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新十四日派の要諦

2019.09.03 (Tue)


新十四日派とは
十二使徒の中で最後まで残ったヨハネの薫陶を受けた第二世紀の小アジアの原始キリスト教を特徴を中心にニケア会議以前のキリスト教の回復を目指すものである

名称に表れる「十四日」とは、キリストが犠牲の死を遂げたユダヤ陰暦のニサン月14日からきており、更に古代のモーセの時代には、イスラエル民族がエジプトの隷属から脱した『過越し』の日でもあった
最後の晩餐の席でキリストは使徒らに次に天界で彼らと食事をするまでの間に、『主の晩餐』と呼ばれた食事儀礼を守り行うよう命じている

小アジア十四日派はユダヤ教の『過越し』に相当する晩にこの儀礼を守っていたために周囲のキリスト教徒から「十四日派」と呼ばれるに至った。そこで現代に於ける「新十四日派」は、このキリスト教最重要とされる定期儀礼を回復し例年行う
但し、この食事儀礼は『聖霊』によって『新しい契約』に参与する者が神とキリストとの関係性を示すものであるので、奇跡の聖霊を有する者、即ち『聖徒』でなければ食事に預かることはない

『聖霊』の注ぎは第三世紀頃には一度絶えており今日まで回復していないので、当派を構成する誰も『主の晩餐』の食事には預からない
それでも、終末の近付く時期には再び『聖霊』の降下が起ることを知らせる聖書に基き、それが注がれる『聖徒』の現れを予期し、準備する者として当派の構成員は働く、それが神の経綸に協働することであると信ずるからである

その意義は、イザヤ書と黙示録に描かれる『光をまとう女』、即ち『シオン』を構成するところにある
この「女シオン」とは、その内に聖なる民となる『その子ら』が現れることにより、キリスト教の『回復』が起こるに先立って『目覚め』、聖霊が灌がれることの終末の意義を悟って備えているべき「信じる者らの集団」である。この集団が真に預言に描かれる『シオン』であれば、やがて聖徒を生み出し、自身も神により『新たな名』を賜る時が訪れることになる


特長
信仰の動機は、本人の益の獲得ではなく、創造の神の意志に最上の価値を見出して賛同し、人類が神との関係の回復に向かうよう協働することにある
当派は一定の教理を持つ集団を構成するものの、人にとって最重要である事は、その人が「忠節な慈愛」を評価し、それを自他に求めるか否かとなるのであって、如何なる思想信条を持つか、また如何なる宗派に属するかは、聖霊によるこの世の裁きの以前には、神の前に意味を成さない

キリスト教界はローマ国教化までには聖霊が去り、異教と哲学に染まり本来の教えから逸れ、個人の益を求める凡庸な宗教に堕している。今日まで神の契約は絶え、その是認の下に神意を行う者も絶えて居ない。神の聖霊の介入の無い現状下で、現在までのあらゆる宗教は人々の必要に応えるものとして存在を続けているが、終末の裁きでのキリストの臨在による聖霊の再降下が起きて後には、その役割を終える事が求められ、同時に世界はキリストの不可視の臨在の証となる聖徒らを通しての奇跡を目の当たりにし、初めて真実に信仰を懐く機会を得ることになる

現在の宗教環境に在って当派は原始キリスト教の回復を目指し、信徒は利得や保身でなく神意の探究を目的とするが、そこで問われるのはその人の内面である
そこで表される信仰とは神意への価値観と畏敬に動かされた結果として懐く『忠節な愛』また『慈愛』である
その愛は自派の無謬また信者だけの救いを唱えさせず、思想信条によらずあらゆる外部の人々に向けて能う限り神の救いを広げるよう努めさせる


< 愛の優越 万人原罪 倫理回復による人類救済 唯一正統の否定 死後の世界及び天国地獄の否定 非三位一体 無偶像 十字架不採用 非教会制 逐語霊感説否定 前千年期不可視臨在 ニサン14日遵守 聖霊の契約証拠 聖徒と信徒 終末聖霊再降下 終末秘義解明 聖霊信仰による裁き 教理控制 >

・神の人への目的は、キリストの贖いによる人の倫理性の回復を為す「贖罪」であり、創造当初の神を中心とした他者との関係性(倫理的完全性)への復帰である
・人の創造物としての回復が『救い』であり、それはキリストと共同相続者らによって構成される『神の王国』を要する
・『神の王国』は『この世』に終りをもたらし、その後の支配権を行使して一千年に及び人類の贖罪を為す
・キリストを通して注がれる聖霊は『新しい契約』の印であり、奇跡と知恵の源泉となる
・信ずる者は、まず年毎の『主の晩餐』をユダヤ暦ニサン月14日に行い、キリストの臨在と聖徒の現れを待つ
・「終末」とはアダム以来の『この世』が終わり『神の王国』の到来する時期であり『聖霊』を介した生ける人類、即ち『この世』の裁きの時となる
・契約にない贖罪前の人々にあっても培うべきは『罪』の対極にある『愛』であり、それは無戒律性の自由の中に生じる



信仰の要諦は以下の通り


1.神について
創造者にして全知性と全能性の保持者。
神は物質を超えた霊であり、科学では検知も立証も不可能な唯一の源創造者であられるので、人が見ることもできず、偶像に例えることもできない。
人を『自らの象り』として創られたゆえに、その全知性と全能性を人の自発的倫理上の決定に対しては抑制され、自由な行為者としての人との関わりの中で経綸を導いて来られた。
神は『自らの象り』としての創造物らに服従ではなく『変わらぬ愛』による絆を望まれる。

万物の創造者であられるので、個人の生まれる以前から到来を予知され、死して後も復活を行われることを通して、人の生死を超えてそのあらゆる人を『魂』として所有されるのて、『無いものを有るかのように呼ばれる』。但し、神が人を予見されるのは、個人の意思の自由は保ちながらのことであり、人はすべてを予め定められた運命を歩むわけではない。

この方は、アダムの堕罪直後から救済の手立てたる『女の裔』を計画され、太古の人アブラハムを信仰に導き、彼の子孫への相続財産と人類への祝福となる後裔の到来を約束された。
神はアブラハムの子孫の民族であるイスラエルに契約を与えて導いた方であり、モーセの天幕、後には神殿で崇拝された方である。
その聖なる御名を[ יהוה ] (YHWH)と名乗られたが、今日この発音は不明となっている。
しかし、終末には聖霊注がれる者らの現れに伴い、この御名発音は明かされ宣明され、永い沈黙を破って御力を示されることにより何者にも勝って高く上げられ、信仰の内にその名を唱える者は救いを得る。



2.キリストについて
キリストはアブラハムの後裔となって地に降り、『罪』あるアダムの子孫としてではなく処女から生まれ、人間と成られた。
この方は『創造物の初子』であり、神御自ら創造を行われた被造物であることから『独り子』とも呼ばれている。
この方は旧約聖書の箴言に現れる『知恵』(ホクマー)であられ、ご自分以外のあらゆる被造物を創られている。

この方はアブラハムの裔、またダヴィド王朝の血統に属する家系からベツレヘム・エフラタに誕生されたが、律法の下にユダヤ教徒として生涯を送られた。しかし、ガリラヤのナザレで成長されたので『ナザレ人イエス』と称されたが、この出身は当時のユダヤ教徒のメシア信仰を試すものとなった。
この方はゼカリヤの息子ヨハネから水のバプテスマを受けたときに聖霊を注がれメシア=キリストとしての任命を受け、以後三年半の公生涯を送り、その終わりにユダヤ教祭司長派の反対に遭いローマ帝国の権力によって血の犠牲を捧げる処刑を受けられ、三日目に復活を受けられた。そうして人々のために贖いの犠牲を捧げ、アダムに代り人類の『とこしえの父と唱えられる』べく、神と人との仲介者となられ永遠の命への道を拓かれた。

御子はその死に至るまでの忠節を通し、天地万物の中で唯一倫理の完全性に自らの業によって到達することで律法を成就し、自らが真実の義人であることを示し、律法の目的を果たさせて終わらせ、すべての被造物に先立って不滅の神聖さに達して『命の創始者』となられた。
また、その血によって完成された神聖さを獲得され、その血の犠牲によって他の者らを清める大祭司となり、まず『新しい契約』に預かる『聖なる者ら』に仮の贖罪を行われ、従属する祭司となるよう召して奇跡を行う聖霊の賜物を契約の証しとして彼らに与えられた。こうしてエデンで語られた『女の裔』、また『地のあらゆる氏族の祝福となる』『アブラハムの裔』が初めて現れるに至った。

復活の四十日の後に天に昇り、五十日目からは聖霊を注いで使徒たちへの監臨の行い、父なる神の右の座に就いて後は、再び終末に臨在する時、また王権の受領と権威の行使の時を待たれる。終末の臨在では、なお人々と契約を取り結ぶ『半週』が残されており、そののちに天界に全ての『聖なる者ら』を招いて千年の『王国』を建てられる。これがエデンで語られた『女の裔』の実体であり、悪魔からの攻撃を受けるも、最終的にこれを全く打ち砕く。


3.聖霊について
聖霊は、神から発する御力であり、人格も位格も持たず、神でも天使でもない。
創造の業に用いられ、神の経綸を導き、人に霊感を与え、また、聖霊はキリストの贖いを通してそれを注がれる『聖なる者たち』に奇跡の働きを為して父と子を示し、『新しい契約』を通して『罪』からの仮の赦しを彼らに与え、水と共に彼らを新たに生まれさせ、神から『神の子』として認知されたことを証しする。

さらに聖霊は、助けまた慰めとして『聖なる者たち』の中に住み、天に召しては彼らをキリストと同じかたちに造り変え、地では彼らに御旨を行わせ、教えを授け、世の終わりまで彼らと共にあり、彼らをキリストとの共同相続人として『神の王国』を受継がせることの印となる。契約に入る『聖なる者ら』は、キリストの兄弟となるべくイエスの自己犠牲の歩みと聖霊の業を共にして同じ道を歩み、遂に天界での栄光をイエスと共にする。

『聖なる者ら』は第三世紀までには現れなくなったが、終末に於けるキリストの臨在と『神の王国』の到来を世に告げ知らせ、彼らの聖霊による世界宣教を以って、この世は神の裁きの時である「終末」に入る。聖霊で語る聖徒らには世から反対が加えられ、忠節が試みられるが『新しい契約』を全うする者については天に集められ、真実の『イスラエル十二部族』、アブラハムの後裔となりキリストと共に『神の王国』を構成し、世を裁いて終わらせ、新たな世界の祭司、また支配者となる。



4.人について
はじめに人は、神の象りに創造されたままに『神の子』であり、神との親しい関係にあった。しかし『二本の木』に関してサタンに誘惑されると、神への『忠節な愛』を示さず『罪』を犯し、神の象りを毀損した。それゆえ、すべての人は生まれながら『罪』とあらゆる苦難、老化と死の支配のもとにあり、思いと言葉と行為とにおいて罪ある者であり、自分の努力によっては神に立ち返ることができず、『罪』あるままでは死と滅びに至る。人は、自分の道徳性によらず神の恵みであるイエス・キリストの贖いのゆえに、愛に基く信仰によって義と認められ、『神の子』となって創造の価値に達する。

神は人を自らの『象り』として創られたのであり、本来人を支配すること、また崇拝させることを御旨とはされない。支配と崇拝、また政治と宗教は『罪』ある人間にとってのみ生じる代替措置であり『贖罪』を終えるまでの必要悪である。そこで人に求められるのは『罪』の対極を成す『愛』であり、それは『罪』ある現状でも願い努めることは出来る。その『愛』が贖罪の後に、あらゆる他者との絆となり永生に至らせるものとなる。

アダム以後、各個人の創造は生殖に委ねられ、到来すべき全ての人の揃うことが待たれる間に、人類の回復への神の経綸が進められている。



5.信仰について
『信仰』とは、単に神の存在を信じることを意味しない。
また、自らへの神の是認や利益を信じることでもない。

『信仰』は、人が神との何らかの邂逅をしたところで懐く神との関係性の絆であり、要するものは知識ではなく愛である。
信仰の対象は、神であり御子であり聖霊であり、キリスト後に在っては、その三つが揃って求められるものとなる。

特に終末では聖霊の働きに対する信仰によって、人々は聖徒への態度を決することになり、それが裁きを分けるものとなる。
神は見えない霊であられ、キリストも霊に復活して不可視であるので、終末預言では見える地上の偽キリストへの警告がされている。
神と御子が見えないゆえに人の信仰が試され、各個人の内奥が自他共に明らかにされることになる。
それゆえ、信仰が試されるのは終末に聖霊が働く時となる。



6.聖書について
ヘブライ民族によって記録伝承されてきた聖典であり、創造神と人との関わりの記録である。
人の能力を超えた内容が記されており、上からの啓示であることを示している。

ユダヤ教徒がヤブネ会議で定めた旧約聖書現在の39書と、初期ギリシア教父エイレナイオスが認めた新約聖書27書は、神の霊感による神の発言を含む経綸、また神と人々の交渉の記録集である。
そのほかに多くの外典や疑典も存在しているが、聖典に対して価値が薄く、または聖典に通底する経綸と矛盾するところで読まれるにつれて明らかになるもので、外典や疑典は自らの内容の価値の不足からそう分類される。

聖なる書に含まれた諸書は、人類が陥った『罪』からの救済の計画が啓示され、贖い主として犠牲を捧げた『罪なき方』イエス・キリストが指し示めされ、最終的に『愛』によって神と人と結ばれる人々を贖罪し、神と共に永遠に歩ませるに至らせ、そうして創造の業が完遂され、神の『御心が地にも成る』ことを知らせることに於いて、今日では唯一の信頼できる情報源となっている。
しかし、その内容には依然謎に包まれたところ、また古代の忘れられた事柄を含んでいるので、そのすべて理解できる者は誰もいない。

また、聖書に従えば義を得、あるいは正しい崇拝が行われるわけではない。かつてユダヤ教は、メシアの現れに対して、書かれた言葉に固執する余りに道を踏み外している。彼らは書かれていなかった事柄に躓いてメシアを退ける悪行を遂行してしまったように、聖書は、人の『心と想いの意向とを刺し分ける』ことに於いて徒ならぬ裁きをもたらす『神の言葉』でもある。
そのうえ、神は語り終えたとは言えず、『新たな巻物が開かれる』とされるように、将来に聖霊によって語る『聖なる者たち』が『新しい契約』に参与して現れるときに至るなら、聖霊の言葉によって『語っている方を拒むべきでない』。聖書の全巻は終末に焦点を合わせており、それはアダム以来続いた『この世』が変えられる未曾有の変革の時を知らせている。



7.信仰者について
『信仰者』(ピストス)とは、単なる信者というばかりでなく「信頼できる者」をも意味する。単に信じる以上に、他者への『忠節な愛』や「慈愛」を働かせるよう内奥の動機が努めさせる人を意味する。

今日の信仰者は、聖霊によって召し出される神の民を生み出すことになる母体となるべく、『聖徒ら』の登場の前にその意義を理解するようになり事前に『目覚めている』者となる。これら早くに現れる信徒の集団は『シオン』として旧約預言者たちに先見されている。彼らは契約によらず自発的に現れ終末期の直前から幾つかの秘義を理解する。そのためか旧約預言と共に黙示録でも、世に在って『光を放つ』とされている。しかし、これは他の人々に対し神の前に高一等の立場を得させるものではない。

第二世紀から三世紀にかけて、奇跡を行う聖霊が地上から引き上げられ、キリストの地上への監臨が終わって不在となって以来、世界は『誰も働くことのできない夜』を過ごしており、聖霊ないキリスト教界は蒙昧と異教的習慣の中にある。ゆえに、現状のキリスト教界は、終末に聖霊が再降下するときに、回復されるキリスト教に最も強く反対する勢力となり兼ねない状況にある。彼らを中心とする旧来の宗教集団は、悪辣な世俗権力の集合体を慫慂し、聖霊で語る『聖なる者ら』を聖霊と共に亡き者とさせる。

その一方、終末に先立って現れる『シオン』は、聖徒らの母体となるだけでなく、聖徒の現れの後には、聖霊の言葉に信仰を懐く諸国民の流れを受け入れる中心となる。シオンに属する者らは聖徒らの業を受け継ぎ、聖徒を退けたこの世、特に宗教上の勢力を糾弾し、その滅びを歓喜することになる。そのときに『シオン』は象徴的にこの世に対して高く上げられる山となり、神からの栄誉に溢れ、天界からの光を放つ存在となり、やがては『新しいエルサレム』の降下する象徴の場となる。

キリストの臨御する終末を待つ間、『シオン』は年毎にイエスの最後の晩餐で制定された『主の晩餐』を出エジプトの夜に当たるユダヤ暦ニサン月14日に守り、聖霊の注ぎと聖徒の現れを迎える儀式を行う。これがキリスト教徒に与えられた唯一の定期儀礼である。
聖徒が地上を去ると、世の『北の王』と『南の王』との二度の脅しに曝されるがどちらからも保護を受け、二度目には『神の王国』の完全な勝利により『この世』からの解放に向かうことになる。



8.終末について
終末は、第一に『聖なる者ら』の忠節が試みられ、第二に彼らへの処遇の如何によって世界の人々が裁かれる。

終わりの時に、主イエス・キリストは審判のために『雲に在って』見えない様で臨在し、『契約を保つ』ために聖霊をある人々に注いで聖徒と成し、世界宣教を行わせ、その言葉に信仰を働かせる人々を保護して『神の王国』へと導き入れる。
そのために『聖なる者ら』は既存宗教と権力からの迫害に遭い、キリストの道を歩むか否かが試され、生ける聖徒と死せる聖徒との裁定が復活と昇天を以って確定し、天にイスラエル十二部族が召集され、『キリストの王国の権威が建てられる』。

次いで、地上の人類に対する裁きが臨み、世界は脱落聖徒に対する究極的偶像崇拝であるところのアンチ・キリストの崇拝に屈服するか否かが人々を最終的に分けるものとなる。
その裁きは、各個人の利己心か利他心かの選択となり、内心を裁く神の前に在って、自他共に認め納得する決定として表れる。

アンチ・キリストは公権力を使嗾して旧来の宗教体制を亡きものとさせ、世の信仰心を集めて世界宗教を建てるが、これが神と人との戦いを招来させ、その全き敗北の後に『神の王国』の支配が到来する。



9.神の王国について
この『王国』とは、「天国」でも「心に中に在る」ものでもなく、現実の支配として到来する。

この『王国』が世界を支配することになることは、世界覇権を打ち砕いて終わらせる『人手によらず切り出された石』、また『地上がくまなくYHWHの激情の火に焼き尽くされる』との旧約の預言の数々にも示されている。それはこの世の支配が、神の王国の支配に取って代わる事態を教えるものであった。

その『神の王国』の千年支配と贖罪は、最終的に人々から『罪』を除き、創造のままの『神の子』として回復させることにある。それは安息日が前表し『第七日』として俗世への隷属を過ぎ去る『聖なる日』に相当する。
全地は十世紀かけて創造の意図を反映したパラダイスの景観を呈し、後に復活する諸世紀の人々への証しとされるに相応しい世界が築かれる。

『神の王国』はキリストの到来によって、ユダヤ人たちの『ただ中に在る』と言われたが、ダヴィドのような偉大な王の到来を願ったユダヤ人指導者らはメシアに気付かず、イエスを受け入れたのはほとんどが下層民であった。その結果、『神の王国』を形成する『アブラハムの後裔』はユダヤ人で満たすことができず、『東や西から来た』諸国民からも『その数を満たすために接木』される必要が生じ、キリスト教は世界に宣教されていた。
その満たされるべき人数は『十四万四千』であるが、『入ろうと努めながら入れない者は多い』のであり、『新しい契約』に預かる聖徒の総数は、その数字を相当に超えるものとなる。



10.神の目的について
神の目的は、人を支配することでも、崇拝させることでもなく、創造物であり『神の象り』である『子』としての栄光を回復させることにある。
『罪』に陥った人を贖うべく、神は『独り子』をアダムと同じ地の人として遣わし、その『罪』のない犠牲によってアダムの『罪』を相殺させることをよしとされた。
しかし、敢えて『罪』に留まる者については、その犠牲の価値に達しない。そこで『裁き』が行われる。

神はあらゆる死者を肉をもって復活させ、彼らをご自身の栄光の様に造りかえ、すべての魂に対して最後の問い掛けを行う。
すべての魂は『罪』のない状態でエデンの二本の木への選択を問われるが、そのために『昔からの蛇、サタンと呼ばれる悪魔』をも呼び戻し、その誘惑の下で「忠節な愛」が問われる。

この神ご自身による最終的な裁きに「忠節な愛」を選んだ魂は、神と共に生きる立場を得て永生に至り、死も墓も永遠に過去のものとされ、神は万物を新たにし、ここに創造は完成し神の七日が終了する。



11.信徒
信徒は十四日主義を標榜する。十四日とはユダヤ教徒の過越し祭及び無酵母パン祭に準拠してユダヤ陰暦ニサン月14日をキリスト最後の晩餐の夜として『主の晩餐』を挙行するものである。キリストの死は当時のユダヤ教の祭礼に関わって迎えられたことから、その日付の認定は天文学に拠らず、ユダヤ教の祭礼の前日を指定する。

当派の信条に価値を見出し、『主の晩餐』を例年に可能である限り挙行または参加を継続している者を信仰の同志と見做す。
(不可能な者であっても、状況に鑑み認める)
信徒の集団は聖霊降下と聖徒らの現れを待ち望み、旧約聖書での子らを生み出す『シオン』となることを目指すが、それに成功するならば、終末には神から新たな名を以って呼ばれることが預言されている。

信徒はまた、第二世紀小アジアのキリスト教徒に倣い、十四日主義者であると共に「千年期説信奉者」でもある。
そのため、信徒は自らを「キリアスト」(Chiliast)とも称することも妥当と言える。



12.救いについて
神はアブラハムの子孫からなる『祭司の王国、聖なる国民』を通しての人類を『罪』から救うことを意図された。その第一の『神の子』がイエス・キリストであり、その完全な『義』は『新しい契約』を通して『神のイスラエル』に分与されることを通して、アブラハムへの神の約束の子孫が現れ始めた。
神はキリストを通して天界のものも地のものも、ひとつのオイコノミヤの中に集めることを目的とされている。

従って、神の救いは信者だけのものではなく、信者から外部に向けて広げられるべきものである。
すべての人は思想信条の如何によらず、『聖徒』への反対者また迫害者にあってさえ、終末に機会が開かれている最後の時に至るまで、キリストの贖いに信仰を働かせるならば救われる。

このことは、荒野でモーセが銅の蛇を掲げた故事をキリストが言及し、自らを処刑する者らに執り成しを祈っている姿に反映されている。また、黙示録も聖所と崇拝者は測っても、踏み躙る諸国民のいる中庭は測ることが禁じられているところにも暗示されている。

信者だけの救いを唱えることは利己主義を煽ることになり、その教えはキリスト教たり得ない。





 新十四日派オフィシャルサイト



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安息日の意義   -綱領-

2017.10.05 (Thu)

安息日(シャバット)[שַׁ בַּ ת]


安息日とは何か?

『安息日』とは、モーセの律法の中でも初めの「十戒」に含まれる第四の条項(出埃20:8)で定められた、七日毎の不労働日の規定である。律法上では、異神崇拝、偶像崇拝の禁止、神名の乱用の戒めに次ぐほどに重要度の高い位置を占めている。即ち、神と民の関わりに関する四条項の最後が安息日となっている。この条項については、十戒の中で最長の戒めを成しており、由来と対象までが述べられ、十戒の中でも格別のものと見做し得る。

Ezk20:12〜21は、特に安息日がイスラエルを諸国民から分けた印であったと語られる その神は七日目を休む創造神であり、民は神によって聖別される。
また、不労働の習慣については、マナ降下と拾得に関わる指示が十戒の授与に先行していた。(出埃16:13-27)

最初に聖書に七日毎の労働の禁止が現れるのは、荒野のイスラエルの民がマナの供給を受け始めたところにあり、六日目には他の五日の倍の量を受け、七日目の安息が守られるよう配慮されていたところであった。(出埃16:13-27)
七日毎の休息の根拠としては、神が創造の六日間を終え『YHWHは安息日を祝福して聖と成した』とされ(出埃20:11)、神の創造の「六日間」という期間にちなみ、イスラエル人も六日の労働日の後に、神が一日を取り分けて『休み』*『聖なる日』としたように、イスラエル民族が一切の仕事から離れ、休息するよう、神は律法を通して命じた(出埃20:8-11)。また、家庭で火を起こすことも禁じられ、家事も制限される。(出埃35:3)。*(創世記2:2の「休まれた」は未完了態)

安息は、神に対して『聖なるもの』とされなければならず、その安息を犯して生業に携わる者は死刑に処せられるべきであり、その範囲はイスラエル血統だけによらず、同居の奴隷や居留者らから家畜にまで及ぶべきものとされていた。(出埃20:10)
また、種蒔きや収穫の時期であっても例外はなかった。(出埃34:21)但し、民が幕屋や神殿に上ることを要求してはいない。むしろ、距離の長い移動は禁じられ、自宅に安んじるよう求められた。(出埃16:29)その効用のひとつには、家庭の親密さの増進があったと思われる。捕囚期の後には、民は安息日を守る習慣を失っており、これはエズラやネヘミヤの強い指導を必要とした。それからは安息日に会堂に集まり律法の朗読を聴く習慣が始まる。この習慣には後のメシアも参加しており、神の承認が認められる。

この掟が初めに与えられた荒野において、早くも薪を集めていた者が捕えられたが、神はこの者に死刑を課している。(民数記15:32-36)
ほかに死刑が命じられた条項には、異神・偶像崇拝、交霊術、飲血や脂肪などの食物規定への違反、祭司の崇拝方式の違反、故意の殺人、人身供儀、姦淫、強姦、獣姦、同性愛行為、があり、安息日の遵守が相当に厳格に求められていた。

不労働の規定については、安息日のほかに、律法で定められた三つの祝祭に規定された『聖会』とも訳されるアツェレト*(レヴィ23:5/23:21/23:32/23:36/23:39/16:29-31/)、また、各月の始まる新月の夜からの一日も安息を守ることが義務付けられていた。そのため、祭と共に安息日と新月の日には聖なる事柄に関わる日と認識されていたことが二王国時代の聖書記述にも表れている。(列王第二4:23)*(意味は不詳)

安息日は神の聖性を重んじることが関連付けられ(レヴィ19:30/26:2)、毎安息日には、YHWHの前に、雄の子羊二頭、十分の二エファの油で湿らせた上質な小麦粉が捧げられるよう求められていたが、これは常供の捧げ物と同じ内容であるので、安息日には二倍の捧げ物が為されたことになる。(民数28:3-10)
(新月には、子牛や山羊などを含めたより多くの供物が求められている(民数28:11-15))

安息日毎に聖所の黄金の食卓上の12のパンが新たなものに置きかえられていたが、これは『覚えのパン』(御顔の前の)と呼ばれた(レヴィ24:5-8)。それらのパンはアロンに属する祭司らの『極めて聖なるもの』となり、聖なるところで彼らに食されるべきものとされた。<これが後代に、逃避行中のダヴィドに提供されており、それを更にキリストが指摘している>

モーセは申命記で、安息日の意義につき、イスラエル民族がエジプトで奴隷であったところを神が力強い御腕をもって導き出されたことを覚えているためである(申命5:15)としている。
従って、『安息日』は絶えざる「奴隷労働からの解放」と、そこからの神による解放を記念し再考する意義を有していることになる。

レヴィ記25章では、安息日を拡大した安息年とシャヴオートを拡大したヨベルについて規定しているが、これはほどなくして遵守されなくなっていたが、ネヘミヤ記や外典によれば、少なくとも負債の免除と食糧貯蔵については記されている(ネヘミヤ10:31/マカベア第一6:49-53)。

また、レヴィ記26章では、イスラエルが安息を守らなくなることを予告しており、『約束の地』を追われる間、その地自身が『安息を払い終える』と早くも予見している(レヴィ26:34)。



安息日の再開の困難

しかし、捕囚後のネヘミヤの時代には、ユダヤ人は律法遵守の習慣を忘れており、指導者らは安息日の規定を守らせることに多くの労力を割いている。(ネヘミヤ13:15-22)

