの名も見えます。(使徒言行録6:1-6)

この新たな七人は、「下僕」を意味するディアコノスと呼ばれましたが、使徒を補佐し、十二人が教える業に専念できるよう働いて、イエス派の全体を助けるための必要不可欠な存在となりました。
エルサレムに集まっていたイエス派の集団の規模がおそらくは万の人数に近付いていたのでしょう。けっして小さくないことを窺わせます。このディアコノスの役割は、その後も各地の集まりに於いて実務を負う役職として職制の中に定着してゆきます。


◆キリスト教の始まり

パウロは聖徒らに与えられた様々な能力の源が何であったかを明らかにしてこう書いています。
『ある人には霊によって知恵の言葉が与えられ、他の人には、同じ霊によって知識の言葉、また他の人には、同じ霊によって信仰、また他の人には、一つの霊によって癒しの賜物、また他の人には力ある業、また他の人には預言、また他の人には霊を見わける力、また他の人には種々の異言、また他の人には異言を訳す力が与えられている。』(コリント人への第一の手紙12:8-10)
聖霊を通して与えられるこれらの能力は『賜物』(カリス)と呼ばれ、使徒パウロはそれぞれの弟子たちに異言からはじめて、より意義深い『預言』のような賜物を授かるよう努めることを勧めています。

そして、これらの奇跡は、営々と千年以上続いてきたモーセの律法契約による体制が、今やキリストによる『新しい契約』へと移るべきことをイスラエルに教え、彼らの注意を喚起させ、メシア信仰を抱かせるものでもありましたが、どうしても旧いモーセに留まろうとする宗教家を中心とした既得権益のある者らが出てきていました。イエスはそれを『古い葡萄酒は美味い』という酒好きに例えて語られていました。

そこで『だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、新しいぶどう酒は古い皮袋をはり裂き、そしてぶどう酒は流れ出るし、皮袋もむだになってしまう。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるものだ。』との例えを語られたイエスは、ユダヤ教を改善するのではなく、古代のモーセに代り、神殿崇拝を超える新たな崇拝の次元へと信じる者たちを導こうとしていたのです。(ルカ福音書5:37-38)

キリストの導く新しい崇拝が、「血」の犠牲を捧げる段階を越え、神からの「霊」を介するものであれば、それまでとはまったく異なる新たな崇拝の型を持つ必要があることは容易に想像できます。
そこで、『エルサレムでもないところで父を崇拝する時が来ようとしているが、それは今なのだ。』『神は霊であられるので、崇拝する者も霊と真理とをもって崇拝しなければならない』と語られていたのも、地上の一か所の神殿で、繰り返し動物の犠牲を捧げ続けた時代の終りを教えていたのです。(ヨハネ福音書4:21・24)
聖霊が弟子たちに注がれ、様々な賜物が彼らに与えられるようになると、彼らの集まりの中で聖霊が多様に働き、それが彼らの信仰を助け、神また主イエスとの繋がりを明かすものとなってゆきますが、それが新たな崇拝の始まりでもありました。

弟子たちにとっては、これこそイエスが最後の晩餐の席で使徒らに言われた『助け手』である『聖霊』の到来であり、イエスの帰天の際の最後の言葉『あなたがたの上に聖霊が降るとあなたがたは力を受ける。』の実現でありました。
聖霊の注がれた弟子たちには、イエスの行った奇跡の業が分け与えられ、彼らが最初に外国語で話し出したように、メシアを退けた偏狭なユダヤから世界の広野へと弟子らによって運ばれ、人々の信仰を惹き起こす奇跡の業がペンテコステの日から押し広げられてゆくことになるのでした。

まさしく、そのペンテコステは、律法の崇拝を超える新たな崇拝、「キリスト教」と後に呼ばれることになる宗教が誕生した日であったのです。

キリスト教の崇拝とは、聖霊を注がれた聖なる弟子たちが行うものであり、キリストの神を讃え、天の神殿を構成する仲間の聖徒を集め出し、地上で試され、忠節の内に『新しい契約』を全うし、主と共に天界の祭司となって『天の王国』を設立することを意味します。
その『神の王国』が、全人類を『罪』から救い出して世の悪を終わらせ、老いや疾病からも、様々な障害からも解き放ち、栄光ある姿を人に回復させるものとなります。キリストが人々に施した奇跡の癒しは、その証しであり、先触れであったのです。




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