その後、ユダヤ人の律法学者が隆盛を迎えてから、律法の厳守と一層の適用を唱える傾向が強まり、キリストの到来までには口頭伝承から安息日での規則が多く加えられ、最終的に39箇条の遵守事項が指導者層によって定められていった。キリストが安息を守っていないと咎められたのは、病気を癒すこと(マルコ3:1-6)や、麦の穂をむしって食した(マタイ12:1-8)ことが、それら付け加えられた規則に反して仕事を行ったと見做されたことによる。

その際に、キリストは『人の子は安息日の主である』と言われた(マタイ12:8)。この『人の子』と『主』は定冠詞を伴うので、「キリストが安息日の主である」と言っていることになる。それは、七日に一度巡って来る不労働日の主がキリストである、という意味にはならない。キリスト教に於いては、使徒らの時代以降には、七日に一度の不労働日は要求されておらず、当時の宣教と集会に便宜的に利用されている。

従って、キリストが「安息日の主である」とは、律法に規定された安息日の対型について述べていると見るべき理由がある。

その対型となる事象は『神の王国』の千年期が大きな蓋然性を持っている。即ち、神の創造の意図から逸脱した、長い『この世』という時代の終りに、千年の王国の支配が臨むことで、人々は『顔に汗してパンを食べ、遂に地面に帰る』という心労と空虚な労働の日々を終え、アダムが堕罪以前に有していた神の子の立場を得るべく、象徴的不労働、生きるために生きる生活を後にすることを述べていると見做す理由がある。


安息に聖俗の概念を提起するネイヴィーム

安息日が人の聖と俗を分かつものとなることを再び指摘しているのは、バビロン捕囚に関して預言したネイヴィームであり、彼らの活躍した時代には第一神殿が失われたことで、律法の完全な遵守は不可能に陥った。
その状況を予見しつつ、預言者らは律法の意味するところを再考する言葉を記している。

『安息日を喜びの日と呼び、主の聖日を尊ぶべき日ととなえ、これを尊んで、己が道を行わず、己が楽しみを求めず、空しい言葉を語らないならば、その時あなたはYHWHによって喜びを得、わたしは、あなたに地の高い所を乗り通らせ、あなたの先祖ヤコブの嗣業をもって、あなたを養う」。』(イザヤ59:13-14)

『「わたしが造ろうとする新しい天と、新しい地がわたしの前に永くとどまるように、あなたの子孫と、あなたの名は永くとどまる」とYHWHは言われる。「新月ごとに、安息日ごとに、すべての人はわが前に来て礼拝する」とYHWHは言われる。』(イザヤ66:22-23)

エレミヤは、『父祖に命じたように、安息日を神聖にしなければならない』としつつ、それが守られていない当時の状態を指弾している。(エレミヤ17:19-22.27)
加えて、『安息日を神聖とするなら、王たちが入って来てダヴィドの王座に就き、エルサレムは定めない時までも人で満ちる』と述べる。(17:24-26)
しかし、実際の歴史は、民が安息日を神聖としなかった為にエルサレムの滅びが起こったことを預言と歴史が対照して知らせるものとなっている。
エレミヤの言うように、ダヴィドの王朝は以後復興しておらず、最後の王となったゼデキヤ以来、その座に就いたエッサイの根からの王は一人も居ない以上、安息日がメシアの王権を得た再来と深く関係している。

更にエレミヤでは、バビロン捕囚を招いた民の律法不順守の罪の全体が、恰も安息を守らなかったことに集約されているようにさえ語られる。
その罪科を通して、事の聖俗が分けられず、更に敷衍すれば、神YHWHを聖なるものとしなかったということになろう。
従って、イスラエルが律法の条項を如何に守ろうとも、安息日条項が機能するか否かは別問題であったことになる。即ち、不労働日を設けるか否かよりも重い意義があり、それが「聖性」の問題であったと言い得る。(イザヤ1:13)

ネイヴィームの預言の中で、エゼキエルも『安息日を汚した』としてユダの民を譴責する預言を伝えており、バビロン捕囚に至った原因のひとつに挙げられている。(エゼキエル20:18-23)
この中で『わが安息日を聖別せよ。これはわたしとあなたがたとの間のしるし』となり、この民の神がYHWHであることを示すという。(エゼキエル20:20)これは対型を予感させる。なぜなら、キリストの時代にユダヤは安息日の精紳から離れていたことを指摘されているのであるから、更なる後代に意味を持たねば最後まで未成就で終わる。

エゼキエルは神殿の幻の中で、在るべき律法制度を啓示され、その中で、祭司らは『聖と俗との区別を教え、汚れたものと、清いものとの区別を示さなければならない』とし、そのうえで『わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と掟を守らねばならない。また、わたしの安息日を聖別しなければならない』としている。そこでは安息日を含む聖日を守ることが、民族の聖性に関わっていることが示されている。(エゼキエル44章)

また、「土地が安息を得る」という概念は、単に耕地を多年に亘って荒れ果てさせるという実際上のことではなく、俗化の痕跡を土地から過ぎ去らせるという象徴的意味を持っていたのであろう。(レヴィ26:34/歴代第二36:21)

その後、帰還の民の間では、安息日を不労働に保つ事柄に注意が向いている。(ネヘミヤ13章)
それは、捕囚後のユダヤ人自身が、律法順守の生活を再構築する必要があったことを知らせている。(それはまたトーラーやタナハの全体を復習していなかった民の状況を知らせている:エイレナイオスの聖書伝承の話には真相が込められていたのかも知れない)
(バビロン捕囚がディアスポラとなる間にシュナゴーグの習慣は発達していなかったのではないか?、そこでネヘミヤとエズラが相当に労力を傾注しているのであろう)



安息に入るという概念

キリスト自身も律法の下に有り(ガラテア4:4)、安息日を守る務めを有していた。従って、その行動には律法下での安息日の適正な在り方が反映されていたことになる。
また、キリストは安息日に会堂に入り、会衆に混じっている姿が福音書に見られ、集会が律法で命じられたものではないが、その習慣に従うところが見える。(だが、それが「崇拝」であると言える根拠には至らない)

また、宗教指導者層の安息日概念と癒しについてキリストは再三の衝突を見せている。その機会は多く、安息日について相当な、また確固たる意義を教えようとの意図を強く示す。
当時のタナイームやパリサイ派は、不労働の徹底に於いて安息日の意義を主張したのに対して、キリストは奇跡の癒しを含む聖性の意義を強調し、民の苦痛の除去を通して、エデンへの回復の概念の呈示が見られる。


新約聖書中で律法の安息日の意義を説明するのはヘブライ人書簡である。
そこでは『神の休みは残されている』ので、その休みに入るようにヘブライストのイエス派聖徒を説得している。それは七日毎に不労働を守ることではない。(ローマ14:5-6)
その休みとは、人類史全体を包含する『神の第七日』の『神の休み』に入ること、敷衍して律法の業から解放され、キリストの犠牲によって『罪』から解放されることを意味した。(ヨハネ8:34-36)

西暦七十年の近付いた頃に書かれたヘブライ書は、ユダヤ人イエス派に律法から早急に解かれるべきことを説いたものであろう。彼らにとっての『神の休み』とは、モーセから解かれて、キリストの自由に入ることを指していたと思われる。これは、『罪』から逃れられない「人間の義」を立てる律法遵守の空しい務めから解かれ、信仰による「神の義」の安息に入ることをも指している。

だが、『罪』からの解放による休みを得るのは最終的には聖徒だけではない。
聖徒以外の人々については、千年期を得てはじめて可能であり、それまでは完全な意味での休みに入ることはない。
そこで週に一日の安息日が示していたのは、『この世』に在っても、この世のものとならない「聖性」の模式であったと云える。

律法下のイスラエルは、安息日を通して、神の休みの『聖なる』意義を模式的に味わう機会があった。
それは単に不労働の日を七日毎に設けるという『爽やかにされる』というものを超えており(出埃23:12)、神に倣う休みに入る事、それは即ち、『この世』に在る人々が「アダムの業」や、『世の概念(想い)』(ストイケイアを含意)の拘束から解かれることを意味すると思われる。(ガラテア3:9/コロサイ2:8/ヘブライ5:12/ペテロ第二3:10・12)


「アダムの業」と安息の対比

安息日は、人間の生業との対照を成している。
それは『この世』と呼ばれる現状の人間社会が人にもたらす空虚さと、『神の象り』としての人の栄光との対照と言える。

この世では、アダムの堕罪から始まった、神への無関心と互いへの不倫理に特徴付けられている。
即ち、他者と生きて行くのに欠陥を負っているため『罪の酬いは死』とされ(ローマ6:23)、アダムの命に生きる者はすべてが、いずれ寿命を迎える定めに置かれている。

そのうえ、その生涯は『顔に汗してパンを食す』(創世3:19)という生きる糧のための労働が科せられている。それは、人が創造された当初の神の意図ではなく、「他人のためには働かぬ」という利己主義が、当然にもたらす通貨などを介した「互酬制度」が避けられない宿命であり、実利を得てはじめて経済が回るのも、人に巣食う利己主義の宿命である。それは社会主義の計画経済の不効率と衰退の原因でもあった。
人間は社会主義でさえ成功させる程に倫理的ではなかったのである。むしろ。蔓延する利己主義は、人々から拭い去ることのできない争いを人類社会の特徴とさせている。(ヤコブ4:1-4)
そこで「アダムの業」は、神からの処罰というよりは、堕罪の必然であった蓋然性が高く、それは安息日の制度によって更に補強される。

更に堕罪した人間社会では、一生の間に様々な悩みと苦しみを避け得ず、互いの貪欲に対処するために善悪を法に定め、実力(暴力)を以って規制する政治を必要とする社会を造り上げたが、それでも人間は互いに害し争う性質を後にすることには成功して来なかった。人間そのものから『罪』が拭えないからである。

こうした『この世の有り様』は、一定の思考傾向を生み、それは自己存在の根源、また創造者に対して無頓着にさせる。
これを新約聖書は『この世の(基本的)概念』(ストイケイア)と呼んでいるように見られるが、これが旧約で繰り返された『聖と俗』の『俗』(ハヘル[החל])を形作っているのであろう。<LXXでは[βεβήλων](獣的)が『俗』に対応しているが、ストイケイアと共に、二つの単語ながら、同じものを指しているようにとれる>

この『俗』の傾向は、『罪』により、創造された神の意図から逸脱したこの世での人の生涯は、『萌え出てやがて枯れゆく青草の如し』と描写されるように、空しいものとなっている。(イザヤ46:6)
詰まる所、この非情な世界に生まれてくる人類は、基本的に生業に没頭し、子を成して養育し、次の世代に命や業績を繋いで往ってゆくことが残された意義、また使命(創世1:27)となっている。
そこで『俗』とは、神に関わらない、刹那的で具象的な思いや世への隷属的生活態度を表すと言える。

この世では、どれほどの名声を得ても、如何に大きな財産や業績を残しても、或は、どれほど慕われようとも、現在まで誰にも同じように死という命の終局が一度は免れない(ヘブライ9:27)。この虚無を当然とするのが『俗』であり、人生の意義を考えることを侮蔑し、また怠り主情的であるが、それは神と『神の象り』である人をも卑しめることである。(コリント第一2:14)

神から人類の救いのために任命されたキリストは、『罪の奴隷状態から、解放するために』(ローマ8:18-22)この世に来られた。
それは、自らの犠牲によってアダムの『罪』を相殺し、人々に創造本来の『神の子の自由』を得させ、この世の隷属から解放するという、どんな偉人にも不可能な『罪』からの救いを成し遂げるためであった。なるほど、この観点に立つと『人の子は安息日の主』と言える。その働きは、人を拘束することではなしに、解放することである。


聖俗を分かつ安息

日常の生業に没頭していれば、今の命を生きることにばかり想いが向けられ、自然に『この世』に象って心が形成されてゆくことになる。だが、それでは創造された当初に人間に意図されたあるべき姿から遠ざかり、この世の隷属を当然のものとする奴隷の想いを培うばかりになる。(ヨハネ8:34)

そこで神は荒野のイスラエルの民にマナを与えたが、それは『人はパンだけでは生きず、人はYHWHの口から出るすべてのことばによって生きることをあなたに知らせるためであった』(申命8:3)とモーセはその教訓を指摘する。そのマナは週の六日目毎に倍の量が与えられたことを通し、週に一度の『安息日』をもたらした(出埃16:29)が、その一日は生業を行わず、アダム以来の『顔に汗してパンを食する』業から離れ、『神の子の自由』を覚え、それに思慮を巡らし、神と互いとの関係を律法を介して再考する機会とされるべき制度であったと言える。

また、奇跡の食物であったマナの降下は、荒野で多くの民の命を支えるのは、まったく人間の努力の及ばないものであることも明示したが、キリストは山上の垂訓の中で、『何を食べようかと思い煩うことを止める』ように諭されている(マタイ6:31)。これはその信仰を必須とするが、七日に一日は生業に携わらなくとも命の支えられることを信じることは習慣化した今日では難しいことではない。しかし、それは週休をとるか否かの問題ではなく、人が命を支えることについて、まったく自らの努力によると思い、神の介入を考慮しないか否かが問われている。

神は律法に於いて、貧しい者らへの配慮を再三示している。また、マナがそうであったように、神は人の贅沢や、成功を心に掛けないが、『この世』にあって魂を苦しめている者らには、その命を支える善意を注ぐ意志を表している。まさしく、荒涼とした土地を行き来するイスラエルの民の食を絶えることなく支え続けたのが天からのマナであった。
彼らはエジプトの奴隷状態から解放された上に、現代までどんな政府も実施できなかったベーシック・インカムのような生存の保証を何も無い荒野で四十年間受けていた。それは彼らが神YHWHを識るためであった。(申命29:5-6)

やはり、キリストの「主の祈り」に込められた『今日、この日のパンをお与え下さい』との言葉(マタイ6:11)は、命を支えるための糧食について、『天の鳥』のように神が養うことにおいて無関心ではないことを教えるものとなっている。(マタイ6:25)
但し、この善意は神との関係性を重んじ、不労働を通して『聖なるもの』とすることが求められた。即ち、俗世のあくせくと「生きるために働く」という姿勢を離れ、まったく『この世』に飲まれてしまわないための安息であり、神の聖なること、また、人間自身も本来は『この世』に生きるようには創られていないことを意識するべき仕方で、その不労働を過ごさねば意味は無かった。

そこで、奪い合いの『この世』に在って、神は引き続き貧しい魂の願いを叶える意志(詩篇145:16)をキリストを通して表明された。
『この世』は「生きてゆくためには懸命に働かねばならない」と脅迫するが、真の供給者は実に神である。『この世』は人々を脅して懸命に働かせ、それでも酬いを少なくし隷属状態に置いた上で、神に関わる神聖な物事、形而上の事柄を忘れさせようとしており、現に大半の人々はそうして『この世の神』に平伏している(ヘブライ2:14-15)。神に関する事や人生の意義については考えることさえ卑しめる傾向を持ち、宗教と云えば現世的利益を請合うことで利己心を更に助長し、アガペーから遠く引き離しているのである。

『安息日』は、どのような状況下に在っても、それぞれの事情に応じて、自分を支えるものが自己努力だけではないことの信仰を表明する機会ともされており、それは一年間の不労働を求めた律法中の『安息年』の条項によって一層強調されている。(但し、安息年の方は実施が困難で、形骸化、また行われなくなっていった)

確かにほとんどの人は生きて行くために、基本的には職を得る必要がある。しかし『この世』は、働こうとの意志(箴言21:25)があっても職を提供しないということが起こる。その絶対数が足りなかったり、厳しい条件を付けてきたり、また、能力ばかりか身体的条件をも問われ職に有りつけないという事も平素起こる。どの社会でも普遍的に貧困は絶えず(マタイ26:11)、簡易宿泊施設に入居できればまだしも、路上や車上生活、また住所を持たない人々が発生することを先進国も防げない。

職に就けたとしても、恰も奴隷のように無理を強要され過労働に陥るることも珍しくないし、様々なハラスメントを受ける危険はあらゆる場所に存在する。その根底にある原因は、利潤の追求のために利己的に過ぎる振る舞いが往々にして搾取を生じさせてきたからであり、困窮者を必要として常に造り出す社会、それが利己心を基調とする『この世』というものが避けられない不動の奴隷制度の実態でもある。

経済格差の上層に上るために、人はより利己的で悪辣に振る舞うよう圧力を受け、特に野心を懐く人々には不義理を行う必要が一層多く生じる。それを望まないなら、富むことや成功を人生の目標にしない他ない。従って『この世』で温順な人々は虐げや卑しめを受けることになる。それが『この世』の掟となっており、その『神』は明らかに創造神ではない。(コリント第二4:4)

『この世』では、命を支えるものが人の労役にのみ由来するものを考えられており、その強迫観念から生きて行くために『奴隷状態』を作り出してきたが、それが神無き者で構成される『この世』の姿である。貧しい者に、それが現実的で間違いのない見方であるかのように「明日どうやって生きてゆくか」という恐れを植え付け、大多数の人々を、ただ懸命に労役に就く奴隷としてきた。
それが『この世』の間違いであり、『この世の支配者(サタン)は裁かれ』なくてはならない。(ヨハネ第一5:19/ヨハネ12:31・16:11)

〈新教派が教えるような、各自が生業に勤勉であることが、神への奉仕であると云う見方は、『この世』が神の是認の下にあるとの前提があり、安息日の概念とは一致しないことになる〉

『この世』は、困窮への恐怖によって人を隷属の下に置き、僅かな人々に富みを集中させ、多くの人々の貧しさの上に強大なピラミッド構造を作って来たが、それはどんな時代でもほとんど変わるところがなかったし、今後も変わる理由はない。利己心を原理とする場合、富の偏在も、権威や権力の寡占集中も不可避であることは、まさしく『この世』の実態が示している。(マルコ14:7)
そこでは止め処もない競争と奪取が繰り広げられて来た。(伝道4:4)

(ロシア貴族がソ連のノーメンクラトゥーラに入れ替わった事が、まったくそれを証明している。世襲制から人口比率まで同じことになった。ブルジュアを淘汰しておきながら、弱者を解放する筈の新たな科学的イデオロギーが、やはり貴族制度と同じ特権階級を同じ比率で製造していたが、それが、人間の利己心や貪欲さと言う『罪』が、どうしても『この世』と云う以上をもたらさない証左となっている)

『この世』では身を削って労働するなら、命を支えられるばかりか、裕福で幸福に成れるという不文律を信じている人々は多いが、それでは説明の付かない事例は多く、労働への没頭が必ず幸福をもたらすとは言い難く、その懐く幸福の質にも問題がある。キリストや使徒らはそうした考えを度々に糾弾しているが、その理由は命を支えることに関するその人の内の神の不在であった。

だが、そのように生涯を終えるとすれば、その人にとって、創造の神と創造された自己の意義とを意識することはほとんど失われてしまう。仕事に忙しく携わることが目出度く幸福であるという通念が社会に見られるのは、『この世』が抱えた問題の必然の帰結であるが、その環境で醸造されるのは人生の虚しさを顧みない「俗」の精神であり、その特徴は、自己愛と金銭愛、また創造の神への無関心である。そこには、創造の神とそこから逸れた『この世』との敵対が見られる。(ヨハネ第一5:19)
『この世の神』の目的の一つは、自らに象られた無慈悲な者になるように強いて、温厚な人々を常に貧困や多忙にいたぶりつつ、神との関係を阻害することにある。

安息日は、このような人の俗的日常に切り込み、神に関わる『聖』を意識させ、『神の象り』としての誉れを回復し、最終的な救いとその手立てについて想いを馳せるために有効な制度であった。だが、その精神を今日も保つよう個人として努めることは可能であり(伝道4:6)、それこそが終末に心を整えることに成り得る。(ヨハネ第一2:15)

即ち、安息日の精紳は、不労働の日を取分けることにはなく、創造の神と自らの関係を顧みるところにあると言える。それゆえ、キリストが安息日に癒しの奇跡を行ったのも、その聖霊の業に神の証しが有り、人々に創造されたままの姿を回復させようとの神の善意を表すものであったと観ることができる。(ローマ3:23/ヨハネ1:12)
それは、神とその聖なる意志への深い関心を持続的に持ち、俗な思考習慣を定期的に断つことを意味することになる。また「この世の奴隷とはならない」との意志を固く維持する姿勢も要することであろう。

そこで神がアブラハムの遺産を相続するイスラエル民族に律法を与えるに際し、その条項の遵守を通して、彼らは『聖なる者でなければならない』のであり、『聖である』要件として神に無関心で居てはならなかった。当時は、祭祀への専心と律法の遵守によってそれを示すべきであった。(レヴィ18:30-19:2)

神の祭祀の存在そのものも『聖と俗の異なり』を知らせるもの(レヴィ10:10-11/エゼキエル43:23)となるべきであった。
しかし、それはイスラエルの民の全体に俗であることを禁じるものではなく、その違いを意識させ、神に関わる事柄が世的な俗事と隔てられるべきことを諭していた。即ち、神は休みの中に住まわれる(出埃20:11)のであり、民は七日に一日を取り分けて聖なる休みに入ることを命じていた。(出埃31:15)


祭司としての安息日の働き

その対型として、キリストの聖徒ら、即ち『神のイスラエル』に向けても、『安息日を神聖なものとせよ』と旧約預言を通して諭している。彼らが天界に召された後には、神殿祭司のようにすべての日々が神聖となり「聖所に安息はない」とのユダヤ人の言い習わしのようになるに違いない。

パウロが『あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。』と記した(ローマ12:2)のは、聖徒ばかりでなく、最終的に、『奴隷』ではなく創造された『神の子の栄光』に回帰すべきすべての人に求められるべき精紳と言える。

そこで、安息日の精紳とこの世の精紳とは対照的な敵対を意味しており、聖書中では再三に、安息日が神聖さと関連付けられる(出埃19:21/レヴィ26:2/イザヤ58:13/エレミヤ17:22)一方で、この世は習俗と関連付けられている(エレミヤ17:27/エゼキエル22:8)。人は、安息日が解放と自由を意味する一方、この世に対しては様々な意味で隷属状態にある。

この点で、イスラエルが『安息日』を守らなくても、守っても共に失敗した原因は、いずれの場合も、解放や自由に無頓着であったことにあるように見受けられる。聖と俗の異なりの本質は根本的に解放と隷属にあったのであろう。バビロン捕囚とヘロデ神殿のエルサレムの滅びは、共に血統のイスラエルの聖なる事柄への無関心による。

キリストが『安息日を神聖でないかのように扱ったとしても罪せられなかった』と言われる(マタイ12:5)のは、神殿祭司には安息日の務めがあることを指している(民数28:10)。この点ではユダヤ人の間で「聖所に安息はない」と言われていたことも関連する(「神殿」p152)。幕屋や神殿は聖域であり、俗なる事物は許されず、すべてが聖でなければならなかった。

安息日が前表した『神の王国』の千年期に於いて、大祭司と祭司は休みなく働く事になるが、地上の人々からは、『この世』の奴隷状態からの解放が実現する。(ヨハネ8:34-36)

また、贖罪の日は『まったき休み』であり『この日にあなたたちを清めるために贖いの儀式が行われ、あなたたちのすべての罪科が主の御前に清められる』とされていた。(レヴィ16:30)
従って、人類の贖罪される象徴的「第七日」の安息には、『この世』の無存在が示唆される。(黙示21:1)

荒野のイスラエル人にとっては『約束の地』への入植と定住の完了は『休みを』意味していた。(ヨシュア12:10)
<スッコートには八日目の第二アツェレトが定められていた>
贖罪の日と仮庵の祭りは、祭司制度の全体が機能を果たす前表であり、それは人類が贖罪を受ける「千年王国」の安息を表していたことになる。

従って、『安息日』とは『この世』のアンチテーゼであり、アダム以来、堕罪と共に陥った『顔に汗してパンを食べ、遂には土に帰る』という人類の奴隷境遇に対する神からの解放を望ませる希望の窓の役割を持っていたと云える。そこでキリストが、癒しと蘇生の奇跡を行われたことは、まことに意義深かった。(ルカ13:14・14:5)
そこで重要なのは、厳格に七日毎の不労働を墨守させることでも、何が仕事に分類されるかの規則に拘ることでもなく、人が神の子としての栄光ある聖なる姿を望み見る機会を設け、それを念頭に置くことであったと結論できる。そこで求められいるのは自己への利益ではなく、第一に神とその目的(覚えの12のパン⇒エフェソス3:11)への関心である。


総じて
安息は、この世の有り様とは異なる物事の存在を知らしめ、「アダムの業」を回避できないとしても、この世にすっかりと呑み込まれすっかり俗化する事を妨ぐという精紳の下にモーセの律法に規定された。
安息日を守るとは、具体的には不労働であったが、不労働そのものに神の教えようとする「安息の意味」は無く、『この世』また『俗なるもの』から離れ、神の子としての栄光ある『聖』を意識させることにより、『この世』に在って『この世』のものとならない信ある人の立ち位置を保たせるものであったろう。これが守られない場合、創造神への信仰と雖も、この世にご利益を求める信仰に堕する危険を孕んでいる。それがどこにでも見られる宗教一般の姿となっている。

キリストの『思い煩うな』という教えの根拠は安息にあり、荒野のマナのように生活を支えるものがこの世が提供するものではないことを知らせているのであろう。
敷衍すれば、毎食に祈りを捧げるのは、単にユダヤ教の習慣の延長とばかり言えないことになる。世で成功を収め、贅沢をしているならともかくも、日毎の糧食が自らの努力によるとしない信仰によって、それは聖なる習慣とも言い得る。
従って、『この世』に在って何不自由ない生活だけを経験するということは、決して幸いとは言えない。『人が弱いときに強い』という神の善意の支えを経験しないからである。(ルカ18:22/列王第一17:13-16/列王第二4:1-7)

窮乏を臨ませるとの世の脅かしに屈すれは、『この世』の奴隷となるよりほかない。従って、安息を守るとは勇気ある信仰を要するものと言える。それはもはやキリスト教に於いては、日を取分けて休業することを超えており、今日の我々にとって『安息日を聖なるものとする』(申命記5:12)とは、供給者としての神を信頼し、「この世の奴隷とはならない」という生活態度と、人本来の『神の象り』に近づくよう努めると云う意義に結実すべきものとなっている。
これほど『安息』とは恐ろしいほどに深い意義を持っていることになる。結論を求めてゆくと、これは『この世』を糾弾せずには済まない。(ヨハネ16:8)



(・聖俗を分ける「聖性」
政治にせよ宗教にせよ、大志ある人が数人あるとしても、俗なる人々が入って来て利己心を持ち込み、必ず全てを同じ結果にしてしまう。
それを防ぐものがあるとすれば、聖性をおいて他に無い。聖性とは人が神から受ける影響を指し、良心や価値観を奮い起こすものと云え、必ずしも聖書やキリスト教を要するとは云えない。
大衆化を防ぐとは、即ち、聖なる事柄を求め、聖性が低下しないよう個人として注意するということになる。
『安息』とは、「聖性」と深く関わっており、「聖性」が人を利己心から遠ざける方策である。ゆえに、神に帰依するなら、象徴的な意味に於いて『安息日を神聖なものとする』必要がある。
しかし、それは律法が過ぎ去った今日には、単なる不労働の日を取り分ける事を意味しない。それは、聖と俗、神とこの世との異なりを弁え、神の意志(覚えのパン)への共感や感動の内に神聖な物事を追求する姿勢を指しているのであろう。

この世の原理である利己心の対極がヘセドまたアガペーであり、人の根本的な倫理であるそれらは、聖性の影響するところに在る。この世の業を休み、その精神を離れることは7日毎の不労働を遥かに超える意義がある。
即ち、人は神聖な事柄を求め続けるときに、身を支える心配に押しつぶされ世の奴隷となってはならず、そこに創造の神に信を置くという、神と人の絆を『この世』に在っても、いや、在るがゆえに保つことである。神はそれに応えるのであろう。人を支えるのは『この世』ではなく創造の神である。それに信を置けないならば、その人の神は『この世の神』となる。)








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復活  -綱領-

2017.06.27 (Tue)
復活 [ἀνάστασις](アスタシス)


故人そのものの復活は、創造の神だけが行い得る、死を超克する偉業である。(サムエル第一2:6)
したがって、以下のように聖書に記されキリストによって予告された復活を信じないとすれば、神が創造を行ったことを信じないに等しい。

復活については、旧約聖書に三つの模式的な蘇生の先例が記されている。
それらの例は、預言者エリヤ(列王第一17:21-22)とエリシャ(列王第二4:32-35/13:21)によって、或いは関わって起こっている。
新約聖書には、キリスト・イエスによる三つの事例(ルカ7:12-16/マルコ5:41/ヨハネ11:43-44)、また使徒らによる二例(使徒9:40/20:9-12)があり、新旧の聖書でイエス自身を含めて九度の生き返りが記録されている。但し、キリストの復活は、肉体に命が戻ったのではなく、命を霊体に受けている。殊に異なることはその命が不滅なものとされたところにある。(テモテ第一6:16)。それゆえパウロはイエスが『眠りに就いた者たちからの初穂』としている。(コリント第一15:20)また、黙示録では『死んだが、永久に生きている』者として自らを語っている。(黙示1:18)

これらの他に、ユダヤ人には、エリヤのような預言者が過去から生き返ることが信じられており(ルカ9:8)、それはイスラエル以外のアブラハムの子孫の民族にしても、モーセの古代にはそうであったことが窺える(ヨブ14:14-15)。また、福音書中では、ベタニヤ村のマルタが、死んだ者が終わりの日に生き返ることに信仰を持っていたことが記録されている。(ヨハネ11:24)
これらは、ユダヤ人の中では死後に霊魂が行く世界があるのではなく、死が『眠り』に例えられる無意識であり(伝道9:10/ヨハネ11:11)、復活することが死者への希望であったことを示しており、それはキリストの言葉によっても証拠立てられる。(マタイ22:31/ルカ14:14/ヨハネ5:29・6:40)

聖書に記された過去の生き返りは、どれも長い年月を経て後のものではなく、蘇生に近いものであり、明らかにその誰もが、再び寿命を迎えて死去するものに終わった。これらの奇跡は、「復活」というものが信じにくいものであることを反映した例示であったと云える(ヨハネ20:25)。しかし、本来「復活」とされるものは、キリストがそうであった(ローマ6:9)ように、永生をもたらし得るもので、しかも遠い過去の故人であっても生き返らせる。それは古代の族長らが『神にとっては生きている』とされたキリストの言葉に示されている。(ルカ20:38)

復活には大きく二種類の異なりがある。
ヨハネ黙示録はそれを『第一の復活』とその後に起きる復活とに類別しており(黙示録20:4-12)、パウロは、自分の復活が格別のものになることを書簡の中で示唆している(フィリピ3:11)[ἐξανάστασιν](「外の復活」;用例1箇所のみ「キリストの死に倣う」意味での)これは、『早い復活』とも訳される。この『第一の復活』に裁きを介して関わるのは主にキリストである。(ヨハネ5:28)

以下に述べるような、二つの種類の復活があることは真新しい主張ではなく、既に第二世紀のエイレナイオスによって、その原型は唱えられている。この初期ギリシア教父は、使徒ヨハネの薫陶を受けた小アジアの出身であり、彼の著作「異端反駁」(「不当にもそう呼ばれたグノーシスに対する暴露たる反駁」)の中で、その使徒由来で、現キリスト教界に在ってはまったく貴重となった終末論を展開し、復活に関してヨハネ黙示録の句の意義を伝えている。(黙示録20:7.13)



第一の復活

これらふたつ種類の復活の違いの理由は
『第一の復活』とは、ほとんどの故人が与ることがない『天への召し』(ヘブライ3:1)を受ける復活であり、それを受ける少数の人々は、肉体への復活ではなく、霊の体(コリント第一15:48-49)への復活に与る。これは生前の行いが『新しい契約』を全うするものかが吟味されるもので『行いによって裁かれる』種類のもの(ヨハネ5:29)である。もうひとつの復活は一般の死者のすべてが『善人も悪人も』与るもの(使徒24:15)であり、それとは異なる『第一の復活』は王国到来の直前であることがダニエル書の預言(12:1-2)との整合性からも明らかであり、両者は千年期を跨いで異なる時代に起る(黙示録20:5)。

また、黙示録の言う『第一の復活』とは、パウロが自らの受ける『早い復活』と述べたものである。
そのためテサロニケ第一の手紙で『キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し』とあるのは、『新しい契約』によってキリストと結ばれ『この世を受継ぐ』という『共同の相続人』である『キリストに在って死んでいる者たち』の千年期直前の復活を言うのである。(テサロニケ第一4:14-16/ローマ4:13・8:17)

この復活の肉体で存在した者が霊体へと変えられる特殊性はマタイ福音書に於いて『再造像』(パリンゲネシーア)の語で表され、ヨハネ福音書の『新たな誕生』を意味している。(ヨハネ3:3)

この霊体への、また永生への最初の復活を受けたのがイエス・キリストであるので、パウロは『事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえった』(コリント第一15:20)と記し、また、以前の奇跡として行われた生き返りとの異なりを教えている。加えて、ペテロとパウロによる事例もキリストの復活とは根本的に異なっている。

さらに、この種の復活の順序について『最初はキリスト、次に、主の来臨に際してキリストに属する者たち』と知らせている(コリント第一15:23)。この『キリストに属する者たち』とは、同じくパウロが『キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストに属する者ではない』(ローマ8:9)と述べるように、『新しい契約』に預かり(エフェソス1:13)聖霊を注がれた『聖なる者ら』のことを指している。彼ら初代の聖なる弟子らは、自分たちが『創造物の初穂となる』ことを意識していた。(ヤコブ1:18) また、『キリストと結ばれた』彼らは『新しい創造物』となるとも語られる。(コリント第二5:17)それは、キリスト・イエスが受けた霊体への永生となる。(コリント第二13:4)
おそらく、マタイ福音書19章28節でキリストが述べてギリシア語に訳された「再創造」(パリンゲネシアス)とは、この大きな変化を指すものであろう。

それゆえ、使徒ヨハネは当時の聖霊によって油そそがれた弟子らに(ヨハネ第一2:27)、主の臨在の間に復活が起こることを語り、『彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』と書いたのは(ヨハネ第一3:2)、パウロも言うように肉体から霊体へと変化することを『朽ちるものでまかれ、朽ちないものによみがえる』(コリント第一15:42)、また『我らは地の者のかたちを持っていたように、天の者のかたちを持つことになる。』(コリント第一15:49)との教えと合致している。

また、『 わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられてゆく。これは主の霊の働きによる。』とのパウロの言葉(コリント第二3:18)も、復活による彼らの栄光ある体への変化について述べるものである。霊体への復活を受けることで、キリストと同じ姿を得るの(ヘブライ2:14-17)で、彼らはキリストの『兄弟ら』とも呼ばれている(マタイ25:40)。

これらの『第一の復活に与る者らは』『神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する』(黙示録20:6)ために、天界でキリストと共になる『選ばれた者ら』(テモテ第二2:10-11)であり、復活の前に地上で生ける間からキリストと結ばれた状態にあるべきこと(ローマ6:5)が求められている。(ヨハネ15:1-7)
彼らは地上で肉体に在る間から、『新しい契約』によって『神の子』であり、『キリストと共同の相続人』となって、『アブラハムの遺産』、即ち、人類に祝福をもたらす『神の王国』、真のイスラエルを受け継ぐ見込みを得るが、それが確定してはじめて天への復活に預かることになる。(ローマ8:16-17)

彼らは地上にある間から、聖霊を介して『新しい契約』に参与し、キリストの贖いの仮の適用を受けて『罪を赦されており』(ローマ8:1)、そのために『水と霊から』象徴的な再誕生をしている。(ヨハネ3:5-8)
それはキリスト・イエス自身の霊への復活に依拠し、その二度と尽きることのない命によって共に生きることを意味している。(ローマ6:8) もし、生まれたままに「アダムからの命」に生きるのであれば、彼らの肉体で居る間からの聖化もなく、霊体に復活する理由ももたないことになる。
イエスと結びついたままで生涯を終える聖なる者らには、天界で彼と共になる事が『新しい契約』によって保証されている。(フィリピ1:23)
当時の弟子らはほとんどが『新しい契約』に預かる『聖なる者』であったために、その理解ない大半のキリスト教会では信者の皆が契約に与るものと誤解されており、そこから信者は皆が死後に「天国」に行くという誤謬に陥ったまま、今日に及んでいる。これは天に召される目的を、利他的に人々の救いを目的とすることから、信者だけの救いに入れ替える利己主義を煽ることになっている。

しかし、『新しい契約』に預かるという事は、選ばれた者としての重い責任を負うものである。(ルカ13:24)
もし、聖霊を注がれたにも関わらず、『新しい契約』に違背する状態で死を迎えた場合の聖徒らは、その復活に当たって天界に召されることなく、地上に『裁きの復活』を受けることになる。これをダニエル書は終末で『定めない時に至る命と恥辱と』二つの分かれ目となる復活として指摘(ダニエル12:2)している。それであるから、黙示録は『第一の復活に与る者は幸いであり、第二の死は何の力も持たない』というのであり、地上で精錬され充分に試された(マタイ13:47-50)『レヴィの子ら』(マラキ3:3)は、天への復活を遂げるときには、そのまま永生に入ることを教えるものとなっている。

この復活を受ける聖なる者らは、続いて起こる世の裁きを通過して、キリストの右に分けられ地に生き残る人々を治め、また死せる二徒人を含めた贖罪を行うが、これは律法下の贖罪の日の儀礼に予型されており、大祭司と祭司らの贖罪の後に、次いで民の贖罪が大祭司の司式により行われたものに相当している。(レヴィ16:11・15・17)
キリストは天界の大祭司であり(ヘブライ4:14-15/6:20)、聖なる者らはそれに従属する『祭司』(ペテロ第一2:4)となるのであり、聖なる者らの復活は、彼らの任命のためのものである。

この『第一の復活』また『早い復活』は、この世の終りのキリストの臨在の間に起ることが知らされており(テサロニケ第二4:14-17)、キリストの臨在の顕現の直前に、まず十二使徒が最初に復活され、天界での二度目の聖餐をキリスト・イエスと共にするときに(マタイ26:29)、死した聖徒らがキリストと十二使徒らによって吟味され(ルカ22:28-30)、彼らが天界に復活し、次いで地上に残っている浄めに達した聖徒らが、不可視の『雲の内にあって』天界へと召されることになる(テサロニケ第一4:16-17/黙示11:11-12)が、これが「携挙」と誤解されているものである。ゆえにパウロは聖徒らに『主が来られるまでは互いを裁くことのないように』と諭している。(コリント第一4:5-6)

この早い復活の裁きはキリストと十二使徒らに委ねられる。そこで『神の子の声を聞いて出てくる』死者とは、新しい契約を守って死んだ者らのことであるのでキリストも『それは今である』と言われた(ヨハネ5:25)のであろう。彼らについてはキリストから呼び出されるようにして死の眠りから起こされる際、生前の行いの良し悪しが『新しい契約』に照らされ吟味されて裁かれる。そのため『良いことを行った者は命への復活へ、忌むべき行いをしたものは裁きの復活へ』と言われる(ヨハネ5:29/コリント第二5:10)。

この点で、パウロが『生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエス』と記したのはこの事と合致している。(テモテ第二4:1)キリスト自身も、次いで十二使徒も第一の復活に与るものの、この早い復活を通して残りの聖徒らを裁く。
一方、後の復活の裁きは神自身によって行われる。(黙示20:11)

他方、少数の天界に集められる『彼らによって地上のすべての家族が祝福を得る』という人々、即ち「アブラハムの裔」の総数(イザヤ33:22)を、黙示録は『十四万四千人』であるとしており、その天のイスラエル十二部族はそれぞれが一万二千人で構成される。しかし、その部族名は歴史上のものとは一致していない。(黙示録7:4-8)それによって、血統上のイスラエル民族が再び神の民と呼ばれることは阻まれている。

『第一の復活』は、終末のキリストの臨在(コリント第二15:23)の顕現の直前に(コリント第一15:52)、この世からの攻撃に殉教する聖徒(黙示11:7)にも行われることになり、そこで実質的に彼らの裁きは完了する。それゆえ、パウロは当時の聖徒で構成されるエクレシアに向かって、『わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で露わにされなくてはならない』と述べる。(コリント第二5:10)

最後に生き残っている聖徒らを吟味して直接に天界に召すことについては、それを「復活」と称するか否かは定かでない。ではあるが、これらのすべてについては『雲の内に』とされ(テサロニケ第一4:17/黙示11:12)、肉眼の捉えるところとはならないし、出エジプト時の子羊の扱いからすれば、おそらくは、イエスのものと同様に、その死体も消失するものと思われる。(出埃12:20/ルカ24:5-6)

この『第一の復活』の後に(テサロニケ第一3:13)現れる、地上の命を受けるべく、裁かれる『大群衆』に相当する人々(黙示7:9)は、地上で生きたまま、天界の祭祀制度を受けることになるゆえ、死を経ない(ヨハネ11:26)ことに於いて復活の範囲には属さないが、肉体上の変化を受けると思われる。(イザヤ33:24/ヨブ33:23-25)


後の復活

『第一の復活』が、『神の王国』の支配と贖罪を地上に施すために、浄められた聖なる者らを天界に召集するものであったのとは対照的に、後の『残りの死人の』復活は、人の善悪を問わずに千年王国の終わった後に起される。(黙示20:5/使徒24:15)
それは人間としての復活であり、キリストの贖いを受けて完全な肉体を備え、地に再び現れることになる。したがって、『第一の復活』との大きな異なりは、天界に霊者としての復活とはならず、人間として地上に創造された本来の姿での復活となる。(黙示20:6)

このように、『王国』の千年期が「義人たちの復活」と「普遍的な復活」のふたつの復活を分かつものとなることは、初期教父エイレナイオスも伝える、ヨハネ黙示録の記述通りの小アジアキリスト教の教えであった。(異端反駁 V:32.35)
また、イエスと共に磔刑に処せられた罪人の一人がイエスに『あなたがご自分の王国にお入りのときには、わたしを思い出してください』と願い出た(ルカ23:42)が、それに応えてイエスが『今日まさしく言う。あなたはわたしと共に楽園にいるだろう』と言われた(ルカ23:43)のは、彼がその年の五旬節まで生き長らえないために、終末から千年続く『神の王国』には入らないので、『楽園』となった王国後の復活に入ることを、それもキリストの是認の許にそこにいるようになることをイエスは語られていたと捉えることができる。
今日のキリスト教会が、復活が天国に起るのと主張するのは、天界で起こる『第一の復活』が新約聖書で大きく扱われているところを大多数の死者の復活と混同しているところに原因がある。(コリント第一15:20-26)

「後の復活」について、パウロは信徒でもない異邦人フェリクスに対して『義者と不義者との復活がある』(使徒24:15)と語っている。<ヨハネ5:25とは異なる>ゆえに、千年期後に再登場するサタンの使嗾により、『愛される都市』を攻撃する夥しい群衆の由来がここにある。(黙示20:7-)
この言葉が『第一の復活』ではない理由は、善人も悪人も尽く現れており、『精錬されるレヴィ』としての清められた祭司の復活である聖徒らの復活とは明らかに異なっている。(マラキ3:3)

その復活は、諸世紀に生きた人々が、長い期間に亘り徐々に復活するという概念を聖書に見出せず、むしろ、裁きに向かって短い期間に同時に現れるような記述を見出す。
上記のヨハネ福音の第五章ばかりでなく、マタイでイエスは、預言者ヨナの時の『ニネヴェの人々は、この世代と共に裁きに立ち上がり、この世代を罪に定める』(マタイ12:41)またルカでは『南の女王は、この世代と共に復活し、この世代を罪に定める』とも語っている(ルカ11:31)。これらは、キリストを退けた世代と、更に古代の人々が共に『共に立ち上がり』『共に復活する』ものとされている。

また、黙示録では、この「後の復活」と共にサタンが千年の拘禁を解かれて諸国民を惑わすことを知らせているので、この復活は千年と対照されており、堕罪前のアダムと同様の『罪』なき者に裁きをもたらす以上、長い期間に亘るものである理由はない。ただ『誘惑者』には、その極めて重要な任を果たす必要があるばかりである。

この復活では、『新しい契約』に忠節でなかったために『第一の復活』に含まれなかった古代の脱落聖徒が含まれることが考えられる(ルカ19:26-27)。彼らはキリストの臨在の間の脱落聖徒のように、キリストの顕現によって滅んだ脱落聖徒らと『不法の人』が慫慂した全軍を意味した『マゴグの地』(エゼキエル38)に相当する、新たな『マゴグ』となる復活した『海の砂つぶのよう』に数知れぬ諸国民の大衆を同様にサタンの霊力を用いて惑わし、かつてのハルマゲドンに類比される大いなる裁きへと同じく向かうが、この度は、神自身に処罰され『天からの火』に焼かれて永遠に姿を消す。(黙示20:8-10)

こうして裁かれ滅びに至る人々は『第二の死』を迎えることになり、それは『二度死んで根扱ぎにされた木』(ユダ12)の言い回しに見られるように、その邪悪さに証印を押された悪人の概念の内に、復活したにも関わらず、裁かれて二度目の死に至り、もはや再び生きる機会を持たないことを意味する。
それゆえパウロは『人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている』と述べている。(ヘブライ9:27)
但し、これはすべて生まれた者に死が臨むということではなく、例外があることをイエスは教えている。(ヨハネ11:25-26)

黙示録で、彼らがサタンと共に投げ入れられる『火の湖』とは(黙示19:20)、文字通りの責苦の「地獄」ではなく、その裁かれた悪に関する汚名の『煙』という評価は、永遠に亘って神と互いへの忠節な愛を否定した結果の碑となり、すべての理知有る創造物の心に刻まれることを意味する。

また、この『火の湖』に『死と墓』も投じられることから、すべてが裁かれて後、試す者としてのサタンの不要が決し、滅んだ後には、もはや二度と死が無いことが明かされている。そこで神と被造物の緊張関係は永久に解かれる。
従って、『地に満ち』た人類に、その後の出生は無いとも結論できる。(創世記1:28)


『第一の復活』はキリストによる死者の呼び出しによるもの(ヨハネ5:25-29)であるが、後の復活はそうではない(ヨハネ11:24/ルカ11:31-32)。ヨハネ11章23節以降には、模式としてのラザロの生き返り、千年期後の一般の善悪に関わりのない復活、そして『第一の復活』の三種が同じ文脈に描かれており、イエスが『わたしに信仰を働かせる者は死んで復活する』と言われた(ヨハネ11:25)のは、メシアが現れた当時のユダヤに到来していた聖徒としての復活に預かる機会を述べている。
(さらに、11章26節では復活以前に死を経ない人々が終末に存在することも語られているが、これは裁きによって地を受け継ぐ一般の信者を指している)

なお、復活についてキリストは『墓に在る者らが[人の子]の声を聞いて出て来る時が来る』と語ると同時に、『善い行いをした者は命への復活へ』また『悪しき行いをした者は裁きの復活に出て来る』と言われたのは、『新しい契約』を生涯に亘って守った聖徒らが終末の復活で天に召されることと、守らなかった者らが千年期後に一般の人々と共に不名誉な復活を受けることを云うのであろう。
(その者らは、エゼキエルの預言ではなく、黙示録で言及される『地の四隅の諸国民、ゴグとマゴグ』を構成することになると思われる)


生殺与奪の権

こうして創造神の命の扱いを俯瞰すると、『すべての魂はわたしのものである』(エゼキエル18:4)と言われる神は、何者を生かし、何者を滅するかの権利を有することが分かり、本来なら『罪あるもの』はすべて創造の意図に適わないために魂を滅ぼされるところを、御子の犠牲の介入により、アダムとエヴァの子孫に関しては裁きまでの猶予があり、その間は寿命をもって魂として生まれ出る機会を得てきたという眺望が開ける。

神は再三に、生まれる前から特定の人物を待っている姿を見せており(イザヤ45:1/ローマ9:11-12)、聖徒らに至っては『世の基が置かれる前から選んでいた』とも記される(エフェソス1:4)。

そこで、神は自らの『象り』である、人の自由な意志を担保しつつも、『髪の毛までが数えられている』という一人一人の人類の全体を予見し、裁きを通過する全ての魂の総数を見通されている可能性が示唆されている。それには十二人の内のひとりの脱落と補充が予見されていた前例もある。

この世が如何に苦難に満ちていたにせよ、人それぞれの苦しみはその身の命で終わることになり、一方で『生めよ殖えよ』との人類への下命を通し(創世1:28)、世代から世代へと寿命の内に相互扶助しながら、生殖により新たな魂が創られ加えられてきたとも言える。
これは、地上に満ちて生きるべき魂の総数が出揃う時という、創造者だけが関わることのできる期間の長さの存在を導き出し、そこに裁きも加わる以上、それは単なる時の長さを超えて、キリストでさえ知り得ない魂の生殺与奪の裁きという最高度の倫理に関わる時の満了があることを示唆させるものと成り得る。(マタイ24:36) それが即ち、人が『地に満ちよ』という創造者の意向について、神が『この世』の存続を許してきた理由であるとも考えられることになる。地がどれほどの人々で満たされるのかを含め、それは創造者以外、まして人自身が預かり知るところではないであろう。

死は『敵』(コリント第一15:26)であり、『刺』である(ホセア13:14).。また、サタンが象徴的に『死の権力を行使するもの』(ヘブライ2:14)ではあるとしても、死そのものを定めたのは他ならぬ創造者であった。
確かに、死の別れは悲しみと害をもたらす(ヨハネ11:35)一方で、死は、人の苦しみを終わらせ(民数11:15)、避けどころとし(サムエル第一31:4)、悪行者の邪悪を止める役割も担なってきた。(創世6:13/マタイ2:20)
従って、復活を単に再会の喜びと捉えるべき理由はない。真に復活が再会や邂逅の祝福となるのは裁きを終えた後のことであり、自己の感情の如何に関わらず、創造者の裁定に異議を唱えるべきではない。
復活は必ずに裁きをもたらすのであり、そこには何者を生かし、何者を滅するかという創造神ならではの生殺与奪の犯し難い権利が関わっている。

従って、『被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、 かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。
それだけではなく、初穂の霊を持っているわたしたち自身も、心の内でうめきながら、子たる身分を授けられること、すなわち、肉体のあがなわれることを切に待ち望んでいる。』

との言葉(ローマ8:19-23)には、知的創造物の生と死に関する奥義が込められており、創造神を信仰するのであれば、復活というものは何ら訝るべきものではなく、また、復活そのものを感傷に浸り、または生を有難がっているばかりでは、神が何者と共に生きようとされているかが見えないことになり、それに伴う『裁き』の意図を見失うことになる。

人は、ただ生きたいと願うから生かされるのではなく、倫理、即ち神と隣人という他者とどう生きるかを弁えてこそ(ローマ13:8-10)、永遠の命の樹から食することが叶う。そこに裁きが関わるのであり、けっして自動的また受動的なものとはならない。倫理の完成を目指すアガペーとは自由と積極性の中に初めて現れからである。命と愛は不可分の関係にある。(ヨハネ第一3:14)

また、復活があるからと、生命を軽視することは、やはり創造者の魂保有の権利をないがしろにすることであり、律法下での『魂の復讐』の条項に見られるように、現状でも『上なる権威』たる公権力の重い罰則に相当するだけでなく、神の『象り』を踏み躙ることにもなる。
また、生命の損失は人間の回復できるところになく、例えゲノムを用いて再生を行っても、同じ人を回復することにはならず、人間にとって生命は一度限りの貴重なものである。(詩篇36:9)

『復活』とは、『第二の死』と共に、生殺与奪の権を行使する神の、創造の業を完遂させる為の手段と言える。(サムエル第一2:6)






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◆About "Gehenna”
Rabbi David Kimhi's commentary on Psalm 27:13 (ca. 1200 CE). He maintained that in this loathsome valley fires were kept burning perpetually to consume the filth and cadavers thrown into it.

Hermann Strack and Paul Billerbeck state that there is neither archaeological nor literary evidence in support of this claim, in either the earlier intertestamental or the later rabbinic sources

But there is a trace in the Bible.⇒2Kings23:10 Jer31:40
From this point of view, the logic is correct when you look at the words of Jesus. ⇒Mt10:28 



主の晩餐  -綱領-

2016.11.28 (Mon)
主の晩餐

『主の晩餐』(コリント第一11:20)とは、イエス・キリストの最後の晩餐の際に取り決められた会食儀礼であり、出エジプトを記念するペサハ(過越し)の儀式(出埃12:1-20)を踏襲して(マタイ26:18)、同じ日付の晩に無酵母パンと赤葡萄酒を用いる儀礼である。それがペサハとの深い関連性を持つことは、原始キリスト教徒によって「パスカ」と呼ばれていたことに表れている。パウロは『キリストはわたしたちの過越である』としており、出エジプトの事跡が聖徒に繰り返し象徴的意味を持つことを教えている。(コリント第一11:23-26)

その意義は、無酵母パンを通してキリストの体に預かり永久の命に入る(ヨハネ6:15)ことを、また葡萄酒を通して『新しい契約』に入る者が(ルカ22:20)、キリストの血に近い者となることを表している。(エフェソス2:13)その得ている立場は『キリストの兄弟』(ヘブライ2:16-17)、また『神の子』(ローマ8:15-16)であり、この儀礼の表象に与る者は、自他共に認識できる聖霊の注ぎの印を有している。

◆日付について
この儀礼を挙行すべきその日は、キリストの公生涯からの出立がなされ、神の約束のすべてを可能とする道を開く日であったことに倣うべきである。従って、その日付はユダヤ教に寄り添うべきものとなるのであり、この件は第二世紀のエフェソスの監督であった十四日派のポリュクラテースの証言にも立脚する。(コリント第二1:20)
ユダヤ教では、キリストの時代までにペサハをニサン月の14日(民数9:2-5/ヨシュア5:10)ではなく、今日のようにモーセの無酵母パンを食する『七日間』という言葉(出埃12:15-16)に厳密に従おうとして、ペサハの食事(セデル)を15日に行う習慣に入れ替えていた(ヨハネ19:31)が、過越しの子羊がユダヤ教徒の各家庭で屠られなくなっていった習慣の変化も関わっている。
しかし、律法の全体と諸書に従うなら、過越しと無酵母パンの祭りを含めて八日間となる。このユダヤ教体制派の持つ認識上の一日の異なりにより、ペサハで犠牲にされるイスラエルの長子を贖った子羊に対応する『世の罪を取り去る神の子羊』(ヨハネ1:29)としてキリストが出エジプトの前夜に当たるアビブ(ニサン)14日に屠られることになった。

イエスの捕縛がユダヤ体制派の祭日の始まりであるニサン15日の一日前であったことについては、祭司長派が『繰り返し、祭りのときではならない』と述べていること(マタイ26:5/マルコ14:2)、また福音書がイエスの処刑が、安息日に備えて俗事を済ませてしまう『準備の日』と呼ばれる一日の間に行われたこと(ヨハネ19:14・42)、大安息日の始まるまでの僅かな時間に埋葬が行われたこと(ルカ23:54/マルコ15:24/ヨハネ19:31)を記している。パレスチナ・ユダヤ教の安息を伴う15日に入った夜のセデルの習慣からすれば、これらはニサン14日にのみ当てはまるものとなり、14日のセデルは捕囚期以前の過越しの日付けに習うものである。

したがって、イエスと十二使徒のセデルはユダヤ体制のそれに一日先行していた(マタイ27:62)ので、出エジプトのペサハと同じ暦日に行われていたことになる。そして祭司長派によるこの一日の遅れがニサン14日での策動とイエス処刑を可能にしており、キリストの犠牲をイスラエルの長子を贖った子羊として指し示す対型へと導いた。そこでパウロもキリストは『我らの過越し(パスカ)である』(コリント第一5:7)としており、使徒ヨハネはキリストの『その骨は折られなかった』と出エジプトの子羊の骨が折られなかったことの対型を指摘している。(ヨハネ19:33・36/出埃12:46/詩34:20)


そこで、キリストの最後の晩餐の夜(コリント第一11:23)がニサン14日に入った夜であったことは、使徒ヨハネの薫陶を受けた小アジアのキリスト教徒によって守られた14日「パスカ」([Πάσχα]ペサハの音訳)の習慣によって伝えられており、この人々は「十四日派」として知られていた。

しかしキリスト教界は、第四世紀までに反ユダヤ教の感情からユダヤ人のペサハと『主の晩餐』を近い日付に行うことを潔しとせず、キリストの復活が日曜日であったことから、ペサハ後の日曜日に主の死ではなく復活を記念する慶事として差別化を行うようになり、「十四日派」と対立してきた。古くは第ニ世紀前半に、シリアのアンティオケイアのイグナティオスの小アジア宛の書簡の中にもその説得を試みる文面が残されている(マグネシア人への書簡8-9)。以来、何度かキリスト教の会議が持たれ調停が図られたが、いずれも平行線に終わった。

また第ニ世紀の終わりには、ニサン十四日を守る小アジアと復活を祝うローマのエピスコポスであったウィクトルとの間に論争があり、これはエイレナイオスの仲介で分裂を回避したが、その中でエフェソスの監督ポリュクラテスは、使徒ヨハネの伝統が、ユダヤの除酵祭に準じて日付を合わせてきたことを明かしている(教会史V:24)。そこで十四日派に倣うなら、日付は春分の次の満月とはいえない。それは嫌ユダヤのキリスト教徒が復活祭を定める基礎として採用してきた算定方法であり、ユダヤ教と儀礼を共にしない意図からのものである。

ユダヤ教徒のペサハの日付けが陰暦で定められるため、太陽暦を用いるキリスト教が同じ日に儀礼を行う可能性が生じるが、ユダヤ教徒の陰湿な反対に面していた初期キリスト教の時代から、これを嫌う信者が多くなっていたので、聖誕節など他の節会とは異なり、復活祭を移動日とする理由がここにあった。加えて、ユダヤ教徒が土曜を安息するのに対抗して日曜を安息にしたキリスト教徒の根拠付けは、その曜日にキリストが復活したことによる。(キリスト教に安息日の要求は本来は無い。ローマ14:5)
この両者が組み合わされ、本来の『主の晩餐』は「復活祭」に変更され、太陽年の春分の次に来る満月を基準に、その満月の次の日曜の日中を復活日として祝うべき日と定めた。

ローマ皇帝コンスタンティヌスの介入以後、ユダヤの過ぎ越しに沿う仕方での主の晩餐ではなく、天文を根拠とし、春分の直後の満月の次に来る日曜日と法令に定められ、エジプトのアレクサンドレイアのエピスコポスが日付けの算出と布告の責を命じられた。
当時、少数派となっていた「十四日派」はこれ以後否定され、アンテオケア会議(341)に至って古来の習慣を守る「十四日派」に異端宣告が下され呪詛(アナテマ)が為された。第五世紀以降に、パスカは異教の女神に由来する「イースター」とも呼ばれるようになる。
その結果、「十四日派」は衰退を続け八世紀以後にはまったく消滅したとされている。

大半のキリスト教界が推進したイースターでは異教の風習が混入したうえ、本来は出エジプトに由来する『主の晩餐』がキリストの最後の晩に行われ、主の死に関わるものであったが(コリント第一11:26)その意義は否定され、ユダヤ暦からもペサハからも離れ、昼夜の別も問われず、旧約との関わりから独立した復活の慶事に置換されている。
それでもローマンカトリックは、日付けを算定する方法を「コンプトゥス・パスカリス」(Computus paschalis)と呼んでいたところに、ペサハ由来である痕跡が残されている。しかも、聖誕節をはじめとする復活祭に関わらない教会歴日は太陽暦の中を移動することはない。


◆意義について
最初の『主の晩餐』には、キリストを介してユダ・イスカリオテを含む(ルカ22:20-21)十二使徒らだけが預かっているが、この会食は将来に天界に於いて二度目が行なわれることを主自身が明かしている(マタイ26:29/マルコ14:25)。それは終末の聖徒の復活(テサロニケ第一4:16/コリント第一15:21-23)に先立ち、マッテアスを含む十二使徒らがキリストと共に聖徒全体の裁定に預かる時ともなる。(ルカ22:28-30)

それまでの間、地上で行なわれるこの儀礼は、『新しい契約』に預かる者の到来を告げる印となることに於いて『主の死を宣明する』が、それはキリストの犠牲が最初に贖う『初穂』となる人々(ヤコブ1:18)を指し示すからであり、パウロが言うところの『彼の方(主)の到来まで(行う)』とは(コリント第一11:26)、聖徒が地上を去るキリストの終末の顕現の直前まで行なわれることを意味するのであろう。但し、この儀礼が終末にどのような役割を負うことになるかについては、何かしらを予感させるところはあっても明らかにはされていない。

地上に於ける『主の晩餐』は、キリストの死による様々な意義に想いを馳せ、その犠牲の価値に『初穂』とされる人々が預かる定期儀礼である。また第ニ世紀以前の「十二使徒の遺訓」(ディダケー)は、四方の果てからその人々が王国へ集められることを願い求める祈りの言葉を記録している。(Didache9:4・10:5/エゼキエル34:12)

従って、この儀礼に含まれる趣旨が『散らされている神の子たちを一つに集める』(ヨハネ11:52)のであるから、聖霊の賜物のない者が、無酵母パンと赤葡萄酒の二つのエレメントのどちらにも預かることはない。
他方、それに預かる者は聖霊による聖化(ペテロ第一1:2)を受けており、自他共にその極めて高い立場を認識できている以上、幼児でもアルコール依存者でもないに違いなく、「一種陪餐」や葡萄ジュースへの置き換えも無用である。自らの立場を弁えず不思慮に取り入れるならば、『その飲み食いによって自分に裁きを招く』。(コリント第一11:29)
むしろ、律法が過越しに与る者に聖さを求めたこと(民数9:10-11)に類似して、パウロは『古いパン種や、また悪意と邪悪とのパン種を用いずに、パン種のはいっていない純粋で真実なパンをもって、祭をしようではないか。』と説き勧め、行いの聖さを保つように求めている。(コリント第一5:8-11)

この儀礼が行なわれている間に聖徒らが地上に残っているならば、『神の王国』は依然立てられていないことになる。
おそらくは、地上での最後の『主の晩餐』は、生ける聖徒らが地上を去る(テサロニケ第一4:17/黙示11:12)直前に行なわれるのかもしれない。

今日に於いて、十四日派に倣って『主の晩餐』を行なう意義は、聖霊と聖徒の理解を保持しているところにある。(エゼキエル37:21-28)
キリストの臨在する終末の裁きに於いて、聖霊とそれを注がれる聖徒らの働きの大きさと、臨在の不可視とを理解していることをその挙行を通して神とキリストの前に示し、聖霊を介したキリストの到来の際に素早く『扉を開ける』用意の出来ていること(ルカ12:36)を表すのである。エレメントには与らないにしても、この儀礼を行う人々が終末に先立って存在していなくてはならない。(ルカ12:35-37/イサヤ60:1-5)

ゆえに、聖霊の再降下は自動的なものではなく、併せてキリスト教の回復も、地上から強く乞い求められるべきものである(ルカ11:5-13/ローマ8:18-22)。
そうでなければ、聖霊の到来を相応しく迎える者はいないことになり、象徴的な意味で臨在は遠のくであろう。


また、キリストの死は敗北ではなく、勝利であり(ヘブライ2:14-15/ヨハネ7:39)、忠節の全うは彼を完全者(ヘブライ2:10・5:8-9)としている。
その死はキリストの究極の栄光(ヘブライ2:9)であり、対して復活は神の応答(使徒2:24)である。
『主の晩餐』は『主の死を告げ知らせる』ためのもの(コリント第一11:26)であって、「死の記念」を「復活の祝い」に置き換えるべき理由はない。

主の死の記念儀礼の精紳は自己犠牲にあり、主に倣う者がその道を歩むよう促す(コリント第二5:15)ものであるから、慶祝の意味合いは無い。裁きは依然として終末に控えており、キリストの犠牲によって自分に永遠の命がもたらされたと喜ぶべきでもない。
古来ペサハを行ってきたユダヤ教徒において、今日でもペサハ後の期間を服喪の精紳で過ごして慶事を避けつつシャブオート(五旬節)の悦びに至ると言われる。それはペサハが持つ『苦しみのパン』(申命16:3)とも呼ばれる無酵母パン(マッツァ)を食すことの節制と清さに影響されているとされる。

『神の王国』の贖罪の前に、主の犠牲を感謝できるのは、『新しい契約』に預かり、仮の贖罪を受ける『聖なる者』だけである。キリストの犠牲の表象に預かるからである。それでも彼らにはキリストに続いて自己犠牲を捧げる覚悟が必要となる。(ペテロ第一3:6)
そこで「キリスト教徒の過越し」(コリント第一5:7)となったキリストの犠牲の死を自分たちの救いの確定の祝いであるかのように誤解するなら、『主の晩餐』の精紳を汲んでいるとは言い難い。


◆挙行について
過越しには、他の祭りと異なり、月遅れの代替日規定が律法に有ったことからすれば、「必ず行うべきもの」と強調されていること、また、また、その機会を逸する理由に不浄が挙げられているところに「清さが求められる」べきことも明示されていることになる。
キリスト教に於いては、まさしく無酵母のパンは『罪』なきキリストの体を表しており、ユダヤ教も『無酵母パンの祭り』を含め『過越し』(ハグハマツォートではなく、ハグハペサハと習慣的に呼ばれた)を厳粛なものとして捉えており、五旬節(シャヴオート)を迎えるまでは慶事を控える。

もちろん、ユダヤの暦が完全ということにはならないが、小アジアの十四日派はユダヤの祭礼に準じたとの証言がある以上、その復興を目指す場合には、個人の都合はもとより天文にも従う理由をもたない。それはユダヤ人にニサン14日と呼ばれる日に行うべき理由の方が大きい。主は、ユダヤ教徒の一日遅れのセデルの故にその前日に刑死を遂げられたからである。そこでペサハシェニー(民数9:9-11)を再考すると、律法に対する成就という次元上昇を思い見る。その月遅れの規定があることにより、律法を守る者が必ず守るべき最も重要な祭日がペサハであった事を示し、且つ、清さが要求されてもいたことから、厳粛な性格が表されていたことになる。

『主の晩餐』を『過越』に倣うものと見做す場合、各家庭で行われるものであり、一頭の子羊を食すに相応しい十人程度の集合にまとめられていた。また、『無酵母パンの祭り』と異なり『過越』はアツェレト(聖会)を伴うものでなかったこともこの一晩のみの密やかな祭事の特性を示している。

使徒時代以降のキリスト教では、聖書に挙行の例がないながら、エクレシアで行われていた可能性がある。
この点について新十四日派としては、特に規模を定めないでおくことが良いと思われる。それは終末にどのような危急の事態が起こり、且つその中での挙行を要することも予想されるため、その点では各家庭や個別の場所での挙行は外部からの妨げに対応し易い可能性が高いからである。実際、キリストはユダ・イスカリオテからの妨げに対処し、内密の内に挙行場所を確保されている。
しかし、平穏な環境で行えることが確かであるなら、より大きな集合体として行うことを禁じるほどのことではないとも思われるが、余りに規模を大きくするなら、本来的に静謐な雰囲気を持つこの儀礼の特質は損なわれる危険がある。

加えて、出エジプトでの『過越』に於いても、キリストの『主の晩餐』に於いても、公共性はなく、広く一般に出席を促す性質のものではない。聖徒のほかには、この儀礼の意義を悟り、その挙行に価値を見出す信仰ある人のみが参加すべきであり、万一妨害の疑いある者に対しては、キリストがユダ・イスカリオテに対処した事例に倣う必要が生じるかも知れない。


◆参加の有無
今日に、例年のニサン14日に『主の晩餐』の挙行に進んで参与臨席しない人を、「新十四日派」また、その賛同者と見做すことはできない。当派は、『主の晩餐』をキリスト教に於ける最重要儀礼として認識するものだからである。
今日もし、誰かが望みながらも万一パスカを行うことが出来なかったのであれば、出来なかったのである。理由にもよるが、それがその人の価値観を疑わせるものとはならない。また、その挙行が救いをもたらすわけでもない。
しかし、それが聖徒である場合には、深刻な自責の念をもたらすものとなろうから、周囲の信徒らはその参与の介助に能う限り協力すべき道義的責務がある。
また、信徒であれ、聖霊の降下による主の臨御を地上に待つ姿勢を見せる者らが存在することを神の前に示すことを重く受け止めるなら、置かれた状況の中で、その人なりに最善を尽くそうと思うに違いない。
従って、行えるにも関わらず、行わないなら、その人に十四日派再興の意志、また聖霊降下の願いを見ることはない。



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「兄弟」の呼称について -綱領-

2016.11.05 (Sat)
信徒は互いを兄弟と呼ぶべきか


山上の垂訓をはじめキリストは「兄弟」の語を何度か用いるが、律法契約にある同朋の意味で使用している。(マタイ5:23・47)
これはイエス・キリストが律法に従うユダヤ教徒であったことを反映している。(ガラテア4:4)
イスラエルはアブラハムの嫡流としての約束の相続が関わる神との格別な立場にあり、律法契約はその選民としての更なる絆を形作って、それぞれの部族にあっても連帯感を持ち、互いを「兄弟」と呼んでいたことを背景としている。

聖霊降下のシャブオート後のイエス派内では、異邦人改宗者も七人のディアスポラへの援助を担当したディアコノイに含まれており、同朋の扱いを受けている。(使徒6:5)
この情況はイエス派内に在って聖霊降下後コルネリウス前のエクレシアでも変わらず(使徒7:2)、ペテロ訪問の時点でも無割礼のコルネリウスは「神を畏れる者」[φοβύμενος]とはされているが「兄弟」[ἀδελφῶς]とは呼ばれていない。無割礼では、律法に従う者と看做されないからである。(使徒11:1-3)従って、同朋とは契約と律法遵守が関わることがわかる。
一方、コルネリウス宅を訪れたペテロの仲間は「兄弟」と記されているが(使徒10:23)、彼らは明らかにユダヤ教イエス派であった。(使徒11:12)

聖霊降下の後のイエス派内に於いても当面の間はユダヤ教として血統のイスラエルを「兄弟」また「同朋」とする習慣(出埃2:11)は強く残っており(エステル10:3/ネヘミヤ5:8)、そこに無割礼の異邦人で聖霊に預かる人々が増えるに従い、西暦49年頃に行われたエルサレム使徒会議を招来している。

その間、無割礼異邦人聖徒をユダヤ人聖徒らがどう見做すかについて不安定な時期があり(使徒13:26)、ヘブライスタイは、異邦人信者は改宗者と同じく割礼を受けなければ「救われない」と主張している(使徒15:1)が、これは敬虔で聖典に忠実なユダヤ教徒としてはごく自然な発想と言える。(創世記17:10-14)

しかし、エルサレム会議でのヤコブの裁定は、諸国民が無割礼のままで、当時のユダヤ人主体であったエクレシアに交わることを認め、ユダヤ教のシュナゴーグでの「神を畏れる者」フォボメノイ[φοβούμενοι]としての参加条件を課すだけに留めた(使徒15:29・20-21/21:24-25)。
この画期的な裁定の理由は、聖霊の降下が無割礼のままの異邦人に臨んだこと(使徒15:12・28)、またペテロは律法契約そのものを守らせる必要のないというところまで踏み込んだ発言をしていることによる(使徒15:8-10)。
こうして、割礼の問題を通じて律法契約下での同朋関係から、新しい契約下での同朋関係へと初代の弟子らの中に新たな絆を築いて行く道筋が付けられている。

律法の終了については、後のパウロ書簡にも表れるように最終的に律法の無効が宣せられ(ガラテア3:23-25/コロサイ2:12-14)、更にヘロデ神殿の破壊によって律法祭祀などが不能となって律法の無効は確定的となってゆく(ヘブライ8:13)。
その間、既に『新しい契約』が発効し始めていたので、実質的にキリストの死は律法の『犠牲を廃した』と言える。(ダニエル9:27/ヘブライ10:2-4)

パウロはエルサレム会議の後に、書簡の中で異邦人聖徒も含めて『神の子』であることを記して(ローマ8:14)おり、『キリストの血によって』双方の民の間の『隔ての壁が取り除かれた』とも書いている(エフェソス2:11-18)。異邦人聖徒も『聖なる民』であり、『神の家族』であるとも述べる(エフェソス5:3/ガラテア3:28-)。

神を創造者の意において『父』とする概念はキリストの当時にユダヤ人は有していた(マタイ5:16/ヨハネ8:41)ものの、『神の家族』となるという概念はそれまでになく、「神の家の子となる」とは律法に従うユダヤ教の隷属を超える自由人となることを意味するとキリストは予告していた(ヨハネ8:34-36)。
キリストは神を専らに『父』と呼ぶように『神の子』であったが、信仰する者をその血で『新しい契約』に招いて贖い、聖霊の印を以って(コリント第二5:5)その『兄弟』として弟子らを自らと同じく神を父とする立場に立たせた。(コリント第一1:22-24・6:11)

パウロの書簡では、出自に関わり無く『兄弟』(アデルフォス[αδερφός])といえば『聖なる者ら』を指すことがほとんどを占めている。そこにはユダヤ教のようにイスラエル同族と「改宗者」(プロセーリュトス[προσήλυτος])を区別する(使徒13:43)姿勢はない。彼は無割礼の異邦人であっても聖霊が顕現している信者をも同朋として受け入れ、彼らが『召し』を受けた者であり(コリント第一1:26)、異邦人を含めた彼らの『市民権(ローマ市民権を含意)は天に在る』とも記している。(フィリピ3:20)

ペテロは非ユダヤ人に向けて書簡を書いており(ペテロ第一2:10)、その諸国の人々に向けて『真実の兄弟の情を得た』と書いている(ペテロ第一1:22/第二1:7)。また『すべての兄弟ら』との一体性も説いている(ペテロ第一2:17)。
これら異邦人の『兄弟』もすべてが文脈から『聖なる者』であることはパウロ書簡同様に明瞭に見て取れる。(ペテロ第一2:5・9/第二1:10)

またパウロは、聖餐を示して『パンは一つであるから、わたしたち多くの者も一つの体なのである。なぜなら、わたしたち皆が一つのパンに与るからなのだ。』と述べる。(コリント第一10:17)
また、『わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分である。』(ローマ12:5)
そこで外地のエクレシアでは、キリストの体に預かるところの『新しい契約』に属する聖霊を介した同朋関係の意識が支配していたであろうことが見える。

しかし、ユダヤでは事情は異なっていたことがヘブライ人の手紙から観察される。
この書簡では、ヘブライストのイエス派聖徒に対して、異邦人の聖なる者らを『兄弟と呼ぶことは恥じない』ようにと促している(ヘブライ2:11)。同時にこの句は『律法に熱心な』ヘブライストの弟子ら(使徒21:20)が離散のヘレニストと異なって、異邦人聖徒を「兄弟」と呼ぶことに躊躇や羞恥があったことを示している。
この過渡期に在って、律法体制下の同朋関係と、聖霊による同朋関係のせめぎ合いが存在していたことも新約聖書は示唆している。(黙示2:9)

またこの句は、イスラエルの血統にあり、律法が様々に規定した『同朋』の範囲を超えるよう説き勧める言葉であると同時に、パウロの論議に従って、異邦人が『キリストの血によって近しい者となった』(エフェソス2:13)のであり、その身分は『キリストの兄弟』(ローマ8:28)にして『神の子』(ローマ8:14)であることに沿う。
またヘブライ人の手紙では、『聖なる兄弟』という言葉も使われ、『天に召される人々』であることも明らかにされている。(ヘブライ3:1)

ヨハネは、『兄弟』が『神から生まれた者』であるとしている。(ヨハネ第一5:16-18)
それはヨハネ福音書にある『水と霊から生まれる』『神の王国に入る』者のことを意味しており(ヨハネ3:5)、水の浸礼の後に聖霊をも受ける者を指している。(使徒2:38)

『聖なる者ら』が、人類に先立ってキリストの贖罪を受けた状態に入っていたのである(ヘブライ8:12)ゆえに、神に向かって『アッバ』と呼びかけることが(聖霊によって)できた(ローマ8:15)のであれば、その立場はキリストに並ぶ程に高いものである。(ヘブライ2:11・17)

そこで、聖霊の注がれていない者同士が『兄弟』と呼び合って当時にちなむことは、却って『聖なる者ら』の類い稀な立場を卑しめることになり、それは神の前に謙虚な姿勢とは言い難い。使徒時代にも『偽兄弟』はパウロらの遭遇した危険のひとつに挙げられており(コリント第二11:26/ガラテア2:4)、使徒後教父の時代にも、聖霊の注ぎを偽る者らが居たことを伝える資料も残されている。(ディダケー11:7/牧者11:13)

殊に、終末の裁きで『羊を山羊から分ける』に際しキリストの『兄弟ら』が分離の媒介となることをキリストは明言している(マタイ25:40)事を考慮するなら、その呼称を信徒が用いることは、終末に於いて人の裁きに関わる『偽兄弟』の謗りを受ける危険も孕むことになり兼ねない。(ガラテア2:4/黙示2:9)
<これは『不法の人』や「脱落聖徒」との関連が生じるのかも知れず、その場合に、真実の聖霊なく兄弟を名乗るなら、終末に於いて人々を『背教』へと惑わす罠と自ら変じる危険もある>

『兄弟』と呼ばれる聖徒以外のあらゆる人が、裁きを前にした罪人であることを謙虚に認めなければ、『神の王国』による贖罪を必要としていることを示せないであろうことは理の当然であり、神の経綸やキリストの犠牲への敬い無く、『罪』なき者のように振る舞うべき理由はない。

したがって、キリスト教信奉者の間で『兄弟』また『姉妹』の呼称が親近感や団結性にどれほど効用があるとしても、上記のような認識を持つなら、神との契約関係という圧倒的に重要な事柄がそこに関わっている以上、これらの呼称を聖霊の注ぎのない信者間で用いることは憚られるに違いない。




「誰がアデルフォスと呼ばれたか」




終末  -綱領-

2016.10.15 (Sat)
「終りの日」(アハリート ハヤーミーム/エスカトス ヘメーラ)


聖書記述は多くの箇所でこの時期に焦点を合わせて語られており、新旧いずれの聖書にある故事や預言によって繰り返しこの終末の重大さが示されている。

「終りの日」また終末は、キリストのパルーシアから始まり、まずキリストに伴う『聖なる者ら』の集められるに際して(マタイ24:30-31)、彼らへの徹底的な試練と裁きの時となる(ゼパニヤ1:14/マラキ3:2-3/ヨハネ12:48/エフェソス5:25-27/黙示13:10)。
次いで、『聖なる者ら』の聖霊による言葉への反応により、『この世』に属するあらゆる各個人が裁かれる。他方で『この世』という体制そのものは、神の意図に反したものであるため、『神の王国』と入れ替えられ終りを迎える。

まず、終末の聖徒らへの裁きは、聖徒が『この世』と『神の王国』との対立関係からの圧力に耐え得るかによるものとなる。
次いで、終末に生ける人類の裁きは、聖徒らにどのように反応するかによるものとなる。
この二つの裁きが「終りの日」が到来することの意義であり、アダムの堕罪以来継続して来た『この世』が終息し、キリストの千年王国による支配と贖罪が始まるという、かつてない大変革を呼ぶものとなる。

終末また「終りの日」を特徴づける聖徒による聖霊の言葉の世界宣教は『三年半』というキリスト・イエスの宣教期間のように短いが、その前に『シオン』と呼ばれる準備的な信仰者の集まりが存在し、それを養う『忠実で聡い家令』が予告されている。
聖徒の活動する『三年半』の後、『背教』とされる究極的な反対行動が優勢となって世界を覆うが、それが『この世』のシオンへの攻撃を惹き起こし、神と人の戦いへと発展して、遂に世界はカオスに陥り人々は個々に選別され、時を移さず新たな体制を意味する『新しい天と地』に入れ替えられるに及ぶ。


聖徒について

キリストが宣教において集めたのは『アブラハムの裔』である聖徒らであって、単に信者を求めてはいなかった。またキリストの業を引き継いだ使徒らや初代の弟子の宣教活動にしても、やはり『聖なる者ら』を集めるというその目的は同様であった。(ヨハネ14:12)

イエスをメシアとする信仰によって集め出された人々の集団が「エクレシア」(召し出された者ら)と呼ばれたのにはこの背景がある。この語は都市国家(ポリス)の民会を本来意味するが、聖徒らの天への召集が『神の王国』、「エルサレム」と呼ばれる都市国家を実現させるものであるところにも整合性がある。(マタイ24:31)
当初は「教会」(おそらくキュリアコン(ヨハネ第二1)に由来)という名称は用いられていなかった。(確認されている初出はユスティノスj.mとされる)

「終わりの日」の期間の終わりには、死した聖徒らは天への復活、また生ける聖徒らは天への召しの時を迎える(ヨハネ6:39-40)。但し、共に試され選ばれた者となっていなければならない。(ルカ13:24/マラキ3:3)
死せる聖徒らの復活は『格別な復活』(フィリピ3:11)とも呼ばれる。それは生ける聖徒らと共に、エデンで語られた『女の裔』(創世3:15)が何者であるかが『証印を押される』ことで(黙示7:4)確定し、『神の王国』の実現されて『奥義』が終了し(黙示10:7/11:15-19)、千年期支配を開始する時(黙示20:4)となる。

次いで、聖徒らの語る聖霊の言葉への反応を以って『この世』の裁きが行われ(マタイ25:31-46)、未曽有の『大患難』(マタイ24:21)によって裁きに脱落聖徒(マタイ7:21-23)と共に(黙示2:22)抗う諸国民すべてに対する処置が執行される。(ゼパニヤ1:18)
従って「終末」とは、『神の王国』をもたらすための『聖徒ら』と『この世』の全体に対する二つの裁きの期間となるが、長いものではなく、十年未満、あるいは更に短く数年で終了する可能性が示唆されている。(ダニエル12:7/マルコ13:20/ローマ9:28)

この格別な時期についての聖書中の情報を収集し整理してゆくと、預言ばかりでなく事跡の書にも、幾十もの世代に散在している記述が関連付けられ、一定の方向性を示しているので、終末の特定の姿を描き出すことに気付かされる。これらの千年を越える期間に書かれた内容の不可思議な整合性を人間の意図に帰すことは到底無理であり、長い時代に亘り常に筆者らの背後に存在した同一の意志の持ち主をどうあっても想定しなければならない。
それらの記述によって再構成される終末の予告の内容は恐るべきものながら、聖書は全体としてこの『終りの日』に焦点を合わせており、余程に重大な時となることを繰り返し告げていることが分かる。以下にその要約を試みる。



◆キリストの臨在と顕現

キリストは公生涯の間に、一度世を去って、不定の将来に再び来ることを繰り返し語っていた(マタイ16:27・24:41-42/マルコ8:38/ルカ18:8/ヨハネ14:3/黙示22:20)が、聖書は新旧共に『終わりの日』について焦点を合わせている。(イザヤ2:2/エレミヤ23:20/エゼキエル38:16/ダニエル2:28/マタイ24:3/ペテロ第二3:10/黙示1:10)
キリストの臨在は『盗人のように来る』、また、弟子らにとって『思わぬ時に』到来する(マタイ24:44)とされる。(黙示16:15)
そこで『主の日がいつになるかを知らない』ので『目を覚ましているように』、また『用意をしているように』と警告している。(マタイ24:42-44)
ルカ書では『婚宴から主人が戻ったときに、すぐに扉を開けられるようにしている』ことも求められている。(ルカ12:35)

これら目立たない臨在の始まりに対して、『栄光の内にすべての使いを従えて来る』(マタイ25:31)という明瞭な現れについても語られている(テトス2:13)。
後者は『臨在の顕現』(エピファネイア テース パルーシアス)と呼ばれる(テサロニケ第二2:8)圧倒的な現れである。

これらの双方の種類の現れには一連の『地の裁き』(マタイ25:32・46)が関わっており、終末予告では『盗人のように』密かな到来による『臨在』の始まり(ルカ12:40)から42か月を経た聖徒を象徴する『十二部族』の裁き(マタイ19:28-29/ルカ22:30)、その後の世の裁きの執行に於ける世界中に認知される明示的な『顕現』の時との異なりを表していると捉えることができる。キリストの終末予告では「終わりの日<の期間>」(シュンテレイアス トーン アイオノーン)の事象と「終局」(テロス)とに使い分けられている。(マタイ24:3.6)



◆キリストの不可視性

天界に去ったキリストは、誰も見る事ができない状態に入っていることを聖書は知らせる(ヨハネ14:19)。
キリストは帰天の後は肉眼には不可視であり、臨在の時期が進み、その『顕現』(エピファネイア)に至ってもなお『雲に乗って来る』(マタイ24:30)と記されるように終末の臨在では終始人が見えることはない。その不可視性は、人々の内面を裁くために必須である。

しかし、『聖なる者』で天界に召される者らはキリストと同じ霊の体を備えることになるので、その時に至れば『あるがままの彼を見る』(ヨハネ第一3:2)ことになるが、肉なる者が見ることはない。

また、聖徒らの肉体も、出エジプトの子羊(出埃12:10)が焼き尽くされたように存在の用を終えており(ヘブライ13:11)、彼らは仮住まいの『幕屋』を解いて不要にしている。それはキリストに倣うもので、復活のキリストは『霊となった』ので(コリント第一15:44-45)アダムの肉体での命を代替して神の前に捧げ出し、人類に永遠の命をもたらしたキリストの肉体は贖罪の焼燔の捧げ物と同様に(レヴィ16:27)消滅している(コリント第一15:50)。

帰天後のイエスは『雲の中に入った仕方(トロポス)で到来する』(使徒1:11)のであり、『終わりの日』の臨在にはキリストが雲から出現するかように肉体で現れることはない。むしろ『雲に乗って』『雲と共に来る』とされている。(マタイ24:23-28/ルカ17:22-24)
黙示録に記される『わたしは死んだが生きている』というキリストの相貌は、初臨の肉として来られたイエスを知るヨハネ(ヨハネ第二7)に衝撃を与えるほどのものとして描かれている(黙示1:12-17)

したがって、使徒らへの復活後のイエスの現れも化肉であったと結論できる。アブラハムへの天使の現れからすれば(創世記18:8)食事をしているから(ルカ24:39-43)肉体に復活したとは言えない。傷を負ったままで治癒も出血もないイエスの現れは通常の肉体のものであったとはいえない。(ヨハネ20:25)むしろ、イエスは復活を通して最初の再創造(パリンゲネシア)が神によって成し遂げられていたとみるべき理由がある。(マタイ19:28)


キリストの臨在は『稲妻が西から東へと輝きわたるように来られる』(マタイ24:27)のであるから、『人が「見よ、メシアは荒れ野にいる」と言っても、行ってはならない。また、「見よ、奥の部屋にいる」と言っても、信じてはならない。』(マタイ24:26)とも警告されている。地の裁きが関わる以上、臨在を通して化肉のキリストも考え難い。この「キリストの見える現れ」の点では、その虚像の出現により、終末の人々には強い誘惑が起こることが繰り返し暗示されている。

キリストの臨在が目に見えるもの、また再び地上に到来すると唱えることは、地上の何者かをキリストと見誤り、『偽キリスト』を招く危険を冒すことになり兼ねない。(ルカ17:23-24)
それゆえイエスは『人に惑わされないように注意せよ。多くの者がわたしの名を騙って現れ、自分がキリストだと言っては多くの者を惑わす』との警告を繰り返し与えている。(マタイ24:4-5)
しかし、聖徒らが去る以前から奇跡はすべてが聖霊によるものとは言えず、それは試されるべきものである。(ヨハネ第一4:1/士師6:17)

終末には、地上に『偽メシアや偽預言者が現れて、大きなしるしや不思議な業を行い、できれば、選ばれた人たちをも惑わそうとする』(マタイ24:24)からであり、彼らは超自然のしるしを行う『聖なる者』であったが誘惑と恐れから堕落し悪魔の霊力によって偽預言者となる「脱落聖徒」であり、イエス・キリストはきっぱりとこれらの者らを拒絶する。(マタイ7:22-23)

また、キリストの不可視性は、『偽メシアや偽預言者』を介在させるばかりでなく、より重要な人々の聖霊による裁きに関わらせるのであり、キリストが見えないことで人は処罰を恐れずに自分の性向を露わにし、臨在の中で善良の外面を演じることさえ阻まれ(サムエル第一16:7)、怖れを抱かずにその心にままに行動し、自らがどのような者であるかを自他に示すことになる。(マタイ12:33-37)また、キリストの臨在が自分たちの期待する見える仕方で来ていないところでそれを信じないことを表す。(マタイ24:23)


終末において見える神の活動を荷うのは『聖霊』(ヨハネ16:8)であるので、『聖霊を冒涜する者はけっして許されない』(マタイ12:31-32)との言葉は終末において重い意味を持っている(ヨハネ3:19)。
したがって、イエス・キリストが霊の体のままであってさえ化肉の像を見せる(ルカ17:22)なら、自らこの世の裁きを阻害し、裁きの媒介となる聖霊の役割を貶めることになってしまう。(ルカ12:10)

終末預言の中で、大変災を予期する諸国民が戦慄しつつ『人の子が栄光を伴い、天の雲の内に来るのを見る』(ルカ21:25-28)のは、肉眼でイエス・キリストを捉えるのではなく、この世の裁きが進行し、人々が処置されていることを認めざるを得ない事態(マタイ24:29-30)に入った恐慌の時を指している。そこに於いて人々はカオスに陥り、既に裁きに分けられており(マタイ25:31-33)、キリストの臨在が栄光を帯びるその顕現(エピファネイア)(テサロニケ第二2:4/テモテ第一6:14)の段階に入っている。

キリストがその臨在を広く世に表すときには、進行している裁きが人々の目に明らかであり、分けられていた『羊』を『山羊』から救い出す処置に入る。そこで聖霊に敢えて信仰を表さなかった人々、また脱落聖徒の集団である地上に残された『偽預言者ら』、またその中心人物である『偽キリスト』に従った人々は『永遠の断罪』に入ることになる。(マタイ25:46)



◆聖徒の裁きと召し

この裁きとは『聖なる者ら』の召しに関わるもので、彼らへの迫害による『精錬』の過程を経る(マラキ3:2-4)。
その終末の迫害を司るのは『北の王』とされる権力と、そこから派生する『腕』とされている(ダニエル11:31-35)。
黙示録でこの『腕』に相当するものが『七つの頭を持つ野獣』であることはダニエル書との比較から分かる(ダニエル8:24/黙示13:7)

終末の地上に生きる彼らの天界への召しに対して、死した『聖なる者ら』の天界への復活が先んじる(テサロニケ第一4:15-17)。
初期に死した『聖なる者ら』は生前の行いによって裁かれる(コリント第二5:5-10)が、その生涯を『新しい契約』に則して忠節に歩んだか否かが問われる(ヨハネ5:29/マタイ25:1-13)。

生ける『聖なる者ら』については『瞬間的に』『雲の内にあって』(テサロニケ第一4:17)人に目視されることなく肉体を消失させて(ルカ24:12/ヘブライ13:11-12)天界に召されるが、それは世に対して衝撃を与える(黙示11:12)。それが聖徒らを『新しい契約』に則して裁く決定的な時となるので、パウロは『 わたしたちの主イエス・キリストの顕現に至るまで、その戒めを汚すことなく、また、非難のないように守れ。』と命じている(テモテ第一6:14)

しかし、『聖なる者ら』にもその裁きと召しが何時になるかは分からず『見張っている』必要がある。もし、終末の『聖なる者』として相応しく行動しなければ、聖霊を注がれていながらも地上に残される者となる。(マタイ24:36:-44)

使徒ペテロも、『聖なる者ら』が『主の臨在のときまで染みも傷もなく、平穏な心で見出されるように努めよ』と訓戒している。(ペテロ第二3:12-14/ヨハネ第一2:28)こうしてキリストは『生ける者と死せる者を裁く』(使徒10:42/テモテ第二4:1)。この裁きは、『神の王国』の樹立に関わるもので、千年期後の神自らによる(黙示20:11-15)諸世紀の人類への裁き(ルカ11:31)とは別のものである。

彼らにとって裁きの時が『罠のように臨む』(ルカ21:34)恐れがあるのは、臨在の始まりではなく、迫害の精錬を経て、彼らの裁きが確定するキリストの『顕現』の直前である(テモテ第一6:14)。聖徒の全体は『イスラエルの12部族』として集められるが、その裁定に関わるのはキリストと十二使徒であり、その時には天界で十二使徒との主の晩餐が二度目に催される。(ルカ22:28-30/22:14-18)

『精錬』の期間が『1260日』であれば、キリストの臨在(パルーシア)によって聖霊降下が始まると共に試練も訪れ、同時にメシアがダニエルの『七十週』の残りの三年半『契約を保ち結ぶ』(ダニエル9:27)ので、地上に再び聖霊を注がれる者らが現れることになる。したがって臨在は聖霊の再降下を以って明らかにされる。
『聖なる者ら』は、聖霊によって語り(ルカ21:15)、その委ねられる言葉によって為政者らと対峙する(イザヤ52:15)が、その発言は広く諸国民の知るところとなり(マタイ10:18)、世を糾弾するその内容によって世界は(シナイ山の如く)激しく動揺することになる。(ハガイ2:6-7/ヘブライ12:25-27)
従って、聖霊の注ぎの以前に論争が起こされていて、為政者との対立も既に始まっている可能性が高い。

この聖霊による世界宣教には『聖なる者ら』の自己犠牲と勇気が求められるので、恐れる者は、聖霊の働きを封じて世から隠してしまう(マタイ25:13-30/ルカ19:12-27)が、そうする者らは『この世』と終わりを共にすることになる。(マタイ10:39)
したがって、彼らは『自分の魂を救おうとすればそれを失う』(ルカ9:23-24)ことになるので、『自分の磔刑の木を荷って主に従う』覚悟が必要となる。(マルコ8:34)
また、恐怖からの沈黙以外に、聖霊の業を行っていながら別の動機を懐き、不忠節に及んで断罪され、キリストの選びに達しない者も出る(マタイ7:21-23)。
聖徒の集団の内部でも忠節を巡って分離が生じ、裏切りや憎しみ合いが起る(マタイ21:10)が、聖徒の起こす論争を巡っては、家族、親族、友人とも分裂の生じる危険を覚悟しなければならないほどに対立は先鋭化する。(マタイ10:35/ルカ12:52)

臨在の顕現の起こる直前には、『聖なる者ら』への弾圧と攻撃が特に強くあり、これは『北の王』と『腕』(ダニエル11:31)、また『小さな角』によるもの(ダニエル8:9-12)であり、これは黙示録では『七つの頭の野獣』として描かれる諸国権力の集合体で現在の国際組織とは異なる新たな国際権力と思われる。
ダニエル書での『北の王』の描写はしばらくセレウコス朝シリアを描写するが、途中から(11:29近辺)アッシリアの描写に代り、聖霊の言葉に強く反発する(ダニエル11:44)ので、その主導する国際勢力の集合体によって聖徒らは『滅び』を被ることになり(ダニエル8:24/黙示13:7)、その後には信徒らへの脅迫も及ぶ(ダニエル11:45)が、アッシリア(イザヤ37:33)また『北の王』で予型象徴される『シオン』への攻撃の主体者である終末の覇権国の一方(ダニエル11:25-)は、聖徒の攻撃の直後の『シオン』攻撃準備の最中に突然の権力の崩壊に見舞われ(ダニエル11:45/黙示13:5)るが、『シオン』で象徴される信徒の集団については害を免れる(イザヤ37:33-35)。しかし、『北の王』は舞台から退場しても『腕』を構成する勢力は『十本の角』として残る。

この『北の王』の信徒への恫喝、また『アッシリアが領地を侵すときに』神は『イスラエルの支配者』の許に、聖徒ではない何者かの『七人の牧者』『八人の君侯』を起こし、『アッシリアからの救い』が施される(ミカ5:1-6/イザヤ37:6-7・22:20)が、この『北の王』の権力の崩壊は人間によるものではないらしい(イザヤ31:8)。
この際に『七つの頭の野獣』も一旦活動を終え(黙示13:5)、新たな『像』の段階へと進むらしい(黙示13:14-15)。


この『大患難』に先立つ軍事的不安は、キリストの終末予告の中で『戦争や騒擾の知らせ』として『民は民に、国は国に対して立ちむかう』世の権力同士の戦いとは別ものとして語られており、前者は『北の王』からの『シオン』に対する恫喝で終わることについて述べていることが、キリストの『恐れ慄かないように』また『終わりはすぐには来ない』との続く共観福音書の言葉に一貫して示されている(マタイ24:6/マルコ13:7/ルカ21:9)。

『シオン』へのこの恫喝に前に『聖なる者ら』への滅ぼしは成功するが、その直後に彼らには天界への召しが生じ、初期の聖徒らは復活し(ダニエル12:1-2)、次いで地上に残る契約に忠節な者らは不可視の『雲のうち』に上げられ、地上を去る(テサロニケ第一4:13-17)ので、それを聞く世の人々は驚愕する(黙示11:11-13)。『キリストの王国が実現する』のはこの時であり(黙示11:15)、エデンで語られた『女の裔』の実体である『神の王国』が現れるこのときに、世の初めから隠された『神の聖なる奥義』が終了する。(黙示10:7)

この間に、地上に残される『不法の人』また『偽キリスト』を中心とする脱落聖徒らの諸国家への使嗾によって、『シオン』に対する第二の攻撃が画策される(黙示16:13-14)が、これが『諸国の王らをヘブライ語でハルマゲドンという場所に集めた』との記述に相当する。(黙示6:16)
しかし、この攻撃に先立ってこれら諸国の勢力は、『聖なる者ら』を攻撃させた旧来の組織宗教『大いなるバビロン』(黙示17:3-6)を既に葬り去っており(黙示17:12-13・16)、その以前からも人々の宗教心は新たな信仰の対象を求めて『不法の人』の神格化が進んでいる。(テサロニケ第二2:3-4)。



◆七つの頭を持つ野獣と大いなるバビロンの滅び

聖霊による世界宣教は、既存の諸宗教の意義を無くしてしまい(イザヤ60:2/黙示9:1-6)、旧来の組織的宗教からは信者が著しく減り始める(黙示16:12)。
そこで諸宗教の組織は、聖徒への反対を始め、これは為政者らと結託するところとなる。
為政者らは『北の王』の唱導で始められる『小さい角』(ダニエル8:9)であろう『七つの頭を持つ野獣』(黙示13:1)で表される諸国権力の集合体を以って聖霊の発言に対抗し、聖徒らを攻撃することになる(ダニエル8:10-12/黙示13:6-7)。

この権力組織は世界的なものとなり、疑似的世界統一政権のようなものとなるようであり(黙示17:11)、それは古代にニムロデが企て挫折した事柄(創世記11:6-8/黙示13:3)、即ち、世界統治の野望の再来(黙示13:14)であるようだ。
しかし、その『獣』そのものの存在期間は短く(黙示13:5)、聖徒に対抗する役目を終えると『北の王』の権力崩壊(ダニエル11:44-45)に影響されて一度消滅するらしい(ダニエル8:23-25/7:11)。

しかし、聖徒を滅ぼした野獣は『シオン』に矛先を転じ強烈な恫喝を行うが、そこで『戦いや騒擾について聞いても恐れるな』(ルカ21:9)とは、『シオン』については述べられたと言える。イザヤの預言に従うことが正しければ、『シオン』への、この第一次の攻撃そのものが『人手によらず砕かれ』短時間に脅威は『シオン』から除かれる。(イザヤ37:6・33/ダニエル11:44)
そのとき、このアッシリアで象徴される終末の『北の王』は、恐るべき知らせに『掻き乱され』『自国に帰る』以外なくなるらしい。それはおそらくは、自国の国家権力に関わる危機を意味するように思われる。
これは同士討ちで諸政府の権力が打ち砕かれるハルマゲドンの戦いとは異なり、それよりも早く訪れるので『必ず起こるが、終りはまだ』である(マタイ24:6)と言われているのであろう。

聖徒を、その聖霊の発言共々亡き者としたい諸宗派は、この権力の集合体に向けて聖徒らを攻撃するよう政治に対する影響力である『地の旅商人』を用いて慫慂し(黙示18:23-24)、その策謀は成功を見る(黙示17:3-6)。だが、これによって旧来の宗教組織の総称と思われる『大いなるバビロン』は、聖徒らへの暴虐を指す『神殿への罪』(エレミヤ50:28)を負い、エルサレムの罪はバビロンへと移される(ゼカリヤ5:8-11)。

『大いなるバビロン』は、『聖なる者ら』にもたらした二倍の復讐(黙示18:6)を受け滅びを被ることになる(黙示16:4-6)。
それでも人々から宗教心が去ることなく、新たなスタイルの宗教が広く世界の人々の崇拝心を吸収するらしい。それが『野獣の像』の偶像崇拝であり、それを推進する覇権国家があり、その国家はおそらくキリスト教由来である(黙示13:11-18)。

旧来の宗教組織の総称と思われる『大いなるバビロン』については、世界を動揺させる『聖なる者ら』の聖霊の言葉(ヘブライ12:25-26)によって多くの信者を失い続けており(イザヤ47:9/黙示16:12/17:15)、その勢力は格段に弱まっている。
そのうえ、『不法の人』また『反キリスト』を中心とする脱落聖徒ら(マタイ7:21-23)が、サタンの霊力を得て(テサロニケ第二2:8-10)覇権国家の下で新たな包括的宗教を始めている(黙示13:11-18)ので、旧来の組織宗教はより一層脆弱化する。

そこで旧来の『大いなるバビロン』を滅ぼすよう諸国家の権力(ダニエル7:12/黙示17:12)に影響を及ぼすのは、『北の王』ではないもうひとつのキリスト教的覇権国家、『子羊のような二本の角を持つ野獣』(黙示13:11)に擁立される『野獣の像』(黙示13:14)で表される究極的偶像崇拝(黙示13:15)の対象となる『不法の人』(テサロニケ第二2:3-4)であると思われる。『不法の人』は『神の神殿に座し、自らを神とする』ので、生ける偶像となって『話すようになり』『冒涜を語る』ことになる。また、彼が『野獣の像』であることは、権力を備え圧政をもたらすことも暗示されている。

旧来の組織宗教の消滅は、野獣の『十本の角』で表される諸国家の公権力による滅ぼし(黙示17:12-13・16)によるが、これは聖徒攻撃と信徒への一度目の恫喝(ダニエル11:44/イザヤ37:8-11/ルカ21:9)の後、二度目の脅しに際して訪れる。
おそらくこの二度目の脅しは、野獣の『像』の権威による『十本の角』への下命によるものとなり(黙示16:16)、その間『大いなるバビロン』は以前に『十本の角また野獣』を使嗾して聖徒を滅ぼさせているため(黙示17:12-14)、自分たちは二回目のシオン攻撃についても安泰であると思い込み、『女王として座す、寡婦などではない』と油断し(黙示14:15/列王二9:31)、新たな政教の座に就いている『荒らす憎むべきもの』の企みに気付かない(列王二10:18-19)。

『大いなるバビロン』への攻撃は、信徒の集団『シオン』の二度目の危機(歴代第二20:1-3)となる「ハルマゲドン」の戦いの前哨戦となり(黙示16:16)、その勝利によって諸宗教に勝利する諸国の権力の意気は上がる(ヨエル3:9-12)。『十本の角』はシオン攻撃に進み、直ちに神はキリストを王としてシオンに擁立し、神と人との最終的戦いに入ることになる。(詩篇2:1-12)
『聖なる者ら』が去ってから終局までの事象は長い期間に亘るものではないとされる(ダニエル12:7)。おそらくこれは『二千三百の夕と朝』との秘儀と関わっていると思われる(ダニエル8:13-14)。<おそらくは終末期の全体は10年未満であろう>



◆キリストの臨在の顕現

臨在は聖霊の再降下によって明らかになるが、三年半は世人に対してキリストの臨在は疑問の余地を持つ状況が続く。
しかし、『雲の内にある』キリストの臨在していることが明らかになる時が到来するが、それをキリストの『臨在の顕現』(エピファネイア テース パルーシアス)という(テサロニケ第二2:8)。

『主イエス・キリストの顕現』(テモテ第一6:14)とは、『聖なる者ら』の裁きと召集の後に為される(イザヤ52:9)もので、キリスト・イエスは天界に揃った『聖なる者ら』のすべてと共に王位を得て(コリント第一4:8)地の征服に乗り出すことを指す(黙示19:11-21)。その戦いは信徒らの集団である『シオン』を守るためであり(詩129:5)、『神の大いなる日の戦争』また「ハルマゲドンの戦い」を行うべく、『シオンに王が立てられる』(詩2:6)。そこで神はシオンから権力の杖をメシアに差し出し『敵中から征服せよ』と命じられる(詩110:1-2)。
したがって、その戦いは既に敵軍の脅威に曝された『シオン』を巡るものとなる(イザヤ62:1/ゼカリヤ2:5)。

キリストの『顕現』は、この世がキリストの臨在の威光を認めざるを得ない状況に入ることを意味しており、神と人との『ハルマゲドン』の戦いの勝敗の決した後のことになる。神との戦いによって諸政府は拠って立つ権力を喪失し、世界はカオスへと向かう。その先にあるのは終局である。

キリストの顕現によって人々が『気を失う』のは、キリストの姿を見るからではなく『日と月と星に前兆が顕れ』キリストの臨在を『森羅万象』に認めるからであり(ルカ21:35-6)、それゆえに『人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを人々は見る。』(ルカ21:27/マタイ24:30)

この状態は、キリストが裁き主(ヨハネ5:22)として到来していることを誰もが悟る『臨在の顕現』となる(テサロニケ第二2:8)ので、大祭司カヤファにイエスが『あなたがたは、やがて人の子が力ある者の右に座し、天の雲に乗って来るのを見るであろう』と告げた(マタイ26:64)のは、キリスト(聖なる者を含む)(ミカ4:13)を亡き者をした者らへの神の側の報復の執行を指している。(エレミヤ50:28)



◆エルサレム神殿の対型と不法の人・荒らす憎むべき者

この顕現の前兆は『聖なる者ら』が地上から姿を消す事態の発生であり(黙示11:11-13)、顕現の始まりには『大いなるバビロン』への『二倍の復讐』が行われる。(黙示18:16-17)その『大淫婦』が『七つ頭の野獣』で表される権力の集合体を使嗾して『聖なる者ら』を攻撃させ(黙示17:6)、その『常供の犠牲を絶えさせた』からである。(ダニエル8:11-12)
だが、この行為は『荒らす憎むべき者』という究極の偶像崇拝を招く。(ダニエル11:31)その偶像は生ける人間であって脱落聖徒であり『反キリスト』また偽キリストとなる。(テサロニケ第二2:4)
この『聖霊』によって回復されたキリスト教からの脱落が、パウロの述べた終りの日に於ける『背教』であり、多くの「終末の到来」を予告したキリスト教の宗派がこの背教を見定めないために、正しくそれを予告することはできないでいる。(テサロニケ第二2:2-3)

脱落聖徒に対しては、サタンが肩入れするために一定の不思議を行う力が伴う(マルコ13:22)。
しかし、真のキリストが彼らを是認することはない(マタイ7:21-23)。

終末においてサタンの霊力を得て神に逆らう者らが現れる(黙示16:13-14)。それが、脱落聖徒らであり(ダニエル11:32)、彼らはエゼキエルの預言したマゴグを構成するのであろう。即ち「ゴグの故地」であり、中心的人物となるのが『ゴグ』と称される『不法の人』であると思われる。エゼキエルでは、ゴグは最終的な戦争を仕掛ける立場にいることが描かれており、脱落聖徒集団と思われる「マゴグ」の一党を率いる宗教的立場も含意するものは、『不法の人』(テサロニケ第二2:3)に最も意味の合致が考えられるからである。
『ゴグの地』が『北の最果て』(エゼキエル38:15)とされるのは、方角を意味せず、天空の中央を象徴し、『神の座』にゴクが就くという著しい権威の高さを表しているのであろう(イザヤ14:13/詩18:2)。即ち、宗教権威と政治権力とを兼ね備える偽キリスト、『荒らす憎むべき者』を表している(マタイ24:15・24)。

〈現実にユダヤ教徒がエルサレム神殿を終末までに再建する場合には、旧約の回復の預言がイスラエルの現共和国に実現するかのように誤解され兼ねず、キリスト教徒の少なくない人々によって既にそう信じられているので、これが終末の裁きに在って、聖徒を見分け、神の裁きの意図を知ることを妨げる要因としてサタンに用いられることになり兼ねない〉
〈黙示録20章での『ゴグとマゴグ』は千年後のものを指しており、似た働きを為すものの、その結末は異なっている〉

他方、『荒らす憎むべき者』(偶像を含意)もおそらくは同じく『不法の人』を表しており、『北の王』で象徴される覇権国家の後ろ盾を得て存在を始め(ダニエル11:31)、その国家の急速な崩壊の後に、別のキリスト教的な覇権国家(黙示13:11)の支援を受けて偶像化し、旧来の組織宗教の総称と思われる『大いなるバビロン』(黙示17:4-5)を亡きものとするよう使嗾したうえで、強烈な独裁的で新たな様式の世界宗教と化す(黙示13:12-18)。<実際に神殿が地上の跡地に再建される場合、その御座を占有し、聖徒を支持する民を地上のエルサレムに対する敵として攻撃させる動機が生じることになる(現に神殿什器は再製造されている)(但し、エゼキエルによると、終末に神殿が再建される場所は必ずしもエルサレムではなく、より南方の山地で、そこが「新エルサレム」と呼ばれる可能性を孕んでいる)>

地上の「偽キリスト」また「アンチ・キリスト」は、臨在のキリストに対抗するもので、天界のキリストの不可視を利用し、自らの至上権を吹聴するので、キリスト・イエスは地上の何者をもキリストとして探すことのないよう繰り返し戒めている(マタイ24:23-28/ルカ17:22・21:8)。

<この宗教が『荒らす憎むべき者』を権力化させ偶像化させるに当たり、旧来の組織宗教は去っているとはいえ、キリスト教の三位一体と地上再臨の教理、ユダヤ教のメシアの現れによる神殿再建の熱望、イスラムのイーサーの再来の教えが地上の特定の人物を神格化させる種として古来蒔かれていたとも考えられる。また終末思想を持つ諸宗教も合同される理由がある(ダニエル11:39)。この一神教の合同に加え、北の王の瓦解が共産独裁圏の消滅を指すなら、世界は宗教的にも政治的にも強い対立を解消することになり、そこで『平和と安全』が唱えられる(テサロニケ第一5:3)蓋然性は高まる。但し、エゼキエルの預言を詳細に見ると、現エルサレムの位置には神殿は建立されず、数十キロ南の山地に移動するものと思われる。そこは「新エルサレム」と呼ばれる怖れがある。各宗教はそれを受け容れてしまい兼ねない。もし、そうなるなら、それは神の奥義である>

この最終的な宗教権威者が『荒らす憎むべき者』と呼ばれるのは、ヘロデ神殿とユダヤ体制の終焉を招いた熱心党と野党集団に類似した終末の存在者を指すところからくるものと思われる。終末の『荒らす憎むべき者』は、聖書中で度々『シオン』と呼ばれる『聖なる者ら』の聖霊の言葉に信仰を働かせる人々(ヨハネ17:20)を攻撃するよう諸国家の権力を使嗾し(ヨエル3:9-11)、却ってこの世の体制に滅びを呼び込む。(ミカ4:11-13)

『聖なる者ら』が迫害によって『殺され』、その結果キリストに続く者として天に召されると、天に『神の王国』が実現するので、サタンの力によって(テサロニケ第二2:9)『神の座に就く』『不法の者』を『主イエスは口の霊をもって殺し、臨在の顕現によって滅ぼす』時を迎えることになる(テサロニケ第二2:4)。それはおそらくハルマゲドンの戦いの敗北の時、キリストの臨在が明確にされることで生じるとすれば前後関係は整合する。



◆『ハルマゲドン』の戦い

黙示録には『全能なる神の大いなる日に、戦いをするため』『全世界の王たちのところに行き、彼らを召集』することが描かれて後にこの『ハルマゲドンという場所』に『王たちを召集』している。(黙示16:14-16)
やはり旧約聖書の預言者らによっても、諸国が結束してシオンを攻撃することが繰り返し予告されている。(エゼキエル38:21-23/ゼカリヤ14:12)
『シオン』とは、『聖なる者ら』を表す『シオンの娘』を生み出す母体であり、出産の後に保護される地上の集団を指している。(黙示12:1-4・13-16)
この集団は、聖霊の言葉に信仰を働かせた人々で構成され(ヨハネ14:20)、迫害を受ける『聖なる者ら』に善意の手を差し伸べる(マタイ25:31-40)。その親切が僅かなものであったとしても、その酬いを得ないことはないとキリスト・イエスは語っていた(マタイ10:40-42)。
終末には、脱落聖徒である『偽預言者』らの勢力が悪霊の慫慂を受けて、諸国の権力を用いてこのシオンを攻撃させようと惑わす。(黙示16:13-16) この企てに『大いなるバビロン』に属する諸宗教も賛同するが、諸国の公権力の集合体である『十本の角』はその露払いがこの大娼婦攻撃であることは伏せられている。そのたくらみの主は『不法の人』であると思われる。
<もし、地上にエルサレム神殿が再建されていれば、不法の人の座を「偽のシオン」とし、そこを守ることを正義と置き換え、象徴的な「真のシオン」を攻撃させる理由もあり得る。また、その以前に『大いなるバビロン』をも同様の理由で攻める口実があり得る>

しかし、このハルマゲドンの戦いが始まると諸国の軍勢は同士討ちを始め、そこに神罰が加わり全軍が尽く壊滅する(エゼキエル38:21-23/ゼカリヤ14:12-13)。この同士討ちについて黙示録第六章で、『赤い馬』で示されており、『人々が、互いに殺し合うよう、巨大な剣が与えられた』とあり、そのため『地上から平和を奪い取る』ほどの権力の世界的破滅をもたらすものとなる。

預言者ヨエルはエホシャファト王の故事を用い、その古代の対型となる戦いが再度起こり、世界を巻き込むことを預言して『諸国民は奮い立ってエホシャファトの谷に来い。わたしはそこで座を設け周囲のすべての民を裁く。』と記し、諸国の大軍勢が同士討ちで壊滅することを暗示している。(ヨエル3:9-12)しかし、神YHWHは『葡萄搾り場を踏む』かのように諸国民を裁き、シオン、またエルサレムから声を放ち天地が激動することも予告する。(ヨエル3:13-17)
黙示録は、『聖なる者ら』の小麦の収穫に続いて葡萄の収穫があることを予告し、その葡萄搾り場が踏まれると『馬の轡に届くほどの嵩となって、1600スタディオン(288km)に及んだ』と記している(黙示14:20)。

『ハルマゲドン』とは、勝敗が鮮明に分かれた決戦の行われた場所としてのエスドラエロン平原を広く見渡す『メギドの山』に由来する。
したがって、古来その地の戦いが圧倒的な勝利と完膚なきまでの敗北を示唆しているが、この点は『預言者ら』の予告に違わず、神は『災厄を与える』ので『恐慌が生じて、同士討ちを行う』ことと相まって諸権力の連合軍は徹底的に破られる(ゼカリヤ13:12-13)。天に召集された聖徒らもキリストと共に諸国民を脱穀し微塵に砕く(ミカ4:11-13)。

これは神とこの世との戦いであり、諸国は権力を糾合して神を信仰する人々を攻撃しようとするが、神はその人々を表す『シオン』を守らせる(イザヤ31:5)ために『王を立てる』(詩2:6)その王は『敵のただ中から支配せよ』と命じられ(詩110:2)、『聖なる者ら』を伴い(黙示17:14)『全能者なる神の激しい怒りの酒ぶねを踏む』(黙示19:15)

こうして、神は高く上げられ(イザヤ2:10-17)、諸国民は神YHWHを知らなければならなくなる(エゼキエル38:23)。
しかし、その至聖の御名を唱える者は救い出される(ヨエル3:32/使徒2:21)。

この段階で、『新しいエルサレム』は降下しておらず、シオンは『田園の』『開かれた(城壁の無い)都市』であるが、そこは安らかに繁栄しているという。即ち、権力の防備なく聖霊の恩恵に預かっていることが示される(エゼキエル38:11)。そこで諸国の軍勢は必勝を期す(エゼキエル38:9/ヨエル3:9-11)が、神YHWH自身が『火の城壁となってこれを守る』(ゼカリヤ2:4-5)


◆諸国民への裁き

諸国の権力は同士討ちを始め、神の立てた王の前に完膚なきまでの敗北を被るが、これについては黙示録6章の「四人の騎士」とそれに続く『墓』(ハデース)(黙示6:1-8)に予告されている。
第一の白馬の騎士が『征服に征服を遂げる』ために現れると、第二に『火のような色の馬』が現れる。
この馬の騎士には『大きな剣が与えられる』がその意味するところは『人々が互い*に殺し合うようになるために、地上から平和を奪い取ること』とされており同士討ちが示唆されている。*(アッレローン「個々に」)

この戦闘と神罰とによって、この世の権力は崩壊してしまうので『地の王たち、高官、千卒長、富める者、勇者、奴隷、自由人らはみな、ほら穴や山の岩かげに、身をかくし』(黙示6:16)『そのとき、人々は山にむかって、我らの上に倒れかかれと言い、また丘にむかって、我らを覆えと言い出す』(ルカ23:30)
この戦いで出る膨大な屍は、『中空を飛ぶすべての鳥』の食らうところとなる(黙示19:17)。

この戦いの結果、諸政府を表す『山』や『岡』は削られ(ハバクク3:5-6)激動し崩れ去り(エゼキエル38:18-20)、打ち砕かれる(イザヤ41:15)。
地上のこの世の制度は押しなべて溶解し、無法のカオスの中で、「原罪」ある人間のあからさまに利己的で危険な有り様を通して『その業は暴かれる』(ペテロ第二3:10)

この世の諸機能は働かなくなるので、世界の経済活動は停滞し輸送も止まるであろうから、貿易や流通に生活を依存しているこの世界は直ちに物資の窮乏に喘ぐことが予想される。
黙示録の第三の騎士は黒い馬に乗って登場し、主食の高騰を描写している(黙示6:5-6)。
しかし、奪略と騒擾の蔓延により、貨幣価値さえ失われる事態まで覚悟せねばならない(エゼキエル7:19)。
その段階では、場所的な逃避(アモス9:2)も、蓄財(ゼパニヤ1:18)も食糧の備蓄(ルカ12:19-20)も生存を保証するものとは言えない。

食糧不足は健康を害するに違いないが、第四の騎士は『青ざめた馬』に乗って登場する。これは『死の災い』を表すが、神の『御前を進む』(ハバクク3:4-6)という『疫病』を表すのであろう(エレミヤ14:12)。
黙示録では青ざめた馬には『墓』が従っており、それが『地の獣』でもあることが示されている(黙示6:8)。 即ち、獣の腹がそれ以前の災厄を含めて滅びる人々の墓となる。それでもなお、しばらくの期間は死体や骨を目にすることはあるらしい(イザヤ66:24/エゼキエル39:14-16)。
従ってこの『死の災い』が諸国民への裁きの執行に最終的な役割を果たすようである。(エレミヤ14:21)もしそうなれば、選択的罹患によって、救われるべき人々は具体的な『奥の間』に入る必要なく、保護される可能性がある。(イザヤ26:20)

象徴的『シオン』には、戦いに勝利したダヴィドの都市『新しいエルサレム』が降り、支配と贖罪を始める。(黙示21:9-10)
これが全収穫の終了を祝う、仮庵の祭りの対型であると思われる(ゼカリヤ14:16-19)。


◆臨在の前段階

キリストはこの世に対して不在であるので、終末にキリストの臨在が起こる。
しかし、キリストの臨在の前に予備的な働きを行う者がいることが予告された(ルカ18:8)。
彼らは、深夜に『婚礼から戻る』『主人が扉を敲いたなら、すぐに開けられるように』準備を怠りなくしているべきである(ルカ12:35-36)
もし、そうして目覚めているところを主人に見られるなら、『主人は彼らに給仕をする』(ルカ12:37-38)

この件につきペテロはイエスに、使徒らによって象徴された『聖徒』に対するものか否かを訊ねた(ルカ12:41)が、イエスはそれに答えなかった。その理由は『聖徒』であるか否かを示す必要が無かったからであろう。とすれば、これらの予備的な臨在前の働きは『聖霊』によるものにならない。
それでも、マタイ福音に於いて、自発的に臨在前の活動を行う者は『忠実で智き僕』とも呼ばれ、仲間に定時の食事を備える(マタイ24:45-47)。しかし、主人の到着を待たずに仲間を促し強制して勝手な振る舞いをすることは強く戒められている(マタイ24:28-51)これら、双方の違いは、終末期に於ける様々な試みを自発的に行うそれぞれの集団があることを指すのかもしれない。

また、ダニエルに示された第七十週の残りの期間が、『新しい契約』の締結と関わりがあることが示されており、『聖霊』がその契約に預かる者の『手形』(エフェソス1:13)であれば、聖徒が現れるのは、第七十週の残りの42ヶ月また1260日となり、その間ずっと迫害がある(黙示13:4-7/ダニエル7:25)のであれば、キリストの臨在は『聖霊』の業と世界からの反対を特徴とする。そこで、キリストの臨在の前の段階で『聖なる者ら』を生み出す『女』(黙示12:1)が存在していることになり、それはイザヤ書に繰り返し描かれ、またミカ書に詳述される『シオン』と『シオンの娘』の描写に整合する。(イザヤ49:21/ミカ4)

『聖なる者ら』を指す『シオンの娘』または『シオンの子ら』の出産(イザヤ66:7-8/黙示12:1-4)の前に、母親である『シオン』はそれに先立って黎明から目覚めていることが予告されている(イザヤ60:1・52:1/黙示12:1)。 この象徴的サラの出産(ペテロ第一3:6)により『アブラハムの裔』は全て生み出される(黙示12:5)ことになり、その結果、キリストの権威が神の前に樹立され、サタンは天界の立場を失う(黙示12:7-9)。
地に堕ちたサタンは女『シオン』への攻撃を目論むがこれは成功せず、『聖なる者ら』の活動期間中も保護される(黙示12:13-15)。
但し、この『女』の出産の前には多少の困難を予期するべきかも知れない(黙示12:1-4)。



これらの臨在前の活動は神の任命に拠らず、人の側からの自発的なものと思われる。(ヨハネ1:40-41)
この人々は、『聖なる者ら』の現れについて重要な働きを行うことが示唆されており(イザヤ66:20-21)、その『シオン』となる集団の存在と聖霊降下への強い願いが無い限り『聖なる者ら』の登場も、聖霊によるキリスト教の回復もまずもって起こらないであろう。そうなればキリストの臨在も遠のく事になり兼ねない(ルカ18:8)。

終末へのきっかけとなるのがこの自発的な人々の現れであり、旧来のご利益信仰に陥っているキリスト教を離れ、宗教的信念を転換するほどの神への共感が求められている。
キリストの臨在の時が不明であることには、『聖なる者ら』の母体となるべき信仰あるこの人々の登場の不明さを孕んでもいるとも言える。彼らがキリストの臨在を迎え『扉を開ける』(ルカ12:36)のであり、その時期にこれほど大きな影響を人類にもたらす人々もいない。(イザヤ60:1-3/黙示12:1)

この『シオン』と呼ばれる集団に対して、『諸国民が流れのように向かう』とは(イザヤ2:2-4)、聖徒らの聖霊の言葉と、それに続くシオンの人々の世の『三分の一』に対する宣教的糾弾により、新たに加わる膨大数の人々を指しており、その中には『聖なる都市』で表される聖徒とシオンとを迫害していた人々も含まれる(黙示11:2)。その寛容性はモーセが荒野で掲げた『銅の蛇』に予型されている(ヨハネ3:14-17)。また、それを比喩としたキリストは、黙示録の四騎士の最後の青ざめた馬で表される疫病が最終的処置となり、それから信仰によって逃れる機会が依然開かれていることを示唆していると考えられる。




終末に登場する要素
◆予想される世界情勢




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神名  -綱領ー

2016.10.01 (Sat)
神名

神の固有名はモーセに知らされ、律法契約と共にあった。
創世記のヤハウェスト資料に神名が現れているが、この資料の成立はソロモン以降の後代と思われ、イスラエルのエジプト出立の前、モーセの召命まで神名は知らされていなかったと見るべき理由は多い。(出埃6:3/創世22:14・47:26)
アブラハムは祭壇を設け、犠牲を捧げる相手を『エル・シャッダイ』『エル・エルヨーン』または『エル・オーラーム』などの一般的な形容付きの名称で呼んでいるが、少なくともその神が『地のすべてを裁く方』であることを知っていた。(創世18:25)
(大洪水前については、後にモーセに示された固有名を意味する「シェム ハ メフォラーシュ」が存在した蓋然性は低く、知られていたかも不明)

聖書中で、統一された神名によって実質的に諸国民の間で畏敬されたのは、大国エジプトを揺さ振った十の災い、そして紅海を分けてイスラエルを救い、ファラオの権力を葬ってから後である。
イスラエルも、神への畏敬ではほエジプト人とほぼ同じであったが、更に進んでシナイ山が激動し百雷轟き、竃のように黒煙を吹上げて燃えるのを見て怯え上がりYHWHの名をもつ神がどれほど畏怖されるべきかを目の当たりにしている。この名に込められた教訓は達し難い『聖』であり、人に親しみをもたらすよりは、よほど畏れを懐くべきであり、異神崇拝の諸国民を尽く滅ぼす意図をもち、且つ転向する者だけを許す神の姿は、堕罪前のアダムへのエデンの現れのような慈愛ばかりにはならず『裁く神』である。それは人に『罪』があるからであり、本来なら御前には出生することすら叶わない。人の存在はその後のメシアの贖罪と、すべての魂の現れの双方による創造の業の完遂を前提としている。(出埃24:11/イザヤ6:5)
そこで律法は、この名を徒に扱うことを禁じ(出埃20:7)、その後、神名はモーセからキリストの世代に至るまで律法契約の時代を通して存在し保持されていた。(イザヤ42:8)
預言者はその名によって語り、神を代弁していることを示したが、その予告が外れた預言者は偽り者であることを警告している。従って、その名によって語ることがそのまま正義とはならない。

この名は、聖なる四つの子音字で構成されるヘブライ語で記されたので、後に「テトラグラマトン」(希)と呼ばれる。
(その発音が捕囚後に変化している可能性が、神名を含む人名の発音の変化にみられる)

バビロン捕囚の後、律法契約は「新しい契約」が予告される中で不安定化するが、ユダヤ教は律法墨守に邁進し、前三世紀頃から神名の発音を贖罪の日の聖域に限定する(ミシュナ:ヨマー6:2)に従って、神名の神聖さの強調が進み(ミシュナ:サンヘドリン7)、排他的に扱われ、「ハ シェム ハ メホラーシュ」は、第二神殿の「イスラエルの中庭」に入域できる血統のイスラエルだけが発音を知るところとなっていった。その作法の由来は十戒の第三戒(出埃20:7)の徹底と、崇拝の中心地に神が『名前を置く』とされたこと(申命16:2/歴代第二33:7)に背景がある。また、境内の聖所への入域を許されたユダヤ人らの選民意識を高める働きを果たしてもいたが、それが却って後の発音の喪失を招くことになる。

第一世紀には、ユダヤ教徒は聖域外で神名を発音することが重罪となっていた(サンヘドリン10:1)ことは、ヨセフスの著作(戦記V:10)にも見える。
使徒らや初期のユダヤ人の弟子らも、ユダヤの神名の作法に従っており、聖域外での神名の発音は避けていたことは、固有名を識別するのにきわめて効果的に用いることのできた宣教の場面でそうしていないことからも窺える。(使徒13:16-17/14:11-18/17:27)
彼らが伝えるべき名(使徒4:10-12)はメシアとしてガリラヤから来られた方、ナザレ村のイエスであった。(ローマ15:20)
イエス自身がナザレの会堂でイザヤを朗読したときにも、神名発音で論争は起こっておらず、ユダヤの作法に従っていたと見うけられる。(ルカ4:17/ミシュナ:ソーター6) また、キリスト自身が神名の作法を咎めている場面も福音書になく、使徒らもこの件について何ら述べていない。

(聖書に見る限り、イエスが宗教家らと論争になったのは、ほとんどが安息日に関する事柄であったし、弟子らの場合はナザレのイエスがメシアであるか否かが論点となっている。神名についての論争は皆無であった。)

ギンスブルクの還訳での使徒言行録でも、アテナイやリュカオニアの異教徒らに対してさえ御名を宣明しておらず、彼らが伝えたのは常にキリストであるイエスであった。しかし、イエスは神であるとは言わず、『任じられた方』としている。(使徒17:18・31)

その後のヘロデ神殿の喪失は、ユダヤ教徒らにとって予想外の出来事であったが、聖域を失ったために神名を発音する機会を失い、なおもユダヤ人が神名を神聖視する作法を厳格に保ったために、却って発音そのものが忘れ去られる結果を招いた。
この事態は、神殿の喪失から今日まで『御名を置くところ』が地上に存在しないことをも表している。(申命記12:11)

新約聖書は旧約の引用を当時のセプチュアギンタに拠っていたが、それら旧約ギリシア語テクストはごく古い例外を除きテトラグラマトンが現れる抄本は存在していない。特にキリストの時代までには固有神名は見られなくなっている。
その結果を裏付けるように、今日まで五千にもなる新約聖書の古写本の事例でテトラグラマトンが現れるものは現時点までに皆無の状態となっている。

また、使徒時代の弟子らも神名の発音を避けていたことは、ユダヤ人らとの間でこの件での論争の記録が存在していない事からも明らかに見える。
従って、旧約聖書には神名が現れるが、新約聖書に神名が現れることは無いと言える。その理由は、はじめから記されていなかった蓋然性が圧倒的に高いからである。

新約聖書に、弟子らに神名の発音を求める場面も文言も無い、従って、現状でキリスト教徒に神名の発音は求められていないばかりか、本来正しく神名を唱える事は、誰にも不可能となっている。
但し、終末に於いて信仰のうちに神名を呼び求める事が救いに関わると新旧の聖書が繰り返している。それはただ名を唱えることを超え、信仰という倫理上の選択を意味する。(詩篇79:9-10/ヨエル2:32/使徒2:21/ローマ10:13)
預言者らは、終末に於いて神名が全地で聖なるものとされ、至高の高みに挙げられるものとして何度も描いている。(詩篇69:35/113:3/135:13/イザヤ12:4/エレミヤ16:21/エゼキエル39:7/ゼカリヤ14:9)
したがって、終末には神名が唱えられる仕方で知らされるべき理由がある(詩篇9:10/エレミヤ10:25)が、それは人由来にもたらされることはないと思われる。

聖書は、キリストが終末に神名を知らせる可能性を知らせており(詩篇102:21/ヨハネ17:26)、特に聖霊を注がれて終末に登場する『聖なる者ら』には(詩102:18)、キリストの兄弟として(詩篇22:22)、また、神との契約に預かる当事者(民数記6:27)として、その証人となる(イザヤ43:10/使徒15:14)ことが期待される。

終末に『聖なる者ら』は為政者らの前で、聖霊を注がれて語ることが予告されている(マタイ10:18)が、モーセがホレブ山麓で神名を賜り、それを以ってファラオと対峙し、イスラエルの民の解放を迫った故事が予型となり(出埃5:1-2)、同じく『聖なる者ら』が『御名を負う民』(使徒15:14)として為政者と諸国民に対して神名を示し、民の解放を求めることになれば、終末に現れる彼らが神名を知らせる意義は非常に大きいものとなる。(黙示11:18)

初期教父らが幾つかの発音の情報を伝えているが、一致しているとは言い難い。
キリスト教界でルネサンス期から用いられてきた「イェホヴァ」は、「アドナイ」(主)と読ませるためにマソリームが付したニクード*をそのまま子音に当てはめたものであり、「ヤハウェ」は19世紀にドイツ・チュービンゲン大学の学者が推測し広まったものである。
*[יְהֹוָה]

今日、神名の省略形である「ヤハ」の音は残されており(詩113:1)、再び聖霊が注がれ、再び神名の発音が知らされる終末までの間、固有名としてこれを便宜的に用いる事が出来る。
もし、聖霊による啓示の無い今日までに、人の案出した神名を唱えているなら、それが口癖になってしまうと真の発音が示されても容易に変えることは難しく、それこそは短期間の終末に重大な障碍となり兼ねない恐れがある。(詩篇74:18/79:6)

固有名詞を用いることの重要性があるからといって、言語の違いによって発音が異なることを理由に、人に案出された何らかの発音を用いるとすれば、それは却って神名の重要性を引き下げることになる。それでもなお神名の発音を主張するなら、神の処置に異を唱えることになろう。(詩篇44:20-25)

人の関わる諸事情があったにせよ、もし全能の神がこれを隠されたのであれば、人が開示することはけっしてできず(ヨブ記34:29)、再びの啓示を待つよりほかにない。(詩篇9:10)
それは終末の聖霊の注ぎによるものとなるように思われる。なぜなら、神との契約に預かる者が現れる場合、その者が契約の一方の当事者の名の発音を以って自らの立場を明かさない事は考えにくいからである。

いずれにせよ、神の御名を知ることは願い求められるべきもので(詩篇80:18)、「主の祈り」に明示されているように、聖霊の再降下と共に御名の栄光は、日毎に祈られるほどの重さを帯びている。(マタイ6:9/ルカ11:13)

但し、終末においては、神名を明らかにする者が必ずしも『聖なる者ら』であり続けるかは別問題(ペテロ第一3:6)であり、聖徒らの現れから然程の時を経ずに「脱落聖徒」の危険が存在する(ダニエル11:35)。その場合は御名を知らせる者であっても、『あなたがたはイスラエルの名をもってとなえられ、ユダの腰から出、YHWHの名によって誓い、イスラエルの神を唱えるけれども、真実をもってせず、正義をもってしない』(イザヤ48:1)と糾弾されるべき、不忠節な『契約の民』に堕することも予期する必要がある。


◆聖書中での神名の扱いへの提言

神名が不明である間、旧約聖書中では、テトラグラマトンが存在しているところで[יהוה]または「YHWH」等に置き換えたローマ字で表記し、「ヤハ」と読むこともできる。この点で、今日まで続くパリサイ派ユダヤ教の「アドナーイ」また「エロヒーム」とする習慣に束縛される理由はなく、発音が不明である以上、御名の神聖は既に保たれている。だが、それが正当なものであるかのように「エホヴァ」や「ヤハウェ」と呼ぶのは、真相が持つ発音の不明さに対する畏れを欠く傲慢さを免れ得ず、普通名詞に入れ替えたユダヤ教の奉りに過ぎたる極端さの真逆の極端に走ることになる。
新約聖書では、古写本の有り様に従い神名は挿入する必要がないばかりか、もし、そうするなら初期の聖徒らの著作のあるがままを恣意的に捻じ曲げることになる。
但し、旧約の引用箇所でヘブライ語に[יהוה]がある箇所については新改訳聖書が旧約聖書にしているような方法で【】等に区別して記載することはできる。
それでも読み手が、キリストか神かで誤解を招くような箇所には脚注を付すことができる。



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キリスト教の掟と見做され易いもの -綱領-

2016.09.16 (Fri)

前項が長くなったので、こちらに転載


◆キリスト教の掟と見做され易いもの


・エルサレム会議の議決
エルサレム会議の議決は、ユダヤ教の中から現れたユダヤ人イエス派の聖徒らに対して、どのように無割礼の異邦人聖徒がイエス派に参加してゆくかを定めたものであり、既にユダヤ教で会衆に無割礼の異邦人の参加を『神を畏れる人々』(フォボメノイ)として受け入れる際の会堂側からの条件とされていたもの(使徒13:16)淫行、姦淫、偶像崇拝や血の禁令を含んで(レヴィ17:12-16)当時のユダヤ教の最低要件であったものを、ヤコブがイエス派の会衆に交わるに於いても同じ要件を追認し裁定したものである。その目的は、依然ユダヤ教の習慣にあるイエス派信者らがその常識に於いて異邦人の習慣に躓き、あるいはユダヤ人が律法主義に頑なで集まりを共にできないこと(コリント第一11:20-22)のないための措置であった。背景としては、イエス派の集まりでも当時は律法の朗読が行われていたことも挙げられている。(使徒21:20-25)

この会議でのヤコブの裁定は、割礼の問題に端を発したユダヤ人聖徒と異邦人聖徒という『二つの民』(エフェソス2:15)の緊張関係の調停を図ったもの(使徒15:21・21:25)であり、今日のように、律法を守り続けるユダヤ教イエス派が消え去って存在していないキリスト教の現状(ヘブライ8:13)では意味を持たず、これを規則化するべき理由は今日のキリスト教徒にない。エルサレム使徒会議の要点は、割礼の問題を越えて、本質的には律法を遵守するべきか否かという大きな転換を孕んでいたのだが、議決ではその点は暈かされ、二つの民が会衆を構成できるように取り計らわれる事柄で終わっている。
(そこでパウロに主導する外地とヤコブが率いたユダヤのイエス派の間にはその後に葛藤を残しているが、そうして『先のものは後となる』。ユダヤはやがて『火のバプテスマ』を被り、神殿祭祀が中断された結果、律法の完全な施行は不可能となって今日に及んでいる)


・食物制限
ダニエルと三人の友らが野菜を専らに食したのは、血や汚れていると律法で見做された生き物の肉などが混じっていて、律法契約の下にあったヘブライ人の彼らが、捕囚のために異郷に在っても律法条項を犯すことのない強い決意から、異邦人からの給食に条件を付けたものであり、もちろん菜食主義が神から求められているわけでもなかった。彼らの律法遵守に対して健康を保つ神の助けがあったことも考えられる。キリスト教徒であれば、ユダヤ教のカシュルートに自ら従うべき理由はない。


・山上の垂訓の道徳規準
山上の垂訓で語られた道徳規準は、モーセの律法の精神、また真髄をキリストが示したものであり、律法の規準が如何に高いかを教えるものとなっている。それは人々に神の倫理的完全性がどれほど純粋なものか、また同時に、人の到達不能の領域であることも知らせる。
使徒ペテロは、律法を『父祖らも自分たちも守れなかった頸木』(使徒15:10)と呼んでいる。まして、イエスがその価値を掲げたのであれば、それは何者も履行ができるものではない。使徒パウロは『律法は違背を指し示すために加えられたもの』(ガラテア3:19)であり、『すべての口がふさがれ、世界が処罰を受けるため』に律法が与えられた(ローマ3:19)と述べている。
従って、山上の垂訓に示された無原罪の道徳規準を規則化することは無意味であるばかりか有害となる。律法の記述そのものより遥かに実行の難しい要求となるからである。


・自死・自殺
自死、あるいは自殺を聖書が罪としている記述は存在しない。十戒の『汝殺すなかれ』を適用して「自分を殺すことだから罪」という理由は、同じく律法での『その血の復讐する者』(民数記35:16-20)の対象が不在となり罰則がないので殺人と同じ罪に定めるには無理があるばかりか、そもそも律法の時代は過ぎ去っている。

自死や自殺が、苦境に耐えかねた結果として死への逃避を選ばざるを得ないと個人が判断したものである場合、そのような逃避としての死を願った例(民数記11:15/サムエル第一31:4-5)が聖書中に観られるが、神はそのことを咎めていない。また、そうした者を咎める言葉を新約聖書に見出さず、その復活も特に否定されていない。(使徒24:15) 特に自死は奨励もされず、断罪もされていない。

永らくキリスト教徒が、これを罪と見做した由来は、ローマ帝国からの迫害期*(特にデキウス帝期)に、迫害もされていない状況で集団自殺が流行するまでに殉教が美化されたために、これを重罪として戒めなくてはならないほどであったところから始まっている。エジプトの初期殉教者が自ら火炎に飛び込んで果てた女性の一例を罪とするべきかの論争に於いて、アウグスティヌスは免責と判断した。
カトリックが自殺を明確に罪に定めたのはその後452年のアレラーテ会議の議決からであった。*(皇帝の側に迫害の意図は薄かったとの新説もあり)
以後も、宗教的熱狂から自死、あるいは自殺を行う事件も起っているが、教えのためにそれを行うとすれば、その教えは極端に偏っている。
また、自殺者の葬儀を拒む教会の慣習が存在して遺族の服喪や感情を無視してきた。英国では1554年から「自殺法」が制定され1966年に至るまで、自殺者の遺骸を傷つけ、墓地に埋葬しない慣習が存在していたが、これらは本来のキリスト教とは関係を持たない。

確かにパウロは、自らの肉体を指して『生きることも、死ぬことも益がある』と述べ、『真に願わしいのは、解き放たれて主と共になることにある』(フィリピ1:21-23)とは言っている。
それでも、『聖なる者ら』は、迫害を受けることになるものの、自ら喜び進んで殉教を受けるわけではなく、浸礼を通して『キリストと共に死に』、聖霊を注がれることを通し、キリストの復活によって『共に生きる』(ローマ6:8)聖徒らにとって自死、あるいは自殺に地での試みを避ける意図があるなら、相応しいものと見做されないのであろう。(コリント第二5:15)



・離婚と別居、再婚の自由
まず、結婚とは神の前に在っても永続的関係ではなく、死別によって解消されるものである。(コリント第一7:23)
また律法も、離婚を容認していたことは事実であり(申命記24:1)、配偶者を得ることには『生めよ増えよ』という創世記の下命と、子供を養い育てること、また『日の下で神から賜わったあなたの空なる命の日の間、あなたはその愛する妻と共に楽しく暮すがよい。これはあなたが世にあってうける分、あなたが日の下で労する労苦によって得るものだからである。』という相互扶助の役割を負う制度である。

キリストは上記申命記を引用して
『「妻を離縁する者は、離縁状を渡せ」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」』(マタイ5:31-2)
これは、山上の垂訓の場面であり、律法が如何に高い基準を本来持っているかを説く場面であり、山上の垂訓の他の多くの訓話の通りに行うことは生身の人間にとっては不可能であり、アダムの罪に在りながら、垂訓の通りに行えていると思うなら、それは仮面の正義を付けているだけである。

それゆえ、キリスト教に於いて、姦淫は強く戒められていたが、やはり結婚が永続的な契約関係であったとはいえない。
もし、家庭が相互扶助を円滑に行えないときには、家庭制度も結婚関係も危機に面しており、さらに外部からの助けを必要とする。しかし、その原因が配偶者間の不和にある場合、それは当人らによる解決を促す以外になく、現状で結婚関係は法制度に中に取り込まれており、止む無く家庭裁判所などに問題を持ち込むことも避けられない場合も有り得る。

コリント第一7章に含まれる離婚と別居また再婚の自由についてパウロの述べる事柄は、この部分の対象は聖なる者らであり(コリント第一6:19)、それでなくとも、当時のエクレシアは『神に召された』(コリント第一7:17)弟子らでほとんど構成されていた。
但し、未信者の夫や子が『聖い』とここで語られ(コリント第一7:14)ているのは、彼らが聖霊を受けた『聖なる者』となったことを意味しない。それは『聖なる者』となった信者の清さにその家族が関わっていることを表している。
『聖なる者ら』の婚姻については、律法にレヴィ族内の結婚や祭司への規定が存在していた(レヴィ21:1-14)が、それはレヴィの子孫を浄める目的をも有していた。(レヴィ21:15)

律法では、アロン系の彼らが離婚された女、または既に性関係が有ったり、犯された女を娶ることが禁じられていた(レヴィ21:6-9)が、新約では、主から賜ったというパウロの言葉(コリント第一7:10)の背景には、聖俗を分かつ律法祭司制度が新しい契約に預かる『聖なる者ら』に敷衍されている(コリント第一6:19)と見ることができる。
彼らは、配偶者が未信者であったとしても、信仰を得させることができたかも知れないことを『どうして救えないと分かるのか』の言葉に表されているのであろう。但し、それが妻の立場であれば、自らが信仰に邁進してゆくことではなく、『夫と子を愛し、慎み深く、純潔で、家事に努め、善良で、自分の夫に従順である』(テトス2:4-5)という家庭での基本的な役割を充分に果たすことにその努力を傾注されるべきであり、配偶者の離れることは仕方のないことであるとパウロは言うのは、宗教行為に邁進した結果がその理由であるなら本末転倒となる。(コリント第一7:15)

聖徒は霊体を身につけることで、人種ばかりか男も女も差がなくなる(ガラテア3:28)天界での彼らの姿(ヨハネ第一3:2)を考慮するときに、かつての肉の家族は意味を成さない。ゆえにパウロがコリント第一第七章で述べていたことは、地上に居る間の婚姻関係また家族関係に『聖なる者ら』としてどう向き合うべきかに関わるものである。(コリント第一6:11・15)

したがって聖霊のない今日、未信者はもちろんのこと、信徒もこれらの言葉に拘束されるものではない。
『主にある者とだけ』結婚を許す(コリント第一7:39)というは、確かに価値観を共有することの利点は非常に大きいものの、やはり信徒に対して規則化まではされるべきでなく、却って、これが多くの宗派の信者囲い込みの方便として利用されている。

上記のコリント第一7章に含まれる再婚の自由について『主にある者とだけ』を聖徒でない人々に当てはめるべき理由はない。
価値観を同じくする人と結婚することに多くの益があるにせよ、それだけが結婚関係を必ずしも良好にするとは言い難い。
或いは、異なる価値観を尊重し合える特質がより強固な関係を築くことも有り得る。宗教(政治)観念より重要なのは互いへの信頼という倫理性と愛着の度合である。
また、身内を同じ信仰者で固めることは、必ずしも良い結果を招かない。人の思想は変わり得るので、その自由を阻害する危険も存在することになる。身内の関係で重要なのは、共感や同情心を必要とする家族(親族)愛であって信仰や思想では無い。

キリスト教は一貫して民事的事象に踏み込んでおらず、婚姻だけでなく、出生の祝いも、葬儀についても何ら規定していない。
職業の選択についてもそのようであるが、各信徒個人の良心や善なる動機が反応するところに応じて行動することが「愛の掟」によって期待されるのみである。(コリント第一13:3)
俗世がそれらの事柄の決定や儀式において専ら宗教の意義を見出し、宗教自ら冠婚葬祭を商業化している中にあって、実にそれがキリスト教の本質ではないことが見えている。
殊に『聖なる者ら』は、『神の王国』で主と共になり、諸国民を祝福するという目的に信仰生活を合わせていたことは明らかで、そのための身の清さへの務めが婚姻関係に示されている。(ヘブライ13:3-4)
しかし、実質的に『レヴィの子らを浄める』のは迫害の試練の火であり(マラキ3:2-3)、そこで試されるのは行いの清さよりは信仰となる。(ペテロ第一1:7)


・同性愛と異なる性同一性障害(性別違和)
同性愛については、旧約聖書の原初史に於けるカナンの悪行から記録(創世記9:22・24)があるが、有史以来、同性愛は常に存在してきたようで、ソドムの街は全体がそのようであり、ロトの客人となっていた天使らを犯そうとして(創世記19:5)周辺の街々もろともに天からの火で焼き尽くされている。(19:24-25)

アブラハムの血統を警護すべき律法は、レヴィ記(20:13等)で、同性交接を死罪に定めていた。<但し、女性同士の性愛を律法が禁止している箇所はなく、ユダヤ教ではハラハーがその傾向を持った女性を妻に近付けないことを命じている>

キリスト教には律法が廃されている(ローマ10:4)以上、これをキリスト教徒の規則とすることも、同性愛者の神の処遇も確定はできない。(ローマ5:20)

異教諸国、特に古代ギリシアの少年愛(パイデラスティア)は、自分の倒錯的嗜好のために人を囲うまでに進み(コリント第一6:9[マラコイ])、ヘレニズム圏に広がった各地の神殿で神殿男娼によって儀式にまで聖化されていたばかりか、ローマ帝国に於いても大衆に同性愛が広範に行き渡っていたが、使徒パウロはこれを強く批難している。(ローマ1:23-27/申命記23:17)

同性愛のきっかけが関係の強制であったり、今日では病気として認知されている性同一性障害や性別違和のように先天的に避けられないものも含まれていることを考慮の外に置くことは不適切と言うべきであろう。疾患は所謂「同性愛」とは一線をひかれるものと今日ではされている。

そこで先天的なものと、ロトの客人に対するような恣意的また強制すること、中世期にように人を意のままにするための方策として、また性の貪欲な嗜好の追求による結果として自ら同性愛に転ずる事とは異なっている。
強要によって同性愛への転向させることは、ほとんど強姦に類いする性嗜好の強要であり、創造の神の企図した男女の身体の働きに反している事へと人を貶めることであり、その人格の蹂躙は一般社会からして悪行の責めを免れまい。

これらはについてキリスト教に於いての一律な判断は難しいが、最終的な裁きの根拠は性道徳ではなく『信仰』にあることには変わりはない。


・嘘、欺き
山上の垂訓の中でキリストは偽証を咎め、是は是を否は否を意味するように語れと言われた。(マタイ5:37)
パウロも聖なる者らの間で真実を語るように命じている。(エフェソス4:25)
それでも、ペテロとバルナバが欺瞞に満ちた行動をとったときにパウロはこれを責めている。(ガラテア2:) しかし、彼らは聖徒としての立場を失っていない。

旧約聖書中では、罪される虚偽の隠蔽(ヨシュア7:1)もあれば、サライの笑いの否定(創世記18:15)、また恐れによる嘘(創世記26:7)相続に関わりその価値を見分けない者を欺く行為(創世記27:5-17・31:34-35)が記録されている。
そのほかに攻撃をかわすためのもの(ヨシュア2:4-7)、神の意図を実現させるために敵を欺く天使の発案(列王第一24:20-22)も記録されている。

その一方で、偽りは述べていないものの、その動機が汚れていたもの(ペテロ第二2:15-16)も、また欲のためにまったく偽りを語った者ら(使徒5:1-11)には厳しい責めが臨んでいる。

これらを総じて観ると、確かに、神は公正と正義を求められる(申命記25:13)が『罪』ある人が『罪』ある社会に在る以上、嘘や欺きをまったく行わず、山上の垂訓でキリストの示した規準に到達することは不可能であり、それを追い求めて努める以外にはないように思われる。
もちろん、人にはそれなりの発言に責任が伴うので、欺き、虚偽を語り、偽証を為すことなどにより社会からの制裁を受けることがあるが、逆に、自分は嘘、欺きを行ったことがないと主張すれば、その発言そのものが集約的な嘘となり、自他を欺く害になる。(ヨハネ第一1:8)


・偶像崇拝
ダニエルの三人の友らが、火の炉に投げ込まれても王の像に平伏さなかったのは、律法契約の根幹である十戒を犯さないためであったと言える。
『新しい契約』に於いても偶像を避けるよう求められているが、これは『聖なる者ら』への要求であり、本来は信徒に対しては契約に関わる要求ではない。現状の一般人に至っては、それが神の否認をもたらすことは考えられない。(黙示11:2)
それでも、偶像を崇拝することが聖書全巻を通じて戒められているところからも、また、殊に終末の究極的偶像崇拝が裁きをもたらすことからも、これを現状で信徒自らに許すことは慎むべきことと言える。だが、それは信仰と神への忠節の内に避けられるべきもので、戒律によるものではない。
但し、終末の時期に世界は究極的偶像礼拝に陥る事が予示されており(テサロニケ第二2:3-4/イザヤ14:12-14)、この偶像礼拝については世界の人々を二分するものと成り得、それはまさしく裁きに関わることになる。(黙示13:11-18/マタイ24:23-28)。






愛の掟と道徳規準 -綱領-

2016.09.13 (Tue)
道徳規準


多くの宗教が、人に善行を勧め、悪行を抑制することを教えの中心に置いてきた。
キリスト教に於いても、善良な人格を培わせることが、神からの是認を得る方法のように教えられる宗派は少なくない。
善行に富む人が、徳のある人物として賞賛されるのが社会の常であり、品行方正であることが社会から評価されるように、行状が神にも評価されると人は思いがちである。
この捉え方の背景には、宗教の独立性が失われ、社会一般の必要に仕えるものとなって社会秩序に貢献する役割を担い、そうして『この世』と同化した実態がある。

しかし、宗教が社会に道徳性を与えるという捉え方は法の整備と施行が行き届かないところで有用ではあっても、神の人に対する意志については大きな問題がある。
人にとって道徳性に価値を感じるにせよ、より本質的な善は明らかに『愛』であり、それこそが究極的に神が人に求めるものである。

旧約聖書の義人ヨブは善行に富み悪から離れていることが自分の義(ヨブ35:2)であり、それがなぜ神からの酬いに預からないのかについて疑問を呈した。(ヨブ10:2-3)
彼の人間的な義は、サタンの反論を退け、三人の友人らの執拗な審査にも打ち勝つほどに優れていたが、実に、彼の「義」にこそ問題があった。(ヨブ40:8)

ヨブの義が如何に優れていようとも、それは『人に対するもの』であり、『神に何かを与えることのできるものではなかった』。(ヨブ35:6-8)
したがって、ヨブの義を賞賛していては、そこから何も学べない。彼の義が優れていたからこそ、そこに陥穽があった。
律法遵守も同じく、その『業によって義と宣せられることは無い』ので、キリストが現れ『新しい契約』が発効した以上、律法の条項を守るべく腐心する必要はない(ヘブライ7:18)。
律法の中に、生活上の諸事に神の意向を汲むこともあるにせよ、例えそれが『新しい契約』に預かる聖徒らが留意すること(ペテロ第二3:11)があったとしても、その目的は『聖』を仮承認されたことへの自覚からくる責務であり、普遍的に規則化されるべき理由はけっしてない。

宗教経典に「正しい生き方」を求め、そこに何らかの益を受けようとする『律法』的信仰方式は、キリストの『新しい契約』に付随する『キリストの律法』(ガラテア6:1-2/ペテロ第二3:2/ヨハネ第一2:3)によって、その契約に預かる聖徒らにのみ課される(テモテ第一6:14/ヨハネ第一5:2/黙示12:17・14:12)よう変更されたが、キリストの成就した(マタイ5:17)ことによるモーセの律法の終了(ローマ10:4)を以って、律法の条項を守る務めについては、今日あらゆる人に課されていない(エフェソス2:15)。
律法はキリストの業によって一度限り『成就』され、キリストの倫理的完全性を担保したのであり、そのゆえにも律法の言葉は滅しない。

また、『キリストの律法』とされる(ガラテア6:2)聖徒らへの(ガラテア5:13.16)一定の道徳規準(コリント第一7:19/ペテロ第一1:15)も、聖霊を注がれた聖徒が存在しない(ダニエル9:27/ヨハネ9:4)状態では、誰に適用されるものともならない。

聖徒らへの道徳規準への要求も、本来は『愛』に動機を持つものでなければ『意味が無い』(コリント第一13:1-4/ローマ13:9/ヨハネ第一3:22)。
聖霊注がれた『聖なる者ら』は『新しい契約』を全うするために、キリストの『完全にされた』義の状態を分与されるに相応しい行状は求められている。

また、原則的に、神の前に是認を得、更には『義』を得るのは善行でも苦行でもなく自らの罪を認めたうえでの信仰であるとキリスト教は教える。(ローマ3:21-25)
これは、旧約聖書の多くの部分を費やし、イスラエル民族に与えた律法(詩篇147:19-20/詩篇78:5-7)を通して、遂にキリストの内に到達をみた重要な結論となっている。聖霊に対する冒涜のほかは『人はあらゆる罪を赦される』(マタイ12:31)ことをキリストは言明している。
ゆえに、イスラエル人に与えられた律法も守られなかったゆえに、また登場人物がすべて非イスラエル人らの論議であるヨブ記も共に人間の義の限界を教えるものとなっている。

したがって、キリスト教徒であろうとなかろうと、何者も自分のどんな善行や徳性によっても神の前に義や救いを得ることはまったく不可能である。(エフェソス2:9)
人間が神の前に義とされる道はただ一つ、キリストの犠牲により贖われることであり、それを信仰し待望することである。人類一般は神の前に義とされ、創造物として認知されるために『神の王国』の千年期を必要としている。(ペテロ第一2:9/黙示20:4-5)
このように捉えるときに初めて『医者は病人に必要である』というイエスの言葉を得心することができる。キリストは『義人を招くためではなく、罪人を招くために』来られたとも言われる。(マルコ2:17)


◆『罪』と『愛』

人はアダム以来、外からの規制を必要とする倫理上の不完全者となってきた。この倫理上の欠陥を聖書は『罪』と呼ぶ。
『罪』の原因は、アダムが強い誘惑を受け、自らの欲のために創造者に忠節な愛を示さなかった事による(ローマ5:12-17)。

以来、人間社会は自らの不倫理性のために法と権力がなければ、その存立も難しい状況に置かれてきた。

旧約聖書の律法とは、その規定を通してイスラエルに民族国家としての秩序を与えるだけでなく、同時に人間の不倫理性をあぶり出し、律法の順守を目指したイスラエル民族を通して、すべての人が神の前に『罪』を負っていることを明らかにするものであった。(ローマ3:20/ガラテア3:19)
アダムの血がその内に流れる限り、人は誰が何を行おうとも神の規準に達することはない。(ローマ3:23)

しかし、アダムの子孫でないキリストの現れにより、『罪』に贖いが供えられることによって、不倫理性が除かれる道が開かれた(ガラテア3:22)。この『罪』を許すためのひとつの犠牲により『愛』というものは示された(ヨハネ第一4:9)。この犠牲の行為は、どんな人間の善行も及ぶことの無い『義』の『完全』に達した。(ローマ5:19/ヘブライ2:10)

そこでキリスト復活後の新約聖書は、『キリストは律法の終わり』であることを宣言し(ローマ10:4)、『律法の業を通して義とされることはない』(ローマ3:20)ことを再確認している。
キリストの弟子の時代に至り、外から人を規制する律法を去り、自発的に自らの言行を省みる道徳規準に改められている(エレミヤ31:33)が、それが『愛』アガペーであり、キリストは『愛することを掟として与え』た。(ヨハネ13:34)

『罪』という不倫理性には、法と権力とが必須であるのに対して、『愛』は『罪』の対極に位置する(ペテロ第一4:8)ので、『法を全うするもの』となり得る。(ローマ13:10/ガラテア5:14)
倫理とは、他者とどう関わり生きてゆくかに関わる判断であるので、神を含む他者との関係を利己心から破棄することを聖書中では『罪』と呼び、関係を求めることを『愛』(アガペー)または『忠節な愛』(ヘセド)と呼ぶ。

したがって、第一に神を含む他者との関係を『愛』の内に求めず、倫理上に欠陥を持ち続けようとする者は、他者とどう生きてゆくべきかを弁えてはいないので、そのような者が永遠に存在することは、創造者の意図に反し、神の創造の業はいつまでも完遂されない障碍となる。ゆえに、使徒ヨハネの言うように『愛さない者は死に留まる』。(ヨハネ第一3:14)『罪を犯す魂は死ぬ』とは(エゼキエル18:4)、創造者の生殺与奪の当然の権限といえる。

キリスト教に於いて、『愛』はキリストに於いて「アガペー」として示され、信仰し、その精神に倣おうとする者に最も希求されるべきものである。(ヨハネ第一4:12)
現在の人はアダム由来の『罪』のゆえに『愛』を十全に体現することはできないが、キリストに倣って愛するよう努めることはいつでも可能であり、そう努めることが広くキリスト教の根幹であり掟でもある。(ヨハネ13:34)

他方で、愛することは教条規則への従順では純粋に行うことができない。愛は常に各個人に内在するものであるので、自発性が保たれる必要がある。つまり愛する人の内側では、倫理上の自己判断が必須となるので、その人は神や他者の定めへの従順ではなく、神や他者への共感や同情が求められることになる。(ガラテア6:2)

キリストが『自分がして欲しいように他者にせよ』と言われた(ルカ6:31)のは、自由な自己判断、即ち、他者への共感や同情がキリスト後の教えにあっては必須とされていることを指している。(エフェソス4:32)
従順は、その行動の結果や責を、従う対象に求めるのに対し、愛は、自らの行動に責を負う点で自由な行為者として振る舞うことになり、『神の象り』としての『神の子』に相応しく、創造の意図に適うものである。聖なる書に最も通じたユダヤの宗教指導層は、厳密にその言葉に従うことで、遣わされたメシアを見分けずに却って退けている(ローマ9:30-32)。他方で、自らの価値判断を用いた下層の者らは、イエスをメシアとして見出している。(ヨハネ9:32-33)

キリストは弟子らに『互いを愛するように』と「愛の掟」を授けた(ヨハネ13:34)が、愛することには際限がないと同時に、教条でないゆえにその人の限界にも応じるので、愛の実践に努めることによりその人の内で『罪』は消えないが『愛』は育ち得る従って愛は、啓発を受けることはあっても、自発的環境を要する。

他者の悪行に対して、人は超然と潔癖さや清さを誇るのではなく、互いの内にある『罪』を認め、可能な限り見逃し、できるところで許すところにキリスト教の本質があると言える。(マタイ18:21) 許された者がそれを意識するなら、改善が促されることは少なくない。それは許す者にも、許される者にも益を与えるものと有り得る。そこで「愛の掟」には、行うことばかりでなく許すことも含まれることになる。

但し、悔いない悪行者について、忍んで許すか、あるいは指弾するかはそれぞれ個人の判断が求められる。
殊に世俗の法に触れる事には世俗に委ねる必要も生じる。パウロは世俗の支配者の『剣を怖れる』べきことをエクレシアに告げている。(ローマ13:4)
正義感と同情とは対立する観念であり、排撃と許容、優越感と堕落を惹起させるが、このバランスを保つのも『愛』の判断と言えよう。

それゆえ、キリスト教徒がただ規則を求めて、それに従順であろうとするなら、それはパリサイ的ではあっても、キリストの教えの根本的精神に反することになる。(ガラテア5:4)
禁欲を守り、慈善行為や苦行に没頭するとしても、人は自分の内面の『罪』を減らすことさえ不可能であり、禁欲や徳行が神の前に『罪』を軽くすると思い込むなら自らを欺くことになる。(コロサイ2:21-23)

律法体制が去って後のいまだに律法や何かの規準を守ろうとし、その「業」で聖なる民になろうとするのはユダヤ教的であって、キリスト教徒ではない。(ガラテア2:21)
人は誰であれ、神に近付くのに、何かの規準を守ることでそれが可能とする考えはまったく間違っており(ルカ18:11-14)、新約聖書に規準を見出して、それらを守れば正しい崇拝が現れると思うのは身勝手な妄想であり、神の前に近付く方途はキリスト・イエスへの信仰によるほかない。(ヨハネ14:6)



◆聖徒らへの道徳規準

キリスト復活後の新約聖書に記される多くの道徳規準が記されているが、それらは『信徒ら』(ピストイ)に要求されたものではなく、聖霊に預かり『新しい契約』に参与した『聖徒ら』(ハギオイ)に求められた(エゼキエル36:27)ものである。(コリント第一6:11/エフェソス5:1・3/フィリピ2:15/コロサイ3:12/テトス2:12-14)

新約の道徳規準に従おうとしても、それで『聖なる民』となることは無い。決定的なもの「聖霊」が欠けている(ローマ8:9)。
『聖なる者』が新たな掟に従うことを『新しい契約』によって求められており、彼らこそが天に召されることになる。(ヨハネ15:1-10)

『聖なる者ら』は、律法のレヴィ族や祭司に、民一般以上に要求されていたように、一定の清さが求められている。(ヨハネ第一3:5)『多くを委ねた者には多くが求められる』からである。(ルカ12:48)
彼らが、一定の道徳規準を守ることは、天界の祭司となる目的に在って『新しい契約』に関わる要求(ペテロ第一1:15-16)であり、奇跡の表明(ルカ19:20-21)と共に聖霊の注がれていたことへの応分の清さの表明となった。(コリント第一7:19-20)

『主の晩餐』の葡萄酒に預かる『聖なる者ら』には、『新しい契約』により(ルカ22:20/ヘブライ9:15)キリストの犠牲を地上に居る間から適用されている(コリント第二5:21)ので、アダムの『罪』が仮とはいえ(コリント第一4:4/ペテロ第一3:6)許された状態に入っていた(ローマ8:32-34)。当然ながら、彼らには『キリストの兄弟』として非常に高められた状態への感謝を表し、『聖なる民として』一般人に優る道徳的言動が求められて然るべきである。(ペテロ第一1:15-16)

しかし、彼らが肉体である間(ローマ8:10)には、アダムからの『罪』は依然として働くので完徳者となっているわけではない(ローマ7:20)ので、個々の悪行についてなお悔い改める必要がある。(ヨハネ第一5:16)

『聖なる者ら』には、「生活の聖別」によって清められるという行状による聖化の意識ではなく、『聖なる者』に相応しく敬虔に歩んで『不法を避け』(ヨハネ第一3:3)、『新しい契約』の成果に与るべきことが新約聖書中に繰り返されている。(エフェソス5:27/ペテロ第二3:14)イエスは『入ろうと努めながら入れない者は多い』と言われたのは、『王国に入る』ことで『救われる』ことになる『聖なる者ら』に対してであった。(ルカ13:24)

また、聖徒同士の問題が生じる場合に限り、彼ら契約に関わる立場の故に、聖徒の中での裁きは有り得る(コリント第一6:3)。
その手順はイエスによって示されており(マタイ18:15-19)、その地上の聖徒の裁きに関してキリストは監臨されるという(マタイ18:20)。しかし、これはキリストの聖霊による臨在の間のことを述べているのであり、単にキリスト教徒が二三人居るところに監臨があるということではない。



◆信徒に於ける悪行への対処

しかし、聖霊を受けない『信徒』が『聖徒』に課せられた新約聖書中の道徳規準を守ろうとすること、また、守らせようとすることには無理があるばかりか害となる。
なぜなら、天界の祭司となる目的もなく、一定の道徳規準を守っているとの意識は、無意味な自己義認が避けられない。
そこで、人々を心の内で裁き優越感を持ちつつ、神の是認を身勝手に想定してしまうことは、人々ばかりでなく、神をも愚弄する利己主義に陥り、その人がどれほどキリスト教に帰依していると思おうとも、実質的に反対の精紳を抱くことになってしまう。(ルカ16:15)

キリスト教の宣教がしばしば困難に陥る理由のひとつは、宣教される側が、宣教する側の優越感を機敏に感じ取り、その利己心に反発を覚えるところにある。(ルカ18:14)


したがって、パウロが『互いに愛し合うことのほかは、誰に対しても義務があってはならない』(ローマ13:8)としたように、キリスト教の『信徒』には、キリストの命じた『愛の掟』のほかには負うべき道徳規準は無い。

但し、信徒同士の一定のコミュニティを維持させるために、特定の決まりを定め、何かの行動を抑制することがないとは言えないが、それは一時の便宜的な特例になり、世俗法との対立には及ばないものでなければならない。信徒同士のコミュニティといえども、そこに秩序を与えるのは本来的に世俗的な法の一種であり、聖なるものとはなり得ない。

また、人の様々な悪行については、それを裁くべき『上位の権威』が存在しており、一般の人々と共にその『剣を恐れる』こと(ローマ13:1-4)以上の怖れを抱くべきではない。
ユダヤ教は国家宗教であったが、キリスト教はそうではない。そこで、キリスト教徒が一般の法の他に規定と罰則を定めるなら、二重の法が存在してしまい『上位の権威』との衝突が避けられなくなる。よほどの独裁制でない限り、多くの国家の法は、人の行動を規制するだけでなく、その自由や人権の擁護をも目的とするようになっているので、宗教法と世俗法の対立にキリスト教を関わらせるような無駄な努力を払う必要はますます無いと言える。(テトス3:1)

だが、世俗の法を尊重するとはいえ、当然ながら信徒らがまるで法に触れないとは言い切れず、その責めは各自が負うものである。
同時にそれらの外部の法も完全ではあり得ず、信徒の内面での「愛の掟」に基づく個人の判断から、世俗の法を補完または反するするような言動が信徒に無いとも言えないことになる。その責は、やはり各個人が負うべきものとなろう。

また、キリストの臨御する終末に於いては、この世がやがて神に敵対するゆえに、キリストの弟子にあって世俗の法が制限されるべき事態を想定する必要もあるが、それは格別な危急の時となろう。(使徒4:19-20/ルカ16:9/マタイ25:40)




聖徒と信徒  -綱領-

2016.08.14 (Sun)
予告されてきた聖徒


新約聖書に記されるあの五旬節の日の『聖なる者』(ハギオス)の現れは、聖書全巻を流れる神の足跡のひとつの到達点となっている。それはキリストの犠牲によって初めて実現されたものであり、神とキリストの双方の働きの結実である。

まず、旧約聖書中にも『聖なる者』(カドーシュ)が存在しているが、これはまず、神が自らについて『聖なる者』であることを示し(レヴィ11:44/イザヤ43:3)、またアロンをはじめとする祭司職やレヴィ族(レヴィ21/詩106:16)やナジル人の誓約を立てた者(民数6)、また預言者らを指す(マタイ27:52)。また、イスラエル民族の全体も聖なる者であるよう(民数15:37-41)律法で要求されている。また神自身を『聖なる者(方)』と呼ぶこともあるが、これは聖の根源をも表している。
ほかに『聖なる者』の語によって、天使ら、また敷衍してキリストと共になる者らについても語られている(詩89:5-7)。

それはエデンの園での『女の裔』の予告(創世記3:15)に源を発し、以下のアブラハムに神が誓約された言葉の実現に向かって進む事柄の非常に重要な部分を成しているが、旧約に於けるそれらの聖は予型的なものであり、キリストの到来と犠牲なくしては聖霊が降らず、真の『聖なる者』は現れなかった。(ヨハネ16:7)
新約に於ける『聖なる者』は、まずキリスト・イエスに適用され(ルカ1:35)、次いで、『新しい契約』が結ばれ、その犠牲の仮の贖いに預かった人々が『キリストと共同の相続人』また『神の子』(ローマ8:14-17)、『キリストの兄弟』(ローマ8:29/ヘブライ2:10-12)と見做されることを通して、キリストに同じく『聖なる者』と呼ばれるに至った。

『聖なる者』の存在意義は、早くもエデンの園で語られた、蛇の頭を砕く『女の裔』として示されているが、それがどのように具体的に現れるかについては、まずアブラハムを待たねばならなかった。

『わたしは大いにあなたを祝福し、大いにあなたの子孫を増やして、天の星のように、浜べの砂のようにする。
あなたの子孫は敵の門を打ち取り、また地のもろもろの国民はあなたの子孫によって祝福を得るであろう。』(創世記22:17-18)
この言葉で、神はアブラハムの子孫を通して諸国民が祝福を得ることを誓約しており、そこに人類の祝福となる格別な民が用意されるという神の計画が表されていた。
そして後に、アブラハムの子孫がイスラエル民族となり、モーセを介して神と律法契約に入った。

イスラエル民族への契約の目的とするところは以下のようであった。
『もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るならば、あなたがたはすべての民にまさって、わたしの宝となるであろう。全地はわたしの所有だからである。
あなたがたはわたしに対して祭司の国となり、また聖なる民となるであろう』(出埃19:5-6)

ここに於いて、アブラハムに示された事柄から進み、その子孫の働きについて『祭司の王、聖なる民』という概念が現れている。

こうして、モーセの仲介による律法契約下のイスラエル民族には『聖なる者』(レヴィ20:26)、『諸国民の光』(イザヤ42:6)となる目標が意識されるようになった。殊に、大祭司と祭司をはじめとしてレヴィ族の神の買い取り(民数3:5-13)は、キリストの血の犠牲による聖なる務めへの人々の買い取りを予型し(黙示14:3-5/使徒20:28)、より精密に「聖なる祭司」となる『聖なる者ら』の姿を前表するものとなった。(ヘブライ10:11-14)
また、律法契約中の『安息日』条項を守り『神聖なものとする』ことは、イスラエルを『聖なるもの』とするはずであった(エゼキエル20:12)が、これは『安息日』が民を世俗の生活にまったく埋没することから浄める働きを成すことを象徴するものであった(出埃20:10-11)。そこに『この世』の不浄が対照されている。

だが、イスラエルは民族としては律法契約に従わなかったので、神はこの民をバビロンに捕囚に処し、神殿喪失の70年間に亘り完全な律法履行は不可能となった。(申命16:16)この聖所と至聖所の喪失はイスラエル民族に対する神の不興の表明であった。(ダニエル9:15-17)
それでも神はアブラハムへの誓約を果たし、その子孫を生み出すための『新しい契約』を結ぶこと(エレミヤ31:33)と、その契約を仲介するメシアについて多くの預言を与えた。(申命18:15/ダニエル9:27/マラキ3:1-3/使徒3:22)

ペルシア帝国のバビロン征服により捕囚を解かれた民は(エズラ1:2-6)ユダヤ人と呼ばれるようになり、再建された神殿で祭祀を再開した。(エズラ6:15-22) 但し、律法契約の証しであった『契約の箱』、及び聖籤はイスラエルに戻らなかった。
イスラエルはその後、律法墨守の極端に走り(マタイ23:23-24)、その頑なさのために(ローマ11:25)遣わされたメシアをローマの権力に渡して処刑させてしまった。(マタイ26:63-68)

他方で、キリストの宣教活動は単なる弟子を求めるための布教ではなく、血統上のイスラエル民族(マタイ15:24)、特にパレスチナに住む同朋から(マタイ10:5-6)、シオンの子ら(マタイ23:37)、また『アブラハムの子ら』を集め出すことに第一の目的があった。(ルカ11:23/13:34/ヨハネ11:52)
神は聖霊の奇跡を以ってキリストが誰であるかに証しを加え(ヨハネ第一5:9-10)、その証しによってユダヤ人にはメシア信仰を抱く機会が開かれた。(使徒13:46)

しかし、イエスに信仰を働かせる者は多くはならず、ユダヤの体制としては(ヨハネ7:48)ナザレのイエスが自分たちの望むようなメシアではなかった為に却って『つまづきの石』となり(ペテロ第一2:7-8/マタイ21:42-44)、キリストに信仰を抱かない(ルカ11:18-19)ことにおいて聖なる国民となる機会を逸した。(ルカ13:6-9/マタイ21:19)

それでも、ガリラヤ出身の弟子らをはじめとしてイスラエル民族の中でメシア信仰を抱いた一部の人々から、聖霊によって奇跡を行うキリストに属する者らが史上初めて現れた。(使徒2:1-20)

キリスト帰天の後の五旬節の日に、聖霊のバプテスマを通して、アブラハムの遺産を相続するべき真の子孫が生み出されることになったので、使徒ペテロは彼らが『サラの子となった』と記している。(ペテロ第一3:6)これについてはパウロも、初代の弟子らが律法によらない、サラに相当する『自由の女』を母としていることを述べる。(ガラテア4:22-31) イサク同様に、その「出産」は奇跡によるものとなった。また、将来の終末にも同様の誕生が予告されているが、その時には象徴的サラの出産が終わり、すべての聖徒が現れることを意味する。(イザヤ54:1・66:7/ルカ1:35/黙示12:1-5)

これらの聖霊の注がれた弟子らは『聖なる者』と呼ばれ(ペテロ第一1:2)、律法契約が目指した『王なる祭司の民、聖なる国民』(出埃19:5-6/ペテロ第一2:9)が史上初めて現れた。それが起り始めたのは、キリストの復活の後50日後、即ち帰天の十日後の五旬節の祭りの日からであり、その日以来、キリストの犠牲が神の前に受け入れられたことが当時の弟子らに聖霊が与えられたことによって明らかとなった。(エフェソス1:13-14) 従い、イエスの公生涯後の使徒時代に入ってからは、『召された者』とも彼らはしばしば呼び掛けられている(ローマ1:6/コリント第一1:1-2・1:24/ヘブライ9:15/ペテロ第一1:15/ユダ1)

他方で、キリストを処刑させたユダヤ体制、また血統のアブラハムの子孫であるイスラエルは『契約の子ら』(使徒3:25)であったが、聖なる民となる相続権から自らを退け(ガラテア4:30)、聖霊を受けることなく西暦七十年の神殿破壊を以って、完全なモーセの律法施行は二度目に不可能となった。これはメシアを処刑したその『世代』への酬い(ルカ11:50-51)であり、その予告された滅び(マタイ24:2)についての「回復の預言」は語られていない。旧約預言での「回復」はメシアを退けた血統の民ではなく(ローマ9:6)、『イスラエルの残りのもの』(イザヤ10:20-23)、即ち神の聖なる民、聖霊注がれた選民イスラエルに使徒時代(使徒3:19)と終末に成し遂げられるもの(ヨエル2:27-3:1)である。聖霊降下の世代の内に、エルサレムに保管されていた系図も失われ、レヴィ族祭祀制度は終焉を迎え、この時代に神への崇拝は地上の神殿からまったく離れ、新しい崇拝が形づくられ始めた(ヨハネ4:21・23/ヘブライ8:4)。

その間に、神のアブラハムへの誓約の相続権は、諸国民を含むキリストの弟子らで構成される『神のイスラエル』(ガラテア6:16)へと移されていた。(ローマ9:6) 『新しい契約』の民となった 聖霊が注がれ奇跡を行うキリストの弟子ら(使徒4:29-30)の存在は、ユダヤ体制派にとっては激痛を与える刺となった。即ち、ヨエルの預言した蝗害であり、これは終末にも世に対して再び繰り返される。(ヨエル2:1-6/使徒5:27-33/黙示9:1-11) <キリスト教界への宣告は蝗害の後に起る(黙示9:16-19)>

『聖なる者』となる弟子らがユダヤ人だけでは不信仰のゆえに『王国』を構成するには足りず、諸国民までが含まれることは、キリストも公生涯の間にユダヤ人に警告を述べつつ(マタイ8:10-11)使徒ペテロに『王国』を諸国民に対して広げる権限を授けていたが(マタイ16:18-19)、諸国民の間でキリストを宣べ伝えたパウロは、この奥義について『接ぎ木』の例えを用いて(ローマ11:13-32)説明している。そうして初めて『イスラエルの全体の数が満たされて救われる』ことになる。(ローマ11:25-26)

したがって、『聖なる者』の天に召される定数があることも併せて示唆されており(ローマ11:25)、黙示録は血統のものとは異なる12部族を挙げて14万4千という人数と記している(黙示7:4/14:3)。但し、地上で召される人数はそれよりも大幅に多いことが示唆されている。(マタイ22:14/24:40-41)

これらキリストと共なる者らがエデンで宣告された『女の裔』を構成し、サタンの頭を砕くことになる。(創世記3:15)
それゆえ、パウロは自分を含めた聖徒全体を指して『神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選んだ』と記している。(エフェソス1:4)



キリストの犠牲によって登場した聖徒

五旬節以降に与えられた『聖霊』は、キリストの犠牲に基づく格別なものであり『約束の聖霊』とも呼ばれる。(使徒2:33)
その『聖霊』を注がれた者は、単なる弟子というばかりでなく、キリストを仲介者とする『新しい契約』に入り、アブラハムの相続権を得たことを意味した(ローマ8:16-17)。聖徒がキリストの犠牲に基づく『新しい契約』によって生み出されたことについては、『キリストは新しい契約の仲介者である。それは、初めの契約の下で犯された罪の贖いとしてキリストが死んでくださったので、召された者たちが既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかならない。』とされている。(ヘブライ9:15)

キリスト・イエスが『粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。』と言われた(ヨハネ12:24)のは、その犠牲によってその自己犠牲の生き方に続く者らを『実』として生み出すことを言っている。(コリント第二5:15)
それゆえ『わたしに仕えようとする者は、わたしに従え。そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる。』とも言われた。(ヨハネ12:26)
そこで、彼らはキリストの死によって生み出されたことになるので、パウロも『キリストがわたしたちのために死なれたのは、覚めていても眠っていても、わたしたちが主と共に生きるためである。』と書いた。(テサロニケ第一5:10)
これは、生死に関わらず(ローマ14:8)、聖徒らが、キリストの復活後に得た永遠の命に共に与ることを指している。(ローマ6:8)

その状態に入るためには、アダムの命に生きる事を止め(コリント第一15:50)、キリストの命の内に入る必要があり(コリント第一15:22)、イエスはそれを『水と霊から生れる』事とした(ヨハネ3:5)が、それは、あの五旬節以降に可能となった。(使徒2:1-4)
それゆえ、パウロはバプテスマによってキリストと共に死に、霊によって生かされた事を、その書簡の中で何度か説いている。(ローマ6:3-4.8/コリント第二7:3/テモテ第二2:11)

『神の子羊』であるキリスト(ヨハネ1:29)は、出エジプトの子羊がイスラエルの長子を、延いてはレヴィ族や祭司を贖った(民数3:11-13)ように、自らの血の犠牲によって『新しい契約』を地上に残った弟子らと締結し(ルカ22:20)、彼らを人類の長子(ヤコブ1:18)として新たな祭司職のために仮の贖いを行った。(ヘブライ9:11-14)

そこで弟子らは地上の生涯を主イエスに倣って生き、『新しい契約』を全うする務めが生じ、『聖なる者に相応しく』清く生活することが求められた。(コリント第二5:10/エフェソス5:5/ペテロ第一1:17)
それゆえ、イエスは『狭い門から入るように努めよ。入ろうとしながら入れない者は多い』。と戒めている。(ルカ13:24)
契約を全うすることにより、彼らは最終的に天に召され(ヘブライ3:1)人類の『初穂』として刈り取られ(ヤコブ1:18/黙示14:4)、『聖なる国民、王なる祭司』の一員となる。(ペテロ第一2:9)

メシアはその犠牲の血を以って信仰を持った弟子らを『罪』から『新しい契約』によって(コリント第二3:8-9)仮に贖い(ローマ4:5)、清い立場を与え(ペテロ第一1:15)、自らの『兄弟ら』と成したので(ヘブライ2:11-17)、その者らは『キリストと結ばれ』(ヨハネ15:5)『聖なる者』と呼ばれるに至った。(コリント第一1:2)

キリストは、聖霊が弟子らに注がれるときに(使徒1:8)、彼らが諸国に向かって宣教を広げることを予告していた(マタイ28:19/ヨハネ14:12)通りに、聖霊を受ける弟子はサマリア人にも(使徒8:14-17)、ローマ士官コルネリウスを嚆矢として無割礼の異邦人にも広げられた。(使徒10:45)これは使徒ペテロに与えられた『王国の鍵』(マタイ16:19)の使用であった。

『聖なる者』として選ばれた証拠が『約束の聖霊』であり(エフェソス1:13-14)、奇跡を起こし知識を与える『聖霊の賜物』が与えられた者ら(イザヤ44:3-5)は、『キリストと共同相続人』(ローマ8:17)としてアブラハムへの誓約に預かる。この相続権が真に彼らを『アブラハムの子孫』とする。(ペテロ第一1:3-4)
使徒ペテロは、聖霊を注がれ奇跡の賜物に預かった弟子らを『イエス・キリストに従い、かつ、その血の注ぎを受けるために、父なる神の予知されたところによって選ばれ、霊の清めに預かっている人たち』と呼びかけている。(ペテロ第一1:2)

使徒パウロは、ローマ書簡の第八章を費やして、聖霊に預かった者らの立場を詳述しており、そこでは彼らは既にキリストの血の犠牲によって贖罪されており『有罪宣告のない』『義と宣せられている』状態に入っていることを記している。(ローマ8:1・33)即ち、大祭司キリストによって、『罪』ある肉体に在りながらも神聖と見做された。(ヘブライ2:11/ヨハネ17:19)

聖霊に導かれる彼らは『罪』の無いことに於いて『神の子』となるので、彼らは神を『アッバ』と親しく呼びかけることが許される。(ローマ8:14-16)
彼らは、キリストによって罪への隷属から(ローマ6:17)の自由を得たので『家の子』、即ち自由人であり(ヨハネ8:34-36)、神の前にキリストに並ぶ『兄弟たち』とされる。(ヘブライ2:14-17)

また、聖霊は聖なる者らに真理を教える(ヨハネ16:13)ので、彼らは誤りを語ることなく(黙示14:5)新約聖書となってその教えが今日まで伝えられているが、それらは神が彼らに授けたものである。(コリント第二4:6-7)

初代の弟子の時代では、エクレシアの中のほとんどが『聖なる者』で占められていたので、福音書後の新約聖書はこれら『聖なる者ら』の信仰社会を描き出しており、聖徒ではない人についての記述はごく僅かである。(使徒19:1-7/ローマ8:9/コリント第一14:16・24/ユダ19)
当時には、キリストの名による水のバプテスマを受けたほとんどの人々が聖霊のバプテスマをも受けたことを示している。(使徒2:38)

(新約聖書のこの聖徒中心の世界に対する無理解が今日までのキリスト教徒に「聖徒理解」を阻んできているので、『あなたがた』と呼びかけられる大半の場所で、それを今日の読者が自分に語られていると見做すなら、キリスト教の基本の理解にも到達できないことになる。即ち『聖霊』というものが神の威力ではなしに、自分の中の心理作用と錯覚しているところに『聖徒』を理解しない原因がある)

『聖徒』即ち、『聖霊の賜物』を持つ弟子らについては、「教会史」をはじめ初期史料に記されており、第二世紀前半頃までの存在を確認できるが、その後に絶えたことも併せて知らされている。(教会史Ⅱ:14/Ⅲ:24・37/Ⅴ:3/牧者Ⅵ:8-10・13/昇天3:25)

また、カトリックや東方教会の伝承の「聖人」に痕跡が残されており、奇跡を行う人々であり、その多くが殉教者であった。
以後、今日まで初代の弟子らのように『聖霊の賜物』を受けた人々は存在して来なかった。
しかし、キリストは終末預言の中で、聖霊によって語る弟子がいることを予告している。


聖徒の働き

彼らの人類祝福の働きについては、律法の『贖罪の日』の祭祀規定に模式されており、大祭司は自らと従属の祭司団を贖罪し、然る後、民の全体の贖罪が行われていた。(レヴィ16:6/16:15)
使徒パウロは、キリスト・イエスを大祭司と見做し(ヘブライ9:7)、仲間の聖なる弟子らを従属の祭司団を構成する者らと見做していることを祭司団が奉仕の前に水を浴び身を清めることになぞらえている。(ヘブライ10:22/出埃40:30)

彼らはキリストの王国に於ける人類全体の贖罪に関わるために、終末に人類に先立って復活する者らがあることを黙示録は『この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。』(黙示20:6)
したがって、『聖なる者ら』がキリストを大祭司として祭司の奉仕を捧げるのも、王としてキリストと共に治めるのも、依然として将来のことになる。

しかし、キリストが臨在する終末については、地上で聖霊を受ける弟子らも居ることをキリストは次のように語っていた。
『人々があなたがたを連れて行って引きわたすとき、何を言おうかと、前もって心配するな。その場合、自分に示されることを語るがよい。語る者はあなたがた自身ではなくて、聖霊である。』(マルコ13:11)

これが終末に於ける聖なる者らの最大の試練であると同時に活躍の場となり、世界が聖霊による発言に注目することになることをイエスは次のように語っている。
『あなたがたは、わたしのために長官たちや王たちの前に引き出されるであろう。それは、彼らと異邦人とに対して証しをするためである。』(マタイ10:18)
イエス・キリスト自身は、ポンティウス・ピラトゥスの前に引き出されて語り聖徒らの先鞭をつけ、ステファノスも続いている(テモテ第一6:13/使徒7:54-60)。

また、キリストは聖霊の言葉がこの世の全体を糾弾するものとなることを教えている。(ヨハネ16:8-11/黙示9:1-6)
なぜなら、『聖なる者ら』はキリストに選び取られたゆえに『世の者ではなく』(ヨハネ15:19)、他方『全世界は悪しき者の配下にある』からである。(ヨハネ第一5:19/ヤコブ4:4)

聖霊の言葉を語る『聖なる者ら』の働きの結果として、世界がその発言によって動揺することを預言者らは次のように語っている。
『彼は多くの国民を驚かす。王たちは彼のゆえに口をつむぐ。それは彼らがまだ伝えられなかったことを見、まだ聞かなかったことを悟るからだ。』(イザヤ52:15)
また、イスラエルの相続財産のひとつとして『裁きの座であなたを争い訴えるすべての舌をあなたは論駁する』ことが挙げられている。(イザヤ54:17)

『しばらくして、いま一度、わたしは天と、地と、海と、乾いた地とを震わせる。
わたしはまた万国民を震う。万国民の財宝は、入って来て、わたしは栄光をこの家に満たす』(ハガイ2:6-7)
この預言は、終末に於いて聖徒らの聖霊の言葉が世界に衝撃を与えるので、そこで『万国民の財宝』である信仰を持つ人々が現れることをも予告している。

パウロはハガイのこの預言の『震わせる』の言葉を、『天から語る方を拒むことがないように』と適用しており、神の発言によって世界に激震が走り滅び去ることを含意しつつ、その言葉を聞くよう訓戒している。(ヘブライ12:25-27)

この聖霊に信仰を働かせる終末の人々の現れについて、イザヤとミカはこう記している。
『終りの日に次のことが起る。主の家の山は、もろもろの山のかしらとして堅く立ち、もろもろの峰よりも高くそびえ、すべて国はこれに流れてき、多くの民は来て言う、「さあ、われわれは主の山に登り、ヤコブの神の家へ行こう。彼はその道をわれわれに教えられる、われわれはその道に歩もう」と。律法はシオンから出、主の言葉はエルサレムから出るからである。』(イザヤ2:2-3/ミカ4:1-2)
これらの預言の言葉が成就を見たと言える事例は依然としてない。

また、聖霊の言葉に信仰を働かせる人々について、イエスは次のような言葉を祈りに含めている。
『わたしは、ただこの人々のためだけでなく、彼らのことばによってわたしを信じる人々のためにもお願いします。
それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。また、彼らもわたしたちにいるようになるためです。そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです。』(ヨハネ17:20-21)

この聖霊の言葉に信仰を働かせるか否かが世界を裁くことを、イエスは人々を羊と山羊とに分ける例えで示し、キリストの兄弟たちを見分け、彼らに親切を示すか否かがその結末を分けることを終末預言の中で語っている。(マタイ25:31-46/ヨハネ13:20)
だが、この人々には必ずしも共に殉教するほどを求めてはいない。(マタイ10:40-42)

終末に『聖なる者ら』真のイスラエルに信仰を働かせる人々については、『その日には、もろもろの国ことばの民の中から十人の者が、ひとりのユダヤ人の衣のすそをつかまえて、『あなたがたと一緒に行こう。神があなたがたと共にいますことを聞いたから』と言う」。』とゼカリヤは預言している。(ゼカリヤ8:23)

聖霊の言葉に信仰を抱く人々の数は世の趨勢とはならないものの、『億』の単位で描かれるほどの数に上り、この人々もこの世を糾弾する活動に加わることを黙示録は示唆している。(黙示9:13-19)



聖徒の天への召集

彼らがこれらの預言者としての働きを果たした後に、世界がどう反応するかについて黙示録はこう記している。
『彼らがそのあかしを終えると、底知れぬ所からのぼって来る獣が、彼らと戦って打ち勝ち、彼らを殺す。』(黙示11:7)
『地に住む人々は、彼らのことで喜び楽しみ、互に贈り物をしあう。このふたりの預言者は、地に住む者たちを悩ましたからである。』(黙示11:10)

この情況下で、聖なる者らには世の敵意に立ち向かうことにおいて主キリストに倣うことが求められ、『自分の魂を救おうとする者はそれを失う』(マタイ10:38-39)

この世界との敵対関係は、聖なる者らを『精錬し清める』(ダニエル11:35)ことになり、恐れに屈し(ペテロ第一3:6)脱落する者らもあることをキリストは様々な譬え用いて繰り返し警告しているが、ミナやタラントの例え、引き網の例え、盛大な宴会の例えなどがそれに含まれる。

即ち、真にアブラハムの子孫となって人類を祝福する一員となるためには、『新しい契約』を全うし、彼らの主であるキリストに倣い、世に在って自己犠牲の道を最後まで歩まねばならない。(ペテロ第一2:21)

また、『一人は連れて行かれ一人は残される』(マタイ24:40/ルカ17:34)とは、終末での試みの後に地から刈り取られる(黙示14:15)聖なる者らが選らばれ、人類の『初穂』となることを指しており(ローマ8:23・29)、テサロニケ第一書簡に於ける空中への引き揚げもこの最終的な裁きの後の選びについて述べている。(テサロニケ第一4:15-17)

その直前には初代の聖徒らも天への召しに預かり、相応しい者は『(格別な)復活』(フィリピ3:11)によって天界のキリストに許に集められている。但し、その者らは地上の生涯を忠節の内に終えていなければならない。(マタイ25:1-13)

『聖なる者ら』が天界にゆくことになるので、使徒ヨハネは『彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。そのまことの御姿を見るからである。』と書いている。(ヨハネ第一3:2)

天に復活する古代の聖徒らは、キリストの臨在の時にはキリストと同じ霊体となって共に顕現する(コロサイ3:4)ので、彼を直接に見ることになる。(ヨハネ第一3:2) 肉眼では天界のキリストを見ることはできないからである。(テモテ第一6:15-16)
そのため、彼らは肉体を地上の『天幕』という住処に例え、そこに住む間は主イエスと離されていると述べ、また天界では霊体であるゆえに、もはや裸になることはないと言う。(コリント第二5:1-6)

他方で脱落した聖徒らは残された地上で背教を起こし(テサロニケ第二2:2-12)、サタンの霊力によって『偽預言者』と変じ(マタイ7:21-23・24:24)、ふたつの覇権国家の後援を順に受けて(ダニエル11:30/黙示13:11)この世を掌握し(テサロニケ第二2:4/イザヤ14:12-14)、各国の権力を惑わして聖霊の声に信仰を持った人々を攻撃するように仕向ける。(黙示16:13-14)

これらの試練の時に、精錬された『聖なる者ら』は天に召されるが、それは不可視の状態で行われる。彼らは一瞬にして霊体に変えられ(コリント第一15:52-53)、彼らはキリストを『見る』ことになる(ヨハネ第一3:2)。新約聖書は事々に、この決定的な聖なる者の裁きの時に至る忠節を彼らに求め、注意を促している。

招天の後、直ちに(ダニエル12:7)戴冠するキリスト(詩篇2:1-6/110:1-2)と共に『聖なる者ら』は王国を構成し(ミカ4:6-8)、地上にいる信仰ある人々をも亡き者とするべく(ヨエル3:9-12)この世の権力が揃って攻撃を加えようとする企て(黙示16:13-14)から救い出すために、聖なる者らは『天軍』となって主なるキリストと共に神から委ねられる王権(黙示19:11-16)の実力を以って介入することになる。(ミカ4:11-13/黙示6:1-8)

この戦い(黙示19:11-16)の結果、この世の権力は互いを攻撃して政治的カオスに陥り(ゼカリヤ14:12-13/黙示6:2-4)、飢餓と疫病によって民も裁かれ(黙示6:5-8)、『天地は過ぎ去る』(ペテロ第二3:7)。 キリストとその『聖なる者ら』の圧倒的な勝利は、『神の王国』の千年支配と贖罪(黙示20:6)の始まりを画することになる。(ダニエル2:44/ゼパニヤ3:8-9) ⇒ 「黙示録の四騎士

こうして『聖なる者ら』はキリストと共に生ける人類の祝福『世の光』(マタイ5:14)となり、アブラハムへの誓約(創世記22:18)、またエデンでの『女の裔』の宣告(創世記3:15)が成就され『奥義』は終了する(黙示10:7)。
それでもなお、神の経綸は終りに至らない。(黙示20:7)








